時ナデ・if
<逆行の艦隊>

第25話その2 月にて






それは見慣れた光景。
赤い液体が噴出し、命が流れ出していく。
それは聞きなれた言葉。
そこに込められるのは怨嗟、驚愕、悲哀。
訪れた終焉に抗うことさえできずただ終わっていく、閉じられていく生にしがみつこうとする本能がそうさせるのか。
飛び散った肉体のカケラと血が視界を赤く染める。
目の中に少し血が入ってしまった。 痛い。
彼の敵はまだ動いていた。
最後のその瞬間まで喰らいつこうとするように、縋りつこうとするように。
まだ……動いている。

ああ、きっと死ぬ。 放っておいても死ぬ。
手当てしても死ぬ。 止めを刺しても死ぬ。
つまり、何をしても死ぬ。

でも、まだ生きている。
死の瞬間まで生きている。
それはごく当たり前の、見慣れた光景。
そしてこれも手馴れた行動。

手の中の刃を握りなおし、細心の注意と平静さでもってそれを首筋に押し当て……一気に引く。
再度鮮血が噴出し、刃を引いた腕をべったりと汚す。
不快感を伝える生ぬるい液体がアスファルトの上にも流れ出し、どす黒く変色していく。
驚愕に見開かれたままの瞳がこちらの視線と絡む。
だが、相手のその瞳にはすでになにも映ってはいまい。
大量に失われた血液は容易に身体機能を低下させ、死に至らしめる。
倒れた男にすでに刹那の思考さえする時間は残されていないだろう。

流れ出した血は人間の7割は水分でできているということを実感させる。
それは文字通りの血溜りをつくり、自らの作った赤黒い敷物の上で断末魔の痙攣を起こしている男。
失血性のショック症状だと見当をつけるが、それに特別な意味はない。
ただ確実な死の確認をしたというだけだ。
別になんのの感慨も感傷も感触さえなく……

「……くだらねぇ」

それは慣れたこと。
いまさらに何を感じるわけでもない。
殺すこと、殺されること、死ぬこと、死を見ること。
そしてそれを当たり前としてなにも感じないこと。
すべてに『慣れてしまった』。

白刃についた血と脂をハンカチで拭い、鞘に戻す。
そして代わりに懐から『細工』……というほどのものでもないが、電源を入れたままの通信機を取り出した。

「終わったぞ」

『2度とやらないわよ』

ため息交じりの声が返ってくる。
まったく同感だ、と思う。 実際、ギリギリの勝負だった。
いや、どちらかというなら博打を打って何とか成功したという程度のものだ。
種は簡単にして単純。
ナイフを抜くさいに懐の通信機のスイッチを入れておく。
そして『足を狙う』と宣言することで攻撃時に姿勢を低くすると伝える。
彼の背後からでも敵の上半身を狙えるように射界を確保するためだ。

奇しくも北辰がルビーに対して言ったように「反応できないものは回避しようがない」ということだ。
至近距離なら銃口から狙いを読んだり、あるいは銃口を向けられる前に倒すという真似も(現実的かどうかは別として)できるだろう。
しかし、500mの距離から音速で飛来する直径わずか7.62mmの銃弾を目視することは不可能。
銃声が届いた時にはすでに目標へ到達したライフル弾が、人体という抵抗に突き当たったためにその軌道を緩やかな下降曲線から
螺旋状へ変化させながら内臓を派手に食い散らかし、背骨を脊椎もろともに砕いて貫通していた。
結局のところ防弾衣も高速のライフル弾はストップできない。
対ライフル弾用のセラミックプレートを仕込んだものもあるが、それは重すぎて長時間の使用に耐えられない。
敵が着ていたのは単に高分子ポリマー製の防弾衣。 それなりに軽量だが拳銃弾を止められる程度のものでしかなかった。
それを見越してライフルによる狙撃を選んだ。

ただし、それは本当に賭けだった。
狙撃が外れるかもしれない。
あるいはスコープの反射光を捉えられて気付かれるかもしれない。
そもそも狙撃配置に間に合うかも微妙だった。

「次は初めからサブマシンガンでも用意する」

返ってきたのは嘆息だけだった。
もっとも、2回も追い込まれること自体を防ぐべきだが。

しかし、と思う。
それでもやらねばならないときはある。
この敵がただ一人で足止めを行ったように。
それが兵士というものだ。

「手の空いているのは?」

『第2小隊が動けるけど?』

「すぐによこせ。 目標の確保をする。
 次は……マシンガンでも足りないかもな」

○ ● ○ ● ○ ●


アキトは動かなかった。
正確には足を止めているだけだ。
対する敵は5人。
周囲を囲むように展開し、北辰は正面にいる。

「少しはできるようだな」

「少しじゃないことを証明して見せるか、北辰」

牽制するように左右に視線を向けつつ、それでも意識は正面から外さない。
この場で一番危険な相手が誰かを知っているからだ。
できることなら北辰は早期に排除しておきたい。
ある意味で北斗などよりよほど厄介な相手といえる。

北斗は戦士、北辰は暗殺者。
この違いは大きい。
つまり、北斗は正面きっての戦闘で全力全開の勝負となり、実力が拮抗しているが故にその結果は不明だが、
そこにはある種の安心感のようなものがある。
好敵手という表現が一番しっくり来るというのか、どこかで対戦を楽しんでいる自分がいる。
血反吐を吐いて身につけた技術を思い切りぶつけられる相手という意味ではスポーツのそれに近いかもしれない。
そこに賭けられるものが自分の命だとしても。

しかし、北辰は違う。
彼は根っからの暗殺者というか、木連の裏家業を一手に引き受けている相手。
極端なことを言えば戦闘技術さえ北辰らにとっては余技に過ぎない。
問題となるのは『いかにして目的を達成するか』にかかっている。
その過程においてもっとも原始的な暴力が有効であるから多用しているに過ぎない。

それにアキトにとって一番問題になるのはその戦闘力ではない。
「いつ」「どこに」「どんな形で」「何の目的で」現れるかが予想しづらいという点にある。
例えば大規模な艦隊は集結するだけでその兆候をつかむことができる。
ボソンジャンプを使える木連は別としても連合軍なら、例えば第四次月攻略戦の折には月軌道上の軍事基地ルナ2に艦隊が集結していた。
それは月への軍事行動を起こす明確な兆候として木連に察知されており、結果として双方が月に大兵力を集結させての決戦を誘起させることになった。
逆にボソンジャンプにより根拠地と前線の時間距離を考慮しなくていい木連ではその兆候を掴まれづらく、
今回のヨコスカ基地襲撃のように連合軍は往々にして『奇襲』を許してしまっている。

北斗や北辰との戦いにも同様のことが言える。
例えば北斗との戦闘は、その付近で母艦たるシャクヤクが目撃されていたり、ダリアの目撃情報があれば会敵は予想できる。
しかし、北辰たちはその兆候をギリギリまで掴めないことのほうが多い。
墓地でルリと再会したとき北辰たちの襲撃を完全に予想していたかといえば、否だ。
ただA級ジャンパーの次に狙うならルリだろうと予想し、そして襲撃側の視点からさらうなら護衛のつかないプライベートな時間、
かつ人目が少なく目立たない墓地でならと考えただけだ。 つまり、あれは釣り餌を垂らして罠を張っていただけだ。
それ以前には完全に裏をかかれてばかりで……アキト、ユリカの誘拐に始まる一連のA級ジャンパー拉致を防げなかった。
前回でもナデシコへの襲撃があった。

そして今回も……

「ラピス」

「…………」

光を失った瞳。 だが、呼びかけに反応して虚ろな眼差しがこちらを向く。
呼びかける、もう一度。

「 ――― ラピス」

「ア……キト」

かすれた声。 それでもアキトの耳には届いた。
だから頷く。 そして答える。

「少し……もう少しだけ待ってて欲しい。
 今度は、ほんとうに皆のところへ帰ろう」

「みんな……私は、アキトが」

「きっと分かるよ」

アキトが居てくれればいい。
そう言いかけたラピスの言葉を遮ってそれだけ告げる。
幼く無垢なその信頼はくすぐったいような、温かい気持ちを思い出させてくれる。
ただ、自分ひとりには過分だとも思う。

彼女の世界は狭い。
アキトとエリナ、アカツキ、イネスとわずかに顔を合わせるだけのスタッフたち。
清潔で片付いているだけの殺風景な部屋と、危険と敵意の溢れる戦場、電子情報の海であるユーチャリスのオペレーターシート。
それがラピスの世界だった。

ラピスを復讐に巻き込んだのは自分だ。
だから復讐が終わった後は離れようとした。
復讐鬼は消え、そしてあとには平穏が残る ――― そう考えていた。

だが、それは違うと知った。
それはラピスの世界から自分を失わせること。
狭い世界から、数少ないものを取り上げてしまうこと。

それではダメだ。
それでは何も変わらない。
勝手に与え勝手に取り上げて ――― それでは同じだ。
ラピスにオペレータ用IFSを与えたネルガル研究員やラピスを奪っていった北辰と。
彼女の意志など関係無しに、勝手に決めていた。

それはダメだ。
選ばせなくてはならない。
これから先ラピスが何を得て、何を捨てていくのか。
それはアキトが決めることではない。
ラピスが経験し、考えていく。 その上で決めるべきことだ。

アキトができることは ――― そしてそうすべきだと決めたのは、守ること。
ラピスが考えることのできる未来を守ること。
その為に、もう一度

「北辰、お前を倒すッ!」

「吼えたな!」

言葉と同時に走る。
同時にアキトを迎え撃つべく5人の編み笠が向かってくる。
一人少ないことをアキトは気にしなかった。
どこかに潜んでいる気配もない以上、今は構うことではない。

――― 疾走

加速する風景が後方へ流れ、反対にゆっくりとした動きで敵が迫る。
前方に集中された意識がそんな矛盾した光景を主観として生み出すのだ。
正面の編み笠は3人。 その背後に控える2人。 最奥に北辰。

走っているアキトを後方から追うのは効率が悪い。
囲めるのは足を止めてから出なければ無理だ。
だから彼らは縦深をとった。
1枚目の3名、2枚目の2名が盾となり、矛となって敵を防ぐ。
最奥の北辰が動くのは2重の壁が破られた時だ。

正面の一人が向かってくる。
それを追従するように2人。
共に手にしているのは抜き身の白刃。
対するアキトは ――― 素手だ。
ある程度なら銃を個人で携帯できる陸軍と違い、カキツバタでは銃器の類は厳重に管理されている。
生身で敵と射撃戦を繰り広げる陸軍と、機動兵器や艦艇を操って戦う宇宙軍の違いだ。
当然、今回の出撃も慌しく、武器をとってくる時間などなかった。
ゆえにアキトは素手。
だが、それは武器を持たないということを意味しない。

刃が迫る。
迫ってくる。
それが分かる。
それが ――― 見えている。

だからアキトはごく当たり前にその刃の軌道から体を外した。
半歩だけ右に踏みこんで体を捻った。 踏み込んだ勢いを利用して体を潜り込ませる。
疾走の勢いはそのままに、相対的に速度のついた肉体同士が激突する。
鈍い音と感触はアキトの肩と編み笠のわき腹の筋肉が引き起こしたものだ。
単純な物理学の問題だ。 作用と反作用。
アキトの肩は編み笠に押される一方で押し返している。
そして強度という意味ではアキトの方が上だった。
結果、編み笠は肋骨を砕かれ崩れ落ち、アキトは反動を膝で吸収した後に次の動作に移った。

次の行動は……とりあえずの無視。
正面の敵は捨て駒だった。
真っ向からぶつかることで足止めをする役割。
そして自分も相打ち狙いで敵を仕留めること。

だが、それでは不足だ。
相打ち狙いでは思い切った行動に出られるかもしれないが、逆に思い切りすぎている。
初撃にすべてをかけている分、かわされた場合に次がない。
並みの腕はその『次がない初撃』をかわすことさえままならないだろうが。
だが、アキトにはそれができる。
幾度となく砕かれ、血を流し、引き裂かれながらもその体で受けたからだ。

その中でアキトは学んだ。
多数に対しては捨て身では勝てない。
一人を仕留めればいいというのは北辰との一騎打ちまでとっておかねばならない。
そのために他のすべての障害はうまくすり抜けることだ。
この場合、一番潜り抜けやすいのは正面だ。
左右によければ遅れてくる2人に当たる。
その場合は正面の一人をかわした不安定な体勢でぶつからねばならない。
だからあえて正面を最小の労力で無効化し、すり抜ける。
1枚目はこれで突破する。

次は2人。
正面突破、しかもあっさりと抜けられるとは思ってもいなかったらしい。
反応がコンマ数秒遅れる。
が、それで十分だ。

軽く手首のスナップをきかせた手刀を見舞う。
威力のほどはない。 しかし狙うのは顔面、そして目だ。
言わずと知れた人体の急所。
そしてわずかな異物が入っただけでも痛いし、視力を失えば対応に致命的スキを生じる。
完全に倒す必要はない。 最小の労力で無力化する。
それが六人衆と北辰を相手にしたときの対処法だ。

そして駆け抜ける。
そして名を叫ぶ。
そして拳を握る。

そして ――― 叩きつける、真っ直ぐに。

「北辰ッ!」

そしてその拳は、北辰の胸を打った。

○ ● ○ ● ○ ●


「……すごい」

呆然と、ただハリはその光景を見ていた。
何をしたのか、何をしているのかさえわからなかった。
ただすれ違って、走って、そして殴りつけた。
言葉にすればただそれだけのこと。
そして忘れてはいけないのは言葉と行動との隔たりは大きいこと。

すれ違う……全力でこちらを止めようと向かってくる訓練された暗殺者をいなしてしまうこと。
走る……バランスを崩すことなく、一撃を加えながらもスピードを緩めない技術と覚悟。
殴りつける……ハリは動くことさえできなかった。 押しつぶされないように抗うことで精一杯で。

そして何より、ラピス。
もう、震えていない。
アキトを見ている。
声は発しないで、ただ見ている。
その視線はもう虚空をさ迷うことはない。

……そうか

唐突に理解する。
これが強さか、と。

それは戦うための力でもある。
恐怖に勝る意志でもある。
過たぬための判断力でもある。
生き抜くための技術でもある。
ハリのオペレート能力も含まれるかもしれない。
でも、今はきっと含まれない。

強さとは ――― 望んだことを叶える力。

それはときに武力であり、財力であり、知力であり、特異な能力である。
どれということではなく、すべてであると言える。
誰かを守りたいと思ったとき抗える力。
何かを欲したとき、それを手に入れられる力。
負けたくないと思ったとき、諦めぬ心。
それらすべてを使って、自分の望みを叶えていくこと。
それができる人間が強いのだと思う。

父母を助けたいと思いながら逃げ出すことしかできなかった。
ラピスを勇気付けたいと思いながら、ただそこにいることしかできなかった。
北辰に負けたくないと思い ――― しかし出来たのは頼ることだけだった。

――― 強くなりたい

だから少年はそう望んだ。
暴力から守れる力を、言葉に負けぬ心を、問題を解決できる知力を。
自分の意志を押し通せるようになりたいと、そう思った。

いつか……僕も

それは憧れ。 
童(こども)の心と書くように幼い想い。
それでも少年は思った、誓った、決意した。
強く、ただ強くありたいと。

「北辰ッ!」

ハリも真っ直ぐに見つめる先でアキトの拳が北辰を打った。
少なくともそう見えた。
北辰の口元が歪む。

「見事だ」

そして言葉が紡がれる。
歪みは笑みとなった。

「だが……惜しかったな」

○ ● ○ ● ○ ●

届かなかった。

アキトはわずかに歯噛みした。
突き出された拳は確かにマント越しに北辰の胸を打ったかに思えた。
十分に速度の乗った拳はまともに当たれば肋骨を砕き、その背後の心臓や肺を破壊できただろう。
だが、それは届かなかった。
届かなかった以上、その結果もありえない。
原因があって結果がある、因果律と言う奴だ。

アキトの拳を受けたのはマントの下の短刀だった。
短刀の刃のついていない腹の部分、2本を交差させた部位で受けることで人体を破壊する拳を止めていた。
さすがに短刀ごと砕くという真似はできなかった。
受け方も巧みで衝撃を分散して逃がしている。

初撃は防がれた。
なら次は、

――― 反撃がくる!

短刀による攻撃か、それとも意表をついた暗器か、部下に攻撃させるか。
あらゆる攻撃を想定しつつアキトは次なる行動に備える。
しかし、

「……時間切れか」

そう呟くと北辰は大きく後方へ跳躍した。
反撃を予想してその場に留まろうとしていたアキトには完全に予想外。
とっさに追いかけようとする。

――― 風切音

「 ――― ッ?」

出鼻をくじくように投擲された短刀が迫ってくる。
北辰が今しがたアキトの拳を受けたものだ。
唯一の武器を躊躇なく手放すという判断。
そうしてまでアキトの初動を遅らせるという判断は正解だった。

かわすか? 間に合う? いや ―――

眼前に迫ったそれを叩き落す。
かわすこともできたが、その場合は背後のラピスたちに当たる可能性がある。
いや、北辰は確実にそれを狙っていた。
かわしたのではなく叩き落したことで初動が遅れ、これで追えなくなった。
同時に、

「……しまった」

投擲されたのは一本ではなかった。
もう一本はアキトたちとは別方向に向けて投げられていた。
そしてその標的とされた人物には盾となるものも、かわすどころか反応できる技術もなかった。

「…………」

倒れている人影に近付き、屈み込む。
短刀は左胸の心臓部分を正確に貫いており、即死状態だった。

見知らぬ女性だ。
白衣を着ているから、ネルガル職員なのかもしれない。
研究者にしてはやや濃い目の化粧は疲労と若さの衰えを隠すためのものだろうか。
取り立てて美人とも不細工とも言えないが、見開かれたままの光を失った瞳が死という根源的な恐怖を感じさせる。
ハリたちの元に戻り、確認する。

「知っている人かい?」

「……はい」

答えたのはハリだった。
人が死ぬ瞬間を目撃したせいか、血の気の失せた顔だった。
無理もないと思い、同時にパニックにならないだけマシだと判断する。

「僕たちを裏切って、騙して……酷い人でした」

「そうだね」

「酷い、人で……本当に……だから、僕は」

「うん」

「……う……でもぉ……なんで……」

ハリの言葉はだんだんと不明瞭になっていく。

「死ななくても……よかったと思います」

「……かもしれないね」

「なのに……うわあぁぁッ!」

緊張の糸が切れたのだろう。
崩れ落ちるように座り込んで泣き続けた。

「…………」

アキトはそれ以上、何も言わなかった。
言うべき言葉が見つからなかったというべきかも知れない。
だから、ただ立ったままアキトは待つだけだった。

「……ハーリー」

アキトは何も言えなかった。
言ったのはラピスだ。

「ハーリーがわたしの手を引いてくれたのわかったよ」

少なからずアキトは驚いた。
ハリの行動のことと、ラピスがいま自発的に動いたことを。

「……あ……と」

消えるような声。
しかし、もう一度、今度ははっきりと。

「ありがとう、ハーリー。 だから、泣かないで」

前後半の繋がりも何もない。
しかし、響く言葉だった。
それからラピスはおずおずと、おっかなびっくりという表現そのままに手を伸ばし……

「泣かないで」

少年の黒髪を撫でた。
それはきっとラピスが心細かったときにエリナかイネスがそうしたのだろう。
だが、アキトはラピスがそれを他人にするという場面をはじめて見た。
それはきっとラピスも前へ進んでいるということ。
アキトに手を引かれずとも自分で歩いていっているということ。

――― 成長していくということ。

だからアキトは思う。
自分に出来るのは未来を守ること。
こうして2人が歩んでいける『先』を残していくこと。
だから

「それを邪魔するのなら、何度でも戦うぞ」

「 ――― おっかねぇな」

アキトが視線を向けた先、草むらをかき分けて黒服の男が現れる。
気配を隠そうともしないのか隠せないのかは知らないが、その男の名は知っている。

「……テツヤ」

「テンカワ・アキト。 ああ、顔も見たくないってのはお互い様だ。
 あいかわらず言うこと成すことご立派だ。
 感動した。 料金は必要か?」

「何の用だ?」

「こっちの台詞だ。 なぜここにいる?
 カキツバタは……そうか、例の手か」

ボソンジャンプはテツヤの前で使ったことがある。
手段を推察するのは簡単だろう。
だが、

「でもな、どこでコレを知った?」

「人に聞いた」

「誰だ? まさか万能御用聞き妖精でも飼ってるのか?」

「言うつもりはない」

「だろうな」

テツヤの言う『コレ』の意味は複数だろう。
2人のマシンチャイルドの存在、研究所の位置、奪取作戦があること、木連がからんできたこと。
『コレ』などとわざとぼかした表現で鎌をかけているのだ。
例えば「ネルガルを調べた」と答えればアキトが知っているのが研究所とマシンチャイルドのことだと知れる。
何気ない会話から無意識の情報漏洩を誘うのは諜報員の常套手段だ。
それがわかったからアキトも「人に聞いた」などとどうとでも取れる答え方をした。
人に聞いたといってもそれがどんな相手なのか、例えば情報屋なのか内通者なのかわからない。
しかも主語が不明瞭で聞いたのが研究所の場所なのか、マシンチャイルドのことなのか、作戦のことなのかわからない。

実際はアキトが聞いたのは作戦のこと。
しかも木連が2人の奪取を狙っているということだけだ。
場所は知らなくともラピスとのリンクを辿ってジャンプは出来る。
ラピスが放心状態だったこともあり座標がややずれてしまったが。

……でも、それを知っていたカイトくんはいったい?

ヨコスカ基地でアキトにCCを渡し、木連の奪取計画のことを告げたのはカイトだ。
そして自爆しようとするマジンのことを懸念して迷っていたアキトに対し、
彼は「あっちは僕が跳ばします」と言った。
少なくとも彼はマジンが自爆しようとしていることと木連の奪取計画、
そしてA級ジャンパーとボソンジャンプのことを知っている。
アキトがA級ジャンパーであることも。

「なら……」

アキトの思考はテツヤの言葉と同時に起こった音によって中断された。

「面倒だから動くな、抵抗するな、口を開くな。
 お前らを拘束する」

複数の銃口がこちらを向いているのを確認する。
気配から推察するとおおよそ30人……1個小隊に囲まれている。

「先に言っておくが、今の俺の立場はクリムゾンの非合法工作員じゃない。
 SIF……戦略情報軍の大尉。 部下は正規の軍人だ」

「法的根拠もあるってことか?」

「さあな。 ただ、お前が俺たちをのして逃げれば万事解決……ともいかないぜ」

その通りだ。 相手が正規の軍人なら下手をすればまたネルガルと軍の問題になる。
そうでなくとも公務執行妨害……いや、戦略情報軍が相手では連合反逆罪さえありえる。
少なくとも黒の王子だった頃はネルガルが背後にあった。
あの頃、アカツキやエリナが何を考えてあそこまで協力してくれたのか、今となっては知る術がない。
考えるまでもなくあれは危険な綱渡りの連続だった。
アキトは火星の後継者をアカツキ、ひいてはネルガルはそれを支援するクリムゾンを潰すことが目的だったとは言え、
民間の施設を攻撃し、統合軍ともやりあった。
証拠を残さないようにしたとは言え、ネルガルが裏で工作をしていたことは疑いようがない。

しかし、いまはそれがない。
ネルガルはそこまでする価値をアキトに見出してはいない。
当然だ。 ある意味で彼自身がそのように振舞っていた。

力なく失うのはもう嫌だった。
だけど、力を得ればすべてを守れるわけではなかった。
そうして得たものが、失ってしまったものよりいいと誰が言い切れるだろうか。
かつての欧州でその腕をすり抜けてしまった小さな少女の命。
その体は軽くとも、その命は重かった。

――― とても、重かった。

そのことを思い出し、アキトはきつく拳を握り締めた。

「何を考えてるかわかる」

そんなアキトに対し、テツヤは低く抑えた声で告げる。

「だが、もう一度いうぞ。 俺たちをのして逃げれば万事解決にはならない。
 それに、そこのガキどもは特に丁重に扱えというスポンサーのお達しでな」

「貴重なサンプルだからか?」

「皮肉を言うな。 正直言えば俺の知ったことかと言いたいところだがな。
 だいたい、お前がここにいることが俺にとっては誤算だ」

まあそうだろう。 今回の襲撃は双方にとって誤算だらけだ。
特にアキトはこれで九十九との接触と月へいく機会を逸してしまった。
撃破されたテツジンに乗っていた九十九がどうなったか知る術は今はない。
ユリカやルリ、イネスもいるはずだからそちらに頼るしかないのだが……。
できれば無事であって欲しいと思う。

もはや細かな部分ではどうしようもないくらい歴史が変わっている。
それは過去を変えるという意味ではアキトたちの望んだ通りではある。
しかし、同時に大筋以外の記憶はあてにならなくなってきていると言える。
いまここで拘束されることがどんな影響を及ぼすか想像しきれない。
だからと言って安易に突破もできない。

……どうする?

単純に逃げるだけならできる。 しかし、それでは問題解決にならない。
かと言って安易に従って行動の自由を失うわけにもいかない。
そんなアキトの葛藤を見て取ったのか、テツヤは別方面から攻めることにしたらしい。

「追加情報だ。 ネルガルの研究所職員はほぼ全員を保護した。
 もちろん、けが人の治療もする。 そこの ――― 」

ハリを示し、告げる。

「ガキの書類上の養父母になってるマキビ夫妻もだ。
 怪我はしてるが、命に別状はないそうだ」

それを聞いてハリの涙で崩れた表情が安堵にとってかわる。

「……つまりすぐにでも尋問はできそうだな」

「なっ」

「当然だ。 医療目的以外の遺伝子操作は連合法違反になる。
 あそこでは禁止されているはずの研究を行っていた。
 マキビ夫妻はその研究の責任者。 逮捕、拘束はSIFとしては当たり前の措置だ。
 まあ、実刑判決もありえるだろうな。 そちらは司法省の仕事だがな」

「そんな……」

またいっぺんに蒼白になったハリに対し、テツヤは続ける。

「だが、証言があれば別だ。
 つまり、研究は確かに行われていたが、それは人体実験というほどのものではなく
 既存のマシンチャイルドの成長記録と能力開発に限られ、かつ被験者は研究担当者である
 マキビ夫妻の養子となるほど親密かつ密接な信頼関係が形成されていたと」

「それをハーリー君に言えと?」

「虚偽申告でないならな。 だが、それにはこちらの『捜査』に協力してもらう必要がある」

「ものは言いようだな」

言いながらもアキトはそれが意味のない負け惜しみだと認めていた。
テツヤの言うことを要約するとこうなる。

『両親を助けたければおとなしく従え』

否と言えるはずがない。
作り物の両親しか知らないルリや、そもそも親と呼べる存在さえなかったラピスに対し
ハリの環境はよほど恵まれていたと言える。
だからこそ、ハリは両親を見捨てられない。

「…………」

ハリはきつく唇をかみ締めたまま、こちらを見ている。
その目に迷いはない。
もう決めてしまったという目だ。
アキトは頷く。

「……わかった。 好きにしろ」

この状況でハリだけを残してラピスと自分は関係ないから逃走と言うわけにもいかない。
世界共通のジェスチャー、両手を挙げること抵抗する意志がないということを示した。
不安げに服の袖を掴むラピスを安心させるように微笑む。

「賢明だな」

「皮肉にしか聞こえないな」

手錠をはめられながら、それでもアキトは告げる。

「だけどな、2人に手を出せば俺は容赦しない。
 それだけは……」

「覚えておこう。 2度もお前に殺されるのはごめんだ」

そう言ってテツヤは笑った。
自嘲とも皮肉とも取れるような笑みで、それでも嬉しそうに。

それきり沈黙が落ちる中、遠くからヘリの音が近付いていた。

○ ● ○ ● ○ ●

払暁の紅い空が青く、徐々に紺色にそして再び夜明け前と同じ黒へ戻っていく。
時間が逆回りになったような錯覚さえ起こすような光景だった。
これが地球、これが自然というものなのかと不思議な思いを抱き、外を眺め続ける。
だがそれ以上の変化は乏しく、しばらくすると彼にも見慣れた深遠の闇が戻ってきた。
重力の束縛を抜け、宇宙へ出たのだとそれで実感する。

「そんなに珍しいか?」

「ああ、来るときも帰るときも……こんな風に船を使ったことはなかった」

目的地まであと10時間という艦内放送が流れ、続けて彼には理解できない言語でもう一度放送が流れる。

「何を言っているんだ?」

「同じ内容を繰り返しただけだ」

言語も統一されていないのではとっさの際の意思疎通に支障をきたしそうなものだが、
相手はそれをさして問題とは考えていないようだった。
それもまた不思議なことだ。

「…………」

「…………なあ」

「ああ」

静寂が戻りかけたころ、また相手が口を開いた。

「あんた、家族は?」

「妹がいる」

「うちは兄貴だけだった」

「壮健なのか?」

「……あんた、古い日本語使うな」

「そ、そうなのか。 私は意識していなかったが……」

「なら木連がみんなそうなんだろ。
 万葉もそんな感じだった」

「そうか」

それきりまた沈黙が落ちる。
空中に投影された外の映像は小さな星と大きな太陽の2種類の輝きと深遠の闇だけとなっている。
コミュニケーターを見たときははじめは驚いたが、原理そのものは前世紀からあるホログラムの応用にすぎない。
空気分子をスクリーンとして利用しているだけで。(実際はそれが難しいのだが)
それきり話題もなくなった2人はただ空虚な会話を交わすこともなく狭い部屋で沈黙と孤独を友とした。

……それもそうだろう。

代わり映えのしない、しかし彼にとっては慣れ親しんだ懐かしい宇宙を眺めながら白鳥九十九は思った。
仲間を失う原因をつくった相手と同室で仲良くしようというのが無理な話だ。
なら、なぜ彼は自分を助けるような真似をしたのだろうか?
それもまたわからない。
とにかくここ数時間で状況が変わりすぎた。
それというのもこの男に会ったからだ。



遡ること数時間前。
九十九は崩れた兵舎の外壁の陰にいた。
手にあるのは木連でさえ旧式になっているリボルバー拳銃。
はっきり言って気休め以上の意味があるものではない。

当初の目的地であったヨコスカ基地にはなんとか到達できたものの、テツジンはそこで力尽きた。
欧州で坂宮のマジンを屠った大剣を持った敵機はやはり九十九のテツジンにとっても強敵だった。
そもそもが小型機動兵器に護衛を受けない大型機動兵器など、陸戦においては歩兵のいない戦車 ――― いやもっと悪い。
単独で陸戦で使うには根本的に図体が大きする。 そのためまともな機動力を持てなかったのが失敗の原因だ。
正しい運用法としては護衛の小型機動兵器が敵機の接近を阻み、テツジンは移動砲台としてアウトレンジ攻撃に徹するべきだった。
苦手な近接戦闘にさえならなければ、強固な防御力を持つジンタイプはそう簡単に撃破されない。

ただ、それが唯一できたのは優華部隊との共同で十分な数の小型機動兵器を揃えられた欧州での戦闘だけだった。
優華部隊は度重なる戦闘で特にパイロットの多くを消耗してしまった。
数の上での主力であった一式戦<尖隼>では致命的に防御力が足りないのが主な要因だ。
それを改善した十五試戦はアクア・クリムゾンが代表を務めるスカーレット製だが、そちらはまだ数が揃わない。
所詮は試作機の先行量産型であり、本格的にラインが稼働するのはまだ少し先だろう。
制式化のあかつきには一式戦、二式局戦に続く『三式戦闘機装兵』と呼ばれるはずだ。

しかし、問題がないわけではない。
基本的にスカーレットは地球の企業だ。
木連の支援で成立しているとは言え、敵側に主力の生産を任せるというのは問題がある。
何かあったときに予備部品の供給が途絶えるだとか、あるいは三式戦の性能が筒抜けになるということも考えられる。
そのため、経済担当の西沢の主導で火星に生産ラインを設けてのライセンス生産を計画しているらしい。
機密保持の面から見てもそれは妥当だろう。

だが、問題はもう1つ。
優人部隊のパイロットはジンタイプを使いたがる。
ジンタイプがゲキガンガーを模していることを考えればそれは当然だ。
九十九も自分のテツジンを見たとときは誇らしさと認められたという喜びで胸が一杯だった。
それ自体は悪くない。

しかし、では誰が護衛機を操縦するのかという点が問題だった。
当然のごとくジンのパイロットたちは嫌がった。
なぜ誇り高きジンからせせこましい上に悪の地球人がつくった悪役メカに乗り換えなくてはならないのかというわけだ。
新人も嫌がった。 彼らはゲキガンガーに憧れて優人部隊へ入ったのだから当然だ。
命令として無理に機種転換しようものならボイコットも辞さない構えだった。
なまじに能力が高く、同じくらい誇りも高いだけに深刻だった。
徹底したゲキガンガー信奉と反地球教育が自分たちの首を絞めた。

対して女たちはよほど現実主義者だった。
ことに優華部隊の司令である東 舞歌准将はその筆頭だった。
彼女は高性能で部下の命が助かり、戦果を上げられるのならそれが木連製であろうと地球製だろうと拘らなかった。
第四次月攻防戦で一式戦の防御力不足から多くの部下を失っている彼女からしてみれば、当然を通り越して自明の理だった。
一部の精鋭に十五試戦を配備して戦った欧州戦ではその防御力の高さを高く評価している。
人的資源でも圧倒的な劣勢の木連にとって、パイロットの生還率向上は必須だった。
欧州戦終了後はすぐに十五試戦の制式化と追加の配備を上申している。
順当に考えるなら、欧州戦でもやったように優人部隊のジンを優華部隊の小型機動兵器で護衛すればいい。
臨時編成にも関わらず市街防衛戦ではかなりの戦果を上げている。
どの道、十五試戦はエステと同じくエネルギー供給を母艦かジンに頼らねばならないのだからそれが理想だろう。

だが、またしても問題が生じた。
優人部隊のパイロットたちは「守るべき婦女子を矢面に立たせるとは納得がいかない」と言い出したのだ。
確かに形としては前衛の護衛機が敵の接近を阻む関係上、真っ先に攻撃を受けるだろう。
敵としてまず護衛機を排除しようとするのは当然だ。
また、傾向として優華部隊の護衛機を優人部隊のジンが逆に『護衛』しようとすることもわかった。
その結果、訓練でも味方の機動兵器が危機に陥ったりすると後方から飛び出したあげくに撃破されるジンが相次いだ。
現に欧州戦でも同じことをやった坂宮大尉のマジンが初の喪失機になってしまった。
さすがにこの有様には東 八雲少将も頭を抱えたという。

今回の奇襲で九十九に護衛機がついていなかったのも優華部隊が再編中であったことと
半ば決死隊になる攻撃に同行させるべきでないと九十九が主張したからだ。
それが良かったか悪かったかは悩むところだ。
護衛機があればもう少し戦えただろうが、それは破局を引き伸ばす意味しかない。
このヨコスカ奇襲は「負け続きだからとりあえず一矢報いとけ」という政治的要求を軍部が苦渋の決断で実行したものだった。
作戦そのものの戦果はさほど期待されておらず、空母ホーネットにB−25積んで日本本土奇襲を行うのと同程度の成功率と考えられていた。
それが成功したのは事前の攻撃によって指揮系統に大きな打撃を与えていたからだ。
どんな巨人も目を潰され耳を塞がれた上で頭を潰されれば手足を振り回すことさえできない。

だが、そこまでしても九十九は敗れた。
かつて欧州でも戦ったカキツバタの部隊に敗れた。
彼らは強かった。
指揮官は一歩間違えれば独断専行と取られかねない決断で早期に対処した。
結局のところそれが一番の敗因かもしれない。
奇襲による心理的衝撃から早期に立ち直って反撃されれば寡兵しかもたない奇襲は潰される。

――― そうか。 私は負けたのか。

いまさらのように実感が湧いてくる。
だが、それでも銃を握った手から力は抜けない。
むしろいっそうの力を込めて握り締める。
もはや任務の続行は不可能だ。
なら、あとは任務のためでなくただ生きて帰るために。

負けた。 敗れた。
だからこそ……生きたい。

「おい、あんた」

不意に声をかけられる。
幸いにして九十九にもわかる日本語だった。
誤魔化すか、それとも銃を使うか?

「いや、自分は ――― 」

「木連の人間か?」

続く言葉に愕然となる。
振り返った先にいたのは赤いパイロットスーツの男。
その髪型を見て閃く。

「それは……天空ケンの」

「やっぱりそうか」

九十九の言葉に相手が頷く。

「なら……君が『眠れる苗』なのか?」

「? なんだそりゃ?」

違うのか?
ならばなぜ彼は木連の名を知っているのか。
地球人が木連のことを『木星蜥蜴』と称して正体を隠していることは知っている。
それは自分たちが未だに歴史から抹消された存在であると知らしめるのに十分だった。
地球は木連の誕生に関わる過去をなかったことにしている。
それは九十九を初めとする木連の人々を激怒させるに十分だった。
しかし、この男は知っている。
なぜだ?

「……あのゲキガンに乗ってたんだろ」

「ああ」

肯定する。 この状況ではそれしか考えられないだろう。
相手はふっと息を吐き、

「ついて来いよ。 憲兵に見つかったらことだぜ」

そう言って歩き出した。
九十九としてはついていく以外の選択肢はなく、
そしていつの間にか話が進んでいた。


断片的に聞こえた会話の中で、自分はどうやら彼の兄という役を割り振られたようだった。
こっそりと耳打ちされた仮の名は『ヤマダ・イチロウ』。
無個性極まりないが、コレが本当に彼に兄の名だというからあれだ。
気がつけば九十九は宿敵であるはずのカキツバタへ乗せられていた。
どうやら彼以外にも民間人を収容しているらしかった。
基地が被害を受けたからなのか、また別の理由からなのかはわからないが、
九十九にとって自分がいて不自然に思われないというのはありがたい話だった。

しかし、九十九は相手のことをほとんど知らない。
『弟』の名前さえも知らないというのはどう考えてもおかしい。
うっかりボロを出しかねない。

「そう言えば……君の名前も聞いていなかった。
 私は白鳥九十九。 木星圏 ガニメデ・カリスト ――― 」

「ヤマダ・ジロウだ。 前聞いたから木連の正式名はいい」

「そうか」

「俺も聞いときたいことがある」

「ああ、答えられることなら」

友好的と言える態度ではないが、もともと敵なのだから当然だろう。
九十九はそう考えていた。 だが、その考えは必ずしも正しくはなかった。

「仲間を失うってのは、どんなものなんだ?」

「それは ――― 」

相手の意図をはかりかねて言いよどむ。

「あんたと戦って、また一人、仲間が減ったよ」

「…………」

それだけなら単なる恨み言ととも取れた。
助けたのではなく自分の手で始末をつけたかっただけなのかと思うだろう。
しかし、続く言葉がそれを否定する。

「俺もそうだ。 俺と戦って、仲間を失った奴がいる。
 俺が ――― 殺したんだ」

殺し、殺される。 それは戦争だから当然だと思っていた。
確かにそれは当然なのだろう。
だが、同時にそれは殺す者殺された者の他にその家族や仲間からも恨まれるということだ。
九十九自身は覚悟していた。 戦争に出るとはそういうことだと。
だが、自分が死んだあとで、例えばユキナが誰かを恨むということを考えていなかった。
失われた者がいるなら、残された者がいる。
これも当然だ。

「いい奴だったよ。
 今日戻ってこなかったあいつも、俺を恨んでいるといったあいつも。
 みんないい奴だったんだ……」

「……なぜ、私を助けた?」

「あんたもいい奴だと思ったからさ」

答えは簡潔だった。

「わからなくなっちまった。 昔の俺は……正義を信じてた。
 きっと正しい、そう思えることをやってるつもりだった」

「今は違う?」

「そうだな。 少なくともあんたをぶん殴って、仲間を返せって罵るのが正しいとは思えないな」

それを聞いて九十九はヤマダがこちらを向かない理由を悟った。
面と向かい合えば怒りを抑えきれないからだろう。
いま彼が口にしたように、怒りに任せて殴って罵るという行為に及びそうだからだろう。
正しいと思えない。 だから自制しているのだろう。

「俺たちは何をしてるんだ?
 イツキはいい奴だった。 万葉もだ。 たぶんあんたも。
 それが皆して戦って……皆いなくなっちまうんだ」

ヤマダは迷っている。 戦争の中で何が正しいのか。
戦って守ればそれはまた別の誰かを奪ってしまうこと。
そのジレンマが彼を悩ませている。
敵を単純に倒すべき相手と見なせなくなったからだ。

そして、九十九もそうだった。
いま話してみて思った。
彼は敵だ。
だが、もし戦場で再び遭い相見えたとして、
果たして自分はなにも思うことなしに彼を討てるのか?
答えは……否だ。

「……すまない」

「謝るなよ」

「それでも私は ――― 」

「あんたを、恨めなくなる」

また沈黙が落ちた。
だが、今度は長かった。

とても ――― 長かった。

○ ● ○ ● ○ ●

音が響いた。
低い電子音は昼夜関係のない宇宙で時を知るのに重要な時報だった。
日本の標準時で言うなら早朝に当たる時間だ。
さすがに1日くらいの徹夜ではこたえない。
眠気覚ましのコーヒーをすすりつつアオイ・ジュンは横に立つ人物に視線を向けた。

「ほえー、ずいぶんナデシコとは違うんだね」

この状況下でのんびりした声を出せるのはたいしたものだ。
長い付き合いであるジュンにはいつものことだが、副長などは呆れとも賞賛ともつかない視線を向けていた。

「ユリカ、疲れてない?」

「え? 大丈夫だよ」

そう言って彼女は笑う。
本当に、この状況下でたいしたものだ。
人によっては能天気ともとれるだろうが、

「でね、私考えたんだけど……やっぱり月へ行く理由は別にあると思うの」

そう、カキツバタはヨコスカから補給もそこそこに月へ向かっていた。
基地機能を喪失したヨコスカに留まっても仕方ないが、かといって月まで行く理由がない。
クレなりサセボなり他にもカキツバタが寄港できそうな軍港は日本にある。
しかし、軍の命令は民間人を収容して月へ向かえというものだった。
理由は地球では同時多発したテロで同じくサンディエゴ、ハワイ、ノーフォーク、スカパフロー、タラントなど
各地の軍施設が攻撃を受けているため、地球上では安全に補給を受けられないということだ。
しかし、

「確かにそれなら補給艦で洋上補給なり自走ドックなりでいいはずだね」

「うん。 それに民間人を収容って言っても……」

「ほとんどがカキツバタの寄港にあわせて来た旧ナデシコクルー」

「そうそう。 それに、みんなが集まったのもプロスさんが
 『いい機会ですから同窓会でも開きましょう』って声をかけたからだしね」

ナデシコ解体後、クルーは散り散りになって元の生活に戻った。
しかし、中にはナデシコ乗艦のために仕事をやめていたミナトのような例もあり、
そういったメンバーにはネルガルが次の仕事を斡旋したりしていた。
つまり、ほとんどのメンバーの所在をネルガルは掴んでいた。

「確かに欧州へ行ってた人たちが戻ってきた記念にって言うのはわかるけど。
 それにしてもタイミングが良すぎると思うんだ」

「欧州戦が一段落して、主戦場がまた宇宙へ移りつつあるこの時期に」

「そしてカキツバタが修理のためにドック入りするこの時期でもあるよね?」

ユリカの言葉に頷く。
欧州戦で色々とガタがきはじめている。
このへんでドック入りして一度徹底的に修理しないと重大な故障へ発展しかねない。
ことに地上戦で多用したレールカノンは砲身命数ギリギリだった。
このまま使い続ければ高電圧高電流とプラズマの高温にさらされ続けた砲身が負荷に耐えかねて破裂しかねない。
回路の電気絶縁にもかなりの劣化が見られる。
外観からはわからないが、カキツバタもボロボロに疲労しているということだ。

「コスモスとドレットノートは月防衛の関係でルナ2から動けない。
 強力な遊撃戦力だったカキツバタが動けなくなると戦力に穴が開く」

「代替の戦力、欲しがるよね?」

「欲しいね。 僕だってそう思う」

そして2人の視線はネルガルのロゴ入りの赤いベストを来た中年男に向く。
ちょび髭にメガネ、曖昧そのものの笑みを浮かべたプロスペクターは「さて何のことやら」と言わんばかりだ。

「ヨコスカ基地の防衛をほったらかしてまでカキツバタを動かした理由はなんです?」

「おやおや、アオイさん。 月への移動は軍の命令ですよ?」

「行き先にはネルガルのドックも隣接している。
 これで関与を疑るなというのが無理ですよ」

それでもなお惚けようとするプロスに、ユリカがにこやかに告げる。

「 ――― あるんですよね、新しい船が?」

「はて?」

「クレにはネルガルのドックはありません。
 サセボのはナデシコを作るときに軍からかりてただけだし、ヨコスカはあの惨状です。
 この上、みんなを集めて月へ行こうなんて急すぎますしね。
 もし、襲撃がなければ慰安旅行とかそういう名目で別の日程で移動するつもりだったんじゃありませんか?
 今回は現状でどれだけ参加できる人がいるのかの確認で済ませるつもりだった。 同窓会には違いないですけど」

結論からズバッといくユリカを補足するようにジュンも畳み掛ける。
プロスはあいかわらずの飄々とした態度だが、後ろのゴートは明らかに「むぅ」とか言って困っている。

「はあ、敵いませんなーお二人には」

諦めたようにプロスが認める。

「ええ、確かに軍はカキツバタの戦果を鑑みて考えを改めました。
 つまり、やはりナデシコは必要だと認めたわけですな」

「でも、ナデシコは解体されちゃったんですよね?」

「さすがにハッキングを受けて味方を攻撃しましたから。
 不備を残したままでは同じことの繰り返しと言うわけで」

ですが、と前置きしてプロスは続ける。

「きちんとセキュリティを見直して改良した新型のLINKを採用しましたから」

「ミスマル・ユリカ、君にはその艦の艦長をやってもらいたい」

黙っていたゴートがようやく口を開く。

「その艦の名前は?」

「ナデシコ級3番艦<シャクヤク>だ」




<続く>






あとがき:

リリカルなのは第2期のニュースに狂喜乱舞、
フェイトたんの聖祥付属の制服姿に七転八倒している昨今。
皆様におかれましてはこんな逸般人な人生をおくられているでしょうか?(挨拶)

さて、ようやっとナデシコ復活の兆し。
欧州編ではカキツバタばっかりだったのですが、そろそろです。
しかし、シャクヤクやカキツバタってナデシコSSではフッドか陸奥のような扱いですな。
あんまり活躍してるの見たことないよー(時ナデ除く)。

ハーリー君受難編は次で最後の予定。
そしたらガイメインになるかと。

それでは次回また。



 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

ハーリー君、ちょっぴりいい思い。でも次回でどうなることやらねぇ。

相手は軍、しかも情報部。悪い想像ばかりが膨らんだりして。

 

優人部隊と優華部隊の関係は面白かったですね。

兵科の差がこういうところでこんな変な状況を生み出しているとは(笑)。

東兄妹もこんな苦労をするとは思わなかったろう。