−1:24:34

 和也からその報せを受けた時、妃都美はある男と共にいた。
「進展はない、か。どこ行っちまったのやら……」
 やれやれ、と首を振ったのはタカスギ・サブロウタ少佐だ。数分前、一足先にリムジンから降りた妃都美は、そこから程近い場所にいたサブロウタと連絡を取った。バイクでヨコスカ市内を走り回っていた彼と落ち合ったところで、和也からの知らせを受けたのだ。
 サブロウタは口調こそいつもの調子だったが、その表情は明らかに精彩を欠いていた。
『……余裕がありませんね……』
『だいぶ焦れてるみたいね。いつもヘラヘラ笑ってる人がまあ……』
 ひそひそ……とウィンドウ越しに美佳と奈々美が囁きあう。二人もそれぞれヨコスカからトウキョウにかけて別の場所でルリを捜している事になっていたが、実態は正反対のものになっていた。
 和也の報告をサブロウタは額面通りに受け取っていたが、本当に見つからないのであればはっきりそう言う。『進展はない』は『ホシノ中佐を見つけた。他のクルーの人たちを適当にごまかしてくれ』という意味の符丁だ。
 妃都美と奈々美がルリたちの向かう先から、それとなくナデシコクルーの面々を遠ざける。美佳は監視カメラの情報を収集してルリがハーリーに見つからないよう誘導する。これでしばらくルリの居場所は誰にも掴めないだろう。
『あたしたち、ついこないだホシノ中佐に半殺しにされたばかりよ? そいつを楽しませてあげようとか、和也も甘いって言うかなんて言うか……』
 奈々美は少し呆れた調子だ。確かにルリからは機体を墜落させられた件について、まだ謝罪の一つも貰っていない。無条件で水に流すにはいささか傷が深すぎる。
 謝罪の一つくらいは要求したいところだが、先刻聞かされた和也の考えも、そしてルリの気持ちも、解らなくはなかった。だから今のところは、和也の言う通りにした。
「真矢? さっきから何ひそひそ話してるんだ? 口より先に足を動かしたほうがいいぞ」
 と、そこへサブロウタが声を投げてきた。ルリがもう見つかっている事を知らない彼は、電動バイクのモーター音を唸らせここでじっとしているのももどかしいと、焦りを露わにしている。
 なんだか騙しているような気がしたので、妃都美はサブロウタに声をかけた。
「そんな心配しなくても、いずれ見つかりますよ」
「だといいんだが、中佐の立場とかを考えると楽観してもいられなくてな……」
「大事にしていらっしゃるのですね、ホシノ中佐の事を」
「ん……まあな。ずっと守ってきたお姫様みたいなもんだし……なんつうのかね、俺にとっても中佐は『家族』みたいなもんなのかもな」
 中佐にとっては違うみたいだが、とサブロウタは少し残念そうに苦笑する。
「だが、そう思ってるのは俺だけじゃないと思うぞ。ハーリーもそうだし……他のみんなもそうだ」
「はあ、他のみんなって……」
 どのくらいの範囲までが含まれるのか計りかねた妃都美が聞き返した時、突然開いた別のウィンドウから響いたバカでかい声が、妃都美たちの耳朶を打った。
『おいサブ、ルリがいなくなったって本当か!?』
「おわっ!? 中尉!」
 いきなり目の前に現れた大きなウィンドウに、驚いたサブロウタがバイクごと転倒しかけ、別ウィンドウの中の奈々美が驚きの声を上げる。
『スバル中尉!? あんたも探しに来たの……』
『よう奈々美! お前らも一緒か。聞いたぜネルガルのところで訓練だってな。何ならオレたちも手伝ってやってもいいぜ……って今それどころじゃねえな。ライオンズシックル中隊一同、これより捜索に加わるぜ!』
 なんと部下の隊員たちまで引っ張ってきたらしいスバル・リョーコ中尉は、びしっと敬礼で本気を示して見せた。
 そこへまた別のウィンドウが開く。
『ルリちゃんが失踪したって本当ですか!?』
『ルリちゃんが誘拐されたって本当ですか!?』
『ルリちゃんが脂ぎった顔の不審者に連れて行かれたって本当!?』
『ルリちゃんガー! ルリちゃんガー!』
『……め、メグミさん……それにホウメイ・ガールズの皆さんまで……まさか、皆さんもホシノ中佐を探しに……』
 一つのウィンドウの中で姦しく声を上げる、メグミ・レイナードとホウメイ・ガールズの面々の姿に、美佳が驚いた顔になる。
 多忙なはずの売れっ子芸能人たちがこんな所に来て仕事は大丈夫なのかと思ったが、見ると彼女らが乗っている車の運転席ではマネージャーらしき男性が大丈夫でない顔で、泣きながらハンドルを握っていた。
『ユリカさんから話は聞いたよ。私たちも捜索に参加するね!』
「み、皆さん……」
 外部の人間まで集まりだし、どうやらユリカが信頼できる人間に片っ端から声をかけているようだと察した妃都美たち三人は、内心冷や汗をかく。
 恐ろしい事に、ウィンドウの数がさらに増えていく。
『こちらユキナ! オオイソは一通り探したけどいなかったから、わたしとミナトさんもそっちに行くね!』
『ヒカルでーす! ルリちゃんか大変だって聞いて、ソッコーで原稿仕上げてきたよ!』
『仕事中の小説家とかけて、今の私ととく。そのこころは、捜索(創作)活動中……ククク』
『こちらゴート。会長の許可が下りた。ネルガルシークレットサービスもホシノ中佐の捜索に参加する』
『ナデシコ整備班一同、現地に到着しました! ホシノ中佐の捜索を始めます!』
 わらわらわらわら、と次から次へウィンドウが開き、ルリの捜索に参加すると申し出る人が増えていく。その数の多さに三人は開いた口が塞がらない。
『なんつうかさあ……』
『……ええ、そうですね……』
「中佐、やはり過去に固執しすぎではないでしょうか……」
 三人はそう、密かに言い交わす。
 口に出して言うのは酷だろうし、受け入れるのは簡単ではないだろうが、これを見れば思う……ルリはもう少し、今に目を向けてもいいのではないかと。
 ―― 一度だけですよ、中佐。
 一度だけ、ルリに歩み寄りのチャンスをあげてみよう。ユリカがそうしてくれたように、今度は自分たちが手を差し出してみよう。
 それでもルリがその手を払い除け、アキトに固執するのなら、もう友達にも『家族』にもなれなくなり、敵同士になるしかないだろうが。
「ところで、この数の人たちをごまかすのは私たちでも骨ですね」
『……手間賃として甘いものでも奢ってもらいましょう……ヨコスカ基地の近くに新しいパンケーキ屋が開店していたので……』
『いいわねー。一番高いやつ二十個くらい食わせてもらうわ』
 この瞬間、和也のサイフがスッカラカンになる運命は確定した。



 機動戦艦ナデシコ――贖罪の刻――
 第二十二話 差し出された右手 後編



 −0:55:17

「ラーメンお待たせ」
「あ、すいませーん」
 香ばしい香りを放つ醤油ラーメンが目の前に置かれ、どうしてこうなったんだろう、とルリはもう何度も思った事をまた思った。
 自分を連れ戻しにきたと思った和也と澪が、何を血迷ったのか遊びに行こうと言い出し、わけも解らないままゲームセンターで写真を取ったりしながら三十分ばかり遊んで、そこで時間がとっくに正午を過ぎていたのを思い出し、どこかへ食べに行こうという話になった。
 他のクルーから美味しいとの話を聞いて、以前から入ってみたかった店が近いと和也と澪が言うので、ルリは流されるままについていったのだが、まさかこの店とは。
「そっちの二人は初めての子だね。あたしはホウメイ。元ナデシコの厨房責任者で、今はこの店のシェフ兼オーナーさ」
「クルーの人たちから話は窺ってます。統合軍陸戦隊の黒道和也です。いろいろあってナデシコにはお世話になりました」
「同じくオペレーターの露草澪です。ホウメイ・ガールズのお師匠さんですよね?」
「はっはっは。あたしが教えたのは料理だけだけどねえ」
 三人で入ったこの店――――『日々平穏』という名の小さいながらも小奇麗な食堂は、元ナデシコAクルーのホウメイが一人で切り盛りする店だ。ルリもホウメイの料理は今でも好きで、最近は難しいが機会があれば訪れている……が、今は大好物のラーメンも、まるで味がしない。
 それは、いま自分が酷い顔をしている自覚があったから知り合いに会いたくなかったのと、もう一つの理由に起因していた。
「んー、スープがしょっぱくて麺がツルツル。これがラーメンの味か……箸が止まんないよ」
「味付き卵も入ってるしチャーシューはとろっとろ。メンマも太くて硬い! 凄く美味しいよこのラーメン! これが生まれて始めてのラーメンだと、他のラーメン食べられないかも」
 久々にルリとの味覚共有プログラムを使っている和也と澪は、ホウメイのラーメンに舌鼓を打っていた。
 ニューヨークの時は、これで和也が喜んでくれるのを見るのが嬉しくて仕方なかった。いつかアキトとそうする日を夢想する事ができて、久々にあの時の幸せを感じられた気がしたのだけれど、今はとても楽しむ気になれない。
 ここで和也をアキトの代わりにしてしまったら、アキトがもう戻って来れない事を、認める事になる気がしたのだ。
 ルリの箸が進んでいないのに気付いたのだろう。ホウメイが心配そうな目を向けてくる。
「元気ないねえ。……何かあったのかい?」
「いえ……なんでもないです。少し食欲がなくて」
「なんでもない顔じゃないよ。何か言いたい事があるなら、ぶちまけたほうがいい。でないと、いつか心が擦り切れちまうよ」
 やんわり諭してくるホウメイに「本当になんでもないですから……」と言って、ルリは席を立った。腰を浮かせる和也と澪に「お手洗いです」と伝え、足早にトイレへ入る。
 そして用を足すわけでもなく壁際に駆け寄ると、そこにある小さな窓をそっと開ける。少し高い位置にあるが、この程度ならルリでもよじ登れる。
 逃げよう。そうルリは決めていた。和也と澪――いや『草薙の剣』全員――は何のつもりなのか解らないが、付き合っていられない。
「んっ……」
 最近ろくなトレーニングもしていなかったせいか、大して重くない自分の体を持ち上げるのにも難儀しつつ窓に身体をねじ込む。……と、食堂のほうからホウメイと和也たちの話し声が聞こえてきて、ルリは手を止めた。
「……ああ。やっぱりホウメイさんにも連絡来てました?」
「ついさっきね。艦長……今は提督だったね。もう何言ってるかも解んないくらい半泣きで……あの子も相変わらずだねえ」
 その会話を聞いて、ルリの胸が罪悪感で痛む。ルリとてユリカを困らせたいわけではないのだ。
「悪いけど母さんには黙っててください。もう少し回って歩きたいので」
「そりゃ構わないさ。でもどうしてだい。あんたたちとルリちゃん、ケンカしてたんじゃないのかい?」
「まあ、ね。まだ折り合いが付いたとは思ってませんし、言いたい事なら山ほどありますよ……でもまあ、気持ちが解らなくもないんです」
 どこから話せばいいかな、と和也は言う。
「熱血クーデターの時、信じていた草壁閣下に裏切られて、それまで積み重ねてきたキャリアとか何もかもなくして……傷心のまま来た地球は敵と教えられていた場所で、僕たちは誰にも心を許せなくて……そんな僕たちを救ってくれたのは、初めての友達になってくれた澪なんです」
「和也ちゃん……恥ずかしいよ。わたし別に……」
「まあそう言わないで。澪が居場所を作ってくれたおかげで、僕たちはオオイソで楽しく暮らせたと思うし、気が付くと傷が癒えていた気がする。だから火星の後継者のテロでオオイソにいられなくなって、怒りのままに戦う事を決めた……これ、中佐も似たようなもんじゃないですか?」
 そう言った和也に、ホウメイは思い出の蓋を開けるような懐かしい声で、「そうかもね」と答えた。
「ルリちゃんも研究所で生まれ育って、その次は戦艦に乗って戦争だからねえ……あのオンポロアパートで暮らした時が、一番幸せだったんだろうね。だからそれを奪われて、何が何でも取り返そうと……」
「でも、僕たちとしてはそれは許せないんです」
 そうはっきりと口にした和也に、ルリの全身がぴくっと震えた。
「半分自業自得かもだけど、テンカワ・アキトは僕の右手と右目をこんなにして、澪のお父さんと盾身を殺した奴で、はっきり言って今でも憎いです。全てを正当化して幸せに暮らすなんて許せない。そんな事を望むなら、あいつも中佐も迷わず斬ってやる」
 ――やっぱり、そう思っているんじゃないですか。
 案の定な答えに、ルリは落胆する。そして、いまさら自分が落胆したのに自分で驚いた。
 なんだか元気付けようとしているように見えたから、全部水に流してくれるのかと心のどこかで期待していたのだ。そして、そんなあまりにも都合のいい期待を持っていた自分が酷く滑稽で、バカみたいだと思った。
 だったら最初から、敵を見る目で睨んでくれればよかったのに。そう恨みがましく思ったルリの耳に、ホウメイの苦笑気味な声が飛び込んできた。
「そう思っているからこそ、ルリちゃんの気持ちも解る、ってわけかい?」
「お父さんの事も、盾身くんの事も許せないけど、ルリさんに罪はないじゃないですか。和也ちゃんたちに大怪我させたのは謝ってもらいたいけど……諦めるのが当然だって言うのも、ちょっとかわいそうですよね……」
「母さんだって辛い決断をして、あいつを裁かせてくれると言ったんです。僕たちだって何かしてあげなきゃ、母さんに立つ瀬がないし……なにより、火星の後継者を倒して、向こうに連れて行かれた烈火と美雪を取り返して、テンカワ・アキトを捕まえる……そのためには中佐の力が必要ですから」
 だから一回くらい、仲直りの機会をあげてもいいかなって思います、と和也。
「澪が僕たちにしてくれたみたいに、今が楽しいと思ってもらえれば……それで少しでも考え直してくれるなら……」
 続く和也の言葉を、ルリはそれ以上聞く事ができなかった。
 ルリが考え直せばどうなる? 友達になれる? 仲間? 戦友? ……それとも『家族』?
 大きなお世話だ。とルリは憤慨する。ルリが失ったのは、かけがえのない大切なものだ。そこに代わりのものをくれてやるから我慢しろと?
 そんなものいらない。代わりのものなんてあるわけがない。そんなもの受け取れるわけがない――――拒絶の言葉を何度も何度も、頭の中で繰り返す。
 差し出されたこの手は、払い除けないといけなかった。ここでこの手を取ってしまったら、いままでやってきた事が、流してきた血が、費やした時間が、全部無駄になる。
 逃げないと、いけない。ここで逃げれば今度こそ和也たちとルリの関係は修復できなくなる。それでいい。和也たちがあくまでアキトを敵視するなら、ルリは和也たちの敵でいい。
 それでいい。
 それでいい……はずなのに、ルリはその場を動けなかった。
 あの時と同じだ。『草薙の剣』をガス責めにしておいて、最後の最後で警報を鳴らせなかった。もう失うものなんて残っていないはずなのに、心の中で何かが、まだ失いたくないものがあると足を引っ張っている。
 窓枠に手をかけたまま、彫像のように動けないでいたルリだが、その時食堂のほうで異変が起きた。
「あ? なんだいあんたたち、何の用だい?」
 不意にホウメイの緊張した声がし、何事かと思いルリは食堂へ戻る。
 ――警察?
 警棒や拳銃で武装した、制服姿の警官が二人、店の中に入ってきていた。店のすぐ前にはパトカーが路上駐車していて、勤務途中に昼食を摂りに来たというよりは仕事でやってきた風情だ。
 ホウメイと何事かを話していた警官二人だが、トイレから出てきたルリと目が合うなり、なぜか険しい顔をして歩み寄ってきた。


 −0:50:37

「先ほど、こちらに捜索届けの出ている少女が入っていったようなのですが」
「捜索届け? 何の事だい」
 いきなり店に踏み込んできた警官とホウメイのやり取りを聞きながら、まずいなぁ、と和也は内心頭を抱えていた。
 あの二人が探している少女というのは、まず間違いなくルリの事だろう。彼ら自身は探しているのがホシノ・ルリだとは知らない様子の口ぶりから察するに、不鮮明な顔写真だけを渡された他は何も聞いていないようだ。
「きっと警察の偉い人の中にも、ミスマル家の親族なり協力者なりがいて、母さんに頼まれたその人が一部の警察をこっそり動かしたんだろうな……」
「ユリ母さん……心配なのは解るけど過保護すぎじゃない……?」
 ひそひそ、と和也は澪と言い交わす。ユリカが声をかけたからには敵の可能性はないと思っていいだろうが、あまりに大げさというか、事を大きくしすぎな気がする。
 などと言っている間にルリがトイレから顔を出し、それに気付いた警官がルリのほうへ歩み寄っていく。このまま行けば間違いなく連れ戻されるだろう。
 ――まだ邪魔されたくないな。
「ホウメイさん。おあいそお願いします」
「あ? ああ、まいどあり」
 和也は手早く食事代を支払う。そしてすうぅ、と呼吸を整えると、店の外を指差して「あーっ!」と大声で叫んだ。
「ひったくりだ!」
「なに、どこだ!?」
 警官二人の注意が店の外に向いた刹那、和也は脱兎の如く飛び出しルリの腰に手を回して抱え上げる。そのまま全力でUターンし、澪の手を掴む。
「緊急離脱ーっ!」
「コ、コクドウ隊長!?」
「ホウメイさん、ご馳走様でしたーっ!」
 驚く二人を連れて、和也は店の外に飛び出す。騙されたのに気付いた警官が「あ、おい待てっ!?」と後を追ってきたが、その時にはもう三人の姿は雑踏の中に紛れていた。
「しまった、やはり誘拐か!」
「俺は後を追う! お前は本庁に連絡しろ! 緊急手配だ、あの三人を逃がすな!」


 −0:35:24

「ふう。もう追ってこないかな……」
 しつこく追いかけてきた警官を振り切った事を確認し、和也は一息つく。
「コクドウ隊長、そろそろ下ろしてくれますか……? それと手が……」
 ルリに言われ、抱えっぱなしだったルリのお尻を鷲掴みにしていたのに気が付き、「す、すみません!」と慌てて下ろす。
「和也ちゃん……えっち」
 澪はジト目で睨んでくる。ついでにルリは頬を染めている。
「い、いやいや不可抗力だから。それより早く行こう」
 レインボーロードというこの歩行者天国は、食料品店のほかに遅川書店、雑貨屋に飲食店、カラオケボックスにゲームセンターと一通り揃っていて、環境調整ドームの中のため雨に降られる事もなく快適。夏になればサマーフェスタとしてイベントも催されたりとそれなりに賑わっている場所だ。ホウメイの店から近いとあって、少し前はルリも非番の日に遊びに来たりしていたらしい。
「ねえねえルリさん、和也ちゃん、クレープ食べていこうよ」
「あ、いいねそれ。僕も食べてみたい」
 澪の一言で、三人はクレープ屋の行列に並んだ。平日の昼間ではあったが、外回り途中の一服なのかサラリーマン風の男や、本当に学校をズル休みしたらしい澪やルリと同年代の学生グループなどがそこそこ長い列を作っていて、順番が回ってくるまでには二十分ほど時間を要した。
「ルリさんはどれがいいですか? わたし、このスペシャルミックスがいい」
「わ……私も同じのでいいです」
「じゃあ僕も同じので。すいませーん。スペシャルミックス三つ!」
「はいよ。スペシャルミックス三つー。……チッ」
 バイトと思しき店員の青年は、なぜか和也を見て面白くなさそうに舌打ちした。
 それでも鉄板の上にタネを落として広げ、生クリームや具を包んでと仕事はきっちりこなし、程なくイチゴとバナナの上にブルーベリーとラズベリーがトッピングされ、生クリームも三割増し、さらにチョコソースの掛かった豪勢なクレープが三つ出来上がった。
「中佐、どうぞ」
「……どうも」
 和也が差し出したクレープを躊躇いがちながら受け取ったルリは、その小さな口で可愛らしくかぶりついた。
 同時にクレープを口にした和也へ味覚情報が送信され、口内に濃厚なクリームの甘味と果物の酸味が広がる。
「うわ、甘っ……なんという激甘で大雑把な料理。でもこの甘味と酸味のごった煮が奏でるハーモニーはなんとも……」
「えへへ。食べ過ぎたら太るけど、やっぱりやめられないよねー」
「……二人とも、自分たちが遊びたかっただけでは?」
 生まれて初めて味わうクレープの強烈な甘さに衝撃を受けている和也と、それを微笑ましい顔で見ている澪にルリがつっこむ。
「とんでもない。これは護衛任務ですよ」
「ルリさんは楽しくないですか?」
「……別に……」
 ルリの返事はそっけなかったが、その顔には薄い羞恥の色があった。
 楽しくないわけではないが、それを認めるのは恥ずかしいのだろう。史上最年少の天才美少女艦長などと言われてはいるが、今のルリは本当に、ただの意地っ張りな少女だった。
 そのまま無言でクレープを味わっていた三人だが、不意に遠くからパトカーのサイレンが響き、戦場を駆け抜けてきた嗅覚が異常を訴えた。
「さっきからパトカーが多いな……何かあったのかな」
「もしかして、わたしたちを探してる?」
 懸念を口にした澪に、まさかいくらなんでも――――と言いかけた和也のコミュニケが鳴った。
「ナデシコから……マキビ中尉かな? 心配しすぎだって……」
 苦笑しつつ、和也はルリがカメラに映らないよう距離を取り、送受信ボタンを押す。
 途端、血相を変えたハーリーがウィンドウに大写しになって、うわ、と和也は軽く驚いた。
『コクドウ隊長! よかった、無事でしたか!』
「無事って……何かあったんですか?」
『緊急事態です! 艦長が、火星の後継者と思われる連中に拉致されたみたいです!』
「………………………………え?」



 −0:29:37

 和也たちがクレープの屋台に並んでいた頃、警官からの緊急連絡は警視庁のオペレーターからその課長、課長から部長へと伝わり、最終的には彼らに下された捜索礼と逆の経路で戻っていった。
「警視総監からのホットラインです! 艦長らしき人を発見したものの、怪しい男女によって連れ去られたそうです!」
「ファ――――――――!?」
 ヨコスカ基地に停泊するナデシコCのブリッジにて、ハーリーが切迫した声で告げた、恐れていた最悪の知らせにユリカが引き攣れた悲鳴を上げる。
 それも束の間、ぶんぶんと頭を振って思考を司令官のそれに切り替えたユリカは、ハーリーと、ナデシコC艦内へ向けて指令を飛ばす。
「直ちに基地司令部、並びに関係各省庁に連絡! 緊急事態です! トウキョウ都内で火星の後継者のテロリストが活動している可能性あり、直ちにホシノ・ルリ中佐救出のために部隊を動かす許可を!」
 ユリカの命令はたちまちヨコスカ基地を駆け巡り、十数分後には基地内にけたたましいサイレンが鳴り響く。
『デフコン2! デフコン2! トウキョウ都内で火星の後継者によるテロ発生の報あり! 基地の全部隊は直ちに出撃体勢に入れ! 繰り返す、出撃体勢に入れ!』
 緊急事態を報せるアナウンスが流れ、基地全体がにわかに慌しくなり始める。基地のゲートが封鎖され、まどろみから目覚めた防衛用の砲台が敵を求めて空を睨む。
「ミスマル総司令より連絡! ヨコスカ基地および、日本駐留の全宇宙軍部隊に出撃許可出ました!」
「迅速な決断に感謝します! ナデシコC、およびヨコスカ基地の全艦隊、出撃!」
 投錨していた艦隊の相転移エンジンに火が入れられ、鋼鉄の巨艦群が反重力フローターを唸らせて、その巨体を我先にと空中へ浮かび上がらせる。先を争うあまり管制官の指示も半ば無視され、あわや激突事故寸前の艦も続出するほどの急ぎようだった。
「ルリちゃん、絶対に助けてあげるからね……!」


 −0:19:37

 アサカ駐屯地――――日本軍と共に宇宙軍陸戦隊が駐屯するそこにも、凶報が舞い込んだ。

「宇宙軍総司令部より連絡! トウキョウ都内にて火星の後継者のテロが発生、ホシノ・ルリ中佐が拉致されたとの事です!」
「なんだと!?」
 その連絡は、宇宙軍JTU小隊長、レイ・オールウェイズ中佐と彼の部下たちの頭蓋を焼いた。ホシノルリ親衛隊――――彼女を敬愛し、崇拝し、陰ながら護る事を己に課した、本人非公認の集団に所属する彼らにとって、その報せは祖国の大統領が暗殺されたにも等しいものであり、下手人への強烈な敵意を惹起するに十分な威力を持っていた。
「全部隊、直ちに出撃だ! ホシノ中佐を救い出せ、彼女に手を出した犬にも劣る卑劣な輩を生かして返すな!」
「サー! イェッサー!」
「索敵接敵即殲滅!」
 数分後、駐屯地のゲートをぶち破るほどの勢いで、完全武装の陸戦隊を満載した装甲車とトラックの群れが、トウキョウ都内へ向け爆走していった。



 −0:11:29

 地球上空五百キロ、静止衛星軌道――――宇宙の闇を切り裂いて飛ぶ、数十隻の艦影があった。
 連合宇宙軍、月方面艦隊。月面基地に駐留し月および地球周辺宙域の防衛を主任務とする彼らは、本来の担当区域を離れ全速力で地球の重力圏へ飛び込もうとしていた。
「艦隊各艦、ステータスオールグリーン!」
「ディストーションフィールド最大出力! これより大気圏突入シークエンスに入ります!」
 月面第二艦隊旗艦ライラックのブリッジにて、オペレーターの報告によし、と年若い艦隊指令は頷いた。
 アララギ大佐――――木連軍出身の佐官であり、過去にナデシコと砲火を交わした経験のある人物であり――――『ホシノルリ親衛隊』の有力者でもある男は、隷下の全艦隊に向けよく通る声で指令を飛ばす。
「全艦、大気圏突入開始! 目標は日本、トウキョウ都上空! 降下後は直ちに戦闘態勢に移行、ホシノ中佐を救出し、敵部隊を根絶やしにしろ!」
 艦長たちが了解! と唱和すると同時に、艦隊が大気圏への突入を開始。大気との摩擦で百から三百メートル超の艦体が赤く赤熱する様は、彼らの闘志が燃え上がっているようでもあった。



 −0:07:10

 べしゃっ。
 ぽろりと和也の手からクレープが滑り落ち、アーケードのタイルにクリームがぶちまけられた。
 ハーリーが真剣な顔で告げた報告に、さーっ、と三人の顔から血の気が引く。ほんの遊び心が国家レベルのどえらい大騒動に発展したと知り、頭が真っ白になる。
「あ、あの、マキビ中尉。言いにくいですけど中佐なら――――」
『――――市民の皆様にお知らせします。非常事態宣言が発令されました。繰り返します。非常事態宣言が発令されました』
 和也の声にかぶさるように、周辺の街頭モニターやスピーカーから女性の合成音声で緊急放送が流れ出し、「えっ!?」と和也たちはそちらを向いた。
『火星の後継者と思われるテロリストの一団が、宇宙軍ホシノ・ルリ中佐を人質に都内を逃走中の模様です。周辺市民の皆様は警官、兵士の誘導に従い落ち着いて避難してください。なお犯人を見かけた方はくれぐれも近寄らず、警察に通報を――――』
 ルリの顔写真が街頭モニターに流れ、周辺の通行人の目が一斉に和也たちへ向く。
 次の瞬間、「きゃーっ!」と悲鳴が上がった。
「テロリストだ! 逃げろ!」
「警察を呼べ! 軍隊を呼べ!」
 蜘蛛の子を散らすように人々が逃げ出し始め、平和なアーケードが一瞬にしてテロでも起きたような騒ぎになる。
「ちょっ、ままま待ってーッ! 僕たちはテロリストでも怪しい者でもない!」
 和也の声をかき消すように、パトカーのサイレンが聞こえ始めた。音からして一台や二台ではなく、心臓が縮み上がる。
「和也ちゃん、パトカーが来た!」
「逃げろー!」
『コクドウ隊長!? どうしたんですか、応答してくださいコクドウ隊長! たいちょ――――――――!』
 ぶつっと通信を切って逃げ出す。これ以上話していたら警察に捕まって、最悪フャイヤークビの憂き目を見る事になる。
「中佐には悪いけど、取り返したって事にしてこのまま帰ります! 警察に捕まるのだけは避けたいのでご容赦を!」
「あ、はい……」
 ルリはまだユリカに会う心の準備ができていないと見え、返事には躊躇いの色が濃かった。
「僕たちも一緒に怒られてあげますから、今のうちにうまい言い訳の一つも考えておいて――――――!?」
 話しながら走っていた和也は、どすんと何か、というか誰かにぶつかった。反動で数歩後退し、尻餅をつくのは何とか回避する。
「ご、ごめんなさ……ひゃあっ!?」
 謝る間もなく問答無用で胸倉を掴み上げられる。ブクブクと腹肉の突き出た肥満体の暑苦しい男が、殺意すら閃く血走った目で、鼻息荒く和也を睨みつけてくる。
「てめえ、ボクのルリルリをどうするつもりだブー!」
「はっ? 僕のルリルリ……?」
 その時気が付いた。この男の着ているTシャツに、ディフォルメされたルリの顔がプリントされているのを。
 ズボンにも、はちまきにもルリの顔がプリントされている。腕にはルリの顔をかたどった腕時計。下着のパンツにまでルリの顔がバックプリントされているのを想像してしまい、ぞぞぞっと全身に鳥肌が立つ。
「ル、ルリルリは、自宅警備の唯一の癒しだブー。ルリルリがいたから今日まで生きて来れたブー! ルリルリはボクが守るブー!」
 ――き、気色悪いっ……!
 振りほどこうとするが、自宅警備員の力は思いのほか強かった。手荒な真似は避けたかったが、仕方なく柔で制圧しようとし――――た時、「あばばばばばば!?」と呻いた自宅警備員が身体を痙攣させてぶっ倒れた。
「……大丈夫ですか、コクドウ隊長?」
「中佐、どうも……だけど、なんでテーザー銃なんて持ってるんです?」
「一応、護身用にと思って……」
 さすがに自分の立場と価値は忘れていなかったらしいルリに、思わず和也はぷっと噴き出してしまった。
 するとルリも、つられて口元を緩めた気がした。
「か、和也ちゃん、あれ……!」
 それも束の間、澪が震える手で通りの向こう側を指差し――――同時にドドドドド、と地鳴りめいた音が響いてくる。
「艦長ー! 今助けるからなー!」
「ルリーッ! 今行くぞー!」
「こらぁー! ルリルリを放せー!」
「ルリちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
 バイクに乗ったサブロウタ、軍用輸送トラックに乗ったリョーコとライオンズシックル中隊、ミニバンに乗っているのはメグミとホウメイ・ガールズ。自転車で走ってくるのはヒカルとイズミ。二本の足で爆走してくる整備班の面々にネルガルSPと思しい黒塗りの車、恐ろしい事に警察のパトカーや軍の装甲車も見える。おまけにどういうわけか民間人にしか見えない男たちも複数混じっていた。
 見知った顔を含めた何十、いや何百もの人と車両が通りを埋め尽くすように突進してくる。それは和也たちの現実感を破壊する、1990年代ごろのアニメを髣髴とさせる光景だった。
「……え、えええ――――――――っ!?」
 思わず絶叫が迸り、次の瞬間和也とルリと澪は踵を返して逃げ出していた。
「何がどうなってるのこれーっ!? 妃都美ちゃんたちがごまかしてるんじゃなかったのー!?」
「そ、そうだ、妃都美! 奈々美! 美佳! みんなの足止めはどうなってる!?」
 澪の叫び声に仲間の存在を思い出した和也がコミュニケに呼びかけると、『無理ですー!』と悲鳴が返ってきた。
『もう手が付けられませーん! 逃げてくださいー!』
『こいつらもう誰もあたしたちの話なんて聞いてないわよ!』
『……トウキョウ中の監視システムが、和也さんたちを追っています……どうしようもありません』
 サブロウタのバイクにタンデムした妃都美と、リョーコとライオンズシックル中隊のトラックに便乗した奈々美と、メグミとホウメイ・ガールズの車に相乗りした美佳もあの集団の中にいるらしい。濁流の如きあの集団を止めるすべは、もはや人間にはない。
「ちっくしょ――――――――! みんなちょっと落ち着いてくれ!」
「コクドウ隊長、前からも……!」
 ルリの声にはっとする。
「テロリストーッ! 逮捕だー!」
「ルリルリを返せー!」
「やろうぶっころしてやるー!」
 前からもパトカーと軍の車両と一般車両が混在した車の群れ、群れ、群れ。互いに側面をぶつけ、擦り、車が傷付くのもお構いなしに向かってくる様は、もはや一個の軟体生物のようでさえあった。
「挟まれた! 挟まれたよ和也ちゃん!」
 澪が喚き、和也は「うー……!」と呻いたあとルリを右脇に抱え、澪を左肩に担ぐ。
「か、和也ちゃん!?」
「何を……?」
「二人とも、しっかり捕まってて!」
 驚く二人を抱えて、和也は前から迫る車両の群れに正面から突っ込んだ。ドライバーたちの怒りに満ちた目までがはっきり見えた刹那、和也は地面を蹴って跳躍。パトカーのボンネットの上に飛び乗る。「うわあ!」と驚いた警官の前で、和也はボンネットをへこませながらさらに飛んだ。
「ご! め! ん! な! さーい!」
 八艘跳びの要領で車から車へ、まるで波に逆らうサーファーの如く飛び移る。屋根やボンネットがへこみ、フロントガラスにひびが入り、この修理代請求されたらどうしようと思いつつ車の群れを越えた。
「す、凄い和也ちゃん。飛び越えたよ……」
「後ろから来た人たちは、前から来た車が邪魔で渋滞しちゃってますね。しばらくは追って来れないでしょう」
「お、おっしゃあ。このまま逃げ――――!?」
 思わずガッツポーズしかけた和也の前に、ギャアアアアッ! とブレーキの音も高くカーキ色の軽装甲高機動車が立ちはだかった。「ターゲット発見!」と運転手の声がし、ルーフに据えられた12・7ミリ機関銃がぐるりと旋回して和也たちを睨む。
「ちょ、ま、落ち着けー!」
 叫び、咄嗟に横の建物内へ逃げ込んだ和也たち目掛けて本気の機銃掃射が開始される。耳を弄する暴力的な音と共に50口径の機関銃弾が雨のように飛来し、カウンターが蜂の巣になり牛乳瓶が割れ跳んでいく。
「キャーッ!」
「いやーっ!」
「へんたいーッ!」
 赤いのれんをくぐるや否や悲鳴が上がった。裸の女性たちが木桶や洗面器を投げつけてくる中を「すいませんーっ!」と謝りながら走り抜け、窓から外に出ると澪に小突かれた。
「和也ちゃんのエッチスケッチマイベット! なんで銭湯の女湯に迷わず突っ込むのよ!」
「知らないよ! それより今は早く逃げないと……」
「……これ、逃げられますか……?」
 ルリの言葉に、え? と澪と和也は二人して空を仰ぐ。
 そして、先刻と一変した空を見て、信じられないとばかりに声を上げた。
「は、はああああっ!?」
「嘘ー!?」
 複数の雁行陣を敷き、相転移エンジンの重々しい駆動音を響かせて航行する軍艦の群れ。そこから雲霞の如く飛び立つ完全武装の機動兵器隊、そして低空飛行で地上を血眼になって探しているだろうヘリの大群。
 僅か数分の間に、トウキョウの空は鋼鉄の兵器群に埋め尽くされていた。
「母さん、もう過保護ってレベルじゃねーぞ!」
 ルリのためにこれほどの戦力を動員してしまうユリカの親バカぶりに全力でツッコミを入れつつ、無我夢中で走り続ける和也。
 その前が急に開けた。どうやら逃げているうち、トウキョウ湾岸まで来てしまったらしい。海に行く手を阻まれ、右に行くか左に行くかと逡巡していると、またぞろ車の音が迫ってきた。
「コクドウ隊長、右から装甲車部隊が……」
「左からもいっぱい来たーっ!?」
 前は海、右からは宇宙群陸戦隊の装甲車。左からはナデシコクルー警察民間人その他もろもろの集団。空にはひしめく軍艦と機動兵器。
 逃げ道が今度こそない。
「ああもう、二人とも、息を吸って止めてーっ!」
「…………」
「もういやーっ!」
 和也は二人を抱えたまま、トウキョウ湾に向けてダイヴ。
 盛大な水飛沫が上がり、三人の姿は海中に消えた。



 0:00:00

「ターゲットロスト! 見失いました!」
「ルリちゃん――――――――――――!」
 連れ去られたルリを見失い、ユリカは悲痛な悲鳴を上げた。
 ルリを拉致したのが火星の後継者、あるいはそれに連なるテロ集団であるなら、彼らはルリを生かして帰さないだろう。ユリカのように実験材料として扱うか、あるいは今までの報復心をありったけぶつけてから殺すかもしれない。
 最悪の結末がよぎり、ユリカは膝から崩れ落ち、ハーリーも「うあああああああ……」と泣き崩れた。騒がしかった通信回線が水を打ったように静まり返り、絶望的な空気が満ちる。
『――――……こ、こちら、ブレードリーダー……』
「――っ! カズヤくん!?」
 不意に聞こえてきた、苦しそうに荒い息をつく和也の声に、ユリカははっと呼びかける。
『……ほ、ホシノ中佐を確保……無事です……』
『ユリカさん? その……ご心配をおかけしました。私は大丈夫ですから……』
 和也の言葉と同時にウィンドウが開き、全身ずぶ濡れながら傷もないルリの姿が映し出される。
 次の瞬間、ナデシコCのブリッジと通信回線を割れんばかりの歓声が埋め尽くした。何千人、あるいは何万人もの人々が上げる喜びの声だった。
「ルリちゃんのバカバカバカ! 心配したんだからもう!」
「かんちょう――――! 無事でよかったですぅぅぅ、一時はどうなる事かと……」
 ユリカは涙目でウィンドウに顔を寄せ、ハーリーはべそをかきながら喜んでいた。そんな二人に、ルリはおずおずと言う。
『……そんなに心配しましたか、私の事』
「当たり前でしょ!? 『家族』なんだから! 今どこ!?」
『トウキョウ湾岸エリアに……座標を送ります』
「解ったすぐ行く! 待ってて!」



「あー、助かったあ……」
 トウキョウ湾に面した岸壁の上で、通信を切った和也はコンクリートの上に濡れた身体を横たえた。女の子とはいえ、人二人抱えて全力疾走の上に着衣遊泳までした和也は完全に疲労困憊だった。
「うええ、全身海水でベトベト……早く帰ってシャワー浴びたい……」
「僕は一刻も早く寝たい。でもその前にあれこれ事情聴取が……」
 ここまで騒ぎが大きくなったのだ。何の事情も聞かれないでは済まされないだろう。
「しかしまあ、よくこれだけ集まったもんだ……」
「軽く一個艦隊と、陸戦隊一個旅団くらいいるかなあ。それから警察に民間の人たちまで……」
 空を埋め尽くす大艦隊と、なりふり構わずルリを奪い返しに来た陸戦隊、そしてナデシコクルーと警察と、ルリのファンなのだろう大勢の民間人。地上のあれも空のこれも、全てたった一人の少女の危機に駆けつけたというのだから恐ろしい。
「みーんな中佐が危ないと聞いて、助けにやってきたんだもの。愛されてるね中佐は」
「…………」
 笑いかけた和也に、ルリは頭上の艦隊を仰ぐ。
 アキトは戻ってこないとユリカに拒絶され、何もかもなくしたみたいに思っていたが……なぜだろう。少しだけ、あのボロアパートに戻れたような気がした。
 ――ああそうか。
 思い出した。あの時あのボロアパートにいたのは、ルリとアキトとユリカだけではなかったのだ。
 三人でラーメン屋台を引けば、旧ナデシコクルーや仕事帰りのサラリーマンがラーメンを食べに来た。ボロアパートに戻れば、終電に乗り遅れたとか何とか理由をつけてナデシコクルーが集まり、なし崩し的に宴会のようになった。
 三人だけじゃなかった。もっと大勢の人があそこにいたから――――ルリは楽しかったのだ。それをいつの間にかすっかり忘れていた事が、今更のように恥ずかしくなった。
「……コクドウ隊長」
「はい?」
「ネルガルに協力してもらって、専用機を作っているそうですね」
「ええ」
「私も協力します……ソフトウェア関係なら得意ですから。他にも協力できる事があるなら、その……なんでも言ってください」
 和也と視線を合わせないまま、ルリは協力の申し出を口にした。
 心の整理が付いたわけじゃない。アキトが裁かれる事を受け入れる事も、まだできない。
 それでも――――ルリは差し出された手に少しだけ、触れた。
「か……感謝します、中佐!」
「ルリさん、ありがとう!」
 少し驚いた顔をしていた和也と澪は、言葉の意味を飲み込んで目を輝かせ、がしっとルリの両手を握ってきた。至近距離で手を握られ、思わずルリの心臓が跳ねる。
「……勝つためですから。あなたたちこそ、訓練の手を抜かないでください」
『草薙の剣』を分裂させ、和也たちに大怪我を負わせたけじめをつけたい――――そう言いたかったがまだできず、憎まれ口のような言葉になってしまった。
 それでも、心から嬉しそうに和也は笑う。
「心強い限りです。部隊を代表してお礼を言います。……えへへ」
 それが目的のための協力を得られた喜びなのか、それとももっと個人的な――――とルリが思った時、「あ……そうだ」と澪が言い辛そうに口を開く。
「今回の騒ぎって、誰の責任なんだろ? 艦隊を動かしたコストととか、壊れた車や建物の修繕費とか……」
 その言葉に、和也ははっ、とした。真相がばれたら一生を借金返済に費やすほどの賠償金が科されかねない。
「ほ、本当にテロリストが中佐を拉致して、それを僕が助けたって事で誤魔化すしかないかな……二人とも、口裏合わせておこうね。他のみんなとも……」
「それはいいですけれど、都内の監視カメラやコミュニケのログを見られたらすぐばれますよ」
「あ……」
「ユリ母さんにだけはホントの事情話そうね。怒られるだろうけど、騒ぎを大きくしたのはユリ母さんだし」
 それでもお給料減るかもだけど、と苦笑気味に言った澪に、「母さんのアホォォォォォォ……」と絶望的な声が漏れた。
 そんな和也たちを見て、ルリは少し呆れ、少し苦笑して、そして少しだけ――――目頭が熱くなった。



 その後、ナデシコCに戻ったルリと和也たちは事の真相をユリカに報告し、「バッカモーン!」とたっぷりお叱りを食らった一方、ルリの面持ちが朝より良くなっていた事についてはお礼を言われた。
 予断だが、この騒動は世間的には本当にテロリストが出現したという事で収まったものの、ユリカはその後始末で方々に頭を下げて回った。和也たちがそれを知ったのは数日後の事であり、申し訳なくなった和也たちはお詫びとしてケーキを贈呈する事になった。
 それからの時間を、和也たちはネルガルの施設での戦力強化に費やした。月臣、ゴート、ネルガルSSの面々に加え、リョーコやライオンズシックル中隊、ヒカルやイズミにサブロウタといったナデシコクルーも加わってみっちり戦闘訓練を行い、そのデータを元にウリバタケがハードウェア、ルリがソフトウェアを担当する形でアルストロメリアのカスタム機を構築していく。全員本業の合間を縫っての事ではあったが、誰もが来るべき次の戦いに備えて真剣に取り組んでいた。
 そして、統合軍からの辞令により、『草薙の剣』が地球を離れる形で訓練を一時終えたのは、それから二ヵ月後、2202年五月の事であった。
 行き先は木星だ。










あとがき

 ネルガルとの協力を巡るやりとりと、ルリとの交渉デートでした。

 前編はネルガルという反感のある相手と協力するのを内心渋る和也たちが、月臣やアカツキとのやり取りで納得するまでのお話です。アカツキの態度はあくまで本音で語り合いたかった、という事で。
 後編は逆に和也たちがルリに納得してもらうため、護衛という名目で遊びに誘うお話でした。ちなみに和也たちがクレープ食べてるのは、ハーリー君がミナトさんの胸に顔突っ込んだ所の近くです。
 いつまでも内省が続いてもつまらないので、最後ははっちゃけました(笑)。ぜひこち亀BGMを聞きながらご覧ください。

 ルリを聞き分けのない子供みたいに描くのは正直抵抗があったのですが、内心これでいいのかと思いつつずっと心血注いできた事を、諦めろと言われれば流石に無理なわけで。ルリだって人間的にまだまだ未熟な一面のあるキャラなわけですから、このくらいやっていいかなぁと。
 最後は自分が愛されているのを知って少し心を開きましたが、まだアキトの事が引っかかっていて素直になれない状態ですね。本当の『家族』になるにはあと一押しですか。

 しかし、完全に半年に一度程度の投稿ペースになってしまってますね。毎度ながら間が空いてしまい申し訳ありません。
 今回もまた諸事情あってこちらに手をつけられない時期があったので、実質三ヶ月くらいの執筆期間なのですが、この程度の分量なら一ヶ月に一度くらいのペースにしたいものです。

 次回、五年ぶりに故郷へ戻った和也たち、地球の兵として里帰りした和也たちを、故郷はどんな顔で迎えるのか。そして和也たちが知る、火星の後継者の大戦略とは。
 いよいよ物語は最終局面に入って行く予定なので、最後までお付き合いいただけると幸いです。それでは。










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代理人の感想

いやあ、面白かった!
お約束ではありましたが、げらげら笑いながら読んでましたよ。

ルリちゃんが聞き分けのない女の子なのは、まあ当然かなと。
むしろナデシコ
Aとその後のボロアパート以外まともな暮らしをしたことがないあの生育環境で
年相応の情緒が発達しているはずもなく。
精神年齢はある意味では一桁くらいなんじゃないでしょうか。

まあそれはそれとして、そう言うのを延々見せつけられる展開はやっぱりストレス溜まるので、

こういう流れにして貰えてありがたかったですね。
あのまま終わってたら代理人の胃に深刻なダメージが蓄積されてましたw

それでは次回もお待ちしております。


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