増えすぎたセミの鳴き声で目が覚める。
 彼が目を覚まして最初に感じたのは、じっとりと粘つくような不快な熱気だった。恐らく気温はすでに30度。あるいはそれ以上あるかもしれない。その証拠に、寝間着が寝汗でぐっしょり濡れている。
 昼過ぎにはさらに気温が上がるだろう。化石燃料が核融合発電に淘汰されて久しいが、前世紀初頭まで垂れ流しにされてきた温室効果ガスは百年を経てなお地球を覆っていた。
 この暑さはその証明だ。お年寄りや体の弱い人のために作られた環境調整ドームの中ではある程度気温も調節しているが、その恩恵はこのアパートには及ばない。
 熱気と汗に辟易しながらも上体を起こし、寝ていたベッドの枕もとに置いてあった眼鏡に手を伸ばす。
 時計を見る。――――午前六時。まだ起きるには少し早い時間だった。かといっていまさら寝直す気にもなれず、とりあえず汗を流そうかと彼はバスルームに足を向けた。
 とその時、なにやら柔らかいものが手に触れた。
「……?」
 手元を見る。触れて――――というより掴んでいるものは、いま壁にハンガーでかかっている物と同じ、学校の制服だった。掴んでいる箇所が少々膨らんでいる。
 下に視線を移す。紺色のミニスカートから伸びるすらりとした素足。ニーソックスに覆われていたが、無防備に投げ出された曲線美は充分に艶めかしい。
 さらに上を見る。艶のある長い黒髪がベッドの上に広がり、どこか幼さの残る顔の大きな目が、驚愕に見開かれて彼を見ていた。
 しばし、そのままの格好で硬直する。
「……」
「……」
 数秒後。

 ぱちーん、と肉を打つ音が響き渡った。



 機動戦艦ナデシコ――贖罪の刻――
 第二話 少年たちの今 前編



「よ、和也ちゃん、おはよ」
「……おはよ。良い目覚ましをありがとう」
 ひりひりと痛む頬をさすりながら、彼――――黒道和也こくどうかずやは低い声でそう言った。
「後学のために訊いておくけど、澪は僕のベッドで何してたの? まさか夜中に夜這いしたとか? ていうか、どこから入ったわけ?」
 そんないっぺんに聞かないでよう、と悪びれた様子も無く彼女――――露草澪つゆくさみおは笑った。
 澪は第一オオイソ高校の三年生だ。和也が同校の二年生なので、二人は先輩と後輩の間柄という事になる。
 中学の頃から四年あまりの付き合い。何かと世話を焼いてくれるこの先輩は、男の一人暮らしにはありがたい存在なのだが……まったくこの人は、やる事言う事に遠慮というものが無い。
「暇だったので迎えに来て見ましたあ。鍵が閉まってたから、窓から入らせてもらったよー」
 ちなみにこの部屋はアパートの三階だ。
「泥棒さん。うちには金目の物なんて置いてないですよ」
「それはよ――――く知ってるけどね」
 やれやれ、と和也は肩をすくめた。こんな事はしょっちゅうなのだ。
 前回は、ピッキングで鍵を開けて進入。前々回は、このアパートの大家を朝早くに叩き起こして合鍵を入手し進入。
 そのまた前回は、ドアの蝶番を工具で外そうとし、危ういところで和也が止めた……
「でも、寝顔、可愛かったよー」
「……シャワーを浴びてきます」
 いいかげんベースを乱されたくなかったので、和也は手早く制服を手に取った。
「あ、朝ご飯作っとくからね」
 そう言って澪はさっさと台所へ行ってしまった。勝手知ったる家とばかりに、冷蔵庫を物色する音が聞こえてくる。
 完全に世話女房だな、と和也は思った。だから学校でからかわれるのだ。
 まあ、悪い気はしないが……そう思って和也は勉強机の横に立てかけてある軍刀を手に取った。

 ――和也。そう。黒道和也。それが僕の名前だ……



 澪が朝食を並べ終えた頃、制服に身を包んだ和也がバスルームから出てきた。
「ご飯出来てるよー」
「ん。ありがと」
 すげなく言い、テレビをつけてからテーブルに向かう。
 今日の献立は目玉焼き、キャベツの千切り、焼いたサンマ、味噌汁の具はエノキダケ。そして白飯。和也はそれらをテレビを見ながら片手間に咀嚼していく。澪の作った料理に対しては、美味しいとも不味いとも言わない。
 これはまだ良いほうで、学校の食堂で食べる昼食に至っては判で捺したように毎日同じ物を注文している。
 理由は、『栄養のバランスがいいから』。
 和也にとって食事という行為には栄養補給以上の意味が無い事は十分知っている。和也が一番楽しんでいるのが澪と食事する『雰囲気』である事も。
 かといってながら食いはよくないと思うのだが、和也はこれが完全に習慣となっているらしく、一時は直すべく努力させてみたがなかなか直らない。
 こいつはそういう人間なのだなと、最近は諦めている。
 他に悪いところは……澪の知る限りは無い。素行は悪くないどころか、むしろ二百年以上前の学生の如くきっちりしている。
 髪は染めないし、第一伸ばさない。制服は着崩さない。携帯にはデコレーションはおろか、ストラップすら付けない。女遊び、夜遊びは当然しない。飲酒喫煙もってのほか。顔は美男子というより可愛い系で、一年前近視に負けて着用し始めた黒渕眼鏡がその雰囲気を助長している。
 ……とまあ、息苦しさを感じるほどの『真っ当な学生』を和也は体現していた。それは少々ひねくれた見方をすれば、この自由な風潮の時代において時代錯誤だと言えなくもない。
 尤も、
 ――木星の人って、大抵似たような感じだよねえ……
 と、澪は思うのだが。

 ――――和也は、木連主導の移民事業で地球にきた木星人だ。

 木星の分厚い大気の中から、木星人の祖先――――月独立派の生き残りが発見した超古代文明の遺跡は、ボソンジャンプを始めとしたオーバーテクノロジーを彼らにもたらした。それによって彼らは、ガニメデやカリスト、エウロパといった衛星にコロニーを建設し、やがて国家を築き上げるに至った。
 しかし、人口増加に伴い木連の国力はその限界を露呈する。
 コロニーを建設するといっても、衛星に建設できるスペースは限られている。生活空間だけは市民船の建設でまかなえても、プラントの生産ラインの大半を兵器生産に回していた当時の状況ではそれさえもままならなかった。
 特に切迫していたのが食糧事情である。
 木星の衛星の大半は氷や岩の塊で、農作物を育てるのに適した土壌はない。プラントから生産される食料だけでは、際限なく増え続ける人口を養いきれない。
 木連が地球連合に最初の接触を行った2195年には、栄養不良による病気が蔓延し始め、それが木連政府を会戦に踏み切らせた一因であったとも言われている。
 いずれにせよ、増えすぎた人口を移住させるのは急務だった。
 当初予定されていた火星への移民計画は、地球世論の猛反発を受け頓挫した。第一次火星会戦に際し、木連は無人兵器による火星への制圧作戦を敢行した。無人兵器に武装非武装の区別は無く、無差別攻撃だった。
 火星は無人兵器によって蹂躙され、犠牲者の総数は五千万人にもなると言われている。
 この加害者である木星人に、火星に住まう資格があるのか――――というのが、犠牲となった火星入植者の遺族や友人が中心となって立ち上げた「反」木連団体の主張だ。中には「木星人が火星への移民を強行するならば、武力を持ってこれを阻止する」と明言し、武器の購入や戦闘訓練を始める団体まで出始めた。この時点で火星への移民は断念せざるをえなかった。
 次の候補地として上がったのは木連建国の発端となった月だが、これもすぐに却下された。月は戦争初期に木連の占領下に置かれ、連合宇宙軍が月を奪回するまでおよそ一年半の間、耐乏生活を強いられた経緯がある。
 当時の木連政府は国内の食糧事情がこの上なく逼迫している中、敵国民に食わせる余裕は無いとの理由から食糧を供給しなかった。以来月の住民は、宇宙軍が木連軍の目をかいくぐって運んでくる僅かな食料を頼りに、多くの餓死者を出しながらも生き延びてきた。
 よって、月では反木連感情が強く、とても移民など出来る状態ではなかった。とすれば、残るは地球しかない。
 入植地は出来る限り戦火に晒された事が無く、反木連感情の薄い地域が選ばれた。無論、選定には細心の注意を払って……である。そのうちの一つとして選ばれたのがここ、オオイソシティだ。
 進んで地球行きを希望する者は少なかったらしい。木連では地球を不倶戴天の敵と教育してきたのだから当然だ。
 それでも生活苦に喘いでいた多くの木星人が移民を希望し、結果として移民は予定数を超過した。
 和也はその一人だった。
 どのようないきさつがあって和也が地球行きを希望したのか、澪は知らない。ただ両親とは早くに死に別れ、兄は戦場に出て戦死した、と澪は和也と共に来た木星人から聞いたことがある。あの軍刀は兄の形見だそうだ。
 大変な苦労があったであろうことは想像に難くない。だから――――
「和也ちゃん、お醤油とって」
「ん」
 地球で楽しく暮らして欲しいと思うのだ。


 このオオイソシティは、地球は日本、カナガワに位置する人口約4・5万人程度の小さな町だ。
 幸運にも戦災を逃れたこの町は、海沿いになだらかな坂を描いて建物が立ち並び、その坂を登るように街中に潮風が吹き込んでいく。当然のように海水浴場は毎年盛況で、夏には町が海水浴客で溢れる。
 さらに海岸沿いに走る“新”国道134号線から海を見下ろすと、温暖化による海面上昇で海に沈んだ“旧”134号線と当時の建物が海の中に見え、今ではちょっとしたダイビングポイントとなっている。
 町には潮の香りが満ち、海水浴客に混じって木星からの移民がちらほら見える。
 オオイソシティとは、そんなのどかな街だった。



 ふたりは一緒に高校へと向かう。バス通学である。
 和也は自転車を持っているのだが、あいにく第一オオイソ高校は自転車通学が禁止されている。
 バスに乗り込むと、同じ高校の生徒でごったがえす中に、見慣れた顔を見つけた。
「おや、ハルカ先生。それに白鳥さん」
 和也と澪は人込みをかき分けて後部座席の二人に近づいた。ひとりはロングヘアーの女性で、もうひとりは栗色のショートカットに黄色のカチューシャを結えた女学生である。
「おはようございます」
 つり革に掴まったまま、和也は慇懃に挨拶した。
「おはようございます!」
 同じく澪は高い声で言い、一礼した。
「うん。おはよー」
 その女性――――第一オオイソ高校の数学教師、ハルカ・ミナトは柔らかい調子で言った。赴任から三年程度のまだベテランというには早い程度の教師だが、男子生徒からの人気はかなり高い。
 ――何と言っても、その容姿と見事な……
「和也ちゃん、何か変なこと考えてない?」
 背後から澪の声がした。そのやんわりとした声色とは裏腹に、どこか凄みのある声。和也は思わず緊張した。
「あらあら、今日も仲良く二人で通学? お熱いわねー、か・ず・や・ちゃん?」
 と、横から茶々を入れたのは、ミナトの同居人にして和也の同級生である、白鳥ユキナだ。
 彼女も木星人なのだが、何故か和也達よりも遅れてオオイソ高校に転入してきた。移民の第二陣が来たという話は聞いていないのだが。
 ユキナにそれを尋ねた時は、はぐらかされてしまったが。
「ああ、今日も暑いねえ。あと和也ちゃん言うな」
 気のせいか、ユキナの顔が引きつった気がした。
「……冷房入ってるのに熱いわねえ。ね、澪ちゃん?」
「あ、やだ、そんな……」
 話を降られ、何故か動揺する澪。よく見る光景だが、和也にはよく解らない。
「冷房なら、十分効いてると思うけど」
 何気ない一言のつもりだった。
 すると、ユキナが前触れもなく席を立ち、和也の前に立った。
 ――やばい。
 危険を感じたが、この混雑したバスの中では逃げ場が無い。
 次の瞬間、ユキナの強烈なボディブローが和也のみぞおちに突き刺さった。
「うごお……!」
 思わず呻き声が口から漏れる。この時バスが発進し、和也は倒れこむところをミナトに支えられた。
「ちょっとユキナ! 少しは手加減してあげなさいよ!」 
 殴った事は怒らないんですか? と言いたかったが、ユキナの拳はよほどいいところに入ったらしく声が出せない。
 その暴行の現行犯であるユキナは、被害者の和也を無視して澪となにやら歓談していた。
「あんたも辛いわねえ……応援してるからね」
「う、うん、ありがと」
 和也には理解できない世界で意思疎通が図られている。その内容も理解しがたいものであったが、和也を非難する内容の物であろう事は何となく解った。
 ――なんでいつもこうなるんだ?
 まったく、女子はわからない……和也は心から、そう思った。


『第一オオイソ高校前、第一オオイソ高校前、お降りの際はお忘れ物の無いように――――』

 旧世紀から続く伝統あるアナウンスと共に、バスはしずしずと停車する。
「和也ちゃん、大丈夫?」
「う、うん……」
 腹を抑えながら和也は頷く。殴られたダメージがまだ残っている。ユキナの一撃は年々磨きがかかり、ここ最近の威力ときたら恐ろしいものがある。
「じゃ、先行ってるからね」
 加害者であるはずのユキナは、悪びれる様子も無くさっさとバスを降りていってしまう。
「ごめんね、ユキナにはちゃんと言っておくからね」
 ミナトもそそくさとバスから降りる。
「私たちも行こうか」
「うん……」
 澪に半分支えられた体制で、和也はバスを降りる。
 外に出ると、なにやら人だかりが出来ていた。
 男。男。男。
 第一オオイソ高校の上級生から下級生、果ては隣接する付属中学の生徒までが男ばかりの群れを作っている。
「やれやれ、またか……」
 和也が掠れた声で呟くと、モーゼが祈りを捧げたかのごとく男の群れが割れた。
 男の群れから現れたのは、一人の女子。
 絹糸の如き黒髪は優雅に風と戯れ、均整の取れた姿態と凛とした顔つきは異性同性を問わず他者を魅了してやまない。
 何故かその左目は眼帯で被い隠されている。一般的な医療用の眼帯ではなく、太古の海賊を連想させる黒い物だ。それが奇妙なほどに似合っていて、ライトグリーンの光をたたえる右目と相まってミステリアスな美しさを演出している。
「うーん……悔しいけど見惚れる価値はあるかなあ」
 ふっと息をついて、澪が言った。
 第一オオイソ高校二年、真矢妃都美まやひとみ
 学生の羨望を一身に受ける女性であった。
「あら、和也さん。それに露草さん、おはようございます」
 二人に気付いた妃都美が声をかけてきた。妃都美に名前を覚えられ、しかも声をかけられるというのは、それだけで男子生徒にとっての特A級の特権なのだが、
「……おはよう、妃都美。相変わらず大人気だね」
 和也は妃都美を呼び捨てにする。ついでに言えば、二人の携帯にはお互いの携帯番号がしっかりと入っていたりする。男子生徒の誰もが欲してやまない権利を、和也は全て持っているわけだ。
 別に交際しているとか、そんな関係ではない。
 彼女もまた移民としてやってきた木星人で、和也とは数年来の友人同士なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
「随分と苦しそうですけど、また白鳥さんですか?」
 和也とユキナの力関係を知らない者はここにはいない。澪に支えられて苦しそうにしている和也を見て、妃都美が歩み寄ってくる。
「ふん、このくらいはいつもの……ウッ」
「……今日は少し重傷ですね」
 和也を支えようと、胴に手を回してくる。それは親切心からの行動だったろうが、和也はそれを慌てて断った。
「い、いいよ。そんなことしなくても」
「はあ。そうですか」
 ほっと胸を撫で下ろす。お気遣いはありがたいが、ここでそれを受けるのは憚られた。
 何十という殺気に満ちた視線が、和也を矢のように射抜いていたからだ。
「ほ、ほら、澪もそろそろ……もう一人で歩けるから」
「無理しないの」
 えへへ、と妙に嬉しそうな澪だった。どういうわけか殺気が二割増した。
「……行くよ、遅刻する」
 これ以上長くここにいたら危険だ。そう直感した和也は急ぎ学校へ撤退した。



「あー、恐かった……殺されるかと思った」
 学校の玄関――――いわゆる下駄箱で和也はぐったりと座り込む。全身に冷や汗が浮いていた。
「和也さんなら、あんな男の一人や二人、恐くないでしょう?」
「恐いよ! 大体あれ一人や二人じゃなくて十や二十は軽くいくだろ!」
「ここから見えるだけで36人ですね」
 左目を被う眼帯をめくり上げて妃都美は言う。その下の目には特に怪我のようなものは無い。
「妃都美ちゃんて、目が良いんだね」
 そう、澪。
「ええ、左目の視力は相当あります。ただ右目が普通なので眼帯をしないと視力に差がありすぎて」
「モノクルとか、コンタクトとかはしないの?」
「……嫌いなんですよ。そういうのは」
 現代の進んだ医療技術でも、まだ思い通りにならない事は多い。視力もその一つだ。だからこそ現代でも眼鏡やコンタクトが生き残っている。
「……はあっ、正確なデータをありがとう」
 げんなりとして和也は言った。
「どういたしまして。でも本当に和也さんなら平気だと思いますよ?」
 苦笑気味に言う妃都美に、澪がうんうんと頷く。
「和也ちゃん、私が恐い人たちにからまれたとき、助けてくれたもんね」
 少し前、澪が下校途中に何人組かの男にからまれ、それを和也が助けたことがある。
「まあ、武芸のたしなみは木星人のステイタスだから……だけどやっぱ暴力はやばいよ。みんなにも迷惑かかるし」
 理由はどうあれ、木星人である和也が地球人に向かって暴力を振るうのは問題だ。
「でもあの時は……」
「あれは特例。約束しただろ? 澪は僕が守るって」
 尤もその時、口封じのために男達を散々痛めつけたのは内緒だ。
「和也ちゃん……」
 澪の顔が桜色に染まった。
 とその時、それを見ていた妃都美が茶々を入れた。
「お優しいですね。和也さんのそういうところ、好きですよ」
「ひ、妃都美ちゃん……!」
 何故か動揺する澪を見て、妃都美はさも可笑しそうにくすくすと笑う。
「ご心配なく。そういうつもりで言ったのではありませんから」
「うー……妃都美ちゃんのいじわる」
 ぷうっと頬を膨らませて澪は憤慨する。難解な女の世界は和也には理解できないが、可愛らしい顔だと的外れな事を思った。
「まあ、私も影ながら応援されて頂きますよ」
 言って、妃都美は自分の下駄箱を開けた。
 すると、ばさばさっと大量の何かがこぼれ落ちた。下駄箱の中に飽和寸前まで詰め込まれたそれは蓋を開けるや一斉に雪崩れて、スノコの上に小さな山を作った。
「…………」
「…………」
「…………」
 ひょいと一つを摘み上げてみる。代わり映えしない白い封筒。ただ封筒の口を止めるのに使われているハート型のシールが、唯一強弁な自己主張をしていた。
 日にかざしてみると、中の便箋はどうやらピンク色。多分どれも同じようなものだろう。それが10? 20? あるいはもっとか。文面に目を通す勇気は和也にはない。
「まったく。よくも飽きないものですね」
 やれやれといった風に妃都美は落ちたラブレターを拾い集める。一つとして目を通す事はない。それでもトントンと角を揃えてやるあたりが妃都美なりの慈悲なのだろうか。
 こんな事はしょっちゅうなのだ。だが妃都美はその好意に応える気がさらさら無いらしい。
 理由は簡単。男が嫌いだからだ。
「一人や二人くらい、適当に相手してやってもいいんじゃないのか?」
「私にそういう遊びの趣味はありませんから」
 ぴしゃりと一蹴される。理由は知らないが、何もそこまで嫌わなくても良いのではと和也は思う。……まあ、妃都美の容姿ばかりに惹かれて群がってくる男も男だが。
 そんな和也の男としての複雑な心境も知らず、妃都美は壁と一体化しているゴミ箱の蓋を引き開け――――ラブレターの束を無情にも放り込んだ。
 かくして、何十人という男たちの血と汗と涙と文才の結晶は、妃都美の手によって丁重に葬られたのであった。その後は再生紙として新たな役目を果たす日を待つのか、それともバクテリア分解されて土に還るか――――どちらにせよ、
「迷わず成仏してくれよ」
 合掌。


 ふと見ると、何人かの教師や生徒が重たそうな荷物を持って体育倉庫へと運んでいくのが見えた。
 ここ数日、よく見かける光景だ。

「和也ちゃんは、次の授業なに受けるの?」

 昼休み、澪は和也と連れ添って学校の校庭を散歩していた。どこに行くわけでもなく、気晴らしだ。
「んー、古文……」
「そっか。こっちは英語だよ」
 眠たそうに目を擦る和也に、澪は笑いかける。
 この時代、生徒がある程度自由に受けたい授業を選べる単位制度が、教育の主流になっている。
 二百年ほど前に問題となっていた『詰め込み教育』『学級崩壊』といった言葉は、歴史の流れの中で忘れ去られて久しい。
「あーあ、古文は自信ないなあ、日常生活に困んないんだから、そんなの習う必要ないのにねー」
 同感だった。
 絶望的なまでに数学が苦手な和也は、他コースの選択には余地が無い。
 しかし古文というものに限って言えば、それを学ぶ意義に疑問を抱かざるをえない授業の一つだ。受けたくなくても古文の単位は代替が効かないので、仕方が無い。
「まあ、数学よりはましだけどさ……」
「そんなに嫌? 数学なんて答えはいつも一つだよ。それさえ解れば簡単なのに」
「それはできる人の台詞だよ」
 澪はこう見えても全般的に成績が良い。
 こと得意なのがコンピューター関係だ。進路相談では軍のオペレーターになれるのではと言われたほどだ。
 尤も、戦争やら軍隊やらが何より嫌いな澪としては、そんなものに関わるつもりはさらさら無い。やはり希望としては、普通に家庭を持ちたいと思う。
 ――それで赤ちゃんを産んで……やだ、なに考えてるんだろ私!
 自分の想像に思わず赤面する。
「で、でもさあ、和也ちゃん体育会系なのに英語は得意だよね」
「まあ、ね。英語とかは職業柄小さい頃から勉強してたし」
「職業柄? 和也ちゃん、何か仕事してたっけ」
「……あ、いやいやこっちの事。……あーほら。なんか重たそうにしてる。手伝いに行こうよ」
 慌てたように言い、和也は正門で荷物と格闘している生徒のほうへ走っていった。
 変わったなあ、と澪は思う。
 移民が始まってから早四年。木星人の生徒は地球人の中に違和感無く溶け込んでいた。
 当初トラブルは……決して少なくなかった。木星人の大半は地球に反感を持ちながらも生活が苦しいのでやむなく来た、という者が多かったし、法で厚く保護されているのを良い事に公然と問題を起こす者もいた。
 地球人は地球人で、木星人であるというだけで訳も無く嫌がらせを行ったりする者も多かった。
 和也も、地球に来たばかりの頃は無口だった。連れ添ってきた木星人の友人六人といつも一緒で、地球人とはまともに口を利かなかった。
 それが最近では、随分と明るくなったものだ。
「苦労してるね。手伝うよ」
「はっ! これは隊長!」
 噂をすれば影。和也を『隊長』と呼び敬礼までしたのは、木星人の一人、立崎楯身たてざきたてみだ。
 頭はいまどき珍しい角刈りで、眉が太く、この学校にいる中で誰より「木星人」を体現した人物と言える。肩幅が広く、名前に「たて」が二つついているのがご愛嬌。
 彼もまた、和也と同じ船で地球へ来た仲間同士の間柄なのだが……なんというかこの男は、和也に対しては上官に付き従う部下のような態度で接している。
 澪が木星人というのは皆こうなのかと訊いた時は、誰もが口を揃えて否定した。
「公共の場で『隊長』と呼ぶのはいいかげんやめろよ。ついでに言うなら敬礼も無し」
「はっ。申し訳ありません隊長!」
 そしてまた敬礼。
「…………まあいい。で、この箱を体育倉庫まで運べばいいんだな?」
 そう言って和也は楯身が格闘していたプラスチック製の箱に手をかけた。ちょうど大人が一人、丸まって入れそうなサイズの箱だ。
 持ち上げてみると存外に重いらしく、二人がかりでも少しふらついていた。倉庫まで運ぶのに数分かかった。
「えらいこと重いな! 中身は何だ?」
「はあ、持ってきた業者の人が言うには、テロリスト一人前だそうであります」
 笑えない冗談だなあ、と澪は思った。
 和也は少しの間不審物を見るような目で箱を観察したあと、おもむろに開けようとした。
 しかし、開かない。
「開かないの?」
「変だな。鍵とかは見当たらないし……なんだか内側から押さえてるみたいだ」
「ご……奈々美か烈火を呼びますか? 奴等なら開けられるでしょう」 「いいよ。そこまでしなくても」  和也は努力を放棄し、規則に従って倉庫の戸を閉めた。



「ケンカだー!」
 外に出ると、セミの声に混じってなにやら叫び声が聞こえてきた。南棟で誰かケンカをしてるぞ――――と誰かが叫んで回っている。それを聞いた何人かが野次馬根性剥き出しで観戦に向かっていく。
 第一オオイソ高校は何度か増改築をしているらしく、西棟と南棟の二つの校舎に分かれており、それは上空から見るとLの字型を形成している。二つの校舎は耐震性を考慮してか隣接しておらず――L字型の建物は起点の部分に相当の負担がかかるらしい―― 一階と二階の渡り廊下によって繋がれている。  ちなみに、今和也たちがいる体育倉庫、それと隣接した体育館は敷地の西側にある。
「ケンカのようでありますな」
「どこのバカだか」
 和也と楯身は我関せず、といった感じだ。
「嫌だね、ケンカなんて」
 と、澪は呟く。
「叩いたほうも叩かれたほうも、痛いだけじゃない?」
「……う」
「……あいたたた」
 和也と楯身は呻いた。
 澪の言葉は何気ない事だったろうが、木星人には痛い言葉だ。
「ま、まあケンカなんてほっといてさ、そろそろ昼ご飯……」
 食べに行こうよ、と言おうとしたその時、突如叫びに等しい声が聞こえた。
「和也ちゃん――――――!」
 ひえ! と和也は思わず悲鳴を漏らした。
 校舎から物凄い形相で走ってくるのはユキナだ。土煙を巻き上げ邪魔者を跳ね飛ばして疾駆するその姿は、古来陸戦の王者として君臨した戦車のようだ。それが自分へ向け真っ直ぐに向かってくるのを見た和也は、
「う、うわわわわ!」
 恐くて逃げ出した。
 だが陸上部所属で、ちょうど一年前のインターハイで上位に食い込んだ駿足の持ち主であるユキナから逃げ切れるわけもなく――――ものの数秒で捕まってしまった。
「わあああ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! もうしませんから鉄拳制裁は勘弁!」
「何……言って、んのよ?」
 よほど急いで走ってきたのか、ユキナははぁはぁと息を切らせる。
「ほら、こっち来なさいよ!」
「わわ、なに!?」
 有無を言わさず腕を引かれる。澪と楯身は何事かとついて歩く。
「ユキナちゃん、いきなりどうしたの?」
「事情の説明をお願いいたします。白鳥殿」
「どうもこうも、ケンカよケンカ!」
「ケンカぁ?」
 ユキナに腕を引かれ――というより引きずられ――ながら和也。
「僕に人のケンカを観戦する趣味はないよ?」
「いいから来なさい! ケンカやってんのは奈々美ちゃんなのよ!」
 その名を聞いた和也は、ぎょっと目を剥いた。ユキナの出した名は和也が誰より知っていたからだ。
 田村奈々美たむらななみ。それは和也の仲間の中で最も不良な生徒。この学校でも有数の問題児である…………木星人。
 血の気が多い彼女ならすぐ手を上げるだろう。そして相手が地球人ならばどうなるか、そんな事は子供でも解るはずなのに。
 和也は別に地球人に媚びる気はない。だが他の木星人に迷惑はかけたくない。一刻も早く止めないと!
「と、止めないと! 楯身!」
「了解であります!」
 脱兎の如き勢いで和也たちは走り出した。この時にはもう荷物の事など頭から追い払っていた。

 ……後で思えば、得体の知れない荷物をもっと警戒するべきだったか――――と和也も、楯身も、そして澪も思う。

 だがこの時は、そんな事にまで考えが及ばなかった。
 考えなくていいはずだったのだ。