機動戦艦ナデシコ <黒>
 過去編06.火星編→風は「嵐」へ

 始まりは、空の向こうへと飛びゆく艦の姿だった。
 戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦。勇壮の一言に尽きる。

 軍基地に隣接する空港から,その姿を一目見ようとする野次馬達に埋め尽くされた展望台から離れた場所。
 そんな見物人に混じって、これからの世界に大きく関わる者達の姿もあった。
(さて……これで地球側が敗北を認めてくれれば話が早いんだけどな)
 そう思っていても、口には出さない。どこで誰が聞いているかわからないのだから。
「……それにしてもネルガルが何のリアクションも起こさないなんて,なにを考えているのやら」
「……アキ君、どうかした?」
「ん? フミ姉が気にする事じゃないって。たださ、さっさと戦争なんか終わってくれればいいのに、そう思っただけ」
 とりあえずは誤魔化しておく。
 隠し事をするのは心苦しいが真実はただ明かせばいいという物ではない。
「そうですね。アキトさんのいう通りです」
 そんなアキトに追従するトウヤ。となればフミカの目がつり上がるのは必然だ。
「トウヤ君、おねーさまの事より、アキ君の方に賛成するの?」
「いっ、いえそう言うわけなど全くなくフミ姉のことは心の底から尊敬してますですはい」
 狼狽するトウヤと、詰問するフミカ。
 いつものことと思いつつ、アキトは先に孤児院の子供達を探しに行くことにした。トウヤの縋るような哀れな、助けを求める視線を無視して。
(すまんトウヤ。どうも昔から女には勝てないんだ)
 などと、早々に見捨てていたりする。

「……『宇宙人襲来。政府はこれを木星蜥蜴と命名』か」
 そう言いながらTVのスイッチを切る。
「……ここにトカゲがいるなんて、誰も思わないんだろうな」
 自嘲気味に笑うのは龍馬だった。
 そんな龍馬に、ふと思いついたというようにシュウエイが声をかける。
「昔の…20世紀の映画だったと思うんですがね。宇宙人と戦争をするってのがありました。同じ星の人なのに、地球人に対して友好的なのと好戦的なので仲違いする奴が」
「それで、どうなりました?」
「忘れました。なにぶん子供の頃に見た話でしたから」
 言葉のない時間が訪れた。
 周囲の喧噪は声も音もすべてかき消していく。
 騒音が静寂を作っていく。
 その喧噪は、シュウエイの言葉でとぎれた。
「終わりが分からないのなら作ればいい。私もそうするのが人間として正しいと思いますから」
「…そうですね。だからこそ、前に進もうとする人間を探しました。最後まで進もうとする人間を」
「…それがトウヤやフミカにまで『業』を教えた理由ですか」
「基本だけです。限界の上に自らを高める、基本にして真理の業。あの上に進めるのは武の神に愛された者だけでしょう」
「それがアキト君か」
「俺が見てきた中では、一番近いでしょうね。何しろほかの奴らは三日と持たないのにあいつは俺の修行に10年もついてきたんですから。もしかしたら伝説にある創始者、たった一人だけ彼が到達した幻の業……分かりませんよ」
 そう言いながら、カップ酒をあおる。痛み止め代わりに。

 

 すべては連合の、自分たちの勝利を確信したエールの大音声の中にかき消えていった。
 だが、この様な戦勝ムード漂う火星に、それは訪れた。
 あまりに無謀な作戦が招いた、火星最大の都市、ユートピアコロニー壊滅の日が。

 落ちてくる巨石。
 大気摩擦による高熱。
 圧電効果による高電圧、その放電。
 大質量の落下に伴う局地的な大地震。
 生き延びたのは、本当にわずかな人間だけだった。

「ク、ソオオオオオッ!!!」
 ゴガン!!
 激しい音が響き、構造材に拳がめり込む。ユートピアコロニー地下シェルター。本来なら核攻撃さえ思慮に入れた二センチ近い鉛の壁がだ。
 ガン!!
 ゴゴン!!
 その姿を見た他の避難者が、恐れながらもそれを成しえた男、龍馬へと注目する。
「龍馬さん?!」
「ちょ、ちょっとやめてください!!」
 フミカとトウヤが止めようとする。
「……いや。私は冷静だ」
 そう言い、歪むどころか突き抜けた壁から拳を引き抜いた。
「アキトは地上へ向かった。戦力を取りに。私たちはこのシェルターの中を守らなければならない」
 そう言って、家財道具でも入れていそうな大型の鞄の中から幾つかの荷物を取り出した。
 刀が二振り、ナイフが12本、銃が数丁。弾丸は数えるのもばからしいほど。
「! これは!」
「……龍馬さん、何でこんな物を持ってるんですか?」
 その言葉に、笑みを見せて答える。
 二人が初めて見る、儚いというべき、弱い笑みを。
「……備えだ。今日というの日のための」
「「……今日…の?」」

 その声に答える前に、誰かが持ち込んだラジオがその絶望的な言葉を吐き出した。
『本日未明、チューリップなる敵母艦を撃破した火星艦隊は……』
 その言葉に反応した何人かが叫ぶ。
「ふざけるな!!」
「俺達を、ユートピアコロニーの人間をどう思っているんだ!!」
『敵艦隊を撃破した英雄、地球の防衛力を上げるためフクベ・ジン提督は火星の人々を収容、地球へと』
「おい…ちょっと待て! いつの間に収容なんて、いやそれ以前に他のコロニーの奴らだってまだ地上に!!」
「見捨て…られた?」
 その一言が、均衡を破った。
「う、うわあああああああああああ!!」
 人々は周囲にいた数人の軍人に詰め寄り、錯乱したのかシェルターのドアを開放しようという愚挙に出た!
「ちっ、やめろ! 今外に出ても敵の餌食になるだけだ!!」
 誰かがそう叫んだ。
 しかし、その叫びは届くことなく、出口近くに殺到していた人間達は恐怖に駆られ、この閉鎖区間から逃げようとし、それを見た。血の色の瞳を光らせた、鋼の虫の姿を。
 チキチキと、キリキリと、自然の物には出し得ない、鉄の殻を纏った虫の姿が。

 

 火星の大地に突き刺さった巨大な石くれ。
 それはまるで墓標のように大地に突き刺さり、掘り下げられたその場所に、幾千幾万もの人々が暮らしていた痕跡は、もう見ることはできない。見える物は衝撃によって生み出された、巨大なクレーターだけ。

 シュウ!
 …チキチキ…チキ…チキチ……
 風を切りながら、無人の広野を飛び回る虫を思わせる物体。後にバッタと命名される無人の戦闘用兵器。
 オートマチック化された、自動で人を殺す機械。
 それは何も考えずに命令通り人々を捜し、そして反抗する物を殺し、また連れ去っていく。


『起動キイを挿入してください』
 完全な闇の中、慣れた手つきで円柱状の物体をコンソールの中央に突き刺す。僅かに光が漏れ、キイが吸い込まれていく。
<パスコードを入力してください>
 キーボードにコードを打ち込む。
<マニュアル、IFSを選択して下さい>
「IFS」
<EX01起動。戦略AIエグザ起動しますか>
「起動してくれ」
<起動完了。相転移エンジン使用不可。バッテリー駆動>
 その言葉と共にコクピットが光で満たされる。頭部カメラが光を放ち、サブカメラが生物的な、深海生物の様に青白い光を放った。
 メインモニターが崩れかけた地下倉庫を映し、右サブモニターにバッテリー残量が32分、左サブモニターにメインモニターと同じ映像が赤外線カメラ、超音波探査、X線、サーモグラフィ。幾つもの情報が映し出される。

 腰から弾帯のような物を引き抜き、左腕のキャノンのスリットに突き刺す。
 その瞬間左腕が奇妙に発光し、振りかざした瞬間、激しい爆音が鳴り響き地下倉庫が地上と繋がった。

 光が照らした。
 試作機特有のイエローカラーは陽光を浴び金色に輝いている。
 右腕と左足はデフォルメされているものの、鎧を身につけた人間に酷似し、胸から腰にかけては流線的な優美な曲線を描いている。背には半球状の局所重力制御ユニットが大きくせり出し、バーニアは無い。
 しかし左の肘から先、巨大なキャノンは上端は頭部まで、下端は踝まで伸びている。右足はまるで獣のように膝は後ろへと曲がり、足先は踵と爪先だけが大地を踏んでいる。
 そして頭部は陸戦型に酷似しているのは左半分だけで右側には仮面が填め込まれ、その上下に生物を思わせる瞳が光彩も鮮やかに光を放っている。
 この異形の巨人こそがEX。
 それを操る者こそテンカワ・アキト。

 ヴィィィ、と音を立てて静かにカメラが独立した生き物の様に縦横に動く。その目が捉えたのは黄色の無人兵器・バッタ。
<敵性体・確認>
<戦略効果・認められず>
<戦術効果として殲滅を推奨>

 背後のユニットに光が渦を描くように流れた後、残像を残し、EXは次の瞬間その異形の左腕でバッタを貫いていた。
「いったい、何で、戦争なんかするんだあああ!!!」
<情報不足により原因不明>
 血を吐くような思いで、叫びをあげた。AIはそんな言葉にさえ律儀に答えを返す。

 慣性を無視し、体を引き裂くような痛みに耐え、瞬間に標的を変え左腕を一閃させ、バッタをその衝撃だけで粉々にする。
<警告・左腕・ヒューズ破損!>
 その瞬間動かなくなった左腕に新たな命令を下す。
「リロード!!」
<再起動/成功>
 その言葉が、腕に差し込まれた弾帯から新たな弾丸、すなわち「ヒューズ」を交換させる!
「砕けろぉぉぉ!!」

 しかしバッタとてむざむざ破壊されたりはしない。
 確かに今までの戦闘パターンを全く無視したEXの動きに戸惑ったとはいえ、その明晰な人工頭脳は新たな回路を構築。背を開き、無数のミサイルを解き放ち、その力でEXを襲う!

「フィールド!! 耐えてくれEX!!」
 叫んだ。直撃することを悟って。
<意識容量・反応限界・規定値を突破>
<第二戦闘水準に移行>

 父が、楽しそうに語った。まるで子供のように。とても興奮して!!
『遺跡からな、ロボットが出てきたんだ』
『すっごく強そうなのと、不思議な部品がたくさん!!』
『ああ。その部品も使ってな、父さんたちでロボットを作ったんだ』
『EX01! それと新型の人工知能エグザ! 明後日の試験が楽しみだ。きっとアキトも驚くぞ!!』
『ちょっとばかり強すぎた。研究所にも置けないほどに。仕方ないからうちの地下に隠す事になってな。……イタズラするなよ』
 最後のは、少しばかりまじめに。でも、おもちゃを隠す子供のように。

「父さん!!」
<相転移エンジン、大気圏内での発動を確認、以後の管制はパイロットの意識に同調>
<殲滅者−アニヒレイター−起動>
 そしてアキトの声に答え、EXは吠えた。
 火星全土に、響くかと思えるほどに。

 

 どぉぉぉぉぉぉぉんんんん!!!
 轟音と共に、パラパラと埃が落ちてくる。
 それを浴びたのは逃げだそうとしていた人々ではなく、頭部を粉々に砕かれたバッタの”死骸”だった。
「…アキト、やったようだな」
 砕け散ったバッタの中を漁りながら、幾つかの部品を取り出す。彼のもう片方の手には銃身を切りつめたショットガンを、そしてバッタを切り分けているのは刀身の長い中国を思わせる装飾の施された刀。やはり微妙に振動しているのが分かる。
「龍馬さん、いったい何を?」
「認識用の信号送信機があるはずだ。それがあれば敵の目をごまかせるかもしれないからな」
 それは、生き延びる可能性を示唆する物。
「それじゃ!」
「助かる可能性が出てきたという事ね」
 トウヤの声に被さるようにかけられた声。
 振り返った彼らの目の前にいたのは、奇妙なことに白衣を着こなし、金髪を一つにまとめた美女。
「貴女は?」
「人に物事を尋ねるときは、そう教えられなかったの、お嬢さん?でも、いいわ、時間がないのも確かですからね。私はイネス・フレサンジュ。ネルガルの科学者よ」
 そう言って、にっこり笑って見せた。
 しかし、ばつの悪そうなフミカやトウヤとは違って龍馬は顔色さえ変えずに問い返した。
「あんたはこの事を知ってたのか」
 と。
 それに対し、イネスは僅かに顔をしかめ、それも一瞬の後には微笑みに変えた。
「足掻いてみる? 力なら貸すわよ」

 

 それから先は、苦難の道という言葉が悲しいほどによく似合った。
 火星全土へ向けての「木星蜥蜴の正体」の公表。
 ネルガルと連合,クリムゾンの功罪。
 生き延びるための組織作り。

 そして彼らはやり遂げた。絶望的な状況下、一縷の望みを繋いだ。自らの命を懸けて。

 火星の地下に眠る戦艦の遺跡、日の目を見ることの無かったプロトタイプ・ナデシコ、軍基地に残されていた試作型のエステバリス。それらを以て囮としての要塞、守備隊を結成。
 志願者を募り、生き残りを求め火星の大地を彷徨う者と、避難民の集まるユートピアコロニーを守る者,砦と呼称されることになる要塞を守る者、幾つもの部隊が結成された。
 そして、幾人もの命を拾い、幾人もの命が散っていった。

 

 カシュ。
 圧搾空気の抜ける音と共にアサルトピットが開く。両手両足を中心に装甲を強化した迷彩色の陸戦フレーム。傷らしい傷はないが,腰にマウントされた多連装型のラピットライフルの試験作と、半ばから刀身の折れたイミディエットブレードの正式タイプが奇妙な雰囲気を醸し出している。
 そこから降りてきたのは白兵戦をも想定した耐Gスーツを着た龍馬。ヘッドギアを脱ぎながら近くにいた整備員に声をかける。
「すまない、右のマニュピレータがブレードに耐えられなかった。修理頼む!」
「分かりました龍馬さん! それとフレサンジュ博士が呼んでましたから早く行って下さい!」
 分かったとばかりにヘッドギアを持った手を振ってみせる。そして地面に踏み出して歩き出そうとしたその時に、違和感が、襲った。
「ん? また実験台になってくれとか…か…く?」
 焦点が合わない。関節から力が抜ける。血が無くなってしまったかのように体が寒い。
 それを気取られまいと、軽く手を組むようにしてエステバリスに寄りかかる。
「…どうしたんですか、龍馬さん」
「いや、何でもない。ちょっと疲れたみたいだからな」
 そう言って、わざと深く、疲れたような溜息を出す。
「仕方ないですよ。龍馬さんのチームって死者0で、生還率トップ。怪我人だって滅多に出ないんですから。リーダーの重責もあるでしょうしね」
「そう……だな」

 イネス・フレサンジュは迷っていた。
 目の前には黒い、黒い、闇の色をした偶像が祭られている。人によく似た人ではないもの。あえて言うなら神話の中の龍であろう。デフォルメされた均整の良い体に、まるで冗談のように。しかし神像に見えるほどの奇跡的なバランスで龍の頭が配されている。
 その姿を見、彼女の唇から呟きが漏れた。
「生き延びるために。それなら、何をしても良いの?」
 まるで迷子の子供の声のように、弱々しい声で。

 

 研究室ではタニ・コウスケが本を開いていた。
 本といっても製本されたファイルであり、著者の欄には『Dr.Tenkawa』とある。
「ボソンジャンプの可能性……彼女が生きている可能性か……」
 そう呟きながら自らの左手を見る。そしてその薬指には、彼と、その最愛の女性をつなぐ指輪がひとつ光っていた。
 そして彼はまた、デスクに向かって別のデータを呼び出す。妻と取った写真、その横に置かれたモニターに映る、全く未知の言語で書かれた、人の遺伝子などとは比較にならない、あまりにも膨大で緻密なデータを。
「遺跡のデータ、この十数年かかって解析率はいまだ0.02%。人類がボソンジャンプを知るには何年かかるか……僕があいつに会えることはもうないのか……?」

 そう彼が締めくくろうとした時、彼はやってきた。
「すまない。フレサンジュ博士に呼ばれてきたのだが……」
 龍馬である。既に体はいつもどおりのレベルにまで回復し、それを知る者など誰もいない。
「……ああ、それなら僕が案内するよ」
 タニからは深い疲労が見える。しかし今それは言うべきではない。なぜならこの戦いの中に行方知れずとなった彼の妻への思いは、誰もが共感しうるものであり、同じ思いをするものも少なくなかったからだ。
 今はそのことに触れず、当人の思うままにするべきだと、誰もがわかっていた。
 ただ、龍馬は不思議と思った。
 なぜ、案内などするのだろうと。

 

 ズドォォォォォォンンン!!
 激しい音を立てて、空戦が一機炎を吐き出しながら地上へと落ちていく。胸には大穴。アサルトピットの向こう側が見えている。
「ササキ、応答しろ、ササキ!!」
「……ザー……」
 ただノイズを吐き出すだけで何度もの呼びかけにも答えず、それはただ人形のように地表に落ち、砕け散り、四肢を散乱させ、自らの身を焼く炎により痕跡を消していった。
「ミヤマさん、ササキが!」
「く……離脱しろ! 私はササキの回収に……向かう!!」

 ただ回収できたのは、焼け焦げた、IDのみ。
 命は既に、届くところには無かった。


 無限でなどありえない。しかし無限とも思えるチューリップの中から溢れ出るバッタたち。しかし豊富な火星の資源から作り出された弾丸はバッタを撃ち抜き、砕き、四散させ、近寄ることを許さない。
 まるで武田の軍勢を破った織田の鉄砲隊の様にエステバリスが一斉に放火を浴びせていた。
「こちらサブリーダー4。現在二機が被弾、後退させる」
「了解。チーム2、首尾は?」
 被弾したと思われる足を切り離し、別の機体が肩を貸しながら後退していく。
「経過良好。うちの王子様は早くお姫様に会わせろって言ってるよ」
 洒落にならないことを、下らない口調で誤魔化しながら。それほど怖いのだ、この作戦に参加したものは、誰もが。
「サブリーダー3より報告。敵チューリップ予測地点に到達。作戦開始を要請」
「リーダー、了解。作戦、開始!!」
 今にして思えば、彼らの着ているものはパイロットスーツとはかけ離れていた。そう、管制官の誰かが思ったときには、既にそれは行われた後だった。

 居住地から離れた火星の荒野に、激しい熱量と熱、光を発生させながら巨大な雲が発生していた。その中心にいたチューリップは光が収まったとき、単なる丘と化していた。
 そう、チューリップの恐怖は既に「核」の使用を彼らに決意させるほどだった。


 生きるための熱情が狂気に変わるのに、時間はかからなかった。
 正気を保つのも難しい中、しかしその正気を保った者も多い。


 食事によって栄養、つまりは生きるのに必要な物が補給できるのはなぜか。
 それは材料になったもの、動物植物問わずに彼らが生きるために必要とし、体の中に蓄えている物が、人間が必要とする物と同じだからだ。
 なぜか。それは彼らの中にある細胞そのものに起因する。つまり、最も根源的な遺伝情報。DNAを保持するための、心臓を含めた筋肉を保持するための、等々。
 それらが必要とする物質は地球上、ほぼすべての生物が一つの系統樹に含まれる以上は動物植物問わずに同一ということになる。
 しかし火星は地球ではない。
 地球の植物が必要とする栄養素は無く、それを食う家畜もまた貧弱なもの。テラフォーミングの限界とも言える。所詮、ここは地球ではないと。
 味覚は栄養にも影響する。育成の不完全な食物は味も貧弱だと。ここに、火星の食物はまずい、という図式が出来上がった。
 長くなったが、以上の理由から火星では意外と調理にこだわるものが多い。

 地下シェルター。
 ユートピアコロニーに存在するここは日系人が多く、ここで味噌汁を作ろうが問題に思うものなどまずいない。
「アキ君、そっちはどう?」
 お玉で寸胴をかき混ぜながら、軽く味見などをする。
「味噌を加えたからね、後もう一煮立ちってトコ。フミ姉の方は?」
「魚はもうちょっとで焼けるよ。でも塩ふっただけで良いの?」
 焦げる臭いが、良い匂いとして広まっていく。
「下手に弄る必要は無いからね」
「……良し。隊長、こっちは炊けました」
 そう言って飯盒をかきまぜるトウヤ。熱気にやられたのか、しゃもじを持った手を空気にあてる様に振り回している。
 何十人もの人間が、いやほかのブロックを含めれば何百人という人間がこの地下での生活をしていた。彼らパイロット三人も、ここで他の食事当番の人間に混じって働いていた。

「しかし…テンカワさん、和食関係うまいですけど、一体何処で習ってたんですか?」
 たまにこんな質問が飛ぶほどに。
 しかしアキとはただこう返すだけだった。
「いつか、料理屋を出したいんですよ。だから今度習えるなら、中華料理も良いかな、なんて思ってます」
 と。
 それは誤魔化すための物だったかもしれない。しかし、希望に満ちた夢を語る目だった。
 きっと、見た人に希望を与えるだけの光を持った。

 そう。
 戦いと日常が同時にあるこの火星。
 誰もが、どちらにも精一杯生きていた。

 そして同時刻。
 地上とはまった区別の姿を見せる、光の全く届かない地下。
 人口の光のみが照らす、本来なら人など来れるはずの無いほどの、はるかな地下。
「……フレサンジュ博士、あなたが俺を呼んだのはこれを見せるためか」
「そうよ。迷ったのだけど、あなたならこれを動かせるかもしれない。そう思ったから」
 視線を迷わせるイネス・フレサンジュ。その向こうに、黒い龍が立っていた。
 龍の足元にはいくつにも散乱した、巨人たちの屍。その中には龍馬がテンカワ邸の地下で見た異形の手足、それに酷似した物も多い。

 そしてイネスは断片的に語った。
「誰が発見したのかは記録に残って無いわ」
「でも誰かが発見したからここにある。誰が作ったのか分からないロボットと、残骸」
「残骸と当時の最先端技術、いえ現在の物さえ凌駕するオーバースペックの結晶、EX」
「そしてその奥に一体だけあった完全な一体。発見者はそれを<龍皇>と名づけたわ」
 ただ龍皇は、そこにあった。
 ただ虚空を見つめ、しかしその目に間違い無く彼らが映っている。

「俺にこいつを使えってのか?」
「そうよ」
 深い苦悩を見せ、しかしイネスは短く、そして的確に答えた。
 そして龍馬の返した言葉もまた、端的だった。
「分かった」

 この後、記録によれば龍馬は龍皇とともに戦い、命を落としたとある。
 しかしともに遠征に出向いていたアキトからは「自分をかばった所為だ」としか言葉は無く、何事があったのか、龍皇の左半身は心臓部であるコクピットを含め、大きく抉り取られていた。
 この時から龍皇は深い眠りについた。
 自らの傷を埋めるため、そしてより強大な存在になるために。

 

あとがき

 ようやく過去編が終わった。
 これでようやく本編が動かせる……。
 途中で<灰>を何回もはさんだから、書いた日付を見ると凄い事になっているな……八月中、<黒>は一回も更新してない。

 さて。
 今回の話はプロローグ後半の大体一ヶ月前までといったところです。
 最後のところが尻切れトンボなのは「見せられない」からです。これからの内容に抵触するので。

 次は本編第九話。
 北極海での戦いと、研究所の強襲!

 

 

 

 

代理人の感想

 

ああっ、なんて無情な引き。

真相は龍皇復活までお預けですか(爆)?