Spiral/again 〜auld lang syne〜  第1話








ゆっくりと目を開ける。見慣れた診察室の天井が目に入った。






「ちょっとこれを試してみて」

差し出されるコップの中身を口に含む。
苦みがかすかな酸味とともに舌の上を広がるのが感じられた。

「どう?」

「悪くはない」

「じゃあ次はこれ」

別のコップを差し出される。今度は恐ろしく甘い。

「きついな…」

「はい、これ」

続けてもう一つ。
口に入れた瞬間むせかえる。塩水だった。

「どう?」

「しょっぱい」

涙目になりながら答える。

「基本はOKね。じゃああそこにあるのを味の薄い順に並べてみて」

見ると、カウンターワゴンにコップが40個ほど載っている。
数の多さにため息をつきつつ味見をはじめる。



大量のコップと格闘しているテンカワ・アキトの背中を眺めながら、それまで部屋の隅でじっとしていたエリナ・キンジョウ・ウォンがイネス・フレサンジュのそばに寄る。

「えらく簡単だったわね。何でもっと早くできなかったの?」

「私にも専門外のことはあるわ」

「それは解るけど」

「アキト君がこれを手に入れたからよ」

ガラス容器の中に浮かぶ義眼をイネスはかるく振ってみせる。
あまり気持ちのいい光景とはいえないその様子にエリナの頬がこころなし引きつっている。

「そ、そんなに大層なものなの?」

「重要だったのは人工神経の構造と生身の神経との結合部位なの」

そこまで言って、解析図のウィンドウを開く。
完全に説明モードに移行したイネスに、エリナはしまったという顔をしたが遅かった。

「アキト君の味覚障害はナノマシンによるものもあるけど、舌と脳をつなぐ神経を損傷させられたのが一番の問題だったのは知ってるわね」

助けを求めてアキトの方を伺うが彼は未だコップを前に悩んでいる。

「ナノマシンはターミネーターコードが判明したから除去は簡単だったけど、神経の代用品は今まで存在しなかった」

1対1では逃げるわけにもいかず、エリナも腹をくくった。同時に心の中でありとあらゆる神に、この苦難が早く済むようにお願いをする。

「でも、この義眼は視神経ときれいに結合されて   

説明開始20分後、味見の終わったアキトの首根っこを捕まえて道連れにする。

(あなたの体のことなんだからちゃんと聞きなさい)

(俺がこんな難しいことを聞いても)

(いいから黙って聞く!)

さらに30分後、2人は解放された。
エリナは深いため息をつく。アキトの方は半泣き。そこにはイワトで見せたハードボイルドのかけらもない。

アキトが並べたコップを確認していたイネスは少し目を伏せる。

「障害と呼べるほどの問題は無いわね」

アキトの顔に歓喜が浮かびかけたところにエリナが冷水を浴びせる。

「問題が無い訳じゃないのね」

「ええ」

「何が問題なんだ?」

悲しげな瞳でアキトを見、イネスは言葉を口にする。

「ふつうに生活するのには困らないでしょうけど、料理人としては微かな味の違いも判らないといけないでしょう?」

「ああ」

「それができない?」

「そう」

エリナの疑問に頷くイネス。

「使っているうちに味覚って鋭くなるんじゃないの?」

「あくまで神経の代用品なの。今の状態以上に鋭くなることは考えられないわ」

アキトはじっと床の一点を見つめている。

「並のシェフなら別に問題は無いんだから、後はアキト君の気持ち次第」

「それは…」

エリナが口を開きかけて言い淀む。一度アキトのラーメンを口にしたことがあるのだ。絶品とは言わないまでも素直においしいと言えるその味に、近い将来料理人としてアキトが一流になるだろうと信じていた。

「いや、もうできない…」

アキトのつぶやきに2人もかける言葉を見つけられなかった。
しばらく重苦しい雰囲気が診察室に流れる。












不意にアキトがエリナへ声をかける。

「ユーチャリス、使っていいのか?」

「え?ああ、この前言っていたこと?会長はいいって言ってたし、火星方面はまだ物騒だからその方が私も安心できるわ」

「1つ問題があるわね」

アキトとエリナの会話にイネスが口を挟む。

「今までは出撃しても翌日には帰ってきていたから問題にしていなかったけど…」

「なんだ?」「なに?」

「アキト君とラピスの2人旅、なのよね」

アキトを見る女2人。

「それは大問題だわ」

「フ、フクベさんも一緒に行くはずなんだが?」

その視線の剣呑さに冷や汗を垂らしながらアキトが返事をする。

「聞いてないわよ?」

「…………」

ジト目でにらむエリナと対照的にイネスはなにやら考え込んでいる。

「それがいいかしら……」

漏らした呟きにアキトとエリナが視線を向ける。

「あなたとラピスの体調のこともあるし、なんだったら私のところから看護士もつけるからフクベさんのことお願いするわ」

「ああ…?」

わからないまま頷くアキト。

「ほらほら、せっかく回復したんだから食事に行ってきなさい」

「え?あ?ちょっと、イネスさん?」

イネスは強引にアキトの背中を押し、診察室から放り出してしまった。
ドアが閉まるとエリナが不安げな顔で尋ねてくる。

「何なの?」

「……」

それには答えずにウィンドウを開き一枚のカルテを表示する。氏名欄には「フクベ・ジン」とあった。

「直ぐというわけではないけど、長いとも言えないわね」

「…あとどのくらい?」

「長くて一年かしら」

「そうなの……」

エリナがもう一度カルテを見直す。

「ラピスもずいぶん懐いているし……。思い出巡り、良いんじゃない?」

「そうね………。アキト君には教えなくていいの?」

「彼ならそのうち気付くわ」

それきり長い沈黙が部屋に満ちる。












「ねえ?」

何かに気付いたように顔を上げたエリナがイネスに声をかける。

「そういえばあのカザマ大尉も目を義眼っていうかカメラにしてたわよね。事故に遭ったとか言って」

「そうね」

「なら北辰の義眼なんていらなかったんじゃないの?」

眉根にしわを寄せ首を振るイネス。

「記録がないのよ」

「作ったところの?」

「それはもちろん、手術したところも。それどころか彼の存在もハッキリしないの」

「“存在”って」

イネスの言い回しが大げさに感じられてエリナが苦笑を漏らす。だがイネスの表情はますます沈んでいく。

「気になって調べてみたの。カザマ家に彼は養子扱いではいっている。それ以前のことは公文書にもどこにも記録がないのよ。ナデシコに乗艦したのも宇宙軍の推薦状一枚でネルガルも調べていないみたいだし」

「どういうこと!?」

不可解な内容にエリナは何かいやな予感を感じていた。

「わからないわ…………いえ、知らない方がいい気がする。」

エリナと同じような予感をイネスも感じていたのだ。
2人の視線は自然と机におかれた義眼に向けられていた。














ホシノ・ルリが体調不良を訴えたのは“火星の後継者”クーデターから1月余りたった頃だった。


事後処理で忙しい日々の中で、たまたま久しぶりの非番の日であったため遊びに来ていた白鳥ユキナに付き添われ、連合宇宙軍本部の軍医のところへ行く。

診察を受ける間にユキナはハルカ・ミナトとミスマル・コウイチロウに連絡をしていた。ミナトはすぐ駆けつけると言い、コウイチロウは狼狽えたあげくネルガルへイネス・フレサンジュをよこすように懇願していた。遺伝子操作を受けて誕生したルリを普通の医者が診ても意味がないことを心配したのだが、一番大きな理由は自分が知る最高の人材に診てもらうためだった。それもこれもコウイチロウの親馬鹿がさせたことだった。


娘のミスマル・ユリカが帰ってきてから、彼の親馬鹿はさらに進行している。ユリカだけでなく、再び一緒に暮らし始めたルリにもそれは及んでいた。





最初にルリを診察していた軍医はイネスが到着するとなにやら耳打ちして、そそくさと部屋を出て行った。
ルリの前にイネスは座ると2,3問診をする。
そして1人でなにやら納得したような仕草を見せた後、悪戯っぽい笑みを浮かべるとこう切り出した。

「おめでとうルリちゃん。これであなたも立派な女ね」

「え…」

一瞬きょとんとしたルリだったが意味がわかり納得した顔になる。
しかし、ユキナにとってそれは爆弾発言だった。ルリの両肩をつかみ自分の方に向けると、ガクガクと激しく揺さぶる。

「あんたいつの間にそんなことになったの!?」

「ちょっとちょっと!」

イネスの制止の声も耳に入らず、さらに激しくルリを揺する。

「やっぱりアキトさん!?アキトさんなのね!だめよそんなの家庭内三角関係、家庭内不倫なんて!そりゃ確かにあんたの気持ちはわかるけど!」

「アキトさんとは…あの火星以来…あってませんけど…」

息も絶え絶えの様子でそれだけを答えるルリ。それを聞いたとたんユキナの動きがピタリと止まる。

「会ってないの?」

「…はい」

「それじゃ……、ハーリー!?あんたハーリーに手を出したの!?」

「あ、あの…」

再びルリを揺するユキナ。イネスは止めようと右手を延ばしかけたがそのままやめてしまった。

「いくらかわいいからって、あの子まだ小学生よ!いくら何でもそれは犯罪じゃないの!」

「ハーリー君は…私にとって…弟ですけど」

激しいシェイクにルリはかろうじて答える。再び止まるユキナ。

「弟?」

「……はい」

「マジで?」

「はい」

ユキナはガクリとうなだれため息をはく。

「あいつも可哀想に……」

「そうね」

「?」

ユキナの漏らした言葉にイネスが相づちを打つ。ルリ1人がわかっていない。

「あ〜、それじゃあ…」

「金髪ロン毛」

イネスがボソリとつぶやく。とたんルリは三度シェイクされ始めた。

「サブちゃん!?サブちゃんなの!?」

「ユ、ユキナさん…」

「悪いことは言わないわ、あいつはやめときなさい!絶対女を泣かせるから!」

「ち、ちが   

「だいたいリョーコさんに手を出しかけてんのよ!下手したらあんたあの人に後ろから刺されることになるんだから!」

「何してんのあんたは!!」

パコーンという音とともにミナトの怒声が響く。パンプスで後頭部を殴られたユキナは頭を抱えてうずくまる。
手に持ったパンプスを履き直しながらミナトはイネスに食ってかかる。

「もう、何でイネスさんも止めてくんないの!?」

「ちょと面白そうだったから」

イネスは悪びれた様子もなくクスクスと笑いながら答える。
ルリはと言うと律儀にユキナの疑問に答えていた。

「三郎太さんはリョーコさんと真面目につきあうために、いっぱいいるガールフレンドと別れているところですけど」

「そ、そうなの?」

よほど痛かったのだろう、ユキナは後頭部を押さえ涙目になっている。
そんな2人の様子を見ながらミナトはイネスへ改めて尋ねた。

「それで、ルリルリのことだけど?」

「心配いらないわ。女の子になっただけだから」

「へ?……ああ、そっかぁ。でもルリルリ16よ?まだだったなんて」

ミナトの言葉を聞いて顔に朱をのぼらせうつむくルリ。その仕草を可愛らしく思いながらイネスは答える。

「遺伝子操作の影響もあるかもしれないけど、一番大きな理由は心の問題じゃないかしら」

「心?」

「シャトルの事故以来、成長したくないって想いがあったんじゃない?」

「それは…そうかもしれません……」

ルリにはイネスの言うことに思い当たる節がある。
かつてのナデシコの思い出にとどまり続けようとしていた自分は、あの頃のままずっと年をとりたくなかったのだ。自分が“少女”から“女”になることは思い出が過去になることにつながる。

「ふ〜ん、そうだったんだぁ」

悪戯っぽいまなざしで自分の顔をのぞき込むミナトと目があい、無性に恥ずかしくなって目をそらす。

「じゃあ、アキト君にアタックしてもいいわね」

「え?」

「あら、それ面白そうね」

さもうれしそうにミナトの言うことがルリにはわからない。

「ミナトさん?アキトさんとユリカさんは入籍して   

「ルリルリ忘れちゃったの?新婚旅行に行くとき、火星からの婚姻届け第1号を出すんだってユリカさん喜んでたじゃない」

「ということは、法律上2人は未だ赤の他人ってことよね。ルリちゃんがアキト君とつきあうことになっても倫理的問題は最小限だわ」

「どうしてそうなるんです?」

不思議そうな顔のルリの言葉にミナトは意外だという表情をしてみせる。

「あのときアキト君のこと“大切な人だから”って言ってたじゃない?」

「私もちゃんとこの耳で聞いたわ」

「あれはそういう   

“意味じゃない”と続けようとしたルリの足下からユキナがいきなり立ち上がる。
突然のユキナの行動に3人は固まってしまった。
その場で立ち上がったままブツブツと何かつぶやくユキナ。

「プロスさん…離れ……ンボーもどきはミナ……落ち目…は月で……」

「ユキナ?」

「コウイ…父親……干し椎茸は…………秋山さ…趣味じゃ……」

ユキナが腕を組み、眉間にしわを寄せる。見かねたミナトがかけた声も聞こえていないようだ。
顔を見合わせる3人。その視線をユキナに戻したとたん、顔を上げ彼女が叫んだ。

「ジュンちゃん!?」

次の瞬間にはこめかみに人差し指をあてがいウンウンうなり出す。

「な、何なの?」

「さあ?たぶんさっきの続きでしょうけど。ルリちゃんのお腹の子の父親が誰か考えてるんでしょ」

「私、妊娠してません」

面白そうに言うイネスにいかにも不本意だという口調でルリが抗議する。同時に、うなっていたユキナがピタリと黙る。

「「「?」」」

「いやーーー!!ジュンちゃん、私とこの子達を捨てないでーーーー!!!」

建物中に轟く大声を出しながら飛び出していくユキナ。






ここは連合宇宙軍本部。






後に残された3人は再び顔を見合わせた後、まだ年若い中佐のことを考え深いため息をつくのだった。












「お帰りなさい、ラピス」

「ただいま戻りましたエリナさん」

ユーチャリスのハッチへ続くタラップを軽やかな足取りで下りてきたラピスがエリナへ駆け寄る。

薄青のサマードレスと飛ばないように片手で押さえた麦藁帽子は秘匿ドックには不釣り合いだが、ラピスの愛らしさを十二分に引き立てている。
その後から重々しい足音とともに小バッタが降りてきた。背中にはアロハシャツ姿でウクレレをかき鳴らすフクベが座っている。

「いやいや、お出迎えご苦労さんご苦労さん」

「フクベさん!?そのバッタはなんなの?」

「クロッカスでフクベさんを助けたバッタだ」

後ろからついてきたアキトが説明する。ジーンズにTシャツを着こんだ普通の格好だ。

「どういうわけか火星に取り残されてたようでの、ワシのことも覚えててくれていたようだし一緒に来たんじゃよ」

「大丈夫なの?」

冷や汗を流しながらエリナが問いかける。いきなり暴走されたらたまらない。

「ちゃんとプログラムを修正したから大丈夫です」

ニコリと笑いながらラピスが答える。

「そう」

つられてエリナも笑顔になる。

「これはこれは何かいいことでもありましたかな?」

「こんにちはプロスペクターさん」

「はい、こんにちはラピスさん。テンカワさんお元気そうで」

ほとんど月に来ることがないプロスペクターがドック入り口近くにたたずんでいた。

「プロスさんもな」

「そうだったわ、あの極楽会長が話があるって待ってたのよ」

「俺に?」

「ええ、少々込み入った話でして、通信では埒があかないということで月まで」

「ちょっと時間がかかると思うからラピスとフクベさんはゆっくりしてて良いわよ」

「はい」

きちんとエリナやプロスにお辞儀をして、フクベの手を握り出て行くラピス。それを眺めるエリナの目元もゆるんでいる。

「ずいぶんと明るくなられたようですな」

「そうよね」

うれしそうにエリナの声が弾んでいる。

「エリナさんもですよ」

「ば、馬鹿なこと言わないで」

あわてて否定するが耳を真っ赤にしていては説得力もない。

「さ、先に行ってるからアキト君もすぐに来てちょうだい」

そう言い捨ててヒールの音も高らかに歩いていく。

「怒らせましたかねぇ」

「いいんじゃないのか?」

笑いをこらえながらアキトが答える。

「そういうテンカワさんも以前と比べてだいぶ落ち着いたようで、いい顔をなさってますよ」

「そうか?」

「そうです」

「そうかな?」

「そうですとも」

「……」

アキトがなにやら考え込む。その横でプロスがベストの襟を正す。

「ま、それはおいといて。会長がお待ちですので行きましょうか?」

















「やあテンカワ君、愛の逃避行はどうだったい?」

顔を合わせた第一声がこれだった。込み入った話と言うことで多少緊張していたアキトは肩を落として脱力した。

「アカツキ……もういい」

怒る気力も出てこない。

「少しは狼狽えるかと思ったんだけど。まだまだかな」

「?」

「とりあえず座ったら?」

アカツキが自分の目の前のソファーを示す。アキトはおとなしく従った。

「さて、何から始めようか?」

「いや俺に聞かれても」

「冗談だよ、冗談。まずはここ最近の状況を説明してくれるかいプロス君」

「では遺跡とボソンジャンプのことからお話しましょうか」

アカツキの後ろに立つプロスへ頷くアキト。それは彼の人生にとって一番まとわりつく問題だった。

「遺跡自体は地球連合の完全管理下におかれております。遺跡本体の研究は手つかずのまま放置されてますな。それに加え先月には各企業などへもボソンジャンプ関連の研究も凍結するよう通達がありました」

「凍結…」

「凍結と言いましても期限など全く白紙状態であるのに加え、ジャンプ関連の実験を行ったところに関しては専門の部署が取り締まりに当たることだけは決まりまして。ま、事実上の禁止ですな」

「その専門部署っていうのが宇宙軍に新設される部隊でね、うちもちょっと装備関係で噛むことになったんだけど。それはともかく   

指を組みアキトに向かい体を乗り出すアカツキ

「そこの司令にユリカ君が指名されたよ」

「どうして…」

「草壁の時といい南雲の時といい統合軍は失態続きだったというのもあるでしょうが、あの方がA級ジャンパーであることと、何よりナデシコCを使用することが先に決定しましたから」

アキトの呟きにプロスがスラスラと答える。

凄まじいまでの電子戦能力を誇るナデシコCである。実験施設の制圧、データの差し押さえにこれほど最適な能力はない。
そこへかつてナデシコの艦長を務めたユリカの名前がでてくるのは無理もなかっただろう。



〈ユリカ…〉



ソファーの背もたれに寄りかかり天井を見上げるアキト。極冠遺跡の戦いから5ヶ月。あの時に感じた絶望感はまだハッキリと覚えている。
心の整理はまだついていない。今もユリカの名前を耳にしただけで心は千々に乱れ落ち着きを無くしている。


そんなアキトの様子を見ながらエリナは目を伏せ、スーツの胸元を握りしめる。


“草壁の乱”以後、日々強くなる想い。


わかっていてもアキトがいまだユリカのことを忘れられない事実が胸を締めつける。






その2人の様子を見ながらアカツキとプロスペクターはコソコソと話し合っている。

(あ〜やっぱテンカワ君はもうしばらく時間が必要かな?)

(そのようですなあ)

(艦長のことを諦めたんだったら、素直にエリナ君やルリ君と人生やり直すってわけにはいかないのかねぇ)

(こちらの女性は特にその気があるのでしょうが、なにせ相手が筋金入りのお方ですから)


「何をしゃべってるの?」

目の前にエリナが立っている。
慌てて曲がってもいないネクタイを整える2人

「いえいえ、大したことではございません」

「なに、次のお題をね」

「そう?」

わざとらしく咳払いをするアカツキ。アキトへ向き直る。

「君が今使っているユーチャリスなんだけど」

「ああ」

「宇宙軍からテスト採用の話が来てるんだ」

「軍が使うのか?世間に知られたら   

「そこはもちろんうまく改修して引き渡すさ。元々そういう構造だしね」

「そうか……」

ラピスが寂しがるなと呟くアキト。

「テンカワさんとラピスさんは思い出巡りの途中でしたから、今度はこちらを使用していただきたいのです」

プロスの言葉と共に一枚のウィンドウに船が映される。
紡錘形の船体に、その後方下部につけられた相転移エンジン。そこからユーチャリスと同じようにウィングが伸び上方に回り込んでいる。船首近くにリングが付いている。

「ベロニカって名前だけどね」

「俺たちのためにか?」

「そうじゃない、ナデシコCの補助をする電子戦用の小型艦だ。こいつを使う代わりにレポートは提出してもらうよ、長期運用テストだから。ついでにネルガルの各支社間の連絡業務もやってもらう」

「これはテンカワさんの今後にも関わるのですが、どうでしょうこのさい開発部門のテストパイロットとして正式に契約なさっては?」

手元にファイルを引き寄せ契約書を取り出すプロス。

「俺は…」

「すぐにどうこうってわけじゃないさ、ベロニカのテストだけはどうしてもやってもらうけど」

「それはかまわない………けど俺がこのままネルガルにいたらまずいだろ?」

「蛇の道は蛇と申します、そこはなんとでも」

戸籍など有ってないようなものですからとにこやかに続けるプロス。今日一番眼鏡と表情が輝いている。
その顔に気圧されるようにアキトは考えさせてくれと答えた。

「じゃあそういうことだから。エリナ君?」

「はい?」

手持ち無沙汰な様子で佇んでいたエリナにアカツキが声をかける。

「月の秘匿ドックとユーチャリス、ブラックサレナ、テンカワ君に関するデータは即刻処分して。あと君も秘書課に復帰。宇宙開発部々長の職は事後処理のための後任を送るから」

「わかりました」

「そうだ、テンカワ君のエステだけど。ベロニカに積んじゃって」

「いらないんじゃないのか?」

今現在、地球圏で戦闘が起きそうな場所は存在しない。そう思いアキトが尋ねる。

「エステの運用もテストしたいからね。もちろんテストするのは君だから」

爽やかな顔で告げるアカツキにアキトの頬が引きつる。今まで整備員任せにしていた整備を自分でやらなければならないことに気付いたのだ。

「エステの運用って、意味があるのか?」

「ベロニカ1隻あたりにつき、直援として2機のエステをつける形になる。ベロニカ自身は武器を持たない純粋な電子戦専用の艦だから」

アカツキの言葉と共にプロスが書類とディスクを取り出し、アキトに手渡す。

「仕様書とテスト内容です。よくご覧になってください」

アキトは書類に目を通しはじめ、最初のところで顔を上げる。

「“アラハバキ”を載せてくれるのか?」

「ユーチャリスの代わりになる存在だからね。ハッキング、システム掌握で“オモイカネ”を中心にして複数の“アラハバキ”が連結処理を行ってひとつのスーパーコンピューターとして働くのが最終目標さ。何か問題でもあるかい?」

「そうじゃない、ラピスが喜ぶと思ってな」

ユーチャリスのメイン制御AIである“アラハバキ”とラピスは、ルリと“オモイカネ”に近い関係を築いている。
“オモイカネ”と比べ人間臭さが薄いとはいえ、ラピスにとって大事なお友達であるのは変わりがない。

「アハハハハハ、父親ってのはこういうものかな?」

アキトの答えにアカツキは笑いを隠そうとしなかった。
からかわれたアキトの方は口元をゆがめそっぽを向いた。ゆがめた口元から別にいいじゃないかという言葉が漏れる。
それを耳にしてエリナとプロスも笑みを浮かべる。



ひとしきり笑って気が済んだのかアカツキが話を再開した。

「んじゃ、あの連中のことを。プロス君?」

「はい。火星の後継者に与していた研究者達なのですが   

アキトが身を乗り出す。ほとんど体は治ったと言え、自分の体をいいように弄くり回した奴の仲間だ。関心を引かないわけがない。

「彼奴らがどうしたんだ?」

「証拠不十分と言う名目で釈放されるようです。クリムゾンの介入と連合内部の思惑が一致したようで。人体実験の実施者も貴重な経験の持ち主ということですか」

ギリと音を立ててアキトが歯を食いしばる。

「だからこんなものを用意してみた」

アカツキがウィンドウを開く。
ざっと流し読みしたエリナが顔色を変える。

「まさかこれを公表するの!?」

「うちとの関係は判らないようにしてあるし問題ないよ」

「そうじゃないわよ!アキト君はどうなるのよ……」

自分の半生を事細かにつづった文章をくいいるように読んでいるアキトをチラリと盗み見る。

「テロリスト扱いされれば捕まって死刑かな」

「そんなの!」

かるく言い放つアカツキにエリナが詰め寄る。

「そうなったらさっき言ったとおりプロス君の出番さ」

「まずは新しいお名前を考えなくてはいけませんなぁ」

「そんな簡単に…」

ほんの少し安心しつつもお気楽な会長と秘書室長にあきれかえる。
当の2人は互いにウィンドウを開いている。

「これなんかどうだい?テンカワ君自身の画数も良いし、エリナ君の画数も良くなるし」

「ちょっと、な、何で私の名前が出て…」

「いえいえ、こちらの方も捨てがたいかと。テンカワさん本人はそこそこですが、イネスさんやラピスさん、何よりルリさんの運が最高に」

「ん〜?それだと結婚できてもエリナ君の運が下がっちゃうよね」

「そ、そんなのイヤよ  じゃなくって!!」

エリナが両手を振り回して2人のウィンドウを消し去る。そして問題の文章を映すウィンドウをビシリと指さす。

「こんなのだめよ!『火星の後継者から奪った戦艦と機動兵器を用いて』なんて草壁とかが証言したら駄目じゃない!」

「ああ、その辺は問題ないよ」

「問題ないって  

「草壁本人にも協力していただくことになりましたので」

「どういうことだ?」

それまで文章を注視していたアキトが会話に割り込んでくる。

「そのまんまさ。テンカワ君の名前を出したとたんヤケに協力的でね」

「コロニー爆破の件も含めすべて自分の責任だと認めるそうです」

「あいつが…」

あの時土下座をしたのは本気だったらしい。かといって許せるかどうかはアキト自身もわからない。

「こういうものを公表されれば連合も統合軍も世論の手前人体実験の件もうやむやにできないでしょう」

にこやかにプロスが続ける。

「どうしてここまで…」

その顔をながめながら、あまりに手際良く進める2人にアキトが呆然と呟く。

「テンカワさんとの関係を誤魔化せて私どもにとっても都合が良いというのもありますが、クリムゾン系の医療メーカーがあの連中を引き取るという話もございまして」

「先週、その何人かと面会したんだけどね…、揃いも揃って反省のかけらもありゃしない。おまけに自分達は今後も恵まれた人生をおくることができて当然って意味のことを口をそろえて言ってたよ。」

クールを気取って肩をすくめるアカツキだが表情には隠しようのない嫌悪感がにじみ出ている。

「で、僕としてはそういう“何々が当然”って考えを持つような奴の邪魔するのが好きなんでね」

人の悪い笑みを浮かべるアカツキに眼鏡を持ち上げ光らせるプロス。

「…………」

それを見ながらアキトは冷や汗をたらす。
エリナの方は苦笑を漏らしている。

「まったく。素直じゃないんだから」

「テンカワ君も異論はないようだし来週には公表するから」

「あ、ああ、好きにしてくれ」

今更ながらアカツキの怖さを実感してコクコクと首を縦に振る。

「さてとこんなもんかな?」

「月での予定は以上です。本社へのシャトル発進までお時間がございますが?」

先ほどの雰囲気を感じさせず立ち上がるアカツキ、あくまで秘書として振る舞うプロス。

「テンカワ君、たまには一緒に食事なんかどうだい?エリナ君も」

「ああ」

「ご一緒させていただきます」

かるくうなずいてアキトが立ち上がる。エリナも頭を下げる。

「それにしても……」

「なんだ?」

しげしげとアキトをながめながらアカツキが口を開く。

「一月だってのにその格好はないんじゃない?」

「しょうがないだろ、ラピスが夏が好きだって言うんだから」

「ハハハ、ホント父親してるよね君は」

アカツキが笑いながら入り口をくぐり、エリナがその背後に付き添う。
仏頂面のまま、アキトも後に続こうとしたところでプロスペクターに呼び止められた。

「テンカワさん少しよろしいでしょうか?」

「?」

いつもの笑顔を連想させない沈痛な表情を見せるプロス。そして前置きもなしに切り出した。

「ルリさんにお会いいただけないでしょうか?」

それは“質問”ではなく“懇願”だった。
いきなりの内容にアキトは何も答えない。

「先々週から“火星の後継者”の幹部達の裁判が始まったのですが、事件を鎮圧した当事者としてルリさんが証人として呼び出されたのです」




先週までに都合4回開かれたその裁判で公聴席に座っていたプロスは、そのときの様子を思い出す。

被告席に座らされた彼ら幹部達は、現政権への批判と自分たちの正義を声高に叫んでいた。

そして、ルリが証人として出てきたとき彼らの矛先はこの少女へと向かった。
曰く、電子の魔女、腐敗した者どもの操り人形、親無しの改造人間、etc………




「その席でルリさんに浴びせられた言葉をこの場で言うつもりはありません。ですが彼女にとってあれはあまりにも酷すぎます」

「………」




火星で目の前にあらわれたアキトに対して引け目を感じた彼らは、その気持ちのはけ口としてルリを餌食にしたのだ。
そしてその急先鋒は火星の後継者bQのシンジョウ・アリトモだった。

彼らの言葉が突き刺さるたびうつむくルリ。
何もできない自分が恨めしく思ったのはプロスの長い人生で初めてのことだった。




「いまルリさんはつらい立場にいらっしゃいます。是非ともテンカワさんに元気づけてもらいたいのです」

「………だめだ」

「テンカワさん……」

「ルリちゃんに会うことはできない」

己の都合だけで妹に等しい娘を利用したのだ、そんな自分がどうして顔を見せられる?

そう自分に言い聞かせるアキトの顔は苦渋に満ちている。それは復讐を誓っていたあの頃よりもはるかに苦しみをあらわにしていた。

「ルリちゃんにはナデシコのみんながいる」

そう言い残し歩き出したアキトの背中が消えるまで見送った後、プロスは深く深くため息を漏らし首を振る。

「テンカワさん……あなたはわかっていらっしゃらないのです」

アキトの歩き去った通路を見る。

「…………ルリさんにとって、あなたは他の誰にも代え難い人なのですよ」








第1話−了

 

 

 

代理人の感想

うーむ、婚姻届未提出設定で来ましたか。

本格的に恋の鞘当・・・・というか、ルリメインで今のところユリカは出てきてませんが。

最終的にどうなるにせよ、ある程度はあちらのほうの描写も見たいところ。

それとも、最後までルリとアキトの視点だけで押すつもりかな?