「制圧完了」
『ご苦労様、みんな』

 ターミナルコロニー『ヤサカニ』の中央司令室にて、和也はナデシコCへいつものように任務完了の連絡を入れ、澪もまたいつものように労いの言葉を返してくれた。
 艦隊とエステバリスによって制宙権が確保されたタイミングで内部へ突入した『草薙の剣』は、内部に篭城を計った火星の後継者との戦闘に入った。逃げ場がないだけあって敵も必死に抵抗してきたが、所詮は敗残兵。制圧するまでにこれといった苦労もなかった。
「投降しますから命ばかりはお助けを……」
 士気も低く、催涙ガスをお見舞いして踏み込んだらたちまちこの有様だ。こんな連中相手に不覚を取る『草薙の剣』であるはずもなく、全員かすり傷も負っていない。
 他の施設に立て篭もった敵も次々制圧されている。完全制圧までさして時間は掛からないだろう。
「あっけない……」
 和也はぽつりと呟く。
 この連中に全滅一歩手前まで追い詰められたのが、つい昨日の事だとは思えない。やはり兵を生かすも殺すも司令官の采配次第だと実感する。
 ――司令官としての素質じゃあ、僕は甲院に逆立ちしても勝てない……
 昨日の高いでそれは思い知らされた。だが今の和也たちには甲院と伍する素質を持った司令官が付いている。自分たちだけでは勝てなくても、ミスマル准将やナデシコの人たちが一緒なら今度こそ勝てる……勝ってみせる。
 司令官といえば――――と和也は、ふと出撃前の事を思い出す。

『コクドウ隊長……他の人たちも……気をつけて』

 いきなりルリがお気遣いの言葉をくれた時は、今までになかった事態に反応できなかった。和也たちに裏切りの懸念を向けていたルリの口からそんな言葉を頂けるなんて、考えられない事だったから。
 ――ホシノ中佐も、僕たちを認めてくれたかな……
 半年も一緒に各地を駆け巡って、何をいまさらとも思うが、それでも嬉しくなってきた。任務達成の喜びとは別種の喜びに、知らず和也の相貌が緩む。
「ふふふ……へへ、えへへへへ……」
『コクドウ隊長』
「うわあああああああっ!?」
 いきなり件のルリから通信が入り、和也は大声を上げて飛び上がった。その場の全員が何事かと注目してくる。
『らしくないですね、そんな大声出すなんて』
「し、失礼しました……それで何か?」
『ちょっとトラブル発生です。港湾の敵艦内部で抵抗していた敵の一部が逃走して、コロニー内を逃げ回ってます。位置は捕捉してますからすぐ捕まるでしょうけど、そっちに行くかもしれないので一応注意してください』
「何をてこずってるんだか……了解」
『…………』
「…………」
 しばし、ウィンドウ越しに見つめ合う。
『……何か?』
「あ、いえなんでも……通信終わります」
 通信を切る。――ホシノ中佐はいつも通りだ。僕は何を期待してたんだろう。
「おい和也」
 不意に烈火から呼ばれて、和也は意識を切り替えた。まだ作戦は終わっていない。
「どうした? 何か問題?」
「そういうわけじゃねえんだが、見てみろよ」
 烈火はそう、端末のモニターを見てみろと促してくる。和也は平静を装って烈火の隣に並ぶ。
「すげえな。統合軍と宇宙軍の艦隊が続々集まってきやがる。壮観だぜ」
「どっちも早く情報が欲しいだろうからね。ここを補給拠点にして、さらに包囲の輪を狭めるって狙いもあるのかな……ん」
 モニターに写る艦隊の中に、一際大きく異彩を放つ艦艇を認めて、和也は目を細めた。
「この戦艦……まさか統合軍艦隊総旗艦の、ゴールデンバウム?」
「おお。総司令官直々にお出ましって訳か。それだけこのチャンスを逃したくねえんだろうが……チッ、嫌なもんを見ちまったぜ」
 あの兵器オタクの烈火が、珍しくも戦艦を見て忌々しそうに表情を歪めている。
 戦艦ゴールデンバウム。統合軍艦隊の総旗艦であり、統合軍総司令官ジェイムス・ジャクソンの乗艦。全長562メートル、統合軍全艦隊を統括する高度な通信システムを備えた司令塔であると同時に、グラビティブラストを大小合わせて六門装備。その他対空・対艦の各種レーザー砲とミサイルを備え、多数の機動兵器運用能力も有する統合軍最強の戦艦でもある。
 滅多に戦場へ出る事はなく、メディアに露出する事も少ないため、その姿を目にする機会は稀だ。それは重要性もさる事ながら、この艦が装備する『ある装備』に由来してもいる。
 ゴールデンバウムが最強の戦艦である所以であり――――和也たちにとっては何より忌々しい兵器。
 相転移砲搭載艦だ。



 機動戦艦ナデシコ――贖罪の刻――
 第十八話 出会い、繋がり、こころ 後編



 逃げ回っていた火星の後継者兵は数十分後に捕まった。
 和也たちの出番はなかったが、その数十分間補給のために立ち寄った艦隊が足止めを食った事を考えれば、少なくない損害と言えるだろう。
 ともあれ、安全が確保された『ヤサカニ』の港湾には続々と統合軍、宇宙軍の艦艇が集まり、再出撃に向けた補給作業が急ピッチで始まった。

「では皆さん、半舷で休暇です」 
「え?」

 ナデシコCへ戻った和也たちへ開口一番そう言ったユリカに、和也たちは鳩が豆鉄砲を食らった顔をした。
 てっきり補給が済み次第、すぐにでも追撃を再開するものとばかり思っていたのだ。その旨をユリカへ言うと、「そうしたいのはやまやまなんだけどね」と苦笑が帰ってきた。
「他の艦はともかく、このナデシコCは弾薬も昨日の戦闘で大分消耗してるし、少し被弾もしちゃってます。せっかく港に入れたわけですから、ここで補給だけじゃなく整備も行っておきたいんですよ」
「ああ、それは確かに……」
 言われてみれば、このナデシコCも昨日、火星極冠遺跡で敵艦隊と激戦を交わしたのだ。
「それと情報の件は、あまり期待しないほうがいいかもしれません。一応敵の戦艦を一隻、戦闘不能にした上で陸戦隊に制圧させましたが、敵の抵抗にあったせいでデータベースに流れ弾が当たったそうです」
 そうルリが言うと、誰からともかく、えー……と落胆の声が上がった。
「誰ですか、そんなお粗末な仕事をしたのは……」
「そちらに我々が向かうべきであったかもしれませんな……」
 妃都美と盾身が、苛立ちも露わに言う。これで甲院の捕捉が遠くなった。
「まあ、というわけでしばらくは友軍に任せて、私たちは戦力の回復に努める事にしましょう。整備班を除いた各クルーは半舷にて休息。コロニーの施設利用も許可します。ただし緊急招集もありうるので、すぐに戻れないような所には行かないこと」
「という事は……あそこに行っていいんすかね?」
「もちろん。ユリカもこれから行きまーす」
 訊いたサブロウタにユリカが答え、おお、とその場から声が上がった。
 このターミナルコロニー『ヤサカニ』には、他のコロニーや惑星に向かう観光客やビジネスマンその他が宿泊するための宿泊施設がある。それも狭いビジネスホテルなどではなく、純和風の客室を備えた立派な旅館だ。
 そこには一つ名物が存在する。日本の庭園を模し、展望窓越しに宇宙の星を見ながらお湯に漬かる事ができる野外大浴場。
 つまり、露天風呂だ。



「ああー……極楽極楽……」
「ふむ、肩こりや腰痛、筋肉痛に効果ありか。疲労した体にはありがたい」
「まったくだ。作戦の疲れも吹っ飛ぶぜ……」
 少し濁った岩風呂に肩まで漬かりながら、『草薙の剣』の男三人は口々に感想を漏らした。
 この露天風呂、コロニーの中にあるわけだから当然温泉そのものではない。しかしパンフレットによると、この風呂は本物の温泉水とその成分を抽出・濃縮した物を地球から輸送した上で使用しているらしい。元になった温泉はかつて戦国武将が遠路はるばる湯浴みに来るほど名高いものだったのだ――――といささか眉唾物の宣伝文句が添えられていた。
 昨日まで長時間狭いダクトの中に隠れ続けて、体の節々が痛みを訴えていた上にコロニーの制圧と、さすがに疲労が溜まっていた和也たちにとって、このユリカの計らいは確かに有難かった。効能が本当かはともかく、温かいお湯に疲労が溶けていくようだ。
 が、このまま何事もなく終わるはずがない事も解っていた。
「よーし、諸君、傾注!」
 こういう事を言い出す人が絶対出てくるからな……と和也は、湯船の中で立ち上がったサブロウタを横目で見た。
「俺たちは今温泉にいる! そしてここは露天風呂! この状況にあって、俺たちがやるべき事は既に決まっている!」

 サー! イエッサー! 女湯覗きこそ男のロマン! 最高のスリルとサスペンスですっ!

 その場にいる数十人の男性クルーが一斉に唱和する。まるで示し合わせていたかのような統一された唱和だった。
「悲しい事に、俺たちの主戦力たる整備班の連中は、ナデシコCの整備と補給のためここに馳せ参じる事は叶わなかった。だからこそ! 俺たちは奴らの無念と悲しみに報いるためにもこの困難なミッションを成功させなくちゃいけねえ!」
 サー! イエッサー! 俺たちは仲間のためにも最後まで戦いますっ! とクルーたちは熱く唱和する。
「戦え、兄弟たちよ! 志半ばで散った仲間の遺志を胸に抱いて! 立てよ男たちっ!」

 おおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ…………っ!

 まさにこれから死地へ赴く戦士のように、クルーたちは闘志を燃やしていた。やる事は、ただの風呂覗きなのに。
 いや、ある意味確かに彼らは生命をかけて戦うのかもしれない。社会的な意味で。
 そんな事を考えている和也のすぐ隣にも、声の限りに鬨の声を上げている男が一人いた。
「おっしゃあ! 和也、盾身、行こうぜ!」
「烈火、お前もか……」
「いやな、っていうかここに来る前ウリバタケさんから『俺の分もお勤めを果たせよ』って、選別代わりにこれを貰ってな」
「カメラじゃないか! っていうかそれは犯罪だよリアルにっ!」
「和也よ、男には例え社会を敵に回してでも、戦うべき時があるんだぜ」
 キラン、と擬音が聞こえそうな清々しい顔で烈火は言うが、まるで説得力がない。
「悪いが辞退する。自分は間に合……いや、たかだか一時の性欲を満たすために危険を冒す気はない」
 盾身は彼らしく、動じない態度で参加を拒否した。
「相変わらずお堅てえなあ……おい、和也は行くだろ?」
「僕もパスするよ……リスクが大きすぎる。命を賭けるなんて割に合わない」
 和也も健全な十七歳の男だ。湯煙の中の桃源郷に惹かれないと言えば嘘になる。
 そんな和也の心に強力なブレーキをかけているのは、決して逃れられないあの鉄拳による制裁だった。絶対生きては帰れない。
「なんだ、知らねえのか? 白鳥なら今ナデシコCのブリッジにいるぜ。連絡役が必要だからな」
「みんな、戦闘用意だ!」
 その瞬間、和也の心を縛る物はなくなった。


 男湯の竹柵を乗り越えると、そこには木々の生い茂る庭、というか殆ど森のようなスペースが広がっていた。
 木々の向こうには女湯の物らしい明かりが僅かに見え、そちらから女性クルーの姦しい声が聞こえてくる。随分と無駄なスペースに見えるが、覗き防止のためだろうか。
「聞こえるか!? この甘い声が! 俺たちの追い求める花と蜜に溢れた桃源郷は、この先にあるっ! いざ進めや兄弟たちよ!」
 うおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっ! と雄叫びを上げて男性クルーたちが女湯目掛けて突進する。その中には和也と烈火の姿もある。
「ウラー! 待ってろよ美佳! そしてウリバタケさん! オレは必ず生きて戦利品を持ち帰るぜ!」
「ひゃっほー! 突撃ー!」
 期待に胸を膨らませ、騎兵突撃の如く和也と烈火は走った。あの湯煙の向こうに、気になるあの子が生まれたままの姿でいる。それを想像しただけで足がそちらに引き寄せられる。
「こ、コクドウ隊長……あなたも好きなんですね……」
 不意に声がかけられた。見るとハーリーが既にひいひい息を乱しながら必死についてきていた。
「あれ、マキビ中尉。あなたもいたんですか」
「サブロウタさんが、お前も男になれって無理矢理……」
「いいじゃねえか、少佐も中尉の成長を願ってるんだぜ!」
 烈火が横から割り込んできて、ハーリーの背中をバシッと叩いた。その力の強さにハーリーが「ごほっ!」と咳き込む。
「だいたい中尉だって見たいだろ!? ホシノ中佐の裸がよ!?」
「そ、それは……」
「みなまで言いなさんな、解ってる! そうでなくっちゃ男じゃねえ! そうだ和也、おめえには誰か目当ての子はいるか!?」
「え、僕?」
 話を振られて、和也は少し戸惑った。
「あー……具体的に誰ってわけじゃないけど、やっぱり僕も健全な男子なわけで!」
 咄嗟に誰かの名前が浮かばず、和也はそう返した。
 真っ先に思い浮かぶのは、奈々美、妃都美、美佳、美雪の『草薙の剣』女性メンバーだが、訓練時代はずっと着替えもシャワーも男女の別がない生活を強いられてきたのだ。失礼ながら、いまさら裸を想像しても興奮するのは難しい。
 ならミスマル准将か? 人妻ではあるが、まだまだ若くて美人のお姉さんだ。脱げばきっと凄い。
 澪はどうだ? 確かに澪の発育がいい体は魅力的だ。想像してみると、今更ながらにドキドキする。
 それとも……と思考を巡らせた、その時。

「…………!?」
「っ!?」

 瞬間、和也と烈火の第六感が危険を察した。

「全隊、止まれーっ!」
 声の限りに叫ぶ。サブロウタやハーリーなど、近くにいた何人かがその声に気付いて足を止めたが、その他大勢のクルーは思考が過熱して耳が聞こえないのか、「うおおおおお!」と咆哮を上げて突き進んでいく。
 その途端、彼らの足元の地面がズボッ、と抜けた。
「おわああああああああああああああ!?」
「ひああああああああああああああああ!?」
「何じゃあああああああああああああああ!?」
 突然地面に開いた穴に、何人ものクルーが飲み込まれた。いきなりの事にそれを見ていた和也たちはぽかん、と口を開けて愕然とするしかない。
「ひゃあああ」
 幸運にも少し後ろを走っていた一人が、混乱した声を上げながら落とし穴を飛び越す。助かったかと思った。
 そこへ、ヴオッ――――! と空気を裂いて巨大な丸太が木の上から振り子のようにスイングしてきた。落とし穴を越えた直後のクルーは対応できずにホームランされ、「ぼげええええええぇぇぇぇぇぇぇ……!」という悲鳴と共に藪の中へ消えた。
「な、な、な、何だよあれ!?」
「トラップだ! 罠がそこらじゅうに仕掛けてやがる!」
 随分と無駄に広い空間だと思ったら、女湯を覗こうとする者を撃退するための罠が敷き詰められている。生い茂る草木は日本庭園の演出であると同時に、罠を隠すためのカモフラージュだ。普通に警報装置でいいだろうに、痛みを伴う罠になっているのはいったい誰の趣味だ。
「おーい大丈夫か!? 生きてるか!?」
 サブロウタが落とし穴を覗き込んで呼びかけると、中から「い、生きてます……」とか細い声が帰ってきた。
「ぶ、無事は無事なんですが、底になんかトリモチみたいなのがあって動けませーん! 助け」
「そうか解った! 必ず仇は取ってやる! だから安心して休め!」
 助けてたら間に合わなくなる、と言外に言って、サブロウタは落とし穴に落ちたクルーたちを見捨てた。「仇討ちなんていいから助けてえ……気持ち悪い……」と悲痛な声がしたが気のせいだろう。戦死者は喋らない。
「畜生め! たった何十メートルか先にバラ色の桃源郷があるってのに!」
「罠を解除しつつ、慎重に進まないと……」
 歯噛みする烈火と、こういう状況での鉄則に沿った事を口にする和也。
 しかしそれを聞いたサブロウタは、「いや、それはダメだ……」と首を横に振ったのだ。
「罠を警戒してたら間に合わねえ。その間に女たちが温泉から上がっちまうぞ」
「じ、じゃあどうするんです……撤退ですか?」
 ハーリーはそう言ったが、ここまで来て何の戦果もないまま撤退など出来るわけがない。
 それに兵士、クルーたちの戦意もまだ失われてはいない。となれば、取るべき道は一つである。
「全軍突撃しろ! 一人でも女湯に辿り着ければ俺たちの勝ちだーっ!」
「やっぱりいいいいいい――――――!」
 全滅覚悟の特攻が始まった。口々に愛する人の名を叫んで突進するクルーたちに、無慈悲なトラップが襲い掛かる。
 ある者は麻酔針の付いた矢に声もなく昏倒させられ、ある者は吊り上げトラップに足を掴まれ、叫び声を上げて木の上に攫われていった。またある者は藪の中から飛び出してきたロケットパンチにKOされ、そのまま動かなくなった。
 トラバサミ、閃光音響爆弾、自動機銃セントリーガン、ありとあらゆる罠の手にかかって次々クルーが脱落していく。
「前から何か来るぞ! 跳べーっ!」
 サブロウタが叫び、前から転がってきたローラーを和也たちはジャンプして避ける。ローラーも捕獲用のトリモチが付いているらしく、避け損ねた何人かが巻き取られて転がっていった。
 着地し、助かったと安堵――――する暇もなく、和也の隣を走っていた烈火が「げっ!?」と声を上げた。
「しまった! ウリバタケさん、すまねえええぇぇぇー!」
「烈火ーっ!」
 ついに烈火までもがネットに捕まり宙吊りにされた。クルーたちの悲鳴を置き去りにし、倒れた仲間の屍を踏み越え、それでも彼らは走り続けた。
 ようやく和也が女湯の竹柵の前に辿り着いた時、そこにはサブロウタ以外に誰もいなかった。
「はあ……はあ……残ったのは……俺たち二人だけみたいだな……」
「ぜえ、ぜえ……みんな逝ってしまった……」
「それでも、俺たちはまだ生きてる……さあ黒道、俺たちは兵士だ。任務を遂行するぞ!」
「はい、少佐……!」
 仲間を大勢失い、もはや自分たちさえどうなるか解らない中、それでも任務を遂行する。それはもうつまらない欲望ではなく、二人がもっと崇高な思いに突き動かされていたからに他ならない。
 なんだか恐ろしく割に合わない思いをしている現状を、そう思い込む事でごまかしながら、和也は最後の壁に手をかける。この先に、誰もが夢見た桃源郷が――――
 刹那。

「ぎゃあああああああああああああああばばばばばばばばばばばばばばばばばばば!?」

 絶叫が響いた。竹柵に張り付いた和也の体が激しくスパークし、焦げた臭いを発してぶっ倒れる。
「……高圧電流か。竹はレプリカなんだな」
 一歩引いたところから冷静にサブロウタは分析する。――この人、僕を弾除けにしやがったな……と和也は薄れ行く意識の中で気付いた。
「ひー……ひー……やっと追いついた……って、二人とも、大丈夫ですかあ!?」
「ハーリー!? お前も無事だったのか!」
「足が遅くて置いてかれちゃって……おかげで罠が作動した後の道を安全に来られたんですけど」
「ははっ、なかなか運がいいじゃねえか……よーしハーリー。お前が俺たちの最後の希望だ」
 こっち来い、とサブロウタはハーリーを手招きする。言われるがままハーリーが近づくと、その体をサブロウタはひょいと腕で抱え上げ――――
「行けえハーリー! 男になって来おおおおおおおいっ!」
「え、ちょ、うわ――――――――っ!」
 俵投げのように、ハーリーの体は女湯の中へと投げ込まれていった。
 そして響く、女たちの黄色い悲鳴。
「男だぜ、ハーリー……」
 キラン、と白い歯を光らせてサブロウタはハーリーへ祝福の笑みを浮かべた。
 その顔に、金ダライがぶち当たった。



「え、ちょ、うわ――――――――っ!」
 ハーリーの矮躯は軽々と女湯に投げ込まれ、「げふっ」と腹から着地した。
「来たぞー!」
「撃ち方始めー!」
「やっちゃえー!」
 途端、待ち構えていたようにたらいや木桶が、ハーリー目掛けて雨あられと投げつけられた。ひいー、と頭を抱えて丸くなり、身を守るハーリー。
「あれ、ハーリー君だけ?」
「ちょっと待った! 撃ち方やめ! 撃ち方やめ!」
「あらあら、大丈夫ですこと?」
 拍子抜けしたように嵐がやむ。恐る恐るハーリーが目を開けると、そこにいたのは――――
「ええ、水着……?」
「あんだけ大騒ぎしてたら誰だって気付くわよ。まして最初から覗きに来る事が予想できててすっぽんぽんになる奴はいないわ」
「噛み付いたら放さないカメ……」
「それはすっぽんですわ。まあ楽しませてもらいましたけど」
 そう言ったのはナデシコ標準の水着に身を包んだ奈々美とイズミと美雪だ。その前にはトラップゾーンで罠に引っかかり、ボロ雑巾のように転がっている男たちの躯がウィンドウに映っている。あそこにはカメラも仕掛けてあったらしい。
 なんて事はない。男たちの作戦は最初からお見通しだった。女性陣はトラップにのたうちまわる男たちの姿を見下ろして笑っていたのだ。
「……タカスギ少佐を補足。妃都美さん、そこから二時の方向、距離三メートル四十七です……」
「了解。攻撃します」
 美佳のレーダー情報を元に、妃都美が金ダライを放り投げる。見事な放物線を描いた金ダライが竹策の向こうに落ち、ぐわーん、という何かに当たった音と「ほげえ!?」という声が上がる。どうやらサブロウタへヒットしたようだ。
「なんか、逃げちゃダメの中学生みたいな悲鳴が聞こえた気がするけど」
「あの声は黒道君かな。やっぱり男の子だねえ」
 あっはっは、と余裕のある笑い声を上げて、ヒカルとミナトは酒を酌み交わしていた。
『こちらナデシコC。全ての脅威対象の無力化を確認しました』
「ルリちゃん、ご苦労様」
 ――か、艦長……!
 水着の上からでもそれと解るほどに見事な肢体を白の水着に包んだユリカの前に、ナデシコCのブリッジに居残ったルリのウィンドウが浮かんでいるのを見て、ハーリーは心臓が止まりそうになった。
 女湯を覗こうとしたなんて知られたら、絶対軽蔑される。そんな絶望を味わっているハーリーをよそに、「はーい皆さん注目ー」とユリカが声を上げた。
「それじゃあ出歯亀さんたちも撃退された事ですしー、みんなもう脱いじゃっていいですよー」
「えっ」
 ユリカが宣言した瞬間――――露天風呂に大輪の花が咲き乱れた。
 それは何着もの水着が宙を舞い、ハーリーの眼前が肌色で覆い尽くされる、百花繚乱の光景だった。
「ひあああああああ!?」
 目の前の肌色があまりにも眩しく、ハーリーは両手で真っ赤になった顔を覆う。
「あらあら、真っ赤になっちゃって可愛い。ほらほらお背中お流しいたしますわよー?」
「ひゃうっ!? カ、カゲモリ五長、胸を押し付けないで! なんでみんな脱いじゃうんですか、ボクがいますよ!?」
 美雪が石鹸を塗った胸を背中に擦り付けてきて、ハーリーはたまらず声を上げた。
「子供でいられる時期は短いんだから、許されるうちに見といたほうがいいかもよ」
「大人だったら脳天に鉛弾を撃ち込みますが、子供の反応は素直でいいですね」
「こ、子供……」
 ほんの何気ない奈々美と妃都美の言葉に、ハーリーはざっくりと傷付いた。
 そんなハーリーに、ルリのウィンドウが近寄ってきた。……そして。
『ハーリー君、一緒に入りたいならそう言えばいいのに』

 ぴしっ――――――――――――――――――――――とハーリーの心にヒビが入る音がした。

 毛筋ほどにも男として見ていないルリの言葉。それは百の罵倒より手ひどくハーリーを打ちのめした。



『ヤサカニ』某所――――
 男たちがしょうもない戦いを繰り広げていた頃、殆ど使われる事もない倉庫区画の一室で、床の一部が音もなく開いた。
 中から出てきたのは、火星の後継者の制服を着た一人の男だ。その腕にはスーツケースほどもある大型の爆薬が重そうに抱えられ、起爆装置を改めた火星の後継者兵は爆薬がまだ使える状態にある事を確認し、「よし……」と頷いた。
 かつて第一次決起の際、火星の後継者は拠点となるターミナルコロニーを爆破するための爆薬を、ほぼ全てのターミナルコロニーに建造段階から仕掛けていた。それらは全て撤去されたと思われていたが、『ヤサカニ』には構造材の中に紛れて一発だけ、撤去されずに残っていた爆薬があった事に、彼は占拠中気が付いていた。
 それを取り外して港湾に仕掛け、軍が突入してきたところで爆発させるつもりが、取り外しに手間取っている間に爆破のタイミングを逸した。そのまま見つからないよう爆薬を抱えて隠れていた彼は、人の気配がない事を確認すると恐る恐る倉庫を出た。
 一発だけとはいえ、コロニーの構造物を破壊するための爆薬だ。多数の軍艦が停泊しているだろう今、港湾で爆発させればかなりの被害を与えられる――――はずだが、
「ひっ……」
 銃を持った統合軍兵士の姿が見えて、火星の後継者兵は慌てて物陰に隠れた。ちなみに彼、兵科は歩兵でも工兵でもなく通信士である。武器は拳銃一挺とナイフ一本。これだけの武器でアクションムービーの主人公の真似事ができると思えるほど、彼は戦闘訓練を受けていなければ自信過剰でもなかった。
 さりとてこのまま投降するのはプライドが許さず、彼は爆弾を抱えたまま右往左往する事になる。
 と、その時。
「あー、いい湯だった」
「お風呂は心の洗濯だねえ」
「ねえねえ見た? あの男連中タオル一枚で落とし穴に落ちて『暗いよー』『怖いよー』だって」
 宇宙軍の制服を来た数人の女性が、湯上りらしい上気した顔で歩いていく。こんな時に温泉とはのんきな連中だと思ったが、
「温泉なら、警戒も緩いだろうな……温泉を爆破して敵が混乱した隙に脱出……よし、これでいこう」
 我ながら完璧な作戦、と自己満足して、火星の後継者兵は温泉へと向かった。


 風呂覗き作戦は見事に失敗し、参加した男たちには罰としてコロニーとナデシコの清掃活動が命じられた。
「うっ……えぐっ……ぼ、ボクは男だあ……」
「まあまあ中尉、そう落ち込まないで……どうせ時間の問題ですって」
 あと三・四年もすれば立派な大人の体になりますから、と涙ながらに掃除をするハーリーを、和也が励ましてきた。……若干笑いをかみ殺していたが。
「励ましてくれてどーも。ところで、コクドウ隊長たちは統合軍に戻らなくていいんですか?」
「僕たちをナデシコに留め置いたのは提督の決定ですけど、お邪魔ですかね?」
「そういうわけじゃないですけど、今はここにも統合軍の戦艦が入港してますし、戻るなら今かなと」
 和也は少し、考え込む顔をした。
「まあ……特に戻らなきゃいけない理由もないですからねえ。むしろ適当な艦に乗るよりナデシコにいたほうが甲院にも近づけそうですし」
 ぶっちゃけ、ナデシコのほうが知り合いも多くて居心地がいい――――和也はそう言った。
 やはりというか、統合軍内での木星人に対する空気には冷たいものがあったのだろう。
「それに……正直な話、今はナデシコに乗れてよかったと思ってます。あの艦がいる統合軍艦隊の中にはいたくない」
「あの艦って?」
「統合軍艦隊総旗艦、ゴールデンバウムの事です。あの艦は見たくない……嫌な記憶がフラッシュバックする」
 妙な話だった。ゴールデンバウムはその他多くの艦艇と同じく戦後に建造された、艦齢三年の若い戦艦だ。和也たちはその時既にオオイソで暮らしていたはずで、接点は一切ないはずなのだが。
「艦そのものは今日初めて見ましたよ……ただ、あの艦に積まれた兵器はダメなんです。相転移砲は……僕たちの先輩方を皆殺しにした兵器ですから」
 ハーリーの記憶に、引っかかるものがあった。
 相転移砲――――相転移炉のシステムを利用し、目標物を空間もろとも相転移・破壊する、核兵器さえ凌ぐ威力の大量破壊兵器。そのあまりの威力ゆえ、地球連合ではナデシコCと並ぶ危険な兵器として開発や建造が厳重に規制されている。現存する相転移砲搭載艦は、ゴールデンバウムともう一隻、宇宙軍艦隊総旗艦リンデンバウムの二隻だけだ。
 そして現存はしていないが、大戦中に相転移砲を搭載し、数度の実射を行った艦が、一隻――――
「僕たち生体兵器部隊の初の実践投入は、戦争の終わり頃に実施された月での反抗作戦でした。当時四つ編成されていた小隊のうち、まだ実戦には早いと判断された僕たち『草薙の剣』ともう一小隊は居残り、『十拳の剣』と『布都御魂』の二小隊が出撃して……全滅しました。その時何があったかは、マキビ中尉も知ってるでしょ」
「え、ええ……」
 ハーリーは曖昧に頷くしか出来ない。
 宇宙軍が月での戦闘で相転移砲を使用したのは、軍の公式記録にも残されている事実だ。ハーリーは勿論知っているし、和也がそれを知っているのも何ら不思議ではない。
「地球軍……宇宙軍か、の使用した相転移砲で、先輩方は遺体も残さずにこの世から消えてしまいました。無人艦からのリアルタイム映像で観戦していた僕たちは、その瞬間をこの目で見ましたよ……」
「…………」
「みんな、とてもいい人たちでしたよ。先輩として、未熟だった僕たちにいろんな事を教えてくれました。僕が持ってる軍刀も、『十拳の剣』の一番よくしてくれた先輩から出撃前に預かった物なんですよ。形見になっちゃいましたけど」
 そんな事があったから、相転移砲を搭載した戦艦と一緒にはいたくないんです、あの時の記憶がフラッシュバックしますから――――和也はそう、遠い目で言った。
 訥々と語られる、和也の忘れ難い過去。それは仲間たちを一瞬にして失った、心に深く刻まれた傷であるはずだ。
 ハーリーもこの年で軍になどいるものだから、和也たちのように大切な人を喪失した人を多く見てきた。誰も彼もが仇討ちを望み、怒りをぶつけずにはいられない人たちばかりだ。
「コクドウ隊長たちは……その、やっぱり恨んでますか、相転移砲を……宇宙軍が使った事を」
「マキビ中尉は、その時軍の所属じゃないでしょう」
「僕じゃなくて、アレ……相転移砲を撃った戦艦の事です。……調べたりとか、してるんですか?」
 和也は……ハーリーから視線を外して、言葉を整理するように少しだけ黙った。
「……あれは戦争なんです。僕たちだって相転移砲を撃てと命令されれば躊躇なくその通りにするしかない。お互い様なんだし、今更撃った奴を突き止めようとか、探し出そうとか考えちゃいませんよ」
 第一、僕の機密閲覧権限セキュリティ・クリアランスじゃ触れられない情報ですし……和也はそう言った。
 あの戦いで『相転移砲を撃った戦艦』は、クルーへの報復を避けるために記録に残されず機密扱いとなっている。和也が知らないのも当然だ。
 ナデシコAの事を。
 そして艦長だったミスマル・ユリカと、彼女が呼び集めてきたクルーたちはまさにその時、ナデシコAに乗っていた人たちだ。
 つまり今――――和也たちは仲間を殺した仇に、それと知らないまま、囲まれているのだ。
「ああ、その……ご、ごめんなさいね。なんだかトラウマ掘り返すみたいな話させちゃって……」
「いえいえ、お気になさらず。僕から言い出したんだし」
「それで、コクドウ隊長は……」
「ん?」
「……いえ、なんでもないです……」
 言えなかった。
 もし和也たちが、相転移砲を撃ったのがナデシコだと知ったらどうするのか、和也は言わなかったし、ハーリーも訊けなかった。
 ――誰か……艦長とかに報告したほうがいいのかな……
 報告は大事だ。解ってはいるが……報告したらどうなる?
 ルリはきっと、和也たちの危険性を再認識し、また警戒心を持つだろう。せっかく打ち解けて、正式ではないにしろいい感じの部隊としてやっていけそうだったのに、不和の種を撒きたくない。
 ――今は決戦を控えた大事な時だから……戦後になったら話そう。そうしよう。
 それまでは誰にも言うまいと決めて、ハーリーは何事もない顔を装い掃除に戻る――――



「……はい、覗き撃退用トラップの再装填完了。いつまた覗きが来ても撃退できます」
 ナデシコCのブリッジにて、半舷で居残っていた澪は温泉のトラップが再び使える状態になった事を確認した。同じく居残り組だったユキナが「これであたしたちも温泉に入れるわね」と言って、いそいそと石鹸やシャンプーの入った洗面器を準備している。
 今ここにいるのは半舷での居残り組だった澪とユキナとルリの他、温泉から戻ってきたユリカ、そして『草薙の剣』の女性メンバー四人だ。最後の四人はブリッジ要員ではないが、ユリカと話しているうちに付いてきてしまった。それを誰一人気にしないのがこのナデシコという戦艦の特殊なところだ。
 とにかくこれで澪とユキナは温泉に行けるわけだが、澪ははあ、とため息をついた。
「まさか和也ちゃんが覗きに来るなんて……」
 そんな事する人じゃないと思ってたのに、と澪は不満顔だ。そこへユキナが「ホントね」と相槌を打つ。
「困ったもんねえ。見たいなら見せてくれって頼めばいいのに。澪ちゃんなら拒まないでしょうにさ」
「拒むよ!」
 澪は真っ赤になって反論したが、その後俯いて「そうよ、見せないんだから……たぶん」と呟いている。
 こういういじらしいところが可愛いのよねとユキナは思った。だからこそ応援してやりたくなるし、鈍感な和也を殴りたくもなるわけだ。
「しっかし、和也ちゃんも女の子の体にちゃんと興味があるのねえ」
 明らかに好意を寄せている澪に、仲間内にも妃都美のような美人がいる。にもかかわらずまったく恋愛感情の機微を見せない和也に、ユキナはてっきり異性や恋愛に興味がないのかと他人事ながら心配していたものだった。
「まあ和也さん、というか私たちはみんな、訓練時代は性差を意識しないよう教育されてきましたからね……」
 ユキナと澪の会話に、『草薙の剣』女性陣が入ってきた。
「トイレどころか、着替えもシャワーも同じ部屋なんですよ。考えられないでしょう?」
「ま、あたしらはそういう環境で育ったから、お互いいまさら恋愛の対象として見るのは難しいし、恋愛なんて正直無縁な事って感じがするわけよ。きっと和也もそうなんでしょ」
「うへえ、凄い教育だね……」
 妃都美と奈々美が言う『草薙の剣』の凄まじい過去を改めて聞いて、澪は圧倒されていた。
 と、美佳がぽつりと口を開く。
「……訓練時代の教育が尾を引いているのは、否定できませんが……そうでない人も増えていると思います……」
「あら、どなたかしら……それはそうと、昔の教育のせいで割を食っているのが澪さんなわけですわね。いっそお風呂で裸を見せて差し上げれば、少しは見る目が変わるかもしれませんわよ」
「美雪ちゃんまで……! セクハラだよセクハラ!」
 美雪にまで言われ、澪は茹で上がったタコのように赤くなっている。
 そこで不意に、それまで黙っていたルリが口を開いた。
「そういうものなんですか」
「え?」
「お風呂で……裸を見せれば、見る目が変わるものなんですか」
「そうかもねえ」
 と、答えたのはユリカだ。
「ユリカもよく旦那様と一緒にお風呂に入ってたからねえ。その度にもう愛が深まっていったかなあ。ああ、思い出しただけでユリカ幸せ……」
「い、一緒にお風呂……愛が……」
 かなりきわどい光景を想像しているのか、澪は頭から湯気が出そうなほど紅潮している。
 しかし、ユキナは知っている。これはそんな色っぽい話ではない。
「あー、澪ちゃん? どんな想像してるかは想像付くけど……ユリカさん、それって何歳くらいの話です?」
「そうだねえ、小学校に入りたての頃だから六歳くらいかな?」
 ……その場の全員がそれと解るほど、脱力した。
 そもそも、ユリカとその夫が、そういう夫婦らしい時間を持てた事は一日としてないのだ。
「まあ、大きな女の子の言う事は置いとくとして」
 そう言ったユキナに、「なにそれー!?」とユリカはぷんすか憤慨していたが、かまわず続ける。
「理由はともかく、和也ちゃんみたいに恋愛に鈍い奴にはもっと……」
 積極的なアタックを――――と言いかけて、ふと、ユキナの脳裏に閃くものがあった。
「……いや、とにかく諦めないでいればそのうち通じるでしょ。そろそろ温泉に行かないと、時間なくなるかもよ」
「あ、そうだった。それじゃあ温泉頂いてきます」
「ルリちゃんも行っておいでよ。ナデシコはユリカが見てるから」
「はい。失礼します」
 そうして、半舷での居残り組は温泉へ向かうためブリッジを出――――る手前で、ユキナはユリカに「ちょっとちょっと」と耳打ちする。
「……てな事を考えたんですけど」
 それを聞いて、ユリカは最初怪訝な顔をしていたが、やがて悪戯っぽい少女の顔でこう言った。
「いいんじゃない?」



「ふう……この辺はこんなもんかなあ。そろそろ切り上げてもいいよね」
『ヤサカニ』の割り当てられた通路のモップ掛けを終えて、和也は一息付いた。
 ハーリーは別のところを手伝いに行ってしまって今はいない。しかし、最後なんだか様子がおかしいように見えたのは、気のせいではないだろう。
「ヘビーな話したからかな。別に気にする事じゃないだろうに……」
 あの態度。ハーリーはあの時、相転移砲を撃った戦艦の事を知っているようだ。なんでもない風を装っていても、顔に書いてある。
 ――中尉なんだし、そのくらいの機密閲覧権限があるのは当然か。
 だが問い質したりする気はない。それが厳罰に値する事を和也は十分承知していたし、知ってどうなるものでもない。ましてや決戦を控えたこの大事な時期に余計な雑念を抱え込みたくない。
 甲院にも、心の迷いを突かれて負けたのだ。個人的な事は戦後にやればいい――――そこまで考えて、ふと思った。
 ――やればいい、か。やっぱり仇討ちがしたいのか? 僕も。
 あの時は、とにかく感情が荒れていた記憶がある。地球への憎しみが燃え上がって、仇討ちだ、出撃させてと暴れて、みんな揃って北辰に腕の骨を折られた。
 だが今は――――せっかく結んだ地球の友人との関係を、私怨で壊したくないし、そもそも他人のためならともかく、自分に仇討ちなんて望む資格があるのかも解らない。
 自分は同胞殺しだ。もう昔のように被害者ぶって人を憎むなんて、自分には許されないんじゃないかと思うのだ。
 ――みんなはどう思うかな。
『草薙の剣』の良くも悪くも個性的なメンツは、今どう思っているか和也にも解らない。血の気が多い奈々美や、仲間思いで先輩方とも仲がよかった烈火あたりは、心の中では仇討ちを望んでいるかもしれない。
 みんなにこの話はしないほうがいいな……と和也が結論付けた、その時コミュニケが鳴った。
「白鳥さん……? はい、僕だけど」
 受信ボタンを押してウィンドウが開くと、妙に深刻な表情のユキナが映っていた。
『和也ちゃん……トラブル発生よ。さっきコロニーの監視カメラに、火星の後継者の制服を着た奴がちらっと映ったわ。どこかに隠れていたみたい』
「一人だけ? すぐに警報を発して、警備の人たちに捕まえてもらえばいいでしょ」
『それが……言い難いんだけど、さっきから澪ちゃんと連絡が付かないのよ。温泉に入ろうとしてナデシコの外に出てたから……もしかしたら、敵と出くわして捕まったかも』
「なんだって!? 無事なの!?」
『無事だと思うんだけど……下手に警報を出して、敵を刺激したら澪ちゃんが危ないわ。温泉のほうに向かってるみたいだから、何とかして捕まえて』
 了解――――と和也は言ったが、どうにも腑に落ちない点があった。
「温泉って……逃げ道がないと思うんだけど、なんでそんな所に行ったの?」
 和也の言葉に、ユキナは『え、えーっと……』と少し目を泳がせた。
 しかし次の瞬間にはより深刻な面持ちで、こう答えたのだ。
『もしかしたら……逃げられないと思ってヤケクソを起こしたのかも。それで澪ちゃんに……その、乱暴を……』
 その言葉に、思考が沸騰した。

「野郎、ぶっ殺してやるっ!」



「んふふ、単純な奴」
「……ねえユキナちゃん、さっきから私の事話してたみたいだけど、何?」
「ああ、こっちの話だから気にしないで」
 怪訝な顔で訊ねてきた澪に、ユキナはひらひらと手を振る。当然、澪には傷一つない。
 和也に言ったのは全て真っ赤な嘘だ。潜伏していた敵など見つかっていないし、澪はきょとん、とした顔でここにいる。
 ――澪ちゃんは奥手で気持ちを伝えられないし、和也ちゃんは朴念仁だし、私が背中をどついてあげないとね。
「ねえねえ澪ちゃん、ここの温泉、大浴場の他に貸切の家族風呂ってのがあるの知ってた?」
「え、そうなの?」
「観光に来た家族連れやカップル向けのお風呂なんだけど、眺めがよくて気持ちいいんだって。行ってみたら?」
「はあ。それなら行ってみようかな」
 ――計画通り。ユキナは内心で拳を握り締め、二人で温泉へと向かう。
 計画はこうだ。澪を邪魔の入らない家族風呂に入れ、同時に和也を澪が捕まったと嘘をついて誘導する。
 最終的に和也は家族風呂で澪と対面し、無事な澪の姿を見た和也は安堵のあまり抱きしめるくらいはするだろう。そうして和也は澪が自分にとっていかに大事な存在かを自覚し、澪も和也から迫ってくれば拒まないだろう。そしてお互い裸で温泉の中となれば後の展開はお楽しみというものだ。
「完璧な計画だよね、あっはははははは!」
 突然高笑いを上げたユキナに、澪はぎょっとした。



「完璧な計画だよね、あっはははははは!」

 ワイワイガヤガヤと、作戦中だというのに観光客のような雰囲気で、宇宙軍の制服を着た一団が温泉へと入っていく。
 その光景を温泉施設の瓦屋根の上に隠れて見下ろしていた火星の後継者兵は、自分の先見の明にほくそ笑んでいた。
 大事に抱えていた爆薬を屋根の上に固定し、起爆装置からのテスト信号を送ってみる。問題なし。元はコロニーの構造物を破壊するための爆薬だ。たった一発でも、この温泉施設を完全に吹き飛ばすくらいの威力はある。
 後は安全圏に逃れたところで爆発させ、その混乱に乗じてシャトルか何かを奪って脱出する。完璧な作戦だ。これで生還できれば自分は一躍ヒーローになれるだろうと、彼は皮算用をしていた。
 実際には、脱出手段はどこにあるか確認していない、突破するべき敵の数も把握していない、と雑な事この上ない作戦なのだが、悲しいかな入隊から日の浅い彼にそこまでの戦略眼は備わっていなかった。ただ敵中に孤立している今の状況に、ヒロイズムが高まっていた。
 そこへ――――

「見つけた! お前かあ――――――っ!」

 突然響く、尋常でない怒気をはらんだ声。振り向くと宇宙軍の制服を着た男――もちろん和也だ――が軽々と温泉施設の屋根に着地し、弾丸のような勢いで向かってくる。
 ――やばい、見つかった!
 彼は咄嗟に起爆装置を見せ付けて叫ぶ。自爆する勇気などないが、はったりで逃げる時間を稼ぐつもりだった。
「それ以上近づいたらこいつをば」
 言い終わらないうち、掌底が一閃――――起爆装置が弾き飛ばされる。
「あっ!?」
 という間に右腕を背中に回され、後頭部を掴まれ組み伏せられる。抵抗する余地もなかった。
「ま、参った……投降する……」
 もう勝ち目がないと知った彼は、大人しく抵抗をやめた。
 やはり現実は映画のようには行かないか……口惜しさを噛み締めていた彼に、和也が口を開く。
「澪はどこ?」
「は?」
「澪! 宇宙軍の服を着て、長い黒髪で可愛くって胸が大きい! どこに隠した!?」
「……知るか」
 もちろん本当に知らないのだが、そう答えたのが命取りだった。
 いきなりぐいっ、と引っ張り上げられ、強引に起立させられる。そして腕を払われて強制的に振り向かせられると、目の前に和也の拳があった。
「――――へ?」
 避ける事もできず、顔面に拳がめり込む。その瞬間みしっ、と嫌な音がして、激痛と共に大量の血が鼻孔から流れ出した。
「ごふっ! は、鼻が……鼻が折れっ…………!」
 間伐入れずに膝がみぞおちに突き刺さり、裏拳が頬を打ち据え、前蹴りに倒れこむ。続けざまに叩き込まれた打撃に、彼は数時間前に食べたレーションを逆流させて転げまわる。
「おげえ……っ! ま、待てっ……! クアラルンプール条約に基づく捕虜としての扱いを……」
「知るかボケぇっ! 澪の居場所を白状するまで、たっぷりの苦痛を与えてやる! 生まれた事を後悔するくらいの苦痛を!」
 和也の宣言は決して大げさではない。和也は北辰から身を持って教わった拷問の知識と技術がある。いかにして殺さず、傷つけずに痛めつける事が出来るかを体現したおぞましい技術の粋を、和也はこの男に叩きつけた。
「ぎゃっ、ぐえっ、ぶほっ、は、歯が折れっ! あぐっ、ひぐっ、や、やめろ、指を折るなっ、ごっへ、ひぎいっ、助け、ギャ――――――――ッ!」
 それはもはや、精緻に描写する事が躊躇われるほどの凄惨な光景となった。和也の質問に答えようがない彼は「解らない」「知らない」と答えるしかなく、それが余計に和也の怒りを買った。
 彼がもう殺してくれと本気で懇願し始めた、その時。
『動くなっ!』
「!?」
 突然SOUND ONLYのウインドウが和也の眼前に現れ、男とも女とも付かない加工された声が聞こえてきた。
『両手を挙げろ。少しでも変なそぶりを見せたら、女の命はないぞ』
「くそっ、仲間がいたか……!」
 和也は歯噛みして火星の後継者兵から離れる。
 彼に仲間などいるはずがなかったが、結果として解放された。
『そのまま家族風呂があるほうへ歩け。屋根の端に立ったら、服を全部脱いでもらおうか』
「く……澪は無事なんだろうな!?」
『安心しろ。まだ何もしていない。お前が逆らわなければな』
 何者かに命令されるがまま、彼に背を向けて歩いていく和也は無防備だ。今なら背中にナイフを突き立ててやれる……そう思った彼は、最後の戦意を振り絞ってナイフを抜き、和也の背中に迫った。




 澪がユキナに言われるがまま家族風呂の脱衣所に入ると、そこには意外な先客がいた。
「あれ、艦長?」
 そこには、制服を脱ぎかけのルリがいた。ルリは澪に気が付くと、怪訝な顔を向けてくる。
「ツユクサ上等兵? 入り口に使用中の札を掛けてあったはずですが……」
「ごめんなさい。ユキナちゃんがここにしろってなんか強引で、札を見てませんでした……私、女湯に行きますね」
 澪は回れ右して出て行こうとしたが、「いえ、お気遣いなく」とルリは止めた。
「別に、一人くらい増えても大して変わりありません」
「あー……じゃあお言葉に甘えて。ご一緒しますね」
 そのまましばらく、無言で服を脱ぐ。
 なんとなく気まずくて、何か話そうかと澪は思っていたが、あいにく話題が見つからなかった。
 そんな沈黙を破ったのは、以外にもルリのほうだった。
「ツユクサ上等兵……今さらですけど、あなたはなぜ軍に?」
「え?」
「こう言ったら失礼かもしれませんけど、あなたは軍人には向いていません。性格があまりに平和思考で、血を見る事への忌避が強すぎます」
 それは人間としては決して悪くないが、火星の後継者との交戦状態にある今、軍人になるべき性格ではない。そのくせ能力的には優秀なので惜しい。とルリは言う。
「まあ……確かに戦争は嫌ですよ。でも和也ちゃんたちが心配で、助けになってあげたいって思ったんです」
「……あくまで『草薙の剣』のみんなのためだと?」
「はい。実を言うとですね。和也ちゃん……たちがお風呂覗きに来て、わたし、少し安心したんですよ。……ああ、女の子に興味がどうとかって話じゃないですよ? 心に余裕が出てきたって意味です」
 ニューヨークでの戦いから、和也たちはずっと張り詰めた表情をしていた。木星人への風当たりは強くなるばかりで、自分たちには到底手に余る問題に振り回される一方で。
「ミスマル准将さんっていう心強い協力者が出来て、昔のナデシコクルーの人たちが理解者になってくれて、ようやくみんなは少し安心を感じられるようになったんだと思います」
 澪も同じ気持ちだ。木星人が地球でも安心して、戦争の事など考えずに暮らせるようになってほしい。そうして初めて、澪は和也たちと共に暮らす事ができるのだから。
 そう、澪が率直な気持ちを言うと、ルリはぽつりとこう言った。
「大切なんですね、あの人たちが」
「勿論ですよ。みんな大切な私の友達ですから」
「みんな友達、ですか。みんな同じなんですね」
「う、それはその……和也ちゃんは、特別かもしれない、です……」
「どう特別なんですか?」
 らしくもなく、ルリは意地悪な事を聞いてくる。
「うう……と、友達以上の好意は……あります」
「……そうですか」
 それ以上の追求はなかったが、さすがに澪も言い返す。
「あの、何でこんな事を訊くんですか?」
「部下のメンタルチェックは艦長の役目ですから」
 嘘つけ、と思った。こんな個人的な事を根掘り葉掘り聞いて何がメンタルチェックだ、と澪は憤慨したが、そこへルリが先手を取るように口を開く。
「そういうあなたも『草薙の剣』の人たち……特にコクドウ隊長には大切にされていますね」
「そ、そうかな……」
 思ってもいなかった事を言われて、澪は照れる。
 しかし次にルリが口にした事は、そんな浮ついた気分を吹き飛ばした。
「コクドウ隊長は、あなたのお父さんの事を自分の事みたいに怒り、仇討ちの機会を待っています。地球に居場所を作ってくれたあなたにそれだけ恩義を感じていて、だからあなたが大切なんだと思います」
「え、和也ちゃんがそんな事を? ……気持ちは嬉しいけど、仇討ちなんて頼んでないし……私のために危ない事はして欲しくないかな……」
「……そうですか、ならやめてとお願いしてもらえますか。私怨のせいで任務に差し支えると困るので」
「でも……許せないって気持ちはやっぱりありますし。まずは捕まえて話を……あれ、この前博士さんにも同じ事言ったような……」
「…………」
「あ、ありゃ、艦長?」
 ルリの姿は、いつの間にか消えていた。
 どうしてルリが、こんならしくもない探りを入れてきたのか、その時の澪には何も解らなかった。



「いいざまだなあ貴様! そのまま踊りでも踊ってもらおうかな、クックック……」
 女湯の湯船の中から和也へ音声だけで命令をしていたユキナだったが、本気で澪を人質に取られていると思って何でも従う和也を操っているうち、なんだか興が乗ってきて命令の内容が脱線していた。映像をオンにすればユキナだとばれるので、今の和也の姿を見られないのが惜しい。
 と、そこへ電子音が鳴った。ユリカからの秘匿通信だ。和也との通信を一旦切ってそちらに繋ぐと、ユリカの少し困った声が聞こえてきた。
『ユキナちゃーん……ちょっと予想外の事態が発生したみたい』
「え?」
『コミュニケの反応をスキャンしたんだけど、家族風呂に澪ちゃんともう一人、ルリちゃんの反応があるんだよね……』
 ユキナは「げ!」と女の子らしからぬ声を出してしまう。こんな時だから家族風呂に先客がいるわけないと思い込んだユキナのミスだ。
「ヤバ……このままじゃ和也ちゃんがただの痴漢の現行犯だわ」
 計画の破綻を悟ったユキナは、和也に通信を入れる。



 裸にされたり踊らされたりと屈辱に耐えていた和也は、状況を掴みかねていた。
 訳の解らない要求を繰り返していた敵からの通信が急に途切れ、何も聞こえなくなった。これが味方によって制圧されたのならいいが、そういう連絡はない。ただのブラフなら澪が危ないので、和也は動くに動けないでいた。
 すぐ後ろには、ナイフを持ってにじり寄ってくる火星の後継者兵の気配がある。既にボロボロのこいつを体術で制圧するのは簡単だが、やはり澪の安否が解らなくては手が出せない。 このままでは、選ぶ事になる。
 自分が死んでも澪を助けるか、
 自分が助かるために澪を見捨てるか。
 ――くそ、どっちを選んでもバッドエンドじゃないか! こんな理不尽な選択肢、あってたまるか!
 自分はまだ死ねないし澪も助けたい。しかしその方法が思いつかずに和也は歯噛みする。
 じり、と後ろから火星の後継者兵が迫ってくる。
 誰か何とかしてよ……和也が仲間に祈る思いで念じた、その時。
『か、和也ちゃん! 澪ちゃんがたった今救出されたわ! 無事よ!』
「――――っ!」
 待ちに待った知らせがユキナから届き、和也は弾かれたように体を反転させる。
 今まさに振り下ろされようとしていたナイフを持ち手の手首を握って止め、さらに捻り上げる。「ギャッ!」と苦悶の声を上げる火星の後継者兵の絶望に満ちた顔へ、和也は容赦なく拳を叩き込む。
「あんたがっ! 死ぬまでっ! 殴るのをやめないっ!」
 のけぞる火星の後継者兵へさらに眉間に右フック、顎に左フックのワンツーパンチ。苦し紛れに出てきた左手を腰を落として避け、腹に右ストレート。そこから一歩踏み込んでダメ押しで腹に膝蹴り。つんのめった頭に鉄槌を叩きつけ、さらに右足で蹴り上げる。とどめに体を一回転させ、
「くたばれ!」
 左後ろ回し蹴りが綺麗に炸裂。「おげろおおおぉぉぉぉぉぉ……」ともはや悲鳴にすらならない声と何かを口から漏らしながら、火星の後継者兵は屋根から落ちていく。
 哀れな事に、火星の後継者兵の落ちた先はあのトラップゾーンだ。彼は落ちた先で足から逆さ吊りにされ、そこにスイングしてきた振り子に吹っ飛ばされ、落とし穴に頭から突っ込むというトラップコンボの餌食となった。
「はあー……はあー……間一髪だったよ白鳥さん」
『え、なにが?』
「なにがって、白鳥さんの言った通り屋根の上に敵がいたんだよ。もう少しで爆弾を爆発させられるところだった……」
『えっ……そ、そうだったの。危なかったわねー、よくやってくれたわ』
 ユキナの労いの言葉は、発音が妙に抑揚を欠いていた。有り体に言うなら棒読みだった。
「……? おっといけない。爆弾を無力化しなきゃ……」
 とりあえず下着とトラウザーを履いて、和也は置きっぱなしだった爆弾にむか――――

 おうとした時、カチッ、と足元の瓦が沈み込んだ感覚があった。

 ――まさか!?
 咄嗟に飛び退こうとしたが遅かった。足をつけていた瓦屋根の一面が、ガバッ――――! と跳ね上がった。
 それはいわゆるスプリングフロア――――目標を跳ね飛ばして屋根から突き落とすトラップだった。
「うわっ、わっ、わ――――――――っ!」
 空しい叫び――――和也の体は宙に浮いた。



「ふう……」
 家族風呂の湯船の中、ルリはほっと息をついた。
 ルリは他人との入浴に抵抗を感じるタイプではないが、広い風呂に一人で入るのはルリの密かな楽しみだった。
 湯船の底に手を突いて、小さく体を浮かす。お湯の浮力で水面にたゆたうこの感じがなんとなく楽しいのだが、他に人がいる時は邪魔になるだろうからできない。一人の時だけ出来る密かな楽しみ方だ。
 後ろでは澪が体を洗っているから、あまり長く浮かんでいられないのが少し残念ではあるが。
 ――私、どうしてツユクサ上等兵にあんな事訊いたんだろう。
 彼女の父親の事は、ルリもユキナや和也から聞いて知っている。
 いろいろと申し訳ない気持ちもある。だから今まで、必要以上には近付かないようにしてきた。
 なのに今更、妙に澪が、澪の考えている事が気にかかる。
「艦長、入りますね」
 ちゃぷ、と水音がして、澪が湯船に入ってきた。ルリは澪から少し離れて、湯船に腰を下ろす。

「ふああ……いいお湯……」
 戦争の事も忘れそう、と澪は気持ちよさそうに伸びをする。……拍子に、たぷん、と大きくて形のいい胸が揺れて、お湯に浮いていた。
 思わずじっと見つめてしまっていたか、視線に気付いた澪は両手で胸を隠す。
「……あ、あの、何か……?」
「別に。……スタイルいいですね、ツユクサ上等兵」
「そ、そうかな……普通だと思いますけど」
 その謙遜が、少し憎たらしい。
 ルリにとって澪、あるいはユリカやミナトのようなスタイルのいい女性は内心憧れの対称だった。思い返せばナデシコに初めて乗った十一の頃。大人の女性のミナトを見て、自分も今は少女だけど数年経てばああなるみたいに密かな期待を持っていたものだ。  あれから六年。背丈も体の一部も大きくなったけれど、目標だったミナトには程遠い。
 一方で年が大して違わないはずの澪はミナトに負けず劣らずで。いったい何を犠牲にすればあれほどのスタイルを手に入れられるのか。ああ、問い詰めたい。激しく問い詰めたい。小一時間問い詰めたい……そんな無意味な葛藤が湧き出してきて、ようやく思い至った。
 ――私は……ミオさんが羨ましいのか。
 澪は、ルリが持っていないものをいろいろ持っている。温かい家庭に生まれ、両親の愛情を受けて育ち、多くの友人から大切にされて、毎日幸せそうに笑っている……
 ルリの家族は、今はバラバラなのに。そんな事を考え、嫉妬心を抱いてしまう。それで得られる物なんてありはしないのに。
 澪は恵まれていると感じてしまう。澪だって、父親を殺された傷を抱えているのに。その傷を付けたのがルリの家族であるが、だからこそあなたたち被害者が彼を責めるせいで私は家族と一緒になれないのだと、逆恨みじみた事を考えてしまう。
 そんな自分は、きっと醜いのだろう。
 ――バカ……みたい。
 自己嫌悪。
 嫌な考えを洗い流すように顔を洗い、湯船のふちに腰掛ける。
 すると――――

「うわああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ――――――――――――!」

 悲鳴と共に空から降ってきた何かが、ルリの眼前に落ちてざばーん! と派手な水しぶきを立てた。
「な、何、何!?」
 澪は狼狽する。ルリも突然の事に思考が追いつかない。
 それは上半身裸の人間。しかも男。衝撃で外れたのか、「め、メガネ、メガネ……!」と温泉に沈んだメガネを必死に探している。
 和也だった。



 トラップによって屋根から叩き落された和也の、落ちた先は湯船だった。
 水は衝撃を吸収すると言っても、人間の体重が屋根から落ちてくるほどのエネルギーを受け止めるには深さが足りず、和也は湯船の底に腹と鼻をぶつけた。
 その時の衝撃でメガネが外れて湯船に沈んでしまい、和也は近眼にぼやける視界で「め、メガネ、メガネ……!」と探し回る。幸運にも、すぐにメガネの感触が手に伝わった。
「ぶはっ! し、死ぬかとおもっ……!」
 た、と言いかけて――――メガネで鮮明になった視界に映ったものを見て、言葉が止まった。
「……ホシノ中佐? 澪?」
 目の前に、ルリと澪がいた。

 一糸纏わぬ――――生まれたままの姿のルリと、澪が。
「……コクドウ隊長?」
 ルリがぽかんとした顔で、和也の名を呼ぶ。
「……和也ちゃん?」
 澪は驚いて逃げ出そうとし、肩越しに振り返った体勢で和也を呼んだ。
 お互い、突然の事に判断力が停止していた。
 本来なら、一刻も早く謝罪して逃げ出すべき状況だった。しかし和也は目の前の光景から目が離せないでいた。
 澪は逃げようとして固まったせいで、和也に尻を向けた状態だった。――ただ足を動かす筋肉が入っているだけなのに、驚くほどに扇情的だ。長い黒髪が濡れて肌に張り付き、澪はこんなにも綺麗だったのかと思わせるほど色っぽかった。
 ルリは温泉のふちに腰掛けていて、何一つ遮る物がないまま和也に正面を晒していた。澪や妃都美には大きさで及ばないが、つるりとした双丘は美しい曲線を描いていて、その先端には可愛らしく色づいた桜色が和也を向いている。
 そして、二人共に真っ白い――――しかし温泉の暑さでほんのり赤く上気した素肌は、絹のように艶やかで艶かしい。その身体は筋肉に乏しく、それゆえ女性らしくくびれていて、ほっそりとした手足は強く握れば折れそうなほど細い。
 美術館など行ったところで価値も良さも解らない和也だが、それでも目の前に投げ出された二人の姿は完成された芸術品のようだと思った。自分が今窮地に陥っている事を忘れさせるほど、澪と、ルリの姿は鮮烈で――――

 ――きれ……

「露草さん、借りてたシャンプー返しに……って、あああーっ!?」

 突然響いた絶叫じみた声に、和也の思考は中断され、三人が三人とも入り口のほうを見た。
 シャンプーを手に持った女性クルーが、入り口の前に立っていた。彼女は恐ろしい、そして信じられないものを見てしまったような驚愕の表情をして、

「いやーっ! 誰かーっ! 艦長と露草さんが襲われるーっ!」

 金切り声を上げて飛び出していった女性クルーの言葉に、和也もようやく判断力を取り戻した。
 全裸の澪とルリの目の前に、上半身裸の半裸で現れた自分。何も知らない人間が見たらどう思うか、そこに思い至って――――今更のように、和也の顔色が赤から青に転じた。
「ままま、待ってーっ! これは誤解です! 襲いに来たんじゃない!」
「……へー、そんな格好でお風呂に落ちてきて、何が誤解なのかな」
 ぞくりとした。氷点下の響きを帯びた澪の声だった。
「いや、僕には訳が、というか澪、無事でよかった!?」
「何が、無事でよかった、よ……!」
 澪は羞恥と怒りでわなわなと震えていた。今は何を言っても聞いてもらえそうにない。
 今はここから逃げないと……! ざばっと湯船から上がって逃げ出そうとした和也だったが、その動きが貼り付けられたようにぴたっと止まる。
 和也の体のあちこちに、赤い光の線が突き立っていた。和也もよく使う、銃のレーザーサイトだ。
「隊長……残念でありますな、どうやらあなたを買いかぶっていたやも知れませぬ」
「動かないでください、たとえ和也さんでも妙なそぶりをすれば撃ちます」
「見るだけでは飽き足りませんでしたか。なんだかんだでおさかんですわねえ」
「抜け駆けたあ、やるじゃねえか。せめてもの祝福に鉛弾をプレゼントするぜ」
「盛大に祝ってやるわよ、この野郎」
「……因果応報……罪を悔い改めるのです、和也さん……」
 ああ、さすがの即応力だ、と和也は自分のチームメンバーたちの能力に満足していた。
 そして、敵に回すとこんなにも怖い。両手を頭の後ろに置いて動けないでいる和也の下へ、ドドドド……と地鳴りを響かせながら大勢のクルーが殺到してくる。
「よう、黒道っ! お前もなかなかの勇者だな! せめてもの手向けだ、介錯してやるよ!」
「ぼ、ボクでも手を繋いで寝た事しかないのに、一緒にお風呂だなんてっ! 許せませんっ!」
「あらー大変だねー、いけない男の子だねー、これはお仕置きしてあげないとねー」
「大変だー、変態だー、タイヘンタイヘンタイヘンタイだー……ククク」
「おれたちのルリルリに手を出すとは、万死に値するっ! 黒道和也を殺せ!」
「黒道を殺せっ!」
 サブロウタ、ハーリー、ヒカル、イズミの他、殺気立ったクルーたちに和也はたちまち取り囲まれる。本当に殺されそうな雰囲気に恐怖した和也は、懸命に説得を試みる。
「みみみ皆さん、落ち着いて話を聞いてくださいっ! 僕は決して、よこしまな目的でここに来たわけではないんです……!」
「言い訳無用だ! お前がルリルリの裸を見たという事に疑いの余地はないっ! 死刑にする理由としてはそれで十分!」
「ほ、ホシノ中佐の裸なんて見てな――――!」
 見てないわけがない。目を閉じれば先刻の光景が鮮明に浮かんでくる。
 慎ましやかながらもはっきりと柔らかさを持った二つの膨らみも、その先端に色づいた桜色も、下半身の仄かな茂りまではっきりと網膜に焼き付いていた。
 ――髪の色と、同じ、だった……
 不意に鼻の奥に痛みを感じ、鼻孔から血が滴り落ちてきて、和也は口元を押さえる。
 それは温泉に落ちた時に、鼻を湯船の底にぶつけた事が原因の出血だったが、押さえた手の隙間から鼻血を滴らせる和也を見て、とある女性クルーが悲鳴を上げた。
「きゃーっ! こいつ鼻血出してる!」
「思い出してるのかこの野郎、もう許さねえ、そこになおれ!」
「ち、違っ、これはぶつけて……」
 もはや抗弁も意味はなく、和也は壁際に追い詰められる。
「さーて黒道、覗きの現行犯は……解ってるよな?」
 全員投擲用意、という、怒っているというより楽しそうなサブロウタの号令一下、居並ぶクルーたちは一斉に木桶を構える。覗きの現行犯に対する伝統的な刑罰、『木桶の嵐』の執行だ。
 と、そこへバスタオルで体を隠したルリが近づいてきて、和也の前に立った。嵐の中心人物が前に出た事で、騒がしかった場が一転して静まり返る。
「ほ、ホシノ中佐……僕は……」
 ルリに最後の希望を見出した和也は、助けを期待して縋るような目でルリを見る。  そんな和也に、ルリは――――
「…………っ!」

 ぺちーん、と甲高い音が、その場に響き渡った。

 それはルリの平手打ちが和也の左頬を打った音だった。大して強い力でもなかったが、今の和也には何より痛い。
「……処分は追って伝えます」
 それだけを言い捨て、ルリは家族風呂を出ていく。
「和也ちゃん、しっかり反省してくるんだよ!?」
 澪も怒った声でそう言い、その場を立ち去った。
 後に残されたのは和也と殺気立った面々だけだ。味方が誰もいない状況に落とされ、和也は絶望を味わった。
「お……お願いですから、せめて申し開きを……」
「全員、撃てーっ!」
「させてくださいいいいいいいいい――――――――――――――っ!」

 和也の悲痛な叫びが、家族風呂に響き渡った――――



 貴重な入浴時間を台無しにされた澪とルリの二人は、ナデシコCの居住区に戻ってきていた。
「あーあ、和也ちゃんがあんな事する人だったなんて……」
「…………」
「あれ、でも私たちが家族風呂に入るって知ってたのはユキナちゃんだけだよね……まさか、ユキナちゃんの差し金?」
「…………」
「うわー! ユキナちゃんったら何考えてるんだろ!? ……でも、和也ちゃんが来たって事は、まさか……い、いやいや、拒む、拒むよ絶対!? ですよね艦長!?」
「……まだ時間はあるので、少し、部屋で休みます」
 澪の言葉に答えず、ルリは自分の部屋に入っていった。
「……艦長?」
 いつものルリらしくない、とようやく澪も気付いた。

 部屋に戻ったルリは、電気を点ける事もせずにぼすっ、とベッドへ倒れこむように寝転がった。
「はあ……」
 深く、息を吐く。追い立てられるように温泉を出てからずっと、ルリの体はおかしかった。
 顔に触れる。――――熱い。体温計で熱を測ってみる。――――平熱。体に異常はない。単純に湯上がりだからでもない。もっと別のところから来る熱さだ。
「オモイカネ……ネットワークにアクセス、平熱なのに体が熱い症状が出る疾病を検索……」
 ネットで検索をかける。いろいろな病気の症例が出てくるが、どれもこれも回答にならない。医務室に行くべきか。
 ――なんで、こんな。
 理解できない。たかが裸を見られただけなのに、猛烈に悔しいような、いや違うような、そんな感覚が止められない。
「……こんなの……初めて」
 ぎゅう、と自分で自分の体を抱く。
 今の自分は、どんな顔をしているのだろうと思った。



『あ、あのー、皆さん? ちょっとこの件についてお話が……』
『提督命令です、わたしの話を聞きなさーい! 皆さん誤解してますよー!』
 家族風呂にて、ユキナとユリカのウィンドウが飛び回り、事の次第を説明しようとしている。
「自分だけ良い物見やがってー!」
「脳みそほじくり出して記憶の中を見てやるー!」
「鎮魂! 勇壮烈士黒道和也!」
 しかし、完全に暴走状態に突入したクルーたちの耳には二人の声は届かない。怒りのこもった木桶が雨あられと逃げ回る和也目掛けて降り注ぐ。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い! みんな、ごっへ、みんな落ち着いて、話を聞いて――――!」
「問答無用、撃て撃てー!」
「やろう、ぶっころしてやる!」
「きゃはははははっ! なんか楽しくなってきたっ!」
「ヘールプ! ヘ――――ルプ!」
 刑罰は、まだ終わりそうにない。


 その頃――――

「アオイ艦長、妙な通信を傍受しました」
 ナデシコCより一足早く出航していた、戦艦アマリリスのブリッジ―――― 一人のオペレーターが、不可解な報告をしてきた。
 アオイ・ジュン中佐は、すぐに問い質す。
「妙な通信? もっと正確に言ってくれ。敵のものか?」
「それが……敵のものらしいのですが、暗号化も何もされていません。オープンチャンネルで放送しています」
「罠か? それにしてもあからさま過ぎるな」
 一応聞いてみよう、とジュンはオペレーターにスピーカーで流すよう命じた。
 程なくして聞こえてきた通信は、明らかに戦闘中と解る、いくつもの声と爆音の重なり合ったものだった。
『――畜生! 三番艦も食われた!』
『虫型兵器の数が多すぎる、対処できない!』
『ダメだ、俺たちじゃ太刀打ちできない! 誰か、誰でもいい、この際地球軍でもいい! 助けてくれ、このままじゃ皆殺しにされる! 敵はプリンス・オブ・ダークネ――――!』

 そこで、通信はナイフで断ち切ったように、ぷつりと聞こえなくなった。










あとがき

 はい。最近のアニメで円盤の売り上げを左右する重要なエピソード、温泉回でした。一応水着回でもありましたがモデルの関係で押絵は無理でした。ごめんなさいね。
 もちろん円盤では湯気が消えます。発売は2215年の1月頃の予定です。……と、一度やってみたかったんですこれ。(笑)
 やってる事は茶番でしたが、いろいろフラグが立った回でもありました。まあ次回以降をお楽しみにしてくださいという事で。

 さて次回、なんだか不吉な予兆とか訪れたりしてますが、ユリカみたいな心強い協力者が出来た事ですし、もう和也たちが精神的に追い詰められて胃が痛くなる展開はないんじゃないですかねー(棒)

 それでは、次は2015年にお会いしましょう。










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代理人の感想
む、報われねえww
まぁ結果的にヤッちまったのは事実ですし、処刑は残当でしょうかw

しかし、立つかな立つかなーと思ってはいましたが、本当にルリフラグ立った。
何年越しのフラグ成立だw


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