――その空間は、まさに神のおわす場所。
 マジンサイズの機動兵器がすっぽり収まりそうな広い空間に、幻想的な宗教様式の幾何学アラベスク模様に彩られた、荘厳で厳粛な礼拝堂。遠い昔に往時の有力者が建てたのであろう、神に祈る神聖な場所。
 天窓からの強い太陽光に照らされ、切り取られたように浮かび上がる壁の模様は、刻みつけられた長い年月を現して色褪せ朽ちかけている。それは長い間ここに人の手が入っていなかった証左だが――――しかし、今は多くの人間がここにいる。
 神の名を掲げ、闘争を以て聖戦とする武装集団、『山の老翁』。
 その本拠地である礼拝堂の中心にて、火星の後継者の制服をアクセサリーでジャラジャラ飾り立てた“彼”は、その男と向かい合っていた。
「重ね重ねのご尽力、心より感謝を申し上げます。火星の後継者殿」
 彼の目の前にいるロープ姿の男は、恭しく頭を下げた。
 ロープに隠され顔はよく見えないが、たぶんそう年は取っていない。にもかかわらずどこか老人のようなくたびれた雰囲気があるのは、痩せこけた不健康な顔色のせいだろうか。
 この男こそが中東最大のテログループ、『山の老翁』が首班。ハサン・サッバーハというのがその名前だった。
 ハサンというのは本名ではないだろうが、この組織のリーダーはそう名乗るのが慣例なのだと、彼は聞いてもいないのに説明された。
 そもそも山の老翁とは、大昔中東にて異端とされ迫害を受けていた一派が自衛の名目で組織した暗殺集団で、ハサンというリーダーの呼び名、組織の名前、そしてこの本拠も、全て『大昔の山の老翁』に倣ったのだという。
「いいえぇ。我々は共に地球連合の傲慢な支配に立ち向かう同士。支援するのは当然の事で」
 表向き友好的な笑みを浮かべながら、彼は日本語でハサンへ言う。
 当然、言葉は通じていない。彼の口にした日本語は隣で通訳を務める火星の後継者の男が、バビロニア共和国の公用語に訳して伝えている。
 余談だが――――この通訳、以前は統合軍に属していたバビロニア共和国出身の軍人である。第一次決起のアマテラス爆破の後、草壁中将の求めに応じて馳せ参じ、今日まで共に戦ってきた。
 世間一般には火星の後継者、イコール木星人というイメージが強いが、実際は必ずしもそうではないのだ。ナデシコのタカスギ・サブロウタ少佐に代表される地球側についた木星人もいれば、逆に火星の後継者へ参加した地球人も多くいる。この事実は地球連合を驚愕させ、現在の非主流国に対する締め付けの原因の一つとなっているのだが――――まあ、それはさておき。
「この中東は昔から大国の食い物にされてきた。貴重だった石油が出るからな。しかし石油が価値を失うと同時に奴らは中東を見捨て、そして今、またも中東を食い物にしている。この状況を打開するためなら助力は惜しみませんぜ」
「左様。この中東、そしてバビロニア共和国は、神より賜りし我らの国。この神聖な地を大悪魔の手から守らねばなりません」
「我々が地球連合に代わって新たな秩序を創った暁にゃ、中東に自由と自立を与えると約束しましょ」
 そうなれば傲慢な外資は排斥され、
 自立した経済により中東の経済は活気づき、
 失業者も減り、
 税金も減り、
 最低賃金も今よりずっと上がり、
 安心して子供を産み育てられるよう手厚い支援も出来るようになる。
 真に自立した、国民の誰もが幸福を実感できる生活を送れるようにすると、彼は火星の後継者による明るい未来図をペラペラと語ってみせた。
「その日が来るまで、力を合わせて戦いましょうや」
「ありがとうございます。その時は我々も、他の非主流国も、あなた方の新たな秩序を支持するでしょう」
 今後も協力して地球連合に立ち向かう意思を再確認し、彼と通訳はその場を後にする。
 石造りの廊下を歩く彼に、火星の後継者の制服を正しく着こなした男――彼の部下だ――が駆け寄ってきた。彼は通訳に先に戻るよう促し、木星の公用語である日本語で話しかける。
「準備はどうだ?」
「おおむね完了しています。まもなく運び出せるかと」
 よし、と彼は頷いた。地球連合にさらなる打撃を与えるための次なる作戦の準備は、既に始まっているのだ。
「仕事が早ええな」
「火星の後継者(うち)の中東出身者たちのおかげで、作業はスムーズに進んでいます。この戦いに勝つ事で中東は昔の誇りを取り戻せると、みんな張り切っていますよ」
 それは、『山の老翁』に属するテロリストたちの――――そして火星の後継者に属する中東出身者たちの切実な本音なのだろう。
 しかし彼は、それを「クハハっ」と笑い飛ばした。
「まったく、こんな砂と遺跡しかないとこで外資が無くなれば、暮らしが上向くどころか破綻しかねねえって解らないかね? 神様に祈っても金は降ってきやしないのにな」
 石油が価値を失った今、中東で雇用を生み出し国民の生活を支えているのは間違いなく北アメリカ連合やUSEの外資系企業だ。それがどれだけ国民の尊厳を傷つけていようが、無くなればこの国の経済は破綻するしかない。
 しかしナショナリズムに凝り固まったテロリストたちはどうやら、そんな先の事まで考えが及ばないらしいなと――自分たちがそれを焚きつけた事は棚に上げて――彼は嘲笑した。
「まったく、揃いも揃って救い難い復古主義者リアクショニストたちだぜ。哀れかな……」
 ぎょっ、と部下の男は身を縮めてあたりを見回す。
「はん。心配しないでも、ここに日本語の解る奴なんかいねえよ」
 通訳も返したしな、と彼は露骨なまでに、ここの人間をバカにした態度を取る。
 彼は――――というか火星の後継者は、中東の自立も何も興味は無い。ただ地球人同士で勝手にいがみ合い、潰し合ってくれればそれでいいのだ。
 そのためのエサはすでに撒いた。ここの連中にはいささか勿体ない高価なエサだが、自分たちの血を消費する事に比べれば遙かに安上がりだ……
 二人が医務室として使われている部屋の前を通り過ぎようとした時、がら、と医務室の戸が開き、一人の男がおぼつかない足取りで出てきた。確か有力な資金提供者であるジャザン市警察署長の弟の家にボディーガードとして、必要とあらば口を封じる事も想定して送り込んでいた殺し屋だ。
「怪我してんな。何かあったのか?」
「ええ。どうも資金提供者の息子が敵に狙われたようで。もう一人の殺し屋は殺され、息子も口を封じるしかなかったようです。地球軍の連中が何か証拠になる物を手に入れたとすれば……」
「資金提供者も、ジャザンの警察署長さんも危ねえか。大変だねぇ」
 他人事のように彼は言い、ぐりっと首を回して医務室を覗きこむ。弾丸の摘出でもしたのか、粗末な手術台には血の跡があった。
「ま、逃がす準備はしとくさ。そのチャンスがあればだけどな……ん?」
 不意に目を細めた彼は、づかづかと医務室に入り込み、医者の抗議の声を無視して手術台に歩み寄ると、傍に置いてある摘出された弾丸をひょいと手に取った。
「どうしたんですか? その弾丸が何か?」
「……いんや?」
 ぽいっと弾丸を放り投げた彼の目は、嗜虐的な笑みに歪んでいた。



 機動戦艦ナデシコ――贖罪の刻――
 第十二話 がために、何のために 前編



 下腹に串刺しにされたような酷い痛みを感じ、否応なしに意識が覚醒させられた。
 ぼんやりと霞む視界に、非常灯の頼りない明かりに照らされた、滅茶苦茶に壊れたダイテツジンのコクピットが映る。その中にふわふわと漂っている赤い球は、無重力の中に漂う血液だ。誰の血だ? ……僕のか。
 痛む個所を手で探ってみると、本当に破片のような物が突き刺さっているのが解った。引き抜いて、備え付けの治療セットで止血して……と応急手当ての手順を反芻して、ふと思った。
 手当てすれば、助かる傷かもしれない。でも助かってどうする?
 僕たちはもう、軍に――――草壁閣下に、捨てられたのに。
 他のみんなだって、もう死んでいるかもしれないのに。
 もう……生きていたって、何にもなりはしないのに。
 なんだか馬鹿馬鹿しくなって、僕は手当てをやめた。
 このまま目を閉じて、眠ってしまおう。そうすれば後はゆっくりと死ぬだけ……大した事はない。そう思って目を閉じようとした時、急に目の前が明るくなった。
「おい! 生きてるか――――って、何だ、子供か……?」
 ハッチが開いて、そこから宇宙服を着た誰かが顔を覗かせる。空気が吸い出されないのは緊急用の気密シートがハッチの周りを覆っているからか。
 つまりは、助けが来た。……余計な事を。
「まだ生きてるな。しっかりしろ、すぐに手当てしてやるから……」
「うるさい……余計な事するな」
 ゴソゴソと僕の体を弄るそいつに、なんとか声を絞り出した。ん? とそいつが顔を覗き込んでくる。
「もういい……助けなんかいらない。僕なんてもう、誰も要らないんだから……」
 だからもう死んでいいんだ。僕はそう言った。途端――――
「甘ったれてんじゃねえ!」
 ガンッ――――――! 脳内に火花が散った。
 一瞬遅れて、殴られたと気づいた。そして、怒声が僕の耳朶を打って――――――



「うわぁ、ごめんなさいぃっ!」
 黒道和也が仰天して飛び起きると、目の前に広がる壁一面の大きな鏡がまず目に入った
 鏡に映る自分は散髪用の白いケープを体に掛けられて、まるでてるてる坊主のような格好で椅子に座っている。その後ろには床屋さんと思しい男性がいて、いきなり大声を出した和也に驚いた様子だった。
「あ、あれ? ここは……」
「どうしたんですか、和也さん」
 声のする方に顔を向けると、和也と同じく散髪中の真矢妃都美がこちらを見ていた。何の気無い散髪用のケープも彼女が纏えば純白のドレスのように見えてしまうのは、和也の贔屓目だろうか。
「ああ……いけない。寝ちゃったか」
 休暇がてら散髪に来て、その内についうたた寝をしたらしかった。これではまた、ホシノ中佐にイヤミの口実を与えてしまう……ぺちぺちと頬を叩いて眠気を払うと、驚いた床屋さんを苦笑でごまかし、続けてくれるよう促す。
「……」
 しゃきしゃきと手際良く髪を刈っていく床屋さんに任せていると、不意に、先ほど見た夢の内容が思い出された。
 懐かしい夢、と言えるのか。
「夢見てたよ。熱血クーデターで墜された時の……」
 和也は妃都美に向けて言った。
「それは嫌な夢でしたね。最近は思い出す事も無かったですけれど」
「いや、一概に悪夢とも言えないかもしれないけど……」
 熱血クーデター……和也たちにとっては、それまでの全てをぶち壊した戦い。草壁に見捨てられ、暴走した挙句に撃墜されて、失意の中で死を覚悟した、あの時の記憶。  懐かしい思い出と言うには、いささか暗鬱に過ぎる記憶だけれど。
「今では、忘れちゃいけない記憶……だね」
 呟く。
 あの時、生きる事を放棄していた和也を助けたのは、皮肉な事に和也を撃墜したあのデンジンのパイロットだったらしい。死なせてくれと泣き言を漏らした和也を、あの男は甘えるなとぶん殴り、そして――――
「そして……何て言ったんだっけ」
 記憶が少し混乱している。さらに深く記憶を探ろうとした和也だったが、そこへ床屋さんが話しかけて来て思考が中断された。
「お客さん、東アジア圏の方? フィリピンですか、それとも高麗?」
「日本から来た木星人です。観光で」
 人種を勘違いした床屋さんに、穏やかに訂正する。
 別に悪気は無いので怒ってはいけない。彼らからすれば東アジア系の人間などみんな同じに見えるだろう。和也も一見ではバビロニア人とトルコ人の区別がつかないのと同じだ。
「それは失礼。ところでベイルートはいかがです?」
「いい街ですね。建物も綺麗で、お店も多くて……」
「歴史的な遺跡も数多くありますね。数千年に及ぶ中東の歴史がそこかしこに息づいています。見て回る時間が無いのが残念ですが……」
 そう、妃都美。
「気に入ってくれて何より。料金はサービスしときますよ」
「え、いいですよサービスなんて……」
 遠慮する和也に、床屋はやんわりと首を横に振った。
「この町を褒めてくれたお礼です」



 美しい町だな、と久しく忘れていた草花の香りを感じながら、楯崎楯身は思った。
 ここはベイルート。
 クウェート基地からリニアモーター電車で一時間弱。バビロニア共和国の北西部に位置する、かつてこの地に存在したレバノンという国の首都だった町。地中海に面した、バビロニア共和国で有数の観光地の一つだ。
 ジャザンでの戦闘から一夜明け、楯身たち『草薙の剣』メンバーは短い臨時休暇を利用してのベイルート観光にやってきていた。
 楯身たちがここへ来るのは、二度目になる。
 一度目は数日前、美雪がタジルハッド・アルバスを探っていた時、接点を保つためにここに来ようと約束を交わしていた美雪は、ここで一度逢瀬の場を設けた。ジャザンからここまで、なんと自家用ジェットで飛んできた事も驚いたが、こんないい観光スポットを知っているあたり、やはり娯楽観光産業で財を為した家の息子だけはあるか。
 その時は、楯身たちは二人の監視に手一杯で、観光どころではなかったのだが……
「任務で来た時は気が付かなかったけど、いい所ね」
 目の前一杯に広がる色とりどりのチューリップを愛でながら、田村奈々美が上機嫌にそう言った。
「確かベイルートって、昔の言葉で『泉の町』って意味なんだっけ? 昔の人もいいネーミングセンスしてるわよね」
「うむ。まさに砂漠のオアシスだ」
 楯身と奈々美がいるのは、ベイルート近辺の豊かな自然を象徴するチューリップ園だ。散髪に行った和也と妃都美との待ち合わせ場所として何気なく来たのだが、こうして見るとその美しさに圧倒される。
 地中海からの豊かな恵みは、この一帯に生き生きとした緑の草木を育て、中東から連想される砂漠ばかりのイメージとは一線を画す美しい土地を形成している。チューリップやシクラメンなど多くの花々の原産地でもあるここは、古くからヨーロッパの富裕層などに愛されてきた中東の花の都だ。
 また18世紀ごろから欧米との交易の中心地として栄えているここには欧米からの文化も流入しており、文化的、宗教的に非常に多様な街でもある。
 メンバーの中で特に宗教への興味が強い神目美佳はやはりその辺りが気になるようで、お供の山口烈火を連れて協会などを見て回っているようだ。
 ちなみにもう一人、先のジャザンでの作戦における最大の功労者、影守美雪もここにはいない。活躍の代償として負傷した彼女は、現在ナデシコBで治療に専念している……のだろう。
「しかし、大きな作戦が差し迫っている時に、我々はこんな所で観光などしていていいのか、という気もするがな」
 楯身は十数時間後に控えている『山の老翁』への総攻撃を引き合いにそう言った。
「タカスギ少佐さんが許可してくれたし、いいんじゃない?」
 休暇も任務の内でしょ、と奈々美。
 先日のジャザンでの作戦で、楯身たちは中東最大のテログループ、『山の老翁』の殺し屋、『怪人クモ男』と交戦した。その時に発信機を仕掛ける事に成功し、もうすぐ『山の老翁』の本拠地がどこにあるのか突き止める事が出来るはずだ。
 準備が整い次第、宇宙軍の総攻撃が始まる。その準備が整うまでの間、楯身たちには短いながらも臨時休暇が与えられた。本当なら半日程度の休暇でわざわざベイルートへ赴く事も無かっただろうが、

『せっかく中東くんだりまで来たんだから、この機会にもっと満喫しとけ』

 というタカスギ・サブロウタ少佐の鶴の一言により、ベイルートへの小旅行が決行されたのだ。ご丁寧にもその時既にベイルート行きのリニアモーター電車のチケットまで用意してあるという念の入りようで、恐らく以前から行かせる気だったのではと思う。
「まあ、どのみち美雪の怪我が治り、戦力を集めるまで時間も必要だろうからな。我々はその猶予時間を利用して、たっぷり英気を養うとしよう」
「そうね。まずはベイルートの料理をたらふく味わおうっと。……ところで、楯身」
「ん?」
「その足元にいるちっちゃいのは、あんたの隠し子とかじゃないわよね?」
 なんだと? と楯身が奈々美の視線と指の先を追って足元を見ると、ピンク色の可愛らしいスカーフを首に巻いた小さな女の子と目が合った。
「…………」
「…………うー?」
 あどけない顔で見上げてくる。見た所5・6歳程度だと思うのだが、親はどこにいるのだろうか?
「……あー、君はどこの子だね? 親御さんはどうしたのかね?」
 とりあえず現地語で話しかけてみたが、どうやら藪蛇だったらしい。「ママ……」と呟いたその子の目に、たちまち涙が浮かんでくる。
 そしてとうとう、「うええええええええん!」と大声で泣き出してしまった。
「ちょっと、何泣かしてんのよ?」
「ち、違う! おい君、泣いていないで聞いてくれ、親御さんは……」
 しばしば『草薙の剣』の参謀長と評される楯身も、泣きじゃくる迷子への対処法は知らない。あたふたとうろたえながら質問するのだが、その度に余計泣き声が大きくなる一方だ。
「あ、いましたよ。奈々美さーん、楯身さ……」
「おーい、楯身ー……って」
 と、そこで散髪から帰って来た和也と妃都美が合流してきた。
 二人は大声で泣く子供を必死にあやそうとする楯身の姿を見て、ぽかんと口を開けた。
「えーと……取り込み中だった?」



「お名前は?」
「モーラ……」
「モーラちゃんね。はい。これ食べる?」
 妃都美がアイスクリームを差し出すと、モーラと名乗った少女は美味しそうにそれをほおばり笑顔を見せた。何と言うか、やはりこういう事は女性に向いているなと、楯身はしみじみ思った。
 泣きじゃくるモーラを妃都美の協力でなんとか宥めた楯身たちは、どうやらはぐれたらしい親を探してチューリップ園近くを探し回ったが、それらしい人はどこにもいなかった。
 そのうちモーラの腹の虫が鳴った事で楯身たちも空腹を思い出し、とりあえず食事をしながら考えようとモーラを連れて海辺のレストランへやってきた。
「ふう……妃都美、感謝する。正直、扱いかねていてな」
「はは。さすがの楯身も、泣く子には勝てないね」
 しゃくしゃくと野菜を咀嚼しながら、楯身はホッと胸を撫で下ろし、それを和也がからかった。
 妃都美に弟や妹はいなかったはずだが、こういう時の対応を見ているとやはり男女の差を思い知らされる。妃都美はきっといい母親になれるだろう……結婚できる相手がいればの話だが。
 ちなみに、二人が食べているのはトマト、キュウリ、カブ、青唐辛子などの生野菜の他、胡麻やチーズの入ったペーストが数皿と、オリーブの実や香辛料。これらをナンや青菜に挟んで食べる料理だ。充分にボリュームのある料理だがこれは前菜。終わった後にはメインディッシュに近海で取れた新鮮な魚の唐揚げと、最後にフルーツが控えている。
 どれも非常にヘルシーな料理で、レバノン地方の住人が世界的に見ても長い平均寿命を誇るのは、こういった身体に良い食物を主食としているせいかもしれない。
「君もどうだモーラ。うまいぞ」
 楯身がペーストを分けてあげようとすると、途端にモーラは「ふえ……」と泣き出しそうな顔になって妃都美の後ろに隠れてしまう。
「……むう。何か嫌われるような事をしてしまっただろうか」
「顔が怖いんじゃないの?」
「…………っ!」
 ざくっ、と奈々美の一言が楯身の胸に突き刺さる。
「奈々美、貴様……」
「そんなことより、親を探してあげるの? ……ハグハグ、拾っちゃった以上は……ングング、放り出すのも気分が悪いからねえ……ゴクゴク」
 多大な心理的ダメージを受けた楯身を半ば無視して、奈々美はハンバーグを豪快に食しながら、まるで犬猫でも拾ってきたように言った。
 奈々美が食べているのはひき肉と小麦の一種を混ぜて焼いた、ケッベというこの地方独特のハンバーグだ。地元住民は味付けにヨーグルトソースを好むようだが、辛口好きの奈々美はチリソースをたっぷりとかけて、コーラで流し込みながらかぶりついていた。
「んー! これおいしいっ!」
 舌鼓を打つのはいいが、暴飲暴食を通り越して牛飲馬食。あまりにマナーがなっていない……見かねた楯身はそっと注意を入れる。
「奈々美……もう少し落ち着いて食べろ。はしたない」
「堅い事言わないの。あ、くれって言ってもあげないからね」
「自分は……」
 続く楯身の言葉は、「どうぞ」と店員がコーラの缶を持ってきた事で中断させられた。
「はん? 頼んだ覚えは無いんだけど」
「褒めていただいたお礼として、特別サービスです」
「あら、気が効くじゃない……はい」
 お礼としてチップを掴ませる。日本では馴染みの無いルールだが、外国では弁えるべきマナーだ。
「それで、モーラちゃんのお父さんかお母さんはどうしたのかなぁ?」
「パパはいないよ。お花見てたら、ママいなくなってた……」
 答えると不安になったのか、またぞろモーラは涙目になる。しかし妃都美は「大丈夫。お母さんはお姉さんたちがきっと見つけてあげる」と頭を撫でて巧みにモーラを安心させる。さすがだと楯身は思った。
「この子、この町の子じゃないですね。少し遠くからお母さんと一緒に観光に来て、途中でチューリップ園を見に勝手に車から降りたみたいです」
「なるほど。チューリップ園は一通り探したのに見つからなかったという事は、親御さんは気が付かずにどこかへ行ってしまったという事でありましょうか」
「困ったね、探してあげたいけれど、定時までには帰らなきゃいけないし……」
 楯身と和也は困り顔を見合わせる。帰りの電車の時間を考えると、まさかベイルート中を探し回るわけにもいかない。
 と、奈々美がごくっと肉の塊を嚥下して、口を開く。
「どっか行くとこだったんでしょ? だったら、そこに行ってみれば見つかるかもよ」
「ああ、確かに……モーラちゃん、お母さんと一緒にどこに行く途中だったの?」
 笑顔で尋ねた妃都美に、モーラは「ハトさん」と答えた。
 最初は知り合いの名前かと思ったが、さらに話を聞くとどうやら違うらしかった。
「ハトさん? ……鳩? この近くに鳩なんていたっけ?」
「『鳩の岩』の事ではありませぬか。これから行こうと思っていた観光地であります」
「あー、なるほど……食べたら行こうか。美佳と烈火も来るはずだしね」
 それからしばらく、楽しい食事が続いた。



 同時刻――――クウェート基地、ナデシコB艦内。

「……はい。それで結構です。足りない分の弾薬はお隣の統合軍から融通してもらいましょう。それについては私がやっておきます。あっちには一つ貸しがありますから。……はい。問題ありません。それでは」
 必要事項を伝達し終え、ホシノ・ルリ中佐はふうっと椅子の背もたれに体を預けた。
 相当数の戦力を動員する制圧作戦。増援の受け入れに、作戦に必要な武器弾薬の手配、エステバリスや車両、ヘリを動かすバッテリーの確保と、作戦前にやっておかないといけない事は山ほどある。現場で戦う兵士たちが万全の体制で戦えるよう取り計らうのも指揮官であるルリの役目だ。
 とりあえず、今ので必要な事はほぼ伝え終わった。とはいえ、まだこまごまとした書類仕事が山のようにあるのだが。
 目がしくしくと疲労を訴えている。少しだけ休もうと瞼を閉じたその時、不意に目の前の端末が可愛らしいメロディーを発した。ルリ宛のメールが届いた事を知らせる音だ。誰だと思いメールボックスを開くと、差出人は『テンカワ・ユリカ』。
 メールには、『話したい事があるからこれからチャットルームに来て♪』と書いてある。末尾に『♪』などと付けているあたりは彼女らしいが、仕事中にいきなり呼び出すような事は今まで無かったはずだ。
 まあ、良い息抜きにはなるか。ルリはいつもの秘密チャットルームにログインする。

<YURIKA:あー来てくれたんだ。よかったぁ>
 3D空間内の長屋では、コルセットスカート姿のユリカの二頭身3D人形(アバター)が出迎えた。

<YURIKA:呼びつけちゃってごめんね。仕事中だったよね?>
<RURI:大事なところはおおむね終わりました。ちょうど休憩しようと思っていたので構いませんよ>
<YURIKA:ありがと。大事な作戦前だけど、どーしても話しておきたい事があってね……>

 その前置きに、ルリは何となく嫌な予感を感じて身構えた。
 また戦いに反対するような事を言われるのではと、そう思ったのだ。

<YURIKA:ねえルリちゃん、中東の人たちは、どうして火星の後継者に味方したがるのかな?>

 ……何を今さら……と、ルリは不快そうに眉根を寄せた。
 そんな事、とっくに解りきっているのに。

<RURI:ボソンジャンプの利権が欲しいんでしょう?>

 火星の後継者が地球連合を倒せば、それに代わって自分たちが世界の主導権を握れる。そうすればいつか来るだろう、人類がボソンジャンプで外宇宙を開拓する時代に最大の切り札を持ち、末永い繁栄と世界の覇権が約束される……バビロニア共和国の他、火星の後継者に味方したがる連中が望んでいるのはそれだろう。 
 ユリカも、それは否定しなかったが……

<YURIKA:政府とか、一部の人たちはそうかもしれないけど、一般の人たちは違うかもしれないよ>

 そして、ユリカが語ったのは――――
 …………


 食事を終えた和也たちは、モーラの言葉に従い『鳩の岩』へ向かった。
 歩く事しばらく。やがて『鳩の岩』へ続く海岸沿いの道路へ出た和也たちは、口々にわあっと感嘆の声を上げた。
「ここが地中海か!」
 初めて見た地中海は、和也に――――いや、木星人にとって初めての驚きを与えてくれた。
 道路一つ隔てた向こうに見えるのは、小さな岩礁が点々と浮かび、水平線の彼方まで広がる群青色の海。少しづつ海へ傾いていく太陽の光は、さざ波立つ水面みなもを宝石のように輝かせる。涼やかな海風は太陽に焼かれる体に心地よく、潮の香りもどこか甘い――――人間による開発の手が入っていない自然そのままの海が、目の前一杯に広がっていた。
「はー、いい所ねえ……木星じゃあこんな綺麗な海、映像でしか見られなかったものね」
 そう、奈々美。
 木星に、そしてその衛星に、地球で言うところの海は存在しない。和也たちにとっての海とは木星に広がるアンモニアの海の事であり、地球の海という物は古ぼけた映像の中だけに存在する物だった。
 地球に移り住んできた木星人移民がまず最初に感じた事は、こんな巨大な水の塊が絶えず蠕動しながら存在している事への、畏怖にも似た驚きと――――それを独占していた地球人への嫉妬、だったと思う。
 そんな木星人の一人だった和也たちにとっては、日本の開発された港の、ゴミが浮かぶような海でも驚きに満ちていた。
 初めてオオイソの海水浴場で泳いだ時の、海水の温かさと塩辛さは今でも忘れられない。
 こうして自然のままの、地球人でも素直に美しいと思える地中海の景色を前にしては、その憧憬どうけいはもう涙が出そうなほどだ。それが、ほんの少し悔しい。
「……少し悔しいですけれど、認めざるを得ませんね。これは確かに、木星には無かった景色ですよ……」
 妃都美もまた、少々複雑そうな微笑を浮かべている。きっと和也も似たような顔をしていたに違いない。
 木星――――木連が、長い逃避行の末に全てをゼロから想像した人工物の国なのだとすれば、この中東は太古の昔から文化と自然を継承させてきた、生まれたままの国。
 自ずから、持ちえる物が異なってくる。
「地球には確かに、木星には無かった物がある――――か。だからみんな、あれだけ憎んだはずの地球に『帰り』たがったのかな……?」
「かもしれませぬ。この素晴らしい風景、木星に残った皆にも見せてやりたいものであります……隊長も、露草殿に見せてあげたい事でありましょう」
「なんでそこで澪の名前が出るんだよ?」
 オオイソに残してきた友達を引き合いに出した楯身に、和也は苦笑した。
 彼女に見せてあげたいのは否定しないが、昔の楯身なら恐らく強要されても口にしないであろう言葉だ。
「……昔のお前なら、この風景もこき下ろしていたんじゃないか?」
「でしょうな。ですが、実物を前にすればいろいろと思う所もあるのであります」
 楯身は変わった――――和也は確かな実感を持ってそう思った。
 昔の楯身は、地球の全てを憎み、地球人への復讐を叫び、あの火星への無差別攻撃に歓声を上げるような、反地球感情の塊のような木星人だった。
 いつの事だったか忘れたが、訓練時代に地球のアルプス山脈を撮影したビデオを鑑賞した時、『こんなもの、核で焼き払ってしまえばよいのです』とか言っていた記憶がある。いくらなんでもアルプスに罪は無いだろうが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い――――地球人への悪感情が、いつのまにか地球そのものへの憎悪にすり替わった人間は、当時の木星では珍しくもなかった。
 ――ま、かくいう僕もその時は似たようなもんだったけど……
 楯身にどんな心境の変化があったのかは知らない。訊いてもさっきのようにはぐらかされるのだ。まあ昔ああ言っていた手前、いまさら地球を褒めるのには抵抗というか、恥ずかしさを感じるのだろうと和也は慮っているのだが。
 やっぱり、地球で暮らしているうちに、楯身も色々あったんだろうな……そんな事を漫然と考えながら、和也たちが向い側の遊歩道へ行こうと道路を横断した、その時。
「――危ない和也っ!」
「え?」
 奈々美の切迫した声が響き、和也ははっと我に帰った。
 目の前に車の大きな顔があった。派手にクラクションを鳴らして減速する気など無いと言わんばかりに突っ込んでくる。「うわっ!」と悲鳴を上げながら前へ飛び退き、危機一発で回避する。
 その見るからに高級そうな車は、和也を避けようとしてか数度蛇行し、その拍子に遊歩道へ乗り上げる。そこでパンを売っていた男の人に接触して撥ね飛ばし、そのまま一瞥もくれずに走り去った。
「ちょっとそこの人、大丈夫!?」  和也たちは急いで撥ねられたパン屋に駆け寄る。パンを吊るしていたカートが倒れ、下敷きになった状態だ。
 カートを起こしてやると、「……だ、大丈夫です」と一応しっかりした声が返ってきた。どうやら大した怪我は無いようで和也たちはほっと安堵の息をつくが、パン屋は周辺に散乱した売り物のパンを見て、がっくりと肩を落とした。
「あいつ、逃げちゃったわね」
 ちっ、と舌打ちして、奈々美。
 一瞬見えたが、あの高級車に乗っていたのは中東の人間ではなかった。白人のようだった。
「金髪にグラサンに高そうなスーツ……どう見ても外国人だったよ。どっかのお金持ちか……?」
「写真は撮っておきました。ナンバーも映っていますから、すぐに身元が割れますよ」
 妃都美が携帯電話を取り出し、警察へ通報しようとする。
 しかしパン屋は、「やめてください」と遮った。
「どうせ警察は何もしてくれません。あれはきっとあそこの住人ですから」
 パン屋が指さす先には、いかにもお金持ちが済んでいそうな豪邸が建ち並ぶ住宅地が広がっていた。鮮やかで子洒落たその一角は、しかしこれまで見たベイルートの町並みとはどこか調和を欠いた異質さがあった。
 よく見れば入口には検問があって、そこには銃で武装した警備兵の他に、MPタイプのエステバリスまでが佇立している。その軍事施設さながらの警備体制は、一目であそこが単なる高級住宅地ではないと教えてくれる。
「外国人居住区……この国に進出してる外資系企業の経営者や、その家族とかが住んでるところか……」
「あそこの住人は、警察に捕まってもこの国の国内法では処罰できないんです。あの居住区の中にいる向こうの警察に引き渡されて、その人の国の法で処罰される事になってます」
「はあ? 何よそれ。この国で犯罪やらかしたんだからこの国の法律で裁かれて当然じゃない」
 納得できない、という風に奈々美が言う。
 傍から見ている身としては、奈々美の疑問は至極当然だろう。しかし……
「そういう協定が結ばれているんです。だから警察も真剣に捜査しようとはしませんし、逆に通報したこっちが睨まれて、就職とかできなくなるんです」
 だから通報しないでください、と項垂れて言うパン屋を前に、和也たちは何も言えなくなった。
 これは同格の主権国家に対してする扱いじゃない。
 ――まるで属国というか、経済植民地って感じだな。これも地球連合の裏の顔か……
「……かわいそ。かわいそ」
 ふと、モーラがパン屋の頭を撫でていた。大の大人が小さな子供に慰められる姿を見て、いたたまれない気分になった和也は、
「……そのカートに残ってる無事なパンをください。僕と、その子の分も」
「では……自分も」
「私もお願いします」
「じゃあ、あたしも頂戴」
 もう腹は一杯だったが、各々小銭を出し、残った無事なパンを買う。今の自分たちにはこのくらいしかできない。
「は、はい……いらっしゃいませ」
 愛想笑いを作るパン屋の顔が、なんだか酷く痛々しかった。



「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 海岸沿いの遊歩道を、和也たちは黙々とパンをかじりながら歩く。
 皆、一様にせっかくの観光気分に水を差された気分だ。
「美味しい?」
「は。ふっくらと焼けた、美味なパンであります」
 少しでも空気を変えようとした和也の言葉に、楯身が応えてくれた。
 外側がパリッと、中がふっくらとした程よい焼き加減。持ちやすいよう穴が空いていて、たぶんパン屋の手作りなのだろう。これを台無しにされて何も言い返せないパン屋の心痛が、今さらのように思いやられる。
 ――経済も生活基盤も何もかも外資――――というか主流国に握られて、現地人は三下の扱いをされる……それが地球連合の現状なんだな……
 今まで大勢殺してきたあのテロリストたちも、こんな国を変えたいのだろうか……と考えてしまう。口には出さないが、他の三人も同じような事を考えているのではあるまいか。
 ――ああ、もう。やめだやめ。敵に同情してどうするんだよ。
 和也は首を振って余計な思考を追い出し、パンの最後の一欠けを口に放りこんだ。大きな作戦を控えているのだ。こんな時に変な迷いを持ったら、殺されてしまう。
 政治の世界は自分たちの領分じゃない。終わってから考えればいい……そう自分を納得させる。
「んふー、おいしい! パンおいしい!」
 と、小さな口でついばむようにパンを食べていたモーラが言った。
 こんな時は、子供の無邪気さがうらやましい……そう思った和也はモーラの頭を撫でていた。
「なにー?」
「なんでもない。……早くお母さん探そうな」
 和也がそう笑いかけた時、「おーい。お前らー、こっちだこっち」と烈火の巨躯が手を振っていた。
「お待たせ。二人とも楽しかった?」
「……はい。ベイルートには様々な宗派の教会がありまして……同じ神を信仰しながらの異なる解釈に触れる、とても有意義な時間でした……」
 聞いた和也に、美佳は両手を合わせて微笑した。ここ最近血と硝煙の臭いに慣れ切っていた美佳にとっては、久しぶりに心が洗われたような気分なのだろう。
 それにお供した烈火が、なんとも眠たそうな顔をしているのはご愛嬌か。
「ふあ……眠たくて天に召されそうだったぜ。ところで、そのちんまいのはなんだ?」
 長い事退屈と格闘していたらしく大あくびをかました烈火が、妃都美の足元にいるモーラに目を向けた。強面の顔を向けられたモーラは、びくっと震えて妃都美の後ろに隠れてしまう。
「この子はモーラ。お母さんとはぐれたみたいで、ここに来たかもしれないからついでに探しに来たんです。……あまり顔を近づけないでくださいね。怖がって泣いちゃいますから」
「妃都美よ、どういう意味だ……」
 じろっと妃都美を睨む烈火。
 ふと楯身の方へ眼をやると、美佳から借りたらしい手鏡を覗きこんでいた。
「そんなに怖くは……いや……」
 さっき奈々美に言われた事を気にしてる……思わずくっくっと笑ってしまう。
 身体は銃弾を受け止めるほど頑丈なのに、妙に繊細なところがあるのだ。楯崎楯身という男は。
「へえ。あれが『鳩の岩』?」
 紺碧の地中海に浮かぶアーチ状の岩を指して、奈々美が弾んだ声を上げた。
「なんか思ったのと違うわね。てっきり鳩の形した岩なのかと思ってたわ」
「あはは。だったら面白かったんだけどね」
 笑って、和也。
「昔はこのあたりにたくさん鳩がいたとか、ここから伝書鳩を飛ばしていたとか、そういう話から『鳩の岩』って呼ばれるようになったみたいだね」
「ここから遠く離れた場所にいる家族や恋人に、メッセージを伝書鳩に託して送る……なんだかロマンチックですね」
 妃都美はうっとりとした表情で鳩の岩を眺める。脳内に浮かぶ乙女チックな想像に、胸を膨らませているのだろう。
「あたしは年に一度開かれるっていう度胸試しのダイビングに興味があるわねえ。……今もほら、飛び込もうとしてる人がいるわよ」
 奈々美が指さす先には、水着で鳩の岩の上に立つ男がいた。「大丈夫なんですか……?」と妃都美は表情をひきつらせる。
 二人の少女が見守る前で、男は宙に身を躍らせた。「キャーッ!」と妃都美と奈々美が歓声とも悲鳴ともつかない声を上げ、盛大に水柱が上がり、男の姿が水面に消えて――――数秒後、無事な姿で顔を出した。
 妃都美はほっと胸を撫で下ろす。
「はあ……解っていても怖いですね。度胸試しというより自殺に見えます」
 実際、あそこから飛び降り自殺する人が多いのも事実なのだが、とりあえず口には出さない事にした。
「見えないー。うー……」
 と、モーラがぴょんぴょんと飛び跳ねていた。ガードレールが邪魔で鳩の岩が見えないらしい。
「どれ。見せてあげよう。えーと……楯身、肩車お願い」
「は……しかし、彼女は自分の顔を見ると泣いてしまうでありますが」
「平気平気。すぐ慣れてくれるよ。さあモーラ。おっきい兄さんに肩車してもらいな」
 ひょいとモーラの小さな体を抱え上げ、楯身の肩に乗せてやる。最初はおっかなびっくりだったモーラだが、懸命に笑いかける楯身を見てきゃっきゃっと笑い始めた。
「高い高いー!」
「う、うむ。高いか、そうか」
「あはは。よかったねえ楯身。お前の誠意が通じたみたいだよ」
「ほらほら。はしゃいで落ちないでくださいねー」
「へへへ。次はオレに……」
「ダメよ。泣いちゃうから」
「……早く、お母さんが見つかるといいですね」
 怖がられたままでは楯身が可哀想だと思ってやったのが功を奏し、全員で笑い合う。戦場に立てばテロリストを薙ぎ倒す生体兵器たちも、この時ばかりは普通の少年少女だった。
 きゃいきゃいじゃれ合っていると、「モーラ……?」と、耳慣れない女の人の声が聞こえた。
 首を向けると三十代半ばくらいの、スカーフ姿の女性が和也たちを見ていた。するとモーラが「ママー!」と駆け寄っていく。和也たちはほっと安堵の息をついた。やはりモーラの母親はここに来ていたのだ。
「その子、チューリップ園で迷子になってましたよ。よかった、見つかって」
「ありがとうございます……何とお礼を言っていいか」
 涙目で頭を下げてくる。相当心配していたのが見て取れた。
 きっと、和也たちが食事などしている間もずっと探していたのだろう。これが母親ってものなのかなと和也は思った。
「いいんですよ別に。ここには観光で?」
「はい。最後の記念に良いと思って……」
「はあ。そうですか」
 なんだかいろいろありそうな家族だな、と和也は思った。……しかし、最後って何だろう。
 その時、不意に美佳が肩を叩いてきた。
「和也さん……そろそろ時間です。帰らないと」
「ああ、もうそんな時間か……それじゃ、僕たちはこれで。モーラ、さよなら」
「ばいばい、モーラちゃん」
「元気……でな」
「ばいばーい。元気でなー」
 手を振る和也たちに、モーラも笑顔で手を振り返してくれた。
「楽しかったね」
 そう、和也。
「いい町でありました。食事も美味しく、人も穏やかであります」
「タカスギ少佐も、たまにはいい事をしてくれますね」
「……今まで、こんな所があるなんて知りませんでした。ずっと戦う事ばかりで……」
「ま、久々にいい息抜きになったんじゃない?」
「俺は眠たかったけどな。……うがーっ! 暴れてぇっ!」
 和也に答え、全員が口々に感想を口にする。この短い旅行で皆、張り詰めていた神経をほぐす事が出来たようだ。
 しかし、それもあと数時間だ。
「さ、楽しい観光は終わり。明日は……戦争だ」
 これまで意識から追い出していた、数時間後に迫る『山の老翁』への総攻撃を意識の中へ呼び戻し、闘志の釜に火を入れる。
 士気の高揚を現し、全員の顔にこれまでと違った戦士の笑みが浮かぶ。これまでの住民たちとの温かな触れ合いの記憶、それさえも闘志の火を燃やす焚きつけにして、六振りの剣が戦場へ帰っていく――――



「今さら説明するまで無いですが、本日正午、宇宙軍総司令部から『山の老翁』制圧作戦の実施が正式に認可されました」

 すっかりお馴染みとなったナデシコBのミーティングルームに、ルリの声が訥々と響く。
 居並ぶ『草薙の剣』の面々も、ルリの両隣りに座るマキビ・ハリ中尉とサブロウタも同様に、真剣な面持ちでルリの言葉に耳を傾けている。
 そこについ数時間前までベイルートで笑顔を見せていた、無邪気な観光客はもういない。訓練された軍人たちが、大規模な作戦を前に緊張と高揚感の入り混じった顔をして上官の説明に聞き入っているのだ。
「先の戦闘でカゲモリ上等兵が『怪人クモ男』に打ち込んだ発信機の反応は、その後東へ向かって移動……」
 ルリの指の動きに合わせ、各々の目の前に浮かぶウィンドウに表示された地図の中、赤い矢印が東へ伸びていく。
「国境近くの山岳地帯へ入りロスト。これは山岳の地形による電波状態の悪化が原因と考えられます」
 伸びていった赤い矢印が隣国との国境近くに広がる山岳地帯へ入り――――そこで『LOST』と表示される。
「このデータを元に、最寄りの駐屯地に駐屯する宇宙軍陸戦隊・第37偵察隊が捜索を開始。彼らが五時間ほど前に送ってきた写真がこれです」
 次いで表示されたウィンドウには、山の中に聳える古ぼけた古城が移っていた。崖を背にし、中央には礼拝堂と思しい大きな城郭が聳えている。しかし吹き付ける砂嵐のせいか、それとも元からこんな色なのか、周囲に同化した砂漠色の古城は空から見下ろせば気が付かないのでは思わせるほど存在感が弱々しく見えた。
「山の中の古城か……てっきり、大きい地下壕でも掘って隠れているかと思っていたけど」
 そう言った和也に答えるように、ルリは続ける。
「この数時間の間にも、かなり頻繁な人の出入りが確認されています。相当数のテロリストがここに居を構え、多数の兵器を隠匿しているのは間違いありません」
「……こんな目立つ所にテロリストが巣を作ってたのに、何で誰も気が付かなかったの? そもそも、この国じゃあこういう大昔の城は大事な歴史資料で観光資源なんじゃなかった?」
 奈々美が手を上げ、疑問を呈する。それにはハーリーが答えた。
「ここはあまりに険しい山の中で、道も整備されていない非常に不便な場所なので、観光地化はされてきませんでした。勿論、テロリストやその他の犯罪組織が悪用するみたいな事が無いよう、定期的にバビロニア共和国軍の部隊が調査に来ていた……と、公式記録にはあるんですけど……」
「ですが実際、彼らはここに巣食っています」
 そう、ルリ。
「これは大きな収穫です。バビロニア共和国の正規軍か政府か……あるいは両方の中に組織ぐるみで火星の後継者とテロリストを応援する連中がいる事の証明になります。この作戦が終わった暁には、そこの所も地球連合安全保障理事会の場できっちり、追及される事になるでしょう」
「ですが、それも作戦が成功してからの話でありますな」
 口元に手を当てて、楯身が言った。その視線はウィンドウに映った古城にのみ注がれ、数時間後に赴くであろう戦場に思いを馳せているのだろう。
 いや、楯身だけではない。
 和也も、他のメンバーたちも、彼らの意識はもう戦場に在るのだ。
「そうです。この作戦は今後の中東における火星の後継者の活動を制限する意味でも、絶対に成功させる必要があります。ですからこの作戦には、私たちと皆さんの他に宇宙軍陸戦隊の一個連隊を動員し、これを収容する強襲揚陸艦サンスベリアがナデシコBに帯同。さらにエステバリス戦闘隊一個大隊を動員して、これに当たります」
 ひゅー、と口笛が鳴った。烈火だ。
「錚々たる陣容っすねえ。テロリスト集団風情にゃもったいないくらいの規模だ」
「確かに予想される敵の戦力を考えれば、過剰過ぎる兵力かもしれません。そもそも山岳に大部隊を集中させても身動きがとれませんし」
 ですが……とルリが指を動かす。新たにウィンドウが展開し、古城周辺の地形図が表示された。
「バビロニア共和国軍からの報告が当てにできない以上、外へ続くトンネルの存在を考慮する必要があります。うまく古城を制圧できても、肝心のリーダー格に逃げられては意味がありませんから。従って動員される兵力の内、実際に制圧に当たるのは三分の一の陸戦隊一個大隊、エステバリス一個中隊程度で、残りは逃走防止用の後詰として周辺に分散配置する事になりますね」
「少々心細く感じるかもしれねえが、万が一リーダー格を取り逃がせば、そいつがまた新たなテログループを作る可能性がある。中東から火星の後継者の影響を早期に排するためにも、逃走防止策は出来る限り打っておく必要があるんだ」
 ルリに続いて、サブロウタが補足する。
 地形図の上では、周辺で警戒に当たる部隊の配置を示す青い光点が表示されている。古城の周囲を機械化歩兵部隊が数キロ感覚で取り囲み、その外側にはエステバリスが遊弋する、二重の包囲態勢だ。
 歩兵隊は地中を音波探知機か何かでトンネルが無いか捜索し、万が一その網を抜けられた場合は機動力の高いエステバリスが追撃するという構えなのだろう。このために動員される兵力の三分の二を割くという事からも、ルリが一人として敵を逃がす気が無い事が窺える。
「具体的な作戦ですが、地球上での基地攻略戦のセオリーに従って、私たちは日付変更と同時にクウェート基地から出撃、サンスベリアは夜陰に紛れて陸戦隊を展開させ、夜明けを待って攻撃を開始。主力の攻撃部隊である宇宙軍陸戦隊・第515機械化歩兵大隊に、クウェート基地駐留のオーガニクス機動中隊が帯同。地上から攻撃を仕掛け……」
 ルリは淡々と、作戦の手順を読み上げていく。戦域図の中で動き回り消えていく光点一つ一つが、数時間後には命を持った人間として現実に現出する事になる。その中には自分たちも含まれるだけに誰もが真剣だ。『草薙の剣』の出番が来た時は烈火と奈々美が「待ってました!」と思わず立ち上がり、楯身に窘められる一幕もあったが、それ以外は皆、概ね黙ってルリの言葉に耳を傾けていた。
「以後、本作戦は、『オペレーション・クルセイダーズ』と呼称します。……何か質問は?」
 妃都美が、妙におずおずと挙手した。
「……ホシノ中佐……作戦とは直接関係ありませんけど、中東で十字軍クルセイダーはちょっと酷いんじゃないですか……?」
「ああ。では限りなき正義インフィニット・ジャスティス作戦辺りがよかったですか」
 ――……それもまずいだろ、それも、と和也は内心でツッコミを入れた。
 これはもう確信犯だ。ホシノ中佐は火星の後継者も、それに味方したがる連中も枝葉末葉まで許さないつもりなのだ。この作戦名一つ取っても、それが如実に表れている。
 本当に怖い人だ。彼女にそこまで火星の後継者やその協力者を憎ませるモノが何なのか、一度聞いてみたいところではある。
 尤も、今聞いたところで「それが今回の作戦と何か関係ありますか?」と返されるであろう事は容易に想像できたので、考えるだけに留めておいたが。
「他に質問は?」
「では……一つ確認させていただきたく」
 楯身が手を挙げた。
「敵のリーダー格を取り逃がすわけにいかないのは承知しましたが、我々がやるべきは生け捕りなのでしょうか?」
「“可能な限り”生け捕りが望ましいです。ただ最優先は『逃走の防止』です。さっきも言いましたけど、逃げられたらまた新しいテログループを作られる可能性が高いですから。なので抵抗されたり、逃げられそうになったりして生け捕りが難しい時は……」
殺しても構わないDEAD OR ALIVE、と」
 そう、口元に凶暴な笑みを浮かべて言ったのは烈火だ。
「そいつぁ有難い。生け捕りに固執するあまり、こっちに死傷者を出すのは御免ですからな」
「理解できます。……他に質問が無ければ以上です」
 今の内に準備を済ませて、後は出撃まで寝ちゃっててください。と最後にルリは言い、ブリーフィングを締めくくった。



 ルリによる作戦開始の宣言は成され、ナデシコBの格納庫では作戦に投入されるエステバリスやバッタの整備、弾薬やミサイルの搬入が急ピッチで進められていた。
 これまでは和也たちが戦っている後ろでもっぱ前線指揮所CPとしての役目に専念していたナデシコBも、今回は敵の対艦ミサイル等の脅威が予想される場所へ進出し、久方ぶりに矢面に立つのだ。ディストーションフィールド発生ブレードの点検やミサイルの装填など、ナデシコBそのものの戦闘準備がこれまで以上の入念さで進められ、艦内はいよいよ戦闘前夜の色を濃くしていく。
 そんな格納庫の片隅で――――

「だ――――――――――――!」

 と突然大声が上がり、忙しく駆け回っていた整備員たちが何事かとそちらを見た。
「3分45秒か……意外と長続きしたな」
「何が『意外と長続きしたな』よ!? 冷静にカウントしてんじゃないわよ!」
 冷静にコミュニケの時計を見た和也に、奈々美が地団駄を踏んで怒鳴った。
 武器の整備、新しく搬入された装備品の点検など、実戦前に済ませておくべき雑務は多い。今彼らが没頭している銃のマガジンの弾込めもその一つ。
 携行する弾薬量はそれぞれ違いがあるが、一人の平均弾数は300発前後といったところた。それを一つ一つ手作業でマガジンに食わせていく作業は、絶対に必要だが酷く根気を要する単調な作業だ。
 まあ訓練時代から何度となく繰り返してきた作業なのだから、さすがに手付きは慣れたもの。問題は元々単純作業が嫌いでなおかつ短気な奈々美だ。
「何でいつまで経っても装填機械の一つも回されてこないわけ!? なんかの嫌がらせ!?」
 普通なら機械ですぐ終わる物を、わざわざ手作業でやらせる意図が解らない―――――奈々美が言いたいのはそれだ。和也も装填機械の支給を再三要請してはいるのだが、未だに叶えられていない。
 これもルリの警戒心の表れなのだろうと、最近は諦めている。
「こんなのポテチの袋詰めみたいに機械でやっちゃえばいいのに、今どき手作業でチマチマチマチマ……ちょっと、烈火も何か……」
 同じく気の短いタイプである烈火に来援を求めた奈々美だが、
「……はあ。心安らぐ時間だぜ……」
 と息をついた烈火の表情は、この上ない至福に包まれていた。援軍は望めないと悟り、奈々美はがっくりと肩を落とす。
「そういや、あんたはこの作業だけは大好きだったわね……このトリガーハッピーめ」
 味方してくれる者がいないと見て渋々作業に戻る奈々美。しかし早く終わらせようと乱雑に弾を詰め込み、烈火に「そんなに乱暴にやるとスプリングが曲がっちまうぞ」と言われて、「うきゃ――――――――!」とまた放り出した。
「やれやれ……そう言えば美雪。怪我の具合はどう?」
 喚く奈々美を意識から追い出し、和也は美雪に訊いた。
「御心配ありませんわ。すぐにも戦闘可能です。地球のナノ治療は素晴らしいですわね。まだ跡が残ってますけど」
「そこで脱がなくていいから……」
「あら残念。とにかく、作戦の時はぜひわたくしを先方に使ってくださいませね」
「美雪にしては珍しくやる気満々だね。いや、“殺る気”か……」
 恐らく、今回美雪の原動力になっているのはあの『怪人クモ男』への報復だろう。
 それは和也もよく解る。先日クモ男に右手の半分を切断された時の記憶はまだ生々しい。また会えた暁には、この手でたっぷりとお返ししてやるつもりだった。
「止めは譲ってあげてもいいけど、腕の一本くらいは譲れよ? 僕もあいつには借りがあるからね」
「痺れ薬でも持って行きます? 動きを封じてたっぷりいたぶってやるのはいかが?」
「おいおい、物騒な話してるな」
 突然苦笑気味の声が投げかけられ、和也たちは反射的に立ち上がった。
「おっと……敬礼!」
 和也の号令一過、全員が型にはまった敬礼をし、声の主――――頑丈そうなケースを左手に提げたサブロウタも答礼を返す。
「この艦じゃああまり堅苦しくしなくていいと言ってるだろ?」
 言いつつ、ちらっと妃都美を見る。しかし無反応。
 笑顔を作ってみる。しかし目を逸らされ、サブロウタの笑顔が少し苦い物に変わる。
「……まあいい。調子はどうだ?」
「隊員のコンディションは万全です。いつでも出撃命令をください。タカスギ少佐も、出撃前の準備ですか?」
「ああ。今回は俺も一個小隊を指揮するからな。奴らとの連携とかを確認してたところだ」
 それと、こいつを届けに来てやったぞ――――とサブロウタは手にしたケースを差し出す。その表面には、見慣れない『瓜』のマークがあった。
「頼まれてた新兵器だ。ハンドメイドの特注品だからな。有効に使えよ」
「ありがとうございます。これであいつに仕返しができますよ……こんな短時間で届くなんて、この『瓜』のマークの会社? いい仕事してますね」
 ケースの中身を見て、和也は弾んだ声を上げる。
「ま、腕は確かのはずだぜ……統合軍で採用されてるステルスシートなんかもここの特許だからな」
「こんな大きな作戦は、熱血クーデターの時以来です。腕が鳴りますよ」
 言った和也に、「同感!」と奈々美が腕を振り上げた。
「そうか……戦意旺盛で結構だ。ところで、ベイルートはどうだった?」
 苦笑気味に言い、小旅行の感想を聞いてきたサブロウタに、和也たちは口々に楽しかったですと答えた。
「まあ、中東の花の都というのも納得できますわね。美しい町でしたわ」
 唯一今回の小旅行に同行しなかった美雪が言った。彼女は和也たちが監視に神経を尖らせているのをよそに、任務と並行して観光を満喫したのだろう。美雪にはそれだけの器用さがある。
「そうだろう。しかし花の都を守るために、かつて多大な犠牲が払われたらしいけど、な」
「解ります。町中にも二百年前の戦争で付けられた弾痕が残っておりましたからな……歴史を語り継ぐために、そのまま保存してあるのだとか」
 話題を誘導したサブロウタに、楯身は乗った。
 今でこそ治安の保たれた観光地として潤っているベイルートだが、その歴史は血と硝煙に塗れた苦難の歴史と言っていい。
 戦争、内戦、テロ……幾度となく戦火に見舞われ、その度にベイルートの街は瓦礫の山と化した。
 特に、かつて中東を焼き尽くした第五次中東“非核”戦争と、それに続く第六次中東“核”戦争ではこの近辺が特に激しい戦場になり、あの美しい土地も幾度となく戦火と放射能汚染の危機に晒されている。
 今もああして昔のままの自然が残っているのは、多くの人々が文字通り血と汗を数えきれないほど費やしてきた結果と言っていい。
「そのような歴史ある街を抱えるこの地、戦場とするのはいささか心苦しい物がありますが……」
「これ以上ここを戦場にしないためにも、この作戦は成功させます」
 楯身に続き、和也。
 この短い旅行で、『草薙の剣』は今までテロリストが跋扈する敵地としか思っていなかった中東への認識を、少し改める事が出来たようだ。
 そんなつもりは無かったけれど、思い返せば和也たちはどこかで、中東の人間とテロリストをイコールで考えてしまっていた気がする。テロリスト以外の人間とまともに話をする機会さえ持たなかったから……
 それが今回の小旅行で、少し変わった気がする。最初からこれを狙って和也たちを送り出したのだとすれば、なるほどタカスギ少佐の目論見は当たったと思うべきか。
 今の和也たちにはこれ以上、歴史あるこの地を戦場にしたくないという意識が生まれていた。

 ――守ろう。ここを。

「あの子たちが安心して暮らせるためにも……こんな戦い、早く終わりにしてあげたいもんだね」
「……はっ。同感であります」
「中東を戦場にしたがる火星の後継者を、私たちの手で叩き出してあげましょう」
「……この方法論を悪しとする人は少なからずいるでしょう……ですが、私たちはこの方法しか知りません……」
「それが、あたしたちに出来る事ってね」
「おお。俺はいつでもやってやるぜ!」
「皆さまがそう言うのであれば、わたくしもお手伝いいたしますわ」
 頑張ろう! と和也が声を上げ、おー! と全員が唱和する。
 明日、和也たちはまた戦場に赴く。
『山の老翁』を壊滅させて、火星の後継者を叩き出す――――それで中東は平和になるだろうと、この時和也たちは信じていた。それを闘志の糧にして、戦いに行くつもりだった。

 そう。信じようとしていたのだ――――



「少佐。少々お待ちを」
 不意に後ろから声がして、サブロウタは後ろを振り返った。和也たちとの談笑を切り上げ、格納庫を出た直後の事だった。
「ん……? 楯崎か。まだ何か用があるのか?」
「少し、お聞きしたい事が」
 個人的な事で申し訳ありませぬが、と前置きし、楯身は言葉を選ぶように言う。
「少佐は、以前中東の事を『地球連合に反抗的な化外の地』と評しておりましたが……では逆に、中東にとって地球連合とは何なのだとお思いでありますか?」
「どうした急に」
「いえ……ただお聞きしたいと思っただけであります」
 ふん、とサブロウタは苦笑気味に鼻を鳴らした。
「その様子じゃ、なにか嫌なもんでも見ちまったか」
「は……どうも中東の人々は、自分たちが食い物にされていると感じているようでありまして」
 楯身は、精魂込めて作ったパンを暴走車に台無しにされて何も言えなかったパン屋の話を、サブロウタに伝えた。
「なるほど。外資系企業の関係者か……確かに、この国の経済は完全にUSEや北アメリカから進出してきた大企業にがっちり首根っこ掴まれてるな。そのせいで政治家も逆らえない」
「愚かな……これでは地球人類宣言など、単なる画餅ではありませぬか」
 楯身は憤懣やるかたない、といった顔で俯く。
「地球連合は主流国と非主流国とを同等に扱う気など無いという事か。これでは……」
「あまり迂闊な事言わん方がいいぞ。壁に耳あり障子に目ありって言うぜ」
 単なる不平で済ませるにはいささか不敬に過ぎる楯身の言動を、サブロウタは窘めた。万が一誰か――特にルリ――に聞かれでもしたらまずいと思っての事だったが、その胸の内は同じだった。
 バビロニア共和国が、というか中東が、ここまで食い物にされているとは、サブロウタもここに来るまで思わなかった。
 自分たちはこんな構図を維持するために戦うのではない。楯身の憤りは理解できるし、故無き事でもない。
 だが――――それでも。
「気持ちは解る。だがな――――俺たちは政治家じゃない」
 きっと楯身の目を睨みつける。楯身は気圧され、知らず一歩足を引いた。
「確かに今の中東はおかしい。外国の連中に国を食い物にされて怒る気持ちも解らないでもない。だが自分たちの産業を育てて、この依存から抜け出す機会はいくらでもあったはずだ。だがそうはならなかった。何故だ?」
「それは……」
「今のままがいい奴らの方が、むしろ多数派マジョリティなんだよ。外資は国を食い物にしているかもしれないが、半面国民の生活を支えているのも事実だ。この国の人間の何割が外資系企業で職を得てるか、お前知ってるか?」
「…………」
 楯身は言い返せない。
「だから選挙でも主流国との関係強化を国の方針とする奴らがずっと勝っているし、ベイルートのように潤っている都市部じゃテロも少ない。いまテロなんてやっている奴らは、そういうのに預かる事が出来ないで貧困層に落ちた連中だ。国全体で数えればむしろ少数派マイノリティ。多数派になれなくて短絡的にテロなんてやり始めたバカだ。そしてそいつらに武器を与えて焚きつけたバカが火星の後継者で、そいつら相手に結局暴力でもって戦うしかないバカが俺たちだ」
「……結局、みんなバカでありますか」
「ああ。バカヤロウさ。だから……バカはバカなりに、バカな仕事を全うするしかない」
 ふう、と一つ息をついて、
「お前の事だ。主流国の影響を排して自分たちだけの国を作りたいって奴らに同情しちまうんだろうが……それは駄目だ。『敵』に変な同情はするんじゃない」
「…………」
「敵を前にしてコンマ一秒でも撃つのを躊躇えば……お前が死ぬぞ」
 サブロウタは楯身の両肩を強く掴む。目を逸らす事も逃げる事も許さないと、そう言い聞かせるように。
「黒道達も、お前と同じ物を見たのなら多分同じ事を考えているはずだ。それでも口にしないのは、そんな事を考えていたら自分が殺されると解っているからだ。お前だって軍人なんだから、それは解っているはずだろう?」
「それは存じております。しかし……」
「しかしもかかしもあるか。まだ情けを捨てられないなら……この作戦から降りろ。そんで軍もやめちまえ。それがお前と仲間のためだ」
 敵に同情する甘ちゃんは要らない――――そうサブロウタは突き放す。
 本当はこんな事を言いたくはないが……敵に同情心を抱いたまま戦場へ送り出してしまえば、それはきっと危機を招く。
 戦場に出るからには、敵を手に掛ける事を躊躇う訳にいかない。敵を人間と意識してはいけない。それが戦場に立つ軍人がすべからく負う義務であり、悲哀であり、罪なのだ。
「……出過ぎた事を言って申し訳ありませんでした、少佐。一平卒としての領分を越えた質問でありました」
 納得はしたが、渋々……といった感じで楯身は敬礼する。
「政治について考えるのも、地獄に落ちるのもこの戦いが終わってからと致します。ただ……一つだけ言わせていただきたい」
「何だ」
「我々の木星がもし、今の中東のように格下の扱いを求められた時……我々は、それを受け入れるべきなのでありましょうか」
 楯身は、サブロウタの目を真っすぐに見て言う。
「仮にそうあるべきだったとして、我々はそれを受け入れられるのでありましょうか」
「お前……」
 その質問の意図するところを悟って、サブロウタは目を見開く。
「失礼致します」
 返事を待つことなく、楯身は格納庫へ戻っていく。サブロウタはただその後ろ姿を見送った。
 楯身が言いたかったのは……今の地球連合で、本当に地球と木星で対等な関係を築けるのか……
 本当の意味での和平が実現できるのかと、楯身はそう問うたのだ。
「……お前、本当に真剣に和平を望んでるんだな」
 ちっ、とサブロウタは舌打ちする。
「本当のバカは俺かよ……」
 ちくちくと罪悪感が胸を刺す。
 楯身に死んでほしくないと思って言った事なのに、せっかくの楯身の思いを傷つけてしまった。
「悪かった……お前はそのままでいい。だから……死ぬな」



 苦虫を噛み潰した面持ちのサブロウタ。二人は気が付いていなかったが、その一部始終をルリはブリッジからカメラを通して見ていた。
「…………」
 数時間前、ユリカとチャットルームで話をした時の事を思い出す。
 ユリカは……楯身と同じような事を言っていた。
 バカな事をと思った。どうしてこの国の人間は火星の後継者を応援したがるのかなんて……そんな事、今は考えるべきじゃない。任務に変な感情を差し挟むべきではないのだ。勝ちたいと思うのなら。
 その点、サブロウタの言っている事は正しい。
 この大事な時にわざわざ戦意を鈍らせるような事を言うユリカの意図が、最初ルリには理解できなかったが……
『こんな迷わせちゃうような事言ってごめんね。でも……』
 そしてユリカは、彼女なりの予測をルリに聞かせた。
 筋は通った話だと思う。事実なら、決して放置できない事だ。しかし……

「だからって……私にどうしろって言うんですか、ユリカさん……」










あとがき(なかがき)

 嵐の前の静けさ。作戦準備の時間を利用した『草薙の剣』のベイルート小旅行と、楯身の苦悩でした。

 今回は実在の都市であるベイルートを舞台に、現地の人たちとの心温まるふれあいを描きました。実際行った事があるわけではありませんが(というか海外旅行自体一度も行った事が無い……)集められるだけの資料を元にでっちあげた、ベイルートの疑似旅行気分をお楽しみください。
 この旅行は本来十一話で入れる予定でしたが、話のテンポなどを考えて今回になりました。作戦前に旅行になんぞ行ってる場合か!? なんて言われそうですが、今を逃すともう後が無いので……
 中東の現状と地球連合のやり方に憤りと迷いを抱く楯身、楯身を死なせないため心を鬼にして情けを捨てろと断じるサブロウタ、楯身と同じ事を考えつつもこの戦いは中東の人々の平和のためと必死に自分を納得させる和也たち。そしてユリカから聞かされた話に悩むルリ。誰もが迷いを抱く中、戦争は始まります……

 今回がまあ『承』のとっかかりあたりで、次回には『転』から『結』に至るはずです。いままでナデシコらしからぬ生身の白兵戦が多かったので、次回はエステバリスその他のロボット分増量で行きます。

 で、ここらでちょっと反省の弁を。自分の恥を晒すみたいですが、自戒の意味を込めてここに書いておきます。
 実は私、プロットという物をいままで書いていませんでした。
 必要なイメージとかはほとんど脳内にあるので、無くても問題ないんじゃと思っていましたが、別作品を書くためにプロットを作成してから書いてみたら、執筆が今までになくスムーズに進みまして……一話書くのに素で半年かかったりしていた停滞っぷりはこのせいだったんだなと実感しました。
 もう何年も書き続けているのに、今さらこんな事に気が付くなんて……自分の至らなさを反省しています。

 個人的な事をぐだぐだ書いて失礼しました。それでは、また次回お会いしましょう。












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ゴールドアームの感想。

 『承』としていい感じに仕上がっているなあ、とまず感じました。
 クライマックス的な山場が起きる前に、そこに至るまでの各人の思いを丁寧に描写していると思います。
 内容もいい意味でいろいろと考えさせてもらえますし。
 クライマックスを盛り上げるためには、そこに至る経緯を読者に理解させておかねばならないという、物語の常道をきっちりと押さえていると思います。
 そして何より、今回まずこれ単品で読んでみたのですが、直接の前回をよく覚えていなくてもきちんと『話』になっている点がまたいいと思いました。
 さすがに連載ものなので各キャラのことは前提知識として必要ですけれども、この『単独できちんとエピソードがまとまっている』というのは、連載作品において結構重要度の高いものだったりします。何より読んでいて飽きを感じさせないためには。
 前を読まないと話の意味が判らない連載は、読者に結構負担を掛けますから。
 対して、よくできた連載ものは忘れていた前の話を思い出したりします。
 そのへんのさじ加減も実にイイと思いました。
 これからも頑張ってください。


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