「早くして! 手が腐っちまうわよ!」
「細胞活性剤を早く持ってこい!」
「応急処置はしましたが、失血が多いです! 念のため輸血の準備もお願いします!」
「もっと丁寧に運ばれるようお願い致しまする!」
 ナデシコB艦内の廊下を、ストレッチャーを携えた一団が怒声と共に駆けていく。
 ストレッチャーを押すのは『草薙の剣』のメンバー四人。それと共に走る白衣を着たクルーは、ナデシコB付きのメディカルスタッフ。実戦に従事する戦艦ではしばしば見られる、負傷者の搬送だ。
 その負傷者――――黒道和也は、ストレッチャーの上に力無く横たわって荒い息をついていた。その右手からは、本来あるべき部分――――親指を除いた指四本を含む、右掌の上半分ほどが欠落していた。その欠けた一部は、現在メディカルスタッフの持つシリンダーの中で培養液に浮かんでいる。
 鎮痛剤で痛みは治まり、医療用ナノマシン配合のスプレーで出血はほぼ止まっているが、和也の半身を真っ赤に汚した血糊が、それまでの出血の激しさを物語っていた。
 ふと顔を上げると、通路の途中に誰かが立っているのが見えた。――――ルリだ。目の前を通り過ぎていく和也たちに何か声をかけるでもなく、ただいつも通りの無表情で和也を見下ろしていた。その視線が蔑みの色を含んでいるように見えて、和也は泣きたくなった。
 ――くっそ……なんて醜態だ。
 あいつさえ来なければ、こんな事にはならなかったのに。そう思って、和也はほんの数時間前の事を思い出していた。



 機動戦艦ナデシコ――贖罪の刻――
 第十一話 奇麗なバラには毒がある 中編



 月明かりで鈍く光る刃が自分の喉元を切り裂こうと迫った時、和也は愚直にも手づかみでそれを止めた。鋭い刃がグローブを容易く切り裂いて皮膚に、肉に食い込み、掌にびりびりと痺れるような痛みが走る。
「ク――――――」
 和也の背後を取った襲撃者が、低く吐息を漏らす。笑った、いや、嗤ったのだと和也が気づいた途端、襲撃者はグリグリと刃をこじり始めた。傷が抉られ、ごりっ、と骨に当たる。
「……――――――っっっ!」
 痛い、痛い! しかし押さえつけられた口から声は出なかった。
 恐ろしい事に、この刃物は両刃になっている片方がノコギリ状になっているのだ。骨までがゴリゴリと削られ断ち切られていくのが解る。
 ――このままじゃ……殺られる!
 激痛と恐怖に塗りつぶされそうになる意識の中、和也は唯一自由になる左手の袖口に忍ばせていたナイフを取り出し、本来飛び道具として用いるそれを襲撃者の左手に突き刺した。
 ぐっ! と襲撃者が呻き、拘束する力が僅かに緩む。その隙をついて和也は左の肘を襲撃者に叩きつけて拘束から逃れた。

 ――瞬間、ぶちっ、と右手が嫌な音を立てた。

「――――うあああああああああああああああああああああああああああっ!」

「隊長!?」
「和也さん!?」
 和也の上げた絶叫に、ようやく他のメンバーが異常に気が付いた。
 何をしている、などと文句を言う余裕は無かった。
「う……が……あ…………!」
 右手が焼けるように痛い。真っ赤に焼けた鉄を押し付けられたようだ。切断された掌は無残にささくれ立った傷を晒し、どくどくと流れ出る血は暗闇の中で真っ黒な墨に見える。その傷の先――――指四本を含む右手の上半分は、本来あるべき所を離れて和也の足元に落ちていた。
 最悪だ。切断された右手の一部がまだ『生きて』いるうちにしかるべき医療設備のある場所でくっつけないと、もう元に戻らなくなる。
 とにかく事態を把握しようと、激痛を堪えて目と意識を襲撃者の方へ向けた。
「ちょっと……何よこいつ……」
 奈々美が擦れ声で言った。
 異形だった。全身をマントのような砂漠色のボロ布で覆っている。その下から覗く身体は真っ黒で、何も無いがらんどうかと錯覚するが、よく見れば体にフィットした黒いスーツを着ているだけだ。一見ふざけた格好だが、この地の植生からすれば理に適ったカモフラージュかもしれない。
 ただ唯一、顔を覆う髑髏の仮面だけが不気味に白く映えている。表情はもちろん窺えないが、仮面から覗く双眸は確かな殺意を持って和也たちを見据えていた。
「何者だ!? テロリストの一味か、それとも火星の後継者の手の者か!」
 和也を庇うように前に出て、楯身が誰何する。もちろん答えなど返ってこない。
「……傲慢なる大悪魔の先兵よ」
 代わりに返ってきたのは、宗教的な響きを持った敵意の言葉。
「神より賜りし神聖なるこの地。貴様らの血で汚すのは不本意なれど……せめてその汚れし魂を、神の懐にて清めんことを」
 その言葉に攻撃の気配を感じ取り、楯身たちが身構える。
「神は偉大なり――――シャッ!」
 予備動作無しに繰り出されたナイフの投擲。過たず和也の左目を狙ったそれは、和也の文字通り目の前で楯身の手に弾かれた。
 それを合図にして全員が一斉に銃火を浴びせる。拳銃、ライアットガン、アサルトライフル、六人分の銃火器が怒涛の勢いで銃弾を吐き出し、マズルフラッシュが室内を昼間のように明るく照らし出す。襲撃者はその中で蜂の巣のように撃ち抜かれる――――はずだった。
「な……!?」
 和也は驚愕に目を向いた。
 襲撃者は人間離れした跳躍力で、銃弾の尽くをかわして見せたのだ。壁や天井も駆使して部屋の中を飛び回り、翻弄される和也たちの銃撃は襲撃者を捕らえられないまま、徒に壁へ弾痕を穿っていく。それは先日美雪がテロリスト相手にやってのけた撹乱戦術そのものだった。
 ――そんなバカな、美雪――――生体兵器でもないのにあんな動きが出来る訳が……! 予想外の事態に和也たちは動揺し、射線が乱れる。
 その隙をついて、襲撃者が矢のように襲い掛かってきた。天井を蹴り、一足飛びで一瞬にして懐に飛び込んでくる。危険だと思った時にはもう、髑髏の面が目の前にあった。
「うわっ!」
 ガギン! と硬質な音を立てて火花が散る。
 正確に和也の首の動脈を狙ったナイフの一撃は、咄嗟に和也が前に出した88型拳銃に受け止められた。チッ、と襲撃者の舌打ちが聞こえた。
「こいつ!」
 ぶおん、と風を薙いで奈々美の拳が繰り出される。しかし襲撃者はそれより早く和也と鍔ぜり合ったナイフを支点にして宙に身を躍らせ――――窓を突き破って、外に飛び出した。
「逃がすもんですか!」
「奈々美、待て!」
 楯身の制止も聞かず、奈々美が破られた窓から外へ銃を突き出す。そこを狙ったように下からナイフが飛来し、奈々美が「うあっ!?」とのけぞった。
「奈々美! 大丈夫か!?」
「だ……大丈夫。浅く切っただけだから」
 それより奴は? と左のこめかみ近くから血を流しながらも奈々美は訊いた。
 楯身たちが注意深く、外を窺うと――――もう襲撃者の影も形も無い。
 逃げた……というより退いたのか。さすがにこの人数をまともに相手する気は無いらしい。見事な退き際だ。くそっ、と奈々美は毒づく。
「何なのよあいつ……まるで安っぽいヒーロー物の怪人じゃない」
「考えるのは後! ここはもう敵にばれた。荷物を持って逃げるよ!」
 未だ火を噴くような右手を押さえながら、和也は指示を飛ばす。あの襲撃者の素性は知れないが、敵には違いない。早く逃げないとここにテロリストが殺到してくるかもしれない。
 しかし、もう一つ問題は残っていた。
「……了解。ですが……美雪さんはどうしますか……?」
「中の様子は、依然不明です……でも、早くナデシコに戻って治療しないと、和也さんの手が……!」
「とはいえ、美雪を置いてはいけねえぞ……!」
「ご指示を……隊長」
 くっ、と呻いて和也は逡巡する。美雪を置いてはいけない。でも一刻も早くナデシコへ戻らないと、切断された右手が死んでしまう。
 いっそ強行突入して美雪を連れ戻すか……最終手段の実行を考え始めたその時、不意に和也のコミュニケが電子音を発した。
『皆さま、聞こえてらっしゃいますか?』
「美雪! 無事だったのか!?」
『御心配おかけして申し訳ありませんわ。盗聴器の充電を忘れていらしたようで。それと少々……』
「報告は後にして! こっちはかなり拙い状況だ、う……急いで合流して!」
 少し安心したら、余計に傷が熱くなってきた。和也たちは切断された和也の右手と荷物を抱えて、その場から逃げだした……



 ……そして、数時間後。

「それで、コクドウ隊長の傷の具合は?」
 ナデシコBのミーティングルームにて、ルリは淡々とした調子で訊いた。ウィンドウに映る白衣を着た女性クルー……メディカルスタッフがそれに答える。
『幸いにして、切断された部位の細胞はまだ一部生きていました。細胞活性剤とナノマシンで死んだ細胞の再生を促していますので、一週間もすれば神経が繋がって、元通りに動かせるようになるでしょう』
 ほう、と一同に安堵の息が漏れる。
 ナノマシンを用いた医療が発達している23世紀現代ではあるが、切断された部位の細胞が完全に死滅してしまえばもう元には戻せない。そうなれば義手にする以外方法は無いが、兵士として致命的なハンデを負うのは避けられない。完全に元の手と遜色なく扱えるクラスの義手は最高級品に位置づけられ、それこそ家が一軒建てられる値打ち物なのだ。
 こういったケースの治療法として期待されていた再生医療は、人間が人間の一部を新たに作り、付け替える行為は神への冒涜であると考えるカルト集団によって研究機関が焼き打ちされる事件が過去何度かあり、未だに実用段階に至っていない。
 この時代の医学も決して万能ではないのだ。
『今はまだ薬で眠っていますが、じき目を覚ますでしょう。ご安心ください』
「了解しました。ご苦労様です」
 ウィンドウが消える。
 ジャザンで黒づくめの衝撃者に襲われた後、車の中で応急手当てを施し、ジャザン最寄りの基地から飛んできた救命艇と郊外で合流して、和也はナデシコBのメディカルルームに運ばれた。どうなる事かと心配だったがとりあえず大事無くて結構だ――――そんな空気を破るように、楯身が机の上に手を付いて深々と頭を下げた。
「面目ありませぬ。我々がすぐ傍に居ながら奇襲を許すなど、迂闊の極みでありました」
 まあまあ座れ、とサブロウタがやんわり窘める。
 今ここでは、和也を除いた『草薙の剣』メンバーと、ハーリーとサブロウタ、そしてルリの計九人が、一様に堅い面持ちで今日あった事について話し合っていた所だ。
 楯身はなるべく詳細にサブロウタやルリに事の顛末を報告し、返ってくる話の内容を記憶する。和也がいない今、それに代わって報告するのも和也へ伝えるのも参謀を任じられた楯身の仕事だからだ。
 楯身の報告を聞いて、サブロウタはしばらく顎に手を当てて考えた後、ん、と頷いた。
「話を聞く限り、そいつは多分、『怪人クモ男』だな」
「怪人? ……あれが噂の?」
「ああ。少し前からバビロニア共和国各地に出没して、宇宙軍統合軍問わずに駐留している地球連合軍の人間を闇打ちして回っている、腕利きの殺し屋だ」
「まるでゲキガンガーの世界でありますな。いったい何者なので?」
「さてな。正体も何も一切不明。解っているのは人間離れした身体能力を持っている事。他には『山の老翁』を調べていた奴が襲われる傾向が強い、って事くらいか」
 サブロウタの言葉に、楯身は以前読んだ報告書を思い出す。
 山の老翁。バビロニア共和国内で最大級の勢力を誇るテロ組織。非常に組織立った指揮系統を持っていて、武器も強力な物を大量に保持している。和也たちも何度か彼らのアジトを強襲して、多数の構成員を捕らえているが、肝心の指導部に繋がるような情報は得られていない。
「要するに、タジルハッド被疑者、引いてはジャザン警察署長は山の老翁と繋がっている事がほぼ確定、と思っていいわけですね」
 それだけでもかなりの収穫だと思います。と冷徹に言い放ったのは、上座に座ったままずっと黙っていたルリだ。
「襲撃に気が付かなかったのは痛いミスでしたけど、これで帳消しにしてもいいでしょうね」
 大怪我を負った和也への配慮など欠片も無い、限りなく冷たい言葉。むっ、と『草薙の剣』の何人かが顔を怒らせる。
 ルリからは言葉だけでなく全身から冷気のようなオーラが発せられている気がして、一目で機嫌が悪いと知れた。
「サブロウタさん……なんだか艦長、機嫌悪いですよね?」
「ああ、確かにご機嫌斜めだな……」
 サブロウタとハーリーが、ひそひそと囁き交わすのが漏れ聞こえた。
「何かあったんでしょうか?」
「さあな……昨日からなんだよな」
 大方、また隊長と何かあったのであろうな。と楯身は思った。ルリと和也の仲の悪さは今に始まった事ではない。
 宇宙軍の人間であるルリは、統合軍から出向してきた身である和也や楯身たちに指揮権はあっても、クビにするような権限は無い。和也とルリがしばしば険悪な口喧嘩を交わすのも、その事情があればこそだろう。
 ――ホシノ中佐があれでは、好感を持てないのは解るが……隊長も忍耐が足らぬ。この先いけすかない上官などいくらでも巡ってくるだろうからな。
 和也が目を覚ましたら我慢するよう進言しようと決め、楯身は話を元に戻しにかかる。
「まあ……確かにホシノ中佐の言う通り、状況としてはこれでタジルハッドも警察署長も間違いなく黒と、ほぼ断定できますな」
 後は、予定通り物証を手に入れるだけでいい。そうすればタジルハッド、そして彼の父親に警察署長と芋づる式に逮捕できる。問題は……
「美雪」
「え? あ、はい。何でしょう」
 美雪は何か、メモ書きのような紙に目を通していた。何かと思って覗いてみたら料理の作り方メモだ。
「会議中に何をしている……まあいい。少々失礼な事を聞くが、我々が襲われた理由として、お前の正体が看破されたという事は考えられぬか?」
「その心配は無いと思いますわ。怪しまれるような事は何もしていませんもの」
 自信たっぷりに、美雪。
 しかし、奈々美が手を上げて異議を唱えた。
「……でもさ、あの屋敷には油断のならない奴らがいるんでしょ? メイドと……使用人だっけ? そいつらが何か嗅ぎつけたのかもしれないじゃない。危険かもしれないわよ」
「あらあら? 奈々美さんにしては珍しく慎重ですこと。砂漠に雨でも降るのかしら」
 茶化すように言った美雪に、「そうだよなあ」と同調したのは烈火だ。
「いつもなら行け行けドンドンって奈々美は絶対主張する所じゃねえか?」
「な、何となくそう思っただけよ」
 妙に歯切れが悪い奈々美の言い方。
「まあ心配なのでしたら、また今度ベイルートでデートをする約束を取り付けておりますので、その時探ってみますわね。それでよろしいかしら?」
「……ふむ。不安要素は残っているが、いたしかたあるまいな」
 ここであれこれ揉めていても何も始まらない。まずは行動すべきだ――――そう思った楯身は、作戦継続の是非についてこれ以上何も言わなかった。
 それより、他に話し合うべき事はある。それについては楯身より先に美佳が口を開いた。
「……もう一つ問題があります……仮に美雪さんが正体を見破られていないにしろ……あの屋敷の使用人二人とメイドの人が、油断できない人間である事は確かです……実際に、美雪さんもデータを盗み出す隙は窺っていたと思いますが、隙が無かったのでは……?」
「ええ、まあ」
 美雪はぽりぽりと、人差し指で頬を掻く。
「……このままでは、何度タジルハッド邸へ足を運ぶ機会があっても、埒が明かないのではと思います……何か方策を考えるべきでは……?」
「それでしたら心配無用ですわ。わたくしに名案がありますの」
 言って美雪は、席から立ち上がる。
「一番の問題は、あの屋敷の中でわたくしは常に監視下に置かれている事ですわ。そこでもう一人――――マキビ中尉をお借りしたいと思うのですわ」
「……は? 僕ですか?」
 突然自分の名が話に上り、ハーリーはぽかんと口を開けた。

「わたくしが家人の気を引きますから、その隙にマキビ中尉がデータを盗み出してくださいな。簡単な作戦ですことよ」

 ……沈黙が下りた。

 この場にいた誰もが、目の前にいるこの女の真意を測りかねていた。いやそもそも真意なんてものがあるのかどうかさえ測りかねる。
「……カゲモリ上等兵。あなた正気ですか?」
 呆れているのか、はたまた怒っているのか――――ルリはこれ以上無い冷たい声音で言った。
 しかし美雪は怯みもしない。
「せめて『本気ですか?』と言ってもらいたいですわね」
「ハーリー君……マキビ中尉は戦闘員でもなければ諜報員でもありません。ついでに言えばまだ12歳の運動不足気味な男の子ですよ」
「か、艦長!? それはあんまりですぅ!」
 明らかに一言多いルリの言い方に、ハーリーはぐさっと傷ついた顔で抗議する。
「関係ありませんわ。むしろ貧弱でか弱そうなマキビ中尉だからこそ油断を誘えると思いますわよ」
 これまた一言多い美雪の言い方。「運動不足……貧弱……」と頭を抱えて沈みこんでしまったハーリーを見て、楯身はさすがに可哀想になってきた。
「……美雪。油断云々は置いておくとして、なぜマキビ中尉を連れていく必要がある? 我々ではいかぬ理由があるというのか?」
「勿論ですわ。だからこそ無茶を承知で提案したのですもの」
「無茶は承知か……ならば、それを説明してくれぬか」
 促す楯身に、最初からそう言ってくださればよろしいですのに、などと美雪は文句を零す。
 そして作戦を、語り始める。



「――以上が私の考えた作戦ですわ」
 美雪が作戦を語り終え、席についても、すぐには誰も何も発しなかった。まあ当然の反応だろう。
「……確かに、成功する可能性は高いかもしれぬ」
 まず、楯身が口を開いた。
「だがやはり危険すぎる。自分は反対だ」
 それに触発されたように、皆が皆反対の言葉を口にし、非難の嵐が巻き起こる。
 しかし……そんな批判の的にされて、美雪は眉一つ動かさない。これは想定の範囲内だと言わんばかりに、余裕綽々の態度を崩していない。
「ホシノ中佐。少しよろしいかしら?」
「はい?」
「ちょっと部屋の外で、二人っきりでお話がしたいのですが」
 唐突な美雪の申し出。
「……美雪。何をするつもりだ?」
 楯身は『何の話だ』ではなく、『何をするつもりだ』と訊く。
 話の内容よりも、美雪がルリに何か妙な事を吹き込まないか……楯身にはそちらの方がよほど気になる。
「別に、取って食べたりしませんわ。一つ、お耳に入れたい事がありますの。いささか複雑な事情の絡むお話でして、ホシノ中佐以外の人には聞かせたくありませんの。お解り頂けますかしら?」
「…………」
 美雪の答えは怪しいが、一応筋は通っている。楯身は結局、判断を求めてルリを見る。
「解りました。外で話を聞きます」  言ってルリは席を立つ。
 美雪も続いてミーティングルームの外に出て、残った七人の間には沈黙が広がった。
「……話って何でしょう」
 そう、妃都美。
 機密を含んだ会議などが行われる事を想定した部屋だ。いくら聞き耳立てた所で外から中の会話は聞こえない。その逆も同じだった。
「さあね。前にそうしたみたいに、また中佐さんを騙くらかす気なんじゃない?」
 奈々美は以前の演習の時、美雪が自分たちの爆死を偽装した事を言っている。
 ――何と言うべきか、美雪も信用が無いな。
『草薙の剣』メンバーは皆、美雪の事を仲間として信頼している。それは確かだ。反面、美雪は目的のためなら仲間さえ平気で欺く事も知っている。
 まあ、と楯身は言う。
「ホシノ中佐は疑う余地の無い傑物だ。美雪の思惑は知らぬが、そう簡単に誑かされはすまい。彼女にとっては実の弟のような存在であるマキビ中尉の方が大事であろう。……そうでありましょう、中尉」
「そう……だったら嬉しいですね」
 はにかんだような笑顔をして、ハーリーは言った。
 と、そのハーリーをサブロウタがうりうりと肘で小突く。
「弟じゃなくて、もっと先の関係まで行きたいんだろ? 白状しろよ」
「なっ! よしてくださいよ皆さんの前で!」
「ほう。弟では不服でありましたか。これは失礼を致した」
「たっ、タテザキ上等兵まで!? 勘弁してくださいよ!」
 真っ赤になって抗弁するハーリー。あははは……と一同の間に笑い声がこぼれる。
 ルリとハーリーの関係が単なる上官と部下の域を超えたものである事は全員の承知するところだ。ハーリーがルリに好意を持っているのは一目で解るし、ルリもなんだかんだ言ってハーリーを大切に思っているはず。そんな彼女がハーリーを敵地に放り込むような作戦を許可するはずがない……この場の全員が、そう思っていた。
 でも、とハーリーは言う。
「艦長がもしも……もしもですよ。僕に行けって言ったら、僕は多分行くと思います」
「はあ? そりゃまた……大層な忠誠心だわね」
 驚いたような、呆れたような顔で、奈々美。
 いえ、忠誠心とかそういうんじゃなくて……とハーリーが言いかけた所で、ドアが開いた。
「お待たせいたしましたわ」
 美雪が。次いでルリが無言で入室してくる。
「で、どうするんですかね?」
 サブロウタが、ルリに最終決定を促す。
「はい。カゲモリ上等兵の話を聞いて、この作戦には実行の価値があると認め、承認しようと思います」
「ですよねー。ハーリーを敵の家に忍び込ませるなんてとてもとても……はい?」
 サブロウタの声が途切れる。
 この人、今なんて言った?
「……今、何とおっしゃられましたか、ホシノ中佐」
 そう、楯身。

「カゲモリ上等兵の作戦を、採用します」

 数秒の沈黙があった。
 その後、「えええええええっ!?」と驚きの声が全員から上がった――――



 ……それから一週間を、ナデシコBと『草薙の剣』は和也の怪我の治療と、情報収集に費やした。
 美雪がタジルハッドと再び逢瀬の場を設けたベイルートでは特に目立った変化も無く、作戦を続けるに問題は無いとルリは判断した。
 例の『怪人クモ男』の件は棚上げのままだったが、判断材料が乏しい以上手をこまねいていても仕方がない。むしろ奴の影に怯えて手を出しあぐねる事こそが敵の思うつぼだ――――その点において、皆の意見はおおむね一致していた。
 そして、作戦決行の日。



「……え? 『友達の子』ってその子なのかい?」
 開口一番。美雪を出迎えたタジルハッドはそう言った。
「ええ。彼が前に連れて来たいと言った子ですわ。……さ。ご挨拶なさい」
「は、ははは初めまして……ハリザワ マキって言います。よろしく」
 ガチガチに緊張した様子のハーリーが、嘘の名前を口にする。美雪はともかく、ハーリーは少し顔と名前が世間に出ているので、その点を考慮した措置だ。
 他にも、美雪と同じ耳子骨振動式通信機と盗聴器を持たせ。さらに小型カメラ付き伊達メガネに防刃スーツ、蝶ネクタイ型煙幕噴射機など、可能な限りハーリーには安全策を講じてある。それらを身につけたハーリーはどこぞの少年探偵のような風貌だ。
「あらあら。ごめんなさいね、少々人見知りする子でして……」
「い、いやあ……気にしないでいいよ。楽しんでいってくれ」
 はあ、と気付かれないよう気をつけたため息。隠したつもりで隠しきれないほど落胆している。
 美雪はハーリーを連れてくる伏線として、次は『友達の子』を連れてくると以前に伝えていた。どうやらこの男は、それを女の子だと期待していたようだ。
『おい美雪。本当に大丈夫なのか? マキビ中尉ガチガチに固まっているよ?』
 耳の中から和也の声が聞こえた。
「問題ありませんわ。楽しんでまいります。ねえ、マキちゃん?」
「は、はいっ! 楽しんできまあじっ!」
 元気よく言おうとして、ハーリーは舌を噛んだ。
『……本当に大丈夫なのかなあ』
『もう後戻りはできませぬ。お二人に賭けましょう』
 楯身の声。
『……危なくなったら、すぐ助けに行きます。だから安心して任務を成功させてください、中尉』
 通信が切れる。それを確かめて、美雪は甘くハーリーに囁いた。
「さあ。お楽しみの時間ですわよ」



 しばらく、美雪とハーリーはゲームをしたり、食事をしたりして機会を窺った。
 口達者でないハーリーは緊張のあまり言葉を詰まらせたりしたが、そこは美雪の巧みなフォローでどうにでもなった。……そして。
「すみません。ちょっとトイレ、貸してもらえますか?」
 決めた通りの時間に、ハーリーは席を立った。メイドのアジーに案内されて、ハーリーはトイレの中に入る。
 深呼吸をひとつし、ハーリーは美雪が事前に言っていた事を思い出す。
 ――――屋敷の中では、ほぼ常に見張りの目が光っておりますから、まともにはタジルハッドの部屋へ近づけませんわ。見張りの目を逃れられるのはせいぜいトイレくらいのものでしょうから、まずはそこへ行くのが最善でしょうね。
「そこで、これをセットする……と」
 ハーリーはポケットからカセットテープ大のプラスチックの箱を取り出し、スイッチを入れてそっと床に置いた。
 これは一種の音感センサー付きレコーダーで、誰かがトイレのドアをノックしたり声を掛けてきたりすれば、事前に録音しておいたハーリーの『入ってまーす』『もう少し待ってくださーい』といった声が再生される。
 これで時間を稼いでいる間に、ハーリーは窓から外へ出て、気付かれないよう屋敷の裏へ移動する。そこで壁に張り付く事が出来る吸盤付き手袋を嵌める。靴も靴底を剥がせば吸盤が現れる。
 ――――これで、壁をよじ登って窓から忍び込むんですね?
 ――――いいえ。いくらタジルハッドが私たちを警戒していないとはいえ、窓にカギくらいは掛けているでしょう。振動センサーもセットで付いているはずですから、無理に開けようとすれば警報が鳴りますわ。
 ――――じゃあどうやって忍び込むんですか?
 ――――心配ご無用。別の侵入口がありますわ。
 そこで、美雪が考案した侵入口が――――今ハーリーの目の前にある、この鉄の箱であるわけだ。
「これ……に、入るのかあ……」
 さすがに躊躇する。この箱はダストボックス。つまり家の中から出たゴミが集まるダストシュートの出口なのだ。
 ――タジルハッド邸には、全体にダストシュートが張り巡らされておりますわ。中に入ったゴミを空気圧で運び、出口で袋詰めするタイプです。ここには鍵もセンサーもございませんわ。大の大人が入り込める大きさではありませんから、誰もこんな所から侵入されるなんて思っていません。それが付け入る隙になるわけですわ。
 体の小さいハーリーだけが入り込める侵入口――――それが、美雪がこの作戦にハーリーを選んだ最大の理由だという。
「ウェ……臭い……」
 蓋を開けたハーリーは、生ゴミの臭いにむっと鼻を摘んだ。
 ダストシュートの出口は資源ゴミ、非資源ゴミ、生ゴミと三つに分かれていて、そこにゴミ袋がフックで掛けてある。捨てられたゴミは出口近くのセンサー――これは防犯装置にならない――で自動的に分別された上で、ゴミ袋に収まる仕組みだ。主に大型の公共施設などでよく見かける設備だが、一般家庭に設置してあるのは珍しい値の張る設備でもある。
 ゴミの出口はどれも確かに狭い。和也たちには無理でハーリーなら入れるというのも嘘ではなさそうだ。
 ここまでは何も問題ないが、問題なのはむしろこれからだ。ハーリーは時間を確認する。12時25分。侵入まであと五分――――ここで時間を間違える事は許されない。
 ――――侵入自体は容易でしょう。ただそこからが問題ですわ。ダストシュートの中にはお掃除ロボットが巡回して、内部の掃除を行っています。これの動きを阻害する、つまり体が触れたりしてしまうと、お掃除ロボットは大きなゴミが詰まっていると判断して、異物感知のランプを点灯させますの。そうなれば発見されて、ミッションフェイルドですわ。
 美雪が一週間前に探った限りでは、お掃除ロボットは毎日三時間ごとにダストシュート全体を、およそ三十分ほどかけて掃除するのだという。そのタイミングを計るためにこれまでタジルハッドと談笑する傍ら、お掃除ロボットの巡回する気配を美雪は探っていた。
 無茶な事を要求するなあと思う反面、たった一度の訪問でこんな事まで探ってくる美雪の優秀さには、ハーリーも舌を巻かざるを得ない。
「聞こえてますよね? これから侵入します」
『了解。くれぐれも気をつけて。……申し訳ありませんね。こんな時のために僕たちがいるのに、無茶な役をやらせてしまって』
 ハーリーに任せてしまった事に歯がゆさを感じているのか、和也が詫びてくる。
「いいえ。僕にしかできない事なんでしょ? それに最後にやるって決めたのは僕ですから」
『どうしてこんな無茶な作戦に参加を? マキビ中尉は本来こんな仕事をやる人じゃない。拒否しても責める人なんていないのに』
「みんなそうやって、僕の事を弱い人扱いするんですね……僕だって軍人なのに」
 少し憮然とした口調で言いつつ、ハーリーは資源ゴミの袋を外して中へ潜り込む。
『軍人と言っても得手不得手があるでしょう。だからこそ色々な職種が存在して、各々が一つの技能に特化する。マキビ中尉が専門外の事を無理にやる必要なんてない。みんな心配してるんですよ』
「それは、よーく解ってるんですけど……く、ちょっと悔しいんですよ。コクドウ隊長だって、部下の人たちを、戦わせるのは心配でしょ?」
 ダストシュートの中はゴミを押し出す空気圧が嵐のように吹き荒れていた。喋る声を出すのがままならない。
『それはそうですが……』
「それでも皆と戦場に行けるのって、信頼が、あるからじゃないですか? みんなだったら、う、大丈夫だって……」
『む、それは確かに……ああなるほど。マキビ中尉はただ心配されるだけじゃなくて、ホシノ中佐に信頼されたいんですね』
「僕、火星の後継者の第一次決起で独立ナデシコ部隊の人たちを呼び戻してた時……艦長とケンカしちゃった事があるんです。なんだか艦長は、昔の仲間の人たちを頼りにしてて、僕は頼りないって思われてる気がして、悔しくって……」
 子供みたいに泣きわめいて――実際当時まだ11だったのだけど――醜態晒してしまって。
「でも艦長、その後で僕一人を先にナデシコに乗せたんです。艦長たちがやられちゃっても、僕一人で戦えるように……その時、ああ艦長は僕一人でも戦えるって思ってくれてるんだなって……嬉しいじゃないですか。だから僕、こうして作戦参加を命じてくれて、怖いけれど少し嬉しいんですよ」
『好きなんですね、ホシノ中佐の事が』
「はい! 大好きな僕の……」
 そう言いかけて、ハーリーはハッと言葉を切った。
 ――なんて事を言ってるんだよ僕は……! それもコクドウ隊長たちに向かって!
『僕の?』
「僕の……お、お姉さんみたいな人ですから!」
『……はあ。お姉さんですか』
 苦笑気味な和也の声。
 ――みんな意地悪する……僕だって……
 などと恨みがましく思ってはみても、やはり胸に秘めた事を口にするのは憚られた。
「え、ええ。大好きな僕のお姉さんですよ」
『なるほど。あんな鉄面皮でもやっぱり大切なお姉さんか……』
 上官侮辱とも取れる和也のセリフは、無意識に口にしてしまった本音なのだろう。『隊長』と楯身の咎める声。
『……あ! ごめんなさい。失言でした……』
「いえ……コクドウ隊長たちが、艦長の事好きになれないのは解りますよ。艦長、いつも皆さんには特別冷たいですもんね」
『…………』
「正直、僕も最近の艦長はちょっと怖い所があるんです。火星の後継者もそれに協力する人たちも片っ端から吹き飛ばしたり、皆さんの事を火星の後継者と似てるだなんて疑ったり……コクドウ隊長も『草薙の剣』の皆さんも、いい人たちだと思うんですけれど……僕やサブロウタさんがそう言っても、艦長は相手にしてくれなくて」
『あまりそういう事言わない方がいいですよ。これ一応秘匿回線ですけど、ホシノ中佐なら簡単に傍受できるでしょうし』
 ハーリーの上官への不信とも取れる発言を、和也は窘めた。
「そうですね……ただ、あまり艦長の事嫌わないであげてください。あの人は……」
『火星の後継者に恨みがあるんでしょ? 解りますよそのくらい。……まあ、関係を良くしようとしなかった僕たちも少し悪いと言えば悪いですけどね』
『……そう思うのでしたら隊長、ホシノ中佐に謝罪はされましたかな?』
 いきなり、楯身が話に割り込んできた。
『う、そ、それは……』
『まだなのでありますか。いかな気に入らない相手とはいえ、みだりに上官との関係を悪化させるべきではないと思うのですがな』
『だ、だから悪かったってば……』
『そのセリフを言うべきは自分ではありますまい』
『くっ……』
 押し黙る和也。やっぱり艦長の機嫌が悪かったのはコクドウ隊長のせいだったのか……くすくすと笑いがこみ上げてくる。
『……マキビ中尉……そろそろ声を出すのを控えてください。リビングを通ります……』
 緊張した美佳の声がして、ハーリーは口を噤んだ。
 耳を済ますと、微かに美雪とタジルハッドが談笑する声が聞こえた。ここが第一の関門だ。美雪たちがいるリビングを通るダストシュートの道。投入口の所を通っている間に誰かがゴミを捨てようと蓋を開ければ、ハーリーは見つかってしまう。
『美雪。マキビ中尉がそこを通る。ゴミを入れさせないようにしてくれ。中尉は少しストップ。合図したら出来るだけ早く通り抜けてください』
 了解……と小声で答え、息を潜めて待つ。
「しかし遅いな。いつまでトイレに入っているのかなあの子は?」
 タジルハッドの声が聞こえた。ハーリーが戻ってこないのを不審がり始めているようだ。それを美雪がフォローする。
「ああ。もうしばらく戻ってきませんわ。緊張するとお腹を壊す子でして。人見知りもしますしね」
 ふーん、と気の無い相槌を打つタジルハッド。カゲモリ上等兵はうまくやってくれているみたいだ……と思った時、ガタッと投入口が開き、あろう事かコーラの缶が中身を撒き散らしながら飛んできた。
「ふぐっ!」
 避ける間もなく額にコーラの缶が命中し、次いで中身がハーリーの顔面に降り注いだ。思わず上げてしまいそうになった声を、口を塞いで何とか飲み込む。
『マキビ中尉、大丈夫ですか? 怪我は?』
「ええ……オデコ痛いですけど平気です。ただベトベトになっちゃいました」
『ベトベト?』
「……どうもあの人、まだ中身が残ってるヘップシコーラの缶を捨てたみたいです。飲み残しを頭からかぶっちゃいました……」
『う……マキビ中尉……が、我慢してください。潜入捜査ってのはキレイゴトでは済まされない事もあります……』
『そ、そうですよ。気を落とさないでください。帰ってシャワーを浴びれば済む事ですから。……さ、今の内に進んでください』
 和也と妃都美が慰めてくる。しかしこの惨めな気持ちはそう簡単にはぬぐえそうにない。
 ハーリーは事前のVR訓練で練習した通り、足、体、腕の順に前へ進む尺取虫のような動き方で前へ進む。急げ。でも慎重に。物音を立てないように……そうして投入口の下を気付かれることなく通り抜けたハーリーは、上へと続く道に辿りついた。
『ご苦労様です中尉。ばれないうちに急ぎましょう』
「……はい」
 低い声で答え、吸盤を使って上へと昇る。絶対逮捕してやるから覚えてろ、と小声で毒づきながら。



『OK。マキビ中尉は通過した。もういいぞ美雪』
 耳の中から和也の声が聞こえ、美雪は満足そうに口の端に笑みを浮かべた。
 ――予定通り……楽勝ですわ。
 9分9厘、作戦は美雪の想定した通りに進んでいる。後は適切なタイミングで、美雪が動くだけだ。
 懸念としては今この場で給仕をしている使用人――名前が解らないので、とりあえず使用人Aと呼ぶ――とこの場にいない使用人Bだが、何とかできる自信はある。
 間違いなく、成功させられる。そうしたら……
「……うふふ」
「どうしたんだいミユキ。何か良い事でもあったのかな?」
「ええ。少し楽しみな事がありまして」
 そう言って、にっこりと美雪は微笑んだ。



 何事も無くタジルハッドの私室へ侵入出来たハーリーは、誰もいないのを確認するとパソコンを立ち上げる。後は持ってきた小指大の記憶装置を差し込めば、自動で中のデータは全て盗み出せる。
「プロテクトが掛かってるデータが多いかな。ちょっと時間がかかるや……」
 少し腰を据えて作業する必要がありそうだ。ハーリーが椅子に座ると、牛革張りの椅子が深く沈みこみ、心地良い座り心地を与えてくれる。今時ナノ技術で作られた人工革の椅子は安く大量に出回っているが、どうやらこれは本物らしい。このあたりにも家主の成金趣味が反映されているようだ。
『出来るだけ早く。そろそろ怪しまれる頃ですからね』
 そう、和也。
「解ってます。……それにしても、なんか凄いですよね、この部屋」
 ハーリーは椅子を回して部屋を見回す。どこかへハンティングに行った時に撮影したと思しき、仕留めた鹿の横で銃を持ったタジルハッドの写真が、大きな額縁に入れて飾ってあり、さらに棚の上にはジャッカルのはく製が鎮座してハーリーを睨んでいた。
「今どき貴重な野生動物を、食べるわけでもないのに殺して飾っておくなんて、残酷だし、趣味悪いし……」
 ついでに不気味だ。今にも動き出しそうで。
 棚の中には仕事関係の物と思しい書類や、分厚い装丁のされた英和辞典や歴史書がぎっしりと並んでいる。タジルハッドもただの助平なドラ息子ではなく、高い水準の教育を受けた御曹司という事かな、とハーリーは思った。
『私室は持ち主の趣味を一番具体化しますからね。贅沢に慣れ切って頭のいい、金持ちの息子そのもの……』
『む、マキビ中尉、お待ちを』
『楯身? どうした急に割り込んで』
『その棚の、下から二番目、左から七番目の……英和辞典でありましょうか。どうも背表紙の高さが周りの本と比べて不自然なように見受けられます』
「これですか? ……あれ、カバーの中に別の本がたくさん……」
『おお。楯身よく気がついた。中身は何かな? 火星の後継者への資金援助の記録か、それとも脱税か何かの証拠かな……』
 逮捕に繋がる物かと興味深々な様子の和也。ハーリーは辞典のカバーを傾けて、中の本を取り出してみる。
 途端、「んなっ!?」や「きゃーっ!」などの悲鳴にも似た声が耳の中から聞こえた。
「な、なんですかこの本は? 何か凄い証拠とか」
『うわーっ! 中は見ちゃ駄目ですっ!』
 ハーリーが本を開こうとすると、和也が大慌てで制止してきた。
『くそ、エ……じゃなくてプライベートな品か! 騙された!』
「プライベートな品?」
『任務には無関係な品物であります! さらに言えばマキビ中尉にはまだ早すぎる物でもあります!』
『楯身ぃ! 余計な事は口にするな! 余計中尉が気になるだろうが!』
『マキビ中尉、それを早く元の棚に戻してください! それはお酒、そう。お酒やタバコと同じです! まずは大人になってからっ!』
 和也に楯身に妃都美と、大慌てで叫ぶ声が耳の中で反響する。何をそんなに慌てているのかハーリーには解らなかったが、耳を塞いでも耳の中から聞こえてくる多重奏が煩さくて仕方がない。極力声を落として抗議する。
「解りましたから皆さん耳の中でうるさくしないでくださいよ……!」
『あ……すみません』
 憮然としてハーリーは辞典を棚に戻し、パソコンに向き直る。と、ちょうどデータのコピーが終わった。
「やった。これで艦長に喜んでもらえる……」
『よし。急いで戻ってください中尉。早くそんな所からおさらばしましょう』
 了解、と返し、記憶装置を抜こうと手を伸ばす。

 ……その時、ハーリーは気がついた。

『……マキビ中尉? どうかしましたか』
 怪訝そうな和也の声。しかし返事をする事も、動く事も出来なかった。
「あああ……」
 さっきの辞典が入っていた棚……その硝子戸に、ハーリーともう二人の人影が映り込んでいたのだ。

「両手を上げて、ゆっくりこちらを向きなさい」

『……っ!』
 和也たちがはっと息を呑む声。
 言われた通りハーリーが両手を上げて振り向くと……あのアジーとか言う名前のメイドと、使用人Bの二人が、揃ってマネキン人形のような無表情でハーリーを見下ろしていた。



「不法侵入者を連れてまいりました」
 リビングに連れ込まれたハーリーは、乱暴に突き飛ばされて床に転がった。「マキちゃん!」と美雪が駆け寄ってくる。
「おやおや」
 驚くそぶりも見せずにタジルハッドは席を立ち、懐から金ピカの大型拳銃を取り出して二人へ向けた。
 ――あの様子じゃ、やっぱり最初からばれてたのかな……
 今さらながらに無茶だったかと、少し後悔する。しかしすでに後の祭りだ。
「彼、私室のパソコンからデータを盗み出そうとしておりました」
「いけないなあ。人の物を盗んだら駄目だって親に教わらなかったのかな?」
 タジルハッドは芝居がかった動作で、美雪とハーリーの周りを歩き回る。美雪からすれば隙だらけかもしれないが、メイドのアジーと使用人二人が油断なく見張っている……
「そんなガキを使うなんて、舐めた真似してくれたな。お前らが俺を探りに来たって事はとっくにお見通しなんだよ」
 塗装を取っ払った横柄な態度で言い、美雪の服のボタンを外して中をまさぐる。
 中から出てきたのは一丁の拳銃。美雪が愛用している、45口径自動拳銃だ。
「ふん、用意の良い事で……おい。こいつらの仲間ども。どうせ聞いてるんだろう?」
 ぽいっと美雪の銃を投げ捨て、盗聴器越しに聞いているだろう和也たちに呼びかける。
 その和也たちは先ほどから無言だ。エンジン音らしい音が微かに聞こえるが、移動しているのだろうか?
「下手な真似はするなよ。お仲間の命が惜しいのならな。……近くにいるだろう。探せ」
 タジルハッドの命に従い、使用人Bが部屋を出ていく。和也たちを探しに行くのだろうが、これで敵が一人減った。チャンスだ……とハーリーが思ったその時、タジルハッドがパチンと指を打ち鳴らした。
 途端にどかどかと荒々しい足音が響いて来て、使用人Bと入れ替わりに大勢の男たちがリビングへ乱入してきた。その人数およそ十人。全員が銃やシャムシールで武装している。いままでナデシコBのブリッジでハーリーも幾度となく目にして来た、現地人テロリストたちだ。その敵意に満ちた眼光を全身に浴びて、ハーリーは思わず、声を上げた。
「ああ……」
 ナデシコBのブリッジでは素人に毛が生えた烏合の衆としか思っていなかったが、こうして目の前で銃口を向けられると、その威圧感と恐怖は敵の大艦隊より大きい。必死に抑えようとしても足の震えが止まらなくなり、奥歯がガチガチと音を立て始める。
「あらら……これはちょっと予想外ですわね……」
 さすがの美雪もこの状況では手も足も出ないのか、大人しく両手を上げる。ハーリーも同じようにしようとしたが、足が震えて立つ事もままならず、美雪に助け起こされてようやく立つ事が出来た。
「わたくし達をどうなさるおつもりかしら?」
「決まってるじゃないか。お前らは地球連合……大悪魔どものスパイだろ。俺と戦士たちの関係を知られたからには、ただで返すわけにはいかないな……?」
 ぞくっと底冷えする、嗜虐的な嗤いを浮かべるタジルハッド。それだけでハーリーはヒッと声を漏らしてしまう。
「……ハーリー君」
 ふと、小声で美雪が囁いた。
「大丈夫ですわ」
 優しく微笑みかけ、美雪はタジルハッドへ向き直る。銃の矛先を一番多く向けられているのは自分なのに、美雪は怯みもしていない……
「わたくし達に何かあれば、わたくしの仲間が即、突入してきますわよ。あなたもこのテロリストたちもお終いで――――」
 言い終わらないうち、タジルハッドは拳銃のグリップで美雪の右頬を激しく殴打した。美雪は避ける事も出来ずに、どっと背中から倒れ込む。
「テロリスト? そんな無粋な言い方は許さない。戦士だ!」
 口の端から血を流しながら美雪は立ち上がる。その後ろと左右を三人の現地人テロリストが取り囲んだ。
「……右手で右の頬を打ちますか。わたくしはあなたより格下と言いたいわけですわね」
「ほう。大悪魔の国から来たくせに博識だな。左の頬も差し出してみるか?」
「大悪魔とはまた陳腐な言い方ですわね。わたくしにはあなた達こそ悪魔に見えますわ」
「か、カゲモリ上等兵……あまり挑発しない方が……」
 美雪の言動が危なっかしくて仕方がない。もし誰かが腹立ちまぎれに引き金を引けば、ハーリーも美雪もたちまちあの世行きなのに。
「お前たちは悪魔だっ!」
 タジルハッドが大声で怒鳴り、ハーリーはびくっと身を震わせた。
「よく見るがいい! この世界が、この国が今どうなっているかを! USEや北アメリカ連合……地球連合の主流派と呼ばれる国が何をしているかを!」
 まるで革命家が演説するように、タジルハッドは叫ぶ。
「この国は未だに主流派の国によって搾取され続けているのだ! 発展するのは外資系の会社ばかりで地元の企業は脇に追いやられ、格差は広がる一方! 低所得の人間はまるで奴隷か何かのように、体よく使い捨てにされている! あまつさえ我々のアイデンティティたる宗教的独自性さえ、彼らはなに一つそれを尊重せず、自分たちの習慣や価値観を押し付けようとする! 政府も圧力をかけられて、外資への優遇措置を続けざるを得ない! 富める国が貧しい国を搾取する弱肉強食の構図は、数百年前からほとんど変わっていないのだ!」
 タジルハッドの言葉が熱を帯びてくる。それは彼の言うように怒りからか、それとも……
「こんな理不尽な世界、認めるわけにはいかない! 火星の後継者という強い味方を得た今、我々は団結して立ち上がり、傲慢な大悪魔たちに鉄槌を加えるのだ! 立ち上がれ戦士たちよ、いま、聖戦が始まるのだ!」
 おおおおおぉぉぉぉぉぉぉ! とテロリストたちが鬨の声のような雄叫びを上げる。タジルハッドの言っている事は、ハーリーには間違っているようにも正しいようにも聞こえるが……少なくともこのテロリストたちの間では、かなりの説得力を持っているようだ。
「…………っ」
 ふと、美雪の口から何か声が漏れた。
「うう――く……」
 美雪は僅かに口を歪め、肩を震わせていた。
 怖くて泣いているのかと思ったが、違った。
「くふふふふ……はははははは!」
 美雪は笑っていたのだ。

「あはははは……! あーっはははははははははは!」

 突然の美雪の哄笑に、誰もが一瞬、ぽかんとした顔で美雪を見ていた。
 はっと我に返ったタジルハッドは、怒りの形相で怒鳴り声を上げる。
「なっ……何がおかしい!?」
「うふふ……茶番はおかしいものでしょう?」
「茶番……だと……!?」
「お金持ちのお坊ちゃまは自分の言葉に酔うあまり、つい墓穴を掘っちゃうようで……」
 確かにタジルハッドの言葉には、それらしく聞こえる所がある。
 しかし、その裏にはいろいろな物が見え隠れしている……
「宗教的独自性がどうとか言っておりましたけれど、その割にはあなた随分と異文化に染まっているような匂いがしますわよ」
「はあ? 言いがかりを……」
「でしたら、そこの壁の裏に隠してある大型テレビや、台所にあるお酒の入った隠し冷蔵庫は何かしら?」
 なっ! とタジルハッドはうろたえた。
「何でそれを知ってる!?」
「あらそうですの。やっぱりあるんですのね」
 あっさりカマをかけられた……タジルハッドは憤慨と羞恥に顔を真っ赤にする。
「それにマキちゃん。彼の部屋で何か見つけませんでした?」
 急に話を振られ、ハーリーはえっ、と間抜けな声を出す。
「ああ、そう言えば何か、『プライベートな品』とかいう本が、棚の中に隠して……」
「あらあら。それはいけませんわねえ。厳しい家柄の人の割に、随分軽々しく戒律を破ってらっしゃるようで……本当は大した信仰心など持ち合わせていないのではないかしら?」
「で……でまかせだ! 悪魔の言葉に耳を貸すな!」
 口角泡を飛ばして怒鳴り散らすタジルハッド。その動揺ぶりが反って真実を語っているようで、周囲のテロリストたちに戸惑いの色が広がっていく。
「第一、貧しい人の辛さなどあなたには解らないでしょう? こんなおっきい豪邸に住んでいらっしゃる財産家のお坊ちゃまが……」
 続く美雪の言葉の音程が、心なしか下がった気がした。
「タジルハッド。あなたは貧困に喘いだ事がありまして? ボロの服を着て歩きまわり、残飯を食べて飢えを凌いだ事がありまして? 寒空の下で、新聞紙にくるまって寒さに耐えながら眠った事がありまして? 温かい家の中にいる家族を見て、殺してやりたいほど妬ましい気持ちを味わった事があなたにあるというのかしら? 生まれた時から恵まれた環境で育ち、何の苦労も屈辱も味わわずに生きてきた……そんなあなたに、本当の意味で彼らの気持ちが解ると?」
 その時、何となくハーリーは察した。
 美雪は今怒っているのだ。
 目の前の男に対して、顔には一切出さないけれど、その瞳の中に抑えきれない憤怒の炎を燃やして……そんな怒り方をする人間を、ハーリーは間近で見てきた覚えがある……
「理不尽な世界を変える? だったら政治家にでもなればよろしいではありませんの。あなたは財も学もある、地元の有力者の息子なのでしょう? 選挙に出馬すれば十分当選圏内ですわ。そんなあなたがなにゆえテロの援助という短絡的な手段に走ったのか……」
 当てて見せましょうか、と美雪は言う。
「楽しいからでしょう!? あなたの送った金でテロリストは武器を買い、それを使って憎たらしい外資や地球連合軍にテロを起こす! その時あなたの身に走った喜悦たるや相当でしょうね。ああ俺はなんて凄い奴なんだろう! なんて偉いんだろう! 世界は俺を中心に回っているじゃないか! とね」
「この女……それ以上言ってみろ、殺してやるぞ……」
 爆発寸前の怒りに身を震わせるタジルハッド。
 そこへ美雪は、最後の一手を打ちこむ。
「ま、要するに……道楽でテロを援助して、弱い者の味方を気取っているお坊ちゃまに、そんな偉そうな事を語る資格は無いという事ですわ!」

 プツン――――と、張り詰めていた最後の糸が、切れた。

「んあああああああああああああああああああああっ――――――――!」
 奇声を上げ、タジルハッドが大型拳銃の銃口を美雪へ向ける。ハーリーは美雪の頭が粉砕される光景を想像し、思わず眼を背けた――――その時、美雪が鋭く叫んだ。
「伏せてっ!」
 それが自分に向けられた物と解ってハーリーが床に伏せようとするのと、美雪が弾かれたように前へ踏み出したのはほぼ同時だった。一挙動でタジルハッドの右手首を掴み、捻り上げる。激痛に「ギャッ!?」と悲鳴を上げて銃を落とすタジルハッド。そのまま右手を後ろに回し、首に左手を回して完全にタジルハッドを拘束する。テロリストたちは銃を向けるが、タジルハッドに当たる事を恐れて撃てない。
「タジルハッド。あなたはこれまで言った他にも、あと二つ、間違いを犯しておりますわ」
 耳元へ甘く囁く、美雪。
「一つ。武器を手に入れ徒党を組んだだけで、自分たちが強くなったと勘違いした事!」
 言うや、タジルハッドの拘束を解いて突き飛ばす。その体に巻き込まれて、美雪を取り囲んでいた三人のうち一人が一緒くたに倒れる。
 その隙を突いて、美雪は目の前のテロリストが持っていたアサルトライフルを奪うと同時にその銃口を腹に突き入れる。悶絶して倒れる二人目。そのまま後ろへ翻り、ライフルの銃身で三人目の銃を弾く。放たれた弾丸が美雪の脇へ逸れる。その勢いのままさらに一回転し、強烈な後ろ回し蹴りを叩き込む。ここでタジルハッドと一人目が起きあがろうとするが、美雪はその白くしなやかな足で一人目の首を挟んで動きを封じるというテクを披露してのけた。
 当然アサルトライフルは美雪の手に収まったまま、残る敵を牽制している。「う、うわわわわ……!」と恥も外聞もなく逃げるタジルハッド。
「二つ。つまらない勘違いの結果、人殺しの専門教育を受けた人を敵に回してしまった事……後悔しても遅いですわよ?」
 ふん、と強く体重を掛けて首を絞め落とし、残るテロリストへ襲い掛かる美雪。つい先ほどまで絶対的な優勢を確信していたテロリストたちが、美雪の卓越した近接戦闘術に次々倒されていく。
「もう駄目だ、逃げろっ!」
「助けてぇ!」
 武器を放り投げてテロリストたちが逃げ散り始める。「おいこら、逃げるなぁ!」とタジルハッドが怒鳴りつけるのも効果が無い。
「あらあら……頼りない戦士さんたちですこと。さ、神妙にお縄を……」
 頂戴なさい、と言いかけた所で言葉が止まる。
 ゆらり、とした動作で、使用人Aが美雪の前に立ちはだかったからだ。美雪は顔に笑みを張り付けたまま、その男と睨み合う。
「今の内です。こちらへ」
 アジーに連れられ、タジルハッドが外へ逃げ出す。
 使用人Aが一瞬、逡巡するようなそぶりを見せた。一緒に主人を守るべきか迷ったのかもしれないが、美雪がタジルハッドを追いかけようとする気配を見せた事で断念したようだ、とハーリーは思った。
「そこをどいてくださらないかしら?」
 やんわりと言う美雪。返事は無言での打撃だった。一度、二度、三度。恐らくは一撃でも鼻の骨くらい砕くだろう威力を持った拳が繰り出される。
 勿論、美雪はフットワークで尽くを避けていた。しかしそれは、初めて美雪が反撃せずに受け身に徹している。……相手を脅威だと、認識した証拠だった。
「……せあっ」
 使用人Aが拳を振り抜いた瞬間に生まれた隙。そこを突いて美雪は反撃に出た。手にしたアサルトライフルの銃床での一撃。しかし止められ、それどころか一度の掌底でライフルを半ばから叩き折られる。
「あらま……」
 口調はまだ軽いが、顔からはすでに笑みが消えている。美雪でも余裕を見せていられる相手ではないようだ。なんとか助けられないか……そう思ってハーリーは、傍に落ちていたタジルハッドの大型拳銃に手を伸ばす。
「よしなさい! あなたには重すぎますわ! 大体そんな金ピカなど役に立たないでしょう!」
 一喝された。……くそ、僕は守られるしかできないのか!?
 口惜しさに歯噛みするハーリーをよそに、使用人Aは袖口からナイフを取り出す。いかにも殺傷力の高そうな、禍々しいデザインの刃。
「……安心なさい。マキちゃん」
 腰を落とした猫背の体勢で使用人Aと対峙したまま、美雪はハーリーに向かって呼びかける。もう余裕なんてないはずなのに、まだ美雪はハーリーを気遣っていられるのだ。
「あなたには指一本触れさせませんわ」
 それが合図になったのか、どちらが先にでもなく二人が動いた。踏み込みは一度。それだけで一瞬にして距離が詰まる。
 ギィンッ――――! と金属同士がぶつかり合う硬質な音を響かせ、二人の位置が入れ替わる。その体には二人ともほんの小さな切り傷が刻まれていて――――何故か美雪の手には、何処からいつの間に取りだしたのか一振りの鎌が握られていた。
「もっと念入りに身体検査をしておくべきでしたわね?」
 挑発するように言い放ち、再び攻めに出る美雪。その動きは疾風のよう。腕の動きに至っては残像さえハーリーには見えないほどの刹那的な速さで斬激が繰り出されるが、使用人Aもその全てをナイフ一本で捌いてみせる。
「やっ!」
 軽く床を蹴って後ろへ飛び、手にした鎌を手首のスナップで投げつける美雪。使用人Aは上半身の動きで軽くそれを避け、反撃に出ようと前へ踏み出し――――
「ぐっ!」
 苦悶の声。
 使用人Aの脇腹に、鎌の刃が刺さっていた。……いや、いつの間にかさっきまで無かったはずの鎖が鎌の柄尻から伸びているあれは、鎖鎌なのか。
 その鎖を掴んでいるのは当然美雪。美雪はあの一瞬の間に鎌へ鎖を繋いで投げ、使用人Aが避けた所へそれを引っ張って後ろから刺したのだ。武器を分解した状態で隠し持ち、必要とあらば一瞬で組み立て使う暗器術――――あれも木連が戦争で勝つために編み出した技なのか。
「大悪魔の先兵が……!」
 ハーリーは初めて、使用人Aの声を耳にした。
 使用人Aは傷ついた脇腹を押え、視線だけで人を射殺せそうな恐ろしい形相で美雪を睨み――――自ら窓を突き破って逃げた。
「に、逃げたんですか?」
「というより退いたのでしょうね。きっとまた来ますわ」
 美雪は落ちていた愛用の拳銃を拾い、壊れていないか簡単に確認する。
「どうしましょう。記憶装置はメイドの人に取られちゃいましたし、目標には逃げられちゃうし……」
「なんとかなりますわ。それより今はここから逃げましょう。ぐずぐずしていたら敵が大勢やってきますわよ」
 そうですね……と答え、ハーリーは窓の外に目をやり……
「ええと……手遅れみたいです……」
 窓の外からは、道の向こう側からやってくる、壁のようなテロリストの大群が見えていた。



 一方、逃げ出したタジルハッドはアジーの運転する車に乗って、家から離れようとしていた。
「これで、一安心だな」
 安全な所へ逃げられたと思ってか、また気が大きくなっていた。
 美雪は使用人Aに倒されるだろう。自分は指名手配でもされるかもしれないが、火星の後継者か『山の老翁』にでも匿ってもらえばいい。その後は全国の戦士を集めて解放軍を組織して、時期を見て一斉蜂起……そんな考えばかりが浮かんでくるのは、単に追い詰められた状況から逃れたいが故か、それとも彼の肥大した自意識のなせる業か。
「見てろ大悪魔ども、いつか俺が、必ずお前らを滅ぼして……」
 ぶつぶつと怨嗟の言葉を呟き続けながら、タジルハッドは何気なしに窓の外を見た。一台の大型車がタジルハッドの車と並んで走っていて……その中から、武装した連中が銃をこちらへ向けていた。
「……え?」



「ターゲット発見! 撃てぇ!」
 タジルハッドの姿を認めた瞬間、助手席の和也と後部席の奈々美、さらにサンルーフから身を乗り出した烈火が一斉に銃火を放った。激しく車体から火花が散るが、車体はおろか窓ガラスさえ浅く傷を穿つばかりで貫通しない。
「ちっ、やっぱり防弾車か! 烈火!」
「グレネード!」
 和也の命令を受け、烈火が40ミリグレネードを放つ。こんな事もあろうかと用意した対装甲成形炸薬弾だ。着弾と同時に発生した金属噴流メタルジェットが防弾車の装甲を貫き、エンジンを破壊された防弾車は制御を失って路肩に突っ込んだ。
「確保!」
 全員降車し、銃を構えてタジルハッドの車に近寄る。その目の前で、運転席のドアが開いた。中から出てきたのは女……あのアジーとかいうメイドだ。身構える和也たち。しかしアジーは、拍子抜けした事に一目散に逃げた。主人であるはずのタジルハッドを置き去りにしたままで。
「おいこら、待て! 俺を置いていくなーっ!」
「見捨てられたみたいだね。……タジルハッド・アルバス。テロリストとの共謀容疑で、あんたを拘束する」
 喚き立てるタジルハッドを車から引きずり出し、手錠を掛ける。よし! とまず一つの目標を達成した事を喜ぶ。
 和也たちがまだ戦っている美雪とハーリーを置いてタジルハッドを捕らえに来た理由は二つある。一つはここで逃がせば、そのまま雲隠れされて捕まえる事は非常に困難になる事。
 逆にタジルハッド邸にテロリストがいた事を知る事が出来、ハーリーの眼鏡型カメラからの映像という証拠も手に入れた今こそが、タジルハッドを捕らえる絶好の機会であった。そのために自分たちを探しているだろう使用人Bとの戦闘を避けて移動し、逃げるタジルハッドを追撃した。
 美雪とハーリーの事は気がかりだが、この際和也たちは、美雪ならその場を切り抜けてハーリーも守り切ると全面的に信じる事にした。
『すぐ助けにいく』と言っておきながら、それを反古にしてしまった点については……後で謝るしかないか。
「ブレードリーダーよりナデシコ。目標の身柄を確保。そちらは?」
『事態の変化を受けて、すでにそちらへ向かっています。タカスギ機をそちらへ向かわせられるまでは、およそ20分です』
「了解。……美雪、そっちは?」
『芳しくない状況ですわねー。例の使用人は何とか追っ払いましたけど、テロリストが大勢集まってきてますわ』
 答えた美雪の声は相変わらず飄々としていたが、楽観視できない状況には違いないらしかった。
『何とかタジルハッド邸からは逃げました。今は空き家に隠れてますわ。周りはもう敵だらけでして、わたくしだけなら何とでもなりますが、マキビ中尉を連れてとなると難しいですわねえ』
「そうか。まああの場を切り抜けただけで上出来だよ。今から助けに……」
『いいえ。和也さんたちはそのままタジルハッドを連れていってくださいな。そいつを連れたままテロリストの大群と戦うのは厳しいでしょう。わたくしたちはその後で結構ですわ』
「おいおい……! もういまさらだけど無茶は……! いや、それが正解かもね」
 少し迷ったが、美雪の言う事も一理ある。タジルハッドという荷物を抱えたままで美雪とハーリーまで助けにはいけない。
「ホシノ中佐。最寄りの宇宙軍か統合軍……どっちでもいいから陸戦隊に応援の要請を。現地で落ち合って、タジルハッドを護送してもらいます」
『もう要請済みです。統合軍陸戦隊の第226機械化歩兵小隊がそちらへ向かっていますから、合流予定ポイントの座標をそっちに送ります』
「……確認しました」
 美佳のノートパソコンに合流予定ポイントを記した地図が送られてくる。偏狭な縄張り意識にこだわらないルリの優秀さに、和也は心底感謝した。
『了解ですわ。助けが来るまで持たせます。ですから皆さまも、早く来てくださいませね』
『カゲモリ上等兵。マキビ中尉にもしもの事があれば代わりは居ないんです。あなたを信用して彼を預けたのですから、是が非でも無事に連れ帰ってください』
 いつになく厳しいルリの声音。
 それに対し、美雪はふてぶてしいまでに自信を含んだ声で返す。

『無論ですわ。マキビ中尉は必ず無事にナデシコへ帰します。……二言はございませんわ』



「ここにはいない!」
「探せ! 虱潰しにしろ!」
 手に手に武器を持って、怒声を張り上げるテロリストたち。怯える無関係な住民など目に入っていない。大悪魔の手先を殺す。それだけが彼らを一つの生き物のように動かしていた。
「絶対に逃がすなよ! この国を食い物にする大悪魔どもをころ」
 しかし彼は最後まで言葉を口に出来なかった。音も無く飛んできた投げナイフが、その喉笛を切り裂いたからだ。
 怒声の代わりに鮮血が盛大に噴き出す。それを見たテロリストたちはどこからだとあたりを見渡して――――建物の上に立つ、その女の姿を目にした。

「さあ。テロリストの皆様。神様にお祈りは済ませました? 最後の晩餐は?」

 歌うように言い放ち、両手に投げナイフを構える。

「ガタガタ震えながら這いつくばって命乞いをする心の準備はよろしくて!?」

 その姿は、確かに悪魔のようだったかもしれない。










あとがき

 (ちょっと意味が違う)潜入捜査第二回と、戦闘開始でした。

 なんだかハーリー君が某潜入アクションゲームの主人公みたいな事やってます。でも捕まっちゃいました。仕方ありません。ハーリー君は運動(略)な男の子ですから。……そういえば、こちらにありましたよね、メタ○ギアハーリーって作品。
 ハーリー君にこの任務を与えて、それをルリや他のみんな(読者の皆様含む)に納得させるのが今回一番四苦八苦したところですね。劇中で皆からそう言われてたように無茶も良い所の作戦ですから。
 最低限の理由づけはできたつもりですが、読者の人はどう思うかな……

 今回タジルハッドが主流派の国の横暴が云々なんて演説ぶってますが、これは一応その内容を裏付けるようなシーンがあった方が良かったでしょうか? 今回和也たちが外国人の店主にぞんざいに扱われる現地人の労働者の姿を目にするシーンがあったのですけど、話のテンポが悪くなる気がして丸ごとカットしたんですよ。(美雪がベイルートへデートに行くと地名付きで表記してあるのはその名残なんです)しかし一応、あの言葉にも説得力を持たせた方が良かったような……
 和也たちがそういったものを目にするのは少し先になる予定です。それまでは何も考えずに戦っていきます。

 今回が起承転結の『転』ですね。次回で『結』に至ります。やっぱり戦闘シーンは書いてて楽しいですね。(笑)

 それでは、また次回。





圧縮教授のSS的



・・・おほん。

ようこそ我が研究室へ。

今回も活きのいい黄金の爪SSが入っての、今検分しておるところじゃ。


さて、美雪のスパイ大作戦(違)も中盤戦。次回は番組を変更してアサシンクリードをお送りしますと言ったところじゃろうか?(絶対違)



閑話休題、お問い合わせの描写の件じゃが。

儂は無くて良かったと思うぞ。少なくとも、今回はの。

動機に重みを持たせるには、タジルハッドはあまりに俗物で小者じゃ。 美雪も語っておるが、奴自身がその貧困を目の当たりにしたことなどあるまいて。

であるからして、それを語るには相応しくなかろう。

いずれ相応しい者が、相応しい場所で語る際にちょっとでも思い出してやれば奴も本望だろうて(それはない)



さて。儂はそろそろ次の研究に取り掛からねばならん。この辺で失礼するよ。

儂の話が聞きたくなったら、いつでもおいで。儂はいつでも、ここにおる。

それじゃあ、ごきげんよう。