「よ〜〜〜。ルリ坊。大活躍だったじゃないか」






 厨房から威勢のいい声が響く。

 白い料理帽を被り、エプロンをかけ、料理長の証でもある赤いスカーフを首に巻いている女性が快活に笑う。

 ナデシコ艦の厨房を引き受ける料理長『ホウメイ』

 まだ出航して間もないが、威勢のいい性格と、細やかな気遣い、実際に戦場を間近で見てきた経験から、すでにナデシコの精神的な支えとなっていた。




 ミナト、メグミとともに席についたルリはホウメイの言葉に首を振る。



「私は何もやってません」




 ホウメイは笑い声を上げる。

「そうかい。それじゃ、そういうことにしておこうかね」

「はい。それよりも注文いいですか」


 ホウメイは頷く。

「いつものだね」


「はい」


 それだけで伝わり、ホウメイは厨房に顔を引っ込めた。


 そのやり取りに、メグミが眼を丸くする。

「ルリちゃんて、ホウメイさんと仲いいんだ」

「そうですか?ホウメイさんは誰とでもあのような感じですが」

 仮面のような表情を保ったまま淡々と答えるルリ。


 その台詞と表情に、メグミは「それはそうだけど…………」と言葉を濁す。




 手を組みその上に頬を置いて、ルリを眺めていたミナトが口を開く。

「ねぇ。ルリちゃん。ちょっと質問があるんだけどいい?」

「はい?」


 ミナトの眼が細められる。

「ルリちゃん。なんで、このナデシコに乗ったの?」




 ルリが黙ったままテーブルに視線を落とした。




「ルリちゃん。さっき言ったわよね。自分からナデシコに乗ったってぇ」


 メグミは「あっ」と声をあげた。




 そう。さっき、ルリちゃんはミスマル提督にそう言っていた。

 その時は、聞き流してしまったが。

 今、冷静に考えてみればおかしい。普通とは違うといってもまだ11歳である。

 そんな子が戦艦に乗りたがるなんて。男の子ならわかるが。





 今、この食堂には多くのクルーが集まっていた。

 ちょうど昼時だし、ルリの言葉につられて来た人も多い。

 正確に言えば、ブリッジの出来事を見ていたクルーのほとんどが、この少女に興味を持ったからである。


 ……………………三度の飯より、三大ゴシップ


 本当はアキトの方が好奇心の対象なのだが、彼には怖くて近づけない。




 特にあの凶行を見た後では。




 この食堂に来ているクルーたちは例外なく耳をダンボのようにしてこの会話を拾っている。

 そのおかげで、人が大勢いるにもかかわらず食堂は不気味に静かだった。





 そんな注目の渦中、俯いたままルリが囁くように言葉を洩らす。






「………………『兄弟』……『姉妹』に逢うために」







「兄弟?」


 少し驚いたように呟くミナトの言葉にルリが頷いた。


 そこに満面を好奇心に染めたメグミが割り込んでくる。

「え?え?ルリちゃんって兄弟いるの?何人?その人、かっこいい?そっか、ルリちゃんの兄弟よね。かっこいいに決まってるか。でも、なんでナデシコに乗ってると会えるの?」


 矢継ぎ早の質問にルリは黙して語らず。


 その様子にミナトがマズイナアという表情を作った。


 メグミは己の好奇心の為、それにすら気付かずに答えをルリに催促する。

「ねぇ、ルリちゃ――」




「はいはい。そこまでにしときな。人の事情に立ち入るってのは無作法ってもんだよ」




 メグミの言葉を遮ったホウメイがルリの前にチキンライスを置いた。

 しぶしぶといった感じで引き下がったメグミを見て、ミナトはホッとした表情を見せる。


「ごめんねぇ。ルリちゃん」


「いいえ」

 ミナトの謝罪にルリは軽く首を振りスプーンを握った。






 それを見てホウメイは二人に注文をとる。


「なにか頼むかい?」

「あ、アタシ、オレンジジュース」

「ワタシはダイエット中だから遠慮しておくわ」


 ミナトの言葉にホウメイは軽く溜め息をつく。

「やれやれ。ダイエットは食堂の天敵だよ。まあ…………気持ちはわからなくもないがね」


 二人は顔を見合わせて笑った。


「ほらほら。あんたたちも。ここはゴシップの集会所じゃないんだよ。なにか頼むものはあるかい?」

 ホウメイは食堂を見回しクルーに声をかけた。




 気拙そうな顔をしていた彼らは互いに顔を見合わせてから、いっせいにホウメイに注文をし始める。


 それにつれて食堂がしだいに騒がしくなってきた。

 やっぱ、食堂はこうでなくちゃね。

 一つ頷いてから、ホウメイは注文の品を作るために厨房に戻っていった。




「よっ。ルリちゃん。さっきはマジ助かったよ」

 隣のテーブルに座っていたウリバタケがルリに声をかけた。


「そうそう。あのブリッジの様子は見てたよ。ルリちゃん強いんだね〜〜〜」

 ウリバタケと同じテーブルに座っていた整備班の一人が興奮気味に喋る。


「かっこよかったよな」

「あのキノコを投げ飛ばしたときはスカッとしたぜ」


 周りのテーブルから、次々と賞賛の声が上がった。


 無言でチキンライスをよく噛み、呑み込んだルリがようやく口を開く。


「私は何もやっていません」




「またまた〜」

「謙遜しちゃって」

 からかうような声が周りから飛ぶ。




 無表情を保っているルリが無感情な声で告げる。



「軍人の人を一掃したのはテンカワさんです」




 騒がしかった食堂から一瞬、音が消えた。

 そして、すぐさま躊躇いがちの喧騒が戻る。




 そんな周りの様子にも素知らぬ顔でチキンライスを頬張るルリ。


「でも、アキトさんて何考えてるか判りませんよね」

 メグミが声を低くして目の前にいる二人に話し掛けた。


 ミナトは苦笑し、ゆっくりとチキンライスを食べているルリが淡々と返事をする。

「なら、訊いてみたらどうですか?」



「へっ?」


 メグミは振り返った。ルリの目線の先には食堂の出入り口がある。


 そこに、影のように、闇のように佇んでいる黎黒の青年。

 闇色のマントを羽織り、夜色のバイザーをかけている青年が腕を組んで壁に寄りかかっていた。

 混んでいる食堂なのに、そこだけぽっかりと抜けたように人がいない。




 メグミの背筋に寒気が走った。




 彼が食堂に居たこと、…………それも、もちろんそうだが、何より驚いたのは彼がこちらを見ていること。

 いや、視線はバイザーで遮られているため判らない。しかし、そのバイザーはしっかりとこちらを向いている。



 メグミは慌てて、眼を叛け、向き直った。




 な……なに、なんなの?なんでこっち見てるの?




 心臓が大きく跳ねている。

 驚いた心臓を静めようと胸に手を置く。



 その時になって、ミナトは苦い笑いを浮かべながら、ルリは何時もの無表情でメグミを眺めていることに気付いた。


 メグミの顔が羞恥で赤く染まる。

「二人とも気付いていたんですか」

「ええ、さっきからず〜っとこっちを見てるわよぉ」




 ミナトが隣に視線を移す。


「たぶん、ルリちゃんを――――」



 言葉を切ったミナトの眼が、唐突に見開かれた。




 そんなミナトにメグミは疑問の眼差しを向ける。


 ミナトはメグミに答える余裕はなかった。






 今、話題にしていたテンカワ・アキトがメグミの真後ろに立っている。






 確かに、一瞬前までは戸口の壁に寄りかかっていた。

 それが、少し、ほんの少し眼を離した隙に音もなく移動していた。自分たちの傍に。


「ミナトさん。どうしたんですか?」


 メグミが首を傾げる。

 メグミは気付いていない。人が背後に立てば何かしら感じるものだ。

 だが、アキトからは何の気配もしない。

 まるで、影が切り取られて立っているかのように。一瞬後には、掻き消えそうな陽炎のように。


「ア……ア」

「あ?」

 ミナトはメグミに何とか伝えようと試みるが舌がうまく回らない。






「ここ、いいか?」






 彼が指し示したのはルリの真正面、メグミの隣の席。


 彼の声で気付いたようだ。メグミの顔がサーッと蒼ざめた。



 小さく震えながら、メグミがミナトに視線だけで助けを求めてくる。

 その眼は半泣きになっていた。

 ミナトとしても何とかしてやりたいが、何も出来ない。




「どうぞ」




 何時もと変わりない平坦な声で応じたのはルリ。



 ミナトとメグミは懸命に首を振るが、アキトとルリが気にかける様子はない。

 アキトが椅子に座り、メグミはそこから少しでも離れようと自分の椅子をずらした。






 椅子に腰掛けたアキトは何をするまでもなく、ルリの食事風景を眺める。



 そんな視線に気付いているのか、いないのか、ルリは普段通りゆっくりとチキンライスを食べている。









「美味しいかい?」







 アキトがルリに声をかけた。


 ミナトとメグミは愕然とアキトを見つめた。いや、メグミとミナトだけではない。食堂中のクルー全員が、いま聞いた声を幻聴と判断した。





 何故なら、彼の無愛想な声の中に、包み込むような優しさが含まれていたから。






 口の中のチキンライスを嚥下したルリが顔を上げ、アキトを見返す。

「はい、美味しいです。…………食べますか?」


 3分の1ほど残っているチキンライスをアキトの前に押しやった。


 アキトは苦笑とともに、言葉を返す。

「いや、遠慮しとく」

「そうですか」

 呟くように言うと、ルリはズリズリと自分の前に皿を引き戻した。


 何もごともなかったようにルリは再び食べ始める。






 そんなルリを前にして、アキトが闇色のバイザーを外した。






 緊張で高まりっぱなしのメグミの心臓は、さらに大きく跳ねた。

 メグミの視線はアキトの瞳に囚われる。

 アキトの夜色の瞳に吸い込まれる。




 夜の湖畔のような瞳は容易に心に入り込ませない。

 今はその瞳が柔らかく微笑んでいた。

 慈愛を宿してルリを眺めている。

 慈愛?それだけじゃない。優しさ?懐かしさ?憧憬?………………苦痛?

 全てが入り混じっていて判らない。

 それでも、一つだけ判ったことがある。






 ルリを見ているアキトの眼は家族を見るような――――妹を見るような優しい眼。






「ルリちゃん」




 静まり返った食堂にアキトの声が響く。




 アキトがルリの正面に座った時点で、食堂から物音が消えていた。

 全ての眼が二人のやり取りに注がれている。ホウメイとて例外ではない。厨房から静かに二人の様子を見詰めていた。




 アキトの呼びかけで再び顔を上げるルリ。


 黄金の瞳が黒曜の瞳を見詰める。


 しばらくルリを見つめていたアキトが意を決したように声を出した。











「ありがとう」








 対するルリは無表情のまま、尋ねる。

「何が、ですか?」



「惨事になるのを………………止めてくれた」




 ルリはアキトから視線を外す。





「私は何もやってません」





 先まで他の者に散々した返答を繰り返した。



「そんなことない」


「何もやってません」


「そんなことは――」


「やってません」


 アキトの反論を、声を荒げることも無くルリは淡々と否定していく。


 強情なルリにアキトは軽く吐息をついた。

 駄々をこねる妹を見守る兄のような眼差しでアキトはルリを眺める。



 視線をそらしているルリを眺めていたアキトの口元に小さな笑みが浮かぶ。





「なにか、お礼をしなければね。なにがいいかな?」




 金の瞳がアキトの顔を見る。と、その眼はすぐに横にそらされた。


「私は――」

「それはさっき聞いた」

 アキトに言葉を遮られ、ルリは押し黙る。




 食堂のクルーは固唾を飲んで二人を見詰めている。正確に云うと彼らは呆気に取られていた。


 殺気と鬼気を纏わせ他人を遠ざけていた『テンカワ・アキト』が、別人のように優しげな眼差しと慈しみの声色を『星野瑠璃』に向けている。

 そんなことが出来る男だとは想像すらしていなかった。

 だが、今の二人を見ていると、こちらがアキトの本性のように思えてくる。

 胸中は驚愕に彩られているが、目と耳はしっかりとの二人の一挙一動を捕らえていた。


 そんな注目の的となっているルリは目線をテーブルに――チキンライスが盛られている皿に落としていた。







 しばらく俯いたまま、スプーンでチキンライスを玩んでいたルリが、ポツリと呟く。









「………………チキンライス…………」









 一瞬何のことだか判らなかったのか、アキトが眼を瞬かせる。

 やがて、納得したように一つ頷く。


「奢れってことかい。それぐらいならいくらで――」

「違います」


 ルリがアキトの言葉を遮った。

 うつむいたまま、ルリは淡々と言葉を重ねる。




「テンカワさん、手作りのチキンライスを」




 驚いたようにアキトの眼が大きく見開かれた。



 ルリを凝視したまま、アキトは震える声を搾り出す。




「…………なぜ?」




「履歴に火星でコック見習いをしていたと書いてありましたので」


 それだけ言うと、ルリは冷めたチキンライスを口に運ぶ。






 一瞬、痛みに耐えかねた顔をしたアキトはルリからテーブルに視線を落とした。






 テンカワがコック見習い?


 それを聞いたクルーの想像の中に黒のバイザーを付け、黒のマントを羽織り、黒のエプロンをつけ、黒のコック帽を被って、中華鍋を振るっている漆黒の料理人が思い浮かんだ。




 に…………似合わねぇ。




 そんな感想を抱きながらクルーはアキトに注視した。

 当のアキトは、うつむいたまま右手を握り締めている。

 たかが料理を作るだけである。そんなに葛藤することであろうか?








 カチャカチャとスプーンが皿に当たる音だけが食堂に響く。












「わかった」








 最後の一すくいを口に運ぼうとしていたルリのスプーンが宙で止まった。


 テーブルを見詰めたままアキトは続ける。







「今は……無理だけど…………いつか……いつか、必ず作る」







 ミナトは眼を見張った。

 アキトが言葉を紡いだ瞬間、小さく、微かに、ルリが笑みを浮かべたのだ。

 アキトはテーブルを見たままだから、判らなかっただろう。

 ルリがうつむいていた為、他のクルーも見えなかっただろう。

 だが、確かにルリが『微笑んだ』のだ。




「それで、かまいません」


 一瞬で元の無表情に戻ったルリはそう言うと、最後のチキンライスを口に含んだ。













 いまだに食堂は静まり返っていた。


 誰も喋りだすきっかけが、つかめなかったせいかもしれない。

 自分たちが見たものを半信半疑に整理しているせいかもしれない。


 兎に角、食堂は静かだった。


 チキンライスを食べ終えたルリがナプキンで口を拭く。

「さてと」と呟やき、ルリは椅子から立ち上がった。


 再び注目を集める中、隣のテーブルにいるウリバタケに視線を移す。

「ウリバタケさん。空戦エステバリスは用意できますか?」

「あ…………ああ。用意できるが。またなんで?」

 どもりながらも頷くウリバタケ。




 ルリが食堂を見渡してから、無感情な声で告げる。

「艦長の護衛です」



「えっ?でも、ルリちゃん。艦長は『トビウメ』に行っちゃったんじゃ」

「艦長なら、必ず帰ってきます」

 メグミに振り返りながら、ルリが断言した。




 アキトが音も無く椅子から立ち上がる。

 そして、皆の視線を遮るように、闇黒のバイザーを被った。

 と、同時に優しげな雰囲気は一瞬で霧散し、冷徹な殺気が全身から放たれる。




 一人、顔色を変えないルリがアキトに視線を送った。


「テンカワさん」


 アキトが薄い嗤いを浮かべる。

「ユリカを迎えに行けばいいんだな?」




 ルリは無言で頷いた。




 突然、雰囲気が一変したアキトに生唾を飲み込みながらも、ウリバタケはルリに問い掛ける。

「だ、だがよ。本当に、艦長は帰ってくるのか?先の様子を見た限りじゃ」


 ルリがウリバタケに冷静な一瞥を送る。

「ナデシコの艦長はミスマル・ユリカさん、ただ一人です。…………そして、あの人は決して艦を見捨てません」




 ルリの言葉にクルー全員が眼を見張る。




 無条件にユリカを信じるその一言。ジュンあたりから出たのなら、まだ判る。

 だがその言葉を放ったのはルリ。しかも、確信を込めて。

 絶句しているクルーに、ホウメイの声が飛ぶ。


「子供が、ここまで信頼してるんだ。あんたたち大人が自分の船の艦長を信じないで、誰が信じるっていうんだい」


 ザワザワと低い声を発していたクルーが互いに顔を見合わせ…………互いに眼の中の意思を確認する。


 ウリバタケがバリバリと頭を掻いた。

「確かに……やられっぱしってのは、気にくわねぇな」

「そうっすね」

「ここでやられちゃ、男が廃るってもんだ」

「俺たちだってやれるってとこ見せ付けてやるか」

「まだ、ナデシコに乗って何にもしてねぇもんな」




 ピッと言う電子音とともにルリの横にウインドウが開かれた。

 それを横目で一読したルリがウリバタケを見据える。

「休眠中のはずのチューリップが活動を再開しました」



「しゃ〜ねえ〜〜な〜〜〜〜!!」


 ウリバタケは掛け声とともに立ち上がた。

「10分待ってくれ。すぐさまエステバリスを用意するぜっ!!」


「作動キーが無いため格納庫の電源供給が断たれています。発進はマニュアルで」


 ルリの説明に別のテーブルの整備員が立ち上がる。

「じゃあ、B班はマニュアル発進の準備をっ!!」

「おう!!」

「よっしゃ!!」

「いっちょやるか!!」

「まあ、給料分の働きはしないとな」

「ナデシコの底力見せてやるぜっ!!」




 喧騒に包まれた食堂でルリが締めくくる。




「これよりナデシコは、艦長奪回およびチュウリップの破壊を遂行します」


 このルリの号令で食堂にいたクルーは足早にそれぞれの持ち場へ向かった。









 誰もいなくなった食堂を眺め、厨房のホウメイは肩をすくめた。





「さて…………この作りかけの注文の品は、どうしようかねぇ」




次へ