変身

 

 

By 李章正

 

 

 ある朝、わたし、サラ・ファー・ハーテッドが何か気がかりな夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で1本の巨大な消火器に変わっているのを発見しました。

「……ええっと?」

 どういうことでしょう、これ? なんだかわけがわかりません。でも、こういう時こそ、まず落ち着かなければ。

 わたしは深呼吸してから、改めて自分の姿を隅から隅まで見渡してみました。

 普通に考えれば、人間が消火器に変わったりする筈ありません。恐らくは眠っている間に、体に消火器型の着ぐるみでも被せられたのでは?

 とすれば一体誰でしょうか、こんな馬鹿ないたずらをする人は? ……はあ、この艦には容疑者が多すぎますね。まあそれについては、後でゆっくり吟味することにしましょう。

 とりあえず足下からおなか、更に胸へと視線を移しながら、じっくりと観察します。頑丈そうな赤色の円筒に黒くしなやかなチューブ、そして銀色に輝くノズル。内部のタンクには消火用薬剤もたっぷりと充填されていて、背中に輝く国家検定合格証が伊達でないことを示しています……、ってそうじゃありません!

 なんですかこれ? 完璧に消火器そのものではありませんか! 着ぐるみを着ている時の圧迫感など、どこを探してもありません。文字どおり、わたし自身が、消火器になってしまっているのです!

「昨日、何かおかしなものでも食べたかしら? ……それとも、誰かに1服盛られたとか」

 次なる可能性としては、何らかの原因によってわたしが幻覚を見ているということが挙げられるでしょう。

 自分が消火器に変わる幻覚なんて聞いたこともないですけど、でもホントに変身することなんてそれ以上に有り得ないですから。

 わたしは、頭をフル回転させて記憶を検索しました。昨日は3食とも、普通にアキトさんの美味しい料理をいただいただけですね。無論、全く怪しいところはありません。

 艦長やメグミさんの料理なら、その副作用で脳髄の一部が麻痺乃至破壊され、こういう幻覚を見ることもありそうな気がしますけど。でも「あれ」は臭いを嗅いだだけで倒れそうになるくらいですから、ひとくちでも口にしたなら覚えていないはずがありません。というわけで、その可能性も無しです。

 後は……、やはり「科学者」さんでしょうか? あの金髪のマッドさんなら、他人に消火器変身の幻覚を見せる薬くらい、作れそうな気がします。

 お茶か何かにそっと入れられれば、飲む時にも多分わからないでしょう。昨日は、彼女のところにお茶しに行ったりはしてないんですが、知らないうちに食べ物か飲み物に混ぜられたとすれば……。

 うん、どうもこの線が濃いですね。というより、他の可能性は考えられません。最近、イネスさんに恨みを買うようなことをした覚えはないのが難点と言えば難点ですが。

 まあ、自分の知的欲望を充足させるためには手段を選ばないのが、マッドのマッドたる所以ですから。

 

 

 

 

「――姉さん、起きてる?」

 その時廊下から、ドア越しにわたしに声をかけてきた人がいました。

 誰かは言うまでもありません。妹のアリサです。わたしは、首を捻って壁に掛けられた時計に目をやりました。

 標準時で8時―― いつもの起床時間から1時間も過ぎています。次の当直までもうあまり時間がないのに気づいて、わざわざ声をかけてくれたみたいですね。

 丁度良い機会です。アリサに頼んで、うんと濃いコーヒーを持ってきてもらいましょう。なんといっても、自分が消火器になっている幻覚に囚われたままで、お仕事なんかできるわけないですから。

 コーヒーを飲んで頭をしゃっきりさせて、それでも駄目なようならイネスさんの所に解毒剤をもらいに行かないと。

「どうしたの? 姉さんが寝坊なんて珍しいじゃない。……開けるわよ、いい?」

 シュッと音をたててドアが開き、妹のアリサが中に入ってきました。わたしを見て一瞬目を丸くした後、きょろきょろと部屋の中を見回します。それから首を傾げ、不意に溜息をつきました。……どうしたんでしょうか?

「全く……。姉さんが消火器フェチなのは知ってたけど、まさかここまでとはねえ」

 そう言うとアリサはじっとわたしを見つめ、くつくつと苦笑し始めました。

「それにしても、一体いつ買ったのかしら? こんな大きなオブジェ。ましてやベッドにまで持ち込むなんてね……。一緒に寝るのなら、普通ぬいぐるみでしょうに」

 どういうことでしょう? アリサには、わたしのことがわからないみたいです。それに「大きなオブジェ」……?

 これは、まさか。まさかまさかまさかまさかまさか!

「アリサ、わたしですよ。わからないのですか?」

 わたしの声に、部屋の外に出かけていたアリサがびくりと反応しました。わたしに背を向けていた姿勢から、ぎぎぎっと音のしそうな感じでこちらの方へ振り向きます。わたしは、ピョコンとベッドの上に起き直り、ちょいちょいと妹を手招きしました。

「アリサ、聞き難いことですが単刀直入に言います。……わたしの姿、なんに見えますか?」

「ひ、ひいいいぃっ! 消火器が動いてる! 何か言ってる! チューブで手招きしてるうぅっ!」

 アリサは恐怖に満ちた叫び声を上げ、その場から逃げ出しました。

「あっ!? 待ってアリサッ!」

 わたしは思わずベッドから飛び出し、その後を追いかけました。錯乱した妹がわけの分からないことを触れて回れば、艦内がパニックになってしまいます。その前に、なんとしても彼女を止めなければなりません。

 アリサを追いながら、わたしは先程の情景を心の中で反芻しました。妹にも、わたしの姿は消火器に見えたようです。つまり、これはやはり、わたしの幻覚などではないということ……?

 宇宙は広いですから、寝ている間に人間が消火器になってしまうなんてことも、時にはあるのかもしれません。でも、よりにもよって、なんでわたしがそうなってしまったんでしょうか?

 確かにわたしは消火器ファイターの端くれですが、でも、消火器になりたいと思ったことなんてこれまで1度もなかったのに。わたしが好きなのは消火器を使うこと……、断じて、自分が消火器になることじゃありません!

 その間も、神の領域を目指すかのように走り続けるアリサの後を、わたしは必死で追いかけました。

 騒ぎを聞きつけて沢山の人が廊下に出てきましたが、誰もが、まずアリサの形相に怯えたような表情を浮かべ、次いでわたしを見て目をむき、慌てて道を開けます。

 中に何人か、わたしを止めようとタックルをかけてきた不埒な男の人もいましたが、1人残らず跳ね飛ばし、壁に叩きつけてあげました。

 当然です! 乙女の体にしがみつこうとするなど重大な痴漢行為。断じて許されることではありません!!

 

 

 

 

 ――ほとんど艦内を1周する勢いで走りまわった後、わたしたち2人は最後に食堂へたどり着きました。

 後ろには、いつの間にかブリッジ要員を始め、大勢の野次馬がくっついていて、一緒に食堂へなだれ込んできます。……皆さん、仕事を放り出したままで大丈夫なんですか? 上役の人に怒られても知りませんよ。

「アリサちゃーん、大丈夫?」

「……は、はい。なんとか。大、丈夫で、す」

 艦長、あなたが真っ先にそんなことでどうするんですか……。

 

 慣れない追いかけっこで疲れ切ったアリサとわたしは、広い場所に出たのを幸い、どちらからともなくその場に立ち止まりました。お互いと、周囲の野次馬から10歩分くらい間隔を空け、その場にしゃがみ込んでハアハアと荒い呼吸を繰り返します。

 やがて、少し息が整ってきたその時でした。

「――飛び跳ねる消火器とは、全く持って奇っ怪千万。のみならず、か弱い婦女子を追いかけ回し、艦内を恐怖のどん底に陥れるとは!

 貴様、紛れもなくキョアック星人の新兵器だな?」

 その場に集まってわたしたち2人を囲んでいる野次馬の中から、ヤマダさんが進み出てきました。いつもながらの暑苦しい顔に、いつも以上の濃い科白を吐いて、わたしをくわっとねめつけます。

「だがしかぁし! このダイゴウジ・ガイ様が現れたからには、これ以上の乱暴狼藉は、最早不可能と知れいっ!

 見よ! ガアァイ! スウウゥパアァ! ナッぶほわっ!?」

 付き合い切れません。わたしはひょいとノズルの方向を変え、何やら珍妙なポーズを決めて見栄を切り始めたヤマダさんの顔面に向けて消火剤をひと吹き、シュッと浴びせかけました。

「お、おのれっ! 不意打ちとは卑怯なり!」

 ダッ、ガン! ……どさり。

 顔中白い泡に覆われて、視界を失い呼吸困難に見舞われた結果パニックに陥ったのでしょう。ヤマダさんはそのまま明後日の方向に向けて突撃し、……壁に顔面を強打してその場に倒れてしまいました。

「――おーい、ヤマダくーん? 生きてるー? やっほー」

 ヒカルさんが、ヤマダさんの側にしゃがみ込み、その体をボールペンの先でつんつんと突ついています。見た限りぴくりともしないようですが、まあ大丈夫でしょう。ヤマダさんですし。

 

 

 

 

 2人を見ながら、ふう、と息をついたその時です。パシュと言う音が、野次馬の後ろの方から聞こえました。

「え?」

 その直後、頭上にぱあっと目の細かい網が広がり、ぱさりとわたしの上に落ちました。……なんでしょうか? これ。

「よし、捕獲成功! 全員、直ちに回収作業に移れ」

 集まっている人たちの中から、作業服を着た男の人たちが数人、ばらばらと飛び出してきました。先頭に立っているのは、思ったとおりウリバタケさんです。

 それにしても、一体この扱いはなんでしょう。獣を捕まえるのじゃあるまいし、いきなり網を被せてくるなんて酷いと思いません? 確かに今のわたしは消火器の姿をしていますけど、中身は今までと同じ、たおやかな乙女のままなんですよ。

「いいかおまえら、そうっと扱えよ。すべすべお肌に傷をつけるんじゃねえぞ」

 と思っていたら、ウリバタケさんがそんなことを言ってるのが聞こえました。顔に似合わず、乙女の扱い方を心得ている人みたいです。……ばたばた走り回って疲れたことでもありますし、ここは暫くじっとしていましょうか。

「ああっ、早く分解してみたい♪ この消火器が、一体どういう原理で飛んだり跳ねたり高速移動したりしていたのか、すっごく興味あるぜ!」

 ……前言撤回。言うに事欠いて、分解とはなんですか分解とはっ!?

 わたしはまだ、アキトさんにさえ指1本触れられたことがないんですよ。このままでは、乙女の貞操がデンジャラスです!

 わたしは、ヒュンとチューブを振りました。ナイフで紙を切るように、ノズルが触れた所から金属製の網がすぱりと断ち切られます。

 網に大きな穴があいたのでわたしはひょいと顔を出し、ウリバタケさんを始め周囲にいた整備班の人たちに、消火剤の噴射口を向けました。

 

 

 

 

 ――ことごとく白面ののっぺらぼうになって整備班の人たちが倒れた後、その背中を踏みつけながら、大きな男の人がわたしの前に歩み出てきました。……今度はこの人ですか? はあ、できれば勘弁してほしかったです。

「むう。自由自在に空を飛び、特殊鋼製の網すらたやすく断ち切るその超常的な力。……もしや、おまえもまた、我が神の御使いなのか?」

 違いますっ!

 うら若き乙女をつかまえて何を言い出すんですかこの人は!? わたしは躊躇いなくノズルを彼に向け、消火剤を噴きつけました。

 シューッ! パシャッ。

 ところが、白い泡が彼の顔に当たる寸前、突如オレンジ色をした八角形の光の壁がその場に出現しました。そしてわたしの放った消火剤は、その壁にあっさりと阻まれてしまったのです。

「あ、あれは、まさか?」

「謎ジャム・フィールド!?」

「……その間違い、わざとらし過ぎ」

「ゴートさん、やはりあなた、使……?」

 周囲の野次馬の間から、意味不明の呟き声が漏れ出てきます。攻撃をかわされてわたしの苛立ちは頂点に達しました。目の前にオレンジ色の光壁を張ったままの彼に向かい、力を込めて、チューブをひゅんとひと振りします。

 ズバッ! ……バシャッ!

 するとどうでしょう。ノズルが触れもしなかったのに八角形の壁は真っ二つに断ち切られ、向こうのゴートさんごと袈裟懸けに斬り裂いてしまったではありませんか。……ゴートさんは胴体から血煙をあげ、あえなくその場に崩れ落ちました。

 それを見て、ルリちゃんとラピスちゃんが何かぼそぼそと話し合っています。

「なんというか、お約束な展開ですね」

「やっぱり、ゴートの内臓を喰べるのかな? あれ」

 そんなことしませんっ!

 

 

 

 

「――ま、それはそれとしてだ。どうするよ、あの消火器?」

 倒れた人々が回収された後、ヤガミさんが右手の親指をわたしに向けながらそう言いました。失礼ですね。人を指でさしちゃいけないって、学校で習わなかったんですか?

 まあそれはいいですけど。消火器……。うう、やっぱりそうなんですね。

 ひょっとして、自分だけの幻覚に過ぎないのではと儚い希望を抱いていましたが、やはりみんなの目にも、今のわたしは消火器にしか見えないみたいです。

 こんな姿になって、アキトさんが今のわたしを見たら、一体どう思うでしょうか? 例え異形のものに成り果てたとしても、あなたはわたしを愛してくれますか? アキトさん……。

「とりあえず、手出しをしなければ暴れることもないようですから、このままにしておいてもいいんじゃないですか?

 それより、問題なのはサラちゃんですよ。一体どこへ行ってしまったのか、早く見つけ出してあげないと」

 この声は……、アキトさん! やっぱりアキトさんですね。そんなにも、わたしのことを気遣ってくれるなんて。

 アキトさん、あなたのサラはここです。見た目こそこんなになってしまいましたが、紛れもないサラ・ファー・ハーテッドが、今ここにいるんですよ。

「いやあああああっ! また動き出したあああっ!」

 いつの間にか野次馬の中に紛れ込んでいたアリサが、アキトさんの方へ向かって進み始めたわたしを見て悲鳴を上げました。そんな妹を、アキトさんが咄嗟に背中に庇います。

 むっ。ちょっと面白くないですね。

「きっと、姉さんはあの消火器に食べられてしまったのよ! そうよ、そうに違いないわっ」

「ア、アリサちゃん落ち着いて! 消火器が人を食うわけないじゃないか。そんな話、聞いたこともないよ!」

「……ひとりでに移動して、人と闘う消火器の話も、聞いたことがないけどね」

 アキトさんの叫びに対して、イネスさんがぼそりと呟きました。恐らくその瞬間、妹の理性は崩壊してしまったのでしょう。アリサは、目にもとまらぬ早業で腰の短銃を抜き放ちました。

「姉さんの敵っ! これでも食らえ!」

 言うが早いか、アリサは実の姉に向かって瞬時に3発発砲しました。3発の弾丸はあやまたずわたしに向かって突進し……、3発とも赤く輝く金属ボディに当たって跳ね返ったのです。

「うわあああっ!」

「キャアアアッ!」

「ヒイイイイッ!」

 わたしの体に跳ね返された3発の弾丸が、そのまま跳弾になって食堂中をはね回ったため、人々はパニックに陥りました。2発はどこかの壁にめり込んだようですが、1発がハーリー君の頭を吹き飛ばしてしまったからさあ大変。

「――やれやれ、おさまったか?」

 咄嗟に床に伏せていたヤガミさんが、そう言って身を起こしました。その隣では、アリサの腕を握りしめていた手を離して、アキトさんも立ち上がります。

 アリサが錯乱して発砲した瞬間、アキトさんは妹の腕を掴んでねじり上げ、その手から短銃を奪い取ったのです。狂ったアリサは、そのままなら弾切れになるまで引き金を引き続けていたでしょうから、放っておけば大惨事になっていたかもしれません。アキトさんの機転のおかげで、被害は極小で済んだといえるでしょう。

「――うう、どこが幸いなんですか? もろに頭に当たったんですよ、跳弾が。思い切り重傷なんですよう?」

「だーかーらー、弾が当たったのがおまえさんだった時点で既に不幸中の幸いなんだって。ほかの奴だったら、パーペキ即死だぜ?」

 半分だけになった顔で、器用に周囲を見回しながらぼやいているハーリー君の肩をぽんぽんと叩いて、ヤガミさんが慰めともからかいともつかぬ言葉をかけています。傍らでは、イネスさんがアリサに鎮静剤を打ち、医療室へ運ぶよう指示して一緒に出ていきました。

 その一方、艦長とホウメイさん、そしてプロスさんが3人で、なにやら話し合っています。

「ホント、どうしましょう? これ」

「下手な手出しはかえってやばいことがわかった以上、何もしない方がいいんじゃないのかい? 丁度ここは食堂。巨大消火器の1本くらいあったって、別に問題ないよ」

「それもそうですな。隅の方に置いておけば、さして邪魔にもならんでしょうし」

「そうですね。じゃ、そうしましょっか♪」

 ――どうやらわたしの処遇についても、なんとなく決まってしまったみたいですね。いい加減というか、ナデシコっぽいというか……。

 まあ、完全に消火器として扱われていることはちょっと面白くないですが、食堂はアキトさんのお勤め場所♪ 元の姿に戻るまでの仮の居場所としては、悪くないかもしれません。

 

 

 

 

 しかし、そんな風に緊張感がほぐれた、その時のことでした。

「ねえアキト、何か変な臭いがするんだけど。これなあに?」

 ラピスちゃんがアキトさんに向かって問いかけました。言われてアキトさんも、くんくんと空気を嗅いでいます。

「だな? この玉葱の腐ったような臭い、これは……。えっ、まさか!」

 ビィーッ! ビィーッ! ビィーッ!

 突然、緊急事態を示すブザーが鳴り響き、赤色灯が周囲を赤く染め上げました。それと同時に、厨房の方からぼうっと火の手があがります。大変、火事です!

「まずい、ガス漏れだ! ……さっきの跳弾のうちハーリー君に当たらなかった奴が、ガス管を傷つけていたんだ。それが、何かに引火したに違いない!」

「思兼、直ちに消火作業を!」

『駄目。既ニ油ニ火ガ移ッテルカラすぷりんくらーハ使用デキナイ。減圧消火スルタメニハ、先ニコノ区画ヲ無人ニシテカラデナイト。今ノママジャ、人ガ多スギル』

 ルリちゃんの指示に対し、思兼はそう答えました。

「消火器はないの! アキト?」

「ダメだ! 備え付けの消火器は厨房の中にある。向こうはもう火の海になっているから手出しできない!」

 艦長の問いかけに、アキトさんがそう叫びました。それを聞き、エリナさんが苦渋の決断を下します。

「どうしようもないわね。全員、直ちにこの区画から退避よ!

 減圧消火が可能になるまでに食堂は丸焼けになってしまうでしょうけど、この際他に手はないわ! いいわね? 艦長」

 たちまち、その場は避難を急ぐ人々で大騒ぎになりました。

 

 

 

 

 ――やはり、ここはわたしの出番ですね! 消火器たるもの、火を消すことこそが本来の仕事なのですから。

「あっ、……消火器が?」

 アキトさんに抱え上げられたラピスちゃんが、動き始めたわたしに気がつきました。それとともに、多くの人々が動きを止め、わたしの背中を見守ります。

 安心してください。サラ・ファー・ハーテッド、一世一代の大仕事。必ずこの火事を、ぼやで食い止めてみせますから!

 消火器ファイターの端くれとして、偉大な先達たちの武勇伝にしばしば胸躍らせたことのあるわたしですが、さすがに自ら消火器となって火を消した人の話は聞いたことがありません。……これが済んだら、わたしも伝説の消火器ファイターとして歴史に名を残せるしょうか?

 わたしは火の海と化した厨房に突入すると、燃え盛っている炎に向けてノズルの照準を合わせました。

 ブシュウウウウウウッ!

 激しい噴射音と共に消火剤が白い泡となって振りまかれ、赤い炎を包み始めます。

 それと共に、天井を焦がす勢いで燃えていた炎がその勢いを弱め、徐々に小さくなっていきました。どうやら、うまくいきそうです。

 しかし、全てが順調に見えたその時、わたしは自分の身に起こった異変に気づきました。

「え? な、なに……。意識が、遠く、なって、く……?」

 わたしの内部にある消火剤の残りが少なくなるにつれ、わたしの意識もだんだんとぼんやりしてきたのです。消火器にとって、消火剤はいわば存在意義そのもの。それがなくなるということは、わたしという存在が文字どおり中身を失い、空っぽになることを意味しています。

 そのために、意識が薄れてきたのに違いありません。ということは、このまま火を消し続ければ、わたしは消滅してしまうということですか……?

 噴射口から出る消火剤の勢いが弱まったせいでしょう。一旦消えかかっていた炎が、再び勢いを増してきました。今、残る力を振り絞って全ての消火剤を浴びせかければ、火は完全に消える筈……。でもそうすれば、消火器としてのわたしは、恐らく無に帰してしまうのです。

 わたしの心に起こった死への恐怖を反映するかのように、黒いチューブは力を失い、だらりと垂れ下がりかけました。……勇気が、出ません。

「だめ、消さなくちゃ、火を……。でも、でも怖い。死ぬのは、嫌……」

 死んだら、あなたにも2度と逢えなくなってしまう――、わたしの脳裏に、アキトさんの優しい笑顔が過ぎりました。

 

 

 

 

 しかし、その瞬間わたしは思いました。こんな時、あの人なら一体どうするだろうかと。

 ……考えるまでもありません。最後の1滴まで消火剤を絞り出し、火を完全に消し去るに決まっています。そう、例えその後、自分がどうなろうとも!

 わたしは、一瞬とは言え躊躇した自分を深く恥じました。再び噴射口を昂然と上に持ち上げ、残る消火剤を全て出し尽くす勢いで再び炎に挑みます。

 もう迷いません! アキトさんへの愛にかけて、消火器ファイターとしての名にかけて、必ずこの火事を、完全に消し止めて見せます!!

 

 ――そして、わたしは遂にやり遂げました。周囲は先程まで、わたしが噴き出した消火剤で白く染まっていましたが、作動を始めたスプリンクラーが泡を洗い流し、その下から真っ黒な煤や焼け焦げが顔を出してきます。

 更に振りまかれた水が、熱くなった壁や床を冷やすとともに水蒸気に変化し、厨房は濛々たる湯気に包まれました。換気扇が唸りを上げて、蒸気と共に室内の汚れた空気を排出していきます。

 先程まで燻っていた炎も、今や完全に鎮まりました。……わたしはシャワーのように、スプリンクラーから撒かれる水を浴びながら、みんなが後始末のため厨房に入ってくるのを最後の意識で知覚していました。

「……?」

「……!」

「……♪」

 何か口々に、ねぎらいの言葉をわたしにかけてくれているようです。しかし今のわたしには、もうそれを聞き取ることさえできません。

 そんなわたしが最後に感じたのは、胴体に手を回してそっと抱え上げてくれた、アキトさんの両腕の感触だけでした――。

 

 

 

 

「……と、いうような夢を見たんですよ」

「そうですか」

「悪夢、といって差し支えないですよね?」

「そうですね」

「そんな夢を見たら誰だって、恐怖で体がぶるぶる震えちゃいますよね?」

「そうでしょうね」

「そうしたらきっと、震えを誰かに止めてもらいたくなりますよね?」

「そうかもしれませんね」

「ですから、わたしがアキトさんの寝床に潜り込んだのも一種の緊急避難であり、したがって違法性阻却事由にあたっていると、こう思うわけなんですよ?」

「……と、『金の糸』さんは申し立てていますけど。皆さん、被告の弁明を受け容れますか?」

「否!」

「聞いての通りです。全会一致で、被告の弁明は棄却されました。同盟法廷は被告『金の糸』を有罪と認定し、直ちに量刑の判定に移ります。……なお、被告の控訴・上告権は一切認められません」

「そ、そんなあああぁ」

 

 

 

(終わり)

 

 

 


(後書き)

 ……一体何書いてんだろ、俺(苦笑)。

 

 好! 李章正です。

 ワールドカップで日本が負けたせいでがっかりして、

 落ち込みすぎないように自分の気持ちを鼓舞してたら妙なインスピレーションが湧いて、

 気が付いたらこんな話を書いてました。

 これは、日本が負けたからできたお話です。そう思えば、少しは慰められるかなぁ……?

 

 オチがありきたりになっているのは、自分でもわかってるんで見逃してください(爆)。

 

 

 

※ 「同盟法廷」は鳥井南斗さんのアイデアです。


コメント代理人 別人28号のコメント


カフカですか・・・

これまた大胆な事をしましたねぇ


しかし、ここで白羽の矢がたったのがサラと消火器

普段目立たないからって こんなカタチで目立たなくても・・・

まぁ、姉がスポットライト浴びても 一脇役で終ってしまうアリサの方もアレですが

ああ、どなたか不幸な金銀姉妹に救いの光を!!


結構、シリアス目な展開もあったと言うのに

この時のサラは消火器なんですよねぇ

悲劇のヒロインちっくにアキトに抱き上げられても

やっぱり 見た目は消火器、ああ・・・





しかし、一番ツっこんでやりたいのは アリサ!

姉の部屋に巨大な消火器があっても疑問に思わない彼女達姉妹って・・・


いっぺん、腹割ってじっくり話し合え