トレーニングルーム内に鋭い震脚の音が鳴り響いた。


 手刀が風切り音を立てて空を斬る。

 身体を反転させて、中空に蹴りを放つ。




 昨日から、アキトは体技室にこもっていた。

 チュウリップとの戦闘後、体技室で木連柔の套路(型)をひたすら繰りかえしていた。

 自らの身体を痛めつけるように休憩も一切取らず、ただ黙々と技を繰り出す。





 アキトは焦燥にかられていた。





 今のアキトは、『前』の記憶がある。


 それは過去を憶えている『記憶』だけでなく、身体の『記憶』も憶えていた。

 体重移動や見きり、体捌き、技などの純粋な戦闘技術は脳が『憶えて』いる為に、身体に覚え込ませることは比較的楽だった。

 エステバリスの操縦なども同じことである。



 ただ一つ、今のアキトと『前』のアキトと違っているものがあった。




 それは、筋力。




 それが決定的に違っていた。上半身はもちろん、武術に必要な下半身の筋力が絶対的に衰えて――――元に戻っていた。

 筋力を鍛えるのはそう難しいことではない。

 ましてや、今のアキトは健康な18歳の肉体だった。21才で人体実験でボロボロにされた体から鍛えるのに比べたら天と地ほどの差がある。





 だが、そのアキトが焦っているのには理由があった。





 『記憶』どおりに行けば、一月半後には『火星』



 あの無人兵器の大軍をノーマルエステで戦わなければならない。

 ウリバタケにカスタム化を頼んでいたが、それも限度があるだろう。

 ノーマルエステでギリギリの戦場を駆け巡ることになるのだ。生半可な体力ではあっさりと火星の藻屑と化す。




 その為に、今、アキトは木連式柔の『開式』と『古式』の套路を重点的に繰り返していた。

 この套路は基本技と共に、武術に必要な個所の筋肉も鍛えること出来る木連式柔の基礎である。

 そして、今のアキトに最も重要な要素だった。


 套路を繰り返しながらアキトはギリッと歯軋りをする。






 焦りが募ってゆく。






 『前回』、火星から戻れたことは幸運…………いや、奇跡に近かった。

 今回、アキトが手綱を取ったとしても、上手くいく確証は無い。なにせ、ナデシコを操舵しているのはミナトで、管理しているのはルリで、指揮しているのはユリカである。


 パイロットが口を挟める個所は何処にも無い。



 せめて…………もう一人、協力者がいれば………………。



 虚空に拳を突き出したアキトは馬鹿な考えに自嘲する。






 ではなんだ、自分は未来から来ましたとでも言うか…………。未来では自分は数千人の命を奪ったテロリストでした…………と。







 衝捶を放ったまま、動きを止めたアキトはクツクツと嘲った。




 自分の罪を誰にも話すつもりは無い。今さら取り繕うつもりもないし、知られるのが怖いと云う訳でもない。





 話した相手に罪を共有させるのが嫌なのだ。






 これは自分だけの『罪』だ。他の誰にも肩代わりされたくない。背負ってもらうものでもない。

 自分だけが絶望していれば、事足りる代物だ。




 …………もう、誰も巻き込みたくはない…………そして、全てを護り抜く。








 その為なら、新たな『罪』などいくらでも背負ってやる。








 構えをといたアキトは白い天井を見上げ、引きつった笑みを浮かべた。






「『罪』に罪を重ねるか……………さらなる『狂気』を欲してるのか、それとも『罪』を裁かれたいのか………………俺は……どちらを望んでいる?」










 コミュニケが着信音を鳴らした。



 表情を消したアキトは中空を眺める。誰が着信してきたか瞬時にわかったからだ。

 今、アキトのコミュニケは着信拒否にしてある。

 そのコミュニケに通信できるのは、ただ一人。このナデシコの全てを掌っている白銀の少女『星野瑠璃』

 アキトの予想通り、開いた画面から人形のような少女が金の瞳を向けてきた。

「テンカワさん。少し、よろしいですか?」

 あまりにも他人行儀な質問の仕方。

 つい昨日、アキトに『チキンライスを作ってください』と云ったことなど無かったかのような対応振りだった。

 つられて、アキトも無愛想に返事をする。

「なんだ?」

「この時間から、体技室は私が予約しているのですが」




「…………………………トレーニングルームに予約なんてあるのか?初めて聞いたぞ」




「はい。娯楽の少ない戦艦ですから。共有施設は使用者のトラブルを避ける為に、予約制を取っています。もっとも、その予約制を使う人はほとんどいませんが」




 ……………………目の前に一人いるが。




 アキトはその言葉を飲み込み、別のことを訊ねる。

「トレーニングルームなんかで何をするんだ?」

 『前』のルリは運動など、見向きもしない少女だった。それが、この世界の『瑠璃』は何故?



「テンカワさんこそ、体技室でなにを?」



 見事な切返しだった。まさかアキトも木連式柔を少々…………などとは言えない。



 苦笑したアキトはマントを床から拾い上げ、質問を黙殺した。


 マントからユーチャリス艦長キーを取り出すとドアを開ける。

 そこには、微動せずに少女がトレーニングウェアを小脇に抱えて立っていた。

 無視された質問の追求もせず、無感情な瞳でアキトを見上げている。



「悪かったな。待たせて…………」

「…………いいえ」








 最低限のやり取りをして二人は擦れ違う。…………………………はずであった。








 突然、廊下に赤いパイロランプが点灯する。と同時に、低い戦闘警戒音が鳴り響いた。



 同時に、二人は顔を上げ、唖然としたように呟いた。






「「??…………敵襲??」」










機動戦艦ナデシコ
    フェアリーダンス

第一章『ジェノサイド・フェアリー』

第三話『早すぎる…………アオイさん。早く来ないと置いていきますよ』












 目の前には絶望的な状況が広がっていた。

 少なくとも、操舵士のハルカ・ミナトにはそう思えた。




 連合空軍第8艦隊旗艦『ゼフィランサス』

 リアトリス級戦艦……………………7隻。

 戦闘機……………………………いっぱい。




 レーダーを見れば先方が赤い点で埋まっているだろう。


 ミナトはチラリと横の席を見た。

 そこは、正確に敵の数を報告するはずの少女の席。




 ………………今は空席である。




 まぁ。警報も流したしぃ、すぐ帰ってくるでしょ。




 ミナトは視線をメインモニターに戻した。と、同時に通信が開く。


「あ〜〜〜。アキト、アキト、アキト、アキトッ〜〜〜!!」

 画面に現れた人物を見て、振袖姿のユリカが声を張り上げた。


 エステバリスのパイロット席に座っているアキトはユリカを空気のように無視して、隣にいるプロスに視線を転じる。

「どういうことだ?」


「え〜〜〜〜とね。あたしが連合の人たちにビックバリアを解除してってお願いしたら、なんか突然怒り始めちゃって。ケチだよね〜〜〜〜〜。あっ!!そんなことより、アキト!!この振袖どう思う?ユリカとしては――」

 プロスに問い掛けたのだが、ユリカが自分に尋ねられたと信じて喋り始めた。




 今、この地球には一番外側にビックバリアと呼ばれる電磁シールドが地球規模で被っていた。

 それが無ければとうの昔に地球は木星蜥蜴の物になっていただろう。

 このバリアも解除が可能である。ナデシコの艦長として、それの解除を連合軍に要請するのは当然のことだった。






 だが…………。






 アキトは喋り続けているユリカを眺める。




 どこからどう見ても振袖姿だった。そして、要請もその格好に見合ったやり方をしたのだろう。

 それを、『要請』と認識したか『挑発』と捉えたかは、ナデシコの前に展開している艦隊を見れば嫌でも判断つく。





 しかし…………。アキトは考え込む。



 『前回』はこんな所で連合艦隊などに邪魔されはしなかった。






「偶然、この公海付近で演習を行っていた連合空軍があったようです。彼らの帰還が予定より一日遅れたため捕捉されたようです」




 ミナトが驚いて隣を見ると、いつのまにかルリがオペレーター席へ戻ってきていた。





「そうか…………だいたいの事情は飲み込めた」

 それだけ言って通信を切ったアキトは、パイロットシートに沈み込む。


 アキトの前に別のコミュニケ通信が開かれた。

 眼鏡を掛けた整備班長ウリバタケがニヤリと笑っている。

「ようっ!テンカワ。調子はどうだ」

「…………何時もどおりだ」

「そいつは結構。それより、おまえに言われたアレな。エネルギー受信可変動ウイングは2枚増やしといたぞ。それから、ユニットの出力も一割上げておいた。が、バッテリーの減りも早い。気をつけろ」

「重力波ユニットの増設は?」


 溜息をついてから、ウリバタケが肩を竦めた。

「あのなあ。そいつは、突貫工事じゃ無理だ。ユニットを増設したら、バランス狂っちまうから、前面フレームを取っ替えなきゃならんし、そうすると足回りの強度計算し直しだし、ユニット出力変更に伴ってバイパス変えてやらにゃならんし、どう考えても1ヶ月はかかっちまう」

「そうか…………IFSの個人特化プログラム変更の方は?」

「ルリちゃんに頼んであるが、忙しいそうだ。今組んでるプログラムが終わったら手をつけると、約束は取り付けた」

「わかった。ありがとう」

「な〜に、礼は要らんさ。現場の要望は積極的に取り入れていかなきゃ、机上の空論になっちまうからな」

 ウリバタケのコミュニケ画面が消える。







 モニターに映る連合空軍をアキトは冷めた眼で眺めた。

 アキトの口元に薄い冷笑が浮かぶ。





 …………さて、ユリカ。おまえは………………どうする?

 …………俺は、決めたぞ………………おまえは?。






「ひっっっど〜〜〜〜い。アキトったら、通信途中で切っちゃうしっ!!」

 振袖姿のユリカが前面の艦隊など眼に入っていないかのように膨れる。

「あの、艦長。通信が入ってますが」

えっ!!誰?誰?アキト?そっか〜。あたしの振袖姿を見て驚いちゃったんだ。アキトったら照れ屋さんなんだからっ!!綺麗なら綺麗って言えばいいのにっ!!


 頬を染めて身をくねらせているユリカに、メグミは無言で通信を開いた。






「………………だれ?」







「私は連合空軍第8艦隊提督『カキモト・テルユキ』である。ナデシコは直ちに停船せよ。勧告に従わなければ攻撃も辞さない!!」




「え〜〜〜〜〜、と?」

 ユリカがニッコリと笑いかけた。



「航路の邪魔なんで退いてもらえませんか?」




 厳いカキモトの顔が怒りで赤く染まっていく。

「どんな理由であれ、この戦況時に単独行動など許せるはずがない!!貴艦の行動でどれだけの軍が迷惑しているか知っているのか?」


「え〜〜〜。別にあたしたちに構わなければいいじゃないですか」


「そうか。そういうつもりか。ならば、我々も覚悟を決めよう。我らも軍の端くれ!!民間人殺しの汚名を着ようとも、殺人者の罵倒を浴びようとも、平和を守る為、秩序を守る為、軍人として――いや、地球人として任務をまっとうする」




 ユリカが上目使いでモニターを見上げた。





「おてやわらかに」






「くっ!!」

 唸り声と共に、通信が切られる。


 頬に人指し指を添えてユリカが首を傾げた。

「おこりっぽいな〜〜。カルシウムが足りないのかな」






 ……………………あそこまでやられたら、誰だって怒ると思うけど。




 メグミは大きな溜息を吐いた。同時にブリッジからいっせいに溜息が洩れる。

 皆、考えていることは一緒のようだった。






 そんな溜息を不思議そうに聞いていたユリカは顔をあげ、モニターに映る敵陣を仔細に観察する。

 敵戦艦は、包囲網を作ろうとバラけた陣形を取り始めていた。


 敵陣は薄い。




 ユリカは小さく笑みを浮かべた。

「ミナトさん。構わないから突っきっちゃってください。ディストーションフィールドならしばらく攻撃に持ちこたえられるし、相手にしなきゃならない理由はありません」

「ん〜〜〜〜〜。無理だと思うよぉ」


「へっ?」


「だってぇ〜〜。まだ、高度2000メートルだもん。この高度の相転移反応じゃ、あの戦艦を振り切れるだけの推力でないもの」


「最低、高度1万メートルまで上がらないと、敵戦艦を振り切れるだけの理論推進力は出ません」


 ミナトの甘い声とルリの無情の声がユリカの作戦を押し潰す。





「え、え〜〜〜と、………………きゃっ!!」

 『ゼフィランサス』から放たれた主砲が『ナデシコ』のディストーションフィールドに着弾し、拡散した。

 その衝撃に、振袖姿のユリカがすっ転ぶ。

「あたたたたたた」




 着物がはだけてバッチシ見えている太腿を眺めながら、ゴートはムッツリとした表情で発言する。

「オトリを出せばいいんじゃないのか?」

「え〜〜〜〜。駄目です。アキトが危ないじゃないですか」



 上目遣いのユリカを見ながら、ゴートは眉を動かした。


 …………パイロットはその危険を承知で、やってるんじゃないのか?



 ユリカがパンッと手を打ち合わせる。

「そう云えば、もう一人パイロットがいましたよね。え〜〜と、山田さんでしたっけ?その人に出てもらいましょう」


「ダイゴウジさんは、昨日の戦闘で足が悪化したので、現在、医療室です」

 メグミの報告にユリカは腕組みをする。




 そのユリカの前に、通信が開いた。




 バイザーとマントを羽織った黎黒の狂戦士が現れる。




「俺が血路を開く。出せ」


「あ〜〜〜。酷いよアキト。突然、通信切っちゃうなんてっ!!プンプン!!」






「射出口を開けろ」





「ダメッ!!いくらアキトだって、今回はダメッ!!」

「俺は『ナデシコ』を護る為に『ここ』にいる。出撃命令を出せ」

「ダメ。今回は危ないし。それに相手は連合軍だよ。殺したらアキトが人殺しになっちゃう!!」



 ユリカの言葉を聞いてアキトは薄い、獰猛な笑みを浮かべた。


「………………そうか……………………殺せないか」





 アキトの表情と台詞にクルーは顔色を変えた。



 アキトをこの戦いの場に出してはならない。…………大惨事になりそうな気がする。

 皆は目線で互いの心を確かめ合った。






 一人、この会話など聞いていないかのように無表情にコンソールに手を置き、情報を集めている少女にアキトは視線を移す。

「ルリちゃん。射出口を開けてくれ」

「…………艦長命令違反になりますよ」

「ああ」

「規律が緩いこのナデシコにおいても、戦闘中の艦長命令を無視することは懲罰に値します」


 無感情に述べられたルリの警句にアキトは小さく笑う。



 …………そういや、この『ナデシコ』も戦艦だったな。


 アキトはルリに視線を当てた。



「この『ナデシコの仲間』を護るためだ」




 プロスが眼鏡を押し上げ、一歩進み出る。

「死ぬ気ですか。こんな所でテンカワさんに死なれてはナデシコとしても困るのですが」


 アキトは彼の困惑を鼻で笑う。

「…………まさか。この程度で死ぬ、俺じゃない」


 確たる自信を持って断言された口調に、プロスは押し黙るしかなかった。




「射出口を開けろ」




 ルリとアキトの視線が一瞬、絡み合い、

「テンカワさんの懲罰は帰って来てからとなります。覚悟しておいてください」

 その抑揚のない無感情な声と共に射出口が開き始めた。








 開いた射出口から外光が差し込む。



 アキトはその光に眼を細めながら、空戦エステバリスをカタパルトへ乗せた。


「ありがとう。ルリちゃん」


「その言葉は帰ってきてから聞きます」


 白銀の少女の通信はそこで切られた。










「ダメッ!!ルリちゃん!!止めなさい!!艦長命令です」



 ユリカはルリに声を張り上げるが、止まる気配もなく出撃準備は整っていく。


「ルリちゃんっ!!」


 ユリカの怒声に他の者は声無く彼女らを見詰めていた。






 メグミはルリを覗き見る。そこには、感情の無い機械のような端正な容貌をモニターに向けている横顔。


 その小さな口から質問が洩れ出る。

「では、艦長。他に方法がありますか?」

「だから、今こうして考えているところじゃないっ!!」


「敵旗艦にグラビィティーブラストを撃ち込みますか?」



「!!」

 ユリカが声を詰まらせた。



 ユリカも考えた戦法だった。グラビティーブラストを撃ち込み、陣が混乱しているさなかを突っ切る。


 相手が木星蜥蜴ならそうしていただろう。だが、今、敵対しているのは連合軍だった。


 ユリカの一言で、最低でも百十数名の命が失われる。いや…………殺してしまう。


 まさしく、血の路を開くことになる。


 そんなこと、できるわけがなかった。

 目的のために、無関係の人たちを殺す。そんなことは絶対にできない。認めてはならない。




 発進準備を続けるルリにユリカは拳を握り締め、怒号を叩きつける。


「止めなさい!!ルリちゃん!!艦長命令です!!…………ルリちゃんがやることは…………アキトをただ一人、死地に送ることは…………。ルリちゃん、それは『殺人』です!!」








「違います」






「えっ!?」

「手を下していませんが、私も同様に『殺戮者』です。それに、こんな所でごたついている余裕など………………私にはないんです」

 淡々とルリは話す。


「何を言ってるの?ルリちゃん」

 メグミの質問に返事をせず、ルリは無言で連合艦隊を見詰めた。






 静まり返ったブリッジに、アキトの音声通信が入る。

「テンカワ・アキト。出撃する」


 ナデシコから射出された黎黒の魔竜が一帯の雲を形成しながら戦場へと向かった。


















 連合空軍第8艦隊旗艦『ゼフィランサス』提督『カキモト』は鼻で笑った。



 先程、敵の出方と挑発を兼ねて主砲を撃った。ディストーションフィールドに防がれたが、何らかの行動はあると思っていた。



 敵が主砲を撃つか?だが、手元にある資料では地上では連射は出来ないと記載されている。

 何故だかは知らない。知る必要も無い。ただ、連射が出来ないという事実があればよい。

 たとえ、敵の主砲でこの『ゼフィランサス』が大破しても、リアトリス級戦艦は7隻もあるのだ。

 左右からタコ殴りにすれば、それで終わる。


 今、前面電磁バリアシールドに艦の全エネルギーを回していた。グラビティーブラストに対しては何の慰めにもならないが、それでもやることはやっておかなければならない。


 他の乗員も、いまか、いまか、と敵主砲を待っていた。




 そして、敵が動きを見せた。と、思ったら、出てきたのは群青の空戦エステバリス1機である。




 拍子抜けするな、というほうが無理であった。






「え〜〜、どうします?提督。拿捕しますか?」



 『ゼフィランサス』艦長の『トウドウ』が顎を掻く。彼の表情にも、安堵と困惑と嘲りが混合していた。


 敵の空戦エステバリスは真っ直ぐ、手近の戦艦に向かっている。

 ヤる気は十分のようだ。自殺行為とも云うが…………。






 提督のカキモトが厳つい顔を顰め、腕組みをした。

「たしか、ナデシコは民間人の集まりだったな?」

「少将の報告書にはそうありましたが」

「民間人と軍人の違いを思い知らしてやる。3番艦『シロギク』に伝令。エステバリスを撃破しろ。責任はこの『カキモト』が背負う!!


 トウドウが不安そうにカキモトに振り向いた。

「…………いいんですか?」


「一人死ねば、ヤツラも考えを変えるだろう。結果的に犠牲者が少なくなる」




 カキモトは腕組みしたまま、冷たい視線をエステバリスに送る。


 …………運がなかったな。仲間を生かすための尊い犠牲と思ってくれ。




 『シロギク』から、ミサイルの雨がエステバリスに降り注ぐ。






 艦橋から音が消えた。






 この時代で人対人の戦争を経験している人間はほとんどいない。

 5年前にアフリカ大陸で起こった戦争が最近の中で一番新しい戦争だ。極東方面など、いったい何十年前から平和が続いているか見当もつかない。


 今、この場にいる兵士たちも、軍人がなんたるかを改めて認識していることだろう。




 ミサイルの弾幕がエステバリスを被い尽くす。


 ………………終わったな。


 カキモトは眼を閉じて黙祷する。








ドゥォォォォォン!!




 空間に轟音が轟いた。


 カキモトは眼を開いた。エステバリス1機の爆発音にしては大きすぎる。


「なっ!!!!!」


 眼を見開いたカキモトは、提督席を蹴り立ち上がった。




 メインモニターには側面から炎を吹き上げながら、横倒しになって海に下降している戦艦『シロギク』




「何がおこった!?」




 カキモトが声を張り上げるが答えられる乗員はいない。



 『シロギク』の後ろに控えている2番艦『ミズキ』に突進しているエステバリスが視界に入った。




「『ミズキ』に伝令。あのエステバリスをなんとしてでも止めろ!!」




 『ミズキ』から撃てるだけのミサイルが容赦なく降り注ぐ。




 エステバリスは速度を落とさず、そのミサイル群を突き抜けた。


「ど…………どういうことだ。なぜ、ミサイルが当たらない」






「………………………………全て避けたようです」






 一瞬、沈黙が艦橋を支配した。






「………………避けただと?」



「………………………………計器から見る限りでは――」




 エステバリスがミズキに衝突するスレスレを通過していく。エステバリスが通った後から、ミズキの装甲が圧し折れ、ひん曲がっていく。


 後部のエンジンブロックを過ぎたあたりで、ミズキが火を吹き始めた。


 ミズキから入電された『エマージェンシーコール』が旗艦の艦橋に鳴り響く。




 コールを鳴りっ放しにしたまま、ブリッジ要員は唖然としてモニターを眺めていた。




 モニターのエステバリスがラピッドライフルを構える。




 そのまま、戦闘機と擦れ違った。

 次の瞬間、戦闘機が爆音と火炎の華と化し、パイロットの命を空に散らせる。

 さらに加速したエステバリスは左陣に展開していた戦闘機群に飛び込んでいった。






 エステバリス1機で戦艦を墜とす。常識では考えられない出来事だった。誰に話しても真っ向から嘘だと決め付けられるだろう。




 『ゼフィランサス』の艦橋に、残りの艦からの困惑と質疑と恐慌の通信が、凄まじい勢いで飛び交った。




 その恐怖が全艦隊に伝染する前に、カキモトは大音声で命令を下す。

「全艦、戦闘機を発進させろ!!艦は後方に下がり、半陣を作れっ!!」

 目の前で起こったことが信じられず、呆けていた乗員が慌てて艦を操作し始めた。




「エステバリスに主砲をぶち当てたほうが早いんじゃないのか?」

 5番艦の艦長から通信が入る。カキモトは首を振った。



アホ!!斧を振り回して、ハエを退治できるか!!援護砲撃も味方に当たらないように細心の注意を払え。でなければ、同士討ちしてヤツを喜ばせるだけだぞ!!」

 カキモトは戦場に眼を向ける。また一機、戦闘機が爆炎を咲かせた。







「…………バ……バケモノめ………………」














 飛来してくるミサイルをアキトのエステバリスは紙一重で避けた。



 腹を見せた戦闘機にライフル弾を撃ち込む。

 刹那、そこから火を吹き、爆発をおこして、海に向かって墜落した。

 パイロットが脱出した形跡は無い。先の爆発で気でも失ったのだろう。ならばもう、助からない。

 その事に、なんら感情を覚えることもなく、次の敵機に向かってエステバリスを空に滑らせる。




 身体は熱いのに神経は氷のように冷たく、頭は冴えている。

 殺気……というのだろうか。敵が撃つ前に、そのことを感じ取れる。

 戦闘機は残り、50機程度。殲滅させるのも容易い。

 ラピッドライフルの残弾数は300発。アキトを包囲している戦闘機を全滅させてもまだ釣がくる計算だった。



 三機の戦闘機がトライアングルを組んで突っ込んでくるのを視認すると、アキトの口元に薄く笑みが浮かんだ。


 敵の恐れが、足掻きが、怒りが手に取るようにわかる。


 戦闘機の機銃を避けながら、ライフルを連射した。

 ミサイルハンガーにあたったため、ミサイルが誘爆を起こし、一機が片羽根で錐揉み状に墜落し、海に辿り着く前に炎上爆発を起こす。

 火炎が広がる様を視界の端に留めながら、アキトはエステバリスの機体を反転させ、ライフルを片手で構えた。

                キャノピー
 側面に回った戦闘機の防風円蓋にライフル弾を撃ちこむ。一瞬にしてキャノピーが赤黒い色彩に染まった。

 その戦闘機の末期を見届けずに、アキトはもう一機に意識を走らせる。


 背後に回りこんだ戦闘機が機銃で掃射するが、瞬間、機体を中空で捻ったエステバリスは弾雨を避けきった。

 そのまま、音速で体当たりをしてきた戦闘機を急旋回をかけてやり過ごし、エステバリスが戦闘機のジェットノズルに狙いを定める。

 それを察知し、補助翼を使い、急制動をかけた戦闘機はその場で上下180度回転し、エステバリスを捉えた。


 戦闘機がばら撒いた弾を、空中で跳ね飛ぶようにエステバリスが避ける。




「くっ!!……なんでアレが避けられるのっ!?」


 戦闘機のパイロットはうめいたが、目の前の敵は消えはしない。


 敵のライフル射撃を避け、エステバリスの脇を音速でくぐりぬけた。音の速さだと真正面に見える海などすぐである。

 操縦桿を引き絞り、機体を立て直す。

 戦闘機が海面スレスレで機首を上空に向け直した。衝撃波で水柱を立てながら、上空にいるエステバリスにミサイル照準をセットする。



 また一機、上空で戦闘機が――仲間の命が死の火炎華と散った。



 パイロットは歯を食いしばる。


 その時には、両翼からのミサイルがエステバリスに向かって、白煙を噴射ながら飛行していた。

 刹那。エステバリスがライフルをミサイルに向け、一瞬でピンポイントに打ち落す。





 ゾワッとパイロットの背中に寒気が走った。





 そんなことが出来るエステバリスライダーなど聞いたことも無い。連合軍のエースパイロットだって無理だ。


 一瞬後、目前に、そのバケモノのようなエステバリスが迫る。

 パイロットは操縦桿を握り締めた。




 …………これで……………………終わりにしてやる。


 敵が死んで終わるか、自分が死んで終わるかわからないが。




 亜音速でエステバリスと交差する。








 刹那の間。








 自分が感じたショックから、戦闘機のエンジン部を撃ち抜かれたことをさとった。




 …………終わった。と、思うパイロットの視界に赤い文字が映る。




 その意味を脳が理解する前に彼女は戦闘機から強制射出をされていた。






 高度600メートルまで一瞬で落ち、パラシュートが自動的に開いた時、彼女はやっと先の赤い文字の意味を理解する。





 『強制脱出装置作動』





 空中でゆらゆらと揺れながら彼女は水面に降下していった。




 脱出装置は手動で操作しなければ働かない。もちろん、自動でも作動するが、彼女は戦闘中にそれが突然、作動することを恐れて切っておいたはずだった。

 あの装置は重要個所に被弾すると、どんな場面だろうが、どんな態勢だろうが作動する。

 昔、新人が胴体着陸に失敗し、横転したときにそれが作動して、地面に叩きつけられて死亡した事故を目の当たりにしてから、あの装置はイの一番に切っておくことにしていた。



 では、何故、作動した?

 脱出装置を切り忘れた?

 ありえない。今回、出撃前の点検は念入りにやっているのだ。忘れるはずが無い。

 では、故障か?

 被弾して偶然、脱出装置が故障して作動した?そんなことが起こる可能性は何兆分の1?

 『奇跡』という単語を浮かべて、彼女は苦笑いを浮かべた。



 戦争屋が奇跡を信じ始めたら……………………お終いね。





 彼女の目下に大海原が広がっている。

 空では血み泥の殺し合いをしているのに、大海は我関せずと雄大な姿を晒していた。



 自分は生きている。偶然だが事故だが知らないが、自分は生きている。

 海風に揺られながら彼女は深青の海を見詰めて口の中で呟く。

「生きてる、生きてる、生きてる。………………死神が…………アタシの襟首を掴み損ねたか……………………」



「弓崎、無事か?」

 耳元の通信機に通信が入った。

「隊長?」

「ああ。お前が撃墜されたのを見たんでな」

「なんとか…………………生きてますよ」

「そっか………生き延びろよ。お前は」

「隊長?」


 一機の戦闘機が海に突っ込む。弓崎にはそれが隊長の乗機だと、なぜかわかった。


 弓崎は晴天の青空を見上げる。










 蒼天に舞う、一機の死神。










「………殺してやる…………殺してやる………絶対に、殺してやるっ!!









*








 『ゼフィランサス』艦長『トウドウ』は納得した。



 なるほど、死神というのはこういう格好をしているのかもしれない。



 戦闘機をほぼ全滅にまで追い込み、その後、ニ隻もの戦艦を落としたエステバリスパイロットを見ながら、トウドウは妙に納得してしまった。



 今、彼らの前に闇黒のバイザーと、死色のマントを羽織った青年が映し出されていた。


 第8艦隊を壊滅に追いやったエステバリスのパイロットだと云う。



 彼のあまりにも、らしい格好にトウドウは心の中で不謹慎な笑みを浮かべた。もちろん、表にはチラリとも出さない。彼は死神だ。笑えば死が待っている。




 後ろを振り返らなくとも、カキモト提督が赤い顔をして唸っているのがわかった。

 彼は言った。責任は自分が背負うと。


 背負ってもらおう。戦艦4隻。戦闘機150機。人命300人以上。


 戦艦はエンジンブロックを爆破された6番艦『オウレン』以外、死傷者は少ないだろう。

 戦闘機パイロットは生存者が5分の1残ればよいほうである。




 戦争だ。死者が出るのは仕方が無いのかもしれない。

 だが、相手はたった一機の空戦エステバリス。むこうの損害はなし。あるとしても、弾代ぐらいであろう。

 死神の弾代に対して、こちらが払ったのが人命、300人分。割りが合わないどころの話ではない。





 だから…………彼は人ではなく死神。そう、割り切れば頷ける。割り切れればだが。






 その死神が口を開く。

「…………もう一度云う。俺に全滅させられるか……撤退するか…………選べ」




 随分、お優しい死神様だ。まあ、300人も殺せば冥界からボーナスでも出るのかもしれないが。


 カキモト提督の唸り声が大きくなる。



 もう、後はなるようにしかならない。間違いなく………………撤退。

 艦隊乗組員、全員がビビッちまってる。もちろん、自分もだが。

 カキモト提督が『全軍突撃』などといった所で、誰も動きやしない。



 この第8艦隊の生き残りは否応でも『戦争』というものを知っちまった。圧倒的な『負け戦』というものを。






 目の前で、圧倒的な力で仲間が蹂躙される姿を、苦楽を共に過ごした代けがえのない仲間が虫けらのように業火に焼かれていくさまを、怨毒に満ちた悲鳴を肌で知っちまった。






 恐怖を……怨怒を……怯弱を……怨嗟を……憎悪を……痛哭を……怨恨を……あらゆる悪意を引きずり出され、目の前に突きつけられた。





 これを機に、若い乗員たちは例外なく辞めるだろう。もう、どんな英雄イメージもプロパガンダも通用しやしない。

 そして彼らは、真夜中に飛び起きる程の悪夢にうなされる日々が始まるであろう。間違いない。俺もそうだったから。

 さらに、人を殺し、死を見て、何も感じなくなるまでなるにはどのくらいかかるのだろうか?もう長い事この稼業をやっているが、俺は未だに無理だ。


 トウドウは顔を上げた。




 たぶん何も感じなくなったら、この漆黒の死神のようになるんだろうな。






 その死神が口を開く。

「………………決まったか」




 トウドウは後ろを振り返った。






 カキモトが鬼のような形相で彼を睨みつけている。


 真っ赤な顔をし、目を吊り上げ、口をへの字に曲げ、両手を握り締めて振るわせている。


 その口元の両端が段々と下へと下がっていく。


 眉は吊り上がっているのに、目尻が僅かに下がる。


 赤い顔がさらに赤くなり、目尻から雫が零れ落ちる。


 歪んだ口から、低い音が洩れ出る。


 力をこめて眼を瞑る。そこから滝のように水が零れ落ちる。



 彼は泣いていた。



 唸るようにして泣いていた。



 カキモトは言い聞かせるように、囁くように、擦れた声で告げた。










「………………………………撤退する」










「そうか」










 彼は――黎黒の死神はそれだけ言うとエステバリスを反転させ、去っていった。



 結局、あれほどの死を振り撒いた死神を退散させる言葉は6文字で済んだ。

 残り1200名を救ったのはこの6文字だった。










 そして、300名の命を奪った死神の最後の言葉は…………たった三語だけだった。














「帰還する」

 恐怖と沈黙が支配しているナデシコの艦橋にアキトの声が響く。


「ごくろうさまでした。今、射出口を開きます」

 それに答えるのは先程の戦闘を無表情で眺めていた少女。



 アキトとの通信が切れた後、喋るものは誰もいない。



 クルーは青白い顔をして、連合軍から逃げるようにナデシコを操艦する。




 ミナトは炎を上げている戦艦から目をそむける。



 メグミは助けを求める兵士の声を断ち切るように通信機を切った。



 始めは『すごい、すごい』と暢気にはしゃいでいたユリカは今は蒼ざめた顔をして唇を震わせている。




 民間人の前で行われた人と人との殺し合い。

 怨嗟の悲鳴と呪詛の絶叫。

 間違いなく彼らは殺意の眼でこの艦を……『ナデシコ』を見上げていることだろう。




 ナデシコに出来るのは、その場を逃げ出すことだけ。


 彼らに何の弁明もできない。言葉さえ見つからない。




 壊滅した艦隊がはるか後方になってから、コンソールから手を離したルリがくるりと振り返った。



 艦橋に立つユリカを見詰め、少女は静かに言葉を紡ぐ。












「では…………艦長命令を違反したテンカワさんの処罰を決めませんか?」












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