「ナデシコC、抜錨!」
 ミスマル・ユリカ准将の号令がかかり、ホシノ・ルリ中佐は相転移エンジンに火を入れた。
 艦全体がまどろみから目を覚ましたように鳴動し、微速前進。ナデシコCがターミナルコロニー『ヤサカニ』の港湾から出航する。
 すぐ外の宇宙空間では、多数の軍艦が同様にコロニーを離れていくところだった。最後の戦いに向け、緊張感がいよいよ高まっていく気配を感じる。
『ヤサカニ』にて先の戦闘での損傷を応急修理し、消耗した武器兵器を補充したナデシコCは、火星の後継者との決戦に向け、意気揚々と出撃した。補給は十分、整備も完璧、クルーも休養を取って士気旺盛と、まさに万全の態勢。
 強いて言うなら、一人だけ万全じゃない人がいるか……と思うルリのすぐ後ろで、ユリカがブリッジの入り口前に整列した戦闘要員たちへ指示を出す。
「とりあえずナデシコCは包囲網の内側で遊撃体制を取ります。いつ戦闘があるか解らないので、艦内は警戒態勢パターンBを維持。戦闘要員は夕食を摂り次第、即応可能な態勢で待機してください」
「了解!」
 タカスギ・サブロウタ少佐は、気合の入った声で敬礼した。
「了解ー」
 アマノ・ヒカル中尉相等官は普段通りの鷹揚な調子で答えた。
「魚釣りに行くのかい? 漁かい? ククク……」
 マキ・イズミ中尉相等官はいつものように寒いダジャレを返事に代えていた。
「……了解……」
 最後に答えた声は、フゴフゴ、と不自然にくぐもっていた。
 それもそのはず。声の主――――黒道和也は、顔中に包帯を巻いたミイラ男のような状態で、戦う前から既に満身創痍の有様だった。
 全身打撲。特に顔から頭にかけて重傷。収容された時には脳震盪で意識がなかった。おまけにこの傷、敵ではなく味方がよってたかって付けた傷なのだから笑えない。
 数時間前、制圧した『ヤサカニ』の中に潜伏していた火星の後継者兵を捕まえた和也だったが、温泉施設で入浴中のルリと澪を襲おうとしたと誤解され、大勢のクルーから制裁を受けた。
 ルリも懲罰房にぶち込んでやるつもりでいたが、最終的にはユリカと、白鳥ユキナの証言により、本当に潜伏していた火星の後継者兵が――瀕死の重傷で――見つかった事で和也の冤罪は晴れ、処分も取り消しにした。その時にはもういろんな意味で手遅れだったのだが。
 怪我はまあ、この程度なら医療用ナノマシン配合の塗り薬と包帯が数時間で完治させてくれるだろうから、特に心配はしていない。
 一つ気になるのは……
「その……和也ちゃん、何にも知らないのに、酷い事言っちゃってごめんね?」
 ブリッジから退室しようとした和也へ、露草澪がおずおずと声をかけた。すると和也も一瞬ドキッと体を震わせる。
「あー……うん。気にしてないから」
 温泉で思いっきり裸を凝視したのだから当然といえば当然だが、あれからお互い意識してしまったのかぎこちない状態が続いている。
 そして、見られたのはルリも同じだ。
「…………」
 こっそりと体を捻って後ろを見る。――――すると、目が合った。
「……っ!」
 和也は顔を赤くして目を逸らす。そして「しっ、失礼します……!」と言って、足早にブリッジから出て行った。
 あからさまなほど、ルリも意識されている。ユキナやユリカがクスクスと笑いをかみ殺しているのが聞こえ、ルリも逃げ出したくなった。
「ふふ……それじゃあユリカも晩ごはん食べてくるから、ルリちゃんと澪ちゃん、ブリッジをお願いしていい?」
「あ、はーい」
「……解りました」
 ユリカが「ハーリー君、行こ」とマキビ・ハリ中尉を伴ってブリッジを退室し、ルリは深く息を付いた。ついでに澪もはあああ、とため息をつく。
 ――バカ……
 内心で和也を罵る。まったく、恥ずかしい事この上ない。
 おかげで、さっきから心臓が早鐘を打っているのだ。……そう、きっとそのせいだ。



 機動戦艦ナデシコ――贖罪の刻――
 第十九話 黒い王子様



「あたしはステーキ定食! 焼き方はレアで、一ポンドくらい焼いてね!」
「オレはカツ丼大盛りにするぜ。決戦に向けて精力をつけねえとな」
「最後の晩餐にならない事を祈りますわ」
「こんな勝ち戦で心配ないですよ……」

 数分後、ナデシコCの食堂に集まった『草薙の剣』とエステバリスライダーの面々は、思い思いの品を手にテーブルを囲んでいた。
 これから即応待機となればレトルトのレーションばかりになるので、皆が自分の好物を大盛りにしたりするなど、戦いに向けてコンディションを整えるのに余念がない。既に勝ち戦が確定しているような状況でも、心身ともに万全の状態で望もうとしていた。
 望もうとしている、のだが。

 ――うう……ドキドキした……

 定番の和定食をつつきながら、和也は先ほどの事を思い出していた。
 つい数時間前までは普通に話していたのに、今はどんな顔をして話せばいいか解らなかった。
 和也が悶々とした気持ちを抱えていると、右からふへへへへ、と下種な笑い声が飛んできた。
「意識して仕方ないって顔だな。この童貞坊主め」
「……ほっといてください」
 大盛りのパエリアを手に早速からかってきたサブロウタをじとっと睨み、和也はフゴフゴ、と包帯越しの声で答える。箸が進まないのは口元まで覆う包帯のせいだけではあるまい……
「あらあら、恥じる事はありませんわ。健康な十七歳の男子としては至極正常な反応でしてよ」
 今度は左から淫猥な笑みを浮かべて、スパゲティ・ペペロンチーノをフォークに巻きながら影守美雪がからんできた。
「少しは見る目が変わりまして? 女の素晴らしさが解ったのでは?」
 ――ああ、変わったとも。どんな顔をして話せばいいか解らなかった……
 左右からニタニタとからんでくるサブロウタと美雪に、和也は無視を決め込んでいたが、内心ではかなり動揺していた。
 異性を意識した事なんて、生まれてこの方一度もなかった。木連軍にいた頃は余計な事は意識するなと教えられ、トイレも着替えも風呂も同じ部屋という性差を排除する教育を受けた身だし、地球に来てから知り合った澪も、お互い気を許しあえる友達で、だからこそ変に意識したりはしなかった。
 ルリは……ナデシコで再開した時は、オオイソにいた時の生気のない様子から打って変わった凛々しい軍人の雰囲気に、一度は興味が向いた気もするが、その後まるで信用されていない様子を見て、兵士と上官以上の感情を持つ余地などないと思い知り、全ての感情が吹っ飛んだ。
 澪は大事な友達。ルリは頼れる上官。それでいいはずだった。なのにあんなものを見て、友達と上官が急に“女の子”に見えてきて……
「あああああああああっ! 考えちゃダメだ考えちゃダメだ考えちゃダメだ考えちゃダメだ考えちゃダメだ考えちゃダメだ考えちゃダメだッ!」
 忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ! と和也はテーブルに頭を打ち付ける。突然の奇行に仰天した立崎盾身が、「隊長!? お気を確かにっ!」と止めにかかった。
「ホホ、効果覿面ですわね。わたくしも少し参考にしようかしら」
「……怒られるから、やめておいたほうがいいと思いますが……」
 何かよからぬ事を考えている美雪を、七草粥定食を食べていた神目美佳がたしなめた。
 すると、珍しく食事の手を止めてなにやら熟考していた山口烈火も「……っ、おう、そうだな……」と慌てたように相槌を打った。彼もまた何か策を考えていたらしい。
「ケッ、どいつもこいつも色気づいちゃって。大体戦闘中に色恋の話とか死亡フラグじゃない」
「まったくです。進んで死神を呼ぶ人の気が知れません」
 分厚いステーキをがっついていた田村奈々美と、肉うどんをすすっていた真矢妃都美の二人は、和也たちの様子を一歩引いた所から見ていた。色恋沙汰への興味が現状最も薄い二人には、男だ女だで騒いでいる彼らの様子は緊張感が欠けていると映っているようだ。
 そんな二人に、「解ってねえなあ」とパエリアのトレーを手にサブロウタが近付いていった。
「死亡フラグなんていくらでもへし折ってやれるんだよ。むしろ戦場で絶望的な状況に陥った時、恋人の存在が抵抗の意思を呼び起こして、そこから逆転するパターンもありだろ」
 妃都美は少し胡散臭そうに目を細めたが、何か思うところかあったか他の皆へ視線を泳がせ、「……まあ、解らなくはないですね」と同意した。
「支えになるパートナーの存在を羨ましく思わなくはありません。ただ問題なのは、その気持ちが一方通行かもしれない事ですが……」
「あんたもあたしも、クズ野郎の子種から生まれたからね。愛だの恋だの、正直胡散臭いわ」
 妃都美と奈々美は、幼年期を愛情の欠如した家庭で育った身だ。最初から家庭を知らない和也などと違って男女の悪い面を見ただけに、恋愛を無条件に信じるのは難しい。
 これにはさすがのサブロウタもうまい言葉が思いつかなかったか、「まあ、そういう事もあるかね……」と言葉を濁した。
「無理はしなくていいが……そのうちお前たちも、いい相手を見つければ解るさ。あの人の存在が自分の支えになってるんだってな」
「……善処します」
「覚えとくわ。忘れなければね」
「相手からすればハードル高そうだけどな。俺も引き続き努力して――――」
『何を努力するって?』
「どわあああああああああああっ!?」
 いきなり聞こえた声に、サブロウタが仰天して腰を浮かす。
 いつの間にか、空中にウィンドウが浮かんでいて、それに映っていたのは半年前に一度会ったきりの、ある人物の顔だった。
「ちちち、中尉!? なんで通信を……」
『あんだよ、艦が近くにいるから久々に挨拶でもするかなー、と思ったんだけど』
 お邪魔だったか? とスバル・リョーコ中尉は少しふてくされたように言った。
 そこへ、ヒカルとイズミの二人が駆け寄っていく。
「リョーコちゃん! お久しぶりー! 元気してたー?」
「茹でたお野菜……そりゃおひたし。クク……」
『よお、お前らか! ヒカル、連載抱えたままで大丈夫か? イズミは……まあ特に変わりないみてえだな』
 親しげに話し始める三人。そういえば、この人も元ナデシコクルーだったっけ……と和也が額から血を流しながら思い出していると、和也たちに気が付いたリョーコがウィンドウを寄せてきた。
『おお、おめーらもナデシコに乗ってるって本当だったか。ガキのくせに大活躍してるみたいじゃねーか』
 ――ガキ……
 この半年余りの間にあちこちで激戦を戦い、かなりキャリアを積んできた気がしていたところに開口一番ガキ呼ばわりされて、少しムッとしたが我慢して愛想よく答えた。
「……おかげさまで。中尉もお変わりなく」
「久しぶりじゃない。あんたはなにやってたわけ?」
 挑発的に奈々美が口を挟む。上官に対して不遜な態度ではあったが、リョーコは特に気にした様子もなく胸を張る。
『オレたちもおめーらと同じ、JTUの連中と一緒にあちこち回ってきたよ。時間があったらゆっくり武勇伝を聞かせてやるぜ』
「へー、自信ありそうじゃない。それじゃあ敵の撃破数で勝負よ!」
「白兵戦と機動兵器戦の撃破スコアは一概に比べられないと思いますが……」
「この人相手に、無理な勝負はしないほうがいいぜ」
「やかましいわよ!」
 張り合おうとしたところに冷静な横槍を入れられ、奈々美が怒鳴る。そんな様子の彼らに他の連中は笑っていた。
「……楽しそうですね、皆さん」
 と、向かいの席で妙に静かに火星丼を食べていたハーリーが、ぽつりと口を開いた。
「ん? そうですね。この船に乗ってからみんな楽しそうだ……この戦いもいよいよ終わりが近い感じだし、クルーもみんな気の合う人ばかりで」
「仲良く、なりましたよね。昔のナデシコクルーの人たちとも……」
「それはもう。武器の話で盛り上がったり、一緒に漫画を書いたり……いっそみんなで移籍しちゃおうかな」
 統合軍に特別な愛着はないし、案外本気で考えてもいいかと和也は思う。きっと他のメンバーも反対する者はいないだろう。
「そう……ですよね。みんないい人たちですもんね……」
 言った和也に、ハーリーは曖昧な笑みを浮かべた。



 誰もが笑っている。『草薙の剣』も、古参のナデシコクルーも意気投合して、和気藹々と笑いあっている。
 そんな、いつ戦闘が始まってもおかしくない今の状況にそぐわない、微笑ましいとさえ言える光景を前に、しかしハーリーは一人、爆弾を腹に巻いているような感覚に襲われていた。
 ――お腹痛い……
 足元が常にぐらつくような錯覚がある。大好物の火星丼が妙に味気なく、喉を通らない。
 原因は解っている。
 ――旧ナデシコクルーの人たちって……コクドウ隊長たちにとっては仇なんだよなあ……
 数時間前に和也の口から聞いた、戦争中和也たちの先輩である二つの小隊が、月での戦いで全滅した話。
 先輩方を消し去った相転移砲を撃ったのが、今目の前で笑いあっている人たちだと知ったら、和也たちはどうするのだろう?
 ――やっぱり艦長や提督には、話したほうがいいのかな……
 充分に報告義務が生じる、聞き捨てならない情報だ。軍の士官としてはそうするべきだろう。
 だがそれを聞いたら、ユリカやルリはどう思う? せっかく築いた信頼関係を、決戦を控えた大事な時に壊したくない。そんな風に思考が堂々巡りをして、結局先送りしてしまうという事を、ハーリーはこの何時間かで数え切れないほど繰り返した。
 ――せめて、何事もなく終わって欲しい。
 そうして戦いを終えられたら、その時こそ全てを話そう。きっと和也たちとユリカたちなら、話し合った上で全て円満に収められるはずだ。
 結局、戦いが終わるまでは誰にも言うまいと改めて心に決め、ハーリーは懸命に平静を装うのだった。



「いやはや……皆元気な事だ」
 自分のカツカレーを早々と完食した盾身は、和也たちの騒々しい様子を少し離れて見ていた。
 まあ、大いに結構だ。おかげで皆が久々に笑顔を見せるようになったのだから……などと思っていると、横から不意に声がかかった。
「若いっていいねー」
 そう言ったのはユリカだった。和也たちを見るその目は、子供たちを優しく見守る母親のよう。……というか、彼女は確かまだ二十六ではなかったろうか。
「提督もまだ、若さをうらやむには早いお年と思いますが」
「あらお上手。でもねえ、ユリカもああいうのを見てると、あの子たちも戦争さえなければ普通の子供で、早くそういう暮らしに戻してあげたいって思っちゃうんだよね」
「お気持ちは嬉しく思います。しかしながら、ここにいるのは誰に強制されたわけでもなく我々の――――」
 選択です、と盾身が言いかけたところで、ユリカの人差し指に唇を押さえられた。
「うんうん。それはよく解ってる。けどね……そう思ってくれてる人の気持ちも解ってあげてほしいな」
 ユリカの言ったのが誰の事か、盾身にはすぐ解った。
「秋山……源八朗殿ですな」
「秋山さんもね、前に言ってたんだよ」



 数ヶ月前――――

 宇宙軍本部ビルにある会議室の一つに、上等な牛肉と割り鉢の香ばしい匂いが漂っていた。鍋の中では牛肉の他に焼き豆腐や長ネギしいたけその他もろもろの具材が美しい比率で投入され、グツグツと食べごろを示して踊っている。
 その場でテーブルを囲んだ面々の前にはご飯と味噌汁、そして生卵が準備され、卵を溶いて準備万端。早速牛肉を溶き卵にたっぷりと付けて、ユリカが口を開く。
「議会への根回しは順調に進んでます。既に二百……」
「ユリカ、ほっぺたにご飯粒が付いているよ」
 上座に座る父――――ミスマル・コウイチロウにやんわりと言われ、ユリカは頬の米粒を手にとって食べると、咳払いをして言い直した。
「んん……二百人近い協力を取り付けてます。国内はだいぶ準備できてますよ」
「そちらのほうは次の選挙に間に合いそうだね。で、他国はどうかね?」
 コウイチロウが目を向けると、猫舌なのか牛肉をフーフーしていたムネタケ・ヨシサダ参謀長が、手を止めて発言する。
「他国は既に十二カ国が協力を約束してくれました。最終的に協力してくれそうな国は四十そこそこといった所ですかな。ただ高麗共和国など安易には信用できない国もありますし、火星の後継者寄りの勢力が強い国も多い。楽観は出来かねますな」
「こちらも予断を許さない状況ですな……」
 そう言ったのは元木連組を代表して宇宙軍に籍を置いている、秋山元八郎中将だ。
「現在のところは地球との協調派――つまり自分の派閥ですな――と、火星の後継者寄りな強硬派の勢力は拮抗しておりますが、今後はどうなるか。何より火星の後継者による懐柔策が怖い……」
「やはりどちらにしても、火星の後継者に少しでも打撃を与えなければ厳しいか……ユリカ、JTU部隊の方はどうなっているかね?」
「あ、はい……この前もナデシコのルリちゃんから、また一つテロ組織を潰したって知らせが来ました。よくやってはいるみたいですよ。ただ……火星の後継者を倒そうとするあまり、焦って敵を増やさないといいんですけど」
 火星の後継者はどのみち排除しなければいけない敵だし、そのためにJTUやナデシコの働きが重要なのは確かだ。だが以前の南米や中東のように、かえって火星の後継者の側に付く人を増やすような事をすれば、逆に敵を利する事になる。
 ルリの復讐心が、火星の後継者に利用されてはいないか、ユリカはそれが気がかりだった。
「せめて『草薙の剣』の子たちと交流して、ルリちゃんも少しは考え直してくれればいいんですけど」
「『草薙の剣』か……彼らも彼らだ。わざわざ普通の学生として地球に送り出したというのに、結局軍に戻ってくるとは……」
 秋山は少し憮然とした面持ちになる。『草薙の剣』を保護し地球に送った本人としては、彼らが戦う決断をした事を手放しでは歓迎できないのだろう。
「でも、いい子たちじゃないですか」
 そんな秋山に、ユリカはやんわりと言う。
「いつかきっと誰かが何とかしてくれる、とか言って行動を起こさない大人が大多数な世界で、あの子たちは自分たちが何とかしなきゃと思って行動したんだし、その心は立派だと思いますけど」
「そうだな……だが、彼らはそうなってもよかったはずだったのだ……」
 茶碗をテーブルに置いて、秋山は深くため息をつく。
「彼らとて、元はただの子供だった。家族の愛情を受けて育ち、学友と友情を育み、恋に頬を染めて、自分のやりたい事を見つけて……そうしてただのくだらない大人になってもよかったのだ」
 そうなる権利は、彼らにもあったはずだった。だが……
「その当たり前の権利を……身勝手にも、我々大人が取り上げてしまった。戦争に勝つため……地球に復讐するため必要だからと、自分もそれを知っていながら容認していた。あの時はそれが当然だとばかり思っていた……」
 だが、白鳥九十九の死の真相を月臣から聞かされた時、今まで信じてきたものは大きく揺らいだ。そして意を決して熱血クーデターを実行したあと……戦闘で乗機を破壊され、保護された『草薙の剣』を戦艦の医務室で見た時、それは決定的になった。
「一目見て愕然としたよ。まだ小学校に通う年の子供たちが、傷ついた体をベッドの上に横たえていた。体だけではない……彼らは草壁閣下に見捨てられたと思い、生きる気力さえ無くしかけていた。それを見てようやく、我々木星の大人は身勝手な戦争のため、本来その必要がない子供にまで惨い仕打ちを強いていたのだと気付かされた」
「それで、あの子たちを普通の学生として地球に送ったんですね?」
 ユリカの言葉に、秋山は頷く。
「我々が取り上げた権利を、少しでも返してやるつもりだった。だが……地球に行く少し前、自分がインプラントの除去を持ちかけた時、彼らは誰も首を縦に振らなかった。彼らはあくまでも、木星のための剣であろうとした……そんな彼らが、戦場に戻ってくるのは必然だったのかも知れんな……」
 遠い目をした秋山は、懺悔するように頭を垂れる。彼にとって『草薙の剣』は自分の母星の汚点であり、心に刺さった棘なのだろう。
「気持ちは解りますけど……あの子たちも、自分で考えて決めたんじゃあ……」
「ああ、解っているよ。いまさらやめろなどとは言わない……何より彼らは、木星人の幸福のためには地球との繋がりが必要と思ってこちら側で戦っている。彼らもこの四年で変わったのだろう……ならば自分は、彼らが望む、よりよい未来を残すために努力するだけだ」



「秋山殿がそんな事を……」
 ユリカの話を聞き終え、盾身は神妙な面持ちになった。
 当時は皆、いままで信じてきたものを全て失い、心が空っぽになったような状態で、ただ嫌な思い出から逃げるように地球へ向かったものだった。
 秋山がどんな心境で自分たちを地球に送り出したかなど、その時は斟酌する余裕もなかったが、改めて聞くと彼が自分たちの事を兵器から人間に戻そうとしてくれたのがよく解る。
「秋山殿には、今は大いに感謝しております」
 だから盾身は、まずお礼の言葉を口にした。
「しかし我々も、火星の後継者の非道を黙って見てはいられなかったので……あのままでは木星人移民は地球を追われてしまう。それでは……」
「地球から離れたくないんだね」
「以前のような、戦争のために生活を犠牲にし、人々が飢えるような星にならないためには地球との交流が重要と……」
「そうじゃなくて、君個人がだよ。何か個人的にも、地球から離れたくない理由があるんでしょ?」
「……っ」
 盾身は口ごもる。
 確かに、個人的な理由はある。しかしそれは和也さえまだ知らない、長年秘密にしてきた事だ。ユリカの前で白状するのは躊躇われた。
 だがそんな盾身のしどろもどろな様子を見て、ユリカは全て悟ったようだった。
「えへへ、やっぱり」
「じっ、自分はですな……」
 赤面して何かを言おうとした盾身だったが、「いやいや、恥じる事ないよ」とユリカに遮られた。
「私の知ってる人にもそういう人多いから。ユキナちゃんとか、そのお兄さんの九十九さんとか。みんなそれで考えを変えるんだものね」
 素敵だよねえ、とユリカは朗らかに笑う。
「……そうかもしれませぬ……とはいえ、不安でもありますな」
 盾身としては、是が非でも火星の後継者を倒して、木星人が白い眼で見られる事無く地球で暮らせるようにしたい。だが……
「既に事態は、火星の後継者を倒したとてどうにもならないところまで来ているのではないかと、自分は危惧しているのであります。木星人だけではない……地球連合は、以前から内包していたであろう内部対立を鮮明にしつつある」
『イワト』ではドラグノフ中尉の他、世界各国の兵士が相当裏切っていて、火星の後継者の襲来と同時に牙を剥いてきた。それはつまり、彼らの祖国が表立って動き出す機運がいよいよ高まっているとも取れる。
「不穏分子が一斉に動き出せば、それは全人類を二分した大戦に繋がる。火星の後継者を倒したとして、はたしてそれを阻止できるのかどうか……」
 仮にそうなってしまえば、もう火星の後継者を倒せても意味がない。木星人の居場所がなくなるのは同じだ。
 既に木星人の運命は、修正不可能な一線ポイント・オブ・ノーリターンを超えてしまったのではないか……盾身は、その不安がどうしても拭えないでいたのだ。
 それを聞いたユリカも、「そうだねえ……」と目を細めた。
「裏切る国や、裏切りの機会を窺ってる国がボロボロ出て、地球連合はもうガタガタ……そもそも、思想も価値観も何もかも違う人たちを『地球人類』って一くくりにして統一するなんて、最初から無理があったのかも」
 地球人類宣言……何国人ではなく地球人であるという意識が出来上がった人々にとって、それは必然的で、素晴らしい宣言であった事だろう。
 だが、そう感じたのはほんの一部。まだ自分は何国人である事を誇りにしている人にとって、それはただの強引な価値観の押し付けだった。
 それでも、この百年は国家間戦争のない平和な時代が続いたのだから、むしろ上等と言うべきだろう。だが百年間くすぶり続けたこの火薬庫は、火星の後継者という着火剤によってついに火が点いた。
「どうすれば……その火を消せるのでしょうかな」
「どうしようもないんじゃないかなあ。いつかは出さないといけない膿だと思うよ」
「…………」
 やはりそう思うか、と肩を落とした盾身に、でもね、とユリカは肩を叩く。
「火星の後継者の思い通りには絶対させないし、戦争も起こさせないよ。そのための『計画』は、軍や政府の一部でもう始まってるんだからね」
「『計画』?」
「近々他のみんなにも話すけど、秋山さんたち宇宙軍の高官や、一部の政治家さんで進めてる事でね……」
 その話を、ユリカの口から聞いて……盾身は思わず腰を浮かせた。
「そのような事……! それで本当に、世界を救ったと言えるのでしょうか!?」
「ご不満かな? 君たちにとっちゃ、むしろいい話かなと思ったけど」
「いや、不満というか……」
 本当にそれでいいのかと思ってしまったが……少し考えて、いや、と思い直した。
「……それでいいのかもしれませぬな。我々としても、変に我慢し続けるよりそのほうが受け入れ易い」
 いつの間にか自分も、地球人類主義に毒されかけていたようだ、と盾身は自戒した。
「感服いたしました。この立崎盾身、必ずやお力になる事をお約束いたします。隊長たちも、きっと同じ判断をする事でしょう」
「ありがとう。……ところで、こっちがいろいろ話したんだから盾身くんももっと詳しく話して欲しいな、例の事について」
「な!? そ、それは……」
 聞かれたくない話を蒸し返され、盾身は狼狽する。
「ユリカもぜひ聞きたいなあー」
「……ご冗談を。聞いて楽しい話などでは……」
「ねー、お願い教えてー」
「……お願いされましても、こればかりは……」
「提督命令です、聞かせなさーい!」
 食い下がるユリカに、盾身はなんだか逃げ出したくなった。
 とその時、スピーカーから艦内放送が鳴り響いた。
『こちらはブリッジです。ミスマル提督、この放送を聞いたら至急ブリッジまでおいでください』
「澪殿? なぜ艦内放送を……通信で呼び出せばよいだろうに」
 盾身は訝ったが、「あ、ない」とユリカが自分の手首を見て言った。
「コミュニケ、部屋に置き忘れたみたい……ごめんね、行かなきゃ」
 ユリカはそそくさと席を立ち、トレイを返却して食堂を出て行く。どうやら話を聞かれずに済んだようで、「ふう……」と盾身は安堵の息を付いた。
 が、その時ユリカが出入り口からひょこっと顔を出してきた。
「盾身くん、終わったら話し聞かせてもらうからね!」
「…………ご勘弁を……」
 どうやら、逃げられそうになかった。



 その頃、ブリッジでは澪と、ウィンドウある男が通信で話していた。
「もうすぐ来ると思うので、少しだけお待ちいただけますか」
『ああ、すまないね』
 丁寧に対応した澪に、通信相手――――戦艦アマリリス艦長のアオイ・ジュン中佐は笑って礼を言った。
 アマリリスから連絡が来たのは、つい先ほどだ。なんでもユリカへ火急の用件との事で、コミュニケに通信を入れたが出なかった。ジュン曰く、ユリカが部屋にコミュニケを置き忘れるのはいつもの事らしい。
 仕方ないので艦内放送でユリカを呼び出し、その間ジュンには少し待ってもらう事になった。
「ジュンちゃーん、なんで温泉に来なかったの? わたしは寂しかったよー」
 思わぬ暇が出来たところで、すかさずユキナが話しかけてきた。
『いや、アマリリスは整備も補給も少しで済んだから……ところで、そっちの君はあまり見ない顔だね。新入りかな?』
 ジュンが澪に目を向けてきて、一瞬「ふえ」と呆けた声を上げる。
「は、はい、『草薙の剣』と一緒にナデシコに乗艦させてもらいました、統合軍の露草澪上等兵です」
『ああ、君がユキナちゃんの友達か。よく話は聞いてるよ』
「……何て話したんですか?」
 あまりいい予感はしなかったが、澪は尋ねる。
『好きな人がいるのになんで告白しないんだとか、あいつも何で澪ちゃんの気持ちに気付かないんだとか、そんな話をよく聞かされてね……』
「ユキナちゃん――――!」
 さすがの澪もアホ毛を逆立てる。
 恥ずかしい話を、言いふらされていた。ずっと言い出せないでいる秘めた気持ちを……
「あはは……ごめん。悪いと思ったんだけどつい」
 言葉の割には悪いと思っていなさそうな顔で、ユキナはひらひらと手を振った。
「でもねえ澪ちゃん、思いを伝えるなら早い方がいいとわたしは思うけどなあ」
「だ、だって……そういう事言うのって勇気が要るっていうか……チャンスが必要っていうか……」
『いやあ、僕も早い方がいいと思うな……』
 ジュンから意外な言葉が飛び出し、「ええ?」と澪は怪訝な顔を作る。
『なんて言うか……君とその人って、今はとてもいい『友達』なんだろ?』
「……はい。大事な友達です」
『それはそれで、とても心地いい関係だよね。下手に告白なんかして、その関係が壊れるのが怖いと思ってしまうくらいに』
「…………」
 図星を突かれて、澪は黙りこくった。
 告白なんかして……もし断られでもしたら、もう今まで通りの関係には戻れない。それはとても怖い事だ。あれやこれやと理由をつけて、結局先延ばしにしたくなるくらいには。
 でもね、とジュンは言う。
『友達はどこまで行っても友達だ。『友達』が『親友』にランクアップしても、それはそれで……恋人とは、違うんだ』
「恋人……」
『君がもし、その人とこのままずっと友達を続けるんじゃなく、いつかは恋人になりたいなら……友達関係を壊す覚悟を持って告白するべきだと思う。そうやっていつまでも先延ばしにしたままだと……気付いた時には、他の人に取られてしまうかも』
「……っ!」
 思っていなかった事を言われて、澪ははっとする。
 考えた事もなかった……というより、考えまいとしていた。和也は恋愛感情に疎いから、他の女になびく事もないだろうみたいに、勝手に安心してしまっていた。
 それが間違いだって事は、今の状況がはっきり示しているじゃないか。
『こう言ってはなんだけど、例え面と向かってフられるような事になっても、何も言えないまま他の人に取られるよりましだと思うんだよね。『あの時告白するんだった、ああ、僕のバカ、僕のバカ!』って三日三晩泣き続けて、今や人妻になっちゃったその人を見るたびに胸の痛みを覚える、そんな気持ちを一生抱え続けるよりずっとすっきりすると……』
「あ、あの、アオイ艦長?」
 なんだか明後日の方向へ独白を始めたジュンに、澪が恐る恐る声をかけると、はっ、とジュンは我に帰ったように目を見開いた。
「経験者は語るわねー、ジュンちゃん」
 そう言ったユキナの声には、若干不機嫌な響きがあった。
 それもそうだろう、昔の思い人をまだ引きずっている旨の話など、今の彼女の目の前でするべきではない。
『……年長者からのアドバイスだよ。まあ頭の片隅にでも置いておくといいよ……』
 ジュンは赤面して目を伏せる。どうやらこの人も、恋愛に関してはいろいろ抱えているようだ。
 とそこで、ユリカが駆け足でブリッジへ入ってきた。
「ごめんねー、遅くなっちゃって……あれ、ジュン君?」
『……っ、やあユリカ……ミスマル提督、至急お伝えしたい用件が』
 ジュンは一瞬だけ動揺した顔を見せ、それから表情を引き締めて軍人の顔に戻った。



 ――――二時間後。

「重力波センサーに反応あり。火星の後継者の小艦隊です」

 小惑星帯、包囲網のだいぶ内側に位置するそこに到達したナデシコCの前に現れたのは、火星の後継者のマーキングを施された数隻の小規模艦隊だった。
 本来なら、即座に戦闘態勢に移行し、友軍を呼び寄せるところだ。しかし今は、少し状況が異なっていた。
「リアトリス級戦艦一……重力波反応無し。その他にカトンボ級無人駆逐艦三隻、ヤンマ級無人戦艦一隻と思われる残骸がありますが、いずれも完全に破壊されています。周辺には機動兵器のものらしい残骸も多数確認できます」
 ハーリーの報告通り、その艦隊は戦力の尽くが漂う残骸と化し、完全に戦闘力を喪失していた。残骸に刻まれた傷跡と、今だ残る残熱反応は、ほんの少し前にここで激しい戦闘があった事を物語っている。
 アマリリスのジュンから火星の後継者艦隊の一つを発見したとの知らせが来たのが、二時間前の事だ。
 曰く、最初に捉えたのは火星の後継者の物らしい通信だった。傍受したのではなく、わざと聞かせるようにオープン回線で放送されていたそれは、何者かに襲われ、助けを求める悲鳴交じりのものだった。
 程なく通信は切れ、何も聞こえなくなった。本来なら直ちに友軍司令部に報告すべきところだが、ジュンが真っ先に知らせてきたのはナデシコのユリカだった。
 何せ襲われていたのは火星の後継者。襲ったのは宇宙軍でもなく、統合軍でもない。
 となると、考えられるのは一つ――――だから、ジュンは一番にナデシコへ一報を入れたのだろう。
「リアトリス級の損傷は、他の無人艦に比べて軽微に見えるな……」
 望遠画像に映る敵戦艦の様子を見て、サブロウタが言った。
 ハーリーが答える。
「はい。敵戦艦の損傷はエンジンブロックと武装に集中しています……あ、若干ですが艦内にエネルギー反応もありますね。予備電源が生きているようです」
「となると生存者がいる可能性もあるか……」 「あるいは、艦内のデータベースに敵の逃走経路に関する情報が残っているかもしれません」
 襲撃者の狙いもそれでしょう、とルリ。『ヤサカニ』で手に入れ損ねた敵の情報が手に入るなら、多少危険でも手を突っ込む価値はある。
 ルリはユリカに呼びかける。
「提督、敵艦内に人員を送り込んでの調査を具申します。敵艦データベースにアクセスして、情報の引き出しを試みる必要があると思います」
「うん。それじゃあ人選は……」
「私が行きます」
 そのルリの言葉に、「ええーっ!?」とその場にいた全員から驚きの声が上がった。
「か、艦長!? それはいくらなんでも……」
「コンピューターの扱いなら、私が一番確実です」
 嘘だ。確かにこの中ではコンピューターの扱いに最も秀でているのはルリだが、データの引き出しくらいなら誰でもできる。
 それでもルリは、あの艦内に行きたかったのだが、「ダメだよ」とユリカは首を横に振った。
「あの中に生きてる人がいて、抵抗される危険があるもの。そんな所にルリちゃんを行かせられないよ」
「……ユリカさん……」
 生かせてください、とのメッセージを視線に込めて送る。ルリがなぜあそこに行きたいか、ユリカなら言わずとも解るだろうと思ったが……
「許可できません。ホシノ中佐」
 それでもユリカは聞き入れなかった。ルリは渋々「……失礼しました」と引き下がる。
「和也くん」
『はい』
 通信越しに、ユリカは『草薙の剣』へ命令を出す。
「『草薙の剣』は先発隊として敵艦内に進入して、データベースから情報を引き出して。無理ならこっちから人を寄越すから安全確保をお願い」
『了解。任せてください』
 お安いご用だと言わんばかりの笑顔で応じ、和也は通信を切った。
 白兵戦に最も秀でた『草薙の剣』を送り込むのはいいが、ユリカはルリをあの艦内に送る気はないようだ。ナデシコの最上位権限を明け渡してしまった事が、いまさらのように惜しまれた。
 ――どうして……
 あそこには、あの人の手がかりがあるかもしれないのに。



「――――エアロック内部のスキャニング完了。生命反応ありません……」
「呼吸はできる?」
「……生命維持システムは予備が生きているようです。空気漏れも隔壁で食い止められています……」
 戦艦に横付けした小型シャトルの中で、ノートパソコンを操作する美佳が淡々と告げる。
 艦のシステムに進入して中の様子を探ったところ、エアロックの中に待ち伏せしている敵の気配はなく、艦内の空気も残っている。中に入る分には問題なさそうだ。
「よし、開けて」
 和也の指示に頷き、美佳はコンソールをタッチ。プシィ、と圧縮空気の音がして艦内に続く気密扉がゆっくりと開き始める。
 ここから先は敵の陣地だ。全員が表情を引き締め、手にした武器を確認。
「目標は敵艦サーバールーム。情報を引き出すためにサーバールーム内での発砲は厳禁。プロテクトがかかっていたりして僕たちでは情報を引き出せない場合、人を呼ぶために艦内を捜索して安全を確保する。質問は?」
「生存者がいた場合の対処は?」
 そう、盾身。
「見つけたら一応救助するけど、武器を持って攻撃してきた場合は殺して構わない」
「捕虜なら足りていますから、これ以上要りませんものね」
 物騒な事を口にし、美雪は含み笑う。
 そんな美雪を、盾身は「滅多な事を言うな」と嗜めた。
「捕虜は必要ないかもしれん。だが無用の殺生もまた不要だ。我々は殺す事が目的ではなく、この戦いを一刻も早く終結させるために戦う……それを忘れるな」
「はいはい……承知しましたわ」
「よう旦那、今日は気合が入ってんな。なんかいい事でもあったのか?」
 いつにもまして熱が入っている様子の盾身を、烈火が冷やかす。
「いい事か。あったぞ。待ち望んでいた朗報という奴だ……皆もきっと喜ぶだろう」
「へえ。気にはなるけど、今は目の前の任務に集中するとしようか」
 行くよ、という和也の号令一下、『草薙の剣』は敵戦艦内部へ踏み込んだ。



 戦艦の中は、動力が死んでいるのか真っ暗だった。
 戦闘服の暗視装置によって進むには支障なかったが、所々に隔壁が降りていて行く手を阻まれた。妙だったのは、空気漏れがないはずの場所まで隔壁が閉じていた事だ。おかげで隔壁に穴を穿つためのプラズマブリーチャーを設置して道を作るために予想以上の時間を取られた。
「船体の損傷による空気漏れだけじゃねえな……こりゃ侵入者対策だぜ」
 三枚目の隔壁にプラズマブリーチャーを設置しながら、烈火が言った。
 和也たちへの対策――――ではないだろう。それならとっくに銃弾の一つも飛んできているはずだし、何より隔壁に残るこじ開けられた跡は、恐らく虫型兵器によるそれだ。
 やはり先客がいるらしい。全員が自然と表情を引き締める。
「うっし設置完了だ。起爆するぜ」
 烈火が起爆スイッチをカチカチと二度押す。隔壁に貼り付けられた、マンホールの蓋に似た円盤状の機械が青白いプラズマの光を発し、光が収まったタイミングでそれを蹴り飛ばすと見事に丸い穴が隔壁に穿たれていた。仕上げに冷却剤を赤熱した切断面に吹き付け、安全に通れる状態にした上で潜り抜ける。
「う……!」
「これは……!?」
 途端、鼻孔を刺激した強烈な臭いに、和也たちは思わず口元を手で覆った。
 和也たちにとっては馴染み深い、甘く香る硝煙の臭い。そして……それ以上に濃密な、吐き気を催される血の臭い。
「ブレードリーダーよりナデシコC……聞こえる?」
『こちらナデシコC。何かあったの?』
 答えたのは澪だった。
「敵艦内にて、敵戦闘員多数の遺体を確認……白兵戦が起きたと思われる。生存者は確認できない……」
『ブレードリーダー。そっちの状況を詳しく知りたいから、映像を送ってもらえる?』
 そう言ってきたのはユリカだ。状況を詳しく知りたいのは解るが、目の前のこれは……
「あまり見ないほうがいいと思いますが……」
『見せて。ユリカにだけでいいから』
 ユリカに強い口調で言われ、和也は渋々コミュニケからの映像をナデシコCへ送る。
『…………っ!』
 ユリカが息を呑む気配。
 ライトで丸く切り取られた暗闇の中、見えたのは死屍累々としか表現しようのない――――何十人分もの死体の山と、血の海だった。
「派手にやったわね……」
「……生体反応ありません……全員死亡しているようです……」
「皆殺しですか。私たちもやれと命令されればやりますが、これは……」
 さすがに眉をひそめた奈々美も、沈痛な面持ちで全員の死亡を確認した美佳も、複雑な表情を浮かべた妃都美も、皆戦慄していた。こんな殺戮の現場など見飽きたと思っていた彼らでも戦慄を覚えるほど、徹底的な殲滅であり、虐殺だった。
「やったのは主に虫型兵器のようですけれど……明らかに人間にやられたものもありますわね。これなんて、首を刃物でザックリ切り裂かれてますし」
 死体の一つを検めた美雪の言う通り……この殺戮を行ったのは主に虫型兵器のようだ。手足が千切れ飛ぶような重度の損傷を受けた死体は、12・7ミリ口径の重機関銃、あるいは虫型兵器の四肢による攻撃だろう。
「武器を持ってない非戦闘職のクルーまで殺されてる……ここまでする必要があるのか……」
 和也の目の前に転がっている若い男――武器を持っていないところを見ると、糧食班か何かか――の死体も、重機関銃で撃たれたか片足が吹き飛んでいた。だが直接の死因になったのは、首を踏み砕かれた事による頚椎の損傷だ。
 脅威の無力化ではない。明らかに殺すために殺している。
「派手にぶちまけたものですこと。よほど強い怨恨があるのか……あるいは、快楽殺人者かしら?」
『っ……』
『ブレード7。余計な発言は慎んでください』
 美雪が発した一言に、なぜかユリカが一瞬痛みを堪えるような顔を作り、ルリからは怒ったような一言が返ってきた。
 さすがの美雪も、意外すぎる反応に言い返す言葉を思い付かなかったか、「……? 失礼しましたわ……」とあっさり引き下がった。
 ――なんだ二人とも?
 和也も訝しく思った。これをやった奴の悪口が許せないとでも……?
 目の前の死体の山に視線を戻す。何の必要性もない、ただ徹底的な殺戮――――そこにはただ殺意と憎しみだけが感じられる。
 火星の後継者に連なる者は、一人として生かしておかないという強い殺意。快楽殺人という可能性を除けば、相応の憎しみがなければこうはなるまい。
「それはそれとして、目的は……我々と同じでしょうかな?」
 呟く、盾身。
 この艦を襲った何者かは、他の無人艦は完全に破壊できるだけの戦力を持ちながら、この戦艦だけはわざわざエンジンと武装だけを破壊して無力化し、その後艦内で白兵戦を繰り広げるという回りくどいやり方で制圧した。そんな手間をかける理由は、やはり敵の逃走ルート情報以外ありえない。
 火星の後継者と敵対し、なおかつ宇宙軍でも統合軍でもない……そんな奴は、和也たちの知る限り一人しかいない。
 ――あいつも狙ってるのか。このチャンスを。
 知らず、アルザコン31のグリップを握る手に力が入っていた。
 それを察したのか知らないが、ルリが和也に向けて言った。
『ブレードリーダー。念のため言っておきますが……もし火星の後継者以外の勢力と遭遇した場合、極力交戦は避けてこちらの指示を仰いでください』
「ええ?」
 思わず声を上げてしまった。
 個人的ながら、ずっと探していた敵が目の前にいるのだ。お預けを食らうなど冗談ではない。
「……理由を聞かせてもらえますか? 奴が味方でない事は確定してますし、統合軍も殺害を前提としているテロリストですよ?」
『無用のリスクを避けるためです』
「奴から攻撃があった場合も指示を仰げと? あの無差別殺人犯が僕たちを襲わない保証なんてない。21世紀の自衛隊みたいな失敗をするのは御免です」
 それこそ無用のリスクでは、と和也。
『本来の目的と関係ない戦闘は無用以外の何でもありません。……不服ですか? 上官権限の凍結もありえますよ』
 ルリもまた、有無を言わさぬ強い口調で言う。
 数瞬、和也は納得できない、ルリは従え、という意思を目に乗せての睨み合いになった。……そして、
「……了解」
 先に折れたのは和也だった。相手は上官。理由も決して間違ってはいない以上、従うしかない。
『コクドウ隊長、彼は――――』
 ルリがさらに何かを言いかけた時、ザザ――――とノイズが走り、ウィンドウが砂嵐になった。
「ホシノ中佐? 中佐!? もしもし!?」
「……ジャミングのようです。通信不能です……」
 美佳が言う。理由はよく解らないが、しばらく通信は出来そうにない。
 つまりもう何を言ってもルリには聞かれない。和也は盛大に舌打ちする。
「ちっ、ホシノ中佐め、何のつもりだよ……」
 この艦を襲ったのが誰か、ルリもとっくに察しているはずだ。遭遇したなら捕らえるか、最悪殺せと統合軍から通達されている、つまりは火星の後継者と同様敵として対処するべき相手だ。
 そんな奴と戦うなとは、いったい何を考えているのか。
「なーんか隠してそうだよな」
「確かに。気に入らないわね……」
「……敵の敵は味方……と思っているなら、あのような態度を取る必要はないでしょうし……真意が掴めませんね……」
「信頼し合える間柄になったと思っていましたが……こうも露骨に隠し事をされると、さすがに疑いたくもなりますね……」
 烈火、奈々美、美佳、妃都美と、口々に疑念を口にする。
 この戦艦を発見した時から、どことなくルリの様子はおかしかった。敵が潜んでいる可能性もまだある艦の中に自ら行きたがったりするなど、普段の彼女からは考えられない。
 理由はやはり、“あの男”なのだろうか。
「どうもホシノ中佐は、あの男がからむと冷静さを欠いた言動が目立ちますな」
 因縁浅からぬ相手と見るべきでしょうか、と盾身。
 すると、皆様、と美雪が口を開いた。
「ニューヨークでの事を覚えていらっしゃいます? あの時ホシノ中佐は、和也さんからあの男の事を聞くや、一目散に走り出しましたわね」
「そういえば……そんな事もあったね」
「火星の後継者と同じく、統合軍にテロリスト認定されている人間ですわ。そんな人間とホシノ中佐に繋がりがあるなら、大問題ですわね」
 そんなバカな――――とは、誰も言わなかった。
 あまりにも、疑わしい点が多すぎる。
「ま、中佐のゴシップは今は置いておくとしても……現場判断を下すのは和也さんですわ」
 どうなさいます? と美雪が言い、皆の視線が和也に集まる。
「そんなの……決まっているよ」



「ブレードリーダー! 和也ちゃん! もしもーし!? ……ダメです、通じません」
 懸命に呼びかけていた澪が途方に暮れた顔をし、ルリは最悪だと思った。
 まさかいきなりジャミングが始まるとは。敵艦の電子戦装備が一時的に復旧したのだろうが、それをしたのは間違いなく彼だろう。
 このままでは、『草薙の剣』の行動を把握できない。なんとかジャミングを突破できないかとルリがあれこれ試していると、後ろからユリカが声を投げてきた。
「ルリちゃん……さっきの言い方はまずかったよ。今頃和也くんたちは、きっとルリちゃんの事を疑ってる。せっかく信頼関係ができたのに台無しになっちゃうよ」
「ユリカさんは――――」
 あの人を悪く言われて腹が立たないんですか、とルリは言い返しかけ――――やめた。
 落ち着いて思い返せば、ユリカの言う通りだ。あんな上から押さえつける言い方では、口で従っても内心は納得などしていまい。
 ただ――――和也たちの言葉に腹が立って、ついあんな言い方になっただけだった。
「私もそう思います……」
 恐縮しつつもそう言ったのは澪だ。
「どうしてあんな事を言ったんですか? ……一応、敵と認識されている人ですよね?」
 ――そしてあなたのお父さんの仇でもある。
 澪もやはり、あの人が近くにいると思うと黙ってはいられないのだろう。捕まえて欲しい、くらいの気持ちは間違いなくある。
 非難げな目をする澪に、ルリは冷静を装って言う。
「……そうです。もし遭遇すれば間違いなくコクドウ隊長たちは攻撃するでしょう……だから、ああ言って止めるしかありませんでした」
「……無用のリスク、だから?」
 それは建前と言えばそうだ。
 だが同時に、事実でもある。
「リスクとしては、あまりに大きすぎます。あの人は……あの北辰を倒した人ですから」
「北辰?」
「草壁元中将直属の、暗殺部隊隊長だった人間です。『草薙の剣』その他の特殊作戦軍も彼に率いられる予定で、コクドウ隊長たちの戦い方も彼に教わったものだそうです」
 その言葉に、澪がはっと息を呑んだ。
「つまり……和也ちゃんたちの先生? その人に勝ったって事は……」
 澪の顔色が蒼白に転じる。
「あの人と正面から戦えば……いくら『草薙の剣』でも、犠牲がゼロではいられないはずです」
 その旨を説明しようとはした。だがその前にジャミングで通信が切れてしまった。
 今のままでは、『草薙の剣』がどうなるか。
「ツユクサ上等兵、とにかくジャミングを突破して、一時的にでも通信を回復させてください。傍受とかは考えなくて結構です。ハーリー君も手伝って」
「は、はい!」
「解りました!」
 澪とハーリーは慌ててジャミングを突破する作業に入る。ルリもまた作業に没入しながら、頭の隅で必死に願った。

 ――どうか……コクドウ隊長たちを殺さないで……



 一発の銃弾も放つ事なく到達した『草薙の剣』は、音もなくサーバールーム内へと進入した。
 サーバールームの中は照明こそ落ちて暗かったが、壁のように林立するサーバー群からはぶー……ん、と僅かな機械の作動音が響いている。動力が通っている証拠だ。
 ――誰かいます。
 美佳がハンドサインで合図してくる。立てた指は一本――――つまり一人。
 警戒しつつ接近し、小型カメラで様子を窺う。サーバーの前に、軍人ではない異様な風体の男が立っていた。

 全身をぞろりと覆う黒いロングコートに、表情を隠すゴーグル。まるでカラスのように全身黒ずくめの男――――間違いなく、ニューヨークで和也が一度見た男の姿だ。
 ――見つけた。プリンス・オブ・ダークネス……テンカワ・アキト……!
 がりっ、と奥歯が軋る。
 忘れもしない。ニューヨークでは火星の後継者の攻撃を知っていながら湯沢を殺すため見過ごし、それ以前にはターミナルコロニーを襲って多数の人を殺した、火星の後継者とも敵対する第二のテロリスト。
 澪の父を殺した男……機会があれば必ず殺してやりたいと思っていた仇が、目の前にいる。
「…………」
 ――隊長、交戦許可は出ておりませぬ。
 盾身がそう、ハンドサインと表情で言ってくる。
 先ほどルリから言われた通り――――アキトから攻撃してくるか、データを消そうとするでもない限り交戦の必要はない。危険は避けて、目的を果たす事を優先するのは正しい。
 盾身もそれを解っているから、こうして釘を刺してくるのだろう。だが……
 ――みんな、これを見て。
 コミュニケを操作し、データ転送――――皆のコミュニケにも表示されたそれは、統合軍の交戦規則ROEだ。主に戦闘中にしてはならない事を列挙したネガティヴリストのだいぶ下に、少し趣の違う一文があった。
『任務中、テロリスト指定勢力、通称プリンス・オブ・ダークネスと遭遇した際は、直ちに捕縛、ないしは殺害する事。上記の目的を達成するため、無警告での攻撃が許可される』
 神出鬼没なアキトと誰かが遭遇し、交戦許可を求める事ができない事態に備えて書き加えられた一文だ。この交戦規則に従えば、和也たちはアキトを捕縛するも殺すも自由。上への伺いも必要ない。
 もちろん、それはルリからの命令に反するが――――
 ――僕たちは本来統合軍の所属。今はなりゆきでナデシコCに乗せてもらってるけど、正式に出向命令があったわけでも移籍したわけでもない。この状況で統合軍と宇宙軍から相反する命令が出た時、優先されるのは?
 ――統合軍からの命令です。
 盾身が身振りで答え、和也は頷く。
 つまりアキトと交戦する場合に限り、ルリの命令には拘束力がない。逆に統合軍交戦規則に従い、和也たちはアキトをテロリストとして捕らえるか、殺す必要が生じる。
 これで大義名分は立つ。ジャミングでナデシコCとの連絡が立たれている今、ルリに止められる事もない。実に好都合だ。
 あとはやるか否か。
 ――なるほどな。オレは乗るぜ。オレもあいつはぶっ殺してやろうと思ってたんだ。
 ――ナイスアイディアだわね。交戦は避けろなんてクソ食らえだわ。
 ――賛成できかねます。今は私情に走るべき時ではありませぬ。
 ――わたくしもやめておいたほうがいいと思いますわ……あの男、危険な臭いがしますわよ……
 ――……澪さんのお父さんは、私たちにも優しかった……恩人の仇討ちです……
 ――無差別殺人者に報いを与えましょう。ここで惨めに死になさい……!
 烈火、奈々美、美佳、妃都美の四人は賛成し、盾身と美雪の二人は反対してきた。
 賛成多数。やるべき事は決まった。
 ――烈火と奈々美は右、妃都美と盾身は左に展開。美佳と美雪は僕に付いてきて。
 皆にハンドサインを出し、サーバー群に隠れながらアキトをゆっくりと取り囲む。賛同してくれた皆の他、盾身も渋々だろうが従った。美雪は付き合う気もないのか動かず、静観する構えだ。こればかりは仕方がないが、さすがに心もとない。
 アキトは……恐らく、強い。虫型兵器の援護があったとはいえ、一人でこの艦を制圧してのけるほどの怪物じみた男だ。個々人の戦闘力で言えば、間違いなく和也たち以上の素養があると見ていい。
 だが奴はこちらに気付いた様子もなく、じっとサーバーを見つめている。ストレージキットでデータ――恐らくは和也たちと同じ、甲院の逃走ルートの手がかり――を抜き取っている最中なのだろう。
 こちらに気付いていない今の内に取り囲み、一斉射撃で蜂の巣にする。
 和也は音を立てないように、銃を88型木連式リボルバーに持ち替える。弾は9ミリ口径ホローポイント。着弾すると貫通する事なく人体内部で分裂し、骨を砕き肉を裂く。貫通力を犠牲に殺傷力を高めた、確実に敵を殺すための弾だ。
 敵が防弾衣を着用していた場合まず効果がないため、軍用としてはあまり用いられない。アキトがロングコートの下に何を着ているかは判然としないが、十中八九防弾効果のある物を身に着けている、あるいはロングコートそのものに防具の機能があると見るべきだろう。かなり分が悪いと言えるが、サーバーを傷つけないためにはこれしかない。
 ――防具のない頭をぶち抜けばいいさ……
 既に指は引き金にかかっている。和也の合図一つで、アキトは脳漿をぶちまける事になるはずだ。
 ――おじさんの墓前と、澪に、奴の首を捧げる……償わせてやる……!
 心臓の鼓動でタイミングを計る。――――そろそろ、皆が配置に付いた頃合だ。
 ――死ね!
 データリンクでトリガータイミングを同調させた、四方からの一斉射撃。いかな手だれでも、逃れようがない必殺の一撃が放たれ――――ない。
 ――いない!?
 向けた銃口の先に、アキトの姿はなかった。視線を巡らせるが、目に付く範囲にそれらしい影は見えない。
 ――まさか気付かれた? 美佳、奴はどこに……
 返事がない。どうしたと思って振り向くと――――
「こ……はっ……!」
「……っ!?」
 息を呑む。
 美佳が、背後から首を絞められていた。  床を離れた両足が苦悶を表してばたばたと刎ね、利き腕を極められて抵抗も出来ない。その背後に立っている黒衣の男は、間違いなく数秒前までサーバーの前に立っていたはずのアキトだ。
 いつの間に――――驚愕しつつも美佳に当たる事を恐れて攻撃を躊躇する和也たちの前で、美佳の身体がだらん、と力を失い弛緩する。
 このままでは、首の骨を折られる。一か八か和也が撃とうとした矢先、アキトは和也目掛けて美佳の体を投げ捨て、自分は闇に溶けるように飛び退く。瞬間、別方向からの銃撃がアキトの頭があった空間を通過した。
 撃ったのは美雪だった。仕留め損ねた事にチッ、と舌打ちしながらも、さすがに気遣わしげな目を向けてくる。
「美佳っ……!」
 和也は美佳の状態を確認――――完全に気を失っているが、首の骨は折れていない。生きている事を確認し安堵する。
 それも束の間、烈火の怒号が響く。
「よくも美佳をやりやがったな! この野郎――――ッ!」
 叫び、闇の中に見え隠れするアキトの影目掛けて発砲する烈火。その手を奈々美が掴み、銃を上に向けて止める。
「バカ! サーバーに当たるわよ!?」
「放せよ! あの野郎美佳を――――! ぐあ!?」
「烈火!?」
 戦慄する。
 烈火の肩口にナイフが生えていた。神経毒でも塗られていたか、体を震わせて崩れ落ちる烈火とそれを支える奈々美の元へ、黒い影が肉薄する。
「チッ――――!」
 奈々美は舌打ちし、烈火の体を脇に押しやって拳銃を構え――――しかしサーバーを気遣い、発砲を躊躇してしまう。
 そこへアキトは、一瞬で距離を詰めてきた。腕が一閃され、コンバットナイフでの切り払い――――毒を食らった烈火の事もあり過剰に警戒したか、大きくバックステップした奈々美の拳銃にアキトのナイフが当たり、銃口が右へ逸らされたところへ、切り払いの慣性を利用した右上段蹴りに銃を跳ね飛ばされる。
「舐めんじゃ……ないわよ!」
 負けじと拳を振るう奈々美。繰り出されるアキトのナイフを肘のプロテクターでいなし、左上段のストレート、そこから死角を付く左中段のジャブ、足払いからアッパー、肘打ちと続く連続攻撃。強化された筋肉が生み出す、一撃でも食らえば致命傷に至る奈々美の攻撃は、しかし一撃としてアキトを捕らえられない。
 ――やりにくい。
 奈々美の拳は強力で、それゆえに下手に振るえば林立するサーバーを壊しかねず、奈々美は限定された攻撃を行うしかない。アキトから見れば、次の手を読みやすい事この上ないだろう。
 奈々美を助けようと、和也と盾身が走る。同時に妃都美へハンドサインで指示を送る。
 ――妃都美、援護できる?
 ――任せてください。
 サーバーを傷つけずに射線を確保できる位置に付こうと、妃都美も移動する。アキトが奈々美に気を取られている今なら、妃都美が頭を撃ちぬける。
 その時、ひゅっ、とアキトが何かを投擲してきた。
 ――閃光音響手榴弾スタングレネード
 咄嗟に目を庇う。
 次の瞬間に、刹那の嵐のような閃光、そして爆音が響く。それが過ぎた後に残ったのは、キーンとした耳鳴りと若干のハレーションを起こした視野。
 戦闘服の保護機能が働き、音と閃光が抑制されたおかげもあって無力化された者はいなかった。それでも少しの間、視覚と聴覚が回復するまで和也たちは身動きできなくなる。
 その隙が致命的だった。アキトは奈々美の左ストレートを腰を落として避けつつ、大きく踏み込んで懐に入り込む。
 銀線一閃。首を狙ってナイフが迫る。必死の後退により辛うじて凶刃から逃れた奈々美だが、体の重心が後ろに傾きよろけたところへさらに追撃――――蛇のように伸びたアキトの左手になすすべもなく顔面を鷲掴みにされ、そのまま遠心力で振り回される。  ごっ! という鈍い音。サーバーの一つに後頭部をしたたか叩きつけられ、「……が」と呻いて奈々美が崩れ落ちる。
「奈々美!」
 戦慄が走る。あれでは生きていてもすぐ治療しなければ危ない。
 ――こいつ、一対多の戦闘に慣れてる……!
 重要目標であるサーバーが林立している地の利を生かし、こちらの銃を封じるように移動と牽制を繰り返しつつ、各個に無力化―――― 一対七ではなく、確実に一対一を繰り返す立ち回り。完全に独りで多人数と戦う事に慣れた動きだった。
 和也たちの視力と聴力は回復しつつある。戦えなくはない……が、
 ――三人やられた……撤退を判断しなきゃ……!
 七人編成である『草薙の剣』で、三人の戦闘不能者は事実上の全滅だ。撤退する時、負傷者を抱えて逃げる者が三人と、殿が一人の計四人必要と考えれば、今が撤退できるギリギリのライン。あと一人でも負傷すれば撤退もままならなくなり、非常に危険な状況になる。一人で二人を担げる烈火と奈々美が共にやられては無理も利かない。
 口惜しさに歯噛みする。自分から先制攻撃を仕掛けようとして、その結果がこれとは情けない。
 退くしかない。が……奴が黙って逃がしてくれるかどうか。特に奴の足元に倒れたままの奈々美は、助けようとすれば盾にされるのが目に見えている。
 ――僕があいつを引き付ける。その隙にみんなは負傷者を連れて撤退して。
 ――殿は自分の役目と自負しておりますが。
 ――みんなを巻き込んだ責任は取るよ。
 和也はハンドサインでそう指示する。和也が私情を持ち込んだ結果には、自分でけじめをつけないといけない。
「僕が相手だ、カラス野郎!」
 気を引くために叫び、ナイフを抜いて単騎突撃する。案の定と言うべきか、アキトは奈々美の体を振り回し、砲丸投げの要領で投げ飛ばしてきた。わざと頭を下にした投げ方は、受け止めてやらなければ致命傷になりかねない。
 ――ごめん、少しだけ我慢して!
 和也は奈々美の身体を受け止めると、その衝撃を殺さずに巻き込み、巴投げの要領でさらに後ろへ投げ飛ばした。その先には盾身が両手を広げて立ち、飛んできた奈々美の体を受け止める。
 頭を負傷している奈々美には辛いだろうが、アキトの策に嵌まるわけにはいかない。和也もでんぐり返って一回転し、前に向き直った時にはもうアキトが間近に迫っていた。
「くうっ――――!」
 体全体をバネにして後方へ跳躍――――瞬間、アキトの爪先が和也の目の前を掠め、致命的な一撃を辛うじて避けた和也はそのまま地面に手を突いてバック転。距離を取る。
 ――切り抜けた……!
 全身から冷たい汗が噴き出す。避けるのがコンマ数秒遅れれば顎を砕かれていた。
 なんにせよ奈々美は助け出せた。倒された三人は盾身たちが運び出してくれている。後は皆がある程度安全なところまで離れたら、和也も逃げればいい。
 瞬間、アキトのロングコートが翻った。突き出された右手に握られているのは、黒光りするリボルバー拳銃。人差し指は引き金にかかり、いつでも発砲できる状態だ。
 和也は咄嗟に『ブースト』を起動――――前に踏み出す。
「やっ!」
 右手のナイフを振るう。攻撃ではなく、アキトの拳銃を狙って銃口を逸らす。次の瞬間に銃声が響き、銃弾が天井に当たって音を立てた。
 ――盾身たちを狙った……こいつ、僕たちを逃がしてくれる気はないのか!
 和也たち同様――――アキトにとっても、ここで戦う事は目的とは関係がなく、メリットはないはずだ。なのにこの攻撃。恐らくは和也たちが逃げた後で増援を呼ぶ事を警戒しているのだろう。そのためには、殺してもいい程度には思っている。
 こいつはいつもそうだ。ニューヨークでは湯沢を殺すチャンスを作るために大規模テロを知りつつ静観し、ターミナルコロニーを襲撃した時も無関係な統合軍の兵士を殺傷した。
 目的のために必要と見れば、この男は躊躇無く無関係な人をも殺すのだ。
「そうやっておじさんを殺して、今度は僕たちまで殺す気か!」
 激情が思わず口を付いて出る。
 アキトは特に言い返しもしなかったし、表情も解らない。ただゴーグルの裏で、苛立った目をして和也を睨み返してきた――――気がした。
「これ以上罪を重ねる前に、僕が殺してやる!」
 殺意を吐き出し、右逆手にナイフを構えて切りかかる。
 体を捻り、その回転力を利用した突き、返す刀での首を狙った斬激、その勢いを利用したローキックから、ボディーブローと続く連続攻撃。そこで注意が逸れた所に再び急所狙いの突き。ナイフと徒手空拳を組み合わせた、木連式近接戦闘術の集大成。今までに戦ってきたテロリストなら、既に五回は殺している。
 にも拘らず、アキトはその全てを避け、弾き、凌いだ。それどころか鈍く光るコンバットナイフがお返しとばかりに和也へ突き出される。和也もそれをナイフでいなし、返す刀で首を狙うが、アキトはそれを後方への軽い跳躍で避け、目にも留まらぬ三連突きを繰り出してくる。
 一秒ごとに攻守が入れ替わる神速の攻防。その趨勢は一見すると互角に見えて――――その実、和也にこそ余裕がない。
 ――なんで……当たらないんだよ!
 和也は能力を全開にして何とか戦えているが、『ブースト』はいずれ反動が来る。その時が来れば一瞬にして首と胴が泣き別れになる確信がありながら、和也は押し切る事が出来ないでいた。
 早く決めないと――――和也が焦りを募らせた、その時、

 ――――ピー……

「!」
「!」
 間の抜けた電子音に、和也とアキトが同時に反応する。
 それはストレージキットのデータ読み取りが完了した事を知らせる音だった。待ち望んでいたはずの知らせに、アキトの意識は一瞬和也から外れ、そちらに向く。
 気付いた時には和也は床を蹴っていた。数歩の踏み込みで間合いを一気に詰め、アキトのゴーグルに覆われた眼窩へナイフを繰り出す。
 瞬間、アキトが上体を大きく反らせた。さすがに虚を突かれたか、余裕のない必死の回避――――
 かっ――――! 堅い手ごたえ。
 殺すつもりで突き出したナイフは、アキトのゴーグルを弾き飛ばしただけだったが、間伐入れずに和也は大外刈りで足を刈り、アキトの右肩を押さえて押し倒す。
 ――取った!
 バランスを保てず、アキトの身体が倒れていく。このままマウントポジションを取り、逆手に持ちかえたナイフをアキトの恐怖で見開かれた眼窩に突き入れる――――必勝の光景が頭に浮かび、思わず口元を笑みの形に歪ませて――――アキトの露わになった素顔を目にし、思わずはっとした。
 和也たちと、恐らく年は一回りも離れていないだろう若い男の顔。怒りか、恐怖か、あるいはそれ以外の感情で歪められたその相貌に、奇妙な文様が淡く光を発して浮かび上がっている。和也が見た事のない、奇妙なナノマシンの発光パターン……それを宿したコーヒー色の両目は、微妙に焦点が合っていない。
 ――こいつ、目が見えてないのか……?
 恐らくあのゴーグルが視力を補助していたのだろうが、こんな体で戦い続けるなど並大抵の意思ではない。
 それでアキトへの敵愾心が消えるわけもなかったが、一瞬の迷いは生まれた。
 時間にしてコンマ数秒の逡巡――――それが命取りだった。
「!? うわっ――――!」
 突然浮遊感を感じ、気が付くと空中に投げ出されていた。アキトは押し倒そうとする和也の力を逆に利用し、変形巴投げの要領で投げ飛ばしたのだ。反応が遅れた和也は受身も取れず、サーバーの一つに背中から叩きつけられ、「がはっ!」と肺の空気を吐き出し、床に倒れる。
 ――油断した……!  勝ったと思って、つい警戒を緩めてしまった。油断のならない相手だと解っていたのに……自分の迂闊さに反吐がでる思いで、咳き込みながらも拳銃を抜き放つ。
 だが、和也が銃を構えるより早くアキトが目の前に迫っていた。88型木連式リボルバーを持った右手を、思いっきり踏みつけられる。
「あぐああああああああ――――――!」
 ベキッ、ゴリッ、と骨の砕ける恐ろしい音が複数、自分の右手から聞こえ、次の瞬間に襲ってきた激痛に悲鳴を上げる。確実に指の骨を複数本踏み砕かれた。
「この……野郎……ッ!」
 激痛に涙を流し、それでも殺意を込めてアキトを睨み付ける。そんな和也に、アキトは感慨もない顔でさらに体重をかけて潰れた右手を踏みにじってくる。
「うあああああああああっ……!」
「隊長ッ……!」
「和也さん!」
 和也の悲鳴を聞きつけたか、盾身たちが戻ってくる気配。
 アキトの狙いは、和也たちを逃がさず、増援を呼ばせない事だ。そのために和也を殺さず悲鳴を上げさせて、盾身たちが助けに来るよう仕向けている。
「着たらダメだ――――ごぶっ!?」
 上げかけた声が、腹で灼熱した痛みと、喉の奥から逆流してきた鉄臭い液体で塞がれる。
 腹に、和也自身のナイフが深々と突き刺さっていた。血を吐き、意識が朦朧とする中で盾身と妃都美が飛び込んできて――――その身体が、不自然に傾ぐ。
「うあっ……!」
「これは……!」
 何もない場所で、何かが絡み付いたように動きを封じられる二人――――いや、実際に二人へ何かが絡み付いている。恐らくは極細のカーボンナノチューブワイヤー。戦闘服がなければ手足を切断されていただろうそれを、アキトはいつの間にか仕掛けていたのだ。
 冷静にゴーグルをかけ直したアキトが、まずは盾身にリボルバーの銃口を向けて撃った。額を狙ったダブルタップ。常人なら確実に即死するが、盾身の皮膚と一体化した防弾繊維は拳銃弾を防ぐ。
 撃たれても死なない盾身にアキトは一瞬驚いた顔をしたが、ならばとばかりに銃を連射。計五発の銃弾が盾身を嬲り、連続した頭部への攻撃に意識が飛ぶ。それでも命を取るには至らず弾切れ。慣れた手つきでリロードする。
 その時、影が暗がりから飛び出した。美雪だ。リボルバーの弱点であるリロードの隙を突いた奇襲。盾身が撃たれても手を出さずにアキトの弾切れを待った美雪だったが、それでも鬼の形相でアキトの頭上から『暗殺者の爪』を振るう。アキトは気付いていない。行けると思った。
 途端、銃声――――そして「があっ……!」という苦悶の声。
 あろう事かアキトは、リロードを終えると同時に美雪の方を見る事なく、銃だけを向けて撃ったのだ。さすがに予想外すぎる攻撃に美雪も反応しきれず、被弾した身体が床に叩き付けられる。
「うっ……わああああああああああああっ!」
 そこに妃都美がワイヤーを切断し、銃剣を振りかざして半ばやぶれかぶれでアキトへ切りかかる。しかし美雪の体を盾にされ、やむなく刃を止めたところに、アキトは滑るように懐へ入り込んできた。
 妃都美のプロテクターに守られていない横腹にナイフが深々と突き刺さる。「ぐはっ……!」と血を吐いた妃都美が、力を失い崩れ落ちる。
 ――そんな、僕たちが……『草薙の剣』が……  壊滅した。たった一人の敵相手に。
 何なんだ、お前は、と遠くなりかける意識の中で思う。いったいどんな戦いを繰り返せば、これほど強くなれる。
 アキトはリボルバー拳銃の残弾を確認する。まだ全員生きてはいるが誰も動けず、うめき声を上げるのがやっとの和也たちに、わざわざ止めを刺すつもりだ。
 ――ふざ……けるな……!
 ようやく火星の後継者を追い詰めたのに、こんな訳の解らない男に殺されるなんて冗談じゃない。
 なにより澪――――父に続いて和也たちまで殺されたら、あの優しい少女はどれだけ悲嘆する。おまけにそれをしようとしているのは父を殺した張本人。
 許せるわけがない。
「償わせて……やる……!」
 背中を打ちつけられた時に背骨をやられたか、身体が思うように動かず、燃えるように痛い右手は動かす事もできない。腹にもナイフが刺さったままだ。それでも和也は緩慢な動作で立ち上がり、左手を軍刀の柄に添える。
「――――うぅああああああああああああああああっ!」
 吼え、最後の力でアキトへ突進する。
 背中を向けていたアキトがさすがに驚いて振り向き、銃口を向けてくる。
 銃声――――血と肉片が飛び散る。
「……ッ!」
 アキトが息を呑む。和也は――――使い物にならなくなった右手を前に出し、銃口を正面から掴んで逸らした。結果として和也は右手の上半分を粉々に粉砕されるのと引き換えに命を拾った。
「テンカワッ……アキト――――――――ッ!」
 軍刀の柄を逆手に持ち、そのまま腰の捻りを加え、抜刀しながらの斬激を放つ。
 木連式抜刀術、疾風。ゼロ距離から放たれる神速の一撃が、アキトの胴体を捕らえ――――

 ギンッ――――金属音。

 和也の剣は、恐らくはナイフの鞘か何かだろう金属製の物に阻まれた。ロングコートの裏に何を隠しているか見えなかった事もあるが、最後の最後で命運を分けたのは運だった。
「……ああ」
 運に恵まれなかった和也の顔に絶望が落ちる。そこへアキトがひゅっ、と音もなく左手を伸ばして――――



「ジャミングの変調パターン、解析完了!」
 ハーリーの声が響き、ナデシコCのブリッジがにわかにざわめく。
「ブレードリーダーの信号受信! 数秒間ですが通信繋がります!」
「和也ちゃん、聞こえる!? 大丈夫!?」
 澪が呼びかける。帰ってきたのは、

『――――――っぎぃああああああああああああああああああああっ!?』

 耳をつんざく、和也のそれとは思えないような恐ろしい絶叫。
 ブリッジの空気が、一瞬にして凍りついた。



「ああ……がああああああああ……!」
 アキトの足元に転がった和也は、血の涙を垂れ流す右の眼窩を押さえて苦悶の声を上げる。
 ぽたり、とアキトの左手から何かが落ちる。先刻、アキトによって抉り出された、和也の右眼窩に収まっていた物だった。

 ――痛い、痛い、痛い……!

 もはや限界を振り切り、発狂同然の状態だった。無事な左目から涙、口から涎を垂れ流して体を痙攣させる和也に、アキトは今度こそ銃口を向け――――

『――――ブレードリーダー!? 和也君どうしたの!? お願い、返事をして!』

 コミュニケから、ユリカの和也を呼ぶ声が聞こえ――――それを聞いたアキトが、はっとして手を止める。
「ユリカ……?」
 初めて、アキトが和也たちの前で明確な言葉を発し、動揺を見せた。
 その時――――ぷつり、と何かが切れる音。
「うおおおおおおおおおおっ!」
 いつの間にか意識を取り戻していた盾身だった。アキトへ向けてタックルを見舞い、もつれるように転がってアキトへ馬乗りになる。だが次に盾身が拳を振り上げるのと、アキトが拳銃を盾身へ向けるのは同時だった。

 銃声。
 一瞬、時間が止まったように感じた。
 盾身の身体が一度びくりと跳ね、そのまま前のめりに倒れる。
 盾身は起き上がらない。
 盾身の体の下から這い出るように、アキトが立ち上がり――――倒れた和也たちを一瞥した後、サーバーに刺さったストレージキットを抜き取り、今後こそ走り去っていった。

 ――た……てみ……

 盾身は、起き上がらない。



 ――――少しの間、気を失っていた。
「――――黒道は右目と右手が欠損、腹部にも刺傷、ついでに打撲! 負傷レベルは4……重傷だ! 最優先で処置しろ!」
 気が付くと、サブロウタのほか、何人ものナデシコクルーに囲まれていて、和也の体は今まさにストレッチャーに乗せられ運ばれるところだった。
「出血が酷い、ナノスプレーで止血後、すぐに輸血の準備を!」
「おい、聞こえるか!? すぐにナデシコへ搬送してやるから、頑張れ!」
「僕より、みんなを……盾身を、先に……」
 自分を優先して処置する救護兵メディックとサブロウタに、和也はかすれた声で懇願する。
「盾崎は……おい、そっちはどうだ!?」
 サブロウタが、盾身の様子を確認する。
 だが、盾身を診ていた救護兵は、首を横に振り――――コミュニケに呼びかけた。
「タテザキ伍長の左眼窩より進入した銃弾は、眼球を破壊し脳へ達しています。心音脈拍、共にフラット。生命反応ありません……死亡しています」
『……そうですか……タテザキ伍長を、戦死KIAと認定します』
 ルリの感情を押し殺した声。「畜生ッ!」とサブロウタが壁を血が出るほど殴る。……そして、『嫌ああああぁぁぁぁぁ……!』という澪の慟哭。
 また、奴に奪われたのだ。

 ――盾身……ごめん……



 ――――この日、ナデシコCは敵艦に残されていたデータから、甲院が逃走したと思われる旧木連軍の放棄された補給基地の座標データを手に入れた。
 それを受けた宇宙軍と統合軍はその地点に向けて包囲網を一気に狭め、火星の後継者に止めを刺そうと動き出した。
 そして和也たちは――――仲間を一人、失った。










あとがき

 今年初の投稿が五月になってしまい申し訳ありません。去年の暮れからリアルの事情でこちらに手を付けられない状態が続いていたもので、今回の執筆期間は実質二ヵ月半です。

 で、今回アキトと遭遇し、ついに『草薙の剣』から犠牲者が出ました。
 よりにもよって最も真剣に地球と木星の和平を望んでいた盾身が殺され、火星の後継者を順調に追い詰めてはいるものの、順風満帆な空気が吹き飛びました。しかも特に必要のない戦闘を仕掛けた結果の無駄死に。和也のダメージは肉体的にも精神的にも大です。
 一応補足しますと、今回和也たちはサーバーから甲院の手がかりを手に入れるのが目的だったわけで、周囲のサーバーを気遣いながら戦わねばならず、武器の使用も非常に制限されるなど不利な条件が重なってました。それにアキトは北辰と六人集との七対一の戦いを繰り返していたでしょうし、今回のシチュエーションは最も得意とするところだった、などが和也たちが一蹴された要因と言えますか。

 さて次回、盾身を失った悲しみに暮れる間も無く、開始される火星の後継者への制圧作戦。そこで和也たちの前に立ちはだかるのは……

 今年で、Actionに拙作を投稿し始めてから十年になるんですよね。お世辞にも更新速度が速いとは言えない作者ですが、よくここまで続いたものです。
 そろそろ話も佳境に入ってくる頃だと思うので、ここまで着たからには完結させられるよう頑張りたいと思っております。

 それでは、また次回もよろしくです。










圧縮教授のSS的



・・・おほん。

ようこそ我が研究室へ。

今回も活きのいいGGGFサントラ02SSが入っての、今検分しておるところじゃ。


ここでネット小説に慣れ親しんでいる諸兄は『ヘイト』と言う言葉も耳慣れていることと思う。

語源が英単語そのままであることもよく知られておるが、用法の起源がネトゲのヘイト値ではなく『ヘイトスピーチ』であることは意外と知られていないのではないかな?

日本で広まったのはごく最近じゃが、本場アメリカでは1980年代には既にこの呼び方で定着していたという。

なお、その前1920年代では『レイスヘイト』と呼ばれておったそうじゃ。直訳すれば『人種憎悪』

つまり今日の『ヘイト』の用法には、元々差別的な意味が含まれているということじゃな。

ネトゲ用語から広まったヘイトは『ヘイトを集める』の略であったと記憶しておるが、転じ転じて元の意味へ回帰していく現象はとても興味深い。


閑話休題。

一口に『ヘイト』と言っても、大きく二種類あると儂は考えておる。

それは体験しているか否か。

根拠の無い『ヘイト』は、大抵間違った情報によるもので解決策が無いではない。

しかし体験という最も強烈な根拠を得てしまった場合、有る事無い事全ての『ヘイト』が形を得てしまう。

人間の必要不可欠な認識機構に「同一視」があるが、それが悪い方へばかり働いてしまうのじゃ。

それを防ぐには「切り分け」が必要なのじゃが・・・・・・これが中々に難しい。

それはそれ! これはこれ!と胸を張って言い切れる者は希少じゃ。棚上げの意味で使われがちな今日では特にの。

しかし時には棚上げも開き直りも、無理を通して道理をパイルバンカーすることも必要じゃと儂は思う。

ブレイクスルー壊して押し通す』を成す者は、果たして誰であろうか?



さて。儂はそろそろ次の研究に取り掛からねばならん。この辺で失礼するよ。

儂の話が聞きたくなったら、いつでもおいで。儂はいつでも、ここにおる。

それじゃあ、ごきげんよう。