時は多少、遡り。

 コックピットの中にいる間だけ取り戻す事が出来た視力が、極端に薄まっていることにアキトは気が付いた。どうやら、気を失っていたらしい。せっかく仮初ながらも蘇った視力なのに、勿体無い……とは、アキトは思わなかった。未練や愛着を感じる対象として、五感など問題にならないほどのものが他にある。

 目の前の状況を見るに、自分が意識を手放していた時間は数秒と無いようだと、アキトは判断した。脚部を省略した、ダルマのようなシルエットの機体が、今彼らがいる空間の中央に屹立する彫像に集うのが見えた。まるで、落ちた飴に群がる蟻のような浅ましさだった。不埒な輩が彼女に触れることが、アキトには我慢ならなかった。

 アキトは、茫洋と明瞭の間を行き来する意識の中で、必死に手を振って蟻たちを追い払おうとした。しかし、彼の右手は、皮肉にも彼自身を守るための狭いコックピットに閉じ込められており、到底彼らには届かない。その間にも、彫像と、その土台のあちらこちらに、ダルマたちがへばりついていく。

 嫌悪感どころか吐き気すら、アキトの胸には込み上がってきた。いまにもダルマたちの体から不浄な体液が流れ落ち、彫像の肢体を汚染していくような妄想にかられた。そして、近いうちに、現実はもっと性質が悪いものになるに違いないのだ。アキトは心の内で、そのダルマたちを大声で罵った。唇は鉛のように重たく、動かせなかった。

 白濁した意識の中でも怒りは湧く。しかし濁った意識がいくら沸き立っても、アキトの疲弊した五体には流れこまない。そして、蟻たちにしてみれば、飴玉をかっさらうことは、本人達にとって死活問題なのである。動けぬ人間の言う事に、聞く耳持つ必要はなかった。

 《六連》の歪な輪郭を包むように、蛍のともし火のような光芒が発生する。醜い光である。オスとメスが逢瀬を交し合うための合図である、蛍の神聖なそれとは比べ物にならない。宝石類で例えるなら、その光が宿すのは、イミテーションが発するような安っぽい騙しの輝きだった。見た目だけ似せて満足するならいいものを、その偽物を愛する分だけ、彼らは本物の宝石を妬み、憎むようになり、根こそぎ駆逐しようとした。それこそ真に安っぽい。

 本来なら単体用のジャンプ装置しか持たないはずの《六連》は、徒党を組む事によって小規模ながら、他の物体を巻き込んだ《ボソン・ジャンプ》……《ナビゲート》を行う事が出来る。アキトが《遺跡》を強奪するために用意していた手法と同じである。しかし、結局《ボソン・ジャンプ》による争奪戦を制したのは、紛い物しか操れない彼らになったわけだ。

 A級ジャンパーであることに誇りなどないが、それでも、どうしようもない遣る瀬無さが、アキトの胸に去来する。人造品にすら劣るなら、A級ジャンパー達は何故殺されなければならなかったのか。そんな意味無き犠牲者の一人である、とある女性の顔がアキトの脳裏に思い浮かぶ。朗らかな笑顔、共に喚きあった時の泣き顔、そして死に顔が、同時にアキトの心を通り過ぎた。

(アサヒナ!)

 いままで意識を混濁させていた泥が抜け去り、力強い意志の血流が、アキトの四肢に流れ込む。

(まだ間に合うか? 微妙だ。なら実際に確かめろ。動け、体!)

 まさしく爆発だった。怒りの爆発であり、哀しみの爆発。そしてアキトが起こした行動もまた、爆発のような勢いと破壊力を持っていた。敵のランサーに貫かれている、大きく張り出した両肩パーツが展開し、バーニアが面を上げて、咆哮する。獲物を見つけた猛禽のようなそれは、まさしくアキトの荒ぶる精神の形を模している。

 アキトの猛る獣性に耐え切れず、深く壁に根付いていたランサーの切っ先が外れる。枷を無理矢理外し、黒百合はいま自由になった。

 風のように飛ぶ。だがそれは、決して涼やかに走る清風でも、瞬く間に吹きぬけるような疾風でもない。黒百合の装甲には、格闘戦の名残か、大小さまざまな凹み、陥没が見られ、それは推進機関の末端部分にも及んでいる。そのため機動は定まらず、黒百合の体はバランスを失して螺旋を描き、錐揉みする。しかし、それでも進行方向は乱れず、まっすぐに。

 それは旋風だった。

 だが、この空間にはもう一つ、強力な風の発生源があった。その黒い旋風を妨げるに足るだけの威力を秘めた、こちらは血のように紅い烈風。彫像と、それに群がる《六連》を守るかのように、横手から吹きぬけ、アキトを阻む。

 その烈風から腕が伸び、その腕の中にある錫杖から、さらに太刀風が駆ける。切り裂くような風と、暴風とも換言できる荒々しい風がぶつかり合った。片方の威力に押し負け、弾かれた方を敗者とするなら、それは紅い風の方がそうなのかもしれない。だが、後背の部下達が跳び去るまでの時間を稼ぐのが、彼の目的ならば、一時とはいえ黒百合の動きを止めることができた彼は、大局から物を見て間違いなく勝者だった。

 はじけた光は、すでに消え去った。それを見送るアキトの表情は、深手を負い焦燥し、絶望する草食動物のようであり、そして同時に今にも獲物に飛び掛らんとする肉食動物のようでもあった。憎悪と悔恨、怒りと哀しみが絡み合って、二重螺旋を描きながら、アキトの中で増殖する。

 まただ。また負けた。

 ユリカの奪還と、《火星の後継者》の壊滅が、アキトの掲げる至上の勝利条件だった。ならば、それらが叶わなければ、どのような戦果を挙げても、全ては敗北なのだ。ゆえに、アキトはこれまで一度も勝ったことが無い。あのプラント・コロニーで、何もかもにも敗北して以来、アキトは常に敗者だった。

 あのプラント・コロニーで見た、変質していくユリカの姿。そして首から下が無残に焼け爛れ、様々な部位が欠落していたアサヒナの亡骸。それらの映像は、アキトの目蓋の裏どころか、記憶を司るヒポカンポスにまで刻まれ、目を瞑っても、眠りに落ちても目を背ける事が出来ない。

 彼女らは、記憶の中で一向にセピア色に染まろうとせず、どころかより一層生々しい色彩を携えて、今アキトの脳裏に迫って来ている。それらの上に、つい先ほど、みすみすと敵に連れ去られた、二年前と変わらぬユリカの姿もまた重なり、あわや彼を自暴自棄に陥らせ、眼前にて勝ち誇ったように佇む《夜天光》に飛びかからせんとする。

 無駄と無謀のニ言に尽きるその行動を押し止めたのは、アキト背中越しに感じるスバル・リョーコの静かな息遣いだった。《ブラック・サレナ》の加速Gにより意識を失っても尚、この「お師匠様」は不肖な弟子を叱ろうとしているのか。そんな馬鹿馬鹿しい考えが浮んだとき、精神に巣くっていた不毛な感情が掻き消える。狭窄していた理性は風呂敷のように広がり、中に包まれていた冷静さや判断力が表に出される。

 さきほどのシンジョウ・アリトモの声明は、アキトの耳にも入っていた。ついに《火星の後継者》が、地面から這い出て、歴史の表舞台に立った。なら、彼らがデビューとして、一番初めに行う事とは何だ。決まっている。蜘蛛の巣に羽を引っ掛けた蝶を捕食することだ。

 アキトは、さきほどまで《遺跡》が鎮座していた辺りを見やった。もうそこには、ユリカの姿は無い。だが、ぬくもりは残っている。アキトはそこに誓いを置いていった。

 《夜天光》は、一体どういうつもりなのか、一向に《ブラック・サレナ》に仕掛けようとせず、ただ浮遊しつづけるのみであった。アキトは、実験体時代の最後の日のことを思い出した。今の状況は、その時に良く似ている。傷つき、よろよろと立ち上がる自分と、それを見つめる北辰。アサヒナの亡骸と、ユリカの残り香を替えれば、すべてがそっくりだ。

 ただ、あのときと違い、既にアキトは、一人ではロクに立ち上がることも出来ない廃人ではない。彼は自分の力で、此処を立ち去った。光に包まれ消えゆくアキトを、北辰という名の暗殺者は、微動だにせず見送った。

 三年前のシャトル事故を区切りに袂を分かっていた、テンカワ・アキトとホシノ・ルリの世界が、一瞬の交錯を果たしたのは、ちょうど、この次の瞬間である。







 突如現われたその機体は、酷く損傷しているようだった。東洋の僧侶が持つ錫杖を模したランサーに貫かれた両肩からは、電子系統にまで被害が及んでいるのか、貫通した錫杖に纏わりつくように、青白い火花が散っている。他にも、凄まじい激戦の名残を想像させる様々な傷痕が、その機動兵器の装甲の至る所に刻まれていた。銃創、裂創、爆創、格闘戦による陥没、風穴。それぞれ幾つあるのか、数える気にもなれない。

 つまり結論として、今《ブラック・サレナ》は、到底戦える状態に無かったのだ。しかし、そんなことはアキトには関係ない。彼が今、愛機に要求するのは、たった一つの機能だけだった。それさえ満足に行使することさえ出来れば、少なくともこの場は十分だったのである。

 《ナデシコB》を、こんなにも近くで見るのは、アキトは初めてだった。こうして見ると、コンセプトや運用法はまるで違うはずなのに、やはり似ている。スフィンクスを髣髴とさせる独特な形状は、初代においても奇異の目で見られたものだが、二代目はそれを忠実に模倣しているようだった。カラーリングを除けば、外見上はにわかに判別つくまい。

 しかし、この艦が初代から受け継いでいるのは、果たして名前や形だけだろうか。なにしろ、あそこにはホシノ・ルリがいるのだから。

「撃てーっ!」

 《ゴースト》の出現を確認し、藤田東二によって半ば反射的に下された、怒声交じりの号令は、当然アキトには聞こえていない。しかし、その号令に反応した《サザンクロス中隊》の機体の挙動を見切ることで、アキトは敵が標的を《ナデシコB》から自分へと切り替えたのを悟った。

 本来なら悪くない……むしろ当然といえる判断だが、この場合失策である。致命的と言っても良い。

 バーニアに産声を挙げさせ、《ブラック・サレナ》は遥か上空へと飛ぶ。一個中隊の物量から吐き出された火砲は、虚しく真空を掻っ切るだけに終わり、置き土産に残された六つの噴煙が、その合間を縫うように逆走する。《ブラック・サレナ》の、肩装甲の内側から放たれた、ミサイルの噴煙だった。

 六つのミサイルは、結局一機たりとも捕らえることはなかったが、敵部隊の中でもアキトが軽く目を見張るほど、巧みな機動を見せる機体があった。ただ一機左肩にマーキングを刻んでいるのは、恐らく隊長機の証だろう。

 そして、射撃態勢に完全に復帰しきる前に、その隊長機はレールガンによる射撃を繰り出してきた。無茶な姿勢で撃ち出したというのに、その照準は偉く正確である。ニ撃、三撃と、《ブラック・サレナ》のフィールド表面を、的確に捉えていった。アキトは舌を巻いた。

 だが、惜しい。頭が回っていない。もしアキトが逆の立場だったら、A級ジャンパーなど放っておいて、先に強化体質者を確実に仕留めることを優先するだろう。二兎追うのは構わないが、追う順番や優先順位には気を配るべきだった。この南十字星を背負う隊長機が、いまだにA級ジャンパーの力を理解していない、あるいは、理解しつつも見誤っているのだとしたら、アキトにとっては嬉しい話である。教え子を持つ教師の心境に近い。A級ジャンパーの力を、恐ろしさを、敵に教え伝えるのは彼の大きな悦びだった。

 一先ず戦闘はお預けである。《ブラック・サレナ》にはもう戦う力が残っていないし、戦う必要も無い。最低限必要な勤めは見事に果たしてくれた。あと全能を尽くすべきはアキト自身だった。

 アキトは意志を拡散させた。それは肉体の殻を易々と越え、体外の空間に満ちる。

 自身を跳躍させる力。

 周囲の物質を巻き込み跳躍する力。

 他者のみを跳躍させる力。

 ジャンプ・フィールドの大きさや展開位置によって三つに区別されるA級ジャンパーの能力。その中で、今からアキトが見せるのは、全てを巻き込む第二の能力。






「半径約二百メートルのジャンプ・フィールド発生。ボース粒子、異常増大!」

「でかい、戦艦も飲み込むぞ!」

 恐ろしい報告に、シンジョウは怒声をもって返した。

「ボース粒子の発生源はどこだ! 半径何百メートルだと?」

「に、二百メートル……約です! 場所は……《ナデシコB》、いや、《ゴースト》のいる宙域です」

 司令部内全員の視線が、前方巨大スクリーンの片隅、《ゴースト》のいる方向へと移動した。シンジョウ・アリトモも同様だった。オペレーターの操作により、画面のその部分だけを切り取られ拡大される。その新たに表示された枠内の中に、シンジョウは一つの「星」を見た。

 《ブラック・サレナ》が放った六つのミサイルが、普通のミサイルではなく、単なる推進機付きのコンテナであることに気付いていたのは、アキト本人を除けば、自意識を有するスーパーコンピューターを友人にもつホシノ・ルリだけだった。マキビ少尉ですら、目の前の《ゴースト》と《サザンクロス中隊》の戦闘と、艦体制御の補佐に気を取られて、見落としていた。

 初めから敵に『命中しない』よう、照準されていた空飛ぶ小包は、狙い違わずにあらぬ方向……つまり《ナデシコB》の周囲へと飛び散り、目的地に辿りついたところで、空気圧による静かな破裂を起こした。コンテナの射出孔が一吹きし、内部に積載されてあった、小さく弱々しい、しかし無数の光の粒がばら撒かれ、さながら宝石の監獄のように、《サザンクロス中隊》と《ナデシコB》を閉じこめた。それは無数のCCだった。

 ランサーに貫かれ、損傷の激しかった箇所に搭載されていたのにも関わらず、六つのコンテナ・ミサイルが故障せずに居てくれていたのは、《ブラック・サレナ》の並外れた装甲の厚さが功を奏した結果だろう。

 そして、この時点で、既にアキトの勝利は決定していた。CCをばら撒くこと、それだけがアキトが愛機に求めたことだった。

 あれは、いったい何時のことだったか。

「やり方が悪かったのは確かだけど、それだけと言えばそれだけだよねぇ。彼らのやったことで、不味かった事と言えば」

 ラピス・ラズリと出会うよりは、かなり前の時期くらいにしかアキトは記憶していない。そんな頃に、月面支部極秘階層のラウンジにて開かれた酒の席で、アキトに向けてそう語った男がいた。

 アキトが、グラス一杯の葡萄酒で済ましているところを、その男は高価なウィスキーをボトル一本まるごと独占し、好き勝手に味わっていた。

 酔いが回ったのか、もともと四六時中機嫌が良いような男の表情が、さらにご機嫌そうに緩まり、無表情なアキト相手に嬉々としてグラスを傾けている。アキトの方も決して迷惑がっているわけではない。二人の男は、それぞれの流儀で、それぞれにささやかな酒盛りを楽しんでいた。

「いやね、時々考えるんだよ。一人で基地を潰しちゃう君みたいな人間が、そこいら中にウヨウヨいると思うと、おっかなくって夜も眠れないよねぇ、て」

 体に力が入らなくなってきているのだろうか。机にカウンターにうつ伏せる寸前の態勢で、その男はおどけるように言った。その様子だけみると、まさに飲んだくれといった風采だ。

 しかし、酒に溶けたかのようにトロンとした眼差しも含め、アカツキ・ナガレという男は簡単に信用できる人物ではない。

「酔いを言い訳にして、何を言うつもりなんだ?」

「僕は《火星の後継者》の考えに賛同しているよ、てことさ。君たちは死んでよかったんだよ。ちなみに、多少勢いを借りてるくらいさ。意識はハッキリしてるよ」

 声を立てずにアカツキは笑い、残り少ないグラスの中身を一気に煽る。ネルガル月面支部の極秘階層に備え付けられた、こぢんまりとしたラウンジでも、有り難い事に酒の味は悪くない。

「《ボソン・ジャンプ》で、いきなり君が目の前に現われた時……サレナに乗っている時も、生身で施設内に突入する時も、空間を越えてやってきた君を見て、彼らは例外なく必ず驚き、青ざめて、慌てて、絶望して、最後に悲鳴をあげるだろうね。本当に、まるでこの世が終わったような、そんな気分になると思うよ。想像もしたくないね。君は何回もそういうのを眺めているはずなのに、まるで同情もしないのかい?」

 酒の力で、元々饒舌な男の舌が、さらに回転力を増しているようだ。アキトは内心呆れながらも、アカツキの話を聞いていた

「可愛そうな連中じゃないか。僕は、一応君の味方だから君に怯える必要は無いけど、連中はきっと一日中ビクビクしているよ。なにしろ、何時君が《ボソン・ジャンプ》で現われるのか知れたものじゃないからね。今にも、自分達の居る場所を頭に思い描いて、イメージングでも行っているんじゃないかって、怯えていると思うよ」

 畳み掛けるようなアカツキの言は、ジョークには違いなかったろうが、それにしてはやや性質の悪すぎるものだった。酔いに任せた戯言というカバーの下には、純粋な悪戯心もあれば、紛れも無いアカツキの本心もある。

「僕はね。君たちみたいな化け物より、彼らの方にこそ親近感が沸くのさ。本当に、気の毒に思うんだよ」

 その化け物を目の前にして、アカツキはしみじみと言ってのけた。アキトは呆れを通り越して、感心すらした様子で、アカツキの横顔を眺めたものだ。

 今にして思えば、あれは自分を試そうとしていたのだろうか……あの酒盛りの日から数ヶ月経った今、アキトはそんな風に考える。

 今まさに、A級ジャンパーの力によって、機動兵器の一個中隊を葬り去ろうとしているアキトは、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 酒盛りの日に語られたアカツキの本音(?)に、アキトは短く返事を返していた。

「そりゃぁ同情するさ。だがまだし足りない」

 その思いは今も変わっていない。

「今から体験させてやる。お前達がさんざんに恐れて、狩りたてたA級ジャンパーの力を」

 意識の中でアキトは通告した。ある意味、これもイメージングに近い。むろん、《ボソン・ジャンプ》のプロセスにて、《遺跡》が受け取るのはA級ジャンパーの視覚的イメージのみである。だが、それでも彼の凶暴な意志は決して無に消えず、この場に弾け、そして宝石たちとまぐわった。

 アキトの意志と衝突した宝石たちは、それに誘発されたかのように幻惑な光を発し始め、互いに引かれ合い、引き付けあった。空気圧の勢いのまま、慣性にしたがって緩やかに移動していた宝石たちは、何かに取り付かれたように動きを変えた。乱雑に散らばった状態からゆっくりと変化し、まるで訓練された軍人のように、等間隔を維持した整然なる列を形作る。

 ゆったりとしたアーチも取り入られて構成された、その隊列の完成形は、《ナデシコB》を中心とした巨大な球形だ。宝石一つ一つの光が溶け合い、その球形そのものが、一つの巨大な光になる。それはあたかも白色に輝く銀月を、見る者に想起させる。まさに「星」だった。

 ジャンプ・フィールドの完成である。もう、だれも逃げられない。アキトのイメージング送信が完了し、《ボソン・ジャンプ》が、今発動する。






 ――決して知覚し得ない、A級ジャンパーの意識と《遺跡》の交信の瞬間はこの時訪れた。

 《火星の後継者》に関わる者全てを薙ぎ払わずにはいられない、アキトの欲望と義務感。
 
 そんな凶暴な意志を含んだイメージングを構築しつづけるアキトの、聴覚以外の何か別の感覚、A級ジャンパーしか持ち得ぬ器官にノイズが生じた。

 アキトは、何か耳の奥で、恐怖に包まれた女の悲鳴が幻聴のように聞こえるのを感じた。






 《サザンクロス中隊》に名を並べている、レベッカ・タウネン少尉は、軽いパニックを起こしていた。理由は二つある。まず一つは、カメラ・モニターを通じて彼女のコックピットを、突如真っ白な光が埋め尽くしたこと。、そして二つ目に、その途端に彼女の機体がピタリと動きを止め、なんの操作も受け付けなくなったことだ。

 今の光は何だ。いや、それより今は戦闘中のに、なぜ機体が動かない。まさか故障でも起こしたか。

 あらゆる計器類は、この異常現象にやられたのか、悉く針が振り切れるか、表示が猛スピードで回転するだけで、現状把握にはなんら役に立たなかった。モニター画面は光に溢れ真っ白に染まり、僚機の影がうっすらと見えるだけで、他には何も見えない。通信も利かない。

 ようやく彼女が事態を理解することが出来たのは、操縦桿を握り直そうと、指を動かした時だった。何気ない動作のはずが、奇妙な感触を覚えて、レベッカは右手を凝視した。そして次の瞬間に、その眼は大きく見開かれ、眼球は凍りついたように停止し、次第に怯えるように潤み、震えだした。

 彼女の指が、短くなっていた。操縦も忘れ、レベッカは両手を、目の前にかざす。左手も同様だった。明らかに、五指の長さが足りない。まるで切断されたかのように、ぷっつりと途切れていた。顕微鏡をのぞくような眼差しで、彼女は指の切り口(?)あたりを注視する。すると、切り口の先端が、まるで砂塵のように、キラキラと空気に溶けていく様が見て取れた。

「……!」

 絶句。言葉が告げない。彼女は、慌ててモニターに目を走らせた。相変わらず、彼女の隣にいた僚機の影だけしか見えない。彼の機体もまた、自分のと同じく動きを止めているようだった。よく目を凝らすと、彼の機体の輪郭が、シルエットが、ちょうど彼女の指先と同じく、徐々に徐々に欠けていくのが分かる。

 ここで、ようやく彼女は深遠な絶望と共に理解した。今何が起こっているのかを。

 そして全身に満ちる悲哀中で悟った。レベッカ・タウネンという存在が、間違いなく今此処で消滅しつつあるのだという事を。

「ゴーストっ!」

 いくら操縦桿を押し込んでも、まるで配線が全て遮断されたかのように、藤田のクーゲルはうんともすんとも言わなかった。ジャンプ・フィールドに囚われ、一度ボソンへの変換が始まった《ステルン・クーゲル》は、一切の活動能力を奪われていた。移動することも、運動することもままならない。

 彼らは、すでに消滅の運命に捕まっていた。どちらか言えば地球出身のパイロットに偏っている《サザンクロス》中隊のメンバーは、概して人体改造に対する抵抗が強く、元木連人である藤田以外、誰一人としてジャンパー処理を受けていない。

 ジャンパー処理によって、《ボソン・ジャンプ》への耐性を遺伝的に組み込むか、高出力のフィールドに身を包むかしなくては、A級ジャンパー以外の生体は、フェルミオンからボソンへの変換、またはボソンからフェルミオンへの変換に、肉体が耐えられない。

 その場合、《ボソン・ジャンプ》のプロセスは完璧に機能せず、結果何処とも知れぬ次元の狭間を、ボース粒子に紛れて未来永劫に漂い続けるか、運良く実体化できたとしても、何かしらの異物と混在し、ヒト以外の何かに成り果て結局は死に至る。

 テンカワ・アキトが生み出す光の中で、ジャンパー体質を持たず、《ディストーション・フィールド》も十分な出力を有していない、藤田を除く《サザンクロス》中隊の面々は、まさしく死の一歩手前であった。彼らには、何一つ抵抗できぬまま消滅すること許されていない。

「《ゴースト》、部下を殺すな! 私の部下を殺すなーっ!」

 そんな、声帯を迸らせるような絶叫さえ吸収して輝く「星」は、何処までも眩かった。まるでその場にある原子、素子、粒子の一つ一つが光を放っているような、そんな無数・無限の瞬き。一体どのような技術を使えば、たった一人の人間に、あのような光が生み出せるというのか。どんな科学崇拝者も項垂れてしまうほど、その光は、科学や理論などといったものを超越した神々しさに溢れていた。

 アキトの背後で眠るスバル・リョーコを初めとして、地球と木連との技術交流が盛んになり、その際に木連独自の技術であったジャンパー処理を受けた地球側のパイロットは少なくない。

 だが、未だにI.F.Sのような、ナノマシン投与を必要とする操縦システムが忌避されがちなご時世である。ナノマシンどころか、遺伝子改変すら必要になるジャンパー処理となると、パイロット全体の視点で見れば、処置を受けた者はやはり少数派であることは否めない。

 木連側の方ですら、処理を受けているものは限られた精鋭部隊のみで、大半が非ジャンパー体質のはずなのだ。だとするなら、この《サザンクロス》中隊の中に、ジャンパー処理を受けている者は果たしてどれだけいるのか。確率的に見ても、良くて数人。あるいは……。

「さぁ、何人生き残る?」

 すでに勝利を確信した、アキトのふてぶてしい言葉を合図に、銀月が弾けた。星の内側に存在するもの全てが、アキトの導くままに、等しくフェルミオンからレトロスペクトへと変換されてゆく。

「《ゴースト》を落とせ。《ナビゲート》を終了させるな!」

 通信士を介さずに、自分でマイクを引っつかみ、シンジョウは叫んだ。戦況を一変させうる強化体質者の確保失敗を恐れての事だろうが、旧い友人を死なせたくないと思う気持ちもあったのであれば、彼も使命に徹しきれない甘さがあるということになる。

 彼の命を受け、光球の外から、何機かの積尸気が接近を試みる。だが眩い光の中から《ゴースト》一機を捕捉する事は、レーダーの力を借りても思うように行かなかった。ここで、シンジョウは己の甘さと対決することになる。対決は一瞬だった。その分、彼は実に優秀な指揮官であると言えるだろう。

「構わん! 味方はもう助からない。ミサイルを撃ち込め!」

 無論、命令を受けた積尸気部隊は動揺した。味方を撃つなど、けっして気軽に出来ることではない。そんな彼らの心情を、手に取るように把握できていたシンジョウは、さらなる言葉で彼らの背中を後押しした。

「責任は全て私が取る。頼む、撃ってくれ!」

 もはや泣き落としに近い。ようやく積尸気部隊は動き、言われるままに無数の対艦ミサイルを発射し、光球の内部に突き刺していく。光に吸い込まれたミサイルの行く末は、外からは確認できない。確認できたのは、その空間の支配者であるアキトの眼だけだった。

 無駄である。意に介さず、アキトはイメージングを続けた。どのような物質も、この領域に足を踏み入れたからには、その存在力の一切を奪われ消滅するしかない。ミサイル達は、何者にも接触することなく動きを止め、そして分解、否、融解し始めた。この領域では、アキトの意志こそが絶対なのだ。

 しかし、その意志に多少は抵抗出来る者も居る。例えば、彼の後背で気を失っているスバル・リョーコ。ジャンパー体質を後天的に遺伝子に組み込んだ彼女ならば、たとえアキトが望んだところで、肉体がボソンに消えたままになることはない。また、強力な《ディストーション・フィールド》に包まれた《ナデシコB》の乗組員達も、空間歪曲の影響によって、ジャンプ・フィールド内でありながら、空間的にジャンプ・フィールドとは隔絶された状態にあり、同じく無事に別地点にて再構成されるはずだった。

「フィールド出力最大。住居・生活ブロック共に閉鎖完了。跳躍準備完了。良く出来ました」

 カラフルに彩られたエア・ウィンドウ越しの、友人の言葉を目にした時、ルリの出来ることは無くなった。思えば今回の戦闘では、事態に流されるしかルリには選択肢が無かった。

 こういう時、少女は、心の中の「お師匠様」を羨ましく思う。彼女なら、今回のような流転し続ける状況の中でも、指針を失わずに真っ直ぐ行動していけたのではないか。《ステルン・クーゲル》の中隊に包囲され、避難民とクルーを危険にさらすような失態は冒さなかったのではないか。自分などよりも、もっともっと上手くやれたのではないか。

 それは多分に美化と贔屓目が入り、そして自虐的でもある想像であったが、ルリにはそう思えるのだ。

 流されるのは、これが最後にしたい。ルリは前方スクリーンの中央に見える、歪な形のシルエットを見やった。眩しすぎる後光により、影しか見えないが、元々その機体は黒一色であるため、あまり雰囲気は変わらない。あの毒々しいまでに紅い双眸が見えなくなっても、その双眸に宿っていた《ゴースト》の強烈な意志は、白い光に姿を変えて辺りを埋め尽くしている。

 まるであの時のように。

 自分の良く知る一人の青年が、生身一つで巨大な兵器を葬り、一つの街を救った時のように。

 そしてその青年を含めた、火星の寵愛を受ける三人が、戦争の引き金となった過去の遺物を、遥か彼方の宇宙に封じた時のように。

「アキト……」

 ルリの唇から、熱を含んだ吐息と共にその言葉が零れた。







 《ナデシコB》が、《サザンクロス中隊》が、光に消えていく。ある者は頭部から、ある者は腕部から、ある者は脚部から、いずれにせよ五体の一端より段々と、まるで溶けるかのように機体の輪郭が失われていく様子を、《アマテラス》はまざまざと見せ付けられた。

 皆それぞれ感じることは一つである。途方も無く、恐ろしい。

 あまりに幻想的で、あまりに現実離れした惨劇は、フィールド内の全ての物質が何処かへと跳躍し、最後に《ブラック・サレナ》自身が消え去ったあとで、ようやく終わりを遂げた。

 後に残ったのは、先ほどまでの神々しい惨劇が嘘のような冷たい静寂。正常な静けさが、《アマテラス》宙域全土を満たした。

「A級ジャンパー……」

 そう呟いたのはシンジョウだ。彼は、今更ながら自分達が追い立て、絶滅させかけた種族たちの力を目の当たりにし、恐怖した。

「戦闘は終了した。同志たちよ、ご苦労だった。また、この場では僅かな統合軍兵士たち諸君に告ぐ。無駄な抵抗はやめて、我々の指示に大人しく従って欲しい。決して手荒な真似はしないと、我々は天地神明に約束する」

 ようやく思い出したかのように、シンジョウの口から出された戦闘終了宣言の、なんと虚しいことか。

 実際、《ユーチャリス》や無人兵器によって引き起こされた《火星の後継者》の被害は、決して少なく無いものの、組織全体にヒビが入るほどのものではない。

 そして、《遺跡》が無事な以上、この戦いは、やはり彼らの勝利なのだ。しかし、だとするなら、この《アマテラス》全域に蔓延る、負け戦めいた雰囲気は一体なんなのか。

 これが、《アマテラス》の戦いの、事実上の終結だった。







「お前は、《ゴースト》の罪を理解しているか?」

 藤田東二が《火星の後継者》に参加する切欠を作ったのは、旧大戦終結以後、出世して統合軍の佐官にまで昇りつめたかと思えば、何時の間にか反逆集団たちの幹部に収まっていた旧木連時代からの友人であった。《アマテラス》の格納庫で、愛機の整備に勤しんでいた藤田を急遽呼び出し、司令部区画にある個人用執務室に案内した上で、彼は、そう質問した。

「軍人を大勢殺した事か?」

 安直な答えを、敬語を使わずに、その時の藤田は返した。

「だいだい当たりだ。より正確に言うなら、大勢の軍人を殺せてしまえるだけの能力を、奴が持っていること、それ自体だ。一騎当千の兵士である事そのものが、《ゴースト》の罪なのだ」

 シンジョウは一息、間を置いた。

「《タカマガ》、《ウワツツ》、《ホスセリ》。それぞれがそれぞれに、そこいらのテロリストにもそうそう引けを取らないだけの軍備を備えていた。そんな各コロニーに、《ゴースト》は一人でやってきた。なんの尾ひれも、誇張も無い。奴は一人で、守備隊の軍勢に立ち向かい、勝利をおさたのだ。一隻で何百隻もの木連式戦艦を沈めて見せた初代《ナデシコ》の逸話のように、少数戦力で大多数の戦力を打ち負かすことは、戦争ではそう珍しい話ではない。だが、たった一機の機動兵器が、艦隊を備えた軍事施設を陥落させるなどといった冗談のような奇跡は、今まで一度たりとも起こった事は無い。それを《ゴースト》はこなしたのだ。これ以上の罪があるか?」

「……」

 まだ、少し周りくどい言い方をしている。そう思ったシンジョウは、咳払いをして、さらに続けた。

「私の言う《ゴースト》の罪とは、やつが自分一人の意思と力だけで戦場を征服したことだ。《タカマガ》で散ったお前の部下の死は、戦場でなら誰の下にも平等に訪れる『偶然』、あるいは『悲運』と言う名の死神によってもたらされたものであると誰が言える。《ゴースト》ただ一人の手によって……組織も、指揮系統も、軍規も、命令も介さない、全ての兵士が例外なく身を浸しているはずの『戦闘の流れ』すら無視した、ただ一体の化け物の独立した意思によって、彼ら二人は葬られたのだ」

 藤田は、《タカマガ》での戦闘にて轟沈した、《シロツメクサ》のことを思い出した。それと同時に、同じ武装でこちらはコックピットごと撃ち貫かれた、ロイ・マクフェルの死に様もまた脳裏を通り過ぎる。

 大勢の仲間たちが《ゴースト》のA級ジャンプ能力の前に、いともあっさりと吹き散らされていった。

「例えるならそれは、浮き草と鳥の関係だ。戦場という強大な流れに身を浮かべるしか出来ない浮き草たちを、まるで嘲け笑うかのように、《ゴースト》と言う名の鳥は、自由自在に大空を飛び回り、好き勝手に草たちをついばんでいく。怯え竦み、いいように弄ばれるしかない。《タカマガ》の守備隊は、まさにその状態だったはずだ」

「……」

「単騎で戦況を変えるとはそういうことだ。一騎当千であることは、それほどまでに罪深いことなのだ。《相転移砲》のように、条約条令で規制することも出来ない。A級ジャンパー達の翼は、彼らの生身に宿っているのだから。浮き草である我々は、何としても野鳥を潰えさすか、この手に管理しなくてはならない義務を負っている。そして現在、まさにその必要に迫られているのだ。そのために、我々《火星の後継者》は立った。もう一度言う、力を貸して欲しい。藤田」







 地球から一番近い距離にあるとは言え、通常航行で1週間もかかるほどの距離が、地球と《アマテラス》の間にはある。だが、いま藤田の目の前にある光景は、その常識を手酷く裏切っている。

 今、コックピット内の前面スクリーンの大部分が、青い惑星に占めていた。その深い蒼穹、そして所々に点在する茶や緑といった色彩は、その惑星が豊かな天然資源を有している事を表している。

 地球がまさに眼前に存在していた。つまり彼は、ほんの一瞬で二千万キロメートルにも迫る距離を踏破したことになる。

 テンカワ・アキトが発揮した異能に対して、藤田には為す術がなかった。彼の持ちえる力では、何も出来ない。機動兵器の操縦など、かような超常現象の前では児戯に等しい。藤田は深い深い絶望の中にいた。すでに気力は抜け落ち、操縦桿すら握ってはいない。まるで一瞬にして何十歳も老け込んだような様相を呈している。

 周囲の《ステルン・クーゲル》に、一切の生命反応無し。そう告げるコンピューターのウィンドウが、彼をそのような淵に叩き込んだ。

 シンジョウは、A級ジャンパーを化け物と呼んだ。その通りだと藤田は思った。今をもって改めて、それが間違い出ない事を確信させられた。そして、《ゴースト》が今引き起こして見せた事象こそ、化け物のみが行使できる、人智を越えた魔法だ。

 ただ人や物を、他所へとテレポートさせる便利な魔法ではない。遺伝子改良。あるいは強固な《ディストーション・フィールド》。これらの庇護を受けていない生物全てを、無差別に原子の塵へと変える悪魔の術だ。どんなに優れたパイロットであろうと、この魔術に打ち勝つ術は無い。

「悪魔だ。貴様らは、やはり悪魔だ。A級ジャンパー、A級ジャンパー、A級ジャンパーA級ジャンパー……」

 掠れた呪詛が、コックピット内に延々と響き渡る。

 未だ若く、前途豊かな成長過程にあった中隊の部下達、パイロット達。その輝ける可能性が、未来が、圧倒的な力の前にねじ伏せられた。

 《ゴースト》。かすれた呟きには、しかし魂を引き絞るような怨嗟の念が込められている。心の隅々までもが憎悪の色に染まり、静かな声はその実、気が狂わんばかりの咆哮である。

 目下の敵戦力を壊滅させたアキトは、思い出したかのように、ただ一人残された隊長機の方を見やった。機体が故障でもしたのか、先ほどから何の動きも見せない、それでも生体反応があることから、パイロットが生きていることだけは確実である。

 唯一ジャンパー処理を受けていたこの隊長機のパイロットは、何も出来ないまま部下が全滅する光景を、その目に焼き付けたのか。

「気の毒に」

 そうとだけ呟いた。妙な考えが浮んだ。この隊長機のパイロットは、今まさに自分と同じ変貌を遂げようとしているのではないだろうか。自分自身の夢と、二人の愛する者を奪われた自分。そして目の前で部下を次々と殺された、隊長機のパイロット。それぞれが抱く感情に、どれほどの相違があるのか。ひょっとしたら、全く同質のものなのかもしれない。

 アキトは、プラント・コロニーの中でのことを思い出した。今、同じことが自分の目の前で起こっているのか。他でもない、自分自身がそれを引き起こしたのか。怨みは怨みを呼ぶのか。狂った人間は、周りの人間をも狂わせていくのか。

 非情なと言うには余りに自虐的な要素を含んだ感情を込め、アキトは手持ち火器に残された最後のエネルギーを隊長機に向けて放出した。

 動力部に被弾したのか、ほどなく隊長機は爆発した。南十字星のマーキングが、絢爛な火葬の炎に消える。《サザンクロス》中隊の最期だった。

 アキトはその輝きを見送らなかった。全身を襲う疲労感が重い。とにかく疲れていたのだ。







 既に弾切れしたハンド・カノンを、もったいぶってブリッジへと向けることで、アキトはカタパルトより出撃のタイミングを伺っていた高杉の動きを封じた。撃てない事を悟られない限り、効果的な脅しである。これだけで、主導権は、すでにアキトの手に移っていた。

 《ナデシコB》には、取り回しの効かない《グラビティ・ブラスト》しか武装は無く、艦載機はアキトに動きを封じられている高杉機のみ。形勢逆転は、まず不可能だった。

 《ナデシコB》のクルー全員の生殺与奪権を得た(ように見せかけた)アキトは、《ブラック・サレナ》のテイル・アンカーから、接触回線用のワイヤーを射出し、《ナデシコB》の傍らに佇む《スーパー・エステバリス》へと繋げた。

「安心しろ、エステのパイロット。撃つつもりはない」

 返答まで、いささか時間がかかった。恐らくブリッジにいるルリに中継する手はずを整えたのだろう。

「信用しろっていうのかい」

 アキトは返事をせずに、背中の補助席の方に身を乗り出した。拘束具を取り外し、腰を抱きかかえるようにしてスバル・リョーコの体を持ち上げる。

 《夜天光》との戦いの最中に、何時の間にか彼女は気絶していた。専用のパイロットスーツを着ていない彼女では、《ブラック・サレナ》のコックピットに加わるGに耐え切れなかったのだろう。

「お疲れ……」

 聞こえてないのを承知で、そう労った。

 《ミネルヴァ》に思惟を送って、アキトはコックピットハッチを開放させた。高杉の息を呑む音が、ワイヤーを伝ってアキトの耳にまで届く。ハッチが十分に開くや否や、アキトはリョーコの体をゆっくりと、高杉機の方に向けて押し流した。

 慌てたのは高杉である。すぐさま機体を移動させて、両腕のマニピュレーターでリョーコの体を優しく受け止めた。

 高杉が《ゴースト》の方を振り向いた時にはもう、コックピットハッチは閉じられていた。勤めを果たしたアキトは、すぐさまワイヤーを切り離して、《ボソン・ジャンプ》で帰還しようしたが、それを食い止めたのが、いままで高杉とアキトの会話に聞き耳立てるだけに留まっていたルリだった。

「こんにちは。私は宇宙軍第七艦隊所属、試験戦艦《ナデシコB》艦長、ホシノ・ルリです」

 いつだったか、建造中だった《ユーチャリス》の中でラピスと共に、同じような台詞を聞いたことがあった。

「聞こえますか。もしもし。返事してください」

 聞こえているよ、と内心で返事をする。

 テンカワ・アキトとホシノ・ルリ。アキトは、相手がルリだと知っているが、ルリは知らない。姿は見えない音声のみの、そしてやや一方的な二人の再会だった。

 アキトにとって、今彼女とは言葉を交わすべきではなかった。《ナデシコB》の出現も、とっくに周囲にキャッチされていることだろう。今にも、パトロール隊が規定航路を逸脱して、この付近にまでやってくるかもしれない。だが、そんなアキトの事情など、ルリの知った事ではなかった。

「わざわざ、家の近くまで送って頂いて、有り難う御座います。それで、お見送りついでに、一つだけ教えていただけませんか。貴方は、一体誰なんです?」

 うわべは丁寧だが、その実尊大な物言いである。銃口を着き付けられていながら、まるで臆していない。まさかこちらのエネルギー切れを察知したという事はないだろうが、発砲する意志が無い事は見抜いているのかもしれない。これ以上の脅しも通用するまい。アキトには、無視する以外に対応のしようがなかった。

 しかしこのときアキトは、このホシノ・ルリというかつての家族を甘く見すぎていた。

「やっと繋がりました。もしもーし」

 遮断していたはずのウィンドウ通信の回線が、無理矢理こじ開けられ、今アキトの目の前に少女の顔を移したエア・ウィンドウが出現した。

「馬鹿な……」

 心胆が凍える感触を、アキトは味わった。この状態になることはつまり、こちらの顔も向こうには見えていることになる。

「少々、回り道をして梃子摺りました。思ったより、お若いようですね。ヘルメットを外した顔も見てみたいです」

 アキトが被っているヘルメットのバイザーは、遮光プラスチックを使用しているため、外側から容姿を見て取る事は出来ない。そのため正体を見破られる事は無いだろうが、それでも、プロテクトを施したはずのシステムにこうも容易に介入できる彼女の実力に、アキトは戦慄した。

「化け物じみてる」

 思わぬ呟きである。

「貴方に言われたくないです」

 独り言を、ルリは耳ざとく拾った。

「私は、人よりも少し機械の扱いが上手なだけです。貴方のように、戦艦を一気に地球まで運ぶような真似は出来ません」

「……」

 ちがいない。アキトは周囲に浮ぶ、空っぽの《ステルン・クーゲル》を眺めながら、そう思った。

「ですが、相当無理をされたと思います。戦艦を丸ごと跳躍させるなど、ジャンパー一人には少々荷が重かったはずです」

 訓練の賜物だった。

 アキトは改めて、ウィンドウに映る成長した義妹の姿をしげしげとみやった。

 昔よりも幾分髪が伸びており、表情は大人び、薄かった肌の色素も、少し色づいてきたように思える。ウィンドウ通信では分からないが、恐らく身長も伸びていることだろう。

 実際問題、生前より施されていた遺伝子操作や、ナノマシン注入の影響により、彼女の身体的成長は常人に比べて遥かに遅いはずだ。三年分の成長は確かに見受けられるが、それでも体格は同年代の平均より大きく劣っていることだろう。

 だがそれでも、ルリの成長した姿は、アキトの瞳にあまりに健やかに映った。アキトのように五感を失いもせず、ユリカのように精神ごと束縛もされず、アサヒナの無残な白髪とも違う、見る者を魅了する銀髪を翻して彼女はアキトの前に姿を現している。

 それが、アキトには感慨深かった。

 アキトのルリに対する想いは、癇癪を起こして引っ張ったら、ますます絡まった糸のように複雑である。

 アキトにとって、ホシノ・ルリという少女は、神聖視された過去を象徴するものだ。劣等感……などと呼ぶと卑屈すぎるが、そこに、ある種のコンプレックスが内在されていることは否定できない。

 しかし厳然たる事実として、アキトはルリを愛していた。彼女自身を、そして何より、彼女が象徴する「過去」を、《ナデシコ》を愛していた。

 それは自分の命すら半ば見捨てている彼が、どうしても捨てきれなかったもの。未練がましく、すがり付くもの。名前を付けるなら、それは誇りというものだった。

 アキトは再びイメージングを開始した。もはや今日幾度目のジャンプかも知れない。ルリの言う通り、すでに肉体は疲労どころか、消耗の極致にあった。

 いつか彼女とは、再び会う事になる。そのような予感だけを残して、アキトは帰還した。







 ホシノ・ルリはまだ、《火星の後継者》によるA級ジャンパー虐殺の事実を知らない。火星への移住は現在禁止されているが、まだ地球には火星生まれの人間があちこちにいるはずと思っていた。

 そんなルリにとっては、第二第三の《ゴースト》の誕生もありえない事実ではない。軍人としての自覚乏しいルリでも、複数の悪意あるA級ジャンパーが出現したとき、予想される状況を大雑把にシミュレートするだけで頭痛が発症してくる。

「艦長。宇宙軍のパトロール隊が接近してきました。通信も入っています」

 マキビ少尉から回線を回してもらい、ボース粒子を感知して付近まで接近してきたパトロール隊に、ルリは簡単に事態の経緯を説明した。反乱軍の決起の報せなど、とても一部隊の提督だけに止められるものではない。上層部にまで連絡は届き、追って指示が下るまで、《ナデシコB》は避難民の引渡しもかねて、最寄の宇宙ステーションに寄航することとなった。

 避難民へ要約された事の推移と、これより寄航する宇宙ステーションにて下船してもらう旨を艦長自らが伝えた後、ルリは艦体制御をマキビ少尉やその他のクルーに任せ、一端休息を取る事にした。

 ブリッジを出たとき、ルリが最初に行ったのは自室ではなく医務室の方である。シャッターを開き中に入った先には、白衣を来た医療班の人間のみならず、パイロットスーツを着たままの高杉大尉の姿も見えた。

「リョーコさんのお加減は?」

「良く眠ってます。寝顔だけ見ると、ほんと美人ですよ。《鬼女》なんて呼ばれてるのが信じられませんね」

 医療班から、軽く容態の説明を受けてから、ルリもまた高杉に習って、枕もとからリョーコの顔を覗き込んだ。たしかに、普段は男顔負けに勇猛果敢な彼女だが、眠っている間はその気性もまた眠りにつくためか、意外にも寝顔は穏やかで、女性的な柔らかさに溢れている。《鬼女》などと、誰が何処を何処から見ても、呼べるものではない。

 不意にリョーコの口元が動き、何らかの言葉を囁いた。寝言だろうか。

 ルリは身を起こした。

「疲れているでしょうし、寝かせておいてあげましょう。高杉大尉も、お疲れさまでした。許可を与えますから、貴方もゆっくり休んでください」

「艦長は?」

「私も、すこし休憩を取るところです」

「じゃ、途中までご一緒しましょうか」

 二人は医療班の人間に声をかけて、医務室を後にした。途中、高杉は自慢の長髪が汗ばんでいるのを気にしながら、隣を歩く上司に声を掛けた。

「艦長のご家族……初代《ナデシコ》のパイロットだった男ですけど」

「アキトさんのことですか?」

「確かお亡くなりになったと言いましたよね」

「ええ、事故で」

「失礼ですけど、原因不明のシャトル事故で、確か死体も出なかったとか」

「そうです。結婚したばかりのユリカさんも一緒でした」

「ははぁ……そうでしたね。いえ、すみません。急に気になったもので」

「いえ、別に」

 そのまま高杉はパイロット専用のロッカールームに、ルリは居住区の自室の方へと向かっていった。ここは当然ながら、航行中にしか使われない部屋であり、彼女の本来の住居は、宇宙軍本部がある地球にある。そのため、昔からあまり部屋に物を置かない彼女であったが、この部屋には以前よりも増して必要最低限の物しか置かれていない。そんな殺風景な室内で、ルリは入浴と着替えを手早く済ませ、もぞもぞベッドに潜り込み、部屋の電気を消した。部屋の室温は適温のはずだったが、ルリは寒さに耐えるように、毛布の中で両膝を抱え込み、小柄な肢体をさらに縮めこませる。

 《アマテラス》中で踊り狂った「OTIKA」の文字群が想い浮ぶ。それを裏側から覗いたとき、雷鳴ごとく脳裏に刻み付けられた「AKITO」の文字が目蓋の裏にちらつく。そして、ついさきほどリョーコがこぼした寝言は、今でも克明に耳の奥で繰り返し再生されている。

 「アキト」と間違いなく聞こえた。一体何故、誰に向けて、リョーコはその名を呼んだのか。確証は無くとも、思考は止まらない。優れた技量を持つパイロットであり、A級ジャンパーである謎の人物《ゴースト》。恐らく高杉大尉もリョーコ寝言を聞き捉えて、あのような話題を出してきたのだろう。

 そして彼もまたルリと同じ結論に達しているにちがいない。テンカワ・アキトのことは、元木連人であった高杉も良く知っている。

 外からは窺い知れない、しかし嵐の海のような感情のうねりを抱いたまま、ルリの意識は眠りの国へと落ち込んでいった。明日が来るのが怖い。明日になれば、きっとリョーコは目を覚ますだろう。彼女から事情を聴取しなくてはならない。あの呟きの意味を、リョーコの口から聞かなくては。そのときが来るのが、たまらなく怖い。

 電子の妖精と《ゴースト》の出会いは、こうして幕を閉じた。







 《アマテラス》の最奥ブロック。つい数十分前まで《遺跡》が安置されていた区画にて、愛機《夜天光》のコックピットに座したまま、ハッチすら開けっ放しにして茫洋としていた暗殺者を訊ねた男がいた。

 《火星の後継者》の幹部であり、今となってはアズマ准将に代わって《アマテラス》の司令官を勤めるシンジョウ・アリトモである。

「どうした。『影』を訪ねるとは、貴様にしては珍しいな」

 コックピットから立ち上がろうともせず、下方から自分を見上げている男に、そう声をかけた。今、《夜天光》は壁に背をつけて座り込んでいる姿勢にあるため、二人の距離にそれほどの開きはなく、会話も問題なく成立する。

「私もそう思う」

 空気が確保されていても、つい先ほどまでこの空間内にごった返していた科学者連中は、既に火星へと退避している。RHシリーズたちも、そして《遺跡》も同様だ。それはあくまで戦略的撤退であり、なんら《火星の後継者》の勢いに翳りをつけるものではないが、それでもなぜかこの空間には、どこか負け戦じみた雰囲気が立ち込めていた。

「お前達にも、一端火星へと帰還してもらう。その後、また地球へと向かってもらう事になるが」

「地球の連中の小細工を破るためにか」

「ああ。地球にいる間諜たちと連携してほしい」

「ふん……」

 つまらなそうに、北辰は鼻を鳴らした。

「不満そうだな。それほど、機動兵器から遠ざかるのは嫌か?」

「使命を忘れてはいない」

「なら、いいが」

 シンジョウは、座り込む《夜天光》の全身を眺め回した。対フィールド機構を搭載した手甲を装備した両拳は酷く変形し、フィールド発生器のある胸部は、よほどの過負荷にあてられたのか、所々が歪み、火花すら散っていた。満身創痍という言葉が、この上なく似合う状態である。《ブラック・サレナ》との、一対一での戦闘の名残だった。

 《遺跡》の保護を命じられていた北辰は、テンカワ・アキトが《ナビゲート》によって《遺跡》を強奪することを危惧し、中距離《ボソン・ジャンプ》で《遺跡》ごと部下を撤退させ、それを阻止しようとする《ブラック・サレナ》を単独で迎え撃った。

 《ブラック・サレナ》が誇る高出力の《ディストーション・フィールド》も、堅牢な重装甲も、対フィールド性能と貫通力に優れる《夜天光》の武装により、したたか傷つけられたはずだが、《夜天光》の方もまた、相応の報いを被っていた。

「手酷くやられたな。やはり人外の者同士、腕も互角ということか」

 シンジョウの言は、皮肉である事には違いないが、いやらしい嫌味さは何処にも無い。むしろ、ただ純粋に、ここまで《夜天光》を痛めつけた仇敵を称賛する響きがあった。

「人外か。彼奴に比べれば、我など可愛いものよ。所詮、ヒトの域を脱する事は出来ん。あの遺伝子細工と同じにな」

「ホシノ・ルリのことか」

「生身では限りなく、無力に近い。いくらでも対処のしようはある。A級ジャンパーとは違う」

「……なるほど。だが、A級ジャンパーを擁しているのはこちらも同じだ。テンカワ・アキトとミスマル・ユリカ。どちらがより優れたジャンパーか、見物だ」

 好戦的な言葉と裏腹に、シンジョウの表情は疲労の色が濃い。

「恐らく奴等も、今までの住処を引き払い、地球へ移住するだろう。引き続き奴とNO8の処分はお前に任せる。無論、優先すべきは地球連合の要人たちを見つけ出す事だがな。《夜天光》も修理が済み次第、地球へ送る。設計局が以前より、強化プランを訴えてきている。しばらく会わない内に、面変わりするかもしれん。それまでは、ゆっくり休息を取ってくれ」

 会話はこれっきり終了し、シンジョウは踵を返して、区画奥のエレベーターの中に消えた。その背中を見送った後、作り物の赤眼は、再び中空に視線を遊飛させ、天井の向こうに、何かを主に見出させる。

 まだ足りない。

 そのような独白が唇から洩れ出るほど、今の北辰は思い詰めていた。欲しい。欲しい。喉から手が出るほどに、欲しい。

 テンカワ・アキト。あの男と心ゆくまで殺し合える時間と、場所と、機会が欲しい。そのためなら、使命など、どうでもいい。あの男なら、自分という生物に、使命などよりも遥かに充実した瞬間を提供してくれるはずだった。

 そのときを、北辰は今か今かと待ち続けているのである。







 この世のどことは言えない世界で暗闇が裂けたのは、現世の時間軸で言えば《ブラック・サレナ》が周囲ごと《アマテラス》を退避したのと、ほぼ同時になる。

 まるで引き裂かれるように、辺りを覆い尽くしていた光景が一転し、再び暖かな色彩溢れる世界が彼女を囲った。大空の青。雲の白。草原の緑。先ほどまで世界そのものを染め尽くしていた黒色は、まるでなりを顰め、せいぜい草花の影に色づけする程度にまで退いていた。

 いや、他にもあった。それは彼の髪。彼の瞳。彼女を恐怖のどん底に陥れた色も、彼の肉体を構成する一部であるからには愛さずにはいられない。世界は本来の形と色彩を取り戻し、彼女の愛する男性もまた、本来の通りに彼女の目の前に佇んでいた。

「アキト!」

 駆け寄り、抱きしめ、彼という存在を全身で味わった。

「ユリカ、どうしたんだ」

 気障などと言う言葉が少しも当てはまらない、極自然な優しさに溢れている。果たして、彼の笑顔とは、こんなに良いものだったろうか? そもそも、彼が自分の前で笑顔を見せるのは滅多になかった気がする。もっと憮然として、呆れたような顔で、自分を見ていることの方が多かったような気が……。

 だが、そんな些細な疑問も、魅力的過ぎる彼の表情の前に呆気なく崩壊した。いま目の前に居るアキトが、全てではないか。ユリカと呼ばれた女性は、アキトを抱きしめる両腕に力を込める。

「分からない。急に辺りが真っ暗になって、アキトがいなくなった気がして」

 気がして、というが、あれが幻覚の類ではないことを、彼女の中の理性は確信している。だが、感情の方は全力で、理性とは正反対の結論へ縋り付こうとしている。

「夢だよね。あれは夢だよね。今が現実なんだよね」

「大丈夫だよ。ユリカ。何も心配ない。何も心配ない。ここにある世界は、確かなものだから」

 怯えるユリカに降り注ぐアキトの言葉は、ユリカが望むとおりのものだった。それがアキトなのだ。自分の気持ちを分かってくれる。自分のして欲しいことをしてくれる。それが、ユリカにとってのアキトなのだ。アキトが言うなら大丈夫。自分でも不思議に思えるくらい、強い安心感が彼女の全身を満たした。

「そうだよね。私もそう思うよ。今まで色々なことをしてきたもんね。喫茶店でパフェを食べたり、映画を見に行ったり、リビングでコーヒーを飲んだり、ルリちゃんの学校の授業参観にいったり、三人で旅行に行ったり、いろいろな事をしたもんね」

「そうさユリカ。ここは火星だけど、地球に行けばルリちゃんも待ってる。他にも、ミナトさんやユキナちゃんも待ってる。皆がユリカを待っている。ユリカは幸せなんだよ。それなのにこんなに怯えて、可愛そうに、怖かったんだな」

「そう。怖かったの。黒い人影が見えてね。顔もハッキリしないけど、とても怖かった。何かされたわけじゃないけど、怖かったの。アキトとは全然雰囲気が違ってね、とても傍にいられなかった。だから私、走ったの。その人から遠ざかりたくて。アキトの傍に戻りたくて」

 今でも、背後にその人影が佇んでいるのではないか。そんな恐怖感に囚われて、ユリカは恐る恐る振り返った。アキトは、そんなユリカの頬に指を添え、自分の方に向き直らせた。再び結ばれ、絡みつく視線。

「大丈夫だよ、ユリカ」

 そう囁かれればユリカは満たされ、もう何も考えなくてもいいとすらと思い始めた。



 

 

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代理人の感想

お久しぶりです。お待ちしてましたよ。

いやー、やっぱり面白いですね。

特に「敗け戦の雰囲気」のくだりは思わず膝を打って喜びましたよ。

こういう文章書きたいなぁ。