墨のように真っ黒い海の上、満天の星々が燦然と輝いていた。
 夜の海上には明かりを放つ物一つ存在せず、船や飛行機の陰一つ見えない。大した風も吹かない凪いだ海は、まるで全ての時間が止まったように穏やかな顔を見せている。
 耳が痛くなるような静寂が辺りを包む中、ナデシコBは静かに西へ向かって航行していた。
「目的地到着まで、後20分ほどです」
「周辺、艦内、共に異常ありません」
「『アザレア』の『草薙の剣』より定時連絡。異常なしとのことです」
 機器類のノイズだけが聞こえるナデシコBのブリッジには、時折思い出したようにマキビ・ハリ中尉や露草澪一等兵――いや、今は上等兵だったか――の異常なしを伝える報告だけが時折思い出したように響いてくる。
 それに対する、ホシノ・ルリ中佐の返答も決まっている。
「了解。引き続き警戒を厳にしてください」
 判で押したように代わり映えしないこのやり取りの繰り返しに、顔には出していないもののルリは辟易していた。
 きっと他のクルーたちもそうだろう。最後まで警戒を解いてはいけないとはいえ、何も起こらないまま何時間も気を張り詰めているのは思った以上に気が滅入る仕事だ。
 ――これも嵐の前の静けさ……の可能性が大きいですけどね。
 ナデシコBの後には、数隻の軍艦が一定の間隔を置いて航行している。  揚陸艦『アザレア』を中心に、リアトリス級戦艦が二隻。サクラ級駆逐艦が三隻。
 ナデシコBを先頭に輪形陣を敷く計七隻の艦隊。保有する機動兵器も二個中隊を超え、小規模な基地一つくらいなら十分攻め落とせる戦力を持った艦隊が、通常の航路から外れて、しかも照明を全て消灯し夜の闇に隠れるように航行するそれは、彼らが敵襲を警戒している事を示していた。
 今回の任務は、揚陸艦アザレアを――――正確には、現在アザレアに収容されているある人物“たち”を目的地まで護送する事。
 艦隊を組んで対処する必要がある規模の襲撃を警戒し、なおかつこれだけの物々しい戦力を投入してまで守らねばならない重要人物たち。

 草壁春樹、元木連中将を初めとする、火星の後継者重要人物の護送。

 ――まさか、最後の最後でこんな任務が回されてくるなんて、とルリは思わずにいられない。
 黒道和也“軍曹”が率いる、統合軍JTU第五小隊――――『草薙の剣』は、今はアザレア艦内で草壁たちの警護に当たっている。きっと、いろいろ思うところがあるはずだ。
 変な気を起こさなければいいけれど……と思いつつ、それが自分にも言える事であるとルリは自覚していた。
 上層部がナデシコBの他にも護衛艦を付けてくれてよかったと思う。
 もし誰も見ていないような状況だったなら、ルリはミサイルの発射スイッチを押したい衝動を堪えきる自信がなかったのだ。
 右手の疼きに耐えながら、表面上平静を保ち続ける拷問のような時間も、やがて水平線上に不知火を思わせる光が見えた事でようやく終わりが近づいてきた。北米大陸、USAアメリカ合衆国東海岸の町の明かりだ。
 時は2203年、二月。
『草薙の剣』のナデシコB出向から、間もなく半年を迎えようとしていた。



 機動戦艦ナデシコ――贖罪の刻――
 第十五話 血と憎しみの釜の中で 前編



 一方、揚陸艦『アザレア』艦内でも、息苦しさを感じるような沈黙が満ちていた。
 多数の人員を収容できる揚陸艦の艦内には相当数の陸戦隊が闊歩し、パワードスーツまでがセーフモードで待機している。その過剰とも言える警備は、護送される人物たちの重要性を反映していると同時に、草壁元中将らが身柄を拘束されてなお、戦いの行方をも左右する重要なファクターであると、地球連合が認識している証拠でもある。
 自分たちのミスが、取り返しの付かない事態を招きかねない――――そんな緊張感が充満する中に、『草薙の剣』の姿もあった。
「隊長。異常なしであります」
「うん。解った」
 律儀に定時報告を寄越してきた楯崎楯身“伍長”に、和也は読んでいる本から顔を上げずにそう答えた。
 数十両の車両や、エステバリスその他の機動兵器を収容できる揚陸艦は、艦内の収容スペースも広い。
 そこには1ダースを超える、鋼鉄の質感を持った『檻』が二列に、仮設住宅よろしく並んでいた。
 外側は戦艦の重要区画バイタルパートにも使われている、複合ルナニウム合金や高緊張度炭素繊維などを組み合わせた、ミサイルの直撃にも耐える最新型の複合装甲に覆われ、扉の鍵はパスワードの他に虹彩や声紋といった生体認証バイオメトリックスを組み合わせた三重という磐石の守り。ついでに内張りは全面が弾力のある発泡樹脂素材で、中の人間が壁に頭をぶつけて死ぬ懸念も無い。
 中の人間たちを生かしたまま護送するため、金に糸目を付けずに用意された特注の牢獄。そこに背中を預けて床に座り込み、和也は黙々と本――それもマンガ雑誌――を読みふけっていた。
 楯身は、軽く非難する視線を送ってくる。
「……先ほどから言おうとしていたのですが、このような時にマンガなど読んでいてよろしいのですか?」
「僕たちは即応性があるから、何が起きても即対応できるよ。……いや、冗談じゃなくて本当に」
 楯身は生真面目だからな、と和也は内心で苦笑する。いつテロに遭うかも解らない状況にすっかり慣れた和也たちは、常に気を張り詰めていなくても異常があれば即対応できるようになったつもりだ。
「ずっとピリピリしていたら気疲れしちゃう。それが敵の狙いかもしれないよ」
 だから息抜きは必要だ、と和也は読んでいた本の表紙を見せる。
「楯身も読んでただろ。『うるるん』」
 オオイソ時代に澪が愛読していた少女マンガ雑誌だ。昔ながらの学生を主人公に吸えたラブストーリーが中心で、今でも売り上げは業界の上位を占める。
「……なぜそれがここに?」
「さあ。なんか荷物の中にたくさんあったから、読んでいいかって聞いたらいいって」
 この半年の間、続きが気になっていたが、わざわざ取り寄せるのも面倒で読まないでいた。道中の息抜きとして読んでいたのだが、あの荷物は確か護送している重要人物たちへの差し入れではなかっただろうか?
「まさか草壁かっ……元中将が読むとも思えないけど、好きな人がいるのかな、この中に」
「わざわざ差し入れに要求するほどですからな。彼らも地球の文化に触れたという事でありましょうか……」
 だったら何か思うところはなかったのか、と楯身の面持ちが愁いを帯びる。
 この檻の中に拘禁されている、火星の後継者の重要人物十数人。彼らも決起の準備を進めていた約三年の間に地球人と直に接する機会は多かったはずだが、決起を思い留まったり躊躇ったりする者がいたという話は終ぞ聞かない。
 ――それだけ心を固めていたって事なのか、それとも地球を見ても……いや、見たからこそ決起が必要と思ったのか。どちらにしても解らなくは無いけどね……
 湯沢派のテロでオオイソを追われ、軍に入って戦うと決め、ナデシコに出向してから、半年。
 和也たちはナデシコBに乗って、地球各地を駆け巡った。
 この地球人類主義の時代にあって、『地球人類』になりきれない地球人のテロリストや、火星の後継者そのものと戦う日々。それは良くも悪くも新しい発見や、神経をすり減らすような事件の連続だった。
 行く先々で戦う事になった、火星の後継者に扇動された愚かで哀れなテロリストたち。戦えば戦うほど、彼らが火星の後継者の甘い言葉に乗せられ、武器を取ってテロに走る理由が理解できる気がしてしまうのだから皮肉なものだ。
 国の自立を望むテロリスト。
 豊かな生活を欲するテロリスト。
 ただ憎しみに突き動かされて動くテロリスト。
 動機は様々だったけれど、概ね地球連合体制への強い不満を持っているという点では同じだった。そしてほんの少し探ってみれば、どれもなるほどと頷けてしまうような話ばかり。
 地球連合体制――――人類の統一体制。世界は一つになり、国家間戦争は根絶された。
 少なくとも20世紀から21世紀にかけての時代に比べれば、ずっと世界は平和になった。なのにこの納得いかない感じはなんだろう。
 何かが間違っている――――そう思えてならない。草壁たちもそう思ったから、それを自分たちなりのやり方で正そうとしたのだろうか……
「ふん……失敗したわけだけどね。そう言えば楯身、中の重要人物のリスト見た? ヤマサキ・ヨシオって名前があったよ」
「ヤマサキ……ああ。我々のインプラントを担当していた研究員でありますか。ヒラの研究員だったと記憶しておりますが、彼が重要人物と?」
「ボソンジャンプの研究チーム主任だってさ。あの面白い兄ちゃんが主任とはね……」
「数奇な運命でありますな。我々がここにいると知ったら、この中の面々はどんな顔をするでしょうな」
 それはむしろ、和也が楯身に訊きたかったが、訊かないでおいた事だった。
「さてね。裏切り者と罵られるのが関の山だと思うけど」
「ですな。……自分はまた艦内を見回ってまいります」
「了解。ついでにこっちの八月号から十二月号、読み終わったから妃都美たちに回しておいて」
「承知致しました」
 恭しく敬礼し、『うるるん』の束を抱えて楯身は去っていく。
 それが見えなくなった頃、和也はぽつりと呟く。

「……草壁……閣下。僕たちは地球軍の兵として火星の後継者と戦っています。……それを見たら、あなたはどう思いますか」

 その呟きは、空気に溶けて、消える。



 ナデシコBを含む護送艦隊は、統合軍管轄、サンディフック基地に錨を下ろした。
 サンディフック基地は、北米大陸東海岸、かの有名なニューヨーク市の近海に位置する北米有数の軍事基地だ。
 この近辺を地図で見ると、ニューヨーク北側のロングアイランドから伸びるラカウェイ岬と、南側のニュージャージーから突き上げているサンディフック岬と呼ばれる二つの砂州があり、ロウアー・ニューヨーク湾と大西洋を隔てる海の玄関口、ゲートウェイを形成している。
 その地理的な重要性により、古くからサンディフック岬にはニューヨーク防衛のための軍事基地が置かれていた。しかし近代に入りニューヨークが攻撃を受ける危険が小さくなると、一般向けの観光地として開放され、軍港がコーストガードの施設となった以外は全ての軍事基地が遺跡として残るのみとなった。
 しかし数年前の蜥蜴戦争では、地球各地に落下したチューリップから送られる無人兵器群の攻撃によって地球の都市という都市全てが戦火に晒された。それはニューヨークとて例外ではありえず、当時の地球連合軍はサンディフック岬とラカウェイ岬に大規模な軍事基地を建設し、そこに戦力を駐留させる事で大西洋のチューリップからニューヨークへの攻撃を防いだのだ。
 戦争が終わり、駐留する軍の規模は縮小されたものの、今なお少なからぬ戦力を保持している。敵の目を逃れるため各地を点々とする、火星の後継者重要人物の受け入れ先としては最適と言えた。



「それでは、任務の無事成功を祝って、乾杯!」

 音頭を取ったタカスギ・サブロウタ少佐に続いて、かんぱーい! とたくさんの声が重なり、続いてコップを打ち鳴らす音がナデシコBの食堂に響いた。
 和也たちはサンディフック基地に到着した後、檻をアザレアから下ろし、檻を空けて中の重要人物たちを収容施設へ移す工程の警護に当たった。重要人物たちが短時間ながら外に身を晒すその時が襲撃の可能性が最も高い、一番危険な時間だったのだが、結局最後まで心配された襲撃もなく、護送任務は無事完了した。
「絶対なんか起こるかと思ってたけど、拍子抜けだわね」
 田村奈々美はそう言って、ジョッキ一杯のレモン入りコーラをぐいっと煽る。
 ナデシコBに戻った和也たちはサンドイッチなどの軽食を肴に、めいめい飲み物を口にしている。任務も無事に終わったということでのささやかな祝杯である。
 奈々美は最初お酒を欲しがっていたが却下した。飲酒喫煙は二十歳になってから、だ。
「こんなガチガチに守りを固めたとこを襲える戦力なんざ、火星の後継者にゃもう残ってねえんじゃねえのか?」
「この半年、あちこちで拠点を潰してきましたものね。中東に始まり、アフリカやバルカン、中央アジアにオセアニア、それに南米……」
 山口烈火と影守美雪が口にしたように、『草薙の剣』とナデシコBは地球各地を転々とし、火星の後継者の活動拠点を幾つも潰してきた。
 戦いに次ぐ戦いの中、いつの間にか階級も一つ上がるくらいの手柄を立てた。他に活動している宇宙軍や統合軍のJTU部隊の活躍も勘定に入れれば、火星の後継者に相当の打撃を与えているはずだった。
 逆に言えば、そうして追い詰められた火星の後継者が草壁を取り返すことで巻き返しを図るのではないかと予想されたから、これだけの戦力を揃えたわけだ。
 結果としては杞憂に終わったらしかったが――――
「ナデシコに乗ってからいろいろあったと思いましたけど、まだ半年経ってないんですね……まるで何年も経っているような気がします」
「……長くも短い時間でした……私たちがナデシコにいられるのも、あと少しですね……」
 真矢妃都美と神目美佳は名残惜しそうに言う。
 出向期間の残りから見ても、これがナデシコBでの最後の任務となるはずだ。その後は統合軍に戻り、別の艦でまた任務に従事する事になる。
 この半年、戦ってばかりの毎日だったけれど、楽しい事もあったと思う。
「僕らもご一緒できて楽しかったし、いろいろ助かりましたよ。もし機会があったら、また一緒に仕事がしたいです」
 言ったハーリーに、美雪がキラーン、と目を光らせる。
「こちらこそ大変お世話になりましたわ。会えなくなるのは寂しいですが、ご縁がありましたらまたご一緒してくださいませね?」
「う……か、考えておきます……」
 ハーリーは思わず身を引く。この半年、執拗に繰り返される美雪のセクハラ――本人に言わせればスキンシップらしいが――は、ハーリーだけでなくそれを止める和也やルリにとっても悩みの種だった。
「俺も寂しいぜ。特に真矢の顔が見れなくなるのが残念だ……どうだ、これからも連絡が取り合えるよう携帯番号でも……」
「謹んでご遠慮します」
 一方、こちらはこちらで進展がない。サブロウタもこの半年、妃都美に飽きもせずアプローチしては避けられるを繰り返していた。相手が強敵ならそれだけ燃えるのだというのはサブロウタの談だが、無駄な努力に終わりそうだ。
 そんな面々の騒ぎを、和也と楯身、そしてルリは一歩引いたところで見ていた。
「コクドウ隊長。この半年よく働いてくれて、私も感謝します」
「こちらこそお世話になりました。ホシノ中佐もお元気で」
「武運長久をお祈り致しております。またいつか、戦場でお会いする事もありましょう」
 言い交わし、飲み物の入ったグラスを打ち合わせる。最初は何かと対立の多かったルリと和也たちではあるが、半年の間にだいぶ話せるようになった気がする。
 特にバルセロナで澪について相談に乗ってもらってからは、それまでより話しやすくなったかな、と和也が思っていると、件の澪が和也たちの方へ近寄ってきた。
「和也ちゃんたちは、あっちに行かないの?」
「僕はドンチャン騒ぎより静かなほうが好きだからね。……それに」
 あんな任務が終わった後は、いろいろ感傷的な気分にもなる。
「久しぶりに見た草壁元中将はどうでしたか、コクドウ隊長」
 そう訊いてきたルリの目は、和也の反応を観察しているようだった。
 火星の後継者に考えが近い――少なくともルリはそう考えている――和也が、草壁を前にどんな感想を抱くか、気になっているのだろう。
「少しやつれましたかね。でも目の色は昔とお変わりない。ある意味、相変わらずと言ったところですか」
 和也が草壁の姿を最後に見たのは、一年半前、第一次決起が鎮圧されて、逮捕された草壁が地球へ連行される姿を映したテレビ映像でだった。
 手錠を掛けられ、罪人として連行される草壁の姿を見て、和也は屈辱を覚えると共に、ある種の因果を感じてもいた。
 熱血クーデターで政権を追われ、自分たちを見殺しにしてまで捲土重来けんどじゅうらいを図ったのに、結局最後の最後で失敗した。もしかしたら和也は、心のどこかでいい気味だと思っていたのかもしれない。
「ま、牢屋の中で出来ることなんて知れてるでしょうがね」
 そう言って、和也はグラスの中の炭酸飲料を口に含む。しゅわしゅわと舌の上で炭酸が弾ける感触をしばし楽しみ、グラスを置いて席を立つ。
「じゃあ、僕はこの辺で……報告書とか纏めないと」



「あれ、コクドウ隊長、もう行っちゃったんですか?」
 和也が退室したのに気付いて、ハーリー。
「なんだあいつ、サンドイッチ一つも食ってないじゃん。せっかく本物のオマールエビのサンドイッチ用意したのによ」
「和也ちゃんってあまり夜食は食べませんね。翌朝胃もたれするからって」
 つまらなそうに言ったサブロウタに答え、澪はオマールエビのサンドイッチをはむ、と一口。
「んー、おいし」
 満足そうに目を細める澪につられて、ルリもサンドイッチを口にする。
 さすが本物のオマールエビだけあってその風味は素晴らしいものだった。口の中一杯に海の香りが広がり、マヨネーズとの相性も抜群だ。
「こんなおいしいもんを食べれないなんて、かわいそうよねえ」
「まったくだ。人生損してるぜ」
 奈々美と烈火は味わっているのかも怪しいハイペースでサンドイッチを食らっていた。この二人の良いようにさせておいたら全員分持っていかれかねないので、周りの連中はそそくさと自分の分をキープしている。
 と、澪がぽつりと口を開く。
「仕方ないよ。和也ちゃん、食べ物の味が解らないもの。私のご飯食べて美味しいよって言ってほしかったなあ……」

 その瞬間、ガタッ! と椅子の倒れる音が響き渡った。

「…………」
「…………」
「…………」
 食堂がピタリと静まり返り、皆の視線が一点に集中する。
 立ち上がった拍子に椅子を倒してしまったルリは、自分のした行動に自分でも驚いていた。しかしルリは周囲同様に驚いた顔でこちらを見る澪に向かって、一言問うた。
「……それ、本当なんですか?」
「え? ああ……本当ですよ。ねえ楯身くん」
「はあ。事実であります。言っておりませんでしたでしょうか」
「初耳ですよ」
 言ったルリに、「まあ任務とは関係ない個人的な事情ですからな」と楯身は釈明した。
「そう言えばコクドウ隊長って、いつも同じ物ばかり食べてましたね。飽きないんですかって聞いたら、栄養バランスがいいからって……」
 そういう事だったんですね、とハーリー。
「はー、難儀だな。それもインプラントの副作用か?」
 訊いたサブロウタに、楯身が答える。
「インプラントを受ける以前は味が解ったと言っておりましたし、恐らくはそうでしょう。一応検査も行われましたが、原因は不明。任務に差し支えはないからと半ば放置されていたと記憶しております」
「酷い話だよね。和也ちゃんを戦争の道具みたいに扱って……」
 澪が口にした憤りは、ルリにもよく理解できる種類の物だ。
 和也と同じように味覚を失った人を、ルリはよく知っている……
「……ちょっと失礼します」
 思った瞬間、ルリは食堂を抜け出していた。
 そして和也を追って、居住ブロックへ続く通路へと、慣れない全力疾走を開始する。



 ふあ、と和也の口からあくびが漏れた。
 長時間の緊張が解けて、眠気が襲ってきたらしかった。徹夜だったからなあ、と一つ伸びをする。
 どうせ明日は休暇なのだし、書類を片付けるのは一眠りしてからにしようかな……などと考えた、その時。
「コクドウ隊長!」
 最初、その声と呼び方が一瞬結びつかなかった。
 誰だと思いながら振り向くと、どういうわけかルリが膝に手を付いて息を切らせていた。その様子からして、食堂からここまで全力で走ってきたのだと知れた。
「ど、どうしたんですか、血相変えて」
 少しうろたえ気味に和也は尋ねる。何の用か知らないが、ルリが息を切らせて走ってくるなど吉事とは思えなかった。
 ルリははあはあと乱れた呼吸を整えると、おもむろに和也へ歩み寄り、その手を掴んだ。
「あ、あの、ホシノ中佐?」
「ちょっと、こっちへ付いてきてください」
 有無を言わさず連行される。訳が解らなかったが、今も一応上官であるルリに向かって手を振りほどくような無礼もできず、和也は手を引かれるまま黙って付いて行くしかなかった。
 連れて来られたのは、ナデシコBのナノマシン管理室だった。
 薄暗い部屋の真ん中では、ドーム型をしたナノマシンの培養槽が不思議な光を放っている。それの制御パネルで何らかの操作をしていたルリは、状況が飲み込めない和也の前へ戻ってくると、「これを」とナノマシン入りらしい拳銃――――というかオモチャの光線銃にも似た無針注射器を差し出した。
「IFSのインターフェース用ナノマシンです。パイロットが使っているものと同じなので、害はありません」
 嫌ならナノマシン除去剤で消すことも出来ます、とまで言ってくる。注射してください、という事なのだろう。
 少し気持ち悪いと思わないでもなかったが、既にインプラントを投薬で無理やり定着させた身だ。「了解」と注射器を受け取り、首筋にあてがってトリガーを引く。
 効果はすぐに現れた。全身でナノマシンが活動しているらしい痺れにも似た感覚が走り、次いで右手の甲に金属的な質感を持つ模様が現れた。
 これで和也の体内にIFSのインターフェースが構築され、エステバリスのようなIFS制御の機器を操れるようになったわけだが、それでルリはどうする気なのか。
 ルリを見ると、今度はコミュニケをなにやら弄くっていた。すると和也のコミュニケからも電子音が鳴り、ひとりでにウィンドウが開いた。『新規プログラムを受信しました。ダウンロードしますか?』と表示されている。送信元はオモイカネ……ナデシコBのメインコンピュータだ。
「…………」
 ルリは無言で頷いてくる。ダウンロードしろという意思表示なのだろうと解釈し、YESを選択。ダウンロードが始まり、次いでインストール。
 ――何だこれ。常駐プログラム……味覚共有?
 言われるがままコミュニケに落とした得体の知れないプログラム。それを実行した途端、和也は舌先に先ほどのそれに似た痺れるような感覚を覚えた。まるで舌の上でナノマシンが活動し始めたような……
「完了です。さ、行きましょう」
「え、ちょ、ちょっと……」
 また手を引かれて連れ出される。説明を求める暇もないまま半ば引きずられるように連行され――――
 着いた先は、どういうわけか元の食堂だった。突然戻ってきた二人に、サブロウタが怪訝そうな顔で訊く。
「あれ? 艦長……それに黒道も。どうしたんですか二人して」
「いや、僕も何が何だか……」
 混乱する和也をよそに、ルリは「オマールエビのサンドイッチ、まだ残っていますか?」と日常的な事を訊いた。
「それなら、これが最後の一つで……」
 サブロウタの指の先では、今まさにハーリーがあーんと大口を開けて、最後のオマールエビのサンドイッチを頬張ろうとしていたところだった。視線に気が付き「ん?」と口を開けたまま手を止めたハーリーから、ルリはひょいっとサンドイッチをひったくった。
「ちょっ! 何するんですか艦長っ!」  ハーリーの抗議の声を無視して、ルリはサンドイッチを二分割。非情にも一つを自分の口に入れ、もう一つを和也の口に突っ込んだ。
「むぐ!?」
「あっ! ああああああ……楽しみに取っておいたのに……」  ハーリーの悲嘆の声が響き、皆がぽかーん、と呆気にとられて見守る中、ルリは和也に訊いてきた。
「……どうですか、コクドウ隊長」
「…………よ、よく解りません……」
 ルリにサンドイッチを突っ込まれた瞬間、和也の口内に広がったのは、未知の感覚だった。
 痛覚とも触覚とも違う、奇妙な感覚が舌の上から鼻腔まで広がっていくのを感じる。これはなんだろうと一瞬思ったけれど、遠い記憶の中にこれと似た感覚がかつて和也にもあった気がした。
「これって、まさかオマールエビのサンドイッチの味……?」
「そうです。正確には私の味覚をコクドウ隊長に伝えています」
 言ったルリに、ええっ、と驚きの声が上がった。
「人の味覚を伝えるって、そんな事できるんですか!?」
 思わず問い質したのは澪だ。オオイソ時代、わざわざ料理を作りに来てくれた澪に味が解らないと告げた時は、がっかりさせてしまったけれど……
「私の感じた味覚情報をIFSの信号へエンコードし、コミュニケを介して脳へ直接情報を送り込むプログラムです。……それが『おいしい』っていう感覚ですよ、コクドウ隊長」
「…………」
 言葉が見つからなかった。
 ルリがどうしてこんなプログラムを組んでいたのか……それをどうして和也に使う気になったのかは解らない。
 ただ、遠い昔に忘れたとばかり思っていた感覚が戻ってきた事を、和也の心は嬉しいと感じていた。
「ありがとう……ございます、ホシノ中佐。これが『おいしい』って感覚なんだ……」
「ナデシコを降りるまでもう間がないですが、それまでは私がコクドウ隊長の舌になります。楽しんでください」
 おおっ、とその場の一同から驚きの声が漏れ、澪が嬉々とした顔で身を乗り出す。
「じじ、じゃあ、久しぶりに私がご飯作ってあげる! これで和也ちゃんにも私の料理をおいしいって言ってもらえるね!」
「うん! 僕も今から楽しみだよ……!」
「これは……素晴らしいですな」
「……欠けていた物が埋まったわけですね……おめでとうございます、和也さん」
 楯身と美佳が言い、おめでとうー、と拍手が沸き起こる。和也の身に降って沸いたような吉事を、誰もが我が事のように喜んでいた。
 それを見ていたサブロウタは、ふむ、と顎に手を当てて、何事かを思案する。
 そしておもむろに立ち上がると、すっと息を吸って大声を張り上げた。
「よし。『草薙の剣』諸君、ちゅうもーくっ!」
 その声に、祝福ムードだった一同がサブロウタに注目する。
「おめでたいところ悪いが、俺からお前たちに特別任務を与える! これは命令であり、お前たちに拒否権はなーい!」
「……はあ? なんですかそれは」
 呆れ気味に訊ねた和也に、サブロウタはフッフッフ、と不適に笑う。
 そして特別任務とやらの内容を、語りだす。



 USA――――アメリカ合衆国。言わずと知れた大国であり、現在も北米から中米の国々が参加して作られた国家連合、『北アメリカ連合』の旗振り役として、また南米諸国による連合体である『南米連合』にも多大な影響力を持ち、未だ世界で大きな存在感を発揮する強国。
 日本や台湾、高麗共和国などの東アジア諸国が集まって造られたEAU東アジア連合や、ヨーロッパ諸国が合併して誕生したUSEヨーロッパ合衆国など強力な国家連合が台頭してきた事により、最盛期に比べ相対的な影響力は低下しているが、今なお地球連合の三大勢力筆頭として大きな地位と力を誇示している。
 予断ではあるが、昔はアメリカ合衆国の事を指して『アメリカ』と呼ぶのが一般的だったが、現在は『USA』と呼ぶのが通例だ。これは近年『アメリカ』という呼び名が『北アメリカ連合』に所属する国全部を指すものになっているためだ。今の『USA』は『アメリカ』の中の一国家、という感じになる。
 そのUSAが東海岸に抱える随一の都市、ニューヨーク。
 護送任務から一夜開け、和也たちはサブロウタから下された特別任務のため、ニューヨークへ上陸しようとしていた。
「おほぉー! 自由の女神像だぜ!」
「クライスラービルってのはどこかしら? キングコングがぶっ壊したって奴!」
「奈々美。クライスラービルは2077年に解体されて今あるのは三代目だ。そもそもキングコングが破壊したのはエンパイアステートビルであろう」
 サンディフック基地とニューヨークを結ぶ連絡船に揺られることしばらく。ロウアー湾からベラザノ橋をくぐれば、そこはもう一帯がニューヨーク港とも呼ばれるマンハッタン湾の中だ。
 湾の中にぽつんと浮かぶ小さな島、リバティー・アイランドの上にはかの有名な自由の女神像が鎮座し、海からの来訪者を出迎えてくれる。テレビや映画で何度となく見ていながら実際に目にするのは初めての光景に、甲板上の『草薙の剣』メンバーたちは口々に姦しい声を上げていた。
「和也ちゃん和也ちゃん! ニューヨークだよ! 本物だよ! めいっぱい楽しんでこうね!」
「楽しむのもいいけど、一応『任務』なんだからそれを忘れちゃダメだよ」
 ニューヨークに上陸できてはしゃぎっぱなしの澪を和也は窘めたが、かくいう和也自身も観光パンフレットを片手に物見遊山気分だ。
 そう。一応これは『任務』だ。たとえ全員が私服で、懐に忍ばせた拳銃の予備弾倉さえ持ってきていない軽装でも、これから行く先が全て観光スポットでしかなくても『任務』だ。タカスギ少佐のサイン付き命令書まで用意したのだから間違いなくそうだ。
 では、なぜこれが任務になるのかというと――――

「皆さん、道中の私の護衛、しっかりお願いしますね」

 そう言ったのはホシノ・ルリ中佐だ。『草薙の剣』メンバー八人は了解! と敬礼で答える。
 二月のニューヨークにふさわしく防寒着のトレンチコートを着込んだルリは、普段より着膨れして見える。思えばルリの私服姿というのが初めて目にする、実に新鮮な光景だ。
『ホシノ中佐がニューヨークでの休暇を楽しむ間、その身に危険がないよう護衛せよ』――――サブロウタが命じた特殊任務というのはそれだ。
 ルリは第一次、第二次と火星の後継者の反乱を鎮圧した功労者であり、それ以前はメディアにも露出している有名人でもあり、コンピュータの扱いに超人的な能力を持つIFS強化体質者であり、現在は火星の後継者残党と戦うになくてはならない存在だ。
 迂闊に基地の外――――下手をすればナデシコから一歩踏み出た途端に暗殺されかねない重要人物であり、事実和也たちはルリがナデシコから外に出たのを一度として見た事がない。
 それを前々から不憫に思っていたのだろうサブロウタは、ルリに上陸を薦めた。ルリは最初渋ったが、和也たちを護衛として同行させる条件を出され、さらにハーリーからも説得されて了承した。
 セキュリティが行き届き、敵が入り込む可能性の少ないニューヨークだからこそルリも安心と判断したのだろう。和也たちも任務というのは半ば口実と割り切ってニューヨーク観光を楽しむつもりだ。そうでなければ、戦闘要員でない澪を同行させたりはしない。
 もちろん、ルリに万一の事がないよう周囲には常に目を光らせるつもりでもあるが。
「あなたたちの能力を信頼しているから外へ出たんです。本気でお願いします」
 わざわざ念押ししてきたのは、ルリも襲撃を恐れている証拠だろう。300メートルクラスの戦艦と虫型兵器を同時に操り、いかなるセキュリティをも突破して世界中のデータベースに進入できる電子の妖精も、ナデシコを降りれば人並み以下の体力しかないか弱い少女だった。
「道中の安全は僕たちにお任せください。それと……ニューヨークの食事、楽しみにしてますね」
 言った和也に、ルリもどこか嬉しそうに「はい」と答えた。



 一方その頃、ナデシコBは静かだった。
 ルリや和也たちと一緒に、艦内のクルーが半舷上陸――――つまりクルーの半分がニューヨークへ上陸しに行ってしまったからだ。さすがに停泊している基地に拘留されている人物が人物なだけに、万が一の緊急事態に備える必要があるとされ、クルー全員が降りる両弦上陸は許可されなかった。
 今日居残った半分は明日上陸できる予定だ。多くのクルーが上陸を希望する中、サブロウタはルリたちの留守を預かってナデシコBに居残っていた。
「星条旗よ永遠なれーってか。……ん?」
 艦内を適当に見回ってきたサブロウタがブリッジに戻ると、そこでは彼と同じくナデシコBに居残ったハーリーがコンソールに向かっていた。
「…………」
 ウィンドウボールの中で黙々とコンソールを叩き、ナデシコBの状態をチェックするハーリーの顔は、どこか不機嫌そうな様子だった。
 上陸できなかったから――――ではないだろう。サブロウタは皆と一緒に上陸していいと言ったのに、「明日でいいです」と固辞したのはハーリー自身だ。何をふくれているのやらと肩をすくめ、サブロウタはウィンドウボールに顔を突っ込んで声を掛ける。
「よっ!」
「うわっ! なんだサブロウタさんですか……」
 ハーリーは一瞬びくっと跳ねたが、すぐに気を取り直す。前のように派手な絶叫を上げたりしなくなったあたり、ハーリーも成長したという事だろうか。
「なんだとはなんだよ。ふくれっ面しやがって」
「別にふくれてなんかいませんよ。……ふくれてるように見えます?」
「見えてるぞ。思いっきり」
 そうですかあ……とハーリーは力なく背もたれに背を預け、はあっとため息をつく。
「昨日サンドイッチ取られた事まだ怒ってるのかよ? 艦長も何か買って埋め合わせするって言ってたじゃねえか」
「いや、それはもう気にしてないんですけど……あれが……」
 ゴニョゴニョとハーリーは何かを呟く。
「なんだ? 言いたい事があるならはっきり言えよ」
「……艦長が、コクドウ隊長に言ったこと……」
「ん?」
「わ、『私があなたの舌になります』だなんて……まるでプロポーズじゃないですか……」
 また何かをゴニョゴニョ呟く。たぶん内容は「僕でもそんなこと言われたことないのに」だろう。
 サブロウタも聞いた事がない、優しく甘いルリの言葉。ハーリーはそれが他人へ向けられた事が面白くなかったわけだ。
 それは子供じみた、しかしハーリーの年齢からすれば年相応とも言える嫉妬、ジェラシーだ。まあサブロウタも驚いたのは確かだが。
「そもそも艦長、なんであのプログラムを使ったんでしょう。あれは確か『あの人』が帰って来た時のために製作した……」
「さあな。もうすぐナデシコを降りる黒道たちに、最後のお楽しみをやろうと思ったんじゃないのか」
 嘘だ。
 それはたぶん、あったとしても後付の理由だろう。
 ――きっと艦長は、黒道をダシにして自分を慰めたかったんだろうな。
 サブロウタはそう思っていたが、ハーリーの前であえて口にはしなかった。



 マンハッタン――――かつてこの地に住んでいた先住民族の言葉で『丘の島』という意味のこの島は、ハドソン川、イースト川の二つの川に囲まれた中州のような土地だ。
 セントラル・パークやブロードウェイ劇場など、ニューヨークと聞いて連想される場所の大半はここに集中し、市庁舎もまたここに位置する、名実共にニューヨークの中心である。
 2001年の9月11日にUSA各地を襲った大規模テロ。そのニューヨークにおける標的となったワールド・トレード・センタービルもマンハッタンの南部に位置していた。その跡地には現在別のオフィスビルと共に記念碑が置かれ、テロに屈しない決意と当時の歴史を今日に伝えている。
 客船ターミナルからマンハッタンへ上陸した和也たちを出迎えたのは、居並ぶ三隻の大型航空母艦の威容だった。
 北から順に、20世紀中ごろの太平洋戦争では日本軍との激戦を戦い抜き、冷戦期においても海軍主力としてベトナム戦などに従軍した、通常動力空母イントレピッド。
 20世紀から21世紀に掛けて海軍の中核をなしたニミッツ級空母の6番艦で、冷戦後のUSAの世界戦略を牽引する存在として活躍し、USA初代大統領の名を冠した原子力空母ジョージ・ワシントン。
 そして22世紀に生まれ、最初は普通の空母として、蜥蜴戦争の折にエステバリスを運用可能な機動兵器母艦としての改装を受けてこの地を守り抜き、戦後記念艦として永遠に錨を下ろすこととなった功労艦、改装空母ゼフィランサス。
 三隻を併せて海上航空・宇宙博物館と呼ばれる三隻の記念艦だ。飛行甲板上にはそれぞれの時代に活躍した戦闘機が展示され、この国が歩んできた戦争の歴史と、兵器の発展の系譜を物語っている。
「うっひゃあー! すげえ! まさに海の王者だぜ!」
 当然の事ながら兵器オタク・烈火は大興奮。
 イントレピッドから見学に入り、戦闘機の説明を5・6機目くらいで切り上げさせてジョージ・ワシントンに移動。ゼフィランサスも烈火は見たがっていたが、これ以上は時間が無くなるので烈火一人を置いて和也たちはニューヨーク中心市街へ向かった。

「うわー! どこからはいろっかなー! 迷っちゃう!」

 林立する華やかなビルディングと商店を前に、澪は弾んだ声を上げて、踊るように一回り。
 ニューヨークを代表する繁華街、タイムズ・スクウェア。
 大手新聞社ニューヨーク・タイムズの本社ビルが近辺にあり、これを元にタイムズ・スクウェアと呼ばれるようになったここは、マンハッタンの42丁目と7番街、ブロードウェイの交差を中心に位置し、東西は6番街から9番街まで、南北は39丁目あたりから52丁目あたりの一帯をそう呼ぶのだが、どこからどこまでがタイムズ・スクウェアなのか、実は明確な境界はない。
タイムズ紙本社ビルは1913年に他所へ移転したが、タイムズ・スクウェアの名称はそのまま残った。ニューヨークで買い物といえばまずここだろうと思い、上陸地点からも近かったために立ち寄ったのだが、それを直前まで渋った人間が約一名、存在していた。
「ふむ。予想していたより雰囲気のいいところでありますな。タイムズ・スクウェアといえばいかがわしいショーやエロティック・ムービーを連日連夜上演するような、治安の悪い風俗街と聞いておりましたが」
「だからそれは大昔の話だと言ってるだろ……お前いつの時代の人間だよ」
 明らかに古すぎるイメージを抱いていたらしい楯身に、和也は苦笑する。楯身はずっとそう言ってタイムズ・スクウェアに行きたがらなかったのだ。
 楯身が言っているのは1960年代から1990年代初頭、今より200年は昔の話だ。当時タイムズ・スクウェア一帯はニューヨークの危険地帯を代表する場所とまで言われていたが、時の市長がポルノショップを他所へ追いやって以降、世界中からの観光客が集まり、世界の交差点と言われる有名な観光名所へと生まれ変わったのだ。
 それから200年が経った今でも、タイムズ・スクウェアには水着美女を描いたビルボードや、企業広告を流すウィンドウ、派手なネオンサインが立ち並ぶビルディングに彩りを添え、昔と変わらない享楽的な雰囲気を今でも醸し出している。
 通りに面した所では多くの商店・飲食店が軒を連ね、観光客の呼び込みに余念がない。和也たちもまた限られた時間を有意義に使うべく、誰かがあの店に行ってみたいと言い出したら即そちらへなだれ込んでいく。
「あはっ、これ可愛いですね! 美佳さんはどんなのをご所望ですか?」
「……妃都美さんの眼鏡にかなった、可愛いものをお願いします……」
「あたしは思いっきりスポーティーなのがいいわね」
「あら。黒くてセクシーな下着ですわね。今晩はこれでマキビ中尉と最後の勝負に……うふふ」
 立ち寄ったブティックでは、女性メンバーたちが新しい洋服の数々に夢中だった。普段軍の制服と戦闘服しか着る機会が殆どない彼女たちも、今日ばかりは普通の十代後半の少女たちに戻っている。
 しかしその一方で和也と楯身の男二人は居心地が悪かった。いかんせんブティックは女の世界。彼女と二人でデートに来たならともかく、男二人で女たちを見守っているのはどうにも不自然だ。
 なんだか周囲の客ばかりか店員までが、この二人は不審者ではないかと警戒するような視線を向けてきている気さえする。外で待っていたかったがそうもいかない。護衛任務の名目上、ルリからは目を離せないからだ。
「ホシノ中……じゃなかった。ルリさんはこんなのどうですか? それともこれは? ああこっちも捨てがたいですね!」
「えっ……と、露草さんの気に入ったもので……」
 そのルリは澪にいろいろな服を見せられて、どの服がいいか困っている。
 あの様子だと、今までファッションに頓着した事などなかったのだろう。普通の学生がファッションやらアイドルやらにうつつを抜かしている頃――和也たちもがそうしていた時でさえ――ルリは軍でそういったものとは無縁の生活を送ってきていた。
 そして今は命を狙われる危険を恐れて、狭い戦艦の中から滅多に出られない身の上。サブロウタが行きがけに『艦長が思う存分楽しめるようにしてくれ』と注文をつけてくるのも頷ける。
 まあそこのところは澪あたりに任せておけば、何も問題なさそうだったが。
「ねえねえ和也ちゃん! こっち来てみて!」
 と、澪が和也を手招きしてくる。周囲の視線から逃げるように足早にそちらへ行くと、澪は「じゃーん!」と試着室のカーテンを引き開けた。
「…………!」
 そこにいたのは、最初の飾り気のないトレンチコートから一転した、可愛らしいカジュアルに身を包んだルリだった。一つ間違えば白人女性でさえコスプレになりかねない格好ではあるが、もともとお人形さん的な雰囲気のあるルリは見事なくらいに着こなしている。
「えへへー、どう和也ちゃん。似合ってると思わない?」
「…………」
 恐れ多くもルリを着せ替え人形にして大いに楽しんでいる澪と、慣れない格好にどこか恥ずかしげなルリ。そんな二人を前に和也はなんと返事したらいいか解らず、
「うん……似合ってる……んじゃないかな」
 などと気のない返事を返してしまう。すると澪もルリも不満そうなジト目で和也を見て、
「別のにします」
「別のにしましょう」
 さっさと試着室に引っ込んでしまう。「……なんだよ?」と和也はぼやいた。
「隊長ももう少し女性との接し方を学ぶべきでありますな」
「ちょっ、楯身までそんな事を言うか!?」
 言ったら、なぜか妃都美たちに笑われた。



 2・3軒のブティックをハシゴして久々に買い物欲を満足させた女性メンバーたちは、次なる欲求を満たすべく歩を進めた。
 戦利品である洋服類を詰め込んだ紙袋を両手に持つのは和也と楯身だ。こういう時男が荷物持ちにさせられるのはある種の慣例のようなものである。
「しかし、一応僕ってみんなの隊長なんだけどなあ……」
「諦めなされい。結束した女性の力には抗えませぬ」
 こういうシチュエーションで女の力は強い。荷物持ちとして頼りになる烈火がいないのが悔やまれた。
「うっひゃーっ! さすがビッグサイズに定評のあるUSA! 食べ応えがありそーっ!」
 買い物欲が満たされたら次は食欲。奈々美はバケツのような容器に入った巨大なアイスクリーム――ちなみにチョコチップ味――を買ってご満悦だ。いったい何人前なのかと思うような巨大サイズだが、これで一人前というのだから驚きを通り越して呆れ帰る。
「太るよ奈々美。少し前にイントレピッドの食堂でも『トマホークホットドッグ』とかいう奴を食べてなかったか?」
「あたしが太る暇もないくらいエネルギー使うのは知ってんでしょ」
 それに甘いのは別腹よ、と女の子らしい理屈を持ち出した奈々美に、「そういう事ですよ」と妃都美が同意した。
「甘いものは女にとっての動力源ということで……あ、私にも分けてください」
「……私も、お願いします」
「ではわたくしも……あらおいしい」
 巨大アイスに妃都美と美佳、美雪も手をつけ、山のようなアイスがたちまち女四人の腹の中に消えていく。
 ちらりと視線を移すと、ダルマのように丸々と太った百キロクラスと思しい肥満体の男女が、これまた巨大なハンバーガーを片手に地響きと聞き間違いそうな足音を立てて歩いていく。戦前の木星で耳にタコができるほど聞かされた『贅沢は敵だ!』などというフレーズは、この国とは百万光年ほど縁遠いものらしい。
「入るときは別腹でも、腹に付くときは同じ腹……」
 和也はぼそっと呟く。聞こえないように言ったつもりだったのだが、

「なんか言った?」
「何か言いましたか?」
「……何か言われましたか……?」
「何かおっしゃいまして?」

 四人からじろっと睨まれ、心胆寒からしめられた和也は「な、何でもありません……」と釈明する羽目になった。隊長の威厳も何もあったものではない。
「まあまあ、隊長もたまの休暇……失礼。安全な市外に出てこられたのですから、カロリー計算度外視で食事を楽しんでみてはいかがでしょう」
 そろそろ昼飯時でもありますしな、と苦笑気味に言う楯身に、「うーん……」と和也は唸る。
 和也にとって食事とは、栄養と必要なカロリーを摂取するだけの行為であり、体に悪影響を及ぼす過剰なカロリーや脂質の大量摂取はもってのほかだった。
 ルリのおかげで味を感じられるようになったとはいえ、体に悪そうな食事を口にするのはまだ抵抗がある。
「……ツユクサさん。どんなお店に入ればコクドウ隊長は……その、喜んでくれると思いますか?」
「いやー、それは私も解んないですねえ。でも和也ちゃんは何を食べても初体験なわけですから、やっぱりここでしか食べれないような物を……」
 しかし、ルリと澪はそんな和也を喜ばせようと飲食店を品定めしていた。この上陸はルリを楽しませるために企画されたのだが、そのルリも澪も和也に味覚共有プログラムを使ってあげたいらしい。
「御覧なさい。露草殿とホシノ……殿も張り切っておられます」
「……むう。そこまで言うなら……」
 楯身に促され、多少渋々ながらも和也は二人へ歩み寄る。
 和也が味覚を楽しめるのは、『草薙の剣』がナデシコを降りる残り僅かな期間だけだ。楯身や皆は、その間に最大限楽しんで欲しいと和也に言っているのだろう。
 そのご好意は無碍にできないよなあ、と思う。
「あー、澪にホシノさん、ここはニューヨークなわけですし、本場USAのファーストフードを食べてみたいと思うのですがいかがでしょうか?」
 適当に思いついた事を言った和也に、澪の顔がぱっと輝く。
「おっ、和也ちゃんも調子出てきたね。お姉ちゃんは嬉しいよ」
「あそこにファーストフード店がありますね。あそこで買いましょうか」
 そう、ルリ。
「じゃあ私が買ってきます! どんなのがいいかな?」
「澪のお勧めコースでお願い」
「では我々の分もついでにお願い致します」
「あたしのはボリューム重視の奴でねー!」
 小走りにファーストフード店に駆け込んでいく澪。まったく頭が下がるなと思いつつ、ちらりとガラス越しに店内の人たちを見る。
 いかにもカロリーの高そうなハンバーガーやフライドポテトをガツガツ食べるニューヨーク市民たちの姿を見ていると、やはり健康を害さなきゃいいが、などと思ってしまう。しかし体に悪いと知りながらも彼らの手を掴んで話さない“味”というのは一体どんなものなのか、楽しみな気がするのも否定できない。
「今までは、味なんて関係なくて栄養だけ考えればいいとばかり思っていたけど……」
「私も、昔はそうでした」
 いきなりルリが横で話し始めて、和也は軽くぎょっとした。
「昔の私にとっても、食事とは体に必要な栄養素を最低限摂取するだけの行為でした。食べるのはいつもハンバーガーやホットドッグのような……ああ、ここのともまた違う栄養学的に計算された物でしたけど、ジャンクフードの類ばかり食べていました」
「ああ、合成食品ソイレントグリーン系の……」
「そうです。でも戦争中にアキ……ある人がそんな私を見かねてラーメンを作ってくれたんです。それからですね……食事が楽しみの一つと知ったのは」
「なるほど。それはそれは……」
 適当に相槌を打ちながら、和也は内心で大いに驚いていた。
 ――あのホシノ中佐が、僕に向かって身の上話を……
「はーい、お待たせー!」
 と、そこで澪がファーストフードの紙袋を両手一杯に抱えて戻ってきた。
「えっとね、ここにいない烈火君の分も入れて全部で九つ。タンドリーチキンバーガーでしょ、スペアリブでしょ、それから……」
「あ、あたしこのステーキバーガーもらい!」
「私はベーグルサンドにしましょうかしら。そちらはどうします?」
 美雪が下世話な視線を向けてくる。それを華麗に無視し、ルリは適当に見繕ったハンバーガーを和也に見せる。
「このビッグバーガーはどうですか? 大きくて食べ応えがありそうですよ」
「うわ、ハンバーグが二段重ね……体に悪そう」
「そんな和也ちゃんにはこのBLTバーガーがお勧めだよ。どう?」
「ああ、それにするよ」
 さすが澪は僕の好みが解ってるね、と和也は褒めた。
 すると澪が「とーぜん!」と自慢げに胸を張る横で、ルリは少し面白くなさそうに眉をひそめた。
「……露草さん、BLTバーガーはそれ一つですか?」
「へ?」
 言われて澪は、全部のハンバーガーをバラバラに買ってしまったミスに気付いたらしかった。
「あわわ、しまった。和也ちゃんとルリさんが味覚を共有してるって忘れてました……」
「いいよ。半分づつ二つ食べれば問題ない。あー……と」
 BLTバーガーを受け取ろうとして、両手が塞がっているのに気が付く。とりあえず道端に荷物を下ろ……そうとした時、ルリが澪からBLTバーガーを受け取って半分に裂く。そして、
「どうぞ」
 と半分を和也に差し出してくる。食べさせてあげる、という事なのだろうが……
 ――こ、これっていわゆる、『はい、あーん』って奴じゃないですか……?
 デートで恋人同士がするような甘い行為。ついでに人前でするにはかなり恥ずかしいそれを目の前に突きつけられて、和也は心拍数が跳ね上がるのを感じた。
 眼球だけを動かして他のメンバーたちの様子を伺う。――皆、普段のルリからは想像できない行動に目を丸くしながらも、事態の推移を興味津々の呈で見守っている。
 視線を戻す。目の前にはジューシーに油を滴らせる焼きたてのベーコンと、みずみずしく輝く新鮮そうなレタスとトマトが「早く食べて」と魅惑的に和也を誘い、その先ではルリの金色の瞳がどこか期待を含んだような色で和也を見ていた。
 ――ええいっ! ままよっ!
 意を決してBLTバーガーにかぶりつく。それを見たルリも残った半分を口にし、その味覚情報が和也に伝わってくる。
「……どうですか? コクドウ隊長」
「はい……『おいしい』です……」
 和也は口からベーコンをぶら下げたままのマヌケな格好で答える。それを聞いたルリは、
「よかった」
 と言って、次の瞬間和也に今が現実である事を疑わせるような予想外の仕草を――――
 口の端にほんの僅か、しかしはっきりそれと解る微笑みを、浮かべたのだ。
 ――あの人形みたいなホシノ中佐も、笑ったりするんだ……
 なんだか、夢でも見ているような感じだ。和也がルリに抱いていたイメージとはおよそかけ離れた表情が次から次へと現れて、それが妙に可愛らしかったり、自分が『おいしい』と口にすることでその顔を見せてくれるのが嬉しかったり……
「……和也ちゃん、いつまでベーコンを口からぶら下げてるのかな?」
 と、妙に凄みのある苦笑いを浮かべた澪に言われ、和也ははっと我に返った。ぶら下がったままのベーコンを顎だけを使って口の中に入れると、ルリはその真似をしてベーコンだけを引っ張り出して食べた。
「…………」
 唖然とする和也の横で「ヒュー」と誰かの口笛が聞こえ、おお……と驚愕の吐息が漏れる。そして澪だけはどういうわけかこめかみをぴくぴくと痙攣させていて……なんだろう、この居づらい空気は。
 和也の内心の戸惑いを知ってか知らずか、ルリはさらにBLTバーガーを差し出してくる。
「まだありますよ。……はい」
「…………」



「おいしいですか、コクドウ隊長?」
「は、はい……おいしいです……」
 まま事のようだ――――ルリは今を楽しみながらも、頭の片隅ではずっとそう思っていた。
 以前から暇を見つけては少しづつ構築していた味覚共有プログラムの効果は期待通りだった。和也はルリを介して食べ物の味を感じ、「おいしい」と言ってくれる。それが嬉しくて、つい何度も同じ事を聞いてしまう。

 ――――おいしいですか、アキトさん?
 ――――おいしいよルリちゃん、ありがとう。

 和也を通じて思い浮かぶのは、今は手が届かないそんなやり取り。
 家族三人揃って昔のように食卓を囲み、ルリがあの人の舌になって、あの人に料理を味わってもらう――――もう何度も夢に見た、ルリが求めてやまない未来のビジョン。和也の喜んでくれる姿が、そのビジョンに手が届くものとしてのリアリティを与えてくれる。
 他人を使って未来を夢想する、最高に見苦しい、自分を慰める行為。バカみたいだと心のどこかで思いつつも、止められなかった。
「うー…………」
 背中からは、澪の視線がちくちくと刺さってくる。
 ――別に、コクドウ隊長を取ったりする気はないですよ……
 どうせもうすぐ離れ離れになるのだ。澪が変な心配をする必要はない。ただ今だけは、こうして幸福に浸っていたかった。



「……ごめん和也ちゃん、私ちょっと向こうのお店見てくる」
「あ、ちょ、ちょっと澪!?」

 ぷんすかと肩を怒らせ、澪は一人で先へ行ってしまう。その後姿を楯身はやれやれ、といった感じで見送った。
 ――露草殿がヤキモチを焼いてしまうのも無理はあるまい……隊長は鼻の下を伸ばしすぎだ。自分では気が付いていないかもしれないが……
「隊長。ここは追いかけるべきかと愚考致しますが」
「わ、解ってるよ。みんなはホシノ……さんから離れないでね。というわけなので、申し訳ありませんけどちょっと別行動します」
 後半ルリに向けたセリフを残して「おーい! 澪ー! 待ってくれー!」と荷物を抱えたままで和也は走る。ルリは「……仕方ないですね」と少し残念そうな様子だった。
 本当にいつもと違った顔だ。普段表情を見せない女性が突然、自分にだけ笑顔を見せたら、好意があると思ってのぼせてしまうのも仕方ないか……などと密かに分析を重ねていると、横でククク、と含み笑いが聞こえた。
「いやー、面白い。ホントに面白いですわ……」
「美雪。下世話な想像をするのはいい趣味とは言えぬな」
「だって面白いではありませんの。あの鉄面皮のホシノ中佐がまるでブリッ子ですわ。やりますわね」
「……本気で言っているのか?」
 ルリの普段と違う態度が、間違っても和也への好意から来るものでない事を、楯身はなんとなく察していた。
 ルリが和也の味覚の欠落を知ったのはつい昨晩。いかな電子の妖精とて、味覚共有などという特殊なプログラムを即興で構築するのは難しいだろう。ならこのプログラムは和也でない『誰か』のために、ルリが以前から作っていた物と容易に想像が付く。
 美雪もそこは気づいていたのだろう。「まさか」と笑いを、というか嗤いを含んだ答えが返ってくる。
「ただ、他人をダシにして心の隙間を埋めようとするなんて、ホシノ中佐も可愛いところがあると思っただけですわ。きっと心の中は、ここにいない『誰か』さんでいっぱいなのでしょうねえ」
 小声で密かに言い交わす二人の前で、ルリは一人BLTバーガーを頬張りながら、次はどこへ行こうかとタウンマップを広げて妃都美や美佳と話し合っている。
「コクドウ隊長は、どんなところが好きなんですか?」
「さ、さあ……普段はよく本屋に行きますし、骨董店で刀を見たりするのも好きみたいですけど……」
「……この観光の主役はホシノ……さんです。和也さんよりホシノさんが行きたい所はありませんか……?」
 ――確かに、美雪の言う通りか。
 ルリの心の中で、相当大きな比重を占めている人――――それが誰かは知らないが、あのルリをああも普通の少女にしてしまう人間だ。相当に深い関係であろう事は疑う余地がない。
 そして、その誰かは今ここにはいない。その空白をルリは和也を利用して埋めようとしている。
 あまりに強すぎる懐古の情。
 この超然とした、史上最年少の天才艦長の内に秘めた脆さと危うさ。
「戦争によるものなのか存ぜぬが、彼女も心に相当深い傷を負っているようだな」
「ですわね。タカスギ少佐がガス抜きを図るわけですわ」
 こんな深い傷を負ったまま戦い続けたら、いつか心を壊してしまう――――サブロウタはそれを心配して、少しでもルリの心を楽にしてあげられたらとこの上陸を勧めたのだろう。
「なら、我々は期待に答えてホシノ殿にひと時の安らぎを提供すべきだな。次はセントラル・パークにでも参ろうか」
「ですわね。でもその前に和也さんが露草さんを連れ戻してこないことには……」
 とりあえず待ってましょうか、と美雪は言う。
 それを聞いた奈々美が、「あ、じゃああたし、あそこのムーンバックスで飲み物買ってくるわね」とコーヒーショップに向かっていった。
「私も一緒に行きます。皆さんは何か欲しいものありませんか?」
「……カフェオレを、お願いします……」
「自分はエスプレッソを頼む」
「わたくしはカプチーノで」
「私はいりません」
 美佳、楯身、美雪、最後にルリと注文を受けて、妃都美も奈々美の後に付いて行く。
「さて。そろそろ烈火とも合流したいところであるが、奴はまだ空母を見学しているのだろうか……」
 何気なく口にした、その時。
「オレならここに来てるぞぉ……」
 と、今にも死にそうな生気のない声が背後から聞こえ、楯身はぞくっと震えて振り返った。
「れ、烈火? お前にしては早いな……というか、どうしたのだ一体?」
「どうもこうもねえよ……ゼフィランサスに入れてもらえなかった」
「はあ? なぜ……」
 聞いた楯身に、烈火は声を荒げる。
「木星人は立ち入り禁止なんだと! 展示してあるエステバリスに石投げたりするからってよ!」
「なに!?」
 どういう事だそれは……和也がそう思った時、今度は奈々美の怒声が響き渡った。
「ちょっと! それってどういう事よ!?」
 その怒鳴り声は英語で発せられていたが、意味は明瞭だった。何事かと楯身たちが駆け寄ると、憤怒の形相をした奈々美の前で店員と思しい男性が震えていた。
「こんなことしていいと思ってんの!? 人を何だと思ってんのよあんたはっ!」
「おい奈々美、落ち着け!」
 事情は解らないが、このままでは警察を呼ばれかねないと思った楯身は、まず奈々美を抑えることにした。
「これが落ち着いていられる!? この店員、あたしたちを店に入れないってのよ!」
「どういう事ですか? マヤさん」
 奈々美に聞いても埒が明かないと思ったか、ルリは妃都美に訊ねた。
 妃都美は怒鳴りはしないまでも明らかに怒った顔だ。そもそもこういう時は真っ先に止めに入るはずの妃都美が黙って見ているというだけで、穏やかでない気配が窺える。
「……この店員さんは、私たちの顔を見て、身分証を要求してきたんです」
 きっ、と店員を睨みつけ、妃都美は言う。
「なのでパスポートを見せたんですが、それで私たちが木星人と知るや店に入るなと……」
「な……!?」
 思いもしなかった扱いに、楯身は絶句した。
 やがてパトカーのサイレンが聞こえ始め、メンバーの何人かがはっ、としたが、楯身はただ立ち尽くすだけだった。



「ねえ澪……」
「ついてこないで」
「澪ったら、さっきから何に……」
「ついてこないで」
「頼むから機嫌直してってば……」
「ついてこないで」

 一方その頃、澪を追いかけてメンバーから離れた和也は困り果てていた。
 澪はすっかりへそを曲げていて、なんというか取り付く島がない。そもそも何に怒っているのやら。
 ――僕とホシノ中佐にヤキモチ……? ……い、いやいや、そんなことあるわけない。ホシノ中佐とはもうすぐお別れなんだし、それに僕だって上官以上の感情なんか……そりゃ、『はい、あーん』ってされてちょっとだけドキドキしたり嬉しかったりもしたけれど、と、とにかく意識なんかしてない!
 というかそれ以前に、澪がルリにヤキモチを焼く理由がないはずだ。でも何かに怒っているのは確かで……女の子の考えている事は解らないとつくづく思う和也であった。
 このままそっとしておいたほうがいいのだろうか。それともとにかく謝ったほうが……などと考えていると、不意に澪が足を止めた。
「な、なあ澪。僕は……」
「和也ちゃん、あれ……」
 そう言って澪が指差した先には、なにやら風体の怪しい男が三人。よくよく見れば三人は女の子を囲んでいて、その手を引いて無理やり路地へ連れ込もうとしているように見える。
 タイムズ・スクウェア周辺といえども、繁華街から一歩出れば人通りも少なく、夜になれば街灯もまばらな危険な路地もある。そこへ女の子を連れ込もうというのは、傍から見れば恐喝か何かの現場にしか見えない。
「どうしよ。警察とか呼んだほうがいいかな?」
「そうだね……助けるのは簡単だけど、木星人の僕が暴力振るうのは問題……いや、待って」
 ふとある事に気が付いた和也は、澪に事の経過次第では警察を呼ぶよう指示をして、男たちの後を追う。
「おい! そこのあんたたち!」
 呼びかける声は、英語ではなく日本語。それに反応した男たちは、意外そうな顔で和也を見た。
「あんたたち、木星人だね?」
「そういうあんたも木星人か……」  返ってきた日本語の返答に、やっぱりと思った。
 日本人的な顔つきというだけなら日系のUSA国民、という可能性もあるが、23世紀ともなれば純粋なそれはもう多くない。その点この三人は一目見て解る日系の顔だ。
「まさかニューヨークまで来て同胞に会えるなんて嬉しいよ……と言いたいとこなんだけど、あんたたちその子をどうする気?」
 問い質した和也に、男三人は決まりが悪そうに顔を見合わせた。
「……『ニューヨークまで来て』って事は、あんたここの市民じゃないな。他のとこじゃどうか知らないが、最近のニューヨークじゃ木星人移民の扱いが悪くて……」
「つまり、お金目当てのカツアゲ、と」
 チッ、と和也は舌打ちする。
 話しぶりからして、彼らは木星人の移民らしい。ニューヨークに木星人移民がいるという事が和也には初耳だったが、問題はそこではない。
 生活が苦しいからといって、女の子からお金をせしめようなど犯罪以外の何物でもない。まして彼らが木星人移民なら、その行為には罰則以上の重い意味がある。
「あんたたち、どうしてわざわざ地球くんだりまでやってきたんだ?」
「それは……木星じゃ仕事がなくて、地球に来ればもっといい生活ができるかと思ったから」
「弟とか妹とか……家族を養わないといけなかったし」
 だったら、と和也は語気を強める。
「なおさらカツアゲなんてやってるんじゃない! これが警察沙汰になってニュースにでも載ったら他の木星人にもどんな迷惑がかかるか、ちょっと考えれば解るだろ!?」
 いかな生活苦を理由にしても、それが免罪符になるわけがない。
 たとえ軽い物であったとしても、木星人の犯罪はニューヨーク市民の木星人に対する感情を悪化させ、彼らを町に居づらくさせるだろう。ただでさえ、火星の後継者のテロで木星人移民への風当たりは強くなる一方なのに。
 地球人に媚を売る気はないけれど、あまり関係をこじらせればいつか木星人移民は地球から追い出されかねない。そうなればまた木星のコロニー都市は抱え切れない人口を抱え、また貧困に苦しむ時代がやってくる。
 そんな事、ちょっと考えれば解るはずだ。
「いや、しかし……」
 なおも言い訳を重ねようとした男を、「よせ」と別の男が止めた。
「外国からニューヨークに旅行になんて来れるんだ……きっと金持ちの坊ちゃんなんだろ」
「なるほど。俺たちの苦労も知らない、いいご身分ってわけだ」
 敵意と嫌悪感の籠もった目で睨まれ、和也も一瞬たじろぐ。
「行こうぜ。時間の無駄だ」
「ああ。……お前、俺たちがこの町でどれだけ惨めな思いをさせられてるかも知らないで、解ったような口を利くなよ」
「ちょ、ちょっと!」
 和也が静止するのも聞かず、男たちは立ち去ってしまう。
 ――なんだあいつら……人が親切で言ってやったのに。
 木星人移民が安心して今の暮らしを続けられるようにする――――『草薙の剣』が戦うと決めた理由の一つがそれだ。
 なのに、当の木星人移民にそれを台無しにするような真似をされては意味がない。なんだか腹が立って、「くそっ」と傍らの壁を殴りつける。
「和也ちゃん!」
 そこへ澪が駆け寄ってくる声が聞こえ、和也は当初の目的を思い出す。
 男たちに囲まれていた女の子は直立不動だった。怯えているのか、まるで人形のように表情が伺えず、微動だにしない。
「……おい君、大丈夫? 何もされてないよね?」
 勤めて優しく話しかけると、女の子は和也を見上げてこっくりと頷いた。
 近くでよく見てみると、不思議な感じのする女の子だった。年は十代前半くらいだろうか。肌は陶磁器のような白さで、吸い込まれるように大きいその瞳からは一切の感情が伺えない。その様はまるで――――
 ――ホシノ中佐……いや。ホシノ中佐でももうちょっと感情の機微がある。これじゃあ本当の人形みたいだ。
 ルリが西洋のビスクドールなら、目の前の彼女は日本人形――――そんな感じか。
「和也ちゃん、なにじーっと見てるの?」
「……え? あ、いや、何でも……」
 またぞろ和也をジト目で見やり、澪は女の子に話しかける。
「ねえ君。一人? お父さんやお母さんはいないの?」
 女の子はふるふると首を小さく振り、消え入りそうな声で「……わからない」と答えた。
「迷子なのかなあ……? ね、この子の親御さんとか……保護者の人、探してあげよっか」
「えっ」
 澪の提案に、和也は一瞬動揺した。
「なーに? まさかほっとけとか言わないよね?」
「い、いや、もちろん放ってはおけないけど……」
 迷子の女の子を家族の元に送り届けるというシチュエーションには、拭いがたいトラウマが……
「……まあいいか。ええっと、君、名前は?」
「ラピス」
 和也に訊かれ、そう、女の子は名乗った。

「ラピス・ラズリ」










あとがき(なかがき)

 ナデシコを降りる日が間近に迫り、草壁たちの護送という不穏な任務を終えた和也たちは、ルリと共に最後の休暇を楽しむ。そこで和也と澪が出会ったのは……なお話でした。なんだかサブタイトルがやたら物騒です。

 今回は言わずと知れた世界の首都、ニューヨークで日常を過ごす和也たちとルリの姿を描いてみました。海外旅行経験皆無な作者なのでいろいろおかしな点もあるかもしれませんが、ニューヨークの擬似旅行気分と、いつもと違うデレ気味(?)なルリをお楽しみいただけたらと。
 不穏なサブタイのわりにはほのぼのとしていた今回ですが、その裏ではいろいろと不穏な空気が。いよいよ『あの人』の影も見え隠れし始め、物語は一つの山場を迎える事になるでしょう。

 和也が味覚を感じられないという事は「やっと表に出たか」というところでしょうが、それを知ったルリは乾ききった心を癒そうと和也を利用してしまいます。やらせた自分で言うのもなんですがこのルリは病みすぎですね……(汗)

 一つ補則しますと、序盤に出てきた『サクラ級駆逐艦』は本編にも登場する地球型の駆逐艦です。『万年筆』というあだ名はあってもクラスネームが無いので、勝手に決めさせてもらいました。

 今回は『起承転結』の『起』から『承』のとっかかりくらいです。久々に前中後の三編構成になるかと。

 次回、ラピスの素性も知らずに保護者を探す和也と澪。そしてトラブルに巻き込まれたルリと楯身たち、彼らがニューヨークで目にしたものは……
 急転直下の『転』。お楽しみください。

 それでは、また次回もお付き合いいただけたら幸いです。



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圧縮教授のSS的



・・・おほん。

ようこそ我が研究室へ。

今回も活きのいいShaftSSが入っての、今検分しておるところじゃ。


さて、不穏な空気渦巻く大都会NYであるが・・・・・・ある意味"ノースアメリカで良かったな"でもある。
これが南部ともなればこんな程度では(ry


閑話休題。

立った立った! フラグが立った! ように見えたり見えなかったりするルリ和也であるが。
まあ作中でも触れられている通り、代償行為であろうなあ。

それ自体は正常な心の防衛行動であるので、問題ではないのだが・・・・・・

ただルリが求める『家族』の幻影が、どうもリヒター言うところのサナトリウム家族のように思えてならんのがなんともはや。

最終的にコスモスに君とが流れんで済むよう、個人的に祈っておくとしようかの。



さて。儂はそろそろ次の研究に取り掛からねばならん。この辺で失礼するよ。

儂の話が聞きたくなったら、いつでもおいで。儂はいつでも、ここにおる。

それじゃあ、ごきげんよう。


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