機動戦艦ナデシコ

劇場版 続編 「 約束 」



   第五話


 ”願いは言葉にしない限り、決して伝わりはしない……”

 ナデシコCの艦長個室で就寝前の一時を過ごすルリは、間違い無く、結構ご機嫌斜めで、おまけに、ちょっとだけ投げやりな気分……とでも呼ぶべき状態だった。

 ”そして、私はずっと……自分からは、どうしても言い出すことが出来なかった……”

 自分の両腕を枕にして机に上半身をうつぶせにした状態で、半分夢の国へと旅立ちかけている ルリの前には、机上のライトに照らされ輝きを放つ、精妙な造形美を持つグラスが置かれていて、琥珀色の液体の中に大きな氷の塊が一つ浮かんでいる。

 ”だから、これは私が受けるべき当然の報い……ということ……?”

 そして、グラスの横には2196年という鋳造年号が描かれた一枚のピースランド銀貨が貨幣の価値を 表現する数字を見せた状態で転がっていた。現ピースランド女王であるルリの母親の肖像が表面に彫られて いる事を思うと、銀貨はルリに対して裏面を向けている事になる。

 これが、ルリが最後の賭けと思って願いを込めて行ったコイン投げの結末だった。

 ナデシコCは三日後の昼に月面に向け出航する。出航前日の夜はユリカに約束した通り、アキトとユリカの 暮らすミスマル邸に出かける約束にしているので、普通に寄港時の業務をこなしている内に今日がもう深夜に なってしまっている事を思うと、トウキョウで自由に過ごせる夜は実は明日しかない。

 ルリは、夕方近くにナデシコCに戻って以来、アキトに対して明日二人だけで会いたいという旨の内容を 伝える個人宛て伝言メッセージを発信するべきかどうか悩み続けて、結局心を決めることが出来なかった。

 確かに、ユリカとの事を考えれば、明日アキトを呼び出して一日を二人で過ごし、翌日そしらぬ顔で、ユリカとアキトと食事を共にするなどという離れ業が、自分にできるはずが無い事はルリにも 十分過ぎるくらい判っている。

 ただ、そう思う事と、自らの願う事とが別の物になってしまうのも、また仕方が無いことに違いなかった。

 考えあぐねたルリは、表が出れば自らの想いのままにアキトに連絡を取ろうと思い、コイン投げに願いを 託したのだが残念ながら結果は見ての通りで、ルリの無け無しの勇気は四散してしまったのだった。

 心のもって行き場を無くしてしまった彼女の事を思えば、通常は艦長という立場上一応自粛していた アルコールへと、ルリの手が久々に伸びてしまった事を不謹慎であるとして非難するのは可哀相だろう。

 実際問題として、彼女にとり多少の飲酒位どうということはない。ずっと大人ばかりの環境で過ごして来たルリは、何につけ早熟な少女なのである。それでも、さしてグラスを重ねない内から夢うつつとなって いる辺り年相応な所が発見出来てしまうのも、結構ありがちに思えて可愛げがあると言うべき物だったりする。

 ”でも、他にどんな行動を取れたというのだろう……”

 酩酊のもたらすまどろみの中で、ルリは自分に問いかけている。

 ”何故、自分は二人の再会の場面に立ち会ってしまったのだろう。
 あの時の、ユリカさんとアキトさんの姿さえ見なければ、私は、きっと……”

 ”きっと、アキトさんに自分の気持ちを伝えれたはずだったのに……”

 それはこの数ヶ月間、自らの心を責め立てて止まないルリの悔恨だった。
 そして半ば以上無意識のうちに、彼女の思いは幾度と無く繰り返されたあの日の回想シーンへと向けられていく。

 **

「火星の後継者」争乱の終結後暫くして後、アキトはルリに対してコンタクトを取って来た。

 ユリカに会いたいという主旨のみを伝えたその短いメッセージは、二年以上に及んだ復讐の日々に 最終的に終止符を打ち、新たな人生に向け歩き始めようとする、アキトの意志を表わす物だった。

 アキトの行動を待ち続けていたルリは、連絡を受けてすぐ行動を起こし、三日後にはミスマル・コウイチロウの 正式な書類を取り付け、極東方面軍基地内に位置する軍病院内へと、誰憚ることのない状態でアキトを伴い現れている。

 アキトとユリカが再会しさえすれば、長かった悪夢の時間は総て終わり、そしてその後には、自分がずっと 望んでいた、心のままに生きていける新しい日々が来るはずだという思いが、彼女の行動を支えていた。

 ”他人より自分の気持ちに気付くのが遅かったという理由で、
 人を想うことが許されなくなってしまう等ということは絶対にない……”

 それは、アキトへの想いを自覚したルリの、自分自身に対する確信の言葉だった。

 穏やかな日常の生活が戻ってきたならば、今度こそ自分の気持ちを偽る事無く、アキトに対する自分の想いを ユリカにもはっきりと伝えて、正々堂々とアキトの心を自分へと振り向かせて見せようと、ルリは固く決意していた。

 ユリカの元へと自らの手でアキトを連れ帰る事で、負い目を感じる事無く、同じくアキトを望む者として これからはライバルとしての立場に立つことが出来るようになるはずだと強く信じていた。

 そして、アキトとユリカは再会を果たした。

 しかし、自らも待ち望んでいたはずの二人の再会の時間は、実際には、ルリが心に思い描いていたような 充足感と明日への希望に満ちた感情を彼女に与えてはくれなかった。

 互いの名前を優しく呼び合って、最初はゆっくりとそして徐々に強く互いを抱き締め合っていく二人の姿を傍らで見つめながら、自分でも当然の事として事前に納得していたはずの光景であるにも関わらず、ルリは独り 自分の足元が崩れていくかのような感覚に心を奪われていた。

 柔らかな陽射しが差し込む病室内で、彼女が感じていたものは耐え難いまでの肌寒さだった。
 それが、二人の再会の情景を目の当たりにした自分の心に、突如生まれた圧倒的な喪失感と疎外感を原因としている事は考えるまでも無かった。

 何故この部屋の中に今自分がいるのか、ルリには突然全く判らなくなっていた。
 二人を引き合わせた事で、自分は既に用済みの存在になってしまったようにさえ感じられていた。

 アキトとユリカとを包みこむ暖かい雰囲気と、穏やかな時間の流れを感じながら、ルリは震えを止めることの出来ない手を懸命に動かして、音を立てないよう細心の注意を払いながら病室のドアを開け部屋を出ていく。

 乱れ切ってしまった心を押さえきれず、最後に一度だけアキトへと視線を向けたが、彼女の瞳は ユリカを抱きしめながら耳元に優しく囁きかける、アキトの姿を再び捕らえただけだった。

 アキトの意識の中に今、自分の姿は多分映っていないのだろう。
 それとも、これまで復讐人としての日々を過ごしてきたアキトの事だから、去り行く自分の事に気付いていて、それでも注意を向ける必要を感じなかったということなのだろうか……

 そのどちらが正解だったとしても、それはやっぱり自分にとっては酷く哀しいことに違いないと、瞳を閉じて背中をあずける形で病室のドアを閉めながらルリは思った。

 あの夏の日、アキトとの再会を果たした夜に感じた至上の幸福感と、アキトへの想いに対する強い確信は、今では、自らの願いのままに心の中に創り上げてしまった、現実の姿を持たない儚い蜃気楼か何かのように不確かな物として感じられていた。

 アキトの心をいつか必ず自分に振り向けられると思えたのは、単なる傲慢だったのだろうか。
 あの夜アキトが自分を抱いてくれたのは、同情心からではないと言い切れるのだろうか……

 仮にもし、願いが果たされたとしても、ユリカからアキトを奪った罪悪感に自分は耐えられるのだろうか。
 そしてユリカは、アキトの存在を自分のせいで無くしてしまったとしたら、果たして心の平衡を失わずに、日々を生きていくことが出来るのだろうか……

 総ての問いかけに対して、ルリは答えを見出す事が出来ない。

 アキトを求めて差し伸べられた、病み疲れたユリカのか細い手の動きが、どうしても脳裏を離れない。
 ユリカを抱きしめて、目を閉じて優しく言葉を紡ぐアキトの声が今も残響となって耳に残る。

 どのように言葉で取り繕おうとも、その二人の姿を踏みにじらなけらば決して手に入らない自分の願いが、本当に正当な物であるのか、ルリにはもう判らなくなっていた。

 彼女にとり、帰って来たはずの穏やかな日常の中で、自分の想いはとても無力な物に感じられた……

 **

 ブリッジで当直中のサブロウタが、ルリにコミュニケで通信を求めて来たのは、ちょうど、このような感じの回想にルリが心を委ねていた時の事だった。

「艦長、夜分お休みのところ大変申し訳ありません」

 ルリの前に出現したウィンドウ中のサブロウタは、実際恐縮しているようだった。
 サブロウタの言葉を受け頭をもたげたルリは、現実の世界へと意識を回帰させていく。

「いえ構いません、どうしたのですかサブロウタさん?」

 自らを取り戻したルリは、酩酊状態の女の子としては、しごくまともな応答を返していた。
 なにしろ、サブロウタがとりあえずルリの様子に気付かずに次の言葉を続けた位だったのだから。

「艦の管理システム関係で意味の判らない警告メッセージが何か大量に出てしまっていて……
 大した物では無さそうですので、放っておいても大丈夫そうには見えるんですが、 
 多分、艦長なら見ればすぐわかると思いましたので……」

 サブロウタの言葉は、トラブルとも呼べないほんのちょっとした異変を、ルリに知らせるものだった。

「そうですね。データ自体を回して頂いても、多分操作はそちらでしないと駄目でしょう。
 判りました。私が今からブリッジの方に伺います」

「お手数をおかけします」

「いいですよ、サブロウタさん」

 ルリはすぐさま返事を返すが、それから少し思案して言葉を続ける。

「そう言えば、今、ブリッジってサブロウタさんだけですか?」

「みんな上陸してて、さっきハーリーも寝ちまいましたから俺独りです」

「それなら、大丈夫ですね」

 勝手に納得したような顔でルリは通信を切ってしまう。
 サブロウタの方は訳が判らないが、とりあえず待っていればブリッジにルリが来るに違いないと思い、シートをリクライニングさせて、のんびり待つことにする。

 と思った次の瞬間には、ブリッジの扉が開かれる。
 どうしたのかと思って、そちらを見たサブロウタが目にしたものは、パジャマ姿にカーディガンを羽織って 部屋用のスリッパを履いて登場したルリの姿だった。

「か、艦長……?」

 サブロウタがルリに問い掛けるがルリは気にしない。

「どうせブリッジにはサブロウタさんしかいない事ですし、着替えないでそのまま来てしまいました。
 警告メッセージってどのような物ですか?」

 確かに一応仕事をする気でブリッジにやって来たようではある。

「これなんですけれど」

「ああ、いいですよこんなもの。
 はい、もうこれで出ないなずです……」

 ルリが、手早く幾つかの処理を行うと、確かに煩い程多量に出ていた警告メッセージ群は跡形も無く 消滅してしまい、もはや出てくる気配すら無くなったようだった。

「すいませんでした、艦長。
 ……って、もしかして酒飲んでたりします?」

 ルリに向け感謝の言葉を言いかけたサブロウタではあるが、端末を操作していた彼女の横顔が妙に赤いことに 気付いて余分な言葉を付け加えてしまう。

「飲んでますよ。いけませんか?
 でも、私がお酒を飲んでいるのは、サブロウタさんのせいでもあるんですからね」

 ルリは悪びれもせず宣言する。

 続いて出てきた台詞は勿論、今日自分の外出中に艦の全般的な管理を頼んでおいたはずのサブロウタが、勝手にオペレーターであるハーリーに更に仕事を押し付けて、ルリに無断で上陸して半日行方不明になった挙句に、顔を酷く腫らして帰ってきた一件について言及している。

 サブロウタは外見上は酷く軽い性格に見られがちだが、実際には生真面目で人の頼みごとなどを無視するような人物ではない。何か特別な事情があったに違いないと確信したルリは任務を無断放棄した サブロウタを叱責するというよりは、単に心配して事情を尋ねたのだが、サブロウタは、結局一言も理由を 言ってくれなかったのである。

 こうしてサブロウタの今夜の当直が急遽決定されたのではあるが、ルリが拗ねているのは、サブロウタが任務をさぼった事ではなく、自分に事情を話してくれなかった事による物である事は言うまでも無い。

 ナデシコCでの日常では、まだまだ頼りにならないハーリーが、ルリのぼやきの対象となることが多いのであるが、今日は珍しく昼間の一件のご褒美として、先程艦長室でグラスに向かっていた時に、ルリが心の中で不機嫌さを ぶつける相手役として、サブロウタも目出たく登場を果たしていたのだった。

「サブロウタさんは、私の味方だと思ってたのに……」

 サブロウタを苛める言葉を付け加えるのも、ルリは勿論忘れない。

「俺はいつでも艦長の味方ですよ」

「でも、今日の事は内緒なんですよね」

 どうやら昼間のことを結構根に持っているようである。

 サブロウタが言いたがらない所からして、どうせ何かのトラブル、それも多分自分は名前すら知らない女の子絡みのいざこざに首を突っ込んでいるに違いないのだろうと、ルリは勝手に見当をつけていた。

「いや、でもそれは……」

 ”どうして男の人たちは誰も彼も、人の知らない所で危険な事ばっかり……”

 先程お酒を飲んでいた時に出てきた文句が、口を突いて出そうになってしまう。

「言い難い事情があるのでしょうから、気にしなくても良いですよ、サブロウタさん。
 近頃なんか辛いことばっかりですし、今更、がっかりする事が一つや二つ増えた所で一緒です」

 何とか別の言葉に代えたものの、結局は、恨みがましい口調の台詞がくっ付いていた。

「どうせ私は、過去の思い出に縋って毎日を生きてるだけの、幸せ薄い哀しい女なんですから……」

 気が付けば、大きな溜息と共に、更にもう一つおまけのぼやきが追加されている。

 お酒が入って愚痴の一つも言いたくなっていた所に、ちょうど自分の事情を知るサブロウタが苛めて下さいとでも言うような感じで目の前にいたりするのだから、一つ位は何か呟いてみたく なってしまうのは、ルリならずとも当然のことだろう。

 それでも、多少げんなりした表情でぼやいているルリの様子は、本人にして見れば酷く大真面目な本当の気持ちの 表現のつもりではあるのだろうが、赤い顔をしたパジャマ姿の16才の女の子が言う言葉としては、連発されている意味深な台詞が事実だったとしても、妙に違和感があって殊更可愛らしい感じの物になってしまっていた。

「あの、もしもし艦長、帰ってきて貰えますか。
 どうも完全に酔っ払いなんですね」

 横で聞いているサブロウタも苦笑している。

 本当は彼の立場としては、今日出かけて来たのも殴られて帰って来たのも総てルリの為だったのだから、このようにルリに責められるいわれは全く無いはずなのではある。しかし、そこは気のいい木連男子のサブロウタのことであるから、どうやってこの酔っ払いの少女のご機嫌を直すかの方に意識は向かって いるようだった。

「そうですよね。大体、私がお酒を飲もうとどんな格好で歩き回ろうと、誰も気になんかしませんよ……」

 ルリの言葉は逆に結構複雑な物である。年頃の女の子がパジャマ姿でせっかく目の前に登場してあげたのに帰って来た言葉が「酔っ払いですか?」では立つ瀬がない。表情も少しだけ拗ねた感じになっている。

「艦長、そんなに悲観しなくても、すぐにいいことありますって!」

 ルリの心境に気付いているのかいないのか、サブロウタは笑顔でルリに言葉を向ける。

「サブロウタさん、人事だと思ってません?」

「いえいえ、全然本気です」

「じゃあ、何も良いことが起きなかったら、
 私に何かしてくれますか?」

 ルリは酔っ払いの本領を発揮してサブロウタに難癖を付けてみたりする。
 しかし、それに応えたサブロウタの返答は意表を突いたものだった。

「では、今度のナデシコCの出航の日までに艦長に何も良いことが起きなかったら、
 俺が艦長の恋人に立候補するというのはどうです?」

「……サブロウタさん本気ですか?」

 いきなりのサブロウタの提案に、ルリは逆に面食らってしまう。

「さあ、どうでしょう……
 俺としては、結構自信のある賭けなのですけどね」

 顔をまじまじと覗き込んでみるのだが、少し楽しそうなサブロウタの表情は冗談なのか 本気なのかルリには区別がつかなかった。

「さて、艦長ももう部屋に帰った方がいいですよ。
 殆どの者が上陸しているとはいっても、艦に残っている者もいますし、
 それこそ、こんな光景を誰かに見られたら、明日には艦中困った噂で一杯になっちまいますよ」

 そう言い切ると、ルリの両肩を掴んでブリッジの出口と押し出して行く。

 ブリッジからでる時にルリが振り向くと、サブロウタは「大丈夫、すぐに良いことありますよ」と 再度念を押すと席に向かって歩き出していく。

 部屋に戻る艦内の廊下を歩きながら、ルリは先程まで部屋でグラスに向かっていた時に較べると、少しだけ気分が軽くなっている自分を感じていた。

 こうして、何故かいつもと少し違う雰囲気のうちに、ルリのトウキョウ・シティへの寄港一日目は 終わったのだった……



 「 約束 」 第五話 了
 

 

 

代理人の感想

 

恋死なん 後の煙に それと知れ ついに明かさぬ 中のおもひを

 

『葉隠』の「恋の至極は忍ぶ恋と見立て申し候」という例の一節に引用されている歌ですが・・・・

恋と言うのはもつれにもつれまくった挙句大団円を迎えるか、

あるいは本当に一生胸に仕舞っておくかの両極端が話としては美しいように思えます。

と、まぁ、あくまでこれは理想論ですが。

 

それはともかくリョーコはどうしたサブロウタ。

引っ掛けるだけ引っ掛けてあっさりポイか?(爆死)