木星圏――――木星がその巨大な一つ目で見下ろす漆黒の宇宙空間を、一隻の戦艦が駆け抜けていく。
 白亜の機動戦艦、ナデシコC。その速度は巡航速度を大幅に超え、全速力と言っていいそれだ。木星圏に入ってからおよそ7時間以上、ナデシコCはこの速度を維持し続けていた。
『おいブリッジ聞こえるか!? こちら整備班! いい加減にそろそろ速度落としてくれねえか!? エンジンが悲鳴上げ始めてるぞ!』
 ブリッジにウリバタケ・セイヤが堪りかねたように連絡を入れてきたのは、まもなくカリスト近郊に到達しようという時だった。
 ウィンドウに映るウリバタケの背後、エンジンルームでは整備班の人たちがエンジンの周りで慌しく動き回っているのが見える。ついでに言えばブリッジでモニターしているエンジンのステータスも、いくつかの異常を示していた。
 本来であれば、全速力航行は原則として戦闘時などの緊急時のみ、2〜3時間程度と定められている。今のナデシコCはそれを大幅に超えた過負荷運転を続けているのだ。相転移エンジンへの負担が増すのは当然であり、それを宥めているウリバタケたちもいよいよ限界を感じ始めたのだろう。
 だがまだスピードは落とせない。そうまでして急がなければならないほどに、状況は逼迫しているのだ。
「あと30分……いえ、20分で到達します。それまでなんとか持たせてください」
 無茶振りを承知でホシノ・ルリ中佐はそう返す。『んな無茶な……』と言いかけたウリバタケだが、ルリの真剣な目を見ては言葉を引っ込めざるを得ない。
『……了解。あと30分だけなんとかするよ。ただその後すぐ戦闘に突入するのは勘弁してくれよな』
「ありがとうございます。善処します」
 軽く頭を下げたルリの前、望遠映像を映したウィンドウにはようやく目的地であるカリストの影が見えてきていた。
「やっと戻って来れた……和也ちゃん、みんな、今行くから……」
 ルリの右隣の席で、焦燥感の濃い声音で呟いたのは露草澪だ。統合軍の所属でありながら、彼女はまたぞろこの席に座る事になった。今頃もう統合軍に席はないかもしれないが、今は瑣末な問題だ。



 機動戦艦ナデシコ――贖罪の刻――
 第二十四話 塔が崩れる日 前編



 その知らせがヨコスカ基地で待機中だったルリたちの元へ届いたのは20時間ほど前、日本時間で真夜中の時だ。
 その時仮眠を取っていたルリは緊急事態を取らせる連絡で叩き起こされ、統合軍のJTU部隊――――つまりは『草薙の剣』がカリストで大規模な火星の後継者の拠点を発見し、その直後に攻撃を受けて消息不明となった事を知った。
 ルリたちが事を知った時には既に地球連合安保理の緊急会合が召集され、カリストへの派兵が決議されようとしており、統合軍もその時点でカリスト制圧のため第五艦隊に出撃命令を下達していた。その迅速さは今度こそ火星の後継者を壊滅させようという統合軍の本気を現していたが、安否不明の『草薙の剣』メンバーについては事実上見捨ててでもけりをつけるつもりである事も示していた。
 この状況でどう動くべきか、宇宙軍首脳部もナデシコ部隊も決めかねていた。すぐにでもカリストへと向かい、『草薙の剣』を助けようという点ではルリやユリカたちの考えは一致しており、出撃するのに否やはないのだが、事はそう簡単ではない。火星の後継者だけならともかく、カリスト行政区という木星の自治区が関わっている事が事態を複雑にしているのだ。
 まがりなりにも主権を持った自治区が向こうに回った以上、宇宙軍も安保決議を待たずには動けない。そんな状況でナデシコCが勝手に動いてカリスト警備隊と交戦にでもなれば、それは安保理を無視した越権行為だ。地球連合内での宇宙軍の立場が危うくなるばかりか、木星人に与える悪印象も計り知れない。
 そうなるとナデシコCも安保決議を待った上でなければ動けない。武力を扱う軍人としてこれは曲げられない事であり、ターミナルコロニー『タケル』から統合軍の目を盗んで、和也たちを助けてと通信してきた澪を酷く落胆させる事になった。
 派兵決議を待つ間に皆へ動員をかけ、夜明け頃になって全員が集まり、決議が通る頃にはルリたちの元へ知らせが来てから半日以上、『草薙の剣』が消息を絶ってから24時間近くが経過していた。
 ナデシコCは派兵決議が可決されると同時に出航し、宇宙に出る間も惜しんでユリカのナビゲートによる単独ボソンジャンプを行ったわけだが、向かった先はカリストではなく『タケル』だった。統合軍はこの期に及んで宇宙軍を出し抜きたいのかカリストの状況に関する詳しい情報を出し渋っていて、『草薙の剣』救出には情報を持つ澪を乗艦させた方がいいとのユリカの判断だ。澪の行為は情報漏洩に当たるが、どうせいずれは共有される情報なので誤魔化せる。
 ユリカはもう一度カリストまでボソンジャンプしてもいいと言ったが、それはユリカの負担を心配したルリによって止められ、『タケル』からカリストへは通常航行によって向かう事になった。エンジンが壊れるギリギリの全力航行によって、巡航速度なら半日の距離をおよそ7時間で踏破する強行軍を行い、そして今に至る。



 カリストが肉眼で見える距離になったところで、ナデシコCは木連の国軍艦隊とランデブーした。
「進路上に艦影確認。木連軍艦隊です」
「相対速度同期。合流するわよ」
 白鳥ユキナの声を受け、ハルカ・ミナトが全力運転を続けてきた相転移エンジンの出力を微速に落とし、ウリバタケ率いる整備班がエンジンのステータスチェックにかかる。目的地に辿り着いてようやく一息ついた形だ。
 無理をした甲斐あって、どうにか統合軍に先んじてカリストへ到達する事ができたまでは良かったが、問題はむしろこれからだった。
「木連艦隊旗艦『かんなづき』から通信。ウィンドウ開きます」
 マキビ・ハリ中尉が言い、ルリたちの前に大きくウィンドウが表示される。大柄で肩幅の広い堂々とした体躯の男――――現状の木連代表にして宇宙軍客員少将、秋山現八郎だ。
 ナデシコ側はブリッジの全員で規律し、敬礼。木星の大物を前にして、ハーリーや澪などは顔が青くなるほど緊張していた。
『楽にしてくれ。……よく来てくれたナデシコの諸君。君たちの来援を心強く思う』
 答礼を返した秋山はその精悍な相貌を緩めたが、今までより覇気がないとルリは思った。
 遠からず始まる戦闘の付随被害コラテラルダメージを誰より不安に思っているのは、恐らく彼だ。それを止める手立てがない無念や圧し掛かる責任の重さは、彼ほどの人をしても耐え難いということか。
「あー、早速っすが、情報のすりあわせしときましょう……カリストは、今どんな状況ですかね」
 そう訊いたのはタカスギ・サブロウタ少佐だ。秋山とはかつての艦長と副官の間柄だった彼だが、今は旧交を温めているような余裕はないのだ。
『あまり芳しくはないな。相変わらずこちらからの呼びかけに応答はない。テレビや電話なども全て遮断され、カリストの各コロニーがどういう状況なのか一切不明だ』
 秋山が視線を向けた先、同時にナデシコCの艦首が向いている先――――カリストの上空には、木連軍標準の紫色をした艦隊が浮かんでいるのが望遠映像で見える。
 カリスト行政区警備隊艦隊、ここから見える総数はおよそ50隻。その多くは無人艦だが、行政区一つが保有するには過剰すぎる戦力だ。艦首は全てこちらに向けられ、グラビティブラストの砲口がナデシコCと、木連軍艦隊を睨んでいる。まさに戦争も辞さないと言わんばかりの構えだ。
 それに数千キロの距離を置いて相対する木連軍艦隊は、総数およそ70隻。一応戦力で上回ってはいるが、地球連合に加盟する際に調印された条約によって、木連軍の無人艦隊は大半が廃棄されたため木連艦隊はその殆どが有人艦だ。秋山としては彼らを同胞との戦いで死なせる真似はしたくないのが本音だろう。
 加えて、警備隊の背後には火星の後継者艦隊が控えている。『草薙の剣』が送信し、澪から受け取った映像を分析する限り、艦艇だけで200近い大艦隊だ。あれが動き出せば木連軍艦隊はひとたまりもない。
『ガニメデやエウロパの警備隊を動員すれば頭数は増やせるが、旗幟鮮明でない他の行政区が信用できるか確証はない。それにあまり多くの戦力を動員して、木星全体が内戦に突入したような印象を民衆に与えたくはない……』
「ですけど、いつまでも睨み合いを続けてもいられませんよね。統合軍の制圧部隊はすぐそこですよ」
 苦しい顔で言う秋山に、ユリカ。
『解っている。……こちらからも統合軍の戦力と到達時間について聞きたい。情報が来ていなくてな』
「おいおい、主権国家である木連政府を蚊帳の外扱いかよ……」
 木連政府に対する統合軍の傲慢極まる態度に、サブロウタは絶句していた。
 自国内を戦場にしたくない木連政府を、統合軍も地球連合政府も邪魔と断じて無視を決め込むつもりらしい。
「……統合軍は派兵決議が通る前から準備を整えていたみたいで、第五艦隊がターミナルコロニー『タケル』から木星圏に進出したのは、ナデシコCが『タケル』を出航してまもなくでした。2〜3時間後には追いついてくると思います」
 統合軍第五艦隊は北アメリカ連合出身の部隊を中心に編成され、統合軍でも最大級となる300隻規模の艦隊だ。2年前には火星の後継者の反撃を許さないままターミナルコロニー『クシナダ』を迅速に奪還した実績がある。
 さらにこの艦隊には、カリスト諸都市を制圧するための陸戦戦力として北アメリカ連合海兵隊を中心に編成された、統合軍陸戦隊の四個旅団、計二万人規模の大軍を乗せた揚陸艦隊が随伴している。確かに火星の後継者を圧倒できるだろう錚々たる戦力だが、これほどの大軍がカリストに怒鳴り込んで行けば何が起きるか。
 市街戦の苛烈さは先のニューヨークでのそれを超え、ヴァルハラ主街区は徹底的に破壊される。無関係な民間人の付随被害も甚大なものになるだろう。そうなればカリストの住民はもちろん、他の衛星に住む木星人も『地球軍が国土を蹂躙し同胞を虐殺した』と受け取るのは目に見えている。
 そうなれば最悪、他の行政区が敵に回ったり、秋山を追放するクーデターが起きる事も考えられる。……その先に待っているのは、次の戦争だ。
 木星人の国民感情というものを、統合軍も地球連合政府も軽視しているとしか思えない。この唯我独尊な態度が反発を招いているとなぜ彼らは気付かないのか、ルリやユリカも歯噛みする思いだ。
『ともあれ、この板挟みの状況を打開し、出血を抑えうるのはナデシコCだけだ。改めて君たちの来援をありがたく思う』
 秋山としても、希望が見えたという心境なのだろう。それはいいのだが、「こちらからもお願いしたい事があります」とユリカが口を開く。
「火星の後継者も、この状況でナデシコCが出てくる事は予想して、サイバー攻撃への警戒を強化していると思います。ハッキングに気付かれれば、敵艦隊が攻撃を仕掛けてくる可能性があるので、その時はナデシコCの防衛をお願いします」
『承知した。任せてくれ』
「それともう一つ……私たちはシステム掌握による火星の後継者の無力化と平行して、『草薙の剣』救出のためにカリストへ突入部隊を送り込む予定ですが、はっきり言って人手が足りません。陸戦隊と無人兵器をお貸しいただきたいと思います」
 ナデシコクルーが精鋭揃いと言っても、彼らの得意分野に限ればだ。敵地に乗り込み人を救出するようなスキルを持つ人材はいない。むしろそれこそ特殊部隊である『草薙の剣』の役目だ。
 他の宇宙軍JTUから部隊を出してもらう事は出撃を急いだために断念し、代わりにヨコスカ基地の陸戦隊一個中隊を連れてきたが、能力的には不安が残る。木連軍の力を借りなければ『草薙の剣』を助けるのは無理だ。
 しかしこの要請には、秋山も難しい顔をした。
『……やぶさかではないが、敵の只中に突っ込む事になる。こんな事を言いたくはないが……そこまでの危険を冒して助けるべき部隊なのか?』
「な……!」
 和也たちの救出を渋るような秋山の言葉に澪は腰を浮かせたが、それを「待って待って」とミナトが手で制した。
 秋山の言葉は冷酷とも言えるが、兵の命を預かる立場の者としては間違っていない。無事かも定かでない数人を救うために数百数千の兵を危険に晒すのだから、それだけの意味があるのか値踏みしたくなるのは当然だ。
「私たちも悩んだんですけど、どうしても気になる事があるんですよね……」
 ユリカの言う気になる事とは、『草薙の剣』が送信した映像に記録されていた、火星の後継者が建造したのだろう未知の巨大戦艦の事だ。
 ただ巨大なだけの戦艦なら大した脅威ではないが、和也は撃墜される直前、地球と木星が火星の後継者に支配されるかどうかの瀬戸際だと叫んでいた。そしてカリストが戦場になる事さえ厭わないとばかりに統合軍を呼び寄せた。彼らなら絶対に、カリストが戦場になる事態は避けようとするはずなのに、だ。
 そうまでさせるほどにあの戦艦が危険な存在だというのなら、『草薙の剣』を救出して情報を回収する意味はある。
「個人的な感情を抜きにしても十分な理由だと思います。どうかお願いします」
 和也たちを救出する意義を説き、ユリカは頭を下げた。あとは秋山が納得してくれるかどうかだ。
「ど、どうかお願いします!」
「私からもお願いします」
 ユリカに続いて澪も腰を90度曲げて頭を下げ、さらにルリも席を立って頭を下げる。
 ――私は……まだ、あの人たちに謝罪していない……
 アキトの事、澪とその父の事、盾身の事、そして彼ら自身の事――――ルリは『草薙の剣』を何度も傷つけた。それらの事に関して、ルリは一度謝りたいと思いつつも、まだできないでいた。
 このまま彼らを死なせてしまっては、その機会が永遠に失われてしまう。それだけは、だめだ。
「オレからもこの通りです」
「ぼ、僕もです!」
 サブロウタやハーリー、そしてミナトにユキナも起立して頭を下げる。ブリッジクルー総出で拝み倒され、さすがの秋山もたじろいだように一歩引いた。
『わ、解った。解ったから頭を上げてくれ。……まったく、彼らも立派にナデシコの一員になったものだ』
 地球に送り出した甲斐があったか、と秋山は一転して破顔する。
 傷付いた子供たちが地球で立派に成長し、仲間を得て帰ってきた――――秋山としては報われた思いなのだろう。
 ならば余計に、生きて助け出さねばならない。
『承知した! 待機中の陸戦隊旅団を預けよう。好きに使ってくれ』
「感謝します! ルリちゃん、早速敵システムへの進入開始。探知と防衛のシステムが止まったらすぐに突入!」
「了解。システムプロテクトの解除開始。ハーリー君も手伝って。タカスギ少佐は陸戦隊と出撃準備。ミナトさんは揚陸艇アジサイの操縦を。ツユクサ上等兵はエステバリス隊とアジサイのオペレートをお願いします」
 ルリの指示が矢継ぎ早に飛び、了解! とハーリー、サブロウタ、ミナト、澪が唱和して各々の持ち場に走る。
「あたしもアジサイで副操縦士とレーダーやるわね!」
「ユキナちゃん、気を付けてね!」
「まっかせて! 絶対に和也ちゃんたちを連れて帰ってくるからね!」
 ユキナも澪に親指を立てて笑いかけ、ミナトに続いてブリッジを出る。
 絶対に助け出す。その意志の元、かつて敵として戦った者同士が一丸となって動き出そうとしていた。



 はーっ、はーっ、という自分の疲れた呼吸音が、ヘルメットの内側で鬱陶しく響く。
『あとほんの10メートルと少しだ……足を止めるなよ』
『は、はい……』
『了解……』
 誰も彼もが疲労困憊した声で、それでもお互いを励ましながら、着膨れた宇宙服姿の一団が急な斜面を登攀していく。
 石と氷に覆われた足元はスパイク付きのブーツでも転びそうなほどに硬く、そして滑り、体全体がとにかく重い。体調不良でなければ比喩でもなく、身につけた宇宙服と背負った荷物、そして全身に括りつけられた300キロ超の重りのせいだ。
 このカリストの重力は0・12Gだから、300キロも重りをつければ1G環境で30キロ程度の荷物や装備を身に付けたのと同じ条件になる、という理屈だったが、正直大間違いだと思う。積層式の宇宙服を着た上に重りをゴテゴテつけているものだから手足を動かすのも億劫で、体力の消耗が想像以上に激しい。
「いよっ……と……」
 黒道和也はようやく斜面の天辺に手をかけ、身体を引き上げる。
 一気に視界が開け、目に入ったのは眼下に広がる、巨大なすり鉢型のクレーター。その淵に立った和也が周囲を見渡すと、カリストの不毛な石と氷ばかりの荒野に同じようなクレーターがいくつも口を開けているのが見えた。
 カリストは太陽系にある星の中でもとりわけ地殻活動が低調で、その地表面は数十億年の間殆ど変化が無いと言われている。同じ木星の衛星でも第一衛星イオが常に噴火と地震を引き起こし、植民も断念せざるを得なかったほど地殻活動が活発なのとは対照的だ。
 山も谷も生まれ得ないカリストの地表面に起伏を生んでいるのが、隕石の衝突によってできたクレーターだ。中でも今和也たちがいるここは複数のクレーターが密集した連鎖クレーターと呼ばれる地帯を形成していた。
 核爆弾数百発に匹敵する威力の隕石衝突が穿ったクレーターは、一つ一つが数百メートル級の断崖絶壁のようにそそり立っている。それが複数個連なればちょっとした山脈だ。和也たちはその一つを宇宙服姿で登攀し、ようやく天辺に辿り着いたところだった。
「ほら、手を出して……」
『恩に着ます、隊長』
 和也の差し出した手を掴み、クレーターの淵に這い上がったのは盾崎盾身だ。
 続けて後続の田村奈々美、真矢妃都美、神目美佳、影守美雪、山口烈火と全員を引き上げ、七人全員が上がったところでようやく一息ついた。
『はあ……、ようやく全行程の半分といったところでしょうか』
『まだ半分かよ……早く帰って寝たいぜ』
『ああ、体が痒いったらないわ。宇宙服着てたら背中もかけないもの……』
『……そもそも、この宇宙服は長躯行軍など想定していないのでは……』
『誰ですの、こんな無駄にきつい訓練プランを考えたバカは?』
 宇宙服越しにも会話できるよう繋がりっぱなしになった通信機からは、皆が弾んだ呼吸と共に漏らす愚痴も聞こえてきた。
 すると、盾身がこつんとヘルメットを接触させ、和也だけに耳打ちしてきた。
「隊長、皆疲弊して士気が低下しております。何か言ってやるべきでしょう」
「ん……そうだね」
 和也は頷き、宇宙服の物入れから一枚の紙切れを取り出した。それに目を通した後、「みんな、傾注!」と声を上げる。
「ここはフィンブルヴェトル連鎖クレーターって言うんだけど、どういう意味だか知ってる人いる?」
 唐突な和也の問いに手を上げる者が一人。奈々美だ。
『北欧神話の『大いなる冬』でしょ。太陽が狼の化け物フェンリルに食べられて、三年間ずっと冬が続くって奴よね』
「はい『豪鬼』正解。三年間終わらない冬が続いた後、世界の終わりの大戦争『ラグナロク』が始まる……今の僕たちにぴったりじゃないか」
 先日火星方面に向かわせた無人艦から発した、100年前の月独立派への攻撃に対する謝罪と賠償を地球に求めるメッセージは間違いなく火星、そして地球へ届いたはずなのだが、それに対する返答はメッセージ艦への攻撃だった。木星の世論は一気に開戦へと傾いており、この2195年中に戦争が始まるのは間違いない情勢だ。
「戦争が始まれば、僕たち特殊作戦軍は地球に潜入しての工作活動に従事する可能性がある。この行軍訓練はそれを想定したものだよ」
『有人次元跳躍の実用化はまだ目処も立っていないと聞いておりますけれど?』
 余計な口を差し挟んだ美雪に「……それは僕たちが気にする事じゃない」と手を上げて制する。
 実際美雪の言う通り、有人次元跳躍が実用化できないまま勇み足で開戦した事で、木連軍は無人兵器だけを送り込んで戦う事になるのだが、それはさておき。
「このフィンブルヴェトル連鎖クレーター地帯で数百キロを徒歩で移動し、限られた水と食糧、そして酸素が尽きる前に決められた地点を爆破するなどのノルマをこなした上で帰還する。おまけにただでさえ動きにくい宇宙服に大量の重りを付けた上、わざわざクレーターを渡り歩くしんどいルート、なんでこんな事やらせるのかと言えば……」
『地球の1G環境下で装備を身に付け、山岳地帯で活動する事を想定した演習だからだ』
「…………」
 結論を盾身に先回りされて、和也は苦笑いを浮かべたままで固まる事になった。
「とにかく! 卑劣な地球に僕たちが鉄槌を下すためには、こういう地球での単独行動を想定した訓練は避けて通れない! みんなそれを自覚して頑張ろう!」
 半分ヤケクソ気味に叫んだ和也に、皆が「おおー!」と拳を振り上げ答えてくれた。何人かは笑いをかみ殺していたが、とにかく空気は少しよくなったようだ。
 と、そこへまたこつん、とヘルメットが接触してきた。
「いい演説ね。偉い偉い」
 話しかけてきたのは、和也たちと同じ宇宙服姿の、しかし和也たちより少し年上の、薄い黄色がかった髪の少女だ。ヘルメット越しながらも至近距離で接触され、少しドキッとしながらも和也は返す。
「迅雷先輩……からかうのはよしてください。そもそもこれくれたの先輩でしょ」
 和也が持っていた紙切れ、つまり先ほどの演説のネタを書いたカンペは彼女――――暗号名、迅雷が和也へ、演習途中で皆の士気を維持する助けになればと渡してくれた物だ。
 単に地球へのヘイトスピーチを口にした程度では、疲れの溜まった皆の士気を維持するのも、隊長として格好をつけるのも難しい。その点で彼女の気遣いはありがたいのだが、和也もまた彼女の事が少し心配だった。
「私は小話のネタをあげただけよ。みんなが演説で元気になるのは、あなたを信頼してるから。……私も、『草薙の剣』に入りたかったわね」
「…………」
 最期にぽつりと呟かれた迅雷の言葉は、冗談ではなくかなり切実な響きがあった。
 無理もないか、と思う。なにせ彼女の隊長は――――
『迅雷! なに立ち止まってんだ!?』
 突然通信から聞こえてきた男の声に、迅雷がびくっと宇宙服越しにも解るほど身体を竦ませる。
『す、すみません殲鬼たいちょ――――う、ゲホッ、ゲホッ!』
「先輩!」
 答えようとした迅雷が急に身を折って苦しげに咳き込み始め、それを見た『草薙の剣』の面々が慌てて駆け寄る。
 だが一方で、迅雷が所属する小隊――――『天の群雲』の面々は、苦しむ彼女を遠巻きに見ているだけで手を貸そうとしない。その扱いが小隊内での彼女の立場を物語っていた。
 迅雷は肺機能に慢性的な疾患を抱えていて、うまく酸素を取り込む事ができない。すると血中の酸素濃度が低下し、今のように激しい咳を伴う喘息に似た発作を起こすのだ。研究員のヤマサキ・イサオが言うには、インプラントを定着させるため大量に投与された薬物の悪影響が残っているらしい。
 訓練の成績は悪くなく、優秀な兵士になり得る人物なのだが、しばしば酸素吸入が必要になるため部隊全体の足を引っ張る事の多い人でもあった。兵士としては致命的とも言える問題を抱えた彼女が部隊に留まっているのは、生体兵器は生存率が低く、普通の兵隊と違って簡単に補充できない上、存在そのものが木連の暗部に関わる機密である彼女をおいそれとファイアークビにもできない事情があった。
 とはいえヤマサキ曰く、以前の生体兵器もこんな感じの疾患を抱えた者はいたようで、いずれ治せると言っていた。少々おかしな人だが信用できる人だとヤマサキを評価している和也たちは、迅雷の今後についてはそれほど心配していない。
 だが、身体にハンデがあるから仕方ないと手心を加えてくれるような温情など、教官――――北辰と六人集の連中に期待するのは愚かだ。彼女が足を引っ張った結果、連帯責任として小隊全員へ罰が与えられる事もある。同じ小隊の仲間、特に隊長の殲鬼はそれが我慢ならないらしく、迅雷を露骨なまでに厄介者扱いし、事あるごとに罵倒し手を上げていた。
 その殲鬼がつかつかと歩み寄ってきて、またぞろ迅雷に暴力を振るうのではないかと思った和也たちは、咄嗟に前に出て彼女を庇う。
「殲鬼先輩、迅雷先輩は……」
 止めようとした和也を無言で押し退け、殲鬼は迅雷の前に立った。その手がゆっくりと動き、殴られると思った迅雷が身を硬くする。……と、
『大丈夫か? まだ先は長いからな。しっかりしろよ』
「……え?」
 思わず顔を見合わせる和也たち。
 殲鬼が、迅雷を助け起こして身体の埃を払ってやってまでいる。いつも、この役立たずめ、だの、死ぬなら独りで死ね、と迅雷を罵倒してばかりの殲鬼とは思えない行動だ。
 思えば、三日前にこの二小隊合同サバイバル演習が始まってから、妙に殲鬼が優しい気がする。これは何事だと思った和也は、殲鬼に聞かれないよう通信回線を盾身たちだけに繋ぎ直してから訊いた。
「……殲鬼先輩、いまさら隊長として部下への気遣いや士気高揚に目覚めたのかな……?」
『だとしたら良い事でありますが……』
『ちょっと想像できないわね、それ』
『気味悪いとしか思えねえんだが……』
『表面の取り繕い方を身に着けたのでは……?』
『……上辺だけ取り繕っても、中身が変わるかは別問題ではないかと……』
『何を企んでいらっしゃるのかしら』
 皆が皆、疑いの目で殲鬼を見ている。ここまで寄ってたかって信用されていないと、さすがに殲鬼が可哀想だと和也は思わないでもなかった。
 その時、迅雷の体がぐらりと傾いだ。
「……え、先輩?」
『迅雷?』
 和也と殲鬼が同時に声を上げる。先ほどまで苦しそうに咳き込みながらも二本の足で気丈に立っていた迅雷が「かはっ」と妙な息を吐いたと思ったら、そのまま彼女の体が前のめりに倒れ――――そのままクレーターの中へと、転げ落ちていったのだ。
「――――っ! 迅雷先輩っ!?」
 突然の事で一瞬反応が遅れたが、すぐに正気を取り戻して迅雷を追い、クレーターを滑り降りる。
 迅雷は完全に意識がないのか、自力で止まる事もできないままクレーターの中心近くまで転がり落ちてようやく止まった。起き上がりもしない彼女の姿にぞわぞわとした不安感を覚えながら、和也はその身体を抱き起こして――――はっと息を呑んだ。
 宇宙服のヘルメットに包まれた迅雷の顔は、信じられないほど青白く変色していたのだ。目は空ろで焦点が合っておらず、通信機から聞こえる呼吸音は今にも途絶えそうなほど細く弱い。一目で解るほどの危険な状態だった。
「何がどうなってる、宇宙服の故障か!?」
 和也は宇宙服の生命維持機能が止まったのを最初に疑ったが、迅雷のバックパックを確かめた妃都美はぶんぶんと首を横に振った。
『生命維持装置は正常に作動しています! 酸素もまだ残っているのに……!』
『隊長、とにかく酸素供給を増やしましょう! いつもの彼女なら、それで回復するはず!』
『お、おい! ここで酸素を余計に使ったら演習が……!』
『ちょいと先輩よ、んなこと言ってる場合じゃねえだろうが』
 酸素を惜しんで和也を止めようとした『天の群雲』の先輩の前に、烈火が立ちはだかる。彼の言う通り酸素ボンベはギリギリしか持っていないから、ここでの浪費は演習の続行を難しくしてしまう。
 演習中止で罰を受けるのは和也も、きっと『草薙の剣』の皆も怖い。だが迅雷の命と天秤にかけられるような事ではない。迅雷を助けて罰を受けるなら喜んで受けてやるつもりで酸素供給のダイヤルを全開にする。
 だが、そんな和也の覚悟さえ無駄だと言うかのように、迅雷は回復する様子を見せなかった。
「そんな、どうして……!」
 狼狽する。まさかボンベが空なのかと残量を確認すると、バックパックに二本装備されたボンベの片方が空になり、もう一方に切り替わったばかり。残量はほぼ100パーセントだ。
 だったら、なぜ彼女は回復しないのか。外傷ならともかく、いつもの酸素吸入で直らないような急病への対処など和也も誰も学んでいない。
『……隊長、もうどうにもなりません……演習を中止して救助を呼ぶべきです……』
 美佳の言葉に『草薙の剣』はほぼ全員が頷く。美雪は自己主張していないが、この状況で沈黙という事は異論無しと判断していい。問題はむしろ『天の群雲』のほうだ。
「殲鬼先輩、『天の群雲』もよろしいですね? 連帯責任なら一緒に受けてあげますからご容赦を」
『ああ解った。やってくれや』
 殲鬼が素直に――普段の彼からすれば奇妙なほどだったが――了承し、他の『天の群雲』メンバーも躊躇いがちながら頷いてくれたので、和也は緊急用発信機のスイッチを押す。演習を続けられないレベルの緊急事態が起きたという合図であり、すぐに救助艇が駆けつけるはずだ。
 だがそれまで、迅雷が持つのかどうか。何かしようにも宇宙服を着ていたのでは人工呼吸も不可能で、苦し紛れに心臓マッサージを試みても宇宙服の胸部に付けられた生命維持装置が邪魔でろくな救命処置もできず、歯噛みしながら待つしかない。
『おい、すぐに助けが来るからな、しっかりしろよ』
 迅雷の横にしゃがみこんだ殲鬼が、そう呼びかける。聞こえているかも定かでないが、もうこれ以外にできる事もないかと、和也も迅雷の横に膝をついた。
「…………っ!」
 その時偶然見えたものに、和也の呼吸が一瞬止まる。
 気のせいなんかじゃない。
 横目に見た殲鬼の顔が、醜悪な笑みの形に歪むのを、和也ははっきりと目にしたのだ。



「誤魔化してばかりいないで、本当の事を言え!」
 数日後、彼らにとっての家である戦艦の中に、和也たちの怒鳴り声が響いていた。
「ご、誤魔化すも何も、本当の事だよ……彼女は長期の演習による負担によって、前から抱えていた疾患が増悪して……」
「本当の事を言ってるなら、僕の目を見て喋れ!」
 和也は医務室を担当する軍医に掴みかかり、正直に答えなければ殺すと言わんばかりの剣幕で彼を問い詰める。
 迅雷は、助からなかった。
 救助を呼んでから救助艇が来るまでは数時間を要し、ようやく収容された時にはもう彼女は呼吸を止めていたのだ。
 和也たちはこの件で罰が科される事は免れたものの、納得できない思いが残った。迅雷は確かに疾患を抱え、そのせいで隊の皆から足手まといの扱いを受けながらも、今まではどうにか皆について来ていた。ヤマサキたち研究チームの治療によって発作の頻度も少なくなりつつあったのだ。
「いままでだって数日がかりのきつい訓練はあっただろ? なのになんだって今回に限っていきなり急な増悪なんかするんだよ!?」
「担当官が迅雷先輩の演習参加を容認したのも、今の彼女なら問題ないと判断したから……その判断材料になったのは、あなたたちの診断結果もあるはずですよ」
 烈火と妃都美が左右から迫る。担当官――――甲院薫が判断を誤るとは、和也たちには思えないのだ。何よりこうして軍医を問い詰めていると――――
「なんでと言われても、ぐ、偶然だとしか……」
 和也たちから目を逸らし、もごもごと返事をする軍医の態度は聞けば聞くほど不信感が強くなるばかりだ。心に疚しいところがあって嘘を吐いていると子供でも解る。
「あのね先生。迅雷先輩は倒れる直前、片方の酸素ボンベが空になってた。あの宇宙服は宇宙でもボンベを交換できるよう、片方が空になると自動的にもう片方のボンベを開く。……解るでしょ」
「…………」
「あのボンベは中身がほぼ満タンだった。つまり二本目の中身を吸った途端に迅雷先輩は倒れたんだ。……あのボンベの中身、本当に酸素だったんだろうね!?」
 ボンベの中に酸素以外の何か――――それこそ炭酸ガスの類でも入っていたなら、迅雷が突然倒れたつじつまが合うのだ。他の人間ならともかく、以前から肺に疾患を抱えた迅雷なら疾患の増悪という事で誤魔化せる。
 事故に見せかけた謀殺――――誰がそんな事をしたのか、和也たちの間では既に結論は出ている。
「殲鬼先輩だよね……? あの人が足手まといの迅雷先輩を事故に見せかけて殺した。そしてその事を黙っているよう先生に言った、そうじゃないのか!?」
 いくら事故に見せかけても、まともな検死をすればすぐにバレる。だからこそ、目の前の軍医が片棒を担がされていると思った。
 その予想は正しかったようだが……
「…………っ、いい加減にしてくれ! 子供が証拠もないのに思い込みだけで……私は中尉相当官だ。君たちを抗命罪で懲罰房行きにする事だってできるんだぞ!」
「グッ……!」
 上官権限を持ち出され、和也は歯噛みする。
 もともと軍医というのは階級が高めにされている。大勢の怪我人が出るような緊急時に上官が治療の優先順位を乱すような事態を防ぐための処置だ。対する和也たちは特殊部隊候補とはいえ一介の訓練兵。力関係は明らかだ。
 ついでに言えば、今の和也たちは十歳前後の子供でしかない。そしてそんな子供でも、納得せざるを得ない事があった。
 迅雷が事故死ではなく、殲鬼に殺された事を証明する証拠はない。少しづつ改善が見られたにしろ迅雷が疾患を抱えていたのは確かで、ボンベが切り替わった直後に倒れたのもただの偶然かもしれない。こんな状況でいくら疑わしいと叫んだところで、子供の戯言でしかないのだ。
 だからこそ軍医の証言が欲しかったのだ。口止めされているとは思っていたが、ここまで頑なに協力を拒否されるとは思っていなかった。
 結局説得する手立ても思いつかず、和也たちは生え変わって間もない永久歯を折りそうなほど歯噛みして、引き下がるしかなかった。
「……すまない」
 去り際にポツリと聞こえた軍医の囁き声に、和也たちは軍医を殺してやりたくなった。
 すまないと思うなら、なぜ勇気を出して本当の事を言ってくれないんだ。



「隊長!」
 憤懣やるかたない状況で医務室から廊下に出ると、ちょうど盾身を初めとする他の四人が歩いて来ていた。
「『身盾』……こっちはダメだった。そっちは?」
 盾身たちは格納庫で、酸素ボンベの点検を行った整備兵を問い詰めていたはずだ。迅雷の酸素ボンベに細工がされていたなら、担当の整備兵が何も知らないはずはない。
 しかし盾身は首を横に振る。
「こちらも同じであります……問い詰めても何も異常はなかったの一点張りでありました」
「……あの声は何かに怯えている声です……脅しでもかけられているようですね……」
「絶対なんか隠してる感じなんだけど、『教官に言うぞ』とまで言われたら……ね」
 引き下がるしかなかったという美佳と奈々美の言葉に、和也は予想が正しかった事を確信したが、とても喜べる状況ではなかった。
「野郎……殲鬼先輩め、全部先回りして口を塞いでるのか……」
 どんな弱みを握っているのか、殲鬼は相当に硬く彼らの口を塞いでいるらしかった。あるいはかなり前から、この時のために仕込んでいたのかもしれない。
「隊長、まだ諦めるには早計でしょう。整備班の整備記録を見れば何か怪しい点があるやも知れません。あるいは担当官なら、我々の告発に耳を傾けてくれる事も――――」
「……ちょっとよろしいかしら、皆さん?」
 盾身の言葉を遮って美雪が口を開き、全員が美雪を見る。
「物的証拠はない、証人もいない、ただ状況が疑わしいというだけで担当官に告発すると? それで信じてもらえると、本気で言ってらっしゃるのかしら?」
 大甘ですわよ、と冷徹に言い放った美雪に、和也たちは凍りついた。
「ましてや、わたくしたちがこの件を告発などすれば、殲鬼先輩はわたくしたちからの攻撃と受け取るでしょう。となれば間違いなく報復があるでしょうね。次は『剣心』隊長か、あるいは他の誰かが、迅雷先輩のようになるかもしれませんわね」
「それは……そうだけど、じゃあどうしろと!?」
「どうするもこうするも、わたくしたちが何かされたわけではないのですから、放っておけばよろしいでしょう」
 あまりに冷酷、そして非情な美雪の主張に、和也たちは言葉もなかった。
 確かに証拠は何もないし、殲鬼の報復は怖い。だが迅雷は和也たちにとっても大事な先輩だった。よりにもよって自分の隊長の手にかかって殺されるなんて、見て見ぬ振りをしていられるほど軽い先輩ではなかった。
 しかしその時、「よう、ここにいたかあ」と軽薄な男の声がし、和也たちは思わずびくっと震えた。
「殲鬼……先輩……」
「迅雷の事は残念だった……不幸な“事故”だったな。でもお前らのようないい後輩に看取られて逝ったんだ。悔いはないだろうさ」
 芝居がかった動作で、下手くそな役者のような棒読みで、殲鬼は和也たちへ語りかける。
 迅雷が死んだのは“事故”なのだと。
「だからなお前ら。軍医の先生も、整備班の人たちも、あの人たちなりに最善を尽くした。だからあまり責めてやるな。ああいう人たちは大切にしてやらねえと、整備にも影響が出ちまう。……次はお前らが、“事故”に遭っちまうかも知れねえ」
 ――この男は……!
 その言葉に、和也は全身を虫が這い回るようなぞわぞわとした恐怖心に襲われ――――同時に腹の内が焼けるような怒りを覚えた。
 美雪の言う通り、殲鬼は和也たちへの報復を示唆している。これ以上余計な事をするなら次はお前らが死ぬぞ、と。
 こんなやり方、許せるわけがない。
 しかし抗う術がなく、拳を握って沈黙するしかない和也の前で、殲鬼はおもむろに「いい子だ」と言い放ち、傍の自販機から熱いお茶を購入する。
「俺はお前らが大好きだ。そら、俺様から可愛い後輩へのおごりだ。よく味わってくれや」
 言って、殲鬼は和也の頭の上で、お茶の缶を傾けた。



 焼けるように熱い液体が顔の上で爆ぜ、和也はたまらず身体を撥ねさせた。
「熱っ! ああっつっ……て、ここは……」
 ぶるぶると顔を振って熱い液体――匂いと味からして、ごく薄いコンソメスープのようだ――を振り払い、周囲をキョロキョロと見渡す。……床も壁も全て衝撃吸収素材で覆われ、天井にはカメラがぶら下がった、虜囚の自殺を許さない独房。
 何でこんな所に……と一瞬思った途端、全身にズキッと痛みが走り、一気に意識が覚醒する。
 ――ああそうだ。僕、火星の後継者に捕まったんだっけ……
 あの時――――カリスト警備隊の施設から逃げる途上、和也たちの乗る工作艇は烈火の放ったミサイルに撃墜され、そのままビルへと突っ込んだ。
 後ろにいた奈々美と美佳と妃都美は、腕を骨折するなどの怪我をしながらもどうにか無事だったが、操縦席に座っていた和也は衝撃で変形した操縦室のフレームに足を挟まれ、逃げられなかったのだ。
 ――みんなは無事に逃げられたかな。
 このままでは全員捕まると思った和也は、自分を置いて逃げるよう皆に命じた。その判断は間違いなく正しかったと思う。なにせ火星の後継者に捕えられた和也は、捕虜としての扱いなど知った事かと言わんばかりに盛大な“尋問”を受けたのだ。
 ――尋問だったらせめて何か質問しろ……何も聞かずに嗤いながら人をサッカーボールみたいに蹴りやがって。
 殴る蹴るの暴行を数時間受け続け、全身が痣だらけで酷く痛むが、指を切断したり耳を削いだりするような拷問を受けなかったあたり、まだ味方に引き入れるのを諦めていないらしかった。
 暴行から解放された和也は、両手首と両足首を電子ロック式の重たい拘束具で拘束されて独房にぶち込まれ、そのまま食事も手当てもろくにないまま放置された。これもまた、空腹と孤独で精神を責める拷問だろう。時計もないから時間も解らないが、丸一日以上は経ったろうか……と思ったところで、ようやくさっきスープをぶっかけられた事を思い出した。
 顔を上げる。そこには先刻懐かしい夢の中で見た、あの頃より七年の歳月を経て変わらない、むしろ醜悪さを増した爬虫類顔が、ニタニタ笑いを浮かべて和也を見下ろしていた。
「よお、お目覚めか『剣心』」
「……まったく、殲鬼先輩が出てくる悪夢を見て、目が覚めたらやっぱり殲鬼先輩が目の前にいるだなんて、こんな理不尽な事もないね……」
 身をよじって上体を起こし、殲鬼を睨み返す。殲鬼はこれといった武器も持たずに和也の傍に立ち、独房の戸も開けっ放しという無用心な姿だが、後ろ手に拘束された今の和也では抵抗も逃走もできない。
「あれから丸一日だ。そろそろ腹が空いたと思って、飯を持ってきてやったぜ。よく味わって食えよ」
 余裕綽々の態度で、殲鬼は手にした皿を和也の前に置く。金属のプレートではなく、白い皿に金属の丸い蓋――――クロッシュを被せたそれは、一見高級レストランのメインディッシュか何かに見える。
 無論、中身がそんな気の効いた物でないのは想像がつく。
「……ミートパイですかね」
「ご明察」
 殲鬼がクロッシュを取ると、中からは湯気の昇る焼きたてのミートパイが顔を出した。香ばしい匂いに食欲が刺激され、丸一日飲まず食わずだった腹が空腹を訴えるが、実に殲鬼らしいメニューだと思った。
「タイタス・アンドロニカスか……昔から好きだったものね」
 殲鬼が訓練時代から愛読していた、シェイクスピアの復讐劇。古代ローマの将軍タイタスは、自分の愛娘ラヴィニアを陵辱したカイアロンとディミトリアスの兄弟を切り殺し、その骨を挽いた粉を血で捏ね、肉と脳味噌を包んでパイを拵え、それを首謀者である二人の母親タマラに食わせる。
 殲鬼はそのシーンがいたくお気に入りのようで、地球を征服した暁には同じ事を地球人にしてやろうとよく話していたものだ。
 つまりこのミートパイの肉は、逃げたはずの妃都美、奈々美、そして美佳の肉かもしれない――――と殲鬼は言いたいのだろうが、和也は犬のようにそのパイに顔を突っ込んで、かぶりついた。
「おいおい、お前の仲間の肉かも知れねえんだぜ?」
「捕虜の身で食事の機会は逃せませんから。それに、みんなが捕まってたら確実に薄い本展開でしょう」
 以前澪に連れられていった同人誌即売会で見た、敵の虜囚になった女騎士が主人公である男の前で敵に辱められるマンガを思い出し、皆が捕らえられているなら絶対にあんな事をしてくるに違いない――――と和也は思ったのだが、殲鬼は「薄い本? 何だそりゃ」と首をかしげた。
 この男は今日までの五年間、地球の文化に触れる気もなかったらしい。つくづく和解の余地がないなと思った。
「悲鳴を聞かせるなり目の前で拷問にかけるなりするか、皿の上に指を乗せてくるとかそういう展開ですよ。先輩のやりそうな事は心得てる。……あんたが自分の部下を罠に嵌めて殺すくらい、卑劣で自分勝手な奴だって事もね」
 眠っていた間に見た夢の内容を思い出して、和也は顔を上げて殲鬼を睨む。
 正直、あまり思い出したくなかった記憶だ。慕っていたお姉さん的な存在の迅雷を殺され、その仇を討つ事もできず、頭からお茶をかけられる屈辱的行為を受けても耐えるしか出来なかったのだから。
 だが今は違う。殲鬼と和也は合い争う敵同士だ。もう何を恐れる理由もない。
「気絶してる間、迅雷先輩の夢を見てたよ。……彼女を殺したのはあんただろ、先輩」
「迅雷? ………………ああ、あの役立たずの女か」
 殲鬼が迅雷の名を聞いてから記憶を掘り返すまで、数秒ほど間があった。
 本気で忘れていたらしいその態度に、記憶の奥に封じていた怒りがふつふつと和也の胸を焼く。
「よくもあんな事ができたもんだよね。彼女を罠に嵌めて殺して、軍医の先生や整備兵の人たちを脅して口止めして……あんた、それでも部下の命を預かる隊長か?」
 迅雷に対する個人的な感情だけではない。
 敵と定めた者を大勢殺してきた和也だ。いまさら人命尊重を振りかざす気はないが、隊長とは時として部下に死ねと命令する事もあり得る立場だ。だからこそ相応の振る舞いと、部下を守る努力が求められるのだと甲院から教わった。
 その教えに唾を吐くように、殲鬼は利己的な動機で迅雷を殺した。その身勝手さが許せないのだ。
「はっ、何を言い出すかと思えばそんな事か? 俺様たちは生体兵器だ、人を捨ててお国のために戦う兵器だぜ? 仲間の事を思うなら、不良品の兵器が仲間を殺す前に処分するべきだろ」
 彼女は少しづつ快方に向かっていた。もう少し長い目で見てやれなかったのか――――他に言いたい事は山ほどあったはずだが、迅雷を殺した事など歯牙にもかけていない殲鬼の態度に、その全てが無意味だと和也は悟った。
 守るべき仲間を痛痒もなく殺すこの男の考えは、和也には完全に理解の埒外だ。
 同じ教官の下で、同じ釜の飯を食い、同じ教育を受けてきたはずなのに、なぜこの男はこうも異質に育った。
「殲鬼先輩……なんであんたはそこまで人の道を外れた? 甲院は……担当官は僕やあんたたちにそんな事を教えたか?」
「あのなあ、俺様だって結構担当官たちには感謝してるんだぜ? 肥溜めみてえなヘリオポリス13番街から拾い上げてくれたんだからよ」
 ヘリオポリス13番街――――ガニメデのコロニー都市の一つ、ヘリオポリスコロニーの一角だが、あそこには本来12番街までしかない。
 13番街とは、11番街と12番街に跨る一帯を指す俗称であり、戦前は木星でも特に貧困層が多く居住する一角。つまりはスラム街だった。
 大戦後、明らかに問題のある筋の人を除き、多くの人が移民として地球へ旅立ったために人口が激減し、区画整理と治安の改善が進みつつあるが……戦前のそこは割に合わない労働で日銭を稼ぎ生きている貧困層、職にあぶれた浮浪者、そして凶状持ちの犯罪者などが集まる、堅気の人を寄せ付けない場所だったと聞いている。
「俺様は生まれも育ちも13番街でな。お袋は売春宿で日銭を稼ぐ娼婦で、親父は多分その客だろ。知らねえけどな」
 殲鬼が物心ついて最初に母から教わったのは、人のサイフを盗み出すやり方だった。それからの数年間、同年代の子供が幼稚園や学校に通う代わりに犯罪を重ねて日銭を稼ぐのが、殲鬼の幼少期だった。
「お前が軍の施設に放り込まれたのが五歳くらいだろ? 俺様なんかその頃はサイフを奪い、ヤクを売り、サツに追っかけまわされてドブの底を這い回る日々だ。そこまでして稼いだ金はお袋が酒やヤクに変えちまうし、今思い出しても糞みてえな毎日だったぜ」  母親に命じられるがままに働いていた殲鬼だったが、その生活も長くは続かなかった。客から性病を伝染うつされた母親が店から追い出され、以前から酒やら違法薬物やらに手を出していた事も重なりあっという間に死んだせいだ。
 母親が死に、犯罪を命じていた存在はいなくなったものの生活は変わらなかった。どのみち犯罪を重ねる以外の生き方など、殲鬼は何も知らなかったのだ。
 しばらくの後、殲鬼は13番街の一部を縄張りにしていたギャング団に目をつけられた。彼らの縄張りと知らずに違法薬物を売買していた事で怒りを買ったらしく、半殺しにされた殲鬼は必死に頭を下げてその一員にしてもらった。以後はギャング団の使い走りとして、同様のグループとの抗争に明け暮れる日々を送った。
「幸いな事に、俺様には才能があった。抗争でぶっ殺した数が増えれば増えるほど評価が上がって、何人か部下もできた。それが北辰教官に隊長として抜擢される下地になったんだろうな」
 ギャング団の中で一定の地位を築いた殲鬼だったが、やがて抗争の中で撃たれ、部下や仲間にも見捨てられ、路上に置き去られた殲鬼は生死の境を彷徨った。本当なら文字通り腐るほど転がっているスラムの死体に仲間入りしていただろうが、悪運はまだ尽きていなかったようで、殲鬼は通りがかった男に保護された。
 その男は甲院の下で生体兵器の被験者を集めていた兵士だった。いなくなっても誰も騒がないスラムの子供は生体兵器の被験者とするに都合がいいため、調達という名目の拉致は定期的に行われていたのだ。
「インプラントを定着させるまでは死にそうだったし、軍隊生活も楽じゃなかったが、臭い飯とも汚い寝床ともおさらばできた。それに恩義を感じないほど俺様も恩知らずじゃねえさ。拾って育ててくれた担当官、そして木星のためにこの命を捧げてやる所存だぜ」
「なるほどね……納得したよ」
 聞き終えた和也は、そう言って重く息を吐いた。
「解ってくれたか? どうよ、俺様って忠義の人だるぉう?」
「人格が捻じ曲がるわけだなって納得したんだよ」
 得意げな顔になった殲鬼は、続く和也の言葉で表情を凍らせた。
 母親に望まれず生まれ、まともな愛情を注がれぬままスラムで犯罪を繰り返しながら育ち、最期は軍の非公式部隊に流れ着いて兵器の道を歩まされる――――殲鬼の生い立ちは、まるで大戦前の木星が抱えていた暗部全てを一身に受けたようだ。
 生まれがどうあれ、しかるべき機関の元でまともな衣食住環境と教育さえ与えられれば更生の余地はあったはず。しかし戦前の木星は軍備強化に多くのリソースがつぎ込まれ、スラムに居住する貧困層の救済などは放置されていた。そんな木星の歪な社会構造こそが、殲鬼という怪物を産んだ根源だ。
「同情するよ先輩。あんたは可哀想な人だ……生まれた時代が違ったら、あんたもここまで歪みはしなかったのかもしれないのにね」
 和也の言い草に殲鬼は頬をひくつかせたが、哀れまれて逆上するような醜態は晒せないと思ったのか抑え気味に口を開いた。
「……なるほど。そこまで嫌われてるなら仕方ねえな」
 言って、殲鬼はやおら片足を上げると和也の頭を思いっきり踏みつけてきた。「うぶっ!」と食べかけのミートパイに顔を突っ込んだ和也を見下ろし、ポケットから取り出したのは小型の無針注射器だ。
「仕方ねえから無理矢理仲間にしてやるぜ。気持ちよくなるクスリと後催眠暗示で徹底的に脳味噌の中身を変えてやる。せいぜい楽しませてくれよな」
 殲鬼が短気を起こし、和也はまずいと思った。
 薬物に耐える訓練も受けてはいるが、継続的に薬漬けにされればいずれ廃人にされる。必死にもがくが殲鬼の強化された筋力は万力のように和也の頭を押さえ、放さない。
 最悪の結末が頭をよぎり、死を予感したその時――――電流が走ったように、ある人の顔が頭に浮かんだ。
「――――っ!」
 次の瞬間には身体が動いていた。下半身を一杯に曲げ、力の限り手近な壁を蹴飛ばす。「うおっと!?」と殲鬼が驚き、ガリッと和也の頭皮を引っ掻いて殲鬼の靴底が離れた。その隙に床を這いずって独房の隅に逃れ、少しでも距離を取る。
「チッ、元気だな……なんだってそこまで必死になれるんだか」
「さあ、なんでだろうね……」
 正直和也も少し困惑気味だった。どうしてこんな時に、あの人の顔が浮かぶのやら。
 だが次の瞬間には、思わず笑ってしまった。
 死ぬかもしれないと思った時、会いたいと切実に思う相手なんて決まっている。そんな相手が自分に存在していると、こんな状況になってようやく気付いたのだからお笑いだ。
「まだ死ねないんだよ……まだやるべき事が残ってるんだ。あんたのような外道には、永遠に解んないだろうさ!」
「このクソガキが……!」
 苛立った殲鬼が再び大股に歩み寄ってくる。
 和也も身を硬くしたその時、突然がしゃん、と視界が暗転した。
 ――照明が落ちた? これって…… 
「おやおや、こいつはお出ましかね? お早いこって」
 和也と同じ事を考えたらしい殲鬼のコミュニケが鳴り、暗闇の中にウィンドウが浮かぶ。その中にぼんやりと見えるのは非常灯に照らされた美雪の顔だ。
『殲鬼隊長。警備隊施設、およびヴァルハラ主街区の監視システムがダウン。システムが制御不能になりましたわ』
 和也の側を一瞥しただけで何の反応も示さず、美雪は淡々と告げる。それはつまり、ナデシコCによってここのシステムが掌握されつつあるという事だ。
 ――来てくれたのか……
 光明が見え、思わず拳を握るが、すぐにおかしいと気付いた。
「りょーかい。予定通りお客さんをお迎えするぞ。博士たちにもそう伝えな」
「了解ですわ。『天の群雲』も配置に付かせますわ」
 もう王手をかけられたも同然の状況であるはずなのに、殲鬼も美雪も奇妙なほどに落ち着いていた。
「仕事が入っちまった。クスリをやるのはお預けだが……せっかくだ、実況中継で見とけ」
 和也に背を向け、独房を出て行く殲鬼と入れ替わりに、和也の眼前にウィンドウが開く。
「当てにしてるお仲間が、宇宙の藻屑になる決定的瞬間だ。せいぜい楽しめやウェーッヒャッハハハハハハハハ!」
 哄笑を上げて殲鬼が独房を出て行き、あとには和也だけが残される。
 目の前のウィンドウには、ヴァルハラコロニーに向けて降下しつつある木連国軍の艦隊が映っていた。



「現在、システム掌握率72パーセント。プロテクト解除順調に進行中」
「警備隊艦隊の火器管制システム、および港湾管制システムをロック。敵艦隊に動きありません」
「輸送艦隊より揚陸艇発艦! 揚陸部隊および護衛の機動兵器隊、ヴァルハラコロニーへ向け降下開始! アジサイとエステバリス隊も続いてください!」
「順調みたいだね」
 ルリとハーリー、澪の報告を聞き、ユリカは口元に手を当てた。
 どうにか敵に気付かれる事なくシステムに侵入したルリは、警備隊艦隊の武器を使用不能にし、港湾機能も奪って火星の後継者艦隊をドック内に閉じ込めた。ゲートを破壊して強引に出てくる気配も無く、中の艦隊も徐々にだが支配下に置かれつつある。
 安全が確保された事を受け、ユリカは陸戦隊に降下を命じた。兵器を全てロックした今、たとえ小火器による抵抗があったとしても制圧は容易い。
 そこへ『草薙の剣』を検索していた澪が、ガタッと腰を浮かせて叫ぶ。
「見つけました! 警備隊施設地下の監視カメラ映像に、和也ちゃ……ブレードリーダーです! 生きてます!」
 ――生きてた……!
「ただちにアジサイのミナトさんと陸戦隊に、警備隊施設を押さえるよう連絡してください。……ツユクサ上等兵、他の『草薙の剣』メンバーは?」
「見当たりません! 施設内の映像にはヒット無しです……」
「ならむしろ朗報だよ。捕まってないって事だから」
 すぐに合流してくるよ、とユリカは澪に笑いかける。
 ブリッジの空気が早々に弛緩していたが、無理はなかった。懸念だった『草薙の剣』の無事も判明し、敵のシステムは七割以上掌握して武器兵器も殆どロックされた。今まで二度の火星の後継者決起の際は、この時点で大勢は決していたのだ。
 あとは『草薙の剣』を救出し、甲院たちを捕えれば全てが終わる。そう思った。
「プロテクト解除率80パーセントを突破しました。もうすぐ……あっ!?」
 その時、安心の笑みを見せていたハーリーがにわかに緊張した。「どうしたの、ハーリー君」とルリは顔を向ける。
「あ、いえ、新たなプロテクトの展開を確認。解除率が一時的に下がります……最期の悪あがきですよ。こんな事したって……」
 今更どうなるわけじゃない――――とハーリーが言いかけた、その時だった。
 突然けたたましく警告音が鳴り響き、ルリとハーリーのウィンドウボールに無数の赤い警告ウィンドウが開く。ただならぬ事態に、弛緩していたブリッジの空気が一瞬にして緊張する。
「何!? どうしたのルリちゃん!?」
「これは……オモイカネに外部から多数の不正アクセスを検知! アクセス元はカリスト、敵からの逆ハッキングです!」
「およそ30種以上のウィルスプログラムによる攻撃を確認! 侵入ルートを切断してバイパスに切り替え……」
「ハーリー君、それはだめ! 今ルートを切断したらシステムを奪還されます! システムプロテクトを展開して対処、対ウィルスエージェントも全て投入して!」
「だ、大丈夫なんですか? まさかナデシコCが逆に乗っ取られるなんて事は……」
 ルリとハーリーの切迫した様子に、澪がうろたえる。ナデシコCの独壇場であるはずだったサイバー戦で反撃を受け、防戦に回るなど今までになかった事だ。
「一つ一つの攻撃は大した強度じゃありませんから、十分対処は可能です。ですがこの数……一度に数十人は同時にハッキングを仕掛けてきています。プロテクト解除作業は一時中断せざるを……」
 口惜しげに言ったルリの声を遮って、「ああっ!?」とハーリーが叫ぶ。
「敵システム内に、新たなプロテクトの展開を確認! 侵入ルートが遮断されていきます!」
「火器管制システムに繋がる侵入ルート維持を最優先! 攻撃はこちらで対処するから、持ち堪えて!」
「だめです! 今までより複雑な乱数のプロテクトで解除追いつきません! ルートの維持不能、システムが奪い返されます!」
 揺るがぬ勝利へのカウントダウンと思っていたシステム掌握率のゲージが、あろう事か後退していく。それを見た澪は青ざめ、ユリカは唇を噛んで叫んだ。
「――っ! 澪ちゃん、木連艦隊と陸戦隊に警告して!」


「第一から第三防衛班によるイサオ式システム防壁の展開率75パーセント! 敵侵入ルートの遮断順調なり!」
「第一から第五攻撃班はナデシコCへの攻撃を続行! 魔女は防戦に回っています!」
「火器管制、港湾管制、レーダー監視の各システム、回復! まもなく制御可能となります!」
 火星の後継者巨大戦艦、『神在月』艦内に据えられた一室に、オペレーターたちの熱のこもった声が響いていた。
 彼らの眼前には兵器、レーダー、港湾、生命維持などシステムの状況を現すウィンドウがいくつも表示され、先ほどまでナデシコCに掌握された事を示す赤が大部分だったそれが、正常な青に塗り潰されていく。二度に亘ってナデシコCに煮え湯を飲まされてきた彼らにとっては、喝采を上げたくなる光景だ。
「よくやってくれた、ヤマサキ博士」
 静かに告げたのは、今の火星の後継者首班、甲院薫だ。彼もまた内心では相当高揚しているはずだったが、口調はいつもの抑揚がない感じだ。
 そんな甲院から賞賛の言葉を受けた白衣姿の男――――ヤマサキ・イサオもまた、「いやいや」と謙遜気味に首を横に振った。
「賞賛は彼らにこそ与えられるべきでしょう。便宜上イサオ式とかなんとか呼んでますが、あれらのプログラムを組んだのは彼らですからな」
 甲院とヤマサキが見下ろす先、広く薄暗い部屋の中には百近い座席とコンソールが据えられ、IFSのナノマシンパターンが放つ淡い光が『彼ら』の姿を浮かび上がらせていた。
 頭半分をすっぽり覆い隠す大柄なヘルメット型の機械をかぶり、一心不乱にコンソールへ向かう一団――――火星の後継者サイバー部隊、その数80人。甲院が『神在月』と併せ、ナデシコCへの対抗手段として用意した切り札の一つだ。そのどこか機械的な雰囲気を持つ、威容とも言える集団もまたヤマサキの『研究成果』であり、和也たちの後輩と呼べる存在でもある。
「対サイバー戦型生体兵器。『ブースト』型の生体兵器で使った補助脳の技術と、北辰が連れてきたIFS強化体質の子……ラピスでしたかね。あの子のデータを組み合わせて作ったヘッドセットを、IFSの応用で脳神経に直接接続する事で、彼女たちと同じ強力なサイバー戦能力を発揮できます。まさに我らが精鋭部隊」
 ヤマサキは、かつてユリカを使ってボソンジャンプを制御して見せた時のように自慢げに語って見せたが、今回もまたそれだけの能力を即席で付与する代償は安くなかった。ネットワークの中でナデシコCと熾烈なサイバー戦を展開する彼らは、皆一様にヘッドセットの中の目が空ろに濁り、半開きになった口からは涎を垂らしている。その姿はまるで生きた屍だ。
 ナノマシンで脳神経と補助脳を無理矢理接続した事により、脳の一部に異常が出ている事は早くに解っていた。しかし要求される『性能』は十全に発揮できている以上、そこは大した問題とはならない。
 そして彼らは全員、こうなるリスクを説明され、理解した上で志願した者たちだ。その献身に敬意を払い、存分に活躍させてやる事こそが彼らへの礼儀だ――――というのが甲院やヤマサキの考えであり、それをよしとするのが火星の後継者という組織だった。
「まあ所詮劣化コピー。本家本元の電子の妖精とは比べるべくもありません。ナデシコCをこちらから逆にどうこう、というのは難しいですがね……」
「十分だ。システム掌握さえ封殺できれば、ナデシコCもただの戦艦に過ぎん」
 戦いようはいくらでもある、と断じ、甲院は右手を軽く振り上げる。
「警備隊艦隊、ならびにカリスト防衛システムの各砲台、攻撃開始」



 木連軍の輸送艦隊から陸戦隊第一陣を乗せた揚陸艇群は、護衛の機動兵器部隊と共にカリストの地表へと降下した。
 同時にナデシコCからも、艦載揚陸艇アジサイが降下を開始。操縦は当然のようにミナトが受け持ち、副操縦席にはレーダーや通信係としてユキナが乗り込んでいた。
「ヴァルハラコロニーまで、残り10キロ! 敵の迎撃無し!」
「オッケー! このまま一気に行くわよ!」
 ユキナの声を受け、ミナトはフットペダルをさらに踏み込む。
 ヴァルハラコロニーへ向け飛行する彼らの頭上には警備隊の艦隊が浮かんでいたが、それを脅威と見る者は誰一人いない。警備隊艦隊はナデシコCのハッキングを受けて沈黙したと知らせを受けた以上、攻撃される事はありえないと皆が信じて疑っていなかった。
 ミナトも同じだ。敵地を飛行する際はレーダー探知と攻撃を避けて低空飛行するのがセオリーであるのに、それさえ忘れて悠々と高高度を飛行し、護衛するサブロウタたちエステバリス隊もそれを咎めない。それほどに誰も彼もがナデシコCの力に絶対の信頼を置いていたのだ。
『ナデシコCより揚陸部隊各位! 攻撃来ます、回避してください!』
「え、澪ちゃん!?」
「なに、どういう事!?」
 だからこそ悲鳴じみた澪の声が飛び込んできた時、ユキナはただ驚き、ミナトもまた手より先に口が動いた。
 瞬間、アジサイの隣を飛んでいた揚陸艇が下方からのレーザーに貫かれ、爆散。衝撃波がアジサイをも揺さぶり「きゃああ……!」とユキナが悲鳴を上げる。
『17番揚陸艇、墜落! 攻撃された、どこからだ!?』
『下だ! 地表から対空レーザー!』
『見て! ヴァルハラコロニーが……!』
 オープン回線がたちまち揚陸艇操縦士たちの怒鳴り声で飽和する。
 前方、ヴァルハラコロニーのコロニードームを取り囲むように無数の防塁が城壁のように立ち上がりつつあった。さらに周辺の地面が突然開き、中からレーザー、レールガン、ミサイルなどの砲台が顔を出す。ミナトたちが見ている前で、ヴァルハラコロニーは無数の兵器に取り囲まれた要塞へと変貌しつつあった。
「な、なにあれ、キョアック要塞!?」
「カリストの本土防衛システム! 地球軍が木星まで攻めてきた時の備えだよ!」
 ゲキガンガーの敵要塞を連想したミナトに、ユキナが答える。
 木星の主要都市たるガリレオ衛星の各コロニー都市は、地球軍が攻めてきた時の備えとしてハリネズミのように武装している。無論それは戦前戦中の話で、戦争が終わった後で必要なくなったそれら防衛システムは全て撤去されたはずだった。
「撤去は嘘だったのは解るけど……問題はそれが動いてるって事! 敵のシステムは掌握したんじゃなかったの!?」
『ナデシコCが敵の逆ハッキングを受けて、システムが奪い返されたの! 今対策を検討してる!』
「逆ハッキング!? 検討中って、なに悠長な事言ってるのよ!」
 ユキナは焦った声で、思わず澪を責めるような事を言ってしまったが、それも仕方ない事だ。容赦ない地上からの砲撃を受け、周囲の揚陸艇が次々に火を噴き、地上へと墜落していく。中にはパニック状態で回避機動をした結果、他の揚陸艇に激突して爆散する者までいる。それら一隻一隻には100人近い陸戦隊が乗っているのだ。
 ミナトとユキナ、そして90人の宇宙軍陸戦隊を乗せたアジサイにも攻撃が向けられ、直撃しかけたレーザーがディストーションフィールドに弾かれてハレーションのように激しく瞬く。いずれフィールドを突き破られ、撃墜されるのは時間の問題だ。しかし突入しようにも、コロニーの周辺は無数の砲台に囲まれ近付く事もできない。
『とにかく地上の砲台を少しでも減らせ! それと艦隊に制圧攻撃の要請だ! 艦砲射撃なら……』
『……無理よ、上を見て』
 地上の砲台へ応射しつつ叫んだサブロウタにそう言ったのは、『マジ』が入った声音のマキ・イズミだ。
 それを聞いて、『あーっ!』とアマノ・ヒカルが声を上げた。
『木連の艦隊も戦ってる! 警備隊が動き出しちゃってるよ!』
 上空では、制御を取り戻したのだろう警備隊艦隊が、木連軍艦隊との間で激しい砲火を交わしていた。悪くした事に、先制攻撃を受けたのか黒煙を噴いているのは陸戦隊の後続を準備していた輸送艦隊だ。
『後続部隊がやられたのか!? 俺たちはどうすればいい!』
『作戦は瓦解した! 撤退するんだ!』
『撤退ってどこに逃げるんだよ!? 上も下も敵だらけだ!』
『ここまで来て逃げられるか! 突入するんだ!』
『だ、誰か! 指示をくれぇ!』
 前は砲台に阻まれ、後ろは敵艦隊に押さえられている。進むも引くもままならない状況の中で動揺とパニックが広がり、地表を右往左往するしかできない揚陸艇群を砲火が叩き落していく。
 そして、そこへ止めを刺そうとするかのように、アジサイのレーダーに絶望的な光景が映った。
「ヴァルハラコロニーより接近する、多数の機影を確認! 虫型兵器です! 数およそ300!」
「うわあ、まずさの二乗倍……」
『俺たちがやる! ……だが、守りきれるか解らねえぞこりゃ!』
 もはやサブロウタでさえ、楽観的な見通しを口にできない状況。
 全滅――――その二文字がミナトやユキナの脳裏をよぎった。



<エステバリス隊、虫型兵器との交戦開始>
<木連軍揚陸艇、7番、16番大破>
<高原中隊、全滅>
<陸戦隊の状況、まな板の上の鯉状態>
 ナデシコCのブリッジに、危機的状況を報せる戦況報告のウィンドウが空間を埋め尽くす勢いで開く。
「だめです提督、みんな撃墜されちゃう! なんとかして助けないと……!」
 澪が血相を変えてユリカへ叫ぶ。
 望遠映像に目を移せば、ヴァルハラコロニー周辺の砲台から放たれる砲撃を前に、散り散りになって逃げ回る揚陸艇が一機、また一機と撃ち落されていく。そこへ迫る虫型兵器の群れをサブロウタたちエステバリス隊と、木連軍の機動兵器隊が必死に食い止めているが、突破されるのは時間の問題だ。
「解ってるけど、こっちも手一杯で……」
 ミナトたち降下部隊を助けたいのはやまやまだが、ナデシコCの目の前では木連軍と警備隊の艦隊同士が派手に砲撃の応酬をしている。木連軍も先制攻撃で痛手をを受け、助ける余裕はありそうにない。かといってナデシコC一隻でミナトたちの元へ向かっても、警備隊艦隊から集中攻撃を受けてあの世行きだ。
「ルリちゃん、ハッキングの状況は!?」
「芳しくありません……新たに展開した敵のプロテクトが予想以上に複雑で、解除に手間取っています。それに敵の逆ハッキングが強力で、放置していたらシステムに進入されかねません。そちらへの対処にもリソースを割かざるを得ない状況です」
 火星の後継者のサイバー戦能力は予想以上だった。答えるルリの声はどうしても苦しげになり、額から大粒の汗が流れるのを止められない。
 このままではシステム掌握できたとしても、その頃には全てが終わっている。降下部隊は全滅し、ミナトやユキナも助からない。木連軍もナデシコCも全滅し、後から来る統合軍と火星の後継者との全面衝突でカリストが壊滅しているだろう。
 直後、耳障りな警報音が鳴り響き、ハーリーが切迫した声で叫ぶ。
「ミサイル接近警報アラート! 10時方向から対艦ミサイル4発! その後ろから発射母機の敵虫型兵器5機!」
「右に回避しつつ、こっちも対空ミサイル発射!」
 ユリカの指示に応じ、ハーリーがナデシコCを右旋回させつつミサイルを発射。数秒後、撃墜し損ねた一発がフィールドに当たり、爆発の衝撃波がナデシコCを大きく揺らした。
「ミサイル、さらに4時方向から2発! 発射母機は6時方向に回り込んできます! ああもう、僕もハッキングに参加したいのに……!」
 ナデシコCを懸命に繰りながら、ハーリーは忌々しげに呟く。
 このチマチマした攻撃は、ナデシコCの撃沈を目的としていない。回避や迎撃を強いる事で、ナデシコCのリソースをハッキングに集中させないための攻撃だ。
 実際、ハーリーが躁艦のためハッキングから離れざるを得なくなり、効率はさらに低下した。ナデシコC対策としては有効だと認めざるを得ない。
 ――詰めが甘かった……!
 ルリは失策を悟った。そもそもこの作戦は、『ナデシコCならなんとかできる』という前提だ。今までそうだったのだから、今回もシステム掌握さえできれば勝てると、ユリカを含むこの場の味方全員が、そう思っていた。
 ナデシコCの力を過信しすぎ、火星の後継者に対抗策はないと侮っていた。その結果がこの惨状だ。
「せめて、内部に踏み台でもあれば、プロテクトを無視して一気に掌握できますが……」
 ルリが苦し紛れに口にした踏み台とは、システム的な意味での中継器だ。ネットワークという正面入り口からではなく、相手のハードウェアに直接接続した装置を経由して進入すれば、システムプロテクトを無視できる。
 無論それは、敵システムのハードウェアに中継器を仕掛ける人間が必要であり、成立しようがない策なのは解りきっている。
 そんな事を口にしてしまう事が、ルリが追い詰められつつあると露呈していた。それが決断を促したのだろう。ユリカは拳を血が出そうなほど強く握り、大きく息を吸った。……そして。
「グラビティブラスト、発射用意! 目標はヴァルハラコロニー外縁の砲台!」
 その指示に、「ええっ!?」とブリッジの全員がユリカを振り仰いだ。
「待ってください! ここからじゃどう狙ってもコロニードームを損傷します!」
 皆が絶句する中、ルリは思わず聞き返していた。
「ここは地球や火星じゃありません、直接的な被害だけじゃなく、空気の流出と減圧……民間人が大勢死にます!」
「解ってるよそんな事! でもこのまま揚陸部隊を全滅させるよりは……!」
 搾り出すようなユリカの声音に、ルリはああ、まただ、と思った。
 ルリの脳裏によぎったのは、6年前、火星で戦った時の事だ。身動きの取れない状況で敵に追い詰められ、避難民を押し潰してフィールドを張るか、否かを迫られ、ユリカは自分たちが助かる方を取るしかなかった苦い記憶。
 ルリはもちろん、何よりもユリカが、もう二度と繰り返したくないと思っていた事だ。それをユリカは繰り返すつもりでいる。
「か、考え直してください、ユリカさん! 私が……私がなんとかします!」
 この期に及んで、ユリカを苦しめる真似はさせたくない。ルリは必死にハッキングを続ける。
 しかし脳神経が破裂しそうなほどの全力をつぎ込んでも、敵の妨害を捌きながらプロテクトを破るには至らない。
「虫型兵器、エステバリス隊を突破して揚陸艇群に接近!」
「議論してる暇はありません、火器管制を私に回してください! 責任は、全部私が取ります!」
 ユリカを止められない。事態を打開する事もできない。自分の無力さに涙がこぼれそうになる。
「カズヤくん、ヒトミちゃん、ナナミちゃん、ミカちゃん……ごめん、バカなお母さんを許して……」
 誰でもいい。
 何の神でも悪魔でもいいと切実に思う。
 ミナトたちを、ユリカを、ここで死にゆく全ての人を。
「助けて……誰か」
 そのか細い声は、誰にも届かず消える――――と思った。
 その時、ほんの小さな異変に気付き、「あれっ?」と声を上げたのは澪だった。
「妙な通信が入っています! 発進元は不明、宇宙軍の秘匿回線で、本艦にだけ送信されています!」
「秘匿回線? 近くに友軍なんていないはず……」
「とにかく開いてみます!」
 澪が通信回線を開くと、SOUND ONLYのウィンドウが開き、砂嵐のノイズの中から僅かに誰かの声が聞こえてきた。
『聞こえ……か……こち…………逃げ込め……!』
 不明瞭だが、恐らくは男性の声。少なくとも聞き覚えのある声ではないと思った。
 その時、今度は「あっ!」とハーリーが声を上げた。
「ヴァルハラコロニーの宇宙船用ゲート、3番ゲートが開きます! ガイドビーコンの展開を確認!」
「こちらへ逃げ込め……って、まさかコロニーの中にって事!? ……か、艦長、提督!?」
 澪が判断を求めて、ルリとユリカを交互に見る。
 宇宙軍の秘匿回線は、当然宇宙軍にしか使えないはずだ。だがヴァルハラコロニーの内部、敵の只中から通信してくる正体不明の何者かの言葉など、容易に信用できるものではない。
「罠に決まってますよ、こんなの! 信用したらだめです!」
「で、でも、もう勝ちかけなのに罠に嵌める必要なんて……」
「…………」
 罠か否かでハーリーと澪が言い合い、ユリカは逡巡している。
 ハーリーの言う通り、罠の危険が高すぎる。下手をすれば降下部隊は全滅してしまうだろう。
 だがこのまま黙っていても同じ事だ。
「……提督。一か八か従いましょう」
「艦長!?」
「ルリちゃん!?」
「このままではどのみち全滅を待つだけです。罠だとしても、ヴァルハラコロニーの中に活路があるかもしれません」
 ユリカに大量殺戮の重荷をこれ以上背負わせないためにも、ルリはこの方法に賭けてみたい。
 それに、ルリにはこの通信が罠だとは、なぜだか思えなかったのだ。……藁をも掴みたい心境にまで追い詰められているだけかもしれないが。
 時間にして一秒ほどの黙考の後、ユリカは顔を上げた。
「アジサイと木連軍降下部隊に連絡! コロニーの3番ゲートに突入してください! エステバリス隊は、その援護を!」



「みんな……」
 ウィンドウに映る、降下部隊が追い詰められる様子を見て、和也は唇を噛む。
『神在月』に対ナデシコC用のサイバー戦装備と、それを扱うサイバー戦用生体兵器の部隊が搭載されている事は、データで知ってはいた。
 だが、まさか本当にナデシコCのハッキングを封殺するほどの力があるとは、実際に見ても信じられなかった。和也もまた、ナデシコCの力を過信しすぎていた。
 ――これで地球側の切り札は一つ封じられた……もう一つもカタログ通りの力があるとしたら、地球は……
 和也が『神在月』の力に戦慄していると、不意にガチャリ、と電子ロックの外れる音がし、独房の分厚い扉がゆっくり開く。殲鬼が戻ってきたのか、と一瞬身構えたが、入ってきたのは陰険そうな顔をした知らない男だった。
 ――こいつ、確か昨日僕を『尋問』してくれた中にいた奴だよな……
「へっへっへ。どうよ、昨日はよく眠れたか」
 陰険な顔の男は和也の傍に立ち、ニヤニヤと嫌な笑い顔で見下ろしてくる。
「お仲間が死んでいってるぜ。助かると思ったところに絶望に落とされて、今どんな気持ちだ? なあ、どんな気持ちだ?」
 ハッハ、ハッハ、と野良犬のような臭い息が吐きかけられる。それに何の反応も見せない和也をどう思ったのか、男は立ち上がると腰から拷問用の鞭を取り出した。
 この様子だとどうも、昨日の続きをお望みのようだ。殲鬼の奴、薬まで使って洗脳しようとしていたくせにもう気が変わったのかと思ったが、それは違うようだった。
「おい、遊ぶのはいいが殺すなよ? まだ殺すなって殲鬼隊長からの命令だろ」
「わーってるよ。だから殲鬼隊長が戦闘指揮に出た今のうちに来たんじゃねえか、今日はまた新しいメニューを考えてきたんだから、もうちょっと楽しませろよ」
 独房の外から顔を出した看守に、陰険な男が言い返す。
 つまりこの男、殲鬼か誰かに命令されたのではなく、純粋に独断で、自分が楽しむためだけに和也をいたぶりにきたらしい。
「やれやれ、こういうクズを飼うから組織のモラルや品位が下がるんだよ……」
 ぺっ、と吐き捨てるように言った和也に、「ああん?」と陰険な男が額に青筋を浮かべた。
「この状況で余裕だな。まだ助かると思ってるのか? ここじゃ泣いても叫んでも誰も来ないぜ」
「ふうん……そりゃよかった。なら遠慮なく殺してやるよ」
「ぎゃはははははははは! 聞いたか今の、殺してやるだってよ。この状態でどうやって殺してくれるんだ?」
「まずあんたをぶん殴って、頭をかち割って撲殺する。それからそっちの看守の首をひねり折って殺す」
「は! やれるもんならやってみやがれ。そのざまでどうする気だ?」
 両手を後ろ手に、両足も同様に拘束された和也相手に、陰険な男は自分の優位を疑っていない。
「両手と両足には、電子ロック式の拘束具」
「うん」
「外した」
 ぶらん、と和也が解除された両手足の拘束具をぶら下げて見せると、陰険な男は両目をキョロキョロと動かしてそれを見、一瞬遅れて表情を引きつらせた。
 刹那、和也の右腕がひゅっと鞭のように動く。拘束具が鈍い音を立てて陰険な男の側頭部にめり込み、男が「ぐえっ!」と奇妙な悲鳴を上げた。
 囚人の自由を奪うため、5キロ以上の重さがある金属製の拘束具だ。人を撲殺する鈍器として十分な威力のあるそれを頭に受け、割れた頭から血を流して後ずさる陰険な男の脳天目掛けてさらに一撃。カエルが踏み潰されたような声を上げて倒れた陰険な男は、それきり動かなくなる。
「て、てめえ……!」
 陰険な男が和也の宣言通り撲殺され、看守は顔に恐怖の色を貼り付けながらも拳銃を抜く。
 しかしその銃口が向くより早く、和也は次の行動を起こしていた。
「ゲキガンパーンチッ!」
 どう見ても届くはずのない距離で、和也は看守に向け拳を突き出す。――――途端、右の拳がバチンというスプリングの撥ねる音と共に、手首から離れて飛んだ。
 ゴン! とゲキガンパンチが額に当たり、「いてっ!?」と呻いた看守が額を押さえ、しかしすぐに立ち直って拳銃を向けてくる。
 しかし、その一瞬で和也の姿は独房から消え失せていた。看守は「あっ、あれ!?」と混乱し、独房の中に目線と銃口を彷徨わせる。
 次の瞬間、突然パキッという音がして、視界が90度以上右に回転。そのまま意識が途切れた。
「ふう……」
 一瞬で看守の背後に回り、その首をひねり折った和也は、看守が崩れ落ちたのを確認して息を吐く。
「こんなのが役に立つなんてね……ウリバタケさん、ありがと」
 床に落ちていた右手の義手を拾い上げ、あるべき位置に戻す。
 ウリバタケは一度ボツにされてなおゲキガンパンチ、つまりロケットパンチ機能を諦め切れなかったらしく、威力が下がると不満を垂れつつも火薬カートリッジからスプリングに射出機構を変えた物を送ってきた。まあ無害ならと思って妥協したのだが、まさか役に立つとは思わなかった。
 そもそも拘束具の電子ロックを解除できたのも、指に仕込んだツールの中に電子ロック解除用のマジックハンドがあったおかげだ。帰ったらお礼に酒の一つも買ってやるべきだろう。
「さて、脱出してみんなと合流……その前に敵を撹乱するのが先かな……」
 看守の拳銃を拾い上げ、残弾を確認。自由を取り戻したはいいが、未だ独りで敵中に孤立している状況には変わりない。おまけに外の味方は苦戦しているときた。
 それでも負けられないし、死ぬわけにもいかない。
 守るべき故郷があって、殺すべき敵がいて、会いたい人もいる。生きるべき理由は、今の和也には山積みだ。
「こんな奴らに、木星も、地球も、好きにさせてたまるか……!」










あとがき(なかがき)

 ルリとナデシコC大苦戦の二十四話前編をお送りしました。

 なんだか唐突に過去回想を挿みましたが、殲鬼の異常な人となりと和也たちの関係を掘り下げるためです。前回和也たちが殲鬼の誘いを撥ね付けるシーンを書いている時、一応昔の仲間なのに殲鬼とだけ険悪なところが説明不足と感じましたので。

 最近騒がしい北の国には大規模なハッカー部隊が存在していたり、わが国自衛隊にもサイバー部隊が創設されたり、どこかからのサイバー攻撃で金融システムが混乱したなんてニュースがあったり、ナデシコCがやっているようなサイバー戦というのももうSFでなくなってきた感がありますが、今回は火星の後継者にもサイバー部隊が登場してナデシコCを追い込みました。
 サイバー戦型生体兵器はゾンビ状態になるのと引き換えに、ルリやハーリー、ラピスの劣化コピー的な能力を発揮します。ヤマサキが言っているように本物には及びませんが、80人の集団戦でルリを苦戦させています。F5アタックみたいなものです。(笑)
 本当は前後編まとめて送りたかったですが、今年投稿したのが一回だけなのは嫌だったので、今回は前編だけでお送りしました。次回はなるべく早くと言いたいですが、例によってリアルの事情があるので早くても四月以降になるかと。面目ありません。

 それでは、2018年がいい年でありますように。










感想代理人プロフィール

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代理人の感想 
ゲキガンパンチ大爆笑www
いやあ、大ピンチの中で一服の清涼剤でしたわw
つか殲鬼ガチでおかしい。



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