「んっ…」

いくらか艶を帯びた声を上げて、彼女は目を覚ました。
地球のホテルの一室。
最高レベルのセキュリティの施された部屋。
面倒なことに仕事で地球に来ていたわけだが、泊まった部屋自体は悪くない。
カーテンの隙間からは朝陽がこぼれている。
そのこぼれた朝陽が揺らめいて、彼女の顔を照らした。
いくらか不思議に思い、眠たげな眼を窓の方に向ける。
そこには、彼女が想いを寄せている一人の男が居て、窓の外を眺めていた。
彼女は納得した。
男が外を見るためにカーテンをずらし、だから、朝陽が自分の顔に射したのだ。
急な目覚めではあったものの、彼女の気分は悪くない。
その”悪くない”気分の原因は、必ずしも明確ではなかったけれど、彼女はそれを受け入れた。
世界は論理では出来ていない。
だから、根拠も全てが全て、論理的というわけではない。
そんな益体も無い思考をして、彼女は男に呼びかけた。

「おはよう、アキトくん」

その呼びかけに男は反応し、窓の外に向けていた目を彼女に向けた。

「おはよう、エリナ」

それは、無愛想ではあったが、彼女の感情を悪くするものではない。
なぜならそこに、彼女を疎んじる意思を感じなかったから。
だから、彼女はむしろ上機嫌で彼に対して言葉を続ける。

「コーヒーでも飲む?」
「ああ、頼む」

そう、端的に言葉を告げる彼の顔は、心なしか穏やかだった。
少なくとも彼女には、そう見えていた。


-片翼の天使-

2005.06.05 written by tatsu


その関係は、例えば結婚に繋がるような関係ではなく、対比して刹那的なものだと、彼女自身よく理解していた。
自分の想いの全ては彼に受け入れられることはないし、また、彼の抱えるもの全てを自分が背負えるわけもない。
けれどそうではあったとしても、一部だけならば、受け入れてもらえるし、受け入れることはできる。
それとて、いわゆる普通の”恋愛”とは異なるものではある。
けれど、一部とはいえ、交感があるのだから、関係は続いているのだろう。
お互いに、100ではなかったとしても、多少はメリットがあるということなのかもしれない。
だから、関係は続いているのだ。
感情だけで男女の関係は続いていくことはない。
それを知るほどには彼女は年齢を重ねてはいたが、かといって、そうだ、と割り切れるほどに老成はしていなかった。
そのジレンマは、けれど、愛しさえ感じるものだ。

―――全く、どうかしているわね。

冷静に分析。
その冷静さは、自分の思考回路が十分におかしくなっているということの自覚も促していた。
そのおかしくなった思考回路の志向性は、非常に限られた部分にだけ向けられている。
どうしようもなく感じる愛しさ。
全てはそこに集約されていた。
論理も、矛盾も、”彼”に伴うあらゆるものが愛しい。
同時に、切なさと、物悲しさが心に忍び込んでもいた。
そう。
分かっていた。
分かっている。
彼の想いがどこにあるかは知っている。
正確には、どこに”置いてあるのか”知っている。
そして、その想いを自分に向けてもらうことが無理だ、ということも知っている。
けれど、彼女は自分の想いを殺すつもりはなかったし、それでもいいと認めてもいた。

ただ。

言い知れない空しさは感じていたけれど。


「やあ、テンカワくん。お久しぶりだね」
「・・・アカツキか。何か用か?」

ユーチャリスが納められたそのドックに、アカツキ・ナガレが来ることは珍しい。
だから、アキトは驚き、理由を尋ねた。
しかしそれは聞きようによっては疎んじているようにも聞こえる。

「酷いなぁ。これでも僕はネルガル会長だよ? どこにでもいる権利はあると思うけど?」

アキトの言葉尻をつかまえて、アカツキは冗談交じりにそう告げる。
そのニュアンスに気付いて、アキトは自分の発言をフォローした。

「いや、そういう意味じゃない。悪かったよ」
「ふふん。一頃に比べれば随分と素直になったものだね。これも、”彼女”のおかげかな?」

目を細めて、さらに冗談のような口調でアカツキは続けた。
その言葉にアキトは若干顔をしかめる。

「エリナのことは、関係ないだろう」

いくらか硬さを帯びたアキトの言葉に、しかし、アカツキは相変わらずの軽い口調。

「別にエリナ君のことだ、なんて一言も言ってないけどね? それだけ、彼女の存在が君にとって大きいということかい?」

それは、軽い口調ではあったが、同様に軽い調子で言葉を返すにははばかられるニュアンスを孕んでいた。

「別に、男女の関係をどうこういうつもりはないけどね。けど、男としてケジメをつけるべきじゃないのか、とそう愚考もするよ」

じゃあそれだけ言いたかっただけだから、と言い残し、アカツキはその場から去った。
恐らく仕事に戻るのだろう。
そのアカツキの背中を見送った後、どことなく落ち着かない雰囲気を纏わせて、アキトもその場を離れた。


ベッドに腰掛けて、天井を見上げている少女が一人。

そこは、アキトと少女の部屋であり、少女はアキトを待っている。
少女は夜の時間帯を迎えれば、大概はアキトと同じベッドで眠っていた。
それでなければ安心できないからだ。
けれど時折、少女は別の人間と眠ることがあった。
そんなとき、決まってアキトと少女の部屋には、別の誰かが来ている。
アキトはそれを極力隠していたいようではあったが、しかし、少女は気付いていた。
少女は不思議に思う。
どうして、それを隠すのだろうか、と。
依存することは、決して悪ではない。
だから、それをどうして、隠す必要があるのだろう。
この世界に存在する全ては、必ず何かしらに依存している。
例えば、自分がアキトに依存しているように。
多分、今日は別の部屋で眠らなければならないだろうと、彼女は達観している。
それは、いわゆる”女の勘”と呼ばれるものだったが、少女はそんなことを意識できてはいなかった。

ドアの開く音がして、誰かが部屋に入ってきた。

「ラピス、いる?」

声の正体はイネス。
だから、少女は今夜この部屋に誰が来るのか見当がついた。

「いるよ」

ラピスは端的にそう告げると、ベッドから降りる。
その部屋から出る際に、ちらと一瞬だけベッドを確認した。
無表情。
そして、何も表情を浮かべずに、少女はイネスに連れられて部屋から出る。
後にはただ、空虚な部屋があるだけ。


時計上は深夜。
けれど月面のこのドックの忙しさに、昼も夜も大して関係はない。
便宜上地球の時間を元にして、机上の昼や夜という概念を使い分けているだけだ。
ここに暮らすものの大半にとって、それは大して意味を持たない概念。
そんな本質的な意味の無さは、彼と自分の関係にも言えることなのかもしれない、とそんなネガティブな思考が彼女の頭に過ぎる。

気だるい雰囲気が部屋を満たしていた。
そんな雰囲気の中、アキトはサイドテーブルに載せられたグラスを手にとって、水を飲む。

別段、何を話すわけでもない。
そんな沈黙が不自然ではない関係。
それはお互いに求めたものだったのか、それとも、そうならざるを得なかったのか。
判断はつかないが、しかし、これはこれでいいのだ、とエリナは考える。
いつからか、自分はそんな男女関係を理想としていたではないか。
ただ、関係自体は理想かもしれなかったが、相手は予想外と言える。
なにせ、一度は諦めたのだから。

「ねえ、アキトくん」
「・・・なんだ?」

聞き取りようによっては冷たいとも取れる彼の声音。
けれど、そこに一抹の優しさが込められているのは知っている。
どれだけ仮面を被ったところでその本質は変わることはなかったのだ。
彼は、今でも優しく、そして不器用だ。
単にそれを黒で塗りつぶしているだけ。

「この関係、いつまで続くのかしらね?」

それは不意に出た言葉で、だから、意味のない疑問。
確認の意味すら希薄な、本当にどうでもいい疑問だった。
けれどその疑問は彼にとってそれなりにインパクトはあったらしい。
その言葉を聞いた後の彼の反応で、彼女にはなんとはなしにそれが感じ取れた。

「さあな。・・・ただ、俺はお前を幸せにはできない。それだけは言える」

率直な言葉。
そうではあったが、質問に対する直接的な回答ではなかった。
いつの間にか彼に身についていた狡猾さ。
彼女は思わず苦笑する。

「うん。そうよね。分かってる」

悟ったような口調。
けれど、それは本当ではない。

「でも、どうして? どうして、あなたでは私は幸せになれないの?」

意地悪な質問。
自覚はしている。
案の定、その質問に彼は戸惑っていた。
けれど、戸惑いながらも彼は律儀に答える。
だから変わっていない。

「・・・俺は、”アイツ”に捕まったままだから」

そう告げる声に、悲壮感は無かった。
ただ淡々と事実を告げている。そんな口調だった。
それが、尚更、彼女の苦笑を誘う。
分かっていた。
知っている。
けれど、もう少し、違う言葉を言ってはくれないのか。
相手は”朴念仁”。
そんな望みは無駄なのかもしれない。
けれど。
何か得体の知れない感情が渦巻いている。

「そう」

渦巻く感情に反して、アキトに告げた言葉はそれだけだった。
言葉はここぞという時に力を持たない。
彼女はそれを自分の経験から知っていた。
だから、時折そうするように彼に身体をすり寄せて、甘える。
言葉をぶつけるより、そうすることの方が彼に近づけるということも、これもまた経験から学んでいた。

「エリナ?」

訝しげな声。
しかし、彼女はそれを無視して、単に、甘えた。
心を手に入れることができないのだから、これぐらいの時間を自分に提供してくれるぐらいはいいだろう、と自分勝手な納得をして。
頭を彼の胸板にもたせかけたまま、横目で時計を見る。
時刻はまだ、夜だった。


仕事を理由として二日間、エリナが地球に滞在することとなった。
彼女はその立場上、地球に出向いて仕事をすることも比較的多い。
テクノロジーの進歩に伴ってコミュニケーションを行う手段は格段に増えたものの、人の物理的移動はなくなることはない。
それは恐らく、これから先の未来においてもそうなのだろう。
火星の後継者事件が終結する以前から、アキトはしばしば彼女の護衛についていた。
それに関して論理的な理由はないのだろうが、しかし、作為的な匂いも感じてはいる。
その作為を仕掛けた人物に心当たりはあったものの、アキトは別段文句を言うことはしてこなかった。
仕事とはいえ、彼はエリナを守ることに半ば義務感に近いものを感じていたし、また、彼自身にとっても都合が良かったからだ。
良くも悪くもアキトはエリナに依存している。
それは彼自身自覚できていたが、現状を改めるところまでは行えていなかった。
直接仕事の指示を出してきたのはアカツキ。

「時間は余裕だと思うから、少しのんびりしたらどう?」

そのよく分からない提案をエリナに告げると、ふうん、とこれまたよく分からない納得をした。
何か考えでもあるのか、それとも、別に興味などないのか。
アキト自身その提案に興味はなかったから、特に気にすることはしなかった。


地球へと向かう一日前。
エリナは自分の机で資料整理に追われていた。
とはいえ、プレゼン資料程度にペーパーメディアを使わなくなって久しいこの時代、その整理作業のほとんどは端末の操作。
だから大変とはいえ、程度はしれている。
黙々と作業を進めて、二時間弱。

「ふぅ・・・」

溜息を吐いて、どさっと座っていた椅子の背もたれに身を預ける。
作業が終わった後で、間隙のように訪れる、何もしない、何も考えないぼんやりとした時間。
ふと、地球でのスケジュールに余裕があったことを思い出した。

―――でも、いきなり暇だって言われてもね。

そう考えるのが正直なところ。
彼女とて趣味がないわけではなかったが、準備も何もあったものではない状況ではやれることなどたかが知れている。
精々泊まるホテルから比較的近い場所に観光に行く程度しか出来ないだろう。
と、思いついたアイディアがそれほど悪くないことに気付く。

―――それも悪くないか。

思い立って、彼女は端末を操作し、地球で泊まる予定になっているホテル付近の地図を表示した。
しばらくぼんやりと眺めていると、サブウインドウで表示された地名に覚えがあることに思い至る。
なんだったかと記憶のインデックスを辿り、つい最近、その地名をあるドキュメント上で見ていたことを思い出した。
彼女自身直接関わったわけではなかったが、そのイベントの内容自体は記憶している。
そう。
この近くには”アレ”があったはずだ。
火星の後継者事件が終結して、まだ二ヶ月と経っていないが、恐らく”アレ”は変化していないだろう。
なにせ、社会的な彼の立場は変わっていない。
名前すら、まるで禁忌のように封じられた男、テンカワ・アキト。
だから、あの場所に刻まれた彼の名前は変わらずに在るのだろう。

思い立ったが吉日と、古い言葉にある。
だから、彼女は何か方法はないかと、友人である科学者に連絡をとった。
彼女なら、何か方法が思いつくだろう。


地球へと向かう当日、アキトはエリナと同じシャトルに乗った。
ネルガルの専用機であり、たまたまその日地球へと向かう人間が他にいなかったこともあいまって、シャトルの中で二人きり。
どうせだから、ということで二人は隣合って座った。
発射準備が進む中、二人の間に言葉は交わされず、沈黙がその部屋を満たしていた。
別段不思議ではないその状況にアキトはただ、無言で前を向いている。
不意に、エリナが口を開いた。

「アキトくん」
「うん?」
「地球でちょっと行きたいところあるんだけど、いいかしら?」
「ああ、構わない。どこだ?」

その言葉に、若干目線を伏せて、エリナは意味ありげに呟く。

「内緒にしておくわ」

なんとなくそれ以上の追求は出来ずに、再びアキトは黙り込んだ。
そうしている間にも発射シーケンスは進んでいる。
地球までは数時間。
それまで何をしようか、とぼんやりとアキトは考え始めた。


地球について一日目。
一日目は仕事に費やし、それでその日の全てが終わった。
ホテルに戻ると、服が皺になることも気にせず、そのままベッドに倒れこむ。
溜息。
けれど、二日目は午後――それも夕方――の会議に出るだけでいい。
その会議も高々二時間程度だから、今日に比べれば随分と楽なスケジュールだった。
ベッドに身を預けたまま、彼女は部屋の入り口付近にまだ立ったままのアキトに呼びかける。

「明日、行きたいところあるんだけど、連れていってくれる?」
「それはいいけど、どこだ?」
「・・・ああ、そっか。アキトくんに知られちゃうとあんまり意味がないのよね」
「なんだ、それ」

彼女の意味ありげな言葉に彼の訝しげな声。
そのきょとんとした彼の表情に、彼女はくすっと笑う。

「いいわ。明日はタクシー呼びましょう。付き合ってくれるわよね?」

護衛だからということもあったが、彼女のその意味の分からない言葉の勢いに、アキトはただ頷いた。
同時に心の中で首を傾げる。
一体、何だというのだろう?
しかし、その問の答えは翌日になるまで待つしかないようだった。

明けて、翌日。
起きて早々にシャワーを浴びた後、エリナは早速フロントに連絡を取ってタクシーを呼んだようだった。
アキトはただそれをただ見ているだけ。
女性というのはよく分からない行動力を発揮するときがあるが、これはその一例だろう。
アキトは手に持ったコーヒーカップ――このコーヒーもエリナが淹れたものだ――を口元に近づけて、優雅にモーニングコーヒーを飲む。
バスタオルで髪の水分をふき取りながら、エリナはアキトに問いかけた。

「モーニング頼もうと思うんだけど、アキトくんは和食の方がいい?」
「ああ。けど、エリナが食べたいものでいいよ」

その彼の言葉に、彼女は呆れて溜息を吐く。

「ホント、そういうところこだわり薄くなったわね。味覚、多少は戻ったんでしょ? 食べ物味わったらいいじゃない」

その言葉にアキトはまたきょとんとする。
継続的なイネスの治療によって、確かにアキトの五感は少しずつではあるが回復してきていた。
勿論いまだ完全にというわけではないが、それでも一頃の最悪の状況からは改善されている。
実際、数値的には常人の20%程度には味が感じられるようになっていた。
だから、最近では固形食だけではなく、ちゃんとした食事の体裁をもったものも食べ始めている。
つまりそういう意味では、かなりの改善がなされている状況だった。
とはいえ味が完全に分かるというわけでもないために、何を食べるか、といったことに関してはいまだ無頓着なきらいがある。

「まあいいけど。じゃあ、わたしも和食にするわね」
「…ああ」

そのアキトの頷きを受け入れて、エリナはフロントに連絡した。

「なんだか、今日は妙に元気だな」
「そう? いつもと変わらないと思うけど」

アキトの目から見れば普段とは異なる彼女の行動も、彼女自身の評価としては普段と変わらないらしい。
再び心の中で首を傾げながら、アキトはコーヒーカップを傾けた。
コーヒーの苦味に、回復はしているものの弱い味覚が反応する。
悪くない。
彼は、そう評価した。


モーニングを食べて、タクシーに乗ると、エリナはアキトに聞こえないように運転手に行き先を告げた。

「どこに行くんだ?」

当然の疑問。
けれど、やはりエリナは意味ありげな笑みを浮かべるだけ。

「行ってのお楽しみってところかしら」
「なんだ、それ」

ここまでひた隠しにする意味は分からない。
けれど、そこまでエリナが言うのなら、目的地に着いた後で考えることもいいだろう。
そう、アキトは納得した。
どの道今のエリナの様子を見る限り、質問をしても答えてはくれなさそうだ。
彼女の意味も根拠も分からない頑固さは知っている。
だから、彼はそのまま座して黙するのみとした。

タクシーは風景を流しながら目的地へと進んでいく。
しばらく行ったところで、どうも、山の方に向かっているらしいことに気付いた。
徐々に見たことのある景色があらわれる。
ほんの少し、身を硬くしたことに自覚した。
これから向かわんとしている先の見当がついたからだ。
目的地は―――。

「どうして、今更そこへ行く?」

徐に、彼は呟いた。
その言葉に、エリナは大して気負うこともなく返した。

「だって、おかしいでしょ? あなたは生きてるんだから」

さも当然といったその台詞に、しかしアキトは反論する。

「俺は、もう死んだも同然だ」
「どうして? あなたが死んだなんて、一体、誰が決めたっていうの?」

それを定義した彼自身、その問に瞬時に返すことは出来なかった。
かつて、ホシノ・ルリに向かって、”君の知っているテンカワ・アキトは死んだ”と、嘯いたことはあった。
けれど、それでもやはり自らの現状の意識を誤魔化すことは出来はしない。
自分は確かに生きているのだから。

「あのお墓、まだアキトくんの名前が彫りこまれたままでしょ? だから、それを無かったことにしようと思って」
「無かったこと?」
「そう。ドクターから変な道具もらってきたから」

言いながら、来ていたスーツのポケットからタバコのケース大の白い物体を取り出した。

「これ、石とかの鉱石に付着すると、その色素情報と硬度をコピーして同化するんだそうよ。つまり…」
「それを、俺の名前のところに埋め込む?」
「そういうこと」

よくできました、と教師のような口調。

「けど、そんなことに意味は無い」
「そうかしら? これも、ケジメだとは思わない? 勿論、あとはアナタがどうするか、だとは思うけれど」

きっかけ程度にはなるんじゃないの?、とそう軽い口調で言いながら、彼女はタクシーの窓から外に目を向けた。

「もう少しで着くわよ」

不思議と、アキトに拒否感は無かった。


石畳を歩く。
しばらく前に来たときよりも、空気は涼しさを帯びていた。
木々の葉も軽く色づき、何枚かの葉が落ちている。
しかし、それら以外全く変化の無い、敷き詰められた墓石群。
その群れの中に埋もれるようにして、その墓はあった。
”御統家之墓”と書かれたその墓石の周囲は、綺麗に整えられている。
定期的に掃除されているらしい。
誰が掃除しているのか、と空想したが、アキトはそれをすぐにやめた。
空想は空想であって、事実ではない。

「ホシノ・ルリが、定期的に来ているそうよ」

彼の思考をまるでなぞるかのように、エリナはそう告げた。

「ルリちゃんが・・・」
「そう。あの子も、そんなことに意味がないなんてことは、分かりすぎるほどに分かっているでしょうにね」

それに無言で返し、彼は墓石をただ見つめた。
昔の”自身”が葬られた場所。
そしてそこは、”かつての自分”を捨てようとした場所。
だからというわけではないだろうが、よく分からない郷愁が頭を過ぎる。
彼がそんな物思いに耽っている間に、エリナは墓石の裏にまわって、抜かりなく彼の名前を見つけていた。

「あ、あったわよ」

言って、彼女は手をひらひらと振りながら彼に自分の方に来ることを要求した。
もう半ば流されているに近い状況だったが、彼はそのまま彼女の言葉に従う。
墓石の裏側に回ると、確かに、自分の名前が彫りこんであった。

「確かに、俺の名前だな」

そういえば、と彼は回想する。
自分が社会的に死んだことになって、ここに名前が彫りこまれてから、直接その名前を見ることはなかった。
こうしてみると、確かに自分は死んだことになっていたのだと、妙な納得もする。
そんな彼を覗き込むエリナ。

「どうしたの?」
「いや、俺、本当に死んでたんだなって思っただけだ」
「・・・うん。そうね」

言って、彼女はごそごそとスーツのポケットから例のイネスからもらったという物体を取り出した。

「これ、どうする?」
「どうするって・・・エリナがやるんじゃないのか?」
「あら、これは復活の儀式なのよ。あなたが、自分で執り行った方がよくないかしら?」

その若干冗談のニュアンスを孕んだ言葉に、アキトは苦笑する。

「復活の儀式、ね」
「そう。だって、これでお墓に刻まれたあなたの名前は消える。”意識的”には、それで復活したことにはならない?」

分かるような分からないような論理だったが、彼はその勢いに乗って、彼女の言うところの”復活の儀式”を行うことにした。
なんだかよくは分からないが、悪い気分ではない。
だから、彼は、墓石に彫りこまれた自分の名前を塗り込めて、なかったことにした。
勿論過去まではそれでキャンセルはされない。
けれど、間違いなく、彼の中の重荷の一部が消えたことは確かだった。
つまり、それだけ無理をしていたということなのだろう。
そんな風に認識した自分を自覚して、彼は、少しだけ驚いた。


「”片翼の天使”って知ってるかしら?」

墓地から出ようとする道すがら、エリナは唐突にアキトに問いかけた。

「いや」

即座に出る否定の言葉。
実際、彼はそんな言葉を知らなかった。
そんなアキトの反応を半ば予測していたかのように、彼女は滑らかに説明を始める。

「二人の天使がいて、それぞれの天使は片方の翼しか持たないの。でも世界にはその二人の天使しかいない。誰も助けてはくれない。だから、空を飛びたいと思った時には、二人で支えあって飛ぶしかないの」

ふうん、と相槌をついて彼は話を聞く。

「私達は、そんな関係なのかもしれないわね」

気負いのない口調。

「勿論、直接あなたを助けて飛べるわけではないけれど・・・でも」

本当に、あなたを助けて飛べたらいいのにね、と風に乗せて、彼女は呟く。
アキトは、ただ、その彼女の横顔を見ているだけ。
そして少しして、一言だけ、彼は言葉をかける。

「俺は、十分エリナに助けられている」

その言葉に、彼女は淡い微笑を浮かべて、問う。

「本当に?」
「ああ。―――だから、そんな泣きそうな顔をしないでくれ」

それはアキトの今見せられる精一杯の優しさ。
その優しさを感じ取って、エリナは、一粒だけ涙を流した。


一人の男と、一人の女の物語。
一人の不器用な男と、一人の不器用な女の物語。
けれどそれは、彼らだけの物語。
どこにもない、彼らだけの物語。

-Fin-


Postscript

お久しぶりです。
前のお話を投稿してから約三年。
その間も二次創作を書いていたのですが、なんとなく最近書いたその話の一本を投稿させていただきました。
ただ、このカップリングの需要は少ないだろうなぁ、とは思いますが、どうかご容赦のほどを。
さて、このお話のタイトルにもなっています”片翼の天使”ですが、これ、某ゲームからパクった設定です。
元々それをイメージしてたわけではないのですが、今回書いていたコンセプトに非常に近かったので名前を拝借いたしました。
気付く人は気付く・・・かもしれません。

一応お断りをいれておきますと、このお話は正式な設定とかあんまり意識せずに、妄想だけで書いたお話です。
なので、劇場版の時のアキトとエリナのバックグラウンドの設定とかはかなり適当に考えて作ってます。
いや、つまり、適当だけど怒らないでくださいね、ということでした(汗)
では、ここまでのお話にお付き合いくださりありがとうございます。
機会がありましたら、また。


 

 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

二次創作では良くある話ですからあまりお気になさらず。こっちもあまりしませんから(笑)。>適当だけど

まぁ、度が過ぎると思わず突っ込みを入れたりするんですが(爆)。

 

気を取り直して本編の方ですけど、いいですね。

ややさっぱり風味なんで私としては物足りない所もありますが、これはこれで。