機動戦艦ナデシコ <黒>
 西欧編第一話 日常ならざる日常の始まり。


 ガシャァァァンン……ボォォォォォォォォォォ……キキィ!
 エステバリスの腕が落ち、床に叩きつけられ、資材を運ぼうとしていた車が急ブレーキを踏んだ。ドライバーは無事だったが、拍子で飛んできた欠片がフロントガラスに大きな傷をつけている。
「おら手前等何やってやがる!!」
 途端に凄まじい怒声を上げたのはウリバタケである。
「そんな事言ったってウリバタケ班長、エステバリスのマイナーチェンジ四機にEX(エグゼクティブ)級二機の調整なんて!! もう目一杯なんですよ!?」
「それがどうした!!」
 泣き言を言った男に、今まで以上の声が飛んだ!!
「俺達はパイロットどもの、ひいてはこの船の人間達の命を預かってんだ!! 出来ないじゃ通じねえんだ!! 分かったらさっさと始めやがれ!!」
「はっ……はいいいいい!!!」
 言われ、男たちは慌しく作業を再開する。無論ウリバタケも手を休める事は無い。
 だが、そんな彼に声をかけるものがいた。
「はっはっは、ウリバタケさん、精が出ますな」
「……迷惑をかける」
「プロスさんにダンナか。仕方ねえだろ? ウチのメンバー、かなりの数カグヤの試験飛行の為に出張っちまってんだからよ。しかし何なんだ、あのカグヤって艦は。またネルガルが何か企んでるのか?」
「それは企業秘密ということで」
 答えている事にならないだろうか。この彼の台詞は。
「企業は利益優先。抱える社員の事を思えば、それもまた正しいだろう」
「それはそうだけどよ……にしてもダンナの重砲戦、本当にあんなスペックで再生しちまって良いのか?」
 プロスペクターを擁護するシュウエイの言葉に納得と、否定するものを同時にぶつけられてしまう。
「ああ。……本来あの機体は、EX04<ジェノサイダー>として組上げられる筈だったからな」
「04ですか?」
「……じゃ、02と03は?」
「03はチューリップの中に消えた。サルベージ手段も無い。02は……すまないが……」
 答えは、沈黙だった。彼が押し黙るなど、そうあることでは無い。
「しかしまあ、艦長たちもそうだが……テンカワたちは今何やってんだろうな」
「きっと大暴れしている事でしょうね」
「違いねえ」
 そう言って、彼らは笑っていた。
 だが、それが今現在、実際に起きているとは想像もしていなかっただろう。

 床に倒れた、いや倒されたエステバリスのコクピット。
 引きずり出されたパイロットは恐怖に染まった目で、片腕一本で自分の体を宙吊りにする東洋人の、余りに深く、黒い瞳に呪縛されていた。
 その東洋人の名は、テンカワ・アキトという。



 一日前。



 バン!!
「これは私が自分で選んだ道なの!! 何でお父さんもお母さんも分かってくれないの!!」
 テーブルを叩く音が響き、怒声と共に僅かに浮き上がりさえする。
 怒鳴っているのは…美人と呼んで差し支えないほどの少女…いや女性。銀色の髪をなびかせて、だが顔を紅くして本気で怒っている。
「そうは言っても……あなたは女の子なのよ……」
「ああ。父さんの…祖父の七光りだ何て言われたくは無いだろう?」
「私は実力でここまで来たのよ!!」
 激昂し立ち上がる。
「私はもう子供じゃない!! 私は白銀の戦乙女アリサ・ファー・ハーテッドなのよ!!」
 そう言い放つと、彼女は背を向けて飛び出した。
「待ちなさいアリサ!! ……なんであいつは……分かってくれないんだ……父さんはあの時母さんを……」
「あなた……まだお父さんの事を許せないのですか……?」
「……すまない……」

 アリサはベッドの上に自分の体を投げ出し、枕をバンバンと叩きつける。
「まったくもう!! 父さんも母さんも何で帰ってくるたび「軍を辞めろ」「見合いしろ」「結婚しろ」……なんで姉さんに言わないのに私にばっかり言うのよ!?」
「でもお父さんたちもあなたを心配しているのよ」
「でも姉さん……」
 姉さん、と呼ばれた女性は彼女と非常に良く似た容姿をしており、しかしこちらは髪の色が金色である。この二人は双子の姉妹であり、金の髪を持つ姉の名はサラ、銀の髪を持つ妹の名をアリサと言う。
「けどアリサ、今度そこの基地に転属したんでしょ? で、ご飯がおいしくない。だから家に食べに帰ってくる。そのたびに父さんたちに言われる」
「…うん」
 真実は「家族を守りたい、家族の近くに居てあげたい」と転属を上申した結果である。だがそれを言うのは気恥ずかしい。
「それが嫌なら自炊を覚えないと駄目じゃない」
「……姉さんだって出来ないくせに」
「……」
 沈黙は、肯定の証だった。
「ま、まあいいじゃない!! それよりもアリサ、友達から聞いたんだけど、今度港の方でおいしいレストランが出来たんだって、行ってみない!?」
「私はいいや、休みは今日だけだもの。姉さんもたまには一人でゆっくりしてきなさいよ。ね?」



 青い空、白い雲。
 日本ではありえないほどのコントラスト。
 ここはヨーロッパの片田舎にある倉庫街。
 幹線道路と港のすぐ側にあるからか、人も物も、各地から集まり、各地へと去っていく……そんな場所。
 時折カモメの鳴き声が聞こえるようなこの場所で、芳しい匂いが漂っていた。
 倉庫街の一角、それこそトラックのためのロータリーのある一等地の前にそこはあった。
『多国籍料理ゆ〜とぴあ』
 この名前に隠された本当の意味を知る者のいない街で、そこはごく普通に客に料理を提供していた。
「アキト! 次スパニッシュオムレツ三つ!!」
「アキトさん、ボンゴレ二人前です!」
 ちょこまかちょこまかと小さい頭が客達の中を走り回っている。
 そしてその脇に、丸いものが短い手足で走り回っている。大きさは…50センチは無いだろう。白い、金属のボールのようなものに短い手足と踵の所にキャタピラがついている。正面にユーモラスな顔が描かれているあたりが楽しい。
「分かった。フミ姉は卵のほうを頼む!! トウヤはスパゲティを茹でてくれ! 俺がその間にソースを作る!!」
 言いながらもアキトは既に材料を冷蔵庫から取り出し始めている。
「分かりました!!」
「良いよ♪ じゃラピちゃんとハーリー君はお水出してきて! ダッシュはそこのパエリア、7番テーブルに!」
<了解♪>
 トウヤとフミカもそこら辺は心得たものでテキパキと動き始める。
 彼らが食べ物(材料)の不味い火星で育ったのは伊達ではない。普段食べるものを作るようになるだけで十分な鍛錬になるほどな環境だったのだから。
 もっとも、アキトのすぐ側には二人ほど「例外」がいた事も事実だが。
「分かりました!」
「出してくる!」
 そしてハーリーとラピスは先を争うかのように水を注いだコップをトレイに載せ持っていく。
 ただイマイチ、ラピスの言動が幼く感じられるものの、それも少しずつ改善されつつある。元々賢い少女だ、人と触れ合う事で飛躍的に普通の人間の中に溶け込んでいく。
 ダッシュと呼ばれたボールも振動を与えないように、キャタピラを使って完全な水平を保って料理を配っている。
 戦争も何も無い、ごく普通の景色だった。
 年相応の、笑顔が映える様な。

 しかし、そんな時間は過ぎるのが早い。
 本当に僅かな時間だけしかない……悲しいほど、僅かな。

「やめてください!!」
 ガシャン!!
「きゃあああああああ」
「君、やめ…うわああ!?」
「うるせい!! 引っ込んでやがれ!!」
 バキィ!!
 激しい音と、悲鳴が聞こえてくる。
「大変ですアキトさん!!」
「アキト、まただたよー」
 慌てて厨房に駆け込んでくるハーリーと、いたずらっ子そのままの笑顔で駆け込んでくるラピス。このあたりフミカの影響を受けたラピスと、トウヤの不幸っぷりを学んでしまったハーリーの差であろう。
「……また、か。懲りないな」
 そう言いながらも、取り敢えずは外に出る。潮の香りが心地よい。
 ただ海の近くだからこその爽やかさの向こうで、酒の匂い―それもタチの良いものではない―が漂ってくる。原因は十人近い、軍服を着た男達。一様に赤ら顔で迫ってくるあたり、かなり見苦しい。特に一番前のヒゲ面の男など、右手にIFSタトゥーを自慢げに晒したまま酒瓶を持っている。
「や、やめてください!!」
「おいこいつ見ろよ! あの生意気なクソ女そっくりじゃねえか!!」
「おお、見せしめだ、やっちまいな!」
 男は近くの客に絡み、酷い者に至っては女性客を昼間から、人の目のある場所で辱めようとさえしている。
 ゴン!!
 そんな男の顔に、まだ赤いフライパンが突き刺さり、笑えそうなくらい地面をごろごろと転がる。
「Yes!」
 ふと見てみればフミカがガッツポーズを取っている。素晴らしいほどの強肩だ。
「お客さん、止めて下さい。他の方にご迷惑ですよ」
 既に一撃食らわせた後の台詞ではない。周りにいる客も迷惑そうだが、逆に期待するもののある目で見ている。
 そこをアキトは特に何するでもなく中央を堂々と歩き、肩を震わせている女性にコックコートを脱ぎ、着せた。整えられていた金色の髪が乱れている事に、軍人の意識そのものに憤りを感じた。
 手が肩に触れたときに女性が恐怖からかピクリとなるが、アキトの優しさを感じさせる顔を見て僅かに赤い顔を見せる。
「ちょっと待ってて下さい、ゴミ掃除しますから。その後でお茶でもおごりますね」
「……はい」

「……アキ君、天然ね……」
「でもどうせ気づかないんですよ? 火星でだって一体何人あの天然さに敗北したと思ってるんですか?」
 などと言う二人もいる。
 これには逆に年少の二人が危ぶんだのか、二人に声をかける。
「トウヤさんもフミカさんも加勢しないんですか?」
「しないの?」
「…あの程度の雑魚に? いいわよ面倒くさい」
 と、本気で面倒そうな表情を見せるフミカ。
 これには子供達のほうが逆に目を丸くしてしまう。
 対してトウヤは。
「……僕の場合、再起不能が前提だから」
 と、手袋越しに義手である左手を見せる。わざとらしく、モーター音を大きく響かせて。
 ハーリーもラピスも、この二人にはまだまだ及ばないようだ。もっとも、及んだときは空恐ろしいが。

 だが、酒の回りきった酔っ払いにはそれも意味をなさない。
「あ? てめーがテンカワか?」
「初対面の人間にテメエ呼ばわりされるような事をしたつもりはありませんが、そのテンカワです」
 と、にこやかな顔でぬけぬけと、棘だらけな接待をする。
「ひっく……いいか? 俺達はな、体張って街を守ってんだ。それをテメエは俺達の仲間を殴りやがったんだ……許せるか?」
「許せねえ!」
「軍人に逆らったバカに制裁を加えてやれ!」
「やっちまえ、俺が許す!! このヨハン様がな!!」
 自分を様付けで呼ぶこの男、ヨハンと言うらしいが程度は低い。そう判断した。
「だとよ。詫び入れても許してやらんから、さっさと……死に…ぐばぁ?」
 ヨハンはその声と共に酒瓶を振りかぶり、次の瞬間、顔に突き刺さっていた。ただし、ヒゲ面の中央に。
 無論アキトにヒゲなど無い。(別に変な理由でなく、まだ産毛程度と言う事)
 挑発するかのように、無論そのつもりで声をかける。
「人を殺そうとしたんだ。この程度の覚悟はあったんだろ? お偉いお偉い軍人さん?」
 酒瓶の、顔と反対側に何時の間にか添えられた足を引き戻しながら、何が起こったのかわからない男達に笑って見せる。
「で? お次は?」
「う、うわあああぁぁぁぁぁ!!!」
 その声が引き金となったのか、男達はそれぞれ武器を手にアキトに襲い掛かった!
「死ねええええええ!!!!」
 ある者は警棒を。
 ある者は椅子を、テーブルから皿を。ナイフを、フォークを!
 だが、武器と言うものはあくまで手の延長に過ぎない。
 アキトは何も気にせず踏み込み―酔った男たちが逆に引くほどの―神速の拳を振るった。
 ゴギィ!!
 幾つもの音が、一瞬で聞こえた。
 男達は一様に腕を―手首、関節―を抑え、聞き苦しいうめき声をあげている。
 ただ残ったのは、哀れにさえ思えるほど急所を外されながら気絶できない程度に手加減された事を知らず、本当にぼろぼろになるまでケタグリされた男たちであろう。
「あ。……ああ…」
「貴様……こんな事してただで済むと思うなよ……」
「思うわけ無いだろ? あんた等こそ、自分達の立場を弁えな」
 周りにいた客達も引き気味ながら、敵意をあらわに男達を見ていた。
「く、くそ……お前ら、帰るぞ!!」
「ま、まって下さいヨハンさん!!」
 下らない捨て台詞を吐き捨てて、行きがけの駄賃とばかりにテーブルを倒しながら逃げ出す男たち。
 だがそれで気を悪くするものなどいない。
 むしろ客達はそれこそ祭りのように盛り上がったのだった。

 深夜、日が変わろうとした頃。
 翌日の仕込みを終えたアキトがそこで見たものは、放火しようとする男の姿だった。顔に覚えは無いが、顔の真ん中についた足跡には何となく見覚えがある。
「貴様ッ!」
 追おうとしたが、しかし火が燃えはじめるのを見ると諦めざるを得ない。
「…くっ…ダッシュ! 急速冷凍弾を!!」
<今、いっきま〜す>
 アキトの叫びが聞こえたのか、キャタピラでドリフトしながら迫るダッシュ。口の部分が開いたかと思うと、小さなカプセルを取り出し、それをそのまま火の中に投げ入れた。
 ぱひゅ!
 間の抜けたと言っても構わない音がした。
 瞬間、炎がまるで凍ったように動きをとめ、ガラス細工のように砕け散った。
「……こりゃ、塗りなおさないと駄目だな…」
<そだね。この状態じゃお客さんが怖がるだろうし>
「取り合えず朝になったら警察呼んで、塗り直すのは明後日だな」
<じゃ、ペンキ注文しとくね>
 何しろここには、この倉庫には砲戦改を始めとしてエステバリスが三機。もし通報されて誰かが倉庫内に点検に入ればバレる可能性は高い。今はまだ、時期尚早だ。
「……明日の午後は臨時休業だな」
 アキトの顔には、苦いものが広がっていた。


「あれ? ……今日はどうしたんですか?」
 何所と無く着飾った、それとも余所行き用に整えたというべきか、昨日の女性がやってきた。
 その女性は何所と無く緊張した面持ちであたりを見渡すと、
「ああ、あなた確か昨日の?」
「はい、お礼を言おうと思って……申し遅れました、私、サラ・ファー・ハーテッドと申します」
「あ、あたしはサクラバ・フミカ。で、昨日あなたを助けたのがコック兼オーナーのテンカワ・アキト。今は外出中だけどね」
 そう言って、席を勧める。
 サラはある意味居づらそうにあたりを見渡し、それでもフミカに尋ねる。
「その、アキトさんは、何時戻られますか? 昨日のお礼をあって直接申し上げたいのですが」
(……こっちの人間って、案外大胆なのね)
 などと、サラに対する人物評がフミカの中で固まっていたりする。
「あの、今日は?」
 端のほうではラピスとハーリーがコンピューターに向かいながら一喜一憂している。二人とも横に置いてあるクリームソーダのアイスが溶けるのも気にせずに熱中しているあたり、きっと楽しいゲームでもしているのだろう。
 そう考えるサラには、きっと「知らぬが華」という言葉が似合う。
「ああ、これ? アキ君が午後から急用が入ったって行っちゃって、仕方ないからティータイムにしてるのよ。サラちゃんもどう?」
「それじゃ、いただきますね」
 そう言いつつ彼女はティーサーバーに手を伸ばした。今ごろアキトが何をしているのかなど知らずに。

 フミカも、あたりを何となくだが、見渡した。
 ポツリポツリと優雅にティータイムを取っている客、笑っているラピス、へこんでいるハーリー……そこまで見て誰かが足りない事に気づいた。
「そういえばトウヤ……ねえラピスちゃん、ハーリー君、トウヤがどこに行ったか知らない!?」
「知らない。ハーリーは?」
「倉庫に行くって言ってましたよ。何でも今のうちに組み込んでおきたいシステムがあるそうです」
「あ、昨日ウリバタケさんがテストしてくれって送ってきた?」
「うん、それ。イネスさんとルリさんが共同で作った新プログラムらしいけど?」
 倉庫の中にあるのは大型冷蔵庫と厨房……そして。
「…トウヤさん、と言う方はコンピュータでもされているのですか?」
「うーん…ま、コンピュータ、って言えばコンピュータだけどね」
「?」
 フミカは珍しく、アリサの素朴な質問に答える事が出来ないからか…言葉を濁した。


 一台のバイクが止まった。
 ヘルメットを置き、歩き出したのは―東洋人である事を考慮しても―まだ若い青年だった。
 普段のシャツにスラックス、そしてエプロンと言う姿ではなく。アキトは黒のトレーナーにジーンズと言うラフな格好で軍基地に現れた。腰には皮のホルダーにコンバットナイフが挿してある。握るには僅かに大きな柄、それは高周波振動と言う細工がしてあるからだろう。
 そして色めき立つ男達を前に一睨みすると、近寄る事さえできない彼らを尻目にまっすぐに歩き出した。
「昨日俺に顔を蹴られた男がいるはずだ。…何処にいる?」
 礼儀の必要性を感じず、自らの敵意を隠そうなどと考えずに周囲を睥睨し、アキトのかけた言葉に返ってきたのは心底怯え切った声だった。
「こ、ここが何処だか分かって言ってるのか!?」
「当たり前だ。知らずにどうしてここに来ると言う」
 僅かながら、心が冷め、代わりに体が熱を持ち始める。
「お、俺達はこの街を守っているんだぞ! その俺達が怪我をしたら、街がどうなると思っている!」
「変わらない。少なくともお前達が暴れ回っている以上は」
 まっすぐに歩く。
 脅え、息を殺している「そいつ」のいる場所に。
 だが、脅えきった男たちの前に、そして悠然と歩くアキトの前に一人の男が立ちふさがった。
「待ちな」
「か、カズシさん、そいつ……そいつを止めてください!!」
 エステバリスの足の裏側から抜けているのか腰を床にぺたりと降ろしたまま大声を上げる顔に傷のある男。
「待つ必要など無い」
「坊主、軍人に喧嘩を売るなんて考えないほうが良いぞ。何故かと言うと……こういう目に遭うからな!」
 ビシュ!
 カズシの拳が空気を切る音が響き渡る。だがそれがアキトに当たる事は無かった。

「……ほう、やるな」
 そう言いながら男は笑った。
「カズシのあの攻めに掠りさえしないなんてな」
 その言葉どおり、カズシの拳は全く掠りさえしない。だがそれ以上におかしな事がある。フェイントに反応しないのだ。そして本命だけを必要最低限でかわしている。
 予測して動いてなければ間に合わない。しかし違った。アキトは動きをみて―診て―かわしていた。人の領域の外の能力で。
 そこで新たに騒ぎの現場に駆けつけてきた人物が止めに入った―アリサだ。
「シュン隊長! そんな、見てないで止めてください!!」
「アリサ君か。いや、その必要は無いだろう。相手はただの暴漢だしカズシは腕っ節ならこの基地一だ」
「違います、逆なんです!!」
「……逆?」

 パシィ。
 カズシの拳が当たったか?
 いや、そうではない。
「軽いな」
「な……く、くそッ!」
 カズシの拳はアキトの手の中に。そしてそのままギリギリと言う音が聞こえてくる。
「……き、貴様?!」
「アンタがどれだか偉いが知らないが、ここの基地の人間が街でしていることくらい知るべきだな」
 手を握りつぶすかのような体勢から軽く腕を振った。
 ズドン!
 ただそれだけでカズシの2メートル近い巨体がぐるりと回転し床に叩きつけられる。
「くぁっ?! ……貴様……一体何をするつもりだ……」
「別に。放火犯を引き渡してもらおうと思っただけだ」
 カズシへの答えに、空気が固まった。

「放火犯!? ヨハンがか?」
「……はい。あの人……「ゆ〜とぴあ」っていうレストランの人で、昨日放火されてその犯人を警察に突き出すんだって、ここに来たそうなんです…さっき姉さんから電話で聞いて……」
 慌てたのはシュンである。自分の部隊から放火犯が。いや食料店ということならプロパンガスの備蓄も。どれほど被害が広がるかわからない犯罪を犯そうとしていたというのだ。
 正確に言えば、少なくとも「威力業務妨害」「婦女暴行未遂」「殺人未遂」が加わるのだが。
 一息吸い、精神を落ち着け彼はアキトに向かって踏み出した。
「それは真実なのか?」
「……ああ。今ごろは監視カメラの映像で警察が動いている頃だ。こいつらの今までの悪事とともにな」
 今までの、にアクセントがある。
「なら何で君がここに居る? 警察に届けたのなら任せておけばいいだけの話じゃないか」
「……それはこいつらの諸行を知ってから言う言葉だな。知っていればそのような言葉は出ない」
 思い当たる事があるのかシュンは口をつむぐ。
「それなのになんで警察が出る事もなく街中で暴れてられるんだ?」
 だが、事態はそれ以上に最悪だ。

 僅かに一メートルほどバックステップする。
 シュバァッ!!
 ゴォン!!
「エステバリスだと!? 何所のバカが!!」
「アンタんトコのバカ(部下)に決まってるだろうが!! 大体あの扁平ヅラ、何所に消えたと思っている!!」
 血迷ったか、エステバリスはワイヤードフィストを地面に、正確はその一秒前までアキトの居た場所に打ち込み、もう片方の腕も打ち込もうとする。
「逃げろ、少年!!」
 叫ぶシュン、しかしアキトは左手を腰の後ろに回し、一気にナイフを引き抜いた!!
 チャリン!
「な!?」
 軽い鈴のような音が響き、次の瞬間甲高い音を立てて――轟音と共に飛来した機械の腕を――正確にその弱点であるワイヤーを切断した。
 異常としか思えない技を披露しつつアキトはきわめて冷静に言い放った。
「罪状追加。殺人未遂だ」
 ナイフを右手に持ち替え、挑発するかのように切っ先を向けた。
「今なら半殺しで済ませてやる。降りて来い」
「ふざけるなああああああ!!!」
 片腕を失ったエステバリスが人とは比べ物にならない巨大な体と力を振るわんと駆け出し、残った右拳を振り上げる!!
 だがアキトは嘆息した。
 軍人と言うものの余りの愚かさに。
「バカな、逃げろ少年!」
「逃げてください!!」
「やめるんだ!!」
 幾つもの悲鳴の中。
 ただアキトは、迫ってくるエステバリスを、右に跳躍するだけで、かわし、切りつけ、左足を殺した。
 ゴゴンン!!!
 頭部、いや顔からコンクリートの地面に突き刺さるように転倒する。
「分かっただろう。エステバリスはあくまで使用者の能力の延長。お前の腕では、俺を殺すのは不可能だ」

「つ、強い……って、カズシはどうした!? あいつ、フィストの着弾点のすぐ脇に居たはずだぞ!!」
「シュン隊長、こっちです、カズシさんは無事です!!」
 余りの事に、一時的に忘れてしまったカズシの安否。破片を浴びたからか、多少の傷はあるようだが無事だ。
「しかし、あの青年は一体何なんだ? 生身の人間がエステバリスより強いなんて聞いたことはないぞ!?」
「ヨハンだってアリサさんに勝てないって言ってもこの基地じゃエースなんだぞ!!?」
 そこで名を呼ばれたアリサは魂の抜けたような表情で呟いた。

「貴様、…貴様、黄色いサルの分際で!!」
 残った右足と右腕で立ち上がろうとした瞬間、エステバリスは動きを止めた。それどころか、全身から力が抜けたのが傍目にも分かる。
「活動限界だよ。戦場でもないのにエネルギー供給ラインがあるわけは無いんだからな。……後もう一つ。人種差別出来るほど上等な人間じゃないな、お前は」
 アキトは殊更ゆっくりと歩き、装甲に設けられた整備用の外部コントローラー―外部からのコクピット開放スイッチ―を探し出すとヨハンを引きずり出した。
 ただ腕を掴んでいるだけ。
 なのにヨハンは指一本動かす事が出来ずに居る。
 いいところ軽量級のアキトはそのままヨハンの体を腕一本で持ち上げると、基地に居る人間全員に聞こえるように言い放った。
「軍人の仕事は人を守る事。人とは自己であり他者」
 脳裏にあるのは、言葉通りに生き、そして死んだ男達。
「お前は何のために軍人となった? 何故戦う? 何を望んでいる?」
 戦争を嫌い、しかし力を持ち、平和を望み、戦いに散った男達。
「それに答えられなければ、お前と言う存在に価値は無い」
 そう言い、男の体を投げ捨てた。
 何所にそんな力があったのか恐ろしくなるほどに、ヨハンの体は水平に5メートル以上飛び、地面に落ちてからはさらに10メートルは転がった。
「そして、お前達はどう考える?」
 深く、強い問いかけだった。
 落ちる静寂。
 だが思考の海に揺らぐ時間など無い。世界はさらに加速する。
 ビィーッ! ビィーッ! ビィーッ! ビィーッ!
 鳴り響く警報!
 今それが意味する事はただ一つ!!
「木星蜥蜴……まさかチューリップか!?」
 そして慌しくなる基地!!
 アキトはコミュニケを取り出すと叫んだ!!
「トウヤ! 出来上がってるか!?」
『今インストール中!! 後38分かかります!!』
「今から戻る、用意してくれ!!」
『って、慣らしもせずに使う気ですか!?』
「そう言うことだ!!」

「フミ姉、大変だ!! 無人兵器が動き出した!!」
 トウヤが、滅多にないことだが大声で叫んだ。
 だがそれで慌てたのは言われたフミカよりも、横で聞いていたサラのほうであった。
「それは本当ですか!?」
「ああ、こっちに向かっているって……あなたも急いでシェルターに!」
「いえ、私は家に……両親を探さないと!」
「……ではこうします。私はサラちゃんを送っていくから、トウヤは「あれ」をアキ君に渡してください」
 手に取るように狼狽するサラ。だからこそかフミカは彼女を送っていく事を選んだ。もっとも、いまだ調整中の彼女の「相棒」を使う事は出来なかったが。
「でも、今キャリアを動かせるのは僕しか……」
「これは命令です。あなたは非戦闘員二名を連れ隊長に機体を渡しなさい。……もう、あんな物は見たくないから」
 一時的に昔の、火星での言葉を使ってしまったフミカ。そしてこれから起こる事を想像し、思い出し、深く悲しんだ。
「……了解」
 きびすを返し一直線に倉庫に入って行くトウヤ。
 だが余計に混乱したのはサラであろう。
「え? あ、あのフミカさん、トウヤさん、一体何がどうなっているんですか?」
「サラちゃん、今は言っている暇は無いわ! とにかく車を回すから待っていて!」

「行くよラピス!」
「う〜〜バニラが〜〜」
 端末を閉じて倉庫へ向かおうとするハーリー。だがラピスは走りながらも半ば溶けたクリームソーダのほうを見ていた。
 そして倉庫の中に入った途端に。
<遅いよ二人とも>
 そう声をかけるモノがあった。者ではなく、物。しかし限りなく者に近い存在の声が。
「ダッシュ、トウヤさんは?」
<一号車の中。三号車を直結させているところ>
 本体がここにない事、そして専用端末の重要性、人格AIを持つことから教育の重要性を考慮しての自立型の、しかし悪用される事(ウイルス感染含め)会話形式での端末を作る事にしたのだ。
「インストール終わってるの?」
<砲戦改は何とか。でも調整してないからノーマルモードじゃないと危ない……かな>
「取り合えず危ないからダッシュはいつでも回線を閉じられるようにしておいて。僕らはフィールドのあるキャリアの方にいるから!」
 なまじなシェルターよりも、戦場へ行くほうがむしろ安全とはかなりな皮肉である。


「回せないな。この基地が落とされるようなことがあれば、周囲一帯の地域に被害が及びかねん」
 そう言い放つ上司に、政治家モドキの軍人に一発叩き付けたい衝動を抑えながらもシュンは冷静な、いや氷の如く冷たく冷えた心で言い放った。
「では我々は独自の判断で動かせていただきます。無論あなたに何かいわれる理由もありません」
 シュンの脳裏に先ほどの言葉が蘇る。
『お前は何のために軍人となった?』
(そうだ、俺が軍人になったのは、守りたい人が居たからだ。あいつなら、生きていればきっと俺を叱り付けるだろうな)
 もう、迷いは無い。
「下らん。上官の命に絶対服従。それ以外に君に仕事は無いよ」
「我々は軍人の職務を全うするだけです。もし邪魔をすると言うのであれば軍への反逆行為を働いたとして、あなたを告発します」

 全てを覚悟した上での、シュンの心が込められた強い言葉だった。
「……覚えておけ」
 上官は、威厳もなく、悪党そのものの顔でそう吐き捨てた。


「上司の言質は取り付けた! 俺達は今から町へと向かう事になる!!」
 宣誓する様に。
「隊長、しかし……街はもう……」
 そこかしこに包帯を巻いたカズシが悔しげに言葉を漏らす。
「それがどうした!!」
「俺達は生存者が一人でもいる限り、希望がある限り行かなければならないんだ!!」



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