機動戦艦ナデシコ <黒>
 過去編01.木星編→偶然の「邂逅」



 陸上における、最強の肉食獣、熊。正確には雑食なのだが、目の前にいるのが自分…人間で、相手が口から涎を振りまいていなければ、そう思ったかもしれない。
 グル……グルルルルルル……
「は、はは……死んだフリって、確かしちゃいけないんだったよな……」
 テレビで見たうろ覚えの知識を思い出しながら、ジリジリと、後ろ向きにすり足で後退する。
 目は離さない。離したら間違いなく襲ってくる。
 恐怖で竦みそうになる自分の体を叱咤しながら……アキトはこの状況を呪っていた。



 最初の一歩。
 例え何をするでも、これがなければ始まらない。
 大きく踏み込み、姿勢を下げ、相手の懐にはいる。大きく踏み込んだのは敵の間合いに切り込むためであり、姿勢を下げたのは反撃を受けにくくするため。懐に入ればリーチの短い自分の方が有利。
 アキトはそう考えていた。
 しかし。
 ズンッ!!
 地響きと間違えかねない音が響き渡る。
 そして、吹き飛ばされた少年が一人。それはやはりアキトだった。
「……思い切りの良さはいい。しかし、不用心すぎた。もっと敵の体勢を崩してから動かなければやられるだけだ」
 その声に反論するように、苦しげな声が途切れ途切れに言い返す。
「崩れ…無いから、フェイントに……踏み込んだんです。で、……この有様……」
「間合いがどれかなんて気にするな。初撃で倒せ」
 そう告げてくるのは龍馬。踏み込んできたアキトを、勢いそのままにカウンターで肘を当てたのだ。
 リーチが圧倒的に長く、懐に入っても肘と膝で迎え撃つ。
 スピードでかき回そうにも、それをすれば移動距離が長くなり、スタミナが先に切れる、相手は殆ど動かずに向きだけ気にすればよいのだから。
 有利な点が全くない中、アキトは善戦しているとも言えるのだが、龍馬の求めているものはまだ遠い。
「……とりあえず、体力が戻ったら昼飯とってこい」
 そう言って、さっさと小屋に戻っていった。
 そんな龍馬の姿を見て、何となく、伸びるにまかせていた髪を荒っぽく掻いた。



 火星の事故より一年、彼らは木星にいた。
 龍馬自身、火星に残ろうかと考えていたとき、半ば冗談のつもりで試した適性検査。アキトは木星でも珍しい先天性のジャンパーだった。アキト自身も自分を見つめ直す時間が欲しかったし、龍馬にしてもその手の場所は木星の方が詳しい。
 そしてここは木連に加盟するコロニーの一つ。
 自然を再現することを前提としているため、多少植生に問題があるものの、数多くの植物と、それを食べる動物たちが放し飼いにされていた。
 許可さえ下りていれば、規定数以下なら採取も許可されている。

 火星育ちのアキトには全天候ドーム型のコロニーはここが初めてだった。
 最初は物珍しさがあったのだが、図鑑でしか……正確にはもう地球では見ることの出来ない生き物さえいるこのコロニーは脅威だった。
 ボロボロになった身体に鞭打ち、ようやく寝泊まりしている小屋にたどり着いたアキトを待っていたのは、目の前に出された一つのリュック。
「……なんですか、これ?」
 目の前に出されたリュックを見、アキトはつい聞いてしまう。
「ご飯、食べるんじゃないんですか?」
「俺は獲ってこいと言ったが?」
「は?」
「このコロニーには食料品が『自生』している……料理人志望なんだろう? 獲ってこい」
「……龍馬さんの方が詳しいんじゃ?」
 アキトの言葉に取り合わず、龍馬ははっきりと、殺気を隠そうともせずにグイ、とリュックを押しつける。
「……行って来い」
「……はい」
 アキトが眼前のこの男を超える日は、まだまだ遠そうである。

「……おい龍馬、イジメ過ぎじゃないのか?」
 そう言いながら「男のくせに」と言いたくなるほどの長髪の男が歩いてくる。龍馬と親友の草薙悠だ。
「何だ、悠ちゃんか」
「その名で呼ぶなぁ!!」
 一瞬で腰を落とし、前屈気味に上体を落とし、拳は作らず掌底の構えのまま、地を滑るように飛び込む。
 対し、自らを半身にし、右手で軽く捌きながら左側に逃げる。
 そして交差する瞬間、左手を脇下を通し、脇腹に一撃を加える。
 ごふっ!!
「がっ!?」
「……っと。スマン、ちょい加減を間違えた」
 頬を掻きながら。その言葉には誠意というモノは1mgも含まれていない。
「ぐ……何で、軍を辞めた……これだけやれるなら、何処に『体を壊した』なんて理由が……」
「……加減が出来ない、そう言ったはずだ。今もこうしていると分かる……感覚が、段々と奪われていくのが」
 自らの手を見つめ、そして目を逸らす。
「その手でアキト……いや秋人を殴っていたのか?」
「あいつはな、『嗅ぎ分ける』んだ。何処で受ければダメージが少ないのか、もっとも隙の大きいのは何処かをな。たった一年でこのザマだ」
 袖をまくりながら言葉を紡ぐ。その目は、面白さを隠しもせず、その声には嫉妬の響きがある。
 龍馬が見せた肘は、傍目にも腫れていることが分かる。たった一撃、アキトに放った肘の一撃で、逆に受けたダメージの大きさを物語るものだった。
「で、悠。お前は何でここに来たんだ?」
 相好を崩し、木連では数少ない天然の土、そして芝の上に座る龍馬。対し悠はたったまま言葉を紡ぐ。
「俺達の後釜……優人部隊一期生の演習、二期生の選抜。それと、ここに北辰の息子が来ている。おそらくは、自らの部下となるべき人材を見定めるために」
 風が、一際強く吹いた。
 人工の風ではあるが、間違いなく、この世界を作り出す一因としての風が。
「確かまだ……10才になってなかったよな」
 誰についてかは、言葉にしない。
「……ああ」
「才能か」
「それに溺れれば、お終いだ。だから最後まで、俺は強くなければならない……結構辛いぞ」
「だろうな」
 二人はそこで、久しぶりに笑った。
 これから木星には地獄に堕とされるであろう、激しい戦いが待っている。
 その不安を振り払おうと虚勢を含んだ、しかし楽しげな笑いだった。

 

 一人の少年が、木の上でなっていた林檎を囓りながら空を眺めていた。もっとも、空と言っても人工重力を持つコロニーであるから、宇宙側に解放されたドーム型の天井と言うことになる。
 また、少年といったが、あくまで醸し出す雰囲気のことだ、背まで伸ばされた赤い髪、半ばまで髪に隠された顔から覗く鳶色の瞳。整った顔は、少女である可能性も高い。着たきりなのか、シャツもズボンも汚れが目立つ物の、かなりの耐久性を持っているようにも見える。
 その口から子供特有の、男女どちらとも付かない声がこぼれ落ちる。
「……ここは何処だ……」
 どうやら、迷子になったらしい。
「零夜のヤツ、きっと俺を捜しているんだろうが……ま、こっちが動かない方が見つけに来る可能性が高まるか」
 声に出して考えを纏める。
 遭難したときの基本的な救助待ちの方法だが、木の上で横になっていれば、発見される可能性は低いだろう。そこまでは気が回らないのか、もう一つ、新しい林檎に手を伸ばす。
 可能な限り地球環境に似せたとあっても、結局はコロニーの中。林檎を食い荒らすような寄生虫も、獣もいない。軽く拭いただけでそのまま丸かじりできる。
 しゃりっ……。
 健康的な歯が、林檎にその跡を残した。
「……この紅さが、いい……」



 白ずくめの長ラン、ズボン。200年前の不良や、応援団を連想させる姿。
 彼らは自らの誇りの証でもあるその制服を折り畳み、丁重に片してから練習着に着替える。
 木連における開戦派の主力、草壁率いる優人部隊の一期生。
 地球の環境を想定したこのコロニーで行う、陸上戦闘訓練のためにいた。
 ほぼ完全な1G。
 可能な限りの動植物を集めた自然。森林戦も想定し、食用以外に毒を含む植物なども自生している。

 地球への侵攻を視野に入れた彼らは、まさに木星の最精鋭。誇りある兵士として内外に知られていた。
 しかし実体は、資金調達の側面からか、いわゆる良家の子息ばかりが目立ち、内容は解体された精鋭・第一強襲部隊を遙かに下回る。

 模擬弾を使い、銃撃戦を行う。
 模擬とはいえ、当たれば怪我もするし、当たり所が悪ければ死の寸前まで行くだろう。
 警棒や刀剣を使っての稽古。
 携帯性を考慮してか、中には傘に偽装した物を振るっている者もいる。
 ごく普通に組み手をする者もいる。
 一対一であったり、多対一であったり様々だ。

 拳を痛めないように着けるサポーター。掴み技もある以上指を露出させるため、指を痛める者も少なくない。
「おい、治療しろ」
 怪我をしたのか、救護班でもない、通りがかりの少女に命令する。横柄な態度で、傲慢さを隠そうともしない。何らかの理由で甘やかされて育った者に特有な、醜悪な声。
「すいません、今人を捜している途中なので……」
 その少女は、気弱な笑みを見せ立ち去ろうとしたが、男の手で捕まれてしまう。そしてそのまま、脇にある草むらの中に入っていく。遠目で見ている男達は「また病気か」と、あざけるような視線をその少女に向けていた。
「は、離して下さい!!」
「いいじゃないかよ。俺達は草壁閣下の優人部隊だ。悪い話じゃないだろう?」
 十分悪い話だ。
 彼はそのようなことも気にせずに、少女の黒髪に指をからめ、醜悪な行為に移ろうとしたときだった。

「また藤原の悪い癖が出たぜ」
「いつものことだろ? また揉み消せばいいだけのことだ。何処に問題が有るんだよ」
 そこにいる彼らもまた、心が歪んでいた。

 

 熊というのは二本足での行動が可能だが、基本的には四足獣だ。また自重を支えるために上半身よりも下半身の方が発達している。また手は足よりも極端に短く、重心は頭寄りになる。馬や牛ほど、バランスは良くない。
 つまり、バランスを崩しやすく走りにくいことから坂道を下るようにすれば逃げやすいと言うことでもある。

 アキトは走っていた。
 うろ覚えの知識を思い出しながら。……ここは人工のコロニーなので、坂という物は存在しない。
 100メートルを10秒程度で走ることが出来る熊を相手に1q以上頑張っている姿は称賛に値するかも知れないが、熊は疲れた様子も見せず、どちらかと言うと追いかけること自体が楽しくなってきたようにも見える。
「い……一体……何処まで逃げれば……いいんだぁっ!?」
 まだ、ゴールは見えなかった。「ギブアップ=死」のレースの。

 悲鳴を上げる胸を無理矢理押さえつけ、一定の呼吸リズムを保つ。
 もっとも効率的に身体を制御するためには、呼吸の制御は欠かせない方法だ。
「こっちだぁああ!!」
 そしてアキトは、熊には到底入り込めないであろう細い道へ、生い茂る森の中に入っていった。


 木の上の影は、騒がしくなった地上を見て、口を歪めた。笑いの形に。
「俺も混ぜてもらうぞ!」
 ダムッ!!
 そして、5メートルはあるだろう木の上から飛び降りた影をアキトは驚きもせず、それが人間であることを確認した瞬間、手を掴んで駆けだした。
「おい、手を離せ!」
「んな事言ってる場合か! あの熊に手を出せるわけ無いだろッ!!」
 なお腕を掴んでいるアキトの手を見たとき、理由は分からないが、振りほどこうという気にはなれなかった。
 二人が手を握ったまま走り続けているとき、人の声がした。
「こっち! 人がいれば熊は来ないはずだ!!」
「わかった! …って、お前聞こえているのか!?」
 自分にもやっと聞こえたほどの小さな声。
 二人はお互いに驚愕を隠せないまま、その声の方へと走っていた。


 あくまで偶然だろうが、二人同時に茂みから飛び出したとき、ハードルを跳び越えるような体勢、かみ砕いて言えば跳び蹴りの体勢なのだが、それは黒髪の少女を今まさに襲わんとするならず者の顔を、哀れに思えるほどに美しく、弧を描くようにはじき飛ばした。
 首が繋がっているのは僥倖だが、軽いヒビぐらいは入っているだろう。
「あ、ごめん!」
「ボケッとするなこのボケ!」
 蹴り飛ばしておいてこのセリフ。呆れてアキトが目を向けると、呆然とした黒髪の少女の姿が。
「ほ、北ちゃん……」
 その声はアキトではなく、赤毛の少年に向けて放たれた。
「ああ、やっと見つかった。……で、その格好はどうした?」
 髪は乱れ、頬は紅く腫れ、僅かながら着衣が乱れている。様子からすれば未遂であったろうが、看過できる問題ではない。
「……どうした?」
「北ちゃんっ!!」
 そう叫ぶと、その少女は赤毛の少年に抱きつき、泣き始めた。
「えっと……俺は秋人。お前は?」
「北斗だ。コイツは零夜」
 そう名乗る。名からすればやはり少年なのだろう。
「来るぞ……北斗!」
 一瞬遅れて、彼らが逃げてきた原因が、茂みを破って現れる。
 巨体を生かしての突進。500sを軽く超えるその身体から繰り出される突進は、数トンに達する。
「ヤァッ!」
 零夜に掴まれた北斗が唯一自由の利く右手で、子供であることを差し引いても細く見えるその手で、激しい音を立てて熊の首を叩いた。
 一瞬怯んだ熊。体勢を下げ、その1tを軽々と超える腕の一撃、それを身を屈めることで避け、潜り込んだ瞬間アキトはその頭に手を当て、一瞬だけ力を加える。
 密着した状態から放つ、全身をバネにして力を発生させる、最大級の攻撃「発剄」。
「セイッ!!」
 ゴッ!!
 その一撃で、熊はゆっくりと、仰向けに倒れた。

 突発的な闖入者を倒し、周囲を見渡すアキト。
 子供である彼に性の知識は乏しい。だが、この状況を見れば何か、醜悪な行為が此処で為されようとしていた事だけは分かる。
「状況からすれば、コイツが犯人か」
 アキトの目から、光が消えた。鎌首をもたげたのは全くの闇。その様子に北斗の意識が戦闘状態に移るが、零夜が居る以上、下手に身動きなど出来ない。
 ゴッ! ……ベギ!!
 軽く力を乗せた踵を、転がっている男の右大腿骨目掛け振り落とす。
 人間の全体重を支える足、その要でもある踵は軽く下ろしただけでも驚異的な破壊力を示す。
「ぐっ……ああああああああっっっっっっっっ!!???」
 激しい激痛、そしてその痛みからの絶叫、その叫び声はのどを傷つけ、悲鳴の中に血が混ざる。
「起きろ。死にたくなければ」
 まさしく悪鬼の声。
 それは男に痛みを一瞬とはいえ、忘れさせるほどの恐怖を与えた。
 零夜は北斗の服の袖をぎゅっと掴む。
 ただ北斗だけが、恐怖ではない何かに、身体を震わせた。
「いてえ、いでええ、助けてくれ、頼む、俺の親父に言えば何でもやってくれるんだ、だから、な、頼む!!」
 甘えきった、胸の悪くなるような懇願。
 もう一度足を振り下ろす。
 今度は左足。聞こえてきた音は、足首と、膝からだった。
「婦女暴行。……それで本当にお前は木連の人間か……」
 異臭。
 男の股間から濁った色の液体が漏れ出す。
「……そんな物があるから、このような事をする」
 アキトの視線と、怒りが何かに向いたとき、男は次に目の前の悪魔のような餓鬼が何をしようとするのかを悟った。
 涙を、鼻水を、涎を垂れ流しながら、無事な両腕を使い逃げ出そうとする。体を動かした振動で痛む両足のことを無視し、ただ逃げ出した。
 次の瞬間、その男は「男」としての一生を失った。


 動きを止めた男から、アキトの目が離れた。
 その途端、意識が戻る。
 両膝を地に付き、両手で自分の顔を覆う。指の隙間から覗く目は、おののき見開かれている。
 その姿は自分自身に絶望、恐怖を感じているようにしか見えない。事実アキトは、自らの内にある、形を持たない黒い物の存在が、今まで以上に強くなっていることを感じていた。
「おい秋人……結構やるな」
 アレだけの光景を見せつけられていながら、北斗の表情には恐怖は一片もなかった。
「え? …枝織ちゃんじゃないよね……?」
 その時の表情が、もう一人の友人のように見え、零夜は呟く。
「まあ、ね…じゃあ……」
 ダッ……
 そして、寂しい背を見せて走り去っていった。
「北ちゃん、私あの子怖い…」
 そう言いながら、その胸に顔を埋める。鍛えている割に柔らかい胸だと零夜は思った。
「俺はまた会いそうな気がする。……結構楽しみだがな」
 そう言って笑った顔は、晴れやかであった。自分が孤独ではないことを知ったときの、まるで子供のような笑い顔が浮かんでいた。
 そこで零夜も気づく。倒れ込んだ熊はまだ生きていて、その周りにまだ赤ん坊と言っていい小熊の姿があったことに。

 

 パン!
「スマン、悠!」
「スマンですみゃ、俺達は必要ないだろ?」
 手を合わせて頭を下げる龍馬に、頭を横に振りながら悠がどうしようもないと告げる。
「とはいえ、婦女暴行の現行犯、木連じゃ死刑になっても文句は言えないからな……」

 娯楽として、民衆の意識を持っていくために度々放映されるゲキガンガー。
 その影響からか木連では「女性は尊ぶ者」としての風潮が高い。
 それゆえの、世論の波風も、また高い。

「頼む、アイツの将来は潰したくないんだ!」
 これは本心。

 龍馬にとって、アキトの両親が、ほんのわずかな差で助けることが出来なかった事がいまだに苦痛になっている。アキトまで助けられないと言うことは避けたかった。
 それは偽善でも、何らかの思惑があった訳でもない。ただ純粋に、アキトという人間に言葉にならない「何か」を感じたのだ。あの強い光と闇の混在する瞳を持った少年に。

 その龍馬の顔を見て、悠はまさに最後の手段を口にした。
「北辰殿から打診があった。秋人を息子の部下として迎えたいと」
 驚愕する。
 暗部の長が、自らの後継者につける人材としてアキトを選ぶなどと、……そう考え、今日帰ってきた時のアキトの様子がおかしかった事を思い出す。
「誰かに見られたか? そのクズが秋人のことを知っていたとは考えにくい」
「……今日襲われていたのが、北斗殿の付き人で、その時北斗殿も偶然居合わせたらしい」
「……偶然にしては出来過ぎているが、運命というのはそう言うモノかもしれんな……」
 ほんの少しの間だけ目を閉じ、戸惑いの色を見せないようにしながら、今まで一言も発せずに部屋の隅に座り込んでいたアキトに声をかける。
「明日、行ってみるか?」
「俺は後悔してません。ただ、それで誰かが迷惑を受けたのなら……行きます」
 加害者だった被害者、元・男のことだけはきっちり忘れてそう口にする。
「じゃ、決定だな」
「ああ。明日13時には迎えに来る。用意をしとけ」

 

 その日彼女が目覚めたとき、いつもの不快感はなく、いっそ爽やかでもあった。
 布団から出る前の、何よりも代えがたい五分間。のろのろと起きあがる。
 ぽやっとした感じのその少女は、枕元に置いてある籐の衣装入れから今日の服装として、鮮やかな色彩の、上品さを感じさせる紅いワンピースを選んだ。
 昨日一日で痛んでしまったのではないかと、自慢の髪を整え、軽く肌を整える。朝の身支度をし、鏡の中を覗く彼女の顔は、北斗という少年そのものだった。
 こん、こん。
「はーい、開いてるよ〜」
「枝織ちゃん、おはよう。ご飯出来てるから食べに行きましょう」
 そこにいたのは昨日、北斗という少年と共にいた零夜という少女。零夜はこの少女を枝織と呼んだ。
 お気に入りで良く着ていた服は、昨日のことが尾を引いているらしく着ていない。いつもは着ないようなパンツルックで固めている。
「ね、ね、零夜ちゃん、今日の朝ご飯何?」
「ご飯に、白菜のおみそ汁、お魚の煮付けと、ゆで卵よ」
「はんじゅく?」
「うん」
 そう言うと、枝織は子供のように、いや確かに彼女は子供だが、それ以上に幼い表情でにっこりと笑った。
「えへへ、だから零夜ちゃんって好き」
 零夜の腕にしがみつくように抱きしめ、食堂へと走り出した。



 アキトが目覚めたとき、彼は死をその瞬間に感じていた。いや、感じたからこそ、目を覚ましたのかも知れない。
 朝の余韻に浸る暇など無く、瞬時に引き締まり寝袋の中から出ることも出来ずに、そのまま横に転がった瞬間腹筋の力で跳ね上がり、マジックテープで止められた口を一瞬で開ける。
 たった一つしかない自分用の寝袋が傷んでないか、修理は可能だろうかとそんな事を本気で心配する。
 飛び出した瞬間、それまで頭のあった位置を銀色の軌跡が通り過ぎ、軽い衝撃と共に、髪の毛が何本か持って行かれたことを意識した。
 トン、トン。
 手に持ったグルカナイフの背を掌で叩く。木連出身の龍馬だが、武器については国境がない。ナイフは手の延長として使えるし、グルカナイフは適度な長さと厚み、幅を持つ。何しろこれは龍馬秘蔵の高周波振動ナイフである。切れ味は、比較するのも馬鹿らしいほどで「斬鉄剣」とまで呼ばれている。
「よっ、アキト。おはよう」
「おはようございます。……朝から何のつもりですか、師匠」
 アキトは龍馬を名ではなく、師匠と呼んだ。本気で怒っているという意思表示だ。
「今日の飯は何だ?」
「……白米に塩です」
 全く言葉に容赦がない。
「哀しいぞ秋人。師匠であるこの私に愛が無いなんて」
「……朝から殺されかければ、誰でもこうなります」
 半眼になって、今にも襲いかかりそうなアキトだが、何処にも隙は見あたらない。行けば必ず、殺される。



 昼も過ぎた頃、約束通りに悠が現れた。
 その目は、いつも通りに剣呑な雰囲気をたたえた師弟を呆れながら見つめていた。
「今日のメニューは何だったんだ?」
「白米に、たくあんだった」
「……この人は……ふう、目覚ましに、ナイフを一閃」
 そこで、修行開始以来「願掛け」と称して切っていない、伸びるに任せたアキトの髪が、一カ所だけ短くなっていることに気づいた。
「ま、まあ……とりあえず行こう。今回の件で神経質になっているからな、遅刻するのは不味い」
「おみやげ忘れんなよ〜」
 呆れたようなアキトのため息。その背中がドアの向こうに消えたときようやく龍馬は、安心して床に座り込んだ。
「……また…か。後どれだけ俺の命は残っているのか……」
 そう呟く彼の顔には、異様なまでの汗が流れていた。

 道すがら、アキトは尋ねる。
「昨日のゴミ、どうなりましたか?」
「右大腿骨完全骨折、左足首、膝の全損。治ったところで後遺症は免れないだろうな」
 そこで一つ息を継ぎ、付け加える。
「男は廃業だとさ」
「…やりすぎましたか?」
「いや。あれだけやったおかげで、死罪だけは免れたらしい。感謝しているとは思えんがな」
 他にも気にかかることはある。
「……アイツ以外は?」
「誰も処罰は受けていない。口裏を揃えて『アイツはいつの間にか消えた、何処に行ったのかなんて知らなかった』と言っている」
 パシッ!
「何処も同じか」
 手を互いに打ち合わせた音が大きく響く。アキトの言葉から感情が消えている……危険な兆候だ。
「昨日の子が、お前に会いたいらしい。……結構可愛い子だったぞ」
「ちょ、ちょっと止めて下さい! 何で俺なんかに!?」
 木連の、前時代的な、男女の別を唱える政策に感化されたか、それとも故郷での「二人」による怪我の数々を思い出したのか……かなり危険な思考状態に陥っている。
「ま、取り敢えずは会ってから考えろ。…それとな、昨日のヤツの同類がそこらに潜んでいる。気をつけろ」



 胸が騒ぐ、という感覚がある。
 別段何かがあるわけではないが、ただ単純に、気になるのだ。ざわつくような、異様な感覚。
 不快ではなく、むしろ心地よい。
「枝織ちゃん、何だか顔が赤いよ。風邪?」
 流石に心配になって声をかける。
「ううん、何でもないよ。……んー、何となくドキドキするの」
「ドキドキ?」
「秋人君だっけ? 考えると、なんとなく」
「枝織ちゃん……」
 複雑な心境。それを恋愛感情と片づけるのは早計。しかし、北斗と同等に渡り合える人間であり、また力を振るうものを嫌う。
 そして何より北斗と同じ、闇色の光を持つ瞳。
 その光を持つ、もう一人の存在。
「惹かれあってる……?」
「何かあった?」
「ううん……独り言」




あとがき。

 時間軸で言えば、火星の空港テロから1年後を想定しています。
 アキトの修業時代でもあるし、色々な知識を手に入れた時代でもあります。
 精神状態は「黒9割」「白1割」ですね。

 ちなみにこの時代では偽名「柳 秋人(やなぎ あきひと)」と名乗っています。
 龍馬の養子扱いで保護されていることと、「呼ばれても返事しない」のは怪しまれるので、「アキトに似た名前」を選び、こうなったのです。

 北斗の性格、……子供時代なら、こんな物だろうか。

 この過去編はオリジナルキャラクターの性格を掘り下げ、アキトの立場や境遇を際立たせるための物で、木星に2話、火星に2話程度を予定。その後で本編へ。

 アキト=カシム、龍馬=メルヴィのイメージで。

 

 

代理人の感想

 

確かまだ・・・・10才になってなかったよな。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・零夜って(爆)。

いや、北斗と同い年ですから当たり前なんですが・・・・・本当にビョーキだわ、そりゃ。

 

北斗の性格はまあ、あんなもんだとは思いますが・・・枝織って変な所で早熟なんですね(笑)。

普通八、九歳で異性の事で顔を赤らめたりは・・・・・・・・

まあ、脳天気艦長とかそのライバルとかは例外として・・・・しない物だと思いますから。

 

最後に一つ。

アキト=カシムと言うことは、

カシムって成長するとリジィオ(カイルロッドor疾風のソードでも可)になるんですね(笑)。

やっぱり、いくら成長しても不幸なのは変えようがないのか。