「一人かね?」


 一人、ブリッジでプログラムを組んでいる白銀の少女に、後ろから尋ねた。





 振り向きもせず、少女が答える。

「はい。艦長とメグミさんは朝から食堂。ミナトさんはお寝坊さんで、今は遅めの朝食兼早めの昼食。ゴートさんはプロスさんとともに報告書作り。コルリはウリバタケさんの手伝いで出張中です」




「今は忙しいかね?」


 少女はスクロールするプログラム画面から視線を離そうとはしない。

「いいえ。暇つぶしになってるプログラムの作成中です。ほとんど終わっていて、現在264回目のシミュレート及び見直し」




「では、お茶などいかがかな。老人の茶飲み話に付き合ってくれると嬉しいんぢゃが」



 パタンとプログラム画面を閉じたルリが振り返って、好々爺――『フクベ・ジン』に頷いた。

「いいですよ」



 ルリの目線がフクベ提督の持っているポットに注がれる。

「でも、それ。アルコール、入ってませんね?」


 フクベ提督は白い髭に隠れた口許に微かな笑みを浮かべる。

「入ってたら、君には勧めまい」


「いただきます」





 隣の通信席に座ったフクベ提督は用意しといた二つのカップに、ポットから朱金の茶を注いだ。


 ルリが手渡されたカップに口をつける。

「…………美味しい紅茶ですね」


「気に入ってもらえたようぢゃな」

 ルリの変わらない無表情に一つ頷くと、フクベ提督も紅茶をすすった。




「どうかね。この艦は?」




 カップを両手で支えたまま、ルリがブリッジを見回す。

「相転移エンジン。ディストーションフィールド。グラビティブラスト。確かに、この艦は地球最強です。しかし、木星蜥蜴も同じ性能を持った戦艦が多数存在します。同じ能力なら、多少パワーの違いがあっても数が多い方が有利。火星圏内では今までのような一方な戦いは無理です」




 なんとも、この少女らしい答えだ。



 淡々と述べたルリの戦力報告にフクベ提督は苦笑いを浮かべた。


「艦の性能の事を訊いたのでは、ないのぢゃがな。……………君はこの艦を好きかね?」





 質問にすぐには答えず、フクベ提督の目線から逃れるようにルリが金の眼を伏せた。

 両手でカップを包み、ルリは一口、紅茶を飲んだ。





 提督帽の陰に隠れたフクベ提督の眼に、ルリが無機質な視線を合わせる。



「『大切な思い出』だった場所です」





 フクベ提督の眉が訝しげに動いた。

「思い出……だった…………?」





 一つ、ルリが頷く。


「全ては、過ぎ去ったものです」





「君は今、ここに居るんじゃないのかね?」


 無表情のルリが紅茶に口をつけてから、フクベ提督を見返す。

「そうですね。私はここに居ます。…………では、提督。『ここ』は、提督の居場所ですか?」



 フクベ提督の片眉が跳ね上がり、驚きに彩られた眼が顕わになった。



「そういうことです」

 ブリッジにルリの静かな一声が落ちた。





 二人の間を静閑な静寂が阻む。





 この少女は只者ではない。それは前までの戦闘時にわかっていた。


 だが、この問答で、いよいよこの少女が判らなくなってきた。

 どうあっても、少女が言えるような台詞ではない。

 それは、自分と同じように、戦場で挫折と失敗と後悔を繰り返した船乗りのような…………。



 フクベ提督は空になったルリのカップに眼をやる。

 ポットを掲げたフクベ提督に、ルリが素直にカップを差し出した。

 紅茶を満たしたフクベ提督はポットを床に置く。



「星野くん。君はどうしてナデシコに乗ったのだね?」

「あの時、食堂に居たと思いましたが?」


「……………………兄弟姉妹に会うため…………だったかね?」


「はい」


「火星にいるのかね?」

「いいえ」

「では、なぜ?」




 ルリは紅茶から揺らめきたつ白い湯気を眺めた。

 ルリがふっと小さく息を吹くと湯気が乱れ揺れ、またすぐに元に戻る。



 湯気の漂いを見つめながら、ルリが言葉を紡ぐ。

「ネルガルが火星に戦艦を差し向けるのは、人命救助のためでも、研究資料の引き上げのためでもありません」

「なに?」



 ルリの金の瞳がフクベ提督を見据える。

「あとは提督ご自身が、ご自分の眼で見てください」




「星野くん?」


 フクベ提督の呼びかけに答えず、ルリが音を立てずに紅茶を飲み、――――顔を上げた。

「提督は、なぜ『ナデシコ』に乗ったんですか?」



 フクベ提督はルリの無感情の金の瞳を見つめた。


 質問を避けてしまうのは簡単である。

 だが、フクベは少女が本音で話してくれていると感じていた。

 もちろん、その全てを語ってくれているわけではない。

 それでも、フクベの問いに本心を語ってくれているのは違いなかった。

 ならば、フクベも全てを語らないまでも、本音で答えるのが礼儀であろう。



 そう、判断したフクベ提督は疲れたように空虚な重いものを吐き出す。

「………………火星に『忘れ物』をしてしまっての」



 フクベ提督の眼は、前に座っている少女ではなく、火星を―――第一次火星会戦の、あの赤茶けた大地を―――自分の罪の証を―――見通した。


「それを………………取りにいくんぢゃよ」




 無言のルリが、フクベ提督の生きることに疲れた暗瞳の双眸を眺めた。


 ルリの人形のように無感情な、しかし、全てを見通すかのような金の瞳が静かにフクベ提督を見透かす。

「それは、…………わざわざ探しにいくほどの、価値のあるものなんですか?」


「他人から見れば無きに等しいぢゃろうな。まあ、わしにとっては『けじめ』みたいなものぢゃ」





「それに付き合わされる『他人』は、いい迷惑です」



 迷惑とも思っていないような無表情のルリに淡々と言い返され、フクベ提督は口許に小さく笑みを浮かべた。

「すまんのぉ」





「まあ。私も人のことは、言えませんが」


 穏やかな諦めの苦笑を浮かべるフクベ提督に、ルリがぼそっと呟き、紅茶に口をつけた。






 目の前で音無く紅茶をすする少女を老提督は、じっと見包む。


 『ここ』は…………この『ナデシコ』は、フクベの居場所ではない。

 しかし、現在の提督として、これだけは訊いておきたかった。




 フクベ提督はルリを真正面から見据える。

「星野くん。君は、この『ナデシコ』をどうするつもりかね?」






 ルリの口許にあるカップが一瞬、止まった。が、そのまま紅茶を飲み干した。





 口許のカップが平淡な声をくぐもらせる。

「どうもしません。この『ナデシコ』は『艦長』の『ミスマル・ユリカ』さんの艦です。最終的な行き先は『艦長』しだいです」









 口許の、両手で持った空のカップが、ルリの表情を覆い隠した。


 しかし、銀髪とカップの隙間から覗く金瞳の双眸に、どこまでも深く昏い『狂気の闇炎』が爆ぜる。








「私は間借りしてるにすぎません」









 凄烈な凶狂の金瞳は一瞬で、無表情に全てを押し隠され、人形のような元の無感情な金の瞳に戻った。







 全ての変化を読み取った老提督は、ただ一言、

「…………そうか」

 と、つぶやいた。



 無表情のルリがカップを膝の上に下ろし、頷く。

「そうです」

「そうか」

「そうです」



「そうなのか…………」











「あ〜〜〜〜。いたいたぁ。ルリルリ、ちょっとぉいい?」

 突然、ブリッジに甘い舌足らずな声が響いた。


「はい?」

 ルリの視線にミナトは微笑みを浮かべた。



 ルリルリとオジイチャン提督、二人とも手にカップを持っている。

 子供と老人のお茶会。




 なんか………………微笑ましい。




「あらぁ、お茶会開いてたのぉ?」


「はい。『軽い』お茶飲み話です」

「ふ〜〜〜ん」




 フクベ提督がポットの把手をつかみ、立ち上がった。

「………………わしはこれで」


「紅茶、ご馳走様でした」

 カップを返したルリが頭を下げる。






 フクベ提督を見送ってから、ミナトは操舵席に座った。

「よいしょっとぉ。最近、なんか疲れやすいのよねぇ」

「不摂生な生活のせいじゃないんですか?」

「あらぁ。大学じゃ、もっとぉ不規則な生活送ってたけど何とも無かったわよぉ」


「…………はあ」


 曖昧な返事をするルリに、ミナトはニッコリと笑いかけた。

「ところでぇ、ルリルリ。お昼ご飯は?」

「まだですが」

「じゃあ、食べにいってらっしゃいなぁ」



 ルリがブリッジを見回す。

「でも、ブリッジから誰もいなくなるのは拙いです」


 無表情・無感情に見えるルリがかなり鋭い事を知っているミナトは、思惑を悟られないように、さりげない口調で笑みを浮かべた。

「ワタシがいるから平気よぉ」


「はあ」



 渋るルリの背中を軽く押しながら、ミナトは送り出す。

「ほらほらぁ。行った行ったぁ」


「…………はあ。すいません」

 ペコリと頭を下げたルリが、ブリッジから出て行った。




 ルリの姿が完全に視界からいなくなったのを確認し、ミナトはいそいそとコミュニケ通信を開く。

「ホウメイさん。ルリルリ、送り出したわよぉ。後は任せたからねぇ」


 コミュニケ画面の中でホウメイが親指を立てた。



 Vサインで返答してから、メインモニターの銅鐸アイコンにミナトはウインクし、微笑みかける。

「さて、オモイカネくん。ちょ〜〜と、頼みがあるんだけどなぁ。食堂の映像を廻して欲しいだけなんだけどぉ。オモイカネくんだって興味あるでしょぅ」






 ルリにプラスになることならオモイカネは断らない、というミナトの予想は見事に当たった。




*





 テーブルの椅子に座ろうとするルリにホウメイは声をかける。


「ほらっ。ルリ坊。空いてるんだから、そっちじゃなくこっちに来な」



 ホウメイの声を聞いたルリが辺りを見回してから、カウンターに向かってきた。

 ミナト発案の『お節介』は、ルリに悟られてないようである。



 カウンターのスツールに腰を下ろしたルリはペコリとホウメイに頭を下げた。

「こんにちは」


「はい、こんにちは。で、何にするかい。ルリ坊」


「では、いつものを」


 ルリの淡々とした注文に、ホウメイは悪戯に成功したような会心の笑みを浮かべた。





 ホウメイは厨房の奥に振り向く。


「テンカワ!!『チキンライス』、一つ入るよ」



えっ!?

 アキトは驚いて後ろを振り返った。


 そこには無表情でカウンターの席に座っているルリと、笑みを含みながらアキトを見つめるホウメイ。


 アキトに向かってホウメイが頷く。

 瞬時に、アキトはホウメイの意図を察した。



 『チキンライス』の合格をホウメイに貰ってから、すでに一ヶ月もたっている。

 最近、ルリと上手く行き会わなくて、少々焦り始めていたところだった。

 ルリが食堂にくる時間を見計らって、上手く身体を空けようとするのだが、その度に山田や、ユリカに捕まっていた。


 見かねたホウメイが、ルリを呼んでくれたのだろう。




 心の中でホウメイに感謝しながら、アキトは力強く頷き返した。

「はい」




 アキトはコンロに向い、熱したフライパンに油を敷く。

 ジュワッといういい音が厨房に鳴り響いた。






 もっとも、そうは収まらない、アキトの『自称』恋人と『自称』ライバル。


あ〜〜〜〜〜〜〜〜!?ずる〜〜〜〜いアキト!!ルリちゃんばっかり!!アキトの手料理、一番最初にあたしに作ってくれるって約束してくれたのに!!


そうだぜ!!アキト!!オレの飯を作っるって承諾したじゃねぇかよ」



「アキト!!ユリカの方が先だからね」

「オレだ!!オレ!!」

「ユリカのほうが、リョーコさんよりも先に注文してたもん!!」

「くっ!!」

「ユリカは艦長さんなんだぞ。200名の『命』を背負っている重大で大変なお仕事なんだよ。
 
だから、アキト!!愛と勇気をあたしに頂戴!!

「アキト!!あんパン艦長の戯言なんざ聞く必要ねぇからな!!」

「ユリカ。あんパンじゃないもん!!」

 ユリカとリョーコが顔を小倉あんパンとインドカレーパンに変えて、威嚇音を鳴らし合う。



「…………チキンライス?…………チキンライスって、もしかして………………あの時の?」

 ただ一人、抗議に加わらなかったメグミの顔が蒼ざめた。





 ユリカが口角唾を飛ばして、黙殺を決め込んでいるアキトに文句をつける。

ねえ、アキト!!あたしが一番初めに注文したんだよ。手料理、食べさせてって!!だから、あたしが一番だよ!!



 ユリカの主張にメグミは思う。


 …………違う。アキトさんが厨房に入る前から、手作り料理を頼んでいた人物がいた。



 そう、『星野瑠璃』



 『ナデシコ』が、ミスマル提督の連合軍に包囲された、あの時に。

 まだ、誰も彼が料理をできるなんて思ってもみないうちから。


 証人は、艦長と副艦長とプロスと新パイロットを抜かしたナデシコ『全員』

 もちろん、メグミもその一人である。




 声高に文句を放つ二人を尻目に、メグミは何も言えなかった。


 ………………あの時の、あの二人を見ていたから。

 アキトの『必ず作る』という誓いを間近で聞いていたから。







 不平を鳴らし続けているユリカとリョーコを、ホウメイは諌める。

「ほらっ、やめないか二人とも。あたしがテンカワに合格をだした料理はまだ『チキンライス』の一品だけ。それを、たまたまルリ坊が頼んだだけさ」


 嘘である。

 ホウメイが合格を出した料理はこの一ヶ月で、もう20品目にもおよぶ。



 それが、今まで下拵えなどでアキトが甘んじていたのは『初めての料理はルリちゃんに』


 この信念一つからであった。

 そして、ホウメイも承諾していた。



 なぜなら、眉一つ動かさずに人を殺せるアキトが、ここまで『ナデシコ』に溶け込んでいるのは、ルリの手腕であったから。


 地球での連合軍殲滅は、途中でルリが内部放送を切ったために、通常乗組員はアキトが一隻の戦艦を墜とすのしか見ていない。

 もちろん、『噂』で知れ渡っているが、噂と実際に眼で見るのとでは、天と地ほどの差があった。

 通常乗組員には『内部放送が切れたのは、着弾のショックのため』と伝達されていたが、ホウメイはプロスから詳しい事情を聞いていた。

 もちろん、そんな裏があるなどクルーは思ってもみないだろう。ブリッジの人間も、プロスとゴート、そしてルリ以外知らなかった。







 ユリカが不満全開で頬を膨らませ、リョーコがアキトの背中を睨みつけている。




 メグミは神妙に黙っていた。


 今は文句を言うよりも、頭を動かす時である。


 機を見なければ、勝てるものも、勝てない。………………特に『恋愛』は。


 そう、気に病むことは無い。

 確かに、アキトさんの料理を一番初めに口に出来ないのは悔しいが――それは本当に悔しいが――あとの二人のライバルも同等の条件なのだ。

 ならば――――。


「アキトさん。ルリちゃんの次は『アタシ』のチキンライスお願いしますね!!」




なっ!!ずるいっ、メグちゃん!!あたしが先に――



 愕然と振り向くユリカに、メグミはフフンと鼻で笑った。

「艦長が頼んだのはハンバーグでしょ。チキンライスはアタシの方が先です」


「アキト!!オレはチキンライス2杯だ。鶏の皮抜きで頼むぜ!!」

「あ、あ、あ、あっ!!じゃあ、あたしはチキンライス3杯!!」



 焦って注文する二人にメグミは優越感に満ちた口調でアキトにお願いする。

「アタシは一杯でいいですけど、二人よりも早くお願いしますね〜〜〜」



「次は、オレだぜ!!」


「ううぅ〜〜〜〜〜〜〜っ!!」

 食堂にユリカの悔し紛れのうめき声が響き渡った。







 三人の狂騒を眺めていたルリが横目でホウメイを見上げる。

「食堂、儲かりますね」


 ホウメイは呆れたように肩を竦めた。











 ルリの前に、半円球に盛られたチキンライスの皿がコトリと置かれる。

「はい。ルリちゃん。『頼まれて』いたチキンライス。…………遅くなってゴメン」


 アキトは少し緊張した面持ちでルリを見つめた。



 ルリはチキンライスから視線を上げず、

「いいえ」

 と返事を返す。



 五人が固唾を飲んで見守る中、ルリが微かに震える指でスプーンを握り――――損ねて取り落とした。


「あっ」


 床に落ちたスプーンを拾おうと身を屈めようとしたルリの目の前に、新品のスプーンが差し出される。


「落ちたのは、後で拾えばいいさ」



 素直に頷いたルリが、ホウメイから差し出されたスプーンを受け取った。






 白い湯気が立ち昇り、香ばしい香りを漂わせている半円球に盛られたチキンライスの頂点に微かに震えるスプーンが差し入れられ、すくい取られる。




 チキンライスを盛ったスプーンがルリの口許へ――――








「ルリちゃん!!」




 ユリカの大声に、口許に持っていこうとしていたルリのスプーンが、宙でピタリと止まった。





 今まで黙って見ていたユリカが耐え切れなくなったように、切羽詰った声をあげたのだ。




「ルリちゃん!!一生のお願い!!
一口だけ…………一口だけ、ちょうだい!!
アキトの初めての料理は、あたしが食べるって決めてたの!!
お願い、ルリちゃん!!」

 ユリカは身を乗り出して一息で喋った。




「ちょ……ちょっと、艦長――」



 袖を引っ張って諌めようとしたメグミを振り切り、ユリカは溢れる想いを解き放つ。


「…………10年……10年待ち続けたんだよ。アキトのこと!!

 あんな風にアキトと別れて、でも、ず〜〜っとアキトのこと想ってて。

 こうやって、こんな時に、この戦艦で出逢えたのもやっぱり『運命』だったんだって!!

 だから、アキトがコックさんだと知ったとき、絶対に一番初めのお客さんになろうって決めてたの!!」






 ユリカは胸の前で手を組み、涙眼でルリに懇願する。


「お願い!!」





 切愛に満ちた真剣な表情のユリカの切実な声音に、ルリがチキンライスの乗ったスプーンを皿に戻した。





「ルリちゃん?なにを?」


 尋ねるアキトを黙殺し、ルリがユリカの前にチキンライスの皿を押しやる。



「ルリちゃん?」



「………………いいですよ」



「本当に!?」

 歓声を上げ、嬉喜し舞い飛び上がるユリカに、ルリが無言で頷いた。




 苦い顔のアキト。だが、何も言わない。


 お客に出した料理である。客がどう扱おうが、それは客の物。

 仮にも、一端の料理人であるアキトはそう考え、口を閉じ、奥歯を噛み締める。




「ありがとう!!ルリちゃん!!
ルリちゃんは、やっぱりあたしの『味方』だね!!」


 歓喜の感謝とともに、心の底からの満面の笑みをルリに送ってから、ユリカがチキンライスを盛ったスプーンを眼の前に掲げた。



「……これが…………アキトの料理………………」



 感動感激の呟きを発するユリカの横から、リョーコが勢い込んでルリに尋ねる。



「ズリイッ!!じゃあ、オレも一口!!」


 無言無表情で首肯するルリにリョーコはスプーンを握って、ガッツポーズをとった。

「おっしゃ!!」


 メグミも二人に遅れをとってはと、焦ってルリに告げる。

「じ、じゃあ、アタシも一口だけ」





 二人の声を聞いたユリカが、慌ててチキンライスを口に含んだ。

 驚きにユリカの両眼が大きく見開かれる。


 同じようにチキンライスを食べた二人も、食べた途端、固まった。




「お…………美味しい…………」


「すげえ。…………一流コック、そのものの味じゃねぇか」


「ホウメイさんのと比べたって見劣りしませんよ」





 ユリカが眼を輝かせ、アキトに賞賛の讃辞を送る。

「すっご〜〜〜〜い!!すごい!!すごい!!
すっごく、美味しい!!
アキトは、やっぱりユリカの『
王子さま』!!これなら、すぐにでもお店ひらけるよ!!」



 大歓声でアキトを褒めると、ユリカがそれっとばかり、チキンライスをパクつき始めた。




「あっ!!ズリッ!!」

「あ、アタシも!!

「これはあたしのっ!!」

 ユリカの横から手を伸ばしたメグミとリョーコの三人で、チキンライス強奪戦を繰り広げる。



 ユリカがスプーンを咥えたまま、アキトにお願いする。

「アキト!!次は『あたしのため』に作って!!」

「なに言ってんですか!?次はアタシが注文してるんです!!」

「だって、メグちゃんはルリちゃんの『次』でしょ。だから、ユリカの分を作って、ルリちゃんの分を作って、それからメグちゃんの分ね!!」

「ふ、ふざけないでください!!」


 激昂するメグミにユリカが頬を膨らませた。

「ふざけてないもん。本気だもん!!」




 顔を俯かせ、両手を握り締めたアキトは自分の中の爆発しそうになる心を必死で押さえ込みながら、軋るような唸り声を洩らす。


「お…………おまえら――



「かまいません」


 怒鳴る寸前のアキトを、ルリが感情の無い無機質な声で制した。




 アキトの驚きに満ちた眼が、無表情のルリに向けられる。


「私が頼んだのは『テンカワさんが作ったチキンライス』…………それだけです。千皿目でも、失敗作や余り物だって、………………私は、かまいません」




 ルリに言われ、何も言えなくなるアキトにユリカの声が弾んだ。

「ほらっ!!じゃあ、次はあたしね」

「何、言ってんですか!!アタシが先に注文してるんです!!」

「オレだ。オレ!!」



 アキトの顔が露骨に歪む。

「次はルリちゃんの分だ!!」




 三人に一喝したアキトが身を翻し、コンロに向かった。

「…………アキト。なんで、怒ってるのかなぁ?」
「さあな?たかが、順番くらいべつになあ」

「…………………………」



 今までのやり取りを黙って見ていたホウメイは顔を顰める。



 なかなか、ルリとアキトが会えないようなので、ミナトとともに、こうしてわざわざセッティングしたのだが、それが完全に裏目に出た。


 まさか、この三人娘がルリの料理を奪い取るとは、さすがのホウメイも予想すらしていなかった。




 この三人娘がいないときを、見計らってルリ坊を呼ぶんだったと後悔しても、後の祭りである。

 そもそも、アキトの勤務時間中は四六時中、この三人が食堂に張り付いているのだから。



 これは…………あとでテンカワに謝っとかなきゃならないねぇ。

 心の中でアキトに謝罪してから、ホウメイはルリが言った台詞に引っかかった。


 『千皿目でも失敗作でも余り物でも良い』と言った台詞に。



 もし、その言葉通りなら、ルリ坊は――。




 ゴォーーーン

 鐘を撞くような電子音とともに、ルリの横に銅鐸アイコンが現れた。


「どうしたの?オモイカネ」

 問いかけるルリの前に、一枚の映像が表示された。



 三人娘はチキンライスの取り合いで気づきもしない。



 ルリの後ろから、ホウメイは画像を覗き込んだ。

「なんだい、こりゃ?隕石かい?」






「これ…………この形は…………もしかして、あの…………『彼女ら』の研究コロニー?」

 ルリが疑念を含んだ、やっと聞き取れるぐらいの小さな声で呟いた。






「彼女ら?研究コロニー?」



 ホウメイの問いかけを無視し、画像を仔細に観察していたルリが金の双眸を細める。

「オモイカネ。…………その右端。赤いそれを拡大して」




 画面に、豆粒のような赤い物が拡大表示された

 赤い物に所々、黒い色が混じっている。




 無表情を微かに強張らせたルリが、小さな拳を握り締めた。

「もっと」





 拡大しすぎて輪郭や細部がぼやけた画像が画面一杯に表示される。





 ガタンッ!!


 ルリが椅子を蹴り倒して立ち上がった。





 その音に驚いて、ルリを見た者は例外なく、その顔に眼を釘付けられた。




 大きく金の眼を見開き、小さな口を半開きにした、その表情は――『驚愕』


 いつ如何なる状況でも無表情を崩さなかった少女が、『驚き』の表情を浮かべていた。





 瞬転、キュッと口を結び、ルリは食堂出口から物凄いスピードで走り去っていった。







 後に残されたのは呼び止めることすらできなかった唖然とした面々。


「あたし…………ルリちゃんの驚いた顔って初めて見た…………」

「オレも無表情以外の顔は、初めて見たぜ」

「ルリちゃんも、ちゃんと表情出せるんじゃない」



「ルリ坊が慌てふためくなんて、よっぽどのことなんだろうね。でも、この画像を見る限りじゃ、さっぱりだよ」


「そういえば、これ見て驚いてましたね」

「あたしには、赤い塊にしか見えないけどなぁ」

「人型に…………見えなくもねぇな…………」



 ガランッ!!ガランッ!!


 しげしげと画像を見ていた四人の耳に重い金属音が鳴り響く。



 アキトの手からフライパンが滑り落ち、床に炒飯が散らばり、フライパンに接した床が焼け焦げ、煙を上げていた。





 アキトはその画像の赤い塊を愕然と凝視する。


 間違えるはずなど無い。

 見間違うはず無い。

 

 その姿を、何度、夢に見たであろう。

 その姿を、何度、罵ったであろう。

 その姿を、何度、叩き潰してやると誓ったであろう。



 身体が自然に震え出してくる。



 荒い息を吐くアキトの食いしばった歯の間から、呪詛が洩れ出る。



「………………夜天光……………………」




 心配した四人の呼び声など耳に入らず、アキトはギシリと歯を軋ませた。





 愕然と画面を見つめていたアキトの眉間に皺が寄り、眼が吊り上り、口を歪ませ――『狂鬼』の形相と化す。



 カウンターに足をかけ、一足飛びにカウンターを跳び越えたアキトは、完全に兇気に呑まれた形相で、食堂から飛び出していった。







*





 ハルカ・ミナトは不機嫌だった。


 凄まじい、不機嫌の極致にいた。


 つまり――――怒り狂っていた。




 こんなことになるなら、ワタシも強引についていけばよかった!!


 まさか…………あのアーパー三人娘がルリルリの『約束』を奪い取るなんて思ってもみなかった!!


 『艦長』と『パイロット』は知らなかったにしても、『通信士』は知っていたはずだ。

 二人の『約束』を!!

 それも、間近で見ていたはず!!

 本来なら停めに入らなきゃいけないものを………………それを、一緒になって!!


 ワタシがいたらカノジョラに絶対ぃ、あんなマネさせなかったのに!!


 食堂のことをオモイカネの映像で全て見ていたミナトは、怒りと後悔で身を切られる思いだった。

 やり場のない怒りを内に溜めているミナトの真後ろから、白銀の塊が飛び込んでくる。



「ルリルリ!!」



 叫ぶミナトに視線さえ送らず、ルリがオペレーター用IFSコンソールに両手を置き、通信を開く。


「艦長」


「うひゃっ!!」

 突然、食堂にいるユリカの目の前に、ルリのコミュニケ画面が開かれた。


「テンカワさんは?」

「へっ!?」

「テンカワさんは?」

 ルリの金の双眸が発光しているかのように、鋭い眼光を帯びる。


「え?…………あ、出て行っちゃったけど………………」

 完全に射竦められたユリカがボソボソと喋った。



 ルリは挨拶も無しにコミュニケ通信と赤い物が映った画面を閉じる。




「ウリバタケさん」


!!………………なんだ、ルリルリか?どうしたんだ?」

 突然現れたルリのコミュニケ通信に、格納庫で整備をしていたウリバタケは一歩後退った。


「テンカワさんのエステバリスをロックしてください」


「はっ!?」


「大至急、お願いします」

「だが、アキトのエステバリスは、まだ最終調整が終わってねぇから――」




 ガゴォン!!



 ウリバタケの真後ろで、一機の濃紺のエステバリスが突然、動き出した。

「な……なんだあ!?…………あれは…………山田のエステ…………チッ!!あの野郎がっ!!今度という今度は、ただじゃすまさねぇ!!」


 ウリバタケはコミュニケ通信を開く。


「オラッ!!山田!!おま――」

 ウリバタケの怒声が途中で途切れた。



 そこには悪鬼と見紛うような凄烈な形相をした『テンカワ・アキト』



 ブリッジにも映し出された、狂気に染まったアキトの顔に、ミナトは息を呑んだ。



「隔壁B-1、B-2、B-3、緊急閉鎖」

 躊躇いの無いルリの声で、射出口に続く格納庫の三枚の隔壁が轟音とともに閉じられる。



 射出口に向かおうとしていたエステバリスは歩みを止めた。



 獰烈な凶相のアキトがコミュニケ画面内のルリを睨みつける。


隔壁を―――開けろっ!!



「お断りします」

 いつもの抑揚の無い声で即答するルリ。



 ギリッとアキトが歯軋りをする。

「開けろおぉぉぉぉぉぉっ!!」



 咆哮を放つアキトに、ルリが首を振った。

「開けません」




 唸り声を洩らすとアキトが隔壁へ歩を進める。



 狂気に呑まれたアキトと、冷静に答えるルリの会話に、ミナトもウリバタケも声を挟めなかった。

 そう、これは前にブリッジで逆鱗に触れられたアキトが暴走した時と同じ状況。

 声を挟めるわけがない。




 隔壁まで歩いていったアキトのエステバリスが右の拳を握った。


「…………ま、まさか…………あいつ――」


 ガゴンッ!!


 格納庫中に響き渡った轟音に、ウリバタケは反射的に首を竦める。


 ウリバタケの懸念通り、アキトがディストーションフィールドを纏った拳で隔壁をぶっ叩いた。


 殴った右手から、オイルが噴出す。

 だが、気にもせずもう一度振りかぶり、拳を叩きつけた。



 ガゴンッ!!



 轟音が鳴り響き、隔壁がへこみ、火花が舞い散る。

 エステバリスの右手から、負荷に耐えられなくなった部品が吹っ飛んだ。



 それを冷静に見つめているルリの両手の甲が虹色に輝き、コンソールに目まぐるしく光の筋が幾重にも走り重なる。




 ガゴンッ!!



 弩雷とまがう衝撃音が格納庫に轟鳴した。



 唖然としているウリバタケは、狂気の沙汰にしか見えないアキトの行動を見守る。

 否、見守ることしかできない。


 取り押さえようにも、こんな所でエステバリス同士が戦ったら、艦が真っ二つになる。

 しかも、操縦しているのは天下一品の腕を持つアキトだ。

 取り押さえられる者など、ここには存在しない。



 ガゴォンッ!!



 隔壁の歪みが大きくなり、余波で格納庫の全域から火花が飛び散った。


 あと、一発、殴打すれば隔壁は間違いなく吹き飛ぶであろう。


 アキトもそれがわかったらしく、酷薄な歪みを浮かべた。

 その吊り上った凶眼に正気の色は、まったく見えない。



 アキトのエステバリスの右腕が水平に上がった。



 ルリの無感情な金の瞳がアキトを見つめる。


 ディストーションフィールドをまとった右腕が、後ろに引き絞られ――――――エステバリスは隔壁の前で、砕けたように膝を落とした。

 重荷な金属音とともに尻餅をつき、全身の力が抜けたようにエステバリスが床にへたり込む。




 ルリが小さく吐息をついた。


 必死にIFS操縦コンソールからエステバリスを動かそうと試みているアキトに、ルリが淡々と告げる。

「無駄です。そのエステバリスは私が掌握しました。テンカワさんでは設定を解除することは不可能です」


「クッ!!………………出せっ!!」

 吐血するように咆哮したアキトは、ルリを獰悪な凶眼で睨みつける。

「俺を外に出せ!!ヤツが………………ヤツがいるんだ!!」


「お断りします」



「ヤツが……………『北辰』がいるんだっ!!出せ!! …………俺をここから出せ!!」


 狂禍に覇されたアキトはIFS操縦コンソールを素手で叩きつける。

「ヤツが…………俺から『ユリカ』を奪った!!『夢』を奪った!!『希望』を奪ったヤツが
 …………そこに……眼の前にいるんだ!!
ルリちゃん!!
俺を出すんだ!!


「出せません」



 操縦パネルを叩き続けるアキトの拳から紅血が飛び散った。

「ルリちゃん!!邪魔するなぁぁぁ!!」



「出しません」


 銀髪金瞳の少女が淡々と否定した。



 ふいに、アキトの狂気に呑まれた心の中に憎悪が宿る。


 あの男が…………ニヤつきながら、自分をセセラ笑ったあの男がいるのだ…………なぜ、邪魔をする!!


 どうして、邪魔をする!!


 おまえも……おまえも………ヤツらの………仲間かっ!!



「邪魔するなあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


「邪魔します」




 眼の前が暴怒で赤黒い色彩に染まる。

 ギシギシと全身の骨格が響鳴する。

 口腔に生血の鉄味が広がる。




 アキトの口唇の片端が引きつり、歪んだ。












「邪魔すれば……………………殺すぞ」






「殺れるものなら…………どうぞ。私の手で、地獄に叩き墜としてあげます」





 即答したルリの無機質の金瞳が、アキトの狂気の黒瞳を見据える。













 音が消えた。











 ミナトは唖然として、人形のような無表情のルリを凝視する。




 なんて…………言ったの?



 いま、この子はなんて言ったの?





 やれるものなら…………どうぞ?


 地獄に…………たたきおとす?


 わたしの手で…………?




 なに…………ルリルリはアキト君が『好き』じゃ……なかったの?

 ルリルリはアキト君に『憧れ』てたんじゃ……なかったの?




 ミナトの視線の中で、ルリが無感情な金瞳でじっとアキトを見守っていた。








 ルリの変わらぬ無表情とは対照的に、アキトの鬼気の表情が薄れ、正気の色が戻ってくる。





 いま、俺は…………なんと言った?




 アキトは自問する。




 俺は…………大切な………………仲間に………………なんと言った?



 狂気がかき消え、呆けた表情を晒したアキトは戦慄き、怯える。



 俺は…………ルリちゃんに…………なんと言った?


 アキトの身体が震え出し、歯が鳴る。


 絶対に…………護ると誓った…………仲間に…………なんと言った?


 アキトの表情が恐怖に強張っていく。


 俺は…………ルリちゃんに………………。

 アキトは自分の腕に爪を立てる。



邪魔すれば…………



 俺は………………。


 アキトの顔色が蒼白と化す。



…………殺すぞ




「あ…………あっ…………あ…………あぁ………………」


 震えながら、うめき声を上げるアキトの周囲が徐々に暗くなっていく。


 唖然とした顔のミナトとウリバタケ、無表情のルリが映しだされていたコミュニケ画面が唐突にかき消えた。



 怯え、慄き、震えるアキトの眼の前で、エステバリスの電源が次々と落ちていく。



 『非常用手動開閉装置』

 小さく点灯している赤ランプと生命維持装置以外、全ての電源が落ち、コクピットは薄暗闇に閉ざされた。











 突然、切れてしまったコミュニケ通信を繋げようと、カチカチとコミュニケを操作しているウリバタケの前にルリのコミュニケ画像が現れる。


「こちらで通信を切りました」


「ルリルリ?」


 ルリがウリバタケからアキトの乗っているエステバリスに視線を移した。

「あのエステバリスとテンカワさんのコミュニケは、外部から通信できないように私が細工しました」




 しばらくエステバリスを眺めていたウリバタケは盛大に溜息をつく。


「そうだな。あいつも頭を冷やす時間が必要だな」



「エステバリスの外側にある緊急救助装置もロックしました。今、動くのは内部の手動ピット開閉装置だけです」


「ま、火星に着くまでに出てきてくれりゃあ、文句ねぇよ」

 そう言いながら、ウリバタケは頭を掻いた。



 だが、火星に着くまで、あと9日。

 それまでにアキトは出てくるだろうか?

 予測は五分五分。

 アキトが『ナデシコ』を見捨てるとは思えないが、妹のように大切に思っているはずのルリルリに『殺すぞ』と暴言を吐いたのだ。



 床にへたり込んだ濃紺のエステバリスと歪んだ隔壁を眺め、ウリバタケは大きく首を振った。


 そりゃ、出てきたくもなくなるわな。



「ウリバタケさん」


「ん?」

 エステバリスから視線を外し、ルリを見た。



 画面の中でルリがペコリと頭を下げる。

「すいません。隔壁の修理、お願いします」



 苦笑したウリバタケはひらひらと手を振った。

「ルリルリが謝るこちゃねぇよ」

「でも」

「ぶっ壊したのはアキトだ。出てきたら、頭下げてもらうさ」




 もう一度、ウリバタケに頭を下げたルリが口を開く。

「それと――」

 ルリが途中で言葉を切った。



 と、同時にブリッジの扉が開く。



「ルリちゃん!!アキトさん、どこ行ったの!?」

「おい、ルリ!!アキトのヤロウは何してる!?」

「ルリちゃん!!アキトのコミュニケが通じないの!!」

 嵐が舞い込んできたかのような質問の台風が、ブリッジを吹き荒れた。


 返事もせず、振り向きすらしないルリに、三人の苛立った声が浴びせられる。


「ルリちゃん!!」

「ルリ!!」

「ルリちゃん!!」



 瀬戸物人形のような凍りついた無表情でルリが椅子ごと向き返り、メグミ・リョーコ・ユリカを見つめた。



「アキトさんはどこに!?」

「アキトは何してんだ!?」

「コミュニケが通じないの!!」




 ルリが無言で金の双眸の前に白く細い指を一本立てる。そのまま、すーーーっと後手にメインモニターを指差した。


 そこには、濃紺の0Gフレーム型エステバリスが一機、隔壁の前で力尽き、蹲るように床に座り込んでいる。




「まさか、アキトさんがアレに!?」


 指を下ろしたルリが無言で一つ、頷く。


「え〜〜〜〜〜〜〜っ!!なんで!?なんで!?どうして!?」

「そうですよ。なんで、アキトさんが敵襲も無いのに、エステバリスに乗ってるの!?」




 ルリが無感情の眼で三人を見据えた。



「知りません」





「でも、ルリちゃん。ここで、見てたんでしょ?なんで、知らないの?」



「私、知りません」

 メグミの抗議をルリは断ち、切り捨てた。





 押し黙ったメグミの換わりにユリカが手を挙げる。

「は〜〜い!!はい!!はいっ!!」

「はい。艦長」

「なんで、アキトのコミュニケが通じないんですか?」


「…………故障でしょう」


「故障?」

「コミュニケはかなり頑丈に作ってありますが、所詮は精密機械です。衝撃を与えれば、壊れます」

「なんで、壊れたの?」

「……………私に訊かれても困ります」

「ハハハハハ。だよね。故障か〜〜」



 あっさり納得したユリカがポンと手を打ち鳴らした。


「そっか〜〜〜!!じゃあ、替わりにユリカのコミュニケあげればいいんだ。コミュニケの裏にユリカとアキトの相合傘描いて!!そうすれば、アキトはユリカのもの!!


「あっ。それ、いい考えですね。じゃあ、早速、アタシのコミュニケ、アキトさんにあげてこよ〜〜っと」


「あ〜〜〜〜〜〜っ!!ずる〜〜〜い!!それ、あたしの案!!」

「早いもの勝ちです〜〜〜!!」


 メグミとユリカは格納庫までバタバタと競走を始めた。





 後に残るのは一人。腕を組んで壁に倚りかかり、鋭い眼でエステバリスを観察しているリョーコ。




 ユリカとメグミの足音が消えたのを確認してから、リョーコはルリに視線を転じる。

「あの、隔壁はなんだ?」



「非常用の災害拡散防止用の物ですが」

 ルリの淡々とした言い方が癪に障ったリョーコは壁から身を起し、怒鳴りつけた。


んなこと、訊いてんじゃねぇ!!あの隔壁のヘコミは……なんだ?」



 瀬戸物人形のように口を噤んでいるルリをリョーコは睨みつける。


「あれは…………エステバリスがぶん殴った跡…………なんじゃねぇのか?」




 リョーコ、ウリバタケ、ミナトの視線が集まる中、
 無表情を微塵も動かさず、ルリがリョーコを見据え、


「違います」


 きっぱりと否定した。



 ウリバタケとミナトは平然と言ってのけたルリを唖然と凝視する。




「あれは、閉じた隔壁に、出撃しようとしたエステバリスが衝突したんです」

「なんで、アキトは出撃しようとしたんだよ?」


「知りません」


「ルリ!!」



 声を荒げるリョーコに、ルリが擦りきれたレコードのように固い声で繰り返す。


「私は、知りません」




 ガラス玉のような無機質な金の瞳に、リョーコは激昂した。

「ああ、そうかい!!わぁ〜〜〜たよ!!いつまでも、黙んまりしてりゃいいさ!!
 アキトに直接、訊く!!」



 足音を踏み鳴らしてリョーコはブリッジを出て行った。




 リョーコが出て行った扉を見ながら、ルリが二人に話しかける。


「ウリバタケさん。ミナトさん」

「…………え?なに?」

「…………なんだ?」



 ルリが振り向いた。永久に融けることの無い氷結した金の瞳。

「この件は他言無用でお願いします」



 凍りついた無機質の視線に、二人は慌てて頷いた。



 ルリがメインモニターを見上げる。

「オモイカネ。先の記憶は暗号化して圧縮封録。ネルガルにも見れないようにしといて」


『了解』

 瞬時に、オモイカネが承諾した。




「ウリバタケさん。三人の対応、よろしくお願いします」


 ルリの『お願い』に、ウリバタケはガリガリと頭を掻いた。

「艦長とメグミちゃんは何とかなるにしても、リョーコちゃんが厄介だな」


「すいません」


 二人分の足音を聞きつけたウリバタケは格納庫の出入口を眺める。

「じゃ、通信切るぜ。ルリルリ」





 ウリバタケの通信が切れたあとも、ルリはメインモニターに映っている宇宙空間を眺めていた。



 そんな、ルリの横顔をミナトは見つめる。


 訳がわからなかった。

 多くのことが一度に起こったため、ミナトの頭はパニックを起こしかけていた。


 ルリルリを食堂に行かせたら、『約束』をあの三人娘が奪って、突然戻ってきたと思ったらアキト君が暴走してて、隔壁を叩き始めて、ルリルリとアキト君が対立して、エステバリスが動かなくなって、あの三人娘にルリルリは嘘ついて――。


 この一時間で、全てが突然ひっくり返ったような…………オセロで、ほぼ白一色だったものが、たった一枚のピースで、全て黒に反転したような感覚だった。


 なんか…………いやな感じ。

 何かに裏切られたと察したような、予期もしなかったものを目の前に突きつけられたような――。


 でも、いったい何に?


 いったい何を?




 ミナトには思いつけなかった。ムカムカ感だけが胸にわだかまる。




 ただ、こうして整理してみて、一つだけ解かったことがある。


 それは、この白銀の少女の行動に一貫性がないこと。


 アキト君に真摯にチキンライスを頼んでおいて、あっさりとあの三人に譲り渡してしまったし、
 アキト君の暴言に挑発するような言葉を言い返しておきながら、全てを覆い隠すように指示したり――。



 他人の、特に女性の心中を察するのは得意なミナトだったが、ルリが何を考えて行動しているのかが、まったく読めなかった。

 もちろん、ミナトも他人の心の中を全て読めるとは思っていない。本音を隠しながら行動する事は、人として普通である。

 それでも、まったく相手の考えが読めないというのも珍しかった。



 ルリルリと出会って、ほぼ一ヶ月。未だに、感情を表情に出さないし、口数も少ない。



 でも、それよりも、ルリルリは感情で動いていない。


 好き、嫌い、格好いい、気持ち悪い、大切、邪魔。

 そんな『感情』だけで動いているナデシコ艦長『ミスマル・ユリカ』とは対極にいる少女。

 二人を足して2で割ったら思春期の少女になるんじゃないかとミナトは胸中で不謹慎な苦笑いを浮かべた。







「ルリネェ〜〜〜」

 その泣きそうな声にミナトは深い思考の海から我に返った。


 メインモニターに、眉を項垂れた『コルリ』が現れる。


 『瑠璃』が無表情な分、この『コルリ』は実に表情豊かであった。

「アキトニィが暴走したときは、どうしようかと思ったよ〜〜。ルリネェがいてよかった〜〜〜」


「でも、そうそう都合よく私がいるとは限りません」



 ルリの平淡な声にコルリが耳を塞いでイヤイヤした。

「やめて〜〜〜!!怖いこと言わないで〜〜〜〜〜!!」



 コルリが滂沱の涙を流し、足元に涙の池を作る。

「やっぱり、何か手を打っておくべきだよ〜〜〜〜。『サレナ』が『C』から来たら、止めらんないよぉ〜〜〜」


「大丈夫でしょう」

「大丈夫って?」


「地球に戻れば、『ラピス』がナデシコに来る予定です」


 コルリの顔がぱあっと晴れた。涙の池で金の鯉が跳ね、バックに桃色と白色の帯の光を放つ赤い太陽が昇る。


「ラピネェが?」


「はい。彼女がいればテンカワさんの破滅の歯止めにもなります」



 コルリが祈るように手を組んで天を見上げた。スポットライトが降り注ぎ、上からひらひらと幾重もの白い3D花びらが舞い降ってくる。

「ああ、ラピネェ。早く来ないかなぁ」


「私たちが『火星』にいる間は無理でしょう」


「それは、わかってるけどさぁ〜〜〜。ここは希望的観測を持って!!


「無理です」



じゃ、御都合主義で!!



「もっと、無理です」



「…………ルリネェ。夢がないぞ!!」


「それとこれとは、違います」




「ぶぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜」


 頬を膨らませたコルリが画面の奥に振り返る。

あっ!!ウリピー班長が呼んでる」


「行ってあげて下さい。テンカワさんが壊した隔壁の修理もありますから、整備班は殺人的な忙しさのはずです」


「は〜〜〜〜〜〜〜〜〜い。じゃ、また後でね。ルリネェ」

 ルリにパタパタと片腕を振りながら『コルリ』が消えた。





 ミナトは横目でチラリとルリを一瞥してから、重い溜息をついた。



 先ほどのルリとコルリの会話の意味が半分も理解できなかったせいもある。


 だが、何よりもミナトの心中を重くしていたのは、ルリとコルリの会話を聞いていると、どちらが人間でどちらがプログラム人格だか、判らなくなってくることだった。

 ルリとコルリの声質はまったく同じである。

 聞き分けるには、機械のように抑揚のない平淡な声調が人間のルリ、感情豊かに元気一杯に話しているのがプログラムのコルリ。


 ミナトは何だか物哀しい気分に陥ってきた。





 背筋を伸ばしたミナトは、椅子に体重を預け、

「アキト君。…………いつ、ロボットからぁ出てくるだろうねぇ?」

 天井を見上げる。





「わかりません」


 ルリの至極明快な答えに、ミナトは胸の内の塊を重く吐き出した。






*




 46億年地球で進化してきた生物は地球の環境で生存するようにできている。


 地球産の人類が本格的に宇宙に進出し始めて150年ちょっと、人間が宇宙環境に適応するまでには、さらに気の遠くなるような年月が必要であろう。

 このナデシコも照明の明度で擬似の昼と夜が作られていた。



 だが、そんなナデシコにも、昼夜の関係ないところが二つある。


 一つはブリッジ。宇宙には昼も夜もないため、木星蜥蜴がいつ襲ってくるかわからないからだ。

 もっとも、木星蜥蜴は地球の夜でも平然と襲ってくるが。

 もう一つは格納庫。本来なら、何かあった時のために数人が番をする程度なのだが、今は煌々と明かりが灯り、24時間フル稼働で廻っていた。


 今、ナデシコで一番忙しいのは間違いなく格納庫だった。




 戦闘も無く、本来なら暇なはずの格納庫が忙しい理由は、四つ。


 一つ目はアキトのエステバリスのカスタム。二つ目はウリバタケが考案したノーマルエステ用ユニット搭載大型レールカノン×4本。三つ目はアキトが壊した隔壁の修理。四つ目はここ二日ほど何かと顔をだす艦長と通信士とパイロットのお相手。





 そんなこんなで、地球ニホン標準時間で深夜2時。

 格納庫では整備班員たちが汗水たらしながら懸命に働いていた。


「やっぱり、メグミちゃんていいよな」

「いや〜〜。艦長がなんたって一番だろ。美人だし」

「あのアーパー女は好かない。リョーコちゃんの勇ましさには、二人など取るに足りん」


「おいっ!!メグミちゃんの美声に文句あるってのか?」

「やっぱ、頼りになるのは艦長さ。あの笑顔。う〜〜ん。いいね」

「リョーコちゃんの戦闘中の眼を見たことがないから、そんなこと言えるのさ」



「…………」

「…………」

「…………」



「メグちゃん親衛隊の俺に喧嘩売ってんのか!?」

「ああっ!!お前こそユリカ・ファンクラブの俺に喧嘩売るつもりか!?」

「ふっ。笑止!!リョーコ義勇軍の俺は、売られた喧嘩は全て買う!!」









 ……………兎に角………………………………仕事をしていた。








 そんな喧騒広がる格納庫の一角の暗がりに、濃紺のエステバリスが一機、力尽きたように蹲っていた。

 隔壁の前からレッカーで移動されたそれは、壊れうち捨てられた玩具のように、光の届かぬ暗闇で壁に背をつけて座り込んでいた。


 このエステバリスに近づくのはユリカ、メグミ、リョーコの三人だけ。


 彼の乗ったエステバリスが隔壁を殴打しているところを目撃していた整備班員たちは無意識に避けるようになっていた。



 整備班にはウリバタケ班長の緘口令が敷かれ、他のクルーには『出撃しようとし、誤って隔壁に衝突した』と伝えられた。


 真実を知っているのはウリバタケ、ミナト、整備班の半分、そして整備班員を問い詰めて聞き出したリョーコ。

 しかし、彼らも何故、彼が出撃しようとしたのかは知らない。



 全ての真相を知っているであろう『星野瑠璃』は、あれ以来、完全な沈黙を保っている。



 だが、あえて聞き出そうとするものは誰もいなかった。

 訊きたいけど、訊けない。ルリの固い無表情にクルーは口を噤ざるを得なかった。

 ユリカでさえも。





 あれから二日、全クルーの興味が向けられながらも、エステバリスは…………彼は静かに放置されていた。



 トシュッ!!

 その濃紺のエステバリスから圧搾空気が抜ける音がする。

 ジュシュ!!

 続いて、油圧が抜ける。

 ヴゥーーーン。

 低いモーターの唸りとともに前面フレームが開いた。



 場所と暗がり、作業中の騒音で、その事に気づいた整備班員は一人だけだった。

 光届かぬ暗がりの中、エステバリスから飛び降りた男が音も無く着地する。


 明るい格納庫に眼を細めてから、踵を返し、一番近くの出入口に足を向けた。

「よう、アキト。二日ぶりだな。俺の予想じゃ、あと二日はお篭りしてると思ったんだがな。外れちまった」



 立ち止まった男が静かに振り返った。

 そこには、ただ一人、アキトが出てきたことに気づいたウリバタケ。



 ウリバタケは無言のアキトに大きく息をつく。

「一応、今回のことは、木星蜥蜴を見つけたお前が出撃しようとしたが、誤認と気づいたルリルリが停止を連絡。が、通信拒否でつながらなかったため、無理矢理、隔壁を降ろした。そいつに衝突して、乗っているお前は気絶。その際、衝突の衝撃で外部からの脱出装置が故障…………と云う筋書きになっているらしい。口裏合わせろよ」


 アキトが小さく呟いた。

「………………ルリちゃんか」

「他にいるかよ」

 ウリバタケの苦笑に、アキトが眼を微かに細めた。



「それから、隔壁の修理代はおまえの給料から引いておくってプロスの旦那が言ってたぜ」

「…………そうか」


「どうしたんだ?アキト?」





 問いかけを黙殺したアキトがウリバタケに背を向け、出入口へ歩いていく。




 と、アキトの前に白い塊が現れた。







「ア〜〜〜〜〜〜〜キ〜〜〜〜〜〜〜〜ト〜〜〜〜〜〜〜ッ!!」



 白に黄色の水玉が入ったパジャマを着たユリカがアキトに飛びついた。

「アキト!!アキト!!アキト!!大丈夫だった?怪我なかった?お腹減ったでしょ!!どうしてユリカに連絡くれなかったの?あ、そっか。コミュニケ壊れてたんだっけ」



 首にユリカをぶら下げたまま、アキトが凍りついた眼を彼女に向けた。

 薄暗闇で、ユリカはその闇瞳に気づかない。



「なんで、アキトが出てくるのが判ったか不思議でしょう。もちろん。愛の力でアキトが出てくるのがわかったからだよっ!!あたしとアキトは絶対に離れられないんだから!!


「嘘つかないでください!!」

 満面の笑みを浮かべるユリカの後ろから不機嫌な声が飛んだ。


「そーそー。抜け駆けは無しだぜ」


「なっ!!メグちゃんにリョーコさん、なんでここに?」


 驚いて眼を丸くするユリカに、メグミがニヤリと笑う。

「ルリちゃんに教えてもらったから」

「同じく」



「な、なんでルリちゃん、二人にも教えちゃうの!?



 リョーコはニッと笑う。

「別にルリは『艦長の味方』って、訳でもなさそうだぜ」


「ですね。ってそんなことより、アキトさんから離れてください!!」


「いや〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」

 メグミがアキトからユリカを引き剥がそうとするが、ユリカがそうはさせじと、ますます力を入れてしがみついた。


「艦長、なに子供みたいなこと言ってんですか!!」

だって、二日も逢えなかったんだよ!!アキトはユリカのこと大、大、大好きなんだから!!

「なっ!?アキトさんが好きなのは、このアタシです!!艦長じゃありません!!」

違うもん!!アキトはあたしが大、大、大、大、大好きだもん!!

「そんなことありませんよねぇ!!アキトさん!?」

「そうだよね!!アキト!?」




 アキトが無言でユリカを引き剥がし、出入口へ向かう。




「おい!!アキト!!待てよっ!!」

 アキトの肩を押さえたリョーコは、

「いったいなんで、エステバリスで出撃しようと――」

 その闇黒の双眸を見、思わず手を離した。


 (くら)く冷たい虚無の黒瞳。





「話す必要はない」

 振り返ると、独り、出入り口から出て行った。




あっ!!待ってよ〜〜〜〜〜〜〜!!アキト〜〜〜〜〜!!


アキトさん!!待ってください!!

 ユリカとメグミがアキトを追いかけていく。






 ただ、一人残っているリョーコは…………………………震えていた。





 リョーコが初めて見たアキトの冥い闇瞳。


 深く、冥く、冷たく、底なしの真闇。



 それは、『死人の眼』、『虚無の眼』、『死神の眼





 リョーコはただ一人、立ちすくみ、震え、怯えていた。










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