アスナと古菲の初除霊を無事に終えた翌日の放課後、勝負を挑んでくる山下慶一、中村達也の手を掻い潜りながら世界樹前広場に向かっていると、その道すがら学園長から緊急の連絡が入った。
 嫌な予感がしたが、だからと言って出ないわけにはいかない。仕方なく立ち止まって電話に出ると、学園長は何者かが麻帆良学園都市に侵入した事を告げる。
 高音と愛衣の二人がその侵入者を追っているのだが、かなりすばしっこい相手らしく苦戦しているらしい。本来ならば、担当であるガンドルフィーニが援軍に向かわねばならないところだが、彼は彼で別の任務に就いているそうだ。
「俺に援軍に行けって事スか?」
「うむ、緊急事態なんじゃ。臨時ボーナスははずむから、よろしく頼むぞい」
「了解っス」
 もしこれが男性教師陣への援軍ならば、横島ものらりくらりと逃げていただろうが、高音と愛衣ならば話は別だ。横島はネギを通してアスナ達へ連絡しておいてもらえるよう学園長に頼み、援軍を承諾するとすぐさま高音達の元へと向かった。本音を言えば刀子やシャークティの方が色々と嬉しいのは心の中だけにしまっておく事にする。
 その後、追跡を続ける高音達と待ち合わせをするわけにもいかないので、横島は愛衣と携帯電話で連絡を取りながら彼女達と合流。二人の話によると、侵入者は小動物サイズで、獣の俊敏さを以って、麻帆良学園都市郊外を逃げ回っているらしい。
 麻帆良学園都市内でも、郊外ともなると中央と違って緑が多くなってくる。
 音を頼りに茂みを掻き分けながら突き進み、いざ音の主を捕まえてみるとキツネやタヌキ、野ウサギだった事が数回。愛衣はその可愛らしい姿に癒されたりしていたが、責任感の強い高音はそれどころではない。横島が合流した時には既にも息も絶え絶えで疲れ切った様子だった。
「で、一体何を追ってるんだ?」
「それが…子犬、なんです」
「………はい?」
 その時の横島の表情は、文字通り鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたであろう。
「ホントに小さな子犬なんです。あ、おデコに何か記号みたいな模様がありましたから、それが目印になります」
 愛衣の説明によると、その毛並は天然記念物にも指定されている日本犬の一種、四国犬に近いとの事だ。目の上の白い斑点が特徴らしい。
 そこまで近付ければ捕まえられるのではないかとツっこみたい所だが、そう簡単な話ではない。実際、愛衣は正面から走ってくる犬を捕らえようとしたが、犬は機敏な動きで彼女の脇を潜り抜けて行ってしまった。そのため、額の模様についてもはっきり何であるかは判別できなかったのだ。
「…その小さな子犬がこの近辺に隠れてるのか?」
「ええ…」
 横島の問いに高音が項垂れたまま答える。
 それも仕方のない事だろう。三人の現在位置は川沿いの土手道。右を見れば街並みが見えるが、左を見れば鬱蒼と生い茂る森。ここは麻帆良学園都市の端だ。
 高音達のおかげで都市中心部への侵入は防いでいるが、森の中に潜む子犬を見つけ出すのは至難の業であり、森を捜索している間に街中に入られてしまっては元も子もない。
「横島君、貴方の霊能力で何とかならないかしら?」
 高音が弱々しい声で聞いてくる。
「う〜ん…」
 彼女がこうも素直に横島を頼るのは珍しい。
 どうやら高音はこうして話している今も、森に使い魔を放って子犬の捜索を続けているようだ。そのため、精神的に疲弊しているのだろう。
 こうなると、横島としても出来る限り力になってやりたいが、如何に文珠を使おうとも遭遇した事もない者を探すのは難しい。まずは横島もその子犬に出会う必要がある。そうすれば、後は文珠で捕らえる事も追跡する事もできる。
「とりあえず、一旦はその犬を見つけない事にはどうしようもないな」
 その返答は予想していたらしく、高音は小さく溜め息をついた。
 魔法にせよ、霊能にせよ、どこかに居る特定の相手を探査する類のものは存在するが、手掛かりも全く無しに探せるはずがない。手掛かりはそれこそ髪の毛一本でも事足りるが、高音達はいまだにそれすらも入手できていないのだ。
「仕方ないわ、もう一度森に入って探しましょう」
「そうだな。麻帆良の森と言っても魔物とかがうようよいる訳じゃないだろうし、俺も霊視で探せるかも知れん」
 それを聞くと、高音は「お願いするわ」と微笑んだ。
 愛衣は森の中では小回りが利かないが、それでも自分の足で走るよりはスピードが出ると、自らの箒型アーティファクト『オソウジダイスキ』に跨り、木にぶつからないよう慎重に森の中へ入って行く。そして、横島と高音もそれを追うようにして件の子犬を見つけるべく、麻帆良学園都市を囲む森へと足を踏み入れるのだった。


「え〜、今日も修行ナシなの?」
「…そう言えるアスナさんが少し羨ましいです」
 一方、麻帆良女子中学校にて、額に冷や汗を垂らしながらツっこむのはネギ。
 先程職員室で、学園長から横島に仕事を頼んだため今日のアスナの修行はない、と伝言を頼まれたので、アスナを探してそれを伝えたのだが、返って来た彼女の返事は実に残念そうな響きを帯びていた。
 どうやらアスナは、横島との修行を心の底から楽しみにしているらしい。
 アスナは横島の弟子、ネギはエヴァの弟子。同じ弟子と言う立場でありながら、エヴァの別荘で一日掛けて厳しい修行を課せられているネギには羨ましい限りである。
「僕も詳しい話は聞いていませんが、学園長が横島さんに何かを頼むと言う事は、何か緊急の事態が起きたんだと思います。アスナさん達も、今日は街に出たりしないで早く寮の方に帰っていてください」
「う〜ん…分かったわ、皆にも会ったら早く帰るように言っとく」
 そう言われると仕方がないので、アスナも渋々承諾する。
 考えてみれば、寮に帰れば木乃香と刹那がいるはずだ。刹那に聞けば、自主的に修行する方法を教えてくれるかも知れない。神通棍を使っての霊力を目覚めさせる修行をしている間、修行の時間以外は休息を取るようにと言われているが、その修行が無い日ならば良いだろう。
 これは良い考えだ。にんまりとした笑みを浮かべたアスナは挨拶もそこそこにネギに別れを告げ、寮に向かって駆け出して行った。

見習GSアスナ極楽大作戦! FILE.44


 アスナが寮に向かって走っている頃、麻帆良学園都市にはにわかに雨が降り始めていた。
 3年A組の生徒である那波千鶴と村上夏美の二人は、演劇部である夏美が劇で使用する小道具を手に入れるために郊外の古道具屋まで足を伸ばし、今はその帰り道であった。
 突然の雨であったが千鶴がしっかりと鞄に折り畳み傘を携帯していたおかげで事なきを得て、二人で一つの傘を差して川沿いの道を女子寮に向かって歩いている。
「そう言えば今日のネギ先生、なんだか元気がなかったわね」
「え、そうだったの? ちづ姉、そんな事も分かるんだね」
「うふふ、子供の事はよく見てるから」
 千鶴は普段、麻帆良学園都市内の保育園で保母としてボランティアをしている。普段から子供を見慣れている彼女は、その理由までは分からなくとも、ネギの僅かな変化も見逃さなかった。
 元より心身ともに母性的な少女だ。普段からネギの事を保護者のような目で見ていたのだろう。

「あら? 行き倒れよ、夏美」
「行き倒れっ!?」
 千鶴の落ち着いた声とは裏腹な重い内容に夏美は驚いて千鶴の見詰める方へと視線を向ける。
「…あ、何だ、犬か…」
 しかし、そこに倒れ伏していたのは人間ではなく犬だった。見るからに小さな子犬だ。犬ならば良いと言うわけではないが、人が倒れていない事に夏美はほっと胸を撫で下ろす。
 そんな夏美をよそに、千鶴は手に持っていた傘を彼女に渡し、雨に濡れてしまう事など気にも留めず、行き倒れの子犬へと近付いて行く。
「しかも怪我してるわ、この子」
「わ、バッチくない? ちづ姉」
 躊躇する事無く、千鶴はその子犬を抱き上げた。
 子犬は前足に怪我をしている。よほど疲れているのか抵抗する様子もない。
「これは、連れて帰って手当てしてあげないといけないわね」
「え、いいのかな〜」
 千鶴の方は傷付き倒れた子犬を見捨てていく選択肢はない。女子寮ではペットを飼う事は禁止されているので夏美は戸惑っているが、本音ではその子犬を可哀想だと思っていたので、強く反対はしなかった。
 夏美が駆け寄って、これ以上濡れないようにと千鶴達も傘の下へと招き入れ、二人はそのまま子犬を連れて歩き出そうとする。
「ちょぉーと待ったぁッ!!」
 しかし、そんな彼女達の前に突然、道沿いの森から飛び出して来た三つの影が立ち塞がった。内一人は何故か箒を持っている。そう、子犬を追ってきた横島、高音、愛衣の三人だ。
 驚いた夏美は思わず千鶴の背に隠れてしまうが、悠然と構えていた千鶴はすぐに三人の内の一人、横島の存在に気付いて声を掛ける。
「あら、横島さん」
「那波さん、ここに子犬来なかっ…た?」
 子犬を探すと言う仕事をしつつも、視線はしっかり千鶴の胸へと行ってしまうのは、哀しい男の性なのだろうか。横島の視線は自然に千鶴の顔から下へと移動し、彼女の腕に抱かれる子犬を見つけ出した。
「子犬って、もしかしてこの子の事かしら?」
「多分、そうだと思うんだが…」
 直接見るのは初めての横島が高音と愛衣に視線を向けると、彼女達は黙ってコクリと肯いた。
 千鶴の抱いている子犬がターゲットで間違いないようだ。横島達が子犬を追っているのは学園長から頼まれた、本来魔法使いの仕事であるため、何とかして事情を説明しないまま子犬を回収しなければならない。
「え〜っと、実は俺達、その子犬を探してたんだよ。返してもらえるかな?」
 何とか誤魔化そうとするが、しどろもどろである。
 修学旅行の時からそうだったが、横島は何故か千鶴に対して強く出る事ができない。
「この子を?」
 眉を顰めて怪訝そうな表情をする千鶴。子犬が怪我をして行き倒れている時点で尋常ではない。それに、三人が息を荒くして森から飛び出して来たのも怪しいし、横島はともかく後ろの高音と愛衣は千鶴にしてみれば初対面の見知らぬ人だ。
 当然千鶴は横島の事は知っている。彼の人となりもある程度は承知しているので、子犬をいじめるような人でない事は知っているのだが、知っているだけに横島が何かを隠しているような気がしてならなかった。どうにも彼の態度が似ているのだ、彼女がいつも世話をしている子供達が何か隠し事をしている時の態度に。
「横島さん、何か隠していませんか?」
「え゛!? い、いや、そんな事はないぞ?」
 態度はそうは言っていない。
 それを見て千鶴は子犬を夏美に預け、何を思ったのかにっこりと微笑んだ。
「本当なの? ちゃんと目を見て言ってみなさい?」
 横島の頭をわしっと掴み、見詰め合う。その口調は子供に語りかけるかのようだ。笑顔なのがまた怖い。
 実際、その態度は彼女が子供を叱り付ける時のそれなのだが、これが横島には効果抜群であった。
 元々、横島は「母は強し」を地で行く母、百合子に対しある種の苦手意識を持っている。根本的に百合子のような強い女性には弱いのだ。
 千鶴はまだ中学生の少女でありながら母親のような貫禄が備わっている。そんな彼女は、横島にとって天敵と言っても過言ではなかった。先程のように強く迫られれば、断ると言う選択肢は彼の中から霧散して消え去ってしまう。
 流石に、まだ意識の端に高音達の存在が引っ掛かっていたため、魔法使いの事情について口を滑らせてはいないが、このままでは時間の問題であるのは間違いない。
「えっと…実はその犬はオカルト、オカルト関係のなんだよ。だから、GSが管理しないといけないんだ。素人が手を出しちゃいけない」
「オカルト、ですか?」
「そう! だから、ささ、俺に預けてみんさい」
 そう言って夏美へと手を伸ばす横島。
 千鶴もGSの肩書きを出されてしまうと、横島が本物のGSである事を知っているだけに嘘と断言する事ができないようだ。彼女の脳裏には修学旅行中にシネマ村で遭遇した騒ぎが浮かんでいる。
「ちづ姉、その話本当かも。ホラ、この子のおデコ、なんかそれっぽい字が」
「あら、ホント」
 改めてよく見てみると、確かに子犬の額には所謂「梵字」が書かれていた。それが決め手となって、千鶴も横島に子犬を引き渡す事を決意する。
 しかし、責任感の強い彼女は、このまま子犬を横島に丸投げして寮に帰る事などはできない。
「横島さん。その子犬、寮に連れ帰るのですか?」
「え、そうだな…とりあえずは連れて帰るかな。怪我してるなら治療してやらんといかんだろうし」
 本当ならば早々に学園長に引き渡さねばならないのだろうが、それを千鶴、夏美に説明するわけにはいかないので彼女の話に合わせて答える横島。
「それなら、私達もお邪魔していいかしら? このまま預けてサヨウナラと言うのも、気が引けるし」
「…え゛?」
 だが、今回はそれが裏目に出た。なんと、千鶴が同行を申し出てきたのだ。
 横島達は子犬を回収したい。千鶴は拾った子犬の面倒を人任せにせずに自分でみたい。ならば、千鶴達も子犬と一緒に横島と共に行けば全てが解決する。横島達は困るのだが、魔法使いの事情に関わる事なので、それを彼女達に伝える事はできない。
「いいですね?」
「…ハイ」
 千鶴の威圧感ある笑顔に、横島は屈した。
 横島の寮に行くと言う事は、男子寮に行くと言う事だ。夏美は気が進まないようだが、千鶴が止まらないため、溜め息一つついて承諾する。諦めたとも言う。
 また、高音と愛衣もこの展開には色々と言いたい様子だったが、子犬を無事回収出来た事は変わらないのだから、ここまで来てしまえば魔法使いではなくGSに関係する話として押し通した方が良いと考え、黙って横島の判断に従うのだった。

 こうして五人に一匹となった一行は、横島に連れられて麻帆男寮の門を潜る。
 ここは麻帆良男子高校生徒のための寮であり、アスナ達の住む寮と違い木造の趣ある建物だ。四人の少女達の顔がどことなく引きつっているように見えるのは、麻帆男寮が女子寮に比べよく言えば古色蒼然、歴史を感じさせる古めかしい建物だからであろう。
「転入生が女連れで帰ってきたぞ!」
「なにぃーっ!?」
「しかも四人もだッ!!」
「憎しみで人が殺せたら…っ!」
 横島が玄関に入ると寮は大騒ぎとなり、大勢の寮生達が集まってきた。
 当然、この寮に住んでいるのは男子高校の生徒、男ばかりだ。このような場所に高音を始めとして愛衣、千鶴、夏美を連れて帰ればこうなるのは必然である。
 愛衣と夏美は男達の勢いを恐れて、それぞれ高音、千鶴の背に隠れてしまった。
 何とか部屋に戻ろうとするが、人垣が出来てしまって前に進む事すら難しい。横島一人ならば掻き分けて強引に進むのだが、流石にこの中を高音達に進ませるわけにはいかないだろう。
 どうしたものかと横島が頭を悩ませていると、丁度そこに山下と中村の二人が帰ってきた。
 二人は横島を見失った後、彼がいつも居ると言う世界樹前広場に行ったが、そこでも見つける事ができず、雨が降り始めたため、仕方なく寮に戻ってきたところだった。
「忠夫ちん、こりゃ一体何の騒ぎだよ?」
「説明は後だ、皆を俺の部屋に連れて行くから手を貸してくれ」
「レディのためとあらば断れないな」
 問い掛ける中村に高音達を部屋へと連れて行くのに協力してくれるよう頼むと、フェミニストである山下の方が先に協力を申し出てくれた。勿論、中村の方にも異論はなく、横島、山下、中村の三人で壁となって人垣を掻い潜り、高音達を横島の部屋へと連れて行く。
 人垣は部屋の前までついて来るが、横島は全員が部屋に入ると容赦なく扉を閉めた。

「あら、意外と片付いているのね」
「一人部屋だし、あんま使ってないからな」
 部屋に入って、まず高音が一言。どんな部屋をイメージしていたかはあえて聞かないでおく。
「それよりも横島君、説明してもらうぞ」
「ああ、その前に…っと」
 説明を求める山下を制して、横島はタンスからタオルを出して高音達に渡す。また、床にも大きめのタオルを一枚敷いて、そこに子犬を横たえた。
 愛衣と夏美がタオルを手にキョロキョロと部屋を見回し続けている。初めて入った横島の部屋が珍しいのかと思えばそうではなく、彼女達は男性の視線があるのは恥ずかしいと、扉に隔てられたシャワールームを探していたのだ。と言うのも、彼女達の女子寮には各部屋にシャワールームだけでなく、キッチンも備え付けられているのだ。言うまでもない事だが、古い木造の建物である麻帆男寮に、そんな贅沢な物は無い。
 ちなみに、高音と千鶴は視線が平気なわけではない。外観を見た時から、この寮の部屋には備え付けのシャワーなど無いだろうと察していただけである。
「なぁなぁ、忠夫ちん。このわんこは?」
「ああ、GSの仕事でな、そいつを捕まえたんだよ」
 横島がその仕事を依頼され、GSの仕事で子犬を捕まえた。高音と愛衣の二人は子犬の発見者であり協力者、あくまで一般人とする。横島はこの嘘で押し通す事にした。
「へぇ〜、迷子犬の捜索とかもするんだ。探偵みたいだな」
 中村はその話を信じたようだが、微妙に勘違いしている。
 一方、山下は流石に冷静に子犬を観察し、額の梵字に気付いて、指でなぞった。
「ん…?」
 そこで山下は違和感に気付く。
 直接書かれていると思われた梵字が指に障るのだ。これは何かを貼り付けている。
「横島君、何故君にそんな依頼が? この剥がせそうな文字に関係があるのかい?」
「いや、俺もまだ正体は…って、何だって?」
 横島も、この子犬の正体に関しては全く知らない。その文字は正体を掴む鍵になると、横島は身を乗り出して子犬の額を覗き込んだ。そっと指で触れてみると、確かに違和感がある。まるで貼り付けたシールか何かを触っているかのような感覚だ。
「分かるか?」
「多分、陰陽術の類だと思うけど…俺も専門外だから分からん」
 そう言って横島は梵字を指先でちょんと突いた。
「「!?」」
 直後、横島と山下の目が驚きに見開かれた。
 その程度では何も起こらないと思っていたのだが、横島が突いた途端に額の梵字が一枚の札となって額から落ちたのだ。その札は長時間雨に打たれたせいか水浸しになっており、元々剥がれ易くなっていたようだ。これはきっと横島の責任ではない、多分。
 思わず二人して身構えるが、突然爆発するような事はなさそうだ。
「よ、横島君、これは一体…」
「なんだこりゃ…」
 それどころか横たわった子犬は、彼等の目の前でみるみる内に人間の少年、犬上小太郎へと変わって行く。ただし、元が犬だったためか、頭の上に犬の耳のような物が残っている。
 また、犬だったのだから当然と言えば当然なのだが、その少年は全裸であった。
「お兄様、どうかしたんですか?」
「い、いや、愛衣ちゃんは見ない方がいい!」
 近付いて来た愛衣を慌てて横島が抑える。流石に純情な少女に裸の少年を見せるわけにはいかない。
 しかし、愛衣にとっては今の状況の方が恥ずかしい。何せ、急に近付いて来た横島にぶつかるように抑えられ、横島の胸に顔を埋めるような体勢なのだから。
「あ、あの、お兄様…」
 しかし、横島は気付いていない。
「はい見ない見ない。山下、とっととそれ隠してくれ」
「…そうだな、お嬢さんには目の毒だ。中村君、毛布を取ってくれないか」
「ん、わんこ寒そうか?」
 ベッドに腰掛けていた中村が毛布を取って投げ渡した。それを受け取った山下は、少女達には目の毒と小太郎の身体を隠すように毛布を掛けようとする。
 しかしその瞬間、うつ伏せの状態で倒れていた小太郎がカッと目を見開いて跳ね起きた。
 周囲を見回し、自分がどこかの部屋の中に寝かされている事を認識し、また周囲の人間に見覚えがない事を確認すると、自分が一糸纏わぬ姿である事など構う事もなく山下を蹴倒し、身を翻して扉へと駆け出す。
「えーっ!?」
 その時、扉の前には居たのは夏美。男達の視線を出来るだけ避けようと端に寄っていたのだが、それが奇しくも扉の前だったのだ。
 夏美は咄嗟に避ける事も出来ずに小太郎と正面衝突してしまい、その衝撃で肺の中の空気が全て吐き出される。夏美はそのまま扉に叩きつけられる様に倒れてしまい、すぐさま体勢を立て直した小太郎は夏美の肩を掴み、扉を背に彼女を盾にして、その首に人間にしては鋭過ぎる爪を突きつけた。
「夏美!?」
「待ちなさいッ!」
 すぐさま駆け寄ろうとした千鶴を、高音が手で制した。
 高音のその瞳は小太郎を睨み付けており、厳しいながらも凛とした美しさを醸し出している。
 魔法生徒である高音にとって、一般人の夏美に危害が加えられるなどあってはならない事。横島が受けた依頼と偽っているが、子犬、小太郎の捕縛は元々高音が受けた任務なのだから尚更だ。
 たとえ後でオコジョにされようとも、ここは夏美を一刻も早く救出するために使い魔で小太郎を打ち倒すべきか。下唇を噛んだ高音がぐっと握り締めた拳に力を込める。
「待て、高音」
「横島君…?」
 すると、千鶴を制していた高音を今度は横島が制した。
 高音は横島に何か考えがあるのかと彼の次の行動を待つが、横島は腕の中の愛衣を堪能しているのか、それとも何かを待っているのか、動く気配がない。
 もう待ってられないと高音が制止を振り切って一歩踏み出そうとしたその時、何の前触れもなく小太郎の背後の扉がガチャリと音を立てて開かれた。
 小太郎はドアノブを回す音に気付いて咄嗟に振り返るが、それとほぼ同時にぬっと入ってきた大きな手が夏美に突きつけていた腕を掴んだ。
「クッ…!」
「事情は分からんが…女性に手を上げるのは感心せんな」
 その手の主は大豪院ポチ。続けて入ってきた豪徳寺が小太郎から夏美を奪い返す。この時豪徳寺は、夏美を人質に取っていた少年が、京都で戦った犬上小太郎である事に気付いた。
「君は、犬上小太郎か?」
「チッ、こなくそッ!」
 人質を奪還されてしまえば、小太郎に残された道はただ一つ。現在自分の腕を掴んで放さない目の前の大男、大豪院を倒して強行突破する事以外にない。
 先程まで夏美を捕らえていた腕で殴り掛かり、大豪院はその一撃をかろうじて腕で受け止める。
 二人はそのまま膠着状態に陥ってしまう。小太郎は持ち前の身体能力で何とか抜け出そうとするが、如何せんウェイトの差が大き過ぎた。大豪院はその大柄な身体を活かして覆い被さるように体重を掛けて小太郎の動きを封じ込める。
 大豪院のおかげで小太郎は身動きが取れずにいるが、それは同時に周囲の横島達が小太郎を攻撃できないようにする盾ともなってしまっていた。小太郎に比べて大豪院の身体が大き過ぎるのだ。
 このままでは誰も手を出す事ができない。
 いっそ更に体重を掛けて押し潰そうかと夏美を千鶴に預けた豪徳寺、顎を押さえた山下、それと中村がじりじりと動き始めるが、それを遮るように横島が大豪院に声を掛けた。
 何か考えがあるのかと大豪院は無理矢理視線だけを横島へと向けると、彼は自分の額を指差す動作を繰り返している。
 暗号、いや、何かのブロックサインか。大豪院はしばし考えを巡らせるが何も浮かばない。更に頭を捻らせ時計の秒針が一周した頃、彼は意外と単純な解答へと辿り着いた。

 ぐっと足に力を込めて大豪院は体勢を整えると、小太郎に掛けられた重さがふっと軽くなる。怪訝そうな表情をした小太郎が何事かと思わず顔を上げ――そして、次の瞬間に決着は着いた。
「ッ!?」
 渾身の力を込めた大豪院の頭突きが小太郎の頭に振り下ろされたのだ。
 小太郎もこれには堪らずもんどり打って倒れる。
「よし、今だっ!」
 豪徳寺の声を合図に山下、中村も合わせた三人が一斉に飛び掛かり、頭を押さえて悶絶している小太郎を取り押さえた。流石の彼も男子高校生、しかも格闘技で鍛えた三人を振りほどく事ができない。
 とりあえず、横島の引越しの荷物の中にあった梱包用のロープで小太郎を縛り上げ、男として裸のままで居させるのは忍びないと、山下が掛けようとしていた毛布で彼を包み、更に横島が妖怪、悪霊の力を抑える札をペタペタと貼っていく。
 小太郎は犬のように唸り声を上げていたが、力を抑え込む札には勝てないのか抜け出す事はできないようだ。
「何とか取り押さえられたな…」
「ところで豪徳寺、さっき『犬上小太郎』って言ってたが、京都の一件に絡んできた、あの『犬上小太郎』か?」
「ああ、間違いないな」
 改めて顔を見てみるが、やはり関西呪術協会総本山で出会った小太郎に間違いない。
 その話を聞いて、小太郎も二人の顔をまじまじと見詰める。やはり横島の方に見覚えはなかったが、もう一人、豪徳寺の方には微かに見覚えがあった。
「もしかして、そのリーゼント…ネギと一緒におった兄ちゃんか?」
「………お前、さては覚えてなかったな?」
 豪徳寺の低い声の問いに、小太郎は視線を逸らすと言う態度で応えた。それが肯定と否定、どちらであるかは言うまでもない。

「あの、横島さん、もう大丈夫…なんですか?」
「ん、ああ、大丈夫だ。それよりも夏美ちゃんは大丈夫か?」
 おずおずと問い掛けてくる千鶴。横島は安心させようと努めるが、その隣に痛そうに頭を押さえた夏美の姿を見つけ、すぐに心配そうな表情に変わってしまった。
「あ、大丈夫です。頭打っただけですから…」
「待ってろ、治療用の札があるから」
 机の中からアスナとの修行でも使っている治療用の札を取り出した横島は、ベッドにうつ伏せになるように促し、言われるままに横になった夏美の後頭部に治療用の札を貼り付けた。更に札に霊力を送り込んで治癒を促すと、痛そうにしていた夏美の表情がみるみると和らいでいく。
「他に怪我をしてる子はいないな?」
「あ、あの、そちらの子が…」
 千鶴の視線の先には毛布で簀巻きにされた小太郎の姿がある。彼が犬の姿をしていた時の、前足の怪我を気にしているのだろう。横島もその事は覚えていたが、治して良いものかどうか判断できずにいた。
 そこで千鶴は更に詰め寄り、横島を説得しようとする。
「ダメですか?」
「あ、いや〜、その〜…」
 前述の通り、横島は千鶴のようなタイプに弱い。
 しかも、詰め寄って来た事で二人の身体が触れ合い、横島は色々な意味で陥落寸前だ。
「なあ、横島。俺からも頼む、治してやってくれんか? 流石に忍びない」
「そうだな! 怪我してるんなら、治してやらんとな!」
 豪徳寺も頼んできたので、横島はここぞとばかりに屈した。
「横島さん、ありがとうございます」
「ハッハッハッ、この横島にお任せ下さい」
 どざくさ紛れに千鶴の身体をぐっと抱き寄せて堪能する事も忘れない。
「と言うわけで、お前も治してやるが…逃げるなよ? あと、麻帆良に潜り込んだ理由もちゃんと説明してくれ」
「わ、分かったわ。俺の知ってる情報も教えたる」
 小太郎の方も、顔見知りと会った事で少しは落ち着きを取り戻したようで、横島の出した条件を承諾。
 横島はロープを解き、毛布の中の怪我をしている腕に直接治療用の札を貼り付けた。
 治療用の札はすぐさま治るわけではないので、ロープから解放された小太郎も、おとなしく毛布に包まってじっとしている。

「詳しい事情は後で聞くとして…その子の服はどうする?」
 山下の言葉に、部屋の中の男性陣一同が顔を見合わせた。
 流石に彼等の服では、小太郎には大き過ぎるだろう。この麻帆男寮は高校生の寮だ。寮中を探してもせいぜい中学生になるかどうかの小太郎に合うサイズの寮生はいない。
「フゥ、仕方ないな…俺が適当に見繕って買ってこよう」
「ハイ! 俺も行くっス!」
 いの一番に名乗りを上げたのは山下だったが、その後に、彼の壊滅的なファッションセンスを知る中村が続く。
 結局は横島、豪徳寺、大豪院の三人を見張りとして残し、山下、中村の二人が小太郎の服を買いに行く事となった。
 愛衣は性格的に微妙なところだが、高音ならば実力的にも十分に見張りは務まるだろう。しかし、魔法使いの事情を知られるわけにはいかないので、ここは遠慮してもらっている。

 山下達が出掛けてしばらくすると、部屋中に大きな腹の虫が鳴り響いた。
 何事かと横島達が辺りを見回してみると、小太郎が真っ赤にした顔を伏せている。どうやらお腹が空いているようだ。
 ベッドの脇で夏美の様子を見ていた千鶴は、それを見てクスッと笑い、立ち上がった。
「横島さん、この寮にキッチンは?」
「えーっと、一階に食堂があるはずだけど」
 かく言う横島は、その食堂を利用した事がなかったりする。
 朝食は登校中にコンビニ等で買い物をして登校してから済まし、昼食は当然のように食堂棟へ。夕食もまた修行のある日はアスナと、見回りがある日は古菲と食堂棟で済ませているので、寮の食堂を利用する機会がないのだ。
「少し、使わせてもらってもいいかしら?」
「あ、ああ、寮生は自由に使っていい事になっているが…」
 その問いには横島では答えられないため、豪徳寺が代わって答える。
 千鶴は満足そうに頷くと、鞄の中から保母のボランティアをする際に着用するエプロンを取り出して、それを制服の上から身に着けた。
「それじゃあ小太郎君、ちょっと待っててね。何か美味しい物を作ってくるわ」
「あ、ちづ姉。私も手伝うよ」
「いいから寝てなさい。横島さん、夏美の事お願いします」
「ああ、任せといて」
 よろよろとベッドから起き上がろうとする夏美を、千鶴はピシャリと止める。
 夏美としては、いつまでも男性のベッドにうつ伏せになって顔を埋めているのも恥ずかしいのだが、更に追い討ちを掛けるように、千鶴がいなくなった代わりに当のベッドの主が隣に来てしまう。
 この奇妙なシチュエーションに夏美は、背中の痛みとは別の理由でグルグルと目を回していた。

 一方、部屋の外でも奇妙な現象が起きていた。
 千鶴が部屋を出た直後から部屋の外がにわかに騒がしくなり、その喧騒は少しずつ遠くに離れていく。
 部屋の中の横島達は疑問符を浮かべ、大豪院がポツリと大勢の足音だと呟いた。
 豪徳寺がそっと部屋の外を覗いてみると、廊下の向こう側に大勢の人が集まり、それが揃って千鶴と一緒に階段を降りて行くのが見える。
「…なるほど」
 それで全てを察した豪徳寺は呆れ顔だった。
 男子寮、男子校ではめったにお目に掛かれない見目麗しい少女達が横島の部屋に入って行ったのを見て、寮生達は当初から扉の前に集まっていたのだろう。もしかしたら聞き耳を立てていた者もいるかも知れない。
 それが今、エプロン姿の千鶴が出てきたため、彼等は彼女を追って食堂へと向かったのだ。
 この麻帆男寮で三年を過ごしても、食堂のキッチンにエプロン姿の女子中学生が立つなど、一度あるかどうかだ。ここで見逃せば二度と見られないかも知れない。
 硬派を自称する豪徳寺でも、彼等が後を追いたくなる気持ちは、男として実によく分かる。痛いほどによく分かる。
 男達の後姿を見送りながら、豪徳寺は何故か溢れ出る涙をそっと拭うのだった。



つづく


あとがき
 山下慶一、中村達也、大豪院ポチが目立ち始めました。
 彼等は原作の描写をベースに色々とオリジナル設定を付け加えて書いております。
 また、麻帆男寮、麻帆良男子高校についても『見習GSアスナ』オリジナルの設定です。ご了承下さい。







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代理人の感想

痛そうだなー。
まぁ、女の子に手をあげた罰って事で。w>小太郎

それはさておき横島ですが、やっぱりこいつマザコンだよねぇ(笑)。
彼のヘタレの部分の幾分かは、ああ言う強すぎる母を持った事に起因するのではなかろうか。
(統計上、母親が強いと息子がヘタレになる確率はかなり高いのは事実)
もとよりヘルマン編では「平手の千鶴」が主役級のひとりだったけど、
この話では横島との絡みで更に目立ちそうだなぁ。w
勿論それが悪いといってるのではなく、むしろイケイケゴーゴーですよ。
麻帆良の横島は割と御兄さんっぽいところが目立っているので、千鶴との絡みで本来の芸風である犬体質が表に出てくるといいなぁ、と思ったり思わなかったり。


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