三章

 灰色に曇った空から、真っ白な雪が地上へと降り注いでいた。
 町も地面も白一色に塗りつぶされ、降り積もった雪で街道は塞がれ、時には河川も凍結し人や物の流れは滞る。冷たい空気は人々の体だけでなく心まで凍えさせるかのよう。
 皆の恐れていた冬の到来を、雪が無慈悲に告げる。そんな中に明人はいた。
「うう、雪の粒が大きい。ここって緯度どのくらいなのかなあ……」
 分厚い毛皮の防寒具を着ていても沁みてくるような寒さに、明人は自分で自分の身を抱く。
「明人の国は、ここより暖かいのかい?」
 隣を歩きながら言ったのはティオンだ。寒さをおくびにも出さないその立ち姿は、慣れよりも鍛え方の違いを感じさせた。
「地域によるけど、僕が住んでいた所は雪が少ないほうだったから……」
 以前東北の親戚の家へ遊びに行った時、身を切るような寒さと大粒の雪に驚いた事があるが、ゴルトの寒さはちょうどあんな感じだった。気分的には暖房の効いた部屋でコタツに入ってミカン――どれもここにはないが――を食べていたい気分だったが、今は少し用事があった。
「自分はあっちを探す。明人はこの辺を探してくれ」
「はいよ」
 ティオンと別れたのは町の市場だ。パン屋、果物屋、肉屋と大抵の食料品が揃っていて、今も買い物を楽しむ多くの人たちの姿があった。
 と同時に、しばしばちょっとした『戦闘』が繰り広げられる場所でもある。
「マソガ肉の骨付き焼き、二つください」
「はい、三十ギアだよ」
 明人は油の滴る骨付きの焼肉を露天から購入する。マソガという牛に似た生き物の肉だが、足回りの肉の付き方が変わっていて、精肉すると骨に大きな肉の塊がくっついた形になる。焼いたこれにかぶりつくと、じゅわっと肉汁が染み出し非常に美味である。
 さらに明人はポケットからガラス瓶を取り出すと、中の茶色い粉末を骨付き肉にかける。明人が香辛料を組み合わせて作り上げた、特製のピリ辛スパイスだ。これが肉の旨みを引き立て、さらに濃厚かつ芳醇な味わいを演出する。
「あー、二つは買いすぎたなー。誰か食べないかなー」
 もう一本の骨付き肉をブラブラさせながら、明人はわざとらしく独り言を口にする。
 と、後ろから服を掴まれた。
「食べます?」
「……食べます」
 はいどうぞ、と明人が肉を差し出すと、律儀に十五ギアが帰ってきた。
「……では、私はこれで」
 立ち去ろうとする彼女。その肩を、明人は掴んで止めた。
「見逃してもらえませんか……?」
「ダメ」
 この市場には時折、買い食いを至上の楽しみとする伯爵令嬢が仕事をサボって出没し、それを連れ戻しにきた使用人や騎士との間で白熱した追撃戦が繰り広げられる。
 今回明人は、後者の援軍として駆りだされていたのだ。
「た、たまに仕事の疲れを癒すくらいは……」
「たまにも何も、昨日も脱走したばかりでしょ。『溜まった案件が片付いてない』って騎士のみんなが怒ってたよ」
「い、急ぎの用件はあらかた片付けましたし、残りは明日やってもいいかな、と……」
「あんたは宿題嫌いな小学生か……」
 リーデの子供じみた言い訳に、明人は思わず嘆息する。
 領民を守りたい一心で、血の滲むような努力を重ねて魔法戦士になったはずなのに、その情熱が細々とした書類仕事を前にした途端、どこかへ飛んでいくのはなぜなのだろう。
「とにかく、それ食べたら屋敷に戻ってね」
「はい……」
 しゅん、と肩を落とすリーデ。
 それから少しの間、明人はリーデとその辺を歩いて回った。約束はしたが、また逃げられても困る。
「んー、素晴らしい味付けですね、これは」
 マソガの骨付き肉にかぶりついたリーデは、幸せそうに相貌を崩す。
「明人さん、料理が上手でいらっしゃいますね。屋敷で料理人として雇ってもいいくらいです」
 それはどうも、と明人も苦笑する。両親が共働きで、二人の帰りが遅い時は明人が夕食を作ってあげる必要から自然と料理が身に付いたのだが、そんな明人の料理をリーデは大層気に入ってくれていた。
 屋敷にはもう専属の料理人がいるので彼らの仕事を取るのは本意ではないが、自分の料理で幸せそうな顔をするリーデを見ると、明人も満たされた気分になる。
 ――あいつは、僕が何を作っても美味しいなんて言ってくれた事ないしな……
 今頃どうしているだろう、と明人が家の事を案じていると、突然横から飛来した雪球が顔に直撃し、「はぶっ!?」と声を上げた。
「ごめんなさーい!」
 元気な子供の声が飛んできた方へと目を向けると、数人の子供が道端で雪球を投げ合っている光景が見えた。皆、顔色が悪い様子もなく元気そうだ。
 すると子供の一人が「明人さーん!」と駆け寄ってきた。
「やあルカ! 体はもういいんだ?」
「はいー。おかげさまでもうすっかり元気です」
 ルカが屈託なく笑いかけてきて、明人もつられて笑顔になる。暴動の時に受けた傷は、ティオンの治癒魔法のおかげもあってすっかりよくなったようだ。
「子供たちが元気に雪遊びをしているなんて、久々に見た気がします」
 去年までであれば、この時期はお腹を空かせて元気がない子ばかりだったとリーデは言う。先ほどすれ違った女の人もバスケットにパンや干し肉だけでなく芋や野菜を詰めていて、その表情も心なしか明るく見えた。
 明人たちがバイオコークスと温水ボイラーをお披露目してから二ヶ月。町の各所に建設されたそれは魔力流路が閉じ、魔動暖房が止まった時の代替として十分機能していた。
 常に暖房が機能している事で無理に薪を買う必要がなくなり、住民同士で薪を奪い合っていがみ合う事もなくなった。
 もちろん難民を追い出す必要もだ。心にしこりは残ったかもしれないが、争いの原因が取り除かれ治安は改善した。その事を父親と共に訴えたリーデの働きかけはようやく実を結び、行商も徐々に再開されて他所の食料品が入ってくるようになった。
 魔力不足という一番の問題はそのままだが、ゴルトの町に限って言えば人々の生活はそこそこ持ち直したと言える。
「おお、明人さん!」
「こんにちは、明人さん!」
 道行く人たちが明人を指差し、声をかけてくる。明人は戸惑いつつもそれに手を振り返した。
「……なんか、僕って有名人になってる?」
「当たり前だろ、町の救世主」
 横からそう答えたのは、ルカの兄であるエルだった。彼は死んだ鳥を何羽もぶら下げて立っていた。
「エル……どうしたの、その鳥?」
「東の森で狩りをしてきたんだ。昔からパチンコが得意でよ。ガキの頃からよく鳥を狩って飯にしてたもんだ」
 今日はご馳走だぜ、と自慢げにエルは語り、ルカも「久しぶりのお肉!」と喜んでいたが、リーデは信じられないものを見た顔になった。
「魔境の森に!? なんて危ない真似を……」
「おお、伯爵令嬢様もご一緒で……大丈夫ですよ、とっくに凶獣も冬眠する時期ですし」
 エル曰く、森の凶獣であるキラーバグは蟻のように地下に巣を作るので、近付かなければ安全らしい。
「ただ、雪に埋もれた巣は見つけ辛いから、素人にはお勧めしませんがね」
 その得意げな言葉からして日常的に森に入っているらしいエルの目が、不自然に下を向く。目線を追ってみると、リーデの形のいい胸で視線がぽよんと跳ね返っていた。
 なんだかイラッときたので、明人は二人の間に割り込んで視線を遮る。
「……それでも控えるようにね。ルカを守ってあげられるのはあんただけなんだから。たった一人の家族だろ?」
「お、おう」
 妙に強い剣幕の明人に気圧されたか、特に言い返すでもなくエルは頷いた。
「それと町の救世主って言い方も面映いよ。あれは僕一人でやった事じゃない。親方や工場のみんなに協力してもらって、やっと完成したんだ。みんなの成果だよ」
 明人は所詮、地球の知識を持ってきたに過ぎないし、工場の皆に手伝ってもらわなければ無理だった。これで自分一人の成果と言い張るのは浅ましいだろう。
「ご謙遜だな。お前がいなきゃ俺たちは今頃、町を追い出されて凍え死んでたよ」
「それは最後まで難民の追い出しに反対したリーデさんにも、言ってあげるべきだね」
「いえそんな……でも、そうならなくて本当によかった」
 リーデは心底安心したと微笑む。
 そして明人も、そうしてリーデが心から笑っていられる事を、本当によかったと思う。
 とその時、「明人、ヴィンフリーデ様は見つかったかい?」と声がかかり、リーデがげっ、という感じの顔になった。
「ご一緒でしたか。さあお早く……」
「騎士様! あの時はどうもありがとうございました!」
 リーデに詰め寄ろうとしたティオンの前にエルが割って入り、ティオンは軽く驚いた。
「弟もすっかり元気になって……おいルカ、お礼言え」
「ありがとうございました騎士様ー」
「ああ。暴動の時の兄弟か。元気そうでなによりだ」
「どうですかこれ。おかげさまで、森で鳥を獲ってこられましたよ。騎士様にもお礼に一つおすそ分けを……」
 ん? と明人はエルの言葉に違和感を感じた。
「おかげさまで森に? どういう意味ですか?」
 リーデもおかしいと思ったようだ。問われたティオンも、「何の事だい?」と首をかしげていた。
「いや、今朝森のほうにいたじゃないですか。てっきり、森の凶獣の様子を見てるもんだと」
 おかげで安心して狩りができたとエルは言ったが、リーデは納得していない顔だった。
「もう雪が降り積もっていますし、見回りが必要な時期ではないでしょう。それなのに森の様子を見に?」
「……ッ、あ、いや……念のため、そう、念のために見回りを……凶獣よりも、君のような森に入る人が危ないんだ。凶獣が目を覚ましでもしたら大変だからね」
 そう言ったティオンに、エルは「すんません……」としおらしく頭を下げ、リーデも「まあそうですね」と納得したようだった。
 しかし明人は、『あ、いや……』のところで、ティオンの目が泳いだのに気付いていた。
 ――ああいう目の動きって、咄嗟の嘘を吐いた時、無意識に出るって何かで見たな……
 何か隠し事でもあるのかと思ったが、まさかティオンに限ってやましい事もあるまいと思い、明人はそれ以上追求しなかった。どうせエロ本でも隠してあるとかそんなところだろう。
「んじゃあ俺たちはこれで。ルカ、帰ったら鳥を捌くの手伝えよ」
「はーい。明人さん、騎士様、ヴィンフリーデ様、さよならー」
 難民の兄弟は、明人たちへ手を振って家路に着いた。
「よかったですね。あの人たちも無事に冬を越せそうで……町の救世主のおかげですね」
「だからよしてってば。……ただ純粋に町の人たちのためにした事、というわけでもないんだよ」
 リーデの力になりたかったから、とは恥ずかしくて言えないが、他にもっと打算的な理由もあった。
「これが国中に広まって、中央の偉い人たちに認められたなら……僕は中央に住む資格を貰えるかな」
 明人の頭の中には、魔力不足の解消に繋がるアイデアがまだいくつもある。今もボルスら工場の人たちにも協力してもらい、新たな科学文明の利器を作れないか試しているところだ。
 それらはいずれ国中に売り出される。そうなればやがてこの国は魔力不足からも、冬の寒さからも開放される。これだけの貢献をした人間に、王都の居住資格を与えない理由はないはずだ。そうすれば明人は日本へ帰る手がかりを探す事もできる。
「最後は結局、自分のためなわけだけど……」
「気にする事はありません。大きな貢献を成した人には相応しい代価を受け取る権利があります」
 胸を張ってください、とリーデは優しく頷く。
 と、そこでティオンが口を開いた。
「……残念だけど、それはないね」
「は?」
「えっ?」
 一瞬、明人とリーデは何を言われたのかと思った。
「この王国は滅ぶ運命だ。今更魔力不足が多少改善されたところで、もう救いようはないよ」
 せっかく見えた希望をぶち壊すような一言。一時呆気に取られていた明人も、やがてむっとして言い返す。
「……なんでそんな事言うんだよ」
「王国が今も戦争状態だと忘れたのかい? 遠からず公国かどこかの軍がここまで攻め込んでくる。そうなれば全て終わりだ」
 忘れてなどいない。今でも森一つ隔てた向こうでは戦争が継続している。
 東方軍はこの二ヶ月、公国軍の侵攻によく耐えてきた。現在は雪で人と物の動きが滞る冬の訪れと共に、戦闘は小康状態になっている。
 戦争の中休み期間である冬のうちにいろいろな科学文明の利器を作り、広めて、公国や周辺国にもその話が広まれば、それを餌に和平交渉もできるのではないか……というのが明人の考えだ。
「いずれは国外への輸出や技術供与だって始まるよ。魔力の代わりに人々の生活を支える物が作れるようになれば、もう神威結晶を巡って戦争する必要なんかなくなる。それで王国も安泰だろ」
 ゴルトの薪騒動も、そうやって収束したのだ。争いの理由を取り除くというやり方には、明人は自信を持っていた。
「他国への輸出ね。そうなれば競合相手がいない独占状態なのだから多大な富が転がり込んでくる。王国はかつてないほどの活気に満ち溢れるだろうね」
「……そりゃそうだよ。何か問題なの?」
「甘いよ明人。それは巨大な利権の発生を意味する。……微笑ましく見守ってくれる人ばかりだと、本気で思っているのか?」
「ティオン……何が言いたいのですか?」
 リーデも険しい表情で言う。ようやく見えた明るい展望を、ティオンは尽くこき下ろしている。
「明人が作った物は凄い物です。それは認めます。だが滅亡が目に見えている王国を救うより、もっといい方法があると申し上げています」
「……いい方法?」
 不穏な響きしかないその言葉に、どういう事だと聞き返そうとした時――――
 突然、けたたましい鐘の音が町中に響き渡った。
「な、何だ!?」
「これは……非常事態を報せる鐘の音!?」
 リーデが血相を変え、周囲にいた町の人たちが急に慌しくなる。それだけでただ事ではないと明人にも解った。
 そして、拡声ラウドボイスの魔法によって町全体へと響いた物見役の声が、誰もが恐れていた、しかしまだないと思っていた知らせを叫んだ。

『てっ……敵襲! 敵襲――――! 町の東に、公国の軍勢が!』

「な――――!?」
 まるで足元が崩れるような感覚。
 破滅は、天災のように前触れもなく訪れた。



 眼前の都市――ゴルトといったか――の動きがにわかに慌しくなり始めた。向こうもこちらの接近に気付いたと見える。
 ――慌てて迎撃態勢を整えているようだが、兵の動員や配置が間に合うはずもあるまいて。
 公国軍大将、スカルビア・ラディカーディ男爵は口唇を三日月形に歪めてほくそ笑む。
 魔境の森を凶獣が冬眠する冬に越え、障害である城砦の後ろに回る。以前から考えていた策ではあったが、森の凶獣を刺激せずに通過するのは難しいとして一時は諦めかけていた。だが……
「落伍者はどの程度だ?」
「雑兵隊が三十から四十ほどかと。殆どが凶獣による被害です」
 魔法戦士四百を含む五千の軍勢としては軽微な被害だ。スカルビアは「重畳だな」と頷く。本来なら全滅でもおかしくないところをこれだけの被害で抜けられたのだ。
「あれの言葉に嘘はない、という事かな」
「今のところは。この分なら、例の物も期待してよいでしょうか」
「それは解らんな。まあいい……これからはっきりするだろう」
 側近の騎士に笑いかけ、スカルビアは周囲で隊列を組む公国軍へ視線を走らせる。
「諸君、虫との隠れ鬼は終わりだ。王国の蛮族共を蹴散らし、思う存分剣を振れ! これは緒戦に過ぎぬが、勝利の暁には略奪を許す。勝者の特権を行使するに遠慮は要らぬ、好きなだけ奪い取れ!」

 ――――おおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっ……!

 スカルビアの演説に答え、総勢五千の軍勢が鬨の声を上げる。
 公国軍の魔法戦士四百人が巨大な武器をつがえ、一斉に『弾薬』の魔力カートリッジを叩き入れた。数百の攻撃魔法陣が展開し、その矛先がをゴルトの城壁へと向けられる。
 城壁の上を一瞥し、白旗が揚がっていない事――降伏を許す気はないが――を確認したスカルビアは、高々と上げた右手を振り下ろした。
「放て!」


 敵襲を報せる放送を聴き、リーデは大急ぎで屋敷に保管してある武具を取りに走った。そうして武装を済ませ城壁の階段を駆け上がっていた時には、もう攻撃が始まっていた。
 ――まさか、魔境の森を越えてくるなんて……!
 魔境の森を越えるなど不可能、だから東方軍の城砦が落ちない限り敵はここへは来ない――――そう思い込んでいたせいで、敵襲への備えなど何もしていない。自分の思慮の浅さが呪わしかった。
「フレイ、状況は!?」
「リーデ様……ご覧の通りです……!」
 城壁の上で、青ざめた顔のフレイが指し示す先、眼下の光景に思わず息を呑む。
 ゴルトの東、森との間に広がる数キロの平野に展開する黒々とした軍勢。一瞥した限りでは五千近い数――――グロスター伯爵領で交戦したのと同じ部隊だろうか。七千の諸侯軍で敗れた相手に、リーデを含む十人の魔法戦士と、三百人もいない衛兵でどうやって戦えばいい?
「守りきれるはずがありません。ここは降伏するべきと愚考します」
 横に立ったティオンの口にした言葉には、リーデも思わず頷きそうになった。
 だがすぐに「バカを言いなさい!」と一喝する。まさに愚考だ。王国民を蛮族と蔑視する公国軍が、降伏したところで丁重に扱ってくれるわけがない。現に今、彼らは降伏勧告も無しに問答無用で攻撃を始めている。
「援軍が来るまで持ち堪えれば、まだ望みはあります! 応戦の準備を急いでください!」
 城壁上へまばらに集まりつつある兵たちを勇気付けようと、リーデは声を張り上げる。
 放送の後すぐ、リーデは明人に通信屋へ向かい、ゴルトが襲撃を受けた事をエーレンブルクと王都へ報せるよう頼んだ。報せを受ければ父はすぐに援軍を出すだろうし、中央も襲撃を受けている都市への魔力供給を止める真似はしない……と思いたい。
 とはいえ、目の前の敵軍はエーレンフェルス家の抱える戦力全部でも戦える相手ではない。他の諸侯からの援軍と、国軍の救援は望めるのだろうか? 考えるほど絶望的な気分にしかならない。  だからこそ逆の措置――――町を捨てる準備もここに来るまでに指示してある。
 それでもリーデは、町を明け渡したくなかった。公国軍が占領した町で何をするかは嫌というほど目にしてきたし、難民となった人々の悲惨な境遇も間近で見てきた。それに、
 ――明人さんのおかげで、やっと見えた希望なんです。ここで奪われるわけには行かない……!
 町の人々を寒さから救い、住民と難民の諍いを収める――――この二年、八方手を尽くしながらずっとできないでいた事が、ようやく実を結んだのだ。それが全て水の泡になるなど、リーデには我慢ならない事だった。
 眼下の公国軍から。再び攻撃魔法の一斉射が始まる。無数の火球が、氷槍が、紫電が、大気を切り裂いてリーデたちのいる城壁へと殺到し、それを覆う魔法障壁に防がれ爆ぜる。
 町の中にその中枢がある、城壁全体を覆う大規模魔法障壁。これがあるうちは城壁の中に被害は出ないが、攻撃魔法を受け続ければいつかは突破される。
「攻撃を抑制します! 魔法戦士ならびに砲台は、敵の魔法戦士を狙ってください!」
 城壁の上に設置された魔動砲台に、遅れてやってきた一等国民の射手が取り付き、その照準を公国軍へ向ける。重くかさばるために拠点防衛くらいしか使い道がない兵器だが、修練を積んでいない普通の一等国民でも簡易な攻撃魔法を使えるのは火力の底上げになる。
 他の騎士たちもようやく合流し、併せて攻撃魔法を公国軍へ放ち始める。ゴルトの総力を挙げた反撃に、公国軍からの攻撃の勢いが目に見えて弱まった。
 ――何かおかしい。
 リーデは背中がざわつくような違和感を感じた。どうにも公国軍の攻撃に本気が感じられない。この程度で怖気づくような脆弱な軍ではないはずだと、何度となく剣を交えた経験が告げている。
 その時、どぉん、と背後から爆発音がした。はっとして振り向くと、町の中にある一軒の民家から煙が上がっていた。慌てて避難しようとした住民が事故を起こした――――のであればよかったが、
 ――あそこは……大規模魔力障壁の発生器がある家!
 リーデの顔色が蒼白に転じる。まさかゴルトの中に、公国の内通者が入り込んでいたというのか。
 頼みの綱の魔法障壁が、溶けるように消えていく。守りを失い裸同然となったリーデたちへ、公国軍は先ほどに倍する勢いでの攻撃魔法を浴びせてきた。
「く……!」
 咄嗟に自分で魔法障壁を展開し、自分と周囲の兵たちを守る。だがリーデ一人で守れる人数には限界があった。振り注ぐ攻撃魔法を受けて魔動砲台が叩き壊され、身を守るすべのない雑兵たちが薙ぎ倒される。
「あああああああっ! 熱い、熱いいぃぃっ!」
「痛え! 腕が、俺の腕があっ!」
 リーデの気に入っていた、おいしいパンを焼いていた店の店主が、炎に焼かれて死んだ。
 本を書きたいと読み書きを勉強していた青年が、氷の槍に貫かれて城壁から転落した。
 雑兵隊が虫けらのように死んでいく。リーデの収める町の人たちが、守るべきだった人たちの命が零れ落ちていく。
「ごめんなさい……!」
 守れなかった人たちに詫びる。自分の力のなさがただ悔しい。
 ――これでは、援軍が来るまで耐えるどころか……
「リーデ様! 敵陣内に、強力な魔力が!」
 フレイの切迫した声。公国軍の陣形の奥で、今までにない巨大な魔法陣が展開している。
 ――対城魔法……!
「いけない、全員で集中攻撃! 撃たせてはなりません!」
 総毛だった声でリーデが叫び、騎士たちが魔力の集中している一角に攻撃魔法を放つ。しかしそれは魔法障壁に阻まれ、ただの一弾として届かない。
「止めて……誰かあれを止めて!」
 その叫び空しく――――巨大な魔法陣から一際強く輝く魔力塊が放たれ、城壁へと突き刺さった。
 一秒ほど遅れて、轟音と爆風が巻き起こった。その真上近くにいた騎士一人と雑兵十数人が逃げる間もなく、城壁ごと粉々に吹き飛ばされる。
「ウィルハルト――――――!」
 爆発の中に消えた騎士の名を叫んだリーデと、その周りにいた者たちも無事ではすまなかった。爆発の余波を受けて側壁に叩きつけられ、あるいは城壁から落下する。リーデ自身も激しく床を転がり、上にティオンが覆い被さって止めた。
「ご無事ですか、ヴィンフリーデ様……」
「わ、私は平気ですが……城壁が……!」
 ただ一発の魔法で、眼前の光景は一変していた。分厚く強固なはずの城壁が数十メートルに亘って崩壊し、瓦礫の山と化していた。周囲には吹き飛ばされたのだろう雑兵の遺体が散乱しており、爆発の直撃を受けた騎士と雑兵は、恐らく肉片すらも残っていまい。
 対城魔法、破城爆炎バトリング・フレア――――強力に圧縮された熱エネルギーを時間差で開放し、内部からの爆発で強固な城壁や城門を打ち破る高威力の魔法。一人で行使する対人魔法とは行使の難度も桁違いで、十人以上の魔法戦士が連携し、魔力カートリッジ換算で二十本近い魔力を一度に使い切る虎の子の一撃だ。
 砕かれた城壁から、公国軍の騎兵隊が入り込んでくる。敵が町へなだれ込んでいく。その先にいた、まだ城壁の上に向かう途中だった雑兵隊が隊列を組む間もなく騎兵槍で串刺しにされ、攻撃魔法を浴びて黒焦げにされる。
「そ……んな……!」
 あまりに一方的な蹂躙の光景に、膝が折れそうになる。
 勝てるはずがなかった。あまりに力の差がありすぎる。
 ――ここまで……なのですね……
 ぎりっ、と歯軋りし、リーデは上空へ赤い光を打ち上げる。光を放つだけの魔力塊。つまり信号弾だ。
 その意味は敵に伝わらないよう、戦のたびに決める。放送で町全体へ流した赤い信号弾の意味は――――『城壁の陥落・住民の速やかな脱出』。
 ゴルトの町は、今日を持ってシュランゲ公国の物になる。町の人たちの住む場所も、明人たちが汗水流して働いた工場も、苦労して作ったバイオコークスやボイラーも、自分たちの積み上げてきた物が根こそぎ奪われる。
 泣きたくなるほどの理不尽――――しかし絶望に落ちている暇はない。
「全員、直ちに下で防衛線を張りなさい! 町の人が避難する時間を少しでも稼ぎます!」
 はい! と騎士たちが唱和し、鎧を鳴らして駆けて行く。それでも、いったいどれだけの人が無事に逃げ切れるだろう。
 そこへ、不意に横から声がかかった。
「……ヴィンフリーデ様」
「何ですか? こんな所にいないで、早く皆の所へ……」
「お許しを」
 ちくっ、と首筋に痛みが走り――――
 ――え?
 首に感じた痺れが、一瞬にして全身に広がる。指先を動かす事さえままならなくなり、そのまま城壁の床に倒れこむところを支えられた。
 ――そんな……
 思い至る。大規模魔法障壁の発生器、そのありかは民家に偽装され、町の人は誰一人として知らない。それを知っているのはリーデと、整備に当たる一部の技師と――――騎士たち。
 認めたくも、考えたくもなかった。だが……
「なぜ……あなたが……」



「うう……いったい何が……」
 まだ朦朧とする意識の中、明人が緩慢に身体を起こすと、体から埃や小さな瓦礫がパラパラと落ちた。
 リーデから頼まれた連絡を済ませた後、避難の呼びかけをしていた最中、明人の耳に落雷のような轟音が届いた。それは自衛隊の戦車の砲声にも似ていて、歓声ではなく悲鳴が上がる中、あの強固に見えた城壁が火を吹いて崩れ落ちた。
 そして恐ろしい事に――――爆発で飛散した城壁の破片が、放物線を描いて明人たちがいる方へと飛んできたのだ。明人が咄嗟に手近な家屋の影に飛び込んだ次の瞬間、殺人的なエネルギーを持った凶器の雨が逃げ惑う人々に襲い掛かり、明人も衝撃で一時気を失った。
 次第に意識がはっきりし、目を開けた明人は視界に飛び込んできた光景に息を呑む。
 頭を砕かれ、背骨を折られ、手足を潰された何人もの人々が路上に横たわり、血を流していた。降り積もった雪に朱が広がっていき、瀕死の人々が助けを求めて呻き声を上げている。
「だっ……誰か手を貸して! 誰か……無事な人はいないの!?」
 重篤な怪我人があまりにも多すぎる状況に狼狽し、無力に助けを呼ぶ明人。
 すると「うう、ちくしょう……」と苦しげな声が聞こえた。
「はっ……親方!」
 人々の中にボルスの姿を見つけ、明人は慌てて駆け寄る。
 ボルスも酷い怪我だった。石の当たった右足が変な方向を向き、間違いなく骨折していると解った。医者に連れて行きたいが、この状況ではそれさえ難しい。
「と、とにかく応急処置だけでも……!」
「よせや……あっしの事はほっといて早く逃げろ、すぐに敵がやってくる……奴等は王国民を人間だなんて思っちゃいねえ、即殺されるか、奴隷にされるぞ……」
「だけど、置いていくなんて……!」
「坊主……こいつを持ってってくれ」
 言って、ボルスは大事に抱えていた頑丈そうなケースと、その鍵を明人に渡してくる。
「これさえ残ってりゃ何とかなる……いいか、そいつで……」
 その言葉を、明人は最後まで聞いてあげられなかった。背後から聞こえてきた怒声と雄叫びに振り向くと、そこにはもう武装した兵の一団が迫っていたのだ。
 ――公国軍……!
 その姿を見た途端、周囲に恐慌が一瞬にして広まり、走れる人たちが悲鳴を上げて我先にと逃げ出した。
 明人も全身の毛が恐怖で逆立ち、喉の奥から酸っぱいものがこみ上げる。恐怖で足が石のように動かないでいると、突然ドン、と突き飛ばされた。
「生きて帰れや、坊主」
 明人を暖房用の水路へ突き落としたボルスがにかっと歯を見せて笑い、その蓋を閉める。
「親方――――!? 熱っ!」
 暖房の機械は止まっているのか、重篤な火傷をするほどではなかったが、それでも熱湯の残る水路に落とされた明人は熱さに苦悶を漏らす。
 だが次の瞬間、頭上からそれとは別の熱い液体が明人の顔に降り注いだ。鼻をつく鉄錆の臭いがする、どろっとした赤黒い――――血液。
「あ、ああ…………!」
 絶句する。顔を上げた明人の目に映ったのは――――公国兵の槍に全身を貫かれ、無残に刺し殺されるボルスの姿だった。
「たっ、助けて、お願い助けて! ああああああああ!」
「ああ、その子は、子供には手を出さないで!」
「やめて、許して! 嫌、嫌あああああああああ!」
 敵意と欲望に満ちた目をぎらつかせた公国兵たちは、その矛先を怪我で動けない住民たちにまで向けた。住民が持ち出そうとした金品を無理矢理に奪い取り、お金や金目の物を見つけては大喜びで懐にしまいこむ。少しでも抵抗したり逃げようとした人には情け容赦なく刃が振り下ろされ、恐ろしい悲鳴が轟いた。民家から酒を見つけてきた者たちが死体の横でそれを煽り、酔っ払った兵たちが足の折れた女性を民家の中へと引きずりこみ、悲痛な呻き声が上がる。
 明人が生まれてこのかた見た事がない、あまりに理不尽で一方的な、暴力による蹂躙と略奪。その光景が正視に堪えないほど恐ろしく、明人は気付いた時には水路の中を這って逃げ出していた。
 ――逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ……!
 死にたくなかった。殺されたくなかった。恐ろしくて、怖くて、何も考えられないまま明人は逃げた。この平和が失せた場所から、一刻も早く逃げ出したかった。
 だが不意に、リーデたちの身を案じる気持ちが沸いた。あの爆発のすぐ傍に彼女たちはいたはずなのだ。
 この状況で、安否を確かめに行くのは自殺行為だ。無事を信じて逃げるべきだと臆病な心が叫んでいたが、それは我が身可愛さにリーデを見捨てる行為だった。
 周囲に公国兵の気配がない事を確認し、水路の蓋を開けて外に出る。そこからリーデたちのいただろう東の城壁へ向かおうとしたが……やはり無謀だった。
「いたぞ!」
 すぐ公国兵に見つかった。咄嗟に踵を返して逃げようとしたが、その時にはもう背後に公国の魔法戦士が立っていて、鉄製の戦靴グリーブで腹を蹴られて石畳のうえに転がった。
「男爵からの指示にあった者だな。一緒に来てもらおう。抵抗するなら容赦はせん」
 巨大な剣を明人に突きつけての、交渉の余地のない恫喝。
 逃走の余地など、どこにもなかった。


 公国軍に襲われている人々の悲鳴が悲痛に響く中、明人は町の一角――――バイオコークスのボイラーがある建屋へと連れてこられた。
 そこには重厚な魔法戦士の鎧、その中でも異彩を放つ真っ黒な鎧に身を包んだ男が、稼動したままのボイラーを興味深そうに眺めていた。「連れてきました」と明人を連行してきた騎士が声をかけると、振り向いた男はなぜか兜を被っていない灰色の髪の下、爬虫類じみた相貌で明人を見た。
「君が、キリシマアキト君かね」
 ――僕の名前を知ってる?
「……あんたが、公国軍の大将か?」
「いかにも。スカルビア・ラディカーディ男爵と申す。覚えておいてくれ」
 これから長い付き合いになりそうだからね、とスカルビアと名乗った男爵は軽薄に笑いかける。敵意のない態度だったが、相手はボルスや大勢の人たちを殺傷し、この町を狙ってやってきた侵略軍の大将だ。間違っても友好的な人間ではない。
「これは君が作った物だそうだね。拝見させてもらったが……なるほど素晴らしい。話を聞いた時は半信半疑だったが、これほどとは思わなかった」
「……話?」
 明人の疑問を無視して、スカルビアは続ける。
「これは間違いなく国を、いやこの世界を救う力になるだろう。どうだね、ぜひその才を我が公国で発揮しないか。見返りは期待していい」
「誰が……」
 あんたたちなんかに、と言いかけた、その時。
「そう言わず、彼らに協力しろ。それが君のためにもなる」
 背後から投げられた、聞きなれた声――――その信じられない言葉に、振り向いた明人は愕然とする。
「――ッ! どういう事だよ! ティオン!?」
 つい先ほど別れて、城壁の上で戦っていたと思っていたティオン・ブライヒレイター騎士候が、建屋の入り口に立っていた。そして、それに支えられるように力なく項垂れているのは、藍色の髪の魔法戦士……
「ヴィンフリーデ・エーレンフェルス……」
 なぜか、明人たちを連行してきた公国の魔法戦士が尋常でない敵意を向けてくる中、リーデは辛そうに顔を上げ、明人へ詫びてくる。
「明人さん……申し訳ありません、力及びませんでした……」
「リーデさん……どうしたの、大丈夫!?」
 苦しそうなリーデの様子に明人は血相を変えるが、「心配するな」とティオンは抑揚のない声で告げた。
「南方の凶獣……アラクネが獲物を捕らえるための毒だ。半日は身体が痺れて動けないが、死んだり後遺症が残る事はないよ」
 自分がリーデに毒を使った、と暗に自白したティオン。混乱する明人の肩越しに、スカルビアが愉快そうな声をかける。
「ご協力感謝するよブライヒレイター卿。貴君が提供した巣の情報は概ね正確だった。おかげでここに来る事ができたよ」
 ――そういう事か……
 明人の名前と、バイオコークスの事をなぜか知っているスカルビア、魔境の森を越えてきた公国軍、そしてここに現れたティオン……それらが一つに繋がった。
「ティオン、あんた……僕とこの町を、公国に売り渡したのか!」
 エルが森で目撃したティオンは、公国軍と連絡を取っていた帰りだったのだろう。それによって公国軍は森を安全に抜ける道を知り、ゴルトへ攻めてきた……
「何でこんな事をしたんだ!? あんたこの町を守る騎士だったはずだろう!?」
「……生き延びるためだよ」
 そう答えたティオンの顔には、まったく感情の色が見えなかった。本当にこの男がティオンなのか、信じられないほどに人間味が感じられない。
「王国は遅かれ早かれ滅ぼされる。そうなる前に自分は公国へ亡命する。ゴルト侵攻の手引きと、君と君の技術を手土産にして、ヴィンフリーデ様を連れてね。……約束は守っていただけますね、スカルビア卿」
「その前に、まずその女の鎧を脱がせろ。どこに攻撃魔法陣が隠してあるか解ったものではない」
 剣呑な言葉を投げつけたのは、スカルビアではなく明人を連行してきた公国の魔法戦士だ。
「見ての通り、彼女は毒で動けない。抵抗の心配はないよ」
「心配ないかは我々が決める。さっさとしろ」
「まあテレンツィオの言う事にも一理ある。信用を得たいなら従ったほうが懸命かも知れぬよ」
 嫌な嗤いを浮かべて、スカルビアも同調する。
 ティオンは多少逡巡したようにも見えたが、やがてリーデの鎧の装甲を剥ぎ取り始めた。身体の動かない彼女は抵抗もできない。
 魔法戦士が鎧の下に着用するインナーは、魔法を用いた特殊な製法で作られるラバーに似た極薄素材だ。身体の動きを妨げず、ある程度の耐刃・耐火性もあり、表面に魔力を通しやすい金属繊維を織り込み魔力のロスを最小限に抑えるなど機能性に優れている。反面身体のラインがはっきり出るため、人前に出る時は上に服を着るか外套を羽織るのが普通だ。
「く……」
 乳首の形まではっきり浮き出た、裸も同然の格好で敵の前に突き出され、リーデの顔が屈辱に歪む。
「ティオン……あんた、こんな事までして生き延びたいのか……」
 明人は視線で射殺さんばかりに、裏切り者の騎士を睨みつける。
 侵略に加担し、守ってきたはずの町の人を大勢死なせ、大恩があると言っていたリーデまで傷付けて、この男は自分独りだけ生き延びるつもりか。
「現実を見ろ、明人。多少王国を延命させようが、滅ぶのが遅いか早いかだよ。君も公国に協力すれば生き延びられる……故郷に帰る手がかりを探す事もできるだろう」
「懸命だね。こんな滅びかけた王国より、我々の下に来たほうがずっと君のためになる。富も女も好きなだけ手に入るよ」
「ことわ――――ぐはっ!」
 飴をちらつかせ、誘いをかけてくるティオンとスカルビアに断る、と言いかけた瞬間、戦靴の爪先で腹を一撃された。衝撃と激痛に背中を丸めて蹲る。
「勘違いするなよ? 我々は『お願い』しているわけじゃない。言う事を聞かせる方法はいくらでもあるんだぞ?」
「あ……ぐあ……!」
 苛立った表情のテレンツィオが高圧的に明人を見下ろし、その頭を踏みつけてくる。頭蓋骨が軋むほどの圧迫に明人は堪らず苦悶を漏らす。
「やめなさい……それ以上明人さんに手を出したら許しませんよ……!」
 その声に、明人への暴力が止まる代わりにテレンツィオの敵意がリーデへ向く。無言で歩み寄り、右手の手甲で殴りつけようとして――――ティオンにその手を掴まれた。
「失礼。条件反射で手が動いたよ」
 チッ、と舌打ちして手を引いたテレンツィオは、ティオン、リーデ、そして明人の順に敵意がぎらつく目を向け、最後にスカルビアへと口を開く。
「スカルビア卿。解り易いやり方で従わせましょう。実はもう準備してあります」
「ふん……よきにはからえ」
 来い、とテレンツィオに促され、リーデを抱えたティオン、明人、最後にスカルビアが、建屋の外に出る。
 そこには公国兵と、彼らが捕まえてきたのだろう町の人たちが壁際に並ばされていた。特に規則性もない老若男女が横並びに十人――――以前見た戦争映画の一シーンと目の前の光景が重なり、血の気が引くのが自分でも解った。
「おい、何をするつもりだよ……!?」
「自分がどういう状況に置かれているか解らせてやる。『断る』と言ったらどうなるか、嫌でも理解するだろう」
 テレンツィオは攻撃魔法陣を並べられた人たちへ向け展開させる。あの魔法陣は炎熱嵐ファイアストーム……火炎放射器のように高温の炎を吹き出す魔法だ。あれが文字通り火を吹けば、あの人たちは全員黒焦げになる。人々の間から、ひいいっ、と怯えた悲鳴が上がった。
「……っ! 僕に協力して欲しいなら、やめろ!」
 明人は懸命に叫んだが、テレンツィオは明人を横目で一瞥しただけですぐに視線を切る。
 ――こいつ、僕の事は眼中にない……!
 明人を従わせるというのは、テレンツィオにとっては口実に過ぎないのだ。この男の本当の狙いは……
「あなたは……! 殺したいなら私から殺しなさい……!」
 痺れのせいで声は弱々しいが、それでも必死にリーデが叫ぶ。それに愉快そうな嗤いを浮かべたテレンツィオの顔を見て、明人は確信する。
 ――こいつの狙いは……リーデさんをいたぶる事か……!
「解った……協力するから! できるだけの事はする、だからあいつを止めて!」
 テレンツィオは止められない。明人は意地もプライドも捨てて、この場で唯一彼を止められるスカルビアに懇願するしかなかった。
「ふむ……彼はああ言っている。そこまでにしろ、テレンツィオ」
「……は」
 渋々、といった感じでテレンツィオが魔法を中断する。
 ――よかった……
 明人はほっと息をつく。……次の瞬間、
「代わりに君がやりたまえ、ブライヒレイター卿」
「!? 何を――――ぐぅっ!」
 抗議の声を上げようとし、足を払われ転倒する。そして口を戦靴の靴底で押さえられ、言葉を封じられる。
「言われた通り『テレンツィオを』止めたのだから少し黙っていたまえ。……ブライヒレイター卿、貴君が我が公国の騎士になるなら、このくらいはやってもらわねばな」
「…………」
 無言でスカルビアを睨んだティオンは、剣を構え、攻撃魔法陣を展開させた。信じられないが、本当に彼らを殺すつもりか。
「やめなさいティオン……気でも違ったのですか……!」
 リーデの静止にも、ティオンは答えない。
「おやめください騎士様! どうして私たちを……」
「助けて、お願い助けて」
「お願いします、我が子だけはどうか……!」
「裏切り者、地獄に落ちろ!」
「誰か! 誰か助けてください!」
 口々に声を上げる町の人たちの声にも、ティオンは眉一つ動かさない。
 何の考えも読み取れない、能面のような無表情が、僅かに唇を動かし――――
「やめてえええええええっ!」
 絶叫するリーデの目の前で、炎熱嵐ファイアストームが解き放たれる。人々の姿が、炎の中へ掻き消える。

 ――――あああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………!

 炎の中から聞こえる断末魔の悲鳴――――あまりの恐ろしさに明人は思わず耳を塞ぎ目を逸らしたが、スカルビアが強引にその瞼をこじ開けた。
「目を逸らさずによく見たまえ。これが君の選択の結果だ」
 否応無しに凝視させられる。両手足を丸めた胎児のような体勢で、元の顔が解らないほど焼け焦げた十人分の遺体がぷすぷすと煙を上げている、一欠片の正義も存在しない光景を。
「うっ……!」
 鼻孔を刺激する遺体の焦げた臭いに臓腑が逆転し、数分前に食べた焼肉を胃液ごとぶちまける。
「こんな、事って……」
 守りたかった人たちの、正視に堪えない悲惨すぎる死に、リーデの頬に雫が光る。
 涙――――絶体絶命の窮地に陥っても、鎧を剥ぎ取られても耐えた勇者が、落涙を堪えきれないほど悔しがっている。
 そんな彼女の前で、スカルビアは平然と言い放つ。
「安心したよ、ブライヒレイター卿。これで貴君も我が公国の騎士だ」
「……約束は守っていただけるのでしょうね」
「勿論だとも」
 ぎり、と奥歯が鳴った。武器も持たない人たちを生きたまま焼き殺しておきながら、それを仕事の契約を交わした程度に扱っている二人の姿に、明人の脳髄が沸騰する。
「どうして……こんな事をするんだよ……!? 何がしたいんだあんたたちは!?」
「全ては我が公国百年の平和と発展のためさ。王国の神威結晶を手に入れれば公国の魔力供給は一気に安定し、この王国の二の舞になることは防げる。我々は子々孫々まで公国民の平和と生活を守る義務があるのだからな。そのため、君にも期待しているよ」
「だから嫌だと言った僕へ見せしめに……そんな事しなくても、戦争をやめさえすればあんたたちの国にも売ってやるつもりだったのに……」
 涙混じりに訴える明人。
 しかしテレンツィオはそれに、「それは我々が蛮族の下風に立つという事だろう、ふざけるな」と吐き捨てた。
「まあそういう事だ……平和的な道を模索した君は何も間違ってはいないし、誰も責めはせんよ」
 ただ世界の残酷さを知らぬ、とスカルビア。
「神威結晶の代替となる技術など、今の時代誰もが欲しがるお菓子だ。それを作り出した国には相当な利益が生まれ、末長い繁栄が約束されるだろう。周辺国を飲み込み、大陸一の大国にのし上がる事も夢ではないかもしれない。……我々としては、それを指を加えて見ている理由はない。奪って自分の物にできるならそうしたい」
 そして、
「我々にはそれが出来るだけの力がある。この王国にはそれを撥ね退ける力がない。当然の帰結だよ。運命と言ってもいいか」
 ふざけるなと思った。そんな身勝手極まりない理由のために、こんな真似が許されてたまるか。
 ゴルトを破壊したスカルビアたち公国軍も、それを手引きし、リーデの大事な町を滅茶苦茶にしたティオンも許せない。はらわたが煮えるほど悔しいし、殺してやりたいほど憎い。
 ……なのに、身体は動かない。懐にはずっと拳銃を忍ばせてあったのに、それでスカルビアたちを撃つ事もできない。それをしようとした途端に銃を取り上げられ、さらに苛烈な見せしめがあると思うともう、恐ろしさに身体が震えるだけだ。
 彼らの行為が明人から抵抗の気力を奪った事は、認めるしかない。
 彼らの所業を止める力が明人にもこの町にもないと、認めるしかない。
 この侵略者たちに屈するしかないと――――認めるしかない。
「……解り……」
 明人が屈服の言葉を口にしかけた、その時――――

「そこまでよ、このケダモノども!」

 叫び声と共に、複数の炎弾が飛来する。それを咄嗟に魔法障壁で防いだスカルビアたちが目を向けると、道の向こう側に魔法戦士の一団が走ってくるのが見えた。
「フレイ、みんな……!」
「あなたたち……!」
 フレイたちリーデの騎士は、ここに来るまでの激戦を物語るように鎧は傷付き、刃は欠けて血だらけだった。なにより、ティオンとリーデを除けば八人いたはずの彼らは五人にその数を減らしていた。
「いないのに気が付いて、ずっと探していました……いまお助けします!」
「よせ。君たちも死なせたくはない。降伏しろ」
「黙りなさい、ブライヒレイターッ! リーデ様を裏切って傷付けた罪、死んで贖え!」
 ティオンに対し、剥き出しの殺意を向ける騎士たち。その中間に、すっとスカルビアが割って入った。
「ふはは。威勢のいい田舎騎士どもだ。……私独りでやる。誰も手を出すな。退屈な戦だったが、最後に少しは楽しませてもらおう」
「大将独りでお相手とは舐められたもんね。その首、叩っ切ってやるわ!」
 五対一の圧倒的不利な状況を自ら作ったスカルビアは、不敵に嗤って背中の巨大なグレイヴ――日本のなぎなたに似た長柄武器――を手に取り、それが会戦の合図となった。
 先手を打ったのは騎士たち。フレイが正面から、二人が左右から突進して肉薄し、三方向からの同時攻撃を仕掛ける。それに併せて残る二人が攻撃魔法を放ち、スカルビアを牽制し動きを止める。
「おらあ! くたばれーっ!」
 叫び、高々と跳躍したフレイが裂帛の気合と怒りを込めた戦斧の切り下ろしを放つ。左右からは大剣と戦槌を持った騎士の同時攻撃。攻撃魔法を防ぐ事に手一杯のスカルビアは動けず、三方からの攻撃を避けられない――――ように見える。
 ガンッ――――! 金属同士の激突する硬質な音が響き、「うあっ……!?」とフレイたち三人が体制を崩す。横から武器を弾かれ、あるいは受け止められて攻撃を防がれた。
 ――何だあれは……!?
 明人も瞠目する。三人の攻撃を防いだのは、スカルビアが身に着けている真っ黒で不気味な鎧、その背中と両肩から外れ、重力から解き放たれたようにふわりと浮遊した装甲版だ。それが意思を持っているかのように空中を泳ぎ、フレイたちの攻撃を防ぎ、あるいは弾き返したのだ。
 三枚の浮遊する装甲版――――つまり盾を従えて、スカルビアが余裕綽々に鼻を鳴らす。
「この程度か? ではこちらから行くぞ」
 その言葉を聞き届けたかのように、三枚の盾がふわふわとした動きから一転、弓から放たれた矢の如き速度でフレイたち三人に向かって飛ぶ。先端が鋭角的なエッジになり、攻撃にも使えるらしいそれを、まだ態勢を立て直しきれていなかった三人は辛うじて打ち返したが、その時にはスカルビアが動いていた。
 狙われたのは、大剣使いのクラウス騎士候。盾の影に隠れる形で繰り出された鋭い突きを辛うじて逸らしたが、スカルビアは組み合った大剣を巻き込むように引き、クラウスの側頭部に柄で一撃。そのまま身体を一回転させつつ、右手に短く持ち替えたグレイヴの刃で左腕へと切りつける。
「ぐああああああっ!」
 ぼとり、と断ち切られた左腕が石畳に落ち、クラウスが激痛に悲鳴を上げる。
「クラウス!」
「クラウス卿! ……てめえええええええっ!」
 リーデが悲痛な声を上げ、フレイたちが怒声と共に攻撃魔法陣を展開。四方から炎熱球ファイアボールの集中砲火を浴びせる。
 途端、盾が機敏な動きで射線に割り込み、炎の玉を受け止めた。一瞬驚きを顔に浮かべたフレイたちだが、すぐに次の魔法を放つ。魔力消費を半ば度外視しての連続攻撃は、しかし一つとしてスカルビアに届かない。三枚の盾はまるで吸い込まれるように攻撃魔法を的確に防いでいく。
「チッ……! リリア卿、やるわよ!」
「ええ!」
 埒が明かないと判断したか、フレイはメイス使いのリリアと共に再び切り込む。
 二つの超重武器による波状攻撃と、二方向から飛来する攻撃魔法。並みの魔法戦士なら百回殺されてもいい攻撃を、しかしスカルビアは盾で防ぎ、グレイヴでいなし、涼しい顔で防ぎきる。
 ――あの盾、まるで壊れる様子がない……!
 明人が驚愕したのはそこだ。一般的な盾は木材をベースに薄い鉄板で補強した程度の物で、攻撃を受ければ壊れる。百パーセント金属の盾は重すぎて扱えたものではないのだが、あれは空中に浮遊しているから持ち主には負担がない。しかも魔法戦士の鎧さえ打ち破る超重量武器の攻撃にも、攻撃魔法にもびくともしない。あれではスカルビアを含めた四人を相手にしているのと変わらないのではないか。
「フレイ、うしろぉっ!」
 リーデの叫び声。咄嗟に腰の動きで反転し、戦斧をかざして防御の体制を取ったフレイを後ろからブーメランのように飛来した盾が襲い、「ぐあっ!」と戦斧を弾き飛ばされたフレイが明人の目の前まで飛んできて倒れる。
「フレイ、大丈夫……!?」
「くっ、ちっくしょう……!」
 頭から血を流しつつも、何とか起き上がろうとするフレイ。だがそこへ響いた悲鳴に顔を上げると、グレイヴの巨大な刃に胴を鎧ごと貫かれたリリアの姿があった。
「ヴィンフリーデ……様……」
 口から大量の血を吐き出したリリアが崩れ落ち、「リリア……」とリーデが悲痛な顔で目を伏せる。
「ふん、他愛もない……」
 心底つまらない、という風にスカルビアはグレイヴを一振りし、刀身の血糊を払う。その顔には汗の一つもなく、呼吸の乱れもない。
 ――勝てない。
 明人も、多分リーデもそう確信する。スカルビアはあの不思議な盾も脅威だが、奴自身も相当に強い。騎士五人がかりで傷も付けられない。
「みんな、明人さんを連れて逃げなさい!」
 意を決したようにリーデが声を上げ、騎士たち、そしてティオンや公国兵にも動揺が走る。
「ですが! リーデ様を置いてなんていけません!」
「このままでは全滅します! 私の事は気にしないで早く! 明人さんだけは絶対に渡さないで!」
 どうして僕なんかを、と思った。リーデのほうがよほど助ける優先順位は高いはずだ。
 それを逡巡するいとまは与えられなかった。「ぐあっ!」「ぎゃああっ!」とまた悲鳴が響き、ヘルガローゼ騎士候とアイゼンガルド騎士候の二人がスカルビアのグレイヴに切り裂かれ、あるいは盾に頭部を叩き潰されて絶命する。動ける騎士が自分独りになり、フレイは「うううっ……」と目尻に涙を浮かべて唸る。
 それも一瞬だ。天地がひっくり返ったと思い、気が付くともうフレイに抱えられていた。
「待て! 逃げられると思うな!」
 リーデを目の敵にしていた、テレンツィオとかいう魔法戦士が進路上に割り込んでくる。体当たりで突破するつもりか速度を緩めないフレイにテレンツィオが大剣を構えたその時、横から炎熱球が飛来し、咄嗟にテレンツィオは魔法障壁で防ぐ。
 左腕を失いつつも炎熱球を放ち、明人とフレイの脱出を助けたのはクラウスだ。彼がスカルビアのグレイヴに喉を刺し貫かれるのを横目で見届け、注意が逸れたテレンツィオにフレイが渾身の当て身を食らわせる。頭一つも違う二人だが、魔法で筋力を強化する魔法戦士にとって体格は物差しにならない。受け損ねたテレンツィオが体勢を崩し、その隙にフレイは横を抜けた。
「待って……お願いフレイ、待って! リーデさんが……!」
「聞いてたでしょ、そのリーデ様のお言いつけよ! 畜生ッ……!」
 背中に抱えられた明人にフレイの顔は見えないが、きっと泣いていたのだろうと思う。
 ボルスも、ルカも、騎士のみんなも、リーデも、町さえも失った、哀れな敗者が二人。
 この世界で積み上げてきたものを全て奪われ、ただ一つ残った命だけを抱いて――――明人とフレイは、いまだ殺戮と略奪が切り広げられるゴルトから逃げ出した。



 命からがら逃げ出した明人とフレイ、そして丸ごと難民となったゴルトの住民たちは、着の身着のまま列を作り、領主町のエーレンブルクへと避難した。
 それは明人にとって二ヵ月半前にグロスター伯爵領から撤退した時よりも辛い旅路になった。難民たちは多くの傷病者を抱え、膝まで埋まる高さの雪に足を阻まれ、一日で到着できるはずのブライへは丸二日を要したのだ。
 その途上は悲惨の一言だった。難民たちは飢えから来る衰弱と寒さの中で、櫛の歯を欠くように倒れ、落伍していった。辿り着けなかった人の数は数えていないし、数えたくもない。
 ゴルトの騎士でただ独り生き残ったフレイは、難民たちの前では気丈に振舞い、そこらじゅうで頻発する難民同士の揉め事の仲裁などに奔走した。騎士として最後まで勤めを果たそうとする姿勢は見上げたものだが、誰も見ていない所で彼女は泣いていた。「あたしだけ生き残って何になるのよ……」と。
 人々を乗せた馬車や荷車は次々壊れて動かなくなり、歩く体力のない子供や老人といった弱い者から順に死んでいく。そんな地獄のような逃避行を経て辿り着いたエーレンブルクは、ゴルトよりは大きく、人も多そうな都市だった。多くの魔法戦士に守られ、城壁と魔法障壁も健在とあって、誰もがようやく終わる地獄に胸を撫で下ろした。
 だが、彼らを迎えたのは、無情に閉じられた城門と、槍を並べた兵士だった。大勢の難民を町中に入れる事を警戒したエーレンブルクの人々は、城門を開ける事を許さなかったのだ。
 同国民で同じ領民、事情が伝わっている事もあり、さすがに追い出されはしなかった。だが難民たちに与えられたのは、ほんの僅かな食料と、郊外に設営された難民キャンプでの、寒く惨めな生活だった。


「寒い……な……」
 冷気が容赦なく滲みこむ粗末な天幕の中、明人は一人膝を抱え、無為に時を過ごしていた。
 ゴルトを逃げ出してからの事は、正直記憶が曖昧だ。なんでこんな事にとか、帰りたいとか、どうしようもない事を考えながら自動的に足を動かしていたと思う。そんな状態でよく生きてここまで来られたものだと、我ながら不思議だった。
 ブライの手前数キロの地点で領主軍と合流し、温かい麦粥が配給され、やっと安全な所に来られたのだと実感して、泣きながらそれを食べた。そして棒と布で急遽設営された粗末な天幕の中、今までの疲れで死んだように眠った。
 起きたら、今までの事が全部夢だったらいいと思ったが、あの戦争も逃避行も全て現実だった。そしてその事に、酷く落胆した。
「おい、明人……いるか?」
「……エル」
 天幕の外から名を呼ばれ、明人は顔を上げた。
「こっちの天幕でケンカが始まってな……逃げてきたんだ。入れてくれねえか?」
「どうぞ、狭いけど」
 ゴルトで分かれたきりのエルが無事だった事は、ささやかな朗報だった。しかし彼の身の上の事を思うと、無事を喜ぶ気分にはなれなかった。
「ルカは……見つかったの?」
 恐る恐る訊ねた明人に、エルは沈痛な表情で首を振った。エルにとって残された最後の家族であるルカは、避難の途中ではぐれたきり見つからなかったのだ。
 この難民キャンプにいないという事は、逃げられないまま取り残されたという事なのだろう。
「お前のせいじゃねえだろ。……それに、連れてきたらきたで大して変わらねえよ、ここも」
 エルの言う通り、やっと辿り着いたエーレンブルクも、難民たちにとって安住の地とはならなかった。領主町と言っても懐事情が苦しいのは大して変わらない。食べ物を増やす魔法もない。食料が配給されたのは最初の一日だけ。日本のように豊かではないこの国では、家を失った人たちに生活を立て直すあてができるまで食糧が配給されるなど考えられない。ましてや仮設住宅が短期間で用意されるなど夢のような話だ。
 大多数の二等国民は生活を立て直すあてもないまま、町から持ち出す事ができた僅かな家財や着る服を、タマネギの皮を剥くように売り払って当座を凌ぐしかないが、それもすぐに限界が来る。
 その後の運命は悲惨だ。栄養失調で病気になって死ぬか、寒さで凍え死ぬかだ。運び出された遺体はキャンプの片隅に埋葬されるが、すぐに掘り起こされ着ていた服などを剥ぎ取られて転がっていた。やがて埋葬する気力もなくなったのか、裸の遺体がだんだんと小さな山を作りつつある。
 死んでなお尊厳を剥がされた遺体の仲間になりたくないのなら、思いつく限りの自衛策を取るしかない。ある者は物乞いに走り、またある者は他人の食料を奪おうとする。一番気が滅入ったのは父親らしい男がまだ年端も行かない娘を売春宿に連れて行くのを見た時だ。
 死に瀕し、追い詰められた人々は際限なく身勝手になり、エーレンブルクの治安も急速に悪化している。きっと明日にも、難民の追い出し運動が始まるのだろう。
 これが、戦争で全てを奪われるという事……
「は、ゴルトで難民おれたちを追い出せと叫んでた奴らは、自分が同じ立場に立たされてどんな気分でいる事やらな」
「……このままなら遠からず、エーレンブルクの住民も僕たちと同じ難民になるよ……遠からず、この王国の人みんなが」
「希望もクソもねえな……ところで、ずっと大事に抱えてるそりゃ何だ?」
 ふと、エルは明人が胸に抱いている金属ケースを見た。ゴルトでボルスから死の間際に託され、ずっと大事に抱えていた物だ。
 明人が鍵を外し、蓋を開けて見せると、中に入っていたのは緩衝材と、それに包まれた薄緑色の燐光を放つ金属の塊。そして魔法陣の刻まれたプレート。うお、とエルが小さく驚いた。
「ミスリルインゴットじゃねえか……そんな高価な物持ってたら、たちまち誰かに盗られるぞ」
「フレイもそう言ってたよ。『売ってお金にするなら早い方がいい』って。……親方は、これを僕に渡してどうする気だったんだろう……」
 それを聞けないままボルスは死んだが、数時間前に尋ねてきたフレイはこうも言っていた。
『それがあればよそに逃げる事もできるわ。どうするかはあんたの勝手だけど、死ぬんじゃないわよ……リーデ様を置いてまで、助けてやった命なんだからね』
 その言葉には、フレイの本音が込められていた。本当なら、無理と解っていてもリーデを助けて戦いたかったはずなのだ。それを曲げてまでリーデの言葉に従い、明人を助けてくれた事には感謝している。
 だが明人は、その言葉に甘えて逃げる事ができなかった。
「……エルはどうしたい? これを盗みたい? それともおこぼれが欲しい?」
「俺は……ルカを置いていけねえよ」
 そういう事だ。こんな状況でも、逃げたくない人もいる――――明人も、何度も逃げるしかないと思いつつ、踏み切れないでいた。
 ――また逃げるんだ。
 ――あのリーデって人も見捨てて、関係ないって言って、自分だけ逃げるんだ。
 またあの声が響く。明人をなじるあの声が――――妹の声が、ここから逃げるなと囁いてくる。
 明人の家から笑い声が絶えたのは三年前。その日、当時十四歳だった明人が帰宅すると、一つ下の妹である里羽が家の風呂場で手首を切り、自殺を図っていた。
 それを見た時、明人は驚くと共にとうとうこうなってしまったと思った。里羽が学校で苛めを受けていた事は、だいぶ前から知っていたのだ。
 最初に気が付いたのは小学六年の頃。その時から既に里羽は教科書をトイレに捨てられたり、机をゴミだらけにされるなどの苛めを受けていた。それは小学校を卒業して中学に上がっても終わらなかった。通っていた学校はエスカレーター式で、小学校の面々はそのまま引き継がれたのだ。
 次第に苛めは苛烈さを増し、いつしか里羽はトイレで無理やり撮影されたあられもない写真をばら撒くと脅され、累計で何十万という金を要求されていた。その事も明人は知っていたのだが――――何もしなかった。
 苛めのグループの中には、明人のクラスメイトの妹などもいて、下手に里羽を庇い立てすれば自分もまた苛めのターゲットにされかねなかった。当時から苛めについて書かれた書籍やテレビ番組を多く目にしていた明人にとって、それは耐え難い恐怖だった。
 だから明人は見てみぬ振りをし、気付いていない振りをした。金を取り立てにきた苛めグループにそ知らぬ顔でお茶とお菓子を出し、学校に行きたくないと訴えた里羽の手助けもせず――――その結果、絶望した里羽は苦しみしかない現世から逃げようと、自分の手首を切った。
 明人は本で読んだ知識を頼りに応急処置をし、救急車を呼んで、何とか命は助かった。だが、壊れた心はもう元には戻らなかった。
 それから家の空気は一変した。里羽は人が変わったように暴れ、叫び、物を壊し、自分と家族を傷つけるようになった。特に苛めを見てみぬ振りしていた明人への怒りは苛烈で、一度は刃物で切り付けられ数針縫うほどの怪我をし、父親はそんな里羽の面倒を見切れなくなったとある日突然家を出て行き、家庭は崩壊した。
 明人は自分独りの平和を守ろうとし、その結果全てを壊した。三年が過ぎた今でも里羽の心は癒えていない――――そんな状況で明人が突然いなくなったら、里羽と母はどうなるだろう。だからこそ居心地の悪い家でも早く帰りたかった。
 あの時――――一度でも明人が勇気を出して、里羽を助けるために戦っていたなら、何か変わっただろうか。里羽の心が壊れる事も、父が家を出ていく事もなく、家庭が壊れる事もなかっただろうか……何百回となく後悔し、臆病な自分を嫌悪した。
 そんな明人にとって、ヴィンフリーデ・エーレンフェルスという女性は憧れてやまない勇者だった。明人が持てなかった、人のために戦ってあげられる勇気を持つ彼女に惹かれ、自分のやり方で力になりたいと思った。
 今思えば、始めて会ったあの夜、一糸纏わぬ姿で盗賊と戦う彼女を見た時、もう明人は心を奪われていたのかもしれない。そのリーデが、大切な人が傷付けられている時に、自分だけ背を向けて逃げ出す事は、もう二度と嫌だった。

 ――――わああああああぁぁぁぁぁぁぁ…………!

「何だ!?」
 外から聞こえてきた、大勢の切迫した叫び声にはっと顔を上げる。
 途端、どっどっ! と連続して天幕に何かが突き刺さり、そこからメラメラと音を立てて天幕が燃え始めた。攻撃魔法――――違う、火矢だ。
「危ない、外に出ろ!」
 エルに手を引かれ、燃え始めた天幕から外に出る。
 再びいくつもの悲鳴と剣戟の音が辺りに響いていた。火矢を受けた天幕が燃え上がり、氷結地獄から焦熱地獄へと一変した難民キャンプの中、逃げ惑う難民たちを後ろから切りつけ、なけなしの金品を奪い取っていく武装した男たちの群れ。
「盗賊だ! 難民の金品を狙ってきやがった!」
「ただでさえ弱ってる難民から、なけなしの持ち物を奪うっていうのか……?」
「そういう奴らだ! 弱いところから奪う! 弱い奴らなんて、奪われるだけなんだよくそったれ!」
 激情と悲嘆に満ちた声で叫び、エルは明人の手を引いて逃げようとする。……が、明人は踏みとどまった。
「何やってんだ、早く逃げないと殺されるぞ!」
「……逃げないよ」
 怒りと憤りが振り切れたのか、不思議と頭が冷えていた。
 ――ここにまで……奪いに来るのかよ……!
 歯軋りと共に、明人は懐に手を入れる。冷たい鉄の感触が、確かにそこにあった。


 盗賊の襲来を鐘の音で知り、フレイは走りながら服を脱ぎ捨ててインナーに袖を通し、神速で鎧を着用して飛び出した。
 甘ったれた性格のひ弱な坊主が盗賊に襲われれば、確実に殺される。それが解っているだけにフレイは必死だった。
 ――リーデ様はあいつを生かすように命じたのよ……! ここで死んじゃったら、何のためにリーデ様を置き去りにしてきたのよ……!
「門を開けなさい! 打って出るわ!」
「なりません、騎士様……盗賊が町に入らないよう門を開けるなと、伯爵からの勅命が出ていまして……」
「はあ!? ここで戦わないで何のための騎士よ! ああもう!」
 門番と問答しても埒が明かないと判断し、フレイは城壁の階段を駆け上がる。上から飛び降りてしまえばいい。落下の衝撃は風系の魔法で相殺できる。
 ――お願い、無事でいて!
 いつもより長く感じる階段を駆け上がり、城壁の上から外の難民キャンプを見下ろして――――
「……ああ!?」
 驚きに目を見開く。
 そこにあったのは、炎上する難民キャンプと、難民を追い立てる盗賊団。一方的に繰り広げられる殺戮と略奪――――ではない。
「バリケードの構築急げ! 女子供を中に入れろ!」
「ここを通すな! 家族を守るんだ!」
「衛兵は横隊を組んで槍衾を作れ! 盗賊を近づけるな!」
 戦いが繰り広げられていた。壊れた天幕の木材を組み合わせて即席の障害物を作り、簡素な野戦築城によって盗賊の攻撃を防ぎつつ、僅かな衛兵が槍を並べ、あるいは難民の男たちが木材を振り回して盗賊を追い払う。その後ろで女子供が必死に雪を掘り返し、しもやけだらけの手で石を拾い集める。それを男たちが武器として投げつけ、小さい石も天幕の布を裂いて包み、ポーラと呼ばれる打撃武器を作っていく。
「投石を絶やすな! エル、何人か連れて左に回りこめ! 奴らが怯んだ隙に横から叩く!」
「おうよ、ぶっ殺してやる!」
 彼らの中心――――光り輝く旗を振り、難民たちを統率する一人の男は、間違いなく明人だ。彼の下に人々が集まり、各々が役目を与えられ、心身ともにボロボロだったはずの難民たちがあたかも統率された軍勢の如く戦い始めていた。
「来るぞ! バリケードで足が止まったところを、ぶん殴って叩きのめせっ!」
 盗賊団が集団で突撃しようとし、障害物に阻まれた刹那、明人の号令に従い難民たちが一斉に振り上げた木材を振り下ろす。鉄の兜もひしゃげるほどの打撃を受け、何人もの盗賊が雪の中に倒された。
 そこへ木材やポーラで武装した難民たちが切り込んでいく。明人の持つ妙な武器が破裂音を響かせ、エルがパチンコで石を発射し、一人また一人と盗賊が倒される。
「ひっ……退けっ、退けーっ!」
 弱りきった獲物からの容易い略奪と思っていたら予想だにしない反撃を食らい、面食らった盗賊団は生き残った仲間を集め、尻尾を巻いて逃げていく。

 ――――おおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉっ…………!

 数千の難民たちが上げる、鯨波の如き勝ち鬨が大気を震わせ、フレイは全身がぞくぞくと震えるのを感じた。
 それは久しく感じていなかった高揚感。弱りきった身体で略奪者を退けた彼らの姿は、今までいいように蹂躙されてきた王国民がずっと望んできた勝利の光景だ。
 気がついた時には、フレイも知らず戦斧を振り上げて叫んでいた。
 まだ希望を持っていいのかもしれないと思った。
 自分たちはまだ戦えるのだと――――信じていいのかもしれないと思った。


 盗賊が逃げ散り、難民たちから歓声が上がる中、明人はまだ生きている盗賊を見つけた。
「だ、旦那……たた、たす、助けて……」
 抵抗できない人から奪おうとしていながら、自分の窮地にはみっともなく命乞いをする盗賊。明人はその眉間にM36モドキの弾をぶち込んだ。
 引き金を引くのに迷いはもうない。この盗賊にも家族がいたのかもしれない。彼なりの事情も人生もあったはず。それを奪った事を胸に刻んで、明人はこの盗賊を殺した。
「……おかげで決心がついたよ……どうもありがとう」
 皮肉めいた礼を言い、明人は聖銀を形成して作った銀色の旗を地面に力いっぱい突き立てる。皆が自分に注目しているのを確認し、呼吸を整え口を開く。
「難民の人たち……そして兵隊のみんな。僕はみんなの力を借りたい」
 それは口にしたなら、もう後戻りできない宣言。皆にとっては、悪魔の囁きかもしれない。
 だとしても明人には、もうこの道しか選べないのだ。
「僕たちはこの通り、住んでた町を追われ、財産も何もかも奪われて、雪の中で死んでいこうとしてる。これは当然か? 力がないから……侵略を跳ね除けられなかったから、当然の報いと諦めるべきか?」
 僕は嫌だ! と明人は一際強く声を張る。
「僕は知っている。ここにいるみんなが、ただ日常を生きてきただけだって事を。そんなみんなを救うために、リーデさんが……ヴィンフリーデ卿がどれだけ心を砕いてきたかも知ってる! それを力がないからと、不当な侵略で奪われてたまるか!」
 そこで明人は手にした聖銀形成ミスリルクリエイトの魔法陣に魔力を通す。聖銀の旗が崩れ、一度インゴットに戻ったそれがいくつものパーツに分割され、組みあがり、形を成していく。
 この場の誰も見た事がない、槍のような形状の武器。剣も槍も弓矢も全て過去の遺物に追いやり、鎧を無用の長物とし、騎士も侍も肩書きだけの存在へと落とした、科学が生んだ武器の至高が、魔法の世界に現出した。
「これは銃――――魔法にも負けない僕の国の武器だ! これを作って、みんなで戦おう! 魔法で勝てないのなら、魔法に負けない武器で戦って、奪われた全部を取り返すんだ!」

 ――――わああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!

 一際高い歓声。難民たちも、城壁の上のフレイたちも等しく高揚し、周囲で燃える炎の如く闘志が燃え上がっていく。
 これだけ多くの人の支持があれば、伯爵も明人を無視できないだろう。銃の量産を働きかけ、ゴルトの武力奪還を実行させる事も可能なはずだ。
 ――自分が何をしたか解ってる?
 ――町を、財産を、家族を奪われた人たちに銃を渡して、これがあれば勝てるだなんて甘い事を言って、もう一度戦争をやれと唆したんだよ?
 それが戦争屋の所業である事くらい、最初から解っていた。
 ボルスからせっかく教えてもらった技術で殺人のための道具を作り、それの量産を働きかけ、戦争を主導する。後の世に鬼畜と評されるのは、明人のほうかもしれない。
 ――でも僕はもう決めた。戦争って最悪の手段に訴えてでもリーデさんを助け出して、ゴルトを取り返してみんなの生活基盤を立て直す。そのためには力が、銃が、必要なんだ。僕を戦争屋だと非難したい奴がいれば、どうぞ勝手にすればいい。
「もう奪わせないよ。これ以上、何も……!」



曙光の軍師と暁の勇者 四章