対火星の後継者・火星宙域迎撃・追撃戦と名付けられた一連の戦闘は、大衆向けには地球側の大勝と報じられた。
 2202年4月初旬、火星極冠遺跡を奇襲、占拠した火星の後継者に対し、統合軍並びに宇宙軍は迅速に対処。多数の敵艦船を撃破し、逃走した火星の後継者へ追撃戦を展開。ここでも多数の艦船を撃沈、ないしは拿捕し、最終的に首班である甲院薫こそ取り逃がしたものの、与えた損害は大。
 確かに撃墜数で見れば、地球側の勝利と言えた。
 しかし地球へと『凱旋』する数百隻の艦隊は、まるで葬列のような重苦しい雰囲気に包まれていた。
 勝利の歓声も、祝杯を上げる兵士の笑い声もない。あるのはあと一歩のところで甲院を取り逃がし、騒乱を終わらせる機会を逸した悔しさと、火星の後継者が相転移砲という危険極まる大量破壊兵器を持ち出してきた事への危機感だけだ。メディアに流れる軍の発表が現実に即さない、都合のいい大本営発表である事は、実際戦闘に参加した彼らにとっていまさらあげつらうまでもない。
 撃墜スコアは勝ちかも知れないが、これから先の事も考えた戦略的には完敗。まさに試合に勝って勝負に負けたという形で、統合軍と宇宙軍の艦隊は地球への帰途についた。
 そんな歓声のない凱旋の中、ナデシコCは特に鬱々しい空気が濃かった。
 戦いの後、ナデシコCはコバッタに乗っ取られた友軍艦や撃墜された機動兵器のパイロットを救助するため駆けずり回った。ナデシコもまた敵の進入を許しクルーに少なくない被害が出ていて、全てが片付くまでには半日を要した。
 澱のように疲労と徒労感がのしかかっていたが、クルーの表情が晴れないのはそれだけではない。この戦いでナデシコ部隊は勝てなかっただけでなく、補いようのない損害を受けていたのだ。

「……そう、そういう事だったんだね……」

 ナデシコCの医務室にて、ミスマル・ユリカ准将は重く目を伏せた。
 負傷者の救助と艦の応急修理が終わり、地球への帰途についた事でとりあえずは一息つけた頃、ユリカは艦の主なクルーと共に、医務室へと向かった。
 マキビ・ハリ中尉から話を聞くためだ。彼は戦闘中に撃たれて一時は危険な状態だったものの、幸い急所は外れていたために事なきを得た。
「わたしたちが相転移砲で消し飛ばした木連の人たちの中に、あの子たちの先輩が……」
「そう……らしいです」
 言いにくそうにハーリーが語ったのは、ユリカたちにとっては胸に刺さる話だった。
 他でもないユリカが引き金を引いた相転移砲が、多くの木連軍人を消したのは動かしようのない事実だ。木星には今でも恨んでいる人は多く、だから相転移砲を撃ったのがナデシコAであった事は機密扱いとした。ゆくゆくは一般人へ戻るクルーの生活と身の安全を守るためだ。
 だが……ナデシコに乗り込んできた、殲鬼という生体兵器部隊の生き残りにその事実を暴露され、ただでさえ盾崎盾身の死にショックを受けていた『草薙の剣』は激しく動揺した。結果、山口烈火と影守美雪――――二人の離反を招いた。
 離反せずに残った四人も、憤激のままにエステバリスでナデシコを飛び出し、墜落した。その後は統合軍によって救助され、向こうの病院船に収容された。露草澪も彼らを追って向こうへ行ってしまい、その後は連絡が取れていない。――――何を話せばいいか解らない、というのがより正確かもしれない。
「ごめんなさい……こんな事になるなら、もっと早くに話しておけば……」
「気にするな。お前の考えも間違っちゃいなかった」
 報告の義務を怠ったと詫びるハーリーを、タカスギ・サブロウタ少佐は責めなかった。
 先輩方の件は、デリケートな話だ。決戦を間近に控えた大事な時に話すべきか否か、ハーリーは相当悩んだのだろう。最終的に決戦が終わるまで胸の内にしまっておく事にしたのも、軍規的にはともかく感情的には納得できる。
 結果は、望んだそれとは正反対のものだったわけだが……
「そうよ。ハーリー君のせいじゃないわ。あの男……絶対に許さない」
 ハルカ・ミナト航海士は、温和な彼女としては珍しく拳を震わせて、怒りを露わにしていた。
「誰も悪意があって隠してたわけじゃないわ。ましてや陰で嗤っていたなんて言いがかりにもほどがあるわよ。そんな言葉で、あんな仲のよかった子たちを誑かして……」
「でも……嘘は吐いてなかったよね」
 苦しそうな声でそう言ったのは、ハーリーの隣のベッドに横たわった白鳥ユキナだ。果敢にも、あるいは無謀にも殲鬼に挑みかかったユキナは、壁に叩きつけられ背骨を損傷する重傷を負った。命には別状がなかったが、昔であれば一生車椅子に縛り付けられてもおかしくなかった怪我だ。
 殲鬼への怒りがないわけはないのだが、彼女もまたらしくもなく気落ちしているのは怪我のせいだけではないだろう。
「正直、ずっと引っかかってたんだ……相転移砲の事だけじゃない、アキトさんの事も……わたしたち、全部知ってるのに黙ってた……」
 ユキナにとって、澪は友達。その澪の父を殺したのはアキト。その動機は妻であるユリカの奪還。澪が知りたがっていた全てを、ユキナは知りながら黙っていた。
 地球連合の重要機密情報、守秘義務、話せなかった理由はいろいろあるが、結局は話す勇気が持てなかっただけかもしれない。それもまた、殲鬼に付け込まれる一因になった。
「もっと早くに話し合ってれば……あそこでみんながアキトさんにケンカ売って、盾身くんが死ぬ事もなかったかも……そうすれば、烈火くんと美雪ちゃんが裏切ったりしなかったかもって……どうしても思っちゃうよ……」
 悪気はなかったにせよ、隠し事をしていたのは事実だ。その結果殲鬼に付け入る隙を与えたのは、間違いなくナデシコの面々の落ち度と言える。ユキナはそれが、悔やまれて仕方ないのだ。
「やっぱり、私話してくる。あの子たちと……」
 ミナトが重々しく席を立ち、連絡用シャトルを使わせてほしいと伺いを立ててくる。それを承諾したユリカは、ふう、と嘆息して天井を仰ぐ。
「わたしも……向き合わなくちゃいけないね。あの子たちと……」



 機動戦艦ナデシコ――贖罪の刻――
 第二十一話 そして母になる



 二人はとうとう、その服に袖を通した。

「おおう、似合ってるじゃねえか」

 地球軍の包囲網を突破し、『本拠』へ帰還しようとする火星の後継者艦隊の一艦――――
 木連型戦艦特有の薄暗いブリッジで、その男――――殲鬼は、入室してきた二人の姿を見て愉快そうに拍手を送った。
 火星の後継者の制服に身を包んだ烈火と美雪。「お前らも新しい同士を暖かく迎えてやりな!」という殲鬼の一言で、ブリッジクルーから拍手で迎えられる。当の二人は手を振り返したりはせず、硬い表情で黙っていたが。
「これでお前らも我ら火星の後継者の一員てわけだな。めでたいこった」
「ええ。今日からお世話になりますわ、先輩」
 特に感情を見せるでもなく、美雪――いや、もう『影守』と昔の暗号名で呼ぶべきだろう――は軽く頭を下げた。『烈火』もそれに習って首肯する。
「……よろしく、先輩」
「おやおや、元気ねえな『烈火』よ」
 殲鬼は烈火の肩を叩く。そして真綿で首を絞めるような声音で、囁く。
「まさかここに来た事を後悔してたりするんじゃねえだろうな?」
「……んなことねえですよ。先輩方を殺して、オレたちを騙してたナデシコの奴らには思い知らせてやる」
「右に同じですわ」
 結構、と殲鬼は頷く。
 と、そこへオペレーターの一人が、「殲鬼隊長、総司令代理から通信です」と報告してきた。総司令代理とは甲院の事だ。
 殲鬼が「繋げ」と命じると、ウィンドウに甲院の姿が大写しになる。それを見たブリッジのほぼ全員が、姿勢を正して敬礼する。
『殲鬼、そして増援部隊の諸君。ご苦労だった。諸君の働きによって我々は地球軍の包囲網突破に成功した。火星の後継者全員を代表して礼を言う』
「はは、ありがたき幸せ」
『して、そこにいるのは『烈火』と『影守』か』
 ウィンドウ越しながら甲院に視線を向けられ、二人は体を緊張させた。
『……報告は聞いた。二人ともよく我々に帰順してくれた。これからは火星の後継者として我々に力を貸してくれる事を望んでいる』
「そのつもりだ……です」
「できるだけの事は致しますわ。……しかしこう言っては失礼ですけれど、これからどうなさるので?」
 今回の戦いでだいぶ戦力を失ったのでは、と『影守』。
『確かに犠牲は大きかった。だがその甲斐あって目的は果たせた。『宵闇月』級相転移砲艦もロールアウトし、量産型の生体兵器が実戦で使えるレベルに達して戦力も底上げされた。全て予定通りだ』
「そういうこった。あとで聞かせてやるよ。俺様たちの大戦略……」
 グランドデザインって奴をな、と殲鬼は自信ありげに言う。
「逆転してくださいよ。でないと仲間を裏切った意味がねえ……」
 その烈火の言葉を聞き、甲院が若干眉をひそめる。まだ仲間への未練があるのではと思ったのだろう。
 殲鬼は烈火に言う。
「確かに他の奴らがついてこなかったのは残念だが……まあ心配すんな。奴らも近いうち合流するさ」
「あれを見ればそう思えますわね……」
 くっくっ、と美雪は暗く笑う。
 和也たちが乗っていたであろうエステバリスが墜落する様は、殲鬼の夜天光からも見えていた。
 彼らがあんなど素人のような墜ち方をするわけがない。きっとホシノ・ルリ中佐の仕業だろうと容易に想像できた。
「あれが本音だったのですわね……自分が家族を取り戻すためなら、他人などどうでもいいと……身勝手極まりない女ですわ」
「畜生め……絶対にぶっ殺してやる」
 ナデシコ、そしてルリたち『家族』への怒りを燃やしている二人へ「よーしよし、その意気だ」と殲鬼は頷く。
「遠くないうちに機会は来る。まずは部屋を用意してやったからゆっくり休め。その後は新生『天の村雲』の編成だ。楽しみだねえ……」
 部屋に案内してやれ、と命じられた兵に続き、『影守』と『烈火』はブリッジを退室する。
 そして、ぷしっ、とブリッジの装甲ドアが閉まって数秒後、
「いい感じに黒くなってるな……大変結構だぜ。これで、『烈火』も『影守』も俺様たちの思い通りに戦ってくれるでしょうよ。ねえ担当官殿」
『身盾』がプリンス・オブ・ダークネスに殺された直後ってのも大きかったんだろうな。こっちとしちゃ大助かりだぜ。と酷薄に殲鬼は嗤う。
 その一方で、甲院は『どうかな』と疑いの表情だった。
『『烈火』は冷静になって残った仲間への未練が出ている。『影守』は考えが読み難い。そもそも軽々に仲間や同胞を裏切る輩は、同じ事を繰り返すものだ』
「ええ、抜かりありませんとも。……もう奴らの装備に小型爆弾を仕込んでおくよう、こっそり通達しときましたからよ」
『まあ好きに使えばいい……だがミスマル・ユリカとホシノ・ルリを殺し損ねた事は失態だったな』
 戦力を二人奪うよりも、その二人を殺したほうが地球軍に与えた損害は大きかったはずだ、と甲院は言う。
 殲鬼は特に反論もせず、軽く頭を下げる。
「それは面目次第もねえです。思いのほか抵抗されましてね」
 彼としても大将首を逃した事は口惜しい。最後の最後で邪魔をした『剣心』――今の偽名は黒道和也といったか――は、次に遇ったらなぶり殺しにしてやるつもりだが……
「とはいえ、今頃は『剣心』たちが動いてるんじゃないですかね」
 あれこれと隠し事を暴露してやった矢先に、あんな仕打ちを受けたのだ。『草薙の剣』も黙ってはいないはずだと殲鬼には確信があった。あるいはもう行動を起こしている頃かもしれない。
 そして連中であれば、ナデシコCに侵入してユリカとルリを殺す事は十分可能だろう。そうなってくれれば万々歳だ。
 合流? その機会があればそうする。
 まあ、捕まって死刑になる可能性が高いだろうが。



 ユリカから統合軍の病院船の名前を聞き、シャトルでミナトがそこに乗艦するまでは二時間を要した。
 道程はともかく、乗艦の許可を病院船から貰うまでにやたら時間を食った。お見舞いだと言っているのに、統合軍の通信士はネチネチと確認を求めてきて、その間ミナトは病院船と併走したまま待たされる羽目になったのだ。
 わざわざシャトルでお見舞いに来る奴なんていないからスパイかと思った、などと人を待たせた詫びもない通信士には憤慨したが、その間も、そして病院船の廊下を歩いている時も、ミナトは和也たちへ何を話したらいいかずっと考えていた。
 だがそれでも、和也たちがいるらしい病室の前では入室を躊躇した。それまで何度も反芻した謝罪の文句や説明の順番が全て頭から吹き飛ぶほど、そこに踏み込むのは勇気がいる行為だった。
 ――とにかく謝る。それからアキトくんやみんなの事……全部話す。
 もはや事が事だけに、許してもらえるかは解らない。罵声を浴びせられるかもしれないし、殴られるかもしれない……場合によっては、殺されてもおかしくないかもしれない。
 それでも、ミナトにとって彼らが大切な教え子である事には変わりない。とにかく話して、騙してなどいないと訴え続けるしかない。
 よし、と覚悟を決め、病室のドア開閉パネルに触れる。ぱしゅっ、と圧縮空気の音がし、消毒液の臭いが充満する病室内にミナトは足を踏み入れる。
「みんな、怪我はどう? お願いだから話を……?」
 だが、予想していた『草薙の剣』の姿はそこには影も形もなく――――
「んーっ! んーっ!」
 両手足を縛られ、口に猿轡をされた澪が、ベッドの上でもがいていた。あまりに予想外の光景に、ミナトは一時呆然と立ち尽くしてしまった。
 そして我に返り、慌てて澪の猿轡を外す。
「つ、露草さん!? どうしたの、何があったの!?」
「ぷはっ! 先生……和也ちゃんたちが……まだ怪我も治ってないのに、ナデシコに行って……」
「な……そんな、あの怪我で……!?」
 考えなかったわけではなかった。殲鬼も最後にそう唆して去っていった。
 だが、まさか本当に、しかもこんな早く行動を起こすなんて。
「みんな、ホ、ホシノ中佐と、提督さんを殺すって……!」



 澪が話した出来事は、まさに最悪の事態だった。
 ナデシコの皆に欺かれていたと感じ、仲間に裏切られ、ルリに傷付けられた『草薙の剣』は、最初口々にナデシコの皆に対して怒りの言葉を漏らしていた。何しろ全身に包帯を巻いてベッドに横たわっていた彼らの傷は、殆どがルリによって墜落させられた時に負った怪我なのだ。
 真矢妃都美は美佳機との衝突で受けた全身打撲の他に、衝撃で飛んだ破片によって額に裂傷を負っていた。傷は深く、傷跡は完全には消えそうにないと軍医は言っていた。同性の澪から見ても非の打ち所がない美少女の顔に、だ。
 神目美佳もまた妃都美機との衝突で全身に酷い打撲を受け、特に左腕は骨が飛び出すほど酷い有様だった。緊急手術によって腕の切断は奇跡的に免れたが、傷跡や後遺症が残る可能性はまだある。
 田村奈々美はブラックサレナの量子レーザー砲によって撃墜され、直撃こそ免れたものの輻射熱がコクピットの裂け目から進入し、身体の広い範囲に火傷を負った。救助された時は戦闘服が身体に癒着した酷い有様で、焼け爛れた皮膚は移植が必要だろう。
 そして既に右手と右目を失っていた和也は、墜落時には額が割れ、折れた肋骨が肺に突き刺さる重傷を負った。
 怒るな、というのは澪から見ても無理な状況ではあった。
 だが、憤激と悲嘆で頭が一杯になった彼らの思考はだんだんと危険なほうへ振れていったのか、次第に攻撃的な言葉を放つようになって――――やがて、誰からともなく言い出した。……殲鬼に言われた通り、ユリカとルリを殺そう、と。
 和也たちは澪を縛り上げ、動けなくした上で出て行った。それから、もう一時間ほど経っている。
 澪を縛り上げたのは、巻き込むまいとする和也たちの優しさだろうが――――本気だとすれば危険だ。なにより別なシャトルでナデシコへ向かったのであれば、もう着いていてもおかしくない時間だった。
 それを聞いたミナトは、ナデシコCへ連絡するべきかと思った。だが、そんな事を知らせたらユリカたちとて対処しないわけには行かないだろう。警備班を動員して制圧に動いたなら、双方に死傷者が出る可能性もある。もうこれ以上和也たちに傷付いてほしくないミナトは、知らせる事を躊躇した。
 仕方なく、ミナトは澪を連れてシャトルに乗り込み、大急ぎでナデシコCへ戻った。とにかく取り返しがつかなくなる前に和也たちを見つけて、話し合うしかない。
「ルリルリ。こちらミナト。ナデシコへの着艦許可お願い」
『着艦を許可します。ガイドビーコンに従って着艦してください。……思ったより早いお帰りですね。それにツユクサ上等兵が一緒なのはなぜですか?』
 ミナトがナデシコCを出た時点でブリッジに一人残り、多分今もそうなのだろうルリは二時間弱で、澪を伴って帰ってきたミナトに怪訝な目を向けてきた。
 ミナトは極力平静を装い、あらかじめ用意しておいた答えを口にする。
「話はついたから。露草さんは……」
「ちょっと、部屋へ忘れ物を取りに。……わたしの荷物、そのままにしてありますか?」
『……ええ。特に手をつけてはいないはずです』
 差し障りのないやり取りではあったが、澪の声には隠しきれない緊張と、若干の敵意が感じられた。
 父の死の真相を知っていたばかりか、その犯人であるアキトを罰しようとするなら邪魔者として排除すると言わんばかりの和也たちへの攻撃――――いかな澪でも、穏やかでいられるはずがない。
 そのルリは、何か言いたそうな面持ちにも見えたが、何も言おうとしない。謝罪も、弁解もない。
 ――ルリルリ……気持ちは解るけど、いくらなんでも……
 シャトルの航行システムをナデシコ側に預け、『車庫入れ』を任せてミナトはルリと澪に話し合いを促そうかと思ったが、その前に澪が「だったらいいです」と言った事で会話が終わり、通信が切れてしまった。
 そして、少しの間沈黙が満ちる。
「あ、あのね、露草さん……」
「先生。先生もユキナちゃんも、みんなお父さんの事、最初から知ってたんですよね?」
 機先を制される形で澪から問われ、ミナトは一瞬たじろぐ。
「……ごめんね。アキトくんの事を話すと、どうしても地球連合の機密情報に触れるから……」
「うん。それは解ってるんです。わたしたちも今は軍人だから……守秘義務には逆らえない。それはいいんです」
 だけど、と澪は彼女らしからぬ感情の感じられない声で、ミナトへ問いを投げてくる。
「わたしや和也ちゃんたちって何だったんですか? 火星の後継者と戦うための『戦力』――――それ以上でも以下でもなかったんですか?」
「……私にとって、みんなは大事な生徒よ。ユキナも大切な友達だと思ってる。それは疑わないであげて……他のクルーの人たちも、露草さんやみんなを可愛い後輩みたいに思ってる。ちゃんと一人の人間として、仲間だと思ってるはずよ」
「でもホシノ中佐は、あのアキトって人を無罪放免にしたいんですよね? お父さんの事も、盾身くんの事も、全部納得して諦めろって」
「それは……」
 ミナトは言葉に窮する。
 本人からはっきりとそう聞いたわけではないが、最近の言動や殲鬼の言葉に反論できなかったところを見ると、その通り、なのだろう。
 ルリの気持ちはよく解るが、澪や和也たちにとっては、あまりに残酷すぎる……
「提督さんはどうなんですか? 中佐の事は怒ってましたけど、旦那さんと一緒に暮らしたいとか、もう思ってないんですか?」
 それもまた、ミナトには答えられない問いだ。
 ユリカもルリと同じく、アキトとまた一緒に暮らしたい……はずだ。あのユリカが、アキトは犯罪者だからもう無理だと切り捨てるような冷たい考えをするとは、ミナトには到底思えない。
 だったら、ユリカの考えはルリと同じという事になる。だがそれを言えば、澪たちの怒りはユリカにも向くだろう。
 結局言うべき言葉を見つけられずに沈黙してしまったミナトに、澪は「……答えられないんですね」とため息をついた。
「じゃあ先生はどうですか? わたしがあの人を刑務所に入れたいって言ったら、賛成してくれるんですか?」
「…………」
 ミナトは答えに窮してしまった。
 ミナトにとっても、アキトは可愛い弟分だ。ユリカと愛し合い、ルリと共に暮らし、結婚するまでの顛末も見守ってきた。できる事なら今からでも幸せになってほしい。
 その一方で、澪のようなアキトの処罰を望む人たちの事は避けてきた。
 澪にとっての父親。
 和也たちにとっての先輩方と、盾身。
 それは大人から教え込まれた、歴史から来る反感などとは違う――――彼ら自身の身体と心に刻まれた傷だ。
 そして、ミナトはそれを刻んだ側の人間。こうして正面からそれを突きつけられると、どう答えればいいのか……
「……迷っちゃうんですね」
「ごめんね……」
「先生は悪くなんかないです。でも……やっぱり納得なんてできないです。和也ちゃんたちも怒ってましたよ。『僕たちは先輩方を殺した連中の、身勝手な目的のために戦ってたのか』って」
 あの時ナデシコAに乗っていた身として、それを言われると痛い。
「わたしも和也ちゃんたちと気持ちは同じなんです。お父さんの事も、盾身くんの事も、絶対に償ってもらいたい」
 もうやめてあげて、と何度も言いそうになり、そのたびにミナトは言葉を必死で飲み込んだ。甲乙付けがたい大切な存在同士が反目しあっている状況に、板ばさみのミナトは押しつぶされそうだった。
 ずしん、と軽い衝撃が伝わり、シャトルがナデシコCに着陸脚を下ろした。エアロックに空気が満たされて外に出られる状態になった事を確認し、ミナトは手早くシートベルトを外して立ち上がる。
「……今はとにかく、あの子たちを止めなくちゃ。取り返しがつかなくなる前に……その後でゆっくり話し合えば、きっとなんとかなるから……」
「ええ。もちろん話し合いますよ……みんなで」
 澪の放った妙な言葉に、ミナトが「え?」と振り返った瞬間――――

 ひやり、と首筋に冷たい感触がした。

「先生の言う通り、話し合ってはみるつもりですよ。でも話し合った結果決裂して戦争にもつれ込むのも、普通にある話ですよね?」
 俯いた澪の顔と、後ろからの耳慣れた声を聞いて、ミナトは自分の迂闊さを悟った。
 そもそも、和也たちがナデシコに向かってから一時間ほど経っている、と澪は言った。
 だがその時間、ミナトはずっと病院船の外で待っていたが、出入りしたシャトルなど一艇もいなかったはずだ。
 ミナトが乗る、このシャトルを除いては。
「露草さん……私を、騙したのね……?」
「……ごめんね、先生。わたしも聖人じゃないもの――――もう、黙っていられない」
「そういう事です。……動かないでくださいね。首を切られるのは楽な死に方じゃないですよ」
 下手に動いたら殺す、と後ろの男――――和也が言い放つ。それに呼応して数人がコクピットに入ってくる気配。
 何人かは杖をついていて、いかにもな怪我人の集団だったが――――それでも超人的な能力を持つ特殊部隊が四人。そして彼らが放つ怒気は、背中からでもミナトを萎縮させるに十分な威圧感を放っていた。
「お、お願い、みんなやめて……ちゃんと話し合えば、まだ間に合うから……」
「失礼ながら、先生では話にならないんです。やはりミスマル……いえ、テンカワ提督とホシノ中佐に話を聞きませんと、私たちも収まりがつきませんので」
 慇懃に、しかし怒りの滲む声音で、妃都美がそう言い放つ。
「だったら、どうしてこんな事を……話し合いたいなら、そう言えば取り次いであげたのに!」
「……言いましたよ。話し合いの場を持ちたい……必要ならこちらから出向いてもいい。そういった趣旨のメールをそちらに送ったはずです。それから……もう六時間は経っていますが、返答はありませんでした」
 覚えはありますか? と美佳が尋ねるが、ミナトには寝耳に水の話だった。
 そんなメールが来たのなら、ユリカなどすぐにでも応じたはずだ。まさか誰かが止めていた? そんな事をする人間がナデシコにいるはずがない――――と思いたかったが、現状では一人だけ、思い当たってしまう。
 ――ルリルリ……まさか提督が危害を加えられるとか思って……
「『まさかあの子が』みたいな顔してるわね。やっぱ心当たりあるんじゃない」
 ぬっ、と横から奈々美がミナトの顔を覗き込んできた。顔中に巻かれた包帯の隙間からは赤黒く焼け爛れた皮膚が覗いていて、ミナトは思わず息を呑んでしまった。
「結局……殲鬼先輩の言った通りなんですね、僕たちみたいな連中は、ホシノ中佐……もしかしたら提督にとっても、邪魔者でしかないって事ですか」
 違う――――と言ってあげたかったが、当のルリがここまで和也たちを警戒し、対話の機会も持とうとしないのでは、和也たちの不信感を解く文句など思いつかなかった。
 和也たちの言う通り、直接話し合う事でしかこの溝を埋める方法はないように思える。だが……
「話し合って……決裂したら、どうするつもりなの?」
「勿論、僕たちの気がすむようにさせてもらいます」
 それはやはり、怒りに任せて殺すって事か――――ミナトが戦慄した、その時。

 突然、ぷしぃーっ、と何かが噴出する音と共に、白いガスがシャトル内に充満し始めた。

「な、何これ!? 息ができない……!」
 澪が口元を押さえて苦しがり、「澪、吸い込まないで!」と和也がハンカチを押し当てる。強烈な刺激臭に目と鼻と喉が焼けるように痛くなり、息をする事もままならない。
「これは……無力化ガス!?」
「……ハッチがロックされています、開けられません……!」
 一瞬にしてガス室と化したシャトルの中で、妃都美と美佳が驚愕に叫ぶ。
 ミナトも同じだった。
「そんな、このシャトルにガスなんて積んでないはずよ!? それに私は何もしてないわ!」
「ホシノ中佐の仕業よ! あの女、あたしたちのやる事なんてお見通しってわけ!?」
 怒声を上げ、奈々美がシャトルのハッチに体当たりするが、宇宙での気密を確保する扉を、今の傷付いた身体で破れるはずもない。
「ホシノさん……こんなのあんまりだよ……!」
 どこかからカメラ越しに見ているのだろうルリへ、澪は怒りと、そして悲嘆の入り混じった声を上げる。
 ルリの気持ちは、ミナトにも解る。
 ルリが『家族』を取り返すために必死だったのも、そのための努力と戦いを無駄にできないのも解る。
 だが、これは、あまりにも――――
「ルリルリ! こんな事は……これだけは絶対にしちゃ駄目よ――――――っ!」



 ミナトが着艦の許可を求めてきた時、既に様子がおかしいとルリは気が付いていた。
 通信が切れたあともカメラでこっそりと様子を見ていたら、シャトルに潜り込んでいた和也たちがミナトに刃物――殲鬼に折られた軍刀――を突きつけた。それを見て、やっぱりと思った。
 和也たちが、こういう行動を起こす予感はしていたのだ。それだけの事をしてしまったという自覚くらいはルリにもある。
 だから前もって、シャトルの中に無力化ガスを仕込んでおいた。我ながら猜疑心が強い事甚だしいと思うが、結果的には当たっていた。
『ルリルリ! こんな事は……これだけは絶対にしちゃ駄目よ――――――っ!』
 ウィンドウの中で、巻き込まれる形でガスに苦しみながら、ミナトが叫んでいる。
「……ごめんなさい」
 ミナトにも、澪や和也たちにも、申し訳ないとは思っている。
 それでも、ルリは止まるわけにはいかないし、おめおめと殺されるわけにもいかない。
 この一年、世界中を飛び回って火星の後継者と、それを支持する地球人のテロ組織と戦ってきた。
 大勢の敵を殺し、大勢の味方を犠牲にした。時には関係のない民間人を巻き込み、ルリ自身も死に掛けた。
 アキトを――――『家族』を救いたかったから、ここまでやってきた。その努力を、犠牲を、いまさら無駄にできるわけがない。 
「だから……こうするしかないんです」
 ルリの手元に、警備班への連絡用回線を開くかどうかの確認メッセージが表示される。ルリがYESをタッチし、警備班に連絡をすれば、あとは彼らがガスで動けなくなった和也たちを捕らえるだろう。
 そして『草薙の剣』は軍法会議の上、反逆罪で処罰される。あまりといえばあまりの仕打ちだ。ミナトやユキナあたりはきっと怒る。下手をすれば絶交されるかもしれない。
 それでも……アキトは絶対に救ってみせる。誰にも邪魔はさせない。
 そう言い聞かせるように内心で繰り返し、ウィンドウに触れ――――

 瞬間、ウィンドウの中の和也と、目が合った。

「…………っ!」
 思わずぴくっと震え、右手を引いてしまった。
 本当に目が合ったわけではない。シャトルにいくつもある監視用のカメラの一つを和也が睨み、それがたまたまルリの見ていたカメラだっただけだ。
 なのに、ルリには和也が自分を見ているように思えた。その怒りと悲しさをない交ぜにした目が――――ルリに最後の引き金を引く事を躊躇させた。
『少佐ッ……! あんたにとっても、僕たちは使い捨ての道具でしかなかったのか……!?』
 熱血クーデターで『草薙の剣』を見捨てた草壁と同様、ルリもまた都合が悪くなれば自分たちを切り捨てるのかと、和也は訴えてくる。 『本当に、全部切り捨てて構わない程度の存在だったのかよ!? 答えろよ、ホシノ・ルリッ!』
「私は……」
 切り捨てるしかない。そう思っていた。
 また『家族』三人で一緒に――――その願いを諦めたら、もうルリには何もなくなる。戦う目的も、生きる理由さえも、全て失ってしまう。
 和也たちを切り捨てる事もやむなしと思っていたはずだった。なのに――――ルリは、躊躇った。

 ――私は何が怖い? いまさら……何を失う事を恐れている?

 時間にして数秒の葛藤。
 次の瞬間、突然目の前のウィンドウが真っ赤な警告メッセージによって覆われた。

「な、これは……艦長権限のブロック!?」
 それは、ナデシコCのシステムに関わるルリの権限が、一時的に凍結された事を示していた。
 通常ならばありえない事態――――さらに、繋がったままになっている映像の中、和也たちを閉じ込めていたシャトルのハッチが勝手に開き始めた。『開いた!?』『出ろ、早く!』と和也たちがガスから逃れようと、シャトルの外に飛び出していく。
 いったい誰が、と一瞬思ったが、ルリ、つまり艦長の権限を凍結できるさらに上位の権限を持つ者など、ここには一人しかいない。
 そして、それをルリに気付かれる事なく、オモイカネにアクセスして実行できる技術を持っている者もまた、一人しかいない。
「そう……あの子もとうとう、私に逆らうほど大きくなったんですね……」



 ナデシコC、医務室――――
「……ごめんなさい、艦長……僕、もうこんなの見てられないです……」
 ウィンドウの中、和也たちがガスから逃れたのを確認したハーリーは、はああ、と重苦しいため息をついた。
 と、横から伸びてきた手がハーリーの頭をくしゃくしゃにした。
「よくやったよハーリー君。偉い偉い」
「……頭、撫でなくていいです」
 明らかに子供を褒めるやり方で頭を撫でてくるユキナの手を、ハーリーはやんわりと払う。
 ハーリーの気分を重くしているのは、怪我のせいだけではない。仲間の和也たちと、大好きなルリが反目しあっている現状が、ハーリーには辛すぎた。そして、自分が和也から聞いた先輩方の事を黙っていたから殲鬼に付け入られ、こんな状況を招いたのではと、ずっとハーリーは気にしていた。
 もう誤りを繰り返したくなかった。そんな状況で、ハーリーは初めて明確な意思を持ってルリに背き、和也たちを利する行動を取った。
 今頃ルリはどんな顔をしているのだろう。そう思うとまた、ハーリーの心は締め付けられるのだが……
「ルリはこんな事であんたを見限るほど、器の狭い人じゃないって」
 今はちょっと暴走気味だけどね、とユキナはハーリーの不安を取り払うように、ハーリーの肩をぽんぽんと叩く。
「信じて待ってよ。あの人ならきっと、全部丸く収めてくれるって」
「……はい。そうですよね」
 お願いします、と願いを込め、ハーリーはコミュニケのボタンに触れた。
「コクドウ隊長、ツユクサ上等兵、タムラ伍長、マヤ伍長、シンメ伍長……それに提督……信じてますから……」



「ミナトさーん、大丈夫ですかあ?」
「チタン製の台は丈夫……ククク」
 両手足を包帯で縛り上げられたミナトが必死にもがいていると、ウクレレの音色と共に緊張感がない女二人の声が聞こえた。
「ヒカルさんにイズミさん!? お願い、早くこれほどいて!」
「ああはいはい。今ほどきますから」
 飄々としたアマノ・ヒカルの態度からは、危機感も何も感じられなかった。状況が伝わっていないのだと思ったミナトは、早口にまくし立てる。
「早く追いかけないと! 『草薙の剣』の子たちが……」
「ルリルリと提督のとこに行ったんでしょ。ねえウリピー?」
「おお。ゲホゲホ咳き込みながら歩いていったぜ」
 声をかけたら睨まれたけどな、と答えたのはウリバタケ・セイヤだ。まるで深刻さがない二人に、ミナトは苛立ちまかせに怒声を上げた。
「解ってるならなんでそんな余裕なのよ!? このままじゃあの子たちは……」
 そこでペロン、とウクレレの音が鳴り、ミナトの声を遮った。当然、鳴らしたのはマキ・イズミだ。
「慌てず騒がず考えましょー……あんたの教え子たちは、ここで取り返しのつかない事をしでかすほど信用の置けない生徒?」
 半分くらい『マジ』が入ったイズミの言葉に、それは、とミナトは押し黙る。
 彼らがオオイソに来たばかりの頃は、地球人の生徒との間でいろいろトラブルが絶えなかったが、彼らはよく抑えていたと思う。少なくとも、自分からトラブルを起こすような者は『草薙の剣』にはいない……と、彼らの教師としては信用してあげたい。
 しかし、今の彼らの精神状態を考えると……懊悩するミナトに、ヒカルはやんわり声をかける。
「確かに今のあの子たちはいろいろ抑えきれなくなってるみたいだけど、信じてあげましょ……あの子たちだって、積み上げてきた物を簡単に崩したくないはずでしょ」
「オレも……もうこれ以上あいつらを傷付ける真似はごめんだ」
 そう、ウリバタケ。
「話は聞いたぜ。あいつらの先輩たち……あの時の相転移砲で死んだんだってな」
 間接的にせよ、知らなかったにせよ、ウリバタケもまた先輩方の死に関わった身として思うところがあるようだ。
「オレたちが整備した相転移砲でな……烈火坊はそれに怒って出てったんだろ? この上残った奴らまで牢屋行きなんて事になったら、後ろめたくって家に帰れねえよ」
「本日のご予定は、提督のお任せコースでよろしくー」
 提督に任せる、という意味だろうイズミの言葉で、ミナトは彼らが何を考えているかを知った。
「……一人で向き合うつもりなのね」
「心配?」
「そうね……でも私も信じるわ。あの子なら……きっと何とかしてくれるって」



「大丈夫、澪……?」
「う、うん、平気。まだ少し目が痛いけど……」
 気遣わしげに訊ねた和也に、澪は気丈に答えて見せた。
 いきなりのガス攻めに遭い、もうここまでかと思ったが、どういうわけか中途半端なところでシャトルのハッチが開き――――その後ここ、ナデシコCの居住ブロックに辿り着くまで格納庫の整備班を除けば誰に遭う事もなく、誰何の一声もなかった。彼らは隠れもせず、堂々と廊下を歩いているのに、だ。
「……時折、様子を窺っているらしい人はレーダーに視えます……ですが、それだけです……」
「チッ……完全に泳がされてるってわけね」
 レーダーで周囲を探っている美佳の言葉に、奈々美が舌打ちする。
 例えるなら、小さい子供の反抗を困った、しかし敵意のない目で見られているような感覚。本人たちにとっては精一杯の反抗なのに、大人にとっては痛くも痒くもないと、そう言われているような感じだ。
「好きにやらせておけばいい、どうせ大事にはならないと? ……甘く見られたものですね」
 妃都美も渋面を作る。構ってもらうために来たわけではないが、行動を把握され、その上で見過ごされているというのは気分の良い物ではない。
 ――殲鬼先輩は、仲間面してる僕たちを、ナデシコの人たちは陰で嗤っているんだと言っていた……
 これもその延長線上なのだろうかと、ろくでもない事を考える。ここにミナトがいればそれは違うと必死に訴えただろうが、今となってはそれさえ信じていいのかどうか解らない。
「大事になるかどうかは……この中の人の出方次第さ」
 言って、和也たちはその部屋の前に立った。
 ミスマル、あるいはテンカワ・ユリカの私室のドア脇に据えられたコンソールへ触れると、ドアはしゃっ、と音を立ててスライドした。
 ――やっぱりか。
 鍵も何もかかっていない。どうぞお入りくださいという意志表示だ。
 中へ入ると、一般的な軍艦のそれとは相当にかけ離れた、広く豪華な内装が目に入った。もともと他の艦より居住スペースが贅沢な事で知られるナデシコ級だが、そこへユリカは遠慮なく高級そうな本棚や、ブランド品らしい寝心地のよさそうなベッドを持ち込み、完全にホテルのスイートじみた豪華な部屋を作り上げていた。
 そして、そんな嗜好を凝らした部屋の中に、部屋の主の姿が――――なかった。
「……提督……いないのか? ここにいると思ったんだけど」
 まさか罠じゃあるまいな、とまたぞろ猜疑心が首をもたげた時、「みなさん、これ……」と妃都美の声がした。
「この本、木連の歴史教科書……それも戦前に発行された物です……」
 妃都美が手にした本を見てみると、それは確かに和也たちが訓練時代読まされていた歴史の教科書だ。月での内戦から火星、そして木星に至る逃避行まで、木連の礎を築いた先人たちがいかに多くの苦難を乗り越えてきたか、そしていかに地球が卑劣な仕打ちを行ったか、という記述に全体の半分以上が割かれている、プロパガンダ的な性格の強い教科書だ。
 熱血クーデター以降は反地球色を抑えた改訂版が発行になったが、それもまたユリカの本棚に収まっていた。その他にも――――
「ゲキガンガーEX……僕、これ好きだったなあ……」
「……これは、ビデオテープですね……何と書いてありますか?」
「木星で放送された、ニュース番組やワイドショー、教養番組とかみたい。わたし、ビデオテープなんて初めて見た……」
「なんか見覚えのある本だと思ったら、『木星の不都合な事実』ね。木星でも殆ど出回ってない発禁図書をよくもまあ……」
 七次元からの侵略者によって人類が地球を追われ木星に落ち延びた時代に、かつてのゲキガンガーパイロットの子孫たちが新型ロボ、ゲキガンガーEXを開発して立ち向かう、木星生まれのゲキガンガー二次創作マンガ、木星のニュースや教養番組などを録画したビデオテープ、戦前に軍事最優先の経済下で貧困や過酷な労働に苦しむ人がいる事実を痛烈に批判し、当時の木連政府から発禁処分を受けた書籍――――
 どれも木星から直接取り寄せたのであろう、木星の歴史や風俗に関する書籍や映像媒体が、本物の木材を使っているらしい高級そうな本棚をぎっしりと埋めていた。書籍の多くには付箋が張ってあり、ユリカがこれを棚の肥やしにせずしっかりと読み込んでいる事を物語っていた。
「提督さん……木星の事をこんなに勉強してるんだ」
 澪がぽつりと漏らした通り――――この棚に並んだ書籍の数々からは、木星の、木星人の事を少しでも知ろうとする姿勢が見て取れる。
「……何のつもりだよ……? お互い理解し合えれば、戦争が終わるとでも言いたいのかよ?」
 理解というなら、ユリカ、そしてルリにとって、『家族』はかけがえのないものだった。そんな事くらい和也にも理解できる。
 だが理解したくらいで、納得などできるわけがない。
「こんな物を見せて……どうするつもりだよ。何を考えてるか解らないよ……」
「見て欲しかったのはそれじゃないよ……それは、ただユリカが知りたかった事を勉強してるだけだもの」
 和也がユリカの真意を測りかねて混乱していたところに、唐突に後ろから声が投げられ、全員がはっと後ろを振り向く。
 そこにいたのは……シャワーを浴びたばかりなのか、バスタオルを肩にかけただけの裸身から湯気を立てるユリカ。その均整の取れた肢体が余すところなく目に入り、この場でただ独りの男である和也は咄嗟に目を逸らした。
「ああ、ごめんね。こんなに早く来ると思ってなかったから、シャワー浴びてる途中だったの」
 平然と言って、ユリカはクローゼットから制服と下着を取り出す。そしてその場で、着替え始める。
「……なんでここで着替えるんですか」
「え、部屋を出たりしたら人を呼ぶかもって思ってないの?」
 和也たちの訪れた目的からすれば至極真っ当な指摘に、むぐ、と一同押し黙る。
 そんな和也たちに、ユリカは微笑って言う。
「聞いたよ。ルリちゃんがまた悪い事したみたいだね……わたしからも謝るから、許してあげてくれないかな」
「それをするには、ちと余罪が多すぎるわね、あんたら」
 敵意のないユリカの態度に毒気を抜かれながらも、怒気を込めて奈々美が言う。
 それを合図に、皆が口々に思いを発する。
「先輩方の件……解ってるんですよ? 別にあなたたちが、先輩方を狙ったわけではないと。戦争ですし、お互い様ですし、筋違いかもしれませんが……それでも、私たちにとってはかけがえのない人たちでした。だから烈火さんと美雪さんは裏切ったんです」
「わたしにとって、お父さんもそうでした……真相が解ったのはいいですけど、提督さんを助けるとばっちりで殺されたなんて言われても、納得できません……!」
「……澪さんと同じ事を考えている人は、千人単位でいるでしょう……私たちも許せませんでした。そうして戦った結果、大切な仲間である盾身さんを奪われました……」
「申し訳ないけど、僕たちはテンカワ・アキトに償いを求めないではいられません。……でもそれに対する返答が、この傷ですか!?」
 妃都美が、美佳が、澪が、そして和也が――――痛みを訴える。失ったものが残した、決して消せない心の痛みを。
 和也たちの側にも、落ち度はあったかもしれない。狙ったわけではなかったかもしれない。どうしようもなかったかもしれない。
 それでも、たとえ凍結した路面と猛吹雪という悪条件の中で起きた、予期も回避もまず不可能な交通事故であっても、犠牲になった人の遺族は加害者を責めるだろう。
 納得するにはあまりに重過ぎる大切なものを失った時、人はその原因を作ったものを責めずにはいられない。そして和也たちもまた、簡単に納得できるほど軽くないものを、ユリカたち『家族』によっていくつも失った。
「提督……僕たちはね、テンカワ・アキトを無罪放免にして、また『家族』三人で一緒に……先輩方を殺した連中の、そんな下らない目的のために戦うなんて、いくらなんでも願い下げです」
 ユリカは、何も言い返さない。ただ和也たちの言葉を黙って聞いている。
「ねえ提督。あなたもホシノ中佐と同じなんですか? 僕たちを戦わせるだけ戦わせて、邪魔になると見るや切り捨てるつもりなんですか!? 答えてください! 答えによっては、ここで殺すかもしれませんよ!?」
 和也は殲鬼に折られた軍刀を突きつけ、殺すというのが脅しではないと見せ付ける。
 しかしユリカは、刃を向けられながらふふ、と薄く笑みを浮かべたのだ。
「……何が可笑しいんですか? 僕たちは本気ですよ」
「ああ、違うの。そうじゃなくて……答えによっては殺すかもって、昔同じ事をアキトに言われたのを思い出したの」
「あの男が……?」
「アキトはお父さんお母さんが殺された事に、ユリカやお父様が関わってるんじゃないかと疑ってたからね……思えばわたしも、いろいろ業が深いなあ」
 今は地球と火星の後継者の両方を敵に回し、追われている夫との記憶を思い出しているのか、ユリカは遠い目で微笑む。
 殺されるとはまるで思っていないように見える態度に、気分がささくれた和也は重ねて脅しの言葉をかける。
「……随分と余裕ですね。今度は本当に殺されるかもしれないのに」
 それに対して、ユリカは笑みを崩さず答えた。
「わたしの話がつまらなかったら……殺していいよ」



 凍結されていない一般権限を使ってカメラにアクセスし、プライベート回線のロックをハッキングによって無理やりに解除して、ルリはユリカの私室で『草薙の剣』とユリカが対峙する様子を見ていた。
「ユリカさん……何を考えて……」
 刃と殺意を向けられながら、微笑んでユリカが口にする言葉は、下手をすれば挑発とも受け取られかねないものだ、いつ和也たちが激高して刃を振るうか、ルリは気が気ではなかった。
 ――やっぱり、早く助けないと……
 ハーリーが妨害したとしても、自分が本気を出せばハッキングで権限を取り返す事は多分できる。やはり警備班の出動命令を出すべきだと、IFSボールへかけた手に力を入れる。
 だがその時、映像の中のユリカがルリを見て、小さく首を横に振った。
「……っ!」
 気のせいなどではなかった。間違いなく、ユリカはルリが盗み見ていると確信した上で、余計な事はしなくていいと、そうルリに伝えてきた。
「どうして……殺されるかもしれないのに……!」
 今のこの状況で、どうしたら『草薙の剣』が害を成さないと信じられるのか、ルリには理解し難かった。
 それとも――――殺されても仕方ないと思うほど、ユリカは負い目を感じているのだろうか。
「そんな事……!」
 いてもたってもいられなくなり、ルリは腰に挿した拳銃を抜く。和也たちが来たのを知った時、彼らがここまで来た時に備えて用意したものだが、それに弾が入っているか改めて確認し、ブリッジを飛び出そうとして――――目の前に男の胸板があった。
「どこに行くんですかね、艦長」
「タカスギ少佐……」
 先刻までいなかったサブロウタがいつの間にか目の前にいて、ルリは一瞬驚いた。
「緊急事態です、そこを退いて……いえ、一緒に来てください。提督が――――」
「艦長。言い難いですがそりゃできません」
「……できない?」
 サブロウタの口から初めて聞いた、明確な拒絶。
 動揺しつつも、冷静を保ってルリは訊く。
「理由を言ってください、少佐」
「提督から、艦長と一緒にいろってお願いされましたのでね」
 サブロウタはぼかした言い方をしたが、要するにユリカからルリが早まった行動をするなら止めろ、と言われたのだろう。さすがはユリカと言うべきか……何から何まで予想した上で手を打ってある。
「失礼ながら中佐と准将なら、准将のほうが優先されるでしょ。退けって言うなら、その銃で俺を撃つんですね」
 言い方こそいつも通り柔らかい物だが、その言葉には冗談ではない本気の、てこでも動かないという明確な意思があった。
 上官から命令されたから、ではない。彼自身もまた自分の意志でユリカの側に着き、ルリに背いている。
「タカスギ少佐は……提督が殺されたらどうするつもりですか……」
「それって、彼女を失う事が軍にとってどれだけの損失か解っているのか、って意味ですかね? それともご家族が殺されるかもって個人的な不安ですか?」
「……両方です」
「まあ、そうなったら切腹してお詫びしましょうか?」
「…………」
 真面目に考えているとは思えないサブロウタの返答に、ルリは怒りを込めて睨みつける。
「いや、そんな怖い顔で睨まないでくださいよ……根拠はって言われたら困りますけど、心配してるような事にはならない、と思いますよ」
「どうして、そう言い切れるんですか。私には解りません……」
「こういうのって説明しても、納得してもらうの難しいんですよね。ただ言えるのは……提督とあいつらを信じろ、って事くらいですか」
 そう言われても、ルリにはユリカはともかく、今の『草薙の剣』が説得を受け入れてくれると信じられる理由が解らなかった。
 一つ確かなのは、不動の壁と化したサブロウタは、ルリが何を言おうと道を開けはしないだろうという事だ。
 ――私のやり方にはついていけない……そういう事ですか……
 ハーリーも、サブロウタも、ユリカを信頼して従い、ルリに背いた。
『家族』を、奪われた幸せを、取り返そうと突っ走った結果、味方がみんないなくなってしまった。その事に気付いたルリはサブロウタを撃つ事も押し退ける事もできず、ただその場で立ち尽くすしかなかった。



「先輩の人たちの事は……言い訳しないよ」
 まず最初に、ユリカが言い出した事がそれだった。
「たくさん殺すって解ってて撃ったのはわたしだし、それを隠す事にしたのもわたし。クルーのみんなを、ちょうど君たちみたいな仕返しに来る人から隠して、安全に民間人に戻さないといけなかったからね」
 当時の艦長として、それが最後の仕事だったとユリカは言う。
「……必要な事だった。そう言うんですね?」
「そうだね。これを謝罪したら、みんなの安全を守ったのが間違いだった事になっちゃう。でも……そのせいであの殲鬼って人に付け込まれて、烈火くんと美雪ちゃんを火星の後継者に取られちゃった、それについては謝らせてほしいな」
 ユリカの言い方は巧妙に責任を回避しているようにも受け取れるが、悔しいかな、和也たちが最も問題にしている点をよく理解していた。
 先輩方は大事な存在だった。殺した相手に恨みは当然ある。だが……妃都美が言ったように、この件はお互い様だ。和也たちもまた大勢の人を殺して恨みを買っている以上、被害者面をしていられる立場でもない。
 それでも和也たちが黙っていられないのは、この件さえなければ殲鬼に付け込まれる事もなかった、二人、特に烈火が裏切る事もなかったと、そう思っているからだ。
「二人を取り返すなら、わたしたちもできるだけの協力はする。だから……他のみんなは許してあげて」
 協力するとまで言われたのでは、これ以上責めるのは難しい。それどころか殺しにくくなる。
 ――命令されただけだから私は悪くない、とでも言ったなら話は終わりだったろうけど、大した策士だよこの人は。
「……それは全部話してもらってから決めます。ただし……テンカワ・アキトは絶対に許さない。盾身の仇は、僕たちが絶対に討たせてもらいます」
 それが、現状何よりの懸案だ。美雪が裏切ったのは、それによるところが大きく……和也たちもまた、そう簡単には譲れないレベルの報復心を持ってしまっている。
「提督さん……あの殲鬼って人は、あなたたちがテンカワさんの罪を握り潰そうとしてるって言ってました……」
 ルリさんは実際そうみたいです、と澪は言う。
「あなたも同じなんですか……? また『家族』三人で暮らしたいから、お父さんの事も盾身くんの事も、全部握り潰すつもりなんですか……!?」
 是と答えたなら、和也たちは勿論、温厚な澪でも黙ってはいられないだろう。その時点でユリカもルリも、『草薙の剣』の敵になる。
 ユリカは――――さすがに一瞬、考える素振りを見せた。
「そんな事考えてないよ。……って言ったら、信じてくれる?」
「バカにしてんの?」
 奈々美が険のある声で言う。
「提督……私たちの前であれだけ愛し合っているとアピールして、母親になる準備だと編み物に手を出したりしていましたね?」
 いつかまた旦那さんと一緒になるつもりがないなら、そんな事はしないでしょう、と妃都美が指摘する。
 あれでアキトの事はもう諦めていると言われても、信じられるわけがない。美佳までもが剣呑な気配を漂わせ、口を開く。
「……私たちは、提督の本音を聞きたいのです。機嫌を取ろうと適当な事を言うのなら……かえって怒る事になりますが……」
「ごめん、そうだよね」
 ユリカは目を逸らして俯く。
「アキトに未練がない……って言えば嘘になるね。また会いたいし、一緒に暮らしたいし、赤ちゃんも作りたい。ルリちゃんも入れて三人で、ゆくゆくは四人で暮らせたら……きっと幸せだろうね」
「……やっぱり、それが本音なんですね……」
 裏切られた、と言いたげに澪は相貌を歪める。
 これで話は終わりかと和也は右手に力を入れたが、ユリカは重ねて口を開く。
「ねえ、わたしやアキトにできる事って、君たちに殺されてあげる事だけなのかな?」
「……命を差し出すほかに、どうやって償うつもりです? 謝罪と賠償なんてつまんない事、僕たちは言いませんよ」
「公平な裁判」
 予想外の言葉に、えっ、と皆がざわめいた。
「アキトの事も、わたしたちの事も、全部世間に公表する。妻を救うために独り立ち向かったとか、余計な着色は絶対しない。その上で……アキトに裁判を受けてもらうの。それでも納得できない?」
 犯罪者が法の下裁判で真実を暴かれ、裁かれる。私的な仇討ちよりよほど真っ当な帰結だろう。
 それを考えに入れていなかったのは、殲鬼の言葉があったからだ。
「……言ってる事、矛盾してませんか? 裁判となれば、あいつは……」
 よくて終身刑、最悪死刑――――
 それだけは絶対に許さないはずだと、殲鬼は言っていた。ルリはそれに怒りと銃弾で返し、反論はなかった。つまり、殲鬼の言葉が正鵠を得ていたという事だ。
 だが……ユリカの考えは、違うのだろうか。
「全ての真相を明らかにすれば、酌量の余地が認められて死刑にはならないと思う。それでも何十年単位の懲役だろうけど……償いは必要だと、わたしも思ってる」
 そこでユリカは、一瞬視線を明後日の方向に向けた。
 なんとなく和也たちにも解った。ユリカは、別の場所からこの会話を聞いている人間にも、自分の考えを伝えようとしている。
「アキトも多分、無罪放免なんて望んでないと思うんだ。そんな事しても、処罰を求める人は許してくれない……ちょうど君たちみたいにね」
 それを力で押さえつけても、結局罪の意識が残るだけ。だからアキトは逃げたんだよ、とユリカは言う。
「バカな奴……自分に罪があると解ってるなら自首すればいいのに」
「そうだね。アキトはバカだよ……このままじゃきっと、火星の後継者と戦って死んじゃう。だから……君たちがアキトを捕まえてくれないかな。ちゃんとした裁判の上で、罰を受けてもらうためにも」
 最後はさすがに辛いのか、ユリカは言葉を詰まらせた。
「こんな事お願いできる立場じゃないのは解ってる。でも、君たち以外の人に頼みたくないの。そうしてくれたら……わたしたちナデシコ部隊の総力で君たちを助けるし、木星人みんなの事もミスマル家の全力で支援するよ」
 罪滅ぼしになるかは解らないけど、これがわたしにしてあげられる事だと言うユリカに――――
「本当にまともな裁判で全てを明らかにできるなら……盾身くんやお父さんも、少しは浮かばれるかな……」
「…………」
 澪がそう口にしたように、皆も心が揺れていた。
 だが今の和也たちは、それが目の前にぶら下げられた手の届かないニンジンではないか、という疑念を捨てきれない。またぞろ利用するだけ利用して、いざあいつを捕まえたら、あるいは都合が悪くなれば今度こそ切り捨てて、殺しにかかってくる気が無いと――――保証するものは何もない。
 そう疑わずにはいられない。昨日刻まれたばかりの傷の痛みが、信じる事を危険だと躊躇させる。
 だからこそ、知りたいのだ。
「提督……あなたの目的は、いったいなんですか?」
 いつかアキトが檻から出てくる余地がまだあるのは和也たちとしては不満だが、ユリカとしては相当な苦渋の決断だと思う。本気で言っているのなら、だが。
 そうまでして『草薙の剣』を味方にしたいからには、ユリカには果たしたい目的があるはずだ。ルリと同じ、火星の後継者を倒す事で果たされる、別の何かが。
「ホシノ中佐は火星の後継者を殲滅すれば『家族』がまた一緒になれると思って、そのために戦っているようだけど、あなたは違うんですか? 火星の後継者を倒せさえすれば、他はどうでもいいと?」
 だとしたら、ユリカはルリと同じどころか、それ以上に復讐だけで生きている復讐鬼、という事になるが、「違うよ」とユリカはかぶりを振った。
「それじゃあ、私の目的は叶えられないんだよ。だから、わたしは火星の後継者とは戦うけれど、復讐のためには戦わないつもり」
「じゃあ何よ。火星の後継者を倒して……どうしたいのよ?」
「……地球に平和を取り戻す? ……木星と地球を和平させる? ……そのためなら、自分の幸せなんて捨てていいと?」
「だとしたら大した滅私奉公の精神ですね。軍人としては見上げたものかもしれませんが……」
 疑問符を浮かべた皆が、口々に言う。
 和也たちがユリカと過ごした時間は、決して長くはない。だがこの数日見てきた彼女の人となりからして、ユリカが大儀のためなら自分の幸せを捨てられる類の人間だとは、到底思えなかった。
 ――どう答える気だ? 利用するだけ利用して最後に裏切るつもりなら、僕たちに聞こえのいい事を言うと思うけど……
「わたしの目的はね」
 ユリカは、答える。

「アキトやみんなに、報いる事だよ」

「報いる……」
「…………」
 ユリカの一言を聞き、妃都美と、美佳が思うところがあるかのように俯いた。
「どこから話せばいいかな……アキトと結婚して、これから新婚旅行って時に火星の後継者に拉致されて、実験台にされて……目が覚めたら二年も経ってて、アキトはテロリストになってたりして……」
 それは、ちょっとした浦島太郎になった気分だった。ニュースを見ていてもまるで現実感がなくて、知らない世界に来たみたいな感覚だった。
 ただ確かだったのは、はれて夫婦になったはずのアキトが隣にいないという事だけ。
「状況が飲み込めてきたら怖くなったよ。アキトはわたしのために、ミオちゃんのお父さんみたいな関係ない人を大勢巻き込んで、沢山の人から恨まれてたんだもの。……わたしのためにだよ? そこまでされて助かったわたしは、どうしたらいいんだろうって思った。わたしさえいなかったら、アキトはテロリストにならなくてよかったのかなって思った。アキトと話をしたくても、アキトは逃げたきり帰ってこないし……」
 正直恨んだ事もあったよ……とユリカは言う。
 澪の父や多くの人を巻き込んで死なせた末に助け出された妻もまた、責任を感じて苦しんでいたのだ。そして、当の夫はそれに対する手当てもしないまま逃げ出した。
 つくづくバカな男だと思う。
「なんだか死にたくなりもしたし、いろいろ悩んだけど、結局……わたしはアキトに報いる事にしたの。アキトが裁かれなきゃいけないならなおさら、そうまでしてわたしを助けてくれた事を……無駄にしちゃいけないと思った」
「……で? 具体的に何をどうして、あいつの恩に報いるつもりなんですか?」
「みんなが、もう戦争なんてしなくていい世界にする。木星と地球を今度こそ和解させて、この騒乱を終わらせて、ずっと……とは行かないかもしれないけど、ここにいる人たちが生きてる間くらいは平和が続くようにしたい」
 それはかつて、白鳥九十九と、ナデシコの皆が望み、そして一度は草壁に踏みにじられた未来図だ。
 アキトに助けられたわたしが今度こそそれを実現できれば、アキトにとってこれほど嬉しい事もないはずだとユリカは言う。
「あなたが世界を変える? それがあいつの恩に報いる事だと? ……随分と大きく出ましたね」
 いくらミスマル家の影響力が大きくても、それが及ぶのはせいぜい日本国内くらいのものだろう。世界を変えるなんてあまりに途方もないと思ったが、ユリカは「少し違うかな」と微笑った。
「あの戦争や、火星の後継者が引っ掻き回したおかげで、わたしが何もしなくてももう世界は変わりかけてる。みんなも感じてるんじゃないかな」
 確かに、半年間地球を回って感じた。地球各地の不穏分子は確実に力をつけていて、このままではいずれ臨界点を超えて破裂しかねない。その先には世界を二分した大戦が待っている。例えこれから火星の後継者を倒せたとしても回避できるか怪しい、確実に近付く破滅のシナリオだ。
「このままなら世界は絶対悪く変わる……でも、これはチャンスでもあるの。世界を良い方に変える。わたしたちはこの一年、そのための『計画』を準備してきたの」
 ちょうどいいから、みんなにも全部教えてあげるね……そう言って、ユリカは話し始めた。
 火星の後継者が足元を掘り崩し、次の戦争に向かって倒れようとしているこの世界。それを逆によりよい方向へ傾ける、ユリカと宇宙軍の高官たちが密かに進める『計画』――――
 その詳細な内容を聞いて、和也たちは言葉を失った。そんな事を本当に実行したら、この世界はどうなるのか想像もつかない。
「嘘かどうか疑うなら、ニュースを見てて。数日中にはお父様から発表があるはずだから」
 そこまで言うのだから、多分嘘ではなく本当に、ユリカたちはこの『計画』を進めているのだろう。
 しかし、だったらなおさらおかしい。
「……そんな大変な事を話して、あたしたちが裏切ったらどうするつもり?」
「そうですよ、火星の後継者にリークすれば、甲院はすぐ対抗策を取りますよ」
「わたしたちが裏切ると思うなら、そうすればいいよ」
 奈々美と妃都美の疑問に、事も無げに笑ってユリカは答えた。
「……和也さん、これは……」
 小声で囁いた美佳に、和也は「……解ってる」と頷く。
 これは担保だ。
 ユリカは、和也たちが自分を疑っている事を承知の上で、自分の首を刃の前に差し出して……裏切るつもりが無いと証明しようとしている。
「どうして、そこまでするんですか……? 僕たちを味方にするためだけに、負うべきリスクじゃないでしょう?」
 今『計画』を台無しにされたら、破滅するのは彼女一人ではないはずだ。
 そんな大きすぎるリスクを、和也たちを説得するためだけに負うなんて、割に合わない。
「『草薙の剣』は頼りになる戦力だし、地球の人と木星の人との架け橋になれる存在だと思ってる。わたしにはそれで十分。それに……」
 これを言うのは少し卑怯かもしれないけど、と前置きして、ユリカは言う。
「きっとタテミくんも、生きてたら同じ事を言うと思うよ」
「……なんで盾身の名が出てくるんですか」
 そう言った和也へ、ユリカは返事代わりに机の端末を操作。すると和也たちの前にウィンドウが出現する。
 そこに表示されていたのは――――
「……盾身くんの……遺書? わたしたち、こんなの見てないよ……」
 盾身らしい堅い文章で綴られた遺書を見て、当惑気味に澪が言う。
 こんな物があるなら当然すぐに和也たちの元へ届くはずなのだが、和也たちはそもそも盾身が遺書を書いていた事さえ知らなかった。
 よく見ると、送り先は和也たちではない。盾身が死んだ時、遺書が送られる事になっている相手は――――和也にはまるで覚えのない、女の名前。
「タカツキ・キョウカ? ……誰だ?」
「……確か、美雪と同じ放送部員にそんな名前の奴がいたような……」
「美佳さんの同級生の友達ではなかったですか? 確か一緒にホウメイ・ガールズのライヴを見に行くと……」
 奈々美と妃都美の記憶の中には、それらしい存在があった。
 だが、美佳の答えは予想だにしないものだった。
「……私の友人で……盾身さんが、二年前から交際していた女性の名です」
「はあ!? 聞いてないぞそんな話!」
「……『申し訳ないので、隊長にも相手ができるまでは内緒にしていて欲しい』と……口止めをされていたので」
 あのカタブツを絵に書いたような男に彼女――しかも地球人――がいたという事も驚きだったが、それよりも――――
「まさか、盾身がいつの間にか地球と木星が和平できればいいだなんて考えになってたのは……」
「……多分そうでしょう……盾身さんは、木星人の未来云々は元より、個人的にもキョウカさんと結ばれて、共に暮らしたかったのでしょう……」
 それが、少し前に盾身が言っていた――――作り物の憎しみを空しい物だと切り捨てる理由になった、盾身の戦う目的。
 解ってみれば至極単純な理由だった。盾身はただ、愛した人と共に生きたかったのだ。
「あー……なるほどね。木星と地球が決裂すれば、それは永遠に適わなくなるから……」
「だから盾身さんは何があっても目的がぶれなかったし、あんな必死に和平を願っていたのですね……」
「そうだったんだ……わたし、盾身くんの気持ち凄く解るよ……」
 奈々美も、妃都美も、澪も、いまさらのように知った盾身の戦っていた理由に、思いを馳せていた。
 いつも必死だったと思う。そして、いつも目的を見失わなかった。和也たちは何度となくこれでいいのかと自信がなくなっていたのに、だ。
 そんな盾身が、死の直前に喜びを見せていた。それはきっと――――
「……提督、盾身には一足先に『計画』の事を話したんですね?」
「うん。すぐにみんなにも話そうと思ってたんだけど、あんな事になって……」
 盾身は、ユリカの『計画』を聞いて希望を見出したに違いない。
 だが、それが適う事はもう永遠にない。
 ――盾身はあんなに喜んでいたのに……あの男は……いや、それ以前に僕って奴は……
 改めて、アキトへの怒りを感じる。
 だが和也がそれ以上に許せないのは、あの時あの場で交戦を決めた自分だ。アキトの側からすれば、盾身を殺したのはただ降りかかる火の粉を払っただけ。そこに盾身に対する殺意も悪意もなかった。
 あの時、自分がバカな決断をしなければ。隊長として、この自責の念は一生抱えていく事になるのだろう。
 それが重すぎたから――――仇討ちにいっそう固執したのかもしれない。アキトのせいにしてしまえば、気が楽になるから……
「カズヤくん……きっと今自分を責めてるんだと思うけど、それじゃあいい事なんて何もないよ」
 そんな和也の気持ちを見透かしたように、ユリカが口を開いた。
「あの時ああしてれば、って思っちゃうよね。解るよ。助けられなかった人の事とか……死なせちゃった人の事とか。時間を戻したいって思うよね」
 ユリカの声には、似たような経験を一度ならずしたのだろう重みがあった。
「でもね。時間は戻せない……ううん、戻しちゃいけない。わたしたちが変えていいのは、今と、これからだけだから」
「タカスギ少佐も、同じ事を言っていました……」
 ふと思い出したように、妃都美が口を開いた。
「死んだ人にしてあげられるのは、今からでも報いてあげる事だけだと。……私たちは、どうしたらいいんでしょう」
「……盾身さんの喜びそうな事は、私たちが解るはずだと……少佐は言っていました……」
 そう、美佳。
「……正直、よく解りません……キョウカさんと結ばれる事は、もうありませんし……」
「まだるっこしいわね……だいたい、死んだ奴に口はないのよ。あたしたちが何をしても、よかったなんて返事は返ってこないわ……」
 投げやりとも取れる口調で、奈々美。
「だから……あたしたちがそれをして、あいつが喜ぶと思えるような事を、あたしたちで決めるしかないのよ、きっと……」
 ――死んだ人の気持ちを決めるのも、結局は生きてる僕たち、か……
 美佳以外は恋人の存在さえ今の今まで知らなかった程度ではあるが、これは誰より盾身をよく知る和也たちにしかできない。だからか、ユリカもこれ以上は口を挟まず、黙って和也たちを見ていた。ここで口を挟めば、いくらでも都合のいいほうへ誘導できただろうに。
 和也たちは盾身に報いるために何ができるのか、少しの間考える。

 ――――隊長もいつか、目的を見つけられる事を願っております。

 思い出されるのは、その言葉。

 ――これが……僕たちの目的なのか。これでいいんだよね……?

 結論が出るまで、そう長い時間は要らなかった。
 そして和也は、皆と視線を交わして――――『草薙の剣』が満場一致で、同じ結論に至ったと判断した。
「……わたしも……それでいいと思う。きっと、盾身くんも喜んでくれるよ」
 澪もまた、その結論に頷いていた。
「提督……」
 和也は、ユリカに向かって折れた軍刀を突き出す。
「なんであなたが、先輩方の仇なんですかね……どうして、テンカワ・アキトの奥さんだったんでしょうかね……」
「……ごめんね」
 ただ謝罪する、ユリカの前で――――
 和也はそっと手の力を弱めて、軍刀を床に落とした。
「お騒がせして、申し訳ありませんでした」
 その言葉を合図に、全員が頭を下げる。
「その上で、お願いします……僕たちに、力を貸してください。僕たちは盾身の分まで戦わなきゃいけない……盾身が望んだ『計画』を、成就させてあげたい……!」
 盾身が死の間際に希望を見出した、ユリカの計画を成就させる。
 盾身が果たせなかった事を、自分たちの手で果たす。
 それが――――自分たちが盾身に報いてやれる、思いついた限りの方法だ。
「一度殺そうとして、こんな事を頼めた立場じゃないですけど……でも、僕たちは盾身に報いたい! 盾身のやってきた事を、無駄にしたくない! だから……」
 お願いします! と全員で頭を下げて頼む。
 その和也たちを――――そっと、柔らかい物が包み込む。
「それが、聞きたかったよ」
 優しい声に、和也の心臓が跳ねる。……ユリカが、和也たち五人を纏めて抱きしめている……
「ありがとう、仇のわたしを信じてくれて。ありがとう……」
「いえ、僕たちこそ……もう少しで、盾身まで裏切るところでした……」
 和也たちは何も知らずに、盾身の気持ちを踏みにじりかけたが、ユリカはそれに気付かせてくれた。
「提督……お母さんみたいですね」
 不意に、妃都美がそんな事を言った。
「大事な事を……教えてくれましたから」
「そう? だったら……いいよ『家族』にしてあげる」
 和也たちを抱き締めたままそう言ったユリカに、「ええ?」と皆が声を上げた。
「それって……ホシノ中佐やテンカワ・アキトと、あたしたちが同じになるって事?」
「そうだね。これからはユリカの事、お母さんって呼んでいいよ。ほら、呼んでみて」
 和也たちを『家族』に迎え入れるのは、既にユリカの中で決定事項になっているらしい。
「……か……母さん……」
「お母さん」
「お……お母様?」
「……ユリカ……お母さん……」
「わたしまだお母さんいるんだけど……じゃあ、ユリ母さん」
 なんだかむず痒い気持ちを覚えながら、皆が思い思いにユリカを母と呼ぶと、ユリカは「うんうん」と嬉しそうに抱き締める力を強くした。
 自分を生体兵器の開発に差し出した軍関係者――――和也が実母について知っている事は、それが全てだ。
 自分を生んだ人、という以上の認識などなかった和也だが、本来の母というのはこんな風に、辛い気持ちを暖かく包んでくれるような存在だったのだろうか……そう思い、ユリカの暖かさに身を委ねようとして――――
『おいお前ら、機嫌直ったか!』
「うわあ! た、タカスギ少佐!?」
 突然現れたサブロウタのウィンドウに、和也は驚いて身を引いた。
 それを皮切りに、ユリカの部屋を埋め尽くさんばかりのウィンドウが一斉に現れる。
『『草薙の剣』の皆さんごめんなさい! 全部僕が悪いんです怒るなら僕を怒ってくださいぃぃ――――! うえぇーん!』
『ちょっとみんな、先生を脅かしたり縛ったりした罰として、たっぷり追加補習受けてもらうからね!』
「マ、マキビ中尉にハルカ先生!? どうして!?」
『感動したよー、みんな! 明かされる真実と命がけの話し合い! 皆を動かすのは死んだ友の想い! 次の新作はこれで行かせてもらうから、みんなもよかったら手伝ってね!』
『劇を見に行くとかけて、今の私の心象と解く。そのこころは、私はカンゲキした……今度一杯おごるよ』
『陰ながらヒヤヒヤして見てたぜ! ようナナミ、おめえも意外と素直になったじゃねえか』
「アマノ・ヒカルに、マキ・イズミ!? おまけにスバル・リョーコ中尉っ……! なんであんたらがいるのよ!?」
『いやあ一時はどうなる事かと思ったが、若いうちはいっぱい迷って大きくなるもんだ! 青春だなあ、うん!』
「……ウリバタケ整備班長……皆さん、まさかずっと見ていらしたのですか……?」
『そうよ、どうなる事かとハラハラしながら見てたんだから。……まあ、最悪の事態にはならないと思ってたけどね、うん』
「ユキナちゃん……心配かけてごめんね」
 雨霰と言葉を浴びせてくるナデシコの面々に、『草薙の剣』メンバーは目を回していたが、彼らの言葉はある事実を示していた。
「みんな、ずっと見ていたのに、僕たちをここまで通してくれたんだね……」
 やはり見逃されていたというか……少しでもユリカを殺されるリスクがあると思ったら、ルリのように排除するのが軍としては当然の対応だろうに、ナデシコの面々はほぼ皆、手を出さずに見守っていた。
 ユリカの説得と、和也たちの心を、彼らは信じたのだ。
『お前らこそ俺たちを試したんだろ? いくらでも忍び込めるくせに、堂々と廊下の真ん中を歩いていきやがって』
 大人を試すんじゃねえぞ、とサブロウタは言う。
『まあなんだ……正直済まなかった。俺たちが黙っていたばかりに盾崎が殺されて、山口と影守が向こうに行っちまって……俺たちにも責任があるし、できる限りの協力はしてやる。だから艦長や、提督の事は許してやってくれ』
「……はい」
 和也は素直に頷く。……もう、その言葉を疑う必要もない。
 ――僕たちがそうするって事も、全部見透かされてたのかな。敵わないや、まったく……
 これが『大人の対応』なのかと思い、自分が子供であった事を思い知り、思わず口元に笑みが浮かぶ。
 ……その時、ふと、サブロウタの後ろに人影が立っているのに気が付いた。
 ――ホシノ中佐……
 この場でただ独り、和也たちを信じられずに牙を剥いたルリは、和也と目が合った事に気が付くと、俯いて視線を逸らした。
 ルリもユリカの話を聞いていたのなら、アキトは罰せられないわけにはいかない、という件も聞いていたはずだ。つまり、ルリの目的は叶えてはいけないと否定された。
 きっと、精神的なショックは小さくない事だろう。ユリカも和也と視線が合うと、少し悲しそうな顔をして首を横に振った。今は少しそっとしてあげて、という意味だ。
 数分前なら、ざまあみろと盛大に罵ってやりたかったところだが――――
 だが今は、ルリの気持ちも、少しだけ解る気がした。



 その後、『草薙の剣』はミナトのシャトルによって病院船に戻った。
 一時病院船を無断で離れた事を少し疑われたが、ナデシコCへ忘れ物を取りに行っていた、と口裏を合わせておいた事でそれ以上の追求はなく、和也たちは地球へ帰還するまでの時間を傷付いた身体の治療に当てた。……そして、

『彼らは良き親であり、良き子であり、友であり、恋人であった。我々は彼らの、献身的な働きと犠牲を忘れる事無く――――』

 数日後、日本のヨコスカ基地にて、一連の戦いで戦死した兵士たちの合同葬が行われた。世界各地の基地で同時に行われる合同葬の中で、ここでは主に日本を初めとする東アジア地域出身の戦死者を納めた棺が並んでいる。
 全ての棺に、遺体が収まっているとは限らない。宇宙での戦いでは遺体が回収できるとは限らないし、今回は火星の後継者が相転移砲を使った事で、骨も残さず消滅した兵も少なからずいた。
 遺体がない者は遺品の一部。それさえない者はただの名簿が収められた空の棺。それでも残された者がそれに向かって手を合わせ、祈りを捧げるのは、この葬儀という行為が彼らにとっても親しい者の死と向き合い、前に進むために心の整理をつける意味があるからかもしれない。
 遺族や同僚のすすり泣く声が静かに響く中、参列者はそれぞれゆかりのある者の棺へ歩み寄り、厳かに手を突き、敬意を払う。
 その中に、盾崎盾身の棺と、『草薙の剣』の姿があった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……っ……」
 和也が、妃都美が、奈々美が、美佳が、そして澪が、盾身の棺へ敬意を払う。呼ぶ事のできる縁者など盾身にはいるはずもなかったが、盾身の棺に敬意を払うのは、和也たち五人だけではなかった。
 面識はなかったが、多分、木星出身者か、あるいはそれと深い繋がりのある、地球と木星の和解を望んでいる人たちだろう数人の兵士たちが、盾身へ敬意を払ってくれた。人数としては多くないが、『草薙の剣』に期待し、盾身の死を悼んでくれる人が他にもいる事は和也たちにとって嬉しい事だし、盾身の魂も少しは救われるのではないかと思う。
 このあと、盾身の遺体は火葬の上、遺骨は日本国内にある軍の共同墓地に収められる。木星での納骨も軍から提案されたが、和也たちはそれを固辞した。多分だが、盾身は木星よりも地球、それも恋人がいるこの日本に眠らせてあげるべきだと思ったからだ。

『今回の作戦で散華した全ての英霊に対し、感謝と哀悼の意を捧げ、敬礼!』

 ヨコスカ基地司令の訓示に従い、整列した軍人の参列者が敬礼――――同時に弔銃隊が、統制された動きで一斉に弔銃を空へと撃ち放つ。
 弔銃の銃声と、硝煙の煙に乗って、英霊の御霊が空へ還る……そんな感想が胸に浮かび、和也もまた、盾身に誓う。

 ――さよなら、盾身。生き返らせてはあげられない……代わりにもなれない。だけど、やり遂げてみせる。

 盾身の遺志を継ぎ、盾身が希望と信じたユリカの『計画』を成就させる――――盾身の望んだ、地球人と木星人が共に暮らせる世界を、自分たちで作ってみせる。
 もう和也たちは、その目的を見失わない。



『――――もろもろの理由により、私、ミスマル・コウイチロウは今日づけを持って、連合宇宙軍総司令の職を辞させていただく事となりました。この重要な情勢である今、軍を離れる事は大いに後ろ髪引かれるものがありますが、後任のムネタケ・ヨシサダ中将の他、秋山元八朗少将ら幕僚たちが、立派に最後まで勤めを果たしてくれるものと思っております。ではここで一句』
『以上、ミスマル・コウイチロウ連合宇宙軍総司令の辞任会見でした。このタイミングでの電撃的な辞任には識者の間でも多くの憶測が飛び交っておりますが、先の火星圏において行われた火星の後継者との戦闘と、今回の辞任との関係については名言を避けました。なお統合軍広報官はこの辞任について、「宇宙軍の事情について特に言う事はない」とのコメントを発表しており、またジェイムス・ジャクソン統合軍総司令の今後については特に考えていないとの――――』

 一連の合同葬が終わって参列者たちが帰途に付いた頃、和也たちは基地の正面ゲート近くにたむろしコミュニケでニュース放送を見ていた。
 ミスマル・コウイチロウ連合宇宙軍総司令の電撃辞任――――時期が時期なだけにメディアやネットは大騒ぎだが、事前にユリカから聞いていた和也たちにとっては予定調和だ。
「いよいよですね」
「お母様の言った通り、これから『計画』が本格的に動き出すわけね」
 横からウィンドウを覗き込む妃都美と奈々美が、そう言い交わす。
 ミスマル総司令――ユリカを母と呼ぶなら、彼は祖父と呼ぶべきか?――の辞任は、『計画』の第一段階だとユリカから聞いていた。そしてそれが、『計画』がでまかせでない証拠だった。
「今はユリ母さんを信じよ。盾身君もきっと、そうして欲しがってるはずだよ……」
「……私たちは……私たちにできる事をしましょう……美雪さんと烈火さんを取り返すためにも……」
 澪と美佳が言う。
 向こう側の事は、ユリカたちを信じて任せるしかない。
 それでもユリカが自分たちを必要としてくれたからには、できる事があるはずだ――――と思ったその時、プップー、と車のクラクションが鳴り、和也たちは顔を上げた。
 基地正面ゲート前の道路に、いかにも高級そうな黒塗りのリムジンがでんと駐車して、助手席から降りたスーツとメガネの胡散臭い男がこちらへ手を振っていた。時間通りに聞いたとおりの連中が現れ、和也たちはそちらへと駆け寄った。
「どうも始めまして。わたくし、ネルガル会長室秘書課のプロスペクターと申します。以後お見知りおきを」
 差し出された名刺には、本当にプロスペクターとしか描かれていなかった。あからさまだが、本名を隠すという事は彼も『草薙の剣』と似たような立場という事だろうか。
 和也は名刺を受け取り、敬礼して名乗る。
「統合軍JTU第五小隊『草薙の剣』隊長の黒道和也軍曹です」
「ミスマル准将から、お話は承っております。新たな同士、それも木星人の仲間を迎え入れられる事を、我々としても嬉しく思います」
 大仰に歓迎する言葉を語って見せたあと、プロスベクターはささ、どうぞ、と和也たちをリムジンに乗るよう促す。その運転席には凄まじく大柄な体躯の大男が窮屈そうに乗っていて、和也たちと目が合うと無愛想に会釈した。
 本音を言わせて貰えば乗りたくない。和也たち木星人の立場からすれば、ネルガルは戦争のきっかけを作った戦犯企業。そんな悪の権化と手を組むなど、気が進まないどころの話ではなかった。
 ――でも今の僕たちじゃあ、殲鬼と、奴が率いてくる生体兵器部隊には勝てない。ましてや甲院には。
 それをユリカも承知していたから、嫌だと思うけど我慢してね、と前置きした上でネルガルの人間に会うよう言ってきたのだろう。
 だから和也たちは、仏頂面で渋々とリムジンに乗り込んだ。最後に乗ったプロスペクターが「ゴートさん、出してください」と促し、音もなく出発する。
 ――初っ端から難題だなあ……母さんも容赦ないよまったく。
 それでも和也たちは、ユリカの力になるため憎むべき悪党と同席する。
 その先に、望む未来があると信じて。










あとがき

『草薙の剣』とユリカの話し合いと和解でした。

 和也たちとユリカたちとのアキトを巡る対立は、アキトが裁判で裁かれてもらうという形で落ち着きました。ユリカがそれを容認するのは賛否あるかと思いますが、私はユリカなら悩んだ末にこういう結論を出すと思ったんですよね。
 そして説得の決め手となったのは、死んだ盾身の遺した遺志です。この辺は拙作の元になった某ゲームの影響でしょうか。
 九話にチラッと出てきた友達を覚えている人はいるでしょうかね……八年前とは長引いたもんです。

 しかし、自分でやっておいてなんですが今回のルリはちと暴走しすぎですね。(汗)
 念のために明記しておきますと私はルリ派です。ルリは自分のしている事が内心で後ろめたいのと、ただ必死なのです。積み残しになったこの件は、次回に片付けるという事で。

 本当は2015年中に投稿したかったのですが……なにぶん今回は難しいというか、気を使う話だったので、予想外に手間取ってしまいました……

 さて次回、戦力強化のために向かったネルガルの施設で和也たちと再会するあの男、そして未だ過去にとらわれたままでいるルリはどうなるのか。

 それでは、2016年もよろしく。完結まであとどれくらいかな……




贖罪の刻 第二十二話 前編



 







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 ゴールドアームの感想
 
 ぐっとくる話でした。ユリカの態度、ルリの行動、この辺は賛否両論出るものですのであえて何も語りませんが、そんなみんなをまわりから見つめていた元ナデシコクルー達が実にツボでした。
 時にすれ違い、傷つけ合い、そしてわかり合う。このプロセスを読み手にきちんと納得させる表現もお見事です。
 この話に限らず、この手の問題は誰が悪いというのではなく、みんなが悪く、かつみんなが正義なのがややこしい原因。
 「正しい」という事は、その基準となる点をどこに置くかでがらりと変わるものです。
 親にも捨てられ、飢えた子供がパンを盗む。パン屋の主人からすれば悪でもそのパンがなければ死ぬしかない子供にはそれは正義です。
 その辺、どう折り合いをつけるのか。折り合いをつけるにはより広く深い知識が必要であり、それを得ることが出来、判断することが出来るのが、大人、なのでしょう。
 そして主人公達は、まだまだ「子供」なのですね。



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