――それは、夢の様な日々でした。

戻れぬと知りながら、それでも夢想し、虚しさに狂いそうな時に見た夢。
戦艦でありながら軍とは正反対のナデシコ。
そこで馬鹿騒ぎをしていた日々がどれほど素晴らしいものだったのかと手遅れになった時に気づいた。
『ナデシコの時』という宝石を投げ捨てたのは自分。
死に蝕まれ続ける身体を奮い起こし、屍を踏みつけ、ただ祈っていた。
なにを願ったのか、なにに祈ったのか、それすらも分からないというのにずっと、ずっと祈っていた。
そんな時の中でも救いはあった。
どれほど己が変わり果てようとも、変わらず傍にいた青年が。
だけど、

(だけど、今はいない……)

久しぶりに見上げた空は蒼く澄んでいた。
このまま見上げ続けていればこの蒼に溶けてしまいそうな気がするほどに蒼い。
だが、その色はなによりも胸を締め付けた。
それは彼を――彼の機体を連想させる色だから。

「乾いていく……」

傍らにたった一人いないだけでこれほどまでに心が乾いていく。
酸素を求めるようにアキトは喘ぎ、空を見上げ続ける。
破ったところで己も、万人も責めはしない約束を守り、戦い続けた彼を幻視するかのように。
馬鹿げている――そう、思う。
もはや言葉を掛けてやることすら不可能な自分との約束を守り続けた彼が。
あまりにも馬鹿げたその行動に、ただ、涙が溢れそうになる。
その、行動が嬉しくて。その、行動が哀しくて。その、行動が……。

「本当、馬鹿な奴だ……」

泣いているようで笑っている、そんな表情をアキトはする。
ほんの少し、胸を締め付ける想いが弱くなった気がする。

――西欧の空は変わらず蒼かった

 

 


 

 

西欧に来た初日に手荒な歓迎を受けたアキト。
手荒な方法には同じく手荒な方法で。
掴み掛かってきた副官を投げ飛ばし、何者にも関わる気はない、と雰囲気で表し格納庫を去ったのだ。
それがベース内に広まり、三日過ぎた今でもアキトに話しかけるものはいない。
アキトもそれを良しとし、一人で、独りで餞別として贈られた黒いカラーリングの施されたエステを整備している。
キッ、とボルトを締め終え、装甲を戻す。
タオルで手を拭い、一つ息を零す。
漸く整備が終わったからだ。
流石に一人でエステの整備を するのは骨が折れると言ったところか。
かと言って、二つの理由で誰かに任せる気になれなかった。
『軍人』というものが信頼できないのが一点。もう一点は、この機体の外観がジュデッカにそっくりという事だ。
恐らくはシンジが動いていた時の記録より模された物だろう。
そのスペックは比較にならない程に低いが、それでもこの姿をした機体を信頼すらできぬ『誰か』に任せる気にはなれなかった。

(くだらない感傷だ……)

自分自身そう思うが、それが偽らざる気持ちでもある。
苦笑を浮かべて黒い機体を見上げるアキト。
鋼鉄の巨人は当然何も語り掛けてくる事など無い。
代わりに――という訳でもなかろうが、アキトがこのベースに来て以来、初めての警報がなった。

 

 

「アテンション!!」

シュンの声が斑に座る者達の耳朶を打った。
以前は斑などではなく、黒山の人だかりとも呼べたが幾度もの戦闘の果てにそうなったのだ。

(随分とこの部屋も広くなった)

その事に哀しさを憶えるが、シュンはその感情を押し隠してそれぞれを見回す。
誰も彼も見知った顔だ。
この中の誰一人としていなくなって欲しくなど無い。
気に入らない奴がいないと言えば嘘になる。
それでも誰一人として居なくなって欲しくなど無い。
だが、これから話す内容はその気持ちを裏切るものだ。
暗鬱とした想いを抱きながらシュンは口を開き始めた。

 

 

厳しい表情をしながら現在の状況を説明するシュンをアキトは静かに見ていた。
一人だけ、気楽そうに壁に背をつき腕を組みながらだ。
それを苦々しく思うの者は多いだろうが、口にするものはいない。
どうせこの戦闘で死ぬから、と思っているからだ。
ならば、今この時だけでもそのふざけた態度を許してやろう、というわけだ。
アキトはこの場を支配する雰囲気に気づいているのかいないのか、やはり黙然としている。
シュンの説明は無論、理解している。
チューリップが4、動き出している事も。
その進路上に街がある事も。
絶望的な数字だ。たかが4つのチューリップより吐き出される無人兵器が。
万にも至るその数が。
未だエステバリスは全ての戦場に行き渡ってはいない。
行き渡っていても数の暴力に押し潰される。
それ故に絶望した表情が彼らを彩っているのだ。
説明が終わる。志願制を取るシュン。
――ざわめく室内をアキトは後にした。

 

 

薄汚れた通路をアキトは歩く。
急ぎ走り回る基地の人間とすれ違いながら、静かに格納庫を目指す。
志願するか否かなど無意味な問いだ。
彼はその為にここに送られたのだから。

「そうだ、俺はその為にここに来た……」

力無く呟くアキト。
同じ様に力無く拳を壁にたたきつける。
ドンと軽く振動が走る。
落ちる埃と俯くアキト。
何もかもが煩わしく感じられた。
木連もナデシコもなにもかもが、だ。
少し前に見上げた空は晴れ渡っていて、変わらず青く蒼く、ただ一人を幻視させた。
振り向いても誰もいない。
このまま機体に乗っても誰も傍にいない。
ずっと傍にいて、ずっと一緒に戦ってきて……。
いるのが当然と思っていたから。
戦う意味も意義も忘れそうな程に孤独が胸を締め付ける。
それでも、それでも忘れられない事を思い出す。
――ナデシコの事を。
なんの為に戦うかも定かでは無かった時を思い出し、戦意を持つと言うのは皮肉か。
だが、それでもあそこで過ごした時だけが今、己を奮い立たせる。
慌しく動き始める基地内を駆け始め、アキトは格納庫へと向かった。

 

 

整備用にいたツナギを脱ぎ捨てて専用の耐Gスーツを身に付ける。
怒鳴り声が響く中、一人だけ世界が異なっているかのようだ。
コクピットシェルを閉じ、手を光らせる。
無音無明の内部に光がともり、周辺の映像を映し出す。

『テンカワ、お前も出るのか?』

突如入ってきたシュンよりの通信にアキトはなんら動転する事無く、

「ああ。その為に俺はここにいる――違うか?」

アキトの返事に暫し考え込む表情のシュン。
その眼はアキトの真意を探ろうとするかのように、アキトの顔を見続けている。

『……チューリップの進行方向にある街の住民の避難が最優先だ。既に街には先行した部隊が展開している』
「分かった」
『エネルギー供給範囲は分かってるな? ……頼んだぞ』
シュンの言葉に無言で頷き、アキトはスラスターを吹かせて発進していった。
その映像を腕を組みながら見ているシュン。

「隊長……あいつ、信用できるんですか?」

シュンの脇に立つカズシがそんな事を尋ねた。
最早、漆黒のエステバリスは彼方へと去った映像を見ながらシュンは、

「さあな。お前はどう思う?」

と聞き返す。

「協調性は零、こっちに命令権は無い、腕が立つかも分からない……けど」
「けど?」

押し黙るカズシ。
口元を手で覆い、なにを言うべきか迷っていると言う姿だ。

「けど、俺を投げ飛ばした時の奴の目は信頼できるくらいには強かったです」

信用、ではなく信頼。
決して信用できる姿を見せた事が無いアキトであるが、あの時見せた目だけは信頼できるものだとカズシは告げる。

「なら、そうなんだろ」

振り向き、カズシの肩に手を置いてシュンは言った。

「行くぞ。志願とは言え指揮官が引っ込んでるわけに行かないしな」

靴音を響かせてシュンは指揮車へと向かって行くのであった。

 

 


 

 

街はさながら地獄絵図であった。
崩れた家屋に潰された住人。
瓦礫の下より溢れるのはまさしく鮮血。
泣き叫ぶ幼い子供は親と思しき者の骸にすがりついている。
木星蜥蜴側でも先行したものがあったのだろう、その先行くものがついでと言わんばかりに街に襲撃を掛けたのだ。
戦艦クラスの兵器が来てない故に壊滅とは行かず、かつ、先行した部隊で破壊が可能であったが――

「……」

エステや救助に来た軍の者達に向ける眼は憎悪に満ちていた。
もっと早く来てくれていれば、とその眼が刺すように言う。
いや、視線だけではない。
言葉を以って軍の人間を罵倒する者もいる。
それに対し、兵達は何も言えなかった。
どんな言葉があろうか。
愛しい者の骸を抱き、己の身をその血に染めて睨む者にどんな言葉が届こうか。
黙々と瓦礫を撤去し、救助に専念する。
アキトもまた黙々と瓦礫を撤去しているが、彼の場合は単に言葉を発するのが面倒だからだ。
一つの家屋の瓦礫を撤去し終えた後に、また別の家屋を撤去をする為に動く。
他の重機と異なり人型をしている事、そしてIFSという操縦システムがある為瓦礫などの撤去にそれなりに使える。
尤も指関節の強度などを考えるとそれほど重そうな物は持てないが、少なくとも人よりは重い物を持つことが出来る。

『……なしてっ! 離してっ! お父さんがっ! お母さんがっ!!』

なんだ? と思い、エステを動かすと泣き叫びながら兵に抗う少女の姿が映った。
少女の前には崩れた家屋。
その下には少女が叫ぶように両親がいるのだろう。
だからこれから訪れる危機から避難せずにいるのだろう。
兵の方もその気持ちが分かる故に、手荒な事も出来ずに説得を繰り返している。

「……映像切り替え」

崩れた家屋の映像を映しながらアキトは呟いた。
するとそれまで外を映していたのが、サーモに切り替わった。
温度の低い瓦礫の色。その下より人のカタチをした色がある。

「下がっていろ」

そう言いながらエステを動かし家屋の前へと行く。
だが、アキトの言葉も少女には届かず、

『なによ! 全部終わった後に軍が来たって意味無いじゃない!!』

涙を流しながら漆黒のエステに叫ぶ。

「いいから離れろっ! 救助が出来ないだろうがっ!!」

アキトの怒鳴り声にビクリと体を震わせる少女。
その仕草と僅かに怯えた表情にアキトは息を零す。

(八つ当たりだな……)

見知らぬ少女に八つ当たりした事に自己嫌悪を抱くアキト。
シンジがいないことで随分と気がささくれ立っている。
落ち着いて周囲を見回す。
変わらず阿鼻叫喚の地獄絵図とも呼べる光景が広がっているがその中でも人が動いている。
嫌っていた軍の人間も怒声を発しながら救助の為に駆け回っている。
愛しい者の骸の前から動かなかった者も泣き叫ぶ子供の為に動いている。
未だ炎が見える街並みだと言うのに、そこにいる人々はがむしゃらに『誰か』の為に動いていた。
眼を閉じ、微かに微笑むアキト。
忘れていたなにかを思い出す。
なんの為に戦うか――その意味を。
ナデシコに乗る意味を。
ナデシコの皆を守る、そんな心があったのは確かだ。
だが、それだけではなかった。
それは、まるで子供の様な願い。
無心で誰かを守ると言える事。

(ああ、そうか……)

小さく息を零し、アキトは思った。
軍の人間は嫌いだ――結局は自分達の利益に走るから。
政治家は嫌いだ――自分達の事しか考えないから。
だが、それだけの人間ではない。
少なくとも、今、この場では誰もが他人の為に動いている。
義務かもしれない、命令されたからかもしれない、それでも必死になって彼らは動いている。
民間人と一緒になって、傷ついた人を守ろうとしている。

(俺が忘れていたなにかがここにはあるのか……)

眼を開き、囁く様に口を開いた。

「すまない……君だって家族の事が心配だよな」

その言葉に驚いたのは少女ではなく、むしろその傍にいた兵であった。
鬼気発するアキトの姿しか知らないからそんな言葉が出るとは思わなかったのだ。

「君の両親は必ず助ける……だから、今は避難してくれ」

涙を流した眼で少女は頷いた。
アキトの真摯な声に頷いたのだ。
少女の仕草に微かに頷き、エステの頭部を動かし傍にいる兵を見る。

「聞いた通りだ。彼女を……頼む」

少女に向けた声とは異なりそれは鉄の様な声。
だが、それでもその兵はどこか嬉しげに頷いた。
その声に秘められたものを感じたから。
立場を超えて信じる事が出来ると思ったから。
そして今度こそ少女は兵に着いて行った。
縋る様な眼をアキトの駆るエステに向けながら。

「さて、と。言ったからには……助けないとな」

どこか吹っ切った笑みを浮かべながらアキトは慎重にエステを動かし始めた。

 

 

救助活動も半分は終わった。
医療物資の乗せられたトラックを往復する医療兵は忙しなく、救助された人々を力づける言葉が響く。
それらへと指示を出しながらシュンは絶望的な一声を聞いた。

「前方にチューリップ4つ確認! 無人兵器その数800!!」

シン、と静まり返る皆。
未だ救助がなってない場所がある。
未だ瓦礫の下で救いの手を求める者達がいる。
だがここに向かってくるのは絶望的な敵の数。
アキトのエステバリスを含めて六機。
DFがある故に戦車では数に含める事ができない。
現時点でも戦力差は15倍。
それにチューリップからも出てくる増援を含めれば――

「隊長……」

カズシが指示を乞う。
退くか――見捨てるか。
続けるか――潰されるか。
俯いたシュンは体を震わせながら考え込んでいる。

「……今まで救助できた民間人をトラックに乗せて避難させろ。それに希望者を護衛として付けろ」
「はい。隊長はどうするんですか?」

震えていた体は静まり、シュンは顔を上げた。
その表情はどこか晴れやかで口元には笑みすら浮かんでいる。

「俺はここに残って救助を続ける。軍人が民間人を見捨てたらどうしようもないだろう」

街を見回しながらシュンは言った。
やはり、という表情と誇らしげな表情、カズシが浮かべたのはそれであった。

「軍の上層部は俺にも分かるくらいには腐ってる。マトモなのはグラシス中将やミスマル中将、それにガトル大将ぐらいだ」

不意にそんな事を言い出すシュン。

「だが、だからと言って、俺達までもがそれを迎合する訳には行かない。上が何を考えていようとも、俺は、全力を尽くす」

拳を握り締めながらとつとつ言葉を出す。

「もしこの場で俺が死ぬ事になっても、それで一人でも多くの人間が助けれらるのなら……悔いは無い」

そしてシュンはカズシの方へと目を向けた。
寂しげな笑みを浮かべながら。

「カズシ、お前も退避する連中に入れ。万が一の時にはお前が俺の後任だ」
「隊長!!」

叫ぶカズシの肩にポンと手を置き、

「まさかこの状況で兵だけを残して指揮官が逃げるわけにはいかないだろう。安心しろ、死ぬ気は無いさ」
「その言葉、信じます」

敬礼をし、カズシは民間人を乗せたトラックへと走っていく。
その背にシュンは静かに敬礼を送り、通信機を手に取った。

「テンカワ、お前はどうするんだ? こっちには命令権が無いから好きにしていいが……」

暫しの沈黙の後に、声が帰ってきた。

『……俺は軍人が嫌いだ』

鉄の様に重い声。
思えばその声以外に聞いた事が無いな、とシュンは苦笑を浮かべた。
そして、ふとその声がいつもより違うと気づく。
言葉に出来るほど確固たる物ではないが、それでもなにかが違っている。

『どいつもこいつも自分の権益を得る事しか考えてない』

シュンがアキトの声の違いに答えを見出すよりも早く、アキトは言葉を綴る。
その言葉に再び苦笑を浮かべるシュン。
身近にもそんな人間がいたからだ。
妻の仇とも呼ぶべき男が。

『だが、少なくともここの軍人は信じられる』
「そうか……」

目を閉じ、爽やかに微笑みながら呟く。

『だから……一人も死なせやしない。救助は続けろ。チューリップの相手は俺がする』
「任せた。……テンカワ、死ぬなよ」
『待ってる人間がいる』

ウィンドウが出てない音声のみの通信。
それだというのに、シュンにはアキトが笑みを浮かべてるのが分かった。
なにか共有できる者のみが浮かべる笑みをだ。
そして視線の先では漆黒のエステが飛翔する姿がある。

「隊長……テンカワを止めないんですか?」

通信兵が訊いた。
それに対しシュンは、

「止める必要は無いだろう」
「隊長はアイツの力量を知ってるんですか?」
「いや、知らない。だが、アイツの言葉は信用できた。それだけで十分だ」

それだけを言い、シュンは再び指示を出し始めた。
遠くで爆音が聞こえる。
赤い光剣が空を裂き、チューリップを両断する光景と共に。
誰もがその異様とも呼べる光景に目を奪われる中、シュンだけは満足げな笑みを浮かべて一喝をする。
まだ、助けるべき人間が多くいる。
シュンの一喝と共に動き始めた兵を見て、シュンは一度だけ爆発が起こる空の向こうを見た。

「……」

なにも発する事無く背を向けて、再び指示を出し始めた。
最後のチューリップが撃破される音を聞きながら。
こうして西欧の三ヶ月が始まるのであった。

 

 

 

 

 

代理人の感想

ふむ。

カズシに「信頼」を持たせ、さらにシュンに「信用」をさせましたか。

この時点で、二人及びその配下とはある程度の「絆」が成立した訳ですね、おそらく。

 

ところで、サラは話に関係なくなるんですか?

まぁ、ナデシコに付いて来ても赤い破壊魔になるだけなんですが(爆)