黒い手 5


 ルシオラの霊破片を手に入れたベスパ達はゲート目前まで迫っていた。
 しかし、ここでパピリオが急にその足を止める。
「パピリオ、どうかしたのか?」
「…ベスパちゃん、私やっぱりここに残るでちゅよ」
「な、なんで!?」
 驚きの声を上げるベスパに対し、パピリオはその幼き外見に似合わぬ大人びた決意を秘めた瞳でベスパを見返すとこう言った。
「だって、3人とも魔界に帰っちゃったらヨコシマが1人ぼっちになっちゃうでちゅよ! そんなの…ただでさえ今のヨコシマは…」
 語尾が小さくなるにつれて俯いてしまうパピリオ。それを見つめるベスパは驚きに目を見開いた。この小さな体の妹がいつのまにか他人を思いやれる程に成長していたのかと。
「…わかった、あいつのそばについててやんな」
「ゴメンね、ベスパちゃん」
 そして、ベスパはパピリオを妙神山に残してゲートを潜り魔界へと帰って行った。
 直後、ゲートは空間の振動を残して跡形もなく消え去る。まるで、もう役目は終えたと言わんばかりに…





「横島さん、しっかりして下さい!」
 一方、横島の寝室にあてがわれた部屋ではいまだ横島の叫び声が響き渡っていた。
 一回り大きくなった横島の右腕は鋭角的で、それでいて硬質の昆虫の甲殻を思わせる。
「小竜姫! お主の竜気を注ぎ魔力を抑え込むんじゃ!」
「そ、それではルシオラさんが…」
「大丈夫なのねー。今の横島さんの体の中にはルシオラさんはいないのよー」
 そう言ってヒャクメは横島の魔族化した腕と人間のままの体の境界線を指差す。
「ここから魔族化してる方に向けて竜気を送って侵食を防ぐのねー。人間のままの方に向けちゃダメだから気をつけるのねー!」
「わかりました、いきます!」
 ヒャクメの言葉を聞くと小竜姫は横島の上着を剥ぎ胸板に手をあて渾身の力を込めて竜気を送り込む。
 しかし、それでも肩口以降の魔族化を防ぐのが限界で右腕は更に攻撃的な形に変化しつつあった。
「そ、そんな…私の力じゃ足りないと言うの?」
「ルシオラは既に分離されたと言うのになんと言う魔力! 迂闊、わしの鍛えた霊力が仇となったか!」
 猿神は理解した。横島が魔力を持ちながら人間であり続けられたのはルシオラの意志だ。ルシオラの意志は横島の人間としての魂の内に潜み、ただ横島を支える事を望んだのだろう。
 しかし、猿神は横島の霊力を鍛えた。その肥大化した霊力がルシオラの魔力を侵食しはじめ、一部横島の魂の中に潜り込んでしまった魔力が魔界での戦いで鍛えられ、そして魔装術に近い《栄光の手》という出口を見つけてしまったのだ。
「ベスパが持ち去ったのは間違いなくルシオラの根源部分、つまりは自意識。今の横島の中の魔力はルシオラという枷を失っている…どうする?」
 このまま魔族化させるか、魔力をすべて消し去ってしまうか…どちらにせよ横島の身は無事ではすまない。
 横島の魂はそれだけ深く魔力を取り込んでしまっているのだ。


 小竜姫の顔にも疲れが見え始めた時、突如部屋にパピリオが踏み込んで来た。
「ちょっとそこどくでちゅよ、小竜姫」
「え?」
「ヨコシマの体の事を解決できるのはヨコシマだけでちゅ」
 そう言って横島の頭を自分の膝に乗せたパピリオは触角から霊波を放って精神へのコンタクトを試みる。かつてルシオラが行ったあれだ。

「ヨコシマ、聞こえまちゅか?」

 その言葉が届いたのか躍動を続けていた横島の右腕がピタリと動きを止める。
 それを確認するとパピリオは更に続けた

「ルシオラちゃんは、ちゃーんとベスパちゃんが守ってくれまちゅよ…それに、私はヨコシマについていてあげまちゅ…だから…」

 スーっと横島の頬を一筋の涙が零れた。


「…だから、寂しがる事なんてないんでちゅよ…」


 その言葉が届いたのか横島の表情がだんだん穏やかなものになっていく。右腕も黒く染まった魔族の物である事は変わらぬが人間と同じ形状にまで戻っていった。










「んー、つまりは横島さんの魔力はルシオラさんが突然いなくなった事にビックリして、オロオロと探しまわってたのねー」
「そんな事があるんですか? なんかかわいいような…」
「まぁ、実際あったからあるのじゃろうて。パピリオの説得ですぐにおとなしくなったしのぅ…問題は、これからあやつ自身がどうするかじゃて」
 横島の右腕によりボロボロになった部屋の片付けも終り、ヒャクメの分析結果も出たが、その結果はある意味「子供の癇癪」と同レベルのものだった。
 それだけ深く愛し合っていたのだろうと思うと色々と考えてしまうのも確かだが、今は種族の壁を越えて結ばれた絆を素直に祝福したい。



「とりあえずは…ほれ、この帯に竜気を吹き込むのじゃ」
「え?」
 猿神は真っ白い帯を小竜姫に渡すが、小竜姫は猿神の意図がわからずうろたえるばかり。
 本当に気付いていないのか、それとも気付きたくないのか…
「それであやつの腕の魔力を抑えると同時に腕を骨折したと見せかけて誤魔化すんじゃ」
「誤魔化すって…誰を?」
 まだ何の事かわからぬ様子の小竜姫に猿神は大きな溜め息をついた。
「あやつの修行はベスパに勝った時点で終っているじゃろうが」
「あ…」
 そう、横島の修行はもう終った。
 目を覚ませば、胸に秘めた決意を果たすためにここを出て行くだろう。
 小竜姫達にそれを止める術はない。

 横島の下山は刻一刻と近付いていた。




つづく


「ヨコシマタダオの件についてご報告いたします。ヨコシマタダオはベスパに辛うじて勝利、その際に右腕が魔族化。これにより…」
「あー」
「…ベスパはルシオラの魂の奪取に成功。パピリオは妙神山に残り、ベスパはルシオラの魂と共に魔界に帰還しております」
「おー」
「…結果として、ヨコシマタダオの魔族化は阻止されたようです」
「とりあえずはなー」
「なお、魔界に帰還したベスパは比較的人口密度の低い場所に居を構え、ルシオラ復活を試みるようです」
「ほっとけー」
「腑抜けてないで、真面目に聞いてください。あの人間が魔族化しなかったという事は貴方様の目的は果たされなかったという事ではありませんか?」
「いまんとこはなー」
「…は?」
「をいをい、ヨコシマの魂が半ば魔族化してるのにはかわらんのやで? 魔力は霊力や竜気とは反発しあう。見とけ、人間であろうとあがいてるうちはあいつの魔力は練磨されていくで? 元々霊的質量が大きいんやからの」
「人間界に残ると言っておりましたが?」
「ルシオラが魔界におる限りいずれ自分から魔界に来るわ、ルシオラ求めて暴れ出すぐらいやからのー。だから言ったやろ? 『手出し無用』やと。あの2人にちょっかい出す阿呆がおったら死なせとけ」
「す、すぐに通達いたします」