二章


 公国軍が東西から迂回させた騎兵隊との挟撃によって、残余の諸侯軍はさらに多くの戦死者を出し、多数の貴族が捕らえられ、人質となった。彼らは今後人質として多額の身代金を得るなり何なり、大いに利用できるだろう。公国軍は勝ち誇った気分で陣を張り、次の戦いに備えていた。
 そんな戦勝ムードの中、対称的に傷付き落ち込んだ敗残兵のような一団がいた。
「失態だな」
 貴族用の広い天幕の中、頭上から浴びせられた冷たい一言に、テレンツィオ騎士候はぐっと奥歯を噛み締めた。
 ウンベルト騎士候貴下の騎兵隊、その騎士二十人は、数時間前の戦いで八人に減っていた。彼らは傷の痕も生々しい身体で跪き、叱責の言葉を受け止めていた。
 彼らを睥睨するのは、真っ黒な装甲の所々に目玉のような赤い球体をあしらった、不気味な鎧に身を包んだ男。ぱつんと切り揃えられた黒髪の下、爬虫類めいた相貌がテレンツィオたちを見下ろしている。
 これまでの戦いにおける公国軍の大将――――スカルビア・ラディカーディ男爵というのがその名前だった。
「オランド卿の部隊が間に合ったおかげで挟撃には成功したものの、貴様たちが来なかったために我が軍は逃げる敵を包囲し損ねた。結果多数の敵を取り逃がした」
「……はい」
「しかも敗残兵如きの小細工に引っかかり、無益に、無様に、ウンベルト以下多数の貴重な魔法戦士と二等騎士を失った。これは大きな損失だ。何か意義があるか?」
「……ございません」
 何も言い返す余地がない。自分たちが負けて逃げ帰ってきたのは確かだ。
 あの時――――王国軍の罠に嵌った時、テレンツィオは応戦しようとしたが、ウンベルトはそれを止めた。彼は早々と交戦を諦めて皆を逃がそうとしたのだ。
 しかしテレンツィオは、蛮族と信じる王国軍に負けて逃げ帰るなどプライドが許さなかった。ウンベルトの制止を振り切り、怪我をした腕で剣を振るっていた彼の前に、あの女が現れた。
 藍色の長い髪をした、魔法戦士の女。奴はテレンツィオの攻撃魔法を尽く避け、弾き、大剣の一撃でテレンツィオは剣を弾き飛ばされ倒された。ウンベルトが助けに入ってくれなければ、今頃彼はこの世にいなかったろう。
『テレンツィオ、逃げろ! 動ける者を纏めて走れ!』
『あなたがこの部隊の指揮官ですね。エーレンフェルス伯爵家が一子、ヴィンフリーデが、我が家門の名の下お相手致します!』
『シュランゲ公国軍、筆頭騎士ウンベルト……参る』
 一騎打ちの名乗りと共に始まった、ヴィンフリーデと名乗った魔法戦士とウンベルトの戦いを尻目に、テレンツィオは一も二もなく逃げた。振り返った彼が最後に見たのは、ヴィンフリーデに破れ、胴体を切り裂かれて崩れ落ちるウンベルトの姿だった。
「ウンベルトが生きていれば責任を問うたところだが……まあ致し方ない。数日中には公王陛下よりの援軍と、貴族諸侯の軍も到着する。彼らに名をなさしめぬよう、貴様たちには失態の分まで明日からの城攻めで埋め合わせてもらう」
「……はっ。ウンベルト卿の分まで、全力を尽くす所存です」
 スカルビアの言葉は、手柄を取られないよう危険な所へ投入するという意味だ。半ば死ねと言われたに等しいが、テレンツィオとしては再戦のチャンスがあるだけで十分だった。
 ――あの女……よくも穢れた手でウンベルト卿を……
 スカルビアから見えないよう伏せた顔の下、テレンツィオはぎりっ、と歯噛みする。
 あの人殺しは次に会ったら必ず嬲り殺しにして、ウンベルトを殺した罪を償わせてやる。そうしなければこの怒りは収まらない。
 そうしてテレンツィオが天幕を出て行った後、スカルビア男爵はふうっと嘆息した。
「ウンベルトは優秀な騎士だと思っていたのだが……」
 王国がそうであるのと同様、公国もまた一枚岩ではない。四公家と呼ばれる四つの公爵家の中から公王が選ばれるという制度上、勢力争いはむしろ他国より激しい。
 スカルビアがここで手柄を立てれば、彼の主である公爵は次の公王に一歩近付く。他の公爵家にも、まして公王にも手柄は渡せない。それだけに逃げる王国軍を取り逃がし、画竜点睛を欠いたのが口惜しかった。
 とはいえ、次は今までのようにはいかないだろう。なけなしの魔力しか持たず、指揮系統もバラバラな寄せ集めだった前の王国軍と違い、次に彼らが戦うのは統率された国軍の駐屯する城砦だ。冬も近い今、戦局が膠着するのは避けられないだろう。そこを突破する道を思案していたスカルビアは、ふと机に広げられた地図に目を落とした。
 ――エーレンフェルス伯爵家、と言ったか。
 国を跨いで商売する行商人から手に入れた王国内の地図には、確かにエーレンフェルス伯爵領という貴族の領地が記されていた。スカルビアたちがいるここから、魔境の森を挟んだ西に位置する。距離的にも近く、そこの軍が参戦してきた事は特に不思議ではないが……
「こんなひなびた領地の魔法戦士にウンベルトが負けた? ……信じられんな」
 領土ははっきり言って小さい。予想される人口や軍の規模、供給される魔力量も大したものではなく、脅威としてはかなり低い。一見すると取るに足らない弱小貴族の領地だが、一つだけ『領主の一人娘が腕利きの魔法戦士と噂される』と追記されていた。
 無意識に、スカルビアの口唇が三日月形に歪んでいた。目の前の城砦を無視してエーレンフェルス伯爵領へ攻め込み、領主の一人娘とやらと戦いたい欲求がふつふつと沸いてくる。
 ――魔力も底を付きかけながらウンベルトを倒すほどの腕利きか……ぜひ手合わせして、捻じ伏せ、討ち取り、屈服させてやりたいものだ……
 幾多の戦場を渡り歩いた彼にとって、強敵を討ち取った時の快感に勝る愉悦はなかった。それに個人的な興味は抜きにしても、ここへ攻め込めれば一気に王都へ近づける。
 無論、王国の領土を南北に貫く魔境の森を越えるのはほぼ不可能だ。これによって進撃ルートが限定されるからこそ、王国も森の途切れるここに城砦を作ったのだから。
 だからこそ、付け入る隙があるのではないかとスカルビアは考えていた。


 東方軍は思いの他協力的で、明人たち領地軍は一日限りながら城砦に迎え入れられ、そこで休息と怪我の治療をする事ができた。
 彼らとしては、諸侯軍が敗退するのを指を加えて見ているしかなかった事に忸怩たる思いがあったようだ。それでも東方軍が動けなかったのは、あくまでも守りを固めろと中央から命令され、それが遵守されているか監視する政治将校めいた貴族の目もあって、逆らえなかったかららしい。
 余談だが、撤退途中に公国軍による追撃を受けた諸侯軍は貴族諸侯を含むさらに多くの犠牲を出し、生きて逃げ延びられたのは二千人に満たなかったとされる。
 今後はこの城砦を拠点に公国軍の侵攻を阻止するための戦いが展開されるはずだが、それに参加する余力は今度こそ残っていなかった領地軍は翌日には帰途に着いた。
 重傷の兵を近隣の都市に移送し、南へ。公国の勢力下に置かれた『旧』グロスター伯爵領とは魔境の森を挟んだ反対側を南下する事三日の道則を経て、リーデの家が収めるエーレンフェルス伯爵領へと辿り着いた時には、もう日が暮れていた。
「あー、やっと帰って来れたわね……」
「酷い戦だった。何の成果も挙げられず、ただ逃げ帰ってきただけだ……」
 フレイとティオンの騎士二人も、さすがに少し気を抜いていた。空気は重いが、ようやく安全な所にやってこれたのだと、目の前に立派な城壁に囲まれた都市が見えてきた事で明人も実感する。
「我がエーレンフェルス伯爵領へようこそ、明人さん。ここがゴルトの町です」
「領主町のエーレンブルクと並ぶ第二の都市よ。ここはリーデ様が官吏として任されているの」
「へえ……凄いね」
 自慢げに言ったフレイに明人が頷くと、「いえ、それほどでも……」照れくさそうにリーデははにかむ。……可愛いと思った。
「私は一人娘で、一人しかいない家の跡継ぎですから、あくまでも教育の一環として父の監督下で任されているだけですよ。それに……あまり褒められた仕事はできていませんから」
 声のトーンを落としたリーデの言葉の意味は、頑丈そうな落とし扉の城門をくぐるとすぐに解った。
 ――暗いな……
 ゴルトの町並みを見た明人が、まず最初に感じたのがそれだった。
 もう日が落ちているというのに、家々に明かりが殆ど点いていないのだ。自分たちでカンテラを掲げていなければ、足元の石畳の模様もよく見えないほど暗い。
 これが普通――――というわけではないようだ。上部に不思議な正六面体が浮かんでいる細い柱が道の脇に等間隔で立っていて、それが街灯の類である事は形状から想像できた。明かりはあるのに、灯っていないのだ。
 この一帯はもう王国の『国家魔力圏』だ。中継器と呼ばれる機械を介し、王都の神威結晶と人の間に魔力流路という不可視のパスを繋ぎ、直接魔力を受け取れる。
 旧グロスター伯爵領では中継器が公国軍によって壊されたために、魔力カートリッジの残量を常に気にしながら戦っていたが、ここでは魔法のライトも着火器具も使い放題……ではまったくなかった。魔力不足は一般の人々の生活にも、文字通り暗い影を落としていたのだ。
 そして真っ暗な町の中、闇に溶けるようにして薄汚れた格好の人々が、空ろな目でリーデたちを見ていた。主君が戦争から無事に帰ってきたというのに歓声も上がらず、そんな彼らを槍や剣で武装した衛兵がそこかしこで見張っている。
 ――治安が……悪いんだな。
「彼らは難民だよ」
 そう、後ろからティオンが明人へ話しかけてきた。
「戦争によって住む場所を追われた、王国の国内難民だ。今は中央を除いた王国中が、彼らのような難民で溢れかえっている」
「今回の敗戦で、また難民が増えたでしょうしね……」
 忌々しそうに言ったフレイは、「難民が多い区域には一人じゃ行かないほうがいいわ。強盗に遭っても知らないわよ」と忠告してくれた。彼女なりに受け入れてくれたのだろうか。
「ご覧の通りです。魔力不足によって明かりもろくに点けられない有様で、難民の流入で治安も悪化しています。いい状況とはお世辞にも言えません……」
 リーデが、はあ、とため息をつく。
「戦争から逃げてきた人々を悪し様に言いたくはありませんが、彼らが多くの問題の種となるのもまた事実です。行く場所も仕事も、生活の当てすらない彼らは困窮ゆえに犯罪に手を染めたりします。それが町の人たちとの軋轢に繋がり、更なる問題を引き起こします」
「大変なんだね……って、あれ? それって僕の事じゃない?」
 一瞬他人事のように言ってしまったが、考えてみれば行く場所も仕事も生活の当てすらない、という状況は明人にも当てはまる。という事は自分も難民と同じ身の上なのではと思った明人に、「まあそうね」とフレイはにべもなく言う。
「ぼ、僕はこれからどうしたらいいんだ……?」
「まあまあ。あなたは先の戦いの功労者なのですから、それなりの便宜はします。ひとまずは私の屋敷に泊まるといいでしょう。空き部屋は沢山ありますから」
「ああ、やっぱりそうなるんてすか……」
 リーデの提案に、フレイはげんなりした顔になる。
「ちょっとあんた、あたしとリーデ様の愛の巣……じゃなくて家に住まわせてもらうんだから、相応の事はしなさいよ」
「まあそうですね。仕事はしてもらう事になるでしょうが、明人さんは一等国民のようですから問題ないでしょう」
「僕が一等国民?」
 一等国民とは『魔法が使える国民』の事だ。それ以外の魔法が使えない国民は二等国民と呼ばれ、国民全体の八割を占めるらしい。
「その首輪が言葉が通じるようになる魔道具だとしても、魔法を行使できない人には使えないはずです。なら明人さんは一等国民で間違いないでしょう」
 一等国民の人手は常に不足しているから、働き口に困る事はないとリーデ。
 何にせよ、野垂れ死にだけは免れそうだ。



 翌日、朝食を済ませてすぐ、明人はリーデの案内で働き口へと向かった。
 木やレンガが主な建材として用いられているらしい洋風建築が立ち並ぶ、電線も電柱もない見通しのいい町の中、石畳の上を自動車ではなく馬に曳かれた荷車が走っている日本のそれとはまったく違うゴルトの町並みと、魔法を使った利器の数々に驚きながら歩く事少し。やがて赤茶色の大きな建物が立ち並ぶ一角に付いた。
 屹立した煙突からもうもうと煙が立っている、工場か何かのように見えたそこに入ると、いくつもの大型機械が火花を散らして金属を製品へと加工していた。
 ――金属加工工場か……魔法のおかげで結構技術は進んでるんだな……
 多少ちぐはぐなところはあっても、文明の水準は概ね十九世紀のヨーロッパ程度には発達しているらしかった。朝食の味付けも大いに満足できたし、生きるだけで精一杯というほど貧しい世界ではないのだろう。
 とはいえ、ちゃんとした仕事にありつければの話だが。
「おお有難え! 若いもんで一等国民の新入りなら大歓迎しますぜ」
 そう言ったのはヒゲ面で逞しい体躯の壮年男だ。リーデからは工場長と呼ばれていた彼は喜色を浮かべて、油汚れの付いた巌のような両手で明人の両手を握った。
「よろしくなあ坊主。あっしはこの工場を仕切っとるボルスってもんだ」
「は、はい……よろしくお願いします、ボルスさん」
「親方ってみんな呼んどるから、そう呼んでくれや」
 自分より頭一つ以上背の高い大男に迫られて多少腰を引きながらも、明人は相槌を打つ。
「彼は腕のいい技師です。まずはその首輪を腕輪に作り変えてもらいましょう。お代は私が立て替えますからご心配なく」
「助かるよ。もう十日も付けっばなしで、痒くて死にそう」
「それじゃあ、詳しい事は工場長から聞いて、お仕事頑張ってくださいね」
「あ、帰っちゃうんだ……」
「ええ、私は少し町で買い食……仕事がありますので」
 ……聞いてはならない事を聞いたような。
 ――まさか案内役を買って出たのって、仕事をサボる口実のためじゃないだろうな……
 今朝の朝食を思い出す。焼きたてのパンに野菜のスープ、何かの肉のソーセージと戦場の保存食とは雲泥の差というべき立派な献立だったが、それ以上に印象に残っているのは三人前はあるかという山盛りの料理を幸せそうな顔でぺろりと平らげたリーデの姿だった。
 あれから二時間も経っていないのに、まだ食欲があるのか……という明人の驚愕をよそに、リーデはそそくさと工場を出て行った。
「ていうか、留守中に仕事が溜まったりしてないのかな……」
「まあいつものこった。お変わりなくてなによりだよ」
 えー、いつもサボったりしてるの、と愕然とする明人をよそに、ボルスは工具で明人の首輪を外し、「すぐ終わるから待ってな」と西方域共通語で言い、奥に引っ込んだ。
 やはり、首輪がなくては言葉の意味が通じなくなるようだ。それでもボルスの言った事が解ったのは、明人がここに来るまで皆の話す言葉の意味を覚えるようにしていたからだ。知らない言葉の意味がダイレクトに伝わってくるから覚えやすい事この上なかった。
 一人ぽつんと残された明人は、暇なので工場の中を見てみる事にした。こういう機械に囲まれた場所や、物作りの現場というものには大いに興味があったのだ。
 まず目に付いたのは真っ赤に赤熱した金属を吐き出す高温炉だった。用途の違う炉が大小いくつも並んでいて、そこから赤熱した状態で出てきた金属は製鉄用の鋳型や旋盤で加工されていく。その工程をしげしげと眺めていた明人だが、見ているとそれら設備が全て稼動しているわけではない事に気が付いた。
 いくつかの設備が、長い事使われていない事を物語るように埃を被っていたのだ。それを見て明人は、リーデが自分をここに連れてきた理由を悟った。
 ――人手も足りていないし、経営もうまくいってないのかな。
 だからこそ即採用だったのだろうが、都合がいいと思うべきなのだろうか。
 などと考えながら工場内を歩いていた明人の目に、ふと見慣れない物が飛び込んできた。
「何だろうあれ……祭壇?」
 見た限り祭壇のような、用途不明の奇妙な設備があった。一メートルくらいの円盤形をした台座の上に、金属の四角いインゴットがでんと鎮座している。側面には魔法陣の描かれたプレートが張り出していて、これが魔法に関係する何らかの設備なのは解った。
 そして、台座に乗っかった金属のインゴットは、不思議な薄緑色の燐光を放っていた。少なくとも、地球では見た事も聞いた事もない種類の金属だ。
 その輝きに見入っていた明人だったが、「お仕事ご苦労様ですー」と横から声をかけられ軽く驚いた。
 振り向くと、日本なら小学校に通う年だろう、栗色の髪をした男の子が立っていた。
「君は?」
「ここで働いてるルカって言います。お水どうぞー」
 ルカと名乗った男の子は水の入ったコップを差し出してきた。初日で、まだ仕事を始めてもいないのにこれとは随分と待遇が良いと思ったが、同時に気にもなった。
「ありがとう。……君みたいな小さい子でも、こんな所で働いたりするんだ」
「はいー。僕んち戦争でなくなって、今は兄ちゃんと二人だけなので、お金がいるんですよ」
 ――この子も難民か……
「ヴィンフリーデ様がここで働くといいよって言ってくれたから、パンを買うお金が貰えるようになりました。ヴィンフリーデ様には、とても感謝してます」
「そう……ごめんね、嫌な話して」
「いいえぇ。それより聖銀ミスリルを見るのは初めてですかー」
 ルカに言われ、明人は台座の不思議な金属に目を戻す。
「不思議なんですよー。鉄より硬いのに、魔力を加えると粘土みたいに剥がれたりくっついたりするんです」
「へえ……」
 どういう物質なんだ? その不思議な輝きに引き寄せられるように聖銀へ手を伸ばし――――バチッ! と紫電が散った。感電したような痛みに「痛っ!?」と手を引く。
「あー、大事な物だから盗まれないよう防壁が張ってありますー」
 ルカはケタケタと笑った。先に言えよ、と内心で恨みがましく思いつつも、明人の視線は聖銀の輝きに惹き付けられたままだった。
 ――多分、これで操作するんだよな。
 祭壇の魔法陣に触れる。自分の身体を介して魔力が流れ込む感覚がし、次の瞬間インゴットが風船のように空中へ浮いた。それだけでも驚きだったが、今度はその形がぐにゃりと崩れ、本当に見えない手が粘土をこね回しているように蠢いた。
「うわわ、どうやるんだ?」
 さすがにまずいかなと思い、とりあえず元の形に戻そうとインゴットの形を思い浮かべると、聖銀の形が見る間にそれへ近付いていく。
「凄い、本当に思い通りだ……」
 円盤、円柱、漏斗、真球、六角形に八角系、思うがままに形を変える聖銀が面白くて、明人は何度も造形を繰り返す。
 そうしてつい夢中になっていると、「おいコラ!」と雷のような怒鳴り声がしてボルスが走り寄ってきて、明人はようやくしまったと思った。
「バカタレ、聖銀を勝手に弄るな! そのインゴット一つで何万ギアすると思ってやがる!」
「ご、ごめんなさい……! ちょっと、ルカもあやま……ってあれ、ルカ?」
 いつの間にかルカの姿は忽然と消えていて、明人はしてやられたと思った。きっと、どこかで怒られる明人を見て笑っている事だろう。
「ルカ? ああ、難民のイタズラ小僧か。親がいなくて寂しいのは解るが……っておい、こりゃお前さんがやったのか」
 ボルスの目が、台座の上で形を変えた聖銀に向く。またぞろ怒られると思った明人は「すっ、すぐ戻します!」と元のインゴットに戻そうとし、ボルスに止められた。
「ま……待て待て。なんだ、そいつは後で戻しとく。あっちでネジの研磨を教えるから、先に行ってな」
「はい……」
 高価な物を勝手に触るな、という事だろう。明人はしょんぼりとして従った。
「……これ、本当にあの坊主が作ったのか……?」
 明人が行った後、ボルスはぽつりと呟くと、台座の防壁を解除して聖銀を手に取った。
 聖銀は分割され、いくつものパーツに造形されていた。見た事はなかったが、いろいろな機械を扱ってきたボルスは感でパーツを組み上げていく。
「出来は荒いが……組みあがるようになってやがるな」
 聖銀で機械部品を造形するのは、簡単なようで簡単ではない。頭の中のイメージが正確でなければパーツには歪みが生じ、使い物にならなくなる。その点これは初めての、しかも誰にも教えられずに作った物としては賞賛ものの出来だ。
「しかし何だこりゃ。おもちゃか?」
 ボルスには未知の代物だったが――――
 それは地球で、拳銃と呼ばれる武器だった。


 それから、明人のゴルトでの生活が始まった。リーデの屋敷に設けられた部屋で朝を向かえ、リーデたちと共に朝食を摂り、工場で働き、帰ったら屋敷の書斎で本を読む。もちろん字は読めないので、ティオンなど適当な人を捕まえて教えてもらった。
 金銭面でも、明人に工場から支払われる日当は二等国民のそれと比べて三倍近い開きがあった。おかげでいつかここを出て行く時のための貯金をする事もできたし、暇な時は乗馬をしたりする程度には心に余裕も生まれた。テレビもゲームも、マンガもライトノベルもないと不便な事は多いが、慣れれば家より居心地のいい場所だった。
 その一方で、広場の掲示版には毎日のように戦況報道が貼り出されていた。今のところ東方軍の奮戦により公国軍の進軍は食い止められているが、後詰の部隊と合流した公国軍は一万を超える戦力で攻撃を繰り返しており、今後の推移は予断を許さない状況だった。
 これから戦争は、王国は、そして自分たちはどうなるのか、不安は大きかったが、今は何とかなる事を祈って日常を続けるしかなかった。
 そんな生活が一週間ほど続いた、ある日。
「よーし、いいぞ、集中を切らすなよ」
「はい」
 ボルスの声がかかり、明人が魔法陣に置いた手へと力を入れると、聖銀のインゴットが徐々に円盤へと形を変えていく。
 この一週間、ボルスからいろいろと技術を教わりながら働いていた明人だったが、ここ数日は聖銀を使った原型の製作を教わっていた。これはかなり破格の待遇であるらしく、ある先輩からは「俺は聖銀に触らせてもらえるまで一年かかったんだぞ」とやっかみを言われた。
 今回製作するのは直径二十センチくらいの円盤で、表面に魔法陣を刻んだ魔法盤という機械の中枢部品になる。この魔法陣の複雑な文様を正確に刻むのが大変で、明人は紙に描かれた魔法陣の図解と聖銀に何度も視線を走らせていた。
 小一時間以上格闘した結果、出来上がった魔法盤をボルスは厳しい目で見ていた。そして、
「上出来だ、坊主。エーレンフェルス卿もなかなか使える奴を寄越したじゃねえか」
「げほっ! どうも、親方……」
 節くれだった大きな手でばんっと背中を叩かれ、多少咳き込みつつも明人は笑った。
「お前さんが来てから早一週間か。ここでの暮らしはどうだ」
「ええ、そこそこうまく行ってます。おかげさまで野垂れ死にしないで済みましたし、親方たちには感謝してますよ」
「そりゃ結構。……お前さんさえよけりゃ、ずっとここにいてもいいんだぜ?」
 永住してしまわないか――――ボルスはそう持ちかけてくる。
 明人としても卒業後はこの手の職場を希望していたので、ここでの待遇には大いに満足していたが……
「ありがたいけど、いずれはおいとまして国に帰りますからね……」
 ずっとここにいるわけにはいかない。明人には帰らなければいけない家があるのだ。
「ここでお金を貯めたら、いつか王都に行くつもりです。そうなればお別れになりますね」
 魔法なんて技術が存在するのだから、それと自分がこの世界に来た事は無関係ではないはずだと思い、明人は帰ってから寝るまでの時間はだいたいリーデの屋敷に所蔵された魔法に関係する書物を読む事に費やしていた。おかげで魔力の制御など多少は理解が深まり、聖銀を使わせてもらえたりしたが、肝心の地球へ帰る方法については何の手がかりもない。
 一度聞いてみたが、異世界に渡る魔法など誰も知らないし、それが記された書物もない。あるとしたら、古代の失われた魔法について記された書物などが所蔵された、王都の王立図書館くらいだろうと明人はリーデたちから聞いた。生活に一応の目処が付いた今、次の目標はそこに行く事だった。
「そうか……まあ事情があるようだし、仕方ねえわな。しかし道のりは遠いぜ?」
「四日くらいの道のりだって聞きましたけど……」
 明人がそう言うと、ボルスは面白くないという風に少し表情を険しくする。
「距離はどうでもいいんだが、王都や中央の都市は移住を制限してやがるんだ」
 曰く――――数年前から中央の各都市は他所からの移住をほぼ全面禁止したのだという。増え続ける難民の流入を抑制するための措置らしい。
「治安の悪化に歯止めをかけるためだとか言ってたが、結局王族や大貴族の連中は、難民も戦争も全部地方の貧乏人に押し付けて、自分たちの豪勢な生活だけを守りたいんだよ」
 随分と厳しい言い方だな、と明人は思った。魔力不足に他国の侵略、それらに無為無策な中央に対する、平民の不満は小さくないようだ。
「はあ……つまりは貧乏人お断りって事ですね」
「そういうこった。国に特別な貢献をするとかすれば特例が認められる事もあるが、それこそ戦争で大手柄立てるとか……」
 ボルスは明人の細腕を見て、無理だな、と首を振った。……一応明人は、先の戦いで手柄を立てたのだが。
「リーデさんに協力してもらえば、何とかできないのかな……」
「悪いが期待しないほうがいいぜ。相手は中央の大貴族。エーレンフェルス家は地方領主の田舎貴族だ。同じ貴族でも格が違う」
 明人は頭を抱えたくなった。これではいつになったら帰れるのやら。
「まあ焦っても仕方ねえ、気長にいこうや」
 ボルスはそう言って話を切り上げたが、明人としてはあまり悠長にしてはいられなかった。今こそ公国軍の侵攻は食い止められているが、劣勢のこの国がいつまで持ち堪えられるか解らない。早い話が巻き込まれるのは怖いのだ。だから一刻も早く王都に行って帰る手がかりを掴みたかったが、その方法が思いつかない。
「ああ、魔力が止まった! 機械が止まる!」
「ちっくしょう、もうかよ!」
「魔力カートリッジ挿入しろ! 炉内の溶融鉄を外に出せ!」
 突然照明が消え、音を立てて動いていた設備が一斉に止まった。従業員たちが悪罵を吐き、慌しく動き出し始める。
「やれやれ。まだ昼過ぎだっつうのに……そら、とっとと後片付けだ」
 ボルスに促され、明人も急いで皆の手伝いに向かう。
 まるで停電のような現象だが、これは中継器を介して神威結晶から送られてくる魔力が人為的に止められた、計画停電のようなものだ。この一週間、確実に一日一回はこうなる。しかもいつ始まり、いつ復旧するのか誰にも解らないから仕事にならない。
 非常用の魔力カートリッジで止まった設備を動かし、途中で止まった作業を片付けたら、従業員各位へその日ごとに額の違う日当が支払われ、その日は解散となった。



 工場と同じく、ゴルトの町中も火が消えたような状態だった。
「はっ……ハックションッ!」
 肌寒さを感じ、盛大なくしゃみが飛び出す。
 この町には魔法で沸かしたお湯を水路で循環させ、各家庭を温める魔動暖房があるが、これも魔力がなければ止まる。今はまだ秋だからいいが、遠からず冬が来れば人々は寒さに震える事になる。
 ――王国の魔力が不足してるのは解ったけど、もう少し平民の生活に配慮してくれても……
 魔力不足の原因は、限界を超えて酷使された神威結晶の衰えだ。なので魔力の消費を抑え、負担を抑えなければ神威結晶が『死んで』しまいかねない。そのための切り詰め政策らしいのだが、あまりに無配慮だと言わざるを得ない。
 自然、人々はそれなりの自衛手段を取らざるを得なくなる。いつもであれば寄り道せずに屋敷へ帰る明人だったが、今日はそのためにいつもと違う道を通った。
「……じゃあ、今日はルカも薪を買いに?」
「はいー。兄ちゃんも来てるはずです」
 工場のイタズラ小僧ことルカは、歯を見せて笑った。
 冬が近いこの時期、前述の魔動暖房が止まった時に凍死しないよう、各家庭は燃料の薪を備蓄しないといけない。明人も屋敷の使用人から頼まれ、薪を買いに中央広場へと向かう途中でルカと一緒になったのだった。
「うわあ……凄いや」
 中央広場では、今まさに像より巨大な六本足の生き物が、これまた巨大な荷車を引いてやって来ていた。町から町の物流を手がける行商人と、それが輸送手段として保有する『グスタフ』という輸送用の大型獣だ。身の丈四メートル、全長十メートルはあるだろう大きさに驚くが草食で気性はおとなしく、丸っこいアルマジロに似た顔はどことなく愛嬌がある。
 貨物列車のような荷車に積まれているのは他所の町の特産品である嗜好品や食料品だ。彼ら行商人は他所の特産物をゴルトで売り、ちょうど明人たちが工場で作った機械部品のようなこの町の特産物を買って他所で売り、利益を得ている。
 品物を仕入れようとする市場の店の人や、生活必需品を買い求める人々が殺到し、たちまち中央広場は満員になる。それ自体はいつもの光景だったが、今日は何やら様子がおかしかった。
「薪一日分が十七ギア!? この前より二ギアも値上がりしてるじゃないか!」
「嫌なら無理しなくて結構ですよ。他所の町で売りますからね」
 どうやら、薪の値段で揉めているようだ。
 この世界、というか王国の通貨は『ギア』と呼ばれる貨幣だ。一ギア銅貨十枚で大きめの十ギア銅貨、それが十枚で小さめの百ギア銀貨、次が大きめの千ギア銀貨、最後が一万ギア金貨。
 果物一つで四ギアくらいだが、以前は一ギアで買えたというから一ギアは日本円で百円程度と換算していいだろう。値上がりの理由が戦争にあるのは言うまでもない。
 明人の今日の収入が六十ギア。魔力が止まって工場が早仕舞いした上での額だが、これは一等国民の給与だ。この半分も貰えていない二等国民にとって、薪の値上がりは大きい負担になる。
 困った事に、周辺に薪とするに適した木があまり生えていない土地柄、ゴルトは薪を自力で調達できない。町の東にある森は魔境の森で近付くだけでも危険であり、そこに生える木はヤニを多く含んで燃やすと真っ黒な煙を出す種類だ。薪には向かない。
 ゆえに行商人の運んでくる薪が頼りなのだが、その足元を見た行商人は相場を越えた高値で売りつけてくるのだ。
 ――リーデさんも、行商人の組合に薪の価格を抑えてくれるよう働きかけてるらしいけど……
 あれを見る限り、完全に無視されているらしい。人の弱みにつけこんだアコギな商売だ。
 だがそんな真似は必ずどこかで報いが来る。
「これが相場より高い値段だって、解らないとでも思ってるのか!?」
「てめえ、俺たちを凍死させる気か!?」
「薪だ、薪を寄越せ!」
 敵意と怒りが危険なレベルにまで高まり、ふてぶてしい態度だった行商人の顔からも笑みが消える。
「ちょ、ちょっと、まずくないかあれ……」
 明人にも危険な空気が伝わってきた。特にヒートアップしているのは、難民なのだろう小汚い身なりの一団だ。二等国民の中でもろくな仕事がなく、輪をかけて苦しい難民にとって行商人の行為は許しがたいのだろう。以前から鬱屈した彼らの怒りは、もはや針の一突きで爆発せんばかりに高まっていた。
「ルカ、少し離れたほうが……ってあれ、ルカ?」
 気が付くと、隣にいたはずのルカの姿がない。どこに行ったのかと目線を巡らせて、こっそりと荷車へよじ登る小さな影に気が付いた。
 ――ルカ!? まさか薪を盗むつもりじゃ……!?
 工場で時々つまらないイタズラをしては皆を困らせていたルカだが、戦争で親を亡くした喪失感を埋めたいのだろうと皆からは大目に見られていた。だが盗みを働くとなればさすがに黙認はできない。
「何してる、ルカ! 降りて!」
「ああ!? 泥棒!」
 明人の声によって行商人がルカに気付き、その服を掴んで引き摺り下ろす。「あっ!」と悲鳴を上げたルカの小さな身体が石畳の上に倒れ、盗もうとした薪が散らばる。
「おい! 子供に何しやがるこの野郎!」
 ルカへの暴行を見て怒った人が、行商人へ掴みかかる。
 暴動の、それが発端となった。何十人もの人々が荷車へ殺到して薪を奪い取り始め、止めようとした行商人は大勢の人から寄ってたかって殴る蹴るの暴行を受け、血塗れになって動かなくなった。
「ひっ、ひいぃ――――――――!」
 怯えた御者がグスタフの背中を蹴飛ばし、全長十メートルの巨獣が唸り声を上げて走り出した。何人もの人をしがみ付かせたまま荷車が急発進し、何人かが振り落とされて石畳に叩きつけられる。
 あろう事か、暴走するグスタフは明人がいる人込みの方へと向かってきた。慌てて逃げ出そうとしたが、パニックを起こして滅茶苦茶に逃げ出そうとする人と人がぶつかり合ってまともに逃げられない。そこへ体重数トンはあるであろう巨獣が突っ込んだ。
「う、うわあああああああ!」
 巨木のような足が目の前に迫り、明確に死が迫っていると実感した刹那、僅かな人の隙間を見つけた明人は咄嗟にそこへ飛び込む。
 逃れられたのはまさに間一髪だったが、逃げられなかった大勢の人が巨獣の突進を受けた。六本の巨大な足に蹴散らされた人が小石のように宙を舞い、石畳へ朱を散らしてピクリとも動かなくなる。踏み潰された人は人の形すら留めない。
「そんな、嘘だろ……!?」
 目の前で起きた地獄絵図に戦慄する。確実に何人もの人死にが出た。にも拘らず人々は荷車へ殺到し、薪や食料を奪い取ろうとするのをやめない。やがて荷車とグスタフを結んでいたロープが断ち切られ、横転した荷車から薪がぶちまけられる。そこへ人々が蟻の如く殺到し、荷車の下敷きになった人などお構い無しに薪を持ち去っていく。すると今度は、その薪を横から奪おうとする者が現れ殴り合いが始まる。
 その姿は、まるで芥川龍之介が描いた『蜘蛛の糸』のようだと明人は思った。たった一本の蜘蛛の糸に、救いを求めて殺到する亡者の群れ。他人を踏みつけ、押し退け、利己を剥き出しにする彼らには、人間らしい理性や思いやりなどまるで感じられなかった。
 もはや収拾がつけられない。ティオンたち騎士や衛兵を呼んでこなければ。そう思ってこの場を離れようとした明人の目に、また小さな影が映った。
「ルカ……!」
 一度は見失ったルカは、とりあえず生きてはいた。だが落とされた時に足を挫いたのか立てずに右腕で這って動いている。そして左腕には、拾ったのだろう数本の薪が大事そうに抱えられていた。
 ほっとしたのも束の間、数人の男たちがルカに歩み寄ってきた。
「おい小僧、そいつを寄越せ!」
「い、いやーっ!」
 あろう事か、大の大人が三人がかりで子供から薪を奪い取りに来たのだ。それを奪われまいと腹の下に抱えて守ろうとするルカに、業を煮やした男たちからの容赦ない蹴りが浴びせられる。
 ――ど、どうしよう、ティオンたちを呼びに行ってたら間に合わない……!
 このままではルカが殺される。誰か助けてくれないのかと周囲を見渡したが、いるのは略奪に狂奔する人々と、遠巻きに見守る――明人を含めた――人々だけだ。
 あんな身体の大きい男三人相手に、殴り合う勇気も勝てる力量も明人にはない。できるのは誰か助けを呼んでくる事だけだ。この場を離れてそうしたとしても、誰も明人を責めはしないだろう。そう考えて踝を返そうとしたが、
 ――また逃げるんだ。
「……ッ!」
 ――あの子も、あたしと同じように見捨てて、自分だけ逃げるんだ。
 胸の奥から響く、明人を責める少女の声。それは明人の胸に深く刻まれた、もう二度と雪げないだろう恥の記憶。
「ああ、くそっ――――!」
 痛みを振り払うように、明人はルカの下へ走った。そして懐にずっと忍ばせていた物を掴み取ると、空へ向けて引き金を引いた。
 バンッ――――! 身体に突き刺さるような、大音響の破裂音。突然響いた聞いた事もない音に、誰もが驚き警戒した。あるいは攻撃魔法でも飛んできたかと勘違いしただろうか。
 略奪に狂奔していた人々が思わず手を止め、明人の方を見る。当然ルカに暴行を加えていた男たちもだ。
 明人の手に握られていたのは、複数個の金属部品を組み合わせた、黒光りする手の平サイズの金属塊。先端部から僅かな紫煙を立ち上らせるそれの名は、今この場では明人だけが知っている。
 即ち――――リボルバー式拳銃。
 戦争の真っ最中であり、町の治安も良くない。いつまた危険に巻き込まれるか不安だった明人は、稼いだお金の一部と、工場の設備を使わせてもらってこれを作った。
 ベースとなったのは、S&W M36。日本の警察が採用しているM60の元にもなった、護身用小型拳銃のベストセラー。ただしそのものではなく、素材はただの鉄を使い、火薬は自分で土を煮込んで硝石を取り出すところから手作りした黒色火薬というデッドコピーだ。モドキと言ってもいい。
 だがそんな物でも武器になるだけの殺傷力は出たし、威嚇射撃の音で皆が驚いた。
「そっ……その子から離れて! 下手な真似をしたら撃つよ!?」
 男たちへM36モドキを向けて精一杯威嚇する。彼らは銃もその威力も知らないだろうが、『武器を向けられている』事は伝わったようで、警戒を露わに数歩後退する。
 その隙に、明人はそっとルカの下へ歩み寄り、しゃがみこんで話しかける。
「ルカ、大丈夫……!?」
「……あ、うう……」
 返ってきたのは苦しげな呻き声。意識はまだあるようだが危険だ。
 右手の拳銃を手放せなかった明人は、仕方なくルカを左手で引きずって離れようとし……伝わってきた体重の軽さに愕然とした。
 ――軽すぎる。栄養も足りてないのか……?
 こんな弱りきった子供に暴力を振るった目の前の男たちに怒りを覚えるが、彼らはまだルカの抱えた薪が諦めきれないのか、じりじりとにじり寄ってくる。
「ルカ、薪なんて渡してしまって……!」
 それを持っているから狙われるんだと明人は叫ぶが、ルカは弱々しく、しかしはっきりと首を横に振った。ルカも男たちも、こんな棒切れに頑ななほど固執している。
 やむなく取り上げようとしたが、それは悪手だった。薪を持ち去られると勘違いした男たちが一斉に突進してきたのだ。
「く、来るな! 撃つよ!? 本当に撃つよ!?」
 慌てて銃を向けて威嚇するも、そもそも銃を知らないせいか、あるいは明人が怯えているのを見て恐れるに足らずと思ったのか足を止める気配がない。その一人の手に刃物の閃きを見て、明人は心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じた。
 ――こっ……殺される!?
 思った瞬間、半ば無意識的に引き金を引いていた。黒色火薬が爆ぜ、M36モドキの銃口が火を噴く。
 一瞬の時が止まったような静寂の後、男の手にあった刃物がからん、と石畳に落ちた。被弾した腹の右辺りから、じわりと血の染みが広がっていく。
「あ……? あっあっ、ああああああああ!」
 一泊遅れて痛みが襲ったのか、男が倒れて転げまわる。他の二人も足を止め、苦痛にもがく仲間と紫煙を燻らせる明人の銃口を交互に見た。
 ――やってしまった……!
 今更だが、身なりから見て彼らもまた難民だろう。普段町の住民から阻害され、苦しい生活を余儀なくされているが故に、グループ内の仲間意識は強いはずだ。
 男の上げる悲鳴に誘われ、何人もの難民が集まってくる。先ほどまで行商人に向けられていた敵意が、視線と共に明人へ突き刺さってくるのがはっきりと感じられた。
 ――まずい、危害射撃を加えてしまったから言い訳もできない……!
 敵意に満ちた難民の集団が、明人とルカをひしひしと取り囲む。彼らの何人かは奪った薪を手に持っていて、彼らがその気になれば明人もルカも殴り殺されるだろう。
 だがそこで、拡声器でも使ったような大音響の声が、中央広場中に響き渡った。

「――――そこまでです! 速やかに略奪をやめて、盗んだ物は足元に置きなさい!」

 拡声ラウドボイスの魔法によって増幅されたリーデの声を合図に、武装したティオンたち騎士と衛兵が中央広場になだれ込んでくる。略奪に狂奔していた暴徒が大人しくなり、あるいは逃げ出し、明人とルカを囲んでいた難民たちもそれどころではなくなった。
 助かった……明人はようやく、安堵の息をついた。


 リーデやティオンたち騎士と衛兵の到着により、騒ぎはひとまず沈静化した。
 終わってみると恐ろしい有様だった。グスタフの暴走により死傷した人の数は、三十人は下らないだろう。衛兵がまだ生きている怪我人を担架に乗せ、リーデたちは倒れた荷車の下敷きになっている人を助け出そうとしていた。
「……つまり、その子を助けるために暴徒とやりあったのか?」
 無茶をするな君も、と苦笑したのはティオンだ。明人は事の一部始終を説明しつつ、仰向けに寝かせたルカを介抱していた。
「こう言っては何だが、敵兵も刺せない君がよく戦えたものだね。……それは武器か?」
 ティオンが、明人の傍らに置かれたM36モドキに目を向けた。
「あ、うん……護身用にと思ってね。……その、僕が怪我させた人は……」
「まあ急所に当たってはいないし、命に関わるような傷じゃないだろう。その子の事もあるし君にお咎めはないはずだ」
 正当防衛とはいえ撃ってしまった暴徒の安否と、撃った事へのお咎めを気にしていた明人だったが、その言葉にほっとする。
「しかし見た事のない武器だね。さっきの音といいどういう……」
 ティオンは初めて見る銃に興味を引かれているようだったが、そこへ一人の難民らしい男が駆け寄ってきた。彼の栗色の髪と容貌がルカに似ていると感じ、もしやと思った。
「おい、ルカ……! 大丈夫か!」
「あんた……ひょっとして、ルカが言ってたお兄さん?」
「ああ。兄のエルだ……それで弟は? 無事なのか?」
 エルと名乗ったルカの兄は、明人の肩を掴んで青い顔で訊いてくる。
「触ってみた感じ、骨は折れてないと思う。ただ見ての通り全身痣だらけだからね……医者に診せたほうがいいと思う」
 明人がそう言うと、それを聞いたルカが急に身体を起こそうとした。
「だ、大丈夫ですー。このくらい慣れてますから……いたっ……」
「慣れてるって……無理はだめだよ。折れてないといっても、骨にひびくらいは入っているかも……」
 そこまで言ったところで、不意に肩を叩かれた。「明人……」とティオンが小声で囁いてくる。
「この子たちに、医者にかかるお金なんてあると思うかい……?」
 言われてはっとした。ルカの痩せ細った身体を見れば、彼らが満足に食事さえできていないと解る。まして生命保険などないこの国で、医者にかかるなどできるはずがない。
 だから、ルカは無理に元気を装おうとしているのだ。兄に余計な負担をかけまいとして。
「自分が治癒魔法を使おう。痛みくらいは止められる」
「……すいません、恩に着ます騎士様。それから、盗んだ薪はお返しします……」
「え……でもこれがないと……」
「盗みはだめだ。返せ」
「そうだね。それは返してもらう」
 エルとティオンの二人に言われ、ルカは渋々薪を手放す。暴行を受けながらも守った薪なのに可哀想ではないかと思った明人は、自分のサイフから金を出した。
「ルカ、このお金で買ったって事にすれば……」
「おい、よしてくれよ」
「えっ?」
 まさか止められるとは思わなかった明人は、意外そうな顔でエルを見てしまう。するとエルは面白くなさそうに渋面を作った。
「あんたさ、難民に誇りなんてないと思ってないか? 俺たちだって少し前は普通の王国民だ。盗んだ物を使わないくらいの分別はある」
「確かにね。家も土地も無くした身でも、盗賊のように盗んだり奪ったりが当たり前にはなりたくない……その気持ちを待ち続けている君には、敬意を表すよ」
 その言葉に、明人は胸を刺された気がした。困窮している彼らなら喜んで施しを受け取るだろうと、まるで見下すような考え方をしていた自分に気付いたのだ。
「……ごめん。難民の事を下に見てたかも」
「気持ちはありがたく受け取っとくさ。……しかし騎士様は、随分難民に理解がおありのようで……」
 言ってから「あ、失言でした……!」と慌ててエルは訂正したが、ティオンは気にするなと手を振った。
「それはそうさ……自分は、旧グリム伯爵領の出身だからね」
 ティオンの口にした故郷の名には当然心当たりがなかったが、頭に『旧』が付いているという事は……
「確か、十年以上前に戦争で取られた領土っすよね。……て事は、騎士様も難民ですか……」
「ああ。自分の両親は共に二等国民でね。自分は魔力の適性があるという事に長らく気付いていなかった」
 この国の貴族は一等国民から輩出され、その上で世襲が成り立っているように、魔力の適性は遺伝によるところが大きいとされる。しかし極々稀にではあるが、二等国民の両親からも魔法の使える子供が生まれる事があるらしい。
「だから父が戦死し、母と姉と三人で難民となった時、自分は何もしてやれなかった。母は逃げ延びた先の酒場で働き、酔っ払った男に理由もなく刺されて死んだ。姉は残された自分を守ろうとしてくれたが、まともな働き口なんてどこにもなくてね……やがて姉は金のために身体を売り、病気になって死んだよ」
 天涯孤独になったティオンだが、その矢先に魔法の適性に気が付き、一等国民として領主の保護を受けられた事で命を繋いだわけだが……気付くのが遅すぎた。
「もっと早く気が付いていれば、母と姉を死なせずにすんだのにと、悔やんでも悔やみきれなくてね。施設を飛び出して当てもなくさ迷い歩き……やがて道端で死に掛けていたところをまだ子供だったヴィンフリーデ様に拾われた。母と姉の分まで誰かを守れと諭され、伯爵家の下魔法戦士の修練を受けて……騎士の称号と、ブライヒレイターの性を頂いたというわけさ。感謝してもしきれないよ」
「…………」
 淡々と語られた、壮絶と言っていいティオンの過去に、一同は言葉もなかった。
 そんな彼らに、「おっと、余計な話だったね」とティオンは笑った。
「さ、これで歩けるはずだ。ただし今日一日は安静にしたほうがいいだろう」
「ありがとうございます、騎士様……ご恩は一生忘れません」
「ありがとうございますー」
 エルとルカの兄弟は、ティオンに一礼して去っていった。その後ろ姿を黙って見送っていると、不意にティオンが口を開く。
「……ああは言ったが、こんな事が起きてしまっては、彼らはより苦しい立場になるだろうね……」
 そうだろうと明人も思った。今回の暴動で一番多いのはグスタフの暴走に巻き込まれた死傷者だが、行商人の側から見れば商人が半殺しにされ、商品を持ち去られたのだ。彼らは住民側、特に難民の非を強く主張するだろう。風当たりはいっそう強くなる。
「……何とかならないのかな」
「どうにもなりはしないさ」
 ティオンの返事は、諦観に満ちていた。 「この王国は滅ぶ運命だ。無計画な魔力の無駄遣いで神威結晶を疲弊させ、他国の侵略を許している。そして中央は自分たちの領域の安全だけに固執し、地方をろくに守ろうともせず、難民を締め出し、まるで存在しないかのごとく扱っている……」
 こんな腐った王国に、先があると思うかい? と問うてくるティオンの声音には、抑え切れない怒りの色があった。
 いつも薄く笑って、世の中を斜に見ている若者だと思っていたが、難民の苦しさを知っているがゆえに彼らを救う気がない中央へ怒りを持っている、からなのだろうか。
「王国が滅ぶのは自業自得かもしれない。だが……ヴィンフリーデ様が亡国の民となる事だけは我慢できない。母や姉のような運命を、ヴィンフリーデ様に辿らせたくはない……」
 彼女を救うためならどんな事でもするつもりだが、その方法が思いつかない、とティオン。
 まるで、いつかの自分のようだと明人は思った。



 その日の夕刻、行商人組合からの抗議文が魔法通信によって届いた。その内容は要約するとこうだ。
『今回ゴルトの町にて起きた暴行と略奪行為に対し強い抗議の意を表する。ゴルト側には再発防止のための具体的な施策を強く求めるものであり、それが履行されない限りゴルトでの行商は一切行わないものとする』
 行商人が来なくなれば、薪を自力で調達できないゴルトは深刻な燃料不足に陥り、春までに多数の凍死者を出す事になる。リーデは即座に、警備の強化などの対策を直ちに行うと返事を送ったが、行商人組合からの返答ははかばかしくなかった。彼らの求める『具体的な施策』とは、『難民を追い出して治安を改善させる』事なのだろう。
 冬が迫る中難民を町から追い出して殺すか、難民を含めたゴルトの住民みんなで薪を買えずに凍死者を出すか、という非情な決断を求められたリーデは、その場での結論を出せなかった。
 民家から薪が盗まれる事件が起きたのは、その翌日の事だ。犯人は見つからずじまいだったが、その後も薪の盗難事件が相次いで起き、やがて誰からともなく難民が薪を盗んでいる、という噂が流布し始めた。
 それが本当かどうかなど、もはや意味はなかった。屋敷の前には難民の追い出しを求める人々が連日押し寄せ、リーデたちは夜満足に眠る事もできなくなった。
 難民の側も黙ってはいなかった。住民の追い出し運動に反発した者が住民との間で乱闘騒ぎを起こし、住民の間でも難民への私刑が横行するほどにゴルトの治安は悪化……衛兵だけでは手に負えず、フレイやティオンたち騎士までが出向かなければ収められない騒ぎもあった。
 この状況で、難民を追い出す決断を先送りにし、有効な対策を何一つ打ち出せないでいるリーデに対する批判は、日に日に高まっていった――――


 その日の夜、明人はどうにも目がさえて寝付けなかった。
「少し夜風に当たるかな……」
 ベッドから抜け出した明人は、テーブルに置いてあったカンテラに火口箱――箱の中に火打石と打ち金、油の沁みた布がセットになった原始的なライターだ――で火を付け、明かりにして外に出る。
 明かりを持ち歩くのは、屋敷に電気などないから。明かりや着火に魔法を使わないのは、魔力を節約するために代用できる物は代用しろと言われているためだ。魔力不足で不便な暮らしを強いられる中、リーデは率先して倹約に取り組んでいた。
「リーデ様あ……お好きになさってください……あ、あんっ……だめえ……」
 フレイのものらしいピンク色の寝言を聞き流しつつ、寝ている屋敷の人たちを起こさないようそっと廊下を歩く。静まり返った屋敷の中では、床の軋るぎしっという音も妙に大きく響いた。
 ふと、窓の外に視線を移す。小高い丘の上に立つリーデの屋敷からはゴルトの町全体が見渡せるが、見えるのは殆ど明かりの点いていない暗闇に沈んだ町だ。夜でも煌々と明かりが灯り、自動車のヘッドライトが流れていく様を見慣れた明人にとって、この光景は本当に人が住んでいるのか疑いたくなるレベルだ。
 街が暗いだけでなく、未来の展望もお先真っ暗だ。戦争に魔力不足、その次は薪不足。無事に冬を越せるかどうかさえ、この調子では怪しいとリーデも暗澹たる表情だった。
 ――僕、無事に日本へ帰れるのかな……
 王都に行って帰る手がかりを探す事もできない。それどころか明日無事でいられるかどうかも解らない。不安と焦りばかりが募る。
 ――僕が帰らなかったら、あいつはどうなるんだよ……
 今どうなっているかも解らない日本の家の事を思い出し、なんだか泣きたい気分になってきた明人だったが、その時厨房に続くドアが少し開き、明かりが漏れているのに気が付いた。
 まさか泥棒が入ったか。この状況だ。食料も十分盗みの対象になりえる。
 明人はそっと中を確認する。ドアの開いた気配に進入者も気付いたか、奥でびくっと誰かが動いた気配がした。
 やはり誰かがいる。いざとなれば大声を出せるよう心の準備をし、明人は奥へと踏み込んだ。――――すると、目が合った。
「……リーデさん?」
「…………明人さん?」
 ヴィンフリーデ・エーレンフェルス伯爵令嬢が、驚いた表情でそこにいた。
 その口に、食べかけの干し肉をぶら下げた格好で。
「……食べます?」
「……結構」
「……お休みなさい」
 ごく自然なやり取りの後、リーデは厨房を出て行――――こうとして、明人はその襟首をむんず、と掴んで止めた。
「……何してるの」
「お腹が空いては眠る事もできないので……」
「それで保存食をつまみ食いにきたと……」
 どうやら、見てはならぬものを見てしまったらしい。 「普段倹約には努めているつもりですが、空腹にだけはどうしても……あの、この事は屋敷の皆には……」
「……内緒にしとくよ」
 ほっとするリーデ。
 とりあえず、二人で夜風に当たる事になった。外に出るとやはり肌寒いほどに風は冷たく、無慈悲な冬の到来を間近に感じ、二人は身を震わせる。
「……申し訳ありませんね。せっかく助かったのに、こんな状況で」
「いや、別にリーデさんが謝るような事じゃ……」
「何とかしたいとは思っているのです……ですが、思うように結果が出なくて……」
 沈鬱な面持ちで、リーデは固焼きパンをかじる。
 リーデが何もしていないわけではない。行商人組合への働きかけは、父親であるエーレンフェルス伯爵にも協力してもらいながら続けている。……が、向こうもまたゴルトの側に不信感があるようで、なかなか交渉は進展していない。
 結果が出せなければ、住民にとっては何もしていないのと同じだ。ここ数日は毎日屋敷の前に群衆が集まり、難民を追い出せと怒声を浴びせて来ている。それを聞かされているリーデは、相当な精神的負担を受けているはずだった。
 夜中のつまみ食い程度でガス抜きになるなら、大いに結構だ。しかし……
「これから……本当に難民を追い出す事になったら、どうする気なの?」
「……私はそのつもりはありません。彼ら難民もまた同じ王国民で、私には彼らも救う義務があると思っていますから」
「そう……よかった」
 明人は少し安心する。難民を町から追い出したりしたら、彼らは冬に殺される。ルカとエルの兄弟もだ。彼らを見殺しにするような事にならないのは正直ありがたかったし、かくいう明人も立場的には難民と似たようなものだ。決して他人事ではない。
 そしてリーデも、明人の「よかった」という言葉に少し救われた顔をした。
「お優しいですね。……ですが、このまま薪が買えなければ同じ事です。私は難民と町の人を一緒に凍えさせる、愚かな選択をしているのかも……」
 それでも見捨てたくない、とリーデは俯く。
 二週間前の撤退戦の時もそうだったが、リーデは自分の庇護下にある人を見捨てられないのだ。それは個人としては大いに好感が持てるが、彼女のような責任ある立場においては必ずしも美徳ではない。切り捨てるべき足手まといを切り捨てなかった結果、全員が破滅しては元も子もない。
「どうして、そこまでみんなを助ける事に拘るの?」
 そう訊いた明人に、リーデは「私は貴族ですから」と答えた。
「エーレンフェルス伯爵家は広くはないながらも領地を持ち、爵位を得る前は騎士として王国のために戦った由緒ある家柄です。その一人娘として生まれた私も、幼い頃から武術と戦闘用魔法、そして貴族としての心得を学んできました」
 母親はリーデが五歳の頃に病気で死んだ。二人目の子宝に恵まれなかった父は跡継ぎとしてリーデを育てるために必死で、それゆえ厳しすぎる教育に反発した事も一度や二度ではなかったが、貴族の跡取りとしての立場を思えばそれも当然と、今では思っている。
「私を生み育ててくれたお母様とお父様、私を守ってくれたフレイやティオンたち騎士、そして税を払って私たちを支えてくれる領民の人たち……皆のおかげで今の私があります。それに報いるのが、貴族の娘である私が果たすべき義務だと思っています」
「……大事なんだね。この町にいるみんなの事が」
「明人さんも、この一週間でご覧になったでしょう? 町の人たちの生活を」
「……うん」
「みんな、戦争や経済難に不安を感じています。それでも、きっと何とかなるという希望を信じて、一日一日を必死に生きようとしているんです。……私たちのような貴族が守ってあげなければ、誰が守ってあげられますか? 例えこの国が長くないとしても、そこで生まれて、生きてきた国民に、何か罪があったわけではないんです」
 しかしどう頑張っても、状況は悪くなるばかり。真綿で首を絞めるように魔力供給は減らされ続け、魔力不足を解消する方策は見つからず、追い討ちをかけるように他国は王国へ攻め寄せ、発生した大量の難民により治安も悪化する一方だ。
「私は彼らを救いたい。いっそ他国の神威結晶を奪えたらどんなにいいか……」
「ちょっと、いくらなんでも……」
 他国を侵略できるならそうしたい、というニュアンスの言葉に、明人は思わず眉をひそめる。
「軽蔑しますか? こういう考えは」
「賛同はできないよ。僕の国じゃあ、侵略戦争は絶対の禁忌タブーだったから」
 明人も人並みには反戦意識を持っている。日本には資源目当てに戦争を始め、滅びかけた苦い歴史があるし、なにより高価で美しい兵器が傷付き壊れるのは、とてもとても悲しいものだ。
「だいたい、戦争にも大量の魔力を使うんでしょう? たった一発の炎熱球ファイアボールに一世帯が一日生活できるだけの魔力を使って、一開戦で都市を養えるくらいの魔力を消費して……魔力目当ての戦争で魔力を山ほど浪費するなんて、本末転倒も甚だしいと思う」
 それだけに、シュランゲ公国の他、王国を攻めている国々の考えも理解に苦しむ。
「そうかもしれません……ですが、私たちはこの方法しか知りません。他人の物を奪って、自分と家族が飢えから救われる、あるいは飢えなくてすむならそうしたい。人はそう考えるものですし、他国もそうなのでしょう……」
 リーデがこの窮状から抜け出したいように、他国もこんな窮状に陥りたくない。だから弱った、攻めるに易い王国は食い物にされる。
「戦争などしなくていいなら、それに越した事はありません。ですが奪う以外に領民と、国民を救う方法を私は知らない。今でも、凍死者が続出する事態が目の前に迫っていながら、何ら有効な手を思いつけない。戦うしか能のない私には、何をどうすればいいのか解らないのです……」
 自分の無能が許せない、とリーデは握り締めた拳を震わせる。
 他国の神威結晶を奪い取りたいというのは賛同できないにしても、その悔しさの一端は、明人にも理解できる気がした。
 貴族の責務を明人に理解するのは難しいが、一般の人だって、父親だから家族を、兄だから妹を、守ってあげたいものだ。リーデの義務感はそれと同種の気持ちだと思うが、苦境においてはそれを投げ出す人も少なくはない。
 だがリーデは投げ出そうとしていない。明人と同い年の女の子なのに、何千人分の人生を背負い、その重圧から逃げずに耐えている。頭が下がる思いをするのと同時に――――先ほどまで早く帰りたいと、我が身の事だけを考えていた自分が、急に恥ずかしくなった。
「……根本的に難民を救うなら……占領された彼らの故郷を奪還して、生活基盤を立て直すのが一番いいんじゃないかな……」
「そうですね……ですが、今の王国にはその力さえ残っていません。つい二週間前にそれをしようとして、何も取り返せず敗北したばかりですから……」
「力か……」
 ふと、明人は思う。自分が銃その他の武器を作り、王国に広めれば……王国は戦争に勝てるだろうか。
 ボルスも言っていた。戦争で大手柄を立てれば王都に行ける……帰る手がかりを探せると。
 自分にとっても、リーデやみんなにとっても、それが一番いいのではないか、という考えが頭をよぎったが……
「明人さん。戦争に参加する事を考えているのなら、やめておいたほうがいいと思います」
 内心を見透かしたようなタイミングでリーデが言い、明人は軽く驚いた。
「敵兵に刃を突き立てる事さえ躊躇するお優しいあなたは、戦争に向いた人間ではありません。無理をしてもろくな事になりませんよ」
「…………」
 やんわりと静止してくるリーデの優しい言葉に、明人は何も言えなくなった。
 確かに、戦争は怖い。公国兵に刃を立てられなかったせいで危うく殺されかけたし、暴徒の男を撃った感触はまだ手に残っている。傷付くのも怖ければ、傷付けるのも怖い。
 ましてや明人は、戦争に深入りする度胸も、人々を戦争に駆り立てるような恐ろしい役を務める覚悟も、持ち合わせてはいなかった。
「出て行きたいのなら、好きにしてくださって結構ですよ。路銀が必要なら少しくらい――――」
「い、いやいや。まだ……助けてもらった恩返しもしてないし」
 それは半分口実に近かったが、まだ出て行くつもりは毛頭なかった。行くあてもないし、なによりリーデの力になりたい気持ちが、だいぶ膨らんでいた。
 ――立派な人だよ本当に。領民思いで、強くて、勇気があって……
 明人は、自分は臆病な人間だという自覚があった。いつだって痛い事や怖い事を避けてきた自分に、他人のため命をかけて戦うなんて思いもつかない。そんな自分が明人は嫌いだ。
 その点リーデはどうだ。自分を大切にしてくれた人たちを守りたい一心で努力して、あんなにも強い魔法戦士になって、率先して戦争にも行く事ができる。
 自分が傷付く事を恐れず、守るべき人のために戦ってあげられる勇気。明人が欲しいと望み、しかし終ぞ手に入らなかったもの――――それを持っているリーデが、臆病者の明人には直視できないほど眩しい。
 そんな彼女のまっすぐな気持ちが、報われないままでいいはずがない。できるならリーデの――――リーデが救いたいこの町を救う一助になりたい。
 それができれば、少しは自分を許してもいいだろうか。



「魔動暖房を見てみたいだ? また何を好き好んで」
 リーデと話をした翌日、突然自宅に押しかけてきた明人に、ボルスは怪訝な顔をした。
「ちょっと研究してみたくて……親方と一緒なら入れますよね?」
 薪が必要とされているのは、魔力供給が止められ魔動暖房が停止した時の備えだ。なら暖房が動き続ければ薪は必要なくなる。
 それができないからこそ薪不足が問題となっているわけだが、代替物を作るにしても既存のインフラをもっと知るべきだと考えた。それを聞いたボルスは気だるそうな顔をしつつも付き合ってくれた。行商人が来なくてはボルスの工場も作った製品を売る事ができず商売にならない。つまり暇だったのだ。
「別に珍しくもねえだろうに……どこの町にも村にもあるもんだぞ?」
 ボルスは呆れ顔だが、明人にとっては未知の代物だ。ごうごうと作動音を響かせるそれを明人は興味深く検める。
「加熱の魔法でお湯を沸かして、それをポンプで水路に送り込む……か。ポンプも魔動式なんですか?」
「おう。筒の中で魔力を高密度の空気に変換して、それを作動圧にする仕組みだ。これ一台で百世帯以上をあっためられる。ついでにこの隣にある公衆浴場も、こいつの余熱で湯を作っとるんだ」
 原動力が魔力である事を除けば概ね地球の温水ボイラーと似たような作りだ。技術的には大した物だと思うが、同時にこれは魔力という枯渇しかけのエネルギーに頼りすぎた社会を表しているようにも見えた。
 ――こんな近代的な物があっても、魔法の使えない二等国民には動かせないから一家に一台って形にはできない。だからこれ一台で周りの家全部を暖めるんだろうな……
 ここだけではない。例えば肉や魚のような生鮮食品を扱う店では、一等国民の店主が冷蔵庫を管理し、店番その他の雑用をするのは二等国民の店員。通信業者も一等国民が通信機を扱い、二等国民がメッセージを届け先に届ける。
 魔法を使える人が仕事の中心になり、魔法を使えない人はその周りに集まって単純作業に従事し恩恵を分けてもらう、という社会構造。この魔動暖房はまさにその縮図だ。
 それを頭から否定する気はないが、魔力不足によってこのシステムは破綻しかかっている。その代替となるのは薪という原始的な燃料。魔力抜きでは文明レベルが中世並みに落ちるこのギャップが、明人には不思議でならなかった。
「どうして魔力ばかりに頼るのかな……ねえ親方、石油とか石炭とかって知ってます?」
「なんだあ、そりゃ?」
 明人は概要を教えたが、返ってきた答えは「見た事も聞いた事もない」だった。
 この世界、化石燃料の類が存在しないか、極端に乏しいのかもしれない。だからここまで魔力に依存した社会ができたのかもしれなかった。
 ――でも、人の生活を支えるエネルギーってのは、一つじゃないはずだ。
 地球の文明における中心は電気だ。だがそれを生み出す方法は実に多様性に富む。いずれ枯渇する化石燃料に代わる代替燃料も、地球ではいくつも存在していたはずだ。
「お湯を作る温水暖房と、それを循環させる水路ってインフラがもう整備されてるんだから、それを使わない手はないね。問題はやっぱり熱源、燃料か……石油や石炭は存在しないみたいだし、薪は手に入らないし。できればこの町の近くで手に入る物……」
「この町の近くと言ってもな、周りにあるのは畑と野っ原だけだぞ? 畑じゃ燃料は採れねえ」
 ボルスは投げやりにそう言ったが、畑でも燃料は取れる。例えばサトウキビやトウモロコシ類などを発酵・蒸留して作られるバイオエタノール。ガソリンの代わりに車を走らせる事もできる立派な代替燃料だが、食糧生産とのトレードオフになるという問題がある。
 ――食料も冬になれば貴重だしな。転用する余裕はないか……
 薪不足が解消できたら次は食糧不足、では解決にならない。木材を加工する過程で出るゴミでしかないおがくずから作られる、オガライトやオガ炭といった廃物利用の圧縮燃料は理想的だが、ゴルトに木材加工業があれば薪不足にはなっていないだろう。
 そこまで考えて、ふと思いついた。
「そうか、畑の廃物……親方、外の畑ってもう小麦とかの収穫は終わってますよね?」
「あ? ああ。もう今年の小麦が出回っとるだろ。それがどうした?」
「それなら、前にテレビで見たあれが使えるかも……親方、ちょっといいですか?」
 明人は、自分の頭の中に浮かんだある物の事を、極力簡潔にボルスへ説明した。



 貴族の屋敷というのは、えてして大きく絢爛華美だ。領地の代表者たる貴族が小さい家に住んでいたのでは周辺諸侯に侮られる。
 ではそこでの生活はというと、住み込みの使用人や騎士などが共同生活を送る屋敷は一種のシェアハウスのようなもので、貴族個人のプライベートスペースは意外と広くない。特にリーデの屋敷の場合、主本人が飽食以外の贅沢を好んでいない事もあって、無駄に高価な装飾品の類もさほど置いてはいなかった。
 そんな意外と質素な屋敷ではあるが、ささやかな特権というべきか専用の魔動暖房と、十人は同時に入浴できる広い浴室が備わっている。
 そこに、二人の少女の姿があった。
「……その後、明人さんはどうしていますか?」
「相変わらず、毎朝早くに出て行っては工場でなんか弄くってるみたいです」
 浴槽で湯に浸かりながら訊ねたリーデに、長い赤髪を洗いつつフレイが答える。
 数日前から、明人が休業状態の工場で、ボルスたちと共に何かを作っているという話は聞いていた。
「工場の人たちも首を傾げてますよ。こないだなんか荷車一杯に何かを持ってきたと思ったら、脱穀した麦の殻とか茎とか、農家のゴミを山ほど持ってきたんですってよ」
「……何をするつもりなのでしょうね。訊いても『完成するまで待っていて』の一点張りですし」
「は、あいつの国に伝わるおまじないか何かじゃないですか?」
 フレイは期待も関心も持っていない様子だったが、リーデはなんとなく気になっていた。
『成功するか解らない』とも言っていた明人が、ゴルトの薪不足、あるいは魔力不足の解消に繋がる何かを作ろうとしているのは察しがつく。
 ――あれだけ弱音を吐きましたからね。
 あのような弱音など、フレイたちにも聞かせた事はない。いや、フレイたちだからこそ聞かせられない。
 それを明人へ吐露してしまったのは、連日浴びせられる抗議の声に心が疲弊していたからか、いずれ出て行くだろう明人になら問題ないと思ったのか――――今思い出すと、正直自分でも理解に苦しむ。
 とはいえ、父から官吏役を言い渡されて二年。リーデなりに努力は――まあ時々はストレス解消のために仕事をサボって買い食いに出たりはしているが――してきたが、報われているとはとても言い難い。町の建て直しに手を尽くしても結果は出ず、子供の頃から磨いてきた剣と魔法の腕を持ってしても負け戦をひっくり返した事はない。
 うまく行かない事、力の及ばない事ばかりが連続しすぎて、誰かに弱音を聞いてもらいたかったのは確かだ。実際、明人が難民を追い出したくないリーデの言葉に「よかった」と頷き、弱音を黙って聞いてくれた事で少しは気が楽になった気がする。
 ――優しい人……ですよね。
 明人は敵兵に刃を向ける事さえ躊躇するくせに、戦争に参加しようか考えていた。危なっかしいが、それだけ真剣にリーデの言葉を受け止めてくれたのは嬉しい。
 別の世界から来た、というのはこの際置いておくとしても、明人はこの町の住民でも王国民でもない。町の人たちが凍死しようが、戦争に負けようが、本質的には関係ないはずだ。
 それでも、明人は何かをしようとしている。国同士が神威結晶を奪い合い、同じ町の住民同士で薪を奪い合うほど困窮しているこの時代、彼のような他人を慮れる人間は貴重だし、好ましく思える。
 であればこそ、戦争に巻き込まれないうちに、早く国に帰れればいい――――などとリーデが思考を巡らせていると、不意にフレイが背中から抱きついて来て、「ひゃあ!?」と声を上げた。
「リーデ様あー、お背中お流しいたしますよう」
「……もう、フレイったら」
 少し困った笑顔を浮かべつつも、リーデはフレイに体を洗わせる。フレイはリーデにとって物心ついた時から一緒だった親友であり、戦争のたびに肩を並べて戦った戦友でもある。こうして湯浴みを共にするのも昔からの事だ。
 フレイもまたリーデを大事にしてくれているのは解るのだが、最近は少しやりすぎではないかと思わないでもない。二人だけの時にこうして甘えてきたりするのもそうだ。別に嫌ではないけれど。
「リーデ様ぁ……今日もお美しいです……」
 フレイは必要以上に体を密着させてきて、はあはあという荒めの息遣いも聞こえてくる。ついでに湯が熱いのか顔も赤い。
「フレイ、湯当たりしたのならもう上がりましょうか?」
「いえいえまったく平気です。それより、またここ大きくなりました?」
 ふにょっ、とフレイがリーデの豊かな双丘に手を回し、思わず「んっ……」と声が漏れる。
「別にどうでもいいでしょう。剣を振る時邪魔になりますし」
「えー、でも大きい方がご立派ですよ。あたしなんて今年で……」
 そこで言葉が途切れ、夢中で胸を愛でていたフレイの手も止まる。
 どうしました、と訊こうとして――――入り口のほうから冷たい空気が流れてくるのに気が付いた。
「……あ」
 浴室の戸を開け放した体勢で、固まっていた男二人――明人とティオン――と目が合った。
「…………」
「…………」
「…………」
「……ああ、これは死んだな……」
 しばし、四人で見つめ合う。
 数瞬後。

「う、うきゃああああああああ――――――――――――!」

 フレイが奇声を上げ、脱兎の如く飛び出した。放たれた正拳突きがティオンを打ち据え、「ぐほぉっ!」とくぐもった声を上げてティオンが倒れる。
「あ、安心して! それはそれで僕の国では需要があるよ! 実は僕も大好物で――――」
「記憶を消しなさあああああああい!」
 次いで、明人の悲鳴が響き渡った。



「おう来たか。それじゃ始め……どうしたその顔?」
 リーデたちに気付いたボルスが、青痣とタンコブと引っかき傷だらけになった明人の顔を見て怪訝な顔をした。明人は「……お気になさらず」と目を逸らす。
 あの後リーデは、動転するフレイをなだめて――その時にはもう手遅れだったが――明人から話を聞いた。どうやら例の物が完成し、それを見せようと呼びに来たらしい。
 その明人からリーデはどこだと訊かれたティオンは、浴室で湯浴みをしていると答えた。ところが明人は早く見せようと興奮するあまり、とにかく言われた場所へ走っていった。慌てて止めようとしたが遅く、二人揃って女が入浴中の浴室を開け放つ失態を演じたわけだ。悪気がないのは解ったので、リーデからは鉄拳一発で許す事にした。
「……まったく、とんだとばっちりだよ」
「ごめん……」
 さすがに不機嫌なティオンに、明人は平身低頭で謝っていた。
 ともあれ工場の人たちが待っているとの事だったので、リーデは明人と、勝手に付いてきたフレイとティオンの四人で共に川沿いの道へ向かった。そこにはボルスの他にも何人か野次馬が集まっていて、何かを遠巻きに囲んでいた。
「早く終わらせてくれる? リーデ様も暇じゃないのよ」
 フレイはまだ憤懣が治まらないようで、露骨に刺々しい態度だった。
「その辺で勘弁してあげなさい。騎士ともあろう者が裸を見られた程度で動揺してどうします」
「はーい……」
「……見られて怒ってるの、絶対裸じゃないよな……」  明人がボソッと何かを言い、「ああん!?」とフレイに凄まれた。
「な、何でもございません……! そ、それより、これをご覧ください!」
 必死に話題を逸らした明人が示したのは、川のほとりに設置された無骨な造形の機械だった。突き出た二本のパイプのうち一方が川の中に伸び、もう一方は地面を向いている。それが何の機械かは見れば解った。リーデの屋敷にも似たような物があるからだ。
「暖房の機械……ですね。しかし魔法陣がないのでは魔力を送れないでしょう。これを機械と呼べるのですか?」
「必要ないよ。これは魔力を一切使わない機械だから」
「はあ、似たような話は何度も聞いたけど、どれもインチキだったわよ」
 胡散臭そうにフレイは言うが、「インチキがどうか、これを見てから言うんだね」と明人は自信ありげな顔で言い、火口箱で紙に火を点け、機械に火を入れた。明人も簡単な燃焼の魔法なら使えるだろうにあえてそれをしないのは、これが真実魔法を使わない機械、と言いたいのだろうか。
 ごうごうという作動音と共に煙突から煙が立ち上り、やがてパイプから勢いよく水が噴き出した。いや、立ち上る湯気と伝わってくる熱気は、間違いなく熱湯だ。
「これって……あつっ!?」
 熱湯に触れたフレイが、熱さに手を引く。見れば軽い火傷をしていて、湯の温度が相当に高い事を物語っている。それが絶える事無く噴き出してくるのだ。少なくとも、目の前の機械の中には到底納まらない量の熱湯が。
「これは……何の魔法ですか?」
 そう尋ねるしかない。誰も手を触れていないのに川から水をくみ上げ、お湯に変えるこれは、確かに機能性を持った機械だ。だが、そこにはあるはずの物が欠けている。
「魔法は……使っていないようだよ」
「本当だわ。魔力の流れが一切感じられない……」
 ティオンとフレイは呆然として言う。魔法戦士である彼らには、この機械には一切魔力が流れていないと解る。
「別に特別な物じゃないよ。燃料を燃やして水を水蒸気に変え、その蒸気圧でピストンを動かして川の水をくみ上げる。くみ上げられた川の水は蒸気の余熱でお湯として送り出され、熱を奪われた蒸気は一度水に戻った後また温められて蒸気に、のサイクルを繰り返す。基本的な蒸気機関だよ」
「へえ……燃料って言ってたけど、薪でも燃やしてるの?」
「違うよ。燃料はこれ」
 フレイに答えて明人が取り出したのは、円筒形の黒い塊だった。
「これはバイオコークスといって、植物から作った圧縮燃料なんだ。原料は脱穀した麦の殻とか」
「はあ!? あんなゴミが燃料になるっての!?」
 本来ならただ捨てるだけの物が燃料に化けた事に、フレイは目を剥いていた。
「植物性の物を強力に加圧しながら加熱すると、高温で長く燃える燃料になるんだ。再生可能な資源だから地球……僕の国でも次世代の燃料として注目されてる。これで蒸気機関を動かせば町の魔動暖房と同じ働きができるから、今ある水路をそのまま利用する形で、魔力供給が止まった時の代替として使えるはずだよ」
 明人の言葉に、おお、と周囲の野次馬からもどよめきが上がる。暖房が止まる事無く動くなら、もう無理に暖房用の薪を手に入れる必要はない。ゴルトの薪不足は一気に解決だ。
 いや、恩恵はそれだけではない。
「原料は当然、ゴルトの周りの畑から調達したものですよね? という事は、今まで輸入に頼っていた燃料を自給できるようになる……?」
「ええ。製造過程で少し魔法に頼ったけど、エネルギーを備蓄していると考えれば採算は十分合うと思う」
「という事は、これでもう行商人も薪の価格を不当に吊り上げる真似はできなくなりますね……」
 暖房が止まらなくなるとしても、薪の需要がゼロになるわけではない。二等国民だけの世帯では煮炊きにも薪は必要となる。その時燃料の自給が実現できていれば、不当な高値なら買わない、と値引きを迫る交渉力を持つ事に繋がる。
 暖房が一日中止まる事無く動き、薪の価格も引き下げられる。問題が全て解決とは行かないが、町の人たちの負担は大きく減るだろう。
「こんな物、本物ならどこの町でも村でも欲しがるわよ。この町の特産品として売り出せば、きっと飛ぶように売れるわ……」
「ああ。王国中に普及すれば魔力不足の解消にさえ繋がるかもしれない……これがあれば、生き延びられるかも……」
 フレイとティオンの騎士二人は、バイオコークスとボイラーがもたらすであろう利益を想像していたが、「その前に」と明人が止めた。
「ここからが肝心なんだ……僕はこれで燃料不足を解消するつもりだけど、そのためにはこれと同じかもっと大型の物を何機も作らなきゃいけないし、バイオコークスの量産にも人手が要る。僕だけじゃ無理だし、お金もスッカラカンだし」
 その一言で、リーデは自分がここに呼ばれた理由に思い至った。
「もっと大勢の人の協力と、お金が必要になると……つまり公共事業を立ち上げる必要があるわけですね。あとは私が、そのためのお金を出すか否かという事ですか」
 さすがに即答はできなかった。未知の技術を取り入れるのは危険な賭けだ。必要なお金は少なくないだろうし、町の人たちの理解を得られるかも怪しい。
 悩んでいるリーデを見かねたか、それまで黙っていたボルスが口を挟む。
「エーレンフェルス卿、こいつは使えますぜ。あっしもこの仕事やって長いが、こりゃ間違いなく本物だ」
「工場長さんがそう言うなら、嘘やインチキじゃないんでしょうね……明人、いまさらだけどあんた何者よ?」
 フレイがそう言い、人々の注目が明人に集まる。大勢の視線に晒された明人は一瞬たじろぐが、それでも頑張って声を張った。
「前にも言ったけど……僕はソルテッラの外から迷い込んだ人間だよ。これは魔法が存在しない僕の世界の技術――――科学だよ」
「科学……」
 魔法と異なる系統の技術などリーデは聞いた事もないが、目の前で赤々と燃える科学の炎は確かな熱さを持っていた。
 そしてリーデには、この炎が袋小路に陥った魔法文明に代わってこの町、そしてこの国の未来まで、照らしてくれるような気がした。



曙光の軍師と暁の勇者 三章