‘闇の皇子’が目的を果たし帰還した。
 彼の半身たる妖精が駆る白亜の戦艦が静かにドッグに入っていく。
 それをエリナとイネスは黙って見つめていた。
 ユーチャリスが接舷する。その船体には戦闘の後は無い。直接の戦闘にはさらされなかったのだろう。まあ、ナデシコCと同時に送り込んだ以上当然と言えば当然だ。報告ではホシノ・ルリは火星圏全域を掌握して見せたそうだ。それは、ネットワークを有する全ての敵の無力化を意味する。火星の後継者たちの全ての戦艦は抵抗すらできなかったらしい。逃れられたのは軍組織から独立したスタンドアローンのシステムを持つ草壁の‘私兵’たる‘外道’達のみ。そして、その‘外道’達を葬るためにこそ‘闇の皇子’は火星に赴いた。最後の決着を自らの手でつけるために。

「とりあえず……勝ったわね」

「ええ」

 エリナとイネスが言葉を交わす。だがその声には歓喜は無い。勝利は彼女達にとって終わりではないのだから。

「問題は、これからね」

「ええ」

 そう、問題はこれからだ。
 ‘復讐’と‘奪還’のみを心の支えとして戦い抜いてきた彼は、今回の戦いでその両方を成し遂げ、そして失った。
 死者をこの世に繋ぎ止めていた楔は抜けた。このままでは黄泉へと赴きかねない。
 この戦いの中彼を支えてきた彼女達にとってはむしろこれからの方が問題だ。何らかの手段をとる必要がある。次なる‘敵’という新たなる楔を打ち込むという手段があるにはある。だが、それは終わり無き戦いへと彼を赴かせる事を意味する。‘奪還’した‘姫君’の元へ戻らないことを選択した彼は、自分に安息など許すことは出来ないだろうから。
 だが、彼女達はそれをこそ望んでいる。彼が‘闇’より抜け出し‘光’の下へ返る事をこそ。
 それを成し遂げるためには……

「イネス、例の件は、可能?」

「ええ。問題ないわ。可能よ。ただし……」

「それは、‘今’の彼の殺害に等しい、でしょう?」

 エリナがイネスの言葉を遮って言った。そして、続ける。

「それでも、私は望む。彼が光の下に戻る事を。たとえ、その為に彼を‘殺す’事になってもね」

 矛盾しているけどね、と苦笑しながら言った。
 だが、その言葉は決意に満ちて。
 貴方は? とイネスに目を向ける。

「言う必要があるかしら?」

 イネスは、そう言ってエリナを見返す。

「無いわね」

 その瞳に宿る光の名もまた‘決意’。
 言葉にする必要も無いほどそれは光り輝いていた。

「なら、まず準備に掛かりましょう。簡単な事では決してないのだから」

「そうね。私は処置の準備に入るわ。貴方は……」

「ラピスの説得、というかラピスを仲間に引きずり込むのは私がやるわ。それは、私の仕事だと思うから」

 アキトの次にラピスとの関わりが深いのがエリナだ。イネスにもなついてはいるが、どうしても主治医という立場の所為で一線がある。その点エリナは‘姉’下手をすると‘母’とも言う立場でラピスに接してきた。説得には彼女の方が適任だろう。より‘情’に近い分野の説得となるだろうから。

「任せるわ。頼むわね」

「ええ」

 そう、必ず説得する。‘闇の妖精’を自分達の計画に引き入れる。
 可能な筈だ。‘闇の妖精’もまた人なのだから。そして自分は知っている。あの妖精が時折見せる彼の穏やかな顔をこそ最も望んでいる事を。それは自分達と何ら変わること無き想い。それ故、彼女は同志足りえる。

「肝心の彼はどうする?」

 イネスが問う。

「ラピスを引き込んだら正面から交渉するわ。それで、多分いける筈」

 エリナが少し悲しげに言った。

「そうね。彼が一番‘今’の自分に未練が無いだろうから」

 イネスもそれを肯定する。同じく悲しげに目を伏せながら。

「だからこそ、この‘契約’に彼は応じる。そこに付け込んで誓約をなすわ」

「いいわ。それでいきましょう。じゃ、細かい所は後で」

 接舷した艦から二人の人影が降りてきたのを見て彼女達は会話を打ち切った。
 計画については後でいい。
 ただ今は戦い終わり生き抜いた。彼女たちの想い人を迎えるために。






帰還





 目覚めて最初に目に入ったのは白い天井だった。
 何も変わりが無い‘何時も通り’の目覚め。
 それに何ら疑問も抱かず、再度の眠りを誘う暖かい寝床の誘惑を振り切って体を起こそうとした所で横から声が掛かってきた。

「……目が覚めた?」

 自分が人の気配に気がつかなかったのに驚く。声を掛けられるまで他者の存在に気が付かないようでは長くは生き延びられない。そういう場所に自分は居る。
 そこまで思って思考が途絶えた。
 ‘そういう場所’?
 何処だ。其処は。
 当たり前のように自覚していた筈の事が思い出せない。その事実に愕然とする。

「おはよう。アキト」

 こちらが自失しているのにかまわず、また声が掛かる。
 その言葉に初めて彼は声のしたほうに目を向けた。
 彼が寝ているベッドの傍らに置かれた椅子に少女が腰をおろして此方を見ていた。
 薄桃の髪に金の瞳をしたおそらくは13歳前後の少女。その容姿は特徴的な色の髪や瞳を除いても極めて整っており、どこか幻想的な感じを漂わせている。
 ‘妖精’
 そんな言葉が脳裏に浮かぶ。‘闇’に属する電子の妖精。
 その言葉を裏付けるかのように少女は細身の体を漆黒の装束で覆っている。まるで闇を染め抜いたかのような真黒の装束で。全身を覆うその漆黒が、よりいっそう少女の肌の白さとその髪と瞳の色を際立たせていた。

「……ああ。おはよう。……?」

 なんとか動揺から立ち直って、返事を返しその少女の名を呼ぼうとして再び彼は言葉に詰まった。

 彼女の名は何だった?

 自分は知っている筈だ。間違いない。この少女はまさに自分の半身とも言うべき存在だ。それは確信できる。その名を思い出せないのはどういう事だ? その疑問に思い当たった時より大きな衝撃が彼を襲った。

 さっき彼女は自分を何と呼んだ?

 ‘アキト’とは一体誰の名だ?

 自分の名は何だった?

 自分の名前さえ思い出せない事にようやく気が付く。名前だけではない。生まれも、生い立ちも、それこそ昨日の事ですら一切思い出せない。全ての過去を自分は失っているのだ。残されたのは確かに知っている筈の少女の名すら思い出せないような蜃気楼の様に儚い記憶のみ。
 その事を認識して最初にやってきたのは恐怖だった。
 人は未知の物には恐怖を覚えるものだ。過去の喪失とは即ち、周りの全てが未知の物へと化す事につながる。
 自分自身ですらその例外ではない。
 沸きあがってきた震えを抑えようと自身の両肩を抱きかかえようとして、また気が付く。
 自分自身すら頼りに出来ない。そんな恐怖に押し潰されかけた所に少女が声を掛けてきた。

「大丈夫。心配要らない」

 きっぱりと言い切るその声にどこか救われた。
 今彼が知っていると確信できる唯一の存在。己の半身。
 その存在は未知の恐怖に潰されかけた彼にとっては救い以外の何物でもない。
 たとえその名すら思い出せずとも。

「何故?」

 縋るように問い掛ける。

「私はアキトの半身。だから、私にはアキトの事が解る。アキトが今感じている恐怖も。だから、大丈夫。私はアキトを知っている。そして、その上で言い切れる。私はアキトの味方。アキトとならたとえ世界を相手にしても戦える。だから、安心して」

 その声は、ただ無機的に紡がれた。その内容に込められた少女の思いを反映することなく。
 励ますようでも、慰めるようでもなく、ただ淡々と。ただ、事実を述べているかのように。
 それがいっそうその言葉に信頼性を持たせ彼を安堵させた。

「そうか……」

 気が付くと体の震えは収まっていた。思わずついた安堵のため息が思いのほか大きく部屋に響く。それに驚く彼の様を見て今まで無表情を保っていた少女が、初めて微かな微笑を浮かべた。
 笑い声も立てない表情を僅かに変えるだけの微笑み。それでも、その微笑みは彼を見とれさせるのに十分なほど、幻想的で、美しかった。
 気持ちが落ち着き、穏やかな気分になってくる。そうすると今度は大きな欠伸が口から漏れた。気が緩んで眠気がぶり返したらしい。ついさっきまで世界の全てに脅えていたというのに……。自分の精神の図太さに自分自身あきれ返った。
 傍らの少女と目が合う。その目にも驚きと僅かなあきれが見て取れた。無理も無い。そう思ったときには噴出していた。少女も今度は声を立てて笑い出す。その後しばらく二人で笑いあった。



 そうしている内に訪問者が部屋を訪れた。ノックの音が控えめに部屋に響く。

「誰?」

 応対は少女がした。彼はまだ積極的になれるほどにはなっていない。

「私よ。イネスもいるわ」

「ちょっと待って」

 そう言って少女は彼を振り返って言った。

「大丈夫。エリナもイネスも私と同じ。アキトの味方だから」

 その声に彼は自分が緊張していたのに初めて気が付いた。右手はシーツをきつく握り締めている。未知なる他者に知らぬうちに警戒したらしい。少女もそれを悟って彼に味方だと告げたのだろう。その気遣いに片手を上げて答えた。

「大丈夫だ。君がそう言うのなら間違いないだろうから」

 入って貰って、そう続けた。
 その様子を見て少女が応対する。

「いいよ。エリナ。イネス」

「じゃ、お邪魔するわね」

 そう言って二人の女性が入ってきた。一人は黒髪黒眼にスーツ姿の女性。もう一人は金髪に医者なのか白衣姿のこれまた女性だった。ちなみに二人ともタイプは違うがかなりの美女だ。

 そして、その訪問者たちは間違いなく彼の味方だった。
 半身として傍らに在る少女、ラピス・ラズリ。現実的な生活の手段を与えてくれた黒髪の女性、エリナ・キンジョウ・ウォン。不安定さの残る彼の体と精神をケアしてくれる金髪の女性、イネス・フレサンジュ。
 3人の協力を得て彼の新たな生活が始まることとなった。




 アキトの帰還から1週間後、ネルガル月極秘施設の会議室で火星の後継者の乱の最終報告が行われていた。
 出席者は7人。会長のアカツキ・ナガレ。月支部長のエリナ・キンジョウ・ウォン。研究部門のトップのイネス・フレサンジュ。実行部隊たるテンカワ・アキトとラピス・ラズリ。それを支えたNSSからプロスペクターとゴート・ホーリーである。ちなみにもう一人のNSS幹部月臣元一朗は乱で表に出たため現在も元木連の投降者たちの取りまとめで忙しく席をはずしている。
 それなりに報告内容は多かった。なにしろ3年以上に及ぶ戦闘の終結である。事後処理の量も半端ではない。それがどうにか落ち着いて今後の対応に会議の内容が及んだ時、アキトがポツリとその言葉をもらした。

「これからか……どうするかな……」

 その言葉に場が沈黙する。
 全員が理解している。彼にこの後の戦場は無い。戦う理由の全てを彼は今回の乱で果たしてしまった。死者すら動かした執念は既に無い。此処にいるのは2年前に殺された死者の亡骸だ。執念ゆえ戦えた彼はこれ以上は戦えないだろう。技量の問題ではなく精神の問題で。
 もしこれ以上を彼に要求すれば、戦い自体に意味を見出しかねない。史上存在した多くの復讐者がそうであったように。復讐を終えた後も戦うことをやめられなかった者は数多い。その末路は大抵が悲劇だ。
 かといって今更光の下にも戻れない。世間もそして、誰よりアキト自身がそれを許せない。自らの手で生み出した死者は万に達する。只人が背負える罪ではない。
 末路が悲劇と解っていてもこの修羅道を突き進むほか残されていないのかもしれない。せめて、ラピスは光の下に戻したいが……
 アキトがそう考えていた時、エリナがアカツキに声をかけた。

「会長。申し訳ありませんが、席をはずしていただけませんか?」

「僕だけかい?」

「いえ、プロスさんとゴートさんにも」

 残った面子の意味は……

「‘ネルガル’としての提案ではない。そういう事かい?」

 彼と彼を守る者。

「はい。計画の実行も、結果も、責任も全て私が負います。だから私達の‘個人的行動’を見逃してはくれませんか?」

 エリナがアカツキの目を見て告げた。
 そこに宿るのは確たる決意。そして、同様の光をイネスと、ラピスにまで確認した時点でアカツキは説得を諦めた。

「解った。でも、後で報告ぐらいはして欲しいな。‘友人’としてそれぐらいはかまわないだろう?」

 今回の‘契約’の場には自分達はいないほうが良いようだ。
 ‘友人’としては気になるが任せたほうが良いだろう。彼にとって悪い様にはならない筈だ。

「解りました」

 アカツキの配慮に感謝して答える。

「よろしく。じゃ、行こうか。プロス君、ゴート君」

 そう言ってアカツキは会議室を出て行った。それにプロスとゴートが続く。
 
「では、失礼します」

 そう言ってプロスが会議室を出た後に残ったのはアキトと3人。
 この状況を作り出したエリナにアキトが尋ねた。

「どういうつもりだ?」

「会長が言ったでしょ。提案があるのよ。私たち個人としてね」

「お前とイネスは解るが……ラピスもか?」

 ラピスは基本的にアキトの傍らに在ることを望むのみだ。余り具体的な提案に加わるとは思えない。

「ええ。彼女も‘同志’よ。私達のね。計画には彼女の協力が必要不可欠だったから」

 だから、あらかじめ口説き落とした、そうエリナは告げた。
 
「そうか……解った。聞こう。俺に何を望む?」

 簡潔な問いには簡潔な答えが返ってきた。

「今までの貴方の戦いに対する協力の対価を」

 ネルガルの一員としてではない個人として彼女達が彼に協力した対価を。

「そう言われると弱いな」

 彼女たちに対する負債は計り知れない。心身両面にわたって頼り切ってきた。その対価は一度も払っていない。何を望まれても答える義務がアキトには在る。たとえ命を望まれても黙って差し出すしかないだろう。

「具体的には何を望む?」

「貴方の‘命’。そう言ったらどうする?」

 軽く挑戦的に尋ねたエリナだがその瞳は真剣そのものだ。
 だからアキトも真剣に答えた。

「やるさ。それだけの事をお前達は俺にしてくれた。お前たち3人がそれを望むなら、喜んでこの命差し出そう。どうせ、もう未練は無い」

 修羅道に落ちるより何倍もましだ。背負った罪ゆえ自ら死を選べないアキトには最も救いの在る最期かもしれない。
 
「‘契約’成立。そう思っていい?」

「ああ」

 エリナの確認にアキトは何のためらいも無く頷いた。ただ、一つ付け加える。

「お前に言うまでもないかもしれないが……。ラピスを頼む。出来る事なら光の下で生きていけるようにしてやってくれ」

 それが最後のアキトの願い。

「協力はするわ。ただ、それは貴方が成し遂げて」

 奇妙な答えだった。彼女等の願いではアキトにこれから先は無い。それを願った本人がそれを否定するような事を言う。

「どういう事だ?」

「此処から先はどっちかというとイネスの領域。だからイネスに聞いて」

 契約を成し遂げるまでがエリナの仕事だ。その説明には適役がいる。
 そのエリナの言葉にアキトはイネスに目をやり尋ねた。

「説明してもらえるか?」

「ええ。勿論」

 そう言ってイネスは話し出した。

「さっきエリナが言ったのは間違いじゃないわ。私達の望みは‘今’の貴方を殺す事それは確か。でも正確には、私たちが欲しいのは貴方の命そのものじゃない」

「どういう事だ?」

「私たちが真に望むのは貴方が光の下に戻る事。光の下で穏やかな日々を過ごし、失った夢を取り戻して欲しい。そして、できるなら貴方と共に在りつづけたい。それが私達の真の望み。でも……」

「俺はそれを許せない」

 イネスの言葉を遮りアキトが断言する。
 たとえ彼女らの願いでも、それだけは。ユリカの下へもルリの下へも帰れなかったように。
 罪人の記憶を抱いたまま、只人の生活を送る事など出来はしない。
 咎人には断罪こそが相応しいのだ。アキトもまた‘外道’に断罪の剣を振り下ろしたのだから。
 復讐は連鎖する。アキトもまた誰かの仇となった。戦いの中最初の一人を殺めた時に。無益な物ではあるが少なくとも仇である者の手ではその鎖は切れない。連鎖を断てるのは被害者である復讐者のみだ。そして、その権利は既にアキトには無い。成し遂げてしまったから。自分の行為を肯定するなら、他者の復讐の権利もまた認めねばならない。正義を仇としたアキトの唯一の信念である。

「……でしょう。だから、私達が貴方を殺す。誰かの手によって貴方が殺される前に。‘今’の貴方を私達の手で」

 それで少なくとも連鎖は断てる。悲劇は此処で終わるのだ。もしアキトが誰かによって殺されたなら、今度はイネス達が復讐者となりその者を狙うだろうから。

「理に適ってるな。だが、それではさっきのエリナの言葉と矛盾する」

 ラピスをアキトに託したのだ。この先は無い筈のアキトに。

「私達が殺すのは‘今’の貴方よ。奪われ、殺され、その復讐を成し遂げた‘今’の貴方。その全てを私達が貴方から奪う。‘今’の貴方を構成する貴方の‘記憶’の全てを」

 人を人たらしめるのは意識。それを構成するのは記憶とそれにより構成される人格。どちらか一つでも失えば、それは既に以前の人物では無い。それもまたひとつの意識の死の形。

「そう言う事か……」

 ようやくアキトにも納得がいった。そして彼女たちの願いの真意も。
 彼の人格をそのままに狂気と殺戮の記憶を壊す。それこそが彼女たちの真なる願い。
 たとえ‘今’のアキトが失われたとしても、彼を光の下に戻すために。

「それは許されるのか? この俺に」

 矛盾するようだが、記憶の喪失は、意識の死の形の一つであると同時に、それでもまだその人物の生の形の一つである。形を変えて生き続ける事だ。そうであるが故にイネス達はその‘生き方’をアキトに望む。それが許されるか? 咎人の自分に。

「もう、遅いわよ。既に‘契約’は成された。私達の望むように今のまま生きてくれるならともかく、破滅に向かって生きるなら‘解約’は認めない。それとも‘破約’を為す?」

 ラピスとの‘契約’からアキトにとり‘契約’は重要な意味を持つ。‘破約’はそれを踏みにじる行為に他ならない。それをなすことは自ら課した禁忌に触れる。

「私達は望む。だけど貴方の事だから無理強いは出来ない。選択肢は3つ。‘契約’を受け入れるか、私達に‘解約’を認めさせる生き方を誓約するか、それとも‘破約’を為すか。どれか一つ。選んで」

 3つのうち全てが生あるいは死に繋がる選択。
 それを突き付けられたアキトは暫し瞑目した後静かに問うた。

「……一つ確認させてくれるか? ラピスに」

 そう言ってラピスに目をやる。
 ‘同志’として此処に残っておきながらまだ彼女は一言も話していない。ただ、普段と変わらずアキトの傍らに在る。完全に平静を保って。

「構わないわ。ラピス」

 イネスが承諾して、ラピスに声をかけた。

「何? アキト」

 ラピスの問いは簡潔極まりない。

「お前がこの計画に参加しているのはお前の意思か?」

「うん」

「この‘契約’の意味を理解しているんだな? これはお前との‘契約’に関わるぞ」

 ラピス・ラズリがその名を名乗る限りその傍らに共に在る。それが二人の‘契約’。何時かはアキトの死によって破られただろうが、その時、その瞬間まではアキトは守る気でいた。自らの半身と交わした‘契約’を。だが、‘契約’の忘却は‘破約’に繋がりかねない。

「大丈夫。新たなる‘契約’は私達の‘契約’には関わらない」

 ラピスが断言する。

「何故そう言い切れる。忘れてしまえば俺は‘契約’を守れない」

「守るよ‘契約’は。私が。ラピス・ラズリを名乗り、アキトの傍らに在る。たとえアキトが忘れても私自身の意志で」

 その金色の瞳は揺るがない。感情を余り表に出さないラピスの瞳にまごう事無き意志の光が宿っていた。

「お前のメリットは何処にある? この‘契約’を交わさずとも俺はお前と共に在る。お前にとってのこの‘契約’の意味とは何だ?」

「アキトが笑ってくれる」

 その答えは即座に返ってきた。なぜならそれはエリナがラピスの説得に使用した答えだったから。

「今のままでもアキトは私と共に在ってくれる。それは疑ってない。でも、最近私はそれだけでは満足できなくなってきた。私はアキトの笑顔が見たい。リンクを通して時々アキトが伝えてくれる歓喜という感情。その感情を心のみではなく、表に出したアキトを私は見ていたい」

 その願いはラピスが初めてアキトに告げるもの。全身を血に染め徐々に感情を凍らせていくアキトを誰よりも近くで見つづけてきたラピスが失っていって初めて感じた想い。

「今のままではアキトの心は凍りつく。私と同じように。それは出来る事なら見たくない。私はアキトの願った私になりたい。普通の少女のように笑い、泣き、生きていける存在に。アキトと共に光の下で過ごせれば、きっと私はそうなれる。その時、私は本当の意味でマシンチャイルド―機械仕掛けの子供―から、人になれると思うから」

 それが、ラピスの願い。ラピスの意志。
 それゆえラピスは此処にいる。
 エリナとイネスの‘同志’として。

「そうか……」

 嬉しく思う。無感情に見えるラピスが此処までの感情を育ててきた事を。

(お前の願いは、もう叶ってるよ。ラピス)

 その思いはあえて告げない。何時か近いうちにラピス自ら悟るだろうから。
 そして、その時には自分もその傍らに在りたいと思う。たとえ今の己では在らずとも。
 その思いがアキトの心を決した。

「エリナ。イネス」

 傍らで黙ってラピスの独白を聞いていた二人に呼び掛ける。

「何?」

「この‘契約’受け入れよう。今だ罪の想いは有るが、もう少し未来を見てみたくなった。だが、全てを忘れて光の下で生きていけるほど俺は器用じゃない。だから、その思いは俺では無い俺に託す。また面倒をかけるだろう、すまないが頼まれてくれるか?」

「ええ」
「解ったわ」

 此処に‘契約’が成る。
 ‘闇の皇子’では無いテンカワ・アキトと彼を支える3人の‘契約’が。
 それは光の下に戻るための‘契約’
 そして、彼は一度死に、形を変えて生き延びた。
 復讐の連鎖は断たれ、‘亡霊’は二度と現れる事無くその姿を消した。
 それは、‘闇’の中からの帰還の物語。



 記憶を失ったアキトが目覚めて半年後
 月に存在するあるコロニーの一角に小さなラーメン屋の屋台が立った。
 週に3日だけ店を開けている。何の変哲も無い屋台だ。味の方もそこそこで次第に固定客がつき始めていた。
 そのつき始めた常連客が言うには来る度に前回より美味くなっているらしい。普通味の改良にはある程度の時間が必要なものなのだが、その屋台は違った。店主が言うにはまだまだ修行中だからだそうだ。実際、週に3日だけ店を開けている理由は、残りの3日は中華料理屋で働きながら修行しているからだという。屋台を引いているのは修行のためと開店資金の頭金だけでも稼ぎたいという想いかららしい。
 それにしても上達が速い、と常連たちは将来に期待している。この速さで上達しつづければ、店を構えるという店主の夢がかなう日もそう遠くはなさそうだ、というのが彼らの見解である。
 味の他にももう1つ常連を集めている存在がある。何故かその屋台にはウェイトレスがいるのだ。これがまた可愛く彼女目当ての客も多い。尤もまだ中学生位にしか見えない―実年齢は謎である―ので、さすがに手を出そうとする不届き者はいない。ただ、たまに付近の中学生が少ない小遣いを費やして通ってくるぐらいである。全く相手にされていないが……。そんな風に常連達の注目を集めている少女の髪は薄桃色で、瞳は金色だった。

 そんなある日の深夜。なんとなく客が途切れてしまったその時を見計らうようにして二人の女性が訪れた。彼女達はいつもそんな時間帯を見計らってやって来る。そして、ラーメンを食べながら店主やウェイトレスの少女と会話を楽しんでいくのだ。たまに居合わせた常連客の一人が聞くところによると店主の友人らしい。今日もまたそんな1日の1つだった。

「いらっしゃい!!」

「こんばんわ。あらお客が居ないわね。儲かってないの?」

 景気よく向かえたアキトの言葉の返事はたわいない挨拶と痛恨の一言だった。

「そりゃないよ、エリナ。これでも結構儲かってるんだ。常連もついてきたしな」

「でも、私達が来る時って大抵すいてるような気がするんだけど」

 イネスが追い討ちをかける。

「それはっ!! そういう時に限って貴女達が来るからだよ、イネス」

 まったく、狙って来てるんじゃないか? と呟きながらも手は動いている。
 実は実際に二人はそういう時を狙ってきているのだ。空腹を満たすのと同じか、それ以上の割合で会話を楽しむためである。
 そんなことには全くアキトは気が付かない。ラピスは気が付いているようだが……
 
「注文は?」

 ウェイトレスのラピスがお冷を出しつつ二人に尋ねる。小さな屋台なのであまり意味は無い。そばに出しているテーブルからでも十分アキトに声が届く。それでもラピスは、これは自分の仕事だと律儀にこなしていた。客が座るのがたとえアキトの目の前のカウンター席でもお冷を出し注文を取るのはラピスである。彼女なりに誇りを持って仕事をしているようだ。そんな姿が可愛らしく彼女目当ての常連がまた増えていたりするのだから、結構売上に貢献していると言えるのかもしれない。

「ラーメン2つ」

 エリナがそんなラピスに答える。

「アキト、ラーメン2つ」

 これまたアキトにも聞こえているのだが律儀にラピスが報告する。

「あいよ。ラーメン2つだな。りょーかいっと」

 アキトも慣れたもので律儀に返す。まあ、儀式のようなものだ。将来店を持てれば違和感無くなるだろう。
 アキトがなれた手つきでラーメンをゆで始める。実際彼の手際はすさまじいスピードで上達している。
 その様子を見てエリナが言った。

「だいぶん手際が戻ってきたみたいね。修行の成果かしら」

「まだまだだ。リャンさんにはまだ叱られてばかりだし」

 リャンさんとはアキトが週に3日修行に言っている中華料理屋の主人である。エリナの嘗ての知り合いの紹介だった。自分が何をしていたのか悩んでいたアキトの所にエリナが連れて来たその料理人は何も聞かずに一品振る舞い。それだけでアキトに料理人の道を志させた。どこか覚えのあるその味は、自分の過去を探していたアキトにはまさに天啓となったから。その場で弟子入りを希望したのだが、彼女は地球に店を持つ身であり、一方アキトは身元引受人のエリナは月に仕事があり、定期的な診断が未だ欠かせない上に主治医のイネスはエリナと同じく月在住。そんな訳で月を離れられなかった。そこでその料理人が腕は確かという知人を紹介してくれたのである。腕は確かで人柄もやや激しい所はあるが基本的に善良と修行にはうってつけだった。
 アキトは半年その店で住み込みで修行した後、屋台を出した。異常とも言える速さだがそれだけの技術が身についてしまったのだ。まるで忘れていた事を思い出していくかのように。それでもまだまだ甘いところが残るので修行も続けている。ちなみにアキトがリャン飯店―リャンの店―で働くときはラピスもウェイトレスとして働いている。彼女目当ての客がいるため、アキトが修行に来る日と来ない日で売上が増減するのがリャンの最近の悩みだったりする。

「あいよラーメン2丁あがり」

 そう言ってアキトが出したラーメンをラピスが運ぶ。カウンターなので運ぶ必要は無いくらいなのだがラピスが譲らないのだ。妙なところでこだわるところがラピスにはある。無感情のようで居てかなり頑固なのだ。実は。

 しばらく無言でラーメンをすする。
 10分後二人が箸を置いた。どんぶりは見事に空である。

「かなり腕を上げたじゃない、本当に」

 エリナがお世辞抜きで言った。

「そうね。これならそろそろ店を出しても良いんじゃない?」

 イネスも同意する。

「いや、それはまあ、夢ではあるけどな。肝心の金が無い」

 アキトが苦笑いしながら言った。

「無利子で貸したげるわよ。この分なら回収出来そうだし」

 エリナもイネスもかなりの高給取りである。それでいて仕事ばかりしている物だから結構な額の貯金がある。小さな店を一軒立てる位の融資は出来るのだが……

「まあ、いつかは頼るとしても、せめて頭金ぐらいは自分で稼いでからにしたいな」

 生活全般でかなり世話になっている。せめて自分の出す店位は自分で出したという認識が欲しい。それに……

「それに、まだまだ修行中だしな」

 これが最大の理由だ。

「まだ満足できないの? 自分の味に」

「何というかなあ。なんかこれじゃないって気がするんだよ。後ちょっとなんだけどな。なんか違和感が取れないんだ。もっと美味いの作れそうな気がする」

 エリナの言葉にアキトが答える。その言葉は驕りでは無い。アキトの味は来る度に確実に向上している。今はまだ‘思い出している’段階だ。そうである限りは無理だ。少なくとも今の自分に出来る最高の物を作れるようになったと思えた時にこそ店は出したい。

「そう。向上心旺盛で結構ね。じゃ、今日はこれで帰らしてもらうわ」

「そうね。そろそろ帰らないと明日きついし」

 既に深夜。これ以上話し込むと寝る時間がなくなってしまう。高給取りと言っても所詮勤め人。明日の仕事に追われる毎日である。

「無理するなよ。二人に倒れられたら。困る」

 言葉とは裏腹にアキトは本当に心配している。それぐらいは二人にも見通せる。

「はいはい。せいぜい気をつけるわ。じゃ、ラピス勘定は?」

「ラーメン2杯。だから、1000円」

 この屋台財布はラピスが握っている。数字には誰にも負けないほど強いのだ。だから勘定もラピスの仕事である。彼女の能力は本当はこんな物では無いのだが……。本人が納得しているのだから問題ないのだろう。

「じゃ、また来てくれよな。……いらっしゃい!」

 席を立った彼女達と入れ替わりに新たな客が入ってきた。アキトはその対応に入る。
 ラピスもパタパタと動き回って接客をはじめる。
 その様子を見てエリナとイネスはくすりと笑うと屋台を立ち去った。



 暫し黙って二人で夜道を歩いていた。
 月の治安はいい。ネルガルの要人である彼女たちには一応ガードもついている。少々不用心だが彼女達はアキトの屋台からの帰りには二人で歩いて帰るのが習慣になっていた。
 ちなみに実はアキトの屋台にもガードはついている。アキトは知らないが必要な措置だ。A級ジャンパーとマシンチャイルド。素性が知られれば必ず狙われる。尤も彼らの過去には辿り着けないだろうが……。彼らの過去は完全に抹消済みだ。ラピスがプロテクトも張っている。データからはまず探れない。彼女の電子戦能力は今だ太陽系圏有数の物だ。‘電子の妖精’の探索の目からすら今だに逃れ続けている。常人に突破は出来まい。
 
「……どう思う? イネス」

 沈黙を破ってエリナが問うた。一切の主語を排して。

「多分、まだ味覚が発達しきっていないのよ。身に染み付いた調理技術はこの半年で殆ど取り戻せてる。でも、一度壊れた味覚の修復は一朝一夕では無理。そういう事でしょうね」

 アキトの感覚はラピスとのリンクによって支えられている。ラピスが嗅覚や触覚についてもこの3年でかなりの経験をつんだため、嘗ては補正できなかったアキトの味覚のノイズも補正できるようになってきた。
 だが、まだたかが3年だ。感覚の補正にはいまだ経験が不足しているのだろう。日々積み重ねた経験がラピスの感覚を成長させていってはいるが。料理人だった嘗てのアキトのそれに追いつくにはまだ時間が掛かる。それ故、技術と味覚のずれが生まれているのだ。それが僅かな差となり。アキトは自分の味に満足できていない。無意識ながら嘗ての自分の味を覚えているが故に。

「ま、時間が解決してくれるわ。料理店は味覚の成長を促すには最適よ。嘗てのあの味をもう一度食べられるのもそう遠い事では無いと思うわよ」

「そうね。それを楽しみに待ちましょう」

 今度はイネスが尋ねた。

「彼の事はそれでいいとして。状況はどうなの。最近私は研究室に篭ってるからその辺疎いんだけど」

「心配ないわ。カモフラージュはほぼ完璧。彼は火星の後継者の実験の生き残り。奴等の実験の後遺症で記憶を完全に失い、データも抹消されてしまった被害者。そういう事になっている。これ以上を調べるにはラピスが展開した防壁を突破する必要がある。それは事実上不可能よ」

 エリナが断言する。

「一人可能な人物に心当たりがあるんだけど……」

 イネスが指摘した。
 ホシノ・ルリ。
 今だ彼を探しつづけている‘電子の妖精’。彼女の電子戦能力はラピスと伍する。彼女ならあるいは突破が可能かもしれない。

「そうね……彼女なら可能かもしれない。でもそれならそれで良いわ。ラピスの防壁を彼女が突破出来たなら、その時が彼女が待ち望んだ再会の時となる。それだけよ」

 彼女にならアキトの現状を知られても問題あるまい。彼の記憶を取り戻そうとする可能性も有った為あえて知らせはしなかったが、自ら障壁を越え辿り着くというなら邪魔はしない。

「彼女が知れば、艦長も知る。どうなるかは解らないけど。その権利は持つわね。嘗ての彼の家族たる彼女達は」
 
 ‘姫君’と‘皇子’の縁が残っているなら。偶然再会する事もあろう。‘電子の妖精’がラピスの防壁を突破するかもしれない。それもまた面白いと思う。が、しかし

「わざわざ敵を増やすような事はしたくないわ」

「そうね」

 邪魔はしないが教える気も無い。恋敵を増やすような事はしたくないのが本音である。
 つまり、これからが競争だ。

「負ける気は無いわ」

「私もよ。多分ラピスもね」

 そう言って二人は笑いあった。
 今はまだラピスはアキトの家族だ。‘義妹’その表現が最も適する。
 ラピス本人もそれでいいと思っている。ただアキトの傍らに在る。それだけが‘今’の彼女の全てだ。
 だが後3年もすればラピスも気付くだろう今自分が抱いている感情を。
 それは‘好意’という名の感情。
 あの穏やかな暮らしの中ではぐくまれた日常は彼女にいつかその思いを気付かせるだけの物を与えるだろう。
 そしてその‘好意’は年月を経て、少女の成長に伴い‘恋’から‘愛’へと変わるだろう。

「それまでには勝負をつけておきたいわね」

 強力な恋敵―ライバル―がまた一人その時には生まれるだろうから。
 おそらく間違いないだろう。それは殆ど確信に近い。女性としての彼女達の本性がそれを告げている。
 御伽話では‘妖精’は契約を交わした‘皇子’に恋をする物だ。
 時間さえあるならそれは実現するだろう。そしてその思いが叶う可能性もまたある。

「確かにね。私たちの勝機はまさに今この時期だから」

 ‘運命’はいまだその役を果たさず‘姫君’は‘皇子’と出会っていない。‘電子の妖精‘の力は皇子の傍らに在る‘闇の妖精’に遮られ彼を見つけ出せない。そしてその‘闇の妖精’はいまだ幼くその思いを自覚していない。‘闇の妖精’と同じ契約者たる彼女達のみが今その思いを自覚して彼の傍らにあるのだ。

「そうなんだけどね……。忘れてたわ。彼の鈍感さを」

 そう。そうしたのはイネス自身だが彼は変わっていなかった。記憶を失いながらも人格は変わっていない。良くも悪くも彼は彼のままだった

「そうね。こんな所まで再現しなくていいのにね」

 嘗てナデシコに乗っていた時のように向けられる好意に彼はとことん鈍感だった。自分なりにかなり積極的に迫っているつもりなのだが一向に気付いてくれない。
 このままでは時間だけが過ぎていく。ラピスの参戦の時までもつれこみかねない。

「解決法は無いかしらねえ」

 イネスが途方にくれたかのように言った。彼女にも説明できない、解決できない問題だ。

「私に聞かないでよ。在ったら私がとっくに実行してるわ」

 エリナが断言する。たとえ在っても教える筈も無い。この勝負―恋愛―に情けは禁物だ。勝機は迷わず掴まねば勝利は無い。たとえ親友といえどもそれは同じだ。

「確かにそうね。じゃ、自分で解を探し出すしかないか」

「そう言う事よ」

「時間が要るわね。やっぱり」

「ええ」

 なんとなく彼女達にも解っている。彼と共にある時間こそがその唯一の解だと。今の彼はまだ日常を過ごす事で精一杯だ。いつか彼がふと周りを省みた時に彼に最も近い位置にいた者こそが勝者となる。そのために今は彼と過ごす時間を積み上げていく時だ。

「5年。いえ3年位は必要かしら」

 記憶という自分を構成する重要な要素失った彼が周りを振り返る余裕を持てるまでその位は必要かもしれない。そしてその時間はラピスの参戦をも、もたらす。

「そうね。ラピスが気付くぐらいの時間は必要かも……」

 エリナがそう言った後、複雑な表情になった。言ったとたん実現しそうな気がしてきたのだ。言霊などという迷信が頭に浮かんで離れない。
 それが伝染したのかイネスも同意した。

「なんか本当にそんな気がしてきたわ」

 拙いわね、と呟く。
 そう言う二人の顔は不思議と穏やかだ。その時を楽しみにしているような気配さえ漂う。
 また、やってくるのだ。嘗てナデシコですごした時間が。
 あの騒がしくも楽しかった時間が。
 何とかして彼の気を引こうと恋敵たちとしのぎを削る日々が。
 自分達とラピスでそれを再現するのも悪くないかもしれない。
 そう思って二人は立ち止まって空を見上げた。硬化テクタイトのドーム越しに地球が青く輝く。それを二人は暫し見つめていた。




 それから3年後。月のコロニーの一角に小さなラーメン屋が店を開いた。
 小さいながらも確かな味で半年後には月で評判の店となった。
 その店にはラーメンの他にもう一つ名物があった。
 それは常連の美女二人とウェイトレスの美少女。
 彼女らの店主を巡るやり取りは他の常連達に格好の話題を提供することになった。
 賭けの対象にまでされているが肝心の店主はさっぱり気が付いてないらしい。
 今だ誰が有利かも解らない。
 大穴を狙っている者も要るらしい。
 今の所第4の対抗者は現れていないが、店主の女性に対する態度を見ていると現れるのも時間の問題だ、と言うのが彼らの主張である。無理も無いかもしれない。
 そして、今日もまたその店でささやかな騒動が持ち上がっている。




後書き

 どうも、第9作です。
 
 実はまだリアルで修羅場なんですが、ちょっと余裕が出来たら出来てました。
 締め切りは近づいているというのに……
 現実逃避の力は侮れないですね。ああっ、今度は発表が〜(泣)

 それは置いといてまず謝罪を
 ごめんなさい。また台詞の無断使用です。
 ラピスの「人になれると思うから」
 蚕棚さんの「柔」の台詞です。台詞だけで状況は違うし一言だけだったので、断りも無く使ってしまいました。書いてるうちにキーが勝手に踊ってしまいまして。
 一度語ったら訂正させてくれないし……
 つくづくキャラに振り回される私の未熟の所為です。
 蚕棚さん申し訳ありません。お叱りは慎んでお受けします。

 此処から解説を。
 今作はラストから入りました。テーマは「アキトを光の下に返す」です。
 自らであろうとし‘闇’の中で戦いつづける「遡行」のアキトを書いたら、逆のアキトが書きたくなりまして……。ただ、そのまま戻ってはくれそうに無いので王道の手段を用いました。
 それが‘記憶封鎖’です。
 エリア88……。いや、マインドアサシンかな。(解る人います?)
 王道中の王道です。
 結果として「遡行」の真逆ともいえる内容になりました。
 メインはエリナ、イネス、ラピス。サポートにアキトのつもりで書きました。
 メイン3人の相手をさせてたらアキトがメインに見えるようになってしまいましたけどね。

 最大の計算違いは何時もの事ですが書いてるうちに、なんかアキトが強くなってしまった事。
 ‘記憶封鎖’しないでも戻れるんじゃないかと思えるほどになってしまい慌てました。
 最初のプロットでは罪に追われた弱いアキトのつもりだったんですけどねえ。
 動いた結果がこれです。‘記憶封鎖’してつじつまは合わせましたがやや違和感が残ってしまいました。
 自覚はしているんですが、直せない。未熟です。

 他にも時間が3度も前後したりとちょっと解りにくいかもしれません。構成決めてから書いたんですが、もう少し練った方が良かったかも。

 何時ものごとく反省ばかりです。
 ただ、念願の平和なラストを書けたので本人は結構満足してたりします。
 ……これはダークじゃないですよね?
 オープンエンドもいいなあと思ってます。
 ユリカ、ルリはややこしくなるので絡めませんでした。
‘運命の再会’があるかどうかはご想像にお任せします。
 今回も長くなりました、これでも結構削ったんですけどね、ホウメイのエピソードとか。プロット立てた時点で詰め込みすぎに気が付くべきでしたね。
 
 それでは拙い長文を読んで頂きありがとうございました。
 ありましたらまた次回作にて

 乱文失礼いたしました。

 

代理人の感想

「・・・・そして、今日もまたその店でささやかな騒動が持ち上がっている。」

 

 ふうっ、と息をついてマウスホイールから手を離す。

 必ずしも大団円ではないが、一つのハッピーエンド。

 奇妙なことに、後半に完全なほのぼの感は無く、また前半にも完全な緊迫感はなかった。

 多少の上下はあっても、かすかに緊迫感を孕んだゆったりとした空気が全編を通じて漂っていたように思える。

 黒いアキトは全てを受け入れて、ただ穏やかに笑っていたような気がした。

 この話で「緊迫」「ゆったり」という相反する要素が交じり合っていたとすれば、

 それはおそらく、その黒アキトの穏やかな笑みが常に脳裏にあったからであろう・・・・・

 

 

とまぁ、妙にエッセイ調の感想ですが。

実際黒い時のアキトに「強さ」は感じませんでしたね。

すべき事を全て終えた男の清清しさというか、全ての執着を断った一種の虚無感と言うか。

悪く言えば「やりたい事やり尽くしたからもーどーなってもいーや」という感じですね(笑)。

 

 

 あら嬉し 思いは晴れる 身は捨つる 憂き世の空に かかる雲なし

                          伝 大石内蔵助 辞世