序章

 鉛色に曇った曇天の下、雨が降りしきる緑の野原で、鳴り響く剣戟の音と、重なり合う怒号と悲鳴。そして炸裂音。
 いくつもの轟音が戦場音楽を奏でる戦場の真っ只中を、一つの影が疾駆していく。身に着けた重厚な金属鎧の、しかし双丘を模った胸甲は紛れもない女性の証。血生臭い風になびく艶やかな藍色の長髪の下には、まだ少女のあどけなさが残る顔立ちの端整な相貌が、強い意志を秘めた瞳で前を見据えていた。
 その行く手には十人近い敵側の兵が隊列を組み、槍を並べて彼女を迎え撃とうとしていた。少女独りに屈強な男複数人。一見すると結果は明白――――その実、恐怖に顔を青ざめさせ、逃げ腰になっているのは彼女より体格で勝る兵たちのほうだった。
 彼女――――ヴィンフリーデ・エーレンフェルスは怯む事無く敵兵の隊列へ肉薄し、両手に握り締めた剣を上段に構える。ただの剣ではない。刀身の長さは二メートル近く、厚みも両手の平を合わせたのと同じくらいある。重量は軽く百キロを超える人間離れした代物だ。
 少女の細腕では振るうどころか僅かも持ち上がらないであろう重く巨大な金属塊を、ヴィンフリーデは苦もなく振るい地面に叩きつける。その一撃で土砂が舞い上がり、敵兵の身体がまるで小石のように宙を舞った。それを当然の戦果とし、次の敵を求めて視線を巡らせたヴィンフリーデへ、不意に赤熱する火球が飛来した。敵の攻撃魔法――――基本的な炎熱球ファイアボールだ。
 咄嗟に魔法を打ち消す防壁、魔法障壁でそれを防ぎ、飛来した方向へ目を向けると、ヴィンフリーデのそれと同サイズの巨大な剣を携え、重厚で豪奢な装飾を施された全身鎧に身を包んだ敵側の魔法戦士と目が合った。
 魔法、それは純粋な『力』そのものである魔力を、魔法陣によって千差万別の現象へと変換する万能の技術。国と、人々の生活を支える文明の中心であり――――中でもヴィンフリーデや、目の前にいる敵のような、難解で危険な戦闘用の魔法を習得した者を魔法戦士と呼ぶ。筋力強化ストレングス・ブーストの魔法によって身体を強化し、常人には装備できない重く頑強な鎧と、それを打ち破るための超重量級の武器、そして攻撃魔法を扱う彼らは軍の中核的存在であり、その数が軍の強さを表すと言ってもいい。
「はあっ――――!」
 裂帛の気合と共に、ヴィンフリーデは眼前の魔法戦士目掛けて大剣を叩き付ける。攻撃魔法は強力な遠距離攻撃だが、魔法障壁に守られる魔法戦士に対しては決定打となりにくい。魔法障壁に打ち消されない物理攻撃――――つまりは武具による打撃こそが、魔法戦士を倒す最も確実、かつ効率的な戦い方とされていた。
 敵の魔法戦士もまた同サイズの大剣を振るい、二つの金属塊が激突――――轟音が響き、巨大な重量と運動力のぶつかり合いに大気が震え、踏ん張った足は地面に深々とめり込み、放たれる攻撃魔法は周囲を炎の海や氷の剣山へと一変させる。
 繰り広げられる常人の域を遥かに超えた領域の戦い――――それこそが魔法戦士の戦い。
「――っ!」
 眼前の敵と数合の打ち合いを交わしたところで、別方向から向けられた殺気を感じ、ヴィンフリーデは反射的に腰を大きく落とした。
 ヴォッ――――! と空気を切り裂く音を立て、巨大な刃が頭上数ミリの空間を薙ぎ払う。もう一人の魔法戦士による背後からの奇襲だ。
 卑怯な、と言いたくなるが、生憎これは一対一の決闘などではない。複数人で一人を確実に仕留めるのは理に適った戦術であり、それを口で非難したところで何の意味もない。
 ヴィンフリーデは前後から切りかかってくる二人の魔法戦士の攻撃を足運びで避け、あるいは大剣で受け流しつつ横に飛び退き、前後を挟まれた状態から離脱。巧みに一対一の状態を作り、大剣を右から左へと振りぬく勢いを利用し身体を一回転させる。
 巨大な武器を振り回す事で生まれる遠心力と慣性力は、人間の細身など容易くねじ切るほどに凄まじい。その殺人的な運動エネルギーを強化された全身の筋肉と足運びで制御し、攻撃力へと転化して叩き込む渾身の一撃。その前に魔法戦士の頑強な鎧も屈し、敵魔法戦士は鎧ごと身体を粉砕される。
「王国の蛮族風情が!」
 罵声を発し、もう一人の魔法戦士が切りかかってくる。だがその時既にヴィンフリーデは大剣の刀身に刻まれた攻撃魔法の魔法陣、その一つに魔力を通し終えていた。
 ――氷堅陣フロスト・ファランクス
 足元に魔法陣が展開し、次の瞬間無数の鋭利な氷柱が槍衾の如く突き出る。既に突進の勢いが付いていた魔法戦士は避けられず、全身を氷柱に刺し貫かれて絶命する。
 同格の敵を二人仕留めて、ヴィンフリーデは一息つく――――暇はなかった。今度は二十人以上の雑兵と三人の魔法戦士が周囲に展開し、クロスボウと攻撃魔法の狙いを向けている。敵軍の奥に突出しているのだから当然だが、この数を相手に無傷で済む保証はない。
 それでも止まるわけにはいかないと、大剣を構えなおして突撃の構えを取る。
「リーデ様、ご無事ですかっ!?」
 そこへ耳慣れた叫び声が聞こえ、ヴィンフリーデの頭上を小柄な影が飛び越えていく。その手に握られているのは刃だけで人間の上半身を覆えるほどに巨大な戦斧。落下の運動力を乗せた渾身の振り下ろしは真下にいた魔法戦士を縦一文字に叩き切り、爆発と見紛うほどの衝撃は周辺の雑兵を土砂ごと盛大に吹き飛ばした。  そこへ風のようにもう一人の影が走り込み、衝撃に目を奪われていた二人の魔法戦士を二刀の剣で撫で斬りにする。それによりようやく、一時の余裕ができた。 「リーデ様、一人で切り込みすぎです! 他の連中がついて来れてません、敵に囲まれちゃいますよ!」
 ヴィンフリーデをリーデと愛称で呼ぶ、真っ赤な髪をツインテールに括った、手にした戦斧と不釣合いに小柄な少女――――フレイミィ・ロートヴォルフ騎士候が、焦燥も露わに駆け寄ってくる。それにリーデは言い返す。
「危険は承知です、フレイ。私が切り込めば、その分味方の負担が減って……」
「ヴィンフリーデ様……焦るのは解りますが、これ以上は蛮勇です。魔力の残りも少ないはずでは?」
 両手に小さめの剣――と言っても常人では持ち上げるだけで精一杯の大きさだが――を携えた、薄黄色の短髪をした青年が、嗜めるように言ってくる。フレイと同じ騎士の位を持つ魔法戦士、ティオン・ブライヒレイターだ。
 ティオンの言う通り、リーデは焦っていた。単騎で敵軍の奥深くまで切り込むという危険極まる真似をしたのもそのためだ。
 この戦は、昔から何度となく戦火を交わしている東の隣国、シュランゲ公国が、リーデたちの属するプラーティーン王国東部、グロスター伯爵領に侵攻した事から始まっている。
 電撃的に侵攻した公国軍によって、グロスター伯爵の軍は敗れ、領主町は陥落――――伯爵の首は町の広場で晒しものにされた。
 逃げ延びてきた町の住民の話によれば、公国軍は勝者の特権を遠慮なく行使し、逃げ惑う住民を後ろから刃で切り殺しては家財や財産、食料を略奪し、暴虐の限りを尽くしたという。
 この事態に、次は我が身と考えた周辺の領主たちはめいめいに兵を動員し、失地奪還を目的とする諸侯軍を組織。リーデの家門であるエーレンフェルス伯爵家もそれに加わった。
 公国軍、魔法戦士三百を含む五千に対し、諸侯軍は魔法戦士四百を含む七千。数だけ見ればそれなりに有利な戦だった。だが……
 リーデは大剣のスリットから長方形の箱――――魔力残量が少なくなった魔力カートリッジを引き抜き、鎧の物入れに大事にしまうと、新しいそれを大剣に叩き入れた。
 三つしか用意できなかった魔力カートリッジは既に二つを使い切り、最後のこれを使い切ればリーデは攻撃魔法の行使も身体の強化もできなくなってただの少女になる。鎧を着たままでそうなれば、最悪自分の鎧に押し潰されて命を落としかねない。つまりはもう撤退を考えなければいけない状況という事だ。
 恐らくは諸侯軍の他の魔法戦士も、リーデと似たような状況のはずだ。戦場を飛び交う無数の攻撃魔法――――その内諸侯軍の側から放たれるそれの数が、目に見えて少なくなり始めている。公国軍はまだまだ余力を残しているだろうに。
 戦いの序盤、諸侯軍は数の有利を生かして攻めかかり、公国軍はその勢いに押されて後退していた。やがて両軍が接触しての乱戦になるまで、公国軍は防戦一方だった――――ように見えた。
 その実、不利に追い込まれていたのは諸侯軍の方だ。リーデのそれを見ても解るように、諸侯軍は魔法戦士が戦うために必要な魔力カートリッジの保有量が、公国軍に比べて圧倒的に乏しい。だからこそ諸侯軍は序盤から一気に攻勢に出たのだ。本来なら野戦に向かない魔動砲台のような魔動兵器まで待ち込み、火力を集中して短期決着を図った。
 だがそんな戦術は、公国軍にとっては読み通りだったらしい。公国軍は可搬式の魔法障壁発生器を戦場に持ち込み、消耗を抑えつつ戦闘を長引かせる策を取った。諸侯軍は序盤で攻めきれず、やがて多くの魔法戦士が魔力カートリッジを使いきり、魔力切れに陥る事態になった。
 そこで公国軍は一転攻勢に出てきた。魔力がなくては魔法戦士がいかに強くても戦う事はできず、強力な魔動兵器もただのガラクタになる。そんな状況で反撃に出られては跳ね返せるはずもなかった。
「スーディス卿の軍はもう逃げ出しました! 他の諸侯も逃げ出す連中が出始めてます、このままじゃあたしたち敵中に取り残されますよ!?」
 赤い髪と対照的な青い顔でフレイが喚く。諸侯軍は総崩れになり、中には早々に逃げ出す連中もいる。本当に勝つ気があったのかと疑いたくなる体たらくだった。 「く……! せめて潤沢な魔力さえあれば、こんな敵の千人や二千人、私一人でも……!」
「ない物をねだっても魔力は湧いてきませんよ。この地ももう王国のものではありません。これ以上戦っても、無駄死にです」
 ティオンの言葉は穏やかだが辛辣で、正鵠を獲ていた。この地は奪われる事が確定し、もうリーデにも誰にもそれを覆せない。
 だがリーデは嫌だった。ここで自分たちが退いて、失われるのは土地だけではないのだ。
「諦めるな! 敵の大将首を取れば勝てる!」
「俺たちの町を、家を、家族を帰せぇっ!」
 まだ戦意を失っていない一部の者たちが、公国軍に突進していく。彼らはこの地を収めていたグロスター伯爵家の騎士の生き残りと、逃げ延びてきた難民から募った民兵だ。彼らにとって、これは仲間や家族の敵討ちであり、故郷を取り戻すための負けられない戦い。簡単に逃げられるはずもない。
 そんな彼らに、公国軍は無慈悲な攻撃魔法の集中砲火を浴びせた。先の戦いを生き残った騎士たちが、全身を炎に包まれ、雷に打たれて、一矢報いる事さえできず息絶えていく。そして魔法戦士が巨大な武器を一振りするたび、民兵たちの身体が数人まとめて四散し、砕け散っていく。運よく刃を届かせられた民兵がいても、それは魔法戦士の鎧にあっさりと屈し、刃が折れる始末。
 あまりに一方的な蹂躙。リーデは堪らず足を向けようとし、フレイとティオンに両脇から押さえつけられた。
「堪えてくださいリーデ様! あいつらが戦ってるうちに逃げるんです!」
「しかし! ここで逃げては彼らは……!」
「ではここで彼らと共に討ち死にしますか? 我々エーレンフェルス領地軍二百人も道連れにして」
 フレイの懇願と、ティオンの厳しい言葉に、リーデは唇を血が出そうなほど噛む。
 二人の言う事は正しい。ここでリーデが死ねば皆も道連れになる。自分の命が自分一人の物ではない以上、グロスター伯爵領の兵たちが戦っているうちに逃げるべきだ。
 ――また……何も守れないのですね……
 子供の頃から剣と魔法を究め、魔法戦士となった努力は何だったのだろう。肝心な時に、まるで役に立たない。
 張り裂けそうな悔恨と屈辱を押し殺して、リーデは叫ぶ。
「……撤退します!」



 朝から降り続いた雨がやみ、日が西の空に沈むころ、諸侯軍は貴重な魔法戦士数十人を含む、三千人を超える死傷者を出して敗走した。
 残存の部隊は戦場から西に数キロ離れた湖の近くで陣を張り、そこで一夜を明かす事になった。夜が明け次第北西へ撤退する予定だ。口惜しいが、再戦する余力などもうどこをひっくり返そうが出て来ない状況だったのだ。
 誰もが打ちひしがれ、明日からの運命に不安を感じながら傷付いた身体を横たえ、寝静まった頃、リーデは一人で湖の辺に立っていた。鎧はもう脱いでいる。鎧を着るためには筋力強化ストレングス・ブーストの魔法を働かせねばならず、残り僅かな魔力を消費してしまう。決して安い物ではない武具を持ち帰るためにも、鎧を脱げる時には脱いでおくべきだった。
 陣の設営に負傷者の手当てと、戦場を離脱してからもずっと駆けずり回って疲労困憊になっていたリーデは、はあっと重い息をつくと、鎧の下に着ていたインナーも全て脱ぎ、湖の水に身を浸す。既に冬がそう遠くない秋の夜中に、湖の水は身を切るほど冷たかったが、それよりもリーデは血と泥に塗れた体を洗っておきたかったのだ。
 ――また一つ、領土が奪われた……
 冷たい水で顔を洗いながら、リーデは暗澹たる気持ちで思う。この国――――プラーティーン王国が他国の侵略を受けるのも、それによって領土が奪われるのも、これが初めてではないのだ。
 きっかけは、魔力の源にして王国を支える大黒柱、神威結晶の衰えだった。数百年の長きに渡って魔力を生み出し続け、国と文明を支えてきた神威結晶だが、長年の酷使はついにその限界を超えた。
 生み出される魔力の量が目に見えて衰え、このままでは神威結晶が死んでしまうのではと恐れた中央――王とそれに近い大貴族たち――は、国全体での魔力使用の切り詰め政策を始めた。それはやむをえない措置ではあったが、同時に他国に対して、見せてはいけない隙を見せてしまう行為でもあった。
 王国の弱体化を好機と見た周辺諸国は、寄って集って、先を争うように、王国へと侵略の手を伸ばし始めた。王国は魔力不足によってまともに防衛もできず、確実に領土を切り取られ、その手は確実にリーデの家が収めるエーレンフェルス伯爵領、そして中央へと近付いて来ている。
 中央は既に地方の防衛を諦めているのか、中央近くに要塞をいくつも建設して守りを固め、自分たちの領土と生活を守る事に夢中だ。そもそも、国土が侵略されている非常時に中央が統括する国軍が城から動かないばかりか、諸侯軍が戦うために必要な魔力の提供さえ渋るというのがおかしい。侵略を受け、家と住む場所を追われ、財産を略奪される国民を守ろうという気がまるで感じられない。
 ――こんな事では、いずれ王都まで攻め落とされるのも時間の問題……
 そう考えるのはリーデだけではないはずだ。中央、そして王都までが攻め落とされ、神威結晶を奪われれば、この王国の歴史は幕を閉じる。それが絵空事ではなく確実に近付いている現実なのだと、この戦いに参加した全員が口には出さないまでも感じているだろう。
 よしんばその惨禍を生き延びられたとして、その後で待っているのは亡国の民としての運命。自分がそうなった時を想像すると自殺したくなる。
 ――でもそれより、私は……

「――――危ないっ!」

 不意に聞こえた叫び声、それは聞いた事のない言葉だった。
 だがどういうわけか、危険を伝えて叫んでいる事は伝わったので、リーデは反射的に服と一緒に置いてあった長剣――魔法戦士用のそれではない普通サイズの――を引っ掴み、鞘から抜く暇も惜しんで振るう。
 バシッ、と手ごたえ。リーデを狙って放たれた矢が剣に叩き落され、同時に草むらの中から複数人の影が飛び出し、手に手に手斧や蛮刀を振りかざして襲い掛かってきた。
 ――盗賊!
 一瞬の内に思考が戦闘時のそれへと切り替わり、剣を鞘から抜き放つ。今のリーデは何も身に付けていない姿だが、羞恥にうずくまるなど許される状況ではない。元より女の弱さなどとっくの昔に捨てた身だ。
 盗賊が雄叫びと共に蛮刀を振りかぶり、力任せに振り下ろす。素人丸出しの大振りな攻撃を軽く上体を逸らして避け、その欲望にぎらついた眼窩目掛けて長剣の切っ先を突き入れ、捻って確実に息の根を止めつつ引き抜く。
 とそこで、「わああああ!」と悲鳴が聞こえた。草むらの中にもう一人――――いや二人。先刻危険を知らせてくれた誰かと、それに刃を振り下ろそうとしている盗賊だ。
 リーデは蛮刀を大上段に構えて切りかかってくる盗賊の、振り上げられた腕を剣で切り飛ばす。腕と共に宙を舞った蛮刀を左手でキャッチし、声の聞こえた方へ全力投擲。「ギャッ!」と先刻とは別の悲鳴と、「うわあ!」という驚いた声が上がる。これで大丈夫だろうと判断したリーデは、残る盗賊へと向き直った。
 戦いは間もなく終わり、リーデを狙った計七人の盗賊は全員が躯となって転がる事になった。
 彼らは戦争がある事を聞きつけて、公国軍が勝ったら諸侯軍の、諸侯軍が勝ったら公国軍の、敗残兵を襲って武具や金品を剥ぎ取る落ち武者狩りを目的に集まってきたのだろう。あるいは傭兵として戦争に加わるつもりが間に合わず、落ち武者狩りに切り替えたか。
 ――裸の女一人なら、どうにでもなると思いましたか……
 恥知らずな連中だと思ったが、彼らとて元々は普通の民で、貧しさに耐えかねて、あるいは戦争で故郷を追われた難民となり、盗賊家業に活路を見出したのかもしれない。
 結局、強い者は弱い者から富を奪い取り、奪われた者はより弱い者から奪い取る事で這い上がろうとする。それがこの世界の理。
 実に不条理な話だ。
「……と、あの人は……」
 そこでリーデは、自分に危険を知らせてくれた声の事を思い出す。あの声がなければ、リーデは矢を受けて無事ではすまなかったかもしれないのだ。
 草むらの中を除き込むと、そこには頭から蛮刀を生やして息絶えている盗賊の死体と、その横で全身を縄で縛られた、リーデとさして違わないだろう一人の少年が、呆然とした目でリーデを見上げていた。
 逃げ遅れた難民かと思ったが、真っ黒い髪に彫りの浅い顔立ち、見た事がない素材の奇妙な服、そして首に嵌められた鍵付きの首輪――――この近辺の人間には見えない。
 異邦の民、なのだろうか。こんな戦場の真っ只中に? 疑問はいろいろとあったが、何にしても彼が身の危険を冒して助けてくれたのは確かだ。リーデは剣で少年を縛っている縄を切る。
「無事ですか?」
「は……はい」
 やはりリーデの知る言語でない、しかし意味の解る言葉で少年は頷く。
「盗賊に捕らえられて、よく無事だったものですね。……ひとまず向こうで話を聞きましょう、立てますか?」
 リーデが手を差し出すと、少年はそれを取って立ち上がり――――なぜか目を逸らした。
 どうしたと思った時、「リーデ様、何の騒ぎですか!?」とフレイの声がした。
「何かありまし――――って、あああーっ!?」
 走り寄ってきたフレイが、リーデと少年を見て愕然とした顔になる。一拍遅れて、少年も「あっ! ち、違います、これは……!」と狼狽した声を上げた。
「……あっ」
 そこでリーデも思い出した。自分は素っ裸のままだ。傍から見れば、襲われているように見えても仕方なかった。
「とっ……盗賊ーっ! リーデ様から離れなさああ―――――――――い!」
 止める間もなく、鉄拳炸裂。
 少年の体が吹っ飛び、湖に落ちて盛大に水飛沫を上げた。



一章

「明人、帰ったら家の電気ストーブを見てくれる? 最近調子が悪いのよ」
 霧島明人が通って二年目になる高校へ登校しようと玄関で靴を履いていると、母に呼び止められた。
「また? いい加減買い替えた方がいいと思うんだけど……」
 家で使っている電気ストーブは買って二十年近い、十七の明人より長寿の老兵だ。ここ数年は何度となく危篤になり、明人が趣味を生かして直すという事を繰り返していた。
 帰ったら見てみる、と言って家を出ようとし――――た時、二階から妹の里羽が降りてきた。
「ああ、里羽……行って来るからね」
「…………」
 里羽は暗い目で明人を睨み、何も答えずリビングに引っ込んだ。母と明人の間に、重い沈黙が落ちる。
「……行って来ます」
 明人は改めて家の戸を開け、外に出る。……いつもの事だ。今日も、明日も、きっと同じ感じで続いていく。そう思っていた。
 しかし、それが最後だった。



「ん……」
 外からガヤガヤと喧騒が聞こえ、明人は目を覚ました。
「そうだ、今日は……!」
 大事な事を思い出して跳ね起きる。今日は前から楽しみにしていた、陸上自衛隊の駐屯地記念行事がある日だ。さっさと着替えて、渋滞を避けて早めに家を出ないと――――と思ったところで、ここが家ではない事に気が付いた。
「ここは……? う、メガネ、メガネ……」
 近眼にぼやける視界の中、手探りで周囲を探すと、目当ての物はすぐに見つかった。数年前から近眼に負けて使い始めた大きな丸メガネだ。某国民的アニメの主人公のあれによく似たそれは、よく『のび太メガネ』とからかわれていた。
 メガネをかけて鮮明になった目で周囲を見渡す。今いるのは木の骨組みに布を張った簡素な天幕、つまりテントの中だ。何でこんな所にいるのかと混乱した頭を捻りながらも、今の自分の状態を確認する。身体は、頭が痛いがそれ以外は問題ない。服はいつの間にかごわごわした質感の、あまり着心地のよくない服に着替えさせられていて、元から着ていた学生服は天幕の中に干されて生乾きになっていた。
 体の状態を確認、持ち物は何も持っていない。財布もスマホも学生鞄もない。唯一無事に残っていたのは学生服のポケットに入れてあった家の鍵だけだったが、首に違和感を感じて手で触れると、つけた覚えのない冷たい金属の首輪が嵌っていた。
 天幕の中には明人一人だが、外には大勢の人の気配を感じる。現状についての情報に飢えていた明人は、恐る恐る布をめくって外に出てみた。
「なんだよ……これ」
 呆然と呟く。外に広がっていたのは、明人がいたのと同じ沢山の天幕が張られ、そこを大勢の武装した人たちが出入りしている光景だった。行き交う人の多くが剣や槍を手にし、皮の鎧などを着込んでいて、離れた所からは馬の嘶きが聞こえる。それは明人がゲームや映画などで目にした、昔の軍の野営地そのものだった。
 映画の撮影でもしているのかと一瞬思ったが、混乱が収まってくるにつれ、昨日までに経験した非現実的な体験の数々が思い出されてきた。
「夢じゃ……なかったんだ」
 落胆する。全て夢だったらよかったのに、自分は変わらずこの訳の解らない、少なくとも日本ではない場所――おまけに戦場――にいる。
「早く帰らないと……でも、どうしたらいいんだろ」
 途方に暮れる。――――と、その時。
「見つけた! そこにいたかあ――――――――っ!」
 突然の金切り声。何だと振り向いた途端、ひゅっ、と空気を裂いて目の前を鋭い刃が通過した。
「ひゃあ!?」
 思わず声を上げて尻餅をつく。
 前触れもなく問答無用で切りかかってきたのは、真っ赤なツインテールの小柄な少女だった。その手には中世じみた長剣がぶら下がり、殺気立った目で明人を見下ろしている。
 ――こいつは昨夜の……僕をぶん殴った女!
「チッ、外したか……」
 舌打ちし、昨夜の暴力女はゆっくりと明人へ歩み寄ってくる。そして、やおら手にした剣を振り上げて、
「覚悟なさあああああああああい!」
「う、うわあああああああああああああ!?」
 血走った本気の目で切りかかってくる暴力女から、明人は転がるように逃げた。振るわれた剣が天幕の布に引っかかり、それをビリッと切り裂いて明人のいた空間を通過する。
「そ、その剣、本物!? そんなの振り回して、銃刀法違反だろ!?」
「訳の解らない事を。安心なさい、痛くないよう一撃で首を刎ねてあげるから!」
 言い放ち、暴力女は再度剣を振り上げ――――飛び込んできた青年に後ろから押さえつけられた。
「やめろ、ロートヴォルフ卿! 彼は違うと言われたはずだろう!?」
「ブライヒレイター卿、邪魔しないで頂戴! 違うとかそれ以前に、こいつは見てはならぬものを――――!」
 青年ともみ合いになる暴力女。明人はその隙に「あわわわわ」と這って逃げようとした。
 すると、目の前にほっそりとした足があった。
「ああ、よかった、気が付かれたのですね」
 明人を見下ろして柔和に笑った、藍色の髪の女性には、明人も見覚えがあった。
「昨夜の……」
 たった一人で、七人の盗賊を全員切り伏せた女性――――あまりに現実感のない光景だったので夢かと思っていたが、やはり現実だったようだ。
「あの時は私の騎士が失礼を致しました。それで……これは何の騒ぎですか?」
 女性が首をかしげる。剣を振り上げたままの暴力女はバツが悪そうに目を逸らし、それを後ろから押さえた青年はやれやれと息をついた。



 ひとまず、四人で食事をする事になった。
 内容はパンと干し肉、そして水。パンは保存性重視なのかパサパサで甘みもなく、干し肉はゴムの塊のように硬くてお世辞にも美味いとは言えない。暴力女も「家畜の餌ね……」などと不平を漏らし、「これでもソルテッラの大地の恵みだよ」と青年に窘められていた。
 ――ソルテッラの大地? この世界の名前なのかな。
 明人はというと、もう丸二日何も食べていなかったせいか、固いパンと干し肉が妙に美味しく感じられたから不思議なものだと思った。
「……食べ足りない……」
 藍色の髪の女性がそう言った気がし、明人が「はい?」と聞き返すと、彼女は慌てた顔で話を逸らす。
「あ、いえ……逃げる時に物資も捨てたから仕方ありません。……そういえば、まだ名乗ってもいませんでしたね。私はエーレンフェルス伯爵家が一子、ヴィンフリーデと申します。この戦には、父の名代として参加致しました」
 ――伯爵家? この人貴族のお嬢様か……
 昨夜はそれどころではなかったが、落ち着いて見ると改めて綺麗な人だ。長い藍色の髪は上質の絹糸のようにきめ細やかで、大きな黒瑪瑙オニキスのように清んだ輝きの瞳が明人を見ている。
 こんな美女が戦争に参加するなんて、いろんな意味で大丈夫なのかと思ったが、あの強さを見れば納得できる。
「フレイ、ティオン、あなたたちも自己紹介しなさい」
「……エーレンフェルス家家臣の騎士、フレイミィ・ロートヴォルフ騎士候よ」
「同じくティオン・ブライヒレイター騎士候だ。君は?」
「霧島明人です……こっちならアキト・キリシマかな」
「では明人さん、でいいのですよね。遅れましたがお礼を言います。あなたが声を上げたおかげで助かりました」
 こちらこそ、と言いかけて――――昨夜のリーデの一糸纏わぬ姿を思い出してしまって、思わず言葉に詰まった。
 すると、横からフレイに小突かれた。
「ちょっと。余計な事思い出してないでしょうね? あんたこそ助けられたんだからお礼言いなさい」
 ――言われるまでもないっての。ていうか、最初からそれで怒ってるのか?
「いえ……助けてもらったのは僕のほうですし。ずっと怖くて震えていただけで」
「あなたも騒げば殺される状況だったでしょう。その中で声を上げるのは誰にでもできる事ではありません」
 言って、リーデは明人の手を両手で握ってくる。女の子の手の感触に、明人の心臓がどくんと跳ねた。
「あなたの勇気ある行動に、感謝と敬意を表します。あなたを無事に連れ帰る事を持って、恩返しとさせていただきます」
「え!? ちょっとリーデ様、こいつを連れて帰る気ですか!?」
 途端、露骨に嫌な顔でフレイが言う。
「あからさまに怪しいじゃないですかこいつ。服装も変だし言葉も変だし。公国軍の密偵だったりしたら……」
「口が過ぎますよフレイ。密偵が『あからさまに怪しい』はずないでしょう」
「自分もそう思うね。とはいえ得体の知れない異邦人なのも確かだ……先ほどから妙な魔法を使って、我々と話しているしね」
「僕が魔法を?」  ティオンの言葉に何の冗談だと思ったが、明人としても不思議には思っていた。この三人が話している言語は、明人の知っている言語ではない。少なくとも日本語でなければ英語でもない。にも拘らず意思疎通に問題がないのは、言葉が解らないのにその意味は伝わってくるという奇妙な感覚があったからだ。
「察するに、その首輪だね。見た事のない魔法陣が彫られているし、魔力カートリッジ一体式の魔道具のようだ」
「これ、外したいんだけど……」
「鍵は持っていないのかい? なら我慢したほうがいい。壊すのは簡単だけど、たぶん言葉が通じなくなる」
 それで困るのは君だろう? とティオンに言われ、明人は仕方なく取り下げた。
「で、明人だったね。君の身柄は我々が保証するから、素性ぐらいは話してくれないか」
「あ……はい。信じてもらえるか解らないけど……」
 明人はぽつぽつと、今までにあった事を話し始める。といっても、明人自身も訳が解らないのだが。
 母と言葉を交わして家を出たのが三日前の朝――――のはずだ。通学の途中でぷっつりと記憶が途切れていて、気が付いた時には見た事のない、何もない平野の只中に倒れていた。
 丸一日以上飲まず食わずでさ迷い歩き、ようやく見つけた人たち――つまり盗賊――に助けてと声をかけたら、たちまち身包み剥がされた。殺されなかったのは身代金目当てのようだが、家と連絡など取りようがないと知れたら即殺されていただろう。
 明人はまた丸一日の間盗賊たちに連れ回され、諸侯軍と公国軍の戦を遠くから見た。馬に跨った騎士が走り回り、軽装備の歩兵が血を流す前時代的な戦場。その中を無数の攻撃魔法が飛び交う非現実的な光景を見て、明人はここが地球ではない別の世界、魔法の世界だと認めるしかなかった。
 盗賊たちは敗走する諸侯軍の隊列を追ってゆっくりと進み、やがて夜がやってきた。湖で水を補給していると、そこで一人の女性、つまりリーデが水浴びをしているのに出くわし、盗賊たちは大喜びで矢の狙いを定めた。もちろん騒いだら殺すと明人に蛮刀を突きつけた上でだ。
 盗賊が弓に矢をつがえ、気が付いていないリーデに矢を放とうとした時、明人はもうどうにでもなれという思いで、「危ないっ!」と叫んだ。後は知っての通り。以上の事を明人は包み隠さず話したのだが、
「地球? 日本? ……聞いた事がないですね」
「自分も初耳だね」
「嘘ならもうちょっと上手に吐いたほうがいいわよ」
 やっぱりそうなるか……予想通りの反応に、明人は肩を落とした。
 魔法なんて物が普通に存在する世界なのだから、別の世界から来たと言っても案外信じてもらえるのではと期待したが、甘かったようだ。
「明人さんの素性は、事情もあるでしょうし置いておきます。帰ったらゆっくり聞きましょう」
 ひとまず保留としてくれたリーデに明人はほっと息をつき、フレイは「ええ……」と露骨に落胆した。
「それより出立の準備を急いでください。あまり安穏としてはいられない状況ですから」
「そう言えば、先ほど諸侯の代表が集まっての軍議をしていたのでしたね。何か動きが?」
 聞いたティオンに、リーデは深刻な顔でええ、と頷く。
「斥候からの報告によると、公国軍は負傷兵を後送しているそうです」
 ――公国軍……昨日の戦いで勝った側の軍か。
「負傷兵を後ろに送ったって事は……まだ進軍を止める気がないわけだ。まさかこの軍を追ってくるつもり?」
「その可能性が高いそうです。……戦に見識がおありですか?」
 呟きに反応したリーデに、明人はまあ、と曖昧に答えた。あまり自慢にはならないが、ミリタリーや戦史には人並み以上に興味があったし、戦争物のゲームもそれなりに嗜んでいた。だからこそ早く逃げないと、自分たちも皆殺しにされる状況だと解る。
「安全な所……味方の勢力圏まではどのくらいなの?」
「ここから北西におよそ三日の距離です。そこまで行ければ国軍の城砦がありますから、それ以上は追って来れません」
「でも、こっちは負傷兵を大勢抱えているけど、どうするの? まさか置いていくんじゃ……」
「そうする諸侯はいるでしょう。私も選択肢としては排除しませんが、今はそのつもりはありません。領地軍の兵は多くが領民から募った民兵で、私には彼らを無事に帰す責任があると思っていますから」
 優しい人だな、と明人は思った。こういう状況で、満足に歩けない負傷兵は全体の足を鈍らせる。それが敵に追いつかれて全滅するリスクを高めるのなら、非情だが捨てて行くべき、という事もありうると、明人は知識としては知っている。
 それをしたがらないリーデは、きっと情の深い人間なのだろう。きっと諸侯はいい顔をしなかったろうに。……と思ったのだが、
「先ほどの軍儀でも負傷兵の扱いは問題になりましたが、連れ帰りたいと申し上げたところ多くの賛同をいただけました。負傷兵を無事に連れ帰るべく、私たちにも協力してほしいと」
 予想と違うリーデの言葉に、「……え?」と声が漏れる。
「そう、諸侯の代表者たちに言われたのですか?」
 ティオンも妙な気配を感じたのか、身を乗り出して訊ねた。
「ええ。可能な限りの事はすると返答しました」
 リーデは安心した顔をして言ったが、これは喜んでいいのだろうか。
 いや、何かがおかしい。明人が詐欺に引っ掛けられたような不安を感じたその時、「ヴィンフリーデ様、大変です!」と一人の騎士が、血相を変えて走ってきた。
「何かあったのですか?」
「ほ、他の諸侯の軍がやってきて……我々の馬を全て接収すると!」
 その言葉に、戦慄が走った。



「承服できません! なぜ私たちが領地の財産である馬を差し出さねばならないのですか!?」
「負傷者を一刻も早く運ぶには馬が必要だ。それが解らない卿ではあるまい」
 馬の接収に抗議の声を上げたリーデに、諸侯の一人である伯爵はにべもなくそう言った。
「軍儀でも言ったはずだろう。負傷兵も無事に連れ帰るために協力して欲しいと。可能な限りの事はすると卿も約束した。あれは嘘か?」
「た、確かに約束はしましたが……」
「約束を違えるなら、こちらとしても相応の対応をせざるを得んな」
 その一言で、重々しく鎧を鳴らして魔法戦士たちが歩み寄ってくる。これ以上口答えするなら武力で押さえつけるとの明らかな恫喝だ。協力するとの言質を取られている以上、本当にそうしたとしても大義名分は立つ。
 ――あいつら、最初からその気でリーデさんを嵌めたな……
 あの様子からして、最初から誰かに殿軍の役を押し付けて、撤退の時間を稼ぐ――――そのために馬を取り上げて置き去りにすると、軍儀の前……下手すれば昨日にでも、一部の諸侯の間で決まっていたのだろう。それと気付かないまま言質を取られ、『誰か』の役はリーデたちになってしまった。
 誰か助けてくれる諸侯はいないのかと視線を泳がせたが、何人かの貴族が遠巻きに見ているのが目に入り、助け舟の望みはないと悟った。
 ――批判的な考えを持っている人も、下手に助けて自分が同じ立場にされるのが怖いから傍観の構えか。異世界でも、こういう弱い者苛めの構図は変わらないんだな……
 結局抗する術はなく、本当に馬は全て取り上げられ、明人たちは諸侯軍の軍列が出発するのを歯噛みして見送った。
「……悲嘆に暮れている暇はありません。私たちもすぐに出発します」
「ですが、馬がなければ重傷の兵を運べませんよ。それに食料等の物資もありますし……」
 リーデは当初、空いた荷車に負傷兵を乗せて連れ帰るつもりだったが、それを曳く馬がなければ自力で動けない負傷者は置いていくしかない。フレイは言外にその事を指摘していた。
「大丈夫です。策はあります」
 その一言に、黙って聞いていた明人を含む全員が身を乗り出す。この状況で負傷兵を連れたまま逃げ切る策でも考え付いたのか。
 リーデは言う。

「私と騎士数名で公国軍に突撃を仕掛け、皆が撤退する時間を稼ぎ出します」

「……何と仰られました、リーデ様?」
 一瞬の沈黙のあと、フレイ。
「私と騎士で敵に突撃して足止めしますから、皆はその間に逃げてください」
「論外です! そのような真似をしてどうなりますか、自殺行為です!」
「そうですよ! リーデ様は逃げてください!」
 さすがのティオンも声を荒げ、フレイは盛大に取り乱す。
「私には一人でも多くの兵を無事に返す責任があります。だからもう、この道しかありません」
「いやいや、その道もないでしょ!? リーデさんと騎士が突撃したって、稼ぎ出せる時間なんてどのくらいだと思う!?」
 部外者の自分が軍の行動に口出しするのはまずいと黙っていた明人だが、今度ばかりは口を挟まずにいられなかった。  この軍の指揮官として責任ある立場なのは解る。他の諸侯の口車に乗せられこの窮状を招いた負い目もあるだろう。だがリーデの言い出した事は責任の履行ではない。
「だいたい責任がどうとかって言うなら、なおさらみんなの所を離れちゃダメでしょう。指揮官がいなくなったら誰がこのボロボロの軍を引っ張っていく? 責任放棄だよそんなの」
「それは……」
 代わりを勤められる騎士を探したのかリーデは目を泳がせたが、誰も思いつかなかったようで黙り込む。
 貴族諸侯にあっさり言質を取られた時からまさかとは思っていたが、このやり取りでそれは確信へと変わった。

 リーデは――――――――――――――――――――アホだ。

 貴族のお嬢様で、話し方も礼儀正しいし、ついでに顔も可愛いが、その中身は完全に、脳味噌に至るまでが筋肉で構成されている種類の人間だ。ゲーム的に言うなら、ステータスを戦闘力に振りすぎて知力が著しく低いタイプだ。
 ――なんでこんな人が指揮官やってるんだ……
 なんだか逃げ出したくなったが、周辺に落ち武者狩り狙いの盗賊が跋扈している中、一人で逃げても助かる見込みがないのは骨身に沁みて解っていた。
「……ちょっと、その地図見せてくれる?」
「はい」
 自分も打開案を考えてみようと思った明人は、リーデから地図を受け取り、周囲の風景と地図を見比べる。
 大きな町――占領された領主町だろう――から北西に向けて一本の街道が延びていて、その途中に付けられた丸印が今いる地点だ。味方の勢力圏までは真西に行けば近いように見えるが、そこには南北に伸びた広い森林地帯がある。
「この森を越えて行けないの? 森の中なら敵にも見つからないと思うけど」
「無理よ。そこは『魔境』だもの。あんた凶獣の餌になりたいの?」
「凶獣?」
 知らない単語に戸惑う明人に、ティオンが親切にも説明してくれた。
「人を捕食する危険な生物の総称だ。あの森にはキラーバグという虫型の凶獣が生息している。血の臭いを嗅ぎつけて数百の群れで襲ってくる、極めて危険な生き物だ」
 ――うわあ、この世界ってモンスターまでいるのか……
 凶獣のテリトリーである『魔境』は魔法戦士であっても立ち入るのは危険な場所で、怪我人を抱えて突っ込めば全滅は免れない。通過は諦めざるを得ないとなると、やはり必要なのは輸送手段だ。
「そういえば、僕を捕まえてた盗賊連中も馬を連れてたよ。昨日湖の近くに繋いだままなら、諸侯にも連れて行かれてないはず」
「それはありがたいけど、焼け石に水だろう。盗賊の馬なんて所詮駄馬だろうし、数も足りない」
 全員を連れて敵の追撃を振り切るなら、軍馬みたいな足の速い馬が二百頭は欲しいな、とティオン。そんなものが都合よく手に入るはずはないと言外に言っていたが、それを聞いてふと考えが浮かんだ。
「……誰か、この少し南の丘まで行って、様子を見てきてくれないかな」
 いよいよ軍の行動に口を出した明人に、「はあ? どうして」とフレイが鬱陶しそうな顔をした。
「僕が公国軍の指揮官なら、この丘の稜線に隠れる形で、足の速い騎兵隊か何かを先回りさせると思う」
 この周辺は村がぽつぽつと点在する他は木もまばらな平野地帯だ、数キロ先まで見通しがいい地形ではあるが、場所によっては数メートルの丘くらいはある。その稜線に隠れて移動すれば、この領地軍からも諸侯軍本隊からも見つかりにくい。足の早い部隊を先回りさせて退路を断てば、諸侯軍は包囲殲滅される。……と明人が言うと「ただの憶測でしょそんなの」とフレイに噛み付かれた。
「ていうか余計な口出しするんじゃないわよ、部外者が……」
「待て待て。ありえない事じゃないと思うぞ」
 ティオンに続けろと促された明人は、いくつか考えられる先回りのルートの中、最も近い南の丘に沿って西から回り込むルートを指でなぞる。
「なるほど。用心するに越した事はないな。……というわけでロートヴォルフ卿、盗賊の馬を使ってくれ」
「ちょっと、何であたしが……こいつに自分で行かせなさいよ」
「いや、ごめん、無理……」
 乗馬の経験などないし、GPSもなければ目印もない平野に明人一人で乗り出したら絶対に帰れなくなる自信があった。なにより盗賊に出くわせば戦えない。
 ありがたい事に、ティオンが助け舟を出してくれた。
「憶測かどうか、自分の目で見るのが早いだろう。何もなかったらせいぜい彼を馬鹿にすればいい」
「リーデ様ぁ……」
 助けを求めるようにフレイはリーデを見たが、
「お願いします、フレイ」
 ええ……とげんなりした顔で言ったフレイに、選択の余地はなかった。


「あーもう! 何であたしがこんな事しなきゃなんないのよ!」
 数分後、馬上の人となったフレイは金切り声を撒き散らしながら緑の平原を走っていた。
 今のフレイは魔法戦士の鎧を脱いで皮鎧だけの防具に普通サイズの長剣という軽装だ。魔法戦士の装備を身につけて馬に乗るには魔法陣を刻んだ馬具を付けて、馬にも筋力強化ストレングス・ブーストの魔法を働かせる必要がある。そうしなければ馬が圧死してしまう。
 魔力を惜しんだゆえの軽装だが、この状態で盗賊にでも出くわせばいくら騎士でも無事で済む保証はない。決して安全な偵察ではないのだ。
 そんな中大声で喚き散らすのは、危険を高める行為なのだが……
「ブライヒレイターの奴……こんな時にあたしをリーデ様と引き離して何がしたいわけ!?」
 フレイが業腹なのはそこだ。明人の予想をまったく信じる気がない彼女にとって、今のこの状況はリーデの傍を無駄に離されたとしか思えなかったのだ。
 ロートヴォルフ騎士候家は、祖父の代からエーレンフェルス伯爵家に家臣として仕えてきた騎士の家だ。当然リーデの事は生まれた時から知っている。妹――――いやそれ以上の大切な存在だ。
 リーデがこの状況を打開しようと必死なのも、それができずに苦しいのも解る。現状を打開する方法が思いつかない点ではフレイも大差ないが、とにかく傍で支えて、守ってあげたいのだ。
 そんな時にリーデから引き離された、その事がフレイは面白くなくて仕方ない。自分がいない間にリーデがまたぞろ特攻を決めていないかと思うと気が気ではない。一秒でも早く戻りたかったが、他でもないリーデの口から頼むと言われた以上、早く戻って役目を果たしていないのがばれるのも嫌だったので、とにかく馬を走らせるしかなかった。
「だいたい何なのよあの男、得体も素性も知れない怪しい奴のくせに、リーデ様に馴れ馴れしく……!」
 やり場のない苛立ちが、今度は明人にも向く。
「リーデ様もリーデ様だわ。助けられたからって信用しすぎじゃないのかしら。あいつはリーデ様のう、う、う、生まれたままのお姿を見たのよ……!? あの玉のようなお肌を、すらりとした手足を、あたしよりずっとご立派で触り心地のいい胸を、何から何まで見たり触ったりしやがってうきゃ――――――――っ!」
 一部事実と異なる空想も入り、まるで卑劣な強姦魔のような姿となった明人を脳内で何度となく惨殺しながら、帰ったら今度こそ斬ろうと心に決める。
 そうこうしているうちに目的の丘に到達し、フレイは馬を降りて丘の天辺に走る。後は周囲に何もない事を確認して帰るだけだ、と思っていたのだが、
「……ウソでしょ……」
 目を疑った。
 丘から見下ろした先には、明人の言った通り――――多数の馬を連れた公国軍の部隊が、泥を蹴立てて進軍しているのが見えた。



 大急ぎで陣へ戻ったフレイの報告は、リーデたちを驚かせた。
「兵力は二百人前後だと思います……軽装甲の軽騎兵隊ですけど、魔法戦士も二十人くらい見えました。進軍速度も速いです……」
「このままなら退路を断たれるか、追いつかれるかのどちらかだな。負傷兵を捨てても、死ぬのが遅いか早いかでしかなくなる……」
 生還の可能性がますます低くなり、重い空気が満ちる天幕の中、明人が口を開く。
「その騎兵隊、馬は何頭連れてる?」
「四百頭くらいかしら。兵と同じ数の代え馬を用意して、馬が疲れたら乗り換えて進軍速度を上げてるのね」
「ならチャンスかもしれないよ。この騎兵隊と戦って、馬を奪い取れれば、負傷兵も含めてみんな逃げ切れるかもしれない」
「戦うって……簡単に言うわね。相手は速度重視の軽騎兵と言っても、訓練された二等騎士と魔法戦士で構成されてる部隊よ? こっちは軽歩兵ばっかりで怪我人だらけ」
 馬をぶんどるどころか蹴散らされるわよ、とフレイは消極的だったが、ティオンとリーデの二人は少し考えた後、口を開いた。
「いや……これこそ『他に道もない』と思うね」
「私も一考の余地はあるかと思います。戦える兵と武器を数えて……」
「それならやっておいたよ」
 さらりと言った明人に、「え?」と視線が集まる。
「フレイが偵察に行ってる間に、だいたい数えておいた。まず領地軍の総勢二百人のうち、初戦での死者が三十四人、重傷で動けないのが五十一人、脱走者も含まれるだろう行方不明者が、把握し切れてないけど二十人くらい。まだ自力で動ける軽傷者が六十七人、その内三十二人は手を怪我して武器が持てなかったりするから戦力にはならない。特に怪我らしい怪我をしてないのが五十九人。数が合わないのは他の諸侯が置き去りにした負傷兵が紛れ込んでたせいで、今この陣にいるのが百八十人くらい。何とか戦力になりそうなのは半分くらいかな」
 手元の紙を見ながらツラツラと言葉を並べる明人を、他の三人は目を白黒させて見ていた。
「剣や槍は戦える人数分ならある。弓、というかクロスボウは使えそうなのが二十三丁。矢が二百本弱だから一人十本も持てない。使うとしたら負傷兵に持たせて、足りない分は布で投石器でも作ろう。肝心要の魔法戦士は、十人いるうちの二人は重傷で戦力にならない。……こんなところかな」
「兵の人数を数えるだけならともかく、負傷兵一人一人の怪我の程度と武器の残りに至るまで確認したのか? 優秀だね君は」
「お褒めに預かりどうも。あとは魔力の欠乏が深刻って事だったけど……」
 これはよく解らないから説明してくれるかな、と頼んだ明人に、「自分が答えるよ」とティオンが手を上げる。
「魔法戦士は、まず動くだけで魔力を消費する。常人には扱えない重厚な鎧と巨大な武器を扱うために、筋力強化ストレングス・ブーストの魔法を常に働かせるからだ。鎧に装填された魔力カートリッジが空になれば最悪、鎧に潰されて死ぬ事になる」
「魔法戦士が動くための『燃料』と、攻撃魔法を撃つための『弾薬』の両方を魔力というエネルギーで賄ってる、と覚えればいいかな」
「例えがよく解らないけど……まあいいか。現状、『燃料』は最後の一本を大事に使ってる有様で、全力で戦えば数分で切れる。武器に装填する『弾薬』も標準的な炎熱球ファイアボールを一発か二発が限度だろう」
 この世界の戦争について明人は知識が乏しいが、盗賊と共に観戦した限り魔法戦士とは、攻撃魔法の火力と超重量級武器の攻撃力、そして分厚い鎧の防御力、その三つを併せ持つ、人間戦車と呼ぶべき存在だろう。これに馬の機動力が加われば戦車そのものだ。
 こちらの戦車は、燃料弾薬共に欠乏寸前。普通の兵――――雑兵隊は怪我人ばかりで士気も低い。
「騎兵部隊を相手にするには、あまりに頼りないね。何か手を考えないと……」
「それなら、私と騎士が突撃して――――」
「あんた突撃以外に知ってる言葉はないのか!?」
 この期に及んで猪突猛進な事を口にするリーデに、明人は思わず全力でツッコむ。
 すると「ちょっとやめなさい!」とフレイに止められた。
「その言葉は、リーデ様にとてもよく効くのよ!」
 時既に遅く、見るとリーデはずーん、と膝を抱えて落ち込んでいた。
 ――気にしてたのか……
「……まあ、ヴィンフリーデ様にはその時が来たら存分に戦っていただくとして」
 あっさりと主君を蚊帳の外に置いたティオンは、地図に視線を落とす。
「問題はどう戦うかだ。この辺は騎兵の突進力が存分に発揮できる平野。正面からぶつかれば一蹴される」
 騎兵という兵科の最大の強みは高い機動力と、そこから生まれる突進力にある。馬の体重は標準的なもので五百キロ、より大型のものなら一トンを超える。そんなものが横隊を組み、槍を並べて突進してくる威力は凄まじい。銃の発達で無用の長物となる以前は、まさに戦場の最大戦力だった。
 その反面、突進力を失ったところを敵に突かれると脆い一面がある。例えば戦国日本の長篠の戦い。無敵の武田騎馬軍団が織田の鉄砲隊に敗れたと有名な戦だが、それは江戸時代の時代小説によるイメージが強く、実際には堀や馬防柵といった障害物による野戦築城こそが最も威力を発揮したと言われている。
 とはいえ、野戦築城なんてしている時間も資材も人手もないわけだが。
「要は敵の突進力を殺せればこっちのものだ。そこに先制攻撃を加えて痛打を与えれば、敵はきっと逃げていく」
「どうやって? そこが一番の問題なんでしょ」
「考えはあるよ……まさか戦場で安全運転に気を使う敵はいないだろうしね」
 明人の言葉に、三人は頭上に『?』マークを浮かべた。



 領土を蹂躙し、都市を焼き、住民を殺戮暴行し、住む場所と財産を奪い取る。プラーティーン王国の国民からすれば間違いなく、シュランゲ公国は非道な侵略者だ。
 ではその侵略者は、赤ではなく青い血が流れていたり、口が四つに裂ける怪物だったり、あるいは文明レベルの隔絶して低い野蛮人なのかと言えばさすがに違う。彼らは紛れもないただの人間であり、侵略者なりに大儀を持って戦争に臨んでいた。
 空気が朝靄にけぶる中、前日の雨でぬかるんだ平野を疾駆する軽騎兵隊の兵士たちもまた、そんな公国民だった。
「テレンツィオ、やはり腕の怪我が痛むのではないか?」
 騎兵隊の指揮官、ウンベルト・クレパルディ騎士候は、一人の年若い騎士へ馬を寄せ、気遣わしげに話しかけた。既に五十近い壮年であるが剣筋に衰えは見えず、豊富な経験と実績から主君の信頼も厚い。筆頭騎士として部隊を任されるには十分な人材といえた。
 彼ら二百人の軽騎兵に課せられた役目は、敗走する王国軍の進路へ回りこみ、退路を断った上で本隊と挟撃、殲滅する事。
 もはや魔力が尽きかけ、まともに戦う力のない王国軍を刈り尽くすなど容易いが、ウンベルトは初戦で腕に手傷を負いながらここまでついて来たテレンツィオ・レグラマンティ騎士候の事を気にかけていた。
「は……申し訳ありません、ウンベルト卿、少し前から痛みが強く……」
「無理をするな。本隊に戻って治療を受けろ」
「いえ、大丈夫です」
 テレンツィオは怪我をした左腕を庇いつつ、右手一本で手綱を操っていた。戦いに支障があるのは明らかなのだが、あくまでも共に戦いたいと譲らない。勇敢な騎士ではあるが、いささか危なっかしい若者だ。
 ウンベルトの息子は、生きていればちょうど同じくらいの年だったろう。テレンツィオには数年前に王国との戦いで戦死した息子のようになってほしくない――――というのは、余計なおせっかいだろうか。
 昨日のためで泥になった地面に多少足を取られつつも、馬を乗り換えながら走る事しばらく。進路上に小さな村が見えてきた。念のため先に斥候を行かせたが、あそこの住民はもう誰もいないはずだ。数日前にこの地の領主街で、他でもない彼ら公国軍が働いた略奪と乱暴狼藉の知らせを受けて、全員逃げ出している事だろう。
「哀れだな」
「は?」
 ウンベルトの独り言に、テレンツィオが反応した。
「逃げたとしても生活のあてなど何もあるまい。待っているのは難民としての惨めな生活だけだ」
「王国の蛮族に同情など無用でしょう。奴らが我々の先達に何をしたかお忘れですか?」
 渋面を作ってテレンツィオは言う。
 公国民と王国民の間に人種的な違いはさほどない。肌の色や髪の色もほぼ同じ。言語も同じ西大陸共通語で、訛りの違いがあるくらいだ。にも拘らず両国はその歴史上、幾度となく戦火を交わしてきた。旧くは国境の線引きと住民の帰属、あるいは有望な資源を産出する地域の所有権を巡り、隣国であるからこその争いが繰り返され、多くの血が流された。
 そして近年になり、王国の神威結晶を奪うための戦争が始まると、過去の歴史において王国が犯したとされる残虐な行為の数々は強調され、誇張され、あるいは捏造されて公国民に教え込まれていた。国民への虐殺、暴行、略奪。……なんて事はない。つい先日彼らも、王国民に対して同じ事をしたばかりだ。
 テレンツィオの言葉も、考え方も、国策によって醸成された『模範的な』公国民のものだ。王国民は野蛮な蛮族で、殺されるのも奪われるのも当然。そう思えば全ては正当化される。
 ウンベルトは多少公国の国策を客観的に見ていたかもしれないが、それを否定する気も止める気もない。
「そうではないよ。中央の無能の結果を押し付けられている彼らに、憐憫を感じているだけだ」
 神威結晶が無尽蔵の魔力を生み出せるわけでない事は、何十年も前から周知されていたはずだ。にも拘らず王国の中央は無計画な魔力の無駄使いを改めようともしなかった。その結果がこれだ。国は衰退し、他国の侵略を跳ね除ける事もできなくなり、滅びの坂を転げ落ちている。
 それを自業自得と嘲笑するのは容易いが、公国もまた神威結晶の魔力に頼って生活しているのは同じ。将来同じ状況に陥る可能性は大いにある。
 だからこそ王国が衰退し優位を得ているこの機会に王国の神威結晶を奪い取り、より多くの魔力を得るのだ。国民に憎しみを植えつければ兵を募るにも、戦争のための租税を引き上げるにも抵抗がなくなり効率的だ。都市を襲って武器を持たない人々を殺し、財産を奪うのは兵に報酬を払い、余計な魔力を使わないために食い扶持を減らすため。
 全ては百年先まで公国を守るために必要な事だ。そのために息子は死んだ。恥ずべき事など何もない。あるとすればただ一つ、『敗北』だけだ。
「我々が王国を滅ぼせば、むしろ村人の溜飲も下がるであろう。無能な中央に罰が下ったとな」
「ははっ、違いありませんね」
 二人のやり取りに、周囲の騎士からもははは、と笑いが起きる。
 とそこで、数騎の二等騎士が駆る馬が前から向かってきた。先行していた斥候だ。村が無人である事を確認してくるだけと思っていたが、妙に急いでいる。
「報告します! 前方の村付近に、敵兵力を確認しました!」
「敵だと? 数は?」
「歩兵が二・三十人ほどかと。応戦の構えを見せています」
 逃げ遅れた敗残兵、あるいは味方を逃がすための殿だろうか。どちらにしても、黙ってすれ違う理由はない。
「所詮は敗残兵だ、長引かせるな。……全軍に突撃隊形を取らせろ、一撃で仕留めるぞ!」
 ウンベルトの号令に騎兵隊全体が隊形変形を始める。訓練が行き届いているだけあって、二列横隊が出来上がるまで数分とかからない。
 村の手前に布陣していた王国の敗残兵は、突進してくる騎兵隊を見るやたちまち逃げ出した。逃げ込む先は村の中だ。多分あの中にまだ多くの兵がいて、村の中に誘い込んで戦う気なのだろう。建物が林立する村の中は、騎兵にとって戦いにくい場所だ。
 無論、そんな見え透いた策に乗ってやる気は毛頭ない。
「騎士諸侯は攻撃魔法を準備! 炎の攻撃魔法で村に火を放て! 敵を燻り出すのだ!」
 ウンベルト以下、二十人の魔法戦士が一斉に攻撃魔法の魔法陣へ魔力を通す。魔力が強力な熱エネルギーへと変換され、火球の形を与えられたそれが一斉に飛翔する。
 着弾、そして爆発。圧縮された熱の塊が爆ぜ、村の家屋が派手に吹き飛ぶ。中に誰かいたとしたら確実に生きてはいないだろう破壊の嵐が吹き荒れ、たちまち村中が炎に包まれる。
 ――――わああああああっ…………!
 焦熱地獄と化した村の中から、先ほどの敗残兵たちが悲鳴を上げて飛び出し北東へと逃げていく。真南から向かってきたウンベルトたちからは右奥へと向かう形だ。
「腑抜けめ。せめて刃に向かって死んで見せろ。……蹂躙せよ!」
 隊から雄叫びが上がり、一斉に馬が全力疾走へと入る。騎兵隊二百人の全力突撃――――歩兵にはもはや防ぐも逃げるも不可能な絶望の壁が、逃げる敗残兵たちの背中へ迫る。騎兵隊は勝利を確信し、村の東に伸びる道――――街道と村を繋ぐ道を横切る。
 その瞬間、天と地が逆転した。
「な――――――!?」
 何が起きた、と叫ぶ間もなく地面に叩きつけられ、全身に衝撃が走る。
 ウンベルトの乗っていた馬が転倒し、投げ出されたのだ。しかも彼一人だけでなく、騎兵隊前列のほぼ全員が一斉に転倒し、落馬していた。
 そこへ後列が止まる暇もなく殺到――――倒れた馬の下敷きになり、あるいは後列の馬に踏み潰されて圧死する兵までが続出。人馬の悲鳴と骨の折れ砕ける恐ろしい音がいくつも重なって響く。
「バカな、何が起きた……!?」
 目の前の惨状の原因も解らないまま、とにかくウンベルトは地面に手を突いて起き上がろうとする。……すると、信じられないほど地面が冷たい。
 ――氷!?
 触って初めて気付いた。地面――――正確には街道と村を繋ぐ道の路面が凍結している。それも一瞥しただけでは濡れているようにしか見えないほど薄く、非常に滑りやすい氷が。
 罠に誘い込まれたと悟った時にはもう遅かった。前後左右から攻撃魔法と矢が飛来――――ウンベルトの近くにいた騎士たちが、魔法障壁で防ぐ間もなく炎に包まれる。
「前の敵が反転! 向かってきます!」
「右に敵! 弓兵隊!」
「ああ、敵は地中から来た、左だ左!」
「伏兵だと……!?」
 つい先ほど通り過ぎた、何もない平野の中から突然多数の敵が現れ、身動きの取れない騎兵隊へと殺到してくる。
 全滅――――最悪の二文字が過ぎった。


「敵が罠にかかったよ! 一斉攻撃!」
「こ、攻撃魔法、放ち方用意!」
 一瞬ぽかんとしていたリーデが、明人の声で我に返り号令を出す。それに答えて七人の魔法戦士と、およそ六十人の雑兵隊が、一斉に覆いを投げ捨て立ち上がる。同時に囮として逃げていた三十人も反転し、騎兵隊へ襲い掛かった。それは上から俯瞰すれば、三方から騎兵隊を取り囲む形になった。
「放てっ!」
 リーデは剣の魔力カートリッジに残された最後の魔力を注ぎ込む。放つ攻撃魔法は爆炎撃ストライクフレア炎熱球ファイアボールより多くの魔力を強力に圧縮して放つそれは、目標に接触すると大爆発を起こして周囲を焼き尽くす。消費する魔力量と行使する難度に見合った強力な魔法。それは混乱の坩堝にある騎兵隊の只中で炸裂し、多数の魔法戦士を薙ぎ倒した。
 残された百人にも満たない兵力では騎兵隊に敵わない事は、最初から明らかだった。そこで村の道に氷――――ブラックアイスバーンで騎兵隊の突進力を殺したところに、先手を打って攻撃魔法の一斉攻撃で痛打を与える。それが明人の考えた作戦だった。
「ブラックアイスバーンていうのは、冬の寒い時期に降った雪が一度完全に溶けたところでまた零度以下まで気温が下がり、再凍結してできる薄い氷の層。昼夜の寒暖差が大きい地域でよく見られて、よく交通事故の原因になる」
 これが普通のアイスバーンより恐ろしいのは滑りやすいのに加え、見ただけでは凍っているように見えない点にある。そこがただの濡れた路面だと思い、警戒もせず、スピードを緩めもせずに突っ込み、スリップ事故の憂き目に遭う自動車ドライバーは毎年後を絶たない。……という説明を理解してもらえたかはともかく、魔法でブラックアイスバーンを再現するのは難しくなかった。幸いな事に、昨日の雨で地面はたっぷりと水を吸っていて、道が濡れていても誰も不思議には思わない。
 もう一つ幸いだったのは、騎兵隊が諸侯群に見つからないようかなり大回りなルートを選んだ事だ。おかげで先回りに成功しただけでなく、荷物を運ぶのに使う麻の袋を短冊状に裂き、草や葉っぱを括りつけたギリースーツという覆いを人数分作る時間もできた。ギリースーツを被って伏せた明人たちに騎兵隊はまったく気付かないまま素通りし、ブラックアイスバーンによってドミノ倒しのように転倒。リーデたちの攻撃魔法を防ぐ事もできずに相当数の兵と魔法戦士が吹き飛んだ。
「全軍突撃! 侵略者に死を!」
 上がる鬨の声。領地軍九十人が怒りを剥き出しにし、棒立ちとなった騎兵隊をほぼ取り囲む形で殺到する。
 騎兵隊は凍った路面で転倒した時点で多数の死傷者が出ていたはずだ。それに加え、魔法戦士を狙い撃ちにした攻撃魔法を防ぐ間もなく受け、クロスボウの矢と投石器の石が追い討ちに降り注ぐ。そこに村で調達した農具のかぎ爪を持った雑兵が肉薄し、騎兵を引き摺り下ろして槍で突き殺す。そうして空いた間隙に、魔法戦士が切り込んでいく。
 このまま行けば戦いは領地軍の一方的勝利となるだろう。だがそれだけでは意味がない。危険を承知で騎兵隊に挑んだのは、第一に馬を奪うためだ。
「敵が立て直す前に攻め立てて! 僕たちは馬を確保する!」
「お気をつけて!」
 明人は自身もギリースーツを投げ捨て数人の兵と共に走った。狙いは敵騎兵隊――――の後方にいる、二百頭の代え馬の確保だ。危険がないとは言えないが、明人は自ら参加を望んだ。
「馬の御者を片付けろ! 引き摺り下ろして刺し殺せ!」
「や、やめろぉっ!」
 代え馬を操っていた兵が馬から引き摺り下ろされ、地面に叩きつけられたところへ領地軍の兵たちが集団で群がる。
 彼らにしてみれば、先日の雪辱を晴らす絶好の機会だ。領地軍の兵たちは燃え上がる怒りと敵意を槍に乗せ、倒れた公国兵の全身をめった刺しにする。大量の鮮血が噴出し、口から迸る悲鳴が吐血で塞がれ、人が臓物をぶちまけて死んでいく。
「う……!」
 酸鼻極まる殺人の実演を目にし、明人の空っぽの胃から酸っぱいものが喉までこみ上げてくる。
 本音を言えば、戦争に参加するのは怖い。ケンカもなるべく避けて生きてきたし、ましてや人殺しなんて別の世界の出来事だと思っていた。
 それでも明人が参加を望んだのは、見ているだけは嫌だったからだ。戦う力も勇気もない自分でも、せめて何かできる事をしたかった。
 ――やらなきゃ……!
 恐怖を振り払うように念じ、明人もかぎ爪を公国兵の服に引っ掛け、体重をかけて一気に引く。あっけないほど簡単に落馬した公国兵に、明人は短剣を突き刺そうとして――――その怯えた目と目が合って、動揺して動けなくなった。
 公国から直接的に危害を加えられた事がない明人にとって、その目は戦意を奪うに十分だった。刺したらこの人も痛いだろうか、この人にも家族がいるんだろうか、そんな当たり前の考えが次々浮かび、明人は目の前の『人』に刃を突き立てる事ができなくなった。
 明人の逡巡が伝わったのか、公国兵の表情が恐怖から怒りのそれへと変わる。その手が腰のショートソードに伸び、明人は反射的に身を引いた。
 刃が一閃――――左腕に冷たい痺れに似た感触が走った次の瞬間、ぱっくりと切り裂かれた肘から見た事もないほど大量の血が流れ出した。切られたと自覚し、同時に襲ってくる燃えるような激痛。
「うあ……ああああああああああっ!」
 ――痛い、痛い、痛い!
 致命傷ではなかったかもしれない。それでも痛みに耐性のない明人には耐えられず、悲鳴を上げて尻餅をつく。
「この蛮族め、よくも……!」
 起き上がった公国兵が、鬼のような形相で明人を見下ろす。
 死にたくないと助けを請うていた目はもうない。そこにあるのは明人を『人』ではなく『敵』と見なした殺意だけが光る目だ。その目に射竦められ、明人は声も出ないほどの恐怖を味わった。
 この公国兵は明人がしたような躊躇など絶対にしないだろう。戦うなり、逃げるなりしなければ確実に殺される。頭では解っているのに、恐怖に震える身体はまったく動かない。
「死ね!」
 振り下ろされる刃。次の瞬間に襲ってくる痛みを予想し、明人は目を閉じる。
 ザクッ、という鈍い音。――――そして「ギャッ!?」と響く、公国兵の悲鳴。
 ――え?
 目を開ける。頭上に掲げた剣ごと綺麗に右腕を切断され、見事な断面となった傷を押さえて苦しむ公国兵と、右手の剣を振り切った体勢の騎士――――ティオンの姿が目に入った。返す左手の剣が一閃され、上半身と下半身を分断された公国兵の悲鳴がぴたりと止まり、二度と動かなくなった。
「何をやってるんだい君は。一度武器を構え戦う意志を見せたなら、逡巡は命取りになるよ」
「……ごめん」
「戦う気概がないなら無理をするものじゃない。……とはいえ、十分すぎるほど役に立ってくれたようだけどね、君は」
 くい、と顎でリーデたちがいる戦場のほうを示す。もう戦闘は収束しつつあり、騎兵隊は大半が散り散りに逃げ出していた。勝敗は決したろうが……
 ――僕はまた……怖くて震えてるしかできなかった……
 悔しさにギリッ、と奥歯を強く噛む。結局――――自分は弱くて臆病なままだ。



「馬は足りますか?」
「十分お釣りが来ますよ。それに悔しいけど、どれも諸侯に取り上げられたあたしたちの馬より上等な軍馬です」
 戦闘が一段落し、肝心な馬の数を確認したリーデに、フレイは嬉々として答えた。
 二人の周囲には、百人を超える数の公国兵が躯となって、あるいは虫の息で転がっている。騎兵隊は最初二百人規模だったから、半分以上を失った大損害だ。
 一方でリーデたち領地軍の死傷者は両手の指で数えられる程度。大局には影響のない小さな勝利と言えばそうだが、百人足らずの雑兵隊と魔力切れ寸前の魔法戦士七人という寡兵で上げた戦果としては奇跡的なものだ。
 そしてこの戦闘で領地軍が手に入れた馬は二百頭を超える。負傷兵を含む領地軍の生き残りを乗せて、公国軍本隊の追撃を振り切って離脱するに十分な数だ。帰ったら多少持て余すかもしれないが、その時は売ればいい値がつく。
 ――それにしても。
 リーデは足元に転がる魔法戦士の躯へ視線を落とす。
 ウンベルト騎士候、と名乗っていた彼は、リーデとの一騎打ちの末に敗れて死んだ。彼は最後まで他の兵を逃がそうと声を張り上げ、最後まで踏みとどまって戦った。敵とはいえ、リーデたちを嵌めて置き去りにした貴族諸侯よりは見習える騎士だったと思う。
 敵でなければ、いい関係を築けたかもしれないが……と益体もない事を思いつつ、リーデはウンベルトの躯から魔力カートリッジを抜き出す。
 他国製の魔力カートリッジは、手に入れてもそのまま使う事はできない。挿入するスリットの形状が違う、つまり規格が合わないからだ。
 少し強引に魔力を抽出し、自分の物に入れてから使う事になる。専用の設備がなくては魔力を多くロスするために奨励されるやり方ではないが、これで高価な魔法戦士の武具を捨てずにすむ。
 さらに騎兵隊の兵は携帯食料も持っていた。食料も不足していたのでこれも嬉しい収穫だ。大喜びで死体を漁る領地軍の兵たちを見て、リーデは自嘲気味に言う。
「まるで私たちが盗賊になったようですね」
「緊急避難です。気にする事ありませんって。ところで……」
 ちら、とフレイは少し離れた所に目を向けた。
 そこにいるのは明人だ、切られた左腕に包帯を巻き、額に濡らした布を置いて地面に寝そべっている姿は重傷に見えるが、大した怪我はしていない。
「なんで最大の功労者が一番死にそうになってるんですかね……」
「そう言うな。血を見た事がなかったのさ」
 その手の人間は大抵ああなる、と苦笑気味に歩み寄ってきたティオンがそう言った。
 肉体的な怪我はともかく、血を見た事と殺意を向けられた事による精神的なショックが大きかったらしい。やはり負傷兵と一緒に後から来させるべきだったかと思わないでもない。
「しかし彼、何者なんだろうね? 敵の動きを見事に看破した上、我々の知らない戦知識まで持っているときた」
「かと思えば、敵兵を刺す事さえ躊躇する甘ったれた奴だものね。どこの国から来たんだか……」
「私たちの知らない国……でしょうね」
「リーデ様? まさか別世界から迷い込んだなんて与太話、信じる気ですか?」
「それ以外に説明できないなら、信じるしかないかもしれませんね」
 少なくとも、明人がリーデたちの常識とはかけ離れた知識を持っているのは確かなのだ。信じてもいい気がしてきたし、もっと彼の事を知りたいともリーデは思い始めていた。
 その時、不意に遠雷のような轟音が遠くから響いた。
「見て!」
 フレイが指差した先で、黒煙が上がっていた。そこからさらにごごん、と炸裂音が響き、僅かに閃光が閃くのも見て取れた。
「攻撃魔法の炸裂音……本隊がいる方角ですね……」
「多分、包囲部隊が他にもいたんだと思う……」
 そう答えたのは明人だ。まだ少し顔色が悪い。
「東側から迂回した別の部隊と、諸侯軍がかち合ったんだ。すぐに敵の本隊も殺到する。……一人でも多く逃げられるといいんだけど」
 自分たちを嵌めた連中を心配しているのかとリーデは思ったが、すぐに思い直した。諸侯はともかく、その下の兵にまで怒りを向ける必要はない。
「……今は、祈るしかありません」
「そうだね。公国軍の注意が諸侯軍に向いているうちに、僕たちは負傷兵のみんなを迎えに行こう」
 騎兵隊と戦うにあたり、戦力にならない負傷兵は後を追わせる形で置いてきた。見捨てるつもりはないという事を示すために、護衛も兼ねて騎士を一人付けておいたが、今頃不安がっているだろう。
「合流したら、しばらくはまっすぐ西に向かって、それから北上しよう。少し遠回りだけど、敵の包囲網の外側を回り込んだほうが安全に行けると思う。……どうかな?」
「ええ。それでいいと思います」
 特に異論もなかったリーデは、明人の提案に頷いた。
 馬を引き連れて負傷兵と合流したリーデたちは彼らの歓呼の声を浴び、その夜には久々に暖かい食事を食べて兵たちの顔に笑顔が戻った。
 それ以降、特に盗賊の襲撃や公国軍との交戦もなく、領地軍は道中怪我の悪化で力尽きる兵を出しつつも二日後、東の守りを担う国軍、東方軍が駐屯する城砦に到着し――――生き残った。

曙光の軍師と暁の勇者 二章