機動戦艦ナデシコ
〜ペルソナ〜
ｂｙ つちき 喬
『戦争とは悲劇だ。そして、喜劇でもある』
――黒鬼
ＡＣＴ.4 火星侵略〜マーズアタック〜
目の前にある漆黒の機動兵器に、僕は心を奪われる。
『兵器は所詮、人を殺すための道具さ』
パイロットの事など無視した、そう、まるでパイロットさえも殺す為に創られたようなその悪魔の如き機体にかけられた、
ある存在の言葉が思い浮かんだ。
嘲りと、悲しみの色を帯びた言葉に、僕は言葉を返せなかった。
この機体は、護る為ではなく殺す為だけに創られた、純粋な、兵器。
だからこそ僕は心を奪われる。
心の闇を具現化したような存在を前にして、僕はその欲求を押さえきる事ができない。
ネルガル会長アカツキ ナガレとしてではなく、一人の愚かな人間としてこの機体を操ってみたい。
僕の中のパイロットとしてのサガがそう告げる。
それは尽きる事の無い破壊欲。変わる事の無い破滅願望。
終焉への導きたる人喰いの機体。
ブラックサレナ――
花言葉は『恋』と『呪い』。
何に恋焦がれるか。何をそこ迄呪うのか。
根底に等しく流れるは、深き情念／憎しみ。
愛するが故に憎み、憎むが故に愛する。
どうしようもないアンビヴァレンツ（二律背反）。
その存在そのものが、何処迄も人間らしい。
絶対矛盾を抱えた至純なる機体。
メタリックブラックの耀き放つその装甲は、まるで星を散りばめた夜空のようで、僕はこの機体に宇宙を見る。
今ではもう、決して遠くはない世界。それでもなお、深遠なる不可思議に包まれた遥かなる世界。
手を伸ばせば簡単に掴めそうなのに、何処迄伸ばしても届かなくて、もどかしくて。
――涙が零れた、少年の日。
そっとブラックサレナの装甲に触れる。
穏やかな輝きを放ち、一見滑らかに見えるその装甲。直接触れてみれば、その表面はかなり荒れている事が良く解る。
幾百幾千の命を奪った対価としては安いものだが。
ふと、思う。
僕にもこれだけを業を背負う事ができるのだろうか、と。
これから戦争になる。いや、もう始まってしまっている。ならば生き残る為には、誰かを利用しなければならない。
僕達の目標は平穏。十年二十年で終る言葉だけの平和ではなく、少なくとも、五十年以上は続く平穏を。
勝ってはいけない――木星を植民地として、過ぎたる力を得ないためにも。
負けてはいけない――蹂躙される事を、望んでもいないのだから。
それがどれ程に困難な事か、ネルガル会長となって、そしてそれ以前から社会の暗部を見せ付けられてきた僕には解る。
それはアキト君も解っている筈だった。
かって別世界のアキト君が使用していた機体、ブラックサレナ。そしてそれに搭載されていたオモイカネ型
制御コンピューターリング。
彼女によって植え付けられた『アキト』のマトリクスは、＜闇主＞、＜武帝＞、＜狂王子＞、＜黒鬼＞、＜賢者＞、
＜魔王(まおう)＞、＜八咫(やた)＞の七つの仮面として大別されるが、それ以外の有象無象の『アキト』達のマトリクスもまた、
アキト君に組み込まれている。そのいい例が料理だ。
アキト君の創る料理は味が一定しない。いや、美味い事は美味いのだが、何万何億というアキト君達が積み重ねてきた
料理の知識と経験。その中には、中華料理が得意なアキト君がいれば、日本料理が得意なアキト君だっている。更に一言で
中華料理や日本料理などと云っても、地域事に料理の味付け方法ですら異なる。
今のアキト君をコックとして表現すれば生きた料理博覧会、とでも云うべきだろうか。それをなすためには知識だけでは
不可能。経験と、それを構築する記憶が不可欠。
それら数億の『アキト』の記憶が、この戦争の和平の難しさの生き証人と云ってもいいだろう。
……それでも、僕は歴史の流れに流されるだけなんてのは真っ平ご免だ。ならば僕は反逆者となろう。
もがき、あがき、僕の望む歴史を綴ってもらうぞ、世界よ!
その為にも利用させてもらうよ、ブラックサレナよ――――――――
今、火星駐留艦隊旗艦リアトリスのメインモニターに、チューリップと名付けられた敵木星蜥蜴の兵器と思われる物体が
映し出されていた。
かなり、でかい。しかし、表面上兵装は見受けられず、むしろ不気味でさえあった。
その不気味な姿を見ても、火星駐留艦隊総司令フクベ ジン大将は顔色を変えなかった。いや、変えられなかった。
いかな状況であろうとも、纏め役の者が狼狽して見せれば、それはたちまち周囲に伝染する。そして士気はがた落ちし、
勝てる戦でさえ勝てなくなってしまう。
そのような愚の骨頂を犯すつもりは彼にはなかった。昨今では殆ど大規模な戦争はなくなったとは云え――今だ地球〜月、
あるいは地球〜火星航路間には海賊などが出没している。
いや、その学歴だけの将軍達は敵を侮っているため恐怖などは感じていない。この、リアトリスの三分の二以上の乗員達の
ように。
古参の兵達ほど人員削減のために首を切られる。パイロットならばともかく、簡単な実習ですぐにマスターできるような
艦隊運営のための各部署などは、人員の入れ替わりが特に激しかった。
今現在、フクベと同期の人間は片手で数えられる程しかいない。それもこれも、仮想敵が少なくなってしまったために、
連合軍に回される予算が年々減少しているからである。
そんな連合上層部にとって、此度の木星蜥蜴の侵略は渡りに船であっただろう。事実フクベには、元老院の連中から
『勝ち過ぎないように』との釘が刺されている。
あまりにも容易く勝ってしまっては予算が搾り取れないと云う事か。愚か過ぎる。その『勝ち過ぎない』ために犠牲になる
兵士達の命はどうなるというのだろうか。換えの効く駒でしかないのか。
その責任を全て自分に被せて、僅かな退職金と共に辞めさせるつもりか――フクベはそう思考した。今の連合の
懐事情では、大将の退職金やその後の年金を渡すには少々辛いとでも云うつもりなのだろう。むしろ死んでくれる事を
望んでいるのか。彼には家族はもういない。もし彼が死ねば、遺族がいない以上一銭も払うことなくお払いできるのだから。
命がけの戦いが全く評価されていない。
それもそうだろう。戦いに命を賭けて、死の危険と隣り合わせで戦っているのは連合上層部の人間ではないのだから。
戦うのはあくまで前線の兵士なのだから。
自分に関係ないと思えばこそ、何処迄も冷淡になれる――他人事として。
それでも、兵士になろうとする者は後をたたない。月や火星への殖民があるとは云え、皆地球で暮らす事を望んでいる。
そのため、慢性的な人口飽和状態にある今の地球では職が不足していた。それをどうにかしているのが軍だった。
人間である限り、戦う相手にも事欠かない
それは、人のどうしようもない本能から来る物だったから。
「敵は真っ直ぐ火星に向かってきます。大気圏突入後、予想到達地点は同南極」
通信士の言葉に思考を遮られるが、今は目の前の敵を倒す事が第一である。全軍に檄を飛ばす。
「敵の目的が侵略にある事は明白である。奴を火星に降ろしてはならん! 各艦。射程に入ったら撃ちまくれえ!!」
若い兵士や戦争を知らない高級士官達は顔を寄せ合ってひそひそと話をしている。何を大げさな、とでも思っている
のだろう。
しかし、何度も戦争に参加した事のある兵士達は、そのフクベの檄にこれが戦争である事を実感させられた。
そして並々ならぬ相手である事を認識させられる。
いやがおうにも緊張感が高まろうという物だ。
「敵、なおも前進。有効射程到達迄後２０秒!」
その言葉に各艦に緊張が走った。その、目の前で、チューリップの表面に血管のような紅い光が全体に走った。
地上、ネルガル火星支部。その中で職員達が忙しく動き回っていた。
「速くなさい! 火星駐留部隊が長持ちするとは思えないわ! バックアップはＡクラス以上の機密事項を優先して。
メモリーに余裕が無ければそれ以下のデータは破棄して構いません。写し終わったデータから順次消去。
絶対にデータを復活できない様にしなさい!」
特に火星ネルガル支部主任イネス･フレサンジュは大忙しだった。遺跡の解析によって得た莫大なデータ、それを敵に
奪われるわけにはいかないのだ。だからこうして敵の有利になりそうなデータを根こそぎ消しているのである。
その作業自体は十数時間も前から行われているため、殆どの工程が終っている。それでも長時間の作業によってミスを
犯させないため、時々は発破をかけているのだった。
何故彼女達がこんな事をしているのかといえば、実は火星にも宣戦布告の文が送られていたのである。火星を統治している
都督府へのハッキングでそれを知ったイネスは、敵も古代火星人と同じルーツのテクノロジーを使用していると推理。
もしネルガル火星支部が襲われデータを取られるような事態になった時のために、こうした作業を行わせているのだった。
敵の方がテクノロジーの解析が進んでいるとは云え、念には念を。不確定要素は少なくすべきである。
既に作り上げていた部品はパーツごとにコンテナに収容、隠し倉庫に隠し、データのバックアップ体と
どうしても破棄できない重要書類の類は大体まとめて車に積め込む。
一応火星支部にもかなり頑丈なシェルターはあるのだが、もし敵が本当にここを狙って襲ってきた場合、耐えられる自信は
無い。むしろ自殺もいい所だ。だから逃亡の準備もさせている。
それを知った支部長が『現場放棄は社内裁判だー』などと理解の無い反応を返したので今はお休みいただいた。
無能者はこういう時に邪魔である。
「主任。もう少しでチューリップと駐留艦隊が接触します」
「そう、解ったわ。すぐ行きます」
ようやく梱包も終って一段楽したが、休む間も無く呼ばれる。
「後どのぐらいで接触するの?」
「３０も無いですね」
一体木連がどうするつもりか皆が見守る中で、画面の中のチューリップに異変が起こる。
「これは……?」
チューリップの全身に赤い血管のような物が浮かんだのだ。そして口が開く。中から現れる多数の戦艦。その総体積は
チューリップをはるかに越えていた。
「ボース粒子の増大が確認されています。これはやはり……」
「ボソンジャンプ……」
イネスが忌々しげに呟く。もしあれが本当にボソンジャンプだとしたら、敵の総戦力が解らない以上どのくらいの数が
増援として送られてくるのか検討もつかない。
連合軍がそれを知らないのが唯一の救いか。少なくとも無限の敵を相手にするという精神的重圧からは自由になれる。
「チューリップから出てくる敵のデータは取れているわね?」
「はい、大丈夫です。親ネルガル派の戦艦から送られてくるデータは全てクリアです」
「ぎりぎり迄データを収集して頂戴。相手がボソンジャンプを使える以上、こちらも使えないと少しきついでしょうからね」
チューリップから吐き出された数百隻の戦艦が駐留艦隊との交戦間合いに入り、そして――宇宙に綺麗な花が咲いた。
「有効射程到達迄後５秒。……３……２……１。入りました!!」
「てえ!!」
通信士の言葉に一斉射撃を命じるフクベ。ほぼ同時に敵も撃ってきた。
本来は見えない筈の光線の軌跡が、エフェクトをかけて見えるようにされてモニターに映し出されている。そのモニターの中で
互いの主砲は進み、すれ違う瞬間、宇宙軍の放った光線が全てあらぬ方向へと向かう。
そして――宇宙に綺麗な花が咲いた。
「我が方のビーム、全て捻じ曲げられました!!」
ただの一撃で三分の一以上の戦艦を落とされながら、それでもなんとか無事だった旗艦リアトリスの中で通信士が報告する。
「むうう……重力波か……」
フクベはそのような事が可能な兵器の一つとして重力波を聞いた事が合った。地球の幾つかの企業で開発が進められている
という話は聞いたが、何処も完成していないという。それは軍としての敗北では無く、明確な技術の敗北だった。
彼は敵の進んだテクノロジーに敗れたのだった。
保有技術に絶対的な差がある以上、どんなに指揮官が優れた命を発しようとも焼け石に水。フクベにできる事は、いかに
味方の損害を少なくしながら退避するかであった。
「敵のチューリップから、多数の機動兵器射出!」
どうやら敵は火星駐留艦隊を徹底的な迄に叩き潰す気らしい。
『レーザー、一斉発射』
他の艦の艦長の命に全艦隊が一斉にレーザーを発射する。そのレーザーの軌道はスクリーンに画像処理によって
表示された。敵の張ったフィールドによって弾かれる光景迄も。
『効かない!?』
それは恐怖だった。なすすべもない、圧倒的な相手を前にした時の。
「チューリップ、衛星軌道に侵入。後60秒で火星南極点に到達」
チューリップが火星で何をするつもりなのかフクベは知らない。知りたいとも思わない。それは軍人の本分では無いから。
それでも軍人としてチューリップの火星降下を成功させるわけにはいかなかった。
「総員退避! 本艦をぶつける!」
フクベの命に驚きはしたが、速やかに乗員は近くの脱出艇に向かって移動し始める。艦橋の船員以外が全て退避したのを
確認すると、ブリッジも切り離され、旗艦リアトリスはチューリップに向けて突っ込んでいった。
ブリッジを切り離されたリアトリスは、脱出直前に打ち込まれた命令によって核パルスエンジンを臨界にまで引き上げた状態で
ぶつかった。
激突の衝撃によってチューリップの降下軌道が変わる。更に衝撃は核パルスエンジンの誘爆を引き起こし、最大の
エネルギーでチューリップの外殻に傷を付けた。
しかしチューリップは、傷付き大気圏突入軌道を外れながらも燃え尽きる事無く火星地表とのランデブーを果たした。
『敵チューリップ、ユートピアコロニーに墜落。地上は……壊滅的です』
通信士の報告は、味方艦隊の爆発音に紛れて虚空に消えていった。
ドゴオオオォォォォンン……
激しい衝撃に、地下に作られたシェルターが激しく揺れる。
「本部。本部ッ!!」
その衝撃に、一体地上で何が起きたのか連絡を取ろうとするが、通信は全く繋がらない。
「だめなんじゃない」
「あっ?」
「地上がだよ。下もこれじゃ、地上は全滅だよ」
老人の諦観しきった言葉に、若い軍人は返す言葉も無い。自分とて、まさかと思いたかったのだから。
そんな軍人の様子に、自嘲めいた笑みを浮かべて老人は酒をあおる。
彼等の会話が耳に入り、思わず我が娘を抱きしめる母親。少し痛いと思いながらも、娘は母を慰める。
「大丈夫だよ、ママ。アキトお兄ちゃんがきっと助けに来てくれるから」
欠片たりとも疑いのない娘の言葉に、少しだけ緊張も和らぐ。
「そうよね。アイにはお兄ちゃんがついているものね」
「うん!」
満面の笑みを浮かべる娘に、今は地上にいる夫に思いを向ける。いつか、助けに来てくれる筈と。
再び轟音が聞こえた。それもすぐ近くで。見れば、バッタが一匹、ぶち壊した壁の隙間から這い出そうとしている。
恐慌状態に陥る人々。一斉に出口の方に集まる。その人の波に攫われてアイと離れてしまう。
「ただ今扉を手動で開けています。慌てないで下さい」
先程の老人が率先して扉を開けようとしているその横で、別の軍人が叫ぶ。
「市民の安全を確保しろ!」
同僚の檄に何人かの軍人がマシンガンを撃ち放つが、相手は数さえあれは戦艦とまともに戦り合える機動兵器である。
牽制にすらならず、緩慢な動作でゆっくりと近づいてくる。
銃では埒があかないと判断した何人かの軍人が捨て身で時間稼ぎをする。特攻と云う名の……
時間稼ぎは決して無駄にならず、衝撃でいかれた出入り口を開く事にやっと成功する。これで助かると扉を開く。
その隙間から見えた物は、紅く輝くセンサーアイ。
希望が絶望に変わり、爆発。炎の舌に呑まれる人々。
肉の焼ける匂いが少女の鼻腔をくすぐる。それは、十歳の少女が経験するにはあまりにも重い出来事だ。床にへたり込み、
胸にかけたペンダントを握り締めて大好きなお兄ちゃんの事を想う。
動けない少女に、ゆっくりと近づいてくるバッタ。そして、外へと通じる壁の隙間から爆音と共に侵入してきた炎がその空間を
一瞬埋め尽くした。
「チューリップ、爆発しました!!」
云わずもがなの事を報告する通信士。それが仕事だからとはいえ、解り切ったことを報告されても少々困る。
火星に落ちたチューリップが爆発したのだ。やはりリアトリスの体当たりプラス自爆、そして狂った角度での大気圏突入は
チューリップにも壊滅的な打撃をもたらしていたらしい。おかげでこれ以上の増援が来る心配が無くなったわけだが、
その結果たるや凄まじい物がある。
かってユートピアコロニーが存在した場所を中心にできた巨大なクレーター。幾等大気圏突入時に減速をかけていた
とはいえ、リアトリスとの激突でそれもままならず、数百ｍもある巨大な物体が隕石としてしまったのだ。それに付け加えて
チューリップの爆発。もはやコロニーがあったとは想えない程一面の荒野がそこにできあがっていた。
これではシェルターに非難していた人達も絶望的であろう。どうするか判断する時間も無く、通信士によって凶報が
もたらされる。
「木星方面より新たなる船影を確認。チューリップです。数は……」
思わず黙ってしまった通信士に報告を続けるように促す。
「数は……百、以上です」
どよめきが起こる。先のチューリップ一隻からは数十の艦隊と数千の無人機動兵器群が発射された。その百倍となれば。
「全艦退却! 地球に向けて転進しなさい!!」
「な。しかし、少将」
「なによ」
「我々に与えられた命令は火星防衛の筈。それを提督の命も無くかってに現場放棄しては……」
通信士の言葉にムネタケ サダアキ少将は「フンッ」と鼻で笑い云った。
「そんな物、他艦隊の艦長らにも通信をいれて一斉に帰れば何の問題も無いわよ。大体ね、あたしには提督みたいに安っぽい
ヒューマニズムに命をかける気なんてないの。その安っぽいヒューマニズムの結果がユートピアコロニーの壊滅よ。お解り?
余計な事をしない方が良い時ってのもあるもんよ」
「でしたら、せめて民間人の収容だけでも」
「どうやって。チューリップ一隻から出てきた艦隊群にさえ全火星駐留艦隊でかかっていって壊滅したのよ。それが百隻。
防衛線なんてあっという間に蹴散らされるに決まっているでしょう? そしたら、民間人収容のために地表に降りていった
シャトルが標的になるわ。どっちにしろ助からないのよ。だったらあたしは軍人としてなすべき事をするだけよ」
「…………」
「解ったらさっさと通信をいれなさい。付近の脱出艇を大体回収した後、この宙域から離脱するわよ」
上司の命令には逆らえず通信をいれると、殆どの艦隊が離脱の準備を始めた。その中で、フクベからの通信が入る。
『何を考えておる、ムネタケ! 民間人の収容が殆どすんでおらんぞ。戦線離脱には早急過ぎる! 敵チューリップとの
交戦にはまだ余裕がある。今撤退すれば地上のエステバリス部隊をも見殺しにする事になるぞ!?』
「確かにチューリップとの交戦距離にはまだ余裕はあるわ。でも最初のチューリップから出てきた艦隊は健在。意地を張っても
全滅すると判断しました」
『ならば、地上のエステバリス部隊は!?』
「機動兵器にできる事は限られているわ。戦艦と戦うには戦艦が必要なのよ。何より、数百人のエステバリス部隊のために、
我々数千人の火星駐留艦隊が命をかけるなんて、本末転倒も良い所よ。それにね、火星のモルモットがどうなろうと
知った事じゃないわ。あたしは自分の命が可愛いの。それじゃ」
『待て――』
プチッ
「……よろしいのですか?」
「構わないわ。後続のチューリップの射程距離にはいる前に撤退よ」
この日、火星駐留艦隊は、僅か一時間足らずの戦闘で敗退した。
その、圧倒的な技術力の差の前に。
ドゴオオオォォォォンン……
画面の中で轟音と共にユートピアコロニーへとチューリップが墜落した。
その光景に思わず「余計な事を……」と呟くイネス。
確かに火星防衛のためにはチューリップの火星進入を成功させるわけにはいかないだろうから、捨て身でぶつかっていった
のは良いだろう。しかし、これだけ戦力差がはっきりしている状況で、敵の火星進入が多少遅くなった所でなんの意味がある。
ましてやその結果故郷が灰になってしまったともなれば、特攻していった艦の艦長を恨むのも決して筋違いではあるまい。
そうこうしているうちに、落下したチューリップは爆発、更に木星の方角からは後続と思われるチューリップが百隻以上
現れる。
「まさに大盤振る舞いね」
呆れたようなイネスの声。一隻で火星駐留艦隊を蹂躙しておきながら、なおも増援を送る念の入れようだ。呆れる以外の
何ができようか。
「主任。艦隊が撤退の用意を始めています」
「そう。まあ当然の判断ね」
これで火星を護るのはエステバリス部隊と航空部隊のみ。火星最大の都市であったユートピアコロニーが壊滅した以上、
最後の防衛線たる彼等の総数は千にも満たない。
いずれはこのネルガル火星支部にも進行してくるだろう。
「アキさん。ユートピアコロニーの周囲に敵機動兵器はいるかしら」
モニターを見ながらアキと呼ばれた女性が答える。
「いえ。ユートピアコロニーを中心に半径百km以内に木連側の機動兵器は存在しません。どうやらチューリップの爆発で
壊滅したようですね」
「そう……」
思考に移るが、時間は無い。火星駐留艦隊が退却した事により、障害の無くなった大気圏突入を始めたチューリップが
出てきたからだ。
「総員退避!! ユートピアコロニーに向かいます」
イネスの予想もしなかった言葉に、場がざわりとどよめく。
「そんな、主任! 本気ですか? ユートピアコロニーはもう廃墟なんですよ?」
「そうです。故郷だからって、自殺でも死にいくつもりですか?」
研究員達の当然の反対にも慌てず、至って冷静にに受け答える。
「まさか。まだ若い身空で死ぬ気なんか無いわ。この世に未練はたくさんあるもの。あの実験とか、あの実験もまだやって
いないもの」
そう云って喜悦に歪むその表情はまさにマッドそのもの。その笑顔に何故だか安心する（?）研究員達。
「大体こんな目立つ場所に隠れていたのではすぐに見つかるわ。ここのシェルターはあくまで数ヶ月の避難を目処に
作られているから」
「ですが、壊滅したユートピアコロニーに行くよりは遥かに安全な筈です」
「当てがあるのよ。決して強制はしないわ。でもここに留まっているよりは安全よ」
「でしたらその理由を」
「時間が無いわ。移動しながら説明してあげる。だから速くしてちょうだい」
その視線の先には、次々に落下してくるチューリップの様子が映し出されていた。
――結局、イネスに付いて来るのはネルガル火星支部の総職員の二割程度だった。
「で、主任。ユートピアコロニーに行った方が良いと判断する根拠はなんですか?」
がたがた揺れる、お世辞にも座り心地は良いとは云えない軍用車の中でアキが尋ねる。
その言葉に、自分も気になっていたのか注意がそれた運転手に注意をしておいてイネスは話し出した。
「アキさん。火星で一番古いコロニーが何処だか知っているかしら?」
「ええ、ユートピアコロニーでしたよね」
過去形。
「そうよ。その建造は火星殖民初期。初期の頃はしょっちゅうナノマシンスタンピードが起きていたという話は聞いた事が
あるでしょう?」
コクリ、と頷く。
「そのため、ユートピアコロニーの地下には、暴走時の避難場として百年以上も前に作られた特殊なシェルターが存在
しているのよ」
「特殊……ですか? 火星大気圏内で行動できるように調整された艦についているような、濾過装置でも付いていたん
でしょうか」
「そうよ。現在標準とされている奴の数百倍も強力な奴だけどね」
「でもそれじゃあ、換気が万全なだけに聞こえますけど」
「そうでもないわ。核シェルターに使用される特殊合金を分解するような能力を持ったナノマシンも発見されているのよ。
そんな強暴なナノマシンに対抗するために、分解しにくく壊しにくい、更にもしもの時のために時間稼ぎができるように厚みも
持たせたらしいわ。地球･月･火星の何処を探してもこれ以上のものはないでしょうね」
「それじゃ、チューリップの落下でも、無事だと?」
「私はそう確信しているわ」
「でも百年以上も前の代物でしょう? どのくらい劣化しているか……」
「大丈夫よ。云ったでしょう? ユートピアコロニーの地下にあると。もし崩壊でもしたら一大事よ。だから五年に一度点検
されているの。そして今年がその五年に一度の点検のある年。結果は殆ど劣化は見受けられず」
へえ〜、と感心する。百年以上も前の技術でそこ迄の物ができるとは思わなかったからだ。当時の技術水準から比較して
見ればかなりのオーバーテクノロジーだろう。
「あっ。でも、食料はどうするんですか?」
「その心配も要らないわ。地下のシェルターは殖民初期の人達の思い出の塊みたいな物でね、今も非常食がたっぷり保管
されているわ。賞味期限は百年。三万人を半年はまかなえるだけの量があるわ」
「……古いのは大丈夫ですか?」
「それも大丈夫。点検の度に古いのと新しいのを入れ替えているの。その入れ替えた古いのをね、殖民記念日にバザーで
安売りするの。私は奨学金だけの貧乏学生だったから、ほんと重宝したわ。記念日が待ち遠しかったもの。三ヶ月分を
纏め買いしてね、浮かした食費で色々買ったりしたわ。洋服とか。一番お金をかけたのは参考書だったけど」
照れたような苦笑を浮かべる。
「やっぱり非常食だから味気ないけど、アキト君が来てからはそれも変わったわ。なんか味付けしてると思ったら、とても基が
非常食だったとは思えない程美味しくなっているんです物。『イネスお姉ちゃん、ピーンチ、保護者失格か?』て感じだったわ」
当時の事を思い出しているのか、クスクス笑いながら云う。
「羨ましいですね。あたしもあまり料理が上手じゃなくて、何時も妹に作ってもらっていました」
「あら、私は料理が苦手じゃないわよ。ただアキト君の料理が美味しすぎるだけで」
「ふふ。そう云う事にしておきますね、主任」
「棘のある云い方ね。良いわ。今度アキト君の料理を食べさせてあげるから楽しみにしてらっしゃい」
「楽しみにします。……アキト君の料理を食べるためにも、ここで死ぬわけにはいきませんね」
「……そうね……」
そう、ここで死ぬわけにはいかないのだ。逢いたいという、この想いがある限り。
しばらくの間沈黙が続き、もう少しでユートピアコロニーという時、異変が起きた。同行していた二機のエステバリスの
片割れが被弾したのだ。
振り返れば、後方に見えるバッタの群れ。その数は二十もいないだろう。百数十人もの人間が集団で移動しようとすれば
それなりに目立つためそれで追って来たのだろうが、状況は悪い。
エステバリスは二機しかいない上に、片方は被弾。しかも被弾していない方のパイロットは全くの実践経験のない、
温室育ちの素人である。戦力としてはあまり期待できず、イネス達をユートピアコロニーまで護らなければならないのだ。
二機のエステは振り返り、装備していたライフルをバッタに向けて撃つ。
戦艦とは違いディストーションフィールドは装備していないが、それでもライフルの弾で貫通するにはバッタの甲羅は
硬かった。熟練の男が撃った方の弾は、甲羅の隙間など装甲が薄い部分から体内に侵入し内部から破壊するが、新米が
乗っている方は狙いが出鱈目のため何ら効果が見受けられない。弾の撃ち方も出鱈目であるため、熟練の男が半数近くの
弾を残している時点で新米の弾は尽きてしまった。 カチッ、カチッと空しい音がその手元から響く。
『くっ。おい、小僧! 俺が援護してやる。突っ込め!』
熟練の方である壮年の男がまだ若い、少年の域を出ていない新米の青年に向かって云う。
『そ、そんなっ!? 死んじゃうじゃないですか?』
『やかましい。シミュレータだけとはいえ、多少は扱えんだろ? 弾切れの状態でごちゃごちゃ云うな。腹あ括って
接近戦挑め。あいつ等は無人兵器だ。百や二百もいる訳じゃねえんだ。お前が接近戦を挑んでもなんとかいける筈だ。
俺が援護してやるからいけ』
『な、何でだよ? アンタ、何度も実践経験あるんだろ? だったらアンタがいけよ!』
『お前の援護が期待できないから云ってるんだ。それに俺の乗っているこいつはぼろでな、とても接近戦ができるとはおもえん』
壮年の男のご尤もな答えにも、青年の方は顔を青ざめていやいやするばかり。もう一度叱咤しようと口を開きかけた瞬間、
バッタに背を向けあらぬ方向へと逃亡した。
『バッ――』
移動するトラック群と一緒にいたのでは追いつかれてしまうと思っての行動だろうが、トラックよりもエステバリスの方がバッタの
攻撃目標順位としては高い。
背を向けて無防備になったエステバリスへと、ここぞとばかりにミサイルの雨が叩き込まれる。
『――ぁ――――』
何を云おうとしたのか、炎の中に呑み込まれるエステバリス。壮年の男は、唇を噛み締め苦々しげにその光景を見ながら、
バッタに銃弾を叩き込む。
三機――五機――
なんとか半分近くまで減らしたものの、おんぼろに加え壊れかけのエステバリス一体では、よっぽどのパイロットでない限り
分が悪い。そしてとうとう弾も切れてしまった。
意を決して接近戦を挑むのだが、遠距離戦を挑んでいた時に避けきれなかったミサイルによる損傷が機体を苛め抜く。
たちまち窮地に追い込まれてしまった。
そのエステバリスから、ノイズ交じりの通信が入る。
『イネ……任……れよりもろと……自爆する。ぜひとも生き残……球の奴等に火星人の意地を……い知らせてやっ……』
途切れ途切れでもなんとか意味の解るその通信に顔色を変える。
「待ちなさい! 命を捨てるなんて馬鹿な事許さないわよ! 自爆なんて止めなさい!!」
更に被弾するエステバリス。被弾の衝撃で回路が上手く繋がったのか、今度は先程よりもクリアに通信が聞こえてきた。
『確かに馬鹿な事かもしれませんが、これは無駄死にじゃあありません。我々火星人が一人でも生き残って、この戦争の
馬鹿馬鹿しさを地球に知らしめれば、それが俺の、俺達のささやかな勝利です。だから、頭の悪い俺にはこんな事しか
できないけど、頭のいい主任達が生き残って、身勝手な政治家達の創り上げたシナリオをぶっ壊して、これはただの戦争
なんだって、人と人の命の取り合いで、正義も悪も存在しない、いつもの、くだらない戦争の一つなんだって、その事を地球の
奴等に教えなきゃあ、俺達の死は避けられた筈だって事を解らせなきゃだめなんすよ。奴等は言葉の通じないエイリアンで、
俺達より優れた技術力を持っていたから、俺達の死はしょうがない事だったなんて、そんな事思わせちゃあだめなんですよ。
奴等は同じ人類で、政治家どもがきちんと百年前の事に付いて謝罪すりゃあ、俺達は死ぬ必要も無かったんだって、
この俺達の死は政治ゲームの犠牲による無駄死にだって事を、教えなきゃあだめなんですよ。だから、それができる主任達
には生き残って欲しいんです』
言葉が、でない。
男が喋っている間に、エステバリスはなんとか五匹のバッタを倒し、もはや動けるのが不思議なほどの損害を負っていた。
『それにね、ヘヘッ。最初に被弾した時、俺の乗ってた奴おんぼろだから、内装がはがれて腹ざっくりいかれちゃって……
自分でもこうして喋れているのが不思議なくらいで、自分でももう長くないなってのが解るんです。極度の興奮状態や、
致命傷になるほどの大怪我って、脳が痛みを感じないって話は聞いた事あったけど、本当だったんだなって凄く実感している
のが解ります。今俺が凄く喋っているのも、きっと死にそうだからなんですよね。誰かに、俺がこうして生きていた事を
憶えていて欲しいんですよね……』
握り締めた拳から血が滴る。爪が掌の肉を食い破ったのだ。
「名前を……貴方の名前を、最後に聞かせてちょうだい」
エステバリスが最後の力を振り絞ってバッタの中心に飛び込む。鋼鉄の餌を食い散らかそうとする蟲どもの群れ。
『はっ。サカザキ ショウゴであります』
「そう、覚えておくわ。貴方の死は無駄にはしない。……だから、死んで」
ふっ、と微かな笑いの気配が響いた。
『こちらこそ、辛い事をお願いしてしまったかもしれませんが生き延びて下さい。決して絶望せず、生き延びて、この戦争を
終らせてください。では――』
そして――巨大な爆発音。
静寂――聞こえるのはタイヤが土を噛む音。その中で、イネスが呟く。
「ええ、約束するわ。必ず生き延びて、この戦争を終らせる。それが、私達生き残った火星人達の義務ですもの」
彼等は行く――戦争の女神の名で呼ばれる星の上を。
廃墟と化したユートピアコロニー。チューリップが落ちた時点でまともな姿を期待していたわけでは無いが、それでも故郷が
廃墟となった事には一抹の寂しさを覚える。やるせない寂寥感を振り払い、主に外周部に設置されたシェルター内の生存者を
確認させる。
チューリップが落ちたのは街の北東部であり、そこから街の中心辺りまではほぼ絶望的だが、それ以外はまだ希望があった。
イネスも、知り合いが避難する予定の南部にあるシェルターへ向かう。
入り口は簡単に見つかった。バッタのミサイルで壊されたのだろう。扉は半壊している。
数人の護衛を伴い中に入ると、漂う異臭に思わず鼻を押さえる。
肉の焼ける、香ばしい匂い。
吐き気を気力で押さえ込みながらも捜索を開始すると、すぐに戦果は上がった。瓦礫や他の人間が盾になって爆発の衝撃の
直撃を逃れたのだろう。全滅と思われた中にも十数人の生き残りがいたのだ。その中にイネスは知り合いを見つけた。
｢ジュリアさん、大丈夫ですか?｣
どんなに慌てていても不用意に身体を揺らすような真似はしない。しばらく呼びかけているとゆっくりと瞼を開いた。
｢あ……イネスちゃん?｣
頭でも打ったのか押さえながら上半身を起こす。意識ははっきりとは覚醒していなようだ。
｢ちゃんは止めて下さいと前にも云った筈ですが、そのイネスです｣
26にもなってちゃん付けは恥ずかし過ぎる。
｢ん……そう云えばそうだったわね。ここは……シェルター……? そっか。私避難してたんだっけ｣
ようやく動き出した頭で周囲の状況を確認する。
瓦礫の山と、肉の焼ける匂いと、血を流し横たわる人々。そしていなければならない筈の人間がいない事に気付く。
｢イネスさん。アイは? アイを見ませんでしたか!?｣
イネスは黙って首を横に振る。
｢……そう……｣
｢ジュリアさんが望むならもう少し探させますが……｣
躊躇いがちのその言葉だけで、あまり時間に余裕はないのだと解ってしまった。
｢いえ、私の我侭で皆さんを危険な目には合わせられません。やるべき事をやって下さい｣
｢すいません……｣
物分りの良い自分が嫌になる。母として、ここは何が何でも娘を探させるべきなのに、夫と共に培った諜報員としての冷静な
自分がそれを許さない。
｢旧シェルターに向かいます。……できれば、付いて来て下さい｣
躊躇いがちに、力なく頷いた。残ってもできる事は何も無いと解ってしまうから。
気絶から醒めたネルガル火星支部長は、破棄されたデータの復旧を命じていた。最上級機密の殆どは完膚なきまでに
破壊されていたが、低階層、エステバリスの開発データや様々な基本データは時間が無かったのか厳重にプロテクトを
かけられた状態で残っていた。
そのプロテクトの解放を命じたのである。
命令を聞いた殆どの者が今すべき事ではないと反対したのだが、最上位者に強く云われれば断る事は難しい。仕方なく
作業を行っていた。
無論全くやる気のない作業である。頑丈なプロテクトと相俟ってその作業は遅々として進まない。
苛立つ短気な支部長は残った全職員にその作業に当たらせたのだが、彼は本当に理解していたのだろうか?
今が、戦争中だという事を。
浅慮のツケはすぐに訪れた。敵の進行という、最悪かつ最もありふれた形で。
幾度か爆発音が聞こえていたにも関わらず作業を続けさせていた支部長は、いきなり研究所が揺れた事に酷く狼狽した。
｢い、いいいいいい一体何事だ!!｣
素早く外部情報の確認を行っていた職員が答える。
｢敵性機動兵器の進行です。総数約五百。戦艦も確認できます｣
｢な、なんだってえ! 何でこんなこんな所に来るんだよお? コロニー襲ってりゃ良いじゃんか｣
何気に非人道的な事を云いながらガタガタ震えるだけの支部長。そのざまは無様の一言に尽きる。
｢それはやはり比処が火星で最も大きい研究施設だからだと思いますが｣
「だ、だったらどうにかしろよお前! わわ私はこんな所で死にたくない。こんな所で死ぬべき人間じゃないんだ｣
至極当然の事を云う職員に対し八つ当たりで返す支部長。底が浅い。
｢そ、そうだ! プロトエステ部隊がいる筈だ! 奴等が警備している筈だ! そうだろ!?｣
｢警備部隊は40％が既に壊滅。戦力差がありすぎます｣
「ななななんだってえ! なんて役に立たない奴等なんだ!! 私を助ける為にもっと頑張らんかあ!!」
喚くだけの支部長を放って皆が部屋の外へ駆け出す。
「一体何処へ行くつもりだあお前等!」
一人、先程から冷静に現状を伝えていた女性職員が立ち止まってご丁寧にも答えてやる。
「逃げるんです」
これ以上無い程にシンプルな言葉を残して、その女性も出ていった。後に残されたのは、爆発の衝撃の時に床に倒れたまま
置き上がっていない支部長だけ。
「ま、待て! カザナギ君!! 私を置いてくな。置いてかないでくれえ!!」
差し伸ばした手は見捨てられた。腰が抜けて立てないのか立ち上がる事もできず涙を流して這いずり回る。
「ひッ、ひいいいぃぃぃ。ど、どうして私がこんな目に会うんだ。私はこの火星支部で一番偉いんだぞ。私が一番偉いのにぃ」
泣き言をぬかす支部長の上に重なる影。誰か助けに来てくれたのかと喜色満面の笑顔で顔を上げると、そこに居たのは、
所々を紅い斑で染めた黄色の蟲型機動兵器。紅いセンサーアイがきらりと光る。
「ひゃああぁぁぁ!! 助けて下さい! お願いします。どうか命だけは。この研究所にあるデータ全て渡しますからああ!!」
とても上半身だけとは思えないスピードで這いずり距離を置くと、今度は機動兵器に向かって土下座をして命乞いをする
始末。
その情けない姿に、まるで困ったように首を傾げる。そんな一部分だけを見ればいっそ愛らしいのだろうが、赤黒く変色した
斑は趣味が悪い。
無人の機動兵器であるため、蟲は入力されたコマンドしか実行できない。攻撃をしかけてくるモノには容赦無く反撃するように
設定されているが、土下座して命乞いした場合の対応は彼のコンピューターの中にはインプットされていない。
仕方ないので上位者を呼んでしばらく待つ。
数分後にやって来たのは、黄色い蟲と同じ形ではあるが一回り大きいやはり黄色い蟲。ネルガル火星支部を襲った蟲達の
リーダー格の一つである。
大きい分知能に優れたその固体は、支部長に火星支部の全データを明け渡すように命令する。
喜んで従う支部長だが、既にプロテクトが解かれたデータはともかく、解かれていない物にはさっぱり手出しできない。
「こ、こんな筈は。待って下さい。お願いします。殺さないで下さいぃ!」
あくまでも情けない支部長の姿に、その蟲のリーダーに溜め息をつく機能でもついていればしていただろう事は想像に
難くなかった。そして、こんな役立たずを見つけてしまった目の前の下位端末を恨んだであろう事も。
ユートピアコロニー跡。イネスは十数人の生き残りの兵士と共にいた。場所は旧シェルターへ物資を運搬する為の
資材運搬用通路の入り口。ようするに旧シェルターへ続く通路の中でも最も大きい通路である。
他の避難民達は既にトラックに乗せてシェルター内へ向かわせていた。彼女達がいるのは、通路破壊用の爆薬を
仕掛けているからだった。
なんと云ってもトラックが通れるくらいの通路である。トラックよりも小さい蟲型機動兵器が通行できない理由は無かった。
途中には一応シャッターを降ろせる個所が何十箇所もあるのだが、そんな物解除されてしまえばおしまいである。
だから念には念を入れて通路を破壊する事にしたのだ。他の通路についてはそれほど大きくない事もあり心配はしていない。
精々が蟲型機動兵器一機が通行できるぐらいの幅しか無く、所々に電磁地雷を設置しておいたのでそれで充分だろう。
「イネス博士。これで比処の入り口も破壊できますかね?」
「計算では大丈夫だとは思いますが。爆薬は後どれぐらい残っています?」
「大した量はありません。これだけです」
云って余った爆薬の類を見せる。
「これだけですか……なら下手に使ってしまわないで残しておきましょう。何時また必要になるか解りませんし」
「そうですね。よおし野郎どもぉ! 撤退するぞお!!」
『はっ!!』
余った爆薬を鞄に分けてしまい、部下に撤退の合図をする。そこに部下の一人から報告が入った。
「隊長。南西の方角から飛行物体が接近しています。蟲どもではなくて短距離輸送用のシャトルのようですが……」
「なんだと? ちょっと貸してみろ」
部下が警戒用に使っていた双眼鏡を借り、云われた方角を見てみる。なるほど。確かにシャトルが一隻こちらに
向かっていた。どうみても暴走気味の速度で。
「おい……ありゃあ確かにこっちに向かっているが……もしかして比処を直撃しないか?」
冷や汗が一筋流れる。どんどん迫ってきているが、明らかに減速が間に合っていない。
「退避! 退避ぃ!!」
胴体着陸。
隊長がイネスを庇いながら号令を下す。流石は訓練された兵士達。外れを掠めた事もあって、誰も巻き込まれずにすんだ。
「あ、ははは……爆薬、節約できましたね……」
誰も巻き込まなかったとは云っても外れを掠めただけはある。半地下の資材運搬用通路の入り口、その三分の一程が
衝突により崩落していた。
燃料は大して入っていなかったのだろう。漏れる事も爆発する事も無かった。搭乗口は多少歪んではいるが開けられない
程では無い。兵士の一人がバールを持ってきてこじ開ける。
「おい! 大丈夫か!?」
「はい……なんとか」
真っ先に駆け込んで安全を確認したのはコックピット。斜めに突っ込んで羽根を利用し衝撃を和らげたとはいえ、壁に最も
近い位置だったのだ。事実パイロットの額からはぶつけたのだろう。一筋の血が流れていた。
肩を貸してシャトルから降ろしてやると、シャトル内にいた全乗員、およそ六十名の姿がそこにあった。
「これで乗っていたのは全員か?」
「はい。機内も確認しましたし、乗員にも確認させました」
「解った。アル。デイジー。クリス。アッシュ。ランド。カール。マックス。エドガー。お前等はあまり走れなさそうな奴等を
ジープに乗せてさっさと行け。イネス博士はすいませんが徒歩組でお願いします」
「しょうがないわね。この中だと私は元気な方だし」
「ご理解ありがとうございます。さっさとしろ! 今の衝撃音を聞きつけて何時蟲どもがやって来るか解らんからな」
各所に設置するための爆薬や電磁地雷、それに護衛用の対戦車ライフルを持ってきたおかげで、足は沢山あった。
それらにぎゅうぎゅう詰めにしてシェルターに向かわせる事で、ネルガル火星支部から逃げ出してきたおよそ六十名は殆ど
片付いた。残ったのは状況説明のためという事でカザナギという女性が一人。忌まわしい黄色が見えた事もあって徒歩組も
シェルターへ小走りに向かう。
まずは入り口に設置した爆薬を一斉に爆発させる。轟音を上げて入り口は岩に閉ざされた。
「さて、カザナギさん。支部で何があったの?」
しばらく、大体十分位して二つ目の爆薬は爆発させると、歩きに移ってネルガル支部で何があったかを訊く。
「イネス主任が出て行ってしばらくした後、支部長が起きたんです。それで私達にデータのサルベージをしろと」
そんなに強くない薬を使ったので起きた事は別に不思議でもないのだが、
「データのサルベージって。こんな時に?」
「はい。今がどう云う状況かよく解っていないようでした」
「そう……」
遺跡のオーバーテクノロジーの解析という大任を研究者に与えておきながら、上層を無能者の左遷先にしていたツケが
比処で来たかとしみじみ思った。
当の研究者の大半も火星出身であるのだから、本当にネルガルは火星の遺跡を重視していたのかと疑ってしまう。
「それで作業中に予想通り蟲どもが来て、私達はシェルターに逃げ出したんです」
「はって事は、誰か逃げなかった人がいるの?」
「支部長です。床に座ったまま動きませんでした」
（それは……腰が抜けて立てなかったって云わないかしら?）
事実その通りなのだが、支部長を見捨てた主管制室の面々に同調する物を感じてしまった。おそらく自分でも同じ事を
しただろう。
「ですが蟲どもの攻勢は素早くて……実際にシェルターに逃げ込めたのは三百人もいませんでした」
イネス達が出ていった事で火星支部に残っていたのは五百人強だろうか。その内の約三百しかいなかったという事は
その時点で二百人以上が犠牲になったことを示していた。
「しばらく私達は隠れていたんですが、急にシャッターが開いたんです」
「どうして?」
「支部長がメインパスカードを使って開けたんです。あの蟲どもを引き連れて」
嫌悪感もあらわに云ったその内容に、イネス達の顔も歪んだ。まさか一人裏切るとは。
「勿論私達も抵抗しました。でも生身と機動兵器では差がありすぎますから。三分の一ぐらいが殺された所で、蟲の中でも
一際大きな奴が降伏を呼びかけてきたんです」
「蟲どもが?」
その内容に驚きを隠せない兵士達。殲滅が目的だと思っていたのだ。
「はい。そのまま抵抗しても全滅は必死でしたから、シェイさんが代表として交渉に進み出たんです」
イネスの脳裏に、気の良い老人の顔が思い浮かぶ。長年勤めた職場は離れられんよ、と云ってイネス達と一緒に行く事を
固辞した人。
「その……シェイさんを……」
声が震える。
「支部長は撃ち殺したんです。私を見捨てた奴らは皆死ねば良いって云って」
ああ、あの支部長ならばするだろう。
しばし目を閉じて、ささやかな黙祷をささげる。
「それで皆降伏する気は無くなって。徹底抗戦に移ったんです。その時チャンさんが奇襲をしかけて、降伏勧告をして来た蟲を
破壊したんです。そしたら蟲どもはなんだか混乱状態に陥ったのかしばらく出鱈目な動きをするようになって、その間に私達は
チャンさん達に逃がされたんです。主任の所へ行けって云って」
「そう……大変だったわね。それで支部長はどうなったの?」
「蟲どもが混乱に陥った時に、蟲どもの放った流れミサイルに巻き込まれてそのまま……生死は確認してませんが」
「する必要無いわよ」
苦笑する。本気で云っているのだろうか。
「そして皆で逃げ出したんですけど、私達と一緒に発進した他の二つのシャトルは途中で撃墜されてしまいました」
「それで全部ね。ごめんなさい。辛い事云わせてしまって」
「いえ、構いません。全部、あの支部長が悪いんですから」
もうすぐで三つ目の爆薬設置現場に着く、という所で後方を警戒していた兵士が異状を知らせる。
「赤光を確認。蟲どものセンサーアイだと思われます!」
「解った! 二人とも、走りますよ。ラルフ、クラーク! しんがりを努めろ!!」
『はっ!』
二人の兵士がしんがりを努める中で走り出した一行のそばに、蟲の放ったミサイルが着弾する。
「手前等の相手はこっちだよ!!」
「蟲は蟲らしく地べた這いずりまわってろ!!」
まず対戦車ライフルを撃ち何機か破壊したのを確認すると、先行する一行に遅れないように走りながらマシンガンを撃ち
手榴弾を放る。
「チッ。本気でむかつく蟲だな。大して効いてやしねえ」
愚痴りながら手榴弾を放ろうとしたラルフに突如、三角跳びという普通の蟲では絶対やらないような軌道を見せて一匹の蟲が
飛び掛かってきた。
「ちいいっ!」
直撃だけは避けたが、掠めた腕から血が流れ出す。痛みを押して向けたマシンガンのトリガーを引く。
カチッ、カチッ。
弾切れ。本当に必要な時こそ運命はそっぽを向く。
「うおおおおおぉ」
恐怖と絶望混じりに手榴弾を取り出し、
――ブンッ!!
グシャッ!
頭を、砕かれた。
「くそがあ!!」
止めを刺そうというのか、もう動く事はないラルフの死体に群がる蟲に手榴弾を放り一行の元へ走る。
三つ目の爆薬設置ポイントまであと100ｍ。そこで、跳んで来た蟲に追いつかれる。背後から振るわれようとする死の腕。
クラークが死を覚悟したその瞬間。
――ガン!!
「何してる! 早く来い!!」
「ウェッジ!!」
現れた救いの手。ウェッジの援護でクラークはなんとか設置ポイントを抜ける事ができた。
「潰れちまえ!」
クラークがポイントを抜けたのを確認して起爆装置のスイッチを押す。
轟く轟音。崩れる岩肌。立ち込める土煙。
「大丈夫か?」
爆発に巻き込まれないように飛び込んだクラークを助け起こそうと、手を差し出す。
「ああ、わりい」
掴まろうと差し出したクラークの手が、飛んだ。
ビチャ!
頬濡らす生暖かい物がクラークの血であること気付くには一秒もいらなかった。
――ズン!!
舞い降りる黄色い蟲。
ベキベキゴキゴキャ!!
「があああぁああぁあぁ!!」
下敷きになったクラークとその身体が悲鳴を上げる。蟲の重量はどう見ても数百ｋｇ以上。下手すればｔはある。人間の身体で
耐えられる物では無い。
目の前で潰れる仲間を見た一瞬の停滞。それがウェッジの命取りになった。
足をたわめ力を溜め、体当たり。待ちうけるは壁とのサンドイッチ。
「ガフッ」
内臓が破裂したか、盛大に血を吐き出す。朦朧とする意識。その霞んだ目でも、更に駆けぬける二機の蟲を見つける事が
できた。
目の前の獲物は始末したと判断したか、仲間の後を追おうと離れる蟲。
ズシャ!
その頭部に突き刺さったのは、ウェッジが最後の力で放ったナイフ。
――ギッ……ギギギィッ!
蟲が耳障りな泣き声を上げる。まるでこの結果が不満だとでも云うように。
「へ……へへへ。お前までよお……行かせる訳にゃあ……い……かねえん……だよ……」
懐から取り出したのは電磁地雷の起動スイッチ。
「心中……してもらうぜ」
ポチ。
――バババババババババッ!!
数十万ボルトの紫電が通路内を駆けぬける。第三ポイントから念のために設置しておいた電磁地雷は、ウェッジ達が
食い止められなかった二匹の蟲の内、足を破損して遅れていた一匹を巻き込んで展開した。
機械でできた蟲故に、電気には弱い。クラークとウェッジの二人は、己の命をかける事で少なくとも追っ手を一匹に迄
減らす事に成功したのだった。
そして電磁地雷の発動音は前を走っていた一行にも届いた。思わず足を止め振り返る。見えないとは解っていても、
少しだけ戻る二人。その身体を、ミサイルが直撃した。
爆発、四散。肉片が舞い散り、残った五人の身体を真紅に染める。
外れたミサイルが岩肌にぶつかって土煙を上げた。
目を庇い敵の位置を掴もうとした一人が、紅いセンサーアイの動きを捕らえる。それは、民間人の二人のいる方向へと
向かっていた。
身体が反応する。軍人は、少なくとも建前では民間人を護る為に存在すると、叩き込まれた教えが身体を突き動かした。
ドン!
蟲の足に貫かれそうになったイネスを突き飛ばして、己が貫かれる。通過個所は心臓。即死だった。救いは、苦しみが
然程では無かった事か。
「ああああああぁぁぁッ!」
貫いて奉げ持つ死体を汚らわしい物のように投げ捨てる蟲。その光景を目にし、激情に駆られ突進と共に大型口径の拳銃を
蟲に撃つ。
上手く装甲の薄い部分に命中し、所々でパチパチと火花を上げる。流石に効いたのか、向き直って体内から機関銃を
取り出す。
大型拳銃対機関銃。しかし使用者は生身の人間対機械だ。軍配は機械の使用する機関銃に上がった。ほぼ一瞬にして
体の半分を吹き飛ばされ絶命する。尤も最後の意地か蟲の使用する機関銃も拳銃弾の直撃を受けて使用不可能に
なっていた。
ズガン!!
蟲の頚部に直撃する拳銃弾。
「悪いが、私にも彼等の隊長としての意地があるのでな。仇は、取らせてもらう」
晴れた土煙の中で、拳銃を構えて苦渋の表情で立つ。
ギギギ……
軋み音を上げて虫が跳びかかる。隊長は正面から迎え撃ち、銃弾を放った。
――ガン――ガン――ガン!!
訓練を受けた身体が、振るわれた足をとっさに避ける。掠めた目から、飛び散る眼球細胞。避けなければ死んでいただろう。
しかし避けなかった所為でしとめる事はできなかった。更にバランスも崩れている。再び振るわれる足で、今度こそは死ぬだろう
と思った。
ガン――ガン!!
横合いから叩きつけられた銃弾に蟲がバランスを崩す。撃ったのはイネス。ただし女性らしく小口径の銃で、しとめるには
威力が弱い。間接部や装甲の隙間を狙うしか無いが、軍人ならともかく研究者にそんな事を要求するのは無茶だった。
蟲には単純な知能しか与えられていないのか、攻撃してきたイネスにすぐさま狙いを変え跳びかかる。それを紙一重で避け、
離れていた場所にいたもう一人と共に倒れた男の元へ来る。
実は援護しようと思ったのだが、片目を潰された痛みで狙いをつける事ができなかった。軟弱な自分に苛立ちながら何とか
立ち上がろうとする。
ぐるり、と蟲が向きを変え再度飛び掛かってきた。痛みをこらえ銃を向け撃とうとした横で、イネスが持っていた物を蟲に
投げつける。
見覚えがあった。余った爆薬を入れた鞄の一つ。
今迄の攻撃と違った所為か、あっさりと食らう蟲。その蟲が抱く形になった鞄に向け、イネスが銃を撃つ。
――ガン――ガン――ガン!!
理解した。イネスは最初から攻撃力不足だという事は解っていたのだ。だから、爆薬を利用した。狙いは悪く無い。
悪くはない、のだが一つ忘れていた事があるようだ。爆発の類は、破片が飛び散るのだ。
｢……大丈夫……ですか?｣
二人を庇うように覆い被さりながら云う。
盾となった背中には、大小様々な破片が突き刺さっていた。流石に、崩れ落ちる。
「しっかりして!」
駆け寄るイネス達。抱え起こして傷口を確認する。度の傷も深く痕は残り、特に目は絶望的だった。着ていた白衣を
切り裂いて包帯がわりにし、なんとか止血をしようとする。
「博士……」
弱々しい声。
「喋らないで!」
「私は、精一杯やれたでしょうか……あいつ等の仇は……討てたでしょうか……?」
「ええ、精一杯やったわ。仇も討った。だからじっとしてなさい!」
「そうですか……よかった……これで心置きなくあいつ等の所に行ける」
云われた言葉に、流石のイネスもしばし固まった。そして怒りに震える。
｢いい加減にしなさい! 何が心置きなくよ!! 貴方軍人でしょう!? 軍人は民間人を護るのが仕事じゃないの? まだこの
火星には取り残された人が沢山いるのよ! 例えば私とか。どうしても死にたいと云うのなら、私達を護って、せめて火星から
脱出する迄私を護ってから死になさい!!｣
｢……はは……ははははは……厳しい人だ。名誉の戦死すらも許されないのか｣
｢死ぬのは名誉じゃ無いわよ! 軍人の誇りは、戦って死ぬ事じゃなくて護って死ぬ事よ! 違う!?｣
｢かもしれませんが……生き残る自信がありませんので……｣
｢安心しなさい。私が絶対に死なせはしないわ。だから、貴方も強く生きようという意思を持ちなさい｣
｢貴方がそう云うのなら、私は死にませ……んな｣
安心したように意識を失う。その脈を取り、なんとかイネスも安心する。死にはしない傷とは云え、気絶の仕方が仕方だ。
不安にもなる。
ふうっ。
止血し終わった身体を幼子を抱くように抱え上げ、一時の安息に浸る。地面を伝わる音は、ジープの駆動音か。
『隊長ー』と呼ぶ声が聞こえる。動く必要はないだろう。足があるのなら、もう大丈夫だ。
比処からシェルター迄の全ての爆薬設置ポイントを爆発して、全ての電磁地雷の自動起動させる。そうすれば、
この資材運搬用通路から敵が来る事はもうないだろう。
そしたら後は、迎えが来る迄生き残るだけだ。
「アキト君……待ってるからね」
シェルターに着いたら、今日だけは、久しぶりに義母さんに甘え様。そう思いながら立ちあがる。ジープのライトが、
自分達を照らし出すのを感じた――
｢これが当時の火星駐留艦隊の行動。どう思う? アキト君」
裏ルートから手に居れた火星大戦時の艦隊内部の様子をプロジェクターに映し出しながら僕はアキト君に訊いた。まあ、
答えは聞く迄も無いと思うけどね。
「むかつくな」
ほらね。
僕だってむかつくもん。思い出の土地をあんなにされちゃあさ。
｢なお、フクベ元帥はチューリップの火星突入を阻止できなかったとして昨日軍を退職しています。退職金なども殆ど受け取りを
拒否。これには軍の意向も絡んでいるようですが」
エリナ君の報告にアキト君は呆れたような顔をする。
年々経費を削減されている軍にとって見れば、今回の戦争は渡りに船。仮想敵では無く、ちゃんとした敵と云う事で金を
分捕れるもんね。
更にフクベ提督を英雄として祭り上げる事で敗戦を誤魔化し、なおかつチューリップを結果的に火星に落したと云う事で
退職年金の殆どをカット。チューリップを殲滅した功績により昇格とか謳いながら、その実態は渡す金すら減らす。詐欺師の
手口だよね、これって。 アキト君が呆れるのも解るな。
「まあ、フクベ元帥の事は自業自得だからほっとこう」
同感。英雄として祭り上げられるのが辛いと云ったって、あの地を潰された僕達にしてみれば甘えにしか思えない。生きて
罪を償うって言葉があるけど、彼こそ、軍人としてユートピアコロニーを潰した責任をとる必要があるのにね。まあ、彼に罪を
償いたいって意識があるんなら、今後の展開は僕達にとって楽になるだろうからむしろ好都合だけどね。
｢じゃあ、ムネタケ サダアキ准将の事はどう思う?｣
「…………」
僕の言葉にアキト君は考え込む。
ムネタケ准将は、火星大戦の時の敵前逃亡の罪で少将から降格された。
フクベ元帥を英雄としたバランス合わせもあるだろうけど、僕としてはむしろ、彼の父親であるムネタケ ヨシサダ中将に対する
牽制の意味もあると思ってる。
火星大戦であれだけの戦艦を集めながら敗北したって云うのに、軍も結構余裕だよね?
「……彼の判断は正しいがな。やはり火星の民を見捨てた事に関しては多少しこりが残る」
そう、彼の判断は正しい。あの状況では、助けられる人数など多寡が知れている。もし無理に行おうとれば、我先に助かろうと
暴動が起きた危険性もある。そう理性では解っていても、感情が納得できない。
見捨てられた火星の民にしてみればなおさらだろう。全員が全員、そこ迄考えられる訳じゃ無い。わかるのは、地球の軍人に
見捨てられたと云う事だけ。
スキャパレリプロジェクトの一環として、見捨てられた火星の民を助けるって計画もあるんだけど、難しいかな?
でも今考えなけりゃならないのは、一年も先の困難より、目の前の困難だよね。
今会長室にいるのは四人。僕と、エリナ君と、アキト君と、アキト君の腕の中に抱えられた少女の四人。
少女は眠ってて、その長い髪をアキト君がずっと梳き続けている。
その少女に向けるエリナ君の視線と云ったら。
夜叉だね!
もう怖いったらありゃしない。
どうやってエリナ君を宥めようかと考えている所で、アキト君が言葉を発した。
「そろそろ起きるな」
僕とエリナ君が注視する中で、微かに身じろぎして少女がうっすらと瞼を開ける。
――そして、少女が最初にやった事は肘打ちだった。
速い! 僕には軌跡も見えなかったね。勿論アキト君は余裕でかわす。そして少女の口を手でふさぐ。瞼を開いた瞬間
一気に覚醒した少女の意識が朦朧としたのが見て取れた。
別に薬を使ったわけじゃ無い。ただちょっとコツが必要らしいんだけど、要は酸素濃度の極端に薄い空気を呼吸させただけ。
呼吸できない事よりも、酸素濃度の薄い空気を呼吸させられる方が、はっきり云って辛い、やられた事があるから
よく解るんだけどね。おまけに意識も朦朧とする。ただ単に戦闘能力を奪いたい時には重宝する、今回の様にね。
意識を失うわけじゃないから利便性も高いんだよ。
「君の身体を抱きしめている事には謝罪しよう。女性として今の攻撃行動も当然と受けとめよう。ただ、理由があるので
聞いてくれないかな?」
睨みつける少女に悠然と言い聞かすアキト君。僕とは神経の太さが違うね。
「沈黙は肯定と受け取るよ。さて、自分の身体について何か疑問に思わないかな?」
訳が解らないと云った風に思案顔になるが、すぐに何かに気付いたように顔に手を当てる。
視力矯正用のバイザーが無い事に気付いたんだろう。
「視力が……」
「そう、戻っている。勿論他の四感もね」
僕達が彼女を発見した時、それはもう酷い状況だった。
火星陥落の報告後、ボース粒子感知の報告が入った時には驚いた。火星の誰かがジャンプしてきたのかとね。
でも違った。現れたのは傷付いた漆黒の機動兵器。彼女はその中に乗っていた。
全身傷だらけ。過剰投与されたナノマシンが脳を圧迫し五感を犯し、強烈なＧによって内臓はボロボロ。生きているのが
不思議な程だった。と云うか寿命も残り一年程度だったらしい。
ブラックサレナと呼ばれる機動兵器に積まれたオモイカネ型コンピュータ、アテナによってその事を知った僕達は助けようと
したけど、僕達じゃあまず助からなかったろう。彼女を助けたのは『アキト』達だった。
＜魔王＞が彼女を助ける為に必要な措置を考え、＜賢者＞がそれに従って彼女のナノマシンに干渉した。
それをやり遂げた＜賢者＞も流石だけど、その為の救助法を一分も立たずに考え出してのけた陛下はもっと流石だ。
なんで陛下なのかって? 勿論怖いからさ。僕だけじゃ無い。この研究所にいる人間の殆どが彼を単なる＜魔王＞ではなく
＜魔王＞陛下、あるいは陛下と呼んでいる。
その恐ろしさは皆が身を持って知っている、と云うかいい実例が一人いる。
ネルガルシークレットサービスの一人、ゴート君だ。
彼を一目見て、『無粋だ。無口でなおかつムッツリスケベなぞ無粋だ』の一言で改造してのけたのは今も記憶に新しい。
……その後の彼の活動は優秀の一言に尽きるね。元々優秀な人材だったんだけど、陛下に改造されてからは
人知を超えた存在になったよ。弾け過ぎ。
まあ、『俺は神を見た!』とか云って怪しげな宗教に入信させようとするのだけは止めて欲しいね。しかも時々神の
お言葉を拝聴賜ってるみたいだし……って云うかさ、何故かそう云う時に限って、アキト君が、いや陛下がマイクになにか
喋ってんだよね。邪笑を浮かべて。
もしかして神って陛下の事なのかな? もしそうだとしても僕は驚かないけど。むしろ納得するね。だって陛下、邪神って
感じだもん。『汝のなしたいようになすがよい』みたいな?
……実は、このネルガル中央研究所にいる人間は全員アキト君のペルソナの事を知っている。と云うか、
その事を教えられるような信頼できる人物しか今のこの中央研究所にいられない。
陛下の御造りになった装置のおかげで、他社と密通したり僕達に隔意を持つような人物はこの研究所にいる事が
とてもいやになるらしい。そして自分から他の研究所に移る事を志願するようになるのだ。
おかげで研究員の数は少ないけど、全員が絶対の味方と解っているのでとっても住み心地がいい。陛下様々だ。
……そのうち魂奉げさせられそうだけど。
だからブラックサレナのボソンジャンプも他には一切知られていないと断言できる。彼女達が中央研究所の敷地内に
ジャンプして来たのはほんと幸運だった。あんなデカブツがいきなり現れたりしたら、それこそ大騒ぎになっていた事だろう。
そして目の前の彼女を助ける術も解らず、それどころかもうすぐ死ぬんだからと解剖して……うわぁ。いやな考えに
なっちゃった。
まあ当のアテナも、相手をしたのが僕達だったから彼女を受け渡してくれたんだろうけどね。
ボソンジャンプに付いてはアキト君からある程度話は聞いていたけど、実際に未来からやって来たのが目の前にいると
なんか不思議な気分だよね。それも未来の僕の、いや、並行世界の僕の知り合いだなんて。
ちなみに彼女は今だ呆然としている。当然だろうね。治らないと思っていた身体が、ジャンプして気付いたら
治っていたんだから。それも話しからすると目の前のアキト君が治したらしいし、ってとこかな?
｢エリナ、鏡を｣
アキト君の言葉に、エリナ君が渋々手鏡を渡す。それで、少女の顔を映し出した。
｢嘘……若返っている……? 一体どうやって?｣
その気持ちはよく解るよ。
｢その事なんだが、君の身体は過剰なナノマシンによって蝕まれていた。これはいいね?｣
コクリと頷く少女。
｢俺はその過剰なナノマシンの中から、君の身体にとって有害なナノマシンを取り除いた。その方法については後で
説明させてもらうが、その結果、君の中にあったナノマシンのうち約７０％が無くなった。しかし君のナノマシン濃度は約15％、
約七kg。そのうちの７０％が失われたわけだ。これがどれ程大変な数字かは解るね?｣
またもコクリと頷く少女。
｢体重の一割強のナノマシンを失ったおかげで、君の身体は虫食い状態になった。その分の補填の為に、成長した分の肉体を
当てた。処置前の君は２５歳。今の君の肉体年齢は大体１７歳。この、約８年分の成長を虫食いの補填に当てたわけだ。
何、心配しなくていい。テロメアの数は戻しておいたから、普通に８歳若返ったのと対して変わらない｣
そう、これがエリナ君が不機嫌だったもう一つの理由。思い人に抱かれているだけでも我慢ならないのに、自分より
年上だった女に目の前で若返られてはそりゃ女としては許せないだろう。
｢そして俺が君を抱いている理由だが、ナノマシンの排除や肉体の若化、その為に俺は君の身体の中のナノマシンに
直接ハッキングしているわけだ。一応処置は終ったものの、普通では決して起こらない反応を無理矢理起こしたために、
副作用が起きる可能性もある。そのため、こうして少しずつ活動を正常化させているところだ。抱いているのはこの方が
楽だからだな。別に触れないでもできない事は無いが、不確定要素はできるだけ排除しておきたい。これが君の身体を
抱いている理由だが、納得してくれたかな?｣
｢そうだったのか。すまない、攻撃してしまって｣
｢気にする事は無い。君の身体を抱いているのも結構気持ちいいからね｣
｢なっ」
云われて頬を紅くする少女。堕ちたかな?
よく云うよね。今は良いけどさ、干渉初めなんかそりゃ凄かったんだから。無理矢理にナノマシンを動かす所為で起こる
耐えがたい苦痛の所為で、少女はそれこそ暴れまくっていた。それをアキト君は一人で押さえていたんだけど、かなりの
怪我を負った。自分のナノマシンを操作してもう直したけど、骨が見えるほどの傷も会ったんだから。
まあ、云わないのはアキト君の優しさだって解っているから僕も云わない。彼女だって知ろうと思えば知る事ができるだろう。
＜賢者＞でさえ容易く干渉できない程に彼女のナノマシンは狂っていた。それを克服する為に、アキト君は自分と彼女に、
カイト君やサキ君に投与された物と同じナノマシンを投与した。
シンクロナイズシステムを引き起こす遺跡ナノマシンを。これで、アキト君と彼女と、そして双子は繋がった。
繋がっているのならばいずれ知るだろう。
彼女が知らないのは、まだ使い方が解らないから。使い方が解れば……まあ知る日もそう遠くはないかな?
｢所で今更なようだけど、君の名前は?｣
知ってるのに訊くんだよね、君も。
｢ん? ああ。アキラ、テンカワ アキラだ｣
そう、僕達がアテナに聞いた彼女の名前はテンカワ アキラ。
彼女もテンカワか……ふふふっ。面白くなってきたね、これは。
アキト君の同一存在が、僕達の歴史に与える影響は果たしてどれ程のものか……じっくりと見せてもらう事にするよ。
……何故……
何故奴が比処にジャンプしてくる……
私は許可していない!
あの女の存在も知らない……
なのに、何故?
私は知らない。これは許しがたいイレギュラーだ。
許さない!
誰が、誰がこんな事を!
誰が私の楽しみを邪魔しようとしているのだ。
不愉快だ。
非常に不愉快だ!
ナデシコとテンカワ アキトの同一存在が存在する限り、その世界は私が管理を任される。
それが私の誓約。
破られる事は決してない。
ならば…………
……………………
………………………………
…………………………………………
……………………………………………………そうか。
そう云う事か。
確かにその可能性は考慮していなかった。
なんたる無様!!
己のしでかした事がこのような結果に繋がるとは。
世界の修正力を甘く見ていたつけが来たわね。
まあいいわ。
能力的にはマスターとほぼ同じくらいかしら? あの女。
どうせ人形もいる事だし、今更道標が一つ増えた所で私は困らないもの。
人形も、あの女も、自分の知る歴史を変えようとして余計なちょっかいを出してくれるでしょうしね。
それこそが私の望む所ですもの。
精々頑張って私を楽しませてちょうだい。
白雪姫に仕掛けた干渉も順調だし、娘も歴史通り過去に飛ばした。
後は仕上げを待つのみかしら。
アキトもあの女の事にはすぐに気付くでしょうし、余計な手出しはいらないわね。
私は傍観者に徹する事にしましょう。
あの女の存在で、未来は細分化した。もはや私にも先は見えない。
ならば何時も道理、読者として、視聴者として。
貴方達の戦争を楽しませてもらいましょう。
付けっぱなしにしていたテレビから聞こえてきたアナウンサーの声に、着替えの手を途中で止める。映し出される、黒光りする
鉱物で作られた奇怪なチューリップもどきと黄色の装甲を持つバッタもどき。
『……連合政府は、火星に侵略して来たこの一連の無人兵器群を木星の向こうよりやってきた事により木星蜥蜴と呼称!!
フクベ提督が護られた火星もその圧倒的な物量の前に陥落。現在戦線は月軌道目前まで迫っておりますが、
ナカハラ軍事コメンテーターの意見では、月に余計な部隊を置くよりも全て地球に全て配置すべしとしており、また連合軍でも
その意見が大勢を占め、少なくとも二ヶ月後には軍は月より撤退すると見られております……』
しばらく立ち尽くしていたが、着替えの続きをする事も無く、ベッドに座り枕もとに置いてあった写真立てをとる。
写っているのは不機嫌そうな顔をしたぼさぼさ頭の少年。
｢アキト……｣
いとおしそうに少年の輪郭に沿って写真をなぞる。
｢アキトを殺したのはね、木星蜥蜴って云うんだって。ユリカ、初めて知ったよ。ユリカやお父様やジュン君がアキトを殺したのは
知ってたけど、あの変な蟲みたいな奴の名前は知らなかったんだけどね。まっててね、アキト。あの蟲もたくさんアキトを
殺したもんね。そしたらその後はお父様達の番だから。軍の人達もアキトをたくさん殺したもんね。アキトを殺したのは、
みんなみーんなユリカが殺してあげる。そしたら、ユリカも行くからアキトも寂しくないよね」
舌を伸ばし、写真の少年に這わせる。舌が通りすぎた跡には、ぬらぬらと光る唾液の跡が残された。
「うふふふ。戦争がね、始まるの。アキトのだ〜い嫌いで大好きな、戦争が。いっぱいいーっぱい人が死ぬんだよ。たっくさん
死ねば、アキトも寂しく無いよね。アキトは寂しがりやさんだもんね。だからね、ユリカがいっぱい殺してあげる」
生気の感じられない瞳で、囁くように写真に語りかける。そのまま開いた手を下ろし下着の中に滑り込ませた。
｢ふふっ、戦争が始まるの知ったら、濡れちゃった｣
指を動かし始める。
しばらくは入り口の所をいじったり陰核を刺激したりしていたのだが、それに物足りなくなったか、指を挿入する。一本、二本。
ぬちゃぬちゃと濡れた淫らな音が響き渡る。
｢ふううんんん……アキトぉ……｣
絶頂が近いのか、指の動きが激しさを増していく。
｢ああっ、アキト、アキトぉ! ユ……リカ……イッちゃう!! イッちゃうよお!! ――――っ!!｣
絶頂を迎えて弛緩した身体を横たえる。
｢はぁ……｣
その頬を伝う涙。
｢アキトぉ…………寂しいよお……………………｣
――彼女は、孤独だった。
――カタッ……
無人の研究室に侵入する小柄な人影。
――ホシノ ルリ。
部屋の電気を付けるような迂闊な真似はせず、手持ちのペンライトで辺りを照らす。
私が忍び込んだのはアキトさん専用の研究室。何度か出入りもした事があり比較的慣れた場所ですが、機材の量とその
繁雑さは並ではありません。夜目は効く方ですが、それでもなんの明かりも無しにこの部屋の中を歩けると思う程
自惚れてはいませんでした。
慎重に足元を照らし、物音を立てないようにして歩を進めます。
私が欲しい物はただ一つ、遺跡ナノマシン。
カイトさんとサキさんの間で行われるシンクロ。私達の居た時代では、それをリンクと云いました。そして今、アキトさんも
そのナノマシンを己に注入しています。
――羨望。
その気持ちだけが私をこのような短慮に走らせる。
かっての時代では、同属であるラピスとリンクしていたアキトさん。そしてこの時代では、彼は自分の知らない兄弟達と
リンクしています。
――何故、自分だけが。
そんな気持ちが頭を離れません。ナデシコＡに乗っていた時は、純粋に慕っていられた。多分に兄として。しかしその後、
一緒に暮らして、私は少しずつ大人になって、その想いは思慕の情となっていきました。
人形だった自分に感情を与えてくれた人。
遺伝子細工の玩具だった自分に普通の人と変わらずに接してくれた人。
――初めてだった。
産まれて初めて自分に安らぎと云う物を教えてくれた人。
でも、諦めざるをえなかった。ミスマル ユリカがいたから。
自分は人に造られた人形。対して相手はお姫様だ。かなう、筈が無い。
アキトさんがユリカさんにプロポーズしたと知った日、枕を涙で濡らして、それでも精一杯の笑顔で祝福しようと思った。
ダッテワタシハアキトサンニ相応シクナイノダカラ。アキトサンニハユリカサント云ウ立派ナオ姫様ガイルノダカラ。
だから新婚旅行に出かけたシャトルが爆発した時、実は喜びました。これで、誰かの物になってしまったアキトさんを
見る事は無くなったから。
そして少しだけ不安になろました。もしかして、あのシャトル事故は自分がやったのではないかと。まあ、それは後に杞憂に
終ったのですが。
葬式を終えた後連合軍に入り、ネルガルを脅してナデシコＢを造らせ、艦長席に収まった。『ナデシコ』と云う思い出の
籠の中に自ら望んで縛られました。
艦長になったのは、それがユリカさんと同じ役職だったから。アキトさんと一緒になった人の仕事だったから。
だから艦長になった。Ｉｆがあったらと願う、弱い私のほんの気紛れ。
そんなねじくれたまどろみの中で起きたコロニー連続襲撃事件。
何故コロニーが襲われるのかと云う調査のため、ターミナルコロニーアマテラスへと向かった私達を迎えたのは、変わり果てた
アキトさんとユリカさんの姿。
復讐鬼と化したアキトさんと遺跡にとり込まれたユリカさんを見て、黒い情念の炎が燃え上がった。
誘拐され、実験台とされたＡ級ジャンパー達。特に木連軍人に憎まれているユリカさんが綺麗な身体の筈はないのに、
それでもなおユリカさんを求めるアキトさん。
――どうして! どうしてユリカさんじゃないと駄目なんですか!! 人形なんかより、汚れていても人間の方が良いと
云うんですか!? アキトさん!!
悲しかった。悔しかった。憎かった。
ただ護られるだけのユリカさんが。あくまでもユリカさんだけを求めるアキトさんが。そして何よりも、何もできない自分が。
でもその後、ミナトさんと一緒にイネスさんの墓参りに行き、北辰に襲われた私を助けてくれたアキトさん。『君の知っている
テンカワ アキトは死んだ』と云いながらも、テンカワラーメンのレシピを私に託してくれたアキトさん。
私は理解した。
復讐鬼となりながらも、その本質だけは変わらずにいたアキトさん。そのアキトさんの表の世界とのほんの小さな繋がり。
それは、ユリカさんでもネルガルでもナデシコでも無く、私だった。
私は歓喜に打ち震えた。その夜は、とてもじゃないけど寝られなかった。身体の火照りを静める術を私は知らず、
ただアキトさんだけを想った。
イネスさんが生きていた事もどうでも良かった。
北辰達がナデシコＣに迫ってきた時だって怖くなかった。
アキトさんは、絶対に私を護ってくれるから。
宇宙空間での戦いばかりしていた所為でしょう、重力圏内での戦いを想定した調整をされていなかったブラックサレナは
苦戦していました。それでもアキトさんは北辰に勝った。
ユリカさんの遺跡との切り離しを見ていかなかったのは知っていたからでしょう。今の自分がユリカさんに相応しくないと
云う事を。
それでも、ラピスの今後を人質に取った私達の懸命の説得に折れたアキトさんを待っていた物は、ユリカさんの激しい拒絶だった。
愛される事に溺れ愛する事を知らなかったユリカさん。アキトさんが地獄を味わい続けている間眠り続け、自分に都合の良い
アキトさんとの夢に浸っていたユリカさん。
復讐鬼となったアキトさんに対して子供のままだったユリカさんには、アキトさんの変貌は耐えられなかったのでしょう。
それら全てが、ユリカさんの所為であるにも関わらず。
ナデシコＣが『火星の後継者』達を鎮圧した時、ついでにヤマサキらの全研究データ―をサルベージしました。イネスさんに
頼まれて、長くないアキトさんの現状をどうにかするために。
そこに書かれていたアキトさんに対する仕打ちに私達は衝撃を受けましたが、一緒にサルベージされたヤマサキの
研究日誌。その内容にこそ私はショックを感じました。
遺跡の翻訳機としての役割は、本来ユリカさんではなくアキトさんがする筈だったという物です。私はその内容に
納得しました。
生き残った数百人の火星人の中で、いえ、地球人類から発生した現火星人類の中で最もボソンジャンプを使いこなせる人。
イネスさんも単独でナデシコＣをジャンプさせましたが、それはナノマシン強化を施しての事。考えてみれば、蜥蜴戦争時の
戦艦のボソンジャンプ、そこには常にアキトさんがいました。跳躍誤差を起こしやすい単独でのボソンジャンプにも時間の
ずれは些少。
ボソンジャンプを戦争の道具として利用したい『火星の後継者』側から見れば、高いイメージング能力がはっきりしている
アキトさんを翻訳機として利用したいのも当然でした。
でも翻訳機になったのはアキトさんではなくユリカさんだった。それを提案したのは、アキトさん自身でした。
ユリカさんが実験台となる事を知ったアキトさんは、自分の身を差し出す事で決してユリカさんを実験台にしないように
交渉しました。自分の身体になら、どんな事をしても良いからと。
結果、ユリカさんが実験台にされる事はありませんでした。それまでの研究結果から得たデータを基に、翻訳機の
完成品として遺跡に取り込まれたのです。そう、アキトさんの望み通りユリカさんは実験台にはなりませんでした。例え
その結果が同じ物だとしても、過程は明らかに違います。
それでも、その結果はアキトさんの望み通りとなりました。
実験台となったアキトさんの余命は残り僅かなのに対して、ユリカさんの身体にはなんの異常もありませんでした。ただ、
ちょっと衰弱していたぐらいで。
……本当に優しい人から早死にして行く。この事実は私には受け入れたくない物で、でも現実。
本当ならアキトさんじゃなくてユリカさんが死んでいる筈だったのに、何時もアキトさんにばっかり不幸が降りかかる。何よりも
不幸なのは、当の本人がそれを不幸と思っていない事でしょう。だから、ユリカさんの拒絶も、復讐鬼になった自分には
当然の事として受けとめた。そんな事は、無いのに……
病室からジャンプで逃げ出したアキトさんを追って、私はラピスを連れてナデシコＣで追いかけました。喚き続けるだけの
ユリカさんを見捨てて。
ナデシコＣはワンマンオペレーションシップ。私一人でも操れます。そのため、他の艦に比べて搭乗者はかなり
少ないのです。オモイカネがいる限り警備も万全ですから。
だから私が再び逃げ出したアキトさんを追い駆けた時、艦には誰も乗っていませんでした。出発時に乗ったのは結局、私と
ラピスとタカスギさんとハーリー君の四人。他の人達はユリカさんのあまりの言動に怒る事すらできなかったのです。
悲しすぎて……私はきっとそうだと思っています。蜥蜴戦争後の、あんなに仲良しだった二人を知っているから。
そして私達がアキトさんを見つけたのは、火星の衛星軌道上でした。まるでこの世の見納めに故郷を選んだような、あまりの
存在の儚さに私達は手を出す事を躊躇ってしまった。
その躊躇いは致命的な遅れとなって、アキトさんにボソンジャンプのイメージをさせる時間を与えてしまいました。ラピスの
リンクによってアキトさんがイメージしたのが太陽の中だと知った私達は、ジャンプを邪魔するためにユーチャリスにアンカーを
撃ち込み、ジャンプフィールド発生装置の暴走を呼んで、結局ランダムジャンプとして発動してしまったのです。
そして気付いたらこの世界にいました。私の知る世界の過去とは違う流れを歩む世界。いわゆる平行世界という奴でしょう。
ラピスもハーリー君もこの世界に飛んで来たのでタカスギさんも大丈夫だとは思います。
でも、アキトさんは違いました。この世界にいるのは、私の世界にいたアキトさんではありません。私を知らないアキトさん。
私のいた世界の、優しくて、強くて、とっても弱虫だったアキトさんとは違い、絶対的な強さを持つアキトさん。
私の愛した人と同じでいて、そして違う人。
今でも思い出す、ランダムジャンプ直前に一瞬だけ繋がったモニターに映ったアキトさんの顔。覚悟をしていながらも
抱いていた微かな希望を打ち砕かれた、虚ろな絶望に染まったあの顔を、私は一生涯忘れる事はないでしょう。
私だけが見た顔。ラピスとハーリー君は見る事のできなかった、最強のマシンチャイルドである私だからこそすけいる事の
できた、一瞬の間隙。
だから、あのアキトさんを知るのは私だけ。誰も知らない。でも、それが絶望だけだなんてあんまりじゃありませんか。
この世界のアキトさんは私の愛したアキトさんじゃないけど、それでもやっぱりアキトさんだから。もっと、知りたい。
何時も一つになっていたい。
そのためにも、リンクによって意識を繋げる。それが私の考えた計画。自分が馬鹿な事をやっているのは解っています。
嫌われてしまうかもしれない事も。
――それでもいい。ただ見ている事しかできないよりは、よっぽどましです。
慎重に歩を進め、目当ての物がしまわれている棚まで到達しました。一応鍵は掛かっていますが、電子ロック式なので、
マシンチャイルドである私の敵ではありません。
……多分、これは私達がアキトさんに信頼されていると云う事なのでしょうか。
私の行為は、その信頼を裏切る物でしょう。ですが、私だって女です。好きな人のためになら、無茶だってなんだってします。
二度と、後悔しないためにも。
棚を開けると、そこには予想通り遺跡ナノマシンの入ったアンプルが数本。
「これが……あれば……」
微かな興奮と共に漏れる独り言。
そして私は用意しておいた無針注射器にアンプルをセットし、腕に押し当てました。
……緊張のためか、咽喉がカラカラに渇いているのが自覚できます。
――怖い……
私の率直な気持ち。始めて知りました。自分がこんなに臆病だったなんて。
死なんて怖くないと思っていたナデシコAに乗る前のあの頃。結局は人形だったと云う事。
震えをこらえるために、下唇を噛み締めます。痛みと共に、口内に広がる血の味。それでなんとか震える身体に云う事を
聞かせ、引き金に指をかけました。
何時もならば考えられない程に迄高まった鼓動の音がうるさい。頭痛がして、呼吸が浅くなる。
恐怖か、期待か……あるいは別の――――
次回予告
着々と進められる火星進行の準備。
魔王は悪魔を産み出し、
道化は駒を揃え、
神の僕は壊れていた。
そこに迫る花二輪。
迎え撃つは黒き天使の乗る黒百合。
銀の剣を振るいて絶望を断つ。
闇よりも深き混沌を纏いながら。
次回
機動戦艦ナデシコ〜ペルソナ〜
第５話
決戦準備〜スカウト〜
「神は云われた。汝、仏像を彫りそれを売れと!」
「俺達にできる事は、殺す事だけだ……」
なお次回予告の内容は変更される場合がある事を御了承下さい。
登場人物設定その一〜アキトのペルソナ･前半〜
【闇主(あんしゅ)】
アキトの仮面、ペルソナ達の中でも最強の存在。ただしかなりの気難しがり屋さんで、表に出てくる事は滅多に無い。
ゼロから作られた存在で、いわば人造人間。
ボソンジャンプで過去や未来を行ったり来たりしながら親子喧嘩。
己を創り出した存在、【魔王】との壮絶な親子喧嘩の末相打ちになって死ぬ。
享年、１６８７４歳。
紋様のような形を描いて光るナノマシンが特徴。
【武帝(ぶてい)】
アキトの仮面、ペルソナ達の中でも白兵戦最強の存在。昴氣を纏い、その拳の一撃は大地にクレーターを穿ち、その蹴りの
一撃は地脈に亀裂をもたらす。
幼少時に古代火星に飛び、そこで木連式柔の原点である古式を学ぶ。昴氣の使い方はその頃覚えた。
ネルガルに在籍していたが、そのあまりの強さに恐れられ逆に狙われる。
その結果妻を失った事により発狂、軍･政･財の大物の暗殺を始める。
素手での活動が基本だったので殺した人数は他の六に比べて少ないが実力は折り紙付き。
機動兵器や戦艦の攻撃でも倒せないと判断され、街一つを犠牲に核の炎に呑まれて死亡。
享年、３８歳、体験年齢７８１歳。
全身を覆う虎縞のように光るナノマシンが特徴。
【狂王子(きょうおうじ)】
アキトの仮面、ペルソナ達の中で戦略戦術に長けた存在。
子供の頃に結婚の約束をした幼馴染二人と両親をテロによって殺され、自身も右眼を失う。
テロが軍と巨大企業の共謀によるものだと知った時復讐を決意する。
士官学校を主席で卒業後、ナデシコ艦長に就任。
蜥蜴戦争後、ナデシコＢの艦長を蹴り、艦隊司令に就任。
いかに上手く味方を殺すかという艦隊運用で恐れられる。
右眼はナノマシンの集合体、その手術をした医師に特殊なナノマシンウィルスを製作させ世界にばら蒔く。
自身が策謀した第３次蜥蜴戦争の首謀者として処刑される。
享年、５４歳。
右眼部位に集中して光るナノマシンが特徴。
【黒鬼(こっき)】
アキトの仮面、ペルソナ達の中でも特に際立った特徴は無い。常人どころか、それぞれの分野の超が付く一流の人間と
比較しても充分凄いのだが、平均的過ぎて他のペルソナの影に隠れてしまっている。
その存在は例えるならばジュン。彼も秀才型である以上全ての分野において平均的に好成績を出している筈だから。
【黒鬼】の扱いもそれに準じ、殆ど便利屋同然である。
地球連合に戦争をしかけ、後一歩という所で寿命が尽きて死ぬ。
享年、２８歳。
心臓部で銃痕のように光るナノマシンが特徴。
後書き
え〜と大変長らくお待たせしてしまいました。
ペルソナの四話です。
まあちょっと長いですが、それは待たせたお詫びということで。
イネスさんの頑張りで許してください。
……逃走！！
代理人の感想
うわ、エゴイストばっか。
読んでいて痛いくらいですね（苦笑）。
もっとも、最強のエゴイストはやはリユリカを踏み台にするルリでしょう。
えげつないくらいに引き立て役です。