目的地到着のアナウンスが響き、彼女たちは顔を上げた。
 リニアモーター列車が音もなく停車し、ドアが開いたと同時に外の空気が車内へと流れ込んでくる。潮の香りを含んだその空気を深々と呼吸すると、胸の内に奇妙な感慨が沸いてきて、ホームに下りようとする足が知らず早くなる。
 年季の入ったホームの階段を上り、電子マネーを支払って改札を通ると、一気に目の前が開けて――――
 飛び込んでくる光景は、なんと言う事はない田舎町の駅前だ。既に通勤ラッシュも終わった時間のため人通りもまばらで、遠くから選挙カーの投票を呼びかける必死な声が響いてくる他には、変わった物は何もない。
 それでも彼女たちには、雄大な自然の残る景勝地や観光地よりよほど特別と言える光景に見え、戸惑ったような面持ちでその平凡な風景を見つめた。
「また……生きてここに来られた……」
 ここは彼女たちにとって、故郷と呼べる場所ではない。生まれた地でも育った地でもない。暮らしていた時間だって、長いとは決して言えない。そんな一時期を過ごしただけの場所。 なのにこんなにも心が震えるだなんて、彼女たち自身も予想外だった。
 と、そんな彼女たちの戸惑いを見て取ったのか、一人の少女がたったっと小走りに彼女たちの前に出、スカートを翻して向き合った。
「えへへ……ずっとこれ言おうと思ってたんだ」
 嬉しそうに笑顔を浮かべた露草澪は、ぽかんとした三人に向かって、ずっと暖めていた言葉を投げかける。

「オオイソにお帰りなさい、みんな」

「……はい。ただいま……帰りました」
「ええ、帰ってきたんですね、私たち……」
「懐かしい……って言うのかしら、妙な感じだわね」
 三人は――――『草薙の剣』の紳目美佳、真矢妃都美、田村奈々美は口々に、照れくさそうに言葉を返す。
 ほんの数日前、木星に帰郷した時と同じ――――あるいはそれよりずっと切実に彼女たちは思う。
 自分たちはここに、帰ってきたんだ、と。



 機動戦艦ナデシコ――贖罪の刻――
 第二十五話 帰りたい場所 前編



 時間は、その日の早朝まで遡る。
 日本国ヒロシマ県、クレ基地――――
 古くから造船業で栄えた地域に位置し、20世紀から続く日本屈指の軍港の一つ。22世紀に入ってからはヨコスカ基地などと同様地球連合軍に提供され、現在は統合軍極東方面司令部が置かれる統合軍の重要拠点だ。
 その基地全体に突如として非常事態を報せる、不愉快なサイレンの音が響き渡り、基地の統合軍将兵たちは総じて身を硬くした。

『緊急伝達、緊急伝達、未確認の機動兵器複数機の接近を確認。詳細は不明。各員は武装の上所定の位置にて待機。基地迎撃システムは不測の事態に備え実弾装填を確認せよ。繰り返す……』

 折りしも統合軍最強と謳われた第五艦隊の木星圏における壊滅、時を同じくして地球全土で同時多発的に発生した地球連合に対する各国の敵対行動という世界規模の緊急事態の中だ。当然クレ基地も平穏でいられるわけはなく、デフコン2が発令された基地内では所属する全将兵が武装した上で基地内待機し、事態の急変に備えていた。
 そんな中でのサイレン。敵襲なのか、敵だとしてどこの誰なのか、そもそも戦っていい状況なのか。将兵の間に不安と戸惑いが伝播し、誰もが武器を握り締めて持ち場に付く。
 基地全体が一気に臨戦態勢に入り、港に停泊していた艦船も大急ぎで緊急出航の準備に入る。その中に軽戦闘母艦『フリージア』の姿があった。
「機影、大型輸送機ないし小型船舶が一、エステバリスサイズの機動兵器三! 機種識別データなし!」
「相手からの応答ありません! 不明機、なおも当基地に向け急速接近中! ステルンクーゲルの最高速を上回る速度です!」
「イワクニ基地、およびコマツ基地よりスクランブル上がりました! ですが間に合いません、インターセプト前に基地へ到達されます!」
 フリージアのブリッジでは状況確認に追われるブリッジクルーの怒声が響いていた。
 近隣の基地からスクランブル発進した友軍機が間に合わない、いっそ見事と言っていい奇襲。これが敵性勢力による攻撃だとしたら大事だと、『フリージア』のミナカタ艦長は爪を噛んだ。
「なぜもっと早くに探知できなかった!? レーダーサイトは居眠りでもしていたのか!」
「不明機は宇宙軍の識別信号を出していまして、IFFが当初友軍機と判断したため警報が遅れたようです。現在、基地司令部が宇宙軍に問い合わせを行っていますが……」
「宇宙軍だと……? いったい何の真似だ、いや欺瞞信号か? とにかく発進可能な艦載機を一秒でも早く発進させろ。攻撃の兆候があれば撃墜も許可する!」
「不明機、まもなく艦砲の射程圏に入ります! ……あっ、不明機、射程のギリギリ外側で停止!」
「停止? 敵意はないのか……?」
「不明機の光学映像出ます!」
 大きなウィンドウに不明機の望遠映像が映し出され、その瞬間おお、とブリッジクルーたちの間から驚愕とも感嘆ともつかない声が上がる。
 それぞれがバラバラな艤装を施した、異形の機動兵器が四機。まるでアニメか何かに搭乗する架空機のように派手な兵装や巨大な武装を装備している姿はふざけているのかとミナカタ艦長は思ったが、クルーの間からは「なにあれカッコいい……」「アニメの主役メカみたいだ……」などとこぼす者もいた。
 と、敵意が無い事を示して両手を挙げるそれら不明機の胸部装甲が開き、コクピットからパイロットらしき連中が顔を出す。
「な、あの連中は……!」
 パイロットの顔を見て、ミナカタ艦長以下ブリッジクルー全員が驚愕に目を見開く。
 見間違いようもない。数日前に自分たちとこの艦がカリストへと送り届けた、JTU第五小隊の残余。彼らの状況報告を目的に別ルートで潜入した第八小隊共々全滅したとばかり思っていたのだが、
「『草薙の剣』……生きていたのか。しかし原隊復帰もせずにあんな機体で乗り付けて、いったい何のつもりだ……」
「艦長、その『草薙の剣』から、本艦に向けて通信が入っているのですが……」
「……繋げ」
 なにやら嫌な予感がしていたが、とにかく通信に応じる。
 すぐに四つのウィンドウが表示され、それぞれ特注品と思しい重厚なパイロットスーツに身を包んだ『草薙の剣』メンバーが、妙に不遜な顔つきで敬礼してきた。
『こちら、JTU第五小隊『草薙の剣』。隊長の黒道和也軍曹です。ミナカタ艦長。報告が遅れて申しわけありません。隊員一同ただいま帰還致しました』
「ご苦労……と言いたい所だが、その機体は何だ。敵襲と誤認して撃ち落すところだったぞ!」
『それについてはお騒がせした事をお詫びします。ですがこっちにも大事な話があったので押しかけました』
「……用件はなんだ」
『いえね。僕たちだって職業軍人なわけですし、任務に対して文句は言わないつもりではいたんです』
 一応特殊部隊でありながら世間に顔を出した不届き者が、まともな扱いをしてもらえるとも思ってません、と前置きした上で、『ですが』と和也は語気を強める。
『顔の割れてる僕たちを敵地に送り込んだりしたのは、敵のリアクションを引き出してカリストへ派兵する口実を得るのが目的でしょう。僕たちは最初から全員死ぬ前提の生贄だったわけです。違いますか?』
「ぐ…………」
 低く呻いて、ミナカタ艦長は閉口した。
 和也の言っている事は多分正しい。ミナカタ艦長はただ彼らを送り届け、データ受信その他の支援をするようにとしか命じられなかったが、それだけで済まない任務なのはなんとなく感付いていた。
 見殺し同然に置いて来てしまった事は後ろめたく思っていたし、生還してくれて内心ほっとしてもいる。
 だがその後の事は、また別だ。
「……悪かったとは思っている。だがそれでどうする気だ? 我々に失望して、貴様たちも火星の後継者に寝返る気か?」
『そんな事しません。僕たちは木星人として、最後まで火星の後継者と戦います。ですが僕だってみんなの命を預かる隊長なわけですからね。言うべき事は言わせてもらいます……僕たちは』
『わわわ、わたしたちはもう、統合軍を信頼できそうにありません!』
 言葉を遮っていきなり別の声が割り込んできて、『ちょっと!?』と和也が困った顔になる。
 割り込んできたのは露草澪上等兵だ。『タケル』でフリージアから行方不明になっていたと思ったら、やはり彼らと行動を共にしていたようだった。
『わ、わたしはみんなを生かすために仕事したいんです! そりゃあわたしも兵隊ですけど、でも敵のリアクションを引き出すために死んで来いなんて言われたら、もう限界です!』
『……澪さん、気持ちはみんな同じですから落ち着いて……』
 一緒のコクピット内にいるらしい神目美佳にやんわり制され、『あ、ごめん……』と澪が引っ込み、おほん、と咳払いした和也が改めて口を開く。
『うちの子が失礼しました。とにかく……』
『澪さんの言う通り、もう統合軍から任務を受ける事はできません。私たちが望む地球と木星の和平の手助け……それは統合軍の下ではできないと確信しましたから』
『あたしだってさあ、死にたくて軍に戻ったんじゃないのよ。使い捨ての囮扱いとかごめんだわ』
『……決死の作戦に放り込まれるのは仕方ないとしても、少しは納得した上で赴きたいと思いますので……』
 続けざまに妃都美、奈々美、そして美佳が口々に抗議の声を投げてくる。それは彼らの鬱屈した不満の発露だったのだろうが、完全に発言の機会を取られた和也は涙目だった。
『ああもう……みんなも言っているように、使い捨ての囮扱いは看過できません! ですので!』
 ヤケクソ気味に言った和也に続いて、全員が白い封筒をババン! と一斉にミナカタ艦長へ突きつける。その封筒には大きく『辞表』と書かれていた。
『僕たち全員、本日付けで統合軍の職を辞させていただきます! 今日までお世話になりました!』
 派手極まる辞職宣言。ブリッジの誰もが呆気に取られ、一瞬しーんと静寂が満ちる。
「マジかよ、こんな時に勝手すぎだろ……」
「この非常時に辞表とか脱走罪もんじゃないのか……」
「まあ怒るよね……あたしも気持ち解るよ」
「そんなあ、おれ妃都美ちゃん推しだったのに……」
「美佳ちゃんが辞めるならオレも辞めようかな……いてっ」
 ひそひそとクルーたちが好き勝手な事を言い交わす。中には自分も辞職しようかと言い出して小突かれる者もいた。
 そんな中、フリージアの副長がミナカタ艦長に耳打ちする。
「……艦長……付き合っていられません。艦載機を発進させて連中を拘束させましょう」
「よせ……わざわざ機動兵器で押しかけたんだ。黙って捕まる気はあるまい」
 デフコン2が発令された中で辞表など、副長の言う通り拘束した上で謹慎、最悪軍法会議ものだが、『草薙の剣』が着陸命令に応じず逃げるようなら力づくで強制着陸させるしかない。しかしこの非常事態下では一発の威嚇射撃でも余計な憶測を呼ぶ。
 民心を動揺させるような真似は絶対にできない。『草薙の剣』もそれを見越した上で押しかけたのだろう。さりとて簡単に辞表を受け取ってやるわけにもいかず唸っていると、
「艦長……基地司令部から通信が来ました。その……『草薙の剣』の辞表を受理しろと……」
 どうやら彼らの『再就職先』がもっと上のレベルで話を付けていたらしい。
 だったら『草薙の剣』自らここへ現れる必要もないだろうに、統合軍への抗議……むしろ嫌がらせのつもりか。
 それに考えが至った瞬間、ミナカタ艦長の脳内でプツンと音がした。
 この数日、地球全土で発生した非常事態を前にピリピリしていた事もあって、ミナカタ艦長の忍耐力もそろそろ限界だったのだ。
「了解した。辞表は受理してやる」
「か、艦長……」
「こんな時に逃げ出すような兵は要らん。今日までの給与を受け取ってどこへなりと消えろ! YOU ARE FIREDお前たちはクビだ――――!」



 数時間後。ヨコスカ基地停泊中のナデシコC艦内、ブリーフィングルーム。

「というわけでみんな、宇宙軍への再就職おめでとうございまーす!」
 ミスマル・ユリカ准将が音頭を取り、次いで居並ぶクルーが「おめでとうー!」と拍手。さらにパンパン! と一斉にクラッカーが打ち鳴らされる――――というアニメーションと音声がウィンドウの中で再生された。
「そしてこの場で、ナデシコCに機動兵器部隊、兼陸戦部隊、『草薙の剣』を新たに編成し、みんなには艦載機パイロット兼、陸戦要員としてそこに配属を命じます! あらためてよろしくね」
「黒道和也『中尉』拝命します!」
「真矢妃都美『少尉』拝命いたします!」
「田村奈々美『少尉』配属了解!」
「……神目美佳『少尉』謹んでお受けします……」
「露草澪『曹長』、よろしくお願いします!」
 クルーたちの拍手を浴びながら、真新しい宇宙軍の制服に身を包んだ『草薙の剣』一同は照れくさそうに敬礼を返す。その襟章が示す彼らの階級は、つい昨日までのそれと比べて大きく格を上げていた。
「統合軍の最終階級から二階級特進……じゃなくて二つすっ飛ばして再雇用なんて、恐れ多いと言うかなんと言うか……」
「わたしなんて三つすっ飛ばしだよ。世の中何があるか解んないよねえ……」
「なんかあっという間に追いつかれちゃいましたね、僕……」
 和也と澪は苦笑気味に顔を見合わせる。一つ階級を上がるだけでも相応のキャリアと評価が必要なのに、それを二つすっ飛ばしてというのは大変な特別待遇と言っていい。その結果階級で和也に並ばれたマキビ・ハリ中尉は少し複雑そうだった。
 ちなみに和也が二階級特進と口にしてから言い直したのは、やはり二階級特進とは戦死した時だろうと思ったからだ。
「大事で高価な特別仕様機を預けるからこその二階級すっ飛ばし再雇用だ。肝に命じて働いてく……いてててて」
 檄を飛ばそうとして腕を上げ、痛みに顔を顰めたのはタカスギ・サブロウタ少佐だ。
 ヴァルハラコロニーで孤立する和也たちを救出しようと単機で敵地奥深くへ進入し、六連中隊との激戦の末撃墜されたサブロウタは四肢や肋骨など十二箇所骨折、全治一週間の大怪我を負った。ナノ医療が発達した現在において全治一週間というのは重傷で、数日経過した今でも手足のギプスが取れていない。
「少佐。まだ骨が完全に繋がっていませんから無理はなさらないでください」
 そんなサブロウタに心配そうな目を向けたのは妃都美だ。そういえば帰りの途上でも妃都美は負傷したサブロウタを心配していた。
 ――妃都美って、最初は少佐に言い寄られて嫌そうだったけど……
 それがここまで軟化するあたり、なんだかんだサブロウタは凄いというのが和也の感想だった。
 思えば和也は隊長と言いながら、『草薙の剣』以外の部下を率いた経験はない。仮にこれから新しい部下を預かった時、自分はサブロウタのような上官になれるのだろうか。
 そんな和也の懊悩はさておき、サブロウタの怪我は次に出撃する頃には完治していると思うが、機体のほうが問題だった。和也たちのそれほどではないにしてもワンオフの特別機だったスーパーエステバリスのフレームが失われ、予備パーツをかき集めてももう一機は組み上がらないとウリバタケも言っていた。
 次の戦闘では代替機での出撃を余儀なくされ、以前のような活躍は難しいだろう。そこは助けられた分、自分たちが埋めねばなるまい。
 和也が考えを巡らせていると、それを断ち切るようにパン、と手を打ち合わせる音が響いた。
「……さて、歓迎会はそろそろお開きで……マジメな話、いいですか」
 拍手で注目を集め、口を開いたのはホシノ・ルリ中佐だ。その言葉を聞いて笑い合っていたクルーたちの表情が一転して真剣なものになる。
 和也たちの仲間入りを祝してご馳走でも用意し、盛大な歓迎会でも開きたいのはやまやまだったが、今の状況はそれを許すものではないのだ。
「それじゃあまずは今の状況を整理しよっか。ハーリー君。お願い」
「はいっ」
 ユリカに言われ、ハーリーが左手のコミュニケを操作。大きめのウィンドウが出現し、そこには赤、青、白に色分けされた世界地図が表示されていた。
「現在地球各地の情勢は、控えめに言っても一触即発です。ユーラシア同盟のように国ぐるみで地球連合に敵対宣言をした国、クーデターで政府がひっくり返って反地球連合的な勢力に乗っ取られた国など、多数の国が地球連合からの離脱を宣言しました。まだ明確な態度を表明していない国も含めると、地球諸国の半分以上は敵に回るか、その可能性がある感じです」
 ウィンドウの世界地図に表示された各国は、東アジア連合(EAU)やヨーロッパ合衆国(USE)、そして北アメリカ連合などの主流国やその周辺が地球連合派――――つまりは現状の味方を示す青、ユーラシア同盟や南米連合の一部のような明確に敵対宣言をした国は反地球連合派、つまりは敵を示す赤に色分けされている。
 そして白は、現時点で旗幟を鮮明にしていない国だ。今いるこの日本を始め、現状では白が一番広い面積を占めている。
 しかしこれは安心材料とは言いがたい。
「まだ態度を明らかにしていない国の中には、政府機能の乗っ取りはギリギリ防いだもののまだクーデター勢力との交戦が続いている国や、どっちに付くのが有利か様子を見てるような国もかなりあります。今後の推移によってはこういう国が一気に反地球連合側に行っちゃう可能性もあって、予断を許さない状況です」
 地域で見ると南米やアフリカなどは赤青白の斑模様だが、それぞれの国内では地球連合派と反地球連合派の争いが激化している。反地球連合派の手に落ちた国が増えれば、今度は様子見を決め込んでいた国が勝ち馬に乗れとばかりに続きかねない。
 今後の推移次第だが、地球連合派が少数派に落ちる可能性も十分ある。
「こりゃもう『地球連合』とは呼べないわね。『地球の半分連合』かしら」
 苦笑気味に言った奈々美の言葉を、誰も笑ったり咎めたりしなかった。
 地球国家の半分近くから見限られた統治機構を、もはや地球連合と呼ぶには値しないだろう。地球連合はすでに瓦解したと言っていい。
 残った主流国は、その事実を簡単には受け入れられまいが……
「なんていうか……わたしたち、凄く無知で無関心だったんだなあ。人はみんな同じ『地球人類』で、一緒にやっていくのが当たり前だと……みんな同じ考えなんだと思ってた。それが許せない人たちがこんなにいるなんて……思ってなかった」
 これからどうなるんだろう、と不安げな声音で澪が言う。
『当たり前』だったものが尽く失われ、地球は混迷の時代に突入しようとしている。澪のような地球人からすれば、この状況に不安を感じずにはいられない。
 加えて、懸念はもう一つ。
「質問よろしいですか?」
「どうぞ、マヤ少尉」
「木星の現在の状況について、何か情報は?」
 妃都美が我慢できずに質問したように、彼ら木星人には木星の現状も懸念事項だった。今の状況では何が起きていてもおかしくない。
「木星は……」
 対するルリは言い難そうに逡巡した。
 それだけで木星も危機的状況にあると察するには十分で、表情を曇らせる和也たちの前で不意にウィンドウが開いた。
『木星の現状については私が話そう』
「秋山少将……!」
 戦闘の後で木星に戻った秋山元八郎の無事な姿を見て、『草薙の剣』の面々に安堵の表情が浮かぶ。
 とはいえその顔には隠しきれない疲弊の色があり、また彼が今いるのは公邸ではなく乗艦であるかんなづきの私室らしく、秋山が未だ陣頭指揮を取らねばならない状況なのが窺えた。
『木星では、カリストを始めとする複数の自治区が火星の後継者への支持と、地球連合からの離脱を表明した。彼らは我々にも同調するよう要求し、拒否するならば武力闘争も辞さない構えを見せている。現在各コロニーで国軍と、蜂起した警備隊が睨み合っている状況だ』
 木星が内戦一歩手前に陥っていると聞かされ、和也たち『草薙の剣』、そしてサブロウタ。この場にいる木星人は総じて苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。
 地球も木星も、地球連合と火星の後継者に分断され、破滅的な世界大戦が目の前に迫っている。その実感に誰もが手が震え、喉がひりつくように渇く感覚を禁じえない。
 そんな皆を少しでも安心させようと思ったか、ユリカが口を開く。
「一つ幸いなのは……今のところ国同士の武力衝突はまだ起きてないって事かな」
「はい。敵対宣言をした国の一部には、火星の後継者から給与されたと思われる戦艦や機動兵器、そして相転移砲艦の存在が確認されています。これに対して地球連合派の各国も相転移砲艦を中心とする艦隊を出して牽制に乗り出し、睨み合いが続いている感じです」
 相当に緊迫した状況ではあるが、両勢力は辛うじて拮抗し、武力衝突はギリギリのところで避けられている。
 しかし時間の問題だろう。
「今は睨み合いでも、いずれ均衡は崩れます。火星の後継者が大艦隊で地球に向かってきているからです」
 ルリがコミュニケを操作すると、もう一つのウィンドウが表示される。木星までの太陽系を簡単に現した俯瞰図の中、地球に進路を向ける艦隊が一つ存在する。
「『神在月』を中心とする火星の後継者艦隊は、統合軍第五艦隊との戦闘の後処理をしていたと思われる丸一日の停滞のあと、地球に向けて動き出しました。その戦力は他所に散らばっていた分艦隊、さらに木連の一部自治区から離反した警備隊や、国軍の一部部隊も合流した事で250隻余に膨れ上がり、第五艦隊との戦闘前よりむしろ増強されています」
「木星には目もくれずに地球に来るか……地球連合軍は対応できるのですか?」
 訊いた和也に、あまり芳しくないです、とルリ。
「離脱した国の出身者が次々に離反して祖国の国軍に合流し、その数は地球連合軍全体の六割を超えると見られています。統合軍、宇宙軍共に大規模な再編成を行わなければ軍事行動を起こす事もできません」
 多国籍軍の弱みが出たな、と和也は思った。
 地球が分裂状態に陥ったのだ。全地球規模の組織である地球連合軍は最も大きく影響を受けて当然。解っていても口惜しい。
「幸い『イワト』の中枢システムは依然として統合軍が押さえているため、火星の後継者艦隊はターミナルコロニーを使えずに通常航行で地球に向かわざるを得ません。そのため二週間は猶予があります。その時間を利用して、統合軍と宇宙軍は残存戦力を結集。態勢を立て直した上で決戦を挑む方針です」
 この先世界が火星の後継者に支配されるか、勝者なき泥沼の世界大戦に転げ落ちるのか、あるいは平和を保てるのか……次の決戦がその分水嶺になるのは間違いない。
 ですが、と美佳が手を上げる。
「……迎え撃つのは当然として……対抗策はあるのでしょうか。数的戦力での優位に意味がないのは、先の戦いでも明らかです……」
「その辺は……まだ検討中です」
 ルリの言葉に、しーん、と嫌な沈黙が満ちた。
 ただの一隻で統合軍最強の第五艦隊を壊滅に追い込んだ、巨大戦艦『神在月』。相転移砲だけでなく、ナデシコCのハッキングすら無力化するあれへの対抗策が見つからない限り、どれだけの艦隊をぶつけても勝ち目はないだろうと、あの場にいた全員が思い知っている。
 それだけに対抗策の目処も立っていないと遠回しに言われては、落胆してしまうのも無理はなかった。
「本当に大丈夫なのか……?」
「あんな化け物に勝てるのかしら……」
「いっそ降参したほうがいいんじゃないの……」
「バカ、降参なんてしたらもっと怖い事になるぞ……」
 クルーたちの言い交わす声が、ざわざわと潮騒のように広がっていく。聞き取れるのはどれも先行きを不安視する声ばかりだ。
「あ、あのー皆さん、そんなに動揺しないで……」
 クルーたちの動揺ぶりにまずいと思ったユリカが落ち着くよう促すも、どうにもできずにあたふたしてしまう。それはあたかも、打つ手を見出せないでいる現状の縮図のようにも見えた。
 つられてか、『草薙の剣』も小声で話し始める。
「何よもう……歴戦の勇士ともあろう人たちが、浮き足立っちゃって情けないわね」
「そう言わないであげてください奈々美さん。みんな軍人意識のない民間人気質な人たちですし……」
「……自分たちを目の敵にする敵に敗北し、生殺与奪権を握られるという最悪の事態を想像すれば……不安にもなるでしょう」
 ナデシコ部隊のメンバーというのは、戦争中から容易ならざる戦いをいくつも切り抜けてきた、一応歴戦の勇士と呼べる人たちのはずだった。そんな彼らでさえ、ここまで浮き足立つほど状況は切迫している。
 甲院は無用の殺戮をする人ではないが、今の火星の後継者に残るのは過激派ばかりだ。連中が地球を支配したなら鬱屈した怒りの赴くままに復讐を始めるのは想像に難くない。甲院もある程度であればガス抜きとして容認するだろう。
 そして、それを非難し、裁く事のできる存在は誰もいなくなる。
「もしわたしたちが負けたら……和也ちゃんたちはどうなるの?」
「……あんまり考えないほうがいいかな」
 不安げに問いかけてきた澪に和也はそう言ったが、内心ではやはり想像してしまう。
 捕らえられた自分たちが裏切り者として拷問され陵辱され、最期は柱に吊るされる最悪の未来。寛大な措置などまず期待できない。
 ――『草薙の剣』だけじゃない。澪も、ホシノ中佐も、母さんも、ナデシコ部隊のみんなも……ああくそ!
 そこまで想像して、和也は頭を振って不吉なイメージを振り払う。
「戦う前から負けた後の事を心配しても仕方ない! 僕たちはまだ負けてなんかいない!」
「お、おお! そうです! その通りです!」
 思わず叫んだ和也にクルーたちの注目が集まり、それにあたふたしていたユリカが食いつく。
「『神在月』対策については、宇宙軍と統合軍が合同で特別チームを組織し、先の戦闘記録と『草薙の剣』のみんなが持ち帰ってきたデータを元にいろいろ検討してます。遺跡由来のシステムって事でネルガルにも協力してもらっていますから、今は彼らを信じて待ちましょう」
 安心材料からは程遠かったが、それを聞いたクルーたちの顔に幾ばくか生気が戻った。
 少なくとも軍の上が手をこまねいているわけではない。宇宙軍と統合軍が確執を乗り越え――というよりは尻に火が付いたからだろうが――合同チームを組織したというのは本気の表れと受け取ってもいいだろう。
 その後はデフコン2に基づきナデシコCの全クルーも艦内で即応体制を取って待機する旨を確認し、解散。
 クルーが退室し始め、和也たちも腰を上げたところで「あ、ちょっと待って」とユリカに呼び止められた。
「言い忘れてたけど、みんなは特別休暇とします。すぐ戻れる範囲で外出も許可するから、はいこれ外出許可証」
 ピッ、と和也たちのコミュニケから電子音が鳴り、外出許可証を受領したとのウィンドウが表示される。いつもなら喜ぶところだったが、
「こんな時に僕たちだけ休暇? デフコン2が出てるのにいいんですか」
 デフコン2、つまりは戦争一歩手前の臨戦態勢が発令されているこの時に休暇など、いくらナデシコとはいえ非常識ではと思ったが、ユリカは「だーめ」と人差し指を振った。
「みんなあれだけ戦ったんだから、今のうちに休んでおいても誰も文句言わないよ。決戦は二週間後なんだから、今のうちに英気を養っておいて。これは提督命令です」
「ユリ母さんの言う通りだよ。あんなに戦って、怪我もしてきたばかりじゃない」
 心配そうな顔の澪にも言われ、和也たちは苦笑気味に顔を見合わせる。
 カリストで激戦を潜り抜けてきた自分たちに休息が必要なのは、他でもない自分たちが一番承知している。こんな時だからと思って遠慮していたが、どうやら皆に気を使わせてしまったようだった。
「了解しました。特別休暇拝命します。……僕はまだ少し話があるから、みんなは先に解散してて」
「はいよ。……外出許可はいいんだけど、外って大丈夫なの?」
「……日本は慣れている事もあって、まだ治安を保っているらしいです……今のところはですが……」
「緊急招集があるかも知れないから遠くには行けないが、あまり気にせず休んでいいぞ。ナデシコの事は俺たちでやっとくから……いでででで」
「休むべきなのはサブロウタさんのほうでしょ。ほら、医務室に戻りますよ」
「お大事にしてください少佐。……しかし、休めといっても何をすればいいのやら」
「わたしはとりあえず家に連絡しようかな……」
 ハーリーに車椅子を押されるサブロウタ共々、『草薙の剣』は退室していき、他のクルーもあらかた退室したブリーフィングルームには和也、ユリカ、ルリ、そして通信を繋いだままの秋山の四人が残った。
「……コクドウ隊長、話とは?」
「ええ。もう少し今後の事で」
「今後の事ねえ……ほんと、どうしたらいいのかな」
 ユリカは大げさに頭を抱える。正直、今の状況は手に余るとしか言いようのない難題が山積みだ。
 目下ナデシコ部隊のやるべき事は『神在月』を破壊し甲院を捕らえるなり殺すなりする事だが、それさえ目処も立っていない。
『おいおい頼むぞ君たち? 私なんぞは負けた暁には真っ先に処刑台に送られる身だ。頼りにさせてくれよ?』
 秋山は冗談めいた口調で言ったが、それがもはや冗談で済まされないのは明らかだ。
 こちらもため息混じりに、ルリが口を開く。
「……こんな時、イネスさんがいてくれれば、何か打開策を見つけてくれそうなんですけど」
 らしくない他力本願な言葉だったが、それはルリが彼女に寄せる信頼と、その存在を欠いた現状への心細さから漏れた言葉だったのだろう。
 ナデシコの頭脳の一つであったイネス・フレサンジュ博士は火星遺跡での戦いの最中銃撃を受け、命の危機は脱したものの今も意識が戻らないままだと聞いている。確かに火星遺跡の専門家である彼女なら、同じく火星遺跡由来の技術を使っている『神在月』対策にも何か知恵を出してくれるかもしれなかったが、昏睡状態の彼女を当てにするわけにもいかない。
「今は近くの軍病院にいるみたいだから、時間ができたら行ってみるね。……それで、なんだったかなカズヤくん」
「打開策……にはならないと思うんですが、一つお願いしたい事があるんです」
 その和也の様子に真剣さを感じ取ったユリカとルリは、表情を引き締めて次の言葉を待った。
 そして和也が口にした頼み事を聞いて――――
「……うえええ!?」
「……本気、ですか」
『……ほう』
 ユリカは目を向いて驚き、ルリは絶句のあまり開いた口が塞がらなくなり、秋山は神妙な顔で頷いた。



「……完全に手持ち無沙汰ですね。どうしましょう」
「どうしましょうつっても、どうしたもんかしらねぇ……」
 困った顔の妃都美と、同じくポリポリと頭をかく奈々美。
 共に歩く美佳と澪も少しばかり途方にくれたような顔で歩みを進めている。そもそもナデシコCの廊下を歩いてどこに行くのかと言われたら、行く当てがないからほっつき歩いていると言うしかないのが今の彼女たちの状況だった。
 ユリカから特別休暇を与えられた『草薙の剣』ではあったが、その休暇をどう使うかは予想外の難題だった。
「特別休暇はいいけど、遊びに行くような状況でも気分でもないよね」
 と、澪。
 迫る火星の後継者との決戦に向けて誰もが忙しそうに立ち働いている中、自分たちだけ休暇を与えられるのも気が引けた。ならばと整備班の手伝いでもしようかと格納庫に顔を出したところ「いやいや、お前らは英気を養ってくれよ」とウリバタケに気を使われてしまった。
 以降完全に休暇の使い道を見失った彼女たちは、手持ち無沙汰のまま艦内を当てもなく歩き回っていた。
「……せめて、何か私たちにできる事があればよいのですが……」
 美佳がポツリとそう呟いた、その時。
「……だったら、ちょっとお願いできるかしら?」
 不意に後ろから知った声がかかり、一同ぐ、と息を詰まらせる。
 声の主の顔を見るのが少し怖く、しかし見ないわけにも行かず躊躇いがちに振り向く。
「ハルカ先生……その、何か用がおありですか?」
 恐る恐るといった感じで、妃都美。
 ハルカ・ミナトは口調こそいつも通りの穏やかなものだったが、目の下には化粧でも隠しきれないほどの隈が浮き、憔悴しているのが一目で解る顔色だった。
 先ほどのブリーフィングでは話題にならなかった――多分ユリカが気を使って取り上げなかったのだろう――が、ミナトにとって家族同然の存在である白鳥ユキナは火星の後継者に――――烈火と美雪によって拉致されたままだ。本職の戦闘員でもない彼女に無茶をさせてしまったばかりか、傍にいながらみすみす拉致を許してしまった『草薙の剣』としては、ミナトに合わせる顔がない思いだ。
 今も『神在月』の中に軟禁されているだろうユキナの存在はミラーリングシステムと並ぶ『神在月』攻略の障害、端的に言えば人間の盾だ。一応この事は軍の上に伝わっているはずだが、地球が敵に支配されるかどうかの瀬戸際に、彼女一人の救出を軍が考慮してくれるかどうかは怪しいと言うしかない。
 そんな話、ミナトにはとても聞かせられなかった。
「うん……ちょっとオオイソに行ってきてくれるかな」
「オオイソに……ですか?」
「最近訓練や作戦が続いたから、私もしばらくオオイソに戻ってなくて……学校に提出したり貰って来たりする書類とか、いろいろ気になってるの」
 良かったら代わりに済ませてきてくれると嬉しいかなって、とミナト。
 ユリカなら頼めば外出許可を出してくれるだろうに、どうして自分で行かないのか――――とは誰も言わなかった。
 今帰れば、ミナトは誰もいない――――ユキナのいない自宅に独りで帰る事になる。ユキナの置かれた状況を嫌でも突きつけてくるそこに帰れば、今の憔悴したミナトではきっと心が耐えられない。
 それよりもナデシコの皆と一緒にいたいというのが、ミナトの本音なのだろう。そんな彼女のお願いを断る気など、『草薙の剣』の誰にも無かった。ついでに言えば基地の最寄り駅からオオイソまでリニアモーター列車なら30分とかからない。急いで戻らなければいけない事態になってもなんとかなる。
「解りました。手持ち無沙汰でしたし、行ってきますね」
「ありがとう。書類は後で渡すね」
「はい。それと……」
 妃都美は一度言葉を切り、他の皆に視線を送る。
 美佳と奈々美はこくりと頷きを返した。
「白鳥さんの事は、私たちに全てお任せください」
「……必ず、無事に連れ帰ってみせます……」
「約束したげるから、もうちょっとシャキッとしてよ? そんな顔先生らしくないっていうかさ」
「……ありがとう」
『草薙の剣』の励ましに、ミナトは薄く笑う。
「だけど、みんなも絶対無事でね? ユキナが無事に帰ってきても、みんなに何かあったら……私もユキナも、きっと泣いちゃうから」
 そう言って踵を返したミナトの背中を、一同は敬礼で見送った。
「難題ですね……」
 ユキナを助けるだけでも大変なのに、その上で『草薙の剣』も全員生還する――――今までより遥かに熾烈な戦いになるだろう次の決戦で、それがどれだけ困難かは想像もできない。誰もミナトに、「はい必ず」と答えられなかったくらいには。
 それでも、と美佳は言う。
「……最大限力を尽くすだけです……私たちだって、まだやりたい事も、行きたい所もあるんですから……」
「わ、わたしだって出来る以上にサポートするよ。だから絶対ユキナちゃんを助けて、みんなで帰ろうね」
 両手をぐっと握って力説する澪に、皆も笑って頷く。
 ユキナも皆も、絶対にこの戦いを生きて乗り越える。その決心に迷いはない。
 それでもあと一つ、懸念があるとすれば――――
「絶対に助けるから……それまで白鳥も、無事でいてよね」
 奈々美が呟いたように、今最大の懸念は囚われの身であるユキナの安否。
 無事だと信じたいが、ゴブリンの巣穴に取り残されたが如き今の状況では、命が無事でも別の意味で無事かどうか。
 こればかりは、今は祈るしかなかった。



 一方その頃――――
 木星軌道と火星軌道の中間、漆黒の宇宙空間を切り裂くように、無数の光が虚空を駆けている。
 火星の後継者主力艦隊。新造された、あるいは残存する戦力を残らず糾合した250隻を超える大艦隊。既に統合軍最強艦隊を壊滅させた余勢もあって、その士気は一平卒に至るまで高く燃え上がっており、その力を振るう時を今か今かと待ち侘びながら地球へと向かっていた。
 艦隊の中央、今や火星の後継者全将兵に勝利を確信させてやまない存在となった巨大戦艦『神在月』。その大きさに相応しく相当数の部屋や設備を備える艦内の一角で――――

「あああああああ! やめて、やめてーっ!」

 薄暗い部屋の中に、悲痛な絶叫が響く。
 激しく肉を打ち付けるバンバンという打撲音が響き、そのたびにビクッと跳ねた身体から赤い飛沫が飛ぶ。その様を山口烈火は冷めた目で眺めていた。
 この光景も何度目になるやら。ユキナがこの『神在月』の一室に軟禁されてからというもの、火星の後継者兵が入れ替わり立ち代わり何人も現れた。その誰もが悪意に淀んだ目をした連中ばかりで、何を目的に現れたかは聞くまでもなかった。
 そして振るわれる熾烈なまでの暴力。初めは抵抗していたが、もはや泣き叫び、許しを請うだけになっている。
 しかしこれも当然の報いなんだろうな、と嘆息する烈火。その目の前で――――

「あんたこそあたしに乱暴しようとしたんでしょうが! エロ同人みたいに、エロ同人みたいに!」
「やめっ、許しっ、たっ助けてくれーっ! 殺されるーっ!」

 顔中を殴られまくって元の顔が解らないほどの有様となった火星の後継者兵が、げしっと尻を蹴られて転げるように部屋から逃げ出していった。
「やれやれ、だからやめとけって言ったのによ……」
 呟き、用意してあった雑巾で床に飛び散った血――当然全て先刻の火星の後継者兵のものだ――を拭き取り始める烈火。一方でこの惨状を作り出したユキナは手に付いた血を洗面台で洗い流すとペットボトルの水を一気に呷り、備え付けのパイプベッドにどかっと座り込んだ。
「信じらんない。これで何人目? 学校が占拠された時もそうだったけどホントろくでもないテロ野郎ばっかり」
 同じ木星人として恥ずかしいったらないわ、と憤懣やるかたないユキナに、烈火は答えず床を拭き続ける。反論の余地などあろうはずもない、というところかと勝手に解釈し、ユキナははあっと大きくため息をつく。
 ユキナが『神在月』に監禁されて数日。欲望のはけ口を求めて、あるいはナデシコへの脅迫材料にでもしようと、この数日でユキナに危害を加えようとした不届きものの数は両手の指より多かった。トップである甲院は良くも悪くもユキナに関心がないらしく、人質として利用する気もなければこういう連中から守る気もないようだと烈火から聞かされている。
 その烈火が今こうしてユキナの部屋にいるのは、ユキナの身を守るためだった。不届き者の多くは格闘技の基礎もなっていない連中で、助けを借りるまでもなく撃退できたが、集団や武器持ちの可能性を考えると付きっ切りで警護してくれる烈火の存在は心強かった。
「あーあ、ミナトさんにジュンちゃん……みんな今頃心配してるだろうなあ。いっそシャトルでも強奪して帰ろうかな」
「おい、撃たれちまうぞ」
 脱走を仄めかしてみせると、黙っていた烈火もさすがに口を開いた。
 ユキナが監禁されながらも手足を拘束されたりせずに済んでいるのは、脱走などできるわけがないと思われているからこそだ。それを失えば身を守る事もままならないのは重々承知している。
 ――でも烈火くんと、あと一人協力してくれれば、見込みはあると思うんだけどな……
 脱走計画を割と本気で巡らせていると、不意に扉が開き、ユキナと烈火はにわかに身を硬くする。
「食事ですわよ」
 入ってきたのは美雪だった。ほっとした二人を感情の窺えない目で一瞥すると、事務的に食事の乗ったトレイを床に置いてすぐ出て行こうとする。
 そこへユキナが持ち前の瞬発力で駆け寄り、美雪の肩を掴んで止めた。
「ちょっとちょっと美雪ちゃん。そんなすぐ帰らないでもうちょっとお話ししようよ」
「話す事などなにもございませんけれど」
「こっちは山ほどあるのよ……ねえ、こんな事もうやめて一緒に帰ろう? 今だったらまだみんな許してくれるよ?」
「許しを請う気などございませんわ。もう敵同士ですもの」
「敵同士なら、なんでわたしの事守ってくれるのよ」
 会話に応じず立ち去ろうとする美雪に、ユキナも負けじと食い下がる。
 ユキナと関わりを持たないようにしているように見える美雪だが、その実烈火がユキナの傍を離れざるを得ない時などは代わってユキナを守っているのだろう。扉の小さな覗き窓から悲鳴が聞こえ、覗いてみると目鼻を削ぎ落とされて逃げていく火星の後継者兵の姿が見えた事がある。あれは美雪の仕業しかありえない。
 美雪もまたユキナを守っているのなら、説得の余地はあるはずだ。
「ほんとは和也ちゃんたちと敵対するなんて嫌なんでしょ? だったら……」
「嫌もクソもあるかよ」
 だが美雪の説得を試みていると、今度は後ろの烈火からも弾が飛んできた。
「もう敵同士なんだ。だいたい和也たちもなんだよ、あの女の事『母さん』とか呼んで……ガチでなにかされたとしか思えねえよ」
 二人の敵意が向いているのはあくまでも仇であるユリカで、和也たちと敵対するのは本意でない――――それは間違いない。だからユキナは何度もそこから突き崩そうと説得を試みるが、対する二人がユキナの説得を拒絶する決まり文句は大抵『もう敵同士だから』だった。
 裏切ってしまった後ろめたさがそう言わせるのか、あるいは自分に言い聞かせているのか、もう戦うしかないのだと二人は思い込んでいる。
 そんな事はありえない。二人が本気で和也たちと殺し合うわけがない。

 ――とは言い切れないんだよね。和也ちゃんたちには悪いけど……

 戦争で敵味方に分かれるという状況の力はとても強い。長年の親友に対する情さえ押し流して、その親友を殺させる事も十分あり得ると、ユキナはよく知っている。
 その後で、どれだけの痛みと後悔、悲しみが残るのかも含めてだ。あんな悲劇は二度と起きて欲しくない。
「何もしてないってば。それは信頼の証というか何というか……」
「信頼ぃ?」
 その声を聞いた途端、ユキナも烈火もゾクッ、と怖気に似た感覚を覚え、身体を強張らせた。
「家族ごっこで信頼? 弄ばれているに決まってるじゃありませんの、気色の悪い、馬鹿馬鹿しい……」
 それは殺気の粋にまで達した美雪の怒り。
 美雪の事は友人だと思っているユキナでも殺されるのではと本気で思ってしまい、口を閉じてしまう。美雪と立場を同じくする烈火でさえ竦み上がるほどだ。
 しまったとユキナは思った。捕まった時にも見たが、美雪はユリカたち『家族』の話に異常な嫌悪感を持っている。まるでアレルギー反応だ。
 ――そういえば、美雪ちゃんの家族っていうか、軍に入る前の事はぜんぜん知らないな……和也ちゃんたちも知らないって言ってたっけ。
「美雪ちゃん……この話になるとやたらむきになるけど、何かあるの?」
 途端、返事より先にシャキッ――――と、ユキナの首筋に冷たい感触が帰ってきた。
「お、おい!?」
 烈火の慌てた声。
「……過去を詮索しないというのが、わたくしたちの暗黙のルールなのですわ。それに知りたがりは早死にしますわよ」
 余計な事を聞くな、という『暗殺者の爪』を突きつけての恫喝。
 猛獣の檻へ無遠慮に手を突っ込めば、牙を剥き出して迎えられるのは当然。解っていても冷や汗が吹き出してくる。
 それでも美雪の怒りの源泉を知らなければ説得はおぼつかない。歯を食いしばって威圧に耐え、目を逸らさずに美雪と睨み合う。
「血の繋がりがなくたって『家族』になれる……わたしとミナトさんもそういう関係だと思ってる。それをごっことか気持ち悪いとか言われるのは聞き捨てならないかな。なんでそこまで言うのよ……それくらい聞いたっていいじゃない」
「チッ……」
 脅しても簡単には引き下がらないぞ、というユキナの意思表示に、美雪は舌打ちして表情を歪ませる。
 流血沙汰一歩手前の瀬戸際を前にアタフタと慌てる烈火の前で、睨み合う事しばし。
 また何か喋るべきかと思いかけた時、突然美雪が表情を変えた。
「……そんないいものじゃありませんわよ『家族』なんて」
 ニィ、と口の端を笑みの形に歪めて美雪は言う。
 それは共に過ごした三年間で、ユキナが――きっと五年を共にした烈火でも―― 一度として見た事がないような、救いようのない嗤い顔だった。
「少なくともわたくしのそれは、どうしようもないくらいのクズ野郎ばかりでしたわよ」



 自分を生んだ実の両親を、美雪は一切知らない。
 聞いた話によると母親は当時まだ10台の未婚の母で、学友である恋人と遊びの延長として逢瀬を重ねるうちに美雪を身ごもってしまい、その事を誰にも言い出せないまま堕胎するにも手遅れになり、父親は父親で母の妊娠を知って怖気づき逃げ出したという、どうしようもない愚かな両親だったらしい。
 やむなく美雪を出産した母にシングルマザーとして一児を育てる度量はなく、誰にも望まれずに生まれたその赤子は親戚や施設をたらい回しにされた末、母方の遠縁にあたる夫婦に引き取られた。
 美雪にとって物心付いた時目の前にいた『家族』は彼らになるわけだが、その夫婦が美雪に『家族』としてまともな愛情を注いでくれる事は終ぞなかった。
 記憶にある最初は4歳くらいの時だったか。当時の木星ではなかなか手に入らなかった本物の鶏肉が珍しく手に入ったというので楽しみにしていたら、美雪の皿には付け合せの野菜しか乗っていなくて、どうしてないのと訊いたら、帰ってきたのは肉は少ないんだ文句があるなら食うなという罵倒と平手打ちだった。
 この時だけ虫の居所が悪かったわけではなく、夫婦は美雪に対して常に苛立っていた。一挙手一投足が気に入らないとばかりに怒鳴り上げ、手を上げる彼らに『家族』の信頼なんてものは微塵もなく、ただ敵意じみた疎外感だけがあった。
 5歳の頃には同じ食卓を囲む事も許されず、台所の隅で犬のように小さくなって残り物を食べていた。お腹が空いた、などと口にしようものなら風呂場や物置に半日は閉じ込められるので、二人の不在時には塩や砂糖をこっそり舐めて空腹を誤魔化していた。今でも年の割に背丈も胸も小さいのはたぶん、この時期の栄養不足から来る発育不良が原因だ。 
 そんな状況でも夫婦は食わせてやっているつもりだったようで、6歳になるとその分を返せと言われて家事を強制されるようになり、部屋の隅に埃でも落ちていようものなら青痣ができるほど殴られた。そのたびに美雪は泣きながら謝ったものだった。
 なぜ夫婦がこうも自分に怒りや苛立ちを向けるのか、当時の幼い美雪には解らなかったが、今思い返せば簡単な理由だ。
 元々二人は美雪の産まれに――他の親戚たちと同じく――いい感情を持っていなかった。それでなぜ美雪を引き取ったのかと言えば、二人はなかなか子宝に恵まれず、当時の木星の風潮の下では肩身の狭い立場だった事情があり、他の親戚たちからお前が引き取れと圧力を受ける的にされたからだった。
 だが皮肉な事に、美雪を引き取ってからほんの一年後、夫婦は実子を授かる事になった。夫婦は大いに喜んだろうが、おかげで二人の関心はそちらへ全て持っていかれた。
 悪くした事に、この頃義父の勤めていた会社が倒産したらしく、夫婦は経済的にも精神的にも余裕を失っていた。家族三人だけでも苦しいのに、さらにもう一人余計な居候を抱えているせいでなおさら生活が苦しくなる――――二人の頭にあったのはこんな考えだったのだろう。
 愛情は失せ、扶養の義務だけが残り、手放す事もできない厄介な異物となった美雪に対して、夫婦は生活が苦しい苛立ちの矛先を向け、八つ当たりじみた暴力を振るっていたのだと、今ならなんとなく解る。
 そんなクズのような夫婦だったが、6歳になった美雪が小学校に通う事は普通に許していた。
 義務教育を受けさせないのは世間体が悪いと思ったのか、閉じ込めておくのも露見した時怖いと思ったのか――――どうせろくな理由ではあるまいが、慢性的に栄養不足だった美雪にとって学校給食は貴重な栄養源であったし、夫婦の暴力暴言に怯えなくていい時間は何物にも代え難かった。
 かといって、普通に楽しく学校生活を送れたかと言われたら否だ。放課後には寄り道せずに急いで帰宅し家事をこなさなければ当然殴られたし、なにより夫婦は美雪に学校生活で必要な最低限の筆記具さえ碌に買い与えようとはしなかった。
 なので美雪は、必要な物は他の生徒から盗んだり、盗んだお金で買うなどの窃盗行為で手に入れるようになった。以前から必要最低限の食事も与えられず、夫婦の目を盗んで塩や砂糖を口にして空腹を凌いでいた美雪にとって、足りない物は盗むのが生きていくために身に付けたやり方だった。
 罪悪感? 感じるわけがない。
 服の下に殴られた痣や、タバコの火を押し付けられた火傷跡を隠している生徒は美雪だけだった。
 放課後、他の生徒は友達と連れ添って遊びに行ったり部活動に勤しんだりする。家事を時間通りにこなさなければ殴られるからと足早に帰宅するのは美雪だけだった。
 他所の一般的な子供との接触は、自分の境遇が異常だとはっきり認識するきっかけになった。常に義父母からの暴力に晒され、毎日震えて生きているのは自分だけ。他の連中は当たり前のように実の両親がいて、幸せそうに暮らしている。そうじゃないのは自分だけだと。
 それが、どうしようもなく――――憎らしいと思った。
 あんな議父母の下で育ったせいで、美雪自身すっかり性格が歪んでいたのだろう。幸せそうな他所の連中が憎くて憎くて、仕返しをするような感覚で盗みを働いていたのを覚えている。
 当然盗みが発覚した事もあった。教師から叱責を受け、生徒の間では危険人物扱いされ孤立した。だが怒鳴られるのも異物扱いされるのも既に慣れていた美雪にとっては盗みをやめる理由にはならない。
 なにより盗みが発覚すればその都度夫婦が保護者として呼び出される。すると美雪に対しては暴君として君臨しているあの二人が、ヘコヘコと卑屈に頭を下げて許しを請うのだ。それを見た時の愉悦たるや、美雪は90度腰を曲げて謝罪する振りをしながら、嗤ってしまうのを堪え切れなかった。
 もちろんその後家に帰されてからの夫婦の怒りは凄まじく、浴槽に顔を沈められてあわや窒息死させられる寸前だったが、痛みへの感覚が麻痺しつつあった美雪にとっては夫婦に一糸報いた喜びのほうが大きく、それからは時々わざと盗みを発覚させてやったりもした。
 おかげで美雪は近所でも評判の泥棒少女となり、そこから虐待の噂も立ったせいで地域で孤立した夫婦は夜逃げするように転居し、それもまた美雪には愉快だった。当然転居した先でも美雪は同じ事を繰り返したので、夫婦はそれからの三年間で十回以上は転居を余儀なくされた。
 当然ながら夫婦はそれをやめさせようと美雪を下着一枚で一晩中ベランダに締め出したり、休校時期を狙って従わなければ食事抜きだと脅したり、美雪を屈服させようと虐待をエスカレートさせた。殺されるかと思った事も一度や二度ではないが、正直殺されたら殺されたでこの二人は捕まるのだろうから悪くないとさえ思っていた気がする。
 その甲斐あってというべきか、度重なる転居で夫婦共に仕事が長続きせず、家計はますます困窮していった。
 いつしか夫婦同士での衝突も多くなり、何であんな奴を引き取った、あなたが引き取ったほうがいいって言った、とお互いに責任を擦り付け合い、男は酒に逃げ、女は別の男に逃げ、何もかもが壊れていった。
 そんな崩壊状態の家庭に止めを刺したのは、美雪でも夫婦でもなく、妹だった。
 美雪とは違い、普通に実の両親の愛情を受けて育ち、必要十分な栄養を与えられて美雪より頭一つは背が高かった妹。その一方で血の繋がりが薄い姉が虐待される様を間近で見続けていたのだ。いい影響があろうはずもない。5歳を過ぎる頃には親共々美雪に物を投げていたし、顔を合わせれば「あんたなんかいなければいいのに」と他の言葉を知らないのかと思うほど繰り返し言われた。
 そんな妹も美雪の問題行動による影響を免れず、度重なる転居と転校に加え、親同士の醜い争いを見せられ続けて、8歳くらいから家に閉じこもりがちになり、9歳の頃にはビニールやプラスチックを口にする異食症などの精神症状が出ていた。
 本当ならこういう時こそ実の両親が親心を発揮して病院に連れて行くなり可能な限りのフォローをするべきだったのだろうが、夫婦にはもうそんな余裕も度量もない。妹までが異常な行動を見せるたびヒステリックに喚き散らし、怒鳴り合い罵り合っては家を飛び出していく。
 そんな荒れに荒れた家の現状を、全部美雪のせいだと思ったのか――――ある日美雪が自宅の安マンションに帰ると、妹はハサミを振りかざして襲い掛かってきたのだ。
「あんたなんかいなければ!」 
 その時の妹の、殺意を剥き出した夜叉の如き形相は今でも忘れられない。
 正直、夫婦に虐待を受けていた時よりずっと本気で殺されると感じ、美雪は必死に抵抗した。
 その後の事は無我夢中だったせいか、殆ど覚えていない。気が付いた時美雪は血塗れのハサミを手に、血の池に倒れて動かない妹を見下ろしていた。
 混乱が収まり、思考力がやがて戻ると、まずい、と思って血の気が引いた。
 妹を殺してしまった罪悪感に、ではない。自分が、自分だけが捕まってしまうという危機感にだ。
 こういう事態は何度も考えた。でもそれは夫婦を殺して自分も捕まる時か、その逆かだ。
 これでは自分だけが捕まって、あの夫婦は大喜びでその後の人生を謳歌するだろう。それだけは絶対に許せない。自分が捕まるなら、あの二人も地獄に落ちるべきだと思った。
 数時間後、いつものように不機嫌な顔で仕事から帰宅した義父は予想通り、血の海に倒れている妹を見るなり悲鳴を上げて駆け寄った。
 もう動かない妹の身体を必死に揺さぶるその滑稽な背中に忍び寄った美雪は、背後から包丁で義父の首を切り裂いた。いつかこうしてやる時のために何度も反復練習していた甲斐あって、驚くほどあっさりと致命傷を与える事ができた。
 血の泡を吹いて倒れた義父を前に美雪は一息ついたが、ここで予想外の事態が起きた。いつも浮気相手の男の家に行っていて、明日の朝まで帰ってこないと思っていた義母が、この日に限って早くに帰宅したのだ。
 部屋の中の惨状を目にした義母は金切り声を上げてその場から逃げ出し、しまったと思った美雪は包丁を手に後を追った。
 幸いにしてパニック状態だった義母は普段使わない非常階段から逃げるという発想が出てこなかったのか、半狂乱でエレベーターのボタンを乱打していた。美雪は追いついたその背中に包丁を突き立て、何度も何度も何度も刺した。
 やがて義母の耳障りな悲鳴も止まり、死んだと解った美雪が顔を上げると、騒ぎを聞きつけたマンションの住人が顔を覗かせていて、彼らは美雪と目が合うなり「わああ! 人殺し!」「警察を呼べ!」と叫んで引っ込んでいった。夫婦の怒鳴り声や虐待される美雪の叫び声は以前から聞こえていただろうに、一度も警察など呼ばなかったくせに。
 そう思うと途端に住人たちへも怒りが沸いてきて、美雪は部屋にあった液体燃料を部屋から廊下へとぶちまけ、火をつけた。
 木星コンクリートと軽量鉄骨で作られた建物は旧世紀のそれより高い耐火性を持っていたはずだが、困窮していた一家が移り住めるような安マンションだ。築40年は超えて老朽化した建物は瞬く間に炎に包まれ、内部は灼熱の地獄と化した。
 火傷を負った人々が逃げ惑い、黒煙の中から悲鳴が木霊する地獄絵図を外から眺めながら、美雪は哄笑を上げていた。自分を虐待していた夫婦も、夫婦の愛情を独占していた妹も、それを傍観していた周囲の連中も、美雪にとっては等しく憎い敵だった。それらに復讐を果たした今、美雪は心の底からざまあみろ、と思っていたのだ。
 捕まるのは覚悟の上の犯行ではあったが、簡単に捕まってやる気もなかった美雪は騒ぎのドサクサに紛れて逃げ出した。その後しばらくはやはり着る物食べる物を民家や店舗から盗み取り、路上で眠る生活を送った。
 時には盗みに入った家で住人に見つかる事もあったが、すでに家族三人を殺し、マンションの住人も大勢巻き添えで焼き殺した美雪にもう守るべき法律も道徳もない。武器で脅しつけ、あるいは傷付けて物を奪い取る強盗を繰り返しては逃げ回り、やがてコロニーの片隅に位置するスラム街へと流れ着いた。
 そこは美雪と同じような、もうまともな社会では生きられない人間の吹き溜まり。本来なら10歳の少女が生存できる場所ではなかった。夜眠るだけでも命がけで、強盗で食いつないでいた美雪が逆に強盗に襲われる事もあった。死にそうな目にあった事も一度や二度ではない。
 毎日が戦争のような環境での生活は美雪に攻撃の気配に対する直感を身に付けさせ、強盗との殺し合いを繰り返す事で殺人技術も洗練されていった。基本人間に信頼のなかった美雪は徒党を組むような事はせずずっと独りでやっていたが、一年もする頃にはスラムの中でそれなりに恐れられる存在になっていたと思う。
 そんな生活が二年続いたある日、いつものように奪い取った品を手にねぐらへ戻ろうとしていた時、美雪は突然数人の男たちに襲撃された。
 スラムの強盗に襲われるのはいつもの事ではあったが、その男たちは身なりからして明らかにスラムの住人ではなかった。全身黒尽くめながらもボロではなく、フェイスマスクで顔を隠し、テーザー銃で武装していた。
 結論から言うと、彼らは生体兵器の候補者を集めていた軍の人間だった。当然この時の美雪には何も知りようがなく、自分を捕まえにきたのかと思って全力で逃げ回り、抵抗した。彼らは訓練された拉致部隊だったが、スラムは美雪のテリトリー。罠と奇襲によって一人を殺害し、一人に腕を失う大怪我を負わせて追い払った。
 勝ち誇っていたのも束の間――――また一人の男が、美雪の眼前に現れた。
 鼠色の外套に三斗傘という異様ないでたちの男。自分を見下ろす無機質な目に射竦められた途端、美雪は持っていたナイフを手放した。
 一目見ただけで本能的に理解できた。この男は自分以上に殺人に秀でた人間で、歯向かえば絶対に殺されるか、殺されるより恐ろしい事になると。
「歪んだ社会の生んだ忌子、しかしその力、排除するのも、この場で腐らせるのもあまりに惜しい――――汝、この掃き溜めから抜け出し、木星のためにその力を生かす気はないか?」
 石像のように動けないでいる美雪にその男――――北辰は言った。
 選択の余地を与えているようで、その実断れば無事で済まないのは明らかな誘い。美雪は首を縦に振るしかなかった。この時はまるで、夫婦の下で虐待にただ耐えるしかなかったあの頃に戻ったようだと思った。
 こうして美雪は、生体兵器の候補者として特殊作戦軍の施設に送られた。中途採用であったためにインプラントは余り物を使う羽目になり、当時訓練2年目だった『草薙の剣』に急遽編入される形になったが、スラムで経験した幾多の殺し合いはそれについていけるだけの能力を美雪に与えていた。
『草薙の剣』一のトリックスター、影守美雪はこうして完成した。



「余計な事まで喋りすぎましたかしら。とにかくわたくし、『家族』というものに関してはろくな目にあった事がないんですのよ」
 自らの過去を一通り語り終えた美雪は、口を歪めて嫌らしく嗤う。
「マジかよ……自分のガキじゃないからって、そこまでできるもんなのか……」
 あまりに壮絶すぎる美雪の過去を聞いて、烈火は苦い顔で絶句していた。
 一応は生体兵器の候補者となるまで実の両親の元で育てられた烈火に、実子でない子供を敵のように虐げる親というのは知らない世界の存在だ。
「自分のガキをあっさり手放すのも解んねえな、少しは責任取ろうとか思わなかったのかね……」
「ガキがガキを産んだのですからね。……というか、烈火さんも似たような理由で手放されたと聞いてますけれど」
「あっ、そうだった……」
 思い返せば烈火も経済的理由から養子に出されたのだった。
 烈火の引き取り手は生体兵器の候補を集めていた軍の人間で、結果として『草薙の剣』という縁を得たわけだが……
「オレは……まあ悪くなかったけどよ、あいつはまともな家に引き取られたんだろうな……」
「そういえば妹さんも養子に出されたのでしたっけ。わたくしのようにクズな親に引き取られていないといいですわね」
「言うなよ、不安になるだろ……」
 子供がいないのは世間体が悪いという程度の理由で養子を取った夫婦が、果たしてまともな愛情を注いでくれるのか、烈火は今更ながらに生き別れた妹を心配していた。
「で? 肝心の聞きたがりな方はさっきからだんまりですけれど」
 美雪はユキナに不遜な顔を向ける。言える事があるなら言ってみろ、と言わんばかりに。
「……うん、ごめん。さすがに言葉が見つからなかった……ヘビーな話は覚悟してたつもりだったけど、さすがに強烈過ぎた」
 美雪にとって『家族』とは憎い敵の呼び名だった。
 和也たちとユリカが『家族』の絆を結んだなんて話は、美雪にとっては幼少期のトラウマを抉る刃でしかない。だからあんなにも怒りと嫌悪感を露わにしていた。
 この不信感と怒りに凝り固まった心を突き崩す魔法の言葉など、ユキナは持っていなかった。
「わたしは美雪ちゃんの事、なんにも知らないでトラウマ抉ってた……それは認める」
 言葉だけで敵を信用できるなら戦争など起きない。ユリカと美雪の義父母は違うと説いたところで、美雪の心にはきっと響かない。
 口惜しいが、別のアプローチを探るためにも一度引き下がるしかなかった。
「はっ、物分りのよろしいこと。今後――――」
「でもありがとうね。話してくれて」
 表情を緩めてそう言ったユキナの言葉が予想外だったか、美雪は一瞬ぽかんとした。
「……さぞ不愉快な話でしたでしょうに」
「うん、胸糞悪い話だった……人格歪んじゃうのも無理ないって思うし、そんな風にした義理の親も目の前にいたらぶん殴ってやりたくなった」
 けどさ、とユキナは言う。
「わたしが知ってる美雪ちゃんはいい子……かはともかく、警察のお世話になった事なんか一度もないじゃない?」
 美雪が今でも話のままに歪んでいるのなら、オオイソでもまともな学校生活は送れなかったろう。しかしユキナは美雪が物を盗んだり、他人を傷つけたりして大きな問題になったところを見た覚えはない。
「だからオオイソに来るまでの間に、変われたんだろうなって思ったのよ。和也ちゃんたちと……仲間ってやつに触れてさ」
 認めるのはしゃくだが、甲院も仲間同士で友情を大事にし、戦後も社会生活を送れるよう教育したと言っていた。
 まともな環境とは程遠いが、美雪にとっては初めて、対等な個人として尊重してくれる他人との出会いだったのだろう。
「きっと訓練時代はたくさんケンカしたりしただろうし、特に和也ちゃんなんか頭抱えてただろうね……でもみんな、『草薙の剣』から出てけなんて言わなかったでしょ? だからわたしも、美雪ちゃんや烈火くんの事、見捨てたりしないよ」
 そう言い切ったユキナを、美雪は驚いたような顔で見ていたが、やがてチッ、と舌打ちして目をそらした。
「ゲキガンガーじゃあるまいしくさいセリフを次から次へと……勝手になさいな」
 言い捨て、美雪は今度こそ今度こそ部屋から出て行く。
「ふんだ。そんな見え見えの手に乗りませんよーだ」
 ユキナはべーっと美雪の消えたドアに向かって舌を突き出す。
 自分を見限れ、敵だと思え、そうすれば心置きなく敵対できるから――――今まで語らなかった過去を語る美雪の意図は見え透いていた。
 だとしたら甘く見られているとユキナは思う。
「そんな簡単に見限るわけないじゃない。同じ木星人で……オオイソで一緒だった友達なんだから。そうでしょ烈火くん」
「お? おう……いや、おうじゃねえが、あの。あれだ……」
 そうでしょと言われてうっかり同意してしまい、烈火は慌てて取り消そうとするが、何を取り消せばいいか解らずパニックになる。
「帰る時はみんな一緒。でしょ?」
「か、帰らねえっつうの!」
 顔を真っ赤にして言った烈火は、そそくさと独房から出て行く。
 がしゃん、と重苦しい音を立てて扉がロックされ、静かになった独房に独り残されたユキナは――――
「あーもう! 烈火くんも美雪ちゃんもわからず屋! 頑固者! 頭ガニメデ!」
 苛立ちを拳に乗せて壁を殴りつける。自傷防止のため高分子ジェルのクッションで覆われた壁はぼふんとその衝撃を跳ね返すが、ユキナの気が落ち着くにはさらに数回の殴打を要した。
 そうして壁を殴りたい衝動が収まると、今度は自分のやろうとしている事の困難さに頭が重くなってくる。
「はあ……わたしがなに言っても簡単には信じてもらえないよなあ、どうしよう……」
 烈火と美雪の説得は容易ではない。二人とも仲間と殺し合う事は嫌だろうが、それでももう引き返せはしないと思い込んでいる上、ユリカが――――ナデシコが彼らにとっての仇なのはどうしようもない事実。それを信用しろと言っても無理な話だ。
 目下ナデシコに戻るのは無理でも、せめて火星の後継者を抜けて、戦うのを止めてくれればなんとかなるとは思うのだが、今のところ説得材料が見当たらない。和也たちを説得してのけたユリカのようには行きそうになかった。
 このまま地球軍と戦いが始まれば、当然二人も出撃する。そうなれば本当に仲間同士で殺し合いになってしまう。止めなければという焦りと、止められないのではという弱気が同時に首を絞めてくるが、ユキナは両の頬をひっぱたいてそれを振り払う。
「しっかりしろ! きっとなんとかなる……なんとかできる! だって敵同士からでも恋人になれるんだもの。生きてさえいれば仲直りなんていくらでもできるよ……」
 そうだよねお兄ちゃん、とユキナは心の中で兄に問う。



「……はい。では失礼しますね」
 第一オオイソ高校の職員室前。ミナトから頼まれた書類の受け渡しを終え、『草薙の剣』の面々は一礼して職員室を出た。
 ミナトにお使いを頼まれた後、念のためユリカにオオイソへ行ってくる旨を伝えてOKを貰い、『草薙の剣』はヨコスカ基地を出た。その時いなかった和也にはコミュニケでメッセージを送ったところ、まだ用事が済んでいないので後から合流すると返事があった。
 基地ゲートの門兵はこの状況で外出する『草薙の剣』に最初怪訝な顔をしたが、どうも特殊任務か何かと勝手に勘違いしたようで敬礼で見送られた。
 リニアモーター列車を降り、オオイソへと『帰って』きた彼女たちは、かつての学び舎へと足を運んだのだった。
「ふふ、先生たちみんなびっくりしてたね」
「そりゃあ、テロリスト返り討ちにしてドロンした連中がいきなり帰ってくればね」
 澪と奈々美はクスクスと苦笑してそう言い交わす。
 突然やってきた『草薙の剣』の姿を見て、職員室にいた教師連中は皆大口開けて驚いていた。いい年した大人たちが酸素不足の魚のように口をパクパクさせる様は滑稽だったが、それも仕方のない事ではある。なにせ武装したテロリスト数十人を返り討ちにした得体の知れない連中が、前触れもなく帰って来たのだから。
「あれからまだ一年も経ってないんですよね。なんだか十何年も昔のような事の気がします」
 妃都美は廊下を歩きながら、懐かしそうに校内を見回す。
 彼女たちが最期に見たのは激戦の跡が生々しく残る弾痕だらけの校舎だったが、壁は新築同様に塗り直され、飛び散った血痕も綺麗に消し去られていて、事件の痕跡などどこにも残っていない。
 ともすればテロ事件など夢だった気さえしてくるが――――
「……私たちがいた頃より、人が少なくなっている……ようですね……」
 美佳が少し気落ちした声で言う。
 廊下には行き交う生徒の姿があったが、その数は以前より少ないように見えた。美佳のレーダーには校舎全体で人が少なくなっている様子が見えているのだろう。
 今は2203年の5月だ。桜の時期はとうに過ぎ、卒業進級のシーズンも終わっている。『草薙の剣』が在学していた頃の3年生が卒業しているのはともかく、全体として生徒数が減っているのは別の理由があるらしかった。
 そのあたりの事情を知っている澪は、少し沈鬱な面持ちだった。
「うん……その、ごめんね。言ったらみんながっかりすると思って、黙ってたんだけど……」
 傷付いた校舎が修復され、学校が再開するまではそう長くかからなかったものの、それで全てが元通りとはさすがに行かなかった。
 テロリストに監禁され、命の危険に晒された恐怖とストレスからPTSDを患って休学したり、巻き込まれずに済んだ生徒も死人の出た校舎を忌避して転校して行ったりして、少なくない数の生徒が学校からいなくなった。生徒に犠牲者は出なかったものの、心に傷を残すには十分な出来事だったのだ。
「木星に行く前にユキナちゃんから聞いたんだけど……今年の新入生も目に見えて少なくなってるみたい。他所の学校と統廃合するのも考えられてるって」
「それは……」
 残念ですね、と言い掛けた言葉を、妃都美は飲み込んだ。
 代わりに奈々美が、気まずそうな苦笑顔で言う。
「あー……半分くらいあたしらのせいよね、それ……」
 元の日常を完全には取り返せなかったのは残念と言うしかないが、その原因の一端――――死体の山を積み上げたのは他でもない『草薙の剣』だ。
 帰ってきた彼女たちに、教師たちはよく帰ってきてくれた、などと誰も口にしなかったし、そういう事なのだろう。
 残念と口にする資格さえあるのかどうか。
「行きましょうか、もう」
「そうね」
「……ええ」
「みんな……」
 本当ならこの後、各々の知り合いを探して顔を出してみようかと思っていたが、なんだかいたたまれなくなり、そんな気も失せてしまった。
 用は済んだ事だし、早く帰ろうと、下駄箱へと足を向ける。――――と、
「え、ミカさん!?」
「うそ、ホントにミカ!?」
 突然階段の上から驚いた声がし、名を呼ばれた美佳が振り向く。
「……その声は……サツキさんとモモコさん……」
 美佳の同級生であり、よく一緒に遊んでいた友人二人が、驚きに口を大きく開けて美佳を見ていた。
 二人に向かって美佳は――――
「…………っ」
 何も言えなかった。
 ずっと会いたかった人たちだ。火星の後継者との戦いを終わらせて、またここに生徒として戻り、再会を喜び合う光景を何度夢に見たことか。
 しかし事件の見えない傷が残るこの学び舎の現状を聞いた今、二人が美佳たちの事をどう思っているか、急に怖くなってしまった。
 友達から人殺しだと罵られ、恐怖の目を向けられるのではないか。ずっと帰りたかったこの場所に、居場所はもう無い事を突きつけられるのではないか――――
 他人であれば任務のためと割り切れても、友達に言われるのだけは耐えられそうにない。何の解決にもならないと解っていても逃げ出したくなるほどだった。
「ミカ……」
 自分の名を呼ぶ友人の声に、美佳はびくっと震えて足を引く。そんな美佳の様子に他の面々も思わず身構える。
 二人がゆっくりと口を開き――――
「久しぶり、いつ帰ってきたの!?」
「あの時大丈夫だったんですか!? 怪我とかしてないですか!?」
 いきなり突進してきた二人に抱きつかれて、美佳は「ふえぇ!?」と彼女らしからぬ声を上げた。
「……お……お二人とも、その、怒ったりしては……」
「怒ってるわけないじゃない! 助けてくれたんだから……」
「怒る事があるなら、私たちに何も言わないでいなくなった事ですよ!」
 半泣き声で言った二人の言葉を聞いて、美佳の体から思わず力が抜けた。
 少なくとも友達二人は、自分を心配して帰りを待ってくれていたのだと安心すると、美佳のもう涙を流せない機械の両目、その奥が熱くなった。
「……ごめん、なさい……立場上、連絡とか、何もできなくて……」
「心配したんだから……ふええええ……」
 三人で抱き合い声を上げて泣く美佳たちを見て、他の面々もほっと胸を撫で下ろした。
「よかったですね、美佳さん」
「うん、よかった……持つべきものは友達だったね」
「は、ベタベタしちゃって」
 思わずもらい泣きしそうになる妃都美と澪だったが、奈々美は天邪鬼な事を言う。
 そんな奈々美も美佳が何か言われたら反撃してやろうと身構えていたはずで、安心したからこその憎まれ口なのだろうが。
 と、そんな奈々美の服が後ろからくいくいと引っ張られた。
「ん? ……あんた誰?」
 振り向くと、そこにいたのは一人の小柄な女子生徒だった。ここにいるからには高校生なのだろうが、背が小さい上に童顔で、見様によっては小学生に見えてしまう。
「えっと、奈々美ちゃん知ってる子?」
「いや、知らない……と思うけど」
 顔に覚えもなければこうして服を掴まれる覚えもない奈々美は、困った顔で目線を彷徨わせる。それでも誰も何も言わないのを見ると、本当に誰とも面識のない生徒らしかった。
 と、件の小さな女子がおずおずと口を開く。
「あの……木星のタムラ先輩、ですよね?」
「え、ええ……」
「やっぱり! あの時助けてくれて、ありがとうございます! ずっとお礼が言いたかったので……!」
 背丈同様に小さい声で喋っていたかと思えば、急に興奮して大きい声になるものだから、奈々美は驚いて思わず引いてしまった。
 代わって妃都美が目線を合わせて訊ねる。
「ええっと、助けてくれたというのは、あの事件の時の事でしょうか?」
「あ、いえ……私は事件の時もう帰ってたので。ただ同じ日の昼に、怖い男の人に声かけられちゃって……」
 ぽつぽつと話す小さい女子曰く、彼女は以前からガラの悪い男子生徒に目を付けられていて、あの日とうとう廊下で捕まってしまい泣きそうになっていたところ、奈々美が割って入り助けてくれたという事だった。
 妃都美たちには初耳だったが、あの事件の日といえば思い当たる事はあった。
「そういえば奈々美さん、あの日男の人とケンカしていましたよね……」
 あわや殴り合いに発展するところで烈火が止めて事なきを得たが、ケンカの発端を奈々美は語ろうとしなかった。
 その後は事件もあってすっかり忘れていたが――――
「へえ、あれってこの子を助けてあげたからケンカになったんだーそうかー」
「……奈々美さんも、奈々美さんなりに友好的にやっていたようですね……」
「う、うっさいわね……あんたたちには関係ないっていうか、ムカついただけっていうか……」
 澪と美佳に生暖かい目を向けられ、奈々美はゴニョゴニョと呟きながらそっぽを向く。その顔が照れて赤くなっていた事には、せめてもの慈悲として誰も触れないであげた。
 皆でくすくすと笑い合っていると、なにやらドドドド、という地響きにも似た大勢の足音が聞こえてきて、一同何事かと首を巡らせる。
「ヒトミさんが帰ってきたって本当か!?」
「間違いない! 他の人たちと職員室に入っていくのを見た!」
「マジかよ、ついにこの日が!?」
 騒々しい声と共に廊下の向こうから現れたのは数十人の生徒の集団だった。彼らは『草薙の剣』の姿を見るなり、「本当にいたぞ!」などと叫んで突進してきて、たちまちのうちに一同を取り囲んだ。
「こここ、今度は何よあんたら!?」
 いきなり大勢に囲まれ思わず格闘の構えを取る奈々美だったが、妃都美はこの集団に覚えがあった。
「び、美術部の皆さん……!」
「本当にヒトミさん! いつ帰ってきたんですか!?」
「軍のお勤めはどうしたの!?」
「復学するんですか!?」
「部室には来ないんですか!?」  途端に浴びせられる言葉の十字砲火。
 なんとしたらいいか解らず妃都美が困っていると、「待って待って」と一人の女子生徒が両手を広げて止めた。
「彼女困ってるわよ。……ヒトミさん、久しぶり」
「お、お久しぶりです、イチノセ先輩」
「今は部長よ」
「おめでとうございます。……その、事件の事は……」
「話したい事は山ほどあると思うけど、一つだけ言わせて頂戴」
 真剣な目でそう言ったイチノセ部長に、妃都美は思わず緊張する。
 まさか事件の事を問い質されるのだろうかと、一瞬不安になった妃都美に、イチノセ部長はゆっくりと口を開き、
「あなたの書いた作品、県のコンクールで佳作受賞したわよ」
 一瞬、何の話かと思った。
 そういえば確かに事件の前、部の皆でコンクールに応募する予定があった。そのための絵も大体完成していたが……
「あの事件のせいで、応募はしていなかったはずでは……」
「ごめんなさいね。私たちで勝手に応募してしまったの。ちょっと困った事があってね」
 イチノセ部長が言うには――――あの事件の後、『草薙の剣』に対する学校関係者の感情は真っ二つに割れた。
 皆を助けてくれたと好意的に受け取る人もいれば、どちらも人殺しだと非難する人もいたのだが、特に主だった教員は『草薙の剣』の事を快く思っていなかった。彼らにとってあの事件は無関係な者同士による戦争であり、戦場にされた学校の評判に傷が付いたという出来事だ。それに関わった者は誰であれ忌々しい――――感覚的にはそんなところだったのだろう。
「そんな空気だったせいかしら。あなたたちの事は退学にした事にするって方向で話が進んでいたらしいわよ」
「げ……そこは自主退学でいいじゃないの」
 奈々美は眉を顰める。
 その辺の身辺整理をほったらかしてしまっていた彼女たちにも責任はあるが、わざわざ経歴に傷を付けようとするのは嫌がらせとしか思えない。
「そうなのよ。だけど一人の先生が強烈に反対したの。教員会議で相当やりあったみたい」
「ああ、ハルカ先生ですね……」
 イチノセ部長はぼかした表現で言ったが、その一人の先生というのがミナトの事なのはすぐ解った。
 学籍をそのままにしてくれていたのは知っていたが、まさかそこまで揉めていたとは。
「先生たちだけだと味方が少なかったらしくて、ハルカ先生は生徒に協力を求めたのよ。それで私たちも署名集めたりしたわ。あなたの絵もあのままだと処分されそうな雰囲気だったから、一か八かでコンクールに勝手に持ち込んだの。佳作受賞してくれたら先生たちも――――」
 得意げに語っていたイチノセ部長だったが、それを「あ、ちょっと!」と美佳に抱きついたままのサツキが遮った。
「ずるーい! 美術部だけが頑張ったみたいに言わないでくださいよ!」
「そうですよ! 私たちだって一緒に頑張ったじゃないですか!」
 サツキに次いでモモコも抗議の声を上げる。ついでに奈々美の袖を掴んだままの小柄な女子も「わ、わたしもです……」と小さい声で主張していた。
 それにイチノセ部長は「解ってる。感謝してるわ」と口では言っていたが、その顔はバレちゃったかと言いたげだった。
「美術部だけじゃないわ。署名活動にはこの子たちも協力してくれたのよ。他にも……何だったかしら、あの最近公認サークルになった、モデルガンとか持ち込んでる変な人たち」
「……それもしかして、烈火の奴がやってた兵器愛好サークルの連中? あいつらまだやってたんだ……」
 奈々美は驚愕していた。たった数人の泡沫サークルが、中心だった烈火がいなくなっても消滅しなかったばかりか、学校から公認されるほど人を増やしてまでいたのか。
「それから放送部の子たちもいたわね。『部員のミユキちゃんが帰ってこられるよう協力お願いします』って校内放送でみんなに呼びかけたりして、傑作だったわ」
「うわあ、それ無断使用ですよね……」
 先生たちには怒られただろうなあ、と当時の騒ぎを想像した澪は苦笑いする。
「……烈火さんと美雪さんも喜ぶでしょう。後で顔を出すよう伝えておきますね……」
 そう言った美佳に、イチノセ部長たちは特に疑いを持たなかったようだった。
 だが他の三人は、目線を合わせて密かに頷き合う。
 二人が火星の後継者に寝返ったと伝える必要はない。必ず、生きて、連れ帰るからだ。
「他にもあなたたちと同じ木星人の子たちとか、隊長のメガネ君の部活仲間の子たちとか……思った以上に署名も人も集まってくれたから、みんなで理事長室に乗り込んだりしてついに先生たちも折れてくれたわ。その時の事は録画してあるから今度――――」
「す、凄いですが……みんなどうしてそこまで……先生たちとケンカするような事までしてくれたんですか」
 理由はどうあれ、『草薙の剣』がこの学校を戦場にしたのは事実。そんな自分たちのためにここまでしてくれるなんて申し訳ない――――
 と言いかけた妃都美を遮って、「関係ないわよそんなの」とイチノセ部長は言う。
「あなたたちが戦った事が良いとか悪いとかじゃないわ。大事なのはついこの前まで一緒だったあなたたちが、帰りたくても帰れない状況になっているって事よ」
 事が済めば、あるいは帰ってこれるかもしれない。しかしそれも帰ってくる場所あっての話で、それさえ無くなる瀬戸際だった。
「ハルカ先生も私たちも、協力してくれた子たちもみんな、あなたたちが帰ってきたら今まで通り迎えるつもりで待っていたかった。ただそれだけだったのよ」

 ――――かっ、と胸の奥が熱くなるのを感じた。

「ありがとう……ございます。このご恩は必ず……」
「……いい友達に恵まれて……私たち、地球に来て良かったと思います……」
「おせっかいな奴らだわね……ま、まあご厚意はありがたく受け取っとくわ……」
 妃都美と美佳は感極まって涙声を堪えきれなくなり、強がりを口にした奈々美も声が震えるのを隠し切れなかった。
 敵と定めた者を大勢殺めてきた。
 例え正しかろうとも、賞賛や感謝を求めていい行いでない事を思い知ってきた。戦った後には傷が残り続ける事も。
 だから、もう帰る場所はないかもと思っていたが、こうも大勢の人たちがそれを守り続けてくれていた。
 こんなに嬉しい事はない。



「よかったね、みんな……」
 再会を喜び合う妃都美たちと旧友たちの姿に、澪ももらい泣きしてしまった。
『草薙の剣』が帰る場所を守るため、旧友たちがいかに奮闘したかを語る言葉は止まず、話題はまだまだ尽きそうにない。
 これは止めたくないと思った澪は、生徒たちに囲まれた妃都美たちからそっと離れると、一人の生徒に小声で話しかけた。
「ねえ、放送部で二年のタカツキさんってどこにいるか知ってる?」
「いるとしたら二階のCクラスだと思います」
 ありがと、とお礼を言って、澪はこっそりその場を離れる。
 妃都美たちと旧友たちが再会を喜び合うのは非常にいい。寝返った烈火と美雪も連れ戻す。
 ただ一人―――― 一人だけ、もうここへ帰ってこられない仲間がいる。
「盾身くんも……一緒に来たかっただろうなあ……」
 志半ばで逝ってしまった盾崎盾身の事を思うと、やはり胸が締め付けられる。彼の真意を知った今となっては尚更だ。
 そして、彼が会いたかったであろう人はここにいる。彼女もまた、もう一度会える日を待っていただろうに。
「やっぱり、一度ちゃんと話しておかなきゃ……」
 盾身の恋人、タカツキ・キョウカに盾身の殉職は伝わっているはずだが、やはり直接会って、彼を連れ帰れなかった事を詫びておきたい。皆もそのつもりで来たのだとは思うが、せっかく旧友と再会して喜び合っている所にそんな辛い役目を持ち出したくない。
 であればここは皆の中で何気に一番年上で、卒業生である自分が率先してこの役を追うべきだ。澪だって『草薙の剣』の一員なのだから、その資格は十分あるはず。
 そう決心した澪は一歩一歩、踏みしめるように階段を上る。
「すぅー……はぁー……」
 Cクラスの扉の前に立ち、パクパクと嫌な鼓動を立てる心臓を押さえつけるように胸に手を当て、数度深呼吸をする。
 辛いし怖いし引き返したいが、やらなきゃと自分を奮い立たせ、意を決して引き戸に手をかける。
「失礼します――――」
 タカツキさんはいますか、と言いながら引き戸を開こうとした、その時。

「うわああぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

 不意にCクラスの中から誰かの慟哭が聞こえ、澪は「え?」と動揺して手を止めた。
 何事かと思ったが、この声は校内放送などで聞いた覚えがあるタカツキ・キョウカの声だ。
「タ……タカツキさん!?」
 勢いよく引き戸を開ける。がらんと人気のない教室の中、三人の人影がそこにあった。
 一人は、泣き崩れるタカツキ・キョウカだ。そして彼女に沈痛な表情をして寄り添う二人は、入ってきた澪に気付いて目を向けてきた。
「ああ、澪……来たんだ」
「……和也ちゃん?」
 後から合流すると言っていた和也がいつのまにかここにいるのも奇妙だったが、その隣でキョウカの肩を抱いていたもう一人の存在はさらに奇妙だった。
「ツユクサ曹長……」
「ホ……ホシノ中佐? なんで中佐が……」
 短い間ではあったが確かにここに在校していた人――――ホシノ・ルリ中佐がどういうわけか和也と一緒にいて、その二人に寄り添われる形でキョウカは泣いていた。完全に予想外の展開を前に、澪は思わず立ち尽くしてしまった。
「これ……どういう状況なの?」



 ――――話はまた少し、遡る。

「みんなはオオイソに行くのか……いいね」
 コミュニケにメッセージが来た時、和也はナデシコCのブリッジにいた。窓の外に広がるトウキョウ湾の眺めを見てオオイソはあっちかな、などと思っていると、不意に細い声が投げつけられた。
「……いいんですか、行かなくても」
 そう横から口を挟んだのはルリだ。
 いつもなら当直のクルーが何人もいるブリッジだが、今ここにいるのは和也とルリの二人だけ。これから始める事は多くの目に触れさせられないため、ユリカが人払いをしたのだ。
「これが済んだら行きますよ」
 和也は微笑して頷き、用事を済ませてから合流する旨を返信。
 そんな和也を、艦長席でウィンドウボールに囲まれて作業をしているルリは非難めいた目で見ていた。
「なんていうか……無茶なお願いを聞いてくれてすみません」
「私は聞いてません。ユリカさんと秋山少将に頼まれたから仕方なく、です」
 そうでなければこんな事――――とルリは言いたげだった。さすがに申し訳ないが、ルリの協力なしでこのお願いは実現できない。それに――――
「100歩譲って協力するのはいいとして、私が同席する必要はないと思いますけど」
「お気持ちはお察ししますけど、まあ少しだけ我慢してください。少佐にも聞いてもらいたいんです」
「どうしてもですか?」
「はい、どうしても」
「…………」
 ルリは渋々前に向き直った。とりあえずは付き合ってくれるらしい。
 深く考えたわけでもない思い付きだが、賛同してくれた秋山と、同じく賛同して根回ししてくれたユリカ。そして今こうしてハッキングという形で協力してくれたルリには感謝しかない。
 別に成功したからと言って、今の状況が好転するわけでもないだろうが――――
 それでも『草薙の剣』隊長として、一つのけじめはつけておかないといけない。今ここにいない彼のためにもだ。
「……回線繋がりました。接続しますよ。……いいんですね?」
 最期の確認をしてくるルリに、一つ深呼吸して緊張を押さえ込んでから、「お願いします」と和也。
 次の瞬間、SOUND ONLYのウィンドウが開くと共に、秋山の声が聞こえてきた。
『――――でしょうな。いや失礼。言ってみただけという奴ですよ……実のところ、今回私はただの仲介役でしてな。本当に話したいのは別にいるのですよ。そろそろ繋がっている頃だと思うのですがね……おい。聞こえているなら顔を見せたまえ』
「ええ。聞こえています。無理を聞いてくれてありがとうございます、秋山さん」
『構わんさ。情けなくも頼るしかない身だ……さ、後は君たちの番だ。頑張ってくれよ』
 そう言葉を切った秋山の声と入れ替わるように、ウィンドウに映像が映し出される。ファイアウォールを掻い潜って通信を繋いでいる影響でノイズが混じるそれには、軽く困惑した表情を浮かべた、懐かしい男の顔が映っていた。
『お前は……』
 同じく和也の顔を見たのだろう男が、巌のような相貌に驚きを浮かべる。
 そんな男に対して、和也は背筋を伸ばし、精一杯の敬礼で迎えた。

「お久しぶりです……草壁閣下」










あとがき(なかがき)


 世界中が小説より大変な事になっている今日この頃、皆様どうお過ごしでしょうか。シードです。
 実に一年半も更新を滞らせて重ね重ね申し訳ありません。とにかく筆が重いんです。

 今回は最終決戦を前にして『草薙の剣』のナデシコ部隊への今更ながらの正式参加と状況確認、そして戦いが終わった後で帰りたい場所を再確認する『草薙の剣』でした。個人的にはここでかつての学友から非難され、もう帰る場所はないと覚悟を決めて戦いに向かうみたいな展開も嫌いじゃないですが、最終決戦を前にそこまで追い込む必要もないと思ってこうなりました。

 美雪の過去話は治安の悪い外国のギャングみたいな生い立ちだった殲鬼に対して、現代日本でもどこかにいそうな破綻した家庭のイメージです。我ながらひどい話だと思いますが、美雪の人格はこうして形成されました。
 これだけの壮絶な子供時代を経てようやく手に入れた仲間と意中の人だったのに、それさえ奪われてしまった美雪は怒りのまま破滅に突き進んでいる感じです。暴走する彼女を一体誰が止められるのでしょうか。

 さて次回、草壁との秘密の面会で和也の語る事実、それを聞いたルリの思い、そしてもう一人の帰る場所がない男も動き出します。

 それではまた近いうちにお会いできるよう努力いたします。それまで体調に気を付けてお過ごしください。









感想代理人プロフィール

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代理人の感想
うーん、ヘヴィ。
ここから大団円に向かってくれるといいのですが・・・
無理かなあ(遠い目)



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