2197年12月24日、テンカワ・アキトという一見平凡な青年が地球陣営初の「意識的なボソンジャンプ」に成功した。制御された、とは言い難い代物ではあったが、恐らくはそれが最後の境目だったのだろう。既に他の道はなかったのだが。
……その日から彼と彼の愛する人々の運命は転がり始めた。底の見えぬ暗い穴へと向けて。
written by 日記読人
月面近くで起こった爆発は、計測されたエネルギー量からすると被害は極めて少なかった。その理由は
という二点が大きい。
もっとも、原因不明の大爆発ともなれば宇宙軍としては落ち着いていられる訳がない。何しろつい二ヶ月前の大激戦を制し、なんとか制宙権の一部を木星蜥蜴から取り戻したばかりなのだ。爆心地が軍事的に何の価値もない辺鄙な場所であったとしても、敵の攻勢かと色めき立つのは当然だろう。
一方、宇宙軍とは別にネルガルの月面研究所でも騒ぎが起こっていた。件の爆発と同時に大量のボース粒子を観測し、それだけでも大事件だったのにも関わらず、現場の調査に赴いたチームが余計なトラブルを拾って来たのだ。 爆心地から約十キロ、ネルガルグループ・アトモ社製の装備を身に付け、ネルガル中央研究所の認識ビーコンを発するソレは、宇宙軍の機嫌を損ねたらどうなるか熟知している者にとって疫病神以外の何ものでもなかった。
「彼はまだ眠ってるのか?」
「……あの状態を眠りと呼んでしまって良いのか気になるところですが、まぁ、そうです。ぐっすりとお休みですよ。睡眠にしては随分と活発な脳波ですけどね。」
「瞳孔散大、輻湊反射その他諸々なし、個人的には脳死扱いでさっさとサヨナラしたい気分ですがね。自発呼吸もしっかりあるし、何より先生の言うように肝心の脳ミソが元気と来たもんだ。まったく、こんな症例は初めてですよ。」
「その通り。臨床的には明らかに異常ですが、器質的には障害の痕跡が見当たらない。もはや通常の医学的な問題とは考え難いですねぇ……で、所長の方は何か掴めましたか?」
「結局、遺伝子情報からは何も引き出せなかった。どうも本社のかなり上の方で機密扱いにされとるらしい。私の権限でも名前すらわからんとはね……」
「こんな馬鹿げたコトするのは中央研のマッドぐらいなモンですよ、認識IDの発行記録まで消しちまうなんて普通じゃない。大体アトモ社の製品を持ってたんでしょ?あそこが一般流通に流せる商品を作ったことなんて一度もないじゃないですか。もう、それだけで十分。あいつは中央研とつるんだアトモ社のモルモットであの爆発も――」
「そこまで。仮にも、彼は私達の患者ですよ?医者として恥を知りなさい。」
「……」
「助手の分際でやたらなことを言うもんじゃないな。君はあの爆発の原因がネルガルにあると主張したいのかね?まったく肩が凝る話しだが、自分の発言には注意することだ……少なくともこんな所ではな。」
遺跡をナデシコに積み込み宇宙の彼方に放り出した。二度と見ぬものと信じて。
セイヤさんに作ってもらった屋台を引いて、慣れないラーメン屋を始めた。小さな一歩だけど、とにかく自分の道を歩き出せたことが嬉しかった。
ユリカとルリちゃんがアパートにやって来た。唐突なのは毎度のことだけど、これにはホント驚いた。でもナデシコ時代のような、いやもっと親密な暮らしは幼い頃なくした「家族」を思い起こさせて、何だか暖かかった。
ユリカにプロポーズ……正直、あまりカッコ良くなかったけどユリカは喜んでくれた。たとえやり直したってマシになるかは怪しいもんだし、あれはあれで良かったんだろう。
結婚式。ユリカの投げたブーケを受けとめ、ルリちゃんは最高の笑顔を見せてくれた。ここしばらくの沈んだ様子が気になってたけど、どうやら悩み事は解決したらしい。「娘」の祝福は俺達にとって最高の贈り物だった。
仕組まれた事故。そして始まる地獄――
血溜まりの中を歩み、培養槽に浮かぶ人形を | ここは、何処だ? | |
感情を見せぬ少女を連れ、漆黒の機動兵器に | ここは、何時だ? | |
銃で、刃で、その五指で、容易く命は奪える | ――俺は何者だ? |
ヒサゴプラン ターミナルコロニー「タカマガ」襲撃。予想通りヤツらはコロニーごとまとめて証拠を消した。だが、構いはしない。ひき続ければ当たりクジに辿り着く。
ヒサゴプラン ターミナルコロニー「ウワツツ」襲撃。残るはクジは二つ。最悪ナデシコを、彼女を巻き込んでしまうが……もはやそれもどうでも良い話だ。この戦争、どう転んでも結果は同じ。既に勝負はついている……後は俺の闘いだ。
ヒサゴプラン ターミナルコロニー「アマテラス」襲撃。変わり果てた、変わらぬナデシコの傍らで、禁断の函が開く。
生贄の、変わり果てた、変わらぬ銀色の容姿を真空に晒し――
開くことの在り得ぬその双眸が、頬が、唇が、微笑みを作り、望み焦がれたその声が――
「久しぶりだね。待ってたんだよ。アキト……」
その一言でアキトは自分を取り戻した。少なくとも自分がテンカワ・アキトであることを自覚し、これまで溺れていたその記憶ともデジャ・ビュともつかぬイメージから意識を引き離すことに成功した。まぁ要はユリカの言葉に驚いただけだが。
改めて周囲を見渡すと、真っ暗な何もない空間に自分とユリカの二人だけ。しかもユリカは遺跡に捕われていた時のままの格好……つまり全裸。光源がどこにもないのになんで自分達の姿が見えるのか、その辺からして異常だったが、無論アキトにそんなことを冷静に考察する余裕がある筈もない。
「ユ、ユリカ、無事だったのか!?――って、ここは何処なんだ?そもそも何がどうなってんだ??」
問われたユリカはいったん目をつむり、再びアキトをみつめて微笑むと謎掛けの様な台詞を返す。
「何がどうなってるのかはアキトも良くわかっているはずだよ……だって私の人生はアキトの人生でもあるんだからっ。」
何だか楽しそうだ。
「はぁ?それじゃ訳がわかんねぇよっ、もう少しわかる様に説明しろって。」
「あぁっっ馬鹿っ!なんでそんなこと言っちゃうのぉっ!?アキト、私と二人っきりじゃ嫌なの!?そんなの信じられないっ!!」
が、一瞬にして不満顔。
「だから何のこと――」
「――説明しましょう!」
……沈黙。
「イ、イネスさん!?」
ぷぅーっと頬を膨らませたユリカと、ぎぎぎっと軋む音が聞こえるようなギクシャクした仕草で振り向くアキト。ユリカの変わらぬ様子に安堵しつつも、とにかく状況を理解するのが先決と、説明おばさんの姿を求めるが……いない。
「こっち、こっち。」
くいくい。ベルトのあたりを引っ張られて下を向くアキト。
「へっ、え?えぇー!?」
「もう、感動の再会シーンだったのにもう少し遠慮してくれてもいーのにぃ……」
「あのまま艦長に任しといたら、何年かかっても話が進展しないでしょ。それこそ私が大人になっても終わらないわよ。」
「……大人になるってイネスさん私より年上でしょ!」
「今の私は艦長より十歳は若いもんっ!」
とまどうアキトをよそに、しょうもない諍いを始める裸の美女と幼い少女。微妙に頭痛を感じながらも半信半疑で声をかける。
「君はイネスさん……いや、アイちゃんなのか!?」
栗色の髪を短めのツインテールにまとめた少女は、アキトの声に振り向くと面白そうな目で頷いた。
「そうだよ、お兄ちゃん。でも何でアイとイネスが同一人物だってお兄ちゃんが知ってるのかなぁ?」
「彼は未だ目覚めず、か。」
「相変わらず王子様は眠りっぱなし、まったく、いーご身分ですよ。」
「SQUIDの記録を見るに、そう良い夢を見てるとも思えませんけどね……で、何か進展でもありましたか?」
「とりあえず、本社の責任者がわかった。あきれたことに会長秘書の直轄だとよ。まったく、こんなこと調べる為だけに恐喝じみた交渉が必要となるとはね。この官僚体質、ウチもそう長くはないかも知れんなぁ。」
「この前、散々説教したくせに、そんなこと言っちゃって構わないんですか?」
「私は自分の言葉には責任を持つ。言うべきことを言ってクビになったら、良い機会だ。引退して盆栽いじりを楽しむことにするさ。」
「君の軽口と所長の箴言を一緒にしてはいけませんね。所長もつまらない冗談言ってないで、今後の見通しでも教えて下さい。彼の身柄を地球に移すならそれなりの準備が必要なんですから。」
「そう慌てる必要はないさ。天上人たる秘書殿に月面研究所からの報告が届くには……どうせ後数日かかるだろうしな。」
「えーと、つまりここは遺跡の中ってこと?」
延々と続いた説明のなかで、なんとか理解できた部分を必死で組み合わせ、言葉をまとめあげてイネスに聞き返す。
「うーんそれはちょっと単純化し過ぎ、っていうより、私にもそこまで断定出来る材料がないというのが正直なところなの。悔しいけどね。」
出来の悪い生徒に辛抱強く付き合っている風なイネスは、相変わらず幼いアイの姿。普段の説明おばさんと勝手が違い、劣等感を刺激されたアキトはかなり情けない気分になっている。
「ふんふん。」
アキトにおぶさるように背中に抱きついているユリカも、アイの説明を一通り理解しているようで益々わびしい。
「ユリカさんは遺跡に呑まれ、私はバッタに襲われた時から始まった一連のランダムジャンプで、そしてお兄ちゃんはナデシコを護る為ジンタイプと跳んだランダムジャンプで……ここに居る。」
「だが、アイちゃんは何でそんなことを知ってるんだ?あの日のジャンプで離れ離れになった時も、遺跡中枢部で助けられなかった時も、アイちゃんは普通の女の子でイネスさんのような知識は持ってなかったはずだろ?」
「んー、でもそれはアキトにだって言えることだよ。アキトがヨコスカから跳んだ時、ジャンプアウトしたのは二週間前の月面。私みたいに遺跡に捕われたりしてないでしょ?」
首にまわされたユリカの腕に手をやり、神妙な顔で頷くアキト。
「ユリカさんに言われて検討中の仮説があるんだけど、正直、あまり科学的じゃないアイデアだから説明したくないのよ。」
「アキトも薄々気が付いてるんじゃない?」
顔を上げ、横を向いてユリカの目を見つめる。
「過去も未来も全部あわせて、今ここの俺……なのか?」
その日、ネルガル重工会長秘書、エリナ・キンジョウ・ウォンの機嫌は悪かった。
実験対象たるアキトの懐柔はうまくいかないし、オモイカネは暴走するわ、そのせいで軍が余計なちょっかいを出すわ、アホ会長はカンヅメにされてた部屋から脱走するわ……仕事もストレスも溜まる一方、胃だって痛くもなる――
「なんで月面研究所の連中がテンカワ・アキトに興味を抱くのよっ!」
『正確には彼の遺伝子情報に、ですが。先日の月面爆発に関連して相談したいことがあるそうです。これ以上は私の権限では読めませんので、詳細についてはご自分のIDでご確認願います。』
「何よそれ?理由をこじつけるにしても意味不明じゃない……ったく、後で読んどくから転送しといて。」
『わかりました。もう一件、軍からパイロットの出向話が来ています。』
「パイロット?ふーん、資料は、うん、なるほど。タイミング良いわね……」
――だから、ちょっとした悪巧みを思いついてしまった彼女がその報告を忘れてしまったのも仕方ない。すべては部下の限界を見過ごした上司が悪い、そーゆーこと。
「これから説明する仮説は検証する手段がまったくない以上、科学的な理論ではないし、私やユリカさんの妄想である可能性が高い。それを前提にして聞いてね。」
溜息をひとつ、ちょっと間をおき、半ば開き直ってアイは語り始めた。
「まずは状況確認から。私達の姿は先ほど言った様に遺跡と深くコンタクトした時のもの。ただし、それは見かけだけ。ユリカさんが指摘したとおり私達の意識、記憶は当時のものだけではない――お兄ちゃん、今ここではっきりと思い出せる一番新しい記憶は何?」
アキトは僅かに顔を歪め、
「火星だ……北辰と決着をつける為に、ユリカのことも皆に任せっきりで……奴の機体を見て我を忘れたのか、それから後のことは覚えてない……」
その表情をアイに見せたくないのか、思わず顔を伏せる。
「私が思い出せるのはユリカさんを救出する為に遺跡相手に作業を始めたところまで。」
何も気付かぬようにアイが言うと、ユリカが後を受ける。
「遺跡の中で私は皆を見てた……なんにも出来ずにただ見るだけで。でも皆は、仲間の為に、自分の為に、出来ることを一生懸命やってた。それはアキトだって、ううぅん、アキトが一番必死で頑張ってた。それは私が一番良く知ってる。」
後ろから抱く腕に力を込める――
「もぉ〜、落ち込むのは説明が終わってからにしてよ、お兄ちゃん。」
年相応の仕草で頬を膨らませると、ラブラブモードに入りそうな二人を牽制して説明を続けるアイ。
「もう少し記憶について確認するけど、二人の結婚式の日付は?」
「え?あぁ、6月10日だけど……」
うんうん、と脇で頷いてるユリカ。
「そうね。で、プロポーズは?」
「プロポーズは1月……えぇと?」
「もう何で忘れちゃうのよアキトったら。プロポーズは1月31日の節分……あれ?」
「馬鹿、節分は2月3日でその日はルリちゃんと豆撒き……した気がするんだが……つーか、俺だけならともかく何でユリカが憶えてないんだ!?」
「えーん記憶力には自信があったのにぃ。でもおかしいよ、私、憶えてないんじゃなくてプロポーズの瞬間をいっぱい憶えてるんだ。スゴク嬉しかったから忘れる訳ないんだけど、なんだか憶えているシチュエーションが多過ぎて、どれがホントにあったことなのかわからないの……」
記憶の混乱に頭を抱える二人。その様子を楽しそうな笑みを浮かべて眺めていたアイは、タイミングを見計らうと満を持して決め台詞を放った。
「説明しましょう!」
――見た目がアイだろうがイネスだろうが、結局趣味も性格も何も変わらないらしい。今更だが。
これで何度目だろうか。彼女の前に一組の男女の姿が浮かび上がる。
「嫌……」
無駄と知りつつも呟く言葉をよそに、その寸劇は繰り返される。
『行きたい所があるんだ』
『何処に?』
出来の悪いカリカチュアのように。
『地球、アメリカ、ニューヨークサウスブロンクス、人気のない路地裏』
『誰が?』
背景が目的地のイメージから無機質な一室へと変わり、アキト達が答える。
『我と』
『我等』
彼女の意思とは関わりなく、ここではない何処か、いまではない何時か、人には理解出来ないプロセスが起動する。
『わかったわ、行ってらっしゃい』
虹色の閃光を放ちアキト達は消える。
完成されたシステム、人気のない部屋に残されたのは物云わぬ乙女のみ。
「ここで話をしている俺達は、歴史の可能性の重ね合わせ、だからはっきりしている記憶もあれば、曖昧な記憶もある……ってホントかよ!?」
「信じる信じないはお兄ちゃんの自由、私は状況の在り得る解釈のひとつを述べてるだけよ。繰り返すけどこれは科学的な理論じゃないの、むしろ哲学的、宗教的な領域に近いわ。その手の学問は下火となって久しいけど、そっち系統の研究者にとってはある意味ここは理想的な場所でしょうね。」
正直、アイの姿で語る内容ではないのだがアキトもユリカも気にする風もない。流石は初代ナデシコを代表するクルーである。
「でもでも、何でココにいるのが私達三人だけなの?」
「それは簡単。最終的に生き残ったA級ジャンパーが私達だけしかいないってだけよ。」
「!!――ちょっと待て、A級ジャンパーの多くが奴らの犠牲になったのは確かだが、ホントに俺達以外に火星人の生き残りはいないのか?それに最終的って一体何の――」
「アキトッ!!」
「落ち着いてお兄ちゃんっ!――ちゃんと順番にお腹いっぱいになるまで説明してあげるから。」
アイの台詞、つまり火星人の生き残りが自分達以外に誰も残っていないという説明に愕然としたアキト。ユリカの制止に我に帰ると、少女の襟元を掴んで締め上げている己の両腕に気付いて唖然とし、アイの台詞に慄然すると共にユリカの視線に悄然となる。
「まずA級ジャンパーのことだけど。第一に戦争のせいで多くの火星人が亡くなったわ。開戦も唐突だったし、木星蜥蜴の存在が明らかになっても地球へ疎開するという選択肢を持てたのは一部の裕福な人間だけだった。それに経済力があっても故郷である火星を棄てることが出来なかった人も多い。ユートピアコロニーでナデシコの戦いに巻き込まれた人達のように……」
アキトを抱いたユリカの腕が微かに震える。アキトがその手を握り、軽い笑みを浮かべたアイは首をひとつ振って続ける。
「だから和平の時点で生粋の火星人はほとんど絶滅寸前だった。A級ジャンパーと火星人という条件が結びついた後、正確には情報が漏洩した後、かなり早く動き出したアスカグループでさえジャンパーとして確保出来たのはB級止まりだったそうよ。お兄ちゃんの言う火星人の条件がA級ジャンパーであることだとしたら、生き残りを見つけるのは絶望的でしょうね。」
アキトの手を優しく握り返したユリカが尋ねる。
「だけど、私が遺跡に取り込まれた頃はともかく、過去には火星産まれの人はたくさんいたし、未来ならきっとA級ジャンパーになる為の技術とか開発されるんじゃないかなぁ?さっきの説明からすると、ここでは過去も未来も関係ないんでしょ?だったら私達三人しかここにいないのは絶対ヘンだよ。」
「……ちょっと説明を端折り過ぎたかしらね?」
ぶんぶん、音がしそうな勢いで首を振る二人を無視して続けるアイ。
「さっきお兄ちゃんが聞いた二番目の疑問、最終的には、って言葉の意味だけど。」
少し間を置いて、逆に訪ねる。
「一番新しい記憶は火星の後継者との最終決戦、じゃぁ一番古い記憶、ううぅん、憶えてることじゃなくて、同じようにして思い出せる出来事は何?」
駄目ね、私達の言葉はこの世界を記述するにはまるで向いてない……ぶちぶち。小声で不満を漏らすアイと、その前で首を捻る二人。この世界に来てから何度首を捻ったことか、この調子じゃフクロウみたいに360度首が回るようになる日も近いな、などと愚にもつかない考えが浮かんでゲンナリするアキト。
「うーん、思い出せるって言葉の意味が問題だけど、今ここから視える一番昔の出来事はナデシコに乗る直前、トランクをアキトにぶつけちゃったことかな。運命の再会っ!」
視える、その言葉であのイメージの奔流を思い出したアキトはしばし目を閉じる……一瞬か永遠の時が過ぎ、ユリカに頷いてアイに答える。
「俺もユリカと同じ、あのトランクの痛みはその不意打ち度合いも含めて正直、最凶だ。」
「えぇー、何よそれ。」
「はいはい、ユリカさん落ち着いて。」
どうどう、軽くいなして説明を続けるアイ。
「もうわかっちゃったかも知れないけど、時の流れの中でここに捕われているのは、ごく限定された期間に過ぎないの。具体的にはお兄ちゃんがナデシコに乗り込む直前から、火星での決戦に挑むまでの約五年。きっかけについては人類史上最悪のランダムジャンプを経験した私とか、こともあろうに遺跡との融合なんて無茶をやらされたユリカさんとか、前人未到、ギネス的ジャンプ記録を誇るA級ジャンパーのお兄ちゃんとか、もう、心当たりが多過ぎ。」
ふぅ。ひとつ溜息をついて続ける。
「でも、一番重要なことは明白なの――」
顔を上げ、アキトを、ユリカを、悲しげにみつめる。
「この五年間、私達の人生は既にシナリオが決まっているの。お兄ちゃんのプロポーズとか、細部のアドリブはともかく、大きな流れは変えられない、逃れられない――」
「――ふざけるなっ!」
その言葉はアキトの叫びで遮られた。
震える拳を握り締め、言葉を搾り出す。
「俺はいいさ、いくら血に塗れようと自分で選んだことだ。でもユリカは……あれを視ろっ、あんなユリカを、それが運命だからって放っておけるかっ!」
自分とその恋人をかたどった人形達に取り囲まれ、言葉もなく身を竦ませたユリカ。
その眼に――ユリカのユリカたる――生気はない。
「ひとつの歴史で数週間、でも遺跡とリンクしてる以上……今の私達と同じ、すべての可能性を体験してるんでしょうね……でも、ここでならともかく、恐らく生身の人間に耐えられることじゃない……」
最後、ほとんど呟きになったその言葉は、それでも静寂の中で聞き逃すには大き過ぎた。
高まる異音と振動は、確かにその機体が限界に達しつつあることを実感させる。
(イメージ……)
虹色の輝きの中、自分が巨大なロボットを伴って跳ぶ、そんなイメージを思い浮かべようと集中する。
(ナデシコ、みんな、ルリちゃん、ユリカ……)
失敗したらこの街と一緒に消えてしまうであろう、仲間の姿が脳裏に去来する。
(そんなことになったら、俺は、いや俺も死んでるだろうけど、絶対自分を許せない。)
輝きがひときわ高まり、
(だから跳ぶ、俺には出来るっていうんだから、だからジャンプしてみせる――死ぬのは俺一人で十分だっ!)
だが、
「ユリカも俺も、今ここで死んだ方が幸せなんじゃないのか?」
他の誰でもない、自分の口が吐いた言葉に驚く間もなく。
アキトは消えた。
「大丈夫……」
固められた拳を解きほぐし、爪が刺さって破れた掌を優しく嘗める。
「私は大丈夫。だって、アキトが頑張ってるところも、ルリちゃん達が私を助けに来てくれるところも、ちゃんと記憶にあるもん。そりゃすべての歴史で大丈夫なのかはわからないけど、それでも私達は自分に出来ることをやるしかない……それはジャンパーだって、誰だって同じことだよ。」
「だが……」
言い淀んだアキトの後を受け、坦々とアイが続ける。
「すべての歴史の重ね合わせと言ったけど、恐らく今の私達にも自分が生存していない、もしくは正常な精神を保っていない、そんな世界を認識することは不可能だわ。だからユリカさんが助かる歴史は当然あるはずだけど、それが果たして分の良い賭けなのかは……まさしく、神のみぞ知る、ね。」
そこで言葉を切ったアイは、アキトをみつめて笑ってみせた。
「でも、ユリカさんの言葉はその通りよ。」
「!」「?」
思わず顔を見合わせるアキトとユリカ。
「今ここで、高々五年間の人生を俯瞰して偉そうなことを言ってるけど、現実世界に戻れば私達だってただの人間に過ぎないもの。」
「なっ、現実に戻れるのか!?」
「当然。でなかったらあっちやそっちで色々と頑張ってるお兄ちゃんはどうなるのよ。大体、ここで延々と喋ってる気がするけど、本当は一瞬のことかも、それこそ永遠のことかも知れないんだから。会話という一般的なコミュニケーション手段を取っているのも、きっと私達の貧弱な知性・脳神経系が勝手に再構成した結果なんだと思うわ。相変わらず検証手段がないのが腹立たしいけどね。」
「でもでも、そうしたらタイムパラドックスとか起こったりしないの?」
「そうか、そうだよな。もし俺があの二週間前の月面に戻ったりしたら、確実に未来を変えちまうぞ?」
「残念。既に検討してみたけど、少なくともここで得た知識を現実に持ち帰ることは不可能でしょうね。シャノンによるエントロピーの定義を拡張した――」
「「待った!」」
思わず声を揃える二人。不満気なアイに無難な提案をする。
「えぇっと、さっき私の台詞がどーとか言ってたけど……?」
「あぁ、あれね……そもそも、何で五年間だけなのかしら?」
尋ね返すアイ。
「へ?」
話が見えず、気の抜けた返事をするユリカ。
「私をバッタから庇ってジャンプしたお兄ちゃんが、何処にジャンプアウトするか。それは完全に運任せだったんだと思う。テンカワ博士夫妻は地球出身者だったから、安全な所としての地球というイメージはあったかも知れないけど、それはサセボへのジャンプアウトを決定する程のものじゃない。」
「自分が地球にいるってわかった時は、ホントに驚いた。サセボなんて初めて聞いた地名だったし。サイゾウさんに出会えなかったら、いったいどうなってたことか……」
アイはひとつ頷いて続ける。
「そう、そしてナデシコ出航直前にクビにならなかったら、車から落ちたトランクが見事命中しなかったら……お兄ちゃんがナデシコに乗り込んだという出来事、それはとてつもない偶然の賜物なの。でもナデシコに乗り込んでしまえば、それが確定してしまえば、後は偶然の介在する余地はなくなってしまう――」
「――チューリップの八ヶ月は?あれって、それこそランダムジャンプじゃないの?」
「木連が次元跳躍門と呼んでいたこと、そして戦後のヒサゴプランを忘れちゃ困るわ。本来チューリップでのジャンプは、もっとも制御されたジャンプのひとつなの。人類が作った訳じゃないから当然と言えば当然ね。もちろん無闇に跳び込めばランダムジャンプも同然だけど、あの時のナデシコには私達A級ジャンパーが三人も乗ってたのよ?だから一番自由度の高い火星で何を仕出かしたとしても、結局ナデシコは第四次月攻略戦を引っ掻き回すことになったはずよ。」
「地球に帰れば当然ネルガルや軍の思惑に翻弄され、それこそ変化の余地はない、か。」
「ナデシコのクルーはみんな優秀だからね。そうか、最善を尽くした結果こうなっちゃったけど、でもきっと、次善だったり、運が悪かったりしたら……ナデシコは沈んじゃってたんだよね。うーん。」
「そう、だからお兄ちゃんがナデシコに乗り込んだ時、シナリオは一本の筋書きに固定されたの。そして、そこからの運命が分岐しえなかったが為に、重ね合わされた可能性が何らかの閾値を越えた為に、今の私達がいる……」
沈黙の中、アキトをみつめるアイ。気が付けばユリカもアキトをみつめている。
「そして五年間の最後、火星から先の記憶がないのは……俺が死ぬから、じゃない。」
何かを決意した口調、何かに納得した眼で二人をみつめ返す。
「あの火星で、約束の地で、私達三人の運命は開放される。収束した可能性は無限へと発散する。」
アイが詩人のように、詠うように、ながい説明の結論を述べる。
「私達、ここからだと悲劇の坂道を転げ落ちてくように見えるけど、どうせ落ちるなら思いっきり勢い良く落ちてみようよ。どんな道だって下り坂があれば上り坂があるんだし、勢い良く落ちればそれだけ早く上れるんだからっ!」
ユリカがいつものように、変わらぬノリで、ユリカらしいオチを付ける。
「……俺は、俺に出来ることをやる。難しく考えるコトじゃない、それだけだ。」
何とか立ち直ってシメの台詞を決めるアキト。
三人は顔を見合わせると、ここに来て初めて、心からの笑い声を上げた。
計器のアラームに呼ばれた関係者三名が見守る中、その青年は二週間ぶりに眼を開け声を上げた。
「今日の日付と時刻を教えてくれませんか?」
答えを聞くと、もの問いたげな視線を抑えて更に続ける。
「俺は戦艦ナデシコ所属のパイロット、テンカワアキトです。俺の名前でナデシコと連絡を取ってくれませんか?それと水を一杯お願いします。そしたら俺に出来る範囲で事情を説明しますから。」
青年を知る者がいたら驚いただろう。
僅か二週間前の彼とはまるで違う――決意を秘めた眼に。
「ここの記憶を現実に持ち帰ることは出来ない……けど、ひとつだけ約束する。」
いったん閉じた眼を開く。
「俺は絶対にユリカを助け出す。いや、俺だけじゃ無理だけどナデシコのみんながいる。だから……負けないで、待っていてくれ。」
その願いに笑みで応える。
「うん、待ってる。アキトは私の王子様だもん、あの時からずっとわかってたんだから。」
「王子様と言っても、ろくでもない闇の王子様だけどな。」
「黒でも紅でも――」
――誓いの口付け。それは絶対の約束の証。
アイは、
(デートの約束は思い出してくれないんだもんなぁ。)
ちょっと不満気に、でも笑って、二人を見守っていた。
管理人の感想
日記読人さんからの投稿です。
ここで遺跡を絡めるとはねぇ
記憶を持ったまま目を覚ませば、全てが変わるのですが、そうそう世の中甘くないですね(苦笑)
自分の作品では、アレですが(爆)
しかし、記憶が無いのであれば・・・アキトが戦いに対する決意を固めるのは、少々不自然な気がしますね。
ま、そこは魂に5年後の記憶が刻まれていたという事で(笑)
代理人の感想
うーむ、反則スレスレでレギュレーションに収まってますねえ(笑)。
ラストも微妙にTV版に続かないし(爆)。
でも、運命を知りつつそれに立ち向かう決意をするアキト達はやはり格好よく思えます。
絶望の後のどんでん返しを見せ、希望を輝かせて終わるラストも好きです。
その中でしっかりと存在するアキトたちの絆が何より良いと感じます。
後、イネスさんが可愛いのも良いかなと(笑)。
別人28号さんの感想
「B2W」という条件からはちょっとビーンボールかも知れませんが
限られた条件で どこまでムチャできるかを期待していましたのでこういうのは大歓迎です
いや、決してイネスさんがアイちゃんであった事に反応したワケでなく(爆
と言う冗談はさておき
未来の記憶が残らなくとも、アキトには何かが残った、或いは芽生えたみたいですね
ユリカやイネスもどこか変わったのでしょうか?
なんと言うか彼等の行く末に幸あれって感じです
ゴールドアームさんの感想
遺跡の特性をうまく使っていますね。
過去も未来も、ボソンジャンプ……遺跡が関わると、その原理上思いっきり意味が曖昧になる。
うまい突っ込みだと思います。
これからも頑張ってください。
龍志さんの感想
まず、俺が今回の企画の縛り。とも考えている条件を挙げたいと思います。
時間軸が「B2W」である事。他にもありますがこれが一番だと思います。
厳密に言えば時間軸はあっているんでしょうが…正直、遺跡がこの時点で深く関わってるのは違和感を感じまくりでした。
昨今のナデシコ小説や…まぁEVAも含めてですかね。
遺跡やらアカシックレコードの拡大解釈及び万能化が進みすぎていると思います。今更ですが(苦笑)
展開としては個人的には決して嫌いでは無いですし、読みやすくもあるんですが…「B2W」に何が起こったのかという事がほぼ書かれていないのが残念でした。
最後に一言
遺跡は確かに便利ですが、乱用には気をつけて使用しましょう(アイフルのチワワを愛でながら)
プロフェッサー圧縮inカーネギー・ホール(嘘)の日曜SS解説・特別版
はいどーも、プロフェッサー圧縮でございます(・・)
今回はAction1000万ヒット記念企画と言うことで、解説役にゲストをお招きしておりマス。
圧縮教授「同じ脳内存在なのに呼ぶもなにもないと思うがのぅ」
ハイ、では作品の方を見てみましょう( ・・)/
「ふむ。文字通りのSS(サイドストーリー)であるの」
そうですねー、最近ではちょっと珍しいかも知れません。
「というか、この企画自体がそれ限定では無かったかの?」
それはその辺に置いときましょう\(・・\)(/・・)/
「・・・まあええがの」
閑話休題、どうしてあの三人だけが『生き残り』と定義されたんでしょうかね?
「うむ。それは恐らく、あの時期の確率変動幅が小さかったからではないかの」
と、言われますと?
「逆に言えば、あの時期以外はあまりにも確率が拡散しておって、人間が認識出来るところまで収束出来なかったのでは無かろうか」
つまり、『我思う故に我在り』的な?
「じゃな。無限大の確率の海の中にある、潮目と云うかちょっとしたエアポケットなのでしゃろう」
なるほどー。何だか解説っぽくなって来ましたねー。
「まあ、たまにはの」
はい、では次の方どうぞー( ・・)/
日和見さんの感想
なるほどこう来ましたか。物語が「月で」展開するのではなく、単なるきっかけに過ぎないというのは面白いですね。
アキトの態度が変わってくるきっかけについても、力技ながら納得できました。
ただ、アキトを看ている医者達が思わせぶりな言動をしているので何かあるのかと思ったら、特に何も無かったのは少々肩透かしのように感じました。
皐月さんの感想
いや、その、月での二週間の空白を書くイベントであって、それを切っ掛けにした別の話を書くイベントでは無いのですが……。