――――いつか走った、その草原。

 …記憶はもう霞んでしまっていても、ただあの人だけを探して風に吹かれていたその草原――――












 機動戦艦ナデシコIF 〜メビウスの欠片〜


  第3章 『あまりにも冷たい真実と、逆らいきれない運命と』

  Act5




 1.

 「……あれ? 知らない人」
 「え?」

 その日、道場に繋がる七条家の縁側でぼうっと昔のことを思い出そうとしていた私。私が覚えていた、その『イツキ』という私自身の名前をぼんやりと考えていた私に、その知らない女の子は声をかけてきました。
 …突然の声に振り返ってみれば、そこには13、4歳くらいの可愛らしい女の子が一人。
 多分学生なのでしょう、買い物に出かける時に時折見かけるその白いブラウスと紺のプリーツスカート姿、首先にかかるくらいの栗色がかった髪に黄色いヘアバンドをしたその子は私を見て、もう一度声をかけてきます。
 「えーと…貴方この道場の人? 私さぁ、元さん探してここに来たんだけど、どこにいるか知らない?」
 「げ、元さんですか?」
 少しだけ戸惑いながら問い返す私。その女の子は眉を顰めながら言ってきて。
 「そう、元さん。バカみたいに髪の毛伸ばしてなんかカッコつけちゃって、それで漫画見てはぎゃーぎゃー泣いたりしてるけど喧嘩はとにかく強い人」
 「は…はぁ……」

 な、なんだかよくわかりませんけれど…物凄い人に聞こえますね。
 でも確か、月臣さんの名前って――――

 「―――もしかして、月臣さんのことですか?」
 「そうそう! なぁんだ、知ってるんじゃない。その元さんよ」
 私がそう訊ねてみると、女の子は得意げな顔になって肯きます。月臣さんと親しい子なのでしょうか?
 そして私は居住まいを正して。
 「月臣さんでしたら先程道場のほうへお見えになられましたけれど…あ、でも今は誰も通さないでくれって」
 「ええ〜っ?!…って、でもそんなことくらいでこのあたしは諦めたりはしないのよ。道場こっちだよね!」
 「あ、あのちょっと?」

 …と、その女の子は私が声をかけるのも構わずに、ずんずんとその道場へと続く廊下を進んでいってしまいました。
 慌てて私も縁側から立ち上がって、動きにくい着物姿で彼女を追いかけます。
 ここへ来る前の記憶は全く思い出せない私でしたけれど、この『着物』という服は以前にも何度か着たことがあったらしくて…着付けには多少途惑いもしましたが、着ているときの所作などは身体のほうがきちんと覚えていたようでした。
 ただそれでも裾を乱さないように小走りに走る私と、スカートを振り乱しながらもどんどんと先へ進む彼女とでは歩幅が全く違ってしまい、結局彼女は月臣さん一人がいらっしゃるはずのその道場へと思いっきり飛び込んでいってしまって――――

 「ねぇっ! 元さん!!」
 「…ゆ、ユキナ?」
 彼女はいきなり大声を上げて、躊躇いもせずに道場の奥へと進んでいきます。
 続いて息を少し上げながら入り口へと辿り着いた私を、道場の一番奥で正座をしていられた月臣さんはいつものように不機嫌そうな顔つきで見てきて。
 「おいユキナ! そこの女から道場には入るなと聞いてなかったのか?!」
 そして続いてその女の子―――ユキナという名前らしいその子に月臣さんはきつい口調で言い放って。
 「いいじゃない別に。元さん一人で座禅組んでただけなんでしょ?…それよりさ、帰ってきたの元さんだけなの? お兄ちゃんは??」
 「…帰還したのは俺だけだ。九十九はまだ前線にいる、俺が一時帰国したのは単に仕事があったからだ」
 「なぁーんだ、もう! どうせならお兄ちゃんも連れて帰ってきてくれればよかったのに!」
 続いて交わされた、そんなやりとり。小さくため息をついている月臣さんと地団駄を踏みそうな雰囲気のその女の子。
 私はどうしようかと迷いながら、月臣さんに声をかけて。
 「…あのう、月臣さん?」
 「??」
 すると頬を膨らませてご機嫌斜めな顔をしていたその女の子は不思議そうにして私を見てきます。
 やはり顔を少しだけ歪めながら言ってくる月臣さん。
 「ああ…気にするな。こいつは俺の親友の妹だ」
 「あ、そうですか…」
 「……んー」
 そしてその女の子、ユキナさんはどこか楽しそうな顔をしながら月臣さんに声をかけて。

 「…ね? 元さん、もしかしてこの人…元さんのそういう人なの??」
 「な?!!」
 「え?」

 ―――すると月臣さんは、思いもかけずそんなとても大きな声を張り上げてきました。


 「な、な、何をいきなり言っているんだお前は! あいつはこの道場の使用人みたいなものだ、第一この間顔をあわせたばかりだというのに何故そうならなければならん?!」
 そう、思いもかけず慌てたような様子でユキナさんに言う月臣さん。
 「えー? でもあたしそんな事情知らないもん。それにあの人―――ええっと」
 私のほうを見て言葉を詰まらせる彼女。
 私はちょっとだけ心ここにあらずといったような気持ちになりながら。
 「…イツキです」
 「ああ、うん。イツキさんね。私はユキナ、白鳥ユキナっていうの。
 で、元さんさぁ…イツキさん、元さんの好みっぽい人じゃない。おしとやか〜って感じだし羨ましいくらい美人だし」
 「お、お前いい加減にしろよ!!」
 「うひゃ〜〜!! 元さんが怒った、怒った! ああん助けてイツキさぁ〜〜ん」
 そして最後には立ち上がってユキナさんの頭を鷲掴みしようとした月臣さんを彼女は笑いながらするりとすり抜けて、どたどたと私のほうまで駆けてきて。
 それから私の腰に、着物の帯に手を回すようにして後ろに隠れてしまいます。
 「ったく!! お前はどうしてそうも慎みというものがないのだ!」
 「ふーんだ! 元さんなんて、あっかんべー」
 「あ、あの…ユキナさん…」
 憤慨した様子で腕を組みながら言ってくる月臣さん、私の横から顔を出して、可愛らしく舌を出しながらそんなことをおっしゃるユキナさん。
 その中で私はやっぱり一人振り回されているようで。

 ……でも、意外でした。
 てっきり私は月臣さんから嫌われているのだと思っていたのに、だから少しでもそうではなくなって欲しいと思って一生懸命に接するように頑張って…それでもやはり嫌われているんだって思っていたのに。
 だから月臣さんはさっきユキナさんにからかわれた時に、てっきりいつものようにして冷たく声を返すだけだと思っていたのに…。

 なのに、月臣さんは私のところまで歩いてくると、躊躇いがちにでしたけれども。

 「…その、すまんな……イツキ。こいつは昔からどうもこんな調子なのだ」
 「え、いえ…そんな」
 そう言ってきてくださった月臣さんに私は、ちゃんとした言葉が返せませんでした。
 月臣さんのそんな態度が、少なくとも私のことを本当に嫌いなんかじゃないんだって思わせてくれて、それが私には嬉しかったからかもしれません。
 まだ彼は不機嫌そうな顔をしていましたけれど、それでも月臣さんは目を逸らしながらでしたけれど少しだけ表情を和らげて。
 「…今日、お立ちになられるんですよね?」
 「あ? ああ。単にまた前線に戻るだけだ、なんのことはない」
 そうぶっきらぼうに言ってくる月臣さん。
 少しだけ緊張しながら、それでも精一杯に、その先の言葉を続ける私。
 「その……ご武運を、お祈りしています」
 「――――」
 途端に、月臣さんは拍子の抜けたような表情を見せてきて、それから苛立たしげに顔を背けて。
 …でも、そんな彼を見て私ががっかりしたそのときに、胸が痛みそうになったそのときに―――月臣さんは本当に小さい声でしたけれど、言ってきてくれたんです。


 「――――言われるまでもなく、わかっているさ。お前こそ俺のいない間に…師範代に迷惑などかけるなよ」
 「…………はい…」

 なんだかよく、わかりませんでした。私が月臣さんに嫌われているのかそうじゃないのか。
 でも、月臣さんは一見とっつきにくそうに見えても…本当は優しい人なんじゃないかな、って思えたことだけは確かな気がします。
 ここへ来る前の記憶がない私を引き取って、面倒を見てくれると言ってくださった七条さん夫妻も、月臣さんも…とても優しくて、そんな場所に私が本当にいていいのかなんて、不安になってしまうほどです。
 そして真っ白になってしまった私の記憶の中で、靄のかかったその先で、そういう優しさを見せてくれた誰かがいた気がして―――暖かな陽射しと、草原と、そして綺麗な夕焼けが一瞬だけ見えたような気がして…。

 と、そんな時。


 「…じぃーーっ」
 「ユキナさん?」
 「!?」
 気がつけばユキナさんは私と月臣さんの間に座り込んで、なんだか不愉快そうな顔をして私達のことを見上げてきていました。
 そして、ポツリと一言。
 「…やっぱり、怪しい」
 「お、お前、しつこいぞ!!」
 「え? あの…」
 「だってさぁ、なんかお似合いなんだよね。イツキさんは思いっきり大和撫子だし、元さんも黙ってれば木連男児だし…ま、あたしの好みじゃないけれ――」
 「いいから黙らんか!」
 「あいたっ?! なにすんのよ元さん、こーなったら師範代にいいつけてやる! イツキさんのこともね〜!!」
 「おっ…お・ま・え・は・なぁ〜〜〜〜〜っ!!!」
 「あっかんべろべろべっかんべーっ!」

 結局、お二人は道場の中をどたばたと、それでもどこか楽しそうに駆け回り始めました。その中で一人、取り残されたように立っている私でしたけれども。
 でも、そんな中で。

 ―――――なんだか少しだけ、私は気恥ずかしい気分になっていたみたいでした。












 2.

 …そしてそれから半時。
 程なくしてイツキとユキナに別れを告げ、師範代に挨拶を済ませ…この俺、月臣元一朗は硬き心を以って再び戦場へと向かうことになった。

 それまで俺の中にあったその複雑な迷いも、日常を示すようなそのやりとりも、この先からは全て排除しなければならなかった。あの男にその中の一つでさえも、決して気づかせてはならなかった。
 ……俺がイツキを手にかける事を未だに迷っていること。
 俺がこの身を修羅となす覚悟が、草壁閣下のために全てを捧げられるという覚悟がまだできてはいないこと。
 北辰殿の―――かつての師範の心内に、きっと一欠片の良心が残っているのだと愚かにも信じていたいこと……。

 しかし全てを今は封じ、一人の冷徹な武人としてこの戦いに赴く必要が、俺にはあった。




 ――――――そして…やがて俺の目の前に、『かんなづき』級戦艦のその姿が見えてくる。
 その暗く窮屈な船内へと、鬼の潜むその船へと俺は誘われていく。程なくして、俺を見つけて声をかけてくる一人の男。
 「月臣少佐、準備は全て整いました!」
 「ああ。ご苦労、川口」
 一連のやりとりの後に敬礼を返してくる副官の川口。
 俺よりも2つは年下の男ではあったが、なかなかに男気のある顔をした、豪胆な男である。
 二人艦橋へと向かう中、その川口は不意に声を潜めて訊いてくる。
 「…ところで少佐、一昨日連絡を受けて搬入を許可しました例の貨物についてなのですが―――」

 ……そして、立ち止まりただ一言だけ告げる俺。

 「――――聞くな」
 「…は?」
 川口は、ただ困惑した顔を見せてきた。俺はただ重たく、言葉を継ぎ足す。
 「……あの件については、一切の質問を認めん。他言も無用。これは命令だ」
 「は、はっ!! 失礼しました!」
 会話は終わる。再び歩き出す俺と、慌てて後をついてくる川口。暗い廊下が、怪しく蠢く錯覚を覚える。
 …彼も、そしてこの艦に乗る全ての乗員の誰も、この船に一人の修羅がいることを知らない。
 赤い光を放つ、その人間がいることを知ることはない。
 その暗い装甲に包まれた人型兵器の中に、一人の外道がいることを知ることはない。

 そう。それを知ることは決して許されないのだ――――








 3.

 ――――木連軍・突撃宇宙優人部隊旗艦『かぐらづき』。
 その巨大なる戦艦の中枢部にあたるこの部屋に、この私、新城有朋は立っている。
 …豪華絢爛な内装を施された司令室。最高級の赤絨毯が敷き詰められ、内壁にもまたその気品と威厳を象徴するような彫刻に、漆塗りの柱によって彩られ、さらに正面には我等が木連軍人の覚悟を示す『激我』の二文字。
 己の全てを超え、正義のためにその全てを捧げるというその絶対の誓い。
 そして目の前におわすお方こそが…優人部隊の総指揮を取るお方であり、現木連の最高指導者でもあられる草壁春樹閣下であった。

 「…新城君」
 「はっ」
 その鋭く、絶対的な力を持つ眼差しをもってこの私に語りかけてくる閣下。
 最高位の階級を示す紫の軍服に身を包み、その腕を机の上に置かれ、その表情は変わることのない威厳を備えていられる。
 「月面にいる前線部隊の編成は、あとどれくらいで完了するかね?」
 「はっ。前線司令官である秋山源八郎中佐の報告によれば、優人艦隊を中心とした月再攻略部隊の準備はほぼ完了したとのこと。遅くとも明日には進撃可能です。
 そして敵も我々の目的を察知し、こちらの思惑通り月面の表側に続々と艦隊を集結されている模様であります」
 「ふむ…」
 ゆっくりと目を閉じられ、黙考に入られる閣下。
 私は差し出がましくはあったが、意見を述べる。
 「閣下、今回の作戦についてご憂慮されているのですか?…お言葉ですが、我等が有人艦の備える跳躍砲は乱戦・艦隊戦において比類なき威力を発揮します。こちらが最前線の者達を失うことがあっても、必ずや劇的な勝利をおさめるでしょう。
 …戦場で死んでいく英霊も、その勝利を願えばこそ正義の下に散っていくはずです」
 そして、そのお言葉を述べられる閣下。
 「――そのとおりだ新城君、私も君のその言葉には異論ない。常に正義は我等が木連の手にあり、ならばこそ我々はこの戦いに勝利せねばならぬ。
 …だがそのためには、現況において存在しえる不安要素を全て刈り取っておく必要があるのだ」
 「と、言いますと…議会派・和平派の連中のことですか?」
 私のその言葉に、閣下は小さく苦笑を浮かべられた。
 「彼らは……今は何も出来ん。今はな。
 しかし万が一にもこの作戦に失敗した時には―――そう、その時のことも考慮しておかなければならぬのだ。如何に万全な体制を整えている時にも、最悪の結果を予測することを怠ってはならぬ。
 そしてその時にまちがいなく勢いづくであろう議会の者ども、それもまた不安要素の一つだ。連中と繋がりをもつ者達…アララギ少佐をはじめとする議会派の軍人達を前線に釘付けにしてきたのも、彼らの動きを抑えつけるためなのだからな」
 閣下は、さらに言葉を続けられる。
 「また我等がこの作戦に勝利した暁には、再び月を手にすることになるだろう。しかし地球連合も残るその本土を、地球を防衛するにあたってはこれまで以上に抵抗することになる。
 …そして一番の問題は…現在の我々にはその状況において戦況を一気に詰めるための手段が不足している事なのだよ」
 「――――」

 ……閣下の、おっしゃられるとおりだった。
 およそ半年前迄においてその決定的な手段と成り得ていた次元跳躍門も、現在では地球上に存在していたその大半が破壊されてしまっている。さらに言えば次 元跳躍門の建造は『遺跡』にとって大きな負担をかけ、なによりも建造日数がかかるために、現況からの大量建造は不可能に近いのだ。
 故に我等は有人艦をもって直接、大気圏を乗り越えて敵地へと攻め込まねばならない。しかしそれは圧倒的に分の悪い勝負となる。
 閣下が危惧しておられるのはまさにそれ―――この作戦の先にあるその事だった。

 「…現況のままにいった場合、我々がその段階において一番必要となるのは、時間だ。
 だが逆にその時間を使えば使うほど、月面での勝利によって押さえつけられることになる議会の者どもは息を吹き返していくことになる。それに部隊の士気にも、その時間は影響しかねん」
 小さくため息をつかれながら、閣下はそう言われる。
 しかし閣下の目に宿っていた光は、その状況を打破するためのものをはっきりと捉えている。
 私はその手段のことを思い起こし、口を開く。


 「――――なればこそ、そのための『都市』…火星に眠るという、跳躍機構の中枢を司る遺跡なのですね?」

 「…そうだ。そのとおりだ新城君」
 そして閣下はその確信を秘めた笑みを浮かべられた。


 「まず今回の作戦において、敵が保有する月周辺の艦隊を完全に叩き潰すことにより、我々は月面にもう一度確かな足がかりを作ることが出来るだろう。また 最前線に出ることになる議会派の者達も少なからず打撃を受け、これによって議会派・和平派はしばらくその力を削がれることになる。
 そして何より…現在極秘で南雲(なぐも)が進めている、火星での『都市』の探索だ。既に8割がた探索は終了したとの報告が昨日あった、残るは火星の極冠地方だけだそうだ。…我々が生体跳躍を完全にこの手中に収める日も、近い」

 私は…その閣下のお言葉を受けるようにして、その先に見える我々の勝利を言葉にしていく。
 我々の願いを言葉にしていく。

 「なれば我々は次元跳躍門の介在を無しにして、この本国からも、火星からも、そして月面からも直接敵地である地球の大地へと戦力を送り込めるようになり―――そしてその時こそ我々の手に、完全なる勝利が約束されるのですね……」

 「……うむ。そしてその日はもう、すぐそこまで来ているのだよ」




 ―――閣下のお顔は、確信に満ちていられた。この私や南雲が心酔している、その力強さに満ち溢れていた。
 そう。この私、新城有朋や南雲義政といった草壁閣下直属の人間達…優人部隊のトップを占める者達にとって、正義とは即ち閣下のことなのだ。
 閣下の言葉こそが絶対であり、その理想こそが唯一。それを阻む者どもは必ずしや排除しなければならない。そしてそれは全て、閣下が目指しておられる未来のため。この木連の未来のためなのだ。

 そう…その、虐げられてきた我等にとっての…新しい未来のために――――












 4.

 「す…すっご〜〜〜〜い!!!」

 ナデシコのスクリーン一杯に映しだされた、数え切れないほどの戦艦群。
 月の一角にあるその大砂漠、『静かの海』の遥か上空に集結した連合宇宙軍第二艦隊のその壮観な姿を見て、ヒカルちゃんは感嘆の声を上げた。
 「…本当に、第二艦隊全てを集結させたとはな」
 続いてブリッジの上方から、そう言ってくるゴートさん。
 いいや、ゴートさんやヒカルちゃんだけじゃなく、リョーコちゃんも、イズミさんも、サレナさんも俺も皆その初めて見る光景に圧倒されている。

 目の前の宇宙はスカイブルーを基調とした連合軍の戦艦によって一面が染められていた。
 それらは無数の帯になるようにして、このナデシコの艦首の方向へと、まるで何枚もの翼のようになって伸びていっている。
 まるで――――映画やアニメを見ているみたいな、でも…ここにある緊張感や不安、それにその他のないまぜになった雰囲気が、ここがそんなものじゃないんだって思わせてくれる。
 そう、思わされる。

 そしてそんな俺達にさらに驚きを上乗せするようにして、プロスさんが口を開いて。
 「いえいえ皆さん、まだこれからですよ。何せ第二艦隊だけではなく第三艦隊の4分の1、それに陸・海・空軍の戦艦もこの作戦には参加することになるのですから。
 …そしてその作戦の中核を担うのが――――この、ナデシコなのです」
 「「「ええ〜〜っ?!」」」
 そのヒカルちゃんやリョーコちゃんの声に呼ばれたようにして、不意にブリッジの入り口が開く。その先に立っていたのは…ユリカと、ジュンと、エリナさんと……アカツキ?
 そして皆の注目を集める中、真剣な表情になっているユリカがキャプテン・シートまで足を運び、きりっとしたその表情で告げてきて。

 「―――皆さん。これより本艦の行う任務について、連合宇宙軍第三艦隊提督、ミスマル・コウイチロウ中将より説明があります。
 非常に重要な任務ですので、どうかそのつもりで聞いてください」


 ――――って……え?
 ミスマル・コウイチロウ…………??

 突然ユリカの口から漏れた、その意外すぎた言葉。
 俺がその名前に戸惑っている暇もなく、ブリッジには連合軍の士官服に身を包んだ一人の男の人が……俺のよく知っているその人が、入ってきた。

 「……久しぶりだね、ナデシコの諸君」
 そう、どこか感慨深げに言ってくるコウイチロウおじさん。ユリカのすぐ側に立って、その場所から俺たちクルーを見下ろしてくる。
 プロスさんが、いつもと変わらない調子で言葉をかける。
 「いやはや、まさか第三艦隊の提督である貴方が直接お越しになられるとは思いもしませんでした」
 「なに、少し事情があったのでね。…さて、それはともかくだ。
 今回の君達の任務、それはこの月面最終攻略作戦を成功させる上で最も重要なものであるというのは、ユリカ…いや、艦長から聞いていると思う。
 しかしその前にだ、君達が以前に戦ったことのあるという、ボソン砲戦艦…あの脅威の戦艦をいかにして打ち破るか、ということが今回我々連合軍が抱えることになった最大の問題だったのは理解してくれるだろう」
 「…そうだよな、ボソン砲にはフィールド意味ねぇし」
 おじさんの…提督の言葉にそう呟くリョーコちゃん。
 その表情をさらに厳しいものにして、提督は言葉を続ける。

 「―――だが幸運にも我々は、そのボソン砲戦艦群を打ち破るための強力な兵器を持ち合わせることになった。ネルガル重工が開発していた、その新兵器がな。
 …そうですな? ネルガル重工現会長、アカツキ・ナガレ殿」
 「――――」

 そして、不意に側にいたアカツキのほうを向いてそんなわけのわからないことを言ってくるおじさん。
 言われた当のアカツキは、一瞬呆気に取られたような顔をして、それから小さく肩をすくめて。
 「いやぁ、いきなりその台詞はないんじゃないですか? 提督。僕の楽しみを奪うなんてけっこう人が悪い」

 …わけのわからないことをほざくアカツキ。

 「いずれにせよ、そろそろクルーも気づき始めていたのではないですかな?」
 チラリとユリカに目線をやって、そんな意味不明なことを言ってくるおじさん。
 ていうかちょっと待てよ、おい。

 「……はぁ、皆さん固まってしまいましたねぇ」
 ため息を、本当に大きなため息をつきながらそう言ってくるプロスさん。―――――いえプロスさん。そうじゃなくって。


 「…………って、お前が会長〜〜〜〜〜〜〜〜〜?!!」


 そう、それだよリョーコちゃん。




 「あ、遅い反応」
 そしてとぼけたような声でそう言ってくるユリカ。
 「てか、お前ただの重役のボンボンじゃなかったのかよ? コレがネルガルの会長?! 何で?!!」
 頭を抱えながらそう絶叫するリョーコちゃん。
 「あーあ、そっか。そうだったんだぁ。がっかりしたようなつまんないような…」
 どこか気の抜けたような声でヒカルちゃんが言う。
 「私は一応知ってたけど? 顔はほとんど出してないけどそれなりに有名でなくもないじゃない」
 それから頬杖をつきながらミナトさんが言って。
 「まぁ……実際どうでもいいですけど」
 メグミちゃんは顔を上げながら、さり気なくそんなことを言って。
 …で。

 「ていうかユリカ! お前こいつが会長だって知ってたのか?!」
 やっと我にかえって、思わず絶叫する俺。
 「うん、ごめんねーアキト。私艦長さんだから何度も本社に足運んでるんだ」
 「…ぼ、僕知らなかったのに……てっきり同姓同名の別人かと…」
 「嘘だろ?! だってこいつ普段はぜんっぜんそんな威厳ないじゃんか!」
 「――――威厳ないのよ、いけないの? だってホントは会長やし(甲斐性なし)……ダメね、さっぱり笑えもしないわ」
 「……はぁ…しまらないね、アカツキ」
 「ばかばっか」
 ユリカと、ジュンと、イズミさんとサレナさんとルリちゃんとそれと俺の声が次々と飛んでいって。
 アカツキはと言えばブリッジの上で顔を引きつらせていて。


 「…だから極楽トンボなんてあだ名がつくのよ、貴方は」

 とどめのそんなエリナさんの呟きに、アカツキは微妙に身体を震わせていて。




 「――――さて! なんだか思った以上にぼろくそに言われてヘコんじゃった我らがナデシコのオーナーさんは放っておいて…ここからは不肖このイネス・フレサンジュがこのナデシコに備えられた脅威の新兵器について、きっぱりとわかりやすく丁寧に説明してあげるわね」
 「ちょおっとドクター! 誰がぼろくそにヘコんでるってぇ?!」

 そしてそれから、数分ほど。
 なんともいえないその微妙で混沌とした空間から約一名を覗いてようやく帰ってきた俺達は、今度は今度で喜色満面の顔をしてそう言ってくるイネスさんの『講座』に付き合わされることになったらしい。
 このナデシコ独特らしいノリに慣れていないコウイチロウおじさんは一人戸惑ったような顔をずっとしていたけれど、それでもそんなことに構うことなくイネスさんはその説明を始めるみたいだ。
 と、ここで話に先立って声を上げるリョーコちゃん。

 「…って、ドクターよぉ? 新兵器って言ったってそんなもんどこに積んであるんだよ。今まで一度も見たことないじゃねぇか」
 そのリョーコちゃんに笑みを返しながら、イネスさんは言ってくる。
 「いいえ、その兵器はすぐそこに…貴方たちがブリッジでいつも見ているそのドームの中にちゃあんと最初から積んであったのよ」
 「ドーム……って、Yユニットか??」
 「そう、ご名答。そもそも現在ナデシコに接続されているYユニットは元々は四番艦である『シャクヤク』のために建造されたことは皆も知ってのとおりよね?
 その四番艦と一番艦であるこのナデシコとは、本体の部分では共通点も多いのだけれど…でも四番艦にのみ備わる予定だったYユニット、そのYユニットを装 着したシャクヤクが手に入れるはずだった最強の切り札こそが、今私達のナデシコが持つ、ボソン砲戦艦群に対抗できる新兵器なのよ」
 そして、イネスさんは一呼吸おいて…いつになく真剣な表情になる。

 「―――現在このナデシコは、本体に2機、そしてYユニットにも2機、あわせて4機の相転移エンジンを搭載しているわ。
 そしてそのうちの3機のエンジンをフルパワーで稼動させて始めて起動するのが、私達が使うことになる脅威の兵器―――――相転移砲よ」
 「相転移…砲」
 その名前をゆっくりと呟く俺。
 ヒカルちゃんは首をかしげながら、言ってくる。
 「あっちがボソン・ジャンプを利用しているからボソン砲で、それでこっちが相転移砲でしょ〜? だったら、ええと……」
 「…そう簡単な話じゃないのよ、アマノ・ヒカル。
 この相転移砲は確かに文字通り、相転移エンジンの技術を応用したもの―――正確にはその応用した技術そのものも、例の火星の遺跡から発見されたのだけれど―――まぁとにかく」
 チラリとエリナさんのほうへ視線をやってから、言い直すイネスさん。
 「具体的にはYユニット管制コンピュータである『サルタヒコ』によって計算された座標を中心にその周囲の真空を相転移させ、それによって生じた巨大な『冷たい真空』の塊がまわりにある全ての物質と空間からエネルギーを奪い去っていく……
 相転移エンジンの中で起こっている反応とは規模も何もが違いすぎる、ディストーション・フィールド程度では防ぎようのない―――まさに回避不可能の恐るべき兵器というわけなの」
 「「「「…………」」」」

 ……そしてその言葉に、皆黙ってしまった。
 想像することしか出来ない。出来ないけれど、それがとんでもない代物なんだってことだけはわかる。
 そしてわかってしまうから、そんな恐ろしいものを俺達が使わなくちゃいけないってことに――――実感が湧いてこない。それを使うっていうことがどういうことなのか、その意味がどうしてもわからない。あるのは漠然としたような、その恐怖感。
 でもそんな俺達を見下ろして、アカツキが言ってくる。

 「…まぁ、戸惑うのも当然だと思うよ? 正直この僕もどエライものだという実感の他には途惑いしかないのかもしれない。何せ今まで人類が一度も目にした事のない破壊力なんだからね。
 だけど……使わなければ僕等には、敗北しか残されていないんだ」
 そのアカツキの言葉に続くようにして、コウイチロウおじさんが…提督が言ってくる。
 「アカツキ殿のいうとおりだ。今の我々がこの作戦に、ひいてはこの戦争に勝利するためには……いや、君達にとっては敗北しないためにはと言い換えたほうがいいだろう。そのために我々は―――この兵器をどうしても使わねばならない。
 …我々はもしかすれば戦後に汚名を浴びることになるやもしれん。過去に人類が核兵器を開発したその時のように。この相転移砲という兵器が、核を遥かに越えた非情の兵器でもある以上、我々軍はおそらくそれを避けることは出来ないだろう。
 ……しかしそれでも、我々は決断するしかないのだ」

 ――――提督はそして、静かに頭を下げる…。

 「…そして君達ナデシコのクルーには、本当に済まないと思っている。一番辛い役目を負わせてしまったのだから…な。
 どうかこのとおり、我々軍の不甲斐なさを許して欲しい―――」








 5.

 ……あの親にして、あの娘あり―――といったところなのでしょうか?
 そうやってクルーの皆さんに頭を下げたミスマル提督の姿は、いつの日かのユリカさんの姿を思い起こさせるものでした。

 ―――親馬鹿だけれども、でもとても真っ直ぐな人に思えるミスマル提督。
 そしてその娘であるユリカさんは、天真爛漫でどこかズレてますけれど…でも、艦長としての責務はきちんと果たす人―――

 オペレータ席にいつものように座りながらそんなことを私は考えていました。
 ミスマル提督のその謝罪もあってか…ユリカさんは作戦前にナデシコ・クルーの全員に乗船の意志を確認したのですが、誰一人降りようとしませんでした。
 以前の『木星蜥蜴の正体騒ぎ』の時にはけっこうな人数のクルーがナデシコから去っていったりもしたのですが…内心どんな葛藤があったのかはわかりませんけれど、今度は皆そうじゃなかったみたいです。
 …そして現在、ナデシコは着々と作戦の準備を整えていました。
 食堂も、格納庫も、生活ブロックもブリッジもどこもかしこも最後の準備のために慌しく動き回っています。
 今回の作戦はナデシコが今までに経験したことのない程の大掛かりなものでしたから、クルーの皆さんの緊張はいつもとは比べ物にならないようです。
 そしてそれは作戦中ナデシコの防衛にあたることになるパイロットの皆さん……アキトさん達も同じようで。

 (―――――って、あれ?…私…………)

 ふと、そのことに気がついて。
 私は自分でもよくわからないくらいに驚いた顔をしていたらしいです。
 「…どうしたの? ルリルリ」
 「いえ、ちょっと気になることがあっただけで…」
 「そう?」
 横手の操舵席からそう言ってくるミナトさんにそうとだけ返事をして、そして私は少しだけ顔を俯かせました。

 (……私、いつから『アキトさん』って呼ぶようになっていったんでしょうか――――)


 …前は、どっちでも呼んでいたような気がします。
 ユリカさんがそう呼んでいたから、つられて『アキトさん』と呼ぶこともあって、でも普段は確か『テンカワさん』って呼んでいたはずなのに…。
 そう考えて、でも今は自然に『アキトさん』って呼ぶことのほうが多い気がして。


 ――――なんだか、わけがわからなくなってきました。
 アキトさんのことを思い浮かべようとすると、前はただぼんやりとした顔が浮かんでくるだけだったような気がするのに…なのに今は色々な表情が、笑った顔 や困った顔、それにちょっぴり情けなさそうな顔やとても嬉しそうな顔―――そんな色々なアキトさんの表情が、どんどん浮かんでくるような気がしてしまいま す。
 そしてそれと一緒に、どこか私の中の気持ちが不思議な感じになっていくような気までしてきてしまいます。

 ……そして少しだけ、胸が痛くなってきてしまうんです。



 これって―――いったいなんなんでしょうか?
 私が今までに知らなかったこの気持ちって……これが『家族』というものの気持ちなんでしょうか…?

 ……それとも、そうではなくて――――――?






 『ピーッ! ピーッ! ピーッ!』
 「……あ」
 突然に聞こえた、オモイカネの発してきた警告音。全然気がつかなかったそのウィンドウ。
 私はぼんやりした気持ちから我に返って、そのオモイカネの報告に目を通して―――――


 「……かっ、艦長! 緊急事態です…!!」








 6.

 「…………ガイ―――??」

 …目を疑った。
 右手を思わず額にやって、目を瞑って頭を軽く揺り動かして。

 「え…?―――そんな……」

 でも、気のせいじゃなかった。
 格納庫で作戦の準備に追われている整備班のクルーの中、どこかぼやけたような感じなのに。確かにその赤と黒のナデシコの制服に身を包んで、ガイは俺のほうを一度見て微笑って。
 そして……ふっと、消えていって。


 ――――――カラン……


 「……イズミ?」

 サレナさんの呟きが聞こえた。
 クリップボードが地面に落ちる、その音が聞こえた。


 「―――――そ……そんな、嘘でしょ……?」


 そして、イズミさんの…消えていくようなそのかすれ声が聞こえてきた―――












 Trauma 1. 〜アオイ・ジュンとブリッジの面々〜

 Yユニットの管制コンピュータである『サルタヒコ』が、突然応答しなくなった。
 ホシノの話によればこちらからの命令を一切受け付けず、さらにYユニットへと続く通路の全てがロックされてしまっているという。
 …そのためスバル達パイロットは、強硬手段を用いてYユニットの管制室まで突入することになったのだが―――

 「……なんだ?なんなんだこれは??」
 「副長…?」
 プロスさんの訝しげな視線が僕に向かってくる。その先ではユリカも、僕と同じようにして戸惑った顔を見せている。
 下を向いてみればホシノまでいつもとはどこか違う様子を見せてきていて、さらにその先には……何故なんだ?

 ――――ずっと昔にあったはずのその光景が、僕がユリカと初めて会った頃の…その頃の小さなユリカの幻影が存在していて。


 「――――え?…嘘……昔のアキトだ」
 「ユリカ?!」
 ユリカの漏らしたその呟きに、僕は思わず大きな声を上げていた。
 何故か心がざわざわとしている。どうしても落ち着かない。何かが背中からゾクリと這い上がってくるような錯覚。何かを吐き出してしまいたいという気持ち。
 そしていらついた声で言ってくるイネスさん。
 「……参ったわね。私達のナノ・マシンに直接ハッキングをかけられているわ」
 そう言ったイネスさんもまた、ブリッジの前方にあるそのミーティング用のスペースを見つめていた。
 頭を左手で抑えながら声を上げる僕。
 「どういうことですか? イネスさん」
 「…おそらく何者かが、『サルタヒコ』の管制室を占拠してコンピュータを乗っ取っているのよ。そしてそこから艦内のシステムに侵入しているわ」
 「ま、まさか?!」
 プロスさんは信じられないといったような声をあげた。その横に立つミスマル提督が、威厳に満ちた表情を保ちながらもユリカのほうを心配そうに見やる。
 そして言葉を続けるイネスさん。
 「大丈夫よ、オモイカネのセキュリティはそんなにヤワじゃないわ。
 ただそのかわり――――IFS管制システムへの侵入に成功したらしいわね…。私達の中にあるナノ・マシンの補助脳がその侵入者の作るネットワークと繋がってしまった」
 僕はその言葉を受け、理由もなく胸に湧き上がる不快感のせいか声を尖らせながら叫ぶ。
 「でもちょっと待ってください! イネスさんもユリカもIFS処置は受けていないじゃないですか!!」

 …と、その瞬間。
 僕の脳裏に突然のようにして白いフラッシュとともにごちゃ混ぜになった記憶が襲いかかってくる…!

 「……っ!?」
 たまらずその頭痛のため、僕は目の前のコンソールに手をついた。
 目の前が真っ暗になりそうになって、でもそれでもなんとかその痛みに耐えて身体を起こす。
 そして少し頭にくるくらいに冷静な声で言ってくるイネスさん。
 「あまり、感情的にならないほうがいいわよ。激情や混乱は侵入者の補助脳へのアクセスに好都合らしいから。
 ――――しかしまさかこんなシステムが成立するなんて思いもしなかったわ。私達にとって表面上は忘れていても、それでも心の奥に焼きついているはずのそのトラウマを、この侵入者はじっくりと探し出してそれを幻影として投影しているみたい。
 ……そう。それは私達をYユニットから締め出そうとしているのか、それとも…何かを探そうとしてその行為を繰り返しているのか――――」








 Trauma 2. 〜アマノ・ヒカル〜

 リョーコと、サレナと一緒に、ライフルを持って『サルタヒコ』の管制室へと進んでいっていた私。
 ひっきりなしに目に見えてくる、そのゆーれいみたいな映像にワケわかんなくなりながら…二人と一緒にとにかく駆けていって。

 「…ったく、もう! なんでこんなことになったのよ〜!!……あ! あれ8歳の時に私が壊したお父さんのゴルフセット!」
 通路の隅っこに見えたそのぼろ布みたいな袋を見ながら言う私に、リョーコは呆れた声を返してくる。
 「――――まったく、やけに平和なトラウマだなヒカル」
 「っ?!…また行き止まり!!」
 叫ぶサレナ。
 「どけサレナっ!!」
 そしてリョーコがマシンガンを構えながらそう言って。

 ……ドドドドドドドドッ!!!

 蜂の巣になるドア。それに思いっきり跳び蹴りをお見舞いするリョーコ。すんごい音を立てながら向こうに倒れこんでくその鋼鉄の塊。

 「ふぅ……ゴートさん、あとどのくらい?」
 少し頭を振りながら、何を見ているのかはわからないけれど苛立たしげに言うサレナ。
 そのサレナにゴートさんはそう返してくる。
 『現在およそ半分の道程といったところだ。ここから先を暫く真っ直ぐ行った場所に、センタードームへと続く狭い通路がある。
 …ドクターの話によれば、ここより先はさらにハッキングが強力になる可能性があるらしい。ここで一度精神を落ち着かせてから進め』
 「りょーかい…って、そう簡単に落ち着けたら苦労しないわよ」
 「…ま、とにかくここで1分休憩を入れよう」
 それからリョーコがコミュニケを見ながらそう言って、サレナは息を大きく吐き出すとその場に静かにしゃがみこんで。

 「――――けっこうタチ悪いね、この侵入者。古傷を抉るのが好きなんて」

 ポツリとそう、苛立たしげに言ってくるサレナ。息を整えながら、彼女は天井を見つめている。
 思い当たることがあって……火星でのあの時のことを思い出して、私はサレナに声をかけて。
 「サレナ、もしかして……」
 でもサレナは、まるで『心配ないよ』って言っているようにしてゆっくりと笑って。
 「ううん、そっちはもう大丈夫なの。―――そう、大丈夫…」
 「え……でも」


 ……と、その時だったんだ。
 サレナのどこか無理をしているような微笑を見た私が、その通路の先の薄暗い場所に目をやったときに。

 「―――――え?」

 …突然チクリと後頭部に小さな痛みみたいのが走って、頭が一瞬だけクラリとして。
 そして気がつけば。



 二人、男の人がその場所に立っていた。
 …私のよく知っている―――ううん、『知っていた』男の人が立っていた。

 ――――心臓が、バクンって思いっきり脈を打った。

 一人は、少しだけ筋肉質だけれど均整のとれた体つきをしていて、少し長めの茶色の髪をした―――楽しそうに笑っている男の人。
 もう一人は、私が通っていたパイロット訓練学校の、紺色の制服を着て、綺麗に切り揃えられた黒髪と―――どこか気の弱そうな顔をした男の人。

 (え………なんで…?――――もう、大丈夫になったって思ってたのに…………なんで、なんでこんなに怖くなるの――――――?)

 …そして私はもう、なにがなんだかわけがわからなくなっていって。




 「―――ヒカル?」
 「…おい?」

 サレナとリョーコの声が聞こえた。私は床に膝をついてた。
 …そして一気に、記憶が蘇っていったんだ。






 ―――――あれは、私がまだパイロット訓練学校の初年度生だった頃。

 あの頃私は親に無理を言って、一人暮らしをしていたんだ。
 学校は実家からけっこう遠かったし、やっぱり中学を卒業したら一人暮らしをしたいって思ってたから、学校から歩いて20分くらいのところに小さなアパートを借りて、私はそこから通ってた。
 最初の頃は一人で家のいろんなことを全部やるのがなんだか楽しくて、それから夜一人なのが少しだけ…ううん、少しだけじゃなく寂しくて、でも、ちょっと部屋は散らかってたけれどその新しい生活がすごく楽しかった。

 それから学校には男の人のほうがずっと多くて、女の子は本当に数えるくらいしかいなかったけれど…その頃はまだリョーコともイズミとも知り合ってなかったけれど、その代わりにクラスに一人、仲のいい男の子がいて。
 その男の子はどこか奥手な感じのする子で、でも私とは漫画とかアニメの趣味が合ったから…他の男の子と比べてけっこう親しくしていたんだと思う。
 少なくとも当時の私は、彼とは仲のいい友達なんだって、もしかしたら親友までいくくらいなのかもって思ってたんだ。


 ……それで、入学してから二ヶ月くらいした日のことだったと思う。
 私はあの人に出会った。

 ―――きっかけは、漫画の原稿に詰まった私がゲームセンターで気晴らしをしていた時だったと思う。同じようにしてぶらぶらしていた彼が私に声をかけてきて。
 それから対戦とかをしながら色々と話して、彼の笑顔が少しかっこいいなって思って、気がついたらもう日が暮れていて。

 『…俺、休みの日はだいたいここ来てるから』

 そう笑いながら言って、『またな』って言ってきた彼。その後の話は……嘘みたいだったけれど、でも当然だったのかもしれない。
 彼は近くにある劇団に通ってるって言ってた。役者さんの卵だった。
 私はそんな彼によく会うようになって、一緒にいろんなところに出かけるようになって…彼の部屋に、同じようにして一人暮らしをしていた彼の家に行くようになって……。

 あの人は古着を集めるのが好きで、私をよく穴場の店に連れて行ってくれた。
 あの人は特に漫画に興味はなかったけれど、でも『将来漫画家になりたいんだ』って言ってた私に…『きっと勉強になるぜ』って言って大きな劇団の公演に連れて行ってくれた。
 そして一緒の布団の中で、私のすぐ側で、彼の将来の夢を楽しそうに話してくれた。

 それで、気がついたらもう…ほとんど同棲しているみたいな感じだったんだ。




 ―――――そう…。あの頃はホントに、幸せだって思ってた。それでいて私は何もわかっていなかったのかもしれない。

 だから。だから……




 その雨の日に、あの人の家に来ていた私。
 あの人はバイトがあったからまだ帰ってきてなかった。私は部屋の片付けとか、いい加減にサマになってきたなんて自分では思ってた夕食の準備なんかをしながら、あの人を待ってた。
 …そして、インターホンが三回、続けて鳴って。

 それはあの人が帰ってきた時のいつもの合図。私は躊躇わずに笑顔で扉を開ける。
 でも――――そこにはずぶ濡れになったあの男の子が、『友達』と思ってたあの、同じクラスの男の子が立ってたんだ…。




 ―――――ズキン


 「…………やめて」

 言葉が、漏れる。
 記憶が、痛む。


 「……やめて」

 でも、滲んでくる。
 それはゆっくりと、滲んでくる。


 「――――――どうして…」



 そして、ゆっくりと溢れていって…。






 『え?……どうして、ここに…?』
 『すぐそこで、ヒカルちゃんの姿を見かけたんだ。でも確か…住んでる場所、前に聞いてたのと違ってて―――表札を見たら、知らない名前で――――』

 ――――ドクン。


 『―――ちょ、ちょっと待って…?!』
 『…ここにいちゃダメなんだ!! ダメだよヒカルちゃん! 僕がなんとかする、君の家に帰ろう!!』
 『ち、違うの! そうじゃなくて…――――――あ!!』
 『え?』
 『……な?!―――てめぇ人の家で何やってやがるんだよっ!!!』
 『が…っ?!』


 ――――――ドク…ン。




 『――――ヒカル…あいつ、なんなんだよ…。あいつ……お前のなんなんだよ?!!』
 『違うんだってば、聞いてよお願い!! ただの友達なの!』
 『…ならなんであんな顔してやがったんだよ、アイツ!! アレでもただの友達だっていうのか?!
 ―――それとも、お前……まさか俺がいない間にここで……!!』
 『!!ちがっ…』

 『そうなのか?! お前、もしかしてそういう事だったのかよっ!!!』




 (―――――違う! 違うんだよタツ君!! だからお願い、お願いだから……)



 ――――――ド………クン。








 ……そうして、その時は彼の家から出て行くしかなかった私。
 でも、二度と彼の家には戻れなかった。
 私は戻れなかった。

 彼はその二週間後、私の知らない女の子と一緒に街を歩いていたから――――――




 「……そう。そうなんだ」

 私の顔を覗き込んでくるリョーコ。そのリョーコになんだろうか、ううん、そうじゃなくて。
 誰にでもなく、私はただ何かを打ち明けたくなる。
 「…だから私、ヤマダ君とは距離をおいてつきあおうって思ってたんだ。もう昔みたいなのはたくさんだったから」
 「おい、ヒカル?」

 …気がつけば、だんだんと意識がぼうっとしてきたみたい。
 そんな中で私はふと、ヤマダ君がナデシコからいなくなっちゃう前に少しだけ聞いていた…ヤマダ君のお兄さんと、その恋人さんの話を思い出して。
 きっとヤマダ君の好きな人だったんだろう、サレナにちょっとだけ似ていたそのナナコさんていう人のことなんかを思い出して……。

 そしてあの頃のことを、その痛みと思い出とを振り返って――――


 「でもヤマダ君が他の人だけを見てるって知って、それでバカみたいに安心して、また昔みたいに戻っちゃった……それじゃ、ダメなんだってわかってたのに。
 わかってたはずなのに。
 …ホント、どうしようもないよね、私――――」








 Trauma 3. 〜マキ・イズミ〜

 私は足を止めていた。
 止めて、その失ったはずの笑顔に囚われていた。

 …すぐ横で同じようにして立ちすくんで、その前を凝視しているアカツキ君もテンカワも、誰かの幻影を見ているんだろう。
 そして私の目の前には、あの日と同じあの人の姿がある。
 私をあの時に悲しみに包んでくれたあの人の微笑みがある。
 だから私は…あの日に失ったはずのその微笑みをこの冷たい頬に取り戻していく。例えあの人が偽りだとしても。

 「……やっぱり、貴方が私の前に来てくれたのね」



 ――――その、私の前にその姿を現してくれた…二人目の婚約者。
 私が本当に愛していた人。私に、その優しい声で…『イズミ』と呼びかけてきてくれた人。
 突然の事故で、私を置き去りにして一人死んでしまった人……

 「…偽りだって、そんなことくらいドクターに言われなくてもわかってるのよ。でも、いいの。
 こうして貴方にもう一度会えただけで…この瞬間だけは私はあの頃に戻れるのかもしれない。臆病になってしまった前の私に――――恋をすることがまだできた私に」

 そのあの人は、私のそんな呟きにあの微笑みを返してきてくれる。私は一歩を踏み出していく。
 このながい黒髪を揺らして、記憶にズキリと痛みを伴って。


 「――――ううん、やっぱりそんなのは嘘。だって私はもう、疲れちゃったんだから」


 そして私はそっと手を伸ばす。

 「…貴方に私の一人目の婚約者の話をしたとき、病気で死んでしまったあの人の話をしたとき……貴方はただ聞いてくれたのよね。
 まだ私が10歳にもなってなかった子供の頃の話だったもの、嫉妬なんてそんなに湧かなかったのかもしれなかったけれど…確かに、あの子と私の間にあった のは、恋愛っていう感情ではなかったのかもしれないけれど――――でも、貴方は全部話し終わった私のことをただぎゅっと抱きしめてくれて」

 ……一人目の婚約者は、私が9歳の時に会った2つ年上の男の子だった。
 親の都合で決められたもの同士、向こうは良くわかっていないような節もあったけれど…私は不思議な諦めのようなものとともに、その事を受け入れることにした。
 どこか違うような関係、それは3年程続いたけれど――――あの子が突然の病気で死んでしまったときは、やはり悲しかった。


 「それでなのかしらね。私は貴方ならって思えるようになった。
 ずっと一緒にいれば、貴方のいろんな事が見えてくるもの。貴方の私への想いが見えてきたもの。…好きにならないわけないじゃない」

 それからまた2年ほど経って、今度は貴方に出会った。
 ―――そして今度は前とは違ったの。何もかも違って感じられたの。

 だから私は、貴方とずっと一緒にいたかったのに…なのに――――



 「でも……あの時に貴方はいってしまったのね。私をここに置き去りにして…」



 私の瞳からは、もうなくしてしまった筈だったその小さな涙が溢れていった。
 溢れて、静かに落ちていった。

 「…だから私、本当は貴方を追いたかったのよ。でも、出来なかったの。それで…パイロットになったわ。
 いつの日か、こうして貴方が私のことを迎えに来てくれるって信じて、それまではずっと暗い海の底みたいな…この場所で待ち続けるんだって覚悟を決めて――――」



 …さらに、一歩を踏み出す。
 あの人に抱きしめられたくて、その先に終わりがあるって信じて手を伸ばす。

 なのに、なのに…。




 それはただ、残酷に。


 「―――――そんな……まだ、私は貴方の下へいけないの…?」



 ……残酷に、その幻影は跡形もなく消えて、かき乱されるような私の想いと一緒に私の意識も消えていって。








 Trauma 4. 〜アカツキ・ナガレ〜

 「…イズミ君?!」
 突然のその物音に僕は我に返って顔を横へと向ける。
 そこにはなす術もなく崩れ落ちて、意識を失っているらしい彼女の姿。また一つ僕の中に不安と焦りが生まれ、だがそれをどうにかして消し去ろうと歯を食いしばる。
 そして、その目の前に現れていた亡霊を僕は睨みつけた。

 「――――やっぱり僕の前に立ちふさがるのか、兄さん!」


 その…火星航路での事故で亡くなった、僕の兄。年の離れた兄。本当ならこのネルガルを継ぐはずだった兄。
 …いや、違う。
 これは兄さんじゃない、そうじゃないんだ。
 ドクターに言わせるところの、僕の記憶の中から現れたただの心の傷にすぎない。そう僕は自分に言い聞かせる。
 そしてイライラしてくるこの感情を抑えつけながら、僕は隣でやはり立ち尽くしているテンカワ君へと声をかけて。
 「……テンカワ君、君は大丈夫かい?」
 「なんとか、ね。お前こそどうなんだよ」
 「さぁ? ここでこれ以上時間を無駄にしている暇がないことはわかっているけど」
 「そう……だよな」
 そう言って僕は足を踏み出そうとする。なのにどうしても、この足が動いてくれない。
 だからこそ、だんだんと心がざわめいていく。

 ――――くそっ!! どうしてこんな幻影に怯えなければいけないんだ…!


 …確かに僕にとって、兄さんはとてつもなく大きなコンプレックスだった。それは認めてやる。
 でも僕だってただの会長の息子だったわけじゃない。18歳で大学の修士課程を修了した。この利益主義の世界で生きていくための才能もあった。世間から見れば十分に奇才といえる人間だった。
 ……そうだ。僕が落ち零れなんじゃない。ただ兄さんのほうが常に僕の上をいっていただけじゃないか!!

 そう、ただそれだけで―――あの親父は僕のことをちゃんと見ようとはしてくれなかった。兄さんのおまけのようにしか見てくれなかった。
 でも兄さんは…だからこそかもしれない、僕に優しかった。だから兄さんを嫌いになんてなれなかったんだ。
 だから僕は、思ったんだ。

 ――僕は親父のために生きていくことは出来ない。でも兄さんの手助けなら、もしかしたら出来るかもしれない……そう思っていたのに!!



 「…なのに兄さん! 兄さんは僕に全てを押し付けて、親父より先に行ってしまったんじゃないか!! 僕を取り残していってしまったんじゃないか!!」

 …気がつけば、絶叫していた。
 兄さんは、その幻影は寂しそうに微笑うだけだった。

 僕は、激昂するしかなかった。

 「…っ、兄さんは僕に、手に余るほどの苦痛だけを置いて死んじゃったんじゃないか! 親父すら道連れにしてくれなかったのに!!
 ――なのに、兄さんよりも明らかに劣っているこの僕に何をさせたいんだ? 火星の遺産、親父の遺志……そんな厄介ごとを僕に押し付けて、親父の残していった確執を僕に押し付けて、兄さんは……!!」


 「――――……父さん?」

 (……?!)




 ――――――そしてその時。
 本当に間一髪だったのかもしれない。まるで薄く凍った湖面に足を下ろしてしまったような感覚。
 …そして、とてつもなく皮肉な理由。

 隣にいるはずの、そのテンカワ君の微かな息遣い。彼と、彼の両親というファクターによって結び付けられる…僕等ネルガルと彼の間にあるその因縁。
 そして僕個人が彼に対して抱いていたといっていいだろう、僅かばかりでない嫉妬心。

 ……それらの全てが僕の中にある何かに楔を打ち込み、僕の意識をここへと再び取り戻させる。


 「――――くそ」
 拳を握り締め、毒づく。
 だがその一方で、それは僕に新しい圧迫感を与えてくる。
 その葛藤が、彼にというよりはユリカ君に対するといったほうがいいその負い目が、僕の中で増幅されていく。
 兄さんのその表情が、悲しげな表情が僕にそう言ってくる。…………いいや、冗談じゃない!!

 そう。冗談じゃない。それがどういうことか、わかっているのに。
 だというのに、僕の口は……。


 「……僕に、全てを話せと言うのか兄さん。―――テンカワ君の両親のことを、あの真実を彼に話せと…?」


 「!?―――アカツキ、お前…今なんて…………」
 「!!!」








 Trauma 5. 〜サレナ・クロサキ〜


 ――――正直、今の状況はシャレになっていなかった。
 少しでも気を抜けば、私の中にある洗いざらいを口に出してしまいたいような気分だった。
 本当に、タチが悪い。ウィンドウの向こうでイネスさんが物凄く不機嫌そうだったのも私には良くわかる。

 「…………あ―――」
 「サレナ!?」
 そして思わず片膝をつきそうになって、私はすんでのところでリョーコにかかえられて。
 リョーコも全身で息をしているような状態だったけれど、私はもっと酷かったのかもしれない。私の心にどんどんと押し寄せてきていたのは、私にとってのその傷だけでなくて…もしかしたらその傷よりも痛みが激しいのかもしれない、『アキト』の記憶。その痛みの記憶。

 …ヒカルはこれ以上連れてくるわけには行かなかった。
 何より意識を失っていて、私達にはどうしようもなかった。そしてそれから私とリョーコの二人…胸の苦しみに、記憶の痛みに耐えながら進んでいっている。

 ――――そして私の胸ももう、張り裂けそうになっている。
 心の歯止めが、利かなくなってきている。

 「…っ!!」
 そして胸元まで開いた赤いジャケットの上から、私は自分のこの胸の中心を鷲掴みにするようにして…心臓を掴むようにしてその胸の痛みに耐えようとした。
 意識はもうぼんやりとしてきていた。
 「しっかしりしろよサレナ! あともう少しだ!!」
 「―――う…ん、わかってる……」
 そのリョーコの言葉に支えられて、私はなんとか立ち上がって。


 ……でも、その一瞬に。
 抑えてきたものが一気に溢れ出てきたようにして、私の中に襲いかかってきたんだ――――




 (――――え…?)

 最初に見えたのは、あのユートピア・コロニーでの光景。
 私の目の前が真っ暗になった…あの時の、私の知っている人達が皆死んでしまっていたと知った時の光景。

 …そしてそれから次々に、そのたくさんの記憶がこの目の前に見えてくる。
 私の心を裂くように、心を解かすように。

 ―――それは、家庭を顧みようとはしなかったあの父親が死んだ16歳の夏の日。
 自分が泣いているのかどうかさえわからなかったあの日。

 そして見た…サクラの花びらが舞っているなか、高校のグラウンドで、今はもうこの世にいない私の友人と…ミキと初めて出会ったあの日。
 初めて大学のキャンパスで、彼と出会ったあの日。火星の草原に二人寝転んで……少しだけ不思議な話をしていたあの日。

 そして絶えることなくずっと見続けていたその『アキト』の夢に……そのどうしようもなく怖かったその夢に怯えて、ひたすらに泣いていたあの子供の頃の私。
 どうしようもなく怖くて、でも父さんも母さんもわかってくれなくて。
 …誰も―――わかってくれなくて……


 だからその夢を、『記憶』を……私の中に閉じ込めようとすることしか出来なかったあの日…。
 ……私が自分の中に、私自身も気づいていなかったその小さな殻を創り上げたあの日……。

 そしてその小さかった身体で――――虹色に輝く火星の空を見上げて、私の中で何かがゆっくりと、でも確かに変わっていった…
 ……『アキト』という名前のその不思議な男の人のことを…どうしても知りたいと思った、あの遠い春の日――――


 ――――私にとっての、その全ての始まりの空……剥き出しになっていく心…そして――――――







 ……風が、吹いていた。

 虹が、輝いていた。

 草原は、その夕日に照らされて静かに歌っていた…。

 ――――そしてその火星の草原に、いつか走ったその草原の中に……『私』の知っているその女の人が…あの人が立っていて…
 …そして。




 ……そして――――


 何の前触れもなく、まるで裏返しにしたその夜の空に…一面の星が散りばめられたようにして。
 ……その全部が、その虹色に包まれた記憶の全てが。私の中へと飛び込んできたんだ――――












 Trauma 6. 〜テンカワ・アキト〜

 ……俺の目の前には、ガイが立っていた。
 ただ黙って、笑って、あの堂々とした雰囲気のまま立っていた。

 そしてその横には、アイちゃんまで立っていた。
 その両手で小さなオレンジを持って、俺のことを嬉しそうに見てきていた。

 ――――でもそれは、俺にとって……『死にたくない』っていうはっきりとした恐怖を、一つの形にしたものだったんだ。




 …正義の味方を目指していたガイ。
 きっとそれを実現してくれるんじゃないかって俺に思わせてくれたガイ。
 でもガイは死んでしまった。

 …ユートピア・コロニーで出会った女の子、アイちゃん。
 俺がその僅かな時間の中で、守らなくっちゃって強く思ったアイちゃん。
 でもアイちゃんは死んでしまった。

 ―――二人とも、死んでしまった。
 俺の夢を…それを壊すようにして死んでしまった。俺は思いきり叩きのめされた。

 ……だからやっぱり、本当はまだ怖いんだ。本当は、怖くて仕方がないんだ。
 だから今も、目の前にいる二人が幻影だって分かっていても一歩を踏み出すことが出来なくて。
 ただ立ち尽くすしかなくって。

 …でも。
 でも――――と思う。




 『……それがわかったんなら、それでいいじゃないか』




 ――――そう…そうだった。いつかサレナさんが、そう言っていたとおりなんだって…今は思える。
 『怖い』ってことがわかって…そう、わかっているからこそ―――だからこそ俺は一歩を踏み出すことが出来るんじゃないかって。
 そうすることが、できるんじゃないかって…!

 「…………ガイ――」

 だからそう腹の底から声を出して、俺はどしりと一歩を踏み出した。
 ガイはまだ笑っていた。

 「………ガイ」

 …また一歩、ガイに向かって踏み出す。
 手を、伸ばす。
 ――――にっこりと微笑んで、静かに消えていくアイちゃん。

 「……ガイっ…!」

 どんどんと重くなるように感じられても、それでも一歩を踏み出す。
 よろめいても、それに構わず。ただ真っ直ぐ、その姿を見つめる。

 ガイは――――ゆっくりと親指を立てる。


 「――――――ガイっ!!!」




 そして。




 『…………そうだぜ、アキト。それでいいんだ――――』


 (…………あ――)


 その声が、聞こえた気がした。
 最後にもう一度微笑んで、ガイの幻影は消えていった。その一瞬、俺の身体が、頭が、ふわりと軽くなった気がした。

 …でも気は抜けなかった。
 目の前にはまた、新しいその幻影。まるでその侵入者が足掻いているようにして、すっと現れたその幻影。
 「――――……父さん?」
 ふと口から漏れてしまった言葉。
 俺の目の前に現れた、あの日の姿のままの、父さんと母さん。
 突然聞こえてくる、かすれるようなアカツキの声。
 「……僕に、全てを話せと言うのか兄さん。―――テンカワ君の両親のことを、あの真実を彼に話せと…?」
 「!?――――アカツキ、お前…今なんて…………」


 そして現れる、あの頃の姿のままのユリカ。…その、最後の傷。
 ……二人一つの自転車に乗って、あの火星の草原を駆け抜けた時の――――あの時のユリカ――――――






 ――――あの日、何故かこっそりと、隠れるようにして俺の家にやってきたユリカはどう見ても様子が変だった。
 どう見たって泣きそうな顔をしていたのに、なのに無理をして笑い顔を作って。でもやっぱり堪えきれずに泣き出してしまって。
 …それで、見かねた俺はそんなユリカを引っ張って、街外れにある草原に行くことにしたんだ。

 コロニーから飛び出して、途端にふわっと軽くなった身体と、気持ちのいい音を立てて回る自転車の車輪と…すぐ後ろで俺の身体にしがみつきながら歓声をあげてきたユリカと。
 そして二人揃ってその草原に飛び込んでいって。
 ただ二人で笑って、走り回って、ずっと二人だけで……。


 ……でも、そんな時間はいきなり終わりになった。
 どこか慌てて走ってきた数人の大人と、血相を変えて俺の下に駆け込んできた父さん。
 わけもわからず俺は父さんに思いっきり殴られて、ユリカはその大人達に連れて行かれてしまって。そして父さんは何の前触れもなく言ったんだ。

 ――――『もうユリカちゃんには会えなくなる……お前は会っちゃいけない』って。

 そう、ただ唇を噛み締めながら言ったんだ。




 『――アキトぉ…………ごめんね、ごめんね。私の、せいで――――』

 『…アキト君、あの子にはもう決められた人生があるんだ。それが親の身勝手だということは私にもわかっている。でも、これはあの子の運命なんだよ。
 だからすまないが…どうかこれ以上、あの子に辛い思いをさせないでくれ――――』

 『……俺は――あいつと一緒にいちゃ、いけない…………??』


 『――――さよう…なら。アキっ……!』




 ――――あの時はただ、わけがわからなかった。なんでこんなことになったのか。

 でもそれからたった一週間で、ユリカとは本当にお別れをすることになった。ユリカの家が地球に戻ることになったんだ。
 最後に一度だけ、空港に見送りに来ることだけはおじさんに許してもらえて…でもそこで俺はあいつになんて言えばいいのかわからなかった。
 なんて言ったのかさえほとんど覚えていない。
 最後の、『ばいばい』っていうその実感のない一言しか覚えていない。

 …そして、そのまま一人宇宙港の外に出て、空に伸びていく飛行機雲をぼんやりと眺めている時だった。
 家にいた父さんと母さんが、『テロ』だっていうその爆発に巻き込まれて死んでしまったのは――――




 それが、きっとあれから俺の中にずっとあったんだろうその心の傷。ごちゃ混ぜになっていたその痛み。
 今になって思えば、当時の俺はその全部を一つにして考えてしまっていたのかもしれない。『俺のせいで、俺がいけなかったから……父さんも母さんも死んでしまって、ユリカが俺の前からいなくなってしまったんじゃないか』と。

 だから俺は、誰かがいなくなることがたまらなく怖くなるようになって。
 自分は誰も幸せにはできないんじゃないかって思うようになって…!
 父さんと母さんが死んでしまった理由を知りたくて、でも本当は知ってしまうのが怖くて!


 …………でも。でも、今は……!




 (――――――だから……だから、どうしたっていうんだぁっ!!!)

 心の中で、そう絶叫した。
 絶叫して、俺は躊躇わずに一歩をまた踏み出した。

 …そう、もうその幻影に惑わされることなんてないんだ。俺は。
 負けることなんてないんだ。俺は。

 ……負けたくない。そして、きっと俺は進んでいける。
 俺の胸にはガイのあの言葉が残っている………そう! 俺は――――




 ――――そして、俺は。
 その一歩を、やっと踏み出せたんだ。








 8.

 「て…テンカワ、君?」

 俺は消えてしまったその幻影の跡を一目だけ見ると、アカツキへと駆け寄る。
 驚いた顔をしながら、脂汗混じりに俺の顔を見てくるアカツキ。
 「アカツキ、動けるか?」
 「…は、悪いけれどどうも無理そうだね。僕はここまでだ。――――あとは君に任せるしかないらしいよ」
 そして俺は身体を通路の先へと、目指す管制室のほうへと向けて。
 …最後に一言だけ、言い足して。

 「……アカツキ、あとで俺の父さんと母さんの事、聞かせてもらうからな」
 「ふぅ…………やれやれ、だねぇ」


 ―――そしてライフルを手に、俺は走る。
 不思議なほどに軽くなったような気がするこの身体と一緒に。だんだんと開けていくような気がするその視界の先へと向けて。
 ロックされているそのドアに弾丸を叩き込んで、思いっきり蹴り飛ばして。
 そしてやっと見えてくる、その目指す部屋。
 「……テンカワ!」
 「リョーコちゃん!!」
 …向かいからリョーコちゃんが一人駆けてくる。
 今は他の皆のことをどうこう言っている時間はない。
 俺は肯いて。リョーコちゃんは手にしていたマシンガンを派手に管制室の入り口に向けて撃ち放つ。

 「…お前かぁっ!!!」
 そしてそこにいた小さな虫型の無人兵器に狙い済ましたその弾丸をお見舞いして……ナデシコに起きていたその異様な時間は終了した。
 ……でも、俺にとっての本番はまだこれからなんだ。













 9.

 その一連の騒ぎも治まって、気を失っていたヒカルちゃんやイズミさん、サレナさん達も医務室で意識を取り戻して。
 そしてイネスさんからの簡単な状況説明や敵の目的の推測なんかもそれ程時間がかからず―――ただし、その一切が不透明なまま―――に終わり、俺達は再び作戦の準備へと取り掛かることになって。
 その中で、俺はといえば自分のやっておくべき準備を全て終わらせて…本当に久しぶりに顔を合わせることになった、あの人の側に立っていたんだ。


 …ナデシコの居住スペースの中でも一番中心に位置するその貴賓室。俺達一般クルーにはまず縁がないような、どこかどっしりとして豪奢な空間。
 その空間の真ん中にある黒々とした皮のソファに腰を下ろしているアカツキ。向かいに座っているコウイチロウおじさん。その隣に座るユリカ。
 そしてアカツキのすぐ側にはエリナさんとプロスさんが立っていて…俺はといえばユリカから少しだけ離れたその場所で、アカツキのそのどこか普段とは違う、威圧感のあるような姿を眺めていた。

 「……しかしどういうつもりですか? ミスマル提督。本来ならば貴方のみで臨む会談でしょう、なのにこの場にテンカワ君と艦長を同伴させるとは」
 右手をその胸の前で軽く広げてみせながら、そう言ってくるアカツキ。
 あいつの本心はわからないけれど、このコウイチロウおじさんが要求した状況にどこか苛立っているようにも見える。
 それにあの頃と変わらない声で言葉を返すおじさん。
 「なに、ちょっとした予定外の出来事があっただけですよ。私もこの船にまさか、テンカワ君が…私が個人的に親交を持っていたテンカワ夫妻の子供が乗っていたとは知りませんでしたからな。
 …ですから連合軍からの特使としての私の用件の前に、せめて彼のためにこの場を設けてあげようと思いまして」
 「僕にはその必要はありませんよ。貴方が軍の人間としてここに来た用件は、僕達ネルガルがこの作戦に参加させていない二番艦『コスモス』と三番艦『カキツバタ』のことでしょう?
 だったらそっちの件だけをこの場では話し合いたい。テンカワ君への僕の話は、あくまで僕がする。僕が蒔いてしまった種なのだから。ただし、こことは別の場所でね」
 しかしアカツキは取り付く島のない様子でそう言ってくる。
 僅かに顔を俯かせるおじさん。…いや、そうじゃなくて、何かを噛み締めるようにしてもう一度アカツキのほうを向くと……その何か言葉にできないような重みのある、その一言を撃ち放つ。

 「似てきましたな…お父上に」
 「――――」
 その言葉を耳にして、アカツキの顔が目に見えて険しくなった。
 その後ろでプロスさんがどうしてか、小さく息を…誰も気がつかないくらいに小さかったその息を吐き出した。でも何故か、俺はそのプロスさんの動作に気がついていた。
 …そして言葉を返すアカツキ。
 「なにが、おっしゃりたいのですか?」
 そして。
 静かに、言ってくるおじさん。
 「いえ、ふとあの時のことを思い出していただけですよ。…貴方のお父上がテンカワ夫妻と、CCの研究に携わっておられた時のことを」
 「……!!」

 俺はおじさんのほうを振り向いていた。
 ユリカも同じようにして振り向いていた。
 おじさんはその表情を変えず、ただアカツキのほうを見つめていた。
 アカツキは、何も言ってこようとはしなかった。

 おじさんは…言葉を続けた。

 「夫妻が亡くなるその直前のことでした、彼が私にほんの少しだけその話をしてくれたのは。夫妻はどうもネルガルの首脳部と研究の事でもめていたらしいのですよ。
 …だが私には軍からの帰還命令が出ていた。恥ずかしい話だが娘の事でも悩みを抱えていた。
 そして結局私は夫妻の力になることは出来ず、一抹の不安を残しながら火星を後にすることになり――――」

 はっきりと、続けた。
 その、言葉を。

 「――――そしてその日、テンカワ夫妻の自宅を巻き込むその不可解なテロが、クーデター騒ぎが発生し…そしてその混乱の中で夫妻は死んだ」



 …その言葉に俺は凍りつきそうになった。何か、とんでもない意味がその言葉には隠されてたんだ。
 その衝撃の中で、おじさんはアカツキへと問いかけて。

 「……本当に、不可解な事件だったことを私は記憶していますよ。まるで図っていたかのように勃発し、そして呆気なさすぎるほどに鎮圧されてしまったその事件。
 後にも先にもそれに似た事件など起きてはいなかった。
 しかし今は思うのですよ、その後悔と共に。――――そう…あの時、ネルガルが裏で糸を引いていたのではないかと」
 アカツキは右手を横へと払いながら言ってきて。
 「…先程も言いましたが、この場で僕が語ることは何もない。それが真実にしろでっち上げにしろ、ね。いい加減に本筋の話に移っていただけませんか?」


 「……ならば会長、私が話をさせていただきます」
 「――――プロス君?」
 そして、突然だった。
 プロスさんは一度眼鏡に指をやって、それから俺のほうを黙って見てきた。俺のほうを向いて、ほんの少しだけ俯いてきた。
 それから天を仰ぐようにして、感極まったような様子で…でも淡々と、言ってきたんだ。

 「…まさか、このような日が来るとは正直私自身も予想していませんでした。ええ、本当に……。
 私がもう10年以上も前に知ったその真実を、まさかこうしてテンカワ君の前で話そうとする日がくるとは」
 「ちょっと、ミスター?!」
 不意にエリナさんの矢のような声が飛ぶ。
 だけどプロスさんはただその顔をエリナさんのほうへと向けただけで、それだけでエリナさんは肩を震わせてその次の言葉を言ってこようとはしなくて。

 「――そう…あれは今からもう11年程前になるのでしたね。私がネルガル火星支部の司令代行としてあの星にいた頃、そこで研究所の主任研究員であるテンカワ夫妻との間に少なからず交友を持っていた頃は」
 両腕をその背中にまわし、俺のほうを見ながらそうプロスさんは言ってくる。
 「…ここにいる皆さんは既にご存知のとおり、テンカワ夫妻はネルガルの研究所でCCの―――火星の各地にある遺跡から発見されたその特殊な物質の研究を行っていました。
 私と夫妻は言ってみれば仕事上の上司と部下のようなものでしたね。ミスマル提督のように私的な親交、家族の交流があったわけではありませんでしたが、私は彼らの相談に何度となく耳を傾けたものでした。
 そう…夫妻は当時、仕事に関してあるトラブルを抱えていました。それというのもつまりは、夫妻の行っていたその研究―――CCに関する研究が、当時のネルガルにとってトップ・シークレットだったためなのです」

 そのプロスさんの言葉は、雰囲気は、誰にも止められそうになかった。
 エリナさんもアカツキも…止めようとしたかったのかもしれないけれど、でもできなかった。

 「ネルガルはCCに関する技術、発見を一切外に出したくありませんでした。なにせ莫大な利益を生み出すことが可能な、まさに夢の発見でもあったのですから。
 …ですがテンカワ夫妻は違いました。その技術をただ一つの企業が独占することなく、オープンな場においてできる限りの研究者によって研究すべきだと主張していたのです。そしてそのために、次第にネルガル首脳部とテンカワ夫妻の間の溝は深まっていきました……。
 それでも当初はネルガル首脳部も、前会長も、テンカワ夫妻の頭脳は惜しかったのでしょう。夫妻の要求をのらりくらりと躱しつつ、なんとか夫妻に研究を続けさせようとしたようでした。
 しかし…あの日――――テンカワ夫妻が、彼が私に、その硬い意志を告げてきてから五日後のことでした。
 あのクーデター騒ぎ、テンカワ夫妻の死、その後の呆気なさすぎる事態の集結……。不審に思った私は、夫妻の突然の死に納得できなかった私は本社のコン ピュータにアクセスし…そして僅かながらもツテのあった情報部の極秘資料の一部を入手することができました。そしてその事実を知ったのです。
 ―――夫妻との交渉が決裂に終わったネルガル首脳部は、前会長は、テンカワ夫妻の暗殺を指示していたことを」
 「…!!!」



 …そしてその瞬間、俺の中を駆け巡ったその感情の塊は、言葉なんかでは言い表せない。
 何かが思い切りひっくり返ってしまったような感覚。打ちのめされた感覚。父さんと母さんが死ななくちゃならなかったその理由への、その理不尽な理由への怒り。
 その全部が俺の中を駆け巡って…とっさにアカツキへと飛びかかりたくなる衝動に襲われる。

 でも、俺はもう一つの心で、それを必死になって抑えていた。
 アカツキは俺のほうを見てはいなかった。誰のほうも見ていなかった、腕をその膝の上で組んで俯いていたんだ。
 何かを噛み締めるようにして俯いていたんだ。
 だから……あいつに飛びかかることは、できなかった。できなくて、ふとユリカのその息遣いが聞こえた気がして。
 その震えるような声が聞こえた気がして。
 そして気がつけば、隣で座っていたユリカは俺の手をぎゅっと両手で握りしめていて。

 だから拳を握り締めて、その衝動に必死で耐えていって――――


 「……ですが私は、その事実に目を伏せることしかできませんでした。自分自身の身がかわいかったがために。
 そうして私は後悔の念に後を押されるようにしてそのポストを譲り、せめてネルガルの表舞台から去ることを決意しました。その気持ちをずっと胸にしたままに…。
 ――――それからの10年は、私にとって価値のないものでした…。
 ですが私はそれを受け入れなければなかった。それだけでは足りなかった。
 そしてあの日…絶える事のない自責の念に駆られ、心の底で罪滅ぼしを求めていた私の耳にテンカワ君の噂が、そのまさかの話が飛び込んできたのです」

 そしてプロスさんは…もう俺のほうだけを見てきていた。
 あの人は、はじめて見るその感傷的な姿を俺達にさらけ出していた。
 さらけ出して……言ってきてくれたんだ。


 「私は…『運命』というものを感じざるをえませんでした。あの時の気持ちはどの言葉でも表せません。
 そうして…火星を去る前、最後に私がせめてと思い信頼のおける孤児院へと送り届けた彼が、今私のすぐ側に来ていたことを知り、その時の彼の境遇を知り…その彼に私は何かができないだろうかと考えました。そしてせめて、身勝手な私のその願いを叶えようと思いました。
 ――私はテンカワ夫妻を助けることができなかった。ならばせめて、その息子であるテンカワ君に…アキト君に、その真実を―――少しずつ私が見せてあげなくてはならないのだという…いつか私が話さなくてはいけないのだという、その身勝手な願いを――――」








 10.

 「……アカツキ、今までの話は―――本当なんだな?」


 その長く続いた沈黙の末に、その長く続いた衝動に打ち勝った末に、俺はそうとだけアカツキに問いかけた。
 アカツキはどこか吹っ切れたような顔をして、俺のほうを見返してきた。

 「―――ああ…全部、本当さ。ミスマル提督の推察も、プロス君の独白もね。
 火星と木星、さらにその衛星群に残されていた古代火星人の遺跡。そしてその中にあったそのボソン・ジャンプという革新的な技術。火星の極冠に眠っていた…ボソン・ジャンプのコントロール装置……人類に新たな革新を与えてくれるその夢の技術。
 それらの技術解析に成功したネルガルは、前会長である父は、ボソン・ジャンプに秘められている可能性と将来性を見抜き…来るべきボソン・ジャンプ時代における利権を全てその手中に収めようと計画したんだ。
 そしてその計画にとって最大の障害となったテンカワ夫妻―――君の両親を、父はその無慈悲な腕を振るい排除した。
 …そう、全くもってそのとおりなんだよ……」
 見返して、そして皮肉げに口元を歪めながら言ってくる。
 「……だが、それで君はどうする? この真実を知った君はどうするというんだ??
 言っておくが父はもう一切の証拠を処分した。君が仮にネルガルを糾弾しようと思ってもまずそれは敗北に終わるだろう。…それがわかってて、無駄な勝負をしかけるかい?
 それとも―――前会長の息子であるこの僕の命を欲するのかい??」

 …でも、俺はそんなアカツキの言葉に首を横に振って。

 「―――アキト…」
 ユリカの声が聞こえて、そして左手にその暖かさが伝わってきた。
 俺は真っ直ぐと前を見た。胸に残るその言葉を思い出した。
 そして臆することなく、あいつに……言って。

 「…一発だけでいい、おまえを殴らせろ」
 「は…?」
 俺の言葉に、きょとんとした顔をしてくるアカツキ。
 わけがわからないというふうに首を振って、あいつは言ってくる。
 「言っている意味が良くわからないんだけどな、テンカワ君。そう言われたからといって僕が―――」


 「――もう一度だけ言うよ、アカツキ。一発お前を殴らせろ。……それで、全部チャラにしてやる」
 「――――……」


 重ねるようにして、そうあいつの顔だけを見ながら言った俺に…アカツキは今度こそ『信じられない』っていう顔を向けてきた。
 向けてきて、不意に俯いたかと思ったら…
 「ふっ…くくく……はっはははははは!」
 「…………」
 バカ笑いをするアカツキ。
 それを黙って見てる俺。おじさん。ユリカ。そしてプロスさんとエリナさん。
 でも次第にそのアカツキの笑い声は小さくなっていって、あいつは俯いて…その顔を、その目元を、右の手の平で覆い隠すようにして。

 「―――はは…は…………く……
 …参ったなぁ。本当に参った、よぉくわかったよ。――なんで僕が君に勝てなかったのか――――悔しいくらいにわからされたよ……」




 そう言って…言葉を閉ざして、やがていつもの軽薄そうな顔に戻って立ち上がるアカツキ。
 そしてあいつは俺の前にやってくる。
 「さ。こんなみっともないこと、早く済ましてくれないかな?」
 「…ああ」
 肯いて、ユリカの手を離して、右の拳を握り締める。
 足を軽く開き、腰だめに構えて……気合とともに一発。
 「…………っ!!」

 低い音がしてアカツキの体が仰け反る。
 それでも踏みとどまり―――流石にそのくらいの意地は通したかったんだろう、その左の頬を赤く染めたアカツキはやがて上半身を起き上がらせる。
 「ふぅ…………慣れないことはするもんじゃないね。でも、これでいいのかい?」
 「―――いいよ、うん。…これで、いいんだ」
 この拳を見つめながら、俺はそう言葉を返す。
 そしてそれからふと、疑問に思って。
 「…ところでアカツキ、『勝てない』って何の話だよ?」
 「ああ、別に今はもう気にしなくていいよ。こっちの話だから」
 「なんだよそれ??」
 「君だって一つや二つくらい、他人には話したくないこととかあるだろう?それと同じようなものだと思ってくれればいいさ」
 「ワケわかんねぇよ」
 「ならそれで結構」
 「…やっぱもう一発殴っていいか?」
 「今度は反撃付きだけど、いいならどうぞ」
 「…………というか、何仲直りしてるのかしらね?この二人は。状況わかってるのかしら…」
 そしてそんなエリナさんのしみじみとしたような、でも初めて見る気がするその少しだけ優しそうな声。
 そのエリナさんの声に、エリナさんの表情に、ちょっとびっくりしながら俺は彼女のほうを向く。
 「―――な、なによ?」
 戸惑ったような声を出してくる彼女。
 「え…いえ、エリナさんってそんな優しい顔をして微笑うんだなあって思って」
 そして俺がそう言ったら、どうしてだろう、エリナさんは慌てたような声を出してきて。
 「え?! ちょ、いきなり何言ってくるのよアキト君!!」
 「わ、すいません! でもエリナさんの笑った顔って見たことなかったし」
 「くくくく、エリナ君顔がなんだか赤くなってるよ?」
 「あんったはこんな時までホントに…!!」
 「…って、おわ! エリナ君?!」

 それから、俺はプロスさんのほうに向き直って。

 「プロスさん…俺、プロスさんには色々と感謝しなくちゃいけないことが――」
 「――いいえ、その先は言わないで下さいテンカワ君。私にはすぎた言葉なんです。貴方はこれからも今までどおり、いつもの貴方でいいんですよ?
 …それにほら、艦長も貴方の言葉を待っていることですし」

 「…………ユリカ?」



 そして…俺は振り向いて―――






 「――――オホン!!」

 …って、その前にそこには突然咳払いをしてくるコウイチロウおじさん。
 そのおじさんはゆっくりと立ち上がって、なんだか雰囲気の変わってたこの部屋にもう一度重苦しいそれを持ってきて、それで俺に言ってくる。
 「…さて、アキト君。以前のユリカの言動やら今までの話のいきさつやら君がユリカの手を何故か握っていたことやら何やら色々の結果から、まさかと思い推測するのだが……もしかして、そう、もしかして君はユリカと―――娘と、付き合っているのかね?」
 「え……?」
 そして俺に浴びせられたその言葉。
 おじさんのその言葉に、ユリカは勢いよく立ち上がりながら抗議の声を上げようとする。
 「お父様!」
 「今はアキト君に聞いているのだ。お前は黙っていなさい」
 「でも……」
 「―――ユリカ」
 その一連のやりとり。
 仕方がないというように口を閉じたユリカは、でも、その代わりに俺の目をじっと……その何かの思いがこもったような眼差しで見てきた。
 …そのユリカの視線を受けて、声にならないその声を受けて、俺は言うべき言葉を懸命に考えようとして。


 ――――なんて言えばいいんだろう?
 『付き合ってます』っていうのか? まだ告白もしてないのに?
 それじゃ何か違う気がする。そうじゃなくて。でも『いいえ』って答えるのは絶対に違う気がする。

 それに…ユリカはなんて俺に言おうとしたんだ?
 俺はもう俺の気持ちなんてわかりすぎるくらいわかってる。でもユリカは??―――あいつはどうなんだよ?

 …二人火星にいた頃は、ユリカはいつものように俺のことを『私の王子様』って言ってた。『大好き』って言葉も何度となく聞いた。
 でも、このナデシコで再会してからのあいつって……俺に『好き』とかそういう言葉なんて、一度も言ったことがない気がする。
 確かに俺には優しくて、構ってきてくれて、でも――――それがそういう気持ちから来るものなんだって…自惚れじゃなくそう俺が思えるのかが―――


 ――――それが俺にはまだわからなくって。
 あいつの気持ち、わかってるはずなのにどうしても不安で。

 じゃあ、じゃあ俺は……


 ……俺は――――――








 「………アキト君?」

 そう呟きを返してきたコウイチロウおじさんに、そして俺は気合を込めて視線を返した。
 多分、今日で一番ハードな瞬間な気がする。
 どうしようもなく緊張して、心臓までバクバク言っていて、やっぱり不安はどこまでも大きくなっていきそうで…。
 …でもそれでも、今度こそは両の拳を握り締めて、俺は息を吸い込んで。
 その決心を胸にして。

 「お、おじさん…………俺」



 「…俺――――ユリカのことが…」



 そして……



 「――ユリカのことが……す――」

 「…私っ、アキトのこと大好きだよ!」




 ――――――…って、ユリカ……?





 その突然の声に、呆気に取られてユリカのほうを向いてみれば。
 そこにはホントに……泣きそうな顔をしたユリカが立っていて、俺だけを見つめてきていて…。

 「…ずっと、ずっと好きだったよ! 昔も、今も、ナデシコで再会してもっと好きになっていったよ! ずっと言えなかったけれど…でも今は言えるもの! 私、アキトのことが好き! 大好き!!
 ――――もう、何度でも…何度でも! アキトがもういいって言うまで言ってあげるんだからっ…!」


 その不意打ちな、でもとってもあいつらしいその言葉は、俺の胸に染み渡っていった。
 暖かく、そしてじんわりと、二人の不安をかき消すようにして。

 「……ゆ、ユリカ…――――おわっ?!」
 「―――大好きだよ! 大好きだよ! 大好きだよ! 大好きだよ! 私、アキトのことが大好き――――…!」

 そして皆も呆気に取られる中、おじさんの開いた口が塞がらないなか、思いきり俺に向かって飛び込んできたユリカ。
 俺は少しだけよろめきながらもそんなこいつを受け止めて、こいつはそう叫びながら……気がつけば泣いていて。
 「…おい、ユリカ?! ほら、わかったから! お前の気持ち、わかってるから…!」
 「え゙…ふぇ……アキト、本当?」
 涙声で、鼻をすすりながらそうユリカは訊いてくる。
 そんなこいつの顔が、こいつの全部が、たまらなく愛しく見える。
 「ああ、わかってるよ…そうだよ。俺、バカみたいに悩む必要なかったんだ。言葉にしなくても、お前の気持ち―――ちゃんと、ずっと前からわかってたんだ―――」

 ……そしてそう言って、こいつの頭をそっと撫でて。
 ユリカはもう一度、鼻をすすって。

 「―――…アキト?……私…言葉にしてくれないと、わからない。この不安、消えてくれないよ。それじゃ、嫌だよ。だから……教えてよ。
 アキトは…私の事……」


 ――――俺は、ゆっくりと顔を上げてきたこいつに…。



 「……ああ。俺も、お前の事―――好きだ。ずっと、お前だけが…好きだ」



 「…うん――――アキト……私も、アキトが大好き―――――」












 11.

 …そんなこんなな全部が終わった後、平静でいようとしながら動揺を隠せていなかったコウイチロウおじさんがなんだか可笑しかった。
 プロスさんはわざとらしく目にハンカチを当てていて、エリナさんはどうしてだか顔を少し赤らめていて。それからアカツキはそっぽを向いて、なんだかカッコつけたポーズで天井のほうを見つめてて。
 そんなアカツキにエリナさんが声をかけてたときの、
 「…ほっといてくれたまえ」
 っていう言葉のせいで、さっきのアカツキの言葉の意味が、『勝てない』っていう言葉の意味がわかった気がする。
 そしてそれから、俺はおじさんのほうに向き直って。

 「…おじさん。俺、もう自分の気持ちに嘘をつかないって決めたんです。おじさんが……きっと反対するだろうってこと、わかってても―――それでも俺、諦めないって決めたんです。
 だから、今はまだ許してもらえないかもしれないけれど…いつか絶対に、おじさんの首を肯かせてみせますから…!」
 「そうか……大人に、なったのだなアキト君―――」
 そう言った俺におじさんは、どこか痙攣しているような表情で、なんだかこみ上げてくるものを抑えているような声で言ってきてくれた。

 …その言葉に、たくさんの思いと一緒に肯く俺。
 楽しかったことだけじゃなくて、辛かったこと、どうしようもなく悲しかったこと、逃げ出したくなったこと。そういう全部。
 でもそんな全部の気持ちがあって、今の自分があるんだって―――今だからこそ、俺はそう実感できる。
 子供の頃に描いていた、その『夢』みたいにはいかないけれど…現実だってそう捨てたものじゃないんだって、今はそう思えるんだ。

 だから、だから今は戦うことしかできなくても。
 未来には、きっと…。


 そう、きっと。




 「…しかし二人とも、いつまでそうやって抱きついてるのかい?」
 「いや、だってユリカが」
 「もうちょっとだけこうしていたいんだもん。………だめ?」
 「――――う、いや、ダメじゃない」
 「うん!」
 「……もう、見てらんないわ」
 「むむむむむむむ…! お父さんはやっぱり、お父さんはやっぱり……ぐぅっ!!!」
 「―――はぁ…やれやれ。ま、たまにはこういうのもいいのでしょうな…」















 ――――そしてそれは、それからたった半時間後のこと。
 作戦開始時刻よりおよそ二時間ほど前のこと。




 12.

 …サレナさんがまだ医務室で横になっているって聞いて、心配になった俺は様子を見に行くことにした。

 多分、いつもはとにかく精神的にタフで、どこか飄々としているようなあの人がまだ起き上がっていないっていうことが気になったんだと思う。
 それとも俺が抱えていたいろんな悩みが今日一気に解決して、それで余裕が出来たせいなのかもしれない。
 そうじゃなくて何か良くわからない、不安みたいなものが…まさかとは思ったけれど、そんな何かがあったのかもしれない。

 ―――でも、ここのところサレナさんの様子はどこかおかしかったんだ。
 一緒に地球に来てからの数ヶ月間に俺が見てきたあの人とはまったく違う、どこか塞ぎこんでいるようでもあったサレナさん。表面上は以前と変わらないようにも見えたのに…なのに時々見てしまっていたあの人の辛そうな表情が、微笑っているのに悲しそうだった表情が…
 …今になってはっきりと気がついたその表情が、どうしてか俺の胸に突き刺さるようで。

 ……そしてふと思う。
 俺にとって、あの人ってどういう人なんだろう――――って。


 初めに会ったのは、あのユートピア・コロニーっていうことになるんだろうと思う。ううん、正しくは地球の、サセボのあの川辺だろうか?
 俺がやった無意識のうちのジャンプに巻き込まれて、そして一緒に地球に跳んで来た人。それだけのはずだった。

 成り行きだったんだとも思う。
 目を覚ました時、あの人が俺の上半身にしがみつくようにして気を失っていたのはとにかく凄くシャレにならないくらいに驚いたけれど…それから二人、わけ のわからないまま辺りを見回して、サレナさんはどうしてか…何度も俺の顔を見てきて、あの時はただ『綺麗な人だなぁ』なんてそんな的の外れたような事を 思ったりして。

 それからはあの人にずっと引っ張られてた気もする。
 ちょうど土手の上を通りかかったその男の人―――サイゾウさんにサレナさんが声をかけて、二人でいろいろと質問をして、それで初めて自分たちが地球に来ているって知った。
 役所への色々な届けだとか住む場所がどうとかいう話がそれからの4日間のうちにたくさんあった。見かねたサイゾウさんがちょうど探してた店のバイトに雇ってくれたりもした。
 そしてそれから…あっというまの3ヶ月が過ぎていって。


 そんな中で俺は、最初の頃はまぁ当然みたいにして、あの人を女の人として意識していた。
 あの人が俺に接してくれる時の態度が、最初から親しげだったせいかもしれない。変な期待みたいなものを持っていたせいかもしれない。けれど…でも、サレナさんはちょっと違うみたいだった。

 ―――『弟みたいな存在』、あの時にサレナさんが言った、その言葉のとおりだったんだと思う。

 あの時はなんかよくわからなくて、嬉しかったようながっかりしたような気持ちになったりして。でもそれから、『お姉さん』でもいいじゃないかって思うようになって。
 …でも、それでも前に一度だけ、思いきってサレナさんに聞いたことがあったんだ。




 『あの…サレナさん』
 『ん? なに、アキト?』
 『その、前から気になってたんですけど……どうして俺に、その、優しくしてくれるっていうか…なんていうか』
 『――――……』

 ――――そしてそう訊いたら、サレナさんはびっくりしたような顔をして。顎に手をあてて考え込む仕草を見せて。

 『…うーん、なんでだろうね。アキトはどう思ってる?』
 『お、俺に聞かないで下さいよ。ていうかそうじゃなくって…!』
 『あ、うん。ごめんごめん。―――…でもね、こう、なんて言ったらいいのかな…“夢の世界の男の子”?』
 『…へ? な、なんですかそれ、ユリカじゃあるまいし』
 『そんな変な顔しないでよ、もう。…でも例えが悪かったかな、じゃあそうだね…………ありきたりな言葉でいうと――――そう、“懐かしい”のかもしれない』


 『……懐か、しい――――?』


 それから、微笑いながら、可笑しそうに微笑いながら言ってきたサレナさん。

 『―――うん。たぶんそんな感じかな……それだけじゃないけれど、でもそれでいいでしょ?
 ……それにね、後は…秘密。今は教えてあげない』
 『……なんか、全然よくありません。はぐらかされた気がします…』
 『…ふふっ、そんな拗ねたような顔しないでよアキト。たぶんそのうち―――ううん、いつかきっと…私もアキトに、色々話せる日が来ると思うからさ――――』




 …そう、言っていたサレナさん。




 ――――なのに……なのに。
 それなのに…――――――








 「…………アキ、ト―――?」

 「サレナ、さん…」
 医務室のベッドの上、その白い空間にたった一人、サレナさんはいた。
 イネスさんの姿はどこにも見えなかった。ブリッジにもいない以上ここにいるはずなのに。

 …そして、そう。たった一人。
 まるで折れてしまった人形のように、そのベッドの上にいたサレナさん。
 いつもみたいなあの気丈な雰囲気も何もかもが感じられない、見たこともないサレナさん。――――――いいや、そう言えば前に一度だけ…同じようなことがあった。
 あの日、火星でのあの日…サレナさんの好きだったっていう人が死んでしまった、あの日……。

 ……でも、今俺の前にいるサレナさんは、あの日とは比べ物にならないくらいに凍り付いていた。今にも崩れ落ちてしまいそうに見えた。
 儚く見えてしまう…心が剥き出しになってしまっているようなその小さな姿。
 痛々しい、その姿――――。

 「サレナさん?!」
 俺は駆け寄った。何がなんだかわからなくて、でも見ていられなくて、バカみたいに大きな足音を立てながら彼女に駆け寄った。俺にとっての『姉』みたいなその人に駆け寄っていったんだ。
 …そしてビクリと肩を震わせたサレナさん。
 顔を上げて、俺の顔を見て、そして……どうしてだろう?

 ほんの僅かだけ、その身体を俺から離そうと後ずさりして。


 ……でも、そして。




 「――――――…ぁ……アキトぉ…っ!!!」


 (……――――!?)

 ――――突然だった。
 何かが一気にはじけたようにして、サレナさんは俺に飛びついてきた。
 すがりついて、俺の肩に顔をうずめて…そしてその細い両腕で俺のことをしっかりと抱きしめて、泣いていた。声をしゃくりあげて、肩を震わせて、泣いていた。
 …あの時は何かを堪えるようにして、一人俯いて泣いていたのに。あの時の俺はそんなサレナさんに何もできなかったのに。
 なのに。
 サレナさんはその指にありったけの力を込めるようにして。抑えつけていたものを全部打ち明けるようにして……。

 「……サレナ、さん――――」
 俺はそっと、彼女のその背中に右手を回そうと思った。
 でもできなかった。それはやっちゃいけない気がした。彼女が…サレナさんが俺を見て、後ずさりしたことが、俺の中で歯止めをかけていた。
 サレナさんはそんな俺に、震える声で言ってきた。

 「――――お願いだから…お願い、だから……今は何も…っ、言わ…ないで……」


 …あとはもう声にならない声。
 ただひたすらに泣き続けるサレナさんと、空っぽの右手を抱えて立ち尽くす俺。

 ――――そうしてその最後の時間は過ぎていったんだ…。








 13.

 ……全部、思い出していた。
 その全部、何もかも全部、悲しみも憎しみもいとおしさも全部…!

 そしてその中で私は自分を忘れるほどに号泣するしかなくって。
 アキトのその顔を見たら、もうどうしようもなくなって…。

 ――でもアキトには、どうか何も言って欲しくなかった。
 アキトの言葉を、声を聞いてしまったら、私の中にあったそれが溢れ出てしまうってわかってたから。
 だから私は…耐え切れなくって、何一つ言うことすら許されなくて…ただ代わりに泣くことしかできなくって―――

 ――――だから、今までは押し込めていられたはずのその最後の枷が、私の中でパチンと外れてしまったのを感じていて…!



 ……そうしてただ、アキトにしがみついて泣いていた私。
 剥がれ落ちてしまった心を抱いて、だからひたすらに泣いて……でも最後のその一欠片だけは懸命になって守っていて…

 …なのに。
 だからせめて今は、何もかも全部忘れたいと……――――――そう私は思いたかったのに……

 ……なのに…なのに私には――――…!!




 (…………どう…して―――)

 ――――そう。その声が…私には聞こえてくるんだ…。


 (…………どう…して――――なの?)


 ――その光景が、大切な人達の光景が見えてしまうんだ…。



 (…ねぇ――――どう、し…………て―――――――)




 その…あの人達の、かけがえのないその姿―――
 空に輝く虹色の光…。
 …そしてあの日、あの時、あの火星であったその全部が―――私の中で叫んでいるんだ……!


 そして私はその中で、ずっと悲しみを叫んでいるんだ――――




 ―――――そして…だから。
 その悲しみの中で……私はぼうっと、ただ私に言い聞かせる。
 そう。必死に思わなくちゃいけなかった…。
 思うしかなかった―――

 ――――――…泣いてやる。今はただ、泣いてやるしかない……。


 でも、それでも私はまた……このボロボロの心のまま、ここから立ち上がらなくちゃいけないんだと――――――








 (Act6へ)