機動戦艦ナデシコ <黒>
 過去編05.火星編→「風」は吹き荒れる

 かちゃん。
 僅かに小気味よい音がし、ドアのロックが外れる。
 そのままドアを引くと懐かしい姿が、かび臭い空気と共に眼前に広がった。
「……掃除しなきゃダメですね」
「ま、ねぐらが有るだけでも有り難い」

 木星での事変より半月。
 アキトと龍馬は遂に火星へと到達した。
 火星近辺に隠されたチューリップを使うために、幾つもの危険な橋を渡った。感慨もひとしおという物だ。

 そして二人は、これからの火星での方針を確認するためにと、アキトの生家に戻ることを選択した。
 初めの、あの時の気持ちを思い出すためにも。

 手を伸ばして壁際のスイッチを探す。手探りで探しているのだがなかなか見つからない、昔のように手を伸ばして壁に触れていることにようやく気づき、スイッチを入れる。
 パチ。
「お、ちゃんと電気が来てる……」
「水道も生きてる。……ガスも。さっさと片づけて風呂にしましょう」
「面倒だな……片づけは秋人……いやアキトだけでやってくれ」
 そう言いながら荷物から下着と替え、タオルを取りだし歩いていく。
「ハァ……全く」
 そう言いながらもアキトは、懐かしい何かを思いだし、リビングからダイニングへと歩いていく。

 ダイニングからキッチンが見えた。
『あら、遅かったのねアキト』
 みそ汁の具だろう。ネギを刻んでいる母の姿。コンロの上の鍋はことことと蓋をゆらして湧いている。
『全く。またミスマルのお嬢さん達に連れ回されたのか。男のクセに情けないぞ』
 仕事の書類だろうか。半分趣味のそれは「社外秘」の印が押されているというのにテーブルの上に惜しげもなく広げられている。
「ただいま、父さん、母さん」
 涙が、一つ、こぼれた。

 湯船の中、金髪に褐色の肌という容姿にも関わらず、手ぬぐいを頭の上に載せる姿に違和感のない龍馬が鼻歌を中断し、一言こぼした。
「……泣きたいときに泣く。堪えたければ堪える。それはお前の自由だ……」

 アキトは数年ぶりの我が家の空気の中、幾つもの忘れていた物を思い出していた。

 日が開けて翌朝。
 アキトは懐かしい空気の中、自然と起きあがり、まさに目にも留まらないほどの速さで、横っ飛びにドアまで逃げていた。
「おはよう」
「……おはようございます」
「いつまで寝てる気だ? さっさと飯にしよう」
「その包丁をしまったら、そうしましょう」
 などと、異常としか思えない毎朝の儀式を仮面の笑顔でかわす二人の姿が、火星の空気に溶け込んでいた。

 流石に買い物などしていないので朝から店屋物になる。
 ラーメンをすすりながら今後のことを話し合う。
「で、どうしますか? 木連の方はもう近づく事も危険ですし、火星じゃ俺達に何も力はありませんよ」
「足掻く」
「え?」
「足掻くんだ。何時か仲間が見つかるまで。同じ志を持つ仲間を見つけて力を、世論を変えるだけの力を手に入れるまで」
「……世論」
「俺達はただの兵士。世界を変えるなんて無理だ。たった一人や二人で、世界なんて変えられないんだからな」
 それは正論であり、確かに理性では納得できる。しかしそれ以外では反発もある。
「俺達がすることは『これはおかしい』と考えさせることまで。そして、盾となり剣となること。それ以上は必要ないんだ。もしそれ以上を望むなら『英雄』になることが必要となる」
「英雄……ですか」
「そして考えろ。歴史上幾人も居た英雄が、最後にどうなったのかを」
 此処まで言って水を飲む。
 テラフォーミングして安心して暮らせるようになったとはいえ水に対する不安は今だ拭い切れていない。しかしそれでも木星の水などより遙かに味があり、美味い。
「……こんな水でも、手に入れられない奴らがいる。見ただろう、木星圏を」
「ええ。スラムという言葉があれほど似合う場所なんて他にはないでしょうからね」

 ただの水。されど水。人は水がなければ生きてはいけない。
 そして、木星ではその水でさえ、盗まなければ生きていけないブロックがあり、またそれ故に閉鎖されたコロニーも。

「……とまあ、難しいことは此処までにしておこう」
 食い終わった椀を台所に運びながら、さも今思いついたとばかりに声を出す。
「?」
「そこにある場所に行け。社会復帰に対するリハビリ……と言うところだ」
 置いてある求人広告を見る。その一カ所には赤ペンでチェックしてあり、その意味するところは「そこに行け」であろう。
「リハビリ、か……確かに火星が今どうなっているかなんて分かりませんからね。で、師匠は?」
「道場でも開く。「表」の技なら護身術代わりに教えても問題はないからな」
 そんな龍馬の様子にアキトは溜息をついて、一言だけ、小さくこぼした。
「問題、あると思うけど」

 

 そしてまた、僅かな時が流れた。
 運命の日までの、僅かな時が。

 

 アキトの自宅、その地下にある倉庫。
 電子部品の保護を目的としているのか、空気は吐く息が白いほどに冷たい。
「これで起動か」
 そう言いながらコクピットに灯るインジケーターを見る。

 薄く霜の積もった、黄金の巨人が冷たい床に倒れ込んでいる。それは試作エステバリス一号機、EX01、開発コード・エグザ。
 使い手が居ないからか、いまだにこの地下に格納されている。それとも、ここにあることを知る者が居ないのか。
 IFSの特殊性から、何時かはと考えられていた完全な人型ロボット、そして兵器として設計された第一号。試作品であるため、現在連合に配備が決まった制式機よりも5割近く大きく重量なら二倍以上。そして、武装に全く互換性がない。
 代わりと言っては何だが、採算を度外視した凶悪としか呼べない装備がある。これらを開発した人間は何を考えていたのだろうか。
 そしてコクピットにはIFSを持たない龍馬が自分用にレバーやフットペダル、キーボードを増設し、居住性が著しく落ちている。

「……火星にも山崎の同類が居たって事か?」
 そんな失礼なことを言いながら全く反応してくれない左腕の方へ、コクピットを降りて近づいて行く。
「腕が一本丸ごとキャノンになっているなんて。昔の漫画じゃあるまいし」
 そう言いつつ、胴体と腕の間に入り関節部から装甲を外していく。
 やがて内部が見え始めてくるが、一目で分かるほど構造が単純で「何か」が足りないのが分かる。
「……ここだ。何かは分からないが部品が足りない。どんな金属を使っても起動前に解け落ちちまう……一体何を使ってるんだ」
 地下室の照明の外側、壁際には高電流の発する熱によって融解された金属が固まりになって落ちていた。

 だがそれとは別に、幾つもの部品が落ちている。右腕、左腕、左腕、左腕、左腕、左腕、右足、右足、右足、胴体、胴体、頭、頭、頭……ただ一つとして同じ部品がない。
 そして、形状も異様だ。
 完全に蛇腹だけで作られた腕。手の生えた足。全方位に目の付いた頭。何十本の指を有する手。肩先に何十本と小さな腕が生えている右腕。つるりとした、まるで人の肌のような足。エラのような物やヒレのついた胴体。ただの一つとて同じ物がない。
 いや、それ以前に。
「これは、本当に人間が作ったものなのか?」
 その言葉は、この機体を見つづけてきた龍馬にとって、至極当然の問いであった。
「確かに基本は……木星にもある機構だ」
 そう言いながら他の部分にも目を向ける。
「まさかプラントの技術を流用している?!」
 彼は、答えの無い問いの中、人類の理解の範疇の外に在るもの、遺跡を思い出していた。プラントと呼ばれる遺跡のことを。

 

 昼時だというのに、見知った顔がない。食堂を見渡し適当に見つけた顔に声をかける。
「ね、テンカワ君知らない?」
 しかし帰ってきたのはこのような物。
「え、テンカワ? アイツならどうせ農場で寝てるんだろ?」
「フミカちゃん、アイツなんかほっといて俺達と一緒に食おうよ」
 そうかえしてくる同僚に苦笑をかえす。
「そう言う訳にもいかないでしょ、同僚なんだから仲良くしなきゃ」
「はいはい、お優しいことで」
 その声に何となく嫉妬めいた物を感じ、居心地の悪くなった場所から出ていく。
 そして、外に出て一言。
「お節介だとは、自分でも思うんだけどね」
 それが美徳だと彼女、サクラバ・フミカは思っていた。そして真っ白なリボンで縛った短い髪を揺らしながら。いつもの場所へと走っていった。

 サクラバ・フミカ、あと半月で20歳。
 スレンダーという言葉が似合う少女……と言うより女性。
 さっぱりした気性と、母性を感じさせる独特の雰囲気からか人気は高い。ちなみに髪はボブカットだがそれをリボンでまとめている。

 

 大地に転がり、晴れ渡った空を見る。果てにあるのは地球か月か、木星か。
 テンカワ・アキト、18歳。彼は今、農場脇の、青々とした草原の中にいた。
 脇にはミカンを大量に積んだ作業車。作業着だろうか、車の上に脱ぎ捨て、身軽なシャツ姿。相変わらず龍馬に勝てないのか、髪は腰にまで伸びている。
「……平和、か……砂上の楼閣にしたくはないな」
 目を閉じ、息を吐く。昼休みは始まったばかり、少しくらい寝ても構わないだろう。
 寝息を立て始めたアキトの横で、作業車にかけられたラジオがニュースを読み上げていた。
『……木星方面より飛来した隕石は、連合宇宙方面軍艦隊の手で破壊、地球への影響はありません。また専門家は……』
 それを聞いてもアキトは、ただ寝息を立て続けるだけだった。

 眠りの中で見る夢。
 それは幾つもの「想い」が結晶化した物。そう、過去の記憶もまた。
 視界を埋め尽くす一面の赤。
 父はあの時、何と言ったのだろう。
 聞こえなかった言葉。
 母はあの時、何と言ったのだろう。
 炎に包まれる、古風な邸。
 いつか会えると信じる、友人達。

 カサ……
 微かな音を立ててアキトの頭に影が出来る。
「ほらアキ君差し入れ。……起きた起きた」
 そう言いつつ、ジュースの入ったパックを放る。寝ていたはずのアキトはそれを寝たまま空中で受け取ると、今度は軽く起きあがって飲み始める。
「……あれ? それ、どうしたの?」
 左手に持って、上着を脱いでいるから当たり前だが腕が剥き出しになっている。フミカが疑問に思ったのはアキトの腕。剥き出しになったそれには、不思議と傷が、数多く付いている。何かの傷なのか分からないが、相当の重傷だったのだろう。そう考えているとアキトから言葉が返ってきた。
「傷なんかどうでも良いって。差し入れじゃないんだろ? フミ姉の本当の目的は」
 投げやりな中に、ある種の鋭さが残っている。
「なんか変わっちゃったね、アキ君。入院してた頃はもうちょっと笑ってたと思うんだけど?」
 空港テロの一件。彼女もまた、被害者。
 そして当時のアキトを知る者の一人。
「……まだあの頃は。色々あったから。それだけ……用事があるんだろ?」
 そう言いつつ、薄く笑う。
 影の濃い、寂しい笑顔を。
「いや、実はその〜最近ストーカーに付きまとわれちゃって、なんとかして貰えないかな、って思って」
 対しフミカは屈託なく笑う。例えるなら「あはは〜」だろうか。
「そう言う話は警察に持っていってくれ」
「だから、警察は「証拠がなければ動けません」、そう言うばかりで。かといって探偵さん雇うなんて出来ないから。……アキ君って、強いんでしょ?」
 その言葉にアキトは自嘲の笑みを持って、腕の傷を見せながら話を続ける。
「俺が強い? そう言うのは師匠の方が向いてるけどな」
「でもさ、アキ君が信用できると思ったから頼んでるわけで」
 一瞬驚きの表情を作ったものの、笑ってみせる。
 性別を感じさえない、さっぱりとした笑みを。
 目の前に呼び起こされるのは、赤い、友人の姿。
「……分かった。でも俺もする事はあるから、四六時中張り付いてはいられない。それで良いか?」
「うん、OK、OK!」

 ストーカー。
 元々は狩猟などでの追跡を語源とする。だが現在では未熟な精神構造をした変質者を指す言葉に成り下がっている。

 夕方の五時にもなればバイトも終わり。
 フミカは作業服を更衣室で着替え、普段着に戻る。白いリボンはそのままに空色のシャツとベージュのキュロット。掛かっているサスペンダーを見る限り、発展途上と言うしかない。
 作業衣をロッカーに放り込んで代わりにディバックを取り出す。左肩に軽く引っかけて、ドアを開け更衣室を出、近くにいた別のバイト仲間に向かって一言。
「ね、アキ君知らない?」
「ん? テンカワなら「用意がある」とか言ってもう帰ったけど」
「……用意?」
「俺は知らないけどね、じゃまた明日」
「うん、また明日」
 この様に簡単に挨拶して帰る。ぞんざいに聞こえない、暖かみを感じさせる。この辺りが彼女に人気がある理由なのだろう。
 出荷用のトラックの荷台に乗って農場を出る。
 ディパックの中にはバイトと言う事で格安で分けて貰った野菜が入っている。
「ん〜〜今日は何にしようかな〜〜っと」
 彼女の頭の中には、鳥の雛のようにご飯を待ち望んでいる子供達の姿が浮かんでいた。
 朝起きて、バイトに行く。終わったらご飯の材料を買って帰る。
 単純だが充実した毎日。
 こんな変哲のない、平凡な一日が彼女の日常だった。

 その頃、誰もいなくなった女子更衣室。
 音も無く天井の板が一枚外れる。その中から、黒ずくめの男が降りてくる。覆面をしているからか、顔は分からない。
 男は迷わずフミカのロッカーを開けると、荷物に、この場合着替えた作業着にだが、躊躇無く手をかけ、調べ始めた。男の両手には、奇妙な機械が取り付けられていて、何かを調べていることが分かる。
 一分ほどして、男はまた、天井裏へと消えた。
 後には荒らされ、足の踏み場もない部屋が残っただけだった。

 トラックの運転手に礼を言い、自分の家へと帰り着く。
 十年近く慣れ親しんだ、この孤児院へと。


 農場の片隅から、Tシャツにジーンズというありきたりの格好の青年が出てきた。そして道ばたに止めてあったスクーターに乗って街の方へと走っていった。
 何ら不自然なところはない。農場から出たはずの彼が殆ど日焼けしていないことを除けば。

 院のドアをくぐった瞬間、タックルをされた。
「あたたたた……」
 自分の足の辺りに張り付いているのはつい最近になって編入してきたまだ小さな男の子。寂しいのだろうか、ぴったりくっついて離れようとしない。
「ふみねーちゃん、おかえり!!」
「はい、ただいま。……ご飯作るから、離れてくれないかな?」
「……や」
「やじゃないの。ほら離れて離れて」
 そう言って、ひっぺがす。農場仕事も家事も、ひ弱ではつとまらない証拠だろう。軽々と抱き上げ、他の子供達の居る遊戯室へと連れていく。
「後30分ぐらいで出来上がるから、みんな待っててよ」
「「「「はーい」」」」


 キッチンに入ると、一度に大量に作れるようにとかなり大きな鍋やコンロが見えるがその間に、一人の少年が座っているのが見えた。
 カチャカチャとやっているが、別に包丁をその手に持っているわけではない。キッチンだというのに手に持っているのは工具類。右手にドライバーを持ち左手にその先をあてている。
「……何? また義手の具合悪いの?」
「ちょっとね。チューニングを合わせただけで済むくらいだから平気だよ」
 そう言って、左手の甲、指の付け根の辺りにあてたドライバーを回す。指を動かしながら。
 別に義手と言っても珍しい物ではない。怪我をする人間はいつの時代にもいる。先天的に持っていない人間も。しかしIFS技術の発達した今現在、意のままに動く義手など格安で手にはいる。IFSの普及した火星ならではの光景とも言えるのだが。

 ミフネ・トウヤ、15歳。
 明るくブラウンに染めた髪。根の辺りが僅かに黒くなっている。15歳という年齢で今だ150台の身長にコンプレックスを持っている。更に言えば童顔で時折女の子に間違われる。そんな明るい機械好きの少年。だから髪はかなり短く切っている。
 そして、彼もまた空港テロの被害者。爆風で飛ばされたガラスで腕を切断され、家族を失った少年。

「じゃ、今日は手っ取り早く火星丼にしちゃいましょ。幸い昨日のカレーがまだ沢山残ってるし」
「そだね。じゃ僕は付け合わせの方をやっとくよ」
 こんな、何となくで通じる会話。
 帰ってきたという感慨を抱かせる物だった。

 

 夜の闇に紛れて走る影があった。
 雲に覆われ月明かりは無い。住宅地を離れているから照明も無い。
 影は背中にくくりつけた棒をまるで如意棒のように一振りで伸ばすと、そのまま棒高跳びの要領で、空中に飛んだ。空中にいながら影は棒を捻るような動作をする。すると今度は棒が縮んだ。そしてそのまま影は後方を振り返り、飛び越えた物、つまりはフェンスがそのままであることを確認し、走り去った。

 やがて目的の施設へと到達する。
 ポケットから重りが先についた鋼線を取り出す。重りには瞬間接着剤が塗布されていて、専用の薬品を使わないと剥がすことさえ出来ない。もっとも一般に市販されている物なので、ホルダーに刺さっている粘着弾入りの銃を使うことに問題はない。

 ヒュン!
 風を切る音がして、重りが屋上に張り付いたかを確認。その上で鋼線を巻き取りながら屋上へと壁を歩いていく。
 屋上に出て初めて影はその姿を見せた。
 全く光を反射しない黒いツナギ、要所要所に金属ではない何かを入れている様だ。顔の上半分を覆うゴーグルはせわしなく動いている。そしてそれを上にスライドさせると硬い光を見せる目が現れた。冷たくはないが、暖かくもない。
 その顔は、アキトそのものだった。
 代わりにマスクを口にあてる。小型のボンベの付いた、一体成形型だ。
 迷わず排気ダクトに飛び込む。地図はもう、頭の中に入っている。

 ダクトの中、コンピュータのあるブロックめがけて這い進む。そこで一言漏らした。
「……もう十年になるってのに、殺し損ねた……空港の生き残りがそんなに怖いのか?」

 軍の恥部。空港テロの真実。
 知る可能性のある者は、いまだに軍の関心を買っていた。

 

 そして孤児院の中庭では一人の老齢にさしかかろうという男が立っていた。
 一言で表現するなら「侍」。
 総晒しにした髪と、古風な袴姿。手には真剣を構えている。そして眼前には巻き藁が。
 刀は納刀したまま左手が、右手は僅かに柄から浮いている。
 人が動くにはきっかけが必要。それは思い切りであったり、風が吹いた音でも、誰かの気配でも良い。何か自分の体を動かすきっかけにさえなれば。
 右手が霞み、銀光が一閃し、カチャリと左の手元で音がした後、巻き藁が中央から両断されバサリと落ちる。人体、それも背骨に見立てて作られているはずの硬く柔らかい、それも地面に固定していない巻き藁をだ。凄まじい業。
 僅かに雰囲気を硬く……いや冷徹にし、ゆっくりと、相手にも自分にも刺激をさせないように向き直る。
「よ、院長センセ」
「……柳さんでしたか」
 そこには彼の呼んだ通り、龍馬が立っていた。脇に酒瓶を構えて。

 アオキ・シュウエイ、56歳。
 剣術、それも抜刀術を修めたかつての連合軍士官。
 僅かな偶然から空港テロの真実を知った数少ない男であり、その口止め料を使って孤児院を立ち上げた過去を持つ。
 今だ監視の目は解かれていない。

 とくとくと、そしてなみなみとコップに酒をつぐ。
 気取らずに飲める友人を目の前に、子供達の喧噪を肴に。
 幾度と無く無言のまま酒を飲み干す。しかし、だからこそ問いかけた。
「何がありましたかな」
「アキトのヤツ、ストーカー退治に行ってます。明日の朝刊はそれで決まりですね」
 そう言って、ぐびりと呑む。
「ネルガルですか。それともクリムゾン」
「連合です」
 とくとくと注ぎ、おっとと、などと合いの手を入れてみたり。
「どうも私が此処にいることを知った連合が『生き残り』を探ってるようでして」
「なるほど。確かに此処の子供達は……あの時の生き残りばかりですからね」
 そう言いながら、二本目の栓を開ける。
「こっちのはちょっと辛口ですよ」
「こういう日は、その方が美味い」

 

 火星ユートピアコロニーの連合軍基地はこの日、謎の火災に見舞われた。
 人的被害こそ軽微だったものの、基地が半焼する羽目に陥った。
 原因は回線が何らかの原因によりショート、放電し埃に火がつきコンピューター内部を焼いたためと推測されたが、その「何らかの原因」は不明だった。


 しかし、翌日の新聞にこの軍の醜聞を伝える記事は載らなかった。
 ただ「異星人現る」などと言うゴシップ紙でさえ書かないような言葉が、連合軍の部隊半壊の情報と共に全紙面を飾ったのだから。



あとがき。

 遂に来ましたこの日が!!
 木星の先兵が火星の空域に到達する日が!!
 ちなみに現在、火星に木連のことを知る人はトップであるフクベ提督以外に居ません。
 知ることが出来るほど偉い人は、もう逃げ出した後なのですから。