――――世界は、未だ戦火の中にある。
 テロ集団に変貌したと言われる武装勢力、火星の後継者と地球連合軍との戦いは一年に及び、地球内部での不協和音も手伝って、『平和』という言葉は再び過去形で語られつつある。
 しかしそんな中でも、一般の人々の営みが変わることはない。
 ここは第一オオイソ高校。
 地球は日本、オオイソシティのごく平凡な高校だ。変わった事といえば木星人移民の生徒が多く通っている事くらい。そこでは今日も多くの学生たちが、泣き、笑い、悩み、学んで、日常という名の物語を演出しているのだろう。
 六月が七月に変わり、そろそろ誰もが夏休みを意識し始めたある日。
 その日が第一オオイソ高校の生徒たちにとって、一生忘れられない日として記憶される事になるとは、まだ誰も知るよしが無かった――――



 機動戦艦ナデシコ――贖罪の刻――
 第二話 少年たちの今 後編



 ――――ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、

 第一オオイソ高校の廊下に、上履きが床を蹴る小気味良い音がいくつも響いていた。血相を変えた一団が二段越しで階段を駆け上がり、行き交う生徒を避けながらひたすら走る。途中何人かに衝突したがごめんなさいと一言言って先を急ぐ。「廊下を走るな」という注意書きは当然無視。
 一団は四人。しかし走る足は六つだ。
「ああもう、なんでこんな事にっ!」
 先頭を行く黒道和也こくどうかずやは走りながらも毒づく。校舎の中は冷房が効いているにも拘らず、和也はもう全身汗に塗れ呼吸は荒い。なぜなら四人の一人を背負った状態で走っていたから。
「ほらほら、急がないと手遅れになるわよ! 口動かすな、足動かせ!」
 ただ一人和也に背負われている白鳥ユキナは容赦なく和也にムチを入れる。本当なら振り落としてやる所だが、今回は立場上そういうわけにいかなかった。競馬場のお馬さんたちもこんな気持ちで走っているのだろうかと、馬鹿な事を考える。
「隊長、ここは辛抱であります」
「和也ちゃん、がんばれー!」
 立崎楯身たてざきたてみはいつもと変わらないむっつり顔で、露草澪つゆくさみおは慣れないマラソンに息を切らせながらも、それぞれ和也を応援する。和也の心境としては、応援するより助けて欲しかったが。
 彼等が息せき切って学校内を走り回る事になった理由は、学校の一角で生徒のケンカが勃発した事に端を発する。それだけなら別に珍しくもない事で、気にも留めなかっただろうが、ユキナがケンカの当事者の一人が和也達の仲間である木星人だと知らせに来たことで、無視できない事態になった。
 木星人が地球人に手を上げれば一大事。和也達は至急止めに向かったのだが……ユキナが事を知らせに学校中を走り回り、スタミナを使い果たしたのでおぶれと要求してきた。無茶な要求だが事を知らせてくれたのは他ならぬユキナ。木連式の礼儀に則るのであれば、恩には相応の例を持って報いねばならず、逆らうわけにはいかなかったのであった。
「だけど……はぁはぁ、これは、辛い……」
「ちょっと、しっかりしなさいよ! それでも木連男児なの!?」
「そんなこと言ったって、白鳥さんちょっと重た――――痛でっ!」
 ぶん殴られた。
「純情な乙女に向かってなんて事言うのよ!」
 ああ、鬼がいる。和也は救いを求めて澪と楯身を見るも、二人は少し気まずそうに目をそらし、
「こればっかりは和也ちゃんの口が悪いよ」
「淑女に対してそれは禁句であります」
 救いの手を差し伸べる者は無く、和也はひー、と泣き言を漏らすしかなかった。
 そのうち、聞き慣れた怒声が耳に入ってきた。廊下に群れる野次馬の向こうから、男と女の罵り合う声が聞こえる。ゴールだ。和也はようやくユキナを下ろし、一息つく。
 それも束の間だ。今度はこれを止めないといけない。
「ごめん、ちょっと退いて……!」
 野次馬を押しのけて奥に分け入ると、燃え上がる炎のような赤毛が見えた。
 地球人の男子生徒が、木星人の女子と睨み合っていた。バスケットボールでもやっていそうな体格のいい男。こいつも確か、揉め事や暴力沙汰で何度か停学になった事がある奴ではなかったか?
 そんな男子と睨み合う女子も、身長180に届かんとする長身だ。赤い髪をショートにした髪型、起伏に乏しい体つきから時として男性に見間違えられる。男に対して脅える素振りも見せず、今にも噛み付かんばかりの凄まじい形相で正面の男子を睨んでいる。その両腕は太さこそないものの、よくよく見れば幾筋もの筋肉の束が皮膚を破らんばかりに浮き出しているのだ。それがどれほどの力を生み出すかは身を持って知るべし。
 名を、田村奈々美たむらななみという。
 髪が赤いのは自毛ではなく、木星人には珍しい染めだ。何の心変わりか地球に来てから染め始めたのだが、彼女が怒ると本当に炎が燃えているように見える事があるのだ。
 暴力的な男と、血の気が多い木星人。そんな連中の間に入って止めようなどと考える度胸のある奴がそうそういるはずもなく――――誰もがただ、爆発寸前の火薬庫を遠くから見るだけだ。
「奈々美さん、それにあなたも、やめてください!」
 ただ一人必死に制止の声を上げているのは学校のアイドル、真矢妃都美まやひとみだ。彼女のおかげで何とか殴り合いには発展していないようだったが、この興奮状態ではそれも時間の問題か。
「おい、奈々美!」
 野次馬の中から踏み出して止めに入る。和也たちに気がついた奈々美は「あんたたち……」とばつの悪い顔をした。
「何をしている? この時期に地球人と揉め事など……」
「あんたたちには関係ないわよ」
 詰問調で言う楯身を、奈々美は素っ気無く突き放す。いつもならはいそうですか、で終わる所だが、今回ばかりはそうもいかない……
「関係ある。どうしてケンカなんかしてる? 下手に暴力振るったりしたら――――」
「そいつが俺に突っかかってきた。そんだけだ」
 地球人の男子が発したその一言に、奈々美は反駁する。
「何よ、突っかかってきたのはあんたでしょう! だいたい――――」
「るせえよ! 生意気なんだよ木星人のくせに!」
「なっ!」
 思わず声を上げていた。このセリフには言われた奈々美もそうだが、傍で聞いた和也も面食らった。
 なんて事を言うんだこの馬鹿は。
 当然、こんな事を言われて奈々美も黙ってなどいない。かっと眉を吊り上げ、口角泡を飛ばして、
「あんた、今なんて言った!? もういっぺん言ってみなさいよ!」
「お情けで地球に住まわせてもらってるくせに、図々しいってんだよ!」
 駄目押しだった。
 制止の声が上がったが、その時すでに奈々美は拳を振り上げていた。
「奈々美、よせ!」
 咄嗟に和也は奈々美を押さえつけにかかった。
「何で邪魔すんのよ!?」
「ばか! 地球人に手を出して困るのは誰だ!?」
「そんなの知らないわ、離しなさいよ!」
 叫ぶや、和也は腕を掴まれた。途端に足が床から離れ、天と地がひっくり返る。人並みの体重はある和也を、奈々美は片手で軽々と振り回し、投げ飛ばしたのだ。
 何とか受身を取って頭を守る事には成功した。それでも和也の体は床に叩きつけられ、転がり、壁にしたたか背中を打ちつけた。野次馬から悲鳴が上がり、澪が、妃都美が、楯身が駆け寄ってくる。
 有難いが最悪だ、と和也は苦痛に霞む頭で思った。奈々美の奴は完全に頭に血が上っている。こうなってしまっては用意には止められないのだ。
 その発端である男子生徒は、ただ棒のように突っ立っているだけだ。逃げるか謝るかどっちかにすればいいだろうに、この馬鹿は奈々美に勝てるとでも思ってるのか?
「殺す! 殺してやる!」
 奈々美の必殺の拳が、男子の顔面に突き刺さる――――そう思われた、その時だった。
「――――――っ!?」
 不意に横から伸びた手が、奈々美の腕を掴んで止めた。邪魔された奈々美は悪鬼の如き形相で腕の主を睨む。
 目の前にあったのは銃口だった。軍用の大型拳銃、クリムゾンG88R――――その45口径の巨大な銃口が奈々美の、文字通り目の前に向けられている。当然トリガーには持ち主の指がかかっており、それを引き絞れば即、奈々美の頭半分は粉微塵に吹き飛ぶだろう。それを察した奈々美は、一瞬動きを硬直させる。
 その一瞬を逃さず、腕の主が動いた。奈々美の掴んだ腕を背中に回し、さらに銃を手放してもう一方の腕をとる。奈々美は「あっ!?」というまに間接を極められてしまった。
「そこまでだ」
 奈々美を拘束した男が低い声で言う。奈々美は拘束から逃れようともがくが、和也を軽く投げ飛ばした腕力でも無駄な抵抗だった。何しろこの男、奈々美に負けず劣らずの筋肉質なのだから。
「邪魔しないでよ、この男、ぶっ殺してやる……!」
「そういうわけにもいかないんだなあ」
「畜生……ッ!」
 怒りに顔を歪ませて奈々美は呻く。その凄まじい剣幕に萎縮し、誰も一言も発する事が出来ないでいた。
 奇妙なまでの静寂。
 それを破って通りの良い、涼やかな声が響いた。

「……揉め事を起こしているのはこちらですか?」

 その一声に、野次馬が自然と道を空けた。
 現れたのは生徒会の連中だ。先頭を歩くのは、一年生の紳目美佳しんめみか。高校生にしては小柄な体系で、生来の童顔と相まってまだ充分中学生で通じそうだ。寡黙で殆ど表情を変えないが、左目の下にある泣きボクロが密かなチャームポイント。
 しかし美佳のなによりの特徴は、彼女が盲目であるという事だった。
「……またあなたですか、奈々美さん……どうしてあなたはそう問題ばかり起こすのですか?」
 抑揚の無い口調で言い、すたすたと奈々美の前に歩み寄る。幼少時に光を失って久しい彼女には、この程度はどうということの無い動作だ。
「……理由は存じませんが、あなたも木星人の一人です……軽はずみな事をして木星人全体のイメージを悪くするような真似はくれぐれも慎むよう……と、これで14回目です」
 お決まりのセリフを繰り返す美佳から、ケッ、と奈々美は目をそらす。さすがに生徒会に逆らえば停学は覚悟せねばならないので怒鳴ったりはしないが、黙って従う気は毛頭無いようだ。
「そうそう。美佳さんのおっしゃるとおり。暴力はいけねえな暴力は……」
 美佳の言に露骨に迎合した、奈々美を拘束したままのこの男は、名を山口烈火やまぐちれっか。二年生である。
 そのことさらに存在を誇示する筋肉と、一言で言い表すならば『ごつい』顔つき。有り体に言えば強面な男だ。町を歩けば半径一メートル以内には誰も近寄らない。性格は見た目通り喧嘩好きにして粗暴。尤も暴力沙汰を起こした事は無い。十中八九拳を交える前に相手が逃げ出すからだ。
 何より特徴的なのが年齢からはおよそかけ離れた白髪だろう。それが実年齢より幼く見える美佳とは対照的に、烈火が『老けて』見える一因となっている。当然それを口にした奴は死刑。
 二人とも、木星人にして和也の仲間だ。
「ちっ……烈火も美佳も、どうしてそういい子ぶるのかしらね……!」
 拘束されたままで、奈々美は毒を吐く。
「……とにかく、奈々美さん。あとで生徒指導室で先生方からみっちりお説教を受けていただきます……」
「はは、ざまあねえな、この暴力女……」
 と、それまで棒のように突っ立っていたあの男子生徒が口を開いた。その顔は皮肉な喜びに歪んでいる。
 ――こいつめ。奈々美に火をつけたのは自分のくせに、奈々美が罰せられるのがそんなに嬉しいか……和也はこの男への反感が強まるのを感じる。
「もう少しでこの暴力女に殴られる所だったよ。どうか生徒会さん。こいつに重い処分を……」
「ちょっと待った!」
 たまらず和也は叫んでいた。その場にいた全員が和也のほうを見る。
 この馬鹿は労せずして自分に反抗した木星人を裁いてもらえると思ったのだろうが、そうはいくものか。多少の事は我慢してきたが、和也にもナショナリズムというものがあるのだ。
「あんたさっき、奈々美に向かって『木星人のくせに生意気だ』とか――――」
「てめえ! 余計な事言うんじゃ……!」
 ねえよ、と明らかな恫喝を加えようとした男子だったが、それは烈火の「黙ってろ」の一言で止められた。
「『お情けで住まわせてもらってる』とか、どう考えても木星人を侮辱してるとしか思えない事言ったけど、そっちにも非があるよね、美佳?」
「……本当ですか?」
 澪が、ユキナが、楯身が、妃都美が、恐くて言い出せなかった野次馬たちもが頷いた。これでもう、言い逃れはできなくなったわけだ――――男子の顔が急速に強張る。
「聞き捨てならねえな、そりゃ」
 にいっと口の端を凶暴な笑みの形に歪めた烈火は、奈々美を解放してぽきぽきと指を鳴らす。脅えた男子は足を笑わせて後じさった。
「お、おい、生徒会の前で暴力振るっていいのかよ! 下手すりゃ退学もんだぞ、おい!」
「それはどうかね? 美佳さんよ」
「……そうですね、確かに重大な問題発言ですから……」
 口元に手を当てて美佳は頷く。後ろの生徒会メンバーも異議を唱えない。
 なにしろ美佳も烈火も、生徒会の主なメンバーも木星人なのだ。正義を重んじる木星人は生徒会に入って風紀を正そうと考える者が多いから、自然と木星人の比率は多くなる。
 とすれば、木星人の尊厳を傷つけたこの男に対する私的制裁を、生徒会が黙認するというのもありえない話ではない――――
 壁際まで追い詰められた男子の前に、烈火は轟然と立った。男子にしてみれば、烈火はさながら絶望の壁に見えたことだろう。
 腰を抜かしてへたり込む男子。制服のズボンが濡れているのは失禁したからか。
 哀れなこの男子に、誰もが内心で十字を切った――――

「……駄目ですよ。理由がどうあれ暴力行為は容認できません」

 ちっ、と舌打ちして、烈火は渋々拳を収めた。そう、『渋々』である。
「……とりあえずは、二人とも放課後に生徒指導室へ出頭してもらいますので……罪を悔い改める事ですね」
 逃げたら罰則が重くなりますのでそのつもりで、と美佳は釘を刺しておく。
「ま、これにて一件落着、かね」
「……あなたもですよ、烈火さん」
 へ? と間の抜けた声を出す、烈火。
「俺はケンカを止めただけだぞ?」
「……そうではありません。これです」
 美佳が拾い上げたのは、烈火が奈々美を止めるのに使った拳銃だった。
「……学校にエアガン、モデルガンの類を持ち込むのはやめてくださいと、何度も言ったはずですが」
「はっ」
 しまった! と叫んだ時にはもう遅い。
「……没収します」
「み、美佳ッ!」
 拳銃を生徒会メンバーに手渡す美佳に、烈火はすがりつく。
 巨漢の烈火が小柄な美佳にすがりつく。なんとも滑稽な姿であった。
「そ、それは今サークルの備品として申請してる所で……」
「……それなら今しがた却下されました。あなた方のサークルはまだ公認サークルではありませんので」
「そいつは俺が徹夜して買った初回限定生産ミリタリーモデルで……」
「……規則は規則です」
「美佳あ――――! それはないぜ――――――――――!」
 どっと笑い声が上がった。


 奈々美の暴力沙汰は、辛うじて未遂に終わった。
 あの不良男はひとまず生徒会に引き渡され、保健室に放り込まれた。烈火に睨まれたのがよほど恐ろしかったのか、萎縮してしばらくは口も聞けそうにないらしい。
 そして事が一段落すると、和也達はそれまで忘れていた空腹を思い出し、その足で遅ればせながら食堂へ直行した。
 第一オオイソ高校の学生食堂は、一応の独立採算制で有料ではあるが、味はどうという事の無い平凡。値段もそれ相応である。メニューに料理一つ一つのカロリーや塩分の割合が明記してあり、それが体重の気になる女子生徒からそれなりに好評を博している。
「まったく、白鳥さんに殴られるわ奈々美にぶん投げられるわ、今日は厄日だよ……」
 よろよろと緩慢な動作で和也は席につく。
「和也ちゃん、大丈夫だった……?」
 心配した澪が言うと、和也は苦笑いを浮かべて平気だと応えた。やはり痛いようだった。
「じゃれついちゃって……手加減はしたわよ?」
 少し不機嫌そうな声で言ったのは奈々美だ。『少し』なのはあの男の情けない姿を見て興奮も納まってきたのだろう。
 今ここにいるのは和也と澪のほかに楯身、妃都美が同行を申し出、腹が減って死にそうだと奈々美が強引に参加。さらに例の男を他の生徒会メンバーに任せて美佳が参加し、烈火がおまけで付いてきた。
 この木星人たちは、全員が幼い頃から連れ添い、地球にまで全員でやってきた友達同士だ。幼稚園から小学校の時期にかけて知り合い、今日まで仲良くやってきたという。
 ユキナとは騒ぎが収まったあとで別れた。彼女はミナトが手製の弁当を作ってくれるそうだ。
 ミナトの料理が美味しいのは澪が良く知っている。ミナトの担当は数学だが、澪にとっては料理の先生でもあるからだ。……尤も、いくら練習しても和也にとってはあまり意味が無いと知った時は、ショックだったけれど。
 と、話を戻そう。
「……神よ、今日の糧に感謝いたします……」
 胸の前で両手を組み、祈りを捧げる美佳。彼女は地球に来てから宗教に興味を持ったらしく、聖書など呼んでいるようだ。
「さあ、食うわよっ!」
 奈々美は豪快に焼肉定食をかきこみ始める。大盛、特大盛とあるのだが、奈々美のそれは特大盛以上の大盛で、並の倍は軽くある。
「いつも思うんだけど、奈々美ちゃんてよくそんなに食べられるよね……」
 そう、澪。
「これを維持するにはねぇ、たくさんのエネルギーが必要なのよ」
 ふん、とこれ見よがしに筋肉の隆起した腕を突き出す。自慢なのだろうか。
「でも、烈火君はそんなに食べてないけど……」
「ああ、コレはいいのよコレは」
 奈々美が『コレ』呼ばわりしたのは先ほどから目の前の唐揚げ定食に手をつけていない烈火の事だ。
 大事なモデルガンを没収されたのがよほど悲しかったのか、テーブルに突っ伏しシクシクとすすり泣いて……という表現は適当でないかもしれない。なにしろやたらとドスの聞いた重低音の声で泣くものだから、すすり泣きというより野獣の唸り声にしか聞こえない。
「コレもあたしと同じくらい食べるんだけどさ、なんでだか遠慮して食べないのよ。足りない分は栄養ドリンクとカロリーカプセルで済ませてるみたい」
 味気ないでしょ、と八重歯を除かせて奈々美は笑う。
 すると烈火が、予備動作無しに顔を上げた。
「味気ないとは何だ……食い物ってのは分け合うもんだぞ」
「……木星には食べ物の供給を満足に受けられない人も多く居ました……それを忘れないのは良いことです」
 美佳に褒められ、烈火はぱっと目を輝かせた。
「そうだよな! 木星にはひもじい思いをしてるガキんちょもたくさん居たもんな!」
 席から立ち上がって烈火は力説する。周りの注目が集まるが気にしない。
「決して、決して忘れねえよ! 世の中には食べられねえ人も沢山居るって事を! だから……!」
「……モデルガンでしたら返しませんよ?」
 ひゅるるるる、と風船から空気が抜けるように烈火はうなだれた。見事なまでの自爆に再び笑い声が上がる。
 と、和也が妙に深刻な面持ちで澪に耳打ちした。
「ねえ澪。ちょっと思うんだけどさ……」
「え……なに?」
 少しどきりとした。
「烈火の奴、最近美佳に逆らえない感じだけど、何か弱みでも握られてるのかな?」
 脱力した。
 女の感情だけならまだしも、和也は男の感情すら理解できていない。それがなんとも歯がゆい……
「和也ちゃん……本当に解んないんだね」
 ? と小首を傾げるばかりの和也であった。
「うふふ……それにしても、みんなが集まるのも久しぶりですね」
 と、爆笑の渦治まらぬうちに妃都美が言った。
「地球に来てからもう四年だ。みんな地球人の友人も出来てきただろうし、学業も忙しいからね」
 和也の言に、良い事ですな、と楯身。
「いつか木星と地球との和平のため、我々がその架け橋となれると良いですな」
「……まあ、それもいいけどさ、たまにはこうして七人――」
 おや? と和也はその場の仲間を指折り数える。
「一人、足りない」
「あん? ちゃんと七人居るじゃねえか」
 と、烈火。
「澪を入れて七人。木星人があと一人いないよ」
「ああ……誰だったけか?」
 ……たぶん冗談だろう。十年近く連れ添った仲間の存在を忘れるはずが無い。
 そういえば烈火君は、あの子が少し苦手なんだっけ――――そんな事を考える澪の視界の隅を、ふっと横切る影があった。
 気がついてはっとした。そしてその時にはもう遅かった。
 その誰かは烈火の背後に立ち、細い指先で襟を引っ張ると、首筋目掛けて手にしたマグカップを傾けたのだ。
 一瞬後――――

「ア゙――――――――――――――――――――!」

 絶叫した。
「火事だー!」
「ひゃ!」
 烈火は仰天し椅子から飛び上がる。拍子に澪のサンドイッチセットが宙を舞った。
「お……っと!」
 途端、和也がテーブルから身を乗り出し、手を伸ばした。最初に落ちてきたトレイをキャッチすると、そのままサンドイッチが、そして三角パックの牛乳が、無事な姿でトレイの上に戻った。
「はいよ」
 と、差し出されたトレイを受け取る。
「あ、ありがと。すごいね和也ちゃん」
「はは、昔から動体視力には自信が……」
 あるんだ、と言いかけた口は宙に浮いた。
 和也は突然苦しそうにウッ、と短く呻き声を上げたかと思うと、そのままがくりと膝をついた。
「和也ちゃん!? どうしたの、大丈夫!?」
「……平気。ちょっと眩暈がしただけだから」
 澪が差し出した手を、和也はやんわりと振り払った。
「やっぱり、長いこと“使って”なかったから衰えたかな……」
「え?」
「なんでもない。そんな事より……」
 きっ、と和也は烈火に紅茶をぶっ掛けた卑劣な闖入者に目を向けた。
 最後の仲間が、そこに立っていた。

「ごめんあそばせ。手が滑りまして」

 開口一番、その闖入者は悪びれる様子もなく言ってのけた。
 スパゲティー・ナポリタンの乗ったトレイを持っているところを見ると、彼女も昼食を摂りに来た所だったのだろう。烈火にしてみれば居ないと思って冗談を言ったはずが、最悪のタイミングで出くわしてしまったわけだ。
「手が滑った、という割には随分と正確なピンポイント爆撃だったね美雪……」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
 和也ははあ、と溜息をつく。この女に何を言っても無駄のようだ。
 影守美雪かげもりみゆきというこの一年生の女は、誰もが認める『悪魔っ子』。と言えば可愛く聞こえるが、悪魔の申し子とはこの女のためにあると言われるほど恐ろしい女だ。
 外見は充分に美少女で通用するだろう。茶に染めた髪をボブカットにし、円盤のような形のバレッタをつけた髪型。制服のミニスカートから伸びる足はすらりと長く、決して小柄ではないものの大きな丸い目が少々顔つきを幼く見せる。
 男が好む表現を用いるなら、ロリ系。
 マンガのお嬢様が使うような独特の口調もその雰囲気を助長するのに一役買っているので、大抵の男はころっと騙される。
 しかしひとたび行動を起こせばこの通り。恐らくはドラキュラもユニコーンもこの女には近寄るまい。
 高校に上がってからはどういう風の吹き回しか知らないが、放送委員をやり始めている。
「どうやら皆さんお揃いのようですわね。わたくしも同席してよろしいかしら?」
「なんだと!」
 美雪のセリフに反応してか、がば、と弾かれたように烈火が立ち上がった。
「あら、何か問題でもありまして?」
「う……いやその…………」
 烈火は救いを求めて仲間たちを見やるも、誰もが笑いながら視線を逸らした。
「は、薄情者……!」
 そんなやり取りを挨拶代わりに交わしながら、木星人の七人組、他一名が集合したのであった。



「ところで奈々美さん、今回随分と騒ぎになったようですけど、何をやらかしましたの?」
 しばらくして、美雪は奈々美に訊いた。
「んー、別に……どっかの馬鹿が因縁つけてきただけよ」
「誰だっけ? 何度か暴力事件とかで停学になってる……名前忘れたけど、とにかくそいつが奈々美を挑発してさ。危うく殴り合いになるとこだよ」
 言葉少なに言う奈々美を、和也がフォローする。
「それで、そもそもの発端はなんですの? まさかすれ違っただけで因縁つけてきたわけではありませんでしょ」
「ん……そういえば」
 あの男子の罵倒は聞いたが、そもそもの発端は見ていない。
「妃都美は見た?」
 妃都美は首を横に振る。
「私は、廊下を歩いていたら怒鳴り声が聞こえてきたので、行ってみたら奈々美さんが喧嘩をしていて、慌てて止めに入りました。それ以前の事は見てません」
「ふーん、奈々美。何でケンカしたの?」
 訊いた和也に、奈々美はツンとしてそっぽを向いた。
「あんたたちには関係ないでしょ」
「またそんな事を言う……」
 相変わらず友達がいの無い奴だと思った。昔からこうなのだ。田村奈々美という女は。
「関係ないという訳にもいかんのだ」
 そう奈々美に詰め寄ったのは楯身だ。いつに無く眉にしわが寄っているのは怒っているからか。
「解っているとは思うがここは地球だ。先の大戦の禍根もまだ残っている。この大切な時期に地球人と揉め事を起こしたらどうなるか、少しは想像力を働かせてみろ」
「…………」
「あの男の肩を持つ気は無いがな、我々木星人移民は一人一人が自覚を持ち、ここは地球であって木星ではないと緊張感を持って慎ましく――――いや、多少我慢してでも地球人とは上手くやらねばならんのだ。そうでないとせっかくの和平も水の泡になりかねん。そこの所を……」
「はいはい。お説教なら後で受けるわよ」
 ひらひらと手を振って見せる。あたしはそんな話に興味は無いと言わんばかりに。
「奈々美、お前は……!」
 続く楯身の言葉は、美雪の発した一言に遮られた。
「残念でしたわねえ、奈々美さん。殴り殺してやればよろしかったでしょうに」
「……っ!」
 無遠慮な美雪のセリフに、思わず楯身は席から立ち上がった。
「美雪! お前という奴は我々の立場をなんと心得る!」
「さあ? わたくしは和平がどうとか、そういう話には興味がございませんから」
「興味が無いでは済まされんぞ! いいか、我々は――――」

「楯身。声が大きいぞ。怒鳴るなら外でやれ」

 和也の一言に、楯身は声を収めて周りを見た。
 楯身の怒声に驚き、食堂に居た誰もが和也達のほうを見ていた。
「……申し訳ありませぬ」
 楯身は席につき、居心地が悪そうに体を揺すった。
「楯身。お前の言いたい事も解るけど……地球にどうしても馴染めない奴だっているんだ。波風立てても反発食うだけだぞ。……それに、僕たちも地球人に媚びる必要なんて無いんだよ」
「……存じております」
 和也のそれは奈々美や美雪を庇うためと言うより、楯身の自論に多少反感を覚えて出たセリフかもしれない。
 揉め事を起こさないよう慎ましく暮らす、というならまだ解る。一つ揉め事を起こせば他の木星人にも迷惑がかかるから。
 しかし、正直な所和也もあの男の言動にはかなり腹が立った。揉み消せるのが確実であれば、指の一本も切り落として金輪際あんな事は言うなと誓わせたい。
 大体、地球――――地球連合にしたところで、木星人の先祖を火星、そして木星へ追いやった事、その事実を握りつぶそうとした事、それらへの贖罪は何も行っていないじゃないか。だったら和平なんかとっとと破棄して、また戦争を始めて今度こそ叩き潰してしまえばいい――――という考えは確かに和也の中にある。その意味では和也は火星の後継者を支持している。きっと他の連中もそうだろう。
 最近の楯身は、いつも地球人の顔色を気にしている。
 ……和平なんて、どうでもいい事なのに。
「……ま、地球人だの木星人だのなんてどうだっていい。僕は澪やみんなとこうして静かに暮らせれば、それでいいよ」
「そうですね……もう戦争とかには関わりたくありません」
 そう、妃都美。
「そんな保障がどこにありまして? 今も火星の後継者は活動を続けておりますし、いずれここも平和ではなくなるかもしれませんわよ」
「……関係ないさ」
 美雪の言に、和也。
「火星の後継者が草壁中将の理想の世界を実現したいというのなら、すればいい。戦いたいなら戦えばいい」

 だけど僕らには関係ない。

「あの戦争も、火星の後継者も。何処か遠い世界の出来事だ。僕らにはもう、関係ない……」
 このまま学校を卒業して、働き口を見つけて……歴史の流れの中で何も残すことなく生きて、そして死んでいくのだと、何よりも和也自信が信じて疑わなかった。
 ――自分の描いた未来図なんて、世界は簡単に壊してしまうのを知っていたのに。



 昼休みが終わり、一同は解散。午後の授業が始まる。
 ――――そして、つつがなく終了。



 学校が放課後を迎えた頃には日が少しづつ傾き始め、気温を下げるべく町を走り回っていた散水車も姿を消す。生徒たちも家路に付き始め、学校から徐々に人が引いていく。
 そんな中、和也はコンピューター室に残って光ネットに没頭していた。既に日課と化した行動である。
「月でまたテロ……か」
 ニュースサイトのトピックスでは、ネルガル月ドックで起こった襲撃事件とそれを阻止した連合宇宙軍の戦艦ナデシコB、そしてその艦長であるホシノ・ルリについて事細かに書き記された記事がでかでかと載っていた。
 日付を見ると、既に事件から三日が経過している。この情報公開の遅れはホシノ中佐の戦功云々をどう報道するかについて、宇宙軍と統合軍が大人気なく角つき合わせた結果だろう。
 蜥蜴戦争の際に何かと冷遇されていた地球連合の陸海空軍が中心となって編成された統合軍は、前々から宇宙軍を敵視する傾向があった。宇宙軍もそのあたりはわきまえていたらしく、それなりに折り合いはつけていたらしい。
 だが、去年末の火星の後継者第二次蜂起に際して起こったある事件が、その微妙な均衡を崩す事となる。
 統合軍によるホシノ中佐の拘束。
 その経緯については、現在のところ一般には公表されていない。しかしその結果は誰もが知っている。
 統合軍と宇宙軍の関係はこれまでに無いほど悪化し、連携が取れないどころか、お互いを牽制し合うまでになった。
 ――だから、火星の後継者が我が物顔で活動できるわけだけど……
 そんな中で確実に戦功を上げているのが、ナデシコBとホシノ中佐だ。
『電子の妖精』だの『史上最年少の天才美少女艦長』だのとあだ名がつき、おまけに美人で優秀ときている。マスコットキャラクターとしてはこれ以上ない逸材だろう。
「さぞマスコミが喜んで集まるだろうね」
 以前は和也などもそう、意地悪く言ったものだ。
 尤も最近の彼女の戦功を見れば、和也も認識を改めざるを得なかったが――――

「――あんた、またそれ見てんの?」

 唐突にユキナの声がして、和也はウィンドウから顔を上げた。
 和也の真後ろに、仁王立ちになったユキナが立っていた。その横には澪が居て、和也と目が合うと微笑んだ。
「うちは金欠でパソコンも買えないのでね。で、奈々美はどうだった?」
「先生にたっぷり絞られてたわよ。多分効いてないと思うけど……もう帰ったんじゃないかしら」
「だろうね」
 はは、と和也は軽薄に笑う。
 すると、澪がなにやら沈鬱な面持ちでウィンドウを覗き込んでいた。
「……また、テロ?」
 心なしか沈んだ声で、澪は言った。
「あ、ああ……まあ」
「何で皆そんな事するんだろうね……」
 不満があるなら話し合えばいいのに、と澪は言う。
 知らない人が聞いたら、奇麗事だと笑うかもしれない。だが、澪には十分テロという行為を否定する理由があった。
「……澪、やっぱりまだおじさんのこと……」
「……うん」

 ――――澪の父親は、統合軍のクーゲルドライバーだった。

 戦後間もなく仕事を失った澪の父親は、次の仕事が見つかるまでのつなぎとして統合軍のパイロット新規採用に参加した。
 どうせ当分戦争は起こらない。大好きな機動兵器に乗れるなら。そんな軽い気持ちで軍に入った彼は、ターミナルコロニー『シラヒメ』襲撃の際、あのテロリスト、プリンス・オブ・ダークネスに撃墜されて、死んだ。
 澪の父がシラヒメに赴任するとき、危険だから行かないでと泣きつく澪に、大丈夫、必ず帰ってくると笑った父の姿を、和也は今でも覚えている。
 休暇が取れたと聞いた時、もうすぐお父さんが帰ってくると楽しそうに言っていた澪の姿も覚えている。
 そして……
 無言で帰宅した父に、澪はついに対面できなかった。父の身体はコクピットごと叩き潰され、棺はその姿を覆い隠したまま開かれる事は無かった。

 ――――どうしてお父さんを殺したの!? テロリストなんか大っ嫌い!

 そう、棺にすがって泣き叫ぶ澪の姿を、和也は一生忘れる事が出来ないだろう。
 あれから一年。澪はまだあの時の事を引きずっている。一年という歳月は、家族を理不尽に殺された心の傷を消すには短すぎる。
 夜中、一人で泣いている事もあった。
 誰もが身を引き裂かれる思いで待ち続けたというのに……結局、プリンス・オブ・ダークネスがテロを起こした理由も動機も、今日に至るまで明らかにされてはいない。ただよく解らない肩書きの専門家が、したり顔で犯罪心理だの何だのを並べ立てるだけで。
 澪の周辺にあっては、無神経にこんな事を言い立てる奴もいた。
「国に何を言っても聞いてなんかもらえないから、テロも仕方ないよ」
「よく解んないけど理由があるんだよ。テロリストを悪い人だと思っちゃいけないんじゃないの?」
 聞いた途端、和也は言った男を殴った。澪の気持ちも何も知らないくせに馬鹿げた事をほざくな!
 遺族の涙も乾かぬうちに起こった、火星の後継者第二次蜂起。テロ。――――そして、プリンス・オブ・ダークネスの再来。
 事件の陰は、いまだ薄れてはいない。



 ――――その頃、誰も居ないはずの体育倉庫で、山積みにされた箱の一つが動いた。
 ごとり、とひとりでに蓋が持ち上がると、中から黒装束に身を包んだ人影が、ぬう、と姿を現した。
 人影は積み上げられた体育用具を足がかりに、窓から外へ這い出した。そのまま体育館の陰に隠れながら校舎の裏側へ回ると、最近の世界情勢を考慮して配置されたガードマンが二名、裏門を見張っていた。
 ホルスターからサイレンサー付きの拳銃を取り出し、躊躇無くガードマンへ銃口を向けた。
 ぽふ、と気の抜けた音がし、同時に側頭部に穴を開けたガードマンがもんどりうって倒れる。それに気付いたもう一人が警棒を抜いたが、人影を視界に捕らえる間もなく凶弾に襲われた。
 最初は右肩を撃たれ、警棒を取り落とした。次に左足を打ち抜かれ、悲鳴を上げて崩れ落ちた。
「悪く思うなよ……」
 人影は激痛にのたうつガードマンに歩み寄ると、額にとどめの一発を撃ち込んで殺した。
 ガードマン二人が殺されたのとほぼ同時に、裏門に二台のトラックが乗りつけた。その荷台からは今世界に知らない者は無いであろうマークをあしらった制服を着た一団が、手に手に拳銃を持って現れる。
 一団はわき目も振らずに学校の敷地に飛び込み、校舎の各所へ散っていった。

 事件は、ここに始まった。



「あーほら、ルリ、ルリが映ってるよ。また大活躍だよねえ、ね?」
 暗い空気に耐えかねたのか、ユキナが口を差し挟んできた。すぐ近くで進行している事態に気付くよしも無く。
「ああ、ホシノ中佐か……」
「私たちと同じ年なのに、凄いよね。こんな人が私たちと同じ学校に通った事があるなんて、正直信じらんないよ」
 澪の言う通り、ホシノ中佐は一時このオオイソシティに住んでいた。
 当時彼女は軍を除隊し、一学生としてオオイソ高校付属中学に通学していた。和也とは同級生に当たるので、同席した記憶もあるのだが……
「このホシノ中佐って、やっぱり僕らと同級生だった、あのホシノ・ルリ……なんだよね」
 疑うように和也は言った。
「なに? やぶからぼうに」
「いや……なんだかピンとこないんだよ。僕の記憶にあるホシノさんとこのホシノ中佐と、あまりにイメージが遠くてさ」
 どんなふうに? とユキナ。
「んー……」
 和也は眉間を押さえる。
 ホシノ・ルリの事を、和也はよく知らない。
 当時の和也はまだ地球人の中に溶け込めず、クラスメイトの名前も殆ど記憶に無い。ルリはルリで自分から他人に話し掛けるような人では無かったので、交流は当然持っていなかった。話もした事が無かったに違いない。
 いつも教室の隅で、機械のように授業をこなしていた。
 常にうつむいたまま、殆ど誰とも口を利かなかった。
 美人で頭は非常に良いが、無口でネクラな女――――和也がルリに対して持っている印象は、その一言に尽きる。
 ところが今はどうだろう。最新鋭戦艦を一人で操り、クーデターを二度に亘り鎮圧し、今はテロリストを次々駆逐している。
 それだけではない。最近は以前にもまして苛烈というか、過激な噂が聞こえてくる。
 例えばこんな噂がある。
『ホシノ中佐は第二次決起司令官、南雲義政を事故に見せかけ爆殺した』
 南雲は軍の発表によると火星から地球へ護送中、船の航行システムに異常が発生。残骸に激突した際にエア漏れを起こし、窒息死したとされている。これがホシノ中佐による偽装殺人と噂されているわけだ。
 何故かというとホシノ中佐は火星の後継者に対して私怨を持っており、船の航行システムをハッキングして事故を起こすよう仕向けたのでは、という事だ。
 勿論、ホシノ中佐はこの件を否定しているし、船のコンピューターにはハッキングの痕跡など残ってはいない。
 しかしホシノ中佐なら痕跡を残さずハッキングするなど簡単だろうし、乗組員は全員無事だったにも拘らず南雲だけは隔壁の一部が誤作動して助けられなかったというのも、今にして思えば解せない話だ。
 とにかく、ホシノ・ルリが軍に入ってこのような人殺しができるような人だとは和也には思えなかった。さらに言えば、艦長席にふんぞり返って偉そうな態度で部下に命令を下すルリが想像できない。
「同一人物とはとても思えないけど……」
 へぇ、とユキナは頷く。
 ……次の瞬間、ユキナの右フックが和也の側頭部を抉り、和也は派手に椅子ごと倒れこんだ。
「い、いきなり何を……」
「蚊が止まってたのよ。マラリアにでもなったら大変でしょ」
 憮然としてユキナは言った。何か怒らせるような事を言っただろうか。
「……ま、あの子は、あまり感情を顔に出したがらない子だったから。……それに、いろいろあったのよ。あの頃は……」
 ルリの友人だったユキナは物憂げな顔をする。
「はあ、気にはなるけど、僕は空気の読める人だから聞かないでおくよ」
 そうだね。と澪も同意する。
 とその時、下校時刻を告げるチャイムが鳴った。

『えー、本日は下校時刻となりました。居残りの許可を貰っていらっしゃらない方は、下校してくださいませ――――』

 この独特の口調は美雪の声だ。もうそんな時間か。と和也はパソコンの電源を切る。

『繰り返しますわ。居残りの許可を貰っていらっしゃらない方は……あ、あら、何方ですの!?』

 美雪の慌てた声がした途端、マイクが床に落ちでもしたのか甲高いハウリングの音が部屋中に鳴り響いた。思わず和也達は耳を塞ぐ。
「な、何だ……?」
 誰かが言った。スピーカーはどたばたと誰かが走り回るような音を垂れ流している。よく聞けば放送委員の声や、「大人しくしろ」という聞き慣れない男の声もする。
 明らかな異変に、周囲にいた生徒たちがざわめき始める。
「何か……あったのかな?」
 不安そうに、澪が言った。
「……わかんない。ちょっと様子を――――」
 見てくる、と言おうとした時、和也のすぐ側で女子が悲鳴を上げた。突然妙な格好をした二人組の男子がコンピューター室に入ってきたのだ。二人は「全員動くな!」と叫び、持っていたリボルバー拳銃で生徒たちを威嚇した。
 その格好に、和也は見覚えがあった。白と赤を基調とした制服。そして、その胸にあしらわれた火星と外宇宙への離脱を示す『♂』のマーク。
 ――火星の後継者。
「おい、なんの真似だ。悪ふざけはやめろ」
 一人の上級生が、二人組へ歩み寄っていった。下級生の悪ふざけと思ったのかもしれない。二人はどう見ても高校生くらいの年だし、持っている銃はレーザーガンに似せて作ったオモチャの様な物だったから。
 だが、和也には解った。駄目だ。
「おい、それ以上近付くな!」
 その警告にも、上級生は応じなかった。
「だめだ、危な……っ!」
 乾いた音がした。
 最初、その音が何だったのか、多くの生徒は理解できなかったろう。だが、肩口を真っ赤な血に染めた上級生が倒れ、彼が実銃で撃たれたのだと理解した。
 悲鳴が上がった。誰かが「テロリストだ!」と叫び、誰もがパニックに陥り暴れまわった。
「黙れ!」
 テロリスト――いや、兵士というべきだろうか?――が天井に向けて一発、発砲した。銃声に誰もが凍りつく。
 和也の傍に居た男子生徒が、抵抗しようとしてか椅子を持ち上げた。和也は慌ててそれを止める。
「よせ! 抵抗するな」
「で、でも……殺されっちまう!」
「大丈夫だ。火星の後継者は自称正義のための組織……こっちが下手な真似をしなければ、なにもしないよ」
 希望的観測だ。だがここで抵抗しても勝ち目は無い。
 数秒の静寂の後、沈黙していたスピーカーが声を発し始めた。ただしそれは、放送委員の声ではなく――――
『――当校舎は、現時刻をもって、我々火星の後継者が占拠する』
 処刑者に等しい、男の声だった。
『――少しでも逃亡、抵抗の素振りを見せた者は、理由の如何に関わらず即刻射殺する。だが我々の命令に従うのであれば、生徒、教職員に危害は加えない事を保証する。諸君等の協力に期待する。以上――――』





あとがき

 主人公登場。学生から見た世界情勢と、事件発生でした。なんだか説明にかなり文を費やした気が……くどいって言われそうだな。
 何かしょっぱなからオリキャラがわらわら出てきてますが、彼らにしかできない事があると判断した上での登場ですのでご勘弁を
 次回は学校を舞台にしての戦いになります。人体破壊描写のさじ加減が難しそうです……それで一度投稿拒否された経験がありますから(汗)。

 それでは。また次回で。

 追伸 前回行間に余裕が無く見にくいという感想を皆様からいただきましたが、こんなものでいかがでしょうか。



 

 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

え、黒ルリが主人公じゃなかったんですか?(爆)

それはともかく今回を見た限りでは狂言回しというか、第三者視点を取り入れる為の主人公と見ました。

っつーか読み始めたときはいきなりどこの恋愛シミュレーションかと思いましたよ。(笑)

で、日常パートがいきなり終っちゃうわけですけど・・・・大丈夫かな、生徒たち。

 

>行間に余裕が無く〜

「このくらい詰まってた方が読みやすい」という人もいますけどね(笑)。

もう少し見やすくするならセリフと地の文の間に空白を一行入れるとか、そういうのもいいかと。