「 漆黒の戦神 」アナザー
- アクア・クリムゾン -「帝国の娘」- 編

 

 

予告編

 

 エーゲ海最大の島、クレタ島。

 

 島内第ニの都市であるハニア市内から東方に少し離れた地点に、ハニワ空港は位置している。
 観光客で賑わうその出発ロビーを、今、若い二人の男女が腕を組んで通り過ぎようとしていた。

 

 一人は地球連合軍の士官制服を着た、精悍な雰囲気を持つ背の高いアングロサクソン系の金髪の男性将校で、
もう一人は清楚な白のワンピースに身体を包んだ、二十歳前後の可憐な印象を与える、同じく金髪碧眼の女性である。

 

 連合軍の軍制に詳しいものが見れば、その青年士官が西欧方面軍に所属しており、その若い外観にも関わらず、
既に中佐の官位を持つ、選ばれた高級士官の一員である事を知ることができたであろう。

 

 観光地にそぐわない軍服姿の士官と清楚な美女との組合わせは、本来違和感を持って見られても仕方がないと
思われるに違いない物だったが、実際には周りの者達は皆、二人を微笑みを持って見つめていた。

 

 何故なら、二人組の一方である白いワンピースを着た女性が、満面の笑顔と親愛の仕草で青年士官にまとわりついては、
大きな声で楽しそうに語りかけているからである。

 

 どちらかと言えば慎みがないと言われてしまいそうなその仕草は、実際には、まだ少女といっても通りそうな
その無垢な笑顔とあいまって、絶妙な可愛いらしさを醸し出していた。

 

「あれは、クリムゾン家のアクアお譲様だな・・」

 

 空港職員の一人が仕事の片手間に、頼まれもしないのに、様子を見ていた若い男性の観光客に説明を買って出ている。
 その口調は少し楽しげなものであった。

 

 地球圏有数の企業連合体であるクリムゾン・グループ。

 

 ライバル企業であるネルガル重工を主要生産部門の各項目のシェアで凌駕し、地球に住む常識ある成人であれば
誰一人その名を知らぬ者はない、と言っても過言ではないほどの繁栄を、現時点でグループ各社は謳歌していた。
 無論、このクレタ島にもクリムゾン・グループの資本系列に繋がる傘下企業が複数進出を果たしている。

 

 そして、エーゲ海に存在しているクリムゾン家個人所有の島だけでなく、エーゲ海周辺諸島海域総てを統括可能な、
クリムゾングループが有償で供与している防衛関連施設群の存在は、この戦時下の時勢ではかなりの好意をもって
諸島の住民に迎えられていた。

 

 その意味において、クリムゾン家はエーゲ海で一、ニを争う程に評判の良い大富豪となっている。

 

「でも、クリムゾン家の一人娘って、なんか頭の中身に問題があるんじゃなかったか?
 確か、大事な自分のお披露目パーティーで出席者の食事にしびれ薬を混ぜたとかいう話しを聞いたんだが・・」

 

 言われた観光客は職員に言葉を返す。
 職員の方は苦笑して返事をする。

 

「確かに頭の方はけっこう問題ありという話しだな・・
 でも、地球でも指折りの大富豪の娘で見た目もあれだけ可愛いわけだぜ。
 買い物をした店の主人の話しとかを聞くと、ちょっと変だけど明るくていい娘だっていうし・・」

 

「男の方は財産目当ての玉の輿狙いって奴かい?」

 

「そうとも限らないんじゃないかな。
 何度か一緒にいるのを見たことあるけど、男の方も、いつもどうみても嬉しそうな顔してた気がするぜ」

 

「俺も声かけてみようかな?」

 

「命が惜しかったら止めておいた方がいいぞ・・
 今日は男がいるせいで傍にいない様だけれど、いつもはボディガードやらお目付け役の男やら山程連れてるんだから。
 変に声でもかけよう物なら、明日の朝にはスーダの港に浮かぶことになりかねんぞ・・」

 

 無責任な男たちの会話は、結局は寒々しい感触を残して終わった。

 

 彼らは自分達が生きる世界の役割分担というものを知っている。
 平凡で退屈な彼らの人生と、世界有数の大富豪であるクリムゾン家の令嬢の人生とが交わる可能性が有るなどと
考えるには、彼らは世の中の仕組みというものを知りすぎていた。

 

 そのような会話が自分達を見ていた男たちによって交わされている事に気付くことなく、
二人は出発ロビーを抜けて、軍関係以外立ち入りを許されない、屋外の管理区域へと向かって進んで行く。

 

 何時の間にか組まれていた腕は解かれており、更に、多分先程の男たちが見れば驚くだろう程に、
二人の間に流れる雰囲気は重苦しいものに変わっていた。

 

 そして、彼らの視線の先に続くエリアには、西欧方面軍所属のVTOLが既に推進機関部をアイドリングさせた
状態で待機している。

 

「もう腕は組んでもらえないのかな?」

 

 青年士官が少しおどけたような感じでアクアに問い掛ける。

 

「ええ、人目ももうありませんから無理をすることもないでしょう・・
 私がはしゃぐような気分でないことを貴方は知っているはずです。エドワード」

 

 名前で呼ばれた男、西欧方面軍司令部参謀本部作戦課付き中佐エドワード・ヴィンセントは残念そうに苦笑した。

 

「人のいる前でしか優しくしてもらえないとは、僕も哀れな存在というわけだ・・」

 

「そういう意味ではない事は充分解っているはずです。
 貴方は私を置いて、今から旅立っていってしまう。
 そして、二度と戻らない・・
 これで、どうして私が笑顔でいられるというのですか?」

 

 アクアは苦痛と題しても構わないであろう表情で、傍らの男性を詰問している。

 

「何故です?何故、昨日のうちに事情を話してくれなかったのですか?
 そうしたら私は・・」

 

「そうしたら、僕と一夜を共にしてくれたのに・・かい?
 それこそ、アクア、意味のない行動だと思うよ。
 次に訪れるだろう時間の悲しみを互いに増やすだけの結果に終わるさ・・」

 

「でも・・」

 

「それに僕はこう見えても、少しプライドが高くてね・・
 任務に失敗して、君のお爺様の不興を買って成功の見込みのない作戦の責任者の一人に
 任命されたなんてことは、君の前では言いたくなかったのさ」

 

「祖父の言葉に従わないわけにはいかないのですか?」

 

 彼女は僅かな望みを抱き言葉を口にしてみる。

 

「ロバート翁がそんな簡単な背信行為を許すはずがないことは、君自身がよく知っているはずだ・・
 もし、僕が彼の命令に従わないとしたら、僕自身は機密情報漏洩の罪で軍事法廷に立たされ、
 更に一週間と立たずに僕の一族の者が経営する英国の機械部品メーカーはクリムゾン・グループからの
 受注を総て打ち切られ、事実上倒産することになるだろう。
 契約の時点で、既に僕の命は彼に売約済みなのさ」

 

「そんなにクリムゾン・グループの支配者の地位が欲しかったの?」

 

 アクアは悲しそうに呟く。
 心の平衡が失われているのか口調が彼女らしくないものになっている。

 

「最初はそうだったのかもしれない・・でも・・」
 ”でも、途中からは多分、僕が本当に望んだことは君を妻とすることだったと思う・・”

 

 その言葉がエドワードの口から出ることは無かった。
 代わりに紡がれた言葉はしごく常識的なものだった。

 

「僕は必ずしもロバート翁に心酔し、世界に対する彼の関わり方を総て肯定していたわけじゃない。
 そして、クリムゾン・グループを手にすることだけを望んでいたつもりもない。
 踊らされる振りをしながら、最後には僕のやり方で物事をより良い方向に導けるかもしれないと思っていたよ。
 それでも結局は、僕よりもロバート翁の方が、大分したたかだったということなのだろうね・・」

 

 アクアにエドワードの言葉を疑う理由はなかった。
 彼が本当は一日も早くこの戦争が終結することを望んでいることをアクアは知っていた。

 

「とりあえず、総ては終わった。
 そして僕には後片付けが残っている」

 

 自らの悔恨を絶ち切るかのように、わざと軽さを感じさせる口調でエドワードは話題を変える。

 

「それでも、僕はせっかくだから、左腕に取り付いて無邪気な笑顔を見せてくれる、
 君の姿をもう少しだけ見ていたかった気もするんだけれどな・・」

 

「でも、それは作りものの笑顔なのよ」

 

「本当にそうかな?」

 

 笑顔でエドワードは言うが、瞳は真剣なままである。
 彼にとり、別れに際してアクアに伝えるべき事がまだ残されていた。

 

「君は僕のために、手づから料理を作ってくれる。
 それは、とても素晴らしい出来映えで、料理に込められた君の気持ちを感じ取ることが出来る。
 でも、君はそれを普通の女の子を演じるために覚えた、ただの擬態だと言う。」

 

「そう、料理なんて突き詰めれば、ただの技術に過ぎないわ」

 

「君は部屋に僕を招き入れ、僕一人を観客としたリサイタルを開いてくれる。
 ピアノの前に座り僕だけのために曲を奏でてくれる君の姿を見るのは、僕にとり大きな喜びだ。
 でも、それも君は単なる見せ掛けだという」

 

「私には本質的にはピアノの才能はないし、ピアノを弾くことに大した喜びを覚えるわけでもないわ。
 貴方をもてなすために使うことが出来る、私が持つ幾つかのつまらない技術の一つに、それも過ぎない・・」

 

 自らの手で自分を傷つけるかのようなアクアの言葉は、エドワードの心を苛立たせる。
 彼の思いに気付かないかのように、うなだれた様子で彼女は言葉を続けていく。

 

「エドワード、街の者たちが私のことをどのように噂しているのか知っている?
 『クリムゾン家の頭のいかれた一人娘』なのよ。本当に最高じゃなくて・・」

 

「でも、それは未だにクリムゾン一族の頭首の座への未練を捨てきれない、傍系の縁者たちを油断させ
 造反者を炙り出すための芝居だということは、演じている君自身が誰よりも承知しているはずだろう。
 そもそも前回のパーティ自体、ロバート翁公認の、彼に立てつく者達へ公衆の面前で恥を掻かせる為の
 見せしめみたいなものじゃないか・・
 事実、あの事件のおかげで君のお爺様は、追従と恫喝を組み合わせて、欧州の名家達の間を泳ぎ渡ることで、
 裏ではかなりの実益を蒙っているはずだ」

 

「前回の一件は、お爺様がまだ正式には、私をクリムゾン家の後継者と認めるつもりは無い事をも表しているのよ。
 そして、私はお爺様の前で有能で従順な後継者候補の孫娘役を演じるのに、もう疲れ切ってしまっている。
 貴方の前に立つ私も、世間の者達が見る私も、お爺様に見せる私も、総て偽者。本当の私などどこにもいない。
 結局、私はお爺様の手の中で踊る、ただの出来の悪い操り人形に過ぎないわ・・」

 

「君は自分をそうだと思い込んでいるだけだ」

 

「何故、そんなことを言うの?
 貴方にいったい私の何が解るというの?
 私が過ごして来た日々を知りもしないくせに・・」

 

 彼女には解らなかった。
 何故、彼が分かれ際になって、仲たがいの原因とも成りかねない話題を持ち出してきたのか。
 口を突いて出た言葉は、思わず詰問口調になっていた。

 

「今から20年程前、クリムゾンの一族内部で起きた出来事に関する噂は、僕も僅かだけだが聞き及んでいる。
 君のお母上であるアリシア・クリムゾン嬢は・・」

 

「私の生い立ちに関する話をすることは決して許さないと、
 いつか貴方にも伝えたはずよ。覚えていないの!」

 

 エドワードの言葉は、アクアにより手酷く遮られる。
 二人の間に流れる雰囲気は、既に険悪なものといっても構わない程になってしまっている。

 

「だからこそだ。
 君は僕に対して、最後まで心の奥の扉を開くことは無かった。
 そして僕のこれ程までの願いにも関わらず、僕らは残念ながら偽りの恋人通し以上の関係にはなれなかった」

 

 エドワードも強い口調で言葉を続ける。
 いつにない青年士官の姿に、自分が取り続けてきた頑なな態度が、実際には酷く彼の心を傷つけ続けていたことに
気付いたアクアは悲しみを新たにする。約束を破ったという理由で、彼を責めたい気持ちは既に失われていた。

 

「そう、僕達の間にもう少しの時間が与えられれば、
 僕は自分の手で君の凍てついた心を溶かすことが出来るつもりだった。
 だが、もう時間がない。このまま僕が去ればまた君は一人で心を閉じ込めてしまう。
 僕はそれだけは避けたいと願っている」

 

「人は、あまりにも我侭で、愚かしく、醜いわ。
 そして、互いに解り合うことなど決して出来ない・・」

 

 アクアは静かに言い放つ。口論はもう、したく無かったが偽りの思いを告げる事は出来ない。
 それは、彼女の人生という物に対する悲しい確信の言葉だった。

 

「人間の愚劣さに対する君の絶望が、限りなく深いことを僕は承知しているつもりだ。
 それでも僕は、君が本当はとても心優しく愛情に満ちた女性だということを知っているし、
 本来の君を取り戻すことで、希望に満ちた素晴らしい人生を必ず送れるはずだと強く信じている・・」

 

 少しの間逡巡を見せたエドワードは、それでも言葉を繋いでいく。
 結局、自らの想いを伝えずこの場を去ることは、どうしても耐え難く思われた。

 

「誰よりも君の事を想っている。
 そして、誰よりも君の幸せを願っている。
 僕が望んだ幸せな未来図には、必ず傍らに君がいた・・
 君と共に未来を探したかった・・」

 

 自らの想いを淡々と語り続ける男の横顔は寂しげだった。
 もう二度と会えない事を覚悟した、彼からアクアに向けての最期の告白である事は疑うべくもなかった・・

 

 VTOLのパイロットが時間が押しているので、早く搭乗するようにとエドワードを急き立てている。
 それを見たアクアは、首にかけたブローチを外し、そっとエドワードの右手に握らせた。

 

「母が大切にしていた形見の品の一つだそうです。
 私自身の代わりに、持って行ってください」

 

「ありがとう。君だと思って大切にさせてもらうよ。
 一緒に連れて行くさ、どこまでも・・」

 

 エドワードは今の彼に可能な、精一杯の笑顔を向ける。
 多分伝えるべきことは伝えたと思っている。最後に必要なのは、節度有る別れの場面だけだろう。

 

「さあ、もうそんな寂しげな顔をするのは止めなくては。
 君は、誰よりも美しく、誇り高い僕の真紅の薔薇。
 クリムゾン・グループの正統の後継者たる『帝国の娘』なのだから・・」

 

 アクアに向けて空軍式の敬礼を捧げたエドワードは、踵を返し足早にVTOLへと歩み去ろうとする。
 と、行程の半ばを過ぎたかと思われた次の瞬間には、振り返りアクアに向けて駆け寄って来る。

 

 隠し切れない感情に揺れた瞳でアクアの前に立つ。
 アクアの細い身体を強く抱きしめる。

 

 しなやかな首すじから続く頭をかき抱く。
 無理やりに唇を奪う。

 

 アクアの前で、常に由緒ある英国貴族としての振舞いを忘れることのなかった、エドワードの見せた突然の行動は、
彼女の意識を麻痺させてしまう。多分、それは彼自身にとっても予期しない行動だったに違いなかった。

 

 彼の意志により、僅かな間だけ時を止めた世界。
 唇を離したエドワードは、アクアの肩を掴み瞳を正面から見つめると、最後の願いを言葉にこめる。

 

「さようなら、アクア。
 君が誰よりも幸せになりますように・・」

 

 それは再会の約束のない別れの言葉だった。

 

 アクアの返事を待つこともなく、彼は駆け出していく。
 二度と振り返ることはなかった。

 

 士官制服姿のまま、身軽な動作でVTOLにエドワードが乗り込んだ事を確認すると、
先程より時間を気にしていたらしいパイロットは、すぐさま機を離陸動作へと移行させていく。
 気密性、気圧対策等が充分に採られている、要人移送を前提とした新鋭機内では、特に専用スーツの着用は
義務付けられていない。

 

 VTOLが巻き起こす、轟音と突風。
 それらが過ぎ去った後には、ただ静寂とアクアだけが残されていた・・。

 

 こうして、彼女の心にすぐには消せそうにもない幾つかの傷痕を残して、男は去っていった。

 

 彼を迎えに来た西欧方面軍のVTOLが、西独ラムシュタインに位置する空軍基地に向かう途中で、
たまたま今日に限り通常の経路を離れて侵攻してきた、木星蜥蜴の無人兵器と遭遇するために消息を絶つであろうこと
を彼女は知っている。このような事は戦時中では良く見られる不運な出来事の一つに過ぎない。

 

 エドワードの突然の戦死の知らせは、一族の大叔父であり、傍系の出自ながらも優れた資質を日々現していく彼に、
領地と家督とを継がせる事を何よりも心待ちにしている、老齢の現ウインザー公、ウィリアム・P・デビッド卿を
さぞかし落胆させることだろう。

 

 そして不幸なウインザー公は、意には添わないものの間違い無く自らの意志で、血縁だけは直系に近い
素行不良の青年を栄光ある歴史に包まれた一族の後継者として、指名し直すことになるのだ。
その青年が不祥事の揉み消しのために、クリムゾン家の縁者に多額の負債がある等ということは、
余命幾ばくもないに違いない哀れな老人には知らせる必要もないことだった・・

 

 そして、公的に死んだはずのエドワードは、実際には木星蜥蜴のチューリップ群と護衛艦隊とを率いる旗艦に
クリムゾンから派遣された監察官として乗り込み、事実上の司令官として木星蜥蜴を勝利に導くため
戦局を指導することになっていることを、ロバート直属の連絡将校からの今朝の緊急通達でアクアは知らされていた。

 

 それは、祖父ロバートから、先日のクルスク工業地帯の戦いにおいて、拠点防衛計画の立案を任されながら、
連合宇宙軍の「ナデシコ」と言う名を持つ戦艦の奇策により一敗地に塗れた、エドワードへと手渡された、
決して戻る事の出来ない片道切符なのだった。

 

 西欧方面軍の明日を担うはずの俊英の若手将校の幾人もが、実はクリムゾン・グループの傀儡として、
軍の機密情報を漏洩したり、軍の内実を踏まえた上でその裏を書く侵攻計画を立案するなど木星蜥蜴の
勝利の為に日々心血を注いでいる。
 それは、清廉な人格者として名を知られる管区司令官のグラシス中将自身が選抜し引き立てもしている
者達の間にさえ浸透を始めようとしていた。

 

 祖父ロバートはクリムゾン・グループの明日の支配者の座を餌に、多くの前途ある青年達を己との悪魔的な
契約へと引きずり込んでは破滅させていく。祖父にとり、彼女の身体は彼らの前に差し出される、
将来の妻としてグループの支配者の地位を約束する、高価な景品の一つに過ぎないことをアクアは理解していた。

 

 そして、彼女自身もロバートの命に従い、専任のスタッフチームと共に、木星蜥蜴の欧州侵攻計画を
統括する地球圏監督者の一員として、その責任の一端を担う立場にあるのである。
ロバートは、自らの孫娘を戦闘に関与させ手を汚させることに、暗い喜びを感じているかのようであった・・

 

 何と言う偽りと欺瞞とに世界は満ちていることだろう。

 

 今回の戦争の醜悪な舞台裏をどれだけの人間が知っているというのだ。
 戦いの中で家族を失った者達がこの事を知ればどのように感じるかということに、祖父ロバートは一瞬たりとも
思いを巡らせたことはあるのだろうか・・

 

 彼女の思いは先程永遠の別れを済ませた青年士官へと移っていく。

 

 エドワードが参加する次回の大規模な戦闘はピースランドで行われる事になるだろう。
 戦う相手は地球連合軍最強の戦艦「機動戦艦ナデシコ」、そして、最強の兵士「漆黒の戦神」テンカワ・アキト。

 

 彼は決して生きて戻ることはないだろう。
 一度でもミスを犯した者に対して、ロバートがとる仕打ちの苛烈さを彼女は誰よりも理解している。

 

 今回の戦闘の為に準備される多数のチューリップや戦艦群が、最終的には「ナデシコ」と「テンカワ・アキト」の
力量を見定める為の捨石で或ることは、ある意味、確定的な事実と言うべきだった。

 

 記録映像から判断される、テンカワ・アキトのまるで鬼神が乗り移っているかのような猛攻の前には、
数を揃えたとはいえ通常の艦隊戦力の運用で対抗しうるとは、彼女にはどうしても思えなかった。

 

 心の最深部までは触れることまでは許さなかったものの、確かに彼女の心の扉を叩くことが出来た
恋人と呼んでも構わなかったに違いない男性を、彼女は永久に失ってしまったようだった。

 

 「漆黒の戦神」テンカワ・アキトは、彼女にとりまさに死神の使いとでも言うべきものにしか思えなかった・・

 

 **

 

 空港を離れたアクアは、クリムゾン家所有の大型クルーザーが待つカステリの港へ向け自らの手で車を走らせていく。

 

 クリムゾン・インダストリ傘下の輸送用車両機器メーカーで、少数の富裕層向けに限定生産された真紅のオープンカーは、
彼女の荒れる心の内を反映するかのように、エンジン音の咆哮を響かせながら海岸線を疾走する。

 

 正しくそれは、環境に対する影響度により定められる巨額の税金を介してのみ実現可能な、選ばれた者たちのみに
許された高貴な愉しみとでも言うべきものだろう。

 

 いつしか右手には閑静な雰囲気を湛えるビーチリゾートの風景が広がっていた。
 自らの心を静めようとしたアクアは、一旦スポーツカーを停車させビーチの光景を眺めることにする。

 

 今次大戦で、この世界有数の景観を誇るエーゲ海周辺地域が戦果に巻き込まれていないことは、
天の配剤に伴う一つの奇跡であると一般には認識されていた。

 

 確かにクレタ島南方に落下したチューリップを経由して出現した、木星蜥蜴の無人兵器群が南下して
北アフリカ戦線に向かい、イオニア海に落下したチューリップ群が、結局、対岸のイタリア半島を
目指す結果となったことは、情報を一切持たないエーゲ海の住民達にとっては、
幸運な出来事として捕えられても仕方のない事かも知れなかった。

 

 だが、彼女は知っている。
 この事実が、祖父ロバート・クリムゾンの政治的パフォーマンスの一つであることを。

 

 地球圏を真に支配する極少数の者たちに対して、木星蜥蜴の侵攻計画をコントロールする程の影響力を
自らが木連上層部に持つことをアピールしているに過ぎないのだ。

 

 その意味において元来高級リゾート地であり、今大戦の戦禍の真空地帯であるこの地域に、
数多くの地球連合政府の要人の家族や関係者が暮らしていることは、決して偶然によるものなどではない。

 

 人の手で作り出された偽りの奇跡。
 まさしく、祖父ロバートは神の役割を自らの手で演出しているというべきだった。

 

 アクアの目には、波打ち際で戯れる若い恋人たちの姿が映っている。

 

 多分、自分よりは2−3才若いだけに違いないその恋人達の無邪気な振るまいは、残念ながら
彼女の心を静めるどころか、より狂おしい物へと変えていくばかりだった。

 

 彼らは何も知りはしない。
 戦争の真実も、この地に与えられた平和な光景の意味も、そして彼女の苦しみも・・

 

 無知であるが故に、無垢で幸せな者たち。
 世間の者たちが求める殆ど総ての物を手にしていながら、それでも救われることのない自分の心。

 

 人生の幸福とは一体何なのだろう・・
 アクアの呟きに答える者は誰もいない。

 

 夕陽に照らされ風に靡く金髪と、その美しくも寂しげな美貌とが作りだす彼女の横顔を見た者がいたとしたら、
その幻想的な美しさに間違い無く心を奪われたことだろう。

 

 結局、彼女は心の平穏を取り戻すことの出来ぬまま車へと戻り、孤独なドライブを続けた後にカステリへと到着した。

 

 港にはクリムゾン家の執事、警備隊長そして彼女の幼少からのお目付け役でもある一人の少壮の男チャールズ・
シンクレアが、使用人たちに瀟洒なクルーザーの出航準備をさせながら、慇懃な様子で彼女の到着を待ちうけていた。

 

「ご苦労様です、カール」

 

 アクアはこのお目付け役を、物心付いた時から何故かドイツ語読みで「カール」という名で呼んでいる。

 

「予定より少し遅かったので心配いたしました。
 VTOLは定刻通りに離陸したとの連絡を受けていたのですが・・」

 

「空港からここに戻る途中で、少し海を見ていたのです」

 

「そうですか」

 

 全く弾む気配すら見せない二人の会話は、いきなりそこで途切れた。
 アクアの後ろを守るかのような足取りで音もなく男は従っていく。

 

 二人がクルーザーに乗り込み、クリムゾン家専属の船員達がクルーザーを出航させてから暫くして、
ようやくアクアの唇は次の言葉を紡いだ。

 

「エドワードは行ってしまったわ・・」

 

「前途ある青年と思われたのですが残念です」

 

 昨日まで丁重に世話をしていた青年を一言で過去のものとして論評した、彼女のお目付け役の男、
カールの物言いは、彼女の傷口に塩を塗り込むかのようだった。

 

「カール、貴方という人は・・」

 

 言うより先に手が出ていた。
 激情のままに頬を叩いたアクアに対して、あくまで彼女の教育係をもって任じる男の物言いは静かだった。

 

「私はお嬢様の将来に関して責任を持つ者です。
 既に失われてしまった事柄に対して、感傷を持つ余裕などありません・・」

 

 この男がこういう言い方をした時には、もはや自分ではどうにも動かすことが出来ないことを、
幼い頃からアクアは理解している。彼女はため息をつきながら視線を海へと向けた。

 

 クルーザーはクレタ島北西に存在する小島、アンティキティラ島に向けて進路を取っている。

 

 島の沖合いで20世紀初頭に発見された奇妙な機械が火星先史文明に繋がるものであることを見抜いた
ロバート・クリムゾンが遺跡調査の名目で島ごと買い取って以来、十数年間に及んだ研究の打ちきり以降も、
事実上アクア一人のためのクリムゾン家の別荘として利用されている島である。

 

 特に先日の戦禍で、アクアがそれまで主に滞在していた南海のテニシアン島の施設が破壊されてからは、
彼女は専らここアンティキティラ島に居を構えていた。

 

 エーゲ海と地中海の狭間に存在するこの孤島は、ある意味では、アクアの嫌う人間社会の醜さから
彼女を遠ざけてくれる楽園であり、また逆にアクアを縛り付ける美しい牢獄といっても構わないものであった。

 

 神話世界の痕跡を色濃く残す土地柄ではあるが、迷宮から彼女を救い出してくれるはずの勇者は
未だに現れてくれてはいない。

 

 ”さしずめ、お爺様は迷宮の主のミノタウロスというところね・・”
 とり止めも無く思い付いたその考えは、逆にアクアを身震いさせる。

 

 孫娘の彼女から見てさえも、祖父ロバートは正しく怪物的な存在の人間と呼ぶのが正しい感覚に思えてしまう。
 成長して大人に近付く程に、祖父の恐ろしさと自分に掛けられた呪縛の強さに打ちひしがれる彼女だった。

 

 そして彼女は今日、自分を心から慕ってくれていた大切な男性の一人を永遠に失ってしまった・・

 

 船べりに身体を寄せ、表情の読み取れない顔で、アクアはただ眼前に広がる風景を見つめ続けている。
 海からの風が今日に限って酷く冷たく感じられた。

 

 カールがすぐ傍に立ち、自分に何かを差し出そうとしているのに、彼女が気付いたのは、暫くしてからだった。

 

「私のサングラスをお使い下さい」

 

 横を向いたアクアに対して、男は静かに告げる。

 

「・・?」
「お譲様がそのような顔をなされていては使用人達が心配します」

 

「そう、私は家の者達の前で悲しむことも許されないのですね・・」
「それも、高貴なる者の務めの一つと考えます」

 

「またいつもの『総てはお嬢様のためです』かしら。貴方って本当に嫌な人ね・・」
「恐縮です」

 

 傍らに立つ男を険しい表情で睨み付けながらも、結局、彼女は差し出されたサングラスをかける。

 

 与えられた職務に懸命に取り組んでいた使用人達の中で、サングラスと共に男がハンカチを差し出していた
ことに気付いた者は多分いなかったに違いなかった。

 

 そう、たかが別荘の使用人風情に、世界に並び無きクリムゾン・グループの正当な後継者である彼女が、
寂しそうな横顔などを見せるわけには確かにいかないのだ。

 

 まして、恋人を失って傷ついた心を抑えることが出来ずに、自分でも気付かぬ内に涙を流していたかも知れない、
という疑念を持たれる等ということは、冗談であるとしても決してあってはならないことだった・・

 

 いまや、夕陽は地中海にその姿を隠そうとしていた。

 

 夕陽自身も、暮れ行く空も、そして夕陽に照らされた海も、その総てが鮮やかなまでの赤一色に染まっていた。
 それは、まるで血の色であるかのような赤色だった。

 

 アクアはまだ、己の人生が避け難くテンカワ・アキトと出会い、深く傷つけ合い、そして、未来を目指して
共に伸びていく運命にあることに気付いていない。

 

 彼女の心の中に存在するテンカワ・アキトは、「機動戦艦ナデシコ」の名と共に、急激に危険度を増しつつある、
排除すべき侮り難い敵手としてのみ認識されている・・

 

 「漆黒の戦神」と「帝国の娘」が出会うまでには、人類は自らの愚かさをあがなうための贖罪の血を、
まだ暫くの間、流し続けなければいけないようであった。

 

 2196年3月、多くの者達の命と悲哀を飲み込みながら、苛烈さを増していく木星戦役に未だ終わりは見えない。

 

 自らの未来を垣間見たはずのアキトにとっても、それは例外ではないだろう。
 人は誰しも運命の前に無力な存在でしかない。

 

 アクアとアキトの心の中に生まれ、やがては地球圏に住む者総てを飲み込んでいくことになる
一つの物語が今、静かに始まろうとしていた・・

 

 

「 帝国の娘 - Doughter of the Empire - 予告編 -  」 了

 

 

<後書き>

 

この Action ホームページの隅っこにお邪魔することになってから約一月半・・
もしかして、はじめての後書きだったりします。
今日は、いつもの連載を置いておいて、なんだかとっても怪しげなお話しを書いてしまいました・・
なんと、史上初アクアお嬢様主演SS
(他の方が既に書いた作品がありましたらお許し下さい・・)

 

文章を読んで、「この女の人、一体誰??」とか、決して思ってはいけません!!(笑)
本当なら結構おいしそうな役どころなのに、なんでアクア様こんなにお馬鹿な娘なんでしょう・・
というのが元々のアイデアでした・・結局、勝手に設定を考えてしまいました・・

 

「 漆黒の戦神 」アナザー
 - アクア・クリムゾン - 帝国の娘 - 編
地球圏を代表する巨大財閥の後継者として生まれながらも、生い立ちの境遇と財閥内における立場の不安定さから、
心を深く閉ざして偽りの自分を演じ続けて来た少女が「漆黒の戦神」との出会いにより目覚め、
自らの価値観や存在の基盤を揺さぶられていく中で、最初は互いに傷つけ合いながらも、
やがて自らの願う本当の想いに気付き・・いつしかアキトと二人で・・世界を・・・

 

あら筋だけなら楽しそうで書いてみたい気もするのですが、少し考えただけでも展開が大変そうですので、
多分本編は難しいでしょうね・・(涙)
もし万が一リクエストがありましたら、こんな調子で続きを書いてしまうかもしれませんが、
この ACTION のページにはアクアお嬢さまのファンは少なそうですので、多分ここまでのような気も・・

 

 ”「漆黒の戦神」アナザー”という題名をお借りしましたことを、黒貴宝さんにお礼申し上げます。
出版される型のお話しでなくて申し訳ありません(爆)。もし、お話しが進めばどこかで、二人の関係は本ではなくて
謎めいた分厚い極秘の報告書の形で、地球連合の上層部に上がってくる予定だったのですが・・(笑)。
あと、お話しの展開上、親子の愛憎劇の方が簡単かなとか思ったのですが・・
やっぱり「時の流れに」の正史に準拠にしたいかな・・
ということで、アクアは結局ロバートの孫娘ということになりました・・
Benさん、BA−2さん、どうぞ宜しくお願い致します・・(爆)

 

(勝手に考えた設定では、アクアの母親(ロバートの娘)はアクアを生んですぐに亡くなっています。
父親は学者で存命なのですがアクアの母親の死後、クリムゾン家を放逐されてしまっています。
その意味で、アクアは両親の愛情を一切与えられずに育った可哀相な少女(爆)なのでした・・)

 

それでは、何とも変てこなアクアお嬢様応援小説でしたが、
もし、我慢して最後まで読んでくださった方がいらっしゃれば幸いです。
では、失礼いたします。

 

 

 

 

管理人の感想

 

 

しんくさんから投稿です!!

アクア嬢のSSです。

彼女の隠された一面が書かれています。

う〜ん、良いなこのアクア(笑)

ここまで深い思慮の持ち主だったとは、製作者でも思うまい(爆)

今後の展開が実に気になりますね!!

 

それでは、しんくさん投稿有難うございました!!

 

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