機動戦艦ナデシコ

時の流れに

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CROSSROAD BLUES

第十二話

OVERDRIVE

 

 どんな不条理な事態でも、何もしないよりは何かするほうがいい。

 それがハーリーの持論である。

 よって、今度の任務の降下班に選ばれなかったことに対して、不満は抱けど、代わりに押し付けられた任務を放棄するような真似はしなかった。それほど器用なことができる男でもなかったことは確かだが。

 で、ハーリーは現在、自機の整備点検を行っていた。

「ウリバタケさん、パイルバンカーのフレームが曲がっています。どうにかなりませんかね?」

「一発、撃っただけなのにこれか…… まあ、規格外の武装だから仕方ないっちゃ仕方ないんだがな……」

 ハーリーは手に付いた機械油を拭いながら、そんなことをウリバタケと話し合っていた。

「炸薬の量を五分の四に減らしてみますか?」

「いや、それじゃあわざわざパイルバンカーにした意味が無い。代えのフレームはまだ残っているし、今度のはそう簡単には曲がらないようになっている。いっそのこと、ライフルを外すか?」

「それでいきましょう。どうせ使いません。」

 ハーリーは、きっぱりと言った。使わない武装なら、ウリバタケには悪いが無い方がいい。

 ウリバタケは、ハーリーの言葉を聞くと早速、他の整備員に指示を飛ばした。

「それで、ウリバタケさん…… あれなんですけど……」

 ハーリーはそう言うと、格納庫の一角を指差した。そこには怪しげな布に包まれた、明らかに怪しげで巨大な物体があった。何と言うか、無意味に怪しげである。

「あれが気になるか?」

「気にならない人がいると思いますか?」

 半ば呆れた口調で、ハーリーは答え返した。ウリバタケは少し難しそうな表情で、言いにくそうに答える。

「あれは…… だな、試作品だ。」

「試作品?」

 何の試作品なのだろうか。布から浮き出たシルエットは、明らかに機動兵器のものではない。どちらかというと、寸胴の航空機のように見える。

 風で、布が捲くれた。そこから一瞬見えた装甲は、鴉の濡れ羽色の漆黒で塗装されていた。

 

 その後、唐突にアキヒトがやってきて、ハマーを指差し、ウリバタケに紙切れを差し出して、「全部つけろ。」とほざいたり、アカツキがやってきて、ホバープレーンにでっかいフックをつけろとほざいたりするなど、様々な紆余曲折があったが、とにかくハーリーのエステの点検は終了した。

 それで現在、ハーリーは食堂で食べていた。もうコレでもかというほどの量の「カレー」を。ライスは無い。純粋にカレーだけだ。

 別に彼は某メガネの先輩ほどカレーが好きなわけではない。寧ろ彼の好みからいけば、普通な部類に入る。

 それなのに、何故彼がカレーを食べているのかといえば……

「ハーリー…… 色々、言いたいことはあるけど、取り敢えず大丈夫?」

「あう〜。」

 カレーがラピスとユキナの手作りだったから。どうやら、残飯処理は彼の宿命らしい。

「僕も色々と言いたいことがあるけど、とにかく作り過ぎだって……」

 小学校の給食で汁物が入っているような巨大な鍋に、誇張ではなく溢れだしそうなほどにカレーが入っていたのである。ハーリーの底なしの胃袋によって、半分以下に減ってはいるが。

 足元ではダイゴロウが、パンを溶かしたミルクを嘗めていた。

 ラピスはハーリーのためにお冷やを持ってきた。ハーリーは受け取ると同時に飲み干す。

「ふう…… さすがにこれ以上は食べられないよ、ラピス。」

 既に「健啖」という言葉の域を超えた食べっぷりだったが、そんなハーリーの胃袋にも、「限界」という言葉が記されていたらしい。

 ともかく、ハーリーも涼しそうな表情で言ってはいるが、もう胃が限界なのは確かなので、誰か身代わりを探そうと周囲を見渡した。

 そして、左頬の腫れたジュンが、食堂に入ってきた。

 ユキナがそんなジュンの姿を見、心配そうにかけよる。

「あ、あう……」

「ああ、大丈夫だよ、ユキナ。派手だけど、たいした怪我じゃない。」

 ジュンはそう言うが、ユキナはやはり心配そうに、彼の手を掴んだ。

 それを見て、ハーリーは言った。

「ジュンさん、口の中が切れていないんだったら、ここに来て、カレーを食べてくれませんか? ユキナちゃんとラピスの手作りなんですが……」

 戦闘中や任務中ならともかく、平時にまで上官に敬称をつけるような人間は、少なくともナデシコにはそういない。そして、それを気にする人間も、提督の他には乗っていない。

 それでジュンは、艦橋では決して見せない、爽やかな微笑を浮かべた。

「ああ、ユキナが作ってくれたものなら、腹いっぱい食べなきゃ罰が当たるね。」

 結局、この大鍋の中のカレーは、たった二人の人間の胃に収まってしまうこととなった。鍋にとっても不本意なことだろうが、最大の問題は、この二人がどこでこのカロリーを消費しているのかという点である。

 まあ、ハーリーは特訓だろうが、ジュンはどこで消費しているのだろうか。

「さて、腹もこなれたし、ハーリー君、はじめようか?」

「ええ、そうしましょう。」

 と言って、ジュンとハーリーは連れ立って食堂を出た。

 残された二人は、ダイゴロウを持ち上げながら、困ったような表情で笑いあった。

 

「はぁ、はぁ、はぁ…… ジュンさん、さすがですね……」

「はぁ、はぁ、はぁ…… いや、ハーリー君もなかなかどうして、これほどのスタミナがあるとは思わなかったよ。」

 字面だけ見ると誤解されそうだが、彼ら二人が行っていたのは、単なるランニングである。距離は尋常な長さではないが。

 なんだかんだ言って、ジュンも根は努力家である。なので、このような毎日の基礎トレーニングは欠かさないのだ。とはいっても、士官なのでアキヒトやヤマダに比べれば、その絶対量は少ないが。

 ハーリーは、ジャージを着込んだジュンの身体を見た。着痩せして見えるが、士官にしてみれば場違いなほどに鍛え上げられている。そこらのチンピラなら、十分に撃退できそうな筋肉だ。

 省みて、ハーリーは自分の身体の貧弱さを呪った。成長期にようやく差し掛かったばかりの身体は、完成したジュンのような肉体と比べるとどうしても見劣りする。

 そんなハーリーの視線に気付いたのか、ジュンは苦笑を浮かべて言った。

「大丈夫だよ、ハーリー君。むしろ鍛えすぎると、身長の伸びが止まっちゃうよ。」

 ハーリーは、憮然とした表情で答えた。

「身長なんて、これ以上伸びなくてもいいんです。もう167cmもあるんですよ。この前なんて、高校生に間違われましたよ。」

 ジュンは、聞き分けの無い弟に言い聞かすような笑顔で言った。

「167cmじゃあ、まだまだだね。今の時代、170cm以下の男は“男”として見られないんだよ。」

 ジュンはそう言い終えると、時計を覗き込んだ。一瞬で“副長”の表情に切り替わる。ハーリーの表情も、おのずと引き締まった。

「さて、そろそろ“アマガワ少尉”たちに“作戦”の説明をする時間だな…… それじゃあ、“マキビ少尉”。三十分後のミーティングで。」

 そう言い残すと、ジュンは一分の隙も無い動作で、会議室に向かって歩き出した。

 

 三十分後の小会議室には、残留組のパイロット全員の姿があった。リョーコとアリサの二人の中尉が、テーブルの上座の横に向かい合ってパイプ椅子に座っている。

 リョーコに並んでイズミとヒカルが座り、アリサの横にハーリーが座っている。

 全員の表情は、決して明るくはない。相手は機動兵器だ。人間を相手にするのは初めて、という人間が大半である。アキヒト達のように、人や自分の生き死にを目の前にして、笑っていられるほどの胆力は持ち合わせていない。

 そんな居心地の悪い雰囲気の中に、ゴートとジュンが入ってきた。

 上座にゴートが座り、その横にジュンが直立する。

 唐突に、ゴートが切り出した。

「……今回の任務だが、単刀直入に説明するなら“陽動”だ。“とある作戦”によって、島に降下する四人の乗るホバープレーンから、敵機動兵器の注意を逸らす。作戦開始時刻は2305。発進後は散開し、各自で判断して行動すること。作戦終了時刻は2345。連絡事項は以上だ。何か質問は?」

 ハーリーが手を挙げる。ゴートは彼を指名し、発言を許可した。

 そうされたハーリーは、椅子から起立して言った。

「敵は撃墜してもかまわないのですか?」

 ゴートは、少し考えるような表情をして答えた。

「敵機は核融合エンジンを搭載しているタイプらしい。撃墜してもかまわんが、機関部を傷つけないように注意しろ。」

 ハーリーは、「了解。」と答えると、腰を下ろした。

 それを見てから、アリサが手を挙げる。ゴートは、ハーリーの時と同じように発言を許可した。

 アリサが立ち上がる。

「大尉、“ある作戦”とは?」

 ゴートは、無表情に答えた。

「君にその内容を知る権利は無い。」

 そう言い切り、ゴートは立ち上がる。

「出撃する者は、遺書の用意をしておけ。今回の敵は“蜥蜴野郎”ではない。血の通った人間だ。生き延びようとする意志は、我々のそれと等しいか、それ以上だ。」

 

 なかなかまとまらない話し合いもひと段落ついて、ハーリーはやはり自機の最終点検をしていた。

 操縦系統の照準位置の調整をしていると、隣に人の気配を感じた。

 僅かな風に、彼女の銀髪が揺れた。

「“ルリ”、かい?」

 人影―――“ホシノさん”は、こくりと頷いた。

 ハーリーは計器類から瞳を逸らさずに、彼女に言った。

「珍しいな。ルリさんがこんな時間に寝ているなんて……」

 “ホシノさん”は、ハーリーに答えて言った。何故だか少しだけ、その声は強張っていた。

「……ハーリーさん。これから、人を殺しに行くんですよね?」

 ハーリーは、作業の手を瞬間的に止めて、答えた。

「……うん。」

 そして、作業を再開する。少しの間、二人とも沈黙を保っていたが、ハーリーは作業を続けながら、その沈黙を破った。

「……僕が、嫌いになった?」

 “ホシノさん”は、ゆっくりと首を横に振った。それから少し強張った笑みを浮かべると、ハーリーの言葉の答えを、少しずつ口の端にのせた。

「いいえ。私の一番大切な人は、ハーリーさんですから。……他の人の事など、正直言ってどうでもいいんです。……嫌な女ですね、私。」

 最後の笑みは、いささか自嘲的に見えた。

 ハーリーは何か言おうとしたが、その鼻っ面を“ホシノさん”に取られた。

「……ハーリーさんには、絶対に死んでもらいたくないんです。だから、これを。」

 そう言って彼女は、スカートのポケットから何か小さな袋状のものを取り出し、ハーリーに渡した。

 渡されたそれは、お守りであった。小さな、手作りの、不恰好なお守りである。

「これを、僕に?」

 “ホシノさん”は、黙って頷いた。心なしか、頬に赤みが差している気配がする。

 ハーリーは、少し彼女の表情に不明瞭な点を感じたが、あえて気にはしなかった。軽く微笑んで、彼女に礼を言う。

「ありがとう。これで僕は不死身になったよ。」

 そして、彼女の頬にキスをする。“ホシノさん”の頬の血流が、また僅かに増した。

「絶対に、絶対に帰ってきて下さいね。ハーリーさん。」

 真っ直ぐに彼女を見つめたハーリーが、力強く頷いた。

 彼女を泣かせるくらいなら、他人を蹴落としてでも生きてやる。それが免罪符にならないことは知っているが、少なくとも、他人の命を奪う理由には(彼にしてみれば)十分である。

「……じゃあ、ハーリーさん。そろそろ“彼女”が起きますので。」

 “ホシノさん”はそう言うと、そそくさと立ち去った。

 暫くして、アリサとリョーコが現れた。遺書を書いたかどうか聞かれたが、書いていないと返答した。

「何でだ?」

「書いたところで、送る相手がいませんから。」

 ハーリーは明るく言ったつもりだったが、逆効果だったらしい。リョーコに無言で抱きしめられた。正直、息苦しかった。

 雰囲気が湿っぽくなったので、ハーリーはあえて聞いてみた。

「リョーコさん、アリサさん。女の子からお守りを貰うって、一体どんな意味があるんですか?」

 アリサは、少し驚いたような表情で答えた。

「決まっているでしょう。“絶対に帰ってきて”って意味よ。」

 その話に、リョーコが反応した。

「待てよ。確かお守りって、何か入れないと駄目なんだよな。確か。」

 アリサは呆れたような表情で答える。

「呆れた…… リョーコ、お守りに入れるのは“アレの毛”に決まっているでしょ?」

 そのアリサの言葉に、何故かハーリーが耳まで真っ赤になった。

 

 十一時丁度。出撃陣がコックピットに収まって、既に五分が経過している。正面モニタに火が入れば気にはならないが、スクランブル前に電源を入れるわけにもいかないので、リョーコたちは閉塞感に耐えながら出撃を待っていた。

 ハーリーは恐怖心と武者震いがない交ぜになった感情を制御しながら、時計が進むのを待っている。

 ようやく、正面モニタに電気が通った。閉塞感から開放され、数人が安堵の溜息を吐く。

(……落ち着け、落ち着けよ、ハーリー。人間は、そう簡単には死なない。ここは宇宙じゃないからな。)

 出撃が怖いことに変わりは無い。しかし、怖がっているだけではどうしようもない事を、彼は学んでいた。

 この恐怖は、自分が選んだ道だ。ならば最後まで前進あるのみ。

「……そろそろだ。」

 ハーリーの言葉の残滓が、消えるか消えないかの数瞬後、正面モニタの前にウインドウが開き、指揮卓に座ったゴートが写った。

『総員、出撃準備。』

 その掛け声と共に、五機のエステがカタパルト前に整列する。

 ハーリーは、他の四機のエステを横目で眺めた。

 それらの機体は0Gフレームを中心に、全て全天候型への換装と、その人の用途や戦闘スタイルに応じたカスタマイズが施されていた。

 まず、リョーコの赤い機体。中尉という彼女の階級が示すとおり、小隊長機である。それを示すように、左肩には金色の獅子の意匠が、誇らしく輝いている。

 腰には一本の太刀が、鞘に収められて下がっている。大型化したイミディエット・ナイフだ。刀身には「赤雷」の銘が刻まれていることを、ハーリーは知っていた。

 そして、関節部の稼働率を増大させるカスタマイズが施され、装甲は多少、薄くなっている。

 次に、同じように小隊長であるアリサの、白銀色の機体。左肩の意匠は、金色の戦乙女(ヴァルキリー)。小隊長のエンブレムは、金色で統一されているのだ。

 右手に持った、一振りの、優雅な彫刻が象嵌された突撃槍は、その白銀の機体を、まるで中世の騎士の如くに見せていた。

 尤も、その彫刻は儀礼用、観賞用のそれではない。DFを貫通させるために施された、破壊のための彫刻である。

 試作型フィールドランサー「ピンボール・ウィザード」、それがその突撃槍の名前であった。

 これによる突撃攻撃を主眼に置いた背部スラスターの大型化などの改造により、最高到達速度ならば、アキヒト機を上回る。

 この二機とハーリー機は明らかに、オフェンスを主体とした運用を目的としたカスタマイズである。

 無論、後方支援用のカスタムを施された機体も存在する。

 イズミ機が右手で保持しているのは、一丁の長距離狙撃用リニアレールガンである。銃身長はエステとほぼ等しい上、後方にマガジンが配置されたブルバップ方式なので、見た目以上に銃身が長い。DFをも貫通できる弾速と、十分に機動兵器の機関部を破壊できるストッピングパワー、10kmを超える射程距離を備えているが、そのあまりの重量と取り扱いの複雑さにより、実戦での運用実績は殆ど無いという、いわくつきの長銃だ。

 その無意味な長さから、付いたあだ名は「物干し竿」。

 これを使いこなすために、イズミの機体の関節部には多重ロックが設けられ、射撃姿勢を固定しつつの照準の微調整が可能になっている。

 脚部には、固定用の巨大なスパイクが取り付けられており、宇宙空間でも、艦の上に根を生やすことによって、姿勢の制御と固定を容易にしている。

 メインカメラは単眼に改造されており、倍率も通常のそれの二倍近い。単眼なので立体視が出来ないが、それは別に問題ではないだろう。

 無論、“動くこと”など考えられてはいない。イズミ曰く、「狙撃手が“動く”ときは、艦の周囲に敵がやってきたとき。即ち、“負ける”ときよ。」だそうである。

 肩の徽章は、銀の獅子。リョーコの小隊、「スバル小隊」の一員であることをあらわしている。

 続いて、ヒカルの機体だ。

 機体の各所に装備されたミサイルラックと機銃。両手で保持したラピットライフルなど、実にオーソドックスなカスタム機である。

 ただし、ミサイルラックから放たれるのは、ただの小型ミサイルだけではない。

 チャフグレネードやスタングレネード、煙幕弾のような補助系兵器から、ロケットランチャー、ナパーム弾、スタンドオブディスペンサーに気化爆弾のような投下兵器、それに小型サイドワインダーのような通常のミサイルまで発射、及び搭載が可能な、「歩く武器庫」である。

 ヒカルはこのミサイルラックに「バラバ」という名称を与えたが、何所から来ているのかは、特撮マニアのハーリーには分かっていたりする。

 彼女の機体の肩にも、銀色の獅子が光っている。

 ハーリーは自分の機体の肩の、黒い戦乙女を眺めた。銀は目立ちすぎるので、ハーリーは止めたのだ。

 彼の属する「ハーテッド小隊」は、アカツキも在席している。

 ちなみに、アキトが小隊長の「テンカワ小隊」のエンブレムは双頭の鷲であり、構成員はアキヒトとヤマダである。絶対に人事ミスだと思うが、マリアベル提督の意向らしく、下手な意見を挟めない。

 埒も無いことを考えながら、ハーリーは一番初めにカタパルトの上に上がった。

『マキビ少尉のエステバリス、カタパルトへの接続を確認しました。』

 ルリの声が、ハーリーの耳朶に届く。それは先ほどの“ホシノさん”のものではないことは、微妙な発音の違いで分かった。

 自分の意地汚さに、ヘルメットの向こうで我知らず苦笑する。

『発進許可、出ます! Good luck!』

 メグミの言葉を合図に、ハーリーは表情を引き締め、フットペダルを踏み込んだ。

「マキビ・ハリ、エステバリス0Gアサルト、往きます!!」

 

 外は、漆黒の闇であった。カメラを暗視モードに切り替えているため、決して視界は悪くは無いが、それでも新月の夜は恐ろしい。

 カメラの暗視モードなど、幾らでも誤魔化せるのだ。幸い、今回の相手はそんなことなどせず、正攻法で正面からかかってきた。

 敵機の数は四体。一機少ないが、それはこちらも同じである。

 イズミ機が、今回の作戦には向いていないのだ。四機纏めて、イズミに狙撃させれば楽なのだが、相手は核融合エンジンを背負っているのである。イズミに狙撃させれば、確実に誘爆する。

 ということで、今回の作戦では、イズミはまさに「鬼札」なのである。

 今回は場合が場合であるため、全機がリョーコの指揮下に組み込まれることとなった。

 ハーリーは、突然レーダーが利かなくなったことに気付いた。しかし、彼は慌てない。その理由を知っているからである。

 ヒカル機が放ったチャフグレネードだ。これで無線誘導ミサイルに慨する類いの装備は、使用不可能となった。

 弊害として、敵味方問わずレーダーが使用不能となったが、たいしたことではない。どの道、ハーリーはレーダーを必要とする戦い方をしていなかったから。

 有視界戦ならば、訓練の数が勝敗を決める。ハードやソフトの差が、関係なくなるのだ。

 正面に、トリコロールカラーで塗装された、派手なスピットファイヤーが迫ってくる。

 スピットファイヤーの外観は、その名前の元となった戦闘機と同様に、実用本位の外観をした機体だ。渋い塗装なら格好が良かったのだろうが、いかんせんヒーローカラーの似合わない機体である。はっきりいって趣味が悪い。

 蛇足だが、スピットファイヤーはIFSによって操縦される機体である。この点ではエステとほぼ等しい。

 エステとの差異は、DFを装備していないことである。その代わり装甲が戦車並みに厚く、核融合エンジンという内燃機関を背中に搭載しているため、パワーもある。

 単純に考えて、エステバリスを戦闘機だとしたならば、スピットファイヤーは攻撃機と位置づけることが出来る。

 スピットファイヤーが、手に持ったライフルをフルオートで撃った。動きながらの射撃ゆえに直撃はしなかったが、至近弾は多かった。

 しかし、甘い。射線に全く意志の色が見えない。ただ、ハーリーの居る方向に向かって、漠然と撃っているだけのような感覚だ。

 銃弾とは真っ直ぐにしか飛ばないものである。ゆえに、いかに敵の行動を予測して撃つかということが重要になってくる。ただ撃っているだけでは、相手の力量の問題もあるが当たりようが無いのだ。

 ハーリーには、軽く溜息すら吐く余裕があった。

 交錯する機体。

 ハーリーは、その機体を振り向きもせずに通り過ごした。

『ハーリー! 危ねぇぞ!!』

 リョーコが焦った表情で、ウインドウを開いた。しかし、ハーリーは淡々とした口調で返す。

「危ないも何も、もうアレは動きませんよ。」

 リョーコの表情がいぶかしげに歪むが、それはすぐに驚愕に変わった。

『……はなから本気かよ。』

 未だ慣性に従い、空中を飛び続けるトリコロールのスピットファイヤーのコックピットがあったであろう部分には、イミディエット・ナイフが深々と突き刺さっていた。無論、パイロットは即死だろう。

 スピットファイヤーの装甲が厚いのは前述の通りである。無論、コックピットハッチの装甲の厚さは、カタログスペックではあるがラピットライフルの直撃にも耐えられるほどである。

 それがなぜ、ただのイミディエット・ナイフ程度で貫通できたのか。

 理由は簡単だ。ハーリーの機体とスピットファイヤーは、互いに向かい合った状態で飛行していた。

 ハーリーはそれを利用したのだ。

 つまり、お互い向かい合っている状態で交錯した一瞬に、ナイフを腰から抜いて、コックピット部分に突き立てたのだ。この時のナイフの速度は、お互いの出していた速度を足したものとなる。この時の相対速度は、間違いなく弾速を超えていた。刃さえしっかり立てていれば、十分に装甲を貫くことが可能な速度だ。

「“容赦”なんてしている余裕、ありませんから。」

 そう言うハーリーの瞳から、一条の血涙が落ちた。さきほどのような動作は、いくら反射神経の鋭いハーリーといえども、そう簡単にできることではない。しかも、失敗の許されない、一回きりの攻撃手段である。確実に“仕留める”ためには、多少の危険性を度外視して「スーパーマン」を使うしかなかった。

(僕に移植された『スーパーマン』は、アキヒトさんの試作型よりも性能は低いけど、安全性は高い…… でも、長時間維持するのはやはり不可能。なら、一瞬の交錯に全てを賭けるしかない!)

 奇しくも、ハーリーとアキヒトは同じ結論に達していた。しかし、それから導き出される手段は大きく違う。

 反射神経や動体視力を増す代わりに、使いすぎると気絶してしまうため使用頻度の限られる「スーパーマン」だが、こういう“小出し”ならば有効に活用することが出来る。

 尤も、この行為が有効なのには理由がある。前述の通り、ハーリーの「スーパーマン」は、“性能こそ低いが安全性は高い”。対してアキヒトのそれは、“性能は高いが安全性は劣悪”である。

 つまり、ハーリーのそれなら“小出し”という活用法があるが、アキヒトのそれは完全な一発限りの命がけしか使用法は無い。

 簡単に言ってしまえば、散弾銃と機関銃の違いと言ってもいい。使用法が全くと言っていいほど違うのである。

 ハーリーは戦場を見回し、そこの一点に目を向けた。そこではリョーコとアリサが一機のスピットファイヤーを包囲しつつ、攻撃している。

 アリサ機がこちらを向いた。彼女の意図は、それで分かった。

 

 そのスピットファイヤーのパイロットは、非常に恐怖していた。

 先ほど撃墜されたトリコロールカラーの機体のパイロットは、彼らの中でも一、二を争うほどの実力の持ち主であった。自分が死ぬはずは無いと思い込んでいた矢先に、自分よりも実力のある人物が、文字通り“瞬殺”されたのである。恐怖に捕らわれないほうがおかしい。

 そして、現在の包囲状況である。

「ひ…… ひぇ……」

 視野が狭窄し、身体中を冷や汗が不快に包む。歯と歯がぶつかる音が断続的に聞こえる。

 「鬱陶しい」より、「怖い」の方が支配的な感情であった。

 目の前の白銀の機体が、突撃槍を構えて突っ込んでくる。

 とっさに機体を横にして避ける。と同時に、横から太刀を振りかざした赤い機体が迫ってきた。これもギリギリで避ける。

 この時点で彼の実力は、すでに前述のエースを超えていた。だが、彼がそのことに気付くまもなく、彼の意識は永遠に途絶えた。

 鼓膜が破れそうなほどの重低音が、彼がこの世で聞く最後の音となった。血煙と化す前に最後に彼が見たものは、スクリーンに映った罅割れた星空と、自分の身体を真横に貫く巨大な鉄の槍であった。

 

 ハーリーは、パイルバンカーの槍を発射位置に戻しながら、ひそかに溜息を漏らした。

 先ほどのスピットファイヤーを撃墜した手順は、簡単に言えばこういうことである。

 まず、アリサとリョーコが大振りの攻撃で相手の“隙”を誘う。その“隙”を狙い、ハーリーがパイルバンカーを放つ。パイルバンカーの初速は、旧日本軍の戦艦、「大和」の主砲のそれとほぼ等しい。いかにスピットファイヤーの装甲が厚いといっても、旧日本軍最大の戦艦の主砲を零距離から受ければ、紙くずのように貫通される。

 パイルバンカーの最大の弱点は、炸薬の再装填が構造上不可能なため、一回の出撃で一発しか放てないという点。それに、超至近距離(ほぼ密着状況)でないと、最大の効果を発揮しないという点である。

 そのパイルバンカーを有効に活用した、という点で、この作戦は成功である。

 しかし、パイルバンカーの残弾は一発きりだ。敵の残存兵力は二体。正直言って、銃剣付きのショットガン一本では辛いものがある。

 だが、ハーリーも腹を括った。パイルバンカー付きの「盾」から、六発分のスラグ弾(散弾でなく、一発の大型の弾を発射する銃弾)を抜き取り、腰のハードポイントに付けた。

 それから一旦ナデシコの甲板に戻り、思い切り良く「盾」を外した。絶対防御を謳う「盾」ではあるが、関節の自由度が極端に制限される。どうせパイルバンカーが使えないのなら、いっそ外した方がいい。

「後でウリバタケさんにどやされそうだ……」

 そうぼやきながら、不要な付属アーマーも除装する。

 ハーリー機のスラスター出力は、アキト機のそれに僅かながら劣る程度のものだ。そして、現在不要な装甲を外し、身軽になった。

 つまり、この時点でハーリーの機体は、アキト機に匹敵する機動性を得たのである。

 ハーリーは、隣で「伏せ撃ち」の体勢で待機していたイズミに声をかけると、自分に一言、気合を入れた。

「さて、往きますか!」

 ハーリーはそう呟くと、フットペダルを思い切り踏み込んだ。それによって連想される「加速」というイメージが、IFSを通して機体に一つの命令を与える。

 ハーリー機は、弾かれたように飛び出した。

 目指すは、前方の機体に目を奪われたアリサ機の、後方に迫る機体。

 ショットガンを逆手に構える。

 相対距離はどんどんと縮まってゆく。

 ようやく、迫り来るハーリー機に気付いた様子で、スピットファイヤーは振り向いた。

 しかし、遅い。

 相対距離がゼロになる。

 ハーリーは、ストックでスピットファイヤーの胸を打った。

 金属がひしゃげる音が響く。

 だが、まだ浅い。

「ちっ! しまった!!」

 ハーリーは舌打ちする。この一撃で仕留められなかったのは大きな誤算だ。

 先ほどのスピードでコックピットに直撃していたのなら、スピットファイヤーも無事ではすまなかっただろう。しかし、インパクトの位置がコックピットから軽くずれていた。僅かなズレでも、このように致命的なものにつながるときがある。

 スピットファイヤーは姿勢を崩し、テニシアン島の方向に降下していく。

 ハーリーはコミュニケで、リョーコを呼び出した。

「隊長、あれは僕が!」

『分かった、頼む!』

 短い会話だったが、それで十分であった。

 

 降下してゆくハーリーを片目で見ながら、リョーコは前方の敵に集中する。ハーリーを心配する必要は無い。あれだけの深手を負った相手でも、ハーリーは一筋の容赦も無く撃砕するだろう。

 それより、問題は自分にあった。人を殺すことに、躊躇いはある。しかし、殺さなければこちらが殺されるのである。選択の余地は無い。

 リョーコは、鞘に収めていた「赤雷」を抜刀した。

 地に足の着いていない空中戦では、彼女の得意な「居合い」の威力は半減する。踏み込みが出来ないからだ。

 元々、「居合い」は対奇襲用の戦術。このような正面きっての切り合いでは、むしろ「居合い」にこだわりを持つのは危険だ。

 太刀を八双に構える。“道場流”と馬鹿にされようが、この構えが理にかなっているのは周知の事実であるために、彼女はあえてこの構えを選んだ。

 スピットファイヤーの放つライフルの弾幕を避けつつ、リョーコの機体はだんだんとそれに接近してゆく。

 背後を心配する必要は無い。イズミがいて、ヒカルがいて、アリサがいる。何よりも信頼の置ける戦友たちだ。

 一切の残心無く、無心のままに「赤雷」を振るうだけ。

 彼女の間合いに、スピットファイヤーが入った。

「うおおお!」

 加速。

 構えを八双から大上段に。

 そこから一気に振り下ろす。

 心、技、体、全てを備えた、まごうことなき必殺の一撃であった。ただし、当たってさえいれば。

 彼女の一撃は、スピットファイヤーの、ライフルを持つ右腕を切り落としたが、それは致命傷には至らない。

 スピットファイヤーの無機質な瞳が、まるで彼女の真紅の機体をあざ笑うかのように見えた。

 黄金の獅子が脅えたように見えたのだろうか。否、そうではない。獅子は脅えてなどいない。獅子が震えたのは、歓喜の咆哮を抑えるためだ。

 スピットファイヤーは気が付いているだろうか。

 死角から見事に機関部を外す軌道で迫ってくる、白銀の矢に。

 スピットファイヤーの装甲を貫くのに、「赤雷」は少々役不足であった。故に、死角の位置にアリサを配置しておき、突撃状態のアリサに唯一対応できるライフルを、右手ごと奪ったのだ。

 ちなみに、リョーコが「赤雷」で切ったのは関節の部分である。ここなら装甲は、他の箇所よりは薄い。

 無論、アリサの「ピンボール・ウィザード」での突撃は、速度と距離にもよるが、スピットファイヤーの装甲を貫くには十分な威力がある。

 金属のひしゃげる音が響く前に、リョーコは既に「赤雷」を鞘に収めていた。

 リョーコとアリサはこの瞬間、名実共に「人殺し」となった。

 

 一方、降下したハーリーは、ショットガンに弾薬を装填しながら、密林に隠れた敵機を探していた。

ここは既に、エネルギー供給フィールド外だ。余計な電力は使えない。DFを切り、他の駆動系に電力を回す。

 チャフの効果は既に失われているが、戦場が密林ならばやはりレーダーの意味は無い。

 装填方法を、セミオートからポンプアクションに切り替える。セミオートではジャミングの可能性が捨てきれないが、ポンプアクションによる手動での排夾ならば、信頼性は非常に高くなる。

 ハーリーは特殊集音機のスイッチを入れた。特殊集音機は野戦向けに開発された装備の一つだ。その正体はその名の通り、細かい音を拾うことが出来る、小型の高性能マイクである。

 言うなれば、陸上用のソナーだ。弱点は無論、大きな音を拾うと最悪、使用者が気絶してしまうという点である。

 しかし利点は大きい。細かい音が拾えるということは、かなり小さい機動兵器の駆動音をも拾うことができるということだ。

 目を閉じるわけにはいかないが、耳に神経を集中させ、相手の駆動音を探す。無論、こちらも動くわけにはいかない。相手も特殊集音機を装備している可能性が非常に高いので、危険を避けるためにもエンジンを切るしかない。

 これは“賭け”だ。相手は特殊集音機を装備していないかもしれない。ならば、一箇所に留まっているのは危険だ。とっさに動けないから、避けようも無い隙がでる。確実にコックピットを潰されるほどの隙が。

 確率が高いから。賭ける理由はそれだけだ。根拠の無い勘、と言われればそれまでだが、経験則に裏打ちされた勘は、時に科学的分析を超えることがある。

 相手が特殊集音機を装備していたのなら、それは相手と自分との我慢比べになる。敵が迫ってくる恐怖と戦いながら、いつまで同じ場所に留まっていられるか。

 ハーリーは、心臓の鼓動すらも停止したかと思うほどの静寂の中で、聴覚に神経を集中させながら、実体を持っているのかと思われるほどの恐怖に耐えることを決意した。

 

 十秒経過。まだ見つからない。

 

 十五秒経過。機械の音は一切聞こえない。

 

 二十秒経過。ハーリーの額にも脂汗が浮き出てくる。

 

 二十五秒経過。遠くで何かが着地した音が聞こえた。機動兵器の音ではない。

 

 三十秒経過。

 

 三十五秒経過。恐怖が粘性を持って襲ってくる。

 

 四十秒経過。額に浮いた汗が、ヘルメットに落ちた。小さな水音に肝を冷やす。

 

 四十五秒経過。絶望的な思いが湧いてくる。

 

 五十秒経過。折れそうな心を叱咤し、何とか持ち直す。

 

 ついに一分が経過した。一秒一秒が一時間にも感じるほど、ハーリーは神経を研ぎ澄ませている。

 自分の呼吸音がうるさいくらいだ。

 一瞬たりとも気は抜けない。握る操縦桿の感触が、やけに心もとない。

 操縦桿を握る手の力が、かすかに抜けた。

 

 その瞬間、機動兵器の駆動音が聞こえた。

 

 一瞬で距離、方向、位置を把握。機関部を起動させ、ローラーダッシュを選択。アクセルペダルを一気に踏み込む。

 0.5秒ほど空転し、地面と回転するローラーが噛みあう。

ブッシュ対策のため、ショットガンを盾のように両手で保持して垂直に構える。不恰好だが、メインカメラを守るためだ。

 機体が高速で動き出した。

 バキバキと木をへし折る音が、コックピットに反響する。周囲の木々が高速で後方に流れてゆく。

 いた。確かにあのシルエットはスピットファイヤーのものであった。

 銃を横に傾け、ストックを正面にして振りかぶる。

 避けられないと判断したのか、スピットファイヤーは胸を防御するように腕を十字に組んで仁王立ちした。ボクシングで言う、クロスアーム・ブロックだ。

 ハーリーはスピードをそのままに、思いっきりストックでスピットファイヤーを殴った。

 腕の装甲はひしゃげさせたが、それだけだ。

 敵は会心の笑みを浮かべただろうか。それならばさぞかし残念なことだ。なぜなら、まだ彼の勝利は決定していないのだから。

 クロスアーム・ブロックのせいで、スピットファイヤーは両腕を使えない。ならば足技だが、衝撃の抜けきらない今ではそれも不可能だ。

 つまり、スピットファイヤーは現在、完全に無防備なのだ。

 ハーリーはショットガンを手放した。

 右腕をブロックの下、人体で言うところの鳩尾に突きつける。この間、一秒も経っていない。

 ハーリーは、ワイヤード・フィストの銃爪を引いた。

 ブースターで加速された鋼鉄の腕が、スピットファイヤーの鳩尾に文字通り“めり込む”。

 流石に反動を殺せずに、スピットファイヤーは吹き飛ばされる。

 数メートルほど飛んで、地面に落ちた。

 未だ空中にあったショットガンを左手で掴む。

 ジャンプ。足でスピットファイヤーの両腕を押さえつける体勢で着地する。

 ショットガンを、銃剣を下にして振り上げた。

 そのままそれを、コックピット部分に突き立てる。人体を引き裂く嫌な感触が、するはずも無いのに両手に伝わってきた。

 フォアグリップを操作し、チェンバーに初弾を装填。

 銃剣を突き立てたまま、銃爪を引かせた。

 零距離で放たれたスラグ弾は、金属疲労を起こしていたキャノピーの装甲を貫通し、コックピットに到達した。

 同じ事を、二度繰り返した。

 パイロットは、これで確実に死亡しただろう。コックピットも滅茶苦茶なので、修理も不可能だ。

 電力は十分に残っている。ハーリーは銃剣を引き抜くと、早足でその場を後にした。

 

 ナデシコに帰還したハーリーを迎えたのは、ウリバタケの鉄拳と、リョーコやアリサ達の素直な称賛だった。

 ハーリーにとってそれらは万金の価値があるものだったが、ある意味、それ以上に驚愕したのが、一段落ついた後での、ブリーフィングルームでのことだった。

 ハーリーは、いささか疲れていた。三機も撃墜したこと(内、一機は隊長機二機による、サポートの賜物だったが)によって、艦内における彼の株が急上昇したらしい。会う人、会う人に話しかけられ、称賛を浴びせられるのだが、そういうことに慣れない身としては、多少の疲れを感じずにはいられなかった。

 カードを自販機のスリットに通し、無糖のストレートティーを購入する。

 それを口に含んでから、一息、嘆息した。

 隣に、人の気配を感じた。

 その人物は先ほどのハーリーと同じように、スリットにカードを通し、スポーツドリンクを購入した。

 ハーリーの鼻先で、銀髪が揺れた。

 彼女は、ハーリーに向きなおって言った。

「大金星ですね、ハーリー君。」

 ハーリーは、一体どのような反応を返せばいいのか、暫く迷った。その反応をどう取ったのか、彼女――ホシノ・ルリは無表情に続ける。

「……正直、貴方を見直しました。ハーリー君。」

 今、彼女はなんと言ったのだろうか。かつての憧れの女性であり、現在は恋人の身体を奪った相手である彼女は。

 ハーリーは木偶のように突っ立っていることしか出来なかった。

 彼女は、二度と彼のほうを向かずに、歩き去っていった。

 ハーリーは、ようやく思い出したかのように、右手のストレートティーを一気に飲み干した。

 彼は、冷静になった頭で、先ほどのルリの言葉の意味を考える。

「ルリさん。僕がやったのは人殺しなんですよ。同業者のアキヒトさんやリョーコさんならともかく、貴方にそんなことで認められても、うれしいはず無いじゃないですか。」

 

 

 

 確かに、この空間は陰鬱だ。誰に言われるまでも無く、彼―――マイケル・クリムゾンは思った。

 ここはクリムゾン社本社ビルの会長室。つまり、彼の父親である、ロバート・クリムゾンの執務室である。

 調度品は少ないが、間違いなく一級の代物ばかりだ。壁に掛かっている絵などは、素人には分からないが、確かにモネ直筆の風景画であった。

 本物の古伊万里の花瓶に、ヴィンテージの風格漂うマボガニーの机。踝まで埋まるインド風の毛の長い絨毯など、シンプルではあるが、趣味のいい調度がそろえられている。大きな窓が取り付けられ、陽光は薄いレースのカーテンを抜け、部屋を陽気に照らしている。

 だが、この空間は妙に陰鬱な影に満たされていた。

 なにより、この部屋に漂う、ホルマリンのような異臭はなんなのだろうか。

 こころなしか、父のほうから漂ってくるような気がする。

 その問題の父だが、こちらもこの陽気にも関わらず、陰気な顔色をしている。まだまだ壮年といっても差し支えない年齢で、数年前までは娘ほども年の違うハリウッド女優と浮名を流していた人物とはとても思えない。

 ロバートはマイケルそっくりのバタ臭い顔つきをしていた。陰惨な表情になると、まるであたりの雰囲気が重く沈んだような気配がする。

 ロバートは、青白い顔をこちらに向けた。

「マイケルか…… “あれ”の方、滞りは無いか。」

 ロバートの口調は、まるで人語を話せない動物が、無理矢理に話しているような印象を与えるほど不明瞭なものだった。

「ああ、父さん。木連のほうには、既に手回しを済ませている。北と東の動きは不明瞭だが、他の二家は丸め込んだ。1パーセントの停滞も認められない。順調すぎるほどに順調だ。」

「草薙はどうした?」

 マイケルは、努めて事務的な口調で言った。

「あの人は、私を捨てて政に全てを賭けている。脅しや金で動く人物じゃない。」

 そんなことは分かりきっていたはずだ。父から現在発動中の計画について聞かされたとき、マイケルは父の正気を本気で疑った。

 絶対に成功などするわけが無い。小学生でも分かるような単純な事実に、父は気が付いていなかった。

 マイケルが降りない理由は、単純に父が心配だから、というのと、もう一つの理由がある。

 彼は「嫌煙主義(ノースモーカー)」の異名で知られる、元アメリカ海兵隊のパイロットだ。

 海兵隊一のエースであった彼のライバルはただ一人、「空飛ぶキツネ」だけであった。

 ただ単純に、彼ともう一度戦いたい。それだけが彼をこの陣営に属させていた。

 彼は将ではなく、一兵士であった。それが彼にとって、良いことなのか悪いことなのかの判別は不可能だ。

 彼の命は、確かにキューバの空で終わっていた。燃え尽きた松明を再点火させるものは、過去の思い出だけだった。

 彼の瞳は今、静かに燃えていた。

 そんな彼を、死んだ魚のような目で眺めて、ロバートは言った。

「ならば、どうする。」

 マイケルはそれに対して、内心の苦さを隠しながら返答した。

「彼は、良くも悪くも“最良の政治家”だ。ならば、その基盤である民主主義を利用すればいい。」

 ロバートは、無表情に彼を称賛した。

「うむ。お前の案が最良だ。」

 マイケルは、心に霜が降りるのを確かに感じた。このような残酷な案を“最良”とまで言い切るほど、彼の父親は変わってしまったらしい。

 退室し、廊下をゆっくりと歩きながら、マイケルは思った。

「………最低だな。」

 彼も、彼の父も、自己満足のために大量虐殺を犯そうとしている。後の歴史に、彼の名前は悪人として刻まれることだろう。

 だが、それを自覚していても、もう止められない。零れたミルクをコップに戻すことは、誰にも出来ないのだから。

 だから、彼は最良の結果だけを考える。

「『空飛ぶキツネ』、首を洗って待っていろ。貴様を地べたに引きずり落とすのは、この俺だ。」

(第十二話、終了 第十三話に続く)

 

 

 

 

代理人の感想

こう言ったノリが理解できない人間としては正直きついですねー。

こう言うのが得意な感想代理人の人に任せたほうがいいんでしょうか(溜息)。