ラピスはじっと空を見つめていた。一人、その秋の空を見つめていた。
 夜はもう深く、微かな虫の声と空の囁きだけが聞こえる。眺めれば遠く近く、優しく無機質な火が灯っている。
 そして街の片隅にある、小さな野原の上で。その秋風に包まれた草原の上で。
 黄金色の瞳を持つ彼女はその大切な人のことを思い…静かにそっと夜空を見上げていた――









 〜あの日、一番キレイだった夜に〜




「…おはよ、ユリカ」
 明るい朝。いつもと変わらない、そのほんわかとした朝。まだ眠気の残る頭をぼぉっと振りながら、ラピスはいつものように彼女に挨拶をする。適度に散らかった狭いリビングの中央、いつものソファに緩慢な動作で腰を下ろす。
「おはよう、ラピスちゃん。ご飯もうちょっとだけ待ってねー」
 返って来たのは明るくはきはきとした声だった。ラピスの同居人であるテンカワ・ユリカのものだ。
「ん」
 すぐ右横に置かれたクッションを無造作に掴み、それに顔を押し当てながらラピスは小さく返事をした。彼女の薄赤い髪、まだ寝癖の少し残っているストレートの髪がさらりと揺れる。木製のテーブルの上でカーテンの影がゆらゆらと揺れている。
 …キッチンからはユリカの鼻歌が小さく聞こえてきていた。微かに漂ってくるオニオンスープの香りがラピスの鼻をくすぐり、ゆっくりと夢の世界からこの小さな二人だけの空間へと引き戻そうとしていた。小さな頭をちょっと動かして、彼女はユリカの後姿を目に留めてみた。
 ちょうど、トースターが小気味のいい音を立てて焼きたての食パンを吐き出したところだった。パタパタとスリッパが奏でる打楽音とともに、冷蔵庫へと足を向けるユリカ。白い長袖のニットにジーンズ姿、首先まで伸びる程度の黒髪を後でまとめ上げ、淡いピンクのエプロンをつけた彼女は冷蔵庫からジャムとマーガリンを取り出し、それから少し慌てたようにしてコンロへと舞い戻っていって。
 ラピスはそれを見届けると、今度は窓の外へと目を向ける。7時を幾らか回った朝の時間。白いレースのカーテンの向こうから、優しく、そして少しだけ弱々しい陽光がリビングへと降りそそいでくる。そよ風と太陽の音が、彼女に、そっと届いてくる。
 そして目を細め、そのぬくもりを肌に感じ、ラピスは小さく欠伸を漏らした。
 その白く小さな手を―――でも、2年前よりもずっと成長したその手を可愛らしく口にあてながら。そうして静かにその息を漏らした。それからその場に立ち上がり、匂いにつられるようにしてキッチンの方へと足を運んでいった。
 続いてそこから響いてくるのは、ラピスの小さな呟きと楽しそうなユリカの笑い声。他に誰もいることのない、でもそれでも暖かなその時間。
 彼女にとってのただ一つの朝は、そうしていつものように始まっていくのだ。





 1.〜Modere 〜 おだやかに

 ――季節は秋だった。そしてあの事件からは2年の月日がすぎていた。
 その月日の移ろいの中で人々は少しずつ新しいものを得、また古いものを失っていく。かつてのものへの憧憬をなくしてしまうなか、暖かな陽射しの中に他のものを見つけられることだってある。それがかけがえのないものになっていくことだってある。
 そしてかつてテンカワ・アキトの側に従い、ともに日陰の道を歩んできていたラピス。時間の凍った彫像となりながら、長い時を眠っていたユリカ。そんな二人は紆余曲折の末、今こうして一緒の生活を送っているのだった。

「…ねぇラピスちゃん、今日は帰り早いの?」
 それは朝食の最中のこと。透明なグラスに注がれたミルクを口にしていたラピスに、ユリカがそう問いかけてくる。それは最近いつもの二人の会話らしい。グラスをテーブルに置き、彼女は答えて。
「ううん、今日も寄ってくから。帰りは夕方」
 するとユリカはラピスの返事に頬を緩めた。スープにゆっくりとスプーンを入れながら、少し覗き込むようにしてラピスのほうを見る。
「そっかぁ。練習、どのくらい進んだのかな」
「まだあまりできてないよ。半分もいってない」
「じゃあ、まだ私にお披露目してくれない?」
「……もうちょっと、待って」
「ううう、残念」
 そしてその一連の符牒めいたやりとり。何かを期待するような目でラピスを見るユリカに対し、ラピスは事もなげに、でも少し気恥ずかしそうにそう答えるだけ。端から見ていればその小さな攻防が、ユリカの根負けに終わったように見て取れる。ラピスのさらに頑なになった表情がそれを物語っている。
 だから肩をちょっとだけ落とし、自分を慰めるかのように出来のよかったオニオンスープを口にするユリカ。でもラピスがその様子を気にしたようにユリカをじっと見ると、彼女はまた微笑んで言ってくる。
「…でも、私に一番にお披露目してくれるんでしょ?」
「ユリカ『達』に、だよ」
「うん。だからラピスちゃん、楽しみにしてるからね!」
 そしてそのユリカの言葉に、ラピスは僅かに頬を赤くして。
 …それはここのところ数ヶ月、二人の間で幾度となく交わされていること。二人にとってはなんでもないようなやりとり。そしてそんな、今になっては当たり前のその光景。でもそれが当たり前になっていったのは、ユリカとラピスの努力があってこそだった。
 二人が一緒に生活を始めてから、もう2年近い時間が経っている。今の関係はその時間の中で作られていったものであって、始めからあったわけじゃない。そう、最初ラピスはユリカに対してどこかよそよそしく、そして少しだけ反抗的でもあったのだから。
 彼女がユリカと――病院での数ヶ月のリハビリ生活を終えた彼女と初めて会ったのは、ある冬の晴れた日のこと。その日いつものように目を覚ましたはずの彼女は、いつもとは違う、いままでとは違う時間の中へと不意に放り出されることになった。
「はじめましてだね、ラピスちゃん」
 その明るく居心地の悪い部屋で、一人。彼女は知らない女性に声をかけられた。

 …その時ラピスは声をかけてきた女性を見上げ、それが"知らない人"であると判断し…黙り込んでしまった。その目は目の前の女性だけを見つめていたが、言葉を返すことはなかった。
 目の前にいた女性――ユリカは困ったような微笑みを浮かべ、ラピスの瞳が僅かに揺れる。その彼女の様子に慌てたようにして、彼女を連れてきた馴染みの職員がユリカと話をしだしたことをラピスは覚えている。そしてその2人の話に、心が大きく揺さぶられたことをはっきりと覚えている。
 寂しくその表情を緩ませた、その時以来一度も会っていないその職員の顔すらも覚えている。
「――ラピスさん。急な話で本当にごめんなさいね。今日からテンカワさんが新しい任務に就くことになって…今朝早くに月へと向かったの。それで、今度の任務は終了するまでに1年以上かかるもので、その間は彼も月から自由に身動きできないのよ。
 だから、ラピスさん。今日からその日まで、テンカワさんが任務を終える日まで、こちらのユリカさんと一緒に生活をしてくれないかしら?」
 そしてその時。始めてラピスは、目の前にいるその女性がミスマル・ユリカである事を知ったのだ。


 ――ところで当時のラピスにとって、ネルガルの意志に拒否を示すことはタブーだった。
 何故ならそれは、彼女が生きていけるたった一つの場所を否定すること。そしてアキトの側という居場所を失うことを意味していたから。だからそれまで彼女は、ただひたすらにネルガル言うままに、なによりアキトのいうままに生きてきた。
 でもこのとき彼女に求められた選択は、今までとは全く違うものだった。
 …もしラピスが"Yes"と言えば、彼女はアキトとは離され、目の前にいるその女性――ユリカと、その名前だけを知っている彼女との生活を余儀なくされる。その新しい生活には、彼女にとっての支えであり全てであったアキトはどこにもない。
 では、もしラピスが"No"と言っていたら。
 その時には、彼女はその足元にある全てが奪われてしまうのかもしれない。ただそうなった時にアキトは、ラピスのことを放ってはおかないのだと…アキトは自分のことをきっと助けに来てくれるのだと、そう彼女は信じることが出来る。今まではずっと、そうだったのだから。
 だから彼女は、アキトと一緒にいられる可能性の高いほうを選ぼうとした。
『――私は、ただアキトと一緒にいれればいい』
 その口からその言葉が漏れかけ、そして彼女の問いかけに対して首を横に振ろうとしかけた。
 …その、狂おしいまでの気持ち。
 彼女にしてみればただ当たり前の、その気持ち。とてもやりきれない気持ち。
 でも目の前にいたその職員は、ラピスのその気持ちを。彼女の願いを優しく無情に粉砕するための手段を用意していたのだ。
「それと、もう一つ。テンカワさんから手紙を預かってるわ。…もしユリカさんと一緒に暮らすことを嫌がったときに、ううん、きっとラピスさんはそうするだろうから――その時にこれを見せてくれって」
 そして差し出された手紙。とても心に重い紙切れ。
 それを受け取った時に、ラピスの心臓はぎゅっと締め付けられた。ずっと感じていなかったはずのその思いが、その怖さが蘇ってきていた。ふと優しい声が聞こえてきた。
「……読んで、あげよっか?」
 そのラピスの凍ったような表情。今にして思えば、彼女だからこそ気づけたのだろうその表情を見て、ユリカは言った。ラピスは僅かに沈黙を降ろし、それから首を横に振ることが出来た。
「そうだね…」
 静かにそう言葉を続けたユリカ。彼女はその右手をそっと、自分の口元にあてる。そして、ラピスはゆっくりと手紙を開く。
 無言で、揺れる瞳でその文面に目を通していく――。


『――大切な、ラピスへ。

 もしかしたらこの手紙を読むことはないかもしれない。でも、きっと必要になると思ってこの手紙を書くことにした。
 …もう話は聞いていると思う。今回の任務は今までとは違って、長期のものになるという話だった。その間はずっと、任地である月からは身動きが取れない。今のままだと俺はラピスを1年も一人にさせてしまうことになる。だから、お世話をしてくれているユミさんとも相談した結果…ラピスを信頼のおける人の下に、ユリカの下に預けることにした。
 突然こんなことをラピスに強要してしまって、本当にすまない。でもそれが今は一番だと思っている。ユリカも快く引き受けてくれた。だからラピスもどうか、ユリカと一緒の生活を始めることを…受け入れて欲しい。それが今の俺がラピスのために願う、身勝手な我侭だとしても。

 任期は1年と4ヶ月ほど。終わったらすぐにラピスのところに、いや、ラピスとユリカ、二人のところに駆けつけると約束する。だからそれまで、待っていて欲しい』


 …弱々しい陽光のさし込むその部屋は、しばしの静けさに包まれた。
 その長い沈黙。一人の少女が紡ぎだした、音のない心情の世界。そしてそれを破ったのは、やはりそれも小さな音の欠片。
 それは、くしゃりと紙の折れる音だった。キレイに歪んだ音だった。
 音を立てた彼女の指先は、細く震えていた。見えない何かが、はっきりと震えていた。
「――アキト……どうして?」
 そしてその声がただ、霞んだ天井へと悲しく吸い込まれていった。






 2.〜Tres Lent 〜 ただ、ゆっくりと

 結局、ラピスはその新しい生活を受け入れた。でも彼女は一つ、頑なな意思表示を行動で示そうとしていた。最初彼女はユリカと、一言も会話を交わそうとはしなかったのだ。
 二人の間にテンカワ・アキトがいなかった。本当ならいてくれるはずの彼がいなかった。その事実がラピスにそうさせた一番の原因なのだろう。彼女にとってユリカはアキトの代わりとなる存在ではなく、彼女からアキトという人物を間接的にでも奪っていった存在――そういうふうに見えていたのかもしれない。
 …ユリカがいたから、アキトは自分を月へ連れて行ってはくれなかった。ユリカがいなかったら、私も一緒にいけたのかもしれないのに。
 そんなふうに漠然と彼女は思っていたのかもしれない。自分でも気がつかないままに、そんな感情が彼女には芽生えるようになっていたのかもしれない。そして、だからこそ。
 彼女は自分の中の強い思いから、今までとは違う強い感情から、ユリカへの言葉を閉ざすことを決めたのだ。

「ラピスちゃん、おはよう!」
「――――」
 だからラピスはユリカの声に、彼女の向日葵のような笑顔に沈黙を返した。沈黙を返しつつ、その表情だけは厳しい意思に彩られていた。
 彼女が作るぎこちない料理を口にするときも、二人リビングに佇んでいるそのときも。明るく振舞おうとするユリカに対して視線だけを返し続けた。そんな日々が続いていった。
 …そんな彼女が初めてユリカに、二人暮らし始めてから最初に言葉を返したのはいつのことだったろうか。それはいつものように夜のリビングで、ユリカが一人ラピスに向けて話しかけていたときだったろうか。
 それまでの経験から、アキトの話をすればラピスが反応を多く見せてくれるということに気づいていたユリカは、その夜も彼女のほうを向きながらアキトの話をしていた。そしてソファの上に座り込んで、その小さな身体を丸めるようにしながら。ラピスは必死で聞いていないふりをしつつもユリカの話に耳を傾けていた。自分の知らない、そして目の前のユリカが知っている、『昔のアキト』の話をじっと聞いていた。
 いつもと同じような時間。二人の不器用な時間。でも、その日不意にユリカは言葉を止めて。
 言葉の途切れた彼女の口からは、代わりに小さな嗚咽が漏れていって。
「…っ………アキ、ト―――」
 そして彼女は、ユリカは泣いていた。その身体を丸めるようにして、自分の弱さをラピスにだけは見せまいとするようにして。そうやって必死に表情を隠しながら…でも隠し切れずにいた。
 そしてラピスはその姿を見ていた。座り込んだまま、頑なな顔だけをはっきりと、ほんの微かに揺らせたまま。その無言の唇と震えそうな瞳で彼女を見ていた。
 でも、見続けることなんてラピスにはできなくて、だから。
 …扉の閉まる音。消えていく不ぞろいな足音。不確かな体温が一つ消えていく実感。
 それでもユリカは顔を上げることができなかった。ただ、しばらくはそうしてうずくまっていることしかできなかった。
 薄い壁をはさんだその真っ黒の寝室の中で、その小さなベッドの上で。彼女が洗い立ての冷たいシーツに包まれながら―――幾年ぶりかもわからないその涙の感触に、きっと驚いているだろうことを知りながら。




 そう、夜は二人をそっと隔て、その別々の涙と心とを見つめているだけだった。忘れていた涙と、弱くなれない心を傍観しているだけだった。
 真夜中に空を見上げた少女が冬の風に身を震わせるのを眺め、ベッドに横たわる女性が窓辺の月を想うのを感じて。そして冷たくて曇りない夜の中で、その遠い夜の天辺で。一人誰かが青い月を眩しそうに見ているのを知って。それでも風はただ冷たく澄み渡るように空を流れていた。
 彼女にとって、それは。ただひたすらに冷たい夜だった。
 ……でも、そんな一つの夜があっても。いいえ、その小さな夜があってこそ。

 その朝は快晴だった。真っ白な月が穏やかに、つかの間の朝を覗き込んでいた。そして、その日は二人にとっての特別な朝になった。


「―――おはよう、ユリカ」
「…ラピス、ちゃん?」
 ユリカがラピスのかけがえのない言葉を聞いた、初めての日になった。






 3.〜Assez doux, mais d’une Sonorite 〜 やさしく、歌い上げるようにひとつに

 …ゆっくりと、本当にゆっくりと季節はずれの雪はとけていく。数ヶ月の時をかけて一欠けらずつ解けていく。薄桃色の花びらと、そしてたおやかな太陽の笑みとにだんだんと包まれていきながら。遅すぎはしない暖かさを深く実感していきながら。
 そうして変わらず静かに始まる朝。でもラピスはただ黙ってユリカのことをじっと見ているのではなく、その表情に微かな感情を映しながら彼女の笑顔に答えてくれる。
 彼女たちの静かな一日。でもそれは少しの躊躇と不安とに包まれた、二人にとっての小さな希望そのもの。
 ユリカがその微笑を彼女に向ける。ゆっくりと、彼女の笑みはほどけていく。
 そうしてその木漏れ日のなか、薄い雲の下、優しい雨のとき、滲んだ茜色の瞬間。そんなひとつひとつの時をはさんで、少しずつ彼女は新しい日々へと目を向けていけた。ユリカと二人、少しずつでも微笑いあえることを、楽しいと思えるようになっていった。

 …でも夜はまだ、彼女にとって深い闇のままだった。






 4.〜Anime 〜 転回

 それはある雨の日だった。
 昼下がりの街中で、駆け込むように小さなレストランへと足を踏み入れた彼女たち。僅かに濡れた肩の雫をふき取りながら、案内されたテーブルで小さく息をつくユリカ。
「あーもう、危なかったね〜。ラピスちゃんが傘持っててくれなくちゃ、ずぶ濡れだったよ」
「…ユリカ、天気予報見てた? 今日は午後から雨だって」
 ラピスはそれに小さく答えながら、スカートの裾を軽くハンカチで叩く。どこかその顔を不機嫌なように、どこかちょっぴりだけ呆れたように。
 でもそんな言葉にもユリカはいつもどおり。
「そういえばそんなこと言ってたっけ。でも慌てて出てきたし、結果的にはラピスちゃんのおかげで問題なしでしょ〜?
 それよりラピスちゃん、ごはんごはん!」
 ちょこんと椅子に座りなおして、ラピスはメニューを覗き込みながら。
「ん。…とりあえず目をつぶってあげる。かわりに好きなだけ頼むから」
「うぅ、それはけっこう厳しいなぁ」
 とはいえもとより小食な彼女。ユリカの小さな苦笑いもすぐに微笑みに変わる。彼女のオーダーにはほんの少しの甘い小皿が増えただけ。
 あとは始まる、他愛のないおしゃべり。外に響く微かな雨音。青葉をつたう雨の香り。
 と、そんなときだった。ラピスがふと、店内に流れ始めたその曲に気づいたのは。

「ん? どうしたのラピスちゃん」
 ざわめきのなかに聞こえてくるその音。ティーカップを傾けながらそうユリカは問いかけた。ラピスはあてもなく天井へと二度三度視線を彷徨わせながら、やがて小さく口を開く。
 その澄み透った音が二人に届いていくなかで。
「ユリカ、この曲…」
 店内に流れていたのは、優しい旋律のピアノ曲だった。なだらかで美しい旋律と、まるでステップを踏むような軽やかな単音と。そして奏でられる音々が、そのゆったりとしたリズムの中で刻まれていた。
 僅かなあいだ、耳を傾けるユリカ。やがてその顔を明るくほころばせ、優しい微笑で言葉を返す。
「うん、『―――……』だね。好きな曲なの?」
 ふとしたざわめきに消えた彼女の声。でもその問いかけには、すぐには答えられなかった。
 答えられず、ラピスはある過ぎし日のことを思い出していた。




 ―――あの同じような雨の日、ラピスは気の乗らなそうな雰囲気のアキトと一緒に、エリナに連れられて小さなコンサートへと足を運んだ。
 きっかけは本当に小さなことだったと思う。未だに滅多に人前へと足を運ぼうとしないアキトをふがいなく思った彼女が、ラピスをも連れて二人を強引に連れ出したのだったか。
 そうしてどこか後ろめたい使命感と、隠し切れない嬉しさを見せるエリナに小さくため息を返し、言葉少なくついてきたアキト。それは会場についてからも変わることなく、彼は客席につくとプログラムに興味なさ気に一度目を通し、それを音もなく閉じてしまったのだった。
『…あのね、アキト君。せっかくこういう場所に連れてきてあげたんだから、せめてもうちょっと楽しみそうな顔しなさいよ』
 そんな彼に非難がましく横手から声を上げたエリナ。でもアキトは、それに仕方のなさそうな苦笑を返して。
『俺はもともと音楽には疎いからな。こんな曲名を見ても意味ないさ』
『…もう、せっかく貴方たちにも馴染み深そうなプログラムを選んできたのに』
 だからか隣に座っていたラピスも、アキトを真似るようにプログラムをパタンと閉じて。なにやらこれ見よがしなため息をついて見せたエリナをよそに、ラピスは静かに前を、その静まり返ったステージの上を見つめる。
『……エリナ、あれを今から聴くの?』
 ステージの上には、ありふれたグランド・ピアノが一台。知識としてはその楽器を知っていても、実物をその目で見るのはおそらく初めてなのだろう。どこか興味深そうに、彼女の成り立ちとは正反対な、その電子の欠片もないような塊を見続けている。
『ん、そうよ? やっぱりメディアなんかよりも本当の音で聴いたほうがいいからね、こういうのは』
 そして少しだけ嬉しそうに、きっとラピスが興味を持ってくれたから―――そう答えるエリナ。それにアキトの揶揄するような声が重なる。
『ふと思ったんだが…これって単に、お前の趣味につき合わされてるだけだろ?』
 と、エリナはあからさまに不服そうな顔を見せて。
『なによ、そういう言い方するわけ? せっかく私が二人とも落ち着いて楽しめそうな場所を考えてあげた末の選択だっていうのに』
 小さな苦笑を返すアキト。
『ま、落ち着いて…というよりかは静かなのは認めるけどな。俺はあまり趣味じゃない。だからもし俺が居眠りしてても怒るなよ』
 そしてアキトは膨れるエリナをよそに、まるで暇つぶしだとでも言うようにもう一度プログラムを開いた。その黒いグラスの下、淡々とその曲名たちに目を通していった彼は、しかし。ある一点でその動きを止めたように思えた。
『――――』
『え?』
 何か小さく、本当にかすれるような声で彼が呟く。それに気づかず、前だけを見ているラピス。
 そして返すエリナの声に反応したように、開演のブザーが静かに鳴り響く。

 …コンサートが始まる。
 舞台の袖から現れた、白のドレスに身を包んだ演奏者。彼女の一礼に巻き上がる拍手。
 僅かなその沈黙の後、彼女の指はその音を奏で始める。
『……』
 ゆっくりと進んでいくプログラム。エリナはその表情に小さな微笑みを浮かべながら聞き入り、ラピスはただ興味深そうに、そしてどこか不思議そうにその音に耳を傾けている。傾けながら、そう。時々、彼女は隣に座るアキトへと目を向けて。
 そしてアキトはずっと、無表情のままだった。穏やかなそのアダージョの中でも、湧き上がるような強いプレストの中でも。観客の巻き起こす拍手の中でも常に無表情だった。
 ラピスはそんなアキトの右手をそっと握ってみる。彼はそっとラピスを見返し、彼女にだけは小さく微笑みかけてくる。
『…どうしたんだ?』
『―――ううん、なんでもない』
 小さく首を横に振るラピスに、再び正面を向くアキト。そのアキトにはまるで、一切のメロディーさえ届いていないようで。
 でも、そんなときだった。今まで表情一つ動かさなかったアキトが、やがて起こった幾度か目の観客の拍手に反応するように。その口から小さく言葉を漏らし、真っ直ぐに前を向いたのは。
 そしてラピスが、エリナが彼の変化に気づいたのは。
 今までまったくステージ上の演奏に興味を見せていなかったようなアキトが、どこか遠いものを見るような表情でその曲に耳を傾けていた。その優しい舞曲に、耳を傾けていた。
 何かに気づいたように、一瞬だけ寂しげな顔をしてステージへと向き直るエリナ。そっと、確かめるように、そのプログラムに目を通してみるラピス。
 そして彼女はその曲名を、小さくその胸内で呟いてみた。
 小さく、刻み込むように呟いてみた。

『…亡き王女のための、パヴァーヌ』―――――








『…一曲だけ、いやに熱心に聴いていたのね?』
 あの時、レストランでの夕食の中、そうエリナはアキトに訊ねていた。
 でも彼はただ、困ったように微笑むだけだった。ただ寂しそうに、微笑むだけだった。
『俺がアイツにとっての王子様だとしたら、さしずめアイツは王女さま、ってわけか…』
 そしてそんなアキトの何気ないつぶやきが、なぜかラピスの耳にはっきりと残っていて……。


「―――ラピスちゃん?」
 ユリカのその声に、ふとラピスは我に返る。小さく辺りを見回すようにして、自分があの日とは別の場所に立っていることを確かめる。
 雨の音。小さなテーブル。流れ続けるそのメロディー。
 そして目の前で不思議そうな顔をしているユリカに、彼女は自然な、優しい微笑を投げかけていった。
「……あのね、ユリカ」
「ん、なあに?」
 あの日のことを思い出しながら、その笑顔を投げかけていった。


「…私が練習してるの、この曲だよ。この曲が、私のアキトとの思い出の曲―――」






 5.〜Reprenez mouvement 〜 …そして

 夕暮れの中、ラピスは一人帰途につく。
 右手に持った鞄のなかには、彼女の思い出に繋がる一冊の楽譜。彼女がその楽譜を、たった一つのその舞曲を目標としてからすでに1年。
 ユリカと一緒の生活を始めてからは、さらにもう少し。
 そして茜色の色あせていく空のなか、その輝き始めた明星の下。その過ぎていった季節の先で。
 …その今のなかで彼女の目に映るものは、決して以前とは同じものでなく。

「…今日はいい知らせ、ユリカに持っていけるかな」
 そう呟いて、ラピスは小さく微笑を漏らす。今や彼女にとって、かけがえのない人の一人であるユリカ。夕食の支度に追われながらラピスの帰りを待っているだろう彼女のことを思い、頬が緩む。
 彼女の笑う姿を、思い浮かべる。
 そしてラピスが、あの小さな一歩を踏み出した日のことを思い出す…。

『……一番最初に、アキトにこの曲を弾いて聞かせてあげたい』

 前はそう思っていた。そう思って、この小さな外の世界へ一歩を踏み出した。そして今でもたぶん、そう思ってる。
 …でもちょっとくらいのズルなら許されるかもしれない。それに彼女も、ユリカもきっと喜んでくれる。今はそう、そんなふうに思える。
 そう。今のラピスには、そう自然に思えるのだから――――

「…だから、そうだ。今夜のご飯が美味しかったら、ユリカにだけこっそり、一番に聞かせてあげよう―――」


 …微笑みは空へ向けられた。
 茜色の地平の上、訪れ始めた夜の藍色を小さな明かりが彩り始めていた。その微かな光が輝き始めていた。
 その、夜の中に見え隠れする遠い宝石。灯りゆく街明かりの中に言いようのない優しさを覚える。
 覚えると同時に、変わりゆく自分自身の姿に。
 今ここでユリカの笑顔を楽しみにしている彼女の心に。
 そしてあの頃にはきっと思いもしなかっただろうこの今に。ラピスは小さな感傷と、ほんの僅かな言いようのない寂しさと。そして…確かなその予感を感じていた。
 その胸へと刻み込まれた、暖かい予感を感じていた。

 だから彼女は確かな微笑みを胸に、帰途へと着く。
 ゆっくりとその足先を街へと、空へと向けていく。
 広がり始めた宵闇の下、その静かな輝きに包まれて。黒一色などでは決してない、その静けさに目を向けて。
 なによりもその胸の奥底に……踏み出した確かな一歩の、言葉にできない優しさを感じながら。


 ――新しく踏み出したこの世界が、彼女のことを確かに包み込んでくれたことを感じながら。


















 そして、夜が訪れた。

 窓辺に差し込む月の明かりに、ふと目を覚ました彼女。
 ゆっくりとベッドから起き上がり、そっとその扉を押し開けていく。
 不意に訪れたその冷たさに小さく肩を震わせ、それでも躊躇いなくその空を見上げて。

 …そこにあったのは、彼女の見たことがない夜だった。
 淡く輝く星の欠片と、そっと囁く風の声と。彼女を見下ろす優しさとに包まれた夜。
 一面の優しさに包まれた夜。
 だから二度三度と瞬きをして。そして。
 彼女は音もなく、街灯りの中を抜け出していった。



 そう。あの日一番キレイだった、その夜へ―――。


















 〜epilogue : lent 〜 小さな終焉

 そしてラピスは見つめていた。
 一人、その秋の空を見つめていた。
 夜はもう深く、微かな虫の声と空の囁きだけが聞こえる。眺めれば遠く近く、優しく無機質な火が灯っている。
 そして街の片隅の、小さな野原の上で。その秋風に包まれた草原の上で。黄金色の瞳を持つ彼女は、その大切な人のことを思い。
 …彼だけでなく、彼女の今にある数々のことを想い―――




「こんなところにいたんですか、ラピス」

 その声に彼女は振り向いた。心に訪れた、その一瞬の空白。
 まさかと思ってしまったのかもしれない、飛沫のような淡い希望。
「――――ルリ」
 そしてその声の先にあったは、久方ぶりに会うことになる『姉』の姿。その凛とした、ラピスよりもずっと大人びた姿だった。
 そんな彼女の姿を目にして、僅かな沈黙をおいて。やがて不思議そうな顔をしながら言葉を続ける。
「…あと半年は土星じゃなかったの?」
 と、真っ直ぐにラピスを見返しながら、何かを思うように、その目を優しく細めて言ってくる彼女。
「急な長期休暇を貰ったんです。しばらくユリカさんと貴方にも会ってなかったし、一度帰ってきたほうがいいかなと思いまして」
「……ふぅん、そっか」
 でも彼女はそれに、感慨も少なげに呟きを返すだけだった。その姿が、ルリにはどこか残念がっているように映った。まるで何かの奇跡を、ついさっきのその瞬間に期待していたかのように。
 だからルリには、それが少しだけ不満で。それが少しだけ悲しくて。
 言葉閉じた二人の間を、そっと風が通り抜けて。

「――――まだアキトさんのこと、恋しいですか?」

 そしてそれは。それは突然のルリの問いかけ。
 少なくとも一瞬だけは、そう思えたのだろう。その言葉に身を震わせるように振り向いたラピスは、でも彼女をそっと見返して。見返したその顔に可笑しそうな笑みを浮かべる。
「…もちろん。だから早く帰ってきて欲しい」
 言葉を続ける。ふと空を見上げ、小さく一歩踏み出しながら。
「でも―――でも、ルリ。今の私の大切なもの……『アキト』だけじゃないみたい」
「――――」
 そしてその言葉に、ルリは少しだけ表情を止めて…やがて僅かに微笑んだ。何も言わずに、再び撫でつけてくる風に背を預け――小さな寂しさを滲ませながら微笑んだ。
 空はその心とは裏腹に、まるで彼女の表情のように澄み渡っていた。
「…知らぬ間に『親離れ』なんてされてたら、アキトさん拗ねちゃうかもしれませんね」
 夜の音。虫の声。ふとルリの発したそんな言葉。
 どこかちょっとだけ皮肉気な、小さな苦笑に包まれた言葉。それに小さく頷く彼女がいて。
「……うん、そうだね。でも、それくらいですめばいいけど」
 そして彼女は呟いた。
 星を見上げながら、そっと呟いた。

「…ね、アキト。本当に早く帰ってこないと、私もユリカも愛想尽かしちゃうからね」

 でも、それでも。
 そう呟いたラピスの横顔は、優しい微笑に包まれていた。


 〜Fin






 あとがき

 …ふと思うことが少しあったりして、今回はシリアスのみで書いてみました。でもなんというか、微妙なまでに糖度の高めな話になってしまった気が…どこがと聞かれると困るのですが…まぁ全体的にですね。
  さて、それはともかく。私自身のこだわりというか傾向として、基本的に劇場版その後のアキトには『前向き』でいて欲しい、というのがあるんですけど…この話に関してはちょっと当てはまらないか もしれません。それで結果的に残されて(?)、一緒になった二人の小さな日常みたいなもの。そしてラピスが“変わっていける”小さなきっかけを書ければなぁと。

 それでは、本作を最後まで読んでくださった皆様、どうもありがとうございました。

 モデレ


 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

うーむ、確かに(苦笑)!>微妙に糖度高し

ただ、駄菓子のようなべた甘ではなくて、水羊羹のようなさっぱりした味付けなんで読んでてそれほど苦にはなりませんでした。

・・・・いや、ダダ甘ってどーも苦手で。