火星から月へと一息に彼らは跳んだ。
 ナデシコが月近海のチューリップから這い出してみれば、過ぎた時間は八ヶ月。
 それだけの時間があれば、人の世の情勢が変わらぬわけがない。
「ネルガルと連合軍は共同戦線を張る事になりまして……ねえ、艦長?」
 プロスペクターはきらりと目を光らせる。
「……はい。それに伴いナデシコは、地球連合海軍極東方面に編入されます」
 ユリカの台詞に、クルーは口々に不満の声を上げた。




セカンド・エンゲージ (後編)
theSecondEngagement:latterpart




 雑然とした室内は暗く、発光するプロジェクターが唯一の光源だった。
 青白い光に照らされる黒髪と深い琥珀の瞳。見たところ二十歳前で、体格も容姿も特筆すべきものはない青年だ。
 床に直接腰を下ろし、彼は足を広げた姿勢で壁にもたれかかっていた。
 流れ続ける映像に合わせて身体に陰影が踊るが、彼自身は動かない。

 軽快な曲にのって流れる歌声。
 散りばめられた原色とデフォルメされた人物が、人の背丈ほどもあるスクリーンに躍る。
 三人の主人公が勇気を抱き、友情を交わし、正義を信じて悪を討つ。そんな単純で、しかし心躍る物語。
 かつて、ある一人の青年の、支えであった物語。
「……こんな話だったか」
 視線を落とし、腕を伸ばす。
 傍らには、やはり原色に塗られたロボットを模した玩具。本来右手があるはず部分には、空洞に収まったバネがちらりと覗く。
 胸に大きく「3」と書かれた胴体に触れる。そのまま指を滑らせ、断ち切られた腕の縁で止めた。
「そういえば、結局見つからなかったな」
 あるクルーの思いつきの所為で、行方不明になった小さな部品。
 撮影機材に紛れ込んだのかと、広い室内を冷たい床に這いつくばって必死に探し回った。手伝ってくれた数人が諦めて去った後、それでもまだひとりで探し続けた。
 諦めたのは何時間経ってからだったか。
 その感情すら思い出に溶けて、忘れてしまうのにどのぐらいの日々が必要だったか。
 それすら、もうわからない。

『正義は勝つ!』
 虚構の世界で主人公が高らかに叫ぶ。
 勝利を喜ぶ青年達の背後には、粉々になった残骸と、立ち上る煙。
 見上げた画面から目を逸らし、首の動きだけで背後を見やる。
「――何の用だ?」
「ロックが開いてたから、勝手に入らせてもらったよ」
 いつの間にか開いていたドアに寄りかかるように立つ男。
 長身、長髪に無造作に広げた襟元、いかにもな雰囲気を好んで身に纏っているのだろう。
 名はアカツキ・ナガレ。
 このナデシコに補充パイロットとしてやってきた。
 本人曰く、コスモスから来た男。
「ちょっといいかな」
 部屋の主は闖入者を一瞥して、僅かに口角を上げる。ごく親しい人間が辛うじて判る程度のささいな仕草。
 それすら一瞬で消し去って、興味が無いとばかりに視線を画面に戻してしまう。
「……テンカワ君。君はこういうのが好きなのかい?」
 あえて呆れた声音でアカツキは尋ねる。
 安い挑発にふさわしいような未熟な反応をテンカワ・アキトに期待して。
「どうだろうな」
 期待とは程遠い、感情の起伏に乏しい声。
 画面から流れ出す軽快なリズムが、背を向けた彼の頭越しに鳴り響く。
「好きでもなきゃ、こんなうるさい代物見てられないと思うけどね」
 わざとらしい台詞回しに、大げさな反応。
 自分の正義を声高に叫んで、侵略者の非を断ずる。
 客観的な視点は欠片も無く、ただ自らの熱情だけで相手を葬り去っていく。勝つことが即ち正義だと、勝ち続ける彼らは最後まで知ることも無いのだろう。
 ――こんな子供だまし、まったく見れたもんじゃない。
「なら出ていけばいい。好き嫌いだけで排除するなら、それこそ子供のわがままだ」
 まるで自分は違うと言わんばかりのアキトが、アカツキには気に入らない。
 アニメを座り込んで鑑賞するような子供っぽい人間に、それを指摘されるなど。
「じゃあ君は何故、こんなものを見てるんだい?」
「葬式の経の代わりだ。俺以外に弔ってやる者もいないしな」
 たとえば棺に故人の好物をいれて、好きだった音楽で送り出すようなもの。
 消えてしまったその存在に少しでも慰めがあるように。そう信じることで、残されたものの心が少しでも軽くなるように。
 そんな感傷的であるはずの儀式を淡々と続ける。
「ヤマダ・ジロウ君だっけ? アニメ好きが高じてパイロットになったらしいね、彼」
 ドアのプレートにあるもう一つの名前。ごく短い期間、アキトのルームメイトだったというパイロット。
 思い入れがあるのかと名を出しても、アキトの態度は変わらない。
 たっぷり一呼吸分の沈黙の後、腑に落ちたような声。
「……ああ。そうか」
 ――薄情だろうか。
 それが誰なのかをすぐに思い出せなかったのは。
 彼との思い出はもう遠い記憶の彼方にしかない。
 アキトが悼むのは、己が今ここに存在することで消し去ってしまった心、だ。
 塗りつぶされる前の愚かな、しかし純粋な熱情。
 しかしそれは自分が、自分だけが承知していればいいこと。他者に踏み込んで欲しくはないし、そんな権利もない筈だった。 

「お前も似たようなものだろう」
 意図的に話題を逸らす。
「どういう意味さ」
「火星辺りならともかく、地球でわざわざIFSを付けるなぞ、趣味以外の理由があるか。――軍にいたというわけでもなさそうだしな」
 IFS対応機器が普及していた火星ならともかく、地球圏ではナノマシンをインプラントする必要があるIFSは忌避される傾向が高い。
 それこそ例外は軍のパイロットぐらいのものだ。
 ネルガルの社員である――自己紹介で本人がそう述べた――アカツキがIFSを所持しているのは、自らの意思に他ならない。
「図星か」
 咄嗟に反論できず、アカツキは唇を軽く引き結ぶ。
 確かに自分の立場であれば、IFSを付ける必要性はゼロに等しい。
 それが真実だとしても、こんな場所で背を向けたままの男に見透かされて嬉しいわけがなかった。
 ほぼ初対面の相手となれば、尚更プライドが許さない。
「……まあ俺も他人のことは言えないが」
 急所を突いたかと思えば、すぐに手を翻す。
 相手を追い詰めてしまうのは、対人関係において有害なことが多い。それを理解するにはそれなりの経験が不可欠な筈なのだが、二十歳にもならない青年がごく自然に譲歩する。
 鳴り響く安っぽいメロディとは裏腹の落ち着いた対応。
 まるで熟知したようなタイミングに、内心気勢が削がれる。
「聞いてもいいかな。君が何故パイロットになったのか」
「――成り行きさ」
 そう、状況に流されただけだった。
 ナデシコに乗ったのも、いつのまにやらパイロットにされてしまったのも。
 そして……
「詳しくはプロスペクターにでも聞いてくれ」
 きっかけはミスマル・ユリカでも、より直接的にアキトをナデシコに引っ張り込んだのはプロスペクターだ。
 ならば経緯説明ぐらい押し付けてもいいだろう。
 自身で語るには抱く想いは痛すぎた。その痛みこそが、アキトを生に繋ぎ止めていたのだとしても。

「じゃ、軍に編入されるのをどう思う?」
 意地の悪い質問だと、アカツキは承知していた。
 この艦のクルーは、戦闘経験こそあるが基本的には民間人だ。
 そして、地球脱出の際、ナデシコは軍と衝突した経験があった。理不尽な要求には従えないと言って、自分たちの想いを貫いた。
 背後にある思惑も知らされず、火星の人々を救うのだと信じて飛び立った、愛すべき愚か者達。
「どうでもいい」
「え?」
 一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「というより、それを判断するのは艦長で、俺の関知するところじゃない。仕事の内容が変わるわけでもないしな」
 冷静、というより無関心な言葉。
 ネルガル籍のまま軍に出向という形は、極論すれば連合軍とネルガルの妥協の産物だ。是が非でも木星蜥蜴を凌駕する兵器が欲しい軍と、ナデシコを完全に手放すわけにはいかないネルガル。
 それによってナデシコは、今までと同じかそれに近い運用を許された。それでも鎖が付いたことは、否定し得ない事実。
「へえ。意外に理性的だね」
 ネルガル上層部の方針変更は、偏に打算と損得勘定による。しかも当事者――ナデシコのクルー達を置き去りにして。
 実際砲火を交えたこともある相手にいきなり従えと言われれば、理性はともかく感情が納得しないだろう。
 クルーの反発は予想されていたことだが、さして重要視されていなかった。
 末端にいる人間の少々の不満など、押さえ込んでしまえる力が組織にはある。
「ネルガルがどう思っているかは知らないが」
 アキトの意識は、完全に過去の追憶から抜け出していた。
 半眼に光が宿る。
「ミスマル・ユリカがこの艦の艦長であるかぎり、ナデシコは変わらない」
 ネルガルの思惑すら超えて、ナデシコはナデシコであることを貫くだろう。
 過去も、現在も――そして、未来でも。
「たいした入れ込み様だね。確かに先刻のナデシコの働きには、目を見張るものがあったけど」
 コスモス所属のパイロットとして、アカツキは戦場でそれを見た。
 あの指揮ぶりは評価できる。しかしそれだけだろう、と。
 無言の意思を読み取って、アキトは静かに立ち上がる。
「命を預けるに足る相手を、俺は彼女の他に知らない―――そして、命を懸けるに値する相手も」
 アカツキに正対したアキトは瞳に強烈過ぎる意思を宿らせた。
 それは――何物にも砕けぬ、覚悟。

「それだけは、覚えておくがいい」





 ナデシコのブリッジでは、すでに接近する敵艦隊を捉えていた。
「あらら、来ちゃったわね蜥蜴さん」
「そうですね。大丈夫かな、ナデシコ……」
 普段ならすぐさま発進シークエンスの確認に入るミナトや、艦内放送で忙しい筈のメグミは世間話ぐらいしかすることがない。
 端的に言えば、手持ち無沙汰。
 二人はなんとなく艦長を見上げる。
「ナデシコはしばらく動けません。コスモスも同じです」
 コスモスは同じナデシコシリーズでも、戦艦であるナデシコとは用途が違う。船体はナデシコの二倍ほどあり、宇宙空間でナデシコや同型艦の修理・補修を行う機能を備えたドック艦だ。
 現在ナデシコは地球―火星間の航路、火星圏内、及び月宙域での歴戦の無理がたたり、コスモスに係留され修理・補給の真っ最中。
 またドック状態のコスモス――船体前部が左右に割れ、その中央にナデシコを固定している――は、多連装グラビティブラストをはじめとする多くの武装が使えない。
 加えて戦闘速度はおろか、巡航速度も出せない。つまり逃げ足すら封じられていた。
「というわけだ。迎撃はエステバリス隊に務めてもらう」
 ジュンが五つ開いたウィンドウを前に言う。
『了解!』
『了解しました〜』
『国家の領域である海……それは領海』
『了解した。僕の実力を見てくれたまえ』
『……了解』
 それぞれのらしい反応を返すパイロット達。
 唯一アキトは月以降ずっとテンションが低いまま。務めは果たしているし、落ち込んでいるのともどこか違う。
 とりあえず緊急性はないので、放置されているというのが現状だった。

「もちろん、ナデシコは修理が完了次第、発進しますが……ルリちゃん?」
 ユリカの意思を読み取って、ルリはブリッジ正面と各コックピットに複数のウィンドウを展開させる。
 修理までの予想時間。
 敵戦力の分布図。
 そして、ナデシコとそれを中心にした一定範囲の平面図。
「端的に言って、今のナデシコは役立たずの木偶の坊状態です。
 他はともかく、エステバリスの動力源である重力波ビームの受信可能範囲が、普段より狭くなっているので注意してください。
 というか、圏内からはみ出すと洒落になりません」
 オモイカネのユーモアか。
 新たなウィンドウ内で、へろへろのミニエステ君がタコ殴りにあっていた。
「………オモイカネ、遊びすぎ」
 ルリの呟きに、どこからともなく鐘の音。
「というわけで、深追いは避けてください。
 今回は敵をナデシコ・コスモス両艦に近づけないのが最優先です」
 連合軍編入の決定を伝えた時分は元気のなかったユリカも、もういつもの調子で指示を出している。
『へっ。そんなヘマするかよ』
 いかにも心外言わんばかりのリョーコ。
『……まさに紐付きね。…………ヒモ…ひも…』
『イズミちゃ〜ん、無理して考えないでいいから』
 乾いた笑いのヒカルを、恨めしそうにイズミが見る。
 リョーコはツッコミもしない。げに慣れとはおそろしい。
 しかし、常人とは明らかに異なるイズミの雰囲気は、新入りのアカツキにはきつかったらしい。すっかり腰が引けている。
 そちらから無理矢理視線を逸らし、ひとり静かなアキトに声をかける。
『さて、テンカワ君。君の仕事振りを拝見させてもらおうか』
 先刻の意趣返しのつもりか。
 情けない操縦などすればどうなるかと、軽く圧力をかけてくる。
『……見て楽しいのか? 暇な奴だな』
『いやいや。あれだけ言ってくれたんだ。是非見せてもらいたいね、君の覚悟の程を』
 アカツキの言葉にもアキトはどこ吹く風。
 勝手にしろと、言葉でなく態度が言っている。まったく可愛げがない男だった。
 ――では、もう一つの札を出してみようか。
『ああ、でもミスマル艦長の指揮振りが見れないのは残念だねえ』
 わざとらしく嘆いてみれば、誰か彼かは引っ掛かってくれるもの。
『何だよ、いきなり』
『え〜? ナニ、ナニ、何の話ぃ〜?』
『いや、テンカワ君ご推薦でね。まあ頼むよ艦長』
「はい。お任せ下さい、アカツキさん」
 何を、なのか。言った本人ですら不分明なのに、あっさり了承するユリカ。
 にっこり笑顔で、ブイサイン。
「何かあったらすぐさま迎えに行きます。だからみなさんは存分に戦っちゃってください!」
 底なしに明るい声に、周囲から苦笑が漏れる。
 艦長としてはなんとも規格外れではあるが、それを含めてのミスマル・ユリカだと皆が知っていた。

『……迎えに、か』
 考えるような、声音。
 この時アキトが、直後、自分の身に起こる出来事を予期していたのかはわからない。ともかくユリカの一言に何らかの感慨を抱く、その理由が本人の中には存在したのだろう。
「うん、もちろん! アキトならどこにいても探し出すよ」
『そうだな。待ってる』
 ふわりと、笑う。
 単純な感情ではなく、多くを内包する、見る者を切なくさせるような笑みだった。
『……まってるよ、ユリカ』
 アキトがその一言に何を思ったか、他者に窺い知ることはできない。
 それを知るのは、ただ本人のみ。

 ――テンカワ機が重力波ビーム圏外に飛び出し、ナデシコのレーダーからロストしたのは、無人兵器の大半を撃破し、残存部隊が後退を始める直前のことだった。





 戦闘終結後、ともかくは消えたテンカワ機及びパイロットの回収が急務だった。
 オモイカネの予測を踏まえた検討の結果、自力での帰還は不可能と出た。
 しかしナデシコはまだ動けない。
 近海に救助してくれそうな艦艇もない。
 結局、ユリカの一声で方針は決する。それはナデシコに搭載されている揚陸艇『ひなぎく』を出して、回収に向かうというものだった。

「ユリカ、何も艦長が自ら……」 
 ジュンはユリカの行動を容認できなかった。個人としても、副長としても、である。
「ごめんなさい。でも、私が行かなきゃならないの。
 それと、ジュン君。私が帰還するまで、ナデシコの指揮権を預けます」
「……わかったよ」
 思わず溜息がひとつ。
 こうなったユリカを止められないのは、思い知っている。
「あたしも行きます!」
 目を真っ赤にしたメグミだった。
 彼女がアキトに好意を抱いているのは誰の目にも明らかな程で、整備班では賭けの対象にもなっている。
 その相手が戦闘中に行方不明になったのだ、不安でたまらないのだろう。
 必死なメグミに、しかしユリカは首を振る。
「ごめんね、メグちゃん。でもこれは私の役目なの」
「……でもッ!」
「同乗は認められません。これは艦長命令です! ……誰にも譲れないんだ。これだけは」
 決意を背負った、ユリカの真摯な瞳。
 個人的な愛情か、はたまた艦長としての責任感か。それは本人にしかわからない。
 それでも、敵わないのはメグミにも理解できた。
「…………わ、かり……まし、た」
「ありがとう、メグちゃん」
 眼前のそれを超えるほどの想いを、メグミは己の中に見出せなかった。


「……心は、決めたの?」
 ずっと――テンカワ機がロストしてから、今この時まで沈黙を保っていた女性が尋ねる。
 いつもより僅かに硬い声。
 あのイネス・フレサンジュが緊張している事に誰か気付いただろうか。
「アキトは想いを行動で示してくれました。でも、私はまだそれに応えていない……その機会が、私には与えられなかったから。
 でも今、私達は――ナデシコにいる」
「………そうね。ここは、特別だわ」
 そのままの自分で在れる場所に、自分たちは帰ってきた。
「これが事故でも何でもいいんです。機会を与えられたなら、私はそれを生かしたい」
 アキトが身を削り、その命すら懸けた想いを、一方的なまま終わらせたくない。
「だから――今度は、私の番です」
 そのままブリッジのドアを抜け、『ひなぎく』へと向かうユリカ。その歩みに迷いはない。
 すれ違い様、イネスはそっと目を伏せた。
 胸に去来するのは、寂しさかそれとも安堵か。感情は酷く不分明で自分でも説明が付けられない。

 それでも終わり、そして始まったのだと、イネスは知っていた。





 慣性に任せたまま、静かに真空の夜を漂うエステバリス。
 最低限の生命維持と緊急用の一部機能以外は電源を落としたコックピットは暗く、モニター類もすべて死んでいる。
 一部のレーダーは生きている――エネルギー節約のため、ディスプレイには出さずIFSで直接情報を受けている――とはいえ、これでは目を塞がれた状態で密室に閉じ込められたようなもの。
 戦場には距離がありそういう意味で安全とはいえ、通信も届かない場所にただひとり在らねばならない苦痛。パイロットが受ける精神的な圧迫感は想像に余りある。
 ――人工的な壁で遮られた、温い闇。
 しかし彼にはこの薄闇こそ日常に思えた。
 IFSからのフィードバックと不鮮明な視覚情報だけで眺めるモノクロームの世界。
「……温度が下がってきたか」
 そろそろ零下に突入しようとする空間は、パイロットスーツ無しではそう長く耐えられないだろう。
 薄布一枚を隔てただけのすぐ傍らに在る、死。
 しかし恐怖はない。
 凍り付いていくような景色すら、今は親しいものだった。燃え上がる熱情など、無くして久しい。
「それにしても、不覚だったな」
 些細なミス。
 周囲の敵を粗方倒し、新たな獲物を探していた刹那。スラスターに熱が宿り、静から動へと切り替わる一瞬。
 丁度図ったように、死角からの攻撃が来た。
 恐ろしく性質の悪い偶然が万分の一の確率で、機体をあらぬ方向へと蹴り飛ばした。
 いや、それすらも取り返せないものではなかった。
 たとえば、IFSのレスポンスがもう少しよければ、エステバリスは的確な回避行動を取れただろう。彼のイメージの通りに、正確な機体制御でうまく体勢を立て直し、各部のスラスターで即座に制動がかかった筈だ。
 しかし、そう上手くはいかなかった。
 無理矢理FCS方面のラインを拡張したIFSインターフェイスは、本来は未使用の帯域まで使えるようにリミッターを外した状態だった。入力(パイロット)側で情報量を制限することによって、受信側の限界を超えないように調整し、バランスを保っていたのだ。
 そこに反射的とはいえ本気の操縦――IFSへの膨大な情報入力――を行えばどうなるか。キャパシティ以上の情報に回線がパンクしかけ、機載コンピューターすら一瞬フリーズ。
 IFS特有のフィードバックが止まった、あの一瞬。
 慣れ親しんだ感覚をいきなり断ち切られた衝撃に、過去の幻影が甦る。

 苦痛、混乱、憎悪、絶望、殺意、妄執――――そして、彼女。

 虚無の淵をたゆたいながら、自分は。
「……操縦など、忘れていた。パイロットだというのにな」
 機能を回復したIFSにイメージを送るわけでもなく。
 彷徨う思考はひとりの人間に収束し、ひとつの言葉が波のように押し寄せた。
 ――迎えに、行くよ。
「俺は、試したかったんだろうか」
 その、価値を。
 彼女の中に在るテンカワ・アキトという存在が、どれほどのものなのかを。
 ――どこにいても、探し出すよ。
 天空に散らばる数多の星の中にある、鈍く翳んだ星の欠片を。
 愚かで矮小な、燃え尽きてしまった己という存在を、それでも求めて欲しいと望んだんだろうか。
「――今更、だ」
 彼が自嘲した、時。


『――迎えに来たよ、アキト』

 凍えるような闇にぽつり光が灯る。
 細い銀の線が空を走り、ウィンドウを形作る。そして、現れる人影。

「…………ユリ、カ?」
『うん』
「来たのか」
『うん』
「何故、来た」
『アキトを助けたかったからだよ』
「こんな俺でも?」
『うん』
「俺が何をしたか、お前も知っているだろう」
『……うん』
「一度、選んだ。たくさんの命より、ただひとりを」
『そうだね』
「二度目があれば、きっと止まれない」
『……そっか』
「それでも、いいか?」
『いいよ』
「お前の側にいて、いいのか?」
『いいよ』
「……そう、か」

『だから、戻ってきて。そして、一緒に……』




◇ ◇ ◇



 『ひなぎく』へと向かう通路。
 壁に寄りかかったアカツキが、急ぐユリカに問いかける。
「どうしてもいくのかい? 君はもっと賢い女性だと思っていたけどね、艦長」
 わざわざこんな場所まで出向いたのは、益体もない好奇心。
 二十歳を越えたばかりの小娘に何ほどの物があるのかと。アキトの台詞は所詮過大評価にすぎなかったのだと、嘲るためにここに来た。
「何が本当に大切なのか、私は知っていますから」
 けれど、その侮った彼女の中に、アカツキは彼方を彷徨う彼と同じものを見た。

「誓ったんです。何があっても、どこにいても、私はアキトの全てを受け止める、と」
 それは――それもまた、ひとつの覚悟。


 ―――だから、二人で。一緒に生きよう、アキト……



-FIN-



 こんにちは、篠以です。
 微妙に前編と雰囲気が違うらしい後編をお届けします。チェックを頼んだ知人曰く、
「(文章に)そろそろ本性が出てきたというか、根底に流れる薄暗さを隠しきれてないというか」 
 ……本性ってなんだ本性って。まあ、男共の遣り取りは書いてて非常に楽しかったですが。
 話の大まかな流れはTV版第八話に沿っていますが、細部は色々変えてます。(例:戦闘機→ひなぎく)
 また、出番を削られたキャラも多いです。ウリバタケとかエリナとかキノコとかアカラ様とか(笑)
 後、予定よりアカツキが出張った分、イネスの影が薄くなってます。イネスの逆行自体、「A級ジャンパー三人が同時にランダムジャンプしたら、同条件のジャンプ(TV七話〜八話)と混線して、過去にジャンプアウト(逆行)」という脳内設定の産物なので必然性が薄いんですよね。
 短編は特に内容の取捨選択が難しいですね。精進したいと思います。

 最後に、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。



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代理人の感想

なるほど、これがほんしょ・・・・げふんげふん。

それはともかく、「短編」としては篠以さん仰るところの「取捨選択」が少々甘かったかも。

私は「1つのテーマを語りきる」ことに純化するのが短編だと思っていますので

アキトとアカツキの会話など、「話に必要なんだけれどもテーマだけを語るにはちょっと余分」な部分が冗長に感じました。

いっそのこと、もう少し膨らませて中編レベルにしたほうが良かったかなぁとも思います。

まぁ、それも些細なことで。十分に楽しませていただきました。この場を借りてお礼申し上げます。