0:00:00

 世界のどこかでテロが続発し、地球連合軍と火星の後継者が大規模な戦闘を行ったニュースがメディアを騒がせても、人々の営みは変わる事はない。
 日本はトウキョウ都においても、人々はいつも通りに学校へ通ったり、職場に通勤したりして日々を過ごしている。
 その日常の風景が、ある日突然壊れる不安は、きっと皆が抱えている。
 それでも一般の人々は、あえて何も言わずに日常を繰り返す事で、それを守ろうとしているのかもしれなかった。
 そんないつも通りのある日、不意に、トウキョウ都内の空が翳った。
 今日の天気は快晴。時刻は午後二時を回り、太陽はまさに空の頂点に至る頃。天気予報も数日は晴れの日が続くとしていた。では何が日光を遮るのか。
 その場の人々は、みな怪訝な顔で足を止め、空を見上げて――――
「な、なんだあ!?」
「なにあれ!?」
「すげー!」
 外回り中のサラリーマンは驚き、買い物途中の主婦はぽかんと口を開けたまま固まり、子供は無邪気に歓声を上げた。
 何十隻、あるいは百隻近い軍艦の群れが、複数の雁行陣を敷いてトウキョウの上空を航行していた。艦隊からは機動兵器が雲霞の如く飛び立ち、たちまちトウキョウの空は鋼鉄の兵器群で満員となる。
『――――市民の皆様にお知らせします。非常事態宣言が発令されました。繰り返します。非常事態宣言が発令されました。火星の後継者と思われるテロリストの一団が、宇宙軍ホシノ・ルリ中佐を人質に都内を逃走中の模様です。周辺市民の皆様は警官、兵士の誘導に従い落ち着いて避難してください。なお犯人を見かけた方はくれぐれも近寄らず、警察へ通報をお願いいたします』
「せっ……戦争だーッ!」
 非常事態を報せる放送がトウキョウ中に響き、誰かが悲鳴に近い声を上げて走り出す。それを聞いた人たちの中からも不安にかられて走り出す人が出始め、さらには上を見上げたまま車を運転していて、赤信号に気付かず前の車に追突するような交通事故も数件発生。都内はちょっとしたパニックに陥った。
 幸いにして、この件は一人の死者も出る事無く軍によって鎮圧された。銃撃戦によって一部の建物が損壊したものの、迅速に対応した軍に賞賛が集まる事になる。
 テロリストに拉致され人質に取られたホシノ・ルリ中佐も、軍の特殊部隊により無事助け出されたという事である。



 機動戦艦ナデシコ――贖罪の刻――
 第二十二話 差し出された右手 前編



 −3:30:00

「……では、お二人もナデシコに?」
「ええ。なんだかんだで戦争中からのお付き合いでして」

 盾崎盾身ら、先の追撃戦で戦死した兵士たちの合同葬が終わって間もない午前十時半頃。
 『草薙の剣』はヨコスカ基地へ迎えにやってきた、プロスペクターと名乗った胡散臭いメガネの男と、今は運転手をしているゴート・ホーリーという名前らしい、屈強で無愛想な大男の二人組と共に、ある場所へと向かっていた。
 電話や冷蔵庫まで付いている高級そうなリムジンに揺られる事しばらく。最初の数分は飲み物――未成年の和也たちに合わせたのか、ソフトドリンクばかりだった――を飲んだりする他は無言の移動が続いたが、重苦しい空気に耐えかねたのかプロスペクターが口を開いた。
 話を聞いていると、ユリカから『迎えに来る二人は信用していい人たちだよ』と言われた時点で予想はしていたが、やはりこの二人もナデシコ部隊の一員だったらしい。
「戦争の時は、私たちもミスマル提督……当時は艦長でしたが、彼女と共に木連との和平交渉に向かったものですよ。その時の顛末はご存知ですかな?」
 そう訊ねてきたプロスペクターに、黒道和也は「まあだいたいは」と答えた。
 開戦の裏事情を知ったナデシコ部隊の面々が、軍からもネルガルからも離反し、ナデシコAを強奪して木連との単独交渉に向かった事は、和也たちもミスマル・ユリカ准将や白鳥ユキナたちの口から聞いた。それに同調したという事は、彼らもまたネルガルに反旗を翻した仲間だ――――という味方アピールなのだろう。この話は。
「言いたい事は解ったけどさ。よく職場復帰できたもんね」
 完全に裏切り行為を働きながら、よくネルガルに戻れたものだ――――と婉曲に田村奈々美が言う。普通ならファイヤークビにされて当然の行為にも拘らず、二人とも何事もなかったようにネルガルへ在籍しているのだ。どう考えてもおかしい。
「ま、そこは蛇の道は蛇といいますか、魚心あれば水心といいますか、いろいろあったものでして」
 プロスペクターはのらりくらりと答えをはぐらかしたが、何かをした的なニュアンスは感じられた。
 ――この人、ネルガル会長の致命的なスキャンダルでも握ってるんじゃないだろうな……
 戦後ネルガルが影響力を弱めていった理由は、ネルガルが開戦の原因を作った戦犯企業である事もあるが、ネルガル会長の個人的なゴシップが漏れた事も一因として挙げられる。
 情報の出所や真偽は不明だが、ひょっとしたらこの男の仕業かもしれない。そう思うと目の前の胡散臭いあきんどから、急に得体の知れないプレッシャーを感じるのだった。
「……お前たちは、オオイソでミナトの生徒だったそうだな」
 と、そこへ巌をすり合わせるような低い声がした。
 一瞬誰だと思ったが、運転席のゴートが不意に口を開いたのだ。
「ミナトは……今元気にしているか」
「ハルカ先生ですよね? でしたらお元気ですよ。先日少し悪い事をして、お叱りを受けましたけれど……」
 初めて聞いたゴートの声に少し驚きつつも、真矢妃都美が答えた。
 オオイソにいた頃の和也たちの教師にしてナデシコ部隊の航海士、ハルカ・ミナトは、和也たちが脅したり縛ったりした罰としてたっぷりと宿題を積んでくれた。と同時に、和也たちとユリカが和解できた事を涙を流して喜んでいた。
 ナデシコCが地球に帰還したため、今は白鳥ユキナと一緒にオオイソへ帰宅したはずだ。……と聞いたゴートは「そうか」とだけ言ってまた無言の運転に戻る。だがバックミラーに映ったゴートの口元が、和也には「よかった」と動いたように見えた。
「ハルカ先生を呼び捨て……あの、ひょっとして」
 露草澪が、おずおずとプロスペクターになにやら尋ねようとする。
 プロスペクターは言いたい事を察したのか、「まあ、そういう事ですな」と苦笑し、澪も「やっぱり……」と赤面した。
「やっぱりって……何?」
「もう、和也ちゃんってこういう話には鈍いんだから……」
 話が見えずに和也が訊くと、なぜかふくれっ面をされた。
「つまりね……あのゴートって人、きっとハルカ先生の元恋人なんだよ……」
「なるほど。……って、えええ!?」
 思わず大声を上げてしまった。
 するとゴートが、「ん゛ん゛っ!」とわざとらしくでかい咳払いをした。「ごめんなさい……」と和也は縮こまる。
「そうか……そりゃ心配するよね」
 きっと今でも、ゴートの中でミナトは小さくない存在なのだろう。ナデシコCに乗艦して実戦参加した身を案じる程度には。
「……しかし当分の間、ハルカ先生がまたナデシコに乗艦する事を求められる可能性は常にありますね……」
 そう、神目美佳が言った。
 今はオマエザキのドックに入渠しているナデシコBの修理はまだ終わっておらず、クルーの補充も火星での戦闘もあり後回しにされたきりだ。そして恐らく、火星の後継者はナデシコBが実戦稼動できるまで何ヶ月も待ってはくれないだろう。
 つまり現状、ナデシコ部隊が再招集される可能性については予断を許さない。恐らく次の戦いでも、ミナトたちの力は必要になる。
 申し訳ない気持ちになったが、ゴートは、「気にするな」と突き放すように言った。
「ミナトはお前たちを戦わせて、自分が安全な場所にいるなど我慢できない。止めたとしても聞かないだろう。アレはそういう女だ」
「うーん、なんか凄い説得力がある……」
「ミナトの力が必要なら、遠慮なく頼れ。……そしてお前たちは、ミナトを守れ」
 それで十分だ、というゴートの言葉に、和也はなんとなく盾身を想起した。
 恋人の事を思いつつも本心より実務を優先させるその姿が、重なって見えたのだ。そう思うと風貌も少し似ているような気がした。
「了解しました。微力ながら全力を尽くします」
「そのために、あたしたちがもっともっと強くならないといけないわけね」
 拳を握って言った奈々美に、そうですな、とプロスペクター。
「敵が次にどう出てくるにしても、優しい戦いにはならないでしょうしなあ。『草薙の剣』にはもっと強くなっていただかなければ。……おお、とかなんとか言っている間に、見えてきたようですな」
 車の進行方向を見たプロスペクターの言葉に、皆が窓から外を覗き込むと、そこにはもう壮麗な霊峰が視野一杯に聳えていた。
 富士山だ。頂に残雪を抱いた日本を代表するその山は、綺麗な正三角形を成して――――いない。
「なんて言うか、相変わらずぶっさいくな山ねえ……」
「昔は霊峰富士と言われていたらしいですが、見る影もないですね」
 奈々美と妃都美は容赦ないコメントをする。
 山の愛好家からすれば文句の一つもあろうが、今の富士山はまるで半分近くが抉り取られたように窪み、教科書に乗っている大昔のそれとは大きくかけ離れた姿となっていた。
 百六十年前の大噴火によって起きた大規模な山体崩壊は、かつて多くの人を魅了した美しい山の形を永遠に消し去っただけでなく、周辺の都市にも多くの被害を出した。人的、物的被害が多大だったのは勿論の事、放出された大量の火山灰は広範囲のインフラや農業にも壊滅的な打撃を与える。
 特に酸性の性質を持つ火山灰は土壌を酸化させ、植物が生育するに適さない環境へと変えてしまう。今和也たちが走っているこの辺も、昔は広大な樹海が広がっていたらしいが、その植生は一世紀半を経た今でも回復していない。
 そうして形成された広大な平野は、今は日本軍を初め、日本に駐留する統合軍や宇宙軍も利用する広大な演習場。
 その一角に、ネルガル兵器開発部門の所有する施設がある。大っぴらに実弾射撃を行っても近所から苦情が来ない、日本では数少ない環境を持つここに、試作段階にある兵器の実働・実弾射撃などの試験を行うネルガルの兵器試験場が置かれたのは必然と言えた。
 そこが、今回の目的地でもあった。



 −3:12:25

 リムジンが止まったのは、機動兵器用のものだろう大型の、かまぼこ型をした格納庫が立ち並ぶ一角だった。そこで和也たちが車を降りると、ちょうどタイミングを合わせたように一機の機動兵器が格納庫を出てきた。
「エステバリス陸戦フレーム……ですが、何か見慣れない武器を持っていますね。レールガンに見えますが……」
「あれは我が社の新兵器、フルオートレールガンですな」
 妃都美の疑問符に、プロスペクターが律儀に答える。
「従来のラピッドライフルに代わる次期主力兵装として売り込む予定の兵器で、従来の大型レールガンに比べて一発の威力を抑え、フルオートと三連発の連射機構を持たせた物です。弾体は三十ミリ口径、フルオート射撃をすれば戦艦クラスのディストーションフィールドをも一点突破可能、マガジンには五十発しか入りませんが、バックパック式の増加弾奏から給弾ベルトを接続して一千発以上の――――」
「あ、あの、凄い兵装なのは解りましたからそれより用事を……」
「おっと失礼。聞かれたら答えずにいられないのがビジネスマンの性分でして」
 ほっほっほ、とプロスペクターは鷹揚に笑う。やっぱりあきんどだこの人、と和也たちは思った。
「……さすが、まだ実戦配備もされていない新兵器ばかりですね……烈火さんは……」
 どう思いますか、と言いかけた美佳の声が小さくなる。
 烈火がいたら、さぞ大喜びだったろうに。あれから数日経つが、この仲間が欠けた感覚にはなかなか慣れない。
 この場にいない仲間の事を思い、つい空気が重くなってしまう。……と、その時。

「随分と辛気臭い顔だなあ、小僧ども」

 どんよりとした空気を破るように、横から飄々とした男の声が投げつけられた。
 知らない声――――ではない。反射的に澪を除いた『草薙の剣』が身体を緊張させる。
「……っと、敬礼!」
 和也の号令がかかり、『草薙の剣』全員が横並びで敬礼。男は苦笑いでそれを制する。
「敬礼はいい。もう俺はお前たちの上官でもなんでもない……熱血クーデター以来だな、壮健だったか?」
「おかげさまで、有意義な時間を過ごせたと思っております、月臣少佐」
 男――――元木連軍少佐、月臣元一郎は、白い学ランに似た木連軍の左官服に身を包み、和也たちの記憶のままの姿でそこにいた。
 和也たちと月臣が顔を合わせたのは、ほんの一度。熱血クーデターの真っ最中に一時だけ。
 あの時、秋山陣営の捕虜となった和也たちは、秋山の乗艦、かんなづきの医務室で怪我の治療を施され、拘束もされずにベッドを与えられた。まだ子供だった和也たちの傷付いた姿を見ていたたまれなくなった、と後で秋山本人から聞いたが、あの時の和也たちにそんな事を斟酌する余裕などなかった。
 この敵中からなんとか逃げ出して草壁の元に戻らなければと思い、メディックの静止を振り切り、怪我をした身体を引きずって医務室を飛び出した和也たちだが、結局あっさりと取り押さえられた。それをしたのが月臣だった。「無駄に死ぬな」と懇願に近い調子で怒鳴られたのをよく覚えている。
 それからすぐに月臣は出撃し、草壁の後を追うように姿を消した。それ以来の再会だった。
「少佐もお変わりなく。今日からよろしくお願いします」
「もう少佐でもないんだがな」
 苦笑して、月臣は和也へ握手の手を差し出してくる。
 和也はその手を握り返――――そうとして、右手が三本指の簡素な義手なのを思い出し、左手を差し出した。月臣も改めて左手を差し出す。

 瞬間、月臣がひっくり返った。

 正確には、ひっくり返ったのは和也のほうだ。握手するかと思いきや手首を掴まれ、次の瞬間には投げ飛ばされていた。
「ぐはっ!」
 背中から地面に叩きつけられ、肺の空気を吐き出す和也。
 ――木連式柔……!
「『ブースト』能力は確かに便利だが、こういう不意打ちには役に立たない。それにゆっくりと判断する時間ができる分、頼りすぎると咄嗟の判断力が落ちる」
 即座に首を足で踏んづけられ、起き上がりと反撃を封じられる。
「和也ちゃん!?」
「和也! にゃろぉっ!」
 突然の暴力に澪が悲鳴を上げ、頭に血が上った奈々美は拳を唸らせて月臣へ殴りかかる。まともに受ければガードした腕ごと骨をへし折られる致命的な豪腕を、しかし月臣は流れるような足運びと手捌きで受け流し、いなし、涼しい顔で避けていく。
「腕力強化型生体兵器の攻撃は確かに早いし脅威だが、来ると解っていれば対処のしようはいくらでもある」
 こんな風にな、と月臣は奈々美の右ストレートを掴み、勢いのままくるりと一回点。遠心力を使って豪快に投げ飛ばす。
「だわあ!?」
「……奈々美さん……!」
 頭が下になる形で投げられた奈々美は、そのままでは危険だと見た美佳が受け止めに入り、もつれるように背中から倒れる。小柄な美佳の身体が奈々美の下敷きになり、見えなくなった。
「っく……!」
 最後に残った妃都美が懸命に殴りかかるも、拳をあっさりといなされ、腰を落とした月臣の肘鉄をみぞおちに受け、「かはっ!」と空気を吐いて倒れた。
「各々の固有能力に合わせた役割分担ができてるのはいいが、得意としない分野の戦闘に持ち込まれれば、各個撃破されやすい……まあこんなものか」
 一分とかからずに『草薙の剣』四人全員を倒し、月臣はふっと息を付く。
「今までは、いつも先手を取る形で敵を圧倒してきたんだろうな。だからこうやって敵に戦闘の主導権を握られると判断が遅れる」
 楽に勝てる敵とばかり戦ってきたから、本当の強敵を相手にすると脆さが出るんだ、と講釈を垂れる月臣に、和也たちは「あいたたた……」と緩慢に立ち上がる。案外元気そうな様子を見て、澪がほっと息をついた。
「相変わらず容赦ないですね……でも悔しいけどその通りです」
「訓練の浅いテロリストなら、軽く一蹴できたんだけどねえ……美佳、大丈夫?」
「……どうも。……本当の強敵には、今の私たちでは勝てない……」
 妃都美が、奈々美が、美佳が、自分たちの脆弱さを素直に認める。七人が四人になって戦力が落ちていたのも確かだが、思い返せばそれ以前の問題だった。
「甲院にも、殲鬼にも……テンカワ・アキトにも、まるで歯が立たなかった……」
 和也がほぼ一対一で戦い、完敗した甲院。
 烈火と美雪を篭絡され、なすすべもなく敗北した殲鬼。
 そして七人全員で戦いながら、瞬く間に一蹴されたアキト。
 生体兵器の力を十全に振るえばどうとでもなった連中とは違い、彼らのような本当の強敵を前にした時、『草薙の剣』は脆さを露呈した。そしてこれからは殲鬼と、彼に率いられた烈火と美雪、そしてヤマサキが実用化した量産型の生体兵器部隊との戦いは避けられない。
 戦力の底上げが喫緊の課題だとしたユリカの言葉に従って、『草薙の剣』はネルガルの施設に足を運んだのだ。思うところは多々あるが月臣は信頼できる人だし、白兵戦技術に機動兵器の操縦技術、共にエース級の月臣に師事すれば、『草薙の剣』の戦力は技術面においては大きく底上げできる。
 加えて、もう一つ。
「そろそろよろしいですかな? 頼まれていた品はこちらになります」
 月臣との話が一段楽したタイミングで口を挟んだプロスペクターに案内され、和也たちは居並ぶ格納庫の一つに入る。
 すると、「おお、来たか!」と聞き覚えのある声がかかった。
「ウリバタケさん……ご苦労をおかけしますね」
「いやなに。こっちから協力するってんだから気にすんなよ」
 それよりどうだ、とナデシコの整備班長、ウリバタケ・セイヤは興奮気味に格納庫の中を指差す。そこにはエステバリスとは違う、中世の鎧騎士を髣髴とさせるデザインをした白亜の機動兵器が四機、組み上げられたばかりの傷一つない姿で屹立していた。
「アルストロメリア……実物は初めて見るけど、こうして見ると凄いな……」
 一見するとエステバリスと大差ない全高六メートルの人型兵器。しかしフレームの構造材を構成する大容量バッテリー一体型の人工チューリップクリスタル素材によって、木連のジンタイプと同等以上の短距離ボソンジャンプ能力とスタンドアローン能力を獲得した、次世代型機動兵器の先駆け。
 火星の後継者の第一次蜂起の際には月臣が搭乗して地球連合総会議場を、そして24機の先行量産型を貸与された宇宙軍442大隊――――木星人のエースパイロットで構成された部隊が各地の火星の後継者部隊を鎮圧して一躍有名になった高性能機だ。
「ユリカさんから受けたオーダーの通り、アルストロメリア一個小隊分、ご用意いたしました。今後皆様の訓練と戦闘のデータを参考に、それぞれ専用機としてのカスタマイズと武装を施す予定です」
「アニメの主役機みたいな、最高の専用機を作ってやるからな。楽しみにしてろよ」
 プロスペクターの営業トークじみた説明と、ウリバタケの宣言に「感謝します」と和也は礼を述べた。
 これからまたイワトの時のように、和也たちが機動兵器戦に参加する可能性もあると考えたユリカは、強力な機動兵器を用意してくれるようネルガルと、ウリバタケに要請した。エステバリスより基本性能が高いのはもちろん、短距離ボソンジャンプ能力も有するアルストロメリアがあれば大きな戦力になる。さらにウリバタケの手でカスタマイズ魔改造が施されるとなればどんな強力な機体になるか楽しみでもあり、不安でもある。
 もちろん、それで得られたデータはネルガルの新兵器開発に役立てられるのだろう。和也たちとしては面白くないが、今は目をつぶるしかない。
「それから……カズ坊」
「カズ坊?」
「お前さん用の義手と義眼、完成したぜ。最新の生体工学バイオニクス技術を取り入れた最高級品だ。大事に使えよ」
「……これは……ありがとうございます」
 ウリバタケから手渡されたケースの中には、人間本来のそれと遜色ない五本指の義手と、義眼が入っていた。
 こんな安物の、感覚の鈍い義手では銃もまともに握れない。片目が見えないのも大きなハンデだ。なのでミスマル家のバックアップの元、高級な義手と義眼を用意してもらった。それは大いに感謝しているのだが……
「……ところで、どんなギミックを仕込んだんですか?」
 恐る恐る訊ねた和也に、「フッフッフ、よく訊いてくれた」と不敵にウリバタケは笑う。
「まず義眼だが、そいつには最新のアイウェアを組み込んでみた。熱源探知に暗視機能、見た映像をコミュニケのメモリーに保存したり他の奴に送信したりできる。画質は4・5京画素だ」
「意外とまともですね……」
「てっきり爆弾でも仕込んでるかと思ったわ……」
 妃都美と奈々美がひそひそと言い交わす。「そこの女子二人。聞こえてるぞコラ」とウリバタケが眉間に皺を寄せた。
「おほん。それから義手だが、そいつには各指にそれぞれツールを仕込んでみた。ワイヤーカッターとか、ドライバーとかな」
「指先が割れてドライバーとか出てくるのは少し気持ち悪いけど……まあいいかな」
「それと一番の目玉機能……ロケットパンチだ」
「ロケットパンチぃ? ……推進力は?」
「火薬カートリッジだ」
 聞くなり、和也は義手を天高く放り投げた。



 −3:05:51

 とりあえず、義手はもう少し安全性の高い物に作り直す事になった。
 没になった義手を抱いてしょんぼりとしているウリバタケを脇に置き、和也たちは月臣、そしてゴートと話を進める。
「今後の訓練の内容について確認するぞ。当分お前たちはこの演習場内にあるネルガルのスタッフ用宿舎で寝泊りしつつ、俺と戦闘訓練をしてもらう。集団戦闘の訓練では俺の他、ネルガルSSシークレットサービスが仮想敵を務める」
「僭越だが俺も参加させてもらう。訓練参加するのはネルガルSSの中でも選り抜きの連中だ。俺のような元軍人や、火星の後継者との実戦を経験した奴も多い。舐めてはかからないでもらおう」
「併せて敵の生体兵器への対策も考える。午後からは機動兵器の操縦訓練だが、実機が組み上がるまではシミュレーター訓練が主体になるな」
「白兵戦はともかく、機動兵器戦で仮想敵を務めるのは少佐だけなんですか?」
「さすがにその点は人手がいなくてな。ネルガルお抱えのテストパイロットはいるが、あいつらは基本技術屋みたいなものだ。機体の性能を引き出したり欠陥を洗い出すのはともかく、戦闘技術を人に教えられるような連中じゃない」
 とはいえそれでは集団戦を想定した訓練ができない。NPC相手の対戦はできるが、敵が敵なだけにもっと頼れる仮想敵役のパイロットが欲しい。そこは追々宇宙軍にでも協力してもらうべきかもしれない。
「タカスギ少佐に、ヒカルさんやイズミさんにも参加してもらえればいいんだけど……まああちらの都合もあるし、ダメなら別の手を考えるかな。それから……」
「解ってる。今までのデータを元に、テンカワのNPCアバターをシミュレーターに構築した。もちろん奴の乗機、ブラックサレナとの対戦もできる」
「やっぱりあるんですね……」
 データを元にしたNPCとはいえ、アキトとの戦闘を体験できるのは今後予想される戦いを考えるとありがたい。だが同時に、そんな軍も持っていないデータが存在するという事が、ある一つの事実を示唆していた。
「やっぱり、あいつに戦い方を教えたのは少佐なんですか」
「それと俺だ」
 後ろからゴートが口を挟み、それに月臣が頷いた。
 ――僕たちは、テンカワ・アキトを捕まえるために、テンカワ・アキトを育てた人たちから技術を教わるのか……
 話には聞いていたが、やはり改めて実感すると妙な気分になる。ネルガルへの反感も手伝ってか、敵と味方を取り違えているようだ。
「……テンカワさんが逃げた時、当時の我々は正直仕方ないと思っていました」
 あのままでは確実にテンカワさんは逮捕され、ただのテロリストとして真実共々葬られていたでしょうからなあ、とプロスペクター。
「ですが彼が制御を離れテロリストとなった今、我々には彼を止めるべき責任がありますからな。直接の戦力を持たない我々には、あなた方に力を貸すのが精一杯なわけですが……」
 その言葉は嘘ではないだろう。だが和也は、よくもまあぬけぬけと、と胃のむかつきを覚えた。
 あのイネス・フレサンジュ博士もそうだったが、この件に関わった人たちは皆、巻き込んだ人への後悔や罪悪感を抱えている。彼らにそうさせたのは誰だ? ネルガルだ。
「要するに、訓練に協力する代わりにあたしたちが支払う見返りは、ネルガルの負債の後始末、てわけね」
「奈々美さん……それは少し失礼ですよ」
 妃都美は窘めたが、奈々美が皮肉を口にしたくなるのも解る。
 ネルガルの力なら、アキトと彼の活動証拠を隠匿し、ほとぼりが冷めるまで匿う事もできたはずだ。それをしなかったのは結局テロに加担した事実が明るみに出るのを恐れたからだろう。
 きっと、アキトが逃げてくれて内心ではほっとしていたに違いない。これで追及を逃れられると。
 そして今、制御を離れ暴走するアキトを、ネルガルは『草薙の剣』を使って始末しようとしている。利用するだけ利用して最後はこれだ。皮肉の一つも口にしたくなる。
 ――いいさ。利用されてやる。そして僕たちも、ネルガルを利用してやる。
 月臣の顔を立てて口にはしないが、そういう関係だと思っていた。
 一つ気になるのは、あのユリカがこんな胸糞悪い事をさせるために、和也たちをここへ寄越したのかという事だが――――と和也が思っていると、不意に「その通りだよ」という飄々とした男の声が響いた。
「……誰だ?」
 ロングヘアーの軽薄そうな男と、その後ろに付き従うバリバリのキャリアウーマンという感じの女性。二人の顔に和也たちは見覚えがなかったが、「これは会長」とプロスペクターが発した一言によりその素性が知れた。
「ネルガルの会長、テレビで見たことある……!」
 澪が驚きの言葉を口にする。目の前に現れたのは、恐らく名前だけなら知らない人間はほぼいないであろう有名人だったからだ。
 アカツキ・ナガレ。地球と木連の開戦直前にネルガルの会長に就任し、今に至るまでその座に君臨する男。女性関係などでゴシップの絶えない人柄であり、ネルガルが往時の勢いを失った理由の一つがそれだ。そのせいか表舞台に立つ事を避けるようになり、知名度とは裏腹に顔はあまり知られていない。
 今回の『草薙の剣』の訓練に関しては最大の協力者にしてスポンサーと呼べる人物ではあるが、その顔を見た和也たちは総じて表情を厳しくする。
木星あたしらからのメッセージを隠蔽させて、会戦の原因を作ったA級戦犯じゃない……」
「どの面をさげて、私たちの前に顔を出せるのでしょう……」
「……彼に協力してもらうというのは、ありがたいと同時に、忸怩たるものがありますね……」
 奈々美、妃都美、美佳と、口々に囁きあう。その内容は敵意に満ちたものだ。
 木連が開戦前に送った謝罪要求。もしそれに地球連合が少しでも誠意を見せていたなら、今頃歴史は変わっていたかもしれない。それでも戦争が起きたのは、月の内乱に関わる隠蔽された歴史を明らかにしたくない地球連合の首脳部と、火星の遺跡から得られる技術を独占したいネルガルの思惑が一致し、全てを握り潰したため。
 目の前にいるこの男は、まさにその意思決定に関わったであろう一人。つまりは開戦要因の一部だ。先日会ったユキナも、「ネルガルの連中、特にアカツキには気を許しちゃダメ」と言っていた。それほどまでに、木星人である和也たちとしては好意的な感情を持つのが難しい類の人間だった。
 もちろん、今は協力してもらう相手である以上、敵意を向けるわけにいかないのは承知しているのだが、本人が目の前に現れるという予想外の事態に、思わず苦りきった表情が出たのは否めない。
 そんな和也たちの煩悶とは裏腹に、敵意を向けられる事に慣れきっているのか、はたまた予想通りの反応という事なのか、アカツキと、秘書の女は何ら気にしていない顔で名乗る。
「ふふ、必要ないかもしれないが一応自己紹介しておこうか。ネルガル重工会長、アカツキ・ナガレだ」
「私は会長秘書、エリナ・キンジョウ・ウォンです」
「……統合軍JTU第五小隊『草薙の剣』隊長の黒道和也軍曹です。今回の訓練への協力には、部隊を代表して感謝申し上げます」
 極力感情を押し隠して敬礼する和也たちに、「堅苦しいのはいいよ」とアカツキ。
「ネルガルもユリカ君の『計画』には一枚噛んでいるからね。君たちとはいわば同志だ。新しい同志の顔をぜひ一度見ておきたくて、こうして足を運んだわけだよ」
 ――しゃあしゃあとよく言うよ……利用してるだけのくせに。
 内心でイライラが募る和也たちをよそに、アカツキは饒舌に話を続ける。
「それでなんだったかな……そうそう、テンカワ君の話だったね。確かに、彼はネルガルの負債だ……彼は彼なりによくやってくれたから、切り捨てるのは惜しいんだけどね。ねえ月臣君?」
 聞かせてやってくれないか、とアカツキに促され、月臣は訥々と語り始めた。
「もう三年になるか……熱血クーデターで草壁を取り逃がし、ネルガルに拾われ、シークレットサービスの一員として火星の後継者を追っていた俺は、そこで実験台にされていたテンカワを助け出した。だがあと一歩のところで奥さんは取り返せなくてな……」
 その時のあいつの嘆きようといったらなかったよ、と月臣は当時のアキトの様子を語る。
「奴に乞われ、俺たちはテンカワの復讐の手助けをした。フレサンジュ博士がボロボロになった奴の身体を戦えるように治療し、俺とゴート氏で白兵戦や機動兵器戦の技術を教えた。あいつは砂漠の砂に水をまいたみたいに技術を吸収していったよ。結果は……知っての通りだな」
 A級のテロリストとなったアキトは、澪の父のほか多くの無関係な人を巻き込みながら、火星の後継者と暗闘を繰り返した。そうして北辰を倒し、草壁を捕らえ、火星の後継者を一時は瓦解させるに至った。
 だがそこまでやり遂げても、和也たちを含む世界中の人を敵に回したアキトに、失ったものは何一つ戻らなかった。残ったのはやり場のない怒りと、戦う力、そして火星の後継者の残党という力をぶつける相手だけ。
「それから少しの間は、一緒に残党狩りをしていた。だがやがてネルガルにも追及の手が伸びてきてな……潮時だと思ったのか、テンカワは何も言わずに逃げた。そこまでが……俺の知る全てだ」
 ユリカから概要は聞いていたが、改めて聞くと本当に壮絶としか言いようのないプリンス・オブ・ダークネス誕生の経緯に、一同は言葉もなかった。
 愛する妻を奪われ、体の五感、特に味覚をダメにされ、夢も生きがいも何もかも奪われた。結婚の直後という幸せの絶頂で地獄に叩き落された悲嘆と絶望がどれほどのものか、和也たちにとっても想像を絶する。
 一つだけ解るのは、復讐という黒い情熱を原動力にし、ユリカを取り返す事を最後の希望とするしか、アキトが自分を保つ方法はなかったであろう事。
 それで盾身を殺したアキトへの怒りが消えたわけでも、彼が無関係な人々を巻き込んだ罪が帳消しになるわけでもないが……
「……あんた、親御さんがシラヒメにいたんだってな」
 話を向けられ、「え」と澪が身体を緊張させた。
「加害者の一人として謝罪する。……すまなかった」
「ええっ!? い、いえ、そんな……」
 腰が直角になるほど深く頭を下げた月臣に、澪は慌てる。
「少佐さんたちがお父さんを狙ったわけじゃないのは解りましたから。……謝罪は、ご本人からだけでいいです」
「いや、それでも謝らせてくれ。奴をテロリストに養成したのは俺たちだ……かくいう俺も一般の人を巻き込むと解った上で、それもやむなしと奴の行動を容認していたし、何より『身盾』……いや、盾崎盾身だったな。テンカワが逃げた時に俺たちが止めていれば、あいつは死ななくて済んだはずだ」
 そういう意味では、俺も盾崎の死に無関係じゃない、と月臣は拳を握る。
 あのイネス・フレサンジュ博士もそうだったが、月臣もまた心に後悔の念を抱えていたのだ。だからこそ和也たちに協力する形で過去を清算しようとしている。それは大いに結構だし、ありがたく思う。
 ネルガルに使われるのはしゃくだが、月臣のためなら使われるのもありか。和也たちとしてはそう割り切って話を進めるつもりだったが、直後にアカツキの発した一言でそんな妥協案も霧散した。
「しかしまあ、テンカワ君も期せずして最大級の復讐を果たしたと言えるね、これは」
「な……あんた、盾身の事を知って……!」
 ざわ、と『草薙の剣』一同に動揺が走る。
 見れば月臣はともかく、ゴートとプロスペクターもあまり反応していない。訳が解らない顔をしているのは会話から外れたウリバタケと、澪だけだ。
「いや、少佐もいるんだから僕たちの素性を知ってるのは不思議じゃないし、どうでもいい……でもその言葉はどういう意味ですか」
「どうもこうも、因果応報じゃないかって意味さ。行動の結果はどんな形であれ自分に返ってくる。つまり盾崎くんの死という形で因果が彼に――――」
 その言葉が終わらぬうちに、銀閃が閃く。
「和也ちゃん、みんな!?」
 驚いた澪の声。
 突然腰の折れた軍刀を引き抜いた和也が、その刃をアカツキの首筋に突きつけ、その二人と月臣の間に妃都美と奈々美が割って入り月臣を牽制、美佳も腰を落とした臨戦態勢でゴートとプロスペクターを警戒し、一瞬のうちにアカツキを人質に取るような状態になった。
 ほんの少し力を入れれば頚動脈を切り裂いて殺す事もできる体勢で、和也は本気の殺意さえ滲む声をアカツキに投げる。
「僕たちは母さんからあんたたちに協力してもらうよう言われてきた……でもそれ以上盾身の死を貶めるような事を言うなら、全てご破算にします」
「気の短い子たちだな。僕は盾身くんを悪く言ったつもりはないよ」
「あなたは……私たちをバカにしているんですか?」
「……そのような因果……盾身さんが受ける道理なんて無かったはずです……」
「むしろあんたたちが、テンカワ・アキトを利用してテロリストに仕立てた結果でしょ……いい迷惑だわ」
 妃都美、美佳、奈々美と、もう敵意を隠し切れないとばかりに怒りの言葉を向ける。
 何のつもりで言ったのか理解不能だが、アカツキの言葉は和也たちの逆鱗を土足で踏むものだ。ある意味で正鵠を獲ているだけに余計頭に来る。
「僕たちを利用して利益にしたいなら好きにすればいい。お互い様だ……でもここまで言われて黙っている筋合いは無いですよ」
「ふふ、利用か。やはりそれが本音なんだねぇ……」
 一触即発の空気の中、首筋に刃を突きつけられたアカツキは飄々とした態度を崩していない。
 戦争中は身分を隠してエステバリスライダーをやっていたと聞くから鍛えてはいるだろうが、所詮はパイロットとしてだ。生身で『草薙の剣』に勝てる可能性はまずない。それでもアカツキに怯えの色が見えないのは、本当に殺すはずはないとたかを括っているのだろうか。
 急所を避けて刺してやろうか、とかなり本気で和也が思った時、「会長」と月臣が声を投げた。
「悪ふざけはいいかげんにしてください。こいつらの本心くらい、わざわざ口に出させるまでもないはずです」
「いやあ、やはり同志なら腹を割って話すべきだと思ってね、というか君、SSならこういう時助けるべきじゃない?」
「あいにく自分が助けるより、黒道の剣が会長の首を切るほうが早いでしょう。因果応報かと」
 そのやりとりで、和也たちはアカツキの意図を悟った。
 ――僕たちの本心……ネルガルへの反感を口にさせたいから、わざと挑発を……
「いやさすがに悪かったよ、謝罪する。悪気があったわけじゃないからこの剣を下ろしてくれないか」
「…………」
 和也は月臣へ伺いを立てるように目をやり、頷きを返されて渋々剣を引いた。本当に渋々、である。
 すると、「失礼をしたわね」と、それまで黙っていたエリナという秘書が口を開いた。
「ネルガルの事を簡単に信用できないのは承知よ。ただ、あなたたちとはいい協力関係が結べればいいと思っている、それは本当よ」
「はっ……今更何を」
 鼻で笑った和也は、苛立ち任せに本音を吐き出す。本心が暴かれてしまった今、これ以上我慢する理由もなかった。
「テンカワ・アキトと同じように、今度は僕たちを戦わせる。ついでに用済みになった奴の始末もさせる。仕舞いには奴のテロにネルガルは関わってない事にする裏約束でもしてるんでしょう? 結構ですよ。それが僕たちのためにも……」
「――――勝手な事を言わないで!」
 突然エリナが激昂し、和也たちは思わず面食らう。
「あなたたちが何を知っているって言うの!? 確かに利用したかもしれない……でも私たちは、私は……!」
「エリナ君」
 アカツキが短く名を呼び、エリナははっ、とした。そして「すみません……」とアカツキと和也たちに向けて頭を下げると、またアカツキの後ろに下がる。
 できる女という雰囲気の人だと思ったが、意外に沸点が低いのだろうか、というのがこの時和也たちが抱いた感想だ。
 だが澪だけは、エリナの言葉と表情から、彼女がアキトに抱いているひとかたならぬ思いと――――和也が知らず彼女の逆鱗に触れてしまった事を、感じ取っていた。
「秘書が大変失礼したね。お詫びするよ。まあ……利用するとかしないとか、その点はこの際好きに取ってくれていいよ」
 ただ一つだけ訂正させてくれるかな、とアカツキ。
「テンカワ君の事を隠蔽する気だと思っているなら、それは間違いだよ。事が済んだなら全てを公表し、彼の行為を世界に問う事に異論はないし、全面的に協力する事を約束する。こう見えても、責任は感じているんだよ?」
「……ホントですかぁ? そんな事したらネルガルだってテロ幇助の責任は免れないでしょうに」
「おや、心配してくれるのかい?」
「…………」
「いや、そんな目で睨まないでくれ……手は打ってあるよ。ただそれを言う前に、一つ答えてくれるかな」
「今度は何を言わせる気ですか」
 いい加減この男と話すのが苦痛になってきたのだが、構わずアカツキは聞いてくる。
「君たちはユリカ君の『計画』を成就させ、火星の後継者を倒す。それが目的だろう。他にも仲間を取り返してテンカワ君を捕まえるのもあるだろうけど、それはまあ置いておいて……地球に対する反感は、もう捨てたのかい」
 またぞろ失言を誘うような問い。
 この人は協力を破綻にしたいんじゃないのかと思いつつも、和也たちは慎重に言葉を選んで答える。
「そんな事はないですけれど、お母さんの『計画』はそういう感情とも折り合いをつけられるプランでしたよ」
「……それに、盾身さんはそれを捨ててまで地球と木製の和平を強く望んでいました……その遺志を、私たちは継いであげたいのです……」
「なんて言うのかしらね、あたしたちは、あたしたちの望んだとおりに生きたいだけ」
 捨てた、と言えば嘘になるが、盾身が言っていたように、所詮は作り物の憎しみだ。
 少なくとも今の和也たちにとって、それは盾身の遺志より優先するべきものではなくなっている。
「父祖の呪いに縛られて、大事な物を見失うのはもうごめんです。それよりも……地球に来てから結んだ絆を大切にしたいです」
「和也ちゃん……」
「…………」
 その言葉に澪が嬉しそうに表情を緩め、月臣も懐かしいものを見たように目を細めた。
 そしてアカツキはというと、ふはは、と盛大に笑っていた。
「なるほど。父祖の呪いか……言い得て妙だね。……おっと、キャッチが入っちゃった。悪いが僕はここで失礼するよ」
「え、ちょっと、まだ肝心な事を聞いてない……」
「後でユリカ君からでも聞きたまえ。ではまた」
 そう言って、アカツキはエリナを連れてそそくさと出て行ってしまった。
「結局、彼は何をしに来たんでしょうか……」
「……さあ……」
 言うだけ言って急に帰ったアカツキに、妃都美と美佳はげんなりした顔で言い交わす。正直、不愉快なだけのやり取りだった気がする。
 だが眉を顰める和也たちに、澪がそっと話しかけてきた。
「ねえみんな。あの人たちの事、もうちょっと信用してあげてもいい気がするよ」
「はあ? どうして」
「あの人たち、テンカワ・アキトさんの事、道具とか利用とかじゃなくて、好きなんだと思う。責任を感じてるのも本当かも」
「うっは、澪ちゃんらしいわ……」
 性善説的な考えを口にした澪に、奈々美は苦笑する。
 和也も、正直不信感が強すぎて素直には頷けなかったのだが……
「会長がテンカワさんの事をどう思っているかは、わたくしどもにも解りかねますな」
 そう答えたのはプロスペクターだ。
「しかし戦争中のお二人はエステバリスライダーとして、肩を並べて戦った仲ですからな。時にケンカをし、時には認め合った。そこに何の感情もなかったとは思いたくありませんな」
「やっぱり、友達を助けてあげたかったんじゃないのかな。だからその時の事をみんなに聞かせたり、エリナって秘書さんもあんなに怒ったりして……」
 澪の口から改めて言われると、少し気持ちが揺らぐ。
 ――ちょっと先入観を持ちすぎたかな。
 アカツキが嫌な性格の人、というのは確定としても、100%悪人と決めてかかるのも早計かもしれない。
「会長は悪人だ。ただこちら側の悪人だ。常にネルガルと自分のために行動している彼は、お前たちがネルガルの益になる限り裏切ったりはしない。その点だけは信用していい」
「まあ、澪や少佐がそう言うなら……ね」
「嫌な人ですけど、協力してくれるのは確かみたいですし、ね」
「……ユリカお母さんが味方だと言うなら……一応信じます……」
「気に入らないけど、味方って事にしてやるわ」
 好きにはなれない相手だが、味方には違いない――――『草薙の剣』のアカツキに対する心証は、そんな所に落ち着いた。
「ところで和也ちゃん、盾身くんの事で凄い怒ってたけど、因果応報とか何の事?」
「ああ、澪は知らなかったっけ。盾身は――――」
 答えようとしたその時、不意に和也たち五人のコミュニケが電子音を発した。
「緊急通信?」
「ナデシコから……お母様だわね」
 妃都美と奈々美が表情を険しくする。
 こんな時にわざわざ通信など、何か緊急事態でも起きたとしか思えなかった。急いで送受信ボタンを押し、回線を開く。

『ルリちゃんがいなくなっちゃったあーっ!』

 途端、巨大なウィンドウに大写しになったユリカが泣き顔で叫んできて、和也たちは呆けた声を上げた。
「……はあっ?」



 −5:00:00

「ユリカさん……どうして、あの人たちを『家族』にしたんですか?」

 時間は少し遡り、午前九時。
 ナデシコCが停泊している宇宙軍ヨコスカ基地の高級士官用宿舎の自室で、事務仕事に当たっていたユリカの元を尋ねてきたホシノ・ルリ中佐は、厳しい顔で質問を投げてきた。
『草薙の剣』がナデシコCに忍び込んでから今まで、ユリカもルリも事後の処理に忙殺されて話し合いの機会を持てなかった。この日になってようやく大方の用事を片付けたルリは、ユリカの仕事も一段落するタイミングを見計らって訪問してきたのだろう。
「ルリちゃん……あの子たちを『家族』にしたのがそんなに嫌?」
「嫌です。私にとっての『家族』は、ユリカさんとアキトさんだけです」
「でも、家族が増えれば楽しいよ? あの子たちも喜んでたし……」
「楽しい? あの人たちに『お母さん』とまで呼ばせて、家族を演じさせて……それが楽しいんですか?」
 私は家を土足で踏み荒らされている気分です、とルリは言う。
 ルリとて、この期に及んで和也たちの事が嫌いなわけではあるまいが、それでも受け入れられないのはやはり、アキトの存在があるからか。
「もうすぐ……本当にもうすぐ、アキトさんは帰ってこれるようになります。火星の後継者を壊滅させて、全てを明らかにすれば、アキトさんをヒーローとして喧伝できます……そうすれば、またあのアパートに……幸せだったあの時に戻れるんですよ?」
「ルリちゃん……まだそんな事にこだわってるの?」
 二年近く心血を注いできた目的をそんな事呼ばわりされ、ルリが衝撃を受けたように目を見開く。
 ユリカにとっても、いままで避けてきた辛い話題だが、もう限界だ。
「それって、あの殲鬼って人が言った通りの事だよね? わたしのせいでもあるけど、ルリちゃんがそれを否定できなかったからレッカくんとミユキちゃんが篭絡されて、『草薙の剣』はバラバラになって、おまけに残った子たちにも大怪我させて……だからあの子たちは怒って、殺しに来たんだよ?」
「でも……でも、そうしてあげるべきでしょう? アキトさんはユリカさんのために戦って、汚名を被って、今も独りで……」
「うん、解ってる。とっても嬉しいよ……でも、少し辛いよ」
『草薙の剣』だけではない。澪のようにアキトが巻き込み、アキトを憎む人が今の世界には大勢いる。それを思った時ユリカの胸に去来するのは、自分のためにこんな大きすぎる恨みを買ったアキトの事。自分の存在があったから、アキトはテロリストになった、という憂いだ。
 もちろんあの時、遺跡の生体部品として眠らされていたユリカがそう頼んだわけではないが、それでも自分がいなければ、アキトはここまで恨みを買う真似をしないで済んだ、アキトの人生はここまで狂わなかったのではないかと思ってしまう。
 アキトのした事の責任は、自分にもあるとユリカは思っている。ここで自分のせいじゃない、何も関係ないと言う事は、それこそ自分のためにここまでしたアキトへの裏切りで、妻としてあるまじき背信だと思う。
 だからこそ、ユリカはその恩に報いるために『計画』を進めているし、アキトは償うべき――――そう思うのだ。
「いまさらアキトのした事を美談に仕立てて、無罪放免になったとして……それであの人たちの怒りは消えないよ。アキトがわたしやルリちゃんと幸せに暮らすなんて、許してなんかもらえない。巻き込んだ人たちには償わないといけないよ……」
「だから、アキトさんは裁きを受けなきゃいけないと……? あんな与えられた情報だけ鵜呑みにした、アキトさんの事を何も解っていない人たちのために……」
「ルリちゃん……少し、敵を作りすぎだよ。『草薙の剣』の子たちも、ミオちゃんも、他の遺族の人たちも……何も悪くなんかない」
 邪魔者扱いするのは筋違いだよ、と戒めたユリカに「私はっ……!」とルリは言葉を詰まらせる。
 本当はルリとて解っているはずだ。澪のような遺族に怒りを向けるのは筋違いだと。その程度の事に思い至らないほど、ルリは愚かではないはずだ。
 それでも自分の感情を納得させられないルリは、ユリカの感情に訴えようとする。
「……ユリカさんは、火星の後継者が、憎くないんですか……? アキトさんとまた一緒になりたいと……!」
「ルリちゃん、それ以上言ったら怒るよ」
 静かな声に、しかしユリカの本気の怒りを感じ、ルリはビクッと震えて言葉を失う。
 説得するつもりだったルリの言葉は、逆にユリカの逆鱗に触れていた。
「憎くないわけないよ……アキトと一緒に暮らしたくないわけないよ。ルリちゃんになら言うまでもないと思ったんだけどなあ……」
 あのボロアパートで過ごした日々が、ルリにとって何にも代えがたい幸せな時間だったのは解る。今となってはユリカにとっても、それは同じだ。あそこに戻りたいルリの気持ちも、痛いほど解る。解るに決まっている。
「でもね。そうやってたくさん敵を作って、片っ端から力づくで潰していくやり方じゃ、潰せば潰すほど敵が増えるよ。『草薙の剣』の子たちは今度こそ殺しにやってくるし、他の人たちも許さない。そうなった時ルリちゃんはどうするの? 三人でどこかに隠れながら一生怯えて暮らす? それとも……みんな殺すつもり?」
「……やめてください……」
「それだけじゃないよ。ルリちゃんは火星の後継者だけじゃなく、それに協力する地球の人にも攻撃を加えたよね。確かに火星の後継者にも打撃を与えたけど、その人たちを怒らせて、地球連合の内部対立を激化させる事にもなった。それは火星の後継者を喜ばせたと思うよ。……だからわたしたちは、ルリちゃんに『計画』の事を教えられなかったんだよ?」
「……やめて……」
「ルリちゃん……ルリちゃんのした事はね」
「……お願いです……それ以上は…………!」
 今のルリには残酷すぎるのだろう言葉を受けて、ルリは数歩後ずさる。その足は震え、白い顔は蒼白に転じる。
 もっと早くに言うべきだった。人間はその道を進むために時間や労力を費やせば費やすほど、それを無駄にする事ができなくなる。あるかどうかも解らない、別の道を探す方法を選べなくなる。
 ルリがユリカなら解ってくれると甘えていたのと同様、ユリカもまたルリに甘えていたのかもしれない。何も言わずともルリなら気付くなどと慢心せず、ルリが一年半もの時を復讐に費やす前に、こうするべきだった。
 だからユリカは、『家族』として『母』として、心を鬼にして――――ルリの復讐を、否定するのだ。

「アキトのためにも、わたしのためにもなってない。……ルリちゃんの望みは、叶えちゃいけないんだよ」

「――――――――――――――――ッ!」
 ボキリ、とルリの中で何かがへし折れた音を、ユリカはこの時確かに聞いた。
 声にならない声を上げて部屋を飛び出したルリを、この時ユリカは追わなかった。いかなルリでもすぐに受け止められるものではないだろうし、少し落ち着く時間が必要だと考えての事だった。
 だがおよそ一時間後、話を聞いてルリの部屋を訪ねたハーリーによってルリがいない事が解った。そして監視カメラのログを検索し、ルリがわざわざ偽造のIDまで使って基地の外に出ていた事が発覚するや、ユリカは大慌てで和也たちに連絡したのだった。


 −2:02:47

 半泣きのユリカからを話を聞いた和也たちは、仕方なく初日の訓練を中止してルリの捜索を手伝う事になった。
 ゴートにまたリムジンへ乗せてもらい、来た道をトンボ返り。富士の演習場からはオオイソが近かったが、そちらにはミナトとユキナがいるので二人に捜索を頼み、『草薙の剣』は東名高速道路で戻り、トウキョウからヨコスカにかけての、以前ルリが休暇の時に足を運んでいた場所を捜索する事にした。この状況でルリが遊びに行ったり買い物をしているかは疑わしいが、他に当てもない。
『クルーのみんなももう探してる、ハーリー君はナデシコCから監視カメラのシステムをハッキングして、ルリちゃんらしい人がカメラに映ればすぐ連絡するから、安全に連れ戻して。お願いね!?』
「了解、了解しましたからちょっと落ち着いて!」
 和也は錯乱同然の態で喚くユリカを必死になだめる。母親然とした態度でルリを叱ったのは何だったのかと思える有様だが、それもこれもルリを大事に思えばこそと思っておこう。
 ――まさかあのホシノ中佐が、ここまで感情的に動くなんて……
 呆れるやら心配やらで頭が痛くなる。取るに足らない身内のケンカと言えばそうだが、ルリという人間の重要性が事態を深刻にしていた。ナデシコCの艦長であり、世界的に名の知れた有名人であり、ナデシコCの力を最大限引き出せる唯一の存在であり、それゆえ火星の後継者からは常に命を狙われている。
 護衛も無しに一人で出歩けば、いつ敵に拉致される、あるいは殺されるか解らないのだ。放置できる状況ではなかった。
「艦長……いや、ルリさん……そんなに納得いかなかったのかな……」
 澪は浮かない顔で呟く。自分と自分の父親を巡ってルリとユリカが仲違いしたとあっては、彼女の性格上どうしても気に病んでしまうのだろう。
 そんな澪に「澪ちゃんが気にするこっちゃないでしょ」と奈々美が声をかける。
「つうか中佐も中佐だわよ。単なる小娘の家出じゃ済まないってのに、子供かっての」
「あは……確かに親とケンカした挙句に家出なんて、完全に思春期の子供がする事ですよね」
 妃都美は苦笑したが、その言葉を聞いて和也はああ、と思った。
「子供……そう、子供なんだよね。ホシノ中佐も、僕たちと同じで……」
 上官という事もあるし、それ相応の貫禄も持っている。普段の言動も大人びている。それゆえすっかり忘れていた。
 ルリはまだ十七歳で――――和也たちと同年代の少女だったのだと。
「オオイソにいた頃の中佐……あんまり覚えてないけど、思い出すとずっと死んだ目をしてた。心がすっぽり抜け落ちた人形みたいに……」
「ユキナちゃんは話したがらなかったけど、今思えば『家族』を亡くした……と思ってた時だったんだよね。……悲しかったはずだよ」
「『家族』と過ごした時間が、中佐にとっては一番幸福な記憶だったのでしょうね……それを失った絶望の程は、想像するに余ります」
「ところが二人とも生きてて、火星の後継者の実験台にされてた、か……まあ怒るのが当然だわね」
「……取り返したかった、のでしょうね。中佐にとっての、一番幸福だった時間を……」
 仕方ないと納得するにはいささか思うところがありすぎたが、昔のルリを思い出すと憐憫の情が沸く。
 幸福だった時間を取り返す――――それがルリにとって簡単に諦めきれるものでないのも、少しは解る気がした。そして、どうしてそんな気がしたのか、自分でも不思議に思った。
 少し考えてみて――――ああ、とすぐに合点がいった。
「……同じ、だったんだね。中佐も、僕たちも…………」
「同じって、何が?」
「澪がいなかったら、僕たちはここにこうしていなかったかも、と思ってね」
「はあ?」
 怪訝な顔をする澪と、皆を見渡して和也は、「みんな、ちょっといい?」と運転席のゴートに聞こえないよう、声を低くして皆に話した。



 −1:27:31

 トウキョウ都内某所に区画整理計画が持ち上がったのは、数年前の事だ。
 もともと空き家が多く、道路などのインフラも老朽化が著しかった事もあり、住民の立ち退きとそれに伴う金の支払いは滞りなく進んだ。そうして今からおよそ三年前の2199年半ば頃には、周辺の建物は軒並み取り壊された。
 程なくしてその跡地にはできたての継ぎ目もない道路や、大企業の出資による高層マンションが建ち、ボロ屋の多い貧相な町の一角は小奇麗な住宅街へと生まれ変わった。
 そんなどこにでもある住宅地の中に――――まるで石像のように空虚な顔をして、ホシノ・ルリは立っていた。
 ユリカに今までやってきた事を全部否定され、激情のままに基地を独りで飛び出し、気が付いたらここへ来ていた。かつて自分と、ユリカと、アキトの三人で暮らした安アパートがある――――いや、あった場所へ、逃げるように。
 最初から知っていた事だった。あのアパートはとっくの昔に取り壊されて、跡地には三十階建ての、隙間風とは無縁の立派な高層マンションが鎮座している。道路も周辺の建物も軒並み再開発された今となっては、ルリの記憶にあるあの頃の面影はどこにも残ってはいなかった。
 ――何やってたんだろう、私……
 火星の後継者を殲滅しさえすれば、また三人で暮らせると思って今日まで戦ってきた。
 何も知らないくせにアキトを憎む人たちなど、黙らせてしまえばいい程度に思っていた。
 だけどそれは、ユリカがまったく望んでいない事で――――叶えてはいけないと一蹴された。ずっと『家族』で味方だと思っていたユリカの、自分を拒絶する言葉を聞きたくなくて、気が付いた時には基地を飛び出し、ここへやってきた。
 きっと今頃、騒ぎになっているだろう。帰るべきだと思いつつも、まるで石のようにルリの足は動かなかった。どんな顔をしてユリカに会えばいいか、解らなかったのだ。
 ――バカ……みたい……
「やっぱり、ここにいたんですね」
 不意に、聞き覚えのある声がルリの耳を通り過ぎた。予想より遅かったなと思いつつ、よりによってこの男が迎えに来たのが少し以外で、腹立たしかった。
「……私を笑いに来ましたか、コクドウ隊長?」
 やけっぱちな言葉に、声の主――――和也と、隣の澪は「重症だな……」と言いたげに顔を見合わせた。
「中佐を迎えに来たんです。みんな大騒ぎですよ」
「……私なら大丈夫です。一人で帰れますから放っておいてください」
「とても大丈夫そうな顔じゃないですよ、今の艦長……いえ、ルリさん、なんだかかわいそうです」
 ――かわいそう? そもそもあなたのような人のせいでアキトさんは帰れない……私も……!
 捨てきれない悔しさと敵愾心が、ルリの心臓を締め付ける。澪の言葉はルリを心配してのものだが、それさえ今のルリには上から見下ろして哀れむ、屈辱的な言葉と感じてしまうのだった。
 私を哀れと思うならアキトさんを返せ、と言っても仕方ない事を口走りそうになり――――それは筋違いだ、というユリカの言葉を思い出して慌てて止める。
 そしてまた何かを言われ、余計惨めな気持ちになる前にルリはその場から歩き出した。逃げたと言っていいかもしれない。
「どこに行くんです?」
「……関係ないでしょう」
 行くところなんてあるはずもなかったが、今は和也たちの前にいたくなかった。
 すると、ふう、と嘆息した和也が「ブレードリーダーより各位へ」とコミュニケに呼びかける。
「『進展はない』繰り返す『進展はない』。アウト」
「…………?」
 てっきり仲間を呼んで引っ張っていくつもりかと思っていたルリは、予想外の言葉に思わず足を止めた。
 そもそもどうして、いつも一緒だったはずのメンバーが……残る三人が一緒にいない? 困惑するルリに、和也と、そして澪はいきなり左右の手を掴んできた。
「行く所なんてないんでしょ? だったら今日一日、わたしたちと付き合って。ね?」
「そういう事です。ズル休みして、一緒に遊びに行こう!」
 まるで学校をサボって遊びに行こうみたいな調子の和也と澪に腕を引かれ、ルリはわけも解らず引っ張っていかれた。


贖罪の刻 第二十二話 後編