郵便ポストは、どの部屋のドアにも取り付けられているが、使われる事は滅多にない。

 このネルガル月面支部の地下階層は、最下層の非常用ドックが必要となる場合にのみ、整備員やその他の職員達が仮住まいするためのスペースであると公式データには登録されている。当然、本来は無人のはずだ。そんなところに配達人が郵便を届けに来る事などないし、住人同士の手紙のやり取りもコミュニケのメール機能で事足りる。故にこの階層の住人の大部分にとって、個人部屋のポストなど無用の長物でしかない。

 しかし、そんな中でかろうじてポストを有効に活用している人物がいる。その人物に、ラピス・ラズリは一度そのことを訊ねてみたことがあった。ラピスという少女が、そのようなことをするのは至極珍しい。しかし「知りたいと思うことは良い事だ」というその人物の言葉が、彼女に己の好奇心を発揮する気にさせたのだろう。

「紙の手紙が時々届く。紙のほうが便利な時もあるのさ。燃やせば済むだろう?」

 だが、彼はそうとしか答えなかった。

 そして、今日。

 ラピスは同居人不在中に、玄関のポストに一枚の封筒が入っているのを発見する。蓋を開けて取り出し、手に取ってみた。封筒自体は別に珍しいものでもなく、市販で最も大量に普及されている茶封筒だ。紙を折りたたんで入れる、細長いタイプである。しかし、封筒の口のところがしっかりと糊付けされている。この状態では、その糊の粘着力の強さゆえに、封筒を破る以外に開封する方法はない。だから一度破ってしまえば、当然のことながら偽装工作は不可能になってしまう。以前にも一度こういう封筒が部屋に届いた事があったが、その時、少女の同居人は決してその中身を見せようとはしなかった。もう夕方になるというのに、その同居人はちっとも帰って来ない。ラピスはしばし迷い・・・結局、手紙をポストに戻すことにした。

 そしてその瞬間。

「ただいま」

 そう、ドアの向こうから声がしたような気がした。

 だが、それは気のせいでは在り得ない。急に開かれたドアから同居人が現われ、ラピスの肩を大きく上下させる。

「どうしかしたか?」

 黒ずくめの青年は、ラピスの挙動に不審そうな眼差し(といっても、バイザーで隠されているが)を向ける。自然と、その手に握られている封筒が視界に入った。

「手紙、届いてたのか」

 ラピスは頷いた。そっと青年に手紙を差し出す。

「どうも」

 受け取った手紙を掲げて見せて、少女の気遣いに答えた。そのまま奥へと進み、居間のソファーに腰を下ろす。

 ラピスも後に続いた。ソファーの上の、アキトの隣のスペースに眼をやり、許可を求めるようにアキトの顔を見た。アキトは封筒に視線を固定させたまま言う。

「いちいち許しを請うなよ」

 ラピスはソファーを回り込んで、アキトの横に座った。その行動を横目で見つつ、アキトは茶封筒の口を、中身まで一緒に破らないよう、慎重に引き裂いた。ラピスは今、机の上に乗っているコップに冷水を注いでいるところだ。その隙を突いて、アキトは中身の確認をした。中にあったのは一枚の書類。折りたたまれたそれを開き、ざっと目を通す。内容を全て頭に叩き込んだらキッチンの方に移動し、ラピスからは見えない角度で焼き捨て、灰をビニール袋に捨てる。イネスが言うには、親の火遊びは教育に悪いらしい。親とは誰の事だ、と思いはしたが口にはしなかった。ラピスはラピスで、そんなアキトの方を気にもせず、水を注ぎ終わったコップをじっと見つめている。ソファーに戻ってアキトはそれを手にとり、一口飲んだ。見上げてくる、ラピス。先程の封筒と同じように、コップを掲げてみせる。

「ありがとう」

 そして飲み干したそれに、新たに水を注ぎなおし、ラピスに譲った。ラピスは、アキトと同じようにコップを持ち、アキトと全く同じ仕草で一口飲む。

 同居を始めたときに、アキトがラピスに真っ先に教えたのが食事の仕方である。何しろラピスは、食器の使い方もろくに知らなかった。コップすら例外ではない。そのことを知ったのは、同居を初めて一日目の朝食のときである。




「ほら、食べろよ」

 二週間前、同居一日目の朝食。

 テンカワ・アキトは、少女の目の前に置かれているトレイを顎でさして言った。トレイの上に乗っているのは、サンドイッチに野菜スープ、そしてジュースという組み合わせの、ありふれた献立である。この階層での食事は、基本的に大衆用食堂と、ほんの気持ちばかり高価な食事を楽しめるラウンジの二つで賄われる。アキト自身はそのどちらにも滅多に行かないし、行きたくもない。そしてラピスを一人で行かせる訳にも行かない。ゆえに人に頼んで、部屋まで簡単な朝食を一人分だけ届けてもらったのだ。

「何してるんだ? 食べろよ」

 だがいくら言っても、ラピスは動こうとしなかった。業を煮やしたテンカワ・アキトは、自らトレイの上に乗ったサンドイッチを手に取り、少女の口元に運ぶ。

「口、開けな」

 そう言われれば、すぐに口を開くのがこの少女だ。その小さな歯の間にサンドイッチの先を差し込んだ。そこから先は、命令する必要は無かった。ラピスはテンカワ・アキトが何か言う前に、自ら歯を立ててサンドイッチを噛んだ。弱々しいものではあったが、サンドイッチの柔らかいパンとサラダを食いちぎる事は出来た。そのまましばらく咀嚼し、飲み込んだ。そしてテンカワ・アキトの顔に再び視線を戻す。

「これで、いい?」と、そう訊いているのだろうか。アキトは何とも言えない表情を浮かべた。

「お前、一人で食えないのか?」

 イネスやカナリアから、命令すれば食事は取ってくれるとは聞いていたが、そういえば「ちゃんと一人で食べる」とは言っていなかった気がする。

 これでは餌付けされるペットと同類である。さて、どうするべきか。

 正直な話、アキトはあまり子供と接した記憶が無い。あると言えば七歳年下のホシノ・ルリと、火星で知り合ったアイという名の少女ぐらいである。しかし、片方は遺伝子操作で生み出された強化人間。その精神年齢は、むしろアキトよりも高かったのではないだろうか。

 もう片方はいたって普通の少女であったが、出会って三時間と経たずに生き別れになった。そのような僅かな時間では、慣れようはずも無い。

 そして、アキト自身は両親と死別してから孤児院で暮らしていたのだが、そこでなら自分より年下の子供と触れ合う機会も多々あると思われるが、実はそうでもない。

 ある一定以下の年齢の子は大抵どこか裕福な家庭に引き取られる事になっていた。これは別に規則でも法律でもなく、敢えて言うなら火星の風習とも呼べるものである。

 テラフォーミングが完遂してから一世紀以上経っていても、やはり地球人にとって火星は異国の地なのだ。その環境に適応しきれない部分もある。そのことは、移民当時の火星と地球に住む人々の平均寿命の差に、如実に現われていると言えるだろう。そしてそれゆえに、新たな生命をことさらに尊ぶ習慣が火星に広まったのである。近年から段々と平均寿命差は縮まってきているものの、その習慣が廃れる事はなかった。

 五人以上の子供を産む家庭も、火星では珍しくも無い。児童養護施設も、地球以上に発達している。それと同時に、生まれて間もない子供を孤児院で育てるよりは、自分のところで引き取ろうとする家庭もまた、後を絶たなかった。アキトの場合は、その『生まれて間もない子供』からちょうど外れた時期だったため引き取り手が現われることも無く、その孤児院における最年少として過ごす事となったのだ。

“そういえば、アイツは子守りが得意だったな”

 アキトは、孤児院の子供達の中でリーダー格だった少女のことを思い出した。別に最年長というわけでもないのに、皆から頼りにされ、同時に慕われていた。自分もその中の一人だ。

 十年以上も昔の記憶が胸の奥へ去来し、心地よい懐旧の情が吹き抜けるが、アキトはすぐにそれを追い出した。

“なにを、いまさら”

 今となっては彼女の事も、あまり良い思い出ではない。無理やり頭の中から追い出して、ラピスのことに戻る。もう、面倒見の良いその少女は居ない。自分がラピスの面倒を見なければ為らない。そう決めたのだ。自分のラピスの関係を知ったときから。

 アキトは再び、サンドイッチを手に持った。

「今からお前に食事の仕方を教える。献立によって色々な作法があるから、口で言うのは面倒臭い。だから」

 サンドイッチを齧った。そして野菜スープのスプーンですくい、口元に運んで啜った。もちろん、行儀悪く音などたてない。

「俺の真似をすればいい。これからは食事のとき、俺の動きを追いかけろ。そうすれば自然に身につく。いいか、ラピス?」

 ラピスは、そんなアキトの提案をしばし検討し、頷いた。早速、今アキトが見せたサンドイッチとスープの食べ方を真似し始める。スープを啜るときも、音はたてなかった。そして一連の動作を終えた後、またアキトの目を見る。

 これで、いいの?

 アキトは頷く。

「まぁ、上出来だ」
 



 賞賛の言葉を返したものの、当時アキトは心の底からは喜んでいなかった。自分に対する彼女の素直さが、あくまで意識的に造られたもの、『洗脳』に過ぎないと知っているからだ。イネスに言われた言葉が、嫌でも脳裏に蘇ってくる。

「彼女が何故、お風呂に入ろうとしなかったか分かる? それは貴方に、『ここで待っていろ』と言われたからよ。彼女は貴女の言った事をずっと、守ってきたの。貴女がそんな約束なんかすっかり忘れて射的やお遊戯に耽っている頃、ずっと貴女を待ちつづけていたわけ。貴方を『信頼』するがゆえに、幼すぎる彼女は貴方の言う事は何でも聞くというわけよ」

 吐き気がする事実だった。自分と少女は、ほぼ初対面なのだ。そんな二人の間に、なぜ信頼などと言うものがあるだろうか。あるはずがないのだ。それは時間をかけて作り上げるものだから。なのに、偽りの記憶を刷り込まされた彼女には、強制的に自分に対する想いを持たされている。そして、この世界の事を何も知らない彼女にとっては、今のところ自分だけが唯一信じる事が出来る存在なのだ。

“そんなことで、どうする。俺だけを信じてどうする”

 アキトはラピスに世界を見せようと思った。

 その一環が食事の作法である。最初の朝食でアキトがラピスに語ったのはたった一つ。「俺の真似をすればいい」。

 以来、ラピスは食事中、常にアキトのトレースするようになった。この方法は有効だったようで、もともと学習能力の高いデザイン・ヒューマンであったラピスは、瞬く間に最低限の食事作法を身につけた。欠点と言えば、見本を見せなければならないため、味もしない料理をアキト自身が口にしなければ為らない事ぐらいである。苦痛ではあるが、我慢できないほどのことでもない。

「手が小さいくせに、片手で持とうとするなよ」

 あとは、とにかく何でもかんでも事あるごとにアキトの真似をしてしまう癖を直すだけ。アキトはラピスのもう片方の手を取り、両手でコップを持つよう促した。

 その時、ラピスが顔を挙げてアキトの顔を見つめてきた。

 約二週間の付き合いの成果か、なにかを喋ろうとしているのだなと、アキトには分かった。

 ラピス特有の、言葉を探すための、喋る前の数秒の空白。

 そして。

「アキト・・・」

「ん?」

 会話は始まった。

 彼女との同居を始めて既に二週間ほど経っているが、それでも二人の間に会話は少ない。相変わらずラピスの口数は少なく、大抵はアキトが何やら話し掛け、ラピスが頷くだけで二人のコミュニケーションは終了してしまう。しかし、滅多にないことでは在るが、こうしてラピスのほうから話し掛けることもあるのだ。そしてラピスのほうから話し掛けてくる話題と言うのは、ほぼ決まっているのだ。

「また、夢を、見た」

 それはラピスが見る夢のこと。

 本来は在り得ない記憶の飛沫、他人の記憶の残照のこと。

「今度はどんなのだ」

 内心、様々な感情を溜め込みながらアキトは訊ねる。

「船」

「フネ?」

「そこにいる人たちは、ナデシコって、呼んでた」

「・・・・」

 ラピスはあれからも、夢の中で頻繁にホシノ・ルリの記憶の欠片を垣間見る。それはいわゆる『記憶のフラッシュ・バック』と呼ばれる現象の一種。その現象は、ラピスの自我確立に常に大きな影響を及ぼしている。その記憶に支配され、自意識が混濁し、自分自身を見失いホシノ・ルリを演じてしまうことも、この二週間で一回や二回ではなかった。

 自らの記憶が掠れるくらい、克明に焼き付けられた他人の記憶。それは彼女に、彼女として以外の生き方を望む者達によって架せられた、断ち切れない鎖である。

「その鎖は、常に彼女を誤った方向へと誘導していくわ。ならアキト君、アナタも彼女に鎖をつけてあげるのよ」

 初めて『ホシノ・ルリになった』ラピスを介抱した時、イネスはそう言った。

「名前を付けてあげたんでしょう? なら、その名を呼びつづけるのよ。それが彼女自身を繋ぎとめる鎖なんだから。正しい道に誘導してあげなさい」

 そのイネスの言葉を、必ず忠実に実行すると彼は約束した。

 だから彼はいつもラピスの名を呼び続け、彼女の夢を否定しつづけるのだ。

 だが、そのために彼自身が多く言葉を語ることもできないのだ。

「ラピスがその船に乗った事は無い筈だ。所詮は夢。あまり気にするな」

 幾千幾万の感情が胸の内をよぎったが、言葉に出したのはたった一言。それっきりで打ち切りにする。

 「アナタを、知りたい」とラピスに言われて一応は了承したものの、彼は自分の素性も過去も語るつもりは無かった。

 《ナデシコ 》のことを他者と語り合う事はしたくない。『研究所』に居たときの事も、エリナ達にさえ詳細を話していない。

 全て自分の胸にだけあればいいことだ。

「それよりラピス。俺はしばらく帰らないからな。お前の事はカナリアさんに頼んでおいたから、ちゃんと言う事を聞けよ。風呂にも入れ、いいな?」

「・・・ン」

 うん、じゃなくて、はい、だ。

 とも言おうと思ったが、やめておいた。別にどうでもいいこと。

 あの手紙のことも聞かなくてはいけない。今ごろ月臣は待ちくたびれている事だろう。

 さっさと出発する事にした。

 ソファーから立ち上がり、玄関の方へ向かう。ラピスも見送りに付いて来た。

「それじゃぁ、ラピス。良い子にしてな。カナリアさんを困らせるなよ」

「・・・ン」

 やはり、彼に対してだけは素直である。

 再び持って行き場の無い不快感がテンカワ・アキトの胸中を占めるが、構わず玄関から外に出てシャッターを閉めた。

 一人になって、思わず深く息をつく。胸の中に巣くう不快感も、少しは吐き出されたようだ。楽になったような気がする。

 もう一度、イネスの言葉を思い出した。あの時、イネスはこうも言っていたのだ。

「ラピスの貴女を想う切欠は偽り。でもね、それはどうでもいいことなのよアキト君。科学者としてこういう事を言うのは好きじゃないんだけど、人を好きになるのに理由なんか無い。ラピスが貴方に心を開く事が、洗脳のせいだとしても、ラピスの想いは本物だわ。だから受け止めてあげて」

“そうだったな・・・”

 アキトは思った。そして、そのときイネスに返した言葉を、再び心の中で形作る。

“分かったよドクター。なんでもやるさ。出来る限りで、な”

 再度、胸に秘める静かな決意。しかし、あまり『時間』はない。

 自分にはやるべきことが多すぎる。

 テンカワ・アキトは歩き出した。

「今の俺の姿を見たら、お前はどう思うかな・・・アサヒナ」





 エリナにとって、今日という日は、奇妙な偶然が続く日だった。

 夕食を取るため地上一階の玄関ホールへと降りていった。そこで、未だ月面支部に居残っているアカツキ会長とバッタリ出会う。「せっかくだから、いっしょにどう?」とのアカツキの誘いも、エリナにとって断る理由はなかった。

 すると、二つ目の偶然がやってきた。今度は月面都市に続く正面玄関から、小柄な男性が現われた。クリーム色のワイシャツに赤ベストのコンビネーションがよく似合っているその男は、ネルガル会計・秘書課部門に所属している、言わばアカツキ・ナガレの右腕であった。どういう酔狂か本名を名乗らず、彼の名刺には『プロスペクター』という偽名が記されている。エリナなど親しい者たちからは「ミスター」の愛称で呼ばれていた。

「おやおや、これは月面局長。おはようございます」

「おはよう、ミスター。会長に続いてあなたまでこんな僻地に出張?」

「いやいや、秘書の向かうところは主の下、というわけですな。会長からしばらくこちらに滞在するとの連絡を受けまして、こうして会長の分の荷物も持って参ったわけです。そう長い期間ではないと思いますが、しばらくご厄介になります」

 そう言って、もはや映画の中にしかいない完璧な英国紳士を思わせる、優雅な一礼をする。傍らで大荷物を抱えたプロスペクターの直属の部下もまた、緊張したように会釈した。エリナにとっては顔も名前も知らないほど身分違いの男だが、礼儀として一応会釈を返しておき、すぐに視線を自分の隣に移した。気安くも自分の肩を抱いているアカツキを目を細めて睨みつける。だが詰問するまでもなく、アカツキの言い訳が先に返って来た。

「いやぁ、ホラ。ここにいた方が何かと都合いいし」

「例えば?」

「言わせないでよ。《王子様》とか、《サレナ》とか。そのへんさ」

「厄介者みたいに扱って、真っ先に私に押し付けたのは何処の誰?」

「そこはそれ、察してほしいなぁ。戦友の力になりたくても立場がそれを許さない、この男の葛藤を。ねぇ、プロスくん」

「はっはっは、私も男の端くれ。心中お察ししますぞ」

「どうだか!」

 プロスペクターとエリナが会うのは実に一年ぶりである。エリナは月に、プロスペクターは地球に腰を据えているため、会う機会も極めて少なく、たまにエリナが本社に来るときがあっても、そもそも二人の地位役職には大きな隔たりがあるのだ。それだけに本社ビル内での行動範囲にも差が出てくる。十メートルと近づくこともなかった。

 それでも、アカツキ、エリナ、プロスペクターの三人に共通するナデシコという記憶が、立場もバラバラな三人を、まるで旧知の友人同士であるかのような感覚に陥らせる。となれば、月面にいるはずの他のナデシコ・クルーとも、久しぶりに会ってみたいと思うのは当然の人情であった。

「しかし、出社一番で出会えるとは偶然ですな」

「こうなったら、プチ同窓会といくしかないようだねぇエリナ君。ディナーは秘密基地のラウンジにチェンジだ。ミスター、君もどうだい?」

「ほう、それはいいですな」

 プロスペクターもまた、実に楽しそうに笑う。

 これもまた、エリナに断る理由は見当たらなかった。そして、奇妙な偶然はまだ続くのである。

 エリナ達がいる地上から地下二百メートルの階層。この階層には、専用のエレベーターを使わなければ行く事は出来ない。そしてそのエレベーターを使うには、やはり専用のカードキーを使わなければならないのだ。当然、そのキーを持つ人間は限られている。その限られた人間の内の二人であるアカツキとエリナ、そしてそれに便乗してプロスペクターがそのエレベーターを使用しようと、呼び出しスイッチを押そうとした瞬間。

 チン、とまるで電子レンジのような音を立てて、エレベーターのシャッターが開いた。

 素晴らしいタイミングで下から昇ってきたエレベーターの中には、見上げるような大男が立っていた。

「ゴート君」

「あら、また偶然ね」

 ゴート・ホーリも流石に驚いたようだったが、それでもすぐに冷静さを取り戻して上司二人に会釈をする。しかし、二人の後ろに控えるプロスペクターの姿を認めた時には、いつもの鉄面皮を少しだけ緩ませた。彼とプロスペクターは、共に派遣社員としてナデシコに初期から乗り込んだ、言わばパートナーのようなものだった。それでも直接会うのは、エリナと同じく一年ぶりに近い。

「お久しぶりです。ミスター」

「いえいえ。相変わらずお元気そうで何よりですな」

「ええ。お互いに。こちらにいらっしゃることを聞いていたので、お迎えに上がろうとしたところですが、一足遅かったようですね」

「はっは。到着十分前に連絡しましたからな。無理も無いことです」

 片や小柄で柔和な紳士、片や熊のような体格に仏頂面の寡黙な男。見るからに正反対な二人だが、どこか波長の合うものがあるようで、久方ぶりの再会を大いに喜び合う。

「これから同窓会でも開こうと思ってね。どうだい、君も参加しないか」

 本来、ゴートの身分を考えれば大それた提案ではあるのだが、やはり彼もナデシコ・クルーの一員である。久しぶりに過去の思い出に浸ることは、彼にとっても魅力的なことであった。

ふと、彼の教え子でもある黒ずくめの青年が頭に浮かぶ。

 ともかく、内心の喜びを彼らしい実直な態度で表した。

「は、喜んで」

 そんな彼の堅物さを見て、プロスペクターは懐かしそうに目を細める。

「それで、《説明お姉さん》と《王子様》はどうしてる?」

「その話は、下でしたら如何ですかな。いちいち周りを気にして、コードネームで呼ぶのも疲れるでしょう」

 もっともな話であった。アカツキ達四人はエレベーターに乗り込み、約三分ほどの時間をかけて最下層へと降りる。

 この階層には、表には出せないもののネルガルにとって利用価値の在る人間のみが在住している。たとえば、イネス・フレサンジュがその代表と言えるだろう。彼女はとある理由により、生きながらにして新聞の死亡記事に載った人物である。別に犯罪者というわけではないが、それでも街中を好き勝手に歩かせておける立場でもない。そして、ようやく到着したエレベーターのシャッターが開いた向こうに、本人が白衣のポケットに手を突っ込んで立っていたのだから、皆一様に驚いた。

「あら珍しい。初代ナデシコのネルガル組がお揃いで、どうしたの?」

「あ、あなたこそ、そんなところで何やってるの」

「たまには上で食事でもしようかと思って。わざわざ変装までしたのよ?」

 なるほど、確かに髪型が普段とは微妙に変えられている。そして女性とは不思議なもので、上手くいけば髪形を変えるだけで別人のような雰囲気を得ることが出来るものなのだ。イネスの変装は、そこまで上手に出来ているわけではないが、見事な金髪をポニーテールにするだけでも大分印象を変える事に成功していた。もっとも、いくらイネスが高名な科学者とは言え、顔を見ただけでそうと分かるような『通な人』は、少ないだろう。アイドル達とは違って、それほど神経質に為る必要が無い事は確かである。

「さっきから妙な偶然が続くけど、ま、ちょうどいい。久しぶりにこれだけのメンバーがそろったからね、ひとつお酒でも飲んで思い出話に花を咲かせようと思うんだけど。どうだい、君も」

「そうね。悪くないかも」

「そりゃ、良かった。で、テンカワ君も誘おうと思っているんだけど、彼は部屋かい?」

「ええ、いると思うけど、今日は日が悪いわ。彼を誘うのはまた今度がいいと思うわ」

「調子でも悪いのかい?」

「いいえ。子守りに忙しいんでしょ」

 子守り?

 皆が知るテンカワ・アキトとは最も縁遠いであろう言葉に、一同は一様に言うべき言葉を失い、しばらくの間沈黙が辺りを支配する。ゴートなど、自らの聴覚を怪しんで、耳の穴をほじくっている。だが唯一、テンカワ・アキトが子守りをする相手に心当たりを持つエリナだけはすぐに持ち直し、疑うような視線でイネスを見つめた。

「それって、ひょっとしてエイトのこと?」

「ラピスよ」

「え?」

「ラピス・ラズリ。そう決まったの。これからはそう呼んであげてね」

 何がなんだか分からない。そんな様子のエリナを押しのけて、今度はアカツキが問う。彼にしても、エイトのことは知らないでもないのだ。

「エイトっていうのは、例のクローン体のことだろ? その子の面倒を彼が見てるってのかい?」

「ええ。結構前からね。まぁ、その辺りは食事をしながら話すわ。ネルガルにとっても重要な話だから、研究報告と受け取って頂戴。ラウンジに行きましょ?」

 そう言って、さっさと一人で歩いていってしまう。アカツキとエリナ、そして事情を良く理解していないプロスペクターとゴートもまた顔を見合わせ、イネスの後を付いていった。どうやら今回の夕食は思い出話で盛り上がることは無さそうだった。





「さて、悪いけど専門的な考察は省いて説明するわよ」

 大して高くもない赤ワインで喉を濡らし、フランスパンを摘みながらイネスはそう言った。

「ラピス・ラズリことRHシリーズ・NO8。RHシリーズとは、いまや連合宇宙軍の少佐にまで上り詰めた『最高傑作』ホシノ・ルリに匹敵するだけの能力を目指して造られた、新たなデザイン・ヒューマンの総称よ。ホシノ・ルリに追いつく。ただ、それだけのために重ねられた研究の集大成。ホシノ・ルリ並みの能力を実現するために、彼らが真っ先に思いついたのがホシノ・ルリのクローンよ。肉体的条件が同等なら、教育次第で彼女以上にマシン・オペレーティング適性を持つ者を作り出すことが可能なのではないか? そう考えたわけね。間違いではないけど、極論で暴論。仮にそうして育てられても、所詮は温室育ちのモヤシっ子。総合力では、《ナデシコ》に乗って《蜥蜴戦争》の最前線で戦ってきたホシノ・ルリの足元にも及ばないでしょうね。そこで彼らは考えた。ならばホシノ・ルリの同じ体験をさせれば良い。しかし、あくまで『短時間』でよ。でなければ『計画』に間に合わない」

 無塩バターに塩を振りかけながら、アカツキが手を挙げる。

「計画とは、蜂起のことだよね」

「そうよ。いつかは分からないけど、艦長を手中にした今、彼らは近いうちに必ずボソン・ジャンプを完全に掌握するはず。楽観視は禁物よ」

「テンカワ君達がさらわれてから、まだ二年だ。そんなに早く漕ぎつけられるものかな」

「向こうに知り合いがいるのよ。ヤマサキっていうんだけど、なかなか頭が回る人よ。一歩間違えれば狂人にもなりえるような人だから」

 それは貴女も同じことだ、と思いはしたが、アカツキは黙っておいた。たっぷり塩を振りかけたバターをパンに塗りたくって口に入れ、ワインで流し込む。

「しかしテンカワさんが、そんな彼らのほんの抑止力になっているとすれば、保安部隊が出撃した甲斐がありましたな」

 同じくパンにバター(こちらは健康的に無塩のままである)を塗りつけながら、プロスペクターが至極呑気に言う。

 その言葉に、ゴートがナプキンで口元を拭う手を止め、頷いた。

「敵の計画は、A級ジャンパーの独占を持ってして初めて完璧なものに為り得る。テンカワの生存を知れば、迂闊な事は出来ないはずです」

「『ジャンプによる奇襲は諸刃の剣』。誰が言ったかは忘れましたが、いやはや、名言ですな」

 ボソン・ジャンプの軍事的活用は、早くから注目されていた。A級ジャンパーの能力の一つである、『ナビゲート』。B級以下のジャンパーを己のジャンプに巻き込み、二人以上の人間による同時ジャンプを実行する力である。それを活用すれば、大量の軍勢を敵拠点に一瞬にして送り込む事が可能なのだが、それは敵方も同じこと。A級ジャンパーは、組織に属する道具ではなく、意志を持った人間であり、早い話、探せばどこにでもいるのだ。あまりに独占性が無さ過ぎる兵器。自分が使った手段が、次の瞬間には自分の首を締める手段にも為りかねない。そしてそれゆえに、意志を持った超兵器であるA級ジャンパーは危険視されたのだ。

「でも、もう既に掌握している可能性は無いの? 向こうにはミスマル・ユリカがいるんでしょう? アキト君を救出した時点で、彼女はもう・・・」

「人の意志っていうのは厄介なものよ。そう簡単に服従させる事は出来ないわ。いくらヤマサキでもね。それが艦長なら、なおさらよ」

「・・・なんだか、とても分かる話だわ」

 運ばれてきた前菜料理に手をつけながら、エリナは呟く。そしてナデシコでさんざん思い知らされた艦長の『厄介さ』を思い出してクスリと笑い、誤魔化すようにサラダを口に運んだ。

「さぁ、話を戻すわよ。短い期間で手持ちの駒に、ホシノ・ルリと同じ体験をさせるにはどうすればいいか。そうだ、ホシノ・ルリの記憶をそのまま移植する事が出来ればいい。そうすれば記憶はそのまま経験となり、ホシノ・ルリと同等の能力を発揮するに違いない。ナデシコから下船後、一度ネルガルのほうで彼女の身体をチェックしたことがあったわね。昨日調べてみたら、その時の検査チームは全員何らかの事情で鬼籍に入っていたわ。交通事故、飛行機事故、通り魔殺人・・・その他もろもろ。どんな道筋で、突き止められるか分からないから、一応警戒しておいたんでしょうね」

「相変わらず、敵方の暗殺チームは優秀かつ勤勉ですな」

「直接出会ったことはありませんが・・・奴らはとにかく少数精鋭。故に機動力はあるが組織力には乏しい。我々のように大規模な行動は出来ませんが、任務の特性上、支障は無いのでしょう。しかし、ボソン・ジャンプを手に入れられてしまえば、もはや手は付けられない。生身の奴らを処理する事は難しいかと思われます」

「したら殺されるよ。誰かさんに」

 茶化すように言う、アカツキ。

「ただでさえ負けっぱなしで機嫌が悪いんだ。勝ち逃げされたら、それこそあたり構わず暴れだしそうだ」

「もう負けないわよ。そのために馬鹿高い予算を《サレナ》に組んだんだから」

「機動戦闘なら、まだいいでしょう。だが問題なのは、奴らが生身のテンカワに狙いをつけたときです。付け焼刃の格闘技では勝てん。テンカワを奪われてしまえば、こちらは切り札の一つを失う事になります」

「護衛役の月臣君は今どうしてる?」

「奴ら情報収集に余念が無いようです。統合軍にまでネットワークを広げているようですが、やはり・・・」

「ふぅ。結局は奴らが動く時を待つしかないわけだ」

 疲れたようにため息をつき、アカツキはボイルしたトマトを丸ごと口の中に放り込んだ。甘い味が口の中に広がる。焼きトマトはアカツキの好物なのだ。

「ただでさえ、A級戦犯だのと騒がれているんですから。もうしばらくは潜伏しておいたほうが良さそうですわね」

 溢れる皮肉を、氷のような視線に乗せて、アカツキに送るエリナ。

 その視線が物理的威力を持って己の体に突き刺さったような気がして、アカツキはわき腹の辺りをさすった。

「分かってるよ。全ては奴らの決起が始まってからだ。その時こそネルガルは浮上し、全能を尽くして奴らを潰す・・・・・んだけど、間に合うかな、《C》とか」

「実戦データが足りてないため、今のところ過剰な期待は禁物・・・というとこかしら」

「そりゃ困った。なんとかできない?」

「不可能です、コレばかりは。《C》の戦術的意義は、《B》以前とはかけ離れたものですから。コレばかりは《B》からのデータ移植だけじゃ賄えません。護衛艦と宇宙軍艦隊を交えた正面衝突作戦のほうも検討しておくべきかと存じますわ」

「スマートじゃないなぁ」

 そういってサラダの上に乗っかったトーストの、最後の一切れをたっぷりドレッシングを染み込ませて口に入れる。そのサクサクとした食感が何らかの刺激となったのか、アカツキは妙案が思いついたような表情でイネスのほうを見やる。

「そうだ。そのラピス君に協力してもらえないかな。実は護衛艦の方は近々完成なんだ。あれに《オモイカネ》のバックアップ・パーソナリティを積んで運用してもらえれば、《オモイカネ》二代目の成長にも繋がるし、データも取れるし、一石二鳥じゃないか。いやぁ、本当にテンカワ君は、やる事なす事がネルガルの儲けにダイレクトだねぇ。はっはっは」

 悦に入ったように、嬉々と笑うアカツキ。

 イネスは長々とした説明に疲れた喉をワインで潤しながらも、そんなアカツキを冷めた目で見ている。

「ルリちゃんの記憶を注入することに関しては、ラピスは一応成功しているわ。けど、RHシリーズの本懐、『ホシノ・ルリに匹敵するだけの能力』には届いていないわ。単純なマシンとのコミュニケーション能力なら互角以上かもしれない。でも、彼女の精神はあまりに未発達すぎる。赤ん坊とほぼ変わらないわ。戦艦を御するなんて無理よ」

「あ、そう」

 途端にやる気をなくしたアカツキは、先程までの盛り上がりも捨て去り、椅子の背もたれに寄りかかってワインを煽った。

 そして新たに運ばれてきた肉料理に、八つ当たり気味にナイフとフォークをいれる。

「次々とコロニーが破壊されれば、地球連合も防衛力を増強させるだろうし、果たして《サレナ》と《バッタ》だけでどれだけ持たせられるのやら」

「やっぱり、シークレット・サービスの出番でしょうか?」

「それは言わない約束だってエリナ君。あーあ、あちら立てればこちら立たず。いっそのことルリ君をこっちに引き込んじゃう?」

「会長・・・それだけは」

「やめておいた方が、賢明ですな」

「味方に首を締められたいんですか?」


「怒りを買うだけと分かるでしょう?」

 皆に説き伏せられ、分かってるよと、アカツキは笑って誤魔化す。

 しかし、彼は冷静である。

 故に、焦る。

 今のままでは勝てない。

 なにか鍵が必要だった。ネルガルに、アカツキ・ナガレに勝利をもたらす鍵が。

 ラピス・ラズリ。

 やはりそれはあの少女にあるのではないか。

 ネルガルが表立って動けない以上、奴らを抑えるには切り札その一ことテンカワ・アキトを頼るしかない。《遺跡》は敵が確保しており、今にもB級以下のジャンパーが自由にジャンプできるシステムを構築しようとしている。それを打破するための切り札そのニも、今のままでは戦力不足。

 とにかく、後手に回りすぎているのである。

 そしてそんな中、あまりに突然に、少女は現われた。テンカワ・アキトに引き連れられて。

 これは偶然なのか?

 何かが、『彼女を使え』と言っている。

 アカツキはそう思うのである。



 

 《タカマガ》攻略まで、あと五日。

 一つのコロニーに駐在している戦力は膨大である。単機で立ち向かうと言うなら尚更だ。その時点で、もはや自殺行為でしかないが、その自殺行為を大真面目にやろうとするなら、そして戦果を挙げようとするのなら、あらゆる状況に対応するべく幾百通りにも及ぶ綿密なシミュレーションを行う必要がある。

 先日《ブラック・サレナ》の操縦訓練を行った戦術研究室。その部屋はニ階層に分かれており、下層に設置してある棺のような形をしたシミュレーション・マシンにパイロットが乗り組み、仮想空間にて機体を動かす。そしてその機体の動き、パイロットの状況、戦況の変化を記録するのが上層の電算室となっているのだ。

 その電算室のマイクを使って、月臣元一朗はマシンの中のテンカワ・アキトに話し掛ける。

「この一ヶ月、あらゆる戦況の変化を想定し、シミュレーションを行ってきた。やれることは全てやった。いいか、何度も言うが単機突入など無謀以前の行いなのだ。それを可能にするためには、尋常ならざる腕前と、そして人外の能力が必要になる。何を言っているかは分かるな。出来る事全てを利用しろ」

《了解》

「時間をかければかけるだけ貴様が不利だ。CCを無限に使うつもりでいけ」

《殺す気か》

「死ぬ気で行けということだ」

《了解》

「重武装タイプの特性は掴んだな?」

《ビーム砲は、一寸法師のやり方で撃て・・・か?》

「戦艦相手ならば、そうしなければ効果がない。わかっているならいい」

《了解》

 よし。

 月臣は部下に命じて、シミュレーション・マシンから伝達される記録の解析を命じた。

 パイロット状況ならIFS変動グラフ、脳波形、身体疲労度。

 機体状況なら損傷率、消耗率、平均加速度、撃墜数、軌道シミュレート。

 時には百を越える項目を含んだデータを解析し終えるには数分掛かる。その間に月臣はもう一つの用事を済ませる事にした。

「手紙は読んだか」

《・・・ああ。夕食前に》

 ラピスから受け取った手紙の事である。あの手紙の差出人は、月臣ではない。月臣ならば口で伝えれば済む事だ。

 あの手紙を書いたのは、現在は地球にいるシークレット・サービスの人間である。手紙自体に宛名は書いてなかったが、内容でそうと分かった。

《手紙には三日前とあった。お前はそれを知っていたらしい。なぜ言わなかった》

「言ったところでどうにもなるまい。お前はお前の仕事をやれ。あの娘の護衛はこちらの仕事だ」

 一瞬の沈黙。 

 舌打ちでもしたに違いない。

 しかし、次に聞こえてきたのは、いつもと変わらない冷静な声。

《一つ頼みがある》

「聞こう」

《今回は防げたらしいが、次は無いかも知れない。その時は、お前が彼女の頭を撃ち抜いてやってくれ。奴らに捕まった連中は皆、死んだ方がマシと思う》

 物騒な事を言う。

 もちろん、冗談を言っているわけではないのだろう。

「あの娘は奴らにトドメを刺すのに必要な存在だ。俺には撃てんよ」

《ならなんとしても、北辰を抑えろ》

「任せてもらおう」

 そう言ったとき、解析完了のアラームが鳴った。

「すこし休むか。上がれ、テンカワ」

《ああ》





 濡れた髪の毛をかきあげながら、アキトはシャワー・ルームから出てきた。その時だけは、いつものコート姿ではなく、半そでのTシャツにジーンズというラフな格好をしている。出入り口で待ち構えていた月臣は、買っておいた健康飲料水の缶を投げて渡す。受け取ったアキトはブルタブを片手で開けつつ、廊下に設置されているベンチに腰を下ろした。その仕草を見て、月臣は今更ながらアキトの身体がほぼ完璧に回復した事を確認する。

「だいぶ慣れたらしいな。半分麻痺した体の操縦に」

「二年も経てば、な。もともと舌や鼻に比べれば大した症状じゃなかった」

「除去手術と補正バイザーで何とか人並みの生活は取り戻せたと言うのに、お前は自分から捨てたわけだ」

「それも、今更だ」

「ふん・・・」

 月臣は押し黙った。

 テンカワ・アキトの言う事は、紛れもない真実だ。黙るほか無い。

 次に口火を切ったのはアキトのほうからだった。

「宇宙軍の中にいれば手出しできないと思っていた」

 隣で壁に寄りかかっている月臣に対して、そう呟いた。

「俺もそう思っていた。ところが目撃証言によると、奴らはまるで幽霊のように突然現われたらしい」

「幽霊、か」

「安心しろ。信用してもらえてない。もっともホシノ・ルリ本人にジャンプ現場を視認されていたら別だったが」

「危なかったな」

「奴らの姿自体はホシノ少佐にも目撃されたが、ただの賊ということで納得してもらえたようだ」

「実際、彼女の周りにはそういう連中が後を絶たないからな」

「そうだな。感謝しておこう」

 そして、またもや沈黙。

 しばらく、テンカワ・アキトのジュースを飲む音だけが響く。

 どうも会話の途切れがちな二人である。

 もともと彼らは、あまり親しくない。今でこそ師弟のような関係だが、それ以前は地球側と木連側に分かれた敵同士。しかも月臣は、アキトの目の前で地球と木星の希望であった“白鳥九十九”を殺害した男だ。憎しみこそあれど、ましてや友情など寄せるはずもない。

 それでも、アキトは月臣を信用だけはしている。それは格闘技や機動戦闘の腕前だけではない。

 月臣と、月臣が殺した白鳥九十九は、それ以前までは親友同士だったと聞く。そんな人間を裏切り、殺し、故郷から逃げ出し、そしてどん底から這い上がった月臣という人間を、アキトは心から信頼している。

 月臣とアキトの関係をあえて言葉にするなら、『戦友』とでも言うのか。友情はなくとも、二人は信頼しあっていた。

「奴らはボソン・ジャンプを使ったんだな」

「順調に、手中にしつつあるようだ。だがそれでも、まだ自由自在ではない。なら、とっくに地球は火の海だ。それも全世界が同時にな」

「ユリカが口説かれつつある、か」

「方法もだいたい想像がつくと、ドクターが言っていたぞ」

「それは興味深い。夫としてはな」

「ふ・・・それより、あと五日。やはり篭もるのか?」

「ああ」

「最近、あの少女と同居を始めたと聞いたが、そちらはいいのか」

「ラピスが一緒だと戦意が湧かない。気が殺がれるとでも言うのか・・・殺す気になれないんだ」

「病気だな今のお前は。殺しの病気だ」

「ふん」

 空き缶を握りつぶして、クズカゴに投げ捨てる。

 そして月臣に背を向けて、テンカワ・アキトは去っていった。月臣は、特に声をかけるでもなくアキトの背中を見送る。

 月臣もまた病気なのだ。かける言葉など、あるはずもない。

「お前は妻のために戦うがいい。俺は俺でやらせてもらう」

 彼もまた、《火星の後継者》に私怨を抱き戦う者の一人なのだ。

 





 そして同居人に一緒に居ると気が殺がれると評された、ラピス・ラズリ。夜ももう遅く、彼女は今、自室のベッドで心地よい睡魔に身を委ねかけている。

 何時もなら一人で寝ているベッドに、今日は世話役のカナリア・リーンが一緒に寝てくれていた。ラピスにとっては初めての経験である。テンカワ・アキトが同じことをしてくれたことは一度もない。

「寝苦しいだろ。お互いに」

 そういってアキトはさっさとソファーに寝転んで、毛布一枚で夜を過ごすのだ。

「ネェ・・・」

 横になりながら、すぐ隣で同じく毛布に入っているカナリアに声をかける。実は、ラピスがアキト以外に自分から声をかけたのは、これが始めてである。半分寝入っていたカナリアはすぐさま目を覚ます。内心の動揺と僅かな喜びを押し隠して、平静を装い返事をした。

「ん? どうしたの、ラピス」

「・・・」

「ラピス?」

「・・・アキト」

「え?」

「アキト、いま、なにしてるの」

 カナリアは口篭もってしまった。あの黒ずくめの青年が誰なのか、何故ここにいるのか、ここで何をしているのか、カナリアは全てを上司であるイネス・フレサンジュから聞かされている。
その上で、彼を医学的にサポートしているのだ。彼女自身、野戦病院で産まれ、少女と呼べる年になるまで兵士に育てられた身だ。アキトのような殺人者との付き合い(?)には慣れている。 

 しかし、だからといってラピスに、あの青年の全てを教えるわけには行かない。プライバシーの問題以前に、子供に語るような事ではないのだ。だから、テンカワ・アキトは決してネルガルの暗部に関わることに、彼女を巻き込もうとしなかった。『仕事』絡みの手紙は決して見せず、当然格納庫にも連れて行ったことはない。

 そんな彼の意志を、ここで自分が踏みにじるわけにはいかないのだ。

「お仕事よ。働いてお金を稼がなきゃいけないの。もう少ししたら帰ってくるから、そうしたら「お疲れ様」って言ってあげなさい」

「オシゴト・・・」

「そう、お仕事」

「ソレは、何」

「・・・」

 再度、口篭もるカナリア。

 今日のラピスは、やけに突っかかる。しつこかった。

 だが、それはラピスがテンカワ・アキトのことを知りたがっているからだと理解したとき、適当に誤魔化すわけにはいかなくなった。なんとかして、テンカワ・アキトの意志を尊重しつつ、可能な限り真実に近い返答を、ラピスにしてやりたかった。

「テンカワさん、貴女には何も言わないのね」

「・・・」

 こくり、と頷く。

 それは、そうだろう。

 そもそも、同居しているとは言えテンカワ・アキトとラピス・ラズリが共に過ごすのは朝と夜の食事時と、就寝時間だけなのだ。それ以外の時間帯、つまりアキトが訓練をしている間は、常にカナリアがラピスの保護者役に就いている。大浴場で入浴を手伝ったり、時には月面都市に連れて行ってあげたりもしていた。そして時間になったら部屋まで送り、ラピスは保母さんと別れて、一人保護者の帰宅を待つのだ。

 ラピスは、決して口にも表情にも表さない。

 だが、本当は寂しがっていたのだろうか。

「彼はね、今探し物をしているの」

「・・・」

 それはとても遠まわしで、不明瞭な言葉だったが、カナリアにはこうとしか言えなかった。まるっきりのウソを言う事は簡単だ。だがカナリアはそうしたくなかった。

 情操面を考えるならば、本来テンカワ・アキトは決してラピスに近づけてはならない種類の人間だ。だが『本来』と言うが、所詮ラピスも普通の子供とは違うのだ。ラピスの記憶のこと
は、イネスから聞かされていた。今のところ、ラピスはテンカワ・アキトにしか心を開いていない。今こうして自分と話しているのも、彼の存在がかろうじてクッションの役目を果たしている
からだ。ならばやはり、ラピスの導き手となるべき人間は、テンカワ・アキト以外にいないのだ。

 今のカナリアに出来る事は、少しでもテンカワ・アキトとラピスの距離を縮めてあげることだけ。

「彼の探しているものはね。とても大切なもので、それを探し出すのには大変な準備が要るのよ」

「・・・ジュンビ」

「そう、準備。今ごろは、その準備に追われて四苦八苦しているんじゃないかしら」

「・・・・苦しむ・・・分からない。なぜ、アキトは、自分から、苦しむの」

 一見無表情でも、無感情でも、今のラピスは戸惑っている。そして知りたがっている。

 テンカワ・アキトのことを、だ。

 ならば、答えを与えてあげねば。

 カナリアは知恵を絞って最善の解答を模索し、そして見つけた。

 それはとても幼稚で稚拙なものであったが、それだけにラピスには理解しやすかった。

「それは彼が、優しいからじゃないかしら」

「優しい・・・」

「だから自分から苦しむのよ。ほかにも、楽な方法はありそうなものなのに。

「・・・」

「ラピスにも、いつか分かるんじゃない?」

「・・・・・・・」

 ラピスの胸に、言葉にしづらい多くの感情が浮かんでは消える。

 それを面にだす方法も知らない。

 だから少女は目を閉じた。自分だけの世界で、それを噛み締めるために。

 カナリアは、それを勘違いして「お休み」と声をかけて自らも目を閉じた。

 ラピスも、「オヤスミ」と、心の中で返事はしたものの、口に出すまでには至らなかった。



 



 そして、五日後・・・・・。

 月臣が言っていた『篭もる』というのは、戦闘前にテンカワ・アキトが行う、一種の儀式である。格納庫近くの倉庫に最低限の生活用品を運び込み、そこに閉じ篭ることで己の戦意をゆっくりと引き出すのだ。

 《マガルタ》攻略の際、シークレット・サービスの人間は戦闘前に音楽を聞いたり、一人で瞑想したりすることで各自の方法で己の戦闘意欲を高めていた。アキトにとっては『篭もる』ことがそれであると言えよう。

 朝に起き、一人思案に耽り、そして夜に寝る。その繰り返し。

 その最中に、『あの頃』の夢でも見れたらちょうどいい。そうすると起きる頃には、心地よい憎悪が身体の中に渦巻いている。そして日中の瞑想によって、その純度をさらに高めるのだ。
 窓のない密閉された部屋は、それを大いに助長してくれる。

 一切の油断と容赦を捨て去る。 迷いも恐れも消し去り、殺意と闘志だけを残す。

 そしてそのためには、孤独であるほうがいい。

 彼は、時計を見た。

 デジタル文字が時刻の他に、今日の日にち、曜日まで教えてくれる。

 七月一日、水曜日。

 出撃の日。

 待ちに待った、戦いの日。

 完成した黒鳥が、広大にして深遠な宇宙を飛翔する最初の日。

 さぁ、狩るか。

 テンカワ・アキトはベッドから腰を上げ、倉庫部屋を後にした。

 

 

代理人の感想

うー、なんか読んでてもどかしいと言うか。

もどかしいと言っても不快なものじゃなくて、むしろ"しっかりせぇと背中を蹴飛ばしてやりたくなる"気持ちに近いですね(笑)。

要するに今回は「溜め」なんですが、こう言うキッチリした「溜め」があればこそ作品の爆発力は増大するもんで。

物を書く人が忘れちゃいけない心得の一つだと思います。