Spiral/again 〜auld lang syne〜  第7話





宇宙空間を漂うエステバリス。そのアサルトピットで彼女は目を覚ました。
パイロットスーツ越しに彼の体に触れる。夢でもなく、幻覚でもなく、テンカワ・アキトがここにいる。



ここにいる    



その首に回した両手を離れないように強く握る。外気温を完全に遮断するスーツ越しではその体の温もりは伝わってこないが、胸に寄せたヘルメットを通して心音が聞こえてくる。規則正しく伝わってくるその音に誘われ、別れの日以来初めて彼女は深い眠りに落ちていった。







アキトが目を覚ましたとき、エステバリスは何もない空間を惰性のまま流されていた。
最低限の生命維持装置しか働いていないため、メインモニターをはじめコンソールも含めたすべての表示がブラックアウトしている。
まずは現在地を知ろうと体を動かしたとき、初めて自分の首に回された腕に気が付いた。

「?」

ラピスを乗せたときもこんな抱え方をした覚えはない。ここまで密着したと言えば結婚式でユリカを抱き上げたときだが  
途端に気を失う前のことを思い出す。
慌ててピット内に空気を満たすと自分のヘルメットをはずした。

「オイ、ユリカ!」

「う…ん…?」

アキトの呼びかけに小さな声が答える。

「ほら、起きるんだ」

ゆっくりとした動きでヘルメットがアキトの方を向きじっと見つめたかと思うと、アキトを締め落とさんばかりの勢いで首に回した腕に力を込め抱きついてきた。

「ちょ、ちょっと待てユリカ!」

そう叫ぶアキトの声で腕が離される。

「どうしてそう  

「違います!!」

「え……」

それは、あの夏の日に丘を渡る風の音、短い生を歌う蝉の鳴き声の中で聞いた声。
ヘルメットがはずされ、その中に収められていた長い髪が宙に舞う。
それはそれ自身が光を宿しているかのように銀色に輝いて見えた。

「私、ユリカさんじゃありません!」

「ルリ…ちゃん……」













ナデシコCのミーティングルーム。そこでユリカを始め、主立ったクルーが揃っての打ち合わせが行われていた。
その部屋の隅には情報提供者としてミナトとラピスの姿もあった。

「最初の手順は初期設定マニュアル通り。システム掌握で目標のコンピュータ停止。データを全て差し押さえてください」

「それじゃ今まで通り僕がナデシコの統括をして艦長がハッキングでいいんですか?」

ハーリーの確認にユリカが両手をあわせて申し訳なさそうな顔をする。

「ハーリー君ゴメンね、次はハーリー君がハッキングするって言ってたのに。今度のはどうしても失敗したくないの」

「いえ、僕がんばります!」

美人司令官の“お願い”に張り切ってみせるハーリー。かすかに上気したその顔は鼻の下を伸ばしているようにも見える。
それを見ていたラピスがボソリと吐き捨てる。

「バカ」

「え?」

「何でもありません」

ボソッとつぶやいた言葉を耳にして声を上げるミナトに、ラピスはしれっとした顔で返事を返しルリに目をやる。
落ち込んでいたときの様子は今の表情から連想できないが、今度は何かあればすぐに千切れてしまう張りつめた細い糸のような雰囲気を感じてしまう。その顔にラピスは今までと別の意味で不安を覚えてしまった。
その間もユリカの作戦説明は続いている。

「通常なら制圧要員で順次施設内の人員を取り押さえるところですが、今回は目標にA級ジャンパーが含まれています。そこで!」

「俺とサブの出番って訳だな!」

鼻息も荒くリョーコが胸を反らす。

「2人のアルストロメリアがジャンプ!アキトをゲット!!」

「捕まえちまえばこっちのもんだからな!失敗すんじゃねえぞサブ!!」

「わかってますよ、俺も言いたいことがありますからね」

かつてのユリカを知らないクルーは、普段は落ち着いている司令官がVサインまで出すノリに最初は面食っていた。しかし、少なからずアキトとユリカの事情を知っているものがほとんどだったため、皆納得したように3人の会話を聞いている。

「情報ではジャンプ実験の開始時間はおよそ24時間後。それまでナデシコは目標施設近くにてステルスモードで待機、ボソン反応を感知したら一気に制圧を開始します。今から20時間の間、クルーは交代で休憩をとってください」

ユリカの言葉にクルー達がミーティングルームを順次あとにしようとしたとき、思い出したようにユリカが声を上げる。

「そうだ、リョーコちゃん」

「なんだ?」

「あたしも乗せてってくれるかな?」

三郎太と整備班を引き連れてハンガーに向かおうとしていたリョーコは、その頼みにニッと笑ってみせる。

「いいぜ。約束だからな」

「ありがとう」

肩越しに手を振ってリョーコは出て行った。それを見送り、ユリカがホッとしたようにため息をつく。
しかしそれを聞いていたルリは対照的にラピスの目の前で落ち込んでいた。

「どうしたのルリルリ?」

「そんなの……」

「ずるいです」

小さくなったルリの言葉を継いできっぱりと言ったのはラピスだった。

「何で、ラピスちゃん?」

ラピスの声に首をかしげるユリカへ返事もせず、ルリの手を掴んだラピスが部屋を飛び出していった。
その後をミナトが慌てて追いかける。

「待ってラピスちゃん!」

出口のところで2人を見送っていた三郎太にぶつかりそうになったが、かまわず走り抜けた。

「2人ともどうしたんだろう?」

「さあ?僕ちょっと聞いてきます」

3人の後を追ってハーリーも走り出す。
それを見送り、1人ミーティングルームに残されたユリカが天を仰ぎみる。

「待っててねアキト…」






あまり体力のない2人がミナトに追いつかれるのに、さしたる時間はかからなかった。

「いったい…どう…したの?」

荒い息をつきながらもかろうじて言葉を出せるミナトに対して、ルリとラピスは普段の運動不足がたたってゼイゼイ言っているだけである。

「システム…掌握…していたら…」

少し息が落ち着いてきたのかラピスが切れ切れに答える。

「全部終わるまで…シートから…離れられないんです」

「それがどうして…」

2,3度深呼吸して、ラピスが息を整える。

「ユリカさんがリョーコさんとジャンプするって事は、ルリを置いて1人だけ先にアキトに会うってことです」

「それはしょうがないんじゃないの?」

早く逢いたい気持ちはわかるけどと付け加えるミナト。
しかしラピスはブンブンと首を振ってみせる。

「アキトのこと諦めるって言ってたのに、ずっと逢えなかったルリを放り出して先にアキトに会うのはずるいです」

「それは……」

システム掌握をしている間はブリッジから離れることはできず、作戦が完全に終了するまで掌握をやめることはできない。つまり、ルリがアキトに会えるのはナデシコCのクルーの中でも最後となるのである。普通なら部隊の総司令としてユリカが取り締まり目標となる実験施設に足を踏み入れたり、研究者に直接会うのは撤収前なのだが、今回は真っ先に乗り込むと言っている。

ラピスの言っていることを子供の理屈といえばそうかもしれない。A級ジャンパーのアキトを捕まえることを何より優先するとしたら、ユリカの作戦は妥当なものだと言える。説得するにしてもコミュニケ越しより、直に面と向かって話した方が良いに決まっているのだ。
それでもルリをずっと見ていたラピスは、アキトに最初に逢うのはルリがふさわしいと思いこんでいる。
だから“ずるい”のだ。

「…そうかもしれないけど……」

「あ、こんなところに」

ラピスの言いたいこともルリの気持ちもミナトにはよくわかってしまった。
どう説得しようかミナトが言葉に詰まっているところにハーリーが声をかけてきた。

「艦長どうしたんです?ユリカさんも心配してましたよ」

「ハーリー君…」

「病み上がりだから体調が万全じゃないかもしれませんけど、掌握がんばってくださいね。ナデシコCの事なら大船に乗ったつもりでドーンと僕に任せてください」

久しぶりにルリがナデシコCに乗っていることで浮かれているのだろう、自分の胸をひと叩きしハーリーはしゃべり続ける。

「テンカワさんが帰ってくればユリカさんも元気出してくれますって。そしたら艦長も元気出ますよね?」

「あ、あのねハーリー君…」

どうやらハーリーはルリの元気がない理由をきちんと理解していないらしいことにミナトが気づく。見かねて声をかけるが、ハーリーは今度はそのミナトへほんのり赤くなった顔を向ける。

「ミナトさん見ていてください、ちゃんと艦長のバックアップもして見せますから。僕だって1年前よりオペレーションの腕前が上がって  

「どこかに行って」

「え゛」

嬉々としてしゃべるハーリーにラピスが冷水をかけるかのような言葉を言う。

「どっか行って!」

「な、何でだよ!?」

「いいから早く!!」

ラピスの剣幕にミナトが見かねてハーリーに手を合わせる。

「ゴメンね、しばらく3人だけにしてもらえるかな?」

「でも……」

ラピスの方をちらりと見ると自分をにらみつける瞳と目が合う。

「う……」

「ルリルリのことは心配ないってユリカさんに言っておいて。ね?」

前屈みになってのぞき込むミナトが笑顔と共にお願いしてきて、躊躇していたハーリーも渋々頷いた。

トボトボと歩き去るハーリーを見送りながらラピスに尋ねる。

「どうしてあんな事を言ったの?」

「ルリのことを好きとか言ってるくせに、ちょっときれいな女の人がいるとデレデレしてだらしなさ過ぎです」

深刻な理由を想像していたミナトは思わず吹き出してしまった。ミナトから見ればハーリーが年上の異性に鼻の下を伸ばすのも年相応の当たり前の反応である。
それにしてもユリカに反発した理由といい  

〈やっぱりまだまだ子供よね〉

もっとも、普通女の子が男の子のそういうところをこんなに嫌がるのは、相手のことを好きなときか身近なときである。
ということは。

「でも、ラピスちゃんがハーリー君のこと好きだなんて全然気付かなかったな」

「好きじゃありません」

「またまたぁ」

ニマーとミナトが笑うのに対してラピスが心底面白くなさそうな顔で返す。

「嫌いです。でもあんなのでも一応“兄”ですから」

「なんだ、そうなんだ。あれ?んーと、それって……」

俯いて自分の考えにふけっていたルリが顔を上げる。

「まさか…」

「ハーリーも私も同じルリのクローンですから」

「…ラピスちゃん……」

ミナトは目の前の少女を信じがたい思いと共に見つめていた。

なぜ、こんな事を平然と言えるのか?
これくらいの子供ばかりでなく、大の大人でも受け入れられるだろうか?

「どうしてそんな……」

「私はラピス・ラズリです。アキトは“ルリのコピー”ではなく“ラピス・ラズリ”になればいいって教えてくれました」

この子は強い。

誇らしげに胸を張って言い切るラピスの姿を目にしながら、それがミナトの抱いた感想だった。

「私はアキトにいっぱい教えてもらいました。ナデシコのことも。乗っていたみんなのことも。ナデシコで楽しかったこと、辛かったこと。その前にも色々な事と一緒に生きることを」

懐かしむような顔でそこまで言ったラピスが、ハーリーの消えた廊下の先へ顔を向ける。

「でも、ハーリーは知らない。自分のことも。アキトが感じていた様な本当の悲しみや苦しみも。自分の暮らしていた場所がどれだけ幸せで安全なところかも。だから嫌い」

「そこまで言わなくても……」

「そんなハーリーに優しくされても同情されているみたいで気持ち悪い。だから嫌い」

きっぱりと言い切るラピスにミナトは内心頭を抱えてしまった。

〈ハーリー君良い子なんだし苦労してないってわけじゃないんだろうけどな…〉

理屈っぽい大人の部分と感情的な子供の部分がない交ぜになったラピスの言動。
潔癖性もしくは完全主義なのだろうか。いや、もしかしたら近親憎悪なのかもしれない。
とりあえず2人が仲良くするのは難しいというのだけはよくわかってしまった。

「だからハーリーは仲間に入れません」

「仲間?」

尋ねるミナトに答えず、ラピスは暗い顔のルリの手を握った。

「私にオモイカネを紹介してください」

「…なぜ?……」

「ルリの代わりに私がシステム掌握をします。だからルリはアキトに会いにいって」

「ラピス……」

ラピスの言っている意味が徐々に解ってきたのだろう、焦点の定まらなかったルリの目がゆっくりと力を取り戻してくる。
ラピスの手を強く握りかえしつつルリはうつむき、涙をこぼした。

「ありがとう…ありが…とう…」

「ユリカさんには言わないの?」

「もちろんです」

クスリと笑いつつラピスが答える。その顔を見たときミナトは思わず苦笑していた。
ナデシコAに乗っていた頃、ちょっと悪さをするときに見せていたルリの表情とそっくりだったからである。







予定時間15分前。
すでにユリカはハンガーに行って、リョーコのアルストロメリアに乗り込んでいるはずだ。
艦長席に座っていたルリがハーリーにコミュニケをつなぐ。泣いた後のひどい顔を見られたくないという女性らしい理由をつけて、サウンドオンリーである。

「ハーリー君少しだけ席を外します。その間お願いします」

「ハ、ハイ!」

ことさらルリのお願いに弱いハーリーは、作戦開始まで時間がないこの状況で席を外すルリの行動の奇妙さに疑問を抱かなかった。
ルリの右後ろのシートは副長である高杉三郎太のものだが、彼はすでにハンガーで待機しているためそこは空席となっている。
その席の反対側、ルリの左後ろでは火器管制係のサクラ少尉にミナトがしきりに話しかけて注意をそらしていた。
ブリッジ後方の出口へ向かうとき、ルリにミナトが視線で励ましてくる。それに軽くうなずき、ブリッジを出る。
出口のそばには艦長服を着込んだラピスが待っていた。自分の髪をまとめている2つのリングをはずすと、ラピスを手伝いその髪に通してやる。
マントをつけてやると、髪の色をのぞいてそこにはルリがもう1人現れた。この一年で成長した分ルリの方が背は高かったが、シートに座っていたら判らないだろう。ミナトの施したメイクもあり、ほとんど顔の区別は付かない。
どちらともなく体を抱きしめあう。

「アキトを逃がさないで……。帰ってきたらバカって言ってやりますから」

ラピスの言葉に無言で頷き、ルリはハンガーへ向かいかけだしていった。
その姿を見送った後、ラピスはブリッジへ入った。サクラ少尉はミナトとの会話に気をとられている。そのミナトと目配せを交わし艦長席へ。 即座にウィンドウボールを展開しシステム統括を開始する。

「オモイカネ、よろしく」

【ラピスさん、こちらこそよろしく】






「え?えええ〜〜!?」

見上げるとルリがウィンドウボールを展開しているのがハーリーの目に入った。
まだ目標に動きは見られない。なぜルリがシステム統括を始めたのか全然解らなかった。

「か、艦長どうしたんですか!?」

『ハーリー君、ナデシコC任せます』

「でも、まだ……」

【とっとと始めろ!】

ルリのサウンドオンリーの表示に大きくかぶるようにオモイカネがウィンドウを開く。

「わ、わかったよ」

どうして僕にオモイカネは冷たいんだとブツブツ言いながら、ハーリーもウィンドウボールを展開する。
“ルリ”の指示に従い、ハーリーは月ネルガル施設のはずれのある一点に艦を進めた。






「艦長、遅いっすよ」

「!?」

パイロットスーツ姿のルリが三郎太のアルストロメリアに近づいたとき、開口一番かけられた言葉だった。
三郎太に乗せてもらうつもりではいたが、あらかじめ話を通していたわけではない。それでも彼はルリが来るだろう事を予測していたのだ。

「私……」

「わかってますって。整備の連中もしびれを切らして待ってたんすから」

『だーっ!そんなもんいらねえってことぐらい判んだろーがっ!!』

見れば、整備班の一部が壁になってリョーコとユリカから見えないようにしてくれている。中にはリョーコ機に無理矢理レールガンをくくりつけ(しかも予備弾倉をいつもより多めに)、リョーコの罵声を浴びているものまでいる。

「…どうしてわかったんです?」

「伊達に何年も副長はやってないっすよ」

『そいつも外せってんだ、バカ野郎!!』

ブンッ、コーンという音と共にリョーコのののしる声が聞こえてくる。
三郎太が笑顔と共にアサルトピットを親指で指した。

「気付かれないうちに乗りましょうや」






「ミスマル指令より先にっすね」

アサルトピットを閉じると三郎太が確認してくる。それにルリはコクリと頷き返す。

「ラピスが照明を落としてくれます、そのときに……」

「了解っ!」

ルリを元気づけようとするかのように威勢よく返事をし、三郎太は発進手順を進めていく。
シートの陰にうずくまりながら、ルリは胸元で両手を組み合わせた。

〈もう少し……。もう少しで会える……。〉












自分の膝の上、泣き疲れて眠ってしまったルリの銀の髪をアキトはゆっくりと撫でていた。
常日頃冷静なルリらしからぬ脈絡の無いその話しぶりが、どれほどまでにルリが精神的に弱っているかをアキトに心の底から実感させた。

「ゴメン、ルリちゃん………」

今更ながら後悔の念が浮かんでくる。
ユリカを助けるためと理由をつけてルリを一人にしていたこと。生きていることを教えなかったこと。草壁や北辰を倒すためルリの力を利用したこと。
この細い体に自分はどれほど重荷を背負わせてしまっていたのだろう。
ことが終わってからも自分は雲隠れをしてしまい、世間の好奇の目をこの娘ひとりに向けさせていた。
もっと早く帰ってやればよかったと思う。そうすればさっきのような無茶をさせるようなことにはならなかったはずだ。

しばらく涙の跡の残ったルリの寝顔を眺めながら、アキトはその髪を撫で続けていた。

“ピッ、ピッ、ピッ”

不意の電子音にコンソールを見ると“酸素残量3時間”の表示がされている。
ふと気になって外の様子をモニターに映してみた。

「月……」

遠くに小さく月とその向こうに地球が浮かんでいる。
膝の上のルリを見て、アキトは思わず苦笑してしまった。

「ハハ、あの時と一緒か」

狭いアサルトピットの中、酸素を気にしながらの宇宙漂流。
以前はメグミとユリカが一緒でいろいろもめていたのだが、今回は静かに寝息を立てるルリと2人だけだった。

「静かなのはありがたいけどな」

アキトはそう呟くとまた銀糸の様なその髪に指を通す。ルリは何も気付かずに眠っている。

エステバリスはゆっくりと地球から遠ざかるように動いているようである。
あの時と違い救助が来る事はないが、背部のトランクに詰めたチューリップ・クリスタルでどこかにジャンプすればいいことなのでアキトは焦っていない。


誰もいない。誰も来ない。


「2人きりで漂流か……」

そう口に出したとき、疑問が頭に浮かんだ。

今はいつなのだろう?

予定ではジャンプが成功しているなら蜥蜴戦争勃発前の火星にジャンプアウトするはずであった。もっとも、直前のごたごたでアキトはイメージングをできなかったので失敗していてもしょうがないのだが。

「ルリちゃんを巻き込むわけにはいかないし、やり直しかな」

一度ルリを連れ帰って再度時間ジャンプするかと考えたとき、それが不可能である確率が高いことに思い至る。
時間移動が失敗しているだけなら問題はない。だが、イネスの時間に関するイメ−ジングが終わった状態であの騒動が起こっている。ということは時間移動だけが計画通り成功しているかもしれないのだ。ならば今から月ネルガル施設へジャンプして帰っても意味がないのだ。

「2人きり…なのか」

この時間にいる人たちは自分たちが知っていた人達である。しかし、彼らは未来から来た自分たちのことを知っているわけではない。
同一人物にして別人。この時代に自分たちの本当の知り合いはいないのである。
これでお互いを除いて本当に天涯孤独の身。

「ゴメン、ルリちゃん……こんな事に巻き込んで」

つくづく自分の愚かさに呆れてしまう。
結局、ルリにばかり迷惑をかけてしまう自分は“馬鹿”なのだろう。
こんな少女に辛い思いだけをさせていたくせに、贖罪ができると考えていたなど烏滸がましいにも程がある。



それでも。いま。頼れる者のいないこの時に、ルリがいてくれる事に、アキトは大きな安堵を感じずにはいられなかった。



そして、そのルリの寝息を聞いているうちにアキトもいつしか眠りに誘われていった。













“ピッピッピッ、ピッピッピッ、ピッピッピッ、ピッピッピッ”

どこかせっぱ詰まった音にアキトは目を覚ました。

“酸素残量30分”

コンソールの表示だけがピット内を照らしている。バッテリー切れでメインモニターはすでに消えていた。

「不味いな」

とりあえずバッテリーパックをコンテナの予備に取り替えて、ジャンプのためにC・Cをばらまく必要がある。
外に出るためヘルメットに手を伸ばしかけたところで、ルリもヘルメットを外していたことを思い出した。いつものツーテールではなく、ポニーテールにしたその銀糸を何とかヘルメットの中に収める間もルリは目を覚まさない。
次いで自分もヘルメットをかぶる前に、持ち込んでいたトランクからゴーグルを取り出す。
ゴーグル型ヘッドマウントディスプレイに数個のカメラを組み込み、暗視機能と赤外線感知機能、無線を付け加えた特殊部隊用の装備である。
軍では蜥蜴戦争以前に小型軽量化した新型を使用しており、なかなか手に入らなかったこの旧型をアキトが持ってきたのは、両目・両耳を完全に覆う事による変装効果を期待したためである。
チェック。動作確認。無線の代わりに無理矢理組み込んだコミュニケも動作するようである。

そのままヘルメットを手に取ったところでアキトの動きが止まった。
軽い振動と共にエステの動く方向が変わったのだ。

「なんだ!?」

『おーい、生きてっかー』

外から伝わってきた声がくぐもってピット内に響く。この声には聞き覚えがあった。

「……リョーコちゃん?」

『ハッチ開けっぞー』

『………めだよ、……ットしてな…もしれ……』

『て……くから…ごくね』

かすかに聞こえてくる声。声にというよりその口調に覚えがあった。

「ヒカルちゃんに、イズミちゃん?」

まさかと思いつつもハッチを開け確認するわけにもいかず、今はおとなしく待っていることしかできなかった。






かつて、体が覚えていた振動と共にエステが固定される。外からはのんびりとした、しかし忙しない喧噪が伝わってくる。
ハッチをガンガンと叩く音と共に男の濁声が聞こえてきた。

「良いかー?強制解放するからなー」

アキトが返事をするか逡巡する間もなくハッチが開き、シートごとアキトとルリは前方へと押し出された。
目の前のタラップには眼鏡をかけ、スパナを担いだ白いつなぎをまとった男がいる。

「おう、やっぱ生きてたみてぇだが…お前ぇ何付けてんだよ?」

アキトの顔を見てニカッと笑ったのはウリバタケ・セイヤだった。その指で自分の顔を指し示し、アキトの顔を覆うゴーグルの事を聞いてくる。

「セイヤさん……」

懐かしい顔に、そう口にしそうになったところでアキトは気付いた。
ウリバタケの背後にエステバリスの各フレームが並んでいる。陸戦、砲戦、空戦…。そしてアサルトピットを接続した状態の赤い0G戦フレーム。アマテラスで、火星極冠遺跡空域でリョーコが使っていたエステバリス・カスタムではなく、それはナデシコAで使っていた0G戦フレームだった。

「何だ?どうした?」

「ここは……」

「ここは機動戦艦ナデシコだ。お前ぇさんがたは宇宙漂流しているところを運良く救助されたってわけだ」

ナデシコCではない。ここはかつて自分が蜥蜴戦争の時乗り込んでいたナデシコAだった。
だが懐かしの我が家に帰ってきたという感じはしない。それは何故なのだろう?
下のデッキを見るとリョーコ、ヒカル、イズミの三人がひとかたまりになってこちらを見上げていた。そのリョーコの髪は見事にグリーンに染められている。
そして何より、その目つきが雄弁に物語っていた。

“なにもんだあいつは?”

それは知らない人間に向けられるはずのものだ。

そこまでわかった時、アキトは理解した。
自分は懐かしい故郷に帰ってきたテンカワ・アキトではなく、見知らぬ艦に救助されたただの見知らぬ人間なのだと。

「大丈夫か?顔色わりぃぞ?」

「あ、ああ」

「そっちの娘は大丈夫なのか?」

ウリバタケの声に生返事をしていたアキトがルリのことを指摘され我に返る。周囲の騒がしい音もお構いなしにルリは眠っているようだ。ヘルメットと遮光シールドでその顔は見ることはできない。

「眠っているだけだ」

「そうか」

「どこか静かなところで休ませてやりたいんだが…」

「それでしたら部屋をご用意いたしましょう」

いつの間にかプロスペクターがウリバタケの後ろに立っている。

「あんたいつの間に来たんだよ!?」

「先程、副長と一緒にですよ」

ルリを抱きかかえたアキトにウリバタケ、プロスペクターの4人を乗せて昇降タラップが降りていく。下にはパイロット3人とジュン、ゴートが待ちかまえていた。ジュンは心配そうに。ゴートは無愛想な顔で、だが油断無く。リョ−コは胡散臭いといった顔を隠そうとせず。ヒカルは好奇心を抑えようともしていない。残るイズミはこちらと視線があった瞬間ニヘラと笑った。途端に女性2人が肩でため息をつき、ジュンの顔が引きつるのが見える。ゴートは無愛想な顔のままだったが、視線が落ちつきなく動いている。

「おや、皆さんどうなさいました?」

「あー、なんでもねぇ」

プロスペクターの問いかけに諦めたようなリョーコの声が帰ってくる。

「んで、そいつらは?」

「おっと、まだお名前もお伺いしていませんでした。私、プロ  

「悪いがゴタゴタがあったから今はとにかくこの子を休ませてやりたい。自己紹介は後にしてくれないか?」

プロスの口上を無理矢理遮る。いま何か聞かれるとボロを出しそうだった。

「いや、これは気が付きませんで。ささ、こちらへ」

「すまない」

先導するプロスの後に続こうとして、ウリバタケへ振り返る。

「エステと一緒のコンテナはいじらないでくれ」

「わかってるよ、うちの連中にも触らせねえ様にしとくよ」

とりあえずはアサルトピット内に持ち込んでいたトランク1つを持ち出し、アキトはプロスと共にハンガーを後にした。その背後にゴートが続く。
後に残されたリョーコ達がそれを見送る。

「サツキミドリの生き残りかなぁ?」

「そうでしょう」

「けどあそこのパイロットにあんな奴いたか?」

「3人とも知らないの?」

「ああ」「あたしも」「見たこと無いわね」

ジュンの疑問にパイロット3人が首をひねる一方、ウリバタケはアキトのエステを眺めていた。

「初期型もいいところだな。バッタに見つかったらイチコロだったろうに、ホント運が良かったみてぇだな」

今更いじりたくなるような物でもないので、ウリバタケは既に興味を無くしている。何せ最新バージョンの機体が運び込まれたばかりだ。一応手近にいた整備員に触らないように指示をすると、予備機の塗装をするためウリバタケはのんびりとその場を離れていった。







「こちらの部屋をお使いください」

「すまない」

プロスに案内された部屋に入ると備え付けのベッドにルリをそっと降ろす。そのヘルメットをとるために手を伸ばそうとしたところでプロスとゴート、途中で合流した保安部員の視線に気付く。ここでルリの素顔をさらすのは得策ではない。
それ以前に体のラインがクッキリ浮き出たパイロットスーツのおかげでルリはその肢体を周囲の人間にさらしていた。鼻の下を伸ばした保安部員とムッツリ顔のまま頬を朱に染めたゴートの顔を何となく面白くなく感じ、ルリにシーツをかける。
アキトの言いたいことを察したのだろう、プロスはわざとらしい咳払いをすると残りの2人を促す。

「ゴートさん」

「あ、ああ、すみません」

「私どもは廊下でお待ちしておりますので」

そう言い残すプロスにアキトは無言で頷き返す。
3人が出て行ったのを確認すると、ルリのヘルメットを改めて外した。

「う…ん……アキト…さん」

寝言だろう。小さな声を出すルリ。その頭を軽くなでてやりベッドのそばを離れる。
出口へ向かわず、持ってきたトランクを開ける。部屋を出る前にやっておかなくてはいけないことがあるのだ。
トランクからキーボードを取り出すとバイザー横のコネクタに接続し、コミュニケ経由でオモイカネへアクセスを開始する。エリナから聞いていたネルガル会長の権限でアクセスをすると、この部屋の録画機能などをことごとくカットしていく。
ナデシコが火星からチューリップ経由で月に現れた後に、エリナが乗員の行動記録を見ていたのを教えられたのだ。
カメラ、録画機能、生体チェック機能、etc…。この部屋で行われていることを知ることができるだろう機能を全てオフにすると、他人には操作できないようにロックをかけ終了する。これでこの部屋でボソンジャンプをしても当面は大丈夫なはずである。
ついでに今がいつなのかを検索する。

「サツキミドリ2号破壊の翌日か……」

残念ながらすでにヤマダ・ジロウ=自称ダイゴウジ・ガイは死亡。サツキミドリ2号は崩壊し、生存者はリョーコ達3人しかいない。
今更時間ジャンプのやり直しはきかない。あの時ルリが介入しなければ蜥蜴戦争開戦前に飛べたかもしれないが、ルリがあんな行動に出たのも自分が彼女を放っておいたせいである。
自分にルリを責める権利は無い。むしろこの状況でルリは守らなければならない。自分達を知っているのはお互い以外誰もいないのだから。












「すまない。待たせた」

廊下で待っていたプロスに声をかけたアキトの格好はネルガルSSそのものだった。
黒のスーツにオールバック気味に撫でつけた髪。サングラスの代わりに軍用バイザーなのがかなり異様ではある。

「いえいえ。お連れ様は大丈夫ですか?」

「ああ、いろいろ心配をかけたから、安心した反動で眠っているだけだ」

「それは結構で」

アキトの言い回しにプロスペクターは疑問を抱いたが、そんなことはおくびにも出さず、にこやかに受け答えをする。

「それではブリッジで艦長にご説明願いますかな?」

「わかった」

「その前にお名前をお聞きして  

「カノープス」

「は?」

プロスが呆気にとられた顔をする。それはゴートも同じだった。

「カノープスと呼んでくれ」

滅多に見ることのできないプロスの顔にアキト=カノープスは笑いをかみ殺すのに必死だった。
それを見たゴートが顔色を変える。

「ふざけるんじゃない!」

「ネルガルにはペンネームとか言って本名を名乗らない社員がいると聞いたことがあるが?」

「む!」

「ゴートさん」

プロスが片手をあげてゴートを制する。

「まあ、そのような方もいますので……カノープスさんとお呼びすればよろしいので?」

「ああ」

「では、カノープスさんブリッジへ参りましょうか」








「初めまして!私が艦長のミスマル・ユリカです」

天真爛漫そのものの笑顔で自己紹介をするユリカがカノープスの目の前に立っていた。

〈知らない顔だ……。ユリカがこんな顔をするなんてな…〉

いや、知っている。ただ自分に向けることはないはずだった。
それはユリカだけでなくこのブリッジにいる全ての人間がそうだった。
フクベ、ジュン、ミナト、ルリ、メグミ。ハンガーにいたリョーコ等3人にウリバタケもいる。
警戒と好奇心の混ざりあった顔。
一瞬、ジャンプしてきたことを後悔した。

〈クソッ!〉

たった今心に浮かんだ後悔の念を悔やむ。


何のために自分は何もかも捨ててここに来た?
未来を変えるためだろうが!


気が付くとユリカがこちらの顔を下から覗き込んでいた。

「あの〜、もしかしてご気分が悪いんですか?」

「ああ…、いや、少し考え事をしていたんだ」

「そうですか!さっそくですけど、お名前とどうしてこんなところを漂流していたか教えて頂けませんか?」

ストレートにこちらの事を聞きにかかるユリカ。
先程、オモイカネにアクセスした時に細工は済ませてある。あとは、あの時代のプロスに嫌という程たたき込まれた“交渉術”の成果をいかに発揮して、本当らしい嘘をつくかである。

「名前はカノープスと呼んでくれればいい」

「カノープスさん…ですか?」

「ああ」

「本名じゃないですよね?」

「そうだが、別にかまわないだろう?」

「それはそうですけど〜、できれば本名を知りたいな〜って思ったりなんかして〜」

クネクネと体を動かし、おねだりポーズ。
ユリカに妥協姿勢を見せたらどんどんつけ込まれるのは経験済みなので、すっぱりと拒否してやる。

「教える義理はない」

「ええ〜?でもでも〜」

「言っただろう、教える義理はない」

「うーん」

消化不良気味の顔のユリカだが、そこへプロスが声をかける。

「よろしいではありませんか、1人や2人本名を誰も知らない人間がいても」

〈プロスさん……〉

心の中でいろいろ突っ込みたいところだが、それはカノープスだけではなくユリカ以外のこの場にいる全員の思いだっただろう。

「そうですね、1人や2人本名を誰も知らない人間がいてもいいですよね!」

「おい…」

思わず口に出してしまったが、ユリカには聞こえなかったらしい。

〈そうか…結婚前のユリカはこうだったよな〉

ナデシコ長屋の頃を思い出す。今となってはほろ苦い思い出。

「それでどうして漂流していたんですか?」

「ちょうどサツキミドリに到着した直後に爆発に巻き込まれてな」

「あ、やっぱり」

「新任のパイロットか。道理で顔を見たことがねぇと思ったよ」

「あんなのつけてたら嫌でも目立つものね」

カノープスは3人娘の声を無視し、説明を続ける。

「乗って来たシャトルごと港口から外へ流されたわけだ」

「そうだったんですか。あれ?シャトルはどうしたんですか?」

「損傷していたからな。エステで離脱した直後に爆発した。それにまきこまれて気を失っていたんだが運良く救助されたということだ」

「そっかぁ、大変だったんですね」

基本的にお人好し揃いのナデシコクルーである。別段矛盾した話でなければわざわざ疑うことはしない。ここでの難敵はプロスペクターだろう。
そのプロスがユリカの背後からズイと出てくる。

「サツキミドリに来られたと言うことは我が社の社員と言うことですね」

「契約社員だがな」

「失礼ですが確認させて頂きます。ルリさん」

「はい」

プロスの声にオペレーターシートのこの時代のルリがオモイカネにアクセスする。

「でました」

ルリの声と共に履歴書が表示される。もちろん正規のものではなく、先程紛れ込ませたものだ。

「月出身、24歳。身辺警備、ガードマン、ほう?傭兵もされておられたのですか」

プロスの横から内容を確認していたユリカやジュン達が困ったような顔をしている。

「月のどことか詳しいのは全然書いてないね。学歴とかも」

「ねえジュン君、もしかしてカノープスさんってやばい人?」

本人を前にして失礼なことを言う。慌てたジュンがユリカの口を押さえるが、もちろんカノープスは気にしてはいない。
何も知らないふりをしてプロスに尋ねる。

「サツキミドリ2号はどうなったんだ?」

「残念ながら木星蜥蜴に襲われて全滅してしまいまして」

「そうか」

今更悔やんでもしょうがないことであるが、あそこにいた人達はまた救えなかったことになる。

「ところでカノープスさんはこれからどうなさるおつもりでしたでしょうか?」

「え?ああ、サツキミドリ2号は無くなったんだろう?あそこでガードマンの契約をしていたんだが…どうしたものかな」

軍と交戦したうえで、ビッグバリアをぶち抜いてまで火星へ向かうナデシコが今更進路を変更するはずがない。それを知っていてわざとプロスに話を振る。

「本艦は火星へ向かう途中でして、今から地球に戻るわけにはまいりませんし…どうでしょう、エステの操縦ができるのでしたらナデシコでパイロットをするというのは?」

「蜥蜴のいる火星に向かうのか?そんな船のパイロットになって最前線に出るのはあまり嬉しくないな」

ここは一度渋ってみせる。案の定プロスが身を乗り出し、懐から宇宙ソロバンを引っ張り出すと軽快にたたき始めた。

「お給料その他お手当諸々を加えましてこれぐらいで」

表示欄にはなかなかの金額が映っているが、傭兵らしくふっかける。

「せめてこのくらいだして欲しいな」

「その金額までされるとこちらとしても苦しいので…これでは?」

「ならこれぐらいはどうだ?」

「いえいえ、これでひとつ…」

「もう一声…」

「でしたら…」

交互に宇宙ソロバンをたたき、3分ほど後にいい加減にして切り上げる。プロスの表情はかなり満足そうだ。恐らく想定していた金額以下で収まったに違いない。
カノープスとしては金額はどうでも良かったのだ。金にがめつい傭兵という印象をあたえられれば、ゴートあたりの警戒心も薄れるはずだからだ。同時にメグミなどはいささか軽蔑気味の視線をこちらに送っているが、気にしないことにする。今後こちらを詮索する気が無くなればそれに越したことはない。

「ねえ、1つ聞いていい?」

プロスの取り出した契約書にサインしていると、操舵席のコンソールに肘をついていたミナトが右手を挙げた。

「どうぞ」

「何でゴーグル付けっぱなしなの?」

最初に見たときから気になってしょうがなかったのだろう。身を乗り出してこちらをうかがっている。

「これがないと目が見えないからだ」

「へぇ?それって何なの?」

「軍の特殊部隊用のゴーグルだ。旧式だがな」

脇からゴートが口をはさんでくる。

「以前、仕事中に視力を無くしてな。こいつで代用している」

「それ外せないの?」

どうやら素顔を見たいらしい。もちろん見せるわけにはいかないのでこの場の人間が引くようなことを言ってみる。

「仕事中に両目を抉られたんでな、見ない方が良いと思うが」

「ご、ごめんなさい」

ミナトが慌てて謝る。他の連中は想像したのだろう、いかにも不味いものを食べたかのような表情をしている。これで今後素顔を見たいという者はいなくなるだろう。
いい加減疲れてもいたのでこの場を去ることにする。

「他に何もなければ休ませてもらいたい」

「うーんとぉ、もう1人女の子がいるってプロスさん言ってませんでしたっけ?」

「おお、そういえばそうでしたな」

「あっ!」

カノープスが思わず声を上げてしまい、プロスに怪訝な顔をされる。

「どうかなさいましたか?」

「何でもない……」

一緒にジャンプしてきたルリのことをどうするか考えていなかったのだ。

〈不味いな〉

カノープスが考えをまとめる前にプロスがにこやかな顔を向ける。

「彼女のお名前から教えて頂けますかな?」

「あー、そのー」

〈まいったな……〉

「どうしたんですか?」

〈少女Aってわけにはいかないよな〉

「A?」

ブツブツと呟くカノープス。

電子の妖精エレクトリック・フェアリーじゃ偽名にならないしな……〉

「L?」

先程からユリカが顔を近づけ耳をそばだてている。

〈そうだ、イネスさんがアイちゃんだったみたいに…〉

「I?」

ジュンとプロスも耳をそばだてる。

〈ルリちゃんの綴りだと…H・O・C・H…じゃないS・H・I……〉

「C?」

〈あまりいい偽名に向かないな……〉

「E?………あー!わかったぁ!!」

ユリカが突然大声を上げる。カノープスの周囲にフクベとルリ以外が近寄り、聞き耳を立てていた中でのことだったので、突然の大声に皆耳を押さえ悶えている。

「A・L・I・C・E!アリスちゃんかぁ!」

「なんで…」

そうなるんだというカノープスの言葉を無視して、ユリカが1人納得したようにウンウン頷く。

「やっぱり名前通り可愛いんだよね、うん、そうに違いない!あ、やっぱり愛称は“エルシー”かな?カノープスさんも言ってたみたいだし。でも、初対面でそう呼んじゃ駄目だよね」

皆が呆れた顔で見守る中、ユリカが1人はしゃぐ。

「そうだ!あたしもアキトと結婚して、女の子が生まれたら  

「えー、まあ、艦長のことはとりあえず放っておきまして…」

ハンカチで汗をぬぐいながらプロスがカノープスに向き直る。

「気を取り直して、彼女のお名前を教えて頂けますかな?」

「……アリスにしておいてくれ」

「しておいてくれって」

疲れたように言うカノープスにミナトが苦笑を漏らす。

「いえ、艦長の言ったことはお気になさらずにですな」

「“あれ”に違いますって説明するのか?」

瞳を潤ませ、未だになかばウットリとした顔を見せながら、ウネウネと身じろぎをするユリカをカノープスが親指で指し示す。

「子供は男の子と女の子が1人ずつで〜、芝生の広〜いお庭で真っ白な大きい犬と〜  

「疲れそうだ。俺は嫌だからな」

皆がそちらへ振り向き、揃って小さなため息を漏らす。
それは1人だけオペレーターシートに座っていた少女も同じだった。

「馬鹿ばーっか」













「…………アキト…さん………」

ルリが目を覚まして最初にわかったことは、確かにこの手で触れていた人の感触が無い事だった。
途端にルリの意識が一気に覚醒する。ベッドに両手をついて体を起こす。

「アキトさん!?」

慌てて声を上げるがそこは誰もいない部屋だった。

「ここ……」

ルリの見覚えのないそこは、使われていないのかトランクが1つ有る以外何もない殺風景なところだ。しかしそれでいてどこか見慣れたような感じがする。
ベッドから降りると体にかけられていたシーツがずり落ちる。部屋の真ん中に1人ポツンと立ちつくすと、急に寒気がおそってきた。
未だパイロットスーツのままのルリが外気温を感じるはずはないのだが、とりあえずベッドにあったシーツを体に巻き付ける。

「アキトさん……」

ここはどこなのか?アキトはどこに行ったのか?これからどうすればいいのか?
そんな疑問よりなにより心を占めているのは、アキトにそばにいて欲しいということだった。

恐る恐る、入り口の前まで足を進める。
ドアを開くことにひどくためらいを感じたが、このまま1人で居続けることの方が耐えられそうになかった。
意を決してドアを開く。目の前の通路は普段見慣れたものだった。

「…ナデシコC…」

通路へ一歩踏み出す。
見回しても周囲に人影はない。当然、アキトもいない。

「アキトさん……」

心細さに泣き出してしまいそうだった。

不意にガラガラという音が遠くから響いてくる。それはだんだんと近づいてくるようだった。
音がするのは十字路の方向だ。そちらへルリが歩を進めたとき、いきなり右側から大きな台車が目の前に現れた。
十字路を曲がろうとした台車はスピードを出しすぎていたため大きく外側へふくらみ、その側面でルリをはね飛ばしてしまう。

「アッ!」

たいした衝撃ではなかったが、はじかれたルリは背中から壁にぶつけられ一瞬息がつまってしまった。
そのままズルズルと崩れ落ち、咳き込んでしまう。

「あああああっ!ゴメン、ほんとにゴメン!」

台車を押していたであろう黄色い生活班の制服を着た少年が駆け寄ってくる。

「大丈夫?怪我してない?」

「だい   

ひどく心配げな様子で尋ねてくる相手に顔を向け、大丈夫ですと言いかけたところでルリの動きが止まる。

「ゴメン、やっぱりどっか痛いところ   

様子のおかしいルリにもう一度声をかけたところで、少年はルリに抱きつかれ押し倒されてしまった。

「あー、アキトさんこんなところでイチャイチャしてるー」

「いっけないんだー」

「ホウメイさんにいいつけちゃおー」

口々にはやし立てるホウメイガールズ。

「ち、ち、ち、ちが  

テンカワ・アキトは否定の言葉をあげかけたところで、自分(と見知らぬ少女)を見下ろす男が頭上に立っているのに気付く。





かつての自分に、ルリが抱きついている光景をカノープスは何も言わずただ見つめていた。



第7話−了






えらくお待たせしてしまいました。第7話お送りします。
(あまり感想をいただけないこの作品。誰も待っていなかったなどと言われたら凹んで立ち直れなくなりそうです)

冒頭にあるように、アキトと一緒にジャンプしたのはユリカではなくルリでした。
これでありふれたアキト(カノープス)×ルリ(アリス)になると思う方がほとんどかと思います。
傷の舐めあいをするのと恋愛がイコールならその推測は正しいです。慰め合ってみじめに生きていく2人が恋愛関係なら、この話はこれ以降アキト×ルリです。
ですが(過程がどうなったとしても)そんなお話にするつもりはありません。
最終的結末はどうあれ、今の状態の関係のまま2人がラストを迎えることは無いことだけは明言しておきます。
本命は他にいますし…


>>・・・ところで「作る」って何のことでしょうね?w
イネス曰く「冷凍保存してあるから成功するまで何度でも何人でも出来るわよ。もちろん私とユリカさんの分もあるから」w




 

感想代理人プロフィール

戻る

 

 

 

 

代理人の感想

半年間が空いたせいか、序盤を読んでる時の感想は「ありふれたアキト×ルリだなー」だったり(鬼)。

今までの蓄積で納得力を持たせていたわけですから、読者がそれを忘れてしまうとどうにもならんのですねー。

してみると、更新ペースにもある程度重要な意味はあるのだろうな、と我が身を省みて思ってみたり。