世界の首都、として名高い北米大陸随一の都市、ニューヨーク。
 古くから多くの移民を受け入れてきた歴史を持ち、先の戦争では戦火を――多くの兵士の犠牲を払いながらも――免れた幸運の都市。
 その汚れを知らない、ふてぶてしいまでに立派な町並みを見るたび、彼は思うのだ。……徹底的に汚し、いたぶり、破壊してやりたい、と。

「お后、あなたの欲望を左右するのは愛の女神ヴィーナスの金星。だが、私の支配者は陰気な土星です。それ、この死の影を宿したような私の瞳はいったい何なのか……」

 ニューヨークを一望できる、とある建物のテラスで、『彼』は訥々と詩を紡いでいた。
 火星の後継者の制服を悪趣味なアクセサリーで飾り付けた、爬虫類然とした顔立ちの男は、しかしその風貌に似合わない詩的な言葉を並べ立てる。
 彼の眼下には、ニューヨークはマンハッタンのビルディングが天まで届けとばかりに連なっている。
 地球の繁栄ぶりを象徴するような、雄大にして忌々しい眺め。それを睥睨する優越感ともうすぐこれを叩き壊してやれる高揚感が、男に自然と言葉を紡がせた。
「この私の魂は天国などあてにはしていない。それよりはあなたの中に安らぎを覚えるのです。今日こそパシェイナスにとって破滅の日。今日、奴の大事なラヴィニアは、王に犯され、舌を抜かれたピロメーラーと同じ運命に遭うでしょう。あなたの二人のご子息があの女の操を奪い……」
 詠いながら右手を突き出す。親指と人差し指を立て、拳銃のように。
「その罪の手をパシェイナスの血で漱ぐのだ。……バーンってな! ククク。ヒャハハハハ!」
 哄笑する。それはかつて、劇作家シェイクスピアが描いた戯曲の一つ。
 殺人が憎しみを呼び、憎しみが殺人を起こす復讐劇であり、最後には劇中で11人が命を落とす残酷劇グランギニョル。しかしその血に塗れた物語は往時のヨーロッパ貴族から大いに好まれたという。
 そして、彼が最も気に入っている戯曲でもある。
「『タイタス・アンドロニカス』か」
 不意に掛けられた声に振り向くと、彼と同じく火星の後継者の制服に身を包んだ男が姿を見せていた。襟の階級章は少佐。
 この場に他の誰かがいたとしたら、こう叫んだだろう。――――火星の後継者のリーダーだ、と。
「そのあまりの残酷な物語ゆえに、一時はシェイクスピアの作品である事を疑われたほどの暴力的な戯曲だな。相変わらずいい趣味をしている」
 しかし我々には似合いであろう、と男――――湯沢翔太は言った。
「さいですよ。『父の血が流されるのを黙って見ていられると思うのか? 報いには報いを、剣には剣を』ってね。今日のこの日をどれだけ心待ちにしたか」
「同感だが、自分の役目を忘れるなよ。この作戦の可否は……」
「みなまで言いなさんな。承知してますって」
 彼はへらへらと笑って遮る。
「ならいい。私はそろそろ収録に入る。お前も準備しておけ」
 建物の中へ入っていく湯沢の背中に、「りょーかい」と気のない敬礼をし、彼は再び眼下の町並みを視野に納める。
「森の木陰の道は廣々こうこうとして、到る所に大自然が造りたもうた人目につかぬ場所があり、女を手籠めにし悪事を企むには正にもってこい。森というのは冷酷無慙。何をしようが、声も聞こえず、姿も見えない。そこでなら口説くもよし。一突きするもよし……心行くまで楽しませてもらうぜ、卑劣な地球人さんよ……」
 ククク……と彼は暗く嗤う。
 これから起こる事を、外のニューヨーク市民はまだ誰一人、知らない。



 機動戦艦ナデシコ――贖罪の刻――
 第十五話 血と憎しみの釜の中で 中篇



 ニューヨークの冬は寒い。緯度で言えば日本の北海道と同じ位の高さにあるここは、真冬になればしばしば氷点下まで冷え込む。
 それでも内陸に位置する同緯度の都市に比べれば、ニューヨークは温暖と言われていた。大西洋の海流で運ばれてくる南の海からの暖かい海水が、東海岸一帯を暖めてくれていたからだ。
 だが、ここ百年ほどの気候変動によって海流の流れが変化し、大西洋の恩恵が得られなくなったニューヨークは毎年のように寒波に見舞われるようになった。対策が行き届いた今はともかく、21世紀には都市機能が一時麻痺するほどの被害が出た、と歴史の教科書には記されている。
 2月ともなれば寒さのピークは過ぎるが、道端には残雪が残り、春の足音が聞こえるにはまだ早い事を物語っている。
 そんな中でただ突っ立っているだけだとさすがに寒いなと、とあるコーヒーショップの前で和也は思った。
 見上げると、先ほどまでの青空に白が多くなってきている。雲は次第に青空を覆い隠し、間もなく雪を降らせるつもりでいるようだ。せめてこの休暇が終わるまで本降りにはするな、と空に願いをかけ、かじかんでいた両手に白い吐息を吐きかける。
 和也の前では、コーヒー色をした中型トラックの荷台を店舗にした、いわゆるコーヒーの移動店舗が停まっている。そこで澪は店員が温かいコーヒーを淹れてくれるのをサイフを片手に待っている状態だ。
「……ラピスさん、だっけ。君は寒くない?」
 傍らに視線を落とすと、そこには人形のように喜怒哀楽が伺えない少女が、やはり人形のように直立不動で立っていて、和也の言葉に反応したようにふるふる、と首を振った。
 それでお終いだ。木星人の不良に絡まれていた、このラピス・ラズリと名乗った少女。話してみると非常に寡黙で、会話の弾む余地などどこにもないのだった。ただひたすら並んで立ち、息苦しい無言の時が過ぎるのを持つだけだ。
「はーい、お待たせしましたー」
 そこへ通りのいい明朗な声がして、待ちかねていた温かいコーヒーがようやくやってきた。和也は息をつき、女性店員からブラックのコーヒーを受け取る。
「はいラピスちゃん。ココアでいいよね?」
 同じく店員からホットココアの入った紙コップを受け取った澪は、熱いから気をつけて、とそれをラピスに手渡す。……なんだか、苦い記憶を思い起こさせる光景だ。
 ちくりと胸に痛みを感じ、和也はラピスから目を逸らす。コーヒーを一つ口に含み、その暖かさが体に染み渡るのを感じながら澪に話しかける。
「……やっぱり、例の『アキト』さんはラピスさんに、『ここで待ってろ』って言ったらしいよ」
 そう澪へ言った和也に、ラピスはこっくりと頷き、肯定の意を示した。
 この寡黙というか、言葉を口にするのが苦手なのではと思うほど口数が少ない少女と意思の疎通をするには少しの苦労を要した。聞いた限りでは、『アキト』とラピスが呼ぶ男性が、彼女の保護者――ラピス曰く、父とも兄とも違うらしいが――の名前だそうだ。
「たぶん向こうも探してるだろうから、この近くにいれば見つかると思う」
「なら、私たちもラピスちゃんと一緒に待ってよ。また嫌な人たちがこないようにね」
 和也と澪はそう言い交わし、ラピスの保護者が見つかるまで付き添うことにした。そこでコーヒーの移動店舗を見つけた三人は、寒い中で温まれるよう飲み物を買っていたわけだ。
「ふーん、その子迷子なわけ?」
 と、その移動店舗の店員の女性が話しかけてきた。なんだか興味津々といった感じの顔だ。
 この女性店員、どう見ても東洋系の顔立ちなのだが、木星人……というわけではなさそうだ。言葉のイントネーションからして、日系のアメリカ人だろう。
「ええ。一緒に来た保護者さんとはぐれちゃったみたいで……」
「なるほど、そこへデート中のお二人が通りかかり、一緒に探してあげることにしたと」
「なあっ!?」
 にまー、と笑って言う店員に、澪は体温計のように顔を真っ赤にする。
「ち、ち、ち、違いますようっ! わたしたちはその、クラスのみんなで就学旅行にっ……」
「へえー、違うんだあー、ホントにー?」
 身分を聞かれた時に備えて決めておいた答えを口にする澪に、店員はなおも面白そうにニヤニヤと笑う。
 さすがに澪が可愛そうになったので、和也は助け舟を出す。
「澪。そうやってオタオタ反応するから、この人は面白がってるんだよ?」
「む……! そ、そうだねっ!」
「ふふ。いいわ。そういうことにしといてあげる。……にしても……」
 そこで店員は、澪からラピスに視線を落とし、
「この子、なんか宇宙軍のホシノ少佐に似てるわね。あ、今は中佐だっけ?」
「ん、店員さんもそう思いますか」
 話題が自分に移ったのを聞いてか、ラピスはきょとん、とした目で和也たちを見た。しかしすぐにココアを飲む作業に戻る。
 猫舌なのか、しきりにふーふーとココアに息を吹きかけているラピスを見ていると、ますますルリとその印象が重なってくる。姉妹だと言われたら疑う余地がないだろう。
 それに、名前が『ラピス・ラズリ』。本名なのかはなはだ疑問だが、それは和名で『瑠璃』と呼ばれる宝石の名なのだ。
 まさかホシノ中佐と同じIFS強化体質者という事はないかと思ったが、店員という部外者がいる手前、軍の機密に触れる話はできない。
「……ところで、店員さんもホシノ中佐をご存知なんですね」
 それとなく話題を逸らす。
「そりゃあ有名人だもの。……と言いたいとこなんだけど、聞いて驚きなさい。私あのナデシコBに乗せてもらった事があるのよ」
「はあ? そんなバカな」
 ナデシコBが一般公開されたことは一度もないはずだと和也が言うと、店員はフッフッフ、と不適に笑って、
「信じないならこれを見なさい。本物のホシノ中佐と私が写ってるわよ。あ、くれって言ってもあげないからね」
 そう言って店員が差し出した写真を見ると、確かに見慣れたナデシコBの格納庫を背景に、ルリとピチピチのスーツを着た店員、他に小中学生と思しい少年少女が十人くらいと、何故か黄色い雪ダルマのような着ぐるみが写っていた。
「本物……に見えるね。この着ぐるみって、確かヒサゴプランのマスコットキャラの『ヒサゴン』だっけ?」
「日付は一年半前……あれ、おととしの8月9日って、確か火星の後継者が最初に反乱を起こした……」
「あったりー。私あの時、ターミナルコロニー『アマテラス』にいたのよ。アルバイトで見学コースのガイドやってたんだけど、そこへすわ火星の後継者が来襲したの。ホシノ中佐……その時は少佐だったんだけど、私は彼女を車の後ろに乗せ、燃え上がるアマテラスの通路を我が身の危険も顧みず――――」
 店員の弁舌には段々と熱が入ってくるが、当時の状況を記録で知っている和也たちにはそれが誇張されていると即座に知れたので、聞き流していた。
 それよりも和也は、その写真に写っているルリのほうが気になっていた。
「……ねえ澪。この写真のホシノ中佐、落ち込んで見えないか?」
「……うん。私もそう思う……」
 写真に写るルリは一見いつも通りの無表情に見える。しかしその裏にある、店員が気付けない僅かな感情の機微をなんとなく感じられる気がするあたりは、やはり半年を共に過ごしたからこそだろう。
 和也と澪には、写真に写るルリがひどく落ち込んで見えた。もっとよく見ようとふたりして顔を写真に近づけ――――突然にゅっ、と誰かが間に割り込んできて「わっ!」と驚いて顔を離した。
「……ホシノ・ルリ……」
「え、ラピスちゃんも、ホシノ中佐を知ってるの?」
 そう、澪。
「知ってる。連合宇宙軍の中佐、戦艦ナデシコBの艦長、17歳、あだ名は電子の妖精……」
 答えるというより、知っている事柄を羅列しているといった感じでラピスは言う。そして、
「アキトの、大切な人」
 その一言で、なるほどと思った。
 要するにそのアキトがルリのファンで、女友達の彼女にルリに似せた格好をさせ、ラピスというニックネームで呼んでいるのだろう。
「なんというか……いい趣味の持ち主らしいね」
「そうかもね。でも、どっちにしても悪い人じゃないと思うよ」
 そう言って澪は、ラピスの着ている服を指す。
 可愛らしいポンポンの付いた、白とピンク色を基調にした防寒着。お人形さん的な風貌のラピスにはまさにぴったりの衣装だ。
「この服、さっきブティックで売ってた服だよ。こんな可愛い服を買ってあげるくらいだもの。きっとラピスちゃんを大切にしてるよ」
 だといいね。と和也は返し、コーヒーを口に運ぶ。その後ろでは、話を無視されているとようやく気付いた店員が「ちょっと、聞いてる?」と不満そうにしていた。
 ……その時、不意に英語で言い交わす声が、和也の耳に入ってきた。
「ヘイ、見ろよ。トカゲ野郎がいるぞ」
 トカゲ野郎……木星人に対する蔑称。久しく聞いていなかったその単語に、和也の意識がそちらに向く。
「両手に買い物袋がたくさんね。どっかの金持ちのサイフでも盗んだのかしら?」
「クソッ……どうしてあんなコソドロ連中のために、俺たちの税金が使われるんだ?」
 少し離れた所でたむろする男女から発せられるその言葉は、明らかに和也たちに向けられたものだ。さっきの不良連中の言葉からも感じたことだったが、ニューヨーク市民は木星人移民を対等に扱う気などないらしい……
「和也ちゃん、向こうの人たち……」
 声は澪にも聞こえていたらしい。陰口は聞こえないように言えよと、声のでかい連中を恨めしく思う。
「……気にしないで。僕は平気だから」
 平気なわけがない。胸の奥から不快感が突き上げている。
 近寄って言い返してやりたいけれど、下手にトラブルを起こしたら休暇が台無しと思い堪える。
 ――糞が。木星人移民はみんな、来たくて地球に来たわけじゃない……木星にいたら生活が苦しいから、少しでもいい暮らしができればと思って仕方なく来たんだ――――ニューヨーク市民の差別的な態度に、ここ最近意識の外にあった地球への反感が蘇ってくるのを感じる。
 そもそも木星人が苦しい生活を強いられたのは地球のせいで、あんたたちにとやかく言う資格はない、と最近は考えなかった事まで意識に浮かび、ぎゅっと拳を握り締める。
 しかし次の瞬間、「キャーッ!」と女性の悲鳴が響き渡った。
 びくっと震えてそちらを見ると、中年の女性――というよりマダムと呼んだほうが適当そうな、高級毛皮のコートを着た恰幅のいい女性だった――が「誰かあの人たちを捕まえてーッ!」と金切り声で叫んでいた。その伸ばした手の先には逃げる男が三人。その一人は、たぶんその女性の物なのだろうバッグを抱えていて――――その顔を見て、和也ははっとした。
 ――さっきの連中だ! あいつら、もう別の人から盗みを……!
 和也たちと大勢の群集が見ている前で、ついさっきラピスから金を盗ろうとしていた木星人の男三人は、ニューヨーク市民数人に取り押さえられる。しかし男たちも素直に捕まる気はないようで、手足を振り回して激しく抵抗する。それが本格的な殴り合いに発展するまで、あっという間のことだった。
「くそっ!」
 和也は止めに入ろうと、足を半歩踏み出す。
 そこへ店員の「よしなさいよ」という声が後ろからかけられ、和也は駆け出しかけた足を止めた。
「割って入ったら、あなたまで共犯にされるわよ。ポリスに任せときなさい」
 店員の言う通り、程なくしてパトカーのサイレンが聞こえてきた。妙に早い到着なのは、この手の事件が常態化しているということなのか。
「まったく迷惑な連中よ。ああいう奴らが問題起こすせいで、最近ニューヨークの治安が悪くなってるって言われるのよねえ」
「…………」
 露骨に木星人移民を悪者扱いする店員の態度に、和也の気分がささくれ立つ。
 短絡的に犯罪に走る連中を擁護する気はないが、やはり木星人たる和也としては、地球人に木星人を悪く言われると黙っていられない。
「……この町は木星人移民への扱いが悪いと聞いたんですけれど、そのあたりに問題があるんじゃないですか?」
 反駁した和也に、む、と店員も不愉快そうに眉を寄せる。
「しょーがないじゃない。木星人って短気ですぐトラブル起こすんだから。あれでいい扱いしろって言われてもね」
「そうやって決め付けるのがいけないのでは? あの人たちも今は地球に馴染めないで……」
「決め付けてないわよ。ホントの話。うちも前に木星人のバイト雇ったことがあるけど、始めてすぐにお客さんとケンカしちゃって。注意したら地球人が俺たちにしたことを思えばどうのこうのって言い出して、結局二日でクビになったわ」
「それは木星人として当然の考えです。僕たちが地球のせいでどれだけ苦しい思いをしてきたか……」
「そんな事言うなら、何で移住なんかしてくるのよ? 地球が嫌いなら木星に帰ればいいでしょうが!」
「!? それは――――」
 不毛な水掛け論議。加速度的に険悪の度を増してくる二人の言い合いに、澪は「ちょ、ちょっと二人とも……」とオタオタする。
 そこへ、ラピスがポツリと口を開く。
「差別は常に双方の問題……お互いに共存する意思があるかどうかの問題」
 突然年に似合わない知的な言葉を発し始めたラピスに、え? と三人が注目する。
「木星人は過去の歴史に甘えすぎて、地球人と共存する意識に乏しい。地球人は木星人の感情に対してあまりに無知で無理解。だからどんどん亀裂が深まっていく」
 淡々と、まるでデータを再生するように、ラピスは語る。
「木星人は、地球でいい暮らしがしたいのなら多少我慢してでも地球人と共存する必要がある。地球人も、一度受け入れたからには木星人の感情を知り、木星人が犯罪に走らなくて済む環境を提供する事が国を荒らされないために必要」
 そこでラピスは、一度言葉を切り、

「だから、『もう無理なんだ』ってアキトは言う」

「…………」
「…………」
「…………」
 三人は、三人とも黙り込んだ。
 ラピスの言った事は又聞きではあるが、その『アキト』は木星人と地球人の共存を真剣に考えている……というか、考えていたことが伺える。
 なのに最後の最後で『もう無理なんだ』と絶望していて、和也も、店員も、澪までが申し訳ないことをしてしまった気分になって、誰も何も言えなくなった。
 タイムズスクウェアの喧騒が遠くなり、和也たちの周辺だけが切り離されたような、重苦しい沈黙。
 それを破ったのは「ラピス!」という聞き慣れない男の声だった。
「アキト」
 とてとて、とラピスが少し離れた所で手を振る男に駆け寄っていく。それで、あの男性がラピスの探していた保護者だったと知れた。
「探したぞ……待ってろって言ったはずだろう?」
「その子、ガラの悪い連中に絡まれていたんですよ」
 和也の声に、ん、とアキトはこちらへ顔を向けてくる。
 目が合った瞬間……思わず、和也は足を止めた。
 顔の上半分を覆うようなバイザー状のサングラスに、足首まで届きそうな黒のロングコートという、いささか奇妙ないでたちに戸惑った、というのもある。しかしそれ以上に、和也はこの男――――アキトから、近づきがたい何かを感じていた。
 ――何だ、この人、格好も少し変だけど……
 気圧されていた、のかもしれない。この男の半径数メートルに入った途端に首を飛ばされそうな錯覚を覚え――――澪の声で霧散する。
「どうしたの、和也ちゃん」
「え、いや、なんでもない……」
 なんだったんだ今のは……そう思いつつも、和也は澪と一緒にラピスを見つけた時の顛末をアキトに話した。
「そうだったのか……ありがとう、俺からもお礼を言う」
 心底安心した様子でそう言ったアキトを見て、少なくとも悪い人ではなさそうだ、と和也は思った。見れば息も少し乱れていて、かなり焦ってラピスを探していたらしかった。
「君たちは、日本人の旅行客か? 滞在はいつまでだ?」
「え? ええ……そうです。滞在は明後日までの予定です」
 いきなり聞いてきたアキトに、和也はそう相槌を打つ。和也が木星人であることは話さなかったが、聞かれてはいないし必要ないだろう。
 するとアキトは、何故か表情を僅かに翳らせ、
「……次に遊びにいくなら、郊外をお勧めするよ」
「は? どうして」
「なんとなくだ。行くぞラピス。……世話になったな」
 踵を返し、ラピスを連れてさっさと歩き去っていく。さりしなにラピスがこちらを振り向き、「ばいばい」という風に小さく手を振ってきたので、澪も「ラピスちゃーん、ばいばーい!」と大きく手を振り返した。
「……何だったんだろう、あの人は?」
「うん。ちょっと変わった……ていうか、変な人だったね」
 澪の言っている事は、和也が感じた事とはまったく違うそれであったろうが、黙っておいた。
 その時、和也の懐で携帯電話が電子音を発した。取り出すと、着信相手は『盾崎楯身』。それを見て、和也は機嫌を悪くした澪を追って分かれたきり何の連絡もしていない事を思い出した。きっと皆、待ちくたびれてしびれを切らしたのだろう……少し抵抗を感じながら通話ボタンを押す。
「もしもし、楯身? 連絡しなくてごめん。ちょっと面倒な事になってて」
 和也は言い、『何をしていらしたのですか?』と不機嫌な声が飛んでくるのに備える。
 しかし予想に反し、帰ってきた楯身の声は『いえ、こちらも少々立て込んでおりましたゆえ……』と、何故だか少し元気のないものだった。
「すぐに合流するよ。今どこ?」
『いえ、そちらの現在地を知らせていただければ、こちらから出向いたします。ただいまタクシーイエローキャブを捕まえたところですゆえ』
「イエローキャブって……まだタイムズスクウェアにいるんじゃないのか?」
 嫌な予感がした。
『こちらも面倒事に巻き込まれまして……今、警察署の前におります』
 当たって欲しくない予感ほど当たるものだと思いつつ、楯身たちにも似たようなトラブルがあったのだろうと、暗い気持ちで和也は察した。



「……恐らくは、その時奈々美の怒鳴り声を聞いた店内の客が通報したのでありましょう。我々は同行を求められまして」
 イエローキャブで合流してきた楯身たちは、一様に先ほどとは打って変わった沈んだ面持ちだった。
 ルリと楯身から離れていた間のあらましを聞くと、やはり木星人移民がらみのトラブルに遭っていたらしかった、
「事情を説明したのですが、相手方はなかなか信じてくれなくて。仕方ないので私が身分を明かして、軍に身元を照会してもらってようやく開放されました」
 そう言ったルリも、せっかくの休暇に水を差されて不機嫌そうな様子だった。
 ちなみに例の店員――彼女の顔を覚えていたルリ曰く、本名かは微妙だがマユミという名前らしい――は移動店舗で他のメンバーにコーヒーを淹れているが、やはりルリが気になる様子でチラチラとこちらを伺っていた。本物だと知れるのは具合が悪いので、和也と楯身はさりげなくルリが店員から見えないよう間に入っている。
「ニューヨークに木星人移民が来ているという事から初耳でありますが、あの様子を見る限り、共存がうまく行っているとは言い難いようでありますな」
 ふう、と楯身は沈鬱そうにため息をつく。
 オオイソにいる時は、トラブル続きで息苦しい思いをしていたと感じていたが……今思えば普通に地球人の友人もできたし、あれはあれでそれなりに共存できていたように思えてくる。
 それに引き換えここは、戦前からの軋轢がそのまま持ち込まれたかのようだ。
「最悪よまったく! 人を犯罪者扱いしてくれちゃって!」
「まったくだ。地球人こそよっぽど犯罪者じゃねえか!」
 奈々美と烈火は未だに腹の虫が収まらず、最近影を潜めていた地球人への反感が一気に噴き出していた。
「……ですが、冷静になって考えてみると……全ての人や店が、木星人を締め出しているわけではないようですが……」
「そうですね。ブティックにも入れましたし、普通に買い物も出来ました。『木星人を店に入れるな』という公的な通達が出ているわけではないようですね……」
 さすがに知能派の美佳と妃都美は、今は気を静めてこの問題について考えているようだ。
 美雪は黙ってコーヒーを飲んでいる。彼女も何か考えているのかもしれないが、表情からは何も読み取れない。
 とその時、全員分のコーヒーを淹れ終わったマユミが口を開いた。
「そうね。全部の店がお客の国籍を確かめてるわけじゃないわ。あくまでも各店舗の自主判断でやってるだけよ」
「……やはり、木星人を警戒する店は、実際に木星人によって迷惑をこうむった店、という事でありましょうか」
 そう、楯身は訊いた。
「いやー……ちょっち違うかも。単に話が伝わっただけで木星人を毛嫌いする店も、最近は増えてきてるわね。レストランに入ってもウェイターがなかなか来なかったり、ハンバーガー屋で注文後回しにされたり……」
 答えたマユミに和也は一瞬ムッとしたが、ふと気が付いた。
 今の話は、彼女の実体験ではないのか。
「……店員さん、ひょっとして木星人に間違われた事とかあります?」
「あるある。人種違うと見分けつかないらしくてね……話せば解ってくれるけど、息苦しくてたまんないのよ」
 つまり、木星人のとばっちりでマユミのような日系人も疑いの目を向けられているということか。彼女もまた、木星人に実害を受けている……その反感が先刻の言葉となって出たのか。
「さっきのラピスって子、『両方の共存の意思があるかないかが問題』って言ってたわよね」
「……ラピス?」
 マユミの言葉にルリが反応したが、今は続くマユミの言葉に意識を向ける。
「正直、こっちは共存の意思なんてあんまないかも。最初は木星の人たちにもいい暮らしをさせてあげられたらって思ってたけど、今はみんな『私たちの国を荒らすな』って思ってる」
「…………」
 その言葉に、和也の心は揺れた。
 国を荒らすな――――この半年で和也たちが戦ってきたテロリストたちも、皆そう言っていた。
 自分たちの国を、縄張りを――――侵されざる聖域を余所者に荒らされる事は、誰にとっても我慢ならない事なのだ。
 ――結局、みんな気持ちは同じって事なのか。
「……あんたたちってさ。どっから来たの?」
「に、日本から来ました。ちなみに私は日本国籍の地球人です」
 聞いたマユミに、澪。
「ふーん。日本人と木星人とで団体旅行か。むこうはこっちニューヨークよりうまく行ってるのかしらね。私も日本のママの家に帰りたいけど、パパが嫌だって言うしなあ……」
 そう言ったマユミの声には、揶揄や皮肉のニュアンスは微塵も含まれていなかった。
 ――悪い人じゃないんだよな。
 和也たちが木星人と知った後もこうしていろいろ話してくれるマユミは『いい人』なのだろう。そんな彼女でも、木星人移民への不満を溜め込んでいる。
 そして木星人もまた、和也たちがそうであるように地球への根深い敵愾心を抱えている。両者の溝は深い。
「木星人が地球でいい暮らしをするって……やっぱり無理なのかな」
 和也は、そう漏らしてしまった。
 しかし「いいえ」と楯身は首を横に振る。
「自分は、そうは思いたくありませぬ。自分たちはオオイソで、躓きながらもそれなりの関係を築けたと思っております。オオイソで出来たことが、たかだか海一つ越えた先で出来ない道理はないはず。そうでなければ、この戦いに意味などありませぬ……!」
 ――楯身の意思は揺れないな、と和也は思う。
 和也は……こんな話を聞くたびに、いろいろ悩んでしまうのだ。
「ところで和也さんたち」
 と、それまで黙っていた美雪が口を開いた。
「シリアスなお話し中申し訳ありませんが……ホシノさん、どこか行っちゃいましたわよ」
「え?」
 言われて気が付いた。
 ルリの姿は――――どこにもない。



 ――――ニューヨークの木星人移民のことが、和也たちにとって相当に気がかりな問題であることは解る。
 しかしルリはそれよりも、マユミの口にした人物の名前が気になっていた。話に夢中の和也たちを尻目に、ルリはマユミの移動店舗へと近づいた。
 マユミもルリのことは覚えていたのだろう。顔を見てすぐに解ったようだった。
「ちょ、やっぱり本物のホシノ……」
「あまり大きな声は出さないでください。お忍びですから」
 アマテラスでは大変助かりました、とルリが言うと、「いえ、こちらこそ……」と恐縮しきった様子でマユミは硬く笑った。
「さっきチラッと『ラピス』という名前が聞こえましたが……」
「え? ええ。あの二人が連れてきた迷子の女の子です。少し前に保護者の男の人が連れて行きましたけど」
「その保護者さんの名前と容姿は?」
「あー……『アキト』って呼んでいたかしら。真っ黒い服にサングラスかけたちょっと変な人だったけど……」

 それを聞いた瞬間、ルリの脳裏に電撃が走った。

「どこへ――――その二人はどこへ行ったんですか!?」
「ええ!? 知りませんよそんなの、あっちに歩いていきましたけど……」
 突然血相を変えたルリにマユミは目を丸くしていたが、構わずルリは走り出していた。

 ――アキトさんが――――ニューヨークに来ている!

 思い至った時、ルリは慣れない全力疾走をしていた。長い間抱え込んでいた渇望がルリの中に溢れ出し、破裂せんばかりに大きくなる。
 ――話によれば、アキトさんが来たのはついさっき……まだ遠くには行っていない!
 右へ左へと首を巡らせ、人混みの中にアキトの姿を捜し求めた。道行くニューヨーク市民に「すみませんエクスキューズミー!」と声をかけては、黒い服を着た男性と小さな女の子を見ませんでしたか、と訊いて回った。そのうち何人かはルリに気が付いて驚いていたが、構ってなどいられなかった。
 走って、探して、走って、探して…………しかし見つけることは出来なくて、やがて息が上がって動けなくなり、ルリは冷たいアスファルトに膝を突いた。
「アキト、さん……」
 途切れ途切れの呼吸の中で、呟く。
 やっと、見つけられたのに。
 こんなに、近くにいるのに。
 アキトに――――『家族』に会いたい。捕まえたい。名を呼んで欲しい――――狂おしいほどの渇望が、ルリの胸を焼いていた。
 もう一度、あの安アパートへ帰りたい。また三人で一緒に暮らしたい。その目標だけを原動力に、ルリは今日の今日まで戦ってきたのに……
 ――まだ、探せる。
 棒のような足を叱咤し、ガードレールに手を付いて立ち上がろうとし……不意に肩を誰かに捕まれ、はっとして振り向いた。
「ふう……やっと追いついた。ダメでしょう、僕たちから離れたら……」
「コクドウ隊長……」
「どうしたんですか急に。ホシノ中佐らしくもない」
「……説明してる暇はありません。今は一秒が惜しいですから……」
「だから何があったんですか。さっきの人……ラピスさんやアキトさんと何か関係があるんですか?」
 さすがに感づいたらしい和也の言葉に、ルリは押し黙る。
「……コクドウ隊長たちには、関係がない事です。これは私の個人的な事ですから」
「関係ありますよ。僕たちは中佐を護衛しろとタカスギ少佐から命じられてるんですから。あの二人を探してこいというなら、すぐにでも探してきますよ」
 その申し出は和也の好意か、それとも任務に忠実であろうとするゆえか。
 どちらにしてもありがたくはあった。しかし、和也がアキトの素性を知ったら……
 ……その時、ふと思い至った。
 そもそも、どうしてアキトはここにいる? しかも、近郊のサンディフック基地に草壁が収容されているこの時期に。
 ――ああ、そうか。
 ルリは自分の迂闊を悟った。和也の言った通り……らしくもなく取り乱して、冷静な判断力を無くしていたらしい。
「コクドウ隊長。すぐに車両を拾ってください。ナデシコへ戻ります」
「は? どうして……」
「敵が――――火星の後継者が来ますよ!」



「作戦開始時間です」
 薄暗い木連式戦艦のブリッジで、部下からの知らせを聞いたその瞬間、“彼”は全身にぞくっと震えを感じた。
 恐怖? とんでもない。腹の底から沸き起こる最高の愉悦が彼の身を震わせ、自然と言葉を紡がせる。
「猟が始まる。朝まだき、空は白々と明け染めた。野には甘い香りが漂い、森の木々は美しい緑に輝いている……」
 それは戯曲、タイタス・アンドロニカスの序章。
 狩猟祭の始まりを告げた老将タイタスは、自分に向けられる憎しみの刃をまだ予想さえしていなかった。
 しかしこれから始まる狩猟祭では、彼らこそが憎しみの刃を振りかざし、復讐を果たすのだ。
「さあ、猟犬を解き放ち、その吠え声に皇帝と美しき花嫁の眠りをまさせろ。いざ猟師どもに命じ、角笛を高らかに鳴り響かせ……」
 じゃら、と制服を飾るアクセサリーを鳴らして立ち上がり、周囲の部下たちへと宣言する。

「ニューヨークを獲物の悲鳴で満たすのだ――――!」



 ――――定年を間近に控えたそのサラリーマンにとって、外周りの最中に公園へふらりと立ち寄るのはいつもの日課だった。
 その時にふとトイレの個室へと入り、ほぼ同時に隣の個室へ誰かが入ったのも、彼にとっては気にするほどの事でもなかった。
 しかし、彼が用を足して個室から出たとき、時を同じくして隣から出てきた誰かが、彼の肩をぽんぽんと叩いた。
「はい?」
 次の瞬間、自分の目の前にリボルバー拳銃の黒々とした銃口と、それを構える『♂』のマークをあしらった制服の人間を認めた時、パーン、という乾いた音と共に彼の意識は途切れた。



 ニューヨーク市内の大型ショッピングモール。そこの地下駐車場に一台の大型トラックが居座るようになったのは数日前からだった。
 モールの経営者側はトラックの持ち主に再三立ち退きを求めたが、一日が経ち、二日が経ってもトラックはそこに居座ったままで、しびれを切らした経営者側は警察に撤去を要請したのだった。
 警官が到着した時、トラックの前には持ち主と思しい男がいた。
「おい! このトラックは撤去の要請が出ているぞ! 早く立ち退け!」
「おや失礼。すぐに動かします……よ」
 言って男は、手にしたリモコンを操作。機械の駆動音が、しかしトラックのエンジンではなく荷台から幾つも重なって響き――――
 間もなく、駐車場の出入り口が爆煙に包まれ、その中から数機のジョロとバッタが飛び出し、獲物を求めるかのように空へ町へと散っていった。



 ニューヨークのど真ん中に位置するハドソン湾は、日本で言う東京湾のような存在だ。物流を支える中継拠点として沢山の港が湾内に点在し、常に多くの水上船が行き来している。
 万が一にもここで大規模な船舶事故が発生し、湾が封鎖された時に生じる損害額は天文学的な額になることが容易に想像できる。それだけに管理システムが整備され、湾を管理する人間たちは事故が起きないよう神経を尖らせてきた。
 しかしその日、あってはならない事態が起きた。一隻の大型貨物船が何を血迷ったか、ベラザノ橋を通過した直後に管制センターの指示を無視して急速に転舵し、あろう事か横を航行していた重水素燃料を満載したタンカーに横から衝突したのだ。
 突然の事故に急な方向転換のできない大型船はなすすべがない。玉突き事故的に他の船が巻き込まれて衝突を繰り返し、ついには重水素燃料が爆発、熱波がベラザノ橋を襲い、巨大なキノコ雲が吹き上がった。
 その光景は多くの人々の目にするところとなったが、それはほんの前座に過ぎなかった。ハドソン湾の中に突如黄色い甲殻を持った大柄な機械が、ぶつぶつと痘痕が浮くように浮上してきたのだ。
 虫型戦闘機水式――――地球軍コードネーム『ゲンゴロウ』の群れが、背中のミサイルコンテナを一斉に開く。次の瞬間、数え切れないほどのミサイルが空へ解き放たれ、ニューヨーク市内各地へ向けて四散、飛翔していった。



「水中部隊よりのミサイル、第一波全弾命中! 続いて第二波発射準備!」
「歩兵部隊、市内各地に展開開始! 虫型兵器も全機予定通り起動しました!」
「第27分隊、警察署を爆破! 市内各地での抵抗は現在のところ微弱!」
 待ちに待った瞬間だ。と五月雨式にもたらされる報告に、彼は爬虫類めいた相貌を笑みの形に歪めた。
 戦争の始まりを告げる狼煙は上がった。命令はこの戦艦のブリッジから全ての兵へと伝わり、およそ三千の兵が鬨の声を上げる。
 今まさに、ニューヨークはかつての火星を連想させる煉獄と化そうとしているのだ。その情景を想像すると、更なる快感が彼の体を突き抜ける。
「市内の部隊より、攻撃目標の支持を求める連絡が入っていますが」
 部下の一人がそう聞いてくる。その顔もまた、興奮に赤く染まっている。
 彼の答えは決まっている。
「攻撃目標? 決まってんだろ、ニューヨーク市内全域だ! ブロンクス、ブルックリン、クイーンズ、スタテンアイランドにマンハッタン! とにかく全部だ、全部!」
「隊長。フェデラル・ホールはいかが致しましょうか!」
「吹っ飛ばせ! 目障りだ、木星の戦勝記念館に作り変えてやれ!」
「リバティー・アイランドはどうしましょうか」
「艦砲射撃で海に沈めろ! 自由の女神像は倒せ! ブロードウェイ劇場街も、グリニッジ・ヴィレッジも、マディソン・スクエア・ガーデンも、全部ぶっ壊しちまえ不愉快なんだよ!」
「ジョージ・ワシントン橋は?」
「当然、落とせ! ベラザノ橋もだ。ついでにウィリアムズバーング橋もその他のちっこい橋も落としちまえ。獲物の逃げ場をなくして狩場にしてやれ!」
「セントラル・パークなどいかがでしょうか!?」
「焼き払え! ジャクリーン・ケネディ貯水池には毒を投げ込め!」
「エンパイア・ステート・ビルディング、どうしましょうか!」
「破壊だ破壊! 旧国連本部ビル遺跡、ニュー・ワールド・トレード・センタービル、ニューヨーク証券取引所にナスダック! 目に付いたもの片っ端から破砕して、爆破して、破壊しろ! 目に付いた敵は全部撃て! 誰が敵かって? 火星の後継者の制服を着ていない奴は全て敵だ! お前らの銃眼の先にいる全ての敵を射殺し刺殺し斬殺して爆殺しろ!」
 それはつまり、無差別攻撃。
 武装した者もそうでない者も区別なく殺せ、という宣告。
 彼らを嬉々としてそれに向かわせるのは、百年間木星人が石に刻み付けてきた怨讐の歴史と、四年前の戦争で残された怨恨。それを全てぶつけてやれと、彼はタイタス・アンドロニカスの大悪党、エアロンの呪いの言葉で部下たちを焚きつける。
「さあ、俺は今お前らの耳に呪いの言葉を吹き込み、お前らを唆し、その舌を操ってやる。今日まで溜めに溜めてきた胸に溢れる毒気を、敵の頭上に吐き出せ!」

 ニューヨーク史上最悪の一日は、ここに始まった。



 かつん、とコンクリートの破片が頭に落ち、和也は伏せていた体を起こす。即座に体の状態を確認し、大した怪我も負っていないことを確かめて、視線を落とす。
「痛っ……ホシノ中佐、ご無事ですか?」
「……ええ。おかげさまで」
 和也の下に組み敷かれる形になっていたルリは、立ち上がると服の埃を払う。この状況で――いや、この状況だからか?――奇妙なほど冷静に振舞うその姿は、先刻のラピス・ラズリのそれに近い無感情なものだった。
 状況が暗転したのは、本当に突然のことだった。
 ルリが「敵が来る」と叫んだ矢先、空を無数の白煙が覆い――――それが何百発ものミサイルだと妃都美の警告で解った和也は、咄嗟にルリを押し倒して伏せさせた。
 不吉な飛翔音、そして幾重もの爆発音の多重奏が轟き渡り、嵐のように過ぎ去った。ミサイルが着弾したビルからはガラスや破片が無数の凶器と化して降り注ぎ、和也は買い物袋を頭に掲げて何とか自分とルリの身を守ったのだ。
 しかし、他のみんなは? 和也は澪や楯身たちの身を案じて叫ぶ。
「みんな……! みんな、大丈夫!?」
「わ、わたしは大丈夫! 楯身くんが守ってくれたから!」
「自分も無事であります。多少破片を受けましたが、軽傷で問題はありませぬ」
「私も大事ありません!」
「生きてるわよ。何とかね……」
「さすがに死ぬかと思ったけどな……」
「……ミサイルの直撃を免れたのは、幸いでした……」
「皆さん無事で何より、ですわね」
 澪、楯身、妃都美、奈々美、烈火、美佳、美雪……『草薙の剣』メンバーたちが噴煙の中から手を振って無事を伝えてくる。皆顔が真っ黒で、軽傷を負っている者もいたが、大事にはなっていないようで安心した。
 しかし、その周囲には――――
「痛いいっ! 目が、目があッ!」
「お母さあんッ! どこおッ!?」
「911番! 誰かあっ!」
 耳に突き刺さる悲痛な叫び声。つい先ほどまで笑って町を歩いていた人たちが、体に大怪我を負い、血を流しながら助けを呼んでいる。
 まるでパニック映画の1シーンのような光景。どおん、と遠く爆発音が轟き、真っ黒な爆煙が立ち上る。そして、その合間を縫うようにして跳ぶのは、和也たちにとっては見慣れた虫型兵器の姿。
「バッタ……! ニューヨークが襲われてる!? そんな……!」
 虫型兵器が、軍施設でもないニューヨーク市内を攻撃している。それ自体が和也の理解の埒外だった。
 その時、和也たちのコミュニケが一斉に電子音を発した。即座に通話ボタンを押し、無事でしたか、と言いかけたハーリーを遮って怒鳴りつける。
「マキビ中尉――――この状況は!?」
『て、敵襲らしいです! ニューヨーク市内全域に敵性重力波反応多数! 凄い数の虫型兵器の反応です!』
 裏返ったハーリーの声と共に、ニューヨーク市内の地図が展開する。その上で動き回る無数の赤い光点は、ナデシコBの重力波レーダーが捉えた敵を表す印だ。市内全域で破壊の限りを尽くしている敵の数は、確認できているだけでも4ケタは下るまい。
「これが全部!? 誤報じゃないんですか?」
『他の艦や、サンディフック基地のレーダーともクロスチェック済みです! 全てのレーダーが誤動作を起こすとは考えられません! これは――――全部敵ですッ!』
 なんてこと、と呆然と呟いたのは、果たして和也だったのだろうか。
 今まで散々叩いてきたと思っていた火星の後継者が、まだこれだけの戦力を残していたこと自体驚きだ。しかしそれ以上に、その戦力がニューヨーク市内に、それも突然現れるなんて……
「和也さん! ミサイルの第二派が来ます!」
 和也は予想外すぎる事態に愕然としていたが、妃都美の声で我に返る。
 再び、鉛色の空を幾条もの白煙が走ってくる。それを見た人たちは身を伏せ、あるいは走って逃げようとする。
 建物の中に逃げようとする人は極少数だ。先刻の第一波攻撃で幾つもの建物が吹き飛ばされ、屋内は危険と思った人が多数だったのだ。
 しかし和也たちは、飛んでくるミサイルの挙動が先ほどと異なるのに気がついた。一つ一つが先ほどのそれより大型で、落下してこない。あれは……

 クラスター弾頭搭載のミサイル!

「みんな、外はダメだ! 屋内へ退避しろ!」
 和也は声の限りに叫び、ルリや他のメンバーたちと共に手近な建物の中へ駆け込む。しかし、それに従う人は多くない。
 瞬間、クラスターミサイルが腹に抱えた数百個の子弾頭を放出――――バララララララララッ! と幾千もの爆音が重なって響く。ビルの窓ガラスが割れ跳び、道路が抉られ、人を乗せた車が、逃げ惑う人々が、彼らの上げる悲鳴までもが爆炎の中に飲み込まれていく。
 瞬く間の出来事に、和也たちはなすすべもない。ただ目の前で広がる惨事に体を震わせるだけだ。
「く……! 市街地に向かって、クラスターミサイルを使うなんて! 正気なのかあいつら!?」
「とっくに狂っちゃってますよ。……ですが目的は明確。パニックが目当ての爆撃です」
 呻く和也を尻目にルリは冷静に冷徹に、的確な指示を下す。
「すぐナデシコに戻ります。コクドウ隊長、すぐに車両の確保を」
「は、はい!」
 ルリの態度はどう見ても何か知っていると思われたが、それを詮索している暇はなかった。
 路地の先から武装した人間が数人、殺気立った表情で飛び出してきたからだ。その身に纏った制服には、一目ではっきりと視認できる『♂』のマークがあしらわれている。
「火星の後継者……兵員まで!?」
 火星の後継者が、もはや貴重なはずの人間までを投入してきたことに改めて和也は驚いた。今まで散々叩いてきたはずだったのに、火星の後継者はまだ多くの戦力を残していたのか?
 現れた火星の後継者兵は、全員が機関銃などの重火器で武装している。『草薙の剣』が各々拳銃一つしか持たない状況では危険すぎる相手だった。ここは一旦退いて、ナデシコに戻ることを優先すべき――――和也はそう判断し、皆に合図を出してその場から離れようとする。
 しかし、火星の後継者兵たちは和也たちを見ていなかった。
 ――まさか……おい、バカな気を起こすなよ……!?
 嫌な予感がした。いくら火星の後継者でもそこまで愚かではないはずだと、同じ木星人としての希望的な観測が一瞬、和也の脳裏に浮かぶ。
 しかし彼らは悪い意味で予想を裏切らなかった。火星の後継者兵はニヤリと嫌な笑みを浮かべたかと思うと、手にした重火器を和也たちではなく、逃げ惑うニューヨーク市民へと向けて――――
「やっ……」
 敵の注意を引いてはいけない。解ってはいたが、和也の喉から声が迸る。

「やめろ――――――――ッ!」

 瞬間、火星の後継者兵たちは躊躇う素振りも見せずに引き金を引いた。
 多くの人々がまるで七面鳥撃ちのように撃ち抜かれ、バタバタと血煙を吹いて倒れていく。
 これはあの時と同じだ。オオイソで、火星の後継者兵テロリストが澪に手を出したあの時と。
 ――ふざけるな……これ以上、僕の目の前で!

「これ以上木星人の心を汚すなあ――――ッ!」

 気付いた時には地面を蹴り、叫びながら拳銃を撃ち放っていた。数発が火星の後継者兵の腕や肩に当たったが、全員を仕留めるには到らず、即座に猛烈な応射が帰ってくる。和也は飛び退き、転がって建物の陰に身を隠したが、まったく身動きが取れなくなる。
「隊長ッ……!」
 和也が危険な状況に陥ったのを見た楯身は、和也を助けに向かおうとしたが火力の違いから不利と判断して踏みとどまった。代わりに内ポケットからサイフを取り出し、後ろに向けて叫ぶ。
「奈々美! 烈火! あそこのガンショップから何か銃を買ってこい! 急げ!」
「あいよ! ったく和也にも困ったもんだわ!」
「うちの隊長さんの突撃癖は昔からだろ!?」
 楯身の放り投げたサイフを受け取り、奈々美と烈火がガンショップへ走る。そして楯身自身もまた、追い詰められる和也を守ろうと盾になるべく走り寄――――ろうとした時、その背後から耳障りなクラクションが鳴り響き、楯身も、物陰から散発的に応戦していた和也も驚いて振り返る。
「あたしらの国で何やってんだあ!? 静粛にせいやオラア――――ッ!」
「て、店員さん……?」
 和也は呆気にとられる。マユミの運転する移動店舗が「うお!」と飛び退いた楯身を猛スピードで追い越し、大柄な車体を派手にドリフトさせて和也の盾になる形で停車すると、あろう事かマユミは運転席からクリムゾンM3短機関銃――フルオート機構のない民生用らしかったが――を突き出したのだ。
「当たったら痛いぞコラ――――ッ!」
 セミオートで連射。思わぬ反撃に火星の後継者は数人が被弾し、残りは怪我人を抱えて退いていく。
 予想外の活躍を見せたマユミは「よっしゃ」と拳を握り、和也たちへと叫ぶ。
「あんたたち早く! 乗って!」



 僅か数分の間に、ニューヨークの町はその様相を一変させていた。
 町のそこかしこから黒煙が上がり、銃声と爆音が絶え間なく聞こえる。空にはすでに何機ものバッタがビルの合間を乱舞し、地上に機銃掃射を浴びせている。その先にいるのは、恐らく大半が民間人なのだろうと思うと背筋が凍る。
 完全に戦場と化したニューヨークはマンハッタンの街中を、コーヒー色の移動店舗が駆け抜けていく。道路はもう乗り捨てられ、あるいは破壊された車で溢れとてもまっすぐ走れる状態ではないが、マユミはそのハンドル捌きでそれを避けつつ―― 一秒ごとに車体の傷が増えてはいたが――車を走らせていた。
「ハーリー君、そっちの状況は?」
『現在、サンディフック基地の全駐留部隊が出撃体制に入っています。タカスギ機と、僕たちと一緒に来た宇宙軍第721機動中隊はすでに出撃して、迎えのヘリと一緒にそちらへ急行中です。ただ申し訳ないんですけど敵の攻撃が激しくて、そちらまで救援に行けません。バッテリー・パークまで自力で脱出してください』
 バッテリー・パーク……マンハッタンの南端にある公園。ヘリがそこまでしか来られないほど危険な状況だということなのか。
「解りました。自力でそこまで向かいますから、ナデシコの発進も急がせてください」
『了解。ただ……クルーが足りないので、準備に少し時間がかかりそうです』
 そう言ったハーリーにルリは「急がせてください」とだけ命じたが、そのセリフの裏にはもう一つの意味があった。
 今ニューヨーク市内には、ナデシコBクルーのおよそ半分が上陸している。彼らもルリたちと同様、命の危険に晒されているはずだが……
「……というわけなので、バッテリー・パークまで逃げちゃってください」
 ルリはそうマユミへ告げた。それは上陸したクルーを半ば見捨てる決断。
 人命に優劣は無いというが、結局それは平時の理屈だ。今は他のクルーより、ルリを優先してナデシコへ送り届けなければならない。和也たちも皆それを承知しているから、何も言わない。
 そんなルリや和也たちの葛藤を知る由もなく、マユミは笑って答える。
「りょーかい! ホシノ中佐を乗せて走るのは、これが二度目ね!」
「すみません。ご迷惑をおかけします」
 小さく頭を下げたルリに、マユミは「いいのいいの!」と既視感を感じるセリフを言う。
「あんたたちに付いてけば助かりそうだし!? やっぱ燃えるっしょ、こういうの!」
 そう言ったマユミに、後ろの店舗で周囲を警戒する『草薙の剣』からハハハ……と乾いた失笑が漏れる。
「助けてくれたことには感謝しますけど……どうして短機関銃なんて店に積んでいるんですか?」
 そう、妃都美。
「あたし、アマテラスじゃひどい目にあったからね! こっちに帰ってきてから銃の教習とか行って、民兵ミリシャのキャンプで訓練もしてるのよ! 役に立つとは思わなかったけど!」
「そ、そうなんですか……」
 妃都美は少し引き気味に相槌を打つ。その横で「やっぱおっかない国だな……」と誰かがこっそり呟いた。
「ホシノ中佐……やっぱり火星の後継者がここに現れたのは、草壁……元中将が目的なんでしょうか」
 奈々美たちが買ってきたライフルで周囲を警戒しつつ、和也はルリに聞いてきた。まず間違いなくそうでしょう、とルリは答える。
「この派手な攻撃は、恐らく陽動。サンディフック基地の戦力をニューヨークに引きずり出して、手薄になった基地を別働隊が襲撃する手はずなのだと思います」
「そこまで解ってるのなら、どうして向こうに警戒を促さないんです?」
「こんな簡単な問題が解らないほど、サンディフック基地の司令もバカじゃないですよ。ある程度の守備兵力は残すはずです。……ですが、それがどこまで当てに出来るかはちょっと微妙ですけど」
 サンディフック基地は大きな基地だが、その駐留戦力は戦時中のそれに比べれば大きく削減されている。ましてサンディフック基地と双璧を成していたラカウェイ基地に到っては、戦後間もなく閉鎖されてしまっている。他の基地からの増援は時間がかかるだろう事からしても、サンディフック基地は大半の戦力を市内の制圧に回さざるを得ないだろう。
「それにあの攻撃……時間が経てば経つほど民間人の犠牲が増えます。地球連合軍が彼らの税金で動く彼らのための軍隊である以上、助けに向かわないわけには行きません。例え敵の意図が解っていたとしても、戦力の大半は出撃せざるを得ないはずですから」
「つまりそういう観点から見れば、民間人を無差別に攻撃する火星の後継者の行動も、ただ狂っているわけじゃなく明確な目的がある……そういう事ですか」
「はい。火星の後継者は事実上、ニューヨークの全市民を人質にして、軍に出撃を強いているんです」
「僕たちはそれが解っているのに、どうすることも出来ないなんて……!」
 ぎりっ、と和也は奥歯が折れそうなほどに歯噛みする。
 和也の悔しさと歯がゆさはよく解る。だがそれよりもルリには、もう一つ気になっている事があった。
 ――予想は的中、火星の後継者が現れた……
 和也と澪の遭った人物が本当にアキトとラピス・ラズリだとすれば、あの二人が何の目的もなく観光になど来るわけがない。そう思ったのが、先ほど和也へ『敵が来る』と言った根拠だ。
 アキトはニューヨークに火星の後継者が現れると知っていた……だからここに来た。それは間違いないのだが、ならばなぜこの事態を黙って見過ごしたのだろう? 軍に情報をリークすれば、それだけで火星の後継者は相当な人員と兵器を失い、多大な打撃を受ける。……アキトとしては、それで十分のはずだ。
 なら。
 きっと、アキトの目的は他にある……この惨事を看過してでも見過ごす事の出来ない、千載一遇の何かが。
「あれは……!」
 妃都美の声に、ルリと『草薙の剣』は一様に外を見上げる。
 この状況にあってなお機械的な広告などを、あるいは緊急事態警報を流していたウィンドウが、突然砂嵐に包まれたかと思うと、全てのウィンドウが一斉に同じ画面に切り替わった。
 そこに映っているのは、火星の後継者の制服を纏った、どこか線の細い男性の姿。それを見たルリたちは、一様に驚愕の形に目を見開いた。
 見間違えようもない。その姿は――――

『傲慢にして無知なる『地球人類』諸君、私は火星の後継者が一派の首班、湯沢翔太である』

「湯沢……! 電波ジャックか!」
 叫ぶ和也。
 カメラが若干引く。高揚した表情の湯沢の背後に写っているのは、ニューヨーク市議会の講堂らしい。……首から血を流して事切れているニューヨーク市長の姿が、そこにあったから。
「湯沢派のリーダーが、直々にお出ましだなんて……!」

『この放送をご覧になっている、全ての地球人類諸君に宣告する。今日が諸君らにとっての、贖罪の刻である』

 両手を広げ、まるで神の教えを説く宣教師のように、湯沢は語る。
『全ての始まりは百余年前。月における独立運動に端を発する。月の住民であった我々の祖先を、地球は金と権力の密約によって懐柔し、月の独立運動を頓挫させた。しかし当時の地球の指導者たちは自らの保身のため、後顧の憂いを絶つべく月独立派を追放、あまつさえ火星へ逃げ延びた彼らに向かい、核攻撃による殲滅を図るという暴挙に出た』
 それは木星の歴史。木星人の心に怨嗟の声と共に刻まれた、百年前の過去の事実。
『かくして木星に落ち延び、百年をかけて国家を建設した我々は、会戦に先立って地球に和平の書簡を送った。『地球が過去を悔い改め償うのなら、共に歩もう』と。しかし――――』
 そこで湯沢は、いったん言葉を切り、
『地球連合は、それに黙殺を持って応じた! ――何故か!? 地球連合には、和平に応じる意思など無いからである! 存在するのは、歴史の汚点たる我々に対する敵愾心、そして侮蔑!』
 声を荒げ、熱を帯びて来る湯沢の演説が、軍の注意を引き付けるための物であることは見え透いている。
 しかし、それを聞いていたルリは、自分の腹の底から湧き上がってくる不快感を自覚せずにはいられなかった。
『地球を制し、過去の罪を償わせるという我々の試みは残念ながら中途で頓挫した。その後三年、我々は木星人に裕福な生活を与えると唱える秋山政権の成り行きを見守ってきた! しかしその結果は、貧困からの脱却を夢見て地球へと渡った木星人移民が安い労働力として家畜の如く使われ、木星人として言いたい事は何一つ言えない、抑圧された生活だった!』
 ――何を……何を勝手な事を……!
 自分たちの犯罪行為を棚上げして、都合のいい、わざと歪めた理屈ばかりを並べ立てる湯沢の論法に、ルリははらわたが煮える思いだった。
『この放送を聴いた地球人類諸君はこう思っただろう。『それは地球連合政府の罪であり、我々は関係がない』と。だがその地球連合を支持し、支えているのは誰だ? 地球軍が我々の同胞を殺傷した銃と弾丸を買った金は何だ? 言うまでもなく諸君らと、諸君らの納める税金である。ゆえに諸君らもまた地球連合政府と同様の罪を背負っていると断言せざるを得ない』
 ――あなたたちにそんな事を言う資格なんかない。あるわけがない。
『諸君らはすべからく我々木星人に対し、永遠に消えぬ罪を背負っているという事を自覚してもらう。そして、それを償ってもらう』
 ――あなたたちこそ自分の罪を知るべきだろう。大勢の罪も無い人を拉致し、人体実験に使い、ネズミの如く使い捨てておきながら……!
『我々が靴を舐めろと言えば舐めねばならぬ』
 ――許さない……絶対に許さない。
『我々はテロリストではない。地球の罪を裁き、全ての木星人を代表して戦う軍である』
 がりっ――――! ルリは奥歯が折れそうなほどに強く歯を噛み締める。視線だけで人が殺せるなら軽く百殺できるほどの殺意を込めて、湯沢の姿を睨みつける。

 ――殺す――――その口を引き裂いて、全ての尊厳と誇りを奪い去った上で絶対に殺す! あなたたちの罪を数えれば死刑でもぬるい――――――!



 ――――湯沢の演説を聞いた和也は……当惑した、というのが一番近い。
 声高に地球を非難し、木星人の苦難を説く湯沢の姿は醜悪だった。こんな奴に自分たちの代表を気取られていると思うと吐き気がする。
 和也にとっての木連軍とは、木星人を守り、敵であっても民間人に銃を向ける真似はしない、そんな軍隊であり、和也自身もかくありたいと思っている。民間人を狙い撃ちにする湯沢の行為は、それに泥を塗る行為以外の何物でもない。
 ましてや、今の和也には澪という疑う余地のない友達がいる。少なくとも……今の和也に澪を敵だなどと思うことは絶対に出来ない。地球連合が許せなくても、澪と――――和也の知る地球人は敵ではない。だから全ての地球人が敵と言わんばかりの、湯沢の言葉には賛同できない。
 そう思っているのに……和也はそれを口に出せない。
 湯沢の言う事は確かに、和也がかつて――いや、心の中では今でも――思っていた事でもある。
“地球は木星に償いをするべき”それはほぼ全ての木星人が間違いなく心に抱える思いだ。それに応じない地球連合にはもう一度戦争を仕掛けて今度こそ屈服させてやりたいと……地球人など核で焼き払ってやればいいと考えたことも確かにある……
 けれど、と思考した和也の耳を、轟音がつんざいた。
 見上げると、大型の旅客機が明らかに異常な低空飛行で和也たちの頭上を飛び去っていくところだった。その胴体からバラバラと鱗が剥がれるように離れていく、無数の黄色い物はバッタ。たまたま上空を飛んでいた旅客機も、虫型兵器は見逃さなかったのだ。
「ああ、中に人が……!」
「やべえ! ぶつかるぞ!」
 さながら血を流しているかのように黒煙を上げる旅客機は、恐らくは機内に多くの生きた乗員乗客を乗せたまま見る間に高度を下げ――――高層ビルに頭から突っ込む。
 次の瞬間、機体は巨大な火球へと変じた。機体内部の水素燃料が爆発――――吹き飛ばされた機体とビルの一部が、無数の破片となって地上へと振り注ぐ。
 いや、破片だけではない。
 不運にもビルの中にいたのだろう何人もの人たちが、背中に火を背負って破片と一緒に墜ちてくる。まだ遥か頭上にいるはずなのに、和也には彼らの苦悶と絶望に歪んだ顔が見えるようだった。
「あんたたち、なんか掴まって!」
 マユミは怒鳴り、懸命な蛇行運転で破片を避けながらスピードをさらに上げる。細かな破片が車体の屋根を叩く音が不吉に響き、一つでも車体を叩き潰せる大きな破片が周囲の道路に突き刺さり――――それに混じって、人も墜ちてくる。
 グシャッ! と恐ろしい音を立てて、赤い飛沫が爆ぜた。数百メートル上のビル上階からコンクリートの道路に叩きつけられた人間の体は、まるでプレス機で押しつぶしたかのように道路に張り付き、その一部を四散させる。
 それが周囲で何度となく繰り返される。悪夢よりも悪夢的な、阿鼻叫喚のリアルが和也たちの目の前に現出する。
「嫌あーっ!」
「見るなッ!」
 悲鳴を上げた澪の目を、手遅れ気味に手で塞ぐ。するとたちまち和也の手に熱い涙が流れてくる。無理もない――――こんな残酷すぎる光景、今までに見たことがない。
「酷いよ……こんなのあんまりだよ。あの人たち、そんなに地球人わたしたちが憎いの……!?」
「……澪」
 むせび泣く澪を、『草薙の剣』メンバーたちは沈痛な面持ちで見つめる。
 しかし誰も声をかけられない。……かける言葉があるわけもない。
 皆もまた、湯沢の言葉を否定し切れないでいたに違いないのだ。それが無性に悔しくて、和也はきつく歯噛みする。
「悩んでいる場合じゃないですよ、コクドウ隊長」
 そんな和也に、この場で唯一いつもの――いや、むしろいつにもまして――冷たい冷静さを保っているルリは、「来ます」と視線で後ろを示す。
 振り仰ぐと、ダッシュローラーの甲高い唸りを上げて追撃してくるジョロが二機。昆虫類の口を模したカバーが開き、機銃の黒々とした銃口が顔を覗かせる。
「ターゲットにされた……! みんな、頭を下げて!」
 和也の叫びに応じ、全員が可能な限り姿勢を低くする。その一秒後に激烈な銃撃が始まり、轟音と共に移動店舗の上半分ほどが蜂の巣にされる。
 致命傷を狙って上部を狙ったそれは、和也たちに当たりこそしなかったもののコーヒーメーカーに穴が開き、そこから噴出した熱々のコーヒーが和也たちを襲った。
「熱い!」
「澪! くっ!」
 澪がコーヒーを浴びないよう咄嗟に庇う。厚い冬着が多くを受け止めるも、むき出しの首筋や頬をコーヒーが焼く。火傷の痛みに和也が顔を歪めた数秒後、奈々美が穴の開いたコーヒーメーカーを外へ投げ捨てた。
「和也ちゃん、顔が……! 火傷したの!?」
「大したことない。それより澪と、ホシノ中佐はそのまま姿勢を低く! 特にホシノ中佐は絶対敵に顔を見られないように!」
 ルリの姿を極力隠し、和也は追ってくるジョロの足へ集中射撃を命じる。息の合った七人の一斉射がジョロの足をもぎ取り、損傷を与え、片方三本の足を失ったジョロの一機が後方へ置き去りにされていく。
 続いてもう一機を撃――――とうとした時、そのジョロは六本の足をかがめ、その体躯からはかけ離れた身軽さで跳躍。その姿が消えたと思った刹那、ガゴン! と強い衝撃が移動店舗を揺さぶり、和也は思わず尻餅をつく。
「くそっ、上に乗っかられた!」
 大きくへこんだ屋根がみしみしと嫌な軋み音を立て、次の瞬間屋根全体を引き裂いて、ジョロが体を店舗内にねじ込んでくる。
「くそったれ!」
 烈火が叫び、ジョロの頭を力づくで外に向かせる。ドロロロロロロッ! と重低音で機銃が吼え、その弾は和也たちの横を掠めて道路を抉る。
「……そのまま押さえつけていてください」
 機銃を和也たちへ向けようと激しく体を動かすジョロへ、美佳が手にしたノートパソコンからジャックを引き出しつつ駆け寄り、ジョロの首元で剥き出しになったケーブルへとそれを接続。タッチパネルに指を走らせる。
「……く、プロテクトが存外に硬い……制御系へのアクセスが……っ!」
 ジョロの制御を奪おうとしているのだろう美佳へ、そうはさせまいと前脚が振り下ろされ、それを奈々美が掴んで止める。
 和也は、無理だ、と美佳を止めようとした。しかしその横をルリが通り過ぎ、「失礼します」と美佳のパソコンへ自分のコミュニケから延ばしたケーブルを差し込む。
「ナデシコBにデータリンク。プロテクトの解析開始……解析終了、制御系統へのアクセス成功したので、思考ルーティンの上書き、お任せします」
 一瞬にしてジョロのプロテクトを突破してのけ、改めて電子の妖精の力を見せたルリはそれを誇るでもなく再び身を隠す。
 そこへ「新手です!」と妃都美の叫ぶ声が聞こえた。
「上空からバッタが二機! さらに後方から、兵員を乗せた車両が三! まだ集まってきています!」
「おいおいおいおい、オレたち集中攻撃じゃねえか!? 何であいつらオレたちに向かって来るんだよ!」
『ナデシコBより『草薙の剣』! 聞こえますか!?』
 慌てふためく烈火を遮るように、ハーリーからの通信が入る。
『敵の動きが妙です――――皆さんの近くにいる敵が、一斉にそちらへ向かっています! 艦長が見つかったんじゃないですか!?』
「烈火の言う通りか……しかし、ホシノ中佐の顔は見られてないはず」
 答えた和也に、いいえ、とルリはすまなさそうに首を振る。
「多分私のせいです。私がアキトさんの所在を人に聞いて回った時、火星の後継者に顔を見られたのだと思います。……すみません」
 あの時か、と和也も納得がいった。
 ルリを周りが見えなくなるほど混乱させる、あのアキトという男に興味はあったが、今はそれどころではない。
「過ぎたことは仕方ありません。それよりホシノ中佐の存在がバレたなら、敵もこちらへの攻撃に全力を挙げてくるでしょう。エステバリスの援護は来ないんですか?」
『もう向かってますよ! でもタカスギ少佐のエステバリス隊も敵と交戦中なんです! 合流するまで何とか持ちこたえてください!』
「でしたら、今は“戦”の一字あるのみですわね」
 絶体絶命の状況で、美雪は薄く笑う。その時美佳が車体に取り付いたジョロの制御を奪い取り、そのミサイルが上のバッタ二機を粉砕した。
 それを合図にしたように、美雪は移動店舗から身を躍らせた。後方から追ってきた車両へ飛び移り、驚く火星の後継者兵を両手の『暗殺者の爪』で首を切り裂き仕留め、さらに火星の後継者兵が持っていたRPGを拾い、さらに一台を粉々に粉砕――――そのまま奪った車を増速させて戻ってくる。
「カゲモリ伍長の言う通りです。とにかく突っ切っちゃいましょう」
「あたし民間人なんだけどね……って、ひゃあああああっ!?」
 ガガガガン! と銃弾が車体を叩いて火花を散らし、マユミが悲鳴を上げる。
 後ろから追って来る車の中から、歩道から、ビルの窓からまで火星の後継者兵が姿を現し、和也たちの移動店舗目掛けて四方八方から銃撃を仕掛けてきたのだ。それに対し「応戦しろ!」と和也の号令一下、『草薙の剣』も必死の反撃を始める。
 世界が赤く染まった。眩い銃火マズルフラッシュと乱舞する曳航弾が視野を埋め尽くし、銃声と弾着音で聴覚が飽和する。
「ちくしょーっ! どこのアクション映画だこれは!」
「B級映画なら車両は不自然なほど被弾に強いが、現実はそうもいかんようでありますぞ、隊長!」
「弾幕を張れ! 追ってくる奴らを接近させるな!」
 和也たちは懸命に弾をばら撒いて応戦。さらに制御を奪ったジョロを後ろにつけて守らせる。
 とはいえ、火力が違いすぎる。移動店舗にもジョロにも見る間に弾痕が刻まれていく。このままでは、確実にやられる。
 追ってくる奴らを何とかしないと……和也がそう思ったその時、「まっずーッ!」と運転席からマユミの声がし、次の瞬間車体が急に左右へぶれた。
 和也は気が付かなかったが、この時火星の後継者兵の奪った車両が道の左右から現れ、移動店舗の進路を塞いだのだ。マユミは咄嗟のハンドル捌きによってその真ん中をすり抜けたが、急なS字カーブは後ろで応戦していた和也たちの足元を大きく掬った。
「わっ、ああああ――――――――!」
「和也ちゃん!?」
 悪くしたことに、床にこぼれたコーヒーで足を滑らせ、移動店舗のカウンターから放り出された和也の腕を掴んだのは澪だった。しかし澪の細腕は和也の体重を支えきれず、もろともに車外へ落ちかけたところを、奈々美が澪の足を掴んで止めた。
「澪ちゃん! 絶対にその手離さないで!」
「解ってる! 死んだって離さないよ!」
 靴先が道路に擦れる引き回し状態の和也を、腰まで車外に出た格好の澪が歯を食いしばり、両手が青白くなるほど力を込めて懸命に繋ぎ止める。奈々美は澪と和也をなんとか引き戻そうとしているが、彼女は右手に銃を持ったまま応戦している。さすがの奈々美でも左手だけでは少しづつ引き戻すのが精一杯らしかった。
 他のメンバーたちは応戦に手一杯で、和也たちを助けている暇がない。一時的にせよ足を引っ張る形になってしまった自分にくそ、と内心で毒づいて――――それまで見えなかった左方向に、建設中で骨組みだけのビルが見えた。
「あそこなら……奈々美! 次の交差点を左に曲がるよう言って!」
「あ!? 何で!?」
 いいから早く! と怒鳴った和也に、奈々美は訝しげな顔をしつつも「次左に曲がって!」と自慢の大声でマユミに伝える。
 火星の後継者兵の乗った車両が、一台スピードを上げて向かってきたのはその時だった。気付いた楯身たちが攻撃を集中するが、車両は火線を逃れて移動店舗の左側面に回る。
 右の路肩に停車して店を開く構造になっている移動店舗にとって、左側はイコール裏側だ。窓らしい窓がないため、楯身たちは一切反撃できない。死角に位置取った火星の後継者兵たちは容赦なく銃撃を始め、ただでさえ穴だらけの車体がますます風通しがよくなってくる。
 途端、マユミの怒声が銃声の中から和也の耳に届く。
「何すんのよこの野郎!」
 ドガン! と一際強い衝撃が移動店舗を襲い、「うわっ!」「きゃあ!」と悲鳴が上がる。
 マユミが急ハンドルを切り、敵の車両に体当たりしたのだ。その衝撃で澪の表情が苦悶に歪み、和也を繋ぎとめる手が緩む。
「どきなさい! どけってんでしょうがオラア!」
 マユミはさらに二度三度と体当たりをかまし、そのたびに和也の手が澪の手から抜けていく。
「揺れるわよ、捕まってて!」
「て、店員さんちょっとまっ……うわああああああっ!」
 和也が止める間もなく、移動店舗は和也が指示した交差点に侵入――――派手にドリフトを披露して交差点を左へ。これについていけなかった火星の後継者兵はハンドルを切りそこね、ぎゃあー! と叫びながら信号機の柱に頭から衝突した。
 しかし、その急すぎる動きは強力な遠心力を生む。「ああ……!」と絶望の声を漏らした和也と澪の手がついに離れそうになり――――瞬間、別の手が和也の手を掴む。
「く……っ」
「ホシノ中佐!?」
「ルリさん!」
 意外にも、ルリがカウンターから上半身を乗り出し、和也の腕を掴んでいた。腕力では澪と同じかそれ以下のルリだが、この状況での助力は心強い。「いいわよ。そのまま引っ張って!」と言った奈々美に従って、和也の体を車内に引き戻しにかかる。
 そしてその時がちょうど、和也が狙っていた時でもある。
「美佳! ジョロのミサイルであのクレーンを撃て!」
 和也の命令に、頷くより早く美佳はノートパソコンに指を走らせてジョロに指令。すでに満身創痍だったジョロは、機械ならではの忠実さで残ったミサイルを全弾発射した。
 狙ったのは、今まさに和也たちの移動店舗が通り過ぎようとしているビルの建設現場。そこに骨組みとなる鉄骨を運び入れようとしたまま止まっていたクレーンの支柱だ。
「墜ちろ――――――――!」
 叫ぶ和也の前で、数発のミサイルに支柱を破壊されたクレーンからは上のアームと、それの吊り下げていた鉄骨が地上に落下する。移動店舗はそれらが墜ちるより早くその下を通り抜け――――
 破壊的な音が幾つも轟く。追ってきた火星の後継者の車両と虫型兵器は落下物の真下へ突っ込む形になり、巨大な鉄骨に押しつぶされ、あるいは串刺しにされて動きを止め、小さな爆発と共に黒煙を吹き上げた。
「やったあ!」
「見たか!」
 自然と歓声が上がる。
「やるじゃんあんたたち! さすが軍の特殊部隊ね!」
「いや、店員さんのドライビングテクも大したものですよ。おかげで助かりました」
 死に掛けたけど、と小声で言い添え、和也はルリと澪に向き直った。
「二人ともありがとう。さすがに死ぬかと思ったよ」
「ううん。手が痛いけど和也ちゃんが無事でホントによかった……」
「……無事で何よりです。お礼は戦いで返してくださいということで」
 異口同音にルリと澪は答える。その横では奈々美が「ちょっと、あたしは?」と口を尖らせていた。
 やがて轟音と共に頭上をサブロウタのスーパーエステバリスがフライパスし、この場は助かった、とひとまずは思った。



 やっとの思いで辿り着いたバッテリー・パークも、別の意味で戦場だった。
 あちこちが焼け漕げ、ミサイルの残骸が散らばる芝生の上に多くのニューヨーク市民が、ここを守るエステバリスの姿を見て集まってきている。その中には怪我を負った人も少なからずいて、治療もできない中大声で助けを求めていた。
 広場の片隅には和也たちを回収に来た『ブラックフット』大型輸送ヘリが駐機していたが、その周りには安全なところへ乗せていってくれと群衆が詰め掛け、和也たちは人混みを掻き分けてヘリに乗らなければいけなかった。
「これで全員ですね!? すぐに離陸します!」
 ロードマスターが合図し、ヘリが離陸しようとローターの回転数を上げる。すると群集が口々に声を浴びせてきた。
「お願いだ! 乗せてくれ! 金ならいくらでも出す!」
「どうかこの子だけでも助けて!」
「自分だけ逃げる気か!? 兵隊なら市民を守れ!」
 懇願に罵声。要求や悪罵が浴びせられる。自分と、近しい者だけ助かろうと他人を押しのける姿は浅ましいが、その中には手足を失い血を流す人も存在した。
「ねえ、せめて怪我してる人だけでも……」
 澪がそう言ったのも当然だろう。しかし和也は「ダメだ」と一蹴する。
「一人乗せたら際限がなくなる。ここで暴徒化されたらヘリを壊されかねない。ここは他の部隊に任せるしかないよ」
「だけど……」
「助けたくないわけないだろ!?」
 思わず声を荒げてしまい、澪がびくっと身を竦ませる。「……ごめん」と言った声は、澪の言葉と重なった。
 ヘリが人々の声を振り切って離陸する。高度が上がるにつれ、戦場と化したニューヨークの姿が後部ランプドアから一望できた。
 海から見た時とは、ニューヨークはそのおもむきを一変させていた。町のそこかしこで黒々とした煙が上がっている。空高く聳えていたビルディングが火を噴き、脆くも倒壊していく。その下へ向けて、虫型兵器が銃撃を浴びせかけている。世界の首都は今、破壊と暴力が支配する、殺戮の坩堝と成り果てていた。
 地獄だ――――和也は吐き気をぐっと堪える。これが地獄絵図でないなら、一体何と呼べばいい。
「これが……あんたのやりたかった事なのか……!」
 ぎゅう、と銃のグリップを握る手に力が入る。
 今ここで湯沢を撃ってこの地獄が消えるなら、今すぐそうしたかった。

「こんな事が僕たちの望んでいた事だって言うのか! 湯沢――――――――ッ!」










 あとがき(なかがき)

 まだだ! まだだあ! もっと戦果を! もっと戦火を! な15話中編でした。もう今シリーズ最大級の大破壊と大殺戮です。

 和也と澪はアキトとニアミスしましたが、お互いに素性を知らないまま別れました。全てを知っているのは今のところルリだけですね。

 今回劇ナデで少しだけ活躍した、三石さんボイスのあの人がゲストで登場です。ニューヨーク側の人間として説明してくれる役が必要だったのですが、ある意味予想以上に目立ってくれましたねぇ……

 ニューヨークでイマイチうまく行っていない木星人移民の現状を見て、また一つ和也たちの悩みの種が増えました。地球人のお友達と木星人としての感情との間で板ばさみ状態です。
 この手の問題に造詣が特別深いわけではないですが、和也たちの根幹に関わる問題ですので、なんとか答えを出さないといけません。

 次回、戦場と化したニューヨークに響く助けを求める悲痛な声。ナデシコ部隊は、『草薙の剣』はニューヨークと市民を救えるか!?
 第一部クライマックス的な『結』の章。お楽しみください。

 それでは、遅ればせながら時ナデ再開おめでとうございます。私も毎回読んでますよー。





おまけ 企画段階の没シーン

 破壊的な音が幾つも轟く。追ってきた火星の後継者の車両と虫型兵器は落下物の真下へ突っ込む形になり、巨大な鉄骨に押しつぶされ、あるいは串刺しにされて動きを止め、小さな爆発と共に黒煙を吹き上げた。
「やったあ!」
「見たか!」
 自然と歓声が上がる。
「やるじゃんあんたたち! さすが軍の特殊部隊ね!」
「いや、店員さんのドライビングテクも大したものですよ。おかげで助かりまし……」
 お礼を口にしかけた和也の言葉が、途切れる。
 その目が見開かれ、顔が戦慄に引きつり、切迫した叫び声が出る。
「ちょ、ちょっと店員さん! 前見て!」
 へ? とマユミが前に向き直る。
 その時にはもう、突き当たりの建物が目の前にあった。「アーッ!」と悲鳴を上げてブレーキを力一杯踏み込むも、速度の上がりすぎた移動店舗は止まりきれずに建物の中へ頭から突っ込んだ。
「うわああああああ――――――!」
「きゃああああああ――――――!」
 十人分の悲鳴。そして衝撃。和也は今度こそ車内から放り出され、「むぎゅっ!?」と声を漏らした。
「あいたたた……最後の最後でこれかよ……」
 なんか柔らかいのがあって助かった、と体を起こす。するとなにやら石鹸のようないい香りがして――――

 裸の女の人が、目の前にいた。

「……え?」
 思考が一瞬、硬直する。
 落ち着いて、まずは状況を把握する。今の状況――――裸の女の人を、和也が押し倒したような状況だ。
 周囲を見る。湯気の上がる空間の中、何人もの女の人たち――もちろん全員裸――が、一様に驚いた顔で和也を見ていた。
 つまり移動店舗が突っ込んだここはお風呂場で、和也は車から投げ出された拍子にこの人を押し倒してしまったわけで、要するについ今しがた和也はこの金髪女性のふくよかな二つのふくらみの間に顔を突っ込んでいたわけでその――――
「…………」
「…………」
 金髪女性の顔が、羞恥と怒りに赤く染まっていく。脳内に危険を知らせる警報が鳴り響き、和也は、
「……えっと……は、ハロー?」
 当然、悲鳴と共に平手打ちを食らい、桶やら何やらがあめあられと飛んできて、和也は一目散に逃げ出した。

「何でニューヨークにジャパニーズ・銭湯があるんだあ――――!」



 緊迫したシーンの連続なので、緊張感が削がれるシーンは削除。以上おまけでした。









感想代理人プロフィール

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代理人の感想
まー、有史以来存在する問題にそう簡単に答えを出されたら、先人達としても立つ瀬がない訳で。
人類というのはつくづく救いがたい。

にしても派手というか・・・これだけの大破壊は映画でも中々見ませんな。
堪能させて頂きました。



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