濃密な薬品臭の充満する部屋の中、心電図がピッ、ピッ、と命の鼓動を刻んでいる。
 ナデシコC艦内、集中治療室――――激しい戦闘の矢先だった事もあり、居並ぶベッド全てに浅くない傷を負った怪我人が横たわっている。それでもベッドの数が足りず、布団を敷いて床に寝かせている怪我人が少なからずいる事からも、ほんの少し前までこの部屋がどれだけの修羅場であったかが伺えた。
 苦痛に呻いていた怪我人たちも、今は薬で痛みを忘れて眠っている。永遠に眠ってしまった者はすでに別の部屋へ移した後。
 そんな、生と死の狭間の空間の真ん中に、静かに仰臥していたイネス・フレサンジュ博士は、弱々しくも確かな意思を秘めた目で、傍らに立つ少女の顔を見ていた。

「博士さん……!」

 そんなイネスの姿を見た途端、露草澪はイネスの手をとって呼びかけていた。
 戦闘中に撃たれ瀕死の重傷を負ったイネスが意識を取り戻したと知らされたのは、『イワト』での戦闘終結から数時間後の事だった。
 いまだにその容態は予断を許さず、本来ならまだ面会を許せる状態ではなかったが、イネス本人が一刻も早く話をしたいと強く希望していると聞かされ、澪一人だけがイネスの前に通されたのだった。
「ツユクサ……さん。よかった……肝心な事を、伝えそびれるかと思ったわ……」
「そんな、死ぬみたいな事言わないで……!」
「……泣いてるのかしら? 優しい子ね……でもあなたは……私のために泣く必要なんてないのよ……」
「え……?」
「私は……自分のやって来た事に後悔なんてしてない……ざまあみろって思った事もあるし、受ける恨みは甘受するつもりだった……」
 だけど、とイネスは言う。
「あなたには、許しを請わせて頂戴……」
「許し? 何を許せって言うんですか?」
「あなたのお父さんには……殺される謂れなんて何もなかった……あなたには罵倒されても、殺されても仕方ない……でもこれだけは……解ってほしいの。彼はただ……」
 そこで、ウッ、とイネスは苦しげに呻き、次の瞬間に血の混じった咳をして言葉を途切れさせた。すぐさま救護兵メディックが駆け寄ってくる。
「まずい、心音脈拍、共に低下! 呼吸も弱まってます!」
「人工呼吸器再装着しろ! 助細動機を!」
 すみません、退室してもらえますか――――必死の表情を浮かべた救護兵に促され、澪は大人しく従うしかなかった。
「博士さん……」
 イネスを案じる澪の声は、誰にも届かなかった。



 機動戦艦ナデシコ――贖罪の刻――
 第十八話 出会い、繋がり、こころ 前編



「こちらナデシコC。タカスギ少佐。どんな様子ですか?」
 ぴんと緊張した空気が満ちるナデシコCブリッジにて、ホシノ・ルリ中佐は待ちきれずにそう訊いた。
『――――こちらタカスギ。ちょうど遺跡最深部に到達したとこです。今確認します……』
 帰ってきたのはタカスギ・サブロウタ少佐の声だ。いつも飄々とした雰囲気を身に付けている彼だが、今は余裕がない表情をしている。
 戦闘が終わって数時間。既に逃げ遅れて取り残されていた敵兵もあらかた投降するか処理され、安全は確保されているが、この先にあるはずの物の有無次第で今後の戦略が大きく変わってくる。それだけに緊張の一瞬だった。
 程なくして聞こえてきた声は、安堵の響きがあった。
『よかった。例の遺跡ユニットは無事だ……火星の後継者の奴ら、持ち出せなかったみたいだな』
 それを聞いて、ブリッジの誰もがはあー……と安堵の息を付いた。
 サブロウタのスーパーエステバリスからのカメラ映像には、遺跡深部に多数の重機が持ち込まれ、作業を行っていた形跡はあった。だが肝心のユニットは以前と変わらず鎮座している光景が写っている。戦闘が始まるまでに運び出せなかったのだろう。これで最大の懸念はなくなった。
「一安心ですね。それでは帰艦して下さい。本艦はこれから予定通り火星大気圏を離脱。逃げる火星の後継者艦隊への追撃作戦に加わります」
『了解。これより帰艦します』
 通信が切れ、ルリはふう、とIFSシートに背を預ける。――やっと、この時が来た。
 友軍艦隊への待ち伏せに失敗した火星の後継者艦隊は、その後いくつかの小集団に分かれ、散り散りに逃走を図った。
 それを追う軍も広範囲に艦隊を展開し、ナデシコCはいつも通りと言うべきか、単艦での捜索、遊撃を命じられた。数百隻の艦隊で火星から木星に至るまでの宙域を封鎖し、完全に包囲、殲滅する。『オペレーション・スルト』と名付けられたこの作戦は、そのモチーフとなった炎の巨人の如く、全ての敵を焼き払い、最後の戦争を終わらせるだろう。
 一番の懸念は火星の後継者が『イワト』から持ち出した遺跡ユニットで、またボソンジャンプを使って何かしてくる事だったが、その心配もなくなった以上、もう挽回する策は火星の後継者には残されていまい。
 後は首班の甲院薫を捕らえるか殺せば敵は完全瓦解。裏切り者の国も諦めるだろう。ルリの待ち望んだハッピーエンドだ。
「……あと少し、ですね……」
 あと少しで全てが報われる。ルリはその喜びを顔には出さず、ただ小さく呟いた。
「ルリちゃん」
 突然背後から名を呼ばれ、ルリは思わずビクッと身を震わせた。
「……なんでしょう、提督」
 IFSシートの上で首を巡らせ、後ろを振り返って言う。
 後ろからルリを呼んだのはミスマル・ユリカ准将だ。特に何をしたわけでもないのに、まるで親に怒られそうになっている子供のようにルリは緊張していた。
「あの子たち――――『草薙の剣』は今どうしてるかな」
 ほっと嘆息する。――なぜ安心する必要があるんだろう。後ろめたい事なんて何もないはずなのに……
「……あの人たちは、今は個室で寝ています。用があるなら呼びますが」
「ううん。聞いてみただけだから寝かせといてあげて。最初に通信で話したきりだから、後でちゃんと挨拶しておかないとね……」
 何故だか知らないが、ユリカは和也たちとの顔合わせを非常に楽しみにしている。思えば地球を発った時からユリカは、あの七人の事をしきりに気にしていた。
 少しだけ、面白くない気分になった。



 ――――十二時間後。

「なので、この式を解くためには――――」

 ナデシコC艦内、ブリーフィングルーム。
 いつもなら軍の任務遂行のための作戦会議などが行われる部屋なのだが、この日は少々本来の用途と異なる使われ方がされていた。
「まさか、ナデシコに乗ってまでハルカ先生の授業を受ける羽目になるとは……」
 数学の教科書に顔を突っ込むような姿勢で、下手な戦闘任務よりよほど苦しそうな顔をして、黒道和也はポツリと呟いた。
 こっそりと視線を巡らせる。楯崎楯身や真矢妃都美はいたって真面目に、黙々と問題を解いている。神目美佳も抜かりなく用意されていた点字の教科書を使って支障なく授業を受けている。影守美雪はあまり話を聞いているように見えないが、これでも問題はそつなく解いてしまうのだからカンニングを疑ってしまう。一見知能派からは縁遠い存在に見える田村奈々美も実は頭がいいほうで特に苦しんでいる様子はない。唯一山口烈火だけが、和也と同じように教科書に顔を突っ込んで獣のように唸っていた。
 何故こんな事になっているのか……と訊かれたら、いつの間にかこうなっていた、としか答えようがない。
『イワト』での戦闘が終わった後、『草薙の剣』は簡単な報告を済ませた後、それぞれに宛がわれた個室で休んだ。丸二日の間張り詰めていた緊張の糸が切れ、肉体的な疲労もあって全員が泥のように眠り、目覚めた時には翌日の朝。その頃にはもう和也たちの処遇について大体の事が決定していた。
 そもそも本来統合軍の和也たちが、上から出向の命令があった訳でもないのに宇宙軍の戦艦に乗って作戦参加する、という時点ですでにおかしいのだが、本来の乗艦であるフリージアは『イワト』での戦闘の折に少なからぬクルーが死傷しており、艦そのものも戦闘のあおりで損傷して動ける状態になかった。
 どこか別の艦に乗せてもらえないのか? と思ってはいたが、それを後回しにして寝ていた間に、どうやら提督であるミスマル・ユリカ准将が和也たちをナデシコCに乗せるようにと本人たちの頭越しに決めて、統合軍の了解まで取り付けてしまったらしい。
 まあ特に断る理由もなかったので、そのまま流されてやる事にした。
 そんな成り行きで乗艦した戦艦の中で、和也たちはかつての教師、ハルカ・ミナトから授業を受けているのだった。
「しょーがないでしょ。もう卒業しちゃった澪ちゃんはともかく、わたしはまだ在学中なのよ。一昨年は夏休み中だったからよかったけど、今は三月なんだからヘタしたら留年よ」
 そう言ったのは、この中では唯一『草薙の剣』メンバーでない人間――――白鳥ユキナだ。
 ユキナは現役の学生でありながら、学校をほっぽってナデシコに乗り込んだらしく、地球にいつ帰れるのか不透明な現状、このままでは単位が得られない。
 つまりこの授業はユキナのため――――だけではない。そもそも木星でエリート候補生だったユキナは人並み以上に勉強が出来る。今の学校での単位にも余裕があるはずで、心配しなくても留年はまずないはずだ。
 つまり理由はほかにもある。
「感謝しておりますよ。白鳥殿。それとハルカ教諭にも。この戦いが終わった後の事を考えれば、高卒の肩書きを持っておくのは悪くありませぬからな」
 そう、楯身は二人に礼を言う。
 第一オオイソ高校の学籍などとっくの昔になくなっていると思っていたが、どうもミナトの計らいでそのままになっているらしい。
 本人曰く、『帰ってこれるように』という事だ。その厚意は素直に嬉しいと思うし、ここで授業を受ければ単位もくれるという。特にここにいない澪を除けば唯一の三年生で、本当ならもうすぐ卒業となるはずだった楯身はこの計らいを非常に有難がっていた。
 ――つまり楯身は、戦いを終えたらすぐに軍を辞めるつもりで、その後の事まで考えてるわけか。
 火星の後継者を壊滅させた、その後の事について和也はまだあまり考えていない。軍の予算が減るにしても特殊部隊隊員であり、おまけに軍事機密をいろいろ抱えている和也たちがすぐにリストラされるとは思えなかったし、その時になってからゆっくり考えればいい、あるいはもう自分の居場所は軍隊だけと割り切って定年まで在籍してもいい、と思っていた。
 そんな和也を差し置いて、楯身はいつの間にかもっと先のプランを描いていたのだ。
 すると「戦いが終わった後ねえ……」と奈々美が呟いた。
「そういうのを考えるには早……い、でもないのかな。終わりに近づいてるのかしら」
「……少なくとも、もうあと一息のところまで来ている、と言っていいと思います……敵の大将は、もう目の前ですから……」
「ここでオレたちがうまくやれば、火星の後継者は壊滅、美佳もオオイソに帰れてめでたしめでたし、ってわけだな」
 美佳の後で、烈火。
 戦いが終わった後の事なんて、少し前なら考えられなかった。戦いがいつ終わるかさえ見当もつかないのに、その後の事を考える余裕などあるわけがない。
 今、ようやく“戦後”を少しでも考え始める余裕が生まれてきたのかもしれない。
 とはいえ、懸念がないわけでもない。
「逃げられなければ、ですけどね……特にあの人が、このまま終わるとは私にはどうしても思えなくて」
 妃都美が口にしたあの人、とは言うまでもなく火星の後継者の首班、甲院薫の事だ。
 あの策略家が、このまま終わる訳がない――――彼の直接の教え子である『草薙の剣』の面々にとっては、これ以上ないほど説得力のある言葉だ。
「確かに。相手が相手なだけに最後まで油断なりませんわね」
 あの不遜な美雪でさえ、過小評価を口にできない相手なのだ。
 特に和也は……剣で直接戦えば軽くあしらわれ、戦術では全てにおいて先んじて手を打たれ、挙句膝を折って屈服しかけた。
 奴に勝てなければ、戦後も将来も無いのだ。
「次は絶対に――――あてっ」
 途端、いきなり飛来した電子チョークが和也の頭にこつん、と当たった。
「みんな、授業中はおしゃべり禁止だよ」
「……はあい」
 頭をさすりながら和也が言うと、周囲からくすくすと笑い声が漏れた。
 なんだか、オオイソに帰ってきたような気がした。



「和也ちゃん、みんなもお疲れ」

 ミナトの授業が終わって廊下に出ると、澪が待っていた。
「私も出ればよかったかなあ。なんか一人だけ除けものみたいで寂しいよ」
「余裕綽々なこと言ってくれるね……」
 数ヶ月前にもう必要なだけの単位を取得して早期卒業してしまった澪は、いまさら授業を受ける必要が無い。
 なのであの場にもいなかったのだが、当の本人はそれを残念がっていた。絶望的に苦手な数学の授業に辟易していた和也には、澪の余裕がうらやましい。
 そんなやり取りを交わしていると、ユキナが割って入ってきた。
「あれからしばらく経つけど……良くも悪くも変わってないわねー、二人とも」
「そ、そうかな……」
「そうよ。せっかく私が和也ちゃんたちのいるナデシコに乗れるようにしてくださいって、ユリカさんにお願いしてあげたのに」
 ――聞き捨てならない事を聞いたような。
「お願いしたって……そういえば澪が統合軍に入って、すぐに僕たちの所に来れたのが不思議だったけど……」
 軍は適材適所が原則だ。まして遊びではないのだから、希望した通りの場所で働けるとは限らない。その上で狙ったように和也たちと同じ艦に乗れたのは、澪の能力もさることながら運も相当よかったのでは思っていたが。
 しかしまさか、と訝る和也に、ユキナはふふん、と自慢げに胸を逸らした。
「ナデシコのみんなとは和也ちゃんたちよりずっと長い付き合いだからね。みんながナデシコBに乗ってるって聞いた上で、澪ちゃんも一緒にしてあげてってユリカさんに頼んだのは、わ・た・し、なのよ」
 とんでもない事をさらりと言ってのける。ユリカさん、といえばこのナデシコCに提督として乗り込んでいたあの准将の事だろう。しかも彼女を通じて統合軍の人事にまで要望を出せるなど相当に強いコネクションだ。
 そもそもユキナが軍服を着てナデシコCに乗り込んでいる事からして驚いたが、話を聞くともっと驚いたものだ。
 なにしろ彼女はナデシコCでは通信士で、ホシノ・ルリ中佐だけではなく他のクルーとも和也たちより付き合いが長い。ついでに言うなら木連の英雄、白鳥九十九の妹――――
 もう一つおまけに、ハルカ先生は航海士――――戦争中は操舵士だったという。一年半前と一年前に二人で数日留守にしていた時はどこに行ったのかと思っていたが、まさかナデシコCに乗り込んでいたとは――――
「……白鳥さんも、最初からこっち側の人間だったんだ」
「まーねえ」
 オオイソにいた時は、ユキナや澪は一般人で、自分たちこそ普通でない秘密を抱えているとばかり思っていたが、とんだ伏兵がいたものだ。……いや、考えてみればルリと友人という時点で察するべきだったか。
 ――しかしホシノ中佐もタカスギ少佐も、みんな知ってて黙ってたな。
 結局、知らなかったのは僕たちだけか……少し面白くない気分になる和也の横で、「それはそうと澪殿」と楯身が口を開いた。
「聞き辛くはあるのですが……フレサンジュ博士の様子は、いかがでしたかな」
 躊躇いがちに聞いた楯身に、澪は少し表情を曇らせた。それだけで返答は予想できた。
「……相変わらず。ぜんぜん目を覚まさないし、今後覚めるかも解らないって」
『イワト』で火星の後継者兵に撃たれて重傷を負ったイネスは、救護兵らの懸命な治療で何とか一命は取り留め、一時的ながら意識を取り戻した。そしてすぐに澪を呼んで、何かを伝えようとしたのだが――――その途中でまた容態が悪化し、結局、澪はイネスの伝えたかった事を聞けなかった。
 その後容態が安定しても、イネスの意識は戻らなかった。今はちょうど宇宙軍の病院船とランデブーして、他の負傷者と一緒にそちらへ移されている最中だろうから、もう話は聞けない。
 そうなる前に澪は様子を見に行ったのだが……結局、何も変化は無かったらしい。
「博士さん……わたしに何を言いたかったんだろう」
 イネスが最後に言おうとした、『許しを乞わせてほしい』という言葉――――澪に身に覚えはない。和也たちにも心当たりはない。
「オレたちに辛く当たってごめんね、とかじゃね?」
「あんた、バカ? だったら澪ちゃんよりあたしらを呼ぶでしょ」
 適当な事を行った烈火を、奈々美が一蹴する。
 結局、イネスが何を言いたかったのかは解らないままだ。
「……今は、病院船の軍医の方々にお任せするしかありますまい」
 そう、楯身。
「我々に出来る事は待つ事……そして、彼女が目を覚ました時によい知らせを届ける事でありましょう」
「結局そこに行き着くんですのね……」
 美雪は呆れたように苦笑していたが、楯身の言う通りだと和也も思った。
 イネスは和也に『やり遂げて見せろ』と言った。和也たちがいい木星人であるなら、それを行動で示せと。
 あれだけ木星人を恨んでいたイネスが、自分に木星人を認めさせるチャンスをやると言ったのだ。なら和也たちは、それに答えるべきだろう。
「昨日は負けたけど……今度はこのナデシコCと、たくさんの友軍が付いてる。次は必ず、火星の後継者を壊滅させるよ」
 応、と皆がそれぞれの表現で答える。昨日負けたにしては、悪くない雰囲気だ。
 ――ナデシコCの人たちには感謝しないとな……と思った和也の目に、ふと自動販売機が映り、それである事を思い出した。
「そういえば白鳥さん、ナデシコCで医薬品を貰うなら医務室だよね」
「ん? そりゃまあね……なんで?」
「いや、念のため確認をね」
 その場をごまかすため、「ちょっと飲み物を買うね」と皆に一言言って自販機の方へ。その受信部にコミュニケをかざすと、ピッ、と音がして飲み物のライトが点灯する。これでIDが読み取られて、購入可能になる仕組みだ。代金は次回の給料から天引きされる。
 そういえば成り行きでこっちに来たけど、IDとか給料ってどうなってるんだろう、と思いながらミネラルウォーターのボタンを押そうとした、その時――――
「はっ! 待った和也ちゃん! ストーップ!」
 ユキナの慌てた声。「え?」と和也が指を止めた刹那――――
 突然、ウィーンガシャン! と駆動音がしたと思ったら、和也の目の前で自販機が変形し、女性的なフォルムを持ったロボットに変形した。
「おおっ! 変形ロボ!」
 烈火はなぜか嬉しそうな声を上げたが、和也は反応できなかった。そんな彼らの前で「コンニチワ。ワタシ、マリー!」と自販機ロボが奇妙な合成音声を発した。
 次の瞬間、人間の女性で言う右の乳房部分が開き、その中からズドン、とネットが飛び出して和也を包み込む。そして両足から駆動音――――エステバリスのそれを小型化したようなダッシュローラーが回り始める。
「なんだこいつ何をする離せうわあああああああああああああ!?」
 ネットに包まれ身動きの出来ない和也は、そのまま走り出した自販機ロボに引きずって連れて行かれる。後頭部をガリガリ床にこすり付けられ「痛ででででででっ!」と和也が喚くも自販機ロボは一顧だにしない。
「隊長――――!」
「和也ちゃん――――!」
 後ろから楯身たちが追いかけて来る。助けて、と叫ぼうとしたが、その時自販機ロボが急に方向転換。和也の体が大きく横に振られ――――
「ごへえ!?」
 その拍子で和也は、通路の角にしたたか頭を叩き付けられ、意識を手放した。



「――――い、おーい。大丈夫かあ坊主?」

 ペチペチ、と頬をはたかれて目を覚ました和也が最初に目にしたのは、見知らぬ天井と見知らぬ中年男の顔だった。
 気を失っていたからよく解らないが、相当荒っぽく連れてこられたようで全身がズキズキ痛む。骨に異常がなさそうなのがせめてもの救いだ。
 辺りを見回すと、天井まで届きそうな高さと床の半分以上を埋める密度でダンボールやら棚やらが積み上げられた狭い空間で、一瞬物置かと思った。だがよく見ると和也に割り当てられたそれと同じ間取りの、ナデシコC居住区の男性用個室だと解った。
 部屋の隅には和也を捕らえて連れてきたあの自販機ロボが佇立していて、思わずびくっと震えたが、微動だにしないところを見ると電源が切れているらしい。
 そして、その自販機ロボを作って置いていたのはどうやらこの男らしい。殺すか、と一瞬本気で思ったが、敵ではないはずなので思いとどまった。
「……ここはどこ? あんた誰?」
 思いっきり不機嫌そうな声で訊ねる。
「ここはオレの研究所だ。そしてオレはナデシコ最高のメカニックにして天才発明家、ウリ――――」
「あーっ! やっぱりここにいたっ!」
 大仰なリアクションで名乗ろうとした男だったが、そこへ乱入してきたユキナの声に遮られた。その後ろから、楯身たちも顔を出す。
「うげ、なによこの部屋……狭い、それに汚い」
「典型的なダメ男の部屋ですね……」
 通路から部屋の中を見るや否や、奈々美と妃都美の女子二人が辛辣なセリフを吐く。床に転がっている和也の姿を見ても、二人は入りたくないようだった。
「無事でありますか隊長。怪我は……しておりますな」
「か、和也ちゃん、大丈夫? 頭割れてない? 骨も折れてないよね?」
 ありがたい事に楯身と澪、それにユキナは入ってきた。すると男が、「アーッ! そこ気をつけて! 作りかけのプラモが!」と叫んで、楯身は踏み潰しかけていたプラモデルをよけた。
「……白鳥さん。この人はいったい……」
 この人は、と言いかけたユキナを遮って、男が勝手に名乗る。
「あー、オレはナデシコの整備班長、ウリバタケ・セイヤだ」
「整備班長? 整備班長はサ――――」
「あいつはオレの一番弟子で、今は副班長だ。そういう事だから、よろしく頼むぜ」
 だいぶテンションの下がったウリバタケに、「はい自己紹介終わり!」とユキナが噛み付いた。
「ウリバタケさんっ! あのミサイル暴発させたロボットは電源切っといてってルリに言われてたでしょ! ていうかなんで味方をふんじばって行くのよ!?」
「いや、変形機構のテストだけでもやっときたくてな……あとIFFが効かなかったのは、未登録のIDが検出されたかららしいぞ。この坊主たち、乗組員登録したのか?」
「……あ」
 忘れてた。とユキナは顔を引きつらせる。
「ってあんたもかあっ!? この怪我どうしてくれあいてててて……」
 どうやら自販機ロボが和也を敵と認識したのはユキナたちブリッジクルーのせいらしい。怒鳴ろうとした和也だったが、怪我の痛みで声が出ない。
 すると烈火が、今は機能停止している自販機ロボをまじまじと見つめたり、コンコンと叩いたりしていた。
「へえ。捕獲ネットとダッシュローラーのほかに、腕に機銃、左胸には対機動兵器ミサイルが装備できるのか。艦内に敵兵や虫型兵器が侵入した敵の備えってわけだ。そしてカモフラージュとして自販機に変形する機能。正面装甲厚は12・7ミリに耐えられるくらいか?。こりゃ素晴らしい兵器だぜ」
 などと自販機ロボを絶賛した烈火に、ウリバタケと呼ばれた男はギラーン、と眼鏡の奥の目を光らせた。
「おお! お前さんはなかなか物が解るみたいじゃないか!」
「うげっ!」
 烈火の元へ駆け寄ったウリバタケに突き飛ばされて、和也は壁に頭をぶつけた。
「普段は自販機として艦内に置いといて、すわ敵が艦内に侵入した時、何も知らずに前を通り過ぎた敵を機銃でダダダダーッと蜂の巣に! んで虫型兵器が進入しても、このブレストミサイルでドカン! と一撃。この装甲なら歩兵の楯にもなりそうだ。こいつはきっと使えるぜおっさん。白兵戦のプロであるオレが保障する」
「嬉しい事言ってくれるじゃねえか。どいつもこいつも無駄な事に予算使うなって言いやがる連中ばかりで……艦内に敵が侵入するなんて今時まずありえない? 戦争中は虫型兵器に侵入されて中から沈められた艦がどんだけあると思ってやがる。ついこの間の戦訓をもう忘れたのかってんだよ」
「解る。その先入観が付け入る隙になるんだ……『イワト』でも思ったが、将来はボソンジャンプで敵艦内に戦力を送り込むやり方が必ず実用化される。その時に備えてこういう防衛システムの研究はやっといて損はないと思うね」
「くうー、お前さんとはうまい酒が飲めそうだ! ではこれからたっぷりと将来の艦内白兵戦について語り合おうじゃねえか」
 なにやら波長が合ったのか、酒まで待ちだして話し込もうとする烈火とウリバタケ。烈火はまだ未成年なのだから飲酒は止めるべきなのだが、その気にもならない。
 熱く語り合う二人を誰もが呆気にとられたような目で見ていた、その時。
「ウリピー! 頼んでたもの取りに来たよー!」
 突然開けっ放しの入り口から、また別の女の声がした。そこには始めて見る顔の女性が立っていて、部屋の中の様子を見るや「あれ? ずいぶんにぎやかだね」と巨大なメガネの奥の目を丸くしていた。
「おお、ヒカルちゃんか。出来てるぜ」
 えーとここに入れたっけか、と乱雑に積み上げられたダンボールの山に手を突っ込んだウリバタケが取り出したのは、なにやらガタイのいい学ラン姿の男のフィギュアだ。どういう趣味だよと一瞬思ったが、よく見ると和也は――そして他の面々も――そのキャラには見覚えがあった。
「あっ! それって天の川 光先生が『うるるん』で連載してる、『恋と学ランと仁義なき戦い』の竜戦寺 翔ですよね! 先月から出た新しいライバルキャラの!」
 でもフィギュアなんて出てたかな、と嬉々とした表情で澪が言った。愛読している漫画なので反応が早い。
 言われたメガネの女性も、「そうだよー」と嬉しそうだった。
「これはお店じゃ売ってないよ。ウリピーに頼んで作ってもらったの。作画の参考にしようと思って」
 ウリピー、というのはウリバタケの事らしい。腹を下しそうなあだ名だな、と和也は思ったが、当の本人は「ハッハッハ、オレ様にかかればフルスクラッチくらいお手の物よ」と気にしていないようだった。
「君、『恋と学ラン』好きなの?」
「はい。連載開始からずっと読んでます。他にも、天の川先生のマンガは全部読破してますし、みんなで二次創作の同人誌書いてコスミケに出したりして……」

 瞬間――――ギラン、と女性のメガネの奥の目が、光った。

 ――なんだ?
 ただならぬ気配に一瞬警戒感が沸くが、次の瞬間にはもうメガネの女性は何事もなかったように破顔していた。
「そうなんだー。嬉しいなあ、ありがと」
「どういたしまして……って、何でですか?」
 なんでこの人がお礼を言うのかと思ったが、次の瞬間メガネの女性はとんでもない事を口にした。

「天の川 光っていうのは、私のペンネームなんだよ」

「……はっ?」



 それは少し前、本物のホウメイ・ガールズと対面した時以来の衝撃だった。

「見ててね」
 メガネの女性――アマノ・ヒカルと名乗った――の手先がまるで独立した生き物のように動き、スケッチブックの上にペンを走らせる。見る見るうちに人の輪郭が出来、登場人物が形になっていく。
「うおおおお……! 生で生の先生が生スケブ書いてるぜ……!」
「こ、これがプロの技……Gペンを完璧に使いこなしていますね……!」
「ぬう、悔しいが自分とは技のレベルが違うと認めざるを得ませんな……」
 目の前で実演されたプロのマンガ家の技に、烈火、妃都美、楯身が感嘆の声を漏らす。
 あの後、ヒカルは自分が本物のマンガ家である証拠を見せるよと言って、和也たちを自分の部屋へと招いた。
 皆が半信半疑でヒカルに付いていったのだが、ただ一人ヒカルと面識があるらしいユキナは小走りにブリッジへと向かった。和也たちの乗組員登録を忘れていたと知って、慌てて直しに行ったのだろう。
 他にもう一人同居人の気配がある二人部屋には、確かにマンガ家が使う道具が一式揃えてあった。それを使ってスケッチブックにスラスラとイラストを書き始めたヒカルの筆使いは本物だ。何度か澪に付き合ってマンガを書いた経験のある和也たちにはよく解る。
 しかも天の川 光。澪が誰より尊敬するマンガ家……
「ほ、本当に天の川先生なんですね……! ずっと大ファンでした……!」
「応援ありがとうね。はい、書けたよ」
「す、すごい! 大事にします……!」
 ヒカルが差し出したスケッチブックには、ヒカルの漫画の主人公とサインが見事なタッチで描かれていた。まさに世界に二つとないお宝を尊敬する人から受け取り、澪はこれ以上ないほど幸せそうな表情だった。
「これはいいものですわね。ネットオークションでいくらの値段がつくかしら」
「売らないよ!」
 無粋な皮算用をしていた美雪から、澪はスケッチブックを胸に抱いて守る。しばらくは盗まれないよう気をつける必要がありそうだ。
 と、不意に奈々美が口を開く。
「そういやあ思い出したんだけど、天の川センセって戦争中は従軍してたんだっけ。って事はその時からナデシコに乗ってたわけ?」
「そうだよ。こう見えてもバリバリのエステバリスライダーなんだからね」
「ん? つう事はあの時のエステバリス・カスタムのパイロットは先生なんすか!?」
 烈火が驚いて大声を上げると、ヒカルは事も無げに「そうだよー」と鷹揚に頷いた。
 統合軍から出た裏切り者、ロークサヴァー中隊を相手に、慣れない機動兵器戦で苦戦していた和也たちを助けた、二機のエステバリス・カスタム。パイロットもエース級の腕前だったが、その片割れは目の前のマンガ家らしい。
「それは……あの時はどうも。おかげで助かりました」
「見事な操縦技術でありました。相当な鍛錬を積んだとお見受けします」
 和也と楯身が礼を言うと、さすがにヒカルも「いやいやあ、お礼には及ばないよう」とくすぐったそうに返した。
「相当な鍛錬だなんて、今はマンガが本職だよー。エステちゃんに乗るのも一年ぶりだしー、今回も頼まれたからナデシコに乗っただけだよ」
「……本職泣かせな事を言いますね……」
 美佳が呟く。こういう人間を天才というのだろうか。
「じゃあ先生、また連載中止してパイロットやるんですか?」
 そう、澪が尋ねた。
 また、というのは火星の後継者の第二次決起の時、ヒカルが連載を一時休んだ事だろう。あの時もパイロットをやっていたであろう事は彼女の口ぶりから想像できる。
 訊かれたヒカルは、「んー、それなんだよねぇ」と困った顔になった。
「前の時は、実はスランプ気味で書けなくなっちゃって……逃げるみたいにナデシコに乗ったんだよね。……ああ、今はもう平気だから心配しないで。ただ、今回は急だったから担当さんに何も言わないで来ちゃったんだよね」
「え、それってまずいんじゃないですか?」
「うん。ヒジョーにまずい。最初はすぐ帰れるかと思ったけど、なんだか長引きそうだし。一応こっちで原稿は書くつもりなんだけど、アシの子たちもいないし……」
 あー、あたしだけだと大変だなー、原稿落とすかもなー、困ったなー、とわざとらしく頭を抱えて見せる、ヒカル。
 ――待て、この人まさか……
 さすがの和也も、ヒカルが何を言いたがっているかが解った。その前でヒカルは「フッフッフッ……」と怪しく笑い、和也たちに顔を近づけてくる。
「ねえねえ。君たちマンガ書いた経験あるんだよねえ? もしよかったらあ、ここにいる間だけでもアシスタントやらない?」
 やっぱり、と和也は思った。
 やりたい気持ちがないと言えば嘘になるが、アシスタントに時間を取られて任務に支障が出るのはさすがに困る。少し検討させてください、的な返事をしようとした和也は、
「あー……お力になりたいですけど任務におごっふっ!?」
 いきなり後頭部を押されて机と派手なキスをした。
「やりますっ! ぜひやらせてください!」
「微力な身ですが、お力になります!」
 興奮のあまり身を乗り出した澪と妃都美は、自分たちの手が和也の顔面を机に叩き付けた事も気付かず、勝手に承諾してしまう。
 ――ぼ、僕の立場は……
 隊長を置き去りにしたまま、部下たちは何人かがヒカルのアシスタントをやると決定してしまった。
 和也に決定権はなかった。


「まったく、皆さん今が作戦行動中である事を忘れてませんかしら……」
 ナデシコCの休憩室にて、美雪は誰に言うでもなくひとりごちた。
 澪たちは和也の意思を半ば無視してアシスタントをやる気で、それを聞いたヒカルは道具を取り出してさっそくとばかりに仕事を手伝わせようとしていた。
 このままでは自動的に自分も参加させられそうだと思った美雪は、面倒くさいのでこっそり抜け出してきたのだ。
「次は必ず火星の後継者を壊滅させる、のではなかったのかしら。たかがマンガなんかに浮かれちゃって……」
 愚痴を呟きながら、自販機にコミュニケをあてがう。先刻の和也の事もあって少し警戒したが、ユキナがもう仕事を済ませたのか何事もなくブラックコーヒーが吐き出された。
「楯身様も楯身様ですわ。幼稚園児レベルの絵心しかないくせに、よく性懲りもなく参加する気になれますわ……パスですわ、パス」
 ブツブツと誰に言うでもなく美雪は愚痴を漏らす。……そもそも、自分はなぜこんなにイラついているのだろうか。
 気持ちがどうも落ち着かないでいると、ふっとあの世から響くような囁き声がした。
「……パス?」
「ええ、パスですわ」
 一呼吸ほど沈黙があった。……そして。
「人がたくさん乗れる車……」
「それはバスですわ」
「イタリア名物の麺料理……」
「それはパスタですわ」
「ボールを手でドリブルしながらゴールに放り込むスポーツ……」
「それはバスケットボールですわ」
「壊す者、を意味する英語」
Bastarバスター
「サッカーなどでボールを味方選手に渡す事を」
「パス」
「合ってる」
「…………」
 美雪は振り向く。……ベンチに座って薄ら笑いを浮かべている、幽霊じみた風貌の女と目が合った。
 しばし、無言で見つめ合う。……そして。
「……エステバリスパイロット、マキ・イズミ……です」
「統合軍陸戦隊の、影守美雪ですわ」



 数時間後。

「よう黒道、久しぶりだな……って、どうしたその顔? また戦闘でも始まったか」
「……気にしないでください」

 ナデシコCの食堂にて、顔中に絆創膏をペタペタ張った痛々しい顔の和也を見て、月見うどんを手にやってきたタカスギ・サブロウタ少佐はそう訊いた。
 なんだか今日は戦闘中でもないのに傷が増えていく気がする和也だったが、ヒカルのアシスタントをやらせてもらえた事は悪くなかった。いつの間にか人数が減っていたが、いつもふらりといなくなる奴なので気にはしなかった。
 時間を忘れてマンガ作りに没頭し、空腹を思い出して食堂にやってきた頃には混雑のピークはとっくに過ぎていた。クルーでいつも満員の食堂には空席が目立ち、編み物をしたりしてゆったり休憩時間を過ごしているらしいクルーの姿も見えた。
 そんな遅い時間に食事を摂り始めた和也たちは、ちょうどルリ、ハーリー、サブロウタの首脳陣三人と鉢合わせたのだった。
「おお、真矢もいるか。『イワト』じゃ相変わらず大立ち回りだったな。一つ……」
「ホシノ中佐、隣いいですか」
 言い寄ってくるサブロウタを華麗にスルーし、妃都美はルリの隣に着席。生姜焼き定食に箸をつける。
「……あー、とにかくみなさん、今回も大活躍でしたね!」
 その場をごまかそうとしてか、ハーリーが必要以上に大きな声で言った。サブロウタは苦笑いしている。
「大活躍……かな。ナデシコCが助けに来てくれなかったら、僕たちは今頃あの世行きでしたよ」
 甲院に手も足も出ないまま負けた記憶が尾を引いていた和也は、賞賛を素直には受けられなかった。
「まあそう言うなって。お前らのおかげで人質は大勢助かったし、遺跡ユニットも奪われないで済んだんだ。十分よくやったと思うぜ」
 サブロウタもそう言ってくれたが……
「本当に、甲院は僕たちのせいで遺跡ユニットを諦めたのかな……」
「ん……何か気になる事でもありか?」
「正直、僕には甲院が何も得た物がないまま逃げたとは思えないんです。そもそも遺跡ユニットは目的ではなかったんじゃないか……そんな気がするんです」
「でも……火星の後継者が欲しがる物なんて、他に何かあるんですか? あの遺跡に」
 訊いてきたハーリーに、「それは解りませんけど……」と和也。
 見れば甲院をよく知らない澪を除いて、他のメンバーたちも似たような顔をしている。あの甲院がこのまま終わるだろうか……そんな不安を、『草薙の剣』は拭いきれないでいた。
 そんな彼らに、「甲院を捕まえて、聞き出せば解る事です」とルリが口を開いた。
「彼が何を考えていようと、この場で捕まえるか殺害してしまえば、どっちみちお終いです。今は余計な事を考えないで、任務に集中してください」
「確かに不安がっていても仕方がありませぬ。隊長。ここは甲院が何を考えていても叩き潰してやるくらいの気持ちで臨むべきでは」
 そう、楯身。
「でも……ああいや、そうだよね。失礼しましたホシノ中佐。ちょっとナーバスになってたみたいです」
「結構です。……ところで『草薙の剣』の皆さんは、ヒカルさんを手伝っていたみたいですね」
 不意にルリが話題を変えた。
「え? はい。困っていたらしいので」
 何かまずかったかな、と思ったが、ルリは「正直、こちらも助かりました」と目を伏せた。
「今回は急な召集でしたし、短期間で終わるはずが予想外に長引いてしまって、本職とどう折り合いをつけるか私たちも困っていたところでしたから」
「はあ……確かにパイロットとマンガ家の両立は大変でしょうね」
 そう、澪。
 あくまでも本職がマンガ家なら、パイロットを理由に疎かにはできない。締め切りを延ばせば出版社に金銭的な損害を与える事もあるわけだし、まして一度でも原稿を落とせば今後に大きく響くだろう。
 そこまでして助けに来てくれたのだから、和也たちとしては頭が下がる思いだ。
「この追撃戦の間だけでも手伝ってあげてください。もちろん、任務に支障がない程度にですが」
「はい。そのつもりです」
「で、どうだったよ」
 ルリとの話が一区切り付いたタイミングで、サブロウタが割って入ってきた。
「他のクルーとはもう会ったか? 結構顔ぶれが変わってただろ」
「あー……整備班長のウリバタケさんとは会いましたけど」
 痛い目に遭わされた事を忘れていない和也は一瞬言いよどんだが、「いやあ、すげえ人でしたぜ!」と烈火は喜色満面だった。
「ついつい話し込んじまったんすけど、あの人、中東でクモの巣爆弾を作って、送ってきてくれた人らしいじゃないすか。あの発想力と技術力! すばらしい! やっぱ武器や文明が発達するためにはああいう人が必要なんだと思いましたぜ!」
「そ……そうか。そりゃよかったな」
 何がよかったのか、興奮して語る烈火にサブロウタはドン引きしていた。
「……そういえば、先ほど“視た”のですが……休憩室で、美雪さんが誰かと話しているようでした。髪の長い女性のようでしたが、知らない人でした……」
 そう言った美佳に、「髪の長い女の人っていうと……イズミさんでしょうか?」とハーリー。
「たぶんヒカルさんとコンビを組んでるエステバリスパイロットの、マキ・イズミさんですね。……でも、なんでイズミさんとカゲモリ伍長が一緒にいるんでしょう」
「さあ……変わり者同士波長が合うんじゃないのか」
 そのやり取りだけで、もう普通の人ではないと知れた。
 和也は感想を口にする。
「初代ナデシコクルーの人たちって……なんていうか、知り合いがいただけでびっくりですけど、他のみんなも個性的というか……」
 変な人たちが多い――――と言い掛けて、これは言ったらまずいと思ってやめた。
 しかしサブロウタには、全てお見通しのようだった。
「変な連中、だろ? まあお前らといい勝負だよな」
「むっ……僕たちは変じゃないでしょう」
 サブロウタのぶしつけな物言いに、失敬な、と憤慨した和也だったが、

「あたしのパッチンプリンがなくなってるわよ!? 誰が食ったのよ! 食後のおやつ抜きとかあたしを殺す気なわけ!?」

 奈々美が怒鳴り散らす声が辺りに響き、和也は反論する言葉を失ってしまった。
 こりゃ確かに、はたから見れば変な連中だ。
「……それほど変じゃないです」
 辛うじてそう言った和也を、サブロウタはクククと笑っていた。
「ところで一つお聞きしたいのですが」
 と、そこで楯身が話を中断させた事で、和也はこれ以上居心地の悪い思いをしないですんだ。
「今ナデシコ部隊の提督をやっている、ミスマル准将でありましたか。随分と、その……対応が違うように思えるのは、彼女の方針なのでありましょうか」  楯身は『その……』のくだりでルリのほうをちらりと伺った。
 ルリの手前はっきりとは言えないが、初めて和也たちがナデシコBに出向した時とは対応が違う気がすると、和也も感じていた。



『じゃあ、『草薙の剣』のみんなは部屋でゆっくり休んで。後の事はこっちでやっておくから』

 それは『イワト』での戦闘が終わってまもなくの事だ。ユリカは和也たちから『イワト』での戦闘のあらましを聞き、それから個室で休息を取るよう直接通信で言ってきたのだ。
「了解。お世話になります」
「隊長。そうと決まったら武器を預けませんと」
「……ああ、そうだった」
 和也は担当のクルーを呼び、『イワト』からずっと身に着けっぱなしだった武器装備弾薬を預ける。
 そして最後に、少し躊躇いつつも腰の軍刀を……という時、まだ通信を繋いだままにしていたユリカが『ん、待って』と止めた。
『それって、木連軍の軍刀だよね。大事な物じゃないの?』
「それはまあ、大事な物です。愛用の武器であると同時に戦死した先輩の形見なので。でも戦闘中以外は武器を預ける決まりでしょう」
 ナデシコだけでなく、統合軍に戻ってフリージアに乗艦していた時も平時は取り上げられたのだし、面白くはないがそれがもう当然の対応なのだと思っていた。
 しかしユリカは、『んー』と少しだけ……本当に少しだけ考えるそぶりを見せた後、こう言ったのだ。
『いいよ、持ってて』
「え? でもこれは武器扱いなのでは……」
『爆弾じゃないんだし、私物扱いで持ち込んでもいいよ。あ、でも腰にぶら下げたまま艦内を歩き回るのはやめてね。銃刀法違反になっちゃう』
 銃刀法云々が果たして本気なのかは図りかねたが、とにかく部屋に持ち込むくらいなら許してくれるようだ。それを聞きつけた烈火もすかさず「じゃあオレの銃もいいっすか!?」と飛びついた。
『ハンドメイドの銃だね。弾はダメだけど本体だけならまあいいでしょう。ただし弾までこっそり持ち込んだりしたら取り上げちゃうからね』
 烈火は「ひゃっほう!」と飛び上がって喜んでいたが、さすがに通信の向こうでルリが咎める声が聞こえた。
『ユリカさ……提督。さすがに艦の保安上問題があるのではと思いますが……』
『大丈夫大丈夫。この子たちは間違っても私たちに武器を向けたりしないよ』
 あっけらかんとした態度で言うユリカだったが、それでもルリは納得できないようで、『ですが……』と食い下がろうとする。
『…………いえ、やはり結構です。提督のご随意に』
 しかし反論する言葉が見つからないのか、自ら主張を引っ込めたのだった。



 本来なら喜ぶべきなのだろうが、かえっておかしいと感じてしまうのは、和也たちも地球人に対して軽い疑心暗鬼に陥っているのかもしれない。
「随分と我々に対して無警戒というか……信用しきっておられるように見受けられますが」
「信用されていて、何か問題でも?」
 目を細めたルリに、楯身と和也はびくっと震える。
 どうもルリの前で、ミスマル准将を疑うような発言は禁忌らしい。これはやはり単なる上官と部下以上の関係があるようだ。
「そ……そうではありませぬが、初対面の木星人に対しては多少警戒されるのが当然と感じておりましたので」
「お前らも苦労してきたんだな……」
 哀れむような目で、サブロウタ。
「……ミスマル提督は、戦争中から地球と木連の和平のために力を尽くしてきた人です」
 目を閉じてルリは言う。
「二度も酷い裏切りに会いましたが、それでも心は変わっていません。そういう人だからあなたたちの事も全面的に信じているのだと思います」
「…………」
「これでもまだ信じられないなら、本人に聞いてみればいいでしょう」
「はあ。それは確かに……」
「呼んだ?」
 突然すぐ後ろから声をかけられ、和也と楯身は「うわあっ!?」と椅子から腰を浮かせた。
「み、ミスマル准将……いつからここに!?」
「最初からいたけど?」
 そういうユリカのテーブルには、毛糸で編まれた何かが縫い針に繋がった状態で置かれていた。どうやら食事の後でずっと編み物をしていたらしい。
「し、失礼しましたミスマル准将! ずっといたとは知らず……!」
 和也たち七人は起立、敬礼の身に染み付いた動作を行う。それはユリカの将官服を見ての条件反射的な行動だったが、ユリカはくすぐったそうに手を振る。
「こんなところで敬礼はいいよ。階級呼びもけっこー」
「は、はあ……」
 すでに通信越しで何度か話したが、この人の相手をすると調子を狂わされる。
 何しろミスマル・ユリカ。200年前の東アジア戦争で日本陣営を勝利に導き、その後も数多くの優秀な政治家や軍人を多数輩出した名家、ミスマル家の一人娘にして、先の蜥蜴戦争から火星の後継者との戦いに至るまで多くの戦果を挙げた、まさに名将……こうして向かい合ってみると、そんな表向きの評判とはとてもイメージが一致しない。
 ナデシコ部隊に普通の軍人を期待しても無駄なのは、理解しているのだが。
「で、なんで初対面なのによくしてくれるのかって話だっけ。えー、結論から言うとね。会ったのは昨日が初めてだけど、君たちの事は半年前からずっと聞いてたよ。ルリちゃんがいろいろ話してくれたからね」
「……ユリカさんが連絡のたびに聞いてきたから、答えただけです」
 なぜか目をそらして、ルリ。
「最初に話を聞いたのは、オオイソの学校占拠事件があってすぐ、ユキナちゃんから君たちを探してほしいって言われてね。ルリちゃんにも頼んで探してたの」
「あ……それってわたしが頼んだからだ」
 澪が言った。
 和也たちが軍に保護ではなく入隊を求めるであろう事は、澪とユキナには言われるまでもなく解っていたのだ。だから澪は後を追って入隊するつもりで卒業に必要な単位を取得しようと勉強に励み、ユキナはそんな澪のために和也たちを探してくれると言って、本当に居場所を探り当てた挙句に同じ部隊に配属されるよう手引きまでしてくれた。
 いったいどういう手品を使ったのだろうと思っていたが、これが種だったわけだ。
「ユキナちゃんは准将さんにお願いして、わたしを和也ちゃんたちに会わせてくれたんですね」
「てことは、僕たちの出向先をナデシコにするよう名指しで指名したっていうのも……」
 澪の後で言った和也に、「そうだよ」とユリカは笑って首肯する。
 ――道理で。ホシノ中佐が指名してきたにしては態度がおかしいと思った……と和也は疑問が一つ解けた。
 むしろルリの方が、「……指名?」と眉を寄せていた。
「あれ、言ってなかったっけ。わたしから統合軍に『草薙の剣』の子たちはナデシコに出向させてください、ってお願いしたんだけど」
「初耳ですが……」
 言ったルリに、「俺も初耳だな」「ボクも今初めて聞きました……」とサブロウタとハーリーも同意する。
「あらら。ごめんね」
 ユリカはそう言ってペロッと舌を出したが、それを見て全員が同じ事を思っただろう。

 ――絶対わざと黙ってたよこの人っ!

「……ユリカさん。いったい何を期待してたんですか?」 「何の事かなー?」
 ユリカはすっとぼけて、ふー、ふー、ふー、と口から息を吐く。たぶん口笛のつもりなのだろうが吹けていない。
「まあそれはそれとして、ね」
 露骨に話を変える。
「ナデシコBを降りてからも君たちの事はずっと見てたよ。大活躍だったね。メグミちゃんとホウメイ・ガールズの子たちのコンサートで演説かましたり、山で中華帝国の工作員と戦ったり」
「いや……僕たちはただ目の前の事に必死だっただけで」
「いいんだよ、それで。……君たちが木星と地球の間で悩んでた事も知ってる。あれだけ悪く言われて、それでも戦ってくれた事は、ここでありがとうって言わせてほしいな」
「はっ、火星の後継者の方に寝返ろうかって思った事も、一度や二度じゃないけどね」
「ちょっと、奈々美さん……」
 天邪鬼なセリフを吐いた奈々美を、妃都美が咎めた。
 とはいえ、奈々美の言う事も本当だ。
「……まあ、あの時まったく意思が揺れなかったと言えば嘘になりますね」
「隊長……」
 ジロッと楯身に睨まれ、和也は一瞬たじろぐ。
「だ、だって仕方ないよ。あれだけバッシングされてちゃ。それにその後も統合軍の看板キャラに使われてCM撮影やらされたりしたし」
「かといって裏切りを考えるのは恥じるべきと考えますがな」
「そんな事言っても、僕だって――――」
 和也が思わず立ち上がると、その拍子にポケットから何かが落ちて、床にコロコロ転がった。「あ!」と叫んだ和也が拾い損ねたそれを、サブロウタが拾い上げる。
「なになに、『ストレスが胃にくる中間管理職のあなたへ、どんな辛い仕事もこれ一つですっきり乗り切れる、超強力整腸胃腸薬キリキリマインX』?」
 なんだこりゃ、胃薬か? とサブロウタが言い、全員の注目が和也に集まる。
「……いやね、僕って隊長じゃないですか。嫌な事とかあっても誰かに愚痴を言うどころか、逆に愚痴を聞いてあげなきゃいけない立場じゃないですか。それでいろいろ我慢しながら仕事してるうち、もうこの手の薬がないと満足にご飯も喉を通らない典型的な中間管理職的状態に……」
 和也の言葉で、しーん、と静寂が満ちた。
「……申し訳ありませぬ。隊長の気も知らず酷な事を申しました」
「い……いやいいんだ。気にしないで……」
 こんな事で頭を下げられても申し訳なくなる。
「……でもまあ、それから僕たちみたいな木星人の存在もメディアでクローズアップされるようになってきたから、少しは風向きが変わってきたかなー、と……」
「それなんですが……ユリカさん」
 和也が話を変えようとすると、不意にルリが言った。
「あれ、ユリカさんの差し金じゃないんですか?」
「ええ? どういう事ですか」
 そう、和也。
「ミスマル家は日本有数の名家で、政界、財界、それにメディアにも結構な影響力があります。木星人を擁護する論陣を張るよう、スポンサー企業やメディア関係者の親類に働きかけていたんじゃないですか?」
「あらら……バレちゃったか」
 凄い事をあっさりとユリカは認める。
「ニューヨーク戦の直後から準備はしてたんだけどね。すぐに実行してもバッシングの方にかき消されちゃうから、タイミングを待ってたの。カズヤくんたちがコンサート会場で演説かましてくれた時はチャンスと思ったね。あれで世間の話題が集まったところに前から用意してたネタを一斉投下! おかげで効果覿面だったね」
「なんだそれすげえ……」
 烈火はぽかんと口を開けていた。
「……私たちは、ずっとミスマル准将に助けられていた……という事ですか。……そうなると、中帝の工作員と交戦した時……ずいぶん都合よく宇宙軍の戦艦が飛んできましたが、あれもひょっとして……」
「アマリリスの事? うん。何かあったら助けに入るよう、ジュンくんに頼んだのはわたしだよ」
 訊いた美佳に、これまたあっさりとユリカは答える。するとルリが、「……ユリカさん、アオイ艦長まで巻き込んで……」と呆れていた。
「我々は、知らないうちに何度も助けられていたようでありますな……その事については大変感謝いたします。しかし何故、我々にそこまで目をかけるのでありましょうか」
 一周回って、楯身は最初の問いを繰り返した。
「まあー……一言で言うなら、『草薙の剣』のみんなに共感したから、かな。わたしもっていうかナデシコのみんなも、一度は地球に逆らってまで木星と和平を結ぼうとしたからね。今でも木星の人が地球で平和に暮らせればいいと思ってる。君たちと同じだよ。だから君たちがその理由で戦ってくれる限り、わたしたちも協力は惜しまない」
「ああ、あの時メグミさんが言ってたっけ……『同じ事を考えて、そのために動いてる人たちがいる』って。あれって、准将さんの事だったんですね」
 と、澪が言った。
「そうだね。その代わり、君たちもわたしたちに力を貸して。地球との和平を望む木星人のシンボルの一つとして……そして、火星の後継者を倒すために、君たちの力が必要なの」
 ユリカは握手を求めて手を差し出す。
 その手を、和也はガタッ、と席を立って握り返す。
「そ、それは……はい! こちらこそ、力をお貸しください!」
「大変ありがたき申し出、我々としては百万の味方を得た思いであります!」
 政財界、そしてメディアにこれほどの影響力を持つ人が味方になってくれるのだ。これほど心強い味方はいない。少なくとも、和也たちの立場ではコンサートの時のような無茶でしかできなかった、メディアを通じて地球の世論に訴える事――――これほどの力があれば、きっとうまくやってくれるはずだ。
 ならば、『草薙の剣』はその本分を果たす事に全力を注げばいい。ユリカの剣となって敵を斬る。そうすれば木星人はきっと救われると、初めて確信できた。


 お先真っ暗な中にようやく光明を見出したような顔をしている和也たちと、笑って握手を交わすユリカ。
 そんな彼らを見て、ルリは……なんだか、胸がざわついた。
「ミスマル准将、実戦任務に出てこないと思ったらこんな事してたんですね……」
「あの人はあの人なりに戦ってたって事か。敵として戦った時も思ったけど、ホントすげえ人だな」
 ハーリーとサブロウタは、おおむね好感を持っているようだった。ルリとしても、ユリカが褒められるのは悪い気分ではない。
 なのに、どこか面白くない。
 木星人を守るために方々へ働きかけていたから、戦場に出てこられなかったのは解る。ならどうして、『草薙の剣』が窮地に陥ったと知るや掌を返したように、ナデシコCまで動員して戦場に出てきた?
 火星の後継者を倒す事が必要なら、どうしてそれをしようとしているルリを助けてくれなかった? どうしてルリに非難じみた言葉を投げたりした?
 目的は何も変わらないはずなのに、ユリカは『草薙の剣』の事ばかりを気にしている。

 ――――『草薙の剣』のみんなに共感したから、かな。

 ――私には共感できないって言うんですか……

 がり、と口の中で音がして、ルリは自分が歯軋りしていた事に気づく。
 胸の奥がもやもやする、焦燥感にも似たこの感情。これは一体なんだったろう。今までに感じた覚えがない感情を自覚し、ルリは戸惑いを覚えた。
「……ちゃん、ルリちゃんってば!」
 不意に自分の名を呼ばれていると気が付き、ルリはうつむいていた顔を上げた。
「ユリカさん――――なんでしょう」
「だから、ルリちゃんも一緒にコレやらない? って言ったんだけど」
 コレ、とはユリカの手元にある物の事だろう。毛糸で編まれた、およそ七センチ四方の――――
「……魔法陣?」
「モチーフ編みだよ」
 ユリカは苦笑して言う。
 見るとユリカがテーブルの上においた袋の中には、ユリカの手元にあるモチーフの完成品と思しい物が何枚も詰め込まれていた。ルリたちが来るより早くから食堂に居座って何をしているのかと思ったら、このモチーフを大量生産していたらしい。
「なんでも、同じモチーフを沢山作って、十分な数が揃ったら繋ぎ合わせてセーターにしたりするんだそうです」
 そう言った和也の他、『草薙の剣』の面々も、ユリカに教わりながら毛糸を編み針に結び付けていた。
「モチーフは小さくて場所を取らないから、ちょっとした空き時間にやるといい暇つぶしになるんだよね」
「それは解りましたが……ユリカさん、編み物の趣味なんてありましたっけ」
 ルリの記憶にある限り、ユリカが編み物をしているところなど見たのは今が初めてだ。……というか、料理をヘドロに変えてしまう天性の不器用さを持つユリカが、編み物に手を出しているのが信じられない。
「最近始めたんだよ。前にちょっとテレビで、子供が二歳くらいの時に編み物とか、手先を使う遊びを覚えると、脳の成長にいい影響があるってやっててね。ユリカもママになる準備をしなきゃって思って」
「あれ、准将さんって結婚なさってるんですか?」
 キラン、と目を光らせて、澪。
「してるよ。わたしの旦那様はねー、とても料理が上手なコックさんで、つよーいエステバリスライダーで、かっこよくて、ちょっと泣き虫なところもあるんだけどそこがまたかわいくって……」
 聞いているだけで胸焼けしそうな愛の言葉を、次から次へとユリカは口にする。和也など主に男性陣は引き気味にしていたが、一方で女性陣、特に澪は「いいなあ……」などとうっとりしていた。
 ユリカは楽しそうだし、嘘も吐いてはいないが……今現在、二人は夫婦の時間など一度として持ててはいない。そもそも会える状態にない。当然お腹に子供もいない。
 なんだか、笑顔で話すユリカがかえって痛ましい。そんなルリの懊悩をよそに、ユリカは『旦那様』にプロポーズされた時の事などを楽しげに話していた。
「……て感じで結婚したんだよ。人生最高の瞬間だったなあ」
「素敵だなあ……わたしもいつか幸せな結婚ができるといいな」
「ふふ、できるよきっと。それでミオちゃんもカズヤくんも、他のみんなも、子供が出来たら編み物とか教えてあげるんだよ」
「ふぁっ!?」
「痛てっ!?」
 突然すごい事を言ったユリカに、澪は拾うべき糸を間違え、和也は編み針で自分の指を刺してしまった。ついでに周りからは「おおお」と驚嘆の声が上がった。
「な、な、な、何を言うんですか提督っ!?」
「わわわわ、わたしと和也ちゃんはそういう関係じゃないですっ! ……今はまだ……
 和也と澪は顔を真っ赤にして否定する。……最後に澪が何か言った気がしたが。
 そんな二人にユリカは、「あれー?」と笑ったのだ。
「わたし、別に二人の『間の』子なんて言ってないんだけどなあ」
「あ……」
「あ……」
「んふふ、意識してるんだねー、案外まんざらでもないんじゃないかなー?」
「は、はわわわわ……」
 ユリカの言葉に、澪は頭から湯気が出るほど動揺していた。「みみみ、澪落ち着いて! この人は僕たちをからかって遊んでるだけだ!」と和也は必死になだめていたが、その必死さが逆に周囲の失笑を誘った。
「…………」
 ――ああ、まただ、と思った。
 ルリはまた、焦燥にも似たあの感情を感じていた。
 誰も彼も笑っているのに、ルリだけが笑えない。なんだか居心地が悪くなって、適当な理由をつけて退席しようかと思った、その時――――不意にルリのコミュニケが鳴った。
「私です。……アオイ中佐?」
 通信を入れてきたのは、ルリのよく知る人物だった。その話を聞くうち、悶々としていたルリの意識が一点に収束していった。
「ミスマル提督……それに皆さん。戦艦アマリリスから緊急連絡です」
 自然と声が引き締まった。笑い声に満ちていた食堂の空気が、一瞬にして張り詰める。
「逃走していた火星の後継者の一部が、ターミナルコロニー『ヤサカニ』に逃げ込みました。ナデシコCはこれの制圧作戦に加わってほしいとの事です。全員直ちにブリッジへ集合、作戦ブリーフィングを行います」
 了解! とその場の全員が唱和する。既に皆が、戦闘態勢へと意識の切り替えを終えていた。


「詳細は彼から説明してもらいます。どうぞ」
 友軍からの緊急通信を受けてブリッジに集合した全員を前に、ルリはまず最初にそう言った。
『どうも、ホシノ中佐。そちらにいるのが統合軍特殊部隊の人ですね。僕は宇宙軍戦艦アマリリス艦長、アオイ・ジュン中佐で……はっ!?』
 ウィンドウに映し出された人当たりの良さそうな青年の士官は、なぜか和也たちを見るや大げさに驚いた。
 初対面の相手――――ではない。「ジュンちゃーん! お元気ー?」とユキナが馴れ馴れしい態度で手を振ったのを見て、少し前の記憶が蘇った。
「ひょっとして……前に一度会った、白鳥さんの彼氏の人……」
「ああ、パフェの人ね。名前忘れてたけど」
 奈々美がかなり失礼な事を口にし、和也は「おい!」と小声で咎めた。
『き……君たちだったのか。久しぶりだね、三年ぶりくらいかな……』
「お、お久しぶりです。まさか宇宙軍の士官の方とは……」
 互いに少しぎこちなく、再会の挨拶を交わす。
「あれ、コクドウ隊長とアオイ艦長って、面識ありましたっけ」
 事情を知らないハーリーが、そう訊いてきた。
「オオイソにいた頃、白鳥さんと一緒に遊園地に行った時、一緒に遊んだ事がありまして……軍の士官とは知りませんでしたが」
『ははは……パフェとかいろいろ食べたね』
「ごちそうさん。おいしかったわよ」
 奈々美はぬけぬけと言ったが、実のところそういい話でもない。
 あれは三年前の夏休みだったか。限られた生活費でやりくりする生活の都合上、市外へ旅行に行くなどの楽しみ方ができないでいた和也たちを見かねて、ユキナが近隣の遊園地に誘ってくれた。その時ユキナが連れてきたのがジュンだった。
 ユキナとしては和也たちにお金を気にせず楽しんでもらうためだったのだろうが、しかしジュンにサイフの役割を期待して連れてきたのはどうかと思う。
 遊園地で一緒に遊んだまではよかったが、そこのレストランに入った時、ユキナが『お代はこの人が持ってくれるから何でも頼んでいいわよ』とジュンにおごらせて、それをいい事に奈々美は巨大で高価なスイーツの類をここぞとばかりに注文したのだ。
 他のメンバーもたまの贅沢が嬉しくて、つい遠慮のない注文をしてしまった。帰り際、スッカラカンになったサイフを握り締めて途方にくれていた青年の姿をよく覚えている。ただ一人味覚がないために遠慮してしまった和也は、なんとも申し訳ない気分になったものだった。
「そ、その節はどうも……それから、あの時は救援、ありがとうございました」
 中華帝国の工作員と戦った時の事を引き合いに出して、話をそらす。
 幸い、ここでルリが「再会の挨拶はその辺にしてください」と止めてきたので、それ以上の事は言われずに済んだ。ジュンはん、ん、と咳払いをして気を取り直す。
『では改めまして……今から三時間ほど前、宇宙軍駆逐艦『クレマチス』が逃走する火星の後継者艦隊の一部と思われる、七隻ほどの船団を発見しました』
 ジュンのウィンドウが脇により、代わって周辺の状況を記した宙域図が表示された。発見された赤い光点は集まってくる青い光点から逃げ出し始め、徐々に数を減らしていく。恐らくは有人艦が無人艦を盾にして逃走を図っているのだろう。しかし周辺に包囲陣を敷く友軍艦隊を振り切る事はできず、ついに追い詰められた赤い光点はターミナルコロニーへ突っ込んでいく。
「もう逃げられないと悟って、篭城する事にしたみたいですね。あるいは人質でも得られればと思ったのでしょうか」
 言ったルリに、そうだと思います、とジュン。
『幸いな事に、このような状況を見越して『イワト』での戦闘終息からまもなく、周辺のコロニーには避難勧告が出ています。敵が逃げ込んだターミナルコロニー『ヤサカニ』も、既に民間人・職員共に脱出しており、今は無人です』
「敵は空っぽのコロニーに篭城している状態であるわけですな。人質がいないのは幸いであります」
「要するに、思う存分暴れられるって事だな!」
 ジュンの言葉を聞いた楯身が安堵の表情を浮かべ、烈火は嬉々として闘志を燃やす。人質に危害が及ぶ心配もなく、敵の援軍もまず考えられず、戦力差は圧倒的。これほど楽な戦いもない。コロニーの設備の破壊を最小限にするよう、気を使えばいい程度だろう。
 と、ユリカが「それじゃあ作戦を説明します!」と口を開く。
「今回はいたってシンプル、まずは艦隊が艦砲射撃で敵艦を排除。同時にエステバリス隊が周辺宙域を制圧し制宙権を確保。これにはナデシコCのエステバリス隊も加わります」
「お任せー」
「お待たせー、ククク……」
 ヒカルは余裕の表情で了解し、なぜか美雪と一緒にいたイズミという女は寒いギャグを口にして笑っていた。
「制宙権確保後は、揚陸艇で陸戦隊を送り込んで内部を制圧。『草薙の剣』のみんなはこっちに加わってもらいます。目標は中央司令室」
「……最も重要な攻撃目標に向かうわけですか……責任重大ですね……」
「それだけミスマル提督が、私たちに期待してくれているという事ですね。全力を尽くしましょう」
 そう言い交わした美佳と妃都美の声からは、これまでにない覇気が感じられた。
 自分たちが信頼され、重用されていると実感して、士気が高まっているのだろう。悪くない傾向だと思った。
「制圧後、敵艦のコンピューターが生きていればそこにアクセスして、甲院がどこに逃げたかの手がかりを得ます。以上。計算上は一時間くらいで終わる作戦です」
「一時間も必要ありませんわ」
「だね。三十分で終わらせて見せます」
 自信満々に言った美雪に、和也も乗っかる。体力気力共に充実した今なら負けないと自信があった。
 そんな和也たちを、「油断は禁物だよ」とユリカは嗜めた。
「窮鼠臍を噛むと昔のことわざにもあるように、追い詰められた敵は何をするか解りません。くれぐれもヤケクソになった敵の自爆に巻き込まれたりしないよう、絶対に油断しないでください」
 ――例えは間違ってないけど、『猫を噛む』でしょ。悔しがってたら怖くないよ――――と思ったが、それは言わないで「肝に銘じておきます!」と模範的な答えを返した。
「もちろん、わたしはみんなの能力を信じています。技術、勇気、友情、そして目標を持った『草薙の剣』は間違いなく最強の部隊です! 恐れや痛みは胸の奥に隠し、全力で戦ってください! 木星と、そして地球の未来は、みんなの肩にかかっています!」
「おー!」
「それとこれだけはお願いします。絶対、生きて帰ってきてください。たとえ勝っても犠牲は出るかもしれません。このナデシコは冠婚葬祭全てを取り揃えていますが、お葬式はもう二度とやりたくありません! そんな事より!」
 サー! イエッサー! どうせならお葬式より結婚式がやりたいですっ! と唱和した『草薙の剣』に誰もが苦笑する。
 すっかり、ユリカに感化されていた。



 木星人のヒロイズムを刺激して士気を上げ、ユーモアのある言葉で緊張をほぐす。ユリカの話術は和也たちの士気を最高潮に高めていた。
 ルリはさすがだと思うと同時に、差を見せ付けられた気分になった。和也たちは一度も、ルリの言葉であんな気力に満ちた顔は見せなかった。
 ……いや、考えてみれば当然か。いつ裏切るのかと疑っている相手の言葉で、気力なんて沸くはずがない。
「和也ちゃん、みんなも頑張って! 怪我しないでね!」
「澪も頼むよ! オペレーターは僕たちの守護天使なんだからね!」
 あんな風に、部下を奮い立たせるスキルが本来、艦長に求められるのだったか。
 ――少しやり方を変えよう。この期に及んでまだ『草薙の剣』が裏切る可能性があると言い張るほど、私は頑迷じゃないはずだ――――
「……コクドウ隊長」
「はい?」
 咄嗟に言うべき言葉が浮かばす、一瞬間ができてしまう。
「あの、何か……」
「いえ。……他の人たちも……気をつけて」
「は…………?」
 ぽかん、と口をあけて和也と他のメンバーが固まる。――私が気遣う言葉をかけたのがそんなに意外ですか、そうですか。
「りょ……了解! 行ってきます!」
 そう言って、和也は駆け足でブリッジを出て行く。……どう思ったのだろう。中佐は悪い物でも食べたかもしれない、とでも思ったろうか。
 まったく、私らしくもない……ルリは知らず、頬を膨れさせていた。










あとがき(なかがき)

『草薙の剣』とユリカたち旧ナデシコクルーとの初顔合わせ回でした。

 今までにもちょくちょく暗躍していたユリカがついに和也たちと対面しました。心強い味方を得て和也たちは士気MAX状態です。
 なんだかユリカ、というかミスマル家の設定がえらい事になってます。200年前の総理大臣の子孫で、名家で、政財界やメディアに親族がいて、おまけに本人は名将とか。
 やっぱり和也たちには政治的な話には手が出せませんし、そっち方面にも影響力のある協力者が必要だったので、ユリカが適任と思いこうなりました。小説版を見てもとんでもない豪邸に住んでますし、高級軍人ってだけでなく別の面もあるかなと思っていたもので。
 家柄だけでなく人間的にも、ユリカには和也たちを導く役に最適と思った理由があるんですけど、そこは追々という事で。

 そして今回、ユリカだけでなく他の旧ナデシコクルーとも出会い、『草薙の剣』メンバーの人間関係も少しづつ変化が出て来ました。
 実は大抵のメンバーには関係の深くなるナデシコクルーが一人づついます。澪はヒカル、烈火はウリバタケさん、妃都美はサブロウタ、美雪はイズミ。
 美佳と奈々美は以前にメグミ+ホウメイガールズとリョーコに、それぞれ関係性を持っていますね。
 この物語では基本、旧ナデシコクルーは大人な先輩キャラとしての位置づけなので、『草薙の剣』はいろいろと影響を受けるでしょう。

 さて次回、占拠されたターミナルコロニー『ヤサカニ』に突入する和也たち。そこで和也は衝撃的な物を目にする!
 やっぱり一度はアレをやっとかないと、売り上げにも響きますしね。(笑)

 それでは、また次回。





第十八話 後編







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代理人の感想

うーむ、このゾワゾワ来る感じ。
イネスさんのことを別とすれば順風満帆だし、なごむし、いい話なんですが。
なんでしょう、この漂うフラグ臭(主にルリのせい)

なんて言うか、足下に深いクラックが開いてるような・・・

うおおん、こう言うプレッシャーは弱いのじゃよw


> 「まったく、皆さん今が作戦行動中である事を忘れてませんかしら……」
まぁナデシコだしw


一度はアレをやっとかないと
あれか。
あれやるのか、この状況で!w


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