作者注*今回少し過激な流血描写があります。注意された上でご覧ください。



『港湾内に生体反応、および不審なエネルギー反応無し。どうやら敵はいないようです』
『爆弾のような反応もない。とりあえず安全みたいだ。揚陸艇を接岸させてくれ』

 油断なく周囲にラピッドライフルを向けながら告げた木連軍エステバリス、そのパイロットの指示に従い、揚陸艇群が港湾内に侵入してくる。
 揚陸艇群は長距離を走りぬいたランナーが疲労困憊の体でゴールに倒れこむように、我先にと埠頭へ横付けしていく。全ての揚陸艇が港湾内に入ったのを見計らってか、ゲートが重々しい音を立てて閉じ、悲鳴や砲声に満たされていた聴覚に一転して静寂が訪れる。
 誰かの息遣いと耳鳴り以外に聞こえるものがなくなり、どうやら攻撃から逃れられたようだと思い、一気に安堵の空気が広がった。
「どうにか……助かったみたいね」
「いやー、ミナトさんの操縦のおかげだよ……」
 ナデシコCの艦載揚陸艇アジサイ、その操縦席のミナトとユキナも疲れ果てたようにはあっと息を吐く。
 ナデシコCから3番ゲートに突入しろと命じられた時、ミナトはユリカが血迷ったのかと一瞬思ったが、確かにゲートは開いていた。
 ミナトは木連軍の揚陸艇へ後に続くよう知らせてゲートに向かい、周囲の砲台はサブロウタたちエステバリス隊と、木連軍機動兵器隊が排除して道を切り開いた。そのために8機のエステバリスとそのパイロットが犠牲になったが、おかげで降下部隊はかろうじて全滅を免れた。
「ああ、でも船体はボロッボロ。墜落しなかったのが不思議ね……」
 敵の執拗な攻撃から逃れてきた船体は誰も彼も傷だらけで、無傷の船は一隻も見当たらない。アジサイも改めて見ると船体のそこら中に弾痕が刻まれていた。帰りの足としてはもう使い物になりそうにない。
「後ろの陸戦隊の人たち、無事かしら。……怪我してないといいけど」
 怪我で済んでいればまだましというべき状況だったが、気質が民間人寄りなミナトはそれを口にはできないらしかった。
「あたしが様子見てくる。ミナトさんはナデシコに連絡お願いね」
 ミナトに死傷者だらけの兵員室は見せられないなと思ったユキナは、率先して副操縦席から後ろの兵員室へと向かう。怪我人は木連時代に習った外傷応急処置で手助けできる。千切れた手足をリアルに再現した人形を前に、皆が大泣きしたあの実習が役に立つとは皮肉なものだと思った。
 むしろ心配なのはその先だ。
 ――作戦が続けられるほど、戦力は残ってるのかな……
 作戦が失敗すれば、『草薙の剣』は――――ユキナと澪の友人たちは置き去りになる。
 大勢の兵を死なせながらここまで来て、『草薙の剣』を助けられないまま逃げ帰るなんてしたら、ユキナは澪にどんな顔をしてその事を伝えればいい?
「……様子見たほうがいいかな」
 操縦室を出る間際、ユキナは立てかけてあった『お守り』を腰に提げた。



 機動戦艦ナデシコ――贖罪の刻――
 第二十四話 塔が崩れる日 中編



「カリスト警備隊艦隊は、木連軍艦隊との交戦で戦力の4割を喪失、後退しました。本艦に向かってきた敵機動兵器も全機撃墜、あるいはミサイルを撃ち尽くして後退。外の戦闘はひとまず小康状態になりつつあります」
「ハルカ先生……ハルカ航海士から通信来ました! 揚陸艇群の被害は甚大ですが、ひとまず安全みたいです!」
 ハーリーと澪の報告を受けて、ナデシコCのブリッジも張り詰めた空気が一気に弛緩した。
「よかった……なんとか助かったね」
 ユリカも心底ほっとした顔をして、提督帽を脱いで額の汗を拭う。
 民間人への大量被害覚悟で艦砲射撃を行おうとするほど追い詰められたのだから、その安堵感は相当だろう。しかしそんなユリカを、ルリは上半身を回して恨みがましい目で睨みつけた。
「ユリカさん……お願いですから、もうあんな事はやめてください。心臓が止まりそうでした」
「いやでも、……ごめん、もうしない」
 ユリカは最初抗弁しかけたが、ルリの顔を見た途端にそれを引っ込めた。
 自覚はなかったが、泣きそうな顔になってしまっていたのかもしれない。
 と、澪が「あのう……」とおずおず口を開く。
「お話中のところすみません。木連軍の秋山少将と、タカスギ少佐から通信来てるんですが……」
「ウィンドウに出してください。……私たちの事は気にしないでいいです」
 いけないいけない、とルリは慌てて目元を袖で拭い、深呼吸で息を整える。今は親子喧嘩をしている場合ではないのだ。
 微妙に間を置いて、空中に秋山とサブロウタのウィンドウが現れ、敬礼。ルリたちも答礼を返す。
「秋山少将、タカスギ少佐、無事でよかったです」
『ナデシコの諸君も大事ないようでなによりだ』
『俺は見ての通り。ヒカルちゃんとイズミさんも怪我とかはしてません。部隊はボロボロですがね……』
 二人とも激戦を切り抜けた疲労感を顔に滲ませ、額に玉の汗を浮かべていたが、それでも元気そうでルリたちはひとまず安堵できた。
 それも束の間、秋山は固い面持ちで首を横に振る。
『……だが、状況はお世辞にもいいとは言えんな。なんとか敵を退けはしたものの、我が部隊の被害は甚大だ』
「ごめんなさい、秋山少将。私の力が及ばなかったばかりに、木連の兵を大勢死なせてしまって……」
 真っ先にルリが深々と頭を下げると、ユリカにハーリー、そして澪も「えっ?」とルリを見た。
「ちょっとルリちゃん……今のナデシコ部隊の最高指揮官はわたしです。わたしの指揮が及ばなくてすみません」
「あの、僕もハッキングの腕が及ばなくて……ごめんなさい!」
「ユリカさん、ハーリー君……ハッキングの主導は私です。だからこれは私の……」
「ううん、ルリちゃんに責任をかぶせたりしないよ、これはユリカの……」
「いえ、僕も……」
 なにやら話が身内同士の庇い合いの様相になってきて、さすがに見かねた秋山が『待て待て!』と大きめの声で止めに入った。
『今は責任がどうとか言っている場合ではない。状況を乗り切ってから話し合ってくれ』
 正論である。はい、ごめんなさい……と三人の声が重なった。
「まずは状況の把握からかな……タカスギ少佐、そっちの状況は?」
 そう、ユリカ。
『状況ねえ……一言で言ってズタボロですかね。揚陸艇は半数が撃墜、無事な船も殆ど被弾して、陸戦隊は怪我人だらけです。一応元気な奴を纏めて戦闘部隊を再編させてますが、今のまま都市に突っ込むのは勘弁願いたいですよ』
「やっぱり被害は大きいかあ……秋山少将、艦隊の被害状況はどうですか?」
『芳しくはないな。警備隊艦隊は制御を取り戻した直後、揚陸艦に対して集中攻撃を加えてきた。あれで第二陣以降に控えていた陸戦隊にも少なからぬ被害が出ている。我が艦隊もなんとかそれを救おうと間に割って入ったため、戦闘艦7隻が失われた他数隻が小・中破している』
 だが警備隊艦隊を押し返したのだから、むしろよくやった方と言えるがな、と秋山は虚勢じみた笑みを浮かべたが、実情はあまり笑えるものではない。
 艦隊戦力はともかく、この状況で肝心な陸戦隊は戦力半減、しかもミナトやサブロウタたち第一陣はヴァルハラコロニーの防衛システムによって本隊と分断され、敵中に孤立している。
『こっちゃ今は落ち着いてますがね。陸戦隊連中は不安がってますよ。このまま敵が動き出したら、俺たち皆殺しにされるってね』
 むしろそうなっていないのが不思議な状況だ――――とまでサブロウタは言わなかったが、言わずとも全員が承知していた。
「……ハーリー君、ドック内にいるはずの、火星の後継者艦隊に動きは?」
「動きありません。……静か過ぎて気味が悪いくらいです」
 顔を顰めて言ったハーリーに、ルリとユリカは揃って目を細める。
 あれだけ苛烈な攻撃をかけてきたのに、揚陸艇群が港の中に逃げ込んだ途端攻撃が止んだ事も、この状況であの大艦隊が動かないのも不可解の極みだ。
「火星の後継者も、コロニーを傷つけたくはないとか……」
 そう言ったハーリーに、『どうだろうなあ』とサブロウタ。
『無視されてるだけのような気がするな。女を口説こうとして相手にされなかった時に似た感じがするぜ』
「は、はあ……」
 サブロウタの言葉は冗談なのか本気なのか判断に困るが、相手にされていないというのは間違っていない気がした。
『とにかく態勢を立て直し次第艦砲射撃で砲台を排除し、陸戦隊の後続を送る。お前たちはそれまで待機してくれ。……だが、その後どうするかだな』
 秋山の言葉に、ブリッジに息苦しい沈黙が満ちる。横でポツリと呟いた澪の声がいやに大きく聞こえた。
「……このまま引き返すしかなさそうかな……和也ちゃん、みんな……」
 不安そうな澪の様子が申し訳なくて、ルリは唇を噛む。
 結局この作戦は、ナデシコCが敵システムを掌握できる前提の作戦なのだ。その前提が崩れた今、統合軍の到着前に事態を収拾する事も、『草薙の剣』の救出も難しくなりつつある。
『……ナデシコC、ハッキングのほうは立て直せないのか?』
 秋山に尋ねられ、ルリは俯いて首を横に振る。
「……今も敵のサイバー部隊による逆ハッキングが続いています。そちらへの対処にかなりリソースを割かないといけない上に、防壁の強度も予想以上です」
「ナデシコCを攻撃していた敵が退いて、僕もこれからハッキングに復帰しますが……それでも統合軍の到着に間に合うかどうか」
 仮に間に合うとしても、甲院はシステム掌握完了前に手を打ってくるだろう。事実上、ハッキングは封殺されてしまったと考えるべきだ。
 無力化されたナデシコCと、戦力で大きく劣る木連軍。もはやどちらも脅威ではない。なら相手にしないで統合軍との戦いに注力すればいいと、甲院は考えているのかもしれない。業腹だが、ミナトやサブロウタたちが無事なのは半分程度そのおかげだ。
 そういえばあの声は誰だったのかと今更ながらにルリは思ったが、その時「先生? どうかしたの――――って、えええ!?」と澪が大声を上げた。
「ツユクサ上等兵? 何かあったんですか」
「かかかかか、艦長、提督、大変です! ユキナちゃんが、一人で勝手に飛び出して行っちゃったそうです!」

「……え?」

 思わずそう聞き返してから、ルリは言われる事は多々あったが言うのは初めてだなと、場違いな事を思った。


 数分前。

『……このまま引き返すしかなさそうかな……和也ちゃん、みんな……』

 音量を抑えた通信越しに聞こえる、不安そうな澪の声。
 ユキナはヒナギクの宇宙軍陸戦隊の負傷者の手当てを手伝う傍ら、ミナトがナデシコCと通信している回線を使ってナデシコCブリッジでの会話を盗み聞いていた。これまたバレれば処罰を免れない重大な越権行為なのは承知していたが、それよりユキナは作戦を続けられるかが気になっていたのだ。
 やはりと言うべきか、ルリたち指揮官クラスの会話を聞く限り明確ではないにしろ、このまま陸戦隊は撤退という流れになりそうな雰囲気だった。少なくとも澪が不安を漏らしてしまう程度には。
 ――ここまで来て手ぶらで帰れ? じょーだんじゃないわ。
 思った時にはもう、ユキナは皆の目を盗んでヒナギク、そして埠頭を抜け出していた。向かった先はヴァルハラコロニーの宇宙船ターミナル、その駐車場だ。当然ながら放置された車両に都合よく鍵が刺さっているわけでなければ、ユキナに車泥棒の技術があるわけでもないが、事務所を漁ってみたところ職員の車のキーを見つける事ができた。
「ごめんなさいねえ、これお借りしますよっと……」
 今頃はシェルターに避難しているであろう車の持ち主に手を合わせ、反重力車の運転席に乗り込――――もうとした時、不意に後ろから声がかかった。
「なーにしてるのユキナ」
 げ、とユキナは身を硬くする。恐る恐る振り返ると、顔を膨らませたミナトが腰に手を当てて仁王立ちしていた。
「いないと思って探してみたらやっぱりだもの。そんなものまで持って、独りで何するつもりなの」
 そんなもの――陸戦隊からこっそり拝借した戦闘服と武器――を指差してミナトはユキナに詰め寄る。
「……なーんか陸戦隊の人たちみんなボロボロだし、あたしだけでもみんなを探してみようかなーって。武器は一応護身用に……」
「おバカ。この先は敵がわんさかいるのよ!? あんた独りで探せるわけないでしょ戻りなさい!」
「やだよ。このまま帰っちゃったらあたし、澪ちゃんにどんな顔すればいいのよ」
「そんな事言って、あんたまで帰らなかったらもっと悲しむでしょ! 私だってあんたのお兄さんにどんな顔して――――」
 さらに詰め寄りながら、強引に車から引き離そうとミナトはユキナの肩を掴む。
 途端、ミナトの足が地面を離れ、ぐるっと世界が回転した。
「――――えっ?」
 わけも解らぬまま背中からコンクリートの地面にしたたか叩き付けられる。ユキナに見事なまでの背負い投げを食らったとミナトが理解するまで数秒かかった。
「ごめん。ミナトさんの言ってる事は解る。でもこればっかりは聞けないよ」
 大の字に倒れたミナトを見下ろしたユキナは、彼女らしからぬ低音で、しかし確かな意思を感じさせる声で言う。
「ここに来るだけでいっぱい死んだんだよ? 撃ち落された揚陸艇の中に百人単位の人が乗ってて、つまりその死を悲しんで泣いちゃう、あたしたちみたいな家族や恋人が千人単位で出ちゃったって事だよ」
 そんなのもう、二度と見たくなかったのに……とユキナは歯噛みする。
 ユキナの兄であり、ミナトの恋人だった男――――白鳥九十九が死んだあの時の事は、今でも鮮明に思い出せる。その時のミナトがどれだけ嘆き悲しんでいたかもだ。
 誰かが死んで誰かが泣く、ユキナがもう二度と見たくないと思っていた悲劇が既に何千も量産されて、それを無駄にして逃げ帰った結果、今度は和也たちが死んで、澪が泣くのだ。
 許容できるわけがない。
「あたしは友達を助けたい。こればっかりはミナトさんにも文句は言わせない!」
 言い放ち、ユキナは腰を落としてミナトの上体を起こし、その両肩を掴んで正面から目線を合わせる。
「大丈夫。絶対帰る。あたしはミナトさんを置いて死んだりしないから!」
「ユキナ……」
 呆然と見開いた目で見上げてくるミナトの前で、身を翻したユキナは一瞬で反重力車に乗り込む。
 フローターを始動させ、瞬く間に飛び去っていくその姿を、ミナトは止める言葉が思いつかなかった。



「ごめんねミナトさん……絶対にみんなを連れて戻ってくるから……」
 自分の事を心配してくれたミナトに詫び、ユキナは反重力車でヴァルハラ主街区へ続くゲートを突っ走る。
 ここから先は完全に、味方もいない孤立無援の敵地だ。和也たちの送ってきた映像から、見当も付かない数の火星の後継者兵が住人として潜伏しているのが解っている。住人が火星の後継者兵に仕立てられている、と言ってもいい。見逃してくれるはずがない。
「お兄ちゃん、ユキナを守ってよね……」
 腰の『お守り』を握り締めたユキナの反重力車が、ゲートから主街区へと飛び出す。そこへ敵か殺到し、四方八方から銃撃が浴びせられ――――なかった。
「は? 何これ、誰もいないじゃない……」
 てっきり銃弾の雨の中を突破する事になると覚悟していたユキナには、拍子抜けしてしまうほど主街区は静かだった。
 撃ってくる敵はおろか、人影一つ見当たらない。ゴーストタウンのような地上を見下ろせば大量の反重力車が乗り捨てられていて、あれだけいたはずの火星の後継者兵は数万人の住人共々、忽然と消えてしまったかのようだった。
「シェルターに避難した……のは当たり前だけど、敵はどこ行ったの……?」
 住人の姿が見えないのはいい。火星の後継者も無関係な市民を人間の盾にするようなつもりはないという事だからだ。だが火星の後継者というのは戦いもしないまま逃げ出す連中でない事は、ユキナとてよく知っている。
 だったらどこに、と考えを巡らせていたユキナの視界が、急に暗く翳った。
「あじゃっ!」
 声を上げる。ユキナの頭上から、擬似太陽の光を遮ってアマノ・ヒカルのエステバリス・カスタムが覆いかぶさるように迫ってきていた。ついでに少し後ろからはマキ・イズミのエステバリスも追随してきて、油断なく周囲を警戒していた。
「ああもう、おっかけてくるの早すぎ……」
 自分を連れ戻しにきたのは間違いない。ナデシコ部隊の迅速な対応に毒づくユキナに、よく知る声がコミュニケから響く。
『ユキナちゃん、なんて危険な事をっ!』
「ああうん、危険なのは解ってるよ……」
 ユキナの兄はかの英雄白鳥九十九だ。命を賭して草壁の欺瞞を暴いた彼は現政権支持派からは英雄と、逆に火星の後継者シンパにとっては裏切り者と見られている。
 自分にはいろいろと利用価値がある。火星の後継者が見逃してくれるはずがない事くらい、とっくの昔に承知している。
「それでも、あたしは友達を助けたいの……! だから」
『ううっ、危険も顧みずに友達を助けるため飛び出していくなんて! 熱い! 熱血だよユキナちゃん!』
「は、はい……?」
 いきなりの賞賛にユキナは面食らう。
 どうやらユキナの、マンガの主人公じみた行動がヒカルの心の琴線をいたく刺激したらしい。
「そ、そうそう、熱血なのよ熱血、熱い友情なのよー! だからこのまま行かせて――――」
 ウィンドウの中で興奮気味に身体を震わせているヒカルなら見逃してくれるかもと期待したが、『そうはイカの塩辛』と横からイズミが割って入った。
『あんた一人じゃ棒が無いわ。イカせるわけにはイカないのよ、イカだけにね』
 ユキナ一人では無謀すぎるから行かせられない、という意味の独特な言い回しで、結局は止めてくる。『草薙の剣』ならいざ知らず、特殊部隊員でもなんでもないユキナには敵地に突っ込ませてもらえるほどの信頼はないようだった。
『こーいう時、主人公の熱意に押されて大人も無理を通しちゃう展開は大好物なんだけど……これ、戦争なのよね』
 仕方ないよね、と言い聞かせるように微笑って、ヒカルのエステバリスが両手を伸ばしてくる。もうお手上げだとユキナは頭を抱えた。
『――――っ! ヒカル、回避!』
 途端、イズミが冗談抜きの声音で鋭く叫び、『え!?』と驚きながらもヒカルが機体を翻した。その次の瞬間、曳航弾の真っ赤な航跡がユキナの頭上、一瞬前までヒカルのいた位置を切り裂いた。
『て、敵!? どこどこ!?』
『クロスの方向』
『十時の方向だね』
「なんで解っちゃうのよ……ってなにあれ!?」
 ユキナはイズミの奇妙な言い回しを即座に理解できるヒカルに呆れ、その指し示す方向を見て驚きの声を上げた。
 三人の向かう先、普通のオフィスビルの上部ががばっと左右に割れ、そこから大型の機関砲台が突き出していた。しかもそれは一つや二つではなく、行く手にあるあらゆる建造物が機関砲やミサイルを備えた砲台に変形し、それらの間で道路が畳返しのように立ち上がり、防壁へと転じていく。
『な、なんか昔のアニメで見た対なんとか迎撃要塞都市みたい……!』
 見る間に要塞へと変貌していくヴァルハラ主街区を前に、ヒカルがその大きな目を剥いている。確かにどこかのアニメじみた光景だ。
「あんなの見た事も聞いた事もない……火星の後継者の奴ら、木星をどうする気なのよ!?」
 撤去されているはずだった外の防衛システムが撤去されていなかったのはまだいい。だが都市そのものを武装させて要塞化するなど正気とは思えなかった。
 ――あんなのがあったら、攻めてきた統合軍は本気で攻撃するしかない……都市が滅茶苦茶にされちゃう!
 遠からず訪れる惨禍を想像して青くなるユキナ。そこへレーザーが空間を焼き、機関砲が驟雨の如く降り注ぎ、ミサイルが都市の破壊も厭わず炸裂する。
『ひゃああ、回避回避ーっ!』
『ユキナ、あんたは引き返し……クッ!』
 無数の砲台からの、空間が赤熱するほどの集中攻撃。さしものエース級パイロット二人も全力で回避機動を取るしかなく、ユキナを追うどころでなくなった二人の機影が瞬く間に後方へと置き去られていく。
「ヒカルさん、イズミさん……!」
 ユキナは二人の身を案じて叫ぶが、無事を確かめるような暇はなかった。ユキナの眼前でもビルの壁面が割れ、中から6連のバルカン砲がにゅっと突き出たのだ。ひっと引きつった声が漏れ、心臓がキュッと絞られる。
 避けようにももう遅い。装甲など何もない裸同然の自家用車に向け、バルカン砲が火を噴――――かない。
「あ、あれ、撃ってこなかった……なんで?」
 バルカン砲の目の前を素通りしたユキナは、背中は冷や汗だらけ、心臓は早鐘を討っている状態で周囲を見回す。
 そこらじゅうには数えるのも面倒な数の砲台が生えていたが、そのどれもがユキナの反重力車が見えていないかのようにピクリとも動かない。ヒカルとイズミにはあれだけ激烈な攻撃を浴びせているのにだ。
 こいつら人が操ってない、とユキナは直感的に思った。恐らく全てが無人の自動迎撃システムで、友軍相撃を避けるためなのかユキナが乗っているような民間車両は攻撃対象から外れる設定なのだろう。
 だがそうなると、本当にヴァルハラ主街区は完全な無人の状態という事になる。
「火星の後継者は何考えてるの……でも、これならすんなりみんなのいる所まで行けるかも……」
 ヒュイイイ、と反重力フローターの駆動音が近付いてきたのはその時だった。横に目をやるとすぐ隣をバッタが併走していて、ぎょっとするユキナの顔を昆虫の複眼じみたカメラアイが睨んでいる。「……ってわけにはいかないか」と思わず苦笑が漏れた。
 どうやら侵入者対策用の見張りもきちんと用意してあったらしい。抑揚のない機械音声が警告してくる。
『認証カードを見える位置に提示し、所属を明らかにせよ、しからざれば敵と見なし攻撃する。繰り返す、認証カードを見える位置に――――』
「認証カードもマネーカードも持ってないわよべーだ!」
 バッタに舌を突き出し、アクセルをベタ踏み。反重力車がフローターを唸らせどんっと加速する。
 少し遅れて、バッタも速度を上げる。モニターに映る後方確認用のカメラ映像の中、一旦は小さくなったバッタが見る見る大きく迫る。
 ナデシコに乗っているとザコ扱いしがちになるが、バッタというのは戦争初期に地球軍の主力戦闘機を圧倒するだけの高い性能を示した軍用機だ。自家用車で簡単に振り切れるような甘い相手ではない。ましてこんなディストーションフィールドも何もない車で機銃を食らえば、ユキナは一瞬でミンチ以下の血煙となって霧散する。
「だけどこっちだって、そう簡単に撃ち落されてやらないからね……!」
 強がりを口にしたユキナは暴れる心臓を宥めつつ、後方カメラのバッタを凝視。射撃軸線が通ったと感じた瞬間に急ハンドルを切り、車体を横スライドさせて銃撃を避ける。単調な回避機動だが、ミナトがここに来るまで何度となく繰り返し、ユキナたちの命を救ったテクニック。その見様見真似だ。
 バッタが銃口を向けるたびに心臓が縮み上がり、ハンドルを切って銃撃を避けた時に一瞬だけ強い安堵を感じ、次の瞬間にはまたバッタが銃撃を加えようとしてくる。例えるならノロノロ運転の車を追い越そうと反対車線に出たら大型トラックが迫り、正面衝突寸前で車線を戻した時の感覚。それが連続して襲ってくるのだ。
 恐怖に耐え、際どいながらも銃撃を掻い潜るユキナだったが、その前方、ビルの陰からバッタがもう一機ひらりと躍り出て、「げっ」と淑女らしからぬ声が漏れた。  前後からの挟み撃ち――――下手に一方を避けようとすれば、その瞬間もう一方から狙い撃たれる。
 控えめに言っても絶体絶命の窮地だが、ユキナは考える。――こういう時、やはりミナトならどう切り抜けるか。
「もうちょい、もうちょい……」
 後ろからの銃撃を必死に避けつつ、前後のバッタとの距離を測る。カメラアイの赤みが見えるほど迫った前方のバッタが、銃口を開き射撃体勢に入った――――ような気がした。
「ここっ!」
 急ハンドル。
 車の数センチ横を前からの機銃弾、次いでバッタが猛スピードで通過し、次の瞬間にがつっ――――! と凄まじい激突音と衝撃が響く。
 先の一瞬、ユキナは前後のバッタと自分が一直線になった刹那に急ハンドルを切って回避。2機のバッタはユキナの車に隠れてお互いを視認できず、結果回避行動が遅れて正面衝突した。相手が人間ならこうは行くまいが、単純な思考ルーチンしか持たない無人兵器の限界だ。
「よっしゃあ! ざまーみろってのよ!」
 自家用車でバッタ2機を破壊という誰も文句のつけようがない快挙を成し遂げ、ユキナは両拳を握って勝ち誇る。
 つまり両手をハンドルから離し、外への警戒もおろそかにしてしまったユキナは、上方から3機目のバッタが急降下してくるのに気付くのが遅れた。
 ――あ、やば。
 爆発の花が無人の都市に咲き、桜のように散った。



 同時刻、カリスト警備隊施設地下――――

「ナデシコC、聞こえますか!? ホシノ中佐、澪! ……くっそ、やっぱりダメか」
 繋がらない通信に和也は焦れた声を上げ、苛立ち紛れに壁を殴る。
 和也が八つ当たりした罪のない壁を、フルオート連射された銃弾が理不尽に削り取る。和也はチッと舌打ちしてコミュニケの電源を切り、隠れていた曲がり角から向こう側を窺う。

「こっちだ、応援を寄越せ!」
「殺害許可は出てる、撃ち殺せ!」

 殺気立った声が響き、軍靴の足音も高く殺到してくるのは数人の火星の後継者兵だ。あるいはカリスト警備隊員かもしれないが、もはや区別に意味はないだろう。
 和也は角から拳銃を持った右手だけを出して射撃。足止めを狙った牽制射撃だが、すぐさまお返しとばかりに数倍の物量で銃弾が飛んできてたまらず和也の方が引っ込む。
「ああもう、やっぱり脱出を優先すればよかった……!」
 つい数分前のミスを悔やんで、和也は毒づく。
 独房を抜け出した和也はすぐにでも撃ち合いになるのを覚悟していたのだが、警備隊施設は予想外に静かだった。警戒要員として少数の身回りが巡回してはいたが、つい昨日あれだけいたはずの警備隊員たちは大半が姿を消していたのだ。
 不気味ではあったが、おかげで巡回していた警備隊員を一人殺して装備一式を奪い取るのは簡単だった。後は脱走が発覚する前に車か何かを奪って脱出――――するべきだったのだろうが、ここで和也は奪った戦闘服に付属したコミュニケを使ってナデシコCとの通信を試みたのだ。
 当然というべきか、通信は妨害され通じなかった。むしろ通信電波を飛ばした事で脱走が発覚し、こうして敵に追い回される羽目に陥っただけだ。
 敵の只中で通信電波を飛ばすなど、俺はここにいるぞとでかい声で叫ぶようなものだ。それが解らない和也ではないが、それでも一か八かで通信を試みてしまったのは、今は他の何よりもナデシコCに情報を伝える事が最優先だったからだ。
「やっちゃったものはどうしようもないけど、早く抜け出さなきゃ連絡できないし、僕もやられるな……」
 好転しない状況に焦りが大きくなる。
 今見える敵は普通の兵が5人。これだけ銃声を響かせてこの程度の人数なあたりに施設内の敵の少なさが窺えるが、時間が経てば生体兵器を含む敵がもっと集まってくるだろう。一方で和也は単独。せっかく奪った武器もあっという間に使い尽くして残っているのは拳銃くらいだ。せめて軍刀が欲しいと切実に思う。
 逃げ続けてもいずれどこかに追い詰められてお終いだ。『イワト』の時のように通気ダクトを利用できないかとも考えたが、あいにくここのダクトは人が入れる大きさではなかった。苛立ち紛れに足元の通気ダクトカバーを蹴り壊す。
 ゴロゴロ、という死神が喉元に迫る音がし、和也ははっとした。見るまでもなく手榴弾が足元に転がってきたのだ。逃げようにもここは遮蔽物も部屋のドアもない。
 炸裂。通路が爆煙に覆われ、和也の姿がその中に掻き消える。
「殺ったか?」
「逃げ場なんてない。死体を確認しろ。生きていたら止めを刺せ」
「早く終わらせて俺たちも退避するぞ。巻き込まれるのはご免だ……」
 火星の後継者兵たちは銃を構えつつも足早に和也の元へと向かう。状況から和也の死亡、あるいは無力化をほぼ確信した彼らは、早く死体を確認して終わりにしたいという思いが先走っていた。
 そうして警戒するでもなく曲がり角に差し掛かった火星の後継者兵の銃を、角から伸びてきた手が掴んだ。
「な――――――!」
 仰天する火星の後継者兵の眉間に肘打ちが叩き込まれ、目玉の中に火花が散るような衝撃が走る。次の瞬間には壁に顔面を叩きつけられて意識を手放した。
「こ、この野郎生きて……!」
 二人目の火星の後継者兵が驚愕の表情で銃を向けてくる。
 先の一瞬、和也は咄嗟にカバーを壊したダクトの中に手榴弾を蹴り入れた。狭いダクトの中で生じた爆発の衝撃は一方向に集中する形で噴出し、傍にいた和也に被害を与えず、爆発で和也が死んだと思い込んだ火星の後継者兵は安心感を抱き、反撃を許した。
「わあああああ――――――!」
 好機を逃さず一転攻勢。和也は雄叫びを上げて突進する。腰を落としてのタックルで火星の後継者兵の胴に組み付き、壁に押し付ける。ここで「こいつ……!」と呻いた三人目が和也の後ろから銃を向けてくるが、味方と完全に密着されては二人とも撃ち殺しかねず、発砲を躊躇してしまう。
 二人目が苦し紛れに繰り出した膝蹴りを身を翻して避け、その動きで二人目の腰に下がったナイフを抜き取って身体を捻りながら振り抜く。ごりっと三人目の首を刺し貫いた感触を感じながら一回点し、二人目の後ろに回りつつ首に手をかけねじり折る。
「う、うわあああああああ!」
 瞬く間に仲間を三人倒され、恐慌状態になった四人目と五人目が短機関銃をフルオートで乱射し始め、和也が背中から床に倒れる。
 しかしそれは予測された攻撃を避けるための動作。殺した二人目と共に床に倒れた和也の手には二人目の短機関銃が握られ、それが横薙ぎに連射される。それぞれ十発以上の弾を受けた四人目と五人目の身体が踊るように撥ね、どさりと倒れて動かなくなる。
 僅か数秒の攻防を制し、しかし和也は息をつくのもそこそこに武器装備を補充すると、即座に走って移動する。またすぐ敵が殺到してくる上に、倒した火星の後継者兵の口にした事が気にかかっていた。
「退避するとか巻き込まれるとか、妙な事言ってたな。やっぱり何か仕込んでるか……」
 急いでナデシコCに情報を伝えないといけない。前もって記憶しておいた地図を頼りに駆け抜ける。時折遭遇する敵は極力やり過ごし、それが無理ならナイフで喉をかき切り、あるいは首をへし折って音を立てずに口を塞ぐ。
 そうやってどうにか車のある車両格納庫へ辿り着いた和也だったが、そこでぱちぱち、と軽い拍手が飛んできた。

「ハラーショ、ハラーショゥ! 見事な脱走劇だったな」
「殲鬼先輩……」
 一番会いたくなかった男に出迎えられ、表情を歪める和也。
 その周囲を車両やコンテナの陰から沸いて出てきた火星の後継者兵、30人余が取り囲み、レーザー照準器の赤い光線を突き立ててくる。見るまでもなく生体兵器部隊『天の群雲』だろう。全身をレーザー光線で雁字搦めにされ、和也は舌打ちする。
 車両を奪って逃げようとする事くらい見抜かれても仕方ないが、殲鬼率いる『天の群雲』は突入した宇宙軍と木連軍の陸戦隊へ対処しているものと思っていた。それをほったらかして和也を待ち伏せているというのはいささか予想外だ。
 そして、『天の群雲』がここにいるという事は――――
「動くなよ和也。動いたら蜂の巣だぜ」
「死にたくないなら武器を捨てたほうがよろしいですわよ」
「烈火、それに美雪……」
 かつての仲間二人もそこにいた。火星の後継者のカラーリングを施した戦闘服に身を包み、和也へと銃口を向けるその姿は悲しいほどに敵だった。
「二人とも、そこを退いてくれないかな。僕は早くみんなのところに行きたいんだ」
「行かせねえよ」
「……だろうね」
 烈火の拒絶に目を伏せた和也は、それ以上説得の言葉を重ねなかった。
 それを和也からの拒絶と受け取ったのか、烈火が表情を歪ませる。
「お前こそとっとと降参しろよ。オレだってお前を撃ちたくねえ……いつまでも先輩方を殺した連中に使われてないで、こっちで戦えよ!」
「無駄だと思いますわよ。和也さんたちはあの女との家族ごっこに夢中ですわ」
「んな事……あの女に騙されてるんだよ、なあ? いや、ひょっとしたら洗脳でもされたか? 暗い部屋に閉じ込められて、家族になれ家族になれって言われ続けたんじゃねえか……そうだろ!? オレたちが助けてやるから正気に戻れ!」
 焦燥の滲む声音でまくし立てる烈火の言葉に、和也は軽く眩暈がした。
 烈火の中のユリカ像は、既にキョアック皇帝じみた悪の親玉的なイメージになっているらしい。かく言う烈火自身は騙そうとしているわけでもなんでもなく、本気で戻ってこいと懇願しているのだから和也としてはやりにくい。
 ――烈火と美雪にも、僕たちみたく母さんと話し合って欲しいけど……今は難しいな。
 心情としては説得を試みたいが、烈火と美雪に寝返りの気配を感じれば殲鬼は躊躇いなく、二人の戦闘服に仕込んだ爆弾を起爆するだろう。口惜しいが今はどうしようもない。
「時間の無駄ですよ、先輩」
 押し問答を無駄と切り捨て、和也は殲鬼へとクリムゾンM200短機関銃を向ける。戦意ありと見た『天の群雲』の兵たちが一斉に緊張し、引き金にかかった指に力が入る。
 銃声は鳴らない。一斉射撃が始まろうとする刹那、殲鬼が手を挙げて『待て』の指示を下し、兵たちが指を引き金から離した。ついでに烈火は露骨にほっとしている。
「冷てえ奴だな、おい。仮にもお友達が必死に戻ってこいと頼んでるのによ」
 銃口を向けられながら、殲鬼は飄々として言う。戦闘服に加え、盾身と同じ全身を防弾化した身体には拳銃弾程度痛くも痒くもない、という余裕の態度だ。
 前回、『神在月』のブリッジで対峙した時はいなかった烈火を、今回は連れて来た殲鬼の魂胆は見え透いている。烈火に説得させれば和也を迷わせられると思ったのだろう。それで和也が寝返るのを期待している――――わけではなく、ただ純粋に、和也を精神的に苦しめて、楽しみたいだけ。
 悪趣味極まる加虐嗜好。訓練時代は何度泣かされたか。
 だが今は違う。
「毎度毎度他人の心を手の平で転がせると思いなさんなよ、先輩。二人の事は先輩を殺してからゆっくり説得します」
 明確に『殺す』と宣言したその言葉に、殲鬼は嫌らしい嗤い顔をピクッと一瞬痙攣させた。この絶対優位な状況で挑発されるとは、殲鬼とて予想外だったに違いない。
「大きく出たな、おい。俺様に勝てると思ってんのか? 青竜先輩から貰った剣、無様にへし折られた時の事を忘れたか?」
「もうあの時みたいに、心を惑わされたりしない。それに先輩のような惰弱な人間に負けるつもりもない」
「……なんだとコラ」
「先輩が自分で言ったんでしょう。母親、ギャングのボス、それに甲院……何が忠義の人だよ。あんたはいつも誰かにへつらって生きてきたんじゃないか」
 この男は人を踏みつけにするのが大好きなくせに、その逆は嫌なのだろう。それゆえ常に自分より強い飼い主を求め、その庇護下で弱い者を足蹴にする事を楽しむ。
「迅雷先輩を殺したのもそう。なんで軍医や整備士にまで手を回すほどの手間と時間をかけてまで殺したのかって……怖かったんでしょう。彼女に足を引っ張られて、甲院飼い主に捨てられるのが」
「…………」
「あんたは本質的に虎の衣を借る狐だ。その程度のつまらない人の下で働くなんて、僕はご免です」
『剣心』てめえ……」
「その暗号名で僕を呼ぶのをやめろ!」
 嗤い顔が崩れ、青筋を立てて怒りを沸騰させる殲鬼に、和也は己の胸に手を当てて叫ぶ。
「僕は『草薙の剣』隊長――――そして独立ナデシコ部隊隊員、黒道和也だ! この名にかけて宣言してやるよ、ここで殲鬼先輩を切り殺して、二人を連れ帰るってね!」
 和也を囲む『天の群雲』が一斉にざわつき、「おいおい、死んだぞアイツ」などと嘲笑する声が漏れ聞こえた。烈火は気が狂ったかと言わんばかりに愕然とした顔をし、美雪は和也の真意を測ろうとするように眉をひそめる。
 今殲鬼が激昂して一言『撃て』と命じれば、和也は一瞬で肉と鉛の混合物と成り果てるだろう。そんな状況で殲鬼を挑発するなど、烈火と美雪、そして『天の群雲』兵には和也の気が狂ったようにしか見えまい。
 自分でも自殺行為ギリギリだと思う。背中は冷や汗でぐっしょりと濡れ、銃を握る手の震えや表情で虚勢がばれないようにするので精一杯だ。
 それでも和也は錯乱などしていない。
 ――手下どもの目の前でここまでコケにされたんだ。そのまま集団で僕を殺しても、殲鬼先輩のメンツには大きな傷が残る……
 常に人を見下していたい殲鬼の性格からして、手下から舐められるような事は我慢ならないはず。ならば殲鬼は手下たちに自分の強さを改めて見せ付けるため、和也を一騎打ちで殺すしかない。
 それこそが和也にとって唯一の突破口となりうる隙だ。
「もういいでしょ、来なよ先輩。取り巻きなんか放ってかかってきなよ」
「……クヒヒヒヒヒヒヒヒ、そういう事かよ、なら仕方ねえな」
 殲鬼は引きつった笑みを浮かべて自らの剣――あの時形見の剣をへし折った、忌々しいソードブレイカー――を抜く。
 和也の狙いは察しているようだが、元より殲鬼は一対一で和也に負けるなどはなから思ってはいまい。メンツを捨ててまで誘いを蹴る理由はないのだ。
「てめえらは出口を塞いでろ。こいつを外に逃がさなきゃいい。俺様直々に両手両足切り落としてから薬漬けにして、俺様たちのために戦わせてやるよ」
「そういうやり方しか知らないんだね。よくもまあそこまで人格が歪んだもんだ……」
「俺様はずっとこうやって生きてきたんだよ。強い奴が弱い奴を食い物にするのが当たり前なドブの底でな」
「あんたは可哀想な奴だね」
「勘違いしてんなよ。別に自分が特別かわいそうだとか思ってるわけじゃねえ。この世はどこもかしこも同じドブ底だ」
 お前らだって見てきただろうが、と殲鬼が言いたい事は、これに限って和也も解った。
「……確かに見てきたよ。中東で、欧州で、アフリカで、南米で……地球人類主義とかご大層なお題目の裏で、大勢の人が搾取され、踏みつけにされ、理不尽なルールを押し付けられるのを目の当たりにしてきた……」
 それによって生まれた不満や怒りを煽り、利用してきたのが火星の後継者なわけだが、元凶が地球連合と主流国の無自覚な傲慢さなのは否定できない。
「秋山の売国奴野郎にまかせといたら、遠からず木星も同じになるぜ。地球連合の一員? なれるわけねえだろ。最初から敵同士なんだからな。俺たちみんな地球連合の二等市民扱いされて、搾取されて、踏みつけられる。俺様は真っ平だ」
「だからあんたは……いや、火星の後継者は地球連合に成り代わり、踏みつけ搾取する側に回ってやろうってわけか。完全にキョアック星人の発想だよそれ」
「ハッ、ゲキガンガー気取ってんじゃねえよ。国際法も世界秩序も地球連合憲章も、結局は狂った奴らが力づくでごり押しして作るもんだ。ウン千万人餓死させた独裁者でも戦争に勝てば英雄、飢えた民を救うために戦った奴も負ければ戦犯よ! まさにこの世は不条理ばかりのドブ底じゃねえか! こんな世界に埋まれたら、そりゃ生まれた瞬間悲しくて悲しくてオギャーっと泣きたくならあな!」
 両手を広げて哄笑を上げる殲鬼は、世界そのものに対する尽きない憎しみを吐き出しているかのようだ。
 自分が特別かわいそうだと思ってるわけじゃないとか言いながら、結局は自分を踏みつける、恵まれた立場の人間が憎くてたまらないのだろう。
「だったら踏みつける側になってやろうじゃねえか、せいぜい楽しんでやろうじゃねえか! お前らだって踏みつける側の地球連合の手先になって、敵を力づくで黙らせてきた兵隊だろうが!」
 さすがに耳が痛いね、と和也は密かに奥歯を噛み締める。つくづくこの男は人の心を抉るのがうまい。
「こればかりは否定も言い訳もしませんよ。確かに僕たちは地球連合の敵を黙らせるのに加担してきたし、バカな事やってきたもんだとも思ってる」
「ほー、以外に殊勝じゃねえか。だったら……」
「だから、次はあんたを永遠に黙らせてやるよ、先輩」
 このやり方がいいだなどと思ってはいない。きっとユリカたちならよりよい世界を見せてくれると信じている。
 だがそれを殲鬼に対して長々と語ってやる事はしない。必要も意味もないし、何より和也にこの男と和解する意思がない。
 そこには正義もなければ大義もない。
 和也が殲鬼に対して持っているのはただ、許せないという思いだけだ。
 家族同然の部隊を引き裂いたこの男が許せない。
 迅雷を殺して平然としているこの男の所業が許せない。
 訓練時代ずっと和也たちを泣かせてきたこの男の歪みきった人間性が許せない。
 他の誰より許せないこの男が、敵として目の前にいる今の僥倖。言うべき事は一つ。やるべき事も一つだ。
「オーケーよく解った。さっきのは撤回だ。てめえさんざ要らねえよ……」
 ようやく殲鬼も、それを理解したらしい。

「野郎、ぶっ殺してやるっ!」
「てめえ、ぶち殺してやらあ!」

 個人的かつ純然たる殺意を互いにぶつけ合い、それが開戦の狼煙となった。
 先手、和也がクリムゾンM200短機関銃を撃ち放つ。50発入り大型弾倉から放たれる9ミリ拳銃弾の弾雨が殲鬼に降り注ぎ、その全身から着弾の火花が散る。
「カーッ! 撃ちやがったなてめえ! いでえだろうがぁ!」
 しかし殲鬼は大げさに痛がって見せながら、怯みもせずまっすぐに突っ込んでくる。数十発は銃弾を浴びたはずの身体からは血の一滴も流れていない。
 ――やっぱり銃弾じゃ効かない、おまけに速い……!
 殲鬼は瞬発力もまた人間離れしたもので、数十メートル先から一瞬で剣の間合いに飛び込まれる。
 殲鬼の右手が獲物に食らいつく蛇のように動き、風を裂いて迫る敵刃を和也は弾の切れた短機関銃で受ける。手が痺れるほどの衝撃に「ぐう!」と歯を食いしばり、どうにか敵刃を受け流していなしたが、引き換えに銃は真っ二つに叩き切られた。
「はあっ――――!」
 使えなくなった銃を捨て、攻撃を受けた勢いを使って身体を右回転。気合と共に放つのは渾身の右上段後ろ回し蹴り。腰の捻りと遠心力を乗せた重い蹴りが殲鬼の側頭部を砕く――――直前で、殲鬼の右腕に止められた。
「は、軽いねえ!」
「く……!」
 かなり本気だった一撃を片腕で止められ、表情を歪めた和也だが、すぐさま既に右手に88型木連式リボルバー、左手にコンバットナイフを構える木連式近接戦闘術CQB、遠近両用の構えを取る。そこから続けざまに繰り出されるのはフェイントを織り交ぜた刺突、左のナイフに注意が逸れた隙を突いてのゼロ距離射撃、みぞおち狙いの膝蹴りと続く連続攻撃。
 和也が身に付けた木連式の全てを吐き出す怒涛の攻撃。しかし殲鬼は刺突を素手で捌き、肩口に銃弾が当たっても意に介さず、膝蹴りは軽くガードされて届かない。
「は、痒いのはここなんだがなぁ!」
 余裕の声と共に繰り出される前蹴り。右手の88型リボルバーを蹴り飛ばされ、和也は態勢を立て直そうとバックステップで距離を取る。
 そこへ殲鬼はここぞとばかりに攻めかかり、暴力的な唸りを上げてソードブレイカーが閃く。その刃を戦闘服の籠手で、あるいはナイフで受け止め、いなして致命傷を避けるが、反撃の糸口を見つける事もできないままじりじりと後退する。
「オラオラどうした! 威勢がいいのは口だけか!」
「裏切り者への罰だ! なぶり殺しにしてやってください隊長!」
「殺れー! 殺せーっ!」
 防戦一方に追い込まれる和也の姿に熱が上がってきたか、『天の群雲』の兵たちが殺せ! 殺せ! と囃し立て始めた。その輪の中、烈火は和也が殺されるのではと気が気でない顔で身体を震わせ、美雪は腕を組んだまま感情の窺えない目で和也を見ている。
 ――解っちゃいたけど、さすがに強い……!
 戦うのは二度目だが、やはり今の殲鬼の戦闘力は凄まじい。和也たち全員分のインプラントをその身に宿した生体兵器の完成系。その力はもはや人間というよりバッタやジョロ、あるいはパワードスーツと同等の小型機動兵器に匹敵する。
 ろくな武器もないまま、独りで戦うには荷が重過ぎる怪物――――だが、だからどうした? と和也は自分を奮い立たせる。
 最初からこいつとは戦うつもりで来た。この二ヶ月間はそのための訓練を繰り返してきたはすだ。月月火水木金金の日々の中、月臣少佐が地面に倒れる和也たちに向けて耳にタコができるほど言い聞かせた事を思い出せ。

 ――――生体兵器の戦闘力は確かに高いが、だからこそそれに頼りすぎて本来身に付けるべき技術や感覚が疎かになる。強力なようで雑なのはなまじ能力が高いせいだ。
 ――――結局、生体兵器なんてのは特殊能力があるってだけの人間だ。どんな能力かさえ把握できれば対策はいくらでも立てられる。
 ――――まずは敵を冷静に観察しろ。お前らがそうであるように、敵だって何かしら弱みがあるはずだ。

「おい和也! 降参しろ! もうあとが無えぞ!」

 烈火の必死な声がヤジに混じって響き、和也の背中にどん、と壁が当たる感触。
 壁際まで追い詰められた和也の鼻先にソードブレイカーの切っ先を突きつけ、殲鬼が余裕の顔でせせら嗤う。
「ククク、降参するか? 土下座して命乞いすれば考えてやるぜ」
 助けてやるとは言わない殲鬼の顔に、ぺっ! と和也は返事代わりに唾を吐きかけた。
「オーケー。死ね」
 表情を消した殲鬼が、ソードブレイカーを両手で大上段に構える。防具もろとも人頭を叩き割る兜割りの構えだ。和也の頭が両断されるのを想像したのか烈火が思わず駆け出そうとしたが、その前に手を突き出した美雪に止められる。
 轟、と唸りを上げて振り下ろされる敵刃。和也は目を逸らさずにそれを凝視し続け、次の瞬間、がつっ――――! と激突音に大気が震えた。
「ぬ」
「な……!」
「…………」
 殲鬼の口から呻きが漏れ、烈火は驚きの声を上げ、美雪も僅かに目を見張る。『天の群雲』の囃し立てる声もぴたりと止まった。
 振り下ろされた刃は、和也の左手のナイフと、それを下から支える右腕の籠手によって受けられ、止められていた。強化された筋力による兜割りが、だ。
「軽いんだよ、あんたの剣は……!」
 吼え、和也は身体を捻るように鍔迫り合うナイフを傾け、殲鬼のソードブレイカーを流す。押し切れるとばかり思っていた殲鬼はこれに対応しきれず、刃を勢いのまま強化コンクリートの壁に食い込ませる。
 ――腕力は相当に強いけど、一撃の重さは烈火や奈々美のそれに比べると少し軽い。同じく脚力も、美雪のような高機動力を発揮できるほどじゃなさそうだ。きっとエネルギー消費との兼ね合いだな……
 追い込まれつつも、実際何度もなく刃を交わして感じたのがそれだ。
 人工筋肉は動作に多量のエネルギーを消費する。奈々美と烈火は腕に、美雪は足に限定してそれをインプラントし、それでも多量の食事やカロリー注射、あるいは電池という形で補う必要がある。
 地球の技術を取り入れたとはいえ、そんなものを両手両足に組み込んだら負担が大きくなりすぎる。だから殲鬼は若干出力を落としてバランスを取っているのだ。
 ――ここまでの打ち合いで確信した……結構ギリギリだけど両腕できっちりガードすれば防ぎ切れる。これなら……戦える!
 刃が思いのほか深く壁に食い込み、一瞬だが殲鬼の動きが止まった刹那、和也は右の拳を殲鬼の眉間へ力の限り叩き込む。「ぐえ!」と痛そうに呻いた殲鬼がソードブレイカーを手放し、ついに一歩ながら後退する。
 ――盾身と同じ防弾防刃化された表皮……でもそれだって無敵なんかじゃない!
 ライフル弾程度なら防ぎ切れる強度の防弾皮膚、その上に戦闘服を着込めばさらに強固な守りとなるが、唯一防ぎきれないのが衝撃によるダメージだ。緩衝材としての機能がない以上、弾は防げても着弾の衝撃は身体に届く。実際それで盾身は被弾による骨折や打ち身を何度も負っていた。
 要するに、物理で殴れば普通に効くのだ。
「おおおおおおおおおおおお……!」
 咆哮と共に右の拳を二発三発と叩き込み、そこから裏拳、膝関節への蹴りと攻撃を繋げて殲鬼に片膝を付かせる。さらに和也の胸の高さに落ちた殲鬼の頭目掛け、左手に握ったナイフの柄尻を力任せに叩きつける。ついに殲鬼の頭から赤い血が飛び散り、派手な金に染めた髪が赤く染まりだした。
 いけるかと思ったが、もう一発と振り下ろした鉄槌は殲鬼の右手に止められ、左の掌底による反撃がきた。右腕で受けて一歩後退。殲鬼はそれを逃さず反転攻勢に出ようと右足での蹴りを放――――とうとした。
「んだと……!」
 殲鬼の顔が歪む。
 蹴りを放とうとした右足は、先んじて動いていた和也の左足に膝関節を押さえられ、止められた。ストッピング――――腕にせよ足にせよ、攻撃動作のために曲がる関節を押さえれば攻撃を止められる。言うのは容易いが、実際には相手の動きを正確に先読みする観察眼と判断力が求められる高等技術だ。
 月臣との訓練により、ここまでの技術を会得した……と言うには時間が足りなすぎたが、
 ――生体兵器共通の、そして一番の弱点……便利な能力に頼りすぎて、己の技術や感覚を磨くのが疎かになり、動きが単調になる!
 蹴りを止められ一瞬硬直した殲鬼の驚愕した顔に右フック。お返しに振るわれる左の裏拳を腰を落として避け、懐へ飛び込んでの肘打ち、そして膝蹴り。次いで両腕を頭上で交差させ、上から打ち下ろされた殲鬼の右の鉄槌をガード。間伐入れずに両手を下げて今度は膝蹴りを止め、腰を捻って右の中段蹴り、その勢いを殺さずに左回転しての左後ろ回し蹴り。
 致命傷にはならないまでも確実に攻撃を当て、殲鬼の攻撃は的確に避けるかガードする。攻守が完全に逆転し、今度は殲鬼が後退し始める。
「お、おい、隊長が圧されてるぞ……」
「なわけねえだろ、まだ遊んでるんだよ……」
「た、隊長、大丈夫なのか!?」
 徐々に戦闘の風向きが変わり、『天の群雲』の間にも動揺が広がる。
 元々和也を完膚なきまでに叩きのめし、手下に己の力を誇示したくて受けた一騎打ちで逆に圧され、殲鬼は内心かなり焦っているはずだ。和也とて殲鬼の重い一撃を受けるたび腕が軋みを上げていたが、きっとチャンスは近いと踏んでいた。
「がぁあああああっ! 生意気なんだよガキが! 調子に乗ってんじゃねえ――――!」
 憤怒の咆哮を上げ、殲鬼が両手を広げて猛然とタックル。防御力と膂力にものを言わせて掴みかかり、一気に決める気か。
 ――ここだっ!
 刹那、和也は掴みかかろうとする殲鬼の腕を右へ身体をひねって避け、戻る勢いで殲鬼のこめかみをナイフの柄尻で一撃。よろける殲鬼の背後へと回り、飛びつくように両手を殲鬼の頭にかける。
 ――頚椎をへし折ってしまえば……!
「うがああああああああ――――――っ!」
 勝ちが見えたと思った時、殲鬼が雄叫びと共に遮二無二暴れだす。この勝機を逃すまいと必死にしがみ付く和也だったが、戦闘服のうなじにあるハンドルに殲鬼の手がかかり、やばいと思った次の瞬間、和也は上体を前傾させた殲鬼の背中から空中へと投げ飛ばされていた。
 ――しまっ……!

 空中で身動き取れない和也の身体が地面に落ちるより早く、殲鬼の右ストレートキックが胴へ突き刺さった。「がはっ!」と苦悶を漏らして吹き飛んだ和也は数メートルを転がってようやく止まる。
 喉元から嫌な感触がこみ上げてきて、「ぐ……ゴホッ、ゴホッ!」と激しく咳き込むと、口元から離した掌に若干の血が付着していた。
 ――肋骨が何本か折れてる、肺も少し傷付いたか、くそっ……!
 折られた肋骨がズキズキと悲鳴じみた痛みを発し、地面に打ちつけた全身も痛くてたまらない。おまけに肺を損傷して呼吸も苦しい。
 勝ちのチャンスを逃し、逆に重傷を負った事に歯軋りするが、その時視界の隅に先刻落とした88型リボルバーが落ちているのが目に入り、痛む身体を押して手を伸ばす。
 だが銃に手が届くより先に、殲鬼の足が右腕を踏みつけにした。
「ぐあ!」
 腕が折れそうなほど強く踏みつけられ、苦悶を漏らした和也の眼前、拾おうとした88型リボルバーは蹴飛ばされ遠くに転がっていった。
「手こずらせやがって、ガキがぁ……」
 頭上からの苛立った声に顔を上げると、顎から血の雫を滴らせた殲鬼が憤怒の形相で見下ろしていて、片足で和也の右手を押さえつけたままもう片方の足で頭を踏みつけにきた。
「死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ねや! 死んじまえ!」
 殲鬼が一つ死ねと言う度に振り下ろされる暴力的なストンピングから、和也は動く左腕で必死に頭を守る。額を血が流れ落ち、口の中にも鉄の味が広がる。腹まで蹴られて先刻食べたミートパイを吐きそうになるが、まだチャンスはないかと片目だけは開いていた。
「おい! もうやめてくれ隊長!」
「――烈火!? バカ、よせ!」
 その時、あろう事か烈火が後ろから殲鬼に掴みかかり、和也は思わず叫んでいた。
 殲鬼から一方的に暴力を受ける和也を見かねたのは、烈火の性格上理解はできる。だが相手が悪すぎだ。
「もう十分だろ!? 生け捕りにすれば十分説得できる! だから――――」
「邪魔すんじゃねえ!」
 言うが早いか、殲鬼の肘打ちが烈火のみぞおちに容赦なくめり込む。烈火が「うごぉ!?」と呻いて巨体をくの字に折ったところへ裏拳一撃――――たまらず倒れる烈火を怒りでぎらつく目で見下ろし、殲鬼はチッと舌打ちする。
「また裏切る気かてめぇ? 俺様は地球人みたいに甘くねえぞ」
 高圧的に言い放ち、ポーチから取り出したのは間違いなく烈火の戦闘服に仕込んだ爆弾の起爆スイッチだ。こんな簡単に起爆する気かと戦慄し、スイッチを奪おうと左手を伸ばしたが届かず、逆に顔面に蹴りを食らう。
「これは裏切りへの制裁だ。自業自得だぜ」
「やめろーっ!」
 叫ぶ和也の目の前で、殲鬼が起爆スイッチを押し込む――――
 刹那、突然外に続くシャッターが爆破され、近くにいた兵が数人吹き飛ばされた。
「な!?」
「ああ!?」
「なんだあ!?」
「あれは……」
 全員の注意が向く中、爆破されたシャッターの穴から二台の反重力車が飛び込んできた。そのうちの一台からは数人の人影が飛び出し、乗り捨てられた車はそのまま進路上にいた『天の群雲』兵二人を跳ね飛ばして壁に激突、大破炎上する。
「和也っ!」
「和也さん、無事ですか!?」
「……救援に来ました、和也さん……!」
「みんな!」
 飛び出してきた三人――――『草薙の剣』メンバーの無事な姿を見た和也は喜びの声を上げる。
 直後、もう一台の車が猛スピードで和也と殲鬼目掛けて突っ込んできて、その運転席でハンドルを握っている女の顔を見てぎょっとした。
「わたしもいるわよ、和也ちゃん!」
「し、白鳥さん……!?」



 ――――数分前。

 もう避けられない距離でバッタが銃口を開き、ユキナが心の中で、ああミナトさんユリカさんそれにルリ先立つバカなわたしをお許しくださいお兄ちゃん今そっちに行っちゃいます嫁入りの報告もできなくてごめんなさいああでもいつものアレは勘弁してください――――と懺悔した時、バッタが目の前で爆散した。
「あ、あれ、生きてる?」
 状況が解らず、きょろきょろと周囲を見回すユキナ。
 すると、後方からもう一台の反重力車が急速に追いついてきて、ユキナの車の横で併走する。オープントップのその車からこちらを見ている連中の顔を見て、ユキナは「あっ!」と声を上げた。
『そこの車、大丈夫ですかっ!?』
『こんな所で何して……ってあんた、白鳥じゃないの!?』
『……ユキナさん……なぜあなた独りで?』
 ユキナの周囲にウィンドウが開き、妃都美、奈々美、そして美佳が無事な姿を見せる。
「あんたたち、捕まってなかったのね!」
『ええ、危なかったですが、彼に助けてもらったので……』
 彼? と小首を傾げるユキナの前に『それは私だ』ともう一つウィンドウが開く。木連軍の尉官用制服を着た、少し貧弱そうな印象の30前後と思しい男。記憶を辿ったがユキナには覚えのない顔だ。
「えーっと……誰?」
『森口修二と申す者だ』
「森口……あれ、たしか火星の後継者の残党グループにそんな名前があったような……」
『その通り。火星の後継者『森口派』とは我々の事だ』
 それって敵なんじゃ……と身構えるユキナだったが、『いえいえ』と妃都美が止めた。
『火星の後継者を名乗ってはいますが、彼らは敵でなければテロ組織でもありません。私たちを匿ってくれたのも……皆さんを港湾に誘導したのも彼なんですよ』
『ちなみに宇宙港ゲートの管制室を制圧したのはあたしたちよ。ちょっと苦労したけどね』
『……皆さんが無事で何よりです。制圧が遅くなって申し訳ありませんでした……』
「あれってあんたたちだったんだ……でもなんで火星の後継者が、わたしたちに味方してくれるの?」
 訊ねたユキナに、『我々に地球と敵対する意志はもうない』と森口。
『我々は2年前に統合軍から火星の後継者に合流はしたが、その後月臣少佐の説得を受け入れた者たちの集まりだ。草壁閣下に賛同はしたが、暴力的手段による政権転覆を図る火星の後継者のやり方にも疑問があったからな』
 熱血クーデターから火星の後継者蜂起までの3年間、統合軍の一員として地球人と同じ釜の飯を食った彼らは、木星で教えられた悪魔の如き地球人像が全てでない事を肌で感じた。だからこそ月臣の演説に背中を押される形で武器を捨てたわけだが、一方で地球連合のやり方や木星に対する態度への怒りを捨て切れてもいなかった。
『優柔不断と言われればそうだが、どちらのやり方にも賛同できなかった。だから我々は火星の後継者を名乗ったまま、非暴力的なやり方で問題解決への道を開こうとしたのだ』
 しかし、それは過激さを増す火星の後継者にとっては、許しがたい裏切り行為に見えたのだろう。メガフロート『高天原』での演習を妨害しようとしたのを殲鬼率いる工作部隊によって本当のテロに仕立てられ、関わった人間は殲鬼と、ユーラシア同盟の火星の後継者シンパによって口を封じられた。
『完全にテロ組織の一翼と認定されてしまった我々は、やむなく木星各地でずっと身を潜めていたが、君たち『草薙の剣』が木星人の生存権をかけて戦っているのはメディアを通じ見ていたよ。我々も志は同じだ。戦争を終わらせるためなら、協力は惜しまない』
『だそうです。私たちはこのまま警備隊施設に向かって、和也さんを助け出しますから、白鳥さんは……』
「わたしも一緒に行く! そのために来たんだから、ダメって言っても付いてくからね!」
『ちょっとちょっと、あんたは戻りなさ……って、戻れる状況でもないわね……』
 奈々美は面倒臭そうに頬を掻く。戻るためにはまたあの砲台が林立する中を突破しなければならず、ヒカルとイズミが戦闘を継続しているのか砲声が断続的に響いてくる。バッタが飛んできた事からも来た時のように素通りさせてくれるとは思わないほうがよさそうだ。
『はあ、こうなっては仕方ありません。一緒に行きましょう』
『……私たちが護衛しますが、くれぐれも敵に近付かないようにお願いします……』
『ったく、危ない真似するんじゃないわよ?』
 渋々動向を許可した奈々美たちに、ユキナは「へへへ、ありがと」と感謝の笑みを浮かべた。



 かくしてユキナと『草薙の剣』の三人は道中何機かのバッタに追尾を受けながらも警備隊施設に急行し、美佳のレーダーで和也が車両格納庫で戦っているのを探知、シャッターをロケット砲でぶち破って乱入した。
「てめえら、あいつらを殺れ!」
「了解ですわ。行きますわよ」
「お、おう……」
 応戦するよう殲鬼が命じ、美雪と烈火を含む『天の群雲』が和也・殲鬼と『草薙の剣』との間を遮るように展開。激しい銃撃戦が始ま――――ろうとした時、少し遅れて突入してきたもう一台の――ユキナが運転する――反重力車が猛スピードで突っ込んできた。
「おいコラァ! 白鳥! 危ない真似するなって言ったでしょうが!」
 奈々美の静止も聞かず、反重力車が『天の群雲』兵を蹴散らし、殲鬼に正面から激突する。殲鬼は車のボンネットにしがみ付く形となり、割れたフロントガラス越しにユキナと目が合った。
「てめえ、白鳥九十九の妹か!?」
「ええ、また会えたわねこのド変態! 前のお返しはさせてもらうわよ!」
 中指を立てて挑発するという淑女にあるまじき行為を見せたユキナは、このまま壁に衝突させて殲鬼を押し潰すつもりだったが、「舐めんじゃねえこのアマ!」と叫んだ殲鬼は両足を地面に付いて踏ん張る。驚いた事に、両足から激しい火花を散らしながらも殲鬼は壁に激突するギリギリで反重力車を止めて見せた。
「女が、それも軍人でもねえくせにこんなとこに来やがって! あんたはクスリぶち込んだあとでまわしにかけて、ナデシコの連中にその様子を生中継してやるよ!」
「相変わらず下品な上に化け物じみた奴……だったら、これでどう!?」
 ユキナが取り出したのは、両手に三個づつ握られた破片や焼痍の手榴弾だ。計六個のそれら全ての安全ピンを抜き、アクセルの固定を確認した上で飛び降りる。反重力車を押さえたまま動けない殲鬼が「てめっ……!」とユキナを睨んだ次の瞬間、六発の手榴弾が炸裂。殲鬼の姿が炎の中に消える。
「ざまーみろっての! ミナトさんにいやらしい目を向けた報いよ……っ!?」
 やったと思ったユキナだったが、眼前の炎の中から飛び出してきた二本の腕に首を掴まれ、そのまま押し倒された。全身に破片を浴び、炎に包まれながらも殲鬼は鬼の形相でユキナに覆いかぶさってくる。
「やってくれたなこのアマ、生かして帰さねえぞ……!」
「ホントにしぶとい奴ね……! でも、あたしに構ってる余裕なんかないわよ!?」
「その通り!」
 その声にはっと顔を上げた殲鬼の顔に、強烈なサッカーボールキックが炸裂。ゴキリと鼻が折れる鈍い音を立てて殲鬼の身体が転がる。
「戦闘中に女に目移りしてんじゃないよ、あんたの相手は僕だ!」
「クソが、どいつもこいつも……!」
 起き上がった殲鬼は折れた鼻をボキッと戻し、和也たちを睨みつけてくる。その目は機械のそれに置き換わってなお妄執に取り付かれたぎらつく光を放っていた。
「和也ちゃん、これ使って!」
 言ってユキナが投げ寄越したのは、鞘に収められた木連軍刀だ。鞘にも柄にもかなり傷が見て取れ、相当に使い込まれた品だと知れる。
 キャッチすると同時に抜刀――――まるで新品のような銀色の輝きを纏った刀身が露わになり、思った以上に手に馴染むそれを殲鬼へ振るう。対する殲鬼も和也が剣を手にしたのを見て数歩後退し、壁に突き刺さったソードブレイカーを引き抜いて応戦。二振りの剣が激突し、文字通り火花を散らす。
「お兄ちゃんの剣よ! 和也ちゃんなら、きっとお兄ちゃんが守ってくれるから!」
「白鳥九十九少佐の……ありがとう。ありがたく使わせてもらう!」
「大事な形見なんだから、折ったらぶっ飛ばすわよ!?」
 いささか難しい要求を突きつけて、ユキナは妃都美たちの元へと走る。しかしその背中目掛け、和也と切り結びながら殲鬼が叫ぶ。
「てめえら、白鳥の妹も殺せ! 絶対に逃がすんじゃねえぞ!」
「くっ、あんたって奴は……!」
 卑劣なユキナへの攻撃命令に、殲鬼に背中を見せる危険を冒してでも守りに入るべきか一瞬迷ったが、「大丈夫!」とユキナは気丈に答えた。
「こっちは気にしないで、和也ちゃんはそのクソ野郎をぶちのめしちゃえ!」
 そう言われても危なっかしいのは変わらないのだが、ユキナは迫ってきた『天の群雲』兵の胸に掌底を打ち、怯んだところへ上段蹴りで蹴り倒した。即席とはいえ生体兵器に引けを取らないユキナの実力に、今更のように唖然としてしまう。
「ザコなんか怖くない! 木連婦女子心身協力隊準構成員、会員番号21番! エリート候補生甘く見ないでよ!」
「言葉は汚いですが同感です!」
 銃声一発。ユキナを背後から狙っていた『天の群雲』兵の眉間を撃ち抜いた妃都美が和也へ拳を突き出す。
「白鳥さんは私たちが守ります! 気にせず戦ってください!」
「男のタイマン邪魔する奴は、馬に蹴られて三途の川行きってね!」
 叫び、奈々美渾身の右ストレートが炸裂。戦闘服の胸プロテクターを陥没させた『天の群雲』兵が文字通りぶっ飛ばされ、もう一人の兵と衝突して仲良く動かなくなる。
「ザコはあたしたちが引き受けるから、殲鬼を叩きのめしなさいな! 訓練兵時代の恨みを晴らすいい機会だわよ!」
「……彼の数々の悪行、神が許しても私たちが許すわけにはいきません……必ず、殺された全ての人の無念を晴らしましょう。そして……」
 物陰から隙を窺い、跳躍で飛び出してきた脚力強化型の兵を、飛び出すと同時にPDWによる射撃で撃ち落とした美佳は、烈火と美雪――――かつての仲間に向けて言う。
「……烈火さんに美雪さん。あなたたちを必ず取り返します……」
「んだよ、揃いも揃って迷いのない顔しやがって……なんで先輩方を殺した女の下で、そんな顔できんだよ!?」
 数的不利な状況でも躊躇いなく向かってくる『草薙の剣』の姿に、たまりかねたように烈火が叫ぶ。
 烈火からすれば、悪逆非道な先輩方の仇であるユリカから和也たちを助け出そうと思っていたのに、いざ再会したらあの時の混乱が嘘だったかのように、迷いなくユリカの味方として立ち向かってくる。それが理解できない――――といったところか。
 美雪は無表情のまま何も言わないが、きっと同じ事を考えているのだろう。
 ――悪いね、二人とも。
 殲鬼に二人の命が握られている現状、何も言ってやれない事を内心で詫びる。せめて一発ぶん殴って連れ帰った後でゆっくり話し合おう。
 そのために。
「二人に付けた首輪、握った手首ごと切り落としてやる!」
「チッ……! しつこい! しつこいしつこいしつこいしつこいしつこいんだよてめえはよぅっ!」
 折れず引かずに立ち向かってくる和也に、苛立った声を上げて殲鬼がソードブレイカーを縦一文字に切り下ろす。まともに剣同士で打ち合えば押し切られ、頭蓋を叩き割られるであろう一撃を、和也は受けた刀身を左腕の籠手で支えてどうにか受け切る。
「ここで俺様たちに勝っても、待ってんのは世界を二分しての大戦だぞ! そこでてめえらは地球連合に都合のいい兵隊として、地球人同士の戦争に狩り出されて、ボロ雑巾みたく捨てられる! 俺様だったら死にたくなるな!」
 殲鬼が剣を押し込む力を強め、ぐぅ、と和也は呻く。
 生体兵器の膂力を生かして、強引に押し切られれば敵わない。剣を左へ傾けて敵刃を流し、距離を取ってから繰り出すのは木連式抜刀術、突きの中段技、牙突。下半身全体をバネのように使った超速の踏み込みから殲鬼の頭部、強化された皮膚に守られていない眼窩目掛けて射出される、杭打ち機パイルバンカーの如き刺突。
 必殺を期して放ったそれは、しかし殲鬼のソードブレイカーに受け流されて狙いを外され、カウンターで柄尻による殴打を額に食らう。咄嗟に頭を傾けて意識を持っていかれるほどのダメージは避けたが、額左側の皮膚が裂けて出血する。
「地球人にアゴで使われるなんざまっぴらだ! それより俺様は、人を踏みつける立場でいてえんだよ! もう誰にも踏みつけられないためにな!」
 剣を振るいながら殲鬼が叫ぶのは、狂的なまでの人を踏みつける立場への執着と、踏みつけられる立場に戻る事への恐怖。
 法の手が届かないスラムで生まれ育ち、人への信頼を毛筋ほども持たぬまま成長したゆえに持つドブ底の論理だ。
「勝ち馬に乗って将来安泰のつもりだろうが、てめえらは結局生体兵器、戦争の道具だ! そんな都合のいい未来どこにもねえんだよ! それでもまだ歯向かうってぇのか!」
 和也たちを詰る言葉と共に振るわれる刃。繰り出されるのは木連式の難度Aの技のオンパレードだ。殲鬼もまた、北辰より伝授された木連式の技術を総動員して和也を追い詰め、和也はそれらの技を懸命に捌く。
 ――言ってくれるよ。確かに的外れじゃない……けどね!
「ああまったくの同感だよ! でもそれは沢山ある未来の一つでしかない!」
 叫び、和也は殲鬼に向けて跳躍。空中で身体を一回点させての渾身の斬撃を放つ。
 その瞬間、殲鬼の口の端がニヤッと歪み、剣の峯と刃を裏返す。ソードブレイカーの突起に和也が持つ九十九の剣の刃を挟み込んだ殲鬼は、手首を捻って剣をへし折ろうとする。
 ――かかった!
 刹那、和也の右足が翻る。
「なんだと!?」
 炭素合金の刃が折れる硬質な音。刃を根元近くから折られ、驚愕の声を上げたのは殲鬼のほうだ。
「悪趣味な剣振り回してる上に、発想が見え見えなんだよ、あんたは!」
 先の一瞬、和也は左足を地面につくと同時に右足での上段蹴りを放ち、殲鬼が持つソードブレイカー、その刃の腹を蹴り折ったのだ。追い詰められた和也が一か八か渾身の一撃を放てば、和也の心を折ってやりたい殲鬼はチャンスと見て剣を折りにくる。そう踏んだ上での賭けだった。
「大戦はないし、僕たちが起こさせない! それが僕たちを兵器から人間にしてくれた秋山さんや、澪や、母さん、ナデシコ部隊のみんなへ報いる事、せめてもの恩返しだ!」
 驚愕を張り付かせた殲鬼の顔面に肘打ち、剣の柄尻での打撃と攻撃を繋げる。「チィッ……!」と舌打ちした殲鬼は牽制に折れた剣を投げつけ、左拳を下段から振りぬく。和也の顎を砕くその一撃は、しかし先んじて振り下ろされた和也の右肘によるエルボーブロックで逆に砕かれる。
「ぐがあっ!? ふざけんなよこのガキが……てめえが、てめえらが俺様より上にいてたまるかぁ――――!」
 砕かれぐしゃぐしゃになった左拳の痛みに悲鳴を上げながらも、自分を踏みつけるもの全てに対する怨嗟を込めた、殲鬼の右拳が迫る。
 戦争と軍備強化ばかり考えて、人の暮らしに目を向けなかったかつての木星のありようが、このモンスターを産んだのだろう。せめてもう少しまともな家庭に生まれていれば、あるいはどこかでまともな施設に保護され、まともな環境で育つ機会があれば、殲鬼もここまで心が歪む事はなかったのだろうか。
 もううんざりだ、と心底思う。
 こんな哀れな怪物を産んでしまうような社会も、
 そんな社会にしてしまった木連の妄執も、
 全部この手で、この剣で断ち切ってやる。
 破城槌の如き圧力で迫る拳の側面に剣を叩き付け、それを左腕の籠手で支えつつ受け流して軌道を変える。和也の右のこめかみを掠めた拳が後方に過ぎ去り、その勢いを殺さず身体を半回転。右の肩越しに剣を後ろへ突き入れる。

「ぐええええええええっ!?」
 空を裂く空しい感覚でも、刃が装甲に弾かれる硬質な感触でもない、切っ先が肉へ食い込む確かな手ごたえが伝わり、殲鬼のおぞましい悲鳴が上がる。
 殲鬼は防弾防刃化された身体を過信しすぎた。盾身がアキトに殺されたように、人体の構造上どうしても強化できない箇所は守りきれない。そこを狙った刺突が、殲鬼の右目に深々と突き刺さったのだ。
「『草薙の剣』を――――」
 剣を引き抜きつつ左手に持ち替え、右の拳を硬く握る。


「僕たちナデシコ部隊を、甘く見るなああああぁぁぁぁぁっ!」

 左に身体を半回転させて放たれるは、木連式の技名も持たないただの殴撃。
 殲鬼に対する怒りと、100年の恩讐を断ち切る意志を込めた会心の一撃クリティカルヒットが殲鬼の顔面へと炸裂。憤怒と驚愕に歪んだ相貌が鈍い音を立てて砕け、その身体が力を失ってぐらりと傾ぐ。
 どう、と背中から倒れた殲鬼は、まだ戦意尽きてはいないとばかりに起き上がろうとしたが、もはや身体は動かず仰臥する。

 ――やった……のか……

 思った瞬間、張り詰めた糸が切れたようにかはっ、と咳に似た吐息が漏れ、荒い呼吸で酸素を貪る。肋骨の折れた胸は痛み、強烈な攻撃を何度となく受け止めた両腕は震えて力が入らない。
 ギリギリの勝利を掴んだ安堵感で両足は崩れ落ちそうだが、まだ殲鬼は死んではいない。歩み寄り、見下ろした殲鬼は倒れてもなお、血塗れになった顔で悪鬼の如き形相をして和也を睨んでいた。
「よくも……殺……てやる……」
「もうあんたは誰も殺せない。あんたの悪行はここで終わるんだ」
 これ以上、生かしておく意味はない。和也は逆手に持った剣を殲鬼の顔の上に掲げる。
「そこまで!」
 眼窩から脳を貫こうとしたその時、強い静止の声が響いて和也は手を止めた。
「殲鬼先輩に勝ったのは褒めて差し上げますわ。ですがそれ以上するのなら、白鳥さんの首に血の花が咲きますわよ」
 顔を上げると、あろう事か美雪がユキナを捕らえ、その首筋に『暗殺者の爪』を突きつけているのが目に入った。その隣からは烈火が泣きそうな、怒っているような顔で和也に銃口を向けている。
「ちょっと美雪ちゃん! バカな事やめて離してよ! あんたあのクソ野郎に騙されてんのよ!?」
「お黙りなさいな。下手に抵抗すれば痛いですわよ」
 文字通り目の前に刃を突きつけられ、「う……」と顔を引きつらせたユキナが身を硬くする。
「白鳥さん……!」
「二人ともやめなさい!そんな事をしてももう意味はありません!」  バタバタと妃都美、奈々美、美佳の三人が駆け寄ってくる。すでに銃声は鳴り止み、この場の『天の群雲』はあらかた制圧されたようだったが、それで安心した一瞬の隙を突かれたようだった。
「他の連中はあらかた倒させてもらったわ! あんたらも観念しなさい! 今ならまだ罪は軽いわよ!」
「観念? するかボケ! 先輩方や盾身を殺した連中に手を上げるくらいなら自爆したほうがマシだ!」
「この頑固者が……!」
 戦うのは心底嫌なくせに強情な烈火に、奈々美は歯軋りする。
「……お二人の気持ちはよく解ります。ですがそれを殲鬼先輩と、火星の後継者に利用されているのが解らないのですか……?」
「問答をする気はありませんわ。それに、もう時間切れのようですしね」
 美佳の言葉に取り付くしまもなくそう言い放った美雪の言葉と被さって、警報がけたたましく鳴り響いたのはその時だった。
 既にナデシコCと、木連軍が攻撃を仕掛けてきている今頃になって警報を鳴らす理由など、一つしかない。
「統合軍の艦隊……来たのか」
 和也は頭上を見上げて、焦燥に歯噛みする。
 統合軍艦隊と火星の後継者艦隊が激突したならどうなるか、外の連中はまだ誰も、知らない。



「統合軍第五艦隊、戦闘速度で急接近! まもなく交戦可能距離に進入します!」
「早い……!」
 ハーリーの切迫した報告を受けて、ルリは思わず爪を噛む。
 統合軍艦隊の接近をナデシコCの長距離レーダーが捉えたのは、ほんの数十分前だ。それからルリとハーリーは全力でハッキングを試みたが、結局敵の妨害と防壁を突破する決定打がないままここまで来てしまい、今に至る。
 これでもう、統合軍の到着前に事態を収拾するという当初の目標は事実上頓挫した。
「統合軍から通信です! 本艦と木連軍に向けて、直ちに戦闘宙域を離れるようにとの事です!」
「木連軍は……秋山さんはなんて?」
「統合軍の強引な介入は木連の主権を侵害していると抗議しています。ですが……統合軍は安保理決議を盾に、妨害するようなら火星の後継者に組する勢力と見なして攻撃すると言ってます!」
「なんて、バカ……!」
 ユリカとハーリーのやり取りを聞いたルリは、坂を転げ落ちるように状況が悪化しているのを感じながら、それを止められないのが苛立たしくて仕方なく、IFSシートの肘掛けに拳を叩き付けてしまう。
 それを一瞥したユリカも、「ルリちゃん落ち着いて」と窘めはしたものの、それ以上咎めるような事は言わなかった。ユリカでさえ、万策尽きかけているのだ。
「……仕方ありません。今は従うよう木連軍に伝えて、ナデシコCも一時下がります。それから澪ちゃん。港湾内の陸戦隊に動きは?」
「それが……さっきユキナちゃんを追いかけたヒカルさんとイズミさんが戻ったらしいですが、ユキナちゃんは二人を振り切って行っちゃったらしいです。都市内の防衛システムによる迎撃が激しくて、追えなかったって……」
 搾り出すような声で答える澪の顔は、今にも泣き出しそうなほど歪んでいた。
 和也たちを助け出す目処は立たず、ユキナまで行方が解らなくなり、ミナトたちは依然として危険に晒されている。
 澪は父親を殺されただけで十分すぎるほど苦しんだのに、この上大事な人たちを一気に失いかけているのだ。不安でいてもたってもいられないのはよく解る。
 ルリも同じだ。『草薙の剣』を失うのが怖くてたまらない。何か策はないのかと人類有数の頭脳をオーバーヒート寸前までフル回転させるが、手立てが思いつかない。
「……場所が解れば、ユリカが単独ボソンジャンプで連れ帰れるんだけど」
「無茶はやめてください提督。フレサンジュ博士さんもそうやって撃たれたんですから……」
 無茶なプランを呟いたユリカを澪が止める。確かに危険すぎて論外だとルリも思ったが、それを聞いてふと思いついた事があった。
「ツユクサ上等兵。かんなづきに連絡を。ただちにナデシコCとの接舷準備にかかるよう伝えてください」
「接舷? 何か渡す物でもあるんですか」
 訝しげに聞き返した澪に、ルリは頷く。
「打てる手は少ないんです。この際思いついた手は全て打ちます」











あとがき(なかがき)

 和也たちを救うべくスタンドプレーに出てしまったユキナと、和也と殲鬼の決戦でした。てめえなんか怖くねえ! 野郎オブクラッシャーッ!

 一時期3DCG製作のモチベーションが湧かなくなり、しばらく休んでいた押絵ですが、せっかくここまできたのだからと今回少し頑張ってみました。拙い技術ですが楽しんでいただけたらと。それと流血描写が苦手な人はすみません。

 もはやこれを言うのが恒例になりつつありますが、大変、本当に大変お待たせして申し訳ありませんでした。今年に入ってから精神的にいささかしんどく、執筆に身が入らない状態が続いていまして……まあ言い訳ですが。
 自分でもなんとかしたいとは思っているのですが、どうしたらいいものやら。

 さておき次回、殲鬼を倒したものの、ユキナを人質にとられた『草薙の剣』、恐れていた統合軍の参戦により一気に激化する戦闘、そしてついに動き出す火星の後継者最大の切り札!

 それでは、次回もよろしく。










圧縮教授のSS的



・・・おほん。

ようこそ我が研究室へ。

今回も活きのいい飢えた狼SSが入っての、今検分しておるところじゃ。


遂に因縁の決着の時来たる!

『全部入り』が故の欠点を突き、みんなの力で勝利はまさに王道。

まさに美事の一言に尽きるぞ。SS研究家冥利じゃフォフォフォフォフォ。


さて。

いよいよ大詰め、『悪意』が具象化して牙を剥きつつあるこの展開。

その『悪意』の原泉はなんぞやということを、この作品は脈々と語ってきたと思う。

そして『悪意』の成長を為す術なく見送ってきた。

しかし。

しかしじゃ、それはどうしようもなく、本当に人類全員に叡智が今すぐ授けられなければ防げないものなのか?

これまで幾度となく「然り」とされてきたその答えに、儂は「否」と言えそうな微かな何かを見た気がしておる。

今後の行く末、しかと見届けたいと思うぞ。



さて。儂はそろそろ次の研究に取り掛からねばならん。この辺で失礼するよ。

儂の話が聞きたくなったら、いつでもおいで。儂はいつでも、ここにおる。

それじゃあ、ごきげんよう。







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