時ナデ・if
<逆行の艦隊>

第25話その4 月にて







地球から見られる側を表、その反対を裏とすると月の裏側は平坦な大地が広がっている。
地球から見られるのはデコボコしたクレータだらけの表であるから、はじめて月にきた人間はその光景と自分の中のイメージとの乖離に違和感を覚えることだろう。
一般にクレーターとなっていない平坦な地形は「海」と呼称され、そこはコロニーが建設されている。
対してクレーター内には宇宙港や工場が建設されるのが慣例だった。

これはすり鉢上のクレーター内では外の光景を見ることができず、一般市民の住居としては不適当だという建前と、
宇宙港や工場、空気プラントなどの重要な施設はクレーター内に作ることで万が一に外部からの攻撃を受けた際でも
クレーターの外壁を要塞のように使うことで生存性を高めようという政府の本音があった。
つまり剥き出しに近いコロニーは戦時は放棄するという冷酷な判断もある。
しかし、戦時こそが非常事態であり、平時ならばデブリ対策程度であとは剥き出しでも問題はないのだし、
確かにクレーター内部の住居は人気がないのでこれは妥協の産物と言える。

そしていま彼女がいるのは月の表側のクレーター内部に建設された宇宙港。
地球側からの景観を損なうという理由で表側にはほとんど施設がない。
つくろうにも表はクレーターだらけで平坦な部分を探す方が難しいくらいなのでそれも仕方ないだろう。
ごくわずかな例外として開発初期のころに建設された宇宙港と、その維持に必要な管制施設、発電所、酸素プラントなどが残っていた。
いまとなっては設備の旧式化でほとんど発着するする便さえなくなった寂れた宇宙港だ。
それでも……

「私たちは戻ってきた」

戻ってきたといいつつ、それはあまり実感を伴わない言葉だった。
月での艦隊戦から1年近くが過ぎようとしている。
多くの部下がこの小さな衛星を巡る戦闘に参加し、そして戻らなかった。
彼女たちのため、いつかは凱歌を謡いながらこの地を踏むと誓ってから1年ということだ。
それは長かったようでもあり、短かったようでもある。
はっきりしているのは、あれからさらに多くの少女たちが同じように戦いに赴き、そしてその何割かは戻らなかったということだけだ。

すでに木連は身の丈以上の戦力を展開し続けたツケによって青息吐息になりつつある。
攻勢限界点は当の昔に突破し、おかげで各方面で兵力密度が下がってしまい各個撃破された。
逆襲が可能だったはずの欧州でも政治的判断からそれを断念せざるをえず、結果として木連は地球上から叩き出されつつある。
木連程度の人口と国力で地球全土を制圧するなどどだい無理な話だったのだ。
結局のところ多くの施設は人間が使うようにできており、であればこそそれを制圧するのは歩兵の仕事だった。
こればかりは野戦から歩兵の活躍の場が削られても変わることのない真実だった。

しかし、木連には貴重な人員を歩兵と言う消耗率の高い兵種につける余裕はなかった。
優人・優華部隊は艦艇と機動兵器からなる宇宙軍であり、陸軍や海兵隊ではない。
まずもって宇宙で戦わねばならない木連にとっては当然の選択だった。
その代わりを果たすのがバッタやヤドカリなのだが、無人兵器は目標選定能力にやや問題があり、
かつやはり人間よりは大きいので施設制圧には適さない。
初期の火星攻略戦で大量投入されたバッタがコロニーのシェルターに侵入し、警備の軍人もろともに民間人もまとめて吹き飛ばしたという事例もある。
これが歩兵であるなら降伏を勧告するなり軍人排除した上で民間人は捕虜とするというようなこともできただろうが、
無人兵器にできるのはただ目標を破壊するだけだった。

火星は木連の攻撃でほとんど廃墟と化してしまい、何のために占領したのかわからない状態だ。
生産にも寄与せず、かえって維持に兵力と人員を割かれるのではたまったものではない。
ごくわずかに生き残った人々は本国へ送られ、そこで強制労働に従事しているらしいが、
それよりも火星の再開発に投入した方がよいというのが四方天、西沢学の主張だった。
確かに火星の設備と資源が使えるようになれば木連の生産力は大幅に向上するはずだ。
だが、それにはまだ時間がかかる。
この間にも地球連合軍は着々と反抗の準備を進めており、戦争初期の守勢防御から月攻略戦以降の攻勢防御に転じたように
そう遠くない未来には防御から全面的な攻勢へ転じるはずだ。

それを押し止めるための準備期間を稼ぐこと、それが今回の一連の行動に繋がっている。
草壁中将の大幅な戦略転換により東 八雲少将が立案した一連の作戦、その第1段階の終着駅がこの月だった。
テツジンによるサセボ基地攻撃、現地ゲリラによる軍主要施設への攻撃も北辰らによる研究所の襲撃も言ってみれば囮だ。
すべては地球へ目を向けさせるため。

「審査が終わりましたよー」

いつもの和服姿……ではなく洋装に着替えた琥珀が戻ってくる。
月でいつもの格好は目立ちすぎるという判断で潜入する全員が同じように洋装をしている。

「もう少し警戒が厳しいかと思ったけどね」

「はい、厳しいですよ。 いつもなら半分の時間で済むはずですから」

それでも通れたというのは、電子情報の操作が完璧だったのだろう。
スカーレットから提供された偽造IDを眺めながらそんなことを思う。

「宇宙港は国際的な場所ですから英語がほとんどですけど、いまから行く場所は日系企業の多いコロニーですから
 日本語も通じると思いますし、必要なら通訳ロボットのレンタルもありますよ」

「それは状況によって決めましょう。 下手に記録を残したくないわ」

「んー、どのみち監視カメラに映像が残っちゃいますけどね」

「危険は少なくする努力が必要よ」

作戦が成功しても失敗してもこの戦争中に再び月へ来ることはないだろう。
だから顔がわれていても構わないが、それと偽造IDを使って正体を露見させる危険を冒すことは別問題だ。

「それにしても、詳しいわね」

事前に内部へ浸透している諜報員からの情報は受け取っており、施設の概要や配置などはわかている。
しかし、琥珀の態度は知識以上に経験に裏打ちされたもののように思えた。
ようするに場慣れしている、とでも言うのだろうか。

「はい、舞歌さまの家にくるまでは月で育ちましたから」

「初耳ね」

と言うより、琥珀のことについては知らないことの方が多い。
舞歌が琥珀・翡翠の姉妹とはじめてあったのはいまから10年近く前だが、
それにしても八雲、舞歌の父親で当時四方天の一座にあった先代が突然につれてきたことから始まった。
厳格な人でもあったが、そのときばかりは少し困ったような顔で、まだ健在だった母にただ一言「任せる」とだけ言った。
その日から東家は新たに小さな少女2人を使用人として雇い入れることになった。
ただ、四方天ともなればそれなりに広い屋敷に住み使用人を使うような生活もできるのだが、父はあまりそれを好まなかった。
だから使用人といっても2人以外にはなく、家事の一切は母が取り仕切っているのが東家だった。
使用人という立場が対外的な建前にすぎないということを示すように、父母は八雲や舞歌と同じように扱った。
特に母は兄を真似て武術や戦略戦術理論、戦史ばかりに興味を向けていっこうに女らしいことをしたがらない舞歌にかわり
琥珀と翡翠に料理やその他の家事を教えるのが楽しくて仕方ないようだった。
父や兄は舞歌を何とかして女らしくしようとしたが、それも無駄と悟るのに時間はかからなかった。
琥珀や翡翠を見て触発されてくれればという淡い期待があったようだが、当の舞歌はこれで母の矛先が自分から逸れたと
いままで以上に武術や戦史の勉強に熱中するようになり、父を「嫁の貰い手はあるのか」と嘆かせることになる。
思えばそれはなんと幸福に満ちた時間であったことか。

父が死んだのはそれから2年後のことだった。
コロニー間を移動中の事故だった。
父を乗せたシャトルに運悪くデブリが衝突して空気漏れを引き起こした。
軍務で船外作業の経験のあった父は穴をふさぐために宇宙服を着て作業を行い、
穴をふさぎ終えて船内に戻ろうとしたところにデブリがバイザーを直撃し、即死した。
他の乗員はその後にようやく駆けつけた救助隊に無事救出された。
ろくな装備もない旧式シャトルでは誰かが穴をふさがねば全員が酸欠で緩慢な死を迎えるはずだった。

いまでも覚えている。
黒く重い感触が暗幕のように心を覆ったあのときの感触のこと。
物言わぬ父の遺体に母がただ深々と頭を下げ、「ごくろうさまでした」と告げたこと。
そのまましばらくそうしていたのは、きっと自分の表情を舞歌たちに見せたくなかったのだろう。
兄はただ瞬きもせずに父を見ていた。
舞歌は……よく覚えていない。
ただ、琥珀があそこまで取り乱して泣いたのを見たのはあの時と、
そしてそれから更に1年後の母の死に目に立ち会ったときだけだった気がする。
父の死という心労とその後の家族を支えるという過労が祟ってのことだった。

その後、兄は士官学校を出て四方天の東を継ぎ、同時に結婚した。
東の後継者であり、優人部隊の若き司令として早くも賞賛を浴びていた八雲なら見合い話は
それこそ一山いくらで叩き売りできるほどにあったはずだが、それらすべてを断って相手には琥珀を選んだ。
いつから2人がそんな感情を抱いていたのか舞歌は知らない。
朴訥というより朴念仁の兄は女性を口説く姿を想像できなかったと言うのもあるが、
琥珀の態度も昔から変わることはなかったように思える。

一歩下がり常に微笑を浮かべて……。
舞歌はそんな琥珀が気に入らなかった。 どこか作り物めいていると思ったからだ。
無表情ではあるが、態度の端々に感情を覗かせる翡翠のほうがまだ人間味がある。
兄が琥珀と結婚すると言ったときに反対したのはそんな感情からだった。
舞歌にとって八雲はいまや唯一の肉親であり、ゆえに妻となった琥珀に兄を奪われると思ったのかもしれない。
だが、それ以上に不信感めいたものがあったように思える。
琥珀の本心と言うものを10年以上の付き合いながら聞いたことがないことを含めて。
それがこのときになっていっぺんに出てきた。

「……じゃあ、行きましょうか」

「はい、舞歌さま」

「……『さま』もしばらく禁止よ」

それでも琥珀がいなければこの作戦はどうにも成り立たない。
そう自分に言い聞かせて舞歌は手荷物を取ってゲートへ向かう。
ここは寂れた宇宙港であり、女だけの一行であろうとも気に留めるものはいなかった。
手荷物の中に危険物はなく、相手が若い女性という油断もあった。
加えて琥珀らによる事前の電子データ改ざんは完璧であり、入国監理官には彼女らを疑る余地はなかった。
こうして東 舞歌准将は木連成立以来の悲願であった月への帰還を果たし、月の大地を踏んだはじめての将官として記録されることになる。
しかし、当の本人はさしたる感慨もなかった。
彼女らのような若い世代にとって月とは教科書に出てくる古戦場以上の意味はなく、老人たちが渇望するような聖地でも郷愁を抱くような故郷でもない。
多くの木連の若者にとって故郷とは自由落下の宇宙に浮かぶコロニー群に他ならなかった。

○ ● ○ ● ○ ●


軍のドックへ入港したカキツバタには半舷上陸の許可が出ていた。
どの道しばらくは整備や補給で身動きが取れなくなってしまう。
特に今回はレールカノンの砲身交換まで含まれているから大仕事だ。
他にも部隊の再編成と人員の入れ替え、補充機の授与、パイロットの訓練スケジュールなど
たとえ艦が動けなくともやるべきことは山ほどある。

「ヤマダ、テンカワの2人はシャクヤクへ移動ですか」

ネルガルからまわされてきた資料を確認し、まあ妥当だろうと思う。
元より欧州戦での新型のデータ収集が目的だったのだから、それを果たせばカキツバタにとどまる理由はない。

「はい、本来なら……いえ、失礼」

言いかけたプロスの言葉の続きをジュンも理解していた。
本来ならもう一人、カキツバタを離れるはずの人間がいた。

――― そしていまはいない。

言葉にしてみれば単純で、しかし事実として受け止めるのはひどく重い。
思えばナデシコの初陣から火星、地球帰還、欧州戦までずっと共に戦ってきた仲間だった。
パイロットと艦橋要員では立場もまるで違うからほとんど個人的な付き合いはなかったが、それでも共有した時間のことは忘れられない。
もうその機会が失われてしまったからからこそなのか、もっと多くのことを話しておけばよかったと思う。
それはきっと彼女に対してだけでなく、他の失われた者たちのことを思い出すたびにそう思うのだろう。
死んでいった者だけではない。 絆を断つのは死別だけではない。
それは ―――

「艦長、お話中失礼します」

プロスと話しながらも別のことを考えていたジュンは副長の言葉で現実に引き戻された。
ちらりとプロスを伺うと、「えい、もう終わりましたから」といって場を離れる。

「宇宙軍より当艦へ移籍になる部隊が到着いたしました。
 物資の搬入と機体の移管手続きはこちらで行いますが、後ほど艦長にご挨拶に伺うと」

「ああ、わかった。 頼むよ」

敬礼して退出する副長に答礼して答える。

「ほお、戦力の補充ですか」

「テンカワとヤマダが抜けますからね」

「ははっ、いや申し訳ありません。
 しかし、お二人ともネルガルの社員ですので」

「ええ、わかっていますよ」

そうプロスに答えながらもジュンには一抹の寂寥感があった。
シャクヤクの就役にあわせてかつてのナデシコクルーが集まりつつある。
火星で失われた十数名と、他にも様々な理由で乗艦を拒否した28名を除くほとんどのクルーだ。
新規に補充されるクルーもいるが、それは最低限に止められるだろう。
艦長は初代ナデシコと同じミスマル・ユリカ。オペレーターにはホシノ・ルリ、操舵手にミナト、通信士にメグミなど
艦の中枢を担う艦橋要員に変化はない。

――― ただ、そこに僕の居場所はない。

わかっていることだ。 自分でそうと決めたことだ。
いまのジュンはカキツバタの艦長であり、ナデシコの副長ではない。
そして任官を放り出してまでユリカを追いかけたあのころの自分ではない。
特例に近いとは言え……いや、だからこそ連合宇宙軍少佐を拝命し、
本来なら大佐相当が勤めるはずの戦艦の艦長職にあるジュンに新米少尉のような軽率な真似はできない。
思えばあの頃の自分があんな思い切った行動に出られたのも何もなかったからだ。
士官学校を卒業し、未来の士官として希望と義務感を抱いてはいたが、それは未来しかなかったからだ。
年をとると保守的になると言うが、それは少し違うと思う。
捨てられないほどのものを得るためには時間を費やさねばならず、そうしてまで得たものは捨てがたい。
だから人は保守的になるのだと思う。
いまのジュンは捨てるにはあまりに多くのものを得すぎている。
それは嬉しくもあり、同時に柵ともなることを考えて憂鬱にもなる。
その代表たるものがこの艦長職だった。
ほんとうにユリカはよくこの重責に耐えられたものだと思う。
いや、彼女の場合はあまり深く考えていなかっただけかもしれないが。

……考えすぎだな。

そう考えてしまうこと自体が考えすぎ以外の何物でもないのだが、ジュンはそっと嘆息した。
気分転換にと艦橋の窓へと視線を移すと、そこにはカキツバタによく似た艦橋が見える。

――― ナデシコ級4番艦<シャクヤク>

ナデシコのコンセプトを一番まっとうに受け継いでいると言う意味ではナデシコの準同型艦といえる。
同じナデシコ級でも2番艦<コスモス>や3番艦<カキツバタ>は毛色が違いすぎた。
1番艦のナデシコは相転移エンジン、グラビティブラスト、ディストーションフィールドといった3種の神器の実験艦であり、
その未知の装備を使いこなすためにオモイカネとマシンチャイルドを組み合わせた艦だった。
システムとしては未完成もいいところで、とりあえずあるものをくっつけてみましたという泥臭い艦だった。
完成度という点ではナデシコの運用データをフィードバックして弱点を補い、余計な部分を切り捨ててコンパクト化したカキツバタの方が上だ。
しかし、それ故にカキツバタは冗長性や柔軟性というものを失っていた。 隙がない設計と言えばそうなのだが、同時に手を加える余地もなくなっていた。
本来が実験艦であるナデシコ級でそれはいかがなものだろうという意見もあり、初心に帰ってシステムに冗長性を持たせた設計を取り込んだのがシャクヤクだった。
その艦影はパッと見ではナデシコと見間違いそうなほどよく似ている。
同級艦なのだから当たり前と言われればそうなのだが、基本的にナデシコ級は同級であっても同型艦は存在しない。
新型装備の運用試験のための試行錯誤の最中であり、改良や設計変更は日常茶飯事だからだ。

シャクヤクもナデシコの準同型艦ではあるが、やはり中身は別物に近い。
具体的にはシステム面でオペレーターシートが増設され、副オペレータ席が設けられた。
クルスク戦のおりにルリが敵のハッキング攻撃で意識不明に陥ってその間は艦の運用に大きな支障をきたしたためだ。
ただ、普通の人間にルリの代わりはとても勤まらない。 つまり、それはルリ以外のマシンチャイルドの存在を暗示していた。
ジュンもいまさらネルガルがマシンチャイルドを確保していることに驚きはしないが、一抹の不審は抱いていた。
副オペレータはルリよりもさらに年若い可能性があるからだ。
もしルリと同等か少し劣る能力を持ち合わせたマシンチャイルドの大人がいるならルリを無理してナデシコに乗せることはなかった。
居なかったからこそ11歳の少女を戦闘艦に乗せたのだ。
なら副オペレーターはどんな人物かという話になるが、ナデシコクルーの基準が性格はともかく能力は一流であることを考えるなら、
ルリより極端に能力が劣るということはあるまい。 それではそもそも副オペレータをおく意味がない。
と同時に上の推論から大人ということはないと推測される。
ならばルリとほぼ同等の能力を持つ子供ということが予想できる。
まあ、ルリよりさらに性格に問題がある大人という可能性もあるが、マシンチャイルドの成功例はルリが初だったろうし、
そうなればルリより年下という可能性はさらに高くなる。
その辺をプロスに問い詰めてみたが、守秘義務がありまして、などとのらりくらりとかわされた。
つまり『部外者』であるジュンに話すつもりはないのだ。

ジュンは目を伏せることでその懐かしさを感じさせる艦影と、そこから否応なく連想される女性の姿を視界から追い出した。
どうしようもなく道は別たれてしまったのだといまさらのように確認したのだった。

○ ● ○ ● ○ ●


別離といっても様々な形があるものだ。
ヤマダ・ジロウとカキツバタとの別れは実にあっさりしたものだった。
パイロット連中が中心になってささやかな送別会を開いてくれたが主賓がヤマダ一人ではいまいち派手に騒ぐわけにもいかず、
アルコールの類に弱いこともあって彼は早々に欧州の猛者たちに潰されて気がつけば朝だった。

荷物をまとめてあったので、あとはシャクヤクに正式配属となるまでの仮住まいとなるホテルに送ればいいだけだったが、
そこでいくつかの問題が生じた。
1つは半ば強引に……他にどうしようもないという理由から月まで連れてきた九十九の存在。
それに本来なら同じくシャクヤクへ移るはずだったイツキの荷物だった。

九十九は『ヨコスカ基地攻撃の余波で泊まっていたホテルから焼け出された兄』というかなり苦しい嘘で通していた。
それが通じたのはひとえに襲撃の混乱から一刻も早くクルーを安全圏へ退避させたいネルガルの思惑があり、
ここでヤマダに妙にごねられるのも面倒だと判断して深く追求されなかったからだ。
また、まさか木星蜥蜴の正体が人間だとはカケラほども想像していないためにチェックが甘かったこと、
九十九の正体を知るユリカやルリがここで九十九を置き去りにして妙な方向に話を進めるよりは
意図は知れないがヤマダの嘘にのってせめて監視できる位置においておこうとこっそり手を回したからだっだ。
そんないくつかの幸運に助けられて九十九のほうは何とかなったものの、問題はもう一つの方だ。

「MIAだから荷物は取っておいてもいいけれど」

そう言って黒髪を適当にかきながらオオサキ・マコトはヤマダを見る。
ハーフということもあり東洋人のきめ細かな肌とアフリカ系のくっきりした目鼻立ちの双方を
絶妙にブレンドされた美貌の持ち主なのだが、戦場生活のせいかはたまた男親に育てられたせいなのか、
性格は大雑把にすぎる上に人をからかうことに生きがいを覚えている節もあり、
彼女に関しては恋人としてよりも友人としてのほうが付き合いやすいだろうという評価が大半を占めている。
これでも若くして中尉の階級にあり、現在はカキツバタ所属のエステバリス中隊の中隊長を務めている逸材だった。
その逸材があからさまに困ったという表情を見せているのはイツキの私物に関することだ。

MIA(作戦中行方不明)となっているイツキの私物は勝手に処分できない。
戦死と認定されるには1ヶ月待って申請しなければならないのだが、それまでカキツバタに置いておくわけにもいかない。
生存の可能性は……はっきり言ってマコトは信じていなかった。
冷酷とも取れるかもしれないが、欧州では5分前まで一緒に食事をしていた仲間が断末魔の叫びと共に四散する光景を幾度となく見てきた。
希望的観測は判断を鈍らせて結果として自分だけでなく他人をも巻き込んだ最悪の事態を招くと身をもって知っている。
だからマコトは早々にイツキのことを意識の埒外にしていた。 悲嘆にくれるのもすべてはこの戦争が終わってからだ。

しかし、それとは別に規則として戦死になっていない人物の荷物をどうするかと言う問題はある。
彼女個人としては処分して問題ないと思うのだが「たぶん死んでるから捨てちゃいましょう」と言えるほど空気を読めないわけでもない。
特にここ最近のヤマダの様子は周囲が見ていて痛々しいほどだった。
いつもと変わらないように馬鹿でかい声で騒いでつっこまれたりしているかと思えば、ふとしたときに誰かを探すような視線を周囲に向けている。
冗談を言い合っているときもふとした弾みに「いや、本当だって。 なあイツ……」などとイツキに思わず相槌を求めたりして慌ててごまかす。

明らかに重症だ。
これで同じ部隊なら戦死する前に後方に下げて休養をとらせるか、ひたすら考える暇もないほど仕事を与えるかするところだが、
ヤマダはこれからシャクヤクへ移るのであり、もはやそうなればマコトのどうこうできる問題ではない。
せめて向こうのクルーが適切な対処をしてくれるように祈るばかりだ。

「どうせなら君が持っていくか?」

さすがに女性の荷物を ――― それこそ下着類まである私物のまとめを男性クルーにやらせるわけにもいかず、
パイロット仲間であったマコトとアリサが荷物をまとめたのだが、それをどうするかが問題になった。
ふつうならとっておくか、それが不可能なら家族のもとへ送るかするのだが、調べた限りイツキに血縁はない。
火星の孤児支援施設で育ったらしいことまでは知れたが、その施設も火星が占領されている現状では連絡しようもない。
そこに居たはずの人々もとっくに脱出したか、戦火に飲まれるかしただろう。
そしてとっておくのは無理だ。
イツキはシャクヤクへ移る予定になっており、それにあわせてカキツバタも新しいクルーを迎え入れることになっている。
この部屋も新着のパイロットにあてがわれることになっており、いつまでもイツキの荷物を置いておくわけにはいかない。
それならいっそヤマダに持っていってもらおうかということで先の発言につながる。

「もとより私物は多くないからね。
 そっちのダンボールには秘密の薄布が入っているわけだが ――― なに、一枚くらいくすねて若いリビドーをぶつけても
 こっそり返しておけばきっとばれないと思うが、どうよ?」

「 ―――――― 」

しかし、ヤマダはノーリアクション。
ジッと積まれた荷物から視線を動かさないままだ。
これは本当に重症だと思いつつ、右手で頭を叩く。

「……ってぇ」

「ほれ、持って行くなら早くしないか」

「ああ、すまねえ」

「上陸許可が出ているからね。
 せっかくの休暇をムダにしたくない」

「悪かったよ。 すぐに持ってくさ」

そういいながら荷物を運び出すヤマダを見ながらマコトは何事かを思案するのだった。


その結果がヤマダの前にある。

「たまにはお姉さんに付き合うのも悪くないでしょ?」

そう言って艶やかに微笑むのは元ナデシコ操舵士のハルカ・ミナトだ。
その横ではこの微妙すぎる状況を作り出したマコトが我関せずとばかりに紅茶をすすっている。

「いや、なんでミナトさんが?」

「んー、ちょっと退屈してたから、かな?」

それがとってつけた理由であることは容易に理解できた。
本当はマコトがヤマダを何とかしようと思い、まずナデシコを良く知るジュンを捕まえて相談できそうな相手を聞いた。
ジュンとしてもヤマダのことは気になっていたらしく、それならハルカ・ミナトかウリバタケ・セイヤがいいとアドバイスしたのだ。
ウリバタケは普段がアレげでアレなのだが、きっちり締めるべきところは締める大人の男だ。
若いクルーが多い中で彼は自然と一目置かれる存在であった。(もっとも本人は「俺はまだ若い」と主張しているが)
最初はマコトもウリバタケを訪ねたのだが、生憎と彼はサレナの調整でネルガルの研究所にこもりきりだった。
仕方なく次にミナトの元を訪ねて事情を説明すると、彼女は「気分転換に外に連れ出しましょうか」と提案してきたのだった。
あとは渋るヤマダを強引に引っ張ってきたわけだが ―――

……なんとも微笑ましい光景じゃないか

ヤマダともう一人、たしか彼の兄だという男は揃って女性に対する免疫がないようだ。
ヤマダのほうはイツキに対する態度やその他からもわかっていたことだが、
なんというか女性に対する視点が男だらけの熱血漫画の主人公そのものだった。
泥臭く汗臭い上にヒロインとの恋愛は一要素(しかもさして重要でない)であり主なテーマでない。
それが突然少女マンガの世界に放り込まれたらこんな感じだろうかと思う。

「んー、ヤマダ君は知ってるけど、お兄さんと会うのははじめてですよね?」

「ははは、はい。 その通りであります」

「ふふっ、ハルカ・ミナトです」

「じ、自分は白鳥九十九で……」

「……シラトリ?」

ヤマダではないのか、という疑問を込めたのだが、
その答えは本人ではなく弟(自称)の方からきた。

「いや、兄貴のヤマダ・イチロウは世を忍ぶ仮の名前!
 シラトリ・ツクモこそが真の名前! そう魂の名とでも ――― !」

「あははは……そうなんだ」

「そう、そうなんです。 ははははっ」

ようするにヤマダ・ジロウがダイゴウジ・ガイというのと同じらしい。
ガイよりもスマートな印象を受ける名前だが、確かに本人の雰囲気に合っていると思う。
乾いた笑いを返しながらミナトはそう納得した。

「だから兄貴のことはシラトリ・ツクモと呼んでやってくれ」

「んー、ヤマダ君にそのお兄さんって呼び方も変だし、
 あだ名みたいなものって考えればそうね」

「いや、俺のほうもダイゴウジ・ガイ……」

「さて、休憩もこれくらいでいいだろう、諸君?」

ヤマダの言葉を遮り、まるで戦闘の再開を指揮する士官のような口調で告げるマコト。
実際、彼女にとってそれは戦闘行為にほかならない。
また、仮初の兄弟を演じている2人の男にとっては苦行という意味では戦闘と同じだった。
しかも敵はかなり手ごわい。

――― ウインドウショッピング

男にとってはおおよそ理解しがたいが、女性と言う生き物はこれで何時間でも潰せるという。
そしてその過程において必然的に発生する戦果は同時に機動力と体力を削ぐことになるが、
それさえも彼女らはこのときばかりは素直に従者のごとく従う男たちに任せることで自身の消耗を極少化するという戦術を取る。
適材適所による役割分担は物事を効率的に行う上で必須のもの。
それが一般的に女性より体力があるとされる男性にまわってくるのは必然の理。
戦果に満足しつつも彼女らは見敵必殺の勢いで次の戦場へ……

それにつき合わされているヤマダはたまったものではない。
なんとなく単にマコトが適当な理由をつけて遊びたいだけなんじゃないかということも思ったが、
部屋に居ても九十九と無言で向き合いながら険悪な空気を醸造するだけなので誘いにのったのだ。

「あんたミナトさんと違って自分で荷物持っても平気だろ!?」

パイロットとはいえ陸軍軍人の体力をなめてはいけない。
歩兵ほどではないがそれでもけっこうな重量の荷物を背負っての行軍訓練や、
撃墜されて救助を待つ間のサバイバル訓練など一通りは受けている。
下手をしなくてもナデシコでのほほんとやっていた自分より基礎体力はあるのではないか。
しかし、マコトは平然と

「様式美というやつだな」

と言って取り合わない。
ミナトの方は元々量が多くない上に九十九が率先して荷物持ちをしている。
木連の人間の気風と言う奴なのだろうかとヤマダは思いつつ、
ミナトに声をかけられるたび、赤くなってどもりながらも背筋を伸ばして生真面目に受け答えしている九十九を見やる。

いつまでもこうしているわけにはいかない。
九十九は紛れもなくヤマダにとっての敵であるのだ。
そしてイツキを失う直接の原因ともなった。

――― なら、恨めるのか?

憎んで、恨んで……それでまた殺すのか?
欧州で自分は万葉の仲間を殺したという。
だが、それを肯定するのは万葉の言葉しかない。
人を殺すことを戦争なのだからと言われて納得できるはずがない。
今でもそう思っている。
しかし、実際にお前が殺したのだと言われても実感がない。
少しは分かり合えたかもしれないと思っていた相手から憎悪の眼差しを向けられたことにショックはある。
逆を言えばそれだけだ。 殺人と言う禁忌を犯したというショックは最初だけだった。
万葉の眼差しと言葉は忘れられないが、ヤマダは自身が殺した相手の名前さえも知らないのだ。

また、万葉と同じように仲間を失った今、その仇が目の前に居る。
ならば万葉がそうしたようにイツキを殺した九十九を恨めるのか?
答えはまだはっきりとは出ていない……しかし、否に近いように思える。
自分は薄情なのかと思うが、イツキのことを思うと
やはりどうしようもなく暗い思いがのしかかってくるのを自覚した。

ある意味でヤマダ・ジロウと言う男は実直にすぎた。
ゲキガンガーのように単純な勧善懲悪ならわかりやすかっただろう。
しかし、九十九は善人だった。 どこからどう見ても人のいい青年だった。
敵が悪なら倒せばいい。 では、敵が善であったら?
その答えは容易に出るものでない。
実直にすぎるヤマダはゆえに感情に任せて「あいつが悪い」と思い込むことはできなかった。
あるいは割り切ってしまえばよかったのかもしれない。
だが、彼は誰よりも正義に真っ直ぐであったゆえに現実の矛盾に苦しんでいる。

――― それが後の悲劇につながることを知ることなく。

「また考えごとかい?」

マコトの声で現実に引き戻される。

「このところ呆けてるようだな」

「いや、別に……」

誤魔化そうとするが、口下手なのが災いして上手く言葉が出ない。
それにマコトの言葉も事実であるので反論しようがなかった。

「忘れろとは言わないが、それだと近いうちに死ぬぞ」

その口調の酷薄さに思わず苦笑いを引っ込める。
マコトはいつの間にか欧州で見たような地獄の戦場をくぐってきた兵士の顔をしている。

「自分はそれで楽になるかもしれないが、次は仲間が君と同じことになる」

「……わかってるさ」

そう言うが、その言葉に力はない。

「私は嘆くのも、恨むのも、悲しむのも、怒るのもすべて生き残ってからにしようと思っている」

ついっとマコトは視線をショーウインドウに向けるが、中のドレスを見ているわけでないのは明白だった。
なんとなく居心地の悪さを感じてヤマダも視線をさ迷わせ……それが一点で止まった。

「そんな ――― 」

それは向かいの店のショーウンド。

「わりい。 ちょっと用事ができた」

言うなり荷物をマコトに押し付けて走り出す。
ちらりと左右を確認しただけで道路を全力疾走で渡り、いま見たものを逃すまいとショーウインドウに駆け寄る。
直接見たたわけでなく、ガラスの反射で映りこんだ像だったため、鮮明ではなかった。
もしかしたら幻覚か錯覚だったのかもしれない。
角度を考えて周囲を確認する。
何度も、見落としのないように何度も。

「あれか!」

ガラスに映っていたのと同じ風景。
しかしそこに求めた影はない。
それでもと駆け寄る。

「くそっ、さっきは ――― 」

せわしなく周囲に視線をおくる。
わずかな痕跡、影の端でも捉えようとして……

「居たッ!」

果たしてそれは幻覚か、それとも超常現象的なものか。
どれであろうと構わない。

「 ――― イツキ!」

路地の奥、曲がり角を進む彼女は確かにこちらを見た。
そしてわずかに微笑んだ。
錯覚かもしれないが。
それでも確かめずには居られない。

ようやく我を取り戻したマコトが追いかけてくる頃には
ヤマダ・ジロウの姿は大通りのどこにもなかった。

○ ● ○ ● ○ ●


こちらに向かって走ってきたときは尾行がばれたかと肝を冷やしたが、
どうやらそうではなかったらしく男は何事か叫びながら別の方角へ走っていった。
2人は路地に設けられたゴミ箱の陰から這い出すと、対象を見失ってないことを確認して安堵のため息を吐いた。

「いや、さすがにいまのは危なかったね」

「まったくだ」

大き目の帽子とマフラーで顔を隠すようにしているが、声は若い女のものだった。
また、隠すといっても人相をわかりにくくする程度のもので、完全に隠していたらかえって怪しまれてしまう。

「私はあいつに顔を知られているからな」

「まさかこんな所で会うとも思わないから仕方ないよ」

玉百華のフォローにすまない、と返しつつ御剣万葉は男 ――― ヤマダの走っていた方向を確認する。
どうやら戻ってくる様子はない。

「舞歌様からは様子を確認するだけでいいっていわれてるけど、どうする?」

「 ――― もう少し観察しよう」

少し考えて万葉は答える。
ナデシコの動きを追っている過程で九十九のことを知れたのはいくつかの幸運があってのことだ。
ヨコスカ基地でテツジンが撃破されてから消息不明のまま、生存は絶望視されていただけにこの吉報は喜ばれた。
特に婚約者でもある各務千沙の喜びようはこちらまで嬉しくなるほどだった。
だが、

「いまの少佐の姿はとても千沙には見せられん」

「血を見るね」

よりによって地球人の女と何をしているのかと小一時間ほど問い詰めたいが、
いまのところ九十九と接触する機会は得られていない。
舞歌は救出作戦も考えているようだが、そのために本来の作戦を暴露するわけにはいかず、
そのためとりあえず監視するしかないということで2人が割り当てられていた。
万葉はいざとなれば跳躍で脱出できるという強みがあるし、百華もこの手の任務は得意とするところだ。

「もう一人が戻ってきたよ」

「面倒だな」

ヤマダが居ないために隠れる必要はなくなったが、九十九が一人にならないと接触できない。
せめてこちらの存在を知らせないと動きようもない。

――― 3日後の作戦決行までに何とかしなければ。

2人の尾行は途中でナンパされてそれを断るのに時間をとられて九十九を見失うまで続けられた。

○ ● ○ ● ○ ●


別れはここにも存在した。
少年からその言葉を伝えられたアキトはただ頷いて了承を示した。
ひとつはハリの淡々とした口調からその決意のほどがうかがい知れたこと。
そしてテツヤとの会話からハリに選択の幅がほとんどないと知っていたからだった。
ハリの両親は戦略情報軍に『容疑者』として拘束されたままだ。
調書を取っている最中だというが、それが単なる時間稼ぎの名目に過ぎないことは明らかだった。
ハリの返答如何で戦略情報軍はハリの養父母を国際法廷に訴えるか、もみ消して無罪放免とするかを決めるだろう。

また、ひとつはアキトにはハリを連れて行く大義名分がなかったこと。
逆にAGIにはその大義名分があったことだ。
『母親』であるフィリス・クロフォードの存在がそれだ。
無論、フィリスには打算的な意志などないだろう。
彼女は純粋に自分の子供を捜していただけなのだから。

だが、彼女個人の意志がそのままAGIの総意ととるわけにはいくまい。
会長のガーネットはしたたかだ。
AGIは戦略情報軍との関係もある一方で表向きは民間企業でもある。
電子情報戦を担当するといっても予算や人員は限られているはずだ。
その中で表向きの顔でしかない企業としてのAGIをここまで成長させた手腕は確かなものだろうし、
軍の支援だけであれほどの機動兵器や大型艦船を建造できたわけではないだろう。

いや、むしろ軍の支援などほとんどなかった。
新設されたばかりの戦略情報軍は予算・人員の両方で他よりも不利でとてもそんな余裕はなかった。
でなければわざわざAGIというダミーを作ったりしない。
支援らしい支援が得られるようになったのは会戦直前からのことで、それまではあったとしても雀の涙だ。
フィリスの叔父で現第1機動艦隊司令長官であるファルアス・クロフォード中将はそれなりに配慮していたが、
開戦時まで彼は火星駐留の実験部隊に左遷同様の配置をされていただけにそれも限界があった。
AGIはともすれば使い潰しにされかねない弱小勢力だった。
それがいまやネルガルと並ぶ世界屈指の企業であり、戦略情報軍の組織にも深く食い込んでいる。
仮に戦略情報軍がAGIを潰そうとしても経済の混乱を恐れて手を出せない可能性は高い。
AGIが潰れた場合、欧州の混乱は計り知れないものとなる。
また、企業としてネルガルやクリムゾン相手に多少強引な手を使っても戦略情報軍はそれをフォローせねばならない。
現時点でAGIは戦略情報軍にとって切り離せないほど有用であるからだ。

AGIは表と裏の両方の顔を互いの保険として生存率を高めている。
そのしたたかさと狡猾さはたいしたものだと思う。
だが、それに好感を抱けるかは別だ。

ハリを止めようとするAGIの意図は容易に知れる。
ハリのオペレート能力は諜報戦にも大いに役立つはずだ。
AGIはマシンチャイルドこそ多いが、実用上十分なオペレート能力を持つのはガーネットのみ。
彼女は会長職にあるのだから四六時中情報収集ばかりしてはいられないだろう。
その点で完全にフリーハンドで使えるマシンチャイルドを確保しておくのは重要だ。
ならラピスでもかまわないだろうが、ラピスは頑なにそれを拒否するだろうし、
本人に拒否されては大義名分にも疑問符がついてしまう。
その点でハリは残ることを拒む可能性は低い。
両方確保できればそれに越したことはないだろうが、それはさすがにネルガルが拒むだろう。

アキトは許可を得てプロスに連絡を取った。
その時点でなぜ欧州にいるのかなどの言い訳(というか誤魔化し)を必死に考えていたのだが、
プロスから伝えられたのはシャトルで一足先に月へ向かうのでアキトもあとから来て欲しいということだけだった。
あまりにあっさりした態度だったが「こちらもそちら同様にごたごたしておりまして」という言葉で理解した。
「こちら」はネルガル、では「そちら」の意味は考えるまでもない。 AGIと戦略情報軍のことだ。
その方面からネルガルにも圧力がかかったのだろう。
もとよりネルガルにもラピスとハリを呼び寄せる計画はあったようだ。
おそらくはそれを察知した木連が移送前に奪取しようとしたんだろう。
この時期に2人を動かすなら月で建造中のシャクヤクに乗せるためのはずだ。
が、この一件で2人ともというのは無理になった。
ネルガルとしても最低限どちらかは確保する必要がある。
ならば成績の良かったラピスを……ということだろう。
両者の思惑がそんな妥協点を見出した結果、ハリはAGIへの残留が決まった。

異論がないわけではない。
少年を利用するだけのAGIにもネルガルにも思うところはある。
が、それを打開する手段がない。

――― 俺は弱い。

たとえ千の敵を討ち果たせたとしても意味がないことだってある。
個人にできることは限られていると知ってはいたが、改めてそのことを実感した。

「……テンカワさんは強いですね」

だが、ハリの口からもれたのはそんな言葉だった。
アキトが違う、と言う前にハリは言葉を続ける。

「僕は、何もできなくって……それが悔しくって。
 ただ怖くて震えてたんです」

「それは ――― 」

仕方ないことだというのは簡単だ。
しかし、それが通じない場合もあることをアキトは知っていた。
はじめて北辰と相対した時、アキトはまったく無力だった。
なす術もなく打ち倒され、ユリカとともに火星の後継者の実験台にされた。
アキトは成り行きでパイロットをやっていただけ。
本職の軍人ですらないコックの青年が生身の格闘戦で訓練をつんだ暗殺者に敵うはずもない。
敵は複数人、ジャンプは使えず、こちらは素手に対して相手は武器を持っていた。

――― どうしようもなかった。 あの時は仕方なかった。

何度その言葉を繰り返し、そのたびに否定してきただろう。
「仕方がなかった」で誤魔化せるほどそれは軽いものではない。
だから、アキトにはハリの気持ちがわかった。
だから言いかけた言葉を飲み込んだ。

「いま、僕がルリさんに会っても甘えちゃうんだと思います。
 何もできないまま、弱いままで」

怪我をしていた手のひらに巻かれた包帯をじっと凝視しながらハリは言う。
それは自分にも言い聞かせるような口調だった。

「それじゃあ、ダメだと思うんです。
 上手くいえませんけど、僕なりに考えてみて……それで」

視線を上げたハリと目が合う。
真っ直ぐな眼差しだ。
羨ましいくらいに、まっすぐな。

アキトは少しの羨望をもってそれをを受け止めた。
世の中の醜く汚い部分を知ってなおそんな眼差しを他人に向けられるハリの少年らしい実直さが眩しかった。
もう自分はこんな眼差しを誰かに向けることはないだろう。
すべてに純粋であるにはあまりに闇を覗き込みすぎた。
深淵を覗き込む者は、また同時に深淵からも見られているということを心せよと言う。
まったくその通りだとアキトは思う。
いつしか北辰という闇の存在を倒すために自らも復讐鬼に成り下がっていた自分。
血にまみれた手を血で洗い流す日々。
この手にかけた無辜の人々。 この手にかけた数多の罪人。
人体実験という地獄で失われた人々の怨嗟の声。
そのすべてによって黒く染まった自分。

何度か繰り返される時間の中、アキトは気付いていた。
たとえ過去に戻ったとしても決して取り戻せないものがあると。
過去を変えても自分の中の過去の記憶は決して消えることはない。
それは今もそしてこれから先もアキトを苛み続けるだろう。

だが、目の前の少年にはそれがない。
何もないというのはそういうことだ。
血反吐を吐いて手に入れた力がない。
砕けぬほど強い妄執に取り付かれた心がない。

それはきっとこれから手に入れるのだろう。
少年は知ってしまったのだから。
深淵を、覗き込むことを。

「それで、僕は ――― ここで頑張ってみようって思ったんです」

その表情は暗く、それでもしっかりとハリは言った。
だからアキトもそれを受け入れた。
ハリの言うことが理由のすべてではないことは容易にわかる。
大人たちの思惑と都合に翻弄されていることも承知している。
それでも、ハリはそう決めたなら……

「……わからない」

「ラピス?」

「ワタシ……わからない」

ギュッと手を握っていたラピスの消えるような声だった。
アキトは意外な反応にラピスを凝視するが、ラピスは俯いたままだ。

「ハーリーはそれでいいの?
 ルリに会いたいんじゃないの?」

ルリの名前にハリはあからさまに動揺したようだった。
いっぺんに血液が集中して顔に赤みが増す。

「僕はそんなこと言ってないよ」

「ウソ。 ルリさん、ルリさんっていっつも言ってたじゃない」

「言ってないってば! ラピスこそア……」

「ワタシはいいの!」

理不尽な一言でハリの反論は途中で砕かれた。

「なんで残るの? いいじゃない、ナデシコに行ったって」

「いや、それは……」

アキトがどう説明したものかと口を開きかけるが、ラピスは気に留めることなく続けた。
今まで黙って聞いていた分だけたまっていた鬱憤を晴らすように、
それこそ堰を切ったような勢いでだ。

「バカ! 意気地なし!
 ハーリーが弱虫なんてワタシはずっと知ってたんだから!
 いまさらちょっと頑張ってみようなんて無理なの!」

「な ――― 」

さすがにこういった展開は予想していなかったハリとアキトは揃ってぽかんとしてしまう。

「ななな、なんだよ、それ!」

ハリのもっともな言葉も、しかし無視。

「だったら一緒に来ればいいじゃない!
 ルリだっているじゃない」

「そういう問題じゃないよ!」

もっともだ、とアキトも思うのだが、ラピスは納得しない。

「ラピスはいいよ。 ユーチャリスを動かしてた経験があるんだから、きっと他でも上手くいくよ。
 でも、僕はナデシコBのオペレータ経験しかないんだよ?
 実戦なんてほとんど経験ないし。 これじゃあ、ルリさんの足手まといになるだけなんだよ」

「……やっぱりルリじゃない」

「やっぱりって何さ? とにかく僕は残るって決めたんだから、もういいよ」

「よくない!」

「なんでさ!?」

叫んで、テーブル越しににらみ合い……しかしようやく顔を上げたラピスの双眸に涙が浮かんでいるのに気付いた
ハリは予想外の展開にたじろいでしまう。

「ずっと……ずっと2人で頑張ってきたじゃない!
 なのになんでもういいなんて言うの!?」

「ラピ ――― 」

「ワタシはよくないよ! なのに……ずるいよ。
 ハーリーばっかりぜんぶわかったみたいな顔して、もういいなんて!
 イヤだよ。 寂しいよ、ハーリー! 一緒じゃなきゃヤダよ。
 一人で待つのは寂しいよ。 一緒に行こうよ、ハーリーィ」

しばらく混乱する頭で泣きじゃくるラピスと、そのラピスからいわれた言葉を必死に理解しようとしていたが、
不意にすべて納得がいく。

――― ラピスは一人でも大丈夫なんてことはないんだ。

考えてみればラピスもハリと同い年だ。
ずっとアキトと2人で戦ってきたとはいえ、精神は10歳そこそこの少女だ。
出会った当初は頑なで、無表情で ――― それでもだんだん仲良くなって。
そう、2人はこちらの世界に来てからの長い時間を共有していた。
ハリはあまり気に留めていなかったが、ラピスにとっては同い年の子供と一緒に過ごすはじめての時間だった。
それはハリが思うよりも ――― 同時にラピスが思っていたよりずっと大切なものになっていた。
ルリが〜と言っていたのはラピスの照れ隠しに他ならない。
素直にワタシが寂しいから一緒に来てと言えるような性格でもなかった。
それで先の言い合いになったのだが。

「 ――― ごめん。 でも、もう決めたんだ」

やはり決意を翻すことはない。
捕らわれている両親のこともある。
これがハリ個人の問題だけにとどまらないことは了解していた。
ラピスになんと言われようともAGIへの残留は変えられない。

「でも」

とハリのほうも知らずに涙で歪んでいた瞳をラピスに向ける。

「会いに行くから。
 きっと、ずっとラピスは友達だから。
 だから、必ず会いに行くから」

どうやって、ということも考えずにハリはそう告げた。
ここで別れればラピスはアキト共にシャクヤクに乗ることになる。
そうしたら……会うのは困難になるはずだ。
常に戦いの最前線にある戦艦、しかもAGIと対立するネルガルの戦艦だ。
ネルガルが許可してもAGIが虎の子のハリを敵地へほいほいと送り出すはずもない。
逆にAGIが望んでもネルガルは機密保持を理由に断るだろう。
マシンチャイルドにかかればシャクヤクのコンピュータから内部資料を持ち出すことくらいわけはない。

それでもハリは約束しようと思った。
必ず、会いに行くと。
それから……

「ラピスも会いに来てよ。
 ここには、ラピスの……妹も居るんだし」

僕の妹でもあるわけだけど、と付け加えてハリは反応を待った。
ラピスは服の袖でごしごしと乱暴に顔を拭うと、いつものようにやや強気を感じさせる声で応じた。

「わかった」

「うん」

「でも……」

「なに?」

「約束、破ったら許さないから」

「ははは、肝に銘じておくよ」

本当に恐ろしい目にあいそうな気がしてハリは乾いた笑いを返した。
その約束が果たされるのはハリが予想したように簡単ではなかったが、
悲観するほど遠い未来でもなかった。
それを2人が知るのはまだ先のことだ。
いまはただ別離があるのみだった。

それぞれに別たれた道はいくつかの交差を経て再び月に収束する。
ガーネットと共に月へ向かうシャトルに乗り込んだアキトたちはそのことを知るはずもなく、
ただ惜別の思いをそれぞれに抱くのみだった。




<続く>






あとがき:

ラピスはツンデレ(挨拶)。

ツンデレ、というものにも種類があるらしいです。

1.普段はツン、2人きりのときはデレ
2.初対面からしばらくはツン、何かのきっかけで一気にデレ
3.外面はツン、内面はデレ

詳細に関しては「ツンデレ」でググるといろんな解説が出てくるので割愛。
しかしこれのポイントはツンとデレのギャップにあると思います。

つまり物語も同様に平坦だと盛り上がりに欠けるということです。
デレばっかりだと主人公がピンチにもならないヌルイ話に、
ツンばかりだとダーク系とか欝系の話になってしまいます。

緩急つけるという意味では前半ほのぼの、後半ダークというパターンもありますが、
それは某ベルセルクの『蝕』のごとく読者へのダメージもでかい諸刃の剣。 素人には(以下略)
なので私は前半きつめでも最後はハッピーエンドが王道ながら好きです。
そうです「ツンデレ」なのです。
つまり、

「ツンデレっ娘と共に生き、ツンデレっ娘と共に死すッ!今更なんのためらいがあろうッ!」


それでは次回また。



 

 

 

 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

ぬう・・・・イツキ? それともアザミ?

さすがにガイの幻覚なんて事はないとは思いますが・・・・・うーむ。

それはさておき、ハーリー君男の旅立ち。格好いいぞ。

こーゆーの見てるとついつい少年少女に幸あらんことを、なんて思ったりしちゃいますね。

・・・歳かな(爆)。