機動戦艦ナデシコ

劇場版 続編 「 約束 」



   第七話


 春の陽射しは海面へと降り注いでは反射され、移ろいゆく僅かな時間の間、幾つもの微かな煌きを放ち、澄み切った空には伸びやかに鴎たちが舞う。
 海から吹き寄せる風は暖かく、潮の臭いを感じさせる。

 東京湾全域を埋め立てて建設された、新都心である臨海都市トウキョウ・シティ。
 その南端に位置する埠頭の観光用に整備されたエリアの一画に佇み、ルリは穏やかな海を見つめ続けることで、自ら定めた上陸時間の一時を過ごしていた。

 そう、ルリは結局アキトに連絡を付けることは出来なかった。
 そして今、幸せそうなカップルや家族連れの笑い声がさざめく、埠頭の臨海公園で独り、春の海を眺めている。

 何故、外出先として海の見える場所を選んだのか、自分でも良くは判らない。
 ただ、明後日ナデシコCで地球を離れれば、もうこのような風景を見ることは当分出来ない事は確かだろうし、貴重な外出時間を使ってこの場所に来たことに関しても、特に後悔は覚えなかった。

 今見ている風景は、充分心に残すだけの価値がある物として感じられていた。
 海の持つ命の営みを育む場所というイメージを、多分、自分は気に入っているからに違いないとルリは思う。

 志願したはずの太陽系外縁部への長い旅路。

 辺境の宙域では、太陽さえ小さな光点へと姿を変え、人が望む明るさや暖かさとは無縁の、凍て付いた光景の中に、無機質な任務の繰り返される寂寥とした日々が待っているに違いなかった。

 その日々に自分は耐えられるのだろうか。
 何のために、自分は望んでそのような場所に行かなくてはいけないのか。

 この光溢れる世界に背を向け、自らが求める優しさと願いに別れを告げて……

 ”行きたくなんか……無い……”

 一人きりの時、心は正直だ。
 自分の願いも気持ちも充分過ぎるほど判っている。

 ただ、それを口には出来ない。
 
 時間は少しづつ流れていったが、ルリは海を臨むベンチに座ったまま、ただ風景に魅入っていた。
 夕暮れと共に、明るさと暖かさが自分の周りから、徐々に失われていくのが感じとれるのが、何故かとても悲しかった。
 
 太陽が完全に沈み、暗闇が辺りを包むようになっても、ルリはまだこの場所を立ち去る勇気を持てずにいた。

 まるで彼女の心そのものであるかのように、頑なに閉ざされたルリの独りきりの時間。
 それを破ったのは、突然後ろから聞こえて来た一人の男性の声だった。

「こんな所で一人で、どうしたの、ルリちゃん?」

 聞き違えるはずのない懐かしい声に、驚いてルリは後ろを振り向く。
 そこには、彼女が予想した通りアキトの姿があった。

「アキトさん、どうしてここに……」

 驚きを隠せないルリの問い掛けに対し、アキトは少し照れたように応えを返す。

「実はね、オモイカネに教えてもらったんだ……」

「でも、アキトさんオモイカネって言っても……」

「そう、俺は勿論、今はアクセスできないからね。
 今日の昼間に、イネスさんの研究室に寄った時に頼んでオモイカネに繋げて貰って、
 夜にルリちゃんに会えるように、居場所を教えて貰えるようお願いしておいたんだ……」

「こんな所まで、私に会うために……ですか?」

「実は、明日まで、待ち切れなくってね……」

 鼻の頭を掻きながら、明後日の方を向いてアキトは答える。

「せっかく、会いに来たんだからさ。
 ディナーと、その後の一時をご一緒して欲しいんだけど。
 どうですか、宇宙軍の天才美少女艦長さん?」

 いつもとは少し違った口調でそう言いながら、アキトはルリの腕を取って立ちあがらせていく。

「そうですね、そういう事でしたら喜んで」

 どのような形にせよ、アキトが自分を探して会いに来てくれたという事実は、ルリの心の中に 小さな喜びの炎を灯さずにはいられなかった。

 アキトの笑顔を前にして、断わりの言葉を言うこと等、出来るはずもない。
 軽く微笑みながら、ルリは答えた。

 ルリの答えを聞いたアキトは、さり気無くルリの背に手を回すと、自分で運転して来たに違いない 真紅の2シータのオープンカーへとルリを誘う。

「この車、アキトさんが選んだんですか?」
「やっぱり、判っちゃうか。実は、アカツキからの貰い物なんだ」

「はい、何かアキトさんらしくない、ちょっと派手な感じでしたから」

 乗り込んだオープンカーの助手席で、不思議そうに呟いたルリの問いかけに、アキトは運転用のものに違いない 眼鏡を取り出しながら言葉を返していく。

「まだ、視力は駄目なんですか……」

 助手席から見つめるアキトの横顔が、身に付けた眼鏡のせいで、自分の知らない雰囲気を湛えた感じのものに なっていることに、少しだけ不安を感じながらルリは言葉を続けていく。

「いや、そんなことは無いさ。この眼鏡は半分用心のためかな。
 今はもう何もしなくても、ルリちゃんの可愛い顔をちゃんと見れるよ」

「お願いですから、これからはもう危険な事は絶対しないで、
 健康にだけは注意して、身体を大切にして下さいね」

 ”私はもう、アキトさんの傍にはいられないのですから……”

「なんか、ルリちゃんそれ、会ったばかりなのに
 もう別れの挨拶みたいだよ」

「すいません、私……」

 苦笑しながら言ったアキトの声に、自分の心の中でだけ先走ってしまっていたことに気付いた ルリは顔を赤らめる。

 ネオンに照らされた湾岸の周回道路を、二人を乗せたオープンカーは疾走する。

 そして、少しの時間のドライブの後に、トウキョウ・シティの夜景を一望できる湾岸の高層ホテルへと 吸い込まれるように姿を消した。

 **

 互いの近況に関する話題を交換しながら、ホテル内にテナントを構える有名欧風料理店での食事を終えた二人は、アキトの提案で最上階のラウンジへと場所を移し、更にもう少しの間だけ、会話の時間を楽しむことにした。

 静かな音楽が流れ、テーブル毎にキャンドルのライトが灯された、ラウンジ内での幻想的な一時。
 グラスを前にしての、二人の穏やかな会話。

 だが、時間を重ねるうちに、ルリとアキトとの間に流れる雰囲気は徐々に重苦しいものへと変わりつつあった。
 他愛のない会話だけを交わして、今日のこの時間を終わりにするわけにいかない事は、多分、最初から二人とも判っていたに違いなかった。

「ルリちゃんに、少し聞きたいことがあるんだけど。いいかな」
「はい、アキトさん、何でしょう……」

 さりげなさを装ったアキトの言葉に、表情の真剣さから何かを切り出そうとしていることに気付くルリ。

「俺、聞いたんだ。ルリちゃんが辺境への護衛艦隊勤務に志願したこと」
「……えっ、ア、アキトさん!」

 それでも、いきなりアキトが、知られているとは予想もしていなかった、自分の将来に関する話題に、直接触れてきたことに驚いて、ルリは激しく動揺してしまう。

「どこから、そんな話を……」
「本当なのかい?」

 ルリの呟きが聞こえないかのように、アキトは自分の言葉を続けていく。

「……はい、本当です……」

 少しの逡巡の後に、観念したかのようにルリは答えた。

「決まれば、三年位もう戻ってこれないというのも、本当?」
「多分、その位はかかるのではと思います」

 ルリの口から直接の確認を取ったことで、アキトは大きな溜息を一つついた。

「理由を、聞かせて貰えないかな」

 ”そう、これは身勝手で卑劣な質問というべきか……”

 内心の葛藤を表面に出さないように注意しつつ、アキトは言葉を重ねた。

 アキト自身、この選択を行ったルリの気持ちは、凡そ理解しているつもりだった。
 ただ、どうしてもルリ自身の口から、本当の心を映した言葉を聞き、そして、ルリの心を傷つけない形で、判断を変えさせなければ……という強い思いに突き動かされていた。

「ルリちゃんに会いに来たのは、このことを話すためだったんだ。
 そして、護衛艦隊勤務への志願を取り下げて欲しい。
 今日は、それを頼みに来たんだ」

 意志を感じさせる強い言葉で、ルリに再考を求めていく。
 迷いのないその言葉は、ルリの心を混乱させた。

「それは、できません。
 私自身が望んで決めたことなのですから……」

「どうして、駄目なのかな」

「今回の任務には、私自身、学問的な興味がありますから。
 護衛任務を行う傍らで、遺跡探査の為の……」

「そんなの嘘だ」

 ぎこちない態度で、ゲンパチロウに行った説明を、アキトに対して繰り返そうとするルリ。
 しかし、アキトはルリが話を始めた途端に、その言葉を遮ってしまう。

「アキトさん……」

「ルリちゃんは、そんなこと思ってない。
 学術調査なんて、ルリちゃんは全然興味はないんだ!」

「……アキトさん、……でも、私、そんなこと言われても……」

 ルリは弱々しい声で、戸惑うかのように言葉を返す。
 アキトが自分にどのような言葉を求めているのか、わかるような気もしたが、だからと言って、ここで自分の思いを口にしても、何一つ、事態が好転するとは思えなかった。

「本当は、ルリちゃんは行きたくなんかないんだ。
 ルリちゃんにとって大切なのは、人としての優しさと安らぎのある暮らしのはずだ……」

「知識なんて、いくらあっても幸せにはなれない。
 前にそう言ったのは、ルリちゃん自身じゃないか……」

 ルリの心を偽ろうとする説明に苛立つかのように、アキトは言葉を続けていく。

「考えたんです。本当に、ものすごく長い時間。
 そして、決めたことなのですから……」

「だから、……だから、これ以上、何も聞かないでくれませんか……」

 哀願するかのように、ただ言葉を繰り返すルリ。

「駄目だよ。ルリちゃん、良くないよ。
 そんな気持ちで無理に決心しても、良い事なんて絶対に起きない……」

「それだけじゃない。
 ルリちゃんと、会えなくなるなんて、俺自身が、耐えられない。嫌なんだ。
 絶対に遠くへなんて、行って欲しくない」

「傍にいて欲しいんだ。
 俺達と一緒に、この街トウキョウ・シティで暮らしてくれないか……」

 ”俺達と一緒に……俺達、……アキトさんとユリカさんのこと……
 幸せな二人の姿を見ながら、この街で私は、一人で……
 いられない、……絶対に嫌……!!”

 言葉を尽くして、ルリの気持ちを変えようとするアキト。
 だが、アキトの会話中の一言は、ルリが辛うじて保っていた感情の平静さを破ってしまっていた。

「出来ません。私、嫌です」

 心の中の思いは、口を突いてアキトへと放たれていった。

「何で、そんなことを言うのですか。
 私、頑張って新しい生活を探そうとしてるのに……」

「私だって、もう、子供じゃありません。
 決めたんです。ちゃんと考えて、良かれと思って決めたんです……」

 感情の昂ぶりを表わすかのように、強い口調でルリは言い切る。

「違う、ルリちゃんは逃げてるだけだ……」

「そうじゃありません。
 新しい旅立ちなんです。そう思うって決めたんです!」

「絶対に嘘だ。
 そんな、宇宙の果てに行ったところで、ルリちゃんは幸せになんかなれない!」

 互いのことを思いながらも、いつしか激しさを増していくアキトとルリの会話。
 アキトの容赦のない言葉は、ルリが心に纏おうとした鎧を完全に貫き、確かに最奥部へと到達していた。

「ならば、どうしようというんです!」

「アキトさんなら、私を幸せにしてくれるのですか?」

 心を顕わにされたルリが、強い視線でアキトを射る様に見つめて、もう抑えることが出来ない 感情のままに、声を震わせながら二人にとって決定的な言葉を口にする。

「私が、辺境任務の志願を取り消して、トウキョウ・シティに住むと約束したなら、
 アキトさんは、私を選んでくれるとでも言うんですか……?」

「……ルリちゃん……!」

「私だけを見て、……私だけに笑顔を向けて……、私だけに心を寄せて……、
 そして、私だけを愛してくれると……約束してくれるのですか……?」

「心からアキトさんを愛している、ユリカさんのことを忘れて、
 ユリカさんとの今までの思い出を総て捨てて……」

「私との明日だけを選ぶことが、出来るとでも言うのですか……!」

「出来ないくせに……
 アキトさん優しいから……そんなこと、絶対、出来はしないくせに……!」

 人影のまばらな平日の夜の、落ち着いた雰囲気のラウンジに、悲しみに満ちたルリの小さな叫び声が響いていく。

 その声は、多分、少し離れた場所にいる者たちにも届いたに違いなかった……

 幾人かが少し驚いたように声のする方に頭を巡らせた。
 だが、次の瞬間には皆、そしらぬ顔で各々の会話へと戻っていく。

 別に興味が無いわけではないのだろう。
 ただ、見ない振りをしてあげることが、彼らの目が捉えた、寂しげな表情を湛えた美しい銀髪の少女には、一番いいことに違いないとの、判断が働いたために違いなかった。

 そう、それが良識ある大人としての振舞いというものだから。

 そして、当の少女、ルリは青ざめ切った表情で、アキトの顔を見つめていた。
 口に出してはいけない台詞を、自分がとうとう言ってしまったことを、彼女は感じていた……

「すいません。私、こんなこと……
 絶対に、言うつもりなかったのに……」

 ”なんて、最低な私、……こんな酷いこと……”

「ごめんなさい……」

「……ルリちゃん……!」

「本当に、ごめんなさい。
 私、少し頭を冷やしてきます」

 ”……アキトさんの、せいじゃないのに……”

 言うなり、席を立ち足早に外へと向かっていく。

 ルリの横顔に涙が光っているように見えた。
 それは、多分、自分の見間違いではないだろうとアキトは感じていた。

 ”ルリちゃん自身の口から、本当の気持ちを聞こうとしたのは、間違いだったのかも知れない……”

 ルリがいなくなったテーブルで、一人沈痛な表情を続けるアキト。

 もう、ルリを説得することは叶わないだろう。
 だが、このままの状態で彼女を帰してしまえば、二度と二人きりで話し合う機会は訪れず、ルリは自分の元から去って行ってしまう。

 それだけは、どうしても耐え難いことに感じられた……

 やがて、決心したかのように、アキトは自らの前に置かれたグラスを一気に空にすると、険しい表情で上着の内ポケットへと手を伸ばした。

 今日、久しぶりに会い事情を話した時に、イネスより手渡された物が、そこには収められていた。

『アキトくん、話を聞いた感じだと必要になるかもしれないから、持っていきなさい。
 人は正しいだけでは生きていけないわよ』

 かけられた言葉と共に、その時、自分に向けられた共感とも、同情とも、或いは、憐憫ともとれるような、イネスの表情が頭をよぎった。

 ”イネスさん、貴方はこんな俺を軽蔑しないのか……”

 心で呟きながら、アキトはテーブル上へと手を伸ばしていく。

 自らの願いを果たす事を、強く決意して…… 
 そこに、躊躇いはなかった。

 少しの時間を置いて、ルリはアキトの元へと戻ってきた。

 懸命に自分を取り戻そうと努力したのか、表情は既に殆ど普段のままであり、アキトが探した涙の跡ももう見付けることはできなかった。

「さっきは、すいませんでした。アキトさん……」

「私、ちょっと変だったみたいです。
 だから、さっきの言葉とかは本当に気にしないで、全部、忘れてしまってくださいね……」

 意識的なのだろう。
 アキトを見つめながら、朗らかにそう言い切った。

 そのルリの姿は、アキトには悲しいものとして映ったが、口に出したのは全く別の言葉だった。

「そうだね、もうこの話題はよそう。
 せっかく久しぶりに会ったんだから、もっと楽しい話をしようか……」

 席に着いたルリを前に、アキトは先程までの会話中の言葉を取り消し、別の話題での会話を促していく。

「じゃあ、何の話をしましょうか……」

 言葉で互いを傷つけあうようなことは、もう、二人ともしたくないと感じていた。

「昔話っていうのはどうかな?
 三人で屋台を引いていた頃の失敗談とか……」

「あ、それいいですね……」

 二人の間に流れる雰囲気が穏やかな物に戻ったことに安堵しながら、ルリはアキトの言葉を引き継いで行く。

 昔話というアキトの提案は、ルリにとり願ってもないものだった。

 特製ラーメンの開発秘話、ユリカの屋台留守番失敗事件、幼かったルリが考えた独自の電脳営業活動等 かつての楽しかった日々の話題は尽きる事は無かった。
 二人の笑い声と笑顔のうちに会話はいつまでも続いていった。

 アキトの口調が優しいものに戻り、また、自分に対して明るい笑顔を向けてくれていることが、ルリにとっては何よりも嬉しかった。

 ”そう、私はアキトさんのこの笑顔がとても好き。
 アキトさんの笑顔を見つめて話をする、この時間が何よりも好き……”

 
 心地よい気分のまま、どの位の時間が過ぎたのだろうか。

 気付いた時には、会話は何故か途切れてしまっていたようだった。
 代わりに、自分は何かをしているらしい……

 自分の瞳に映ってるのは、多分差し出されたアキトの左手なのだろう。
 見覚えのある時計が腕に填められているのだから……

 そして……、そして、自分はアキトの手を少し小さな両手で包み込み、開いて、そして右手の指を 絡めては解くという事を繰り返している。
 とても愛おしげに、そして飽く無き熱心さを持って、アキトの手に指を絡めては解きながら、指先に伝わるその感触を楽しんでいる……

 そう、それはとても楽しくて気持ちの良いことだから……

 ”私はいつの間になんて事を……”

 突然、自分の没頭していた行為の内容に気付いたルリは、愕然として頭をもたげ目の前にいる アキトの顔を慌てて見つめた。

 だが、アキトの方はそのようなルリの行動に、特に何も疑問を感じてはいないようだった。

「どうしたの、ルリちゃん。
 突然、びっくりしたような顔をして」

 先程と同じ優しい笑顔で、自分に向けて語りかけて来る。

「いえ、別に大したことでは無いのですけれど……」

 ”このままでは……、駄目……”

「もう、ナデシコCに戻らなくてはいけない時間かな……と気付いてしまって」

 慌てて、言葉を取り繕う。

「私、そろそろ失礼しないと」

 上着を取って立ちあがり、伝票を掴もうとする。

 しかし、次の瞬間には、何故か言う事を聞かない自分の身体は、椅子からずり落ちていて、床に手をついたままの姿勢でしゃがみこんでしまっていた。

「ルリちゃん、どうしたの。大丈夫?」

 アキトが声を掛けてくる。

「はい、大丈夫だと思います」

 答えを返しながら、立ちあがるが次の瞬間にはまたよろめいて椅子に倒れ込んでしまう。
 身体がなんだか全然思ったように動いてくれないようだった。

「全然、大丈夫そうに見えないよ」

 アキトがこちら側に来て、自分の身体を支える感じになっている。

「私、もしかしてお酒……飲み過ぎたんでしょうか?」

「そんなことはいいけど、気分とかは大丈夫、悪くない?」

「はい、気分は全然悪くありません。
 でも何故か歩けないみたいです……」

 確かに気分は全然悪くなかった。
 というよりも、何かとても心地よい高揚した気持ちとでも言うべき感じにさえ思われていた。

「ご免ね。少しここで待っててね……」

 自分を抱きかかえる様にしてラウンジの外に連れ出したアキトは、多分会計等を済ませに行ったのだろう。
 エレベータ脇のソファーに自分を休ませると、少しの間姿を消した。

 また少しぼんやりしていたのだろうか……

 ふと気付くと、目の前にはアキトが立っていて、自分の顔を覗き込んでいるようだ。

「車は回せるけど、ルリちゃん今の感じだと一人じゃ危ないよね。
 少し休んだ後にした方がいいと思うんだけど、それでいいかな……?」

 アキトの言葉に何も考えないまま、頷きを返す。

 先程から、何故か思考が妙に散漫で、自分が殆ど何も考えることが出来なくなっていることを、ルリはぼんやりと感じていた。

 返答を確認したアキトは、エレベータを使いラウンジの下の階に降りると、小柄な彼女の身体を 抱きかかえるようにして廊下を進んで、とある一室の鍵を開け、ルリを部屋へと導いた。

 ”この部屋、どうして……”

 頭の中を一瞬疑問がよぎったが、部屋の様子を眺めているうちに、アキトの行動に対する彼女の困惑は、その内どこかへと消えて行ってしまった。

 アキトは、かなりの大きさのあるベッドへとルリを横たえると、上着をハンガーに掛けながら言葉をかけた。

「ボタンとかを緩めて楽にするといいよ。
 本当に気分は悪くない? 大丈夫?」

 緩慢な動作でベッドの上で上半身を起こすと、アキトの言葉のままに、腕や首まわりのボタンを ゆっくりとはずしていく。

 アキトがベッド脇に置かれた椅子に腰掛けて、自分の姿を見ていることを、ルリははっきりと感じていた。

「アキトさん……?」

 アキトの視線に少し恥ずかしさを感じたルリは、疑問の形で言葉をかける。

「ああ、またしばらく会わないうちにルリちゃんが大きくなったな……と思ってね
 確か、三ヶ月ぶり位だったよね……」

「はい、そうですよ……」

 顔を見つめて答えを返すと、何故かアキトが顔を少し赤らめて、自分のことを見返している。

「アキトさん、どうかしたんですか……?」
「あのさ、ルリちゃんにお願いが一つあるんだけど、いいかな?」

「はい、何でしょうか?」
「髪留めを、外して貰えないかな。
 ルリちゃんの髪を解いた姿を見たいんだけど……」

「ええ、そのような事でしたら……」

 わずかに躊躇しながら願いを口にしたアキトの言葉を受けて、ルリは髪留めを外していく。

 支えを失ったルリの銀色の髪が、その細い首筋や肩に輝きながら流れていった。

「……これでいいですか?」
「うん、有難う……」

 そう答えるとアキトは身体を近付け、今度はベッドに腰掛けるとルリの頬に手を当て、ルリの顔をまじまじと見つめた。

「本当、会うたびに大人びて綺麗になるね。ルリちゃんは……
 まるで、魔法みたいだ」

 アキトはゆっくりと呟くと、ルリの顎に触れ顔を上向かせた。

「そう、とても綺麗だ……」

 そして、瞳を閉じてルリの唇を塞いでいく。

 ”アキトさん、……!!”

 突然のアキトの行動に、ルリは呆然としたまま動きを止めていた。
 だが、次の瞬間には、慌ててアキトの身体を振りほどいて、僅かばかりの距離を取った。

 アキトの帰りを一人待ち続けているはずの、ユリカの事が心に浮かんでいた。

「アキトさん、どうしちゃったんですか。
 いきなり、こんなことして。変です……」

 息を乱しながらも、辛うじて抗議の言葉を投げかける。

 しかし、アキトの表情は全く先程のままである。
 再び、ルリの頬に手を触れると瞳を見つめながら口を開いた。

「変じゃない……全然、変なことじゃないよ。ルリちゃん……」

 見つめていると吸い込まれてしまいそうな深い瞳で、アキトがゆっくりと言葉を続ける。

「部屋に大好きな女の子と二人きりでいて、その娘が無防備な姿を見せてくれている。
 抱き締めて、キスしたいと思うのは、全然おかしいことなんかじゃない」

 そう言い放つとルリの背に手を回し、自らの近くに抱き寄せると、両腕で強く抱き締めていく。

「アキトさん……駄目です……」

「駄目じゃない……」

「駄目です……」

「いいんだ……」

 ルリの抗議の声に構う事なく、アキトの手はルリの頭を掻き抱いていく。

「……でも、アキトさん……私……」
「わかってる。ルリちゃんのせいじゃない」

「ルリちゃん、足に力が入らなくて歩けなかったよね。
 今、胸の鼓動がとても激しくて、苦しいくらいだよね。
 さっきから、頭がぼんやりして全然考えがまとまらない……多分、そうだよね……」

「全部、薬のせいなんだ……」
「……アキトさん?」

「俺は、ルリちゃんを帰したくなかった。
 だから、……だから、ルリちゃんのグラスに薬を混ぜたんだ……」

 
 真剣な表情で静かに言い切ったアキト。
 その事実は、ルリにとり衝撃的なものだった。

「……嘘……」

「嘘じゃない……ルリちゃんが席を離れた時だよ。
 このまま別れてしまったら、もうルリちゃんの心は変えられない。
 それが、判ってたから……俺は……」

 アキトは淡々と、自らの行ったルリに対する背信行為と、隠された動機を言葉にしていく。

「ルリちゃんは、もう帰れない。
 今から、起きることを拒むことも出来ないよ……」

 ルリを抱き締め、彼女を待ちうける運命に対する宣告を、耳元で小さく囁きながら……

「この綺麗な銀色の髪も、潤んだ金色の瞳も、細くて白い指先も、小さく華奢な肩も、
 そして、抱き締めたら折れてしまいそうな細い腰も……その総てが愛しい……
 誰にも、渡さない……」

「どこにも、行かせはしない。
 例え、それが、ルリちゃん自身の決めたことだとしても……」

 
 これも、薬のせいなのだろうか……

 自分の気持ちとこれまでの行動を一切無視するかのような、身勝手で傲慢なアキトの言葉は、とても甘美に、そして、抗い難く耳に響いた。

 何が正しくて、何がいけないことなのだろう……
 誰に罪があって、そして、誰が裁かれるべきなのだろう……

 もう、何も考えることが出来そうには思えなかった。
 アキトの甘い囁きに、ただ心のまま応えたかった。

 二人きりで同じ時間を過ごし、アキトの腕の中に抱かれて優しい声をかけられる。
 これは、自分が夢に願った光景そのものなのだから……

「ルリちゃんに軽蔑されても、蔑まれても、俺は……」

「……アキトさん。もういいです……」

 独白を続けようとするアキトの言葉を、小さな声で遮ってみた。

「アキトさんが望むことなら……私、
 どんなことになっても……構いません……」

「……もう何も言わなくていいんです……」

 アキトの背中に手を回し、強く身体を抱き締めた。
 完全に現実感を失った意識の中で、ただアキトの存在だけが確かな物として感じられていた。

 瞳を閉じたアキトがゆっくりと顔を寄せてくる。
 唇が塞がれた。

 今度は、拒もうとは思わなかった。

 ユリカへの罪悪感を感じることは、もう出来なかった……



 「 約束 」 第七話 了

 

 

 

代理人の感想

イネスさんもアキトも・・・何を考えてるんだいったい(苦笑)。