「恭介さん、起きてください。朝ですよ」
───うるさいな、誰だよ。オレは眠いんだ、静かにしてくれ。
その声を無視して布団に潜り込むと軽く揺さぶられる感じがする。それが何度か続いたので寝ることを諦めしょぼつく目を擦りながら布団から顔を出した。眩しい朝日を浴び、あまりの眩しさに目をつぶってしまった。
そしてゆっくり目を開くと・・・眼前にあった真紅の瞳と貌に驚いた。
「うわっ!!」
慌てたせいで布団から転がり出てしまう。なんだか顔が熱い。
「どうしたんですか、恭介さん?」
きょとんとした顔をしているオレの大事な女性……〈リース〉。
ルビーのような真紅の瞳、造形・統計学的に整った貌、透けるような美しい銀髪、耳心地の良い繊細な声、彼女が寝間着がわりに着ているオレのYシャツ───その上からでも分かる完璧な体型。
性格は誰にでも親切で優しく、そして物腰優雅。外観はミドルティーンの少女にも関わらず大人の女性の魅力、そう落ち着いた色気ともいうべき物も感じさせる。
そしてマスターと呼ばれる彼女の主には絶対服従。甲斐甲斐しく世話をし、どれほど我が儘を言おうと彼女は穏やか笑みを浮かべてそれを受け入れる。
───仮にこの場で“服を脱いで裸になれ”と言えばリースは羞恥に頬を染めながらも服を脱ぐ。もっともオレはそんな事はしないし、したくもないけど。
そう男の夢や理想、浪漫が完璧すぎるほどの形でこの造られた少女に与えられていた。
人間が分子生物学という名の魔法を使い、無から創りあげた存在。魂のない、神に祝福されざる者たち。その少女がオレの目の前で優しく微笑んでいた。
その笑みは神に愛されない者とは思えないほど慈愛に満ちた表情だった。そう、庇護する子供を見つめる母親と同じ純粋で完璧な愛情。
「り、〈リース〉! いきなり顔を近づけたら吃驚するだろ!」
「え? はい、申し訳ありません」
恐縮したように頭を下げる彼女。別に彼女が悪い訳じゃない、オレを心配して覗き込んでいただけだ。だけどツイ……照れ臭くてこんな言い方をしてしまう。まだ〈レゥ〉と一緒にいる時の癖が抜けないのかもしれない。
人間では有り得ない真紅の瞳や完璧すぎる容姿、性格をもつ事から分かるように彼女は人間じゃない。オレの、渡良瀬恭介の従姉妹と偽りオレが住んでいる県立津久見高校付属、学生寄宿舎・阿見寮で暮らしているレプリスだった。
各国で未だ倫理的な問題から認可されていない存在、だけどすでに日本名は決まっていて甲種人型生命体と呼ばれる人型の人造生命体。
オレのアニキ、渡良瀬恭平が言うにはレプリスは次世代社会活動補助装置、小難しい単語を使うならそういう目的で作られている。簡単に言えば人間を幸せにする為のパートナーとして存在しているそうだ。
基本的には不足しがちな介護や医療機関での雇用、もしくは分子生物学を応用した生体間拒否反応の全くない臓器移植の為の素材。とにかく用途はさまざまなれど人間の為に存在している生命体だった。
そうそう、〈リース〉の事ばかり説明して自己紹介がまだたった。オレは渡良瀬恭介、津久見高校に通う高校2年生でこの阿見寮で一人暮らしをしている。
「どうされたんですか、恭介さん。私の貌をじっと見つめて」
オレの視線を受けてほんの少しはにかむ顔。
その綺麗な顔をじっと見つめ物想いに耽っているオレを心配してか彼女が声をかけてくる───オレは目の前にいる実用試作型レプリスPmfh-000002、通称〈リース〉のレプリスマスターだった。個人的にはリースを物扱いしたくはないけど説明ではしょうがないと割切るので勘弁して欲しいんだ。
「ん、なんでもない。さあ朝メシに行こう、〈リース〉」
「はい、恭介さん」
そして彼女の顔に浮かぶ人間と寸分の違いもない優しい笑み。この反応がプログラムによる擬似的な感情表現とは思えないほど柔らかで優しい笑みだった。
オレは起き上がって大きく伸びをする。ついでに欠伸も出た。〈リース〉も部屋の外に出る為に着替えはじめる。昨夜は聞き上手な彼女を相手に話し込んでしまい、たえさんの部屋に戻らずオレの部屋に泊まったんだっけ。
あ、言っておくけどヤマシイことは何もしてないし、着替えている間はちゃんと後ろを向いていたんでアシカラズ。
レプリスである彼女、しかも日本では、というか世界中で倫理的な問題で無認可、非合法な存在───〈リース〉がなぜオレの元にいるのか? まずそれから説明しなきゃいけないかもしれない。
オレの父・渡良瀬恭一は米国で米国・英国・日本・中国など先進各国から融資を受けて作られた合同出資会社タイレル・バイオ・コーポレーションの責任者であり、レプリス開発の第一人者。そして家庭を放り出しレプリスの開発に一生を捧げた人間だった。
母さんは幼い頃に死別しているので顔もぼんやりしか覚えていない。オヤジがより研究に没頭するようになったのは母さんが死んでからだった。それも行き着くところまで行き家族を放り出して海外に移住してしまった。
だからオレは先に出てきたアニキ、渡良瀬恭平に育てられたと言っても良いかな。そのアニキも大学を卒業、そしてオレの高校進学と同時に渡米しオヤジの研究・レプリスの研究開発を手伝っている。数少ないオヤジとの会話から分かった事はアニキはとても優秀な技術者らしい。
一人になったオレは全寮制の津久見高校に入学し自由気ままに、そしてちょっぴり退屈でアンニュイな学生生活を送っている───こういった家庭環境なのでオレにとって“家庭”や“家族”というものはすでになく、オヤジやアニキ、そしてオレを含めお互いが納得した上で渡良瀬家は一家離散していた。
そしてことの始まり───緑萌ゆる季節、騒がしい五月の幕開けだった。
My Merry
May
“蝉 時 雨”
─ Lease, after that ─
Vol. I
(1)恋人という名の……妹!?
せっかくのGWなのに何もやる事がなく、あまりの退屈さに(レポートがあったがそんなものは無視)“なんか面白いことない?”とアニキにメールした後に届いた航空便。送り主はアメリカにいるオレのオヤジからだった。
“家庭”や“家族”を放棄していたと思っていた(オレ主観だけど)オヤジが何を思ったのかいきなり送りつけてきた大きな荷物。寮にあったリヤカーじゃなければとてもじゃないけど部屋に運べないほど重かった。
軽く数ヶ月以上連絡のないオヤジがこれを送りつけてくる理由に思い当たる節はなかった、あるとすればアニキへのメール。
何とか部屋に運び込み厳重に梱包された木箱を開けて出てきた物、いや出てきたのはなんと水槽に入った少女だった。
他人にたいして“なにか面白いことない?”と聞いていたオレだったけど、さすがにこの現実離れした光景に頭痛を覚え、習性のようになってしまったいつもの方法、“現実逃避”を行う為に遊びにでたんだ。
そう、何かしらの変化を求めながらオレは怖くなって逃げ出したのだ───現実にあることすら逃げ出す弱虫だった。
深夜に帰宅して見た光景はやっぱり変わらず、無視して寝ようと思ったが寝れるものではなかった。あまりにも非日常的な光景に精神が失調している。そしてようやく現実を見る気になって付属していたマニュアルを引っ張りだした。
カプセル状の水槽内にぷかぷかと浮かぶ彼女はオヤジの生涯をかけた研究の集大成───人型人工生命体レプリス。
マニュアルを見てその事をようやく思い出した。オヤジやアニキの仕事にまったく興味をもってなかったのでほとんど忘れていた。あのオヤジが罪滅ぼしでこの子を送ってくるとも思えず、しばし思考したがバカなオレには結論が出ず、替わりに知恵熱が出そうなので止めた。
ひとりぼっちのオレへの罪滅ぼしということで思考をまとめ水槽をじっと見つめた。彼女は胎児のように身体を丸めている。その顔にはうっすらと微笑が浮かんでいた。すごく可憐で透き通るような肌をもつ身体は触れると折れてしまいそうな、繊細と言って良いくらい華奢だった。
(この娘がもし目を覚ましたらオレに微笑んでくれるのかな)
そのことを想像したらこの子と心を通わせてみたいと思わずにはいられなかった。起動したこの彼女と2人で楽しい人生を送る。その想像をした途端、何かがオレの中で変わった。
そして彼女を───起動した。
なんだかんだ言いながら、いや納得したような振りをしながら家族という“絆”がないオレは───今考えると……やっぱり寂しかったのかもしれない。さまざまな事を共に経験し幾つもの季節を一緒に過ごし、そして“おかえりなさい”と言って優しく出迎えてくれる存在を欲していた。
それが〈リース〉の姉とも言えるPmfh-000001、オレが名付け親になった〈レゥ〉。
透明感があって、可憐で優しく微笑んでくれる少女をイメージした名前だった。
ところがオレの願いを砕くような事が起こった。魂なき、神に愛されざるモノを得ようとした罰なのか。
〈レゥ〉は初期起動終了寸前に起こった突然の落雷(トラブル)で設定をしていたパソコンがダメージを受け、初期起動が失敗し生まれながらにしてバグを抱えてしまった。
そんな〈レゥ〉は目覚めてみると……まるで赤ん坊のように泣きだした。激しく泣きじゃくり言葉も理解できない〈レゥ〉に途方に暮れたオレはアニキに救いのメールを送ったんだ、“助けて”って。
すべてを投げ出したくなったがここは男子寮、女性の泣き声が聞こえたらなにを思われるか分かったものじゃない。何とか〈レゥ〉を宥めて泣きやませた。
ようやく言葉の通じた彼女の第一声は“おなかすいた”。オレは〈レゥ〉とコミュニケーションが取れる事に狂喜した。
(これで〈レゥ〉と楽しい日々が送れる)
そう思い、そしてなにかご飯を食べさせる為に食物を手にいれようと部屋を飛び出るオレに彼女は・・・〈レゥ〉はオレのことを呼び止めた。
「はやくかえってきてね────」
“恭介さん”や“マスター”ではなく……
「おにいちゃん」
────そう呼んだ。
(え……おにいちゃん?)
「って……なんですと────ッ!!」
ある趣味を持つ人間にとっては燦然と輝き、感涙するであろうその呼び方にオレの───可愛い彼女と楽しい恋愛という野望は木っ端微塵に吹き飛んだのだった……マヂですか。
(2)スタート
オブ メイ
原因はやっぱり初期起動の失敗で〈レゥ〉は万事無能な、言い換えると何も知らない子供として起動してしまったんだ。本来だったら〈リース〉のような、たおやかな少女として生まれるはずだったのに。外見はミドルティーンの美少女、中味は幼児というギャップは凄まじかった。
そこからのオレは世のヤンママも真っ青になるくらい〈レゥ〉の育児に奔走……いや保護者としての生活を送る事になった。
世の中は折しもゴールデンウィークの真っ最中、つき合っている彼女もいないのに何が悲しくて17歳の若い身空で育児に青春を捧げなければならないのか……そんな事を考えながら。
でもオレはそんな〈レゥ〉の相手をするのは嫌ではなかった。自分が親から構われずに育ったこともあって〈レゥ〉の立場に同情したのかもしれない、とにかく彼女の相手をして寂しい想いをさせたくない、そんな気持ちだった。
だけど現実は甘くない。
よく考えてみると問題は山積みだった。〈レゥ〉の住む場所・服・食事、つまり衣食住の問題があった。そして幼い彼女の教育。まず問題は自分の住んでいる場所が学校の寮だという事。
もし見つかった場合は従姉妹を預かったと偽っても───当たり前のことだけど幾ら従姉妹とはいえ女性との同棲が許されるはずもない。おそらく〈レゥ〉は追い出されるだろう。
それに寮母代理のたえさんは男女関係にとても厳しい。もっともあの女性の場合、多分にやっかみが含まれるんだけど。
ついでなんでたえさんの事も説明しとこう。杵築たえさんは先にも言った通りこの阿見寮の寮母代理(彼女の母親が寮母さんで今は病気で休んでいるので)で、現役の女子大生。困ったことにお酒と合コンが大好きな少し大人な女性だ。
合コンに行った場合、ほぼ間違いなくオレの部屋にやってきてロクな男がいなかったと愚痴をこぼす。そしてその愚痴を延々と聞かされるハメになるオレ。
最初の時など彼氏に振られたことを小1時間ほど聞かされ、無理やり同意させられた上に、部屋で眠ってしまい二日酔いの彼女を背負ってこの寮の2階、オレの部屋の真上にある彼女の部屋までおぶって連れて行ったのだ。
───だったら行かなきゃ良いじゃないですか。そんなに彼氏が欲しいんですか?
というオレの問いに彼女は
───あったり前じゃない! 人はね、一人じゃ生きられないからよ。
彼女はそう冗談半分交じりに答えた。なんだか都合の良い答えだと思ったけど黙っていた。酔っ払いの言葉じゃなければ少しは感動したのかもしれないけど。
それ以来オレの部屋で酔い潰れる彼女を背負って部屋へ連れて行き寝かせる───寮内ではすっかりオレの義務として定着している。
(……まあ誰も酒乱に関わりたくないよな)
朝、たえさんが気合を入れた格好をしていると友人や他の寮生たちはオレに向かって“ご苦労さま”“ご愁傷さま”“お勤めご苦労さま”などと声をかけてくる。こっちは知りたくなくても合コンがあると嫌でも分かってしまうのだ。結局、オレは彼女が来るのを待つハメになる。
ま、たえさんとはそういう女性だった、でも悪い気はしてない。世話になっているのもあるし、オレがお人好しだからなのか、それともたえさんに何かしら特別な感情を持っているからなのか───分からなかったけど。
さて、たえさんのことは置いといて。
最悪、〈レゥ〉をオヤジの元に送り返すか、オレが寮を出て〈レゥ〉と一緒に暮らすかの2つしかない。とり合えずこれは大きすぎる問題なのでおいとこう。
次に服の問題はオレが買いにいけば問題なかった。本当なら〈レゥ〉が買いに行けば良かったのだが、お金の存在も知らない精神年齢幼児レベルの彼女には無理だった。
仕方がなくオレが買いに行くしかなく、衣類ショップ・モノクロで幼馴染の榛名ひとえにばったり会ってしまい慌てる事になった。
ひとえは近所に住んでいた女の子で小さい頃からオレの遊び相手だった。アニキと一緒に遊ぶ事も多く、3人一緒に育ったといっても過言じゃない。いつもツルんでいたから級友たちから変に誤解されて付き合っているんじゃないかと勘ぐられたり、茶化されたりしたが事実は異なっていた。
そんな身近な関係だからこそひとえには異性という意識が持てず、ただの友達以上、恋人未満という間柄だった。より事実に近い言葉を選ぶなら何でも言いあえる“親友”って言って良い関係だと思う。
そんな関係のひとえに〈レゥ〉のことを相談しても良かったのだがイベント大好き、トラブルメーカーの彼女ではそれこそ秘密の保持が難しいと思い相談相手から外したのだ。
何よりも〈レゥ〉がレプリスである───その事実だけは何としても知られる訳にはいかなかったから。
よりにもよってその彼女に出会ってしまうとは。そんなひとえの勘はやたら鋭い。特に買ったものが女性物の下着をはじめとする服装一式ならオレが慌てざるを得ないのも仕方がないだろう。結果的にひとえに買った物がばれてしまい大きな誤解を生む事になったんだけど。
そして後から知った事だがモノクロにはもう一人オレの友人がいた。名は萩本亮。親友いや、悪友と言った方が良い人間だ。
あまり社交的とは言えないオレの数少ない友人で、出会いはありきたりな、席が前後だったからだ。話をしてウマが合いツルんで遊ぶようになった。
亮の外観は茶髪ロン毛で色黒、軽薄な口調と相まって今時のナンパな若者という印象を与えているけど、実は意外に硬派で義理堅かったりする。
確かに女の子を良く口説いてはいるけど、口説き落とす事が目的ってより彼女たちとウィットに富んだ会話を楽しんでいるような感じだ。おまけに外面から与える印象、“軟派で軽薄な萩本亮”を演じることで人生を楽しんでいる節があった。まったく偽悪趣味というかなんというか。
そしてもう一つ、ヤツの良い面はお気楽さだった。自他の悩みを笑い飛ばす前向きさと明るさを持っている───オレが悩みやすい人間だからか、亮のそんなところにも惹かれたのかもしれない。
コイツがオレに女装趣味があるという噂を流したおかげで学校内では変な目で見られたが、亮を使って何とか疑いは解けた。まったく、何考えているんだか。
食事に関して〈レゥ〉はあまり味に頓着しないのでコンビニ弁当やパンなどで代用できる。この学校は全寮制なので食事も自炊、または食堂で食べられる事になっている。本当なら食堂で2人で食べるのが一番良いのだが、オレ一人だけ食べるのは嫌だった。やっぱり2人で揃って食べたかった。
そして問題の教育。これはテレビを見せることである程度の知識は得る事が出来る。あとは表に遊びに連れていっていろいろな事を教えれば大丈夫なんだけど、やっぱり見つからないように出るのは難しく、部屋でテレビばかりになってしまう。
レプリスである〈レゥ〉の吸収力は凄く、お気に入りのもこもこしたキャラが出ている中国語講座を見ていただけで自然と覚えてしまった。
ようやく外に遊びに出た時、たまたま声をかけてきた中国人のおばさんと会話が出来てしまったんだ。もっともこれは偶然でおばさんの質問が講座の例題と同じ質問だったからなんだけど。それでも凄いと思う。
食事はファミレスだったけど〈レゥ〉の注文したものは“おこさまランチ”。少なくてもミドルティーンの少女が注文するような物じゃないのは確かでウェイトレスに奇異な目で見られた。
そりゃ傍から見れば恋人同士にも見えなくもない年頃で、お子様ランチ。できれば相手はオレじゃない時にしてもらいたかったけど、〈レゥ〉はとても満足しているようなので苦笑するしかなかった。
さまざまな問題を何とかクリアして数日過ごせたが土台、学生寮で人知れず育児なんてものは無理な訳で。深夜、少女の泣き声が聞こえるという幽霊騒動でひとえや亮、そして亮の彼女である吾妻もとみちゃんに知られる事になってしまった。
皆の協力を得て何とかやれそうだと安堵した矢先にたえさんにもばれてしまう。まあ彼女の部屋はオレの部屋の真上な訳で……夜泣きした〈レゥ〉の声が聞こえない訳がなかったんだ。ただでさえボロっちい阿見寮じゃ防音なんてものは備わってないしね。
追求され見つかってしまい追い出されると思った〈レゥ〉はたえさんの前で大泣きしてしまう。怒鳴ることしか出来なかった俺だったが、たえさんが優しく〈レゥ〉をあやしているのを見てオレは初めて彼女がまっとうな女性に見えた。
〈レゥ〉の“おにいちゃん”という言葉で彼女を連れ込んでいるという誤解は解け、預かった従姉妹として理解してもらった。そしてたえさんの機転で2部屋続きの管理人室の1部屋を貸してもらえる事になった。
こうして〈レゥ〉は寮母代理であるたえさんのお墨付きを得て晴れて阿見寮の一員になることが出来た。部屋こそ別になったものの〈レゥ〉はオレにまとわりつき様々な事件をおこしていく。そしてオレはそれに巻き込まれた。
〈レゥ〉とのお付き合いを巡って亮と行った三本勝負、川原ですっ転んでびしょ濡れになったり。風邪を引いたオレを看病しようとして氷水をぶっかけさらに悪化させたり。ヤのつく職業の方に喧嘩を売って慌てて逃げ出したり。オレに我が侭を言って開いたお誕生会。元気な〈レゥ〉を少しはおしとやかにしようと行った“レゥ改善計画”。
次々とそんな出来事が起こったがオレは〈レゥ〉の事が嫌いになれなかった。むしろ喜んで彼女と一緒に過ごしている。保護欲からかおかげで今まで怠惰に生きてきた時よりはるかに多く自分で自分のことを決め生きていた。
そして〈レゥ〉も様々な経験を積むたびに成長していく。オレたちは───成長していたんだ。
〈レゥ〉はレプリスから人間として、何も知らなかった幼子から一人の少女へ。オレは何も考えないバカな高校生から一人の男へ、そして大人へ。生きている年数は違ったけどオレたちは一緒だった。
お互いがお互いを支えあい成長していく、自分のことは自分で考え、自分のことを決める人間になるために。
何も知らない無知なものからお互いを認識し慈しむ心を。何も知らずに世界を構成する小さな要素として生れ落ちた彼女を導き、護ってやらなくちゃ───その無意識の責任感がオレを変えたのだろうか。
そして人とのつながり。大事な“ともだち”、大事な“妹”、大事な“おにいちゃん”。かけがえのない“大事な家族”と“絆”を。
────天真爛漫な〈レゥ〉。
彼女は寮にいるみんなに愛されていた。ちょっと子供っぽいけど明るく誰にも優しく、誰に対しても自分を偽らずに生きている〈レゥ〉。そこに居たのは心を持たないレプリスなどではなく一人の人間だった。
そんな彼女を兄として見守るオレ。いささか度が過ぎて“兄バカ”だったりしたがオレ自身仕方ないと思っている。なんせ心を宿しているとはいえ〈レゥ〉がレプリスだという事実は変えられない。
これだけは絶対に知られる訳にはいかない。そして秘密を護るには他人との深い接触をできるだけ少なくするしかなかった。オレは〈レゥ〉に対等の友達を与えたいと思いつつもなかなか上手い方法が見つからなかった。
そんな時だった。たえさんの知人を紹介された───中学生、結城みさおちゃん。無口で大人しい少女だった。なんとはなくだが彼女は自分に似ていると思った。
最初は〈レゥ〉ともギクシャクしていたみさおちゃんだったが、天真爛漫な〈レゥ〉に絆されたのか次第に仲良くなっていく。
そして恐れていたことが起きてしまった───普段は真紅の瞳を隠す為につけていた特殊コンタクトが転んだ拍子に外れ、みさおちゃんに〈レゥ〉がレプリスだとバレてしまったのだ。レプリスの存在はニュースでも報道されており彼女が知らないとは思えなかった。
すぐさまみさおちゃんの自宅に行き〈レゥ〉がただのレプリスではないことを、心をもった人間と変わらない存在であることを説明したけど彼女は認めてくれなかった。
頑なに拒むみさおちゃん。何がそうさせているのかは分からなかったけど、ただ分かっているのは〈レゥ〉が大事な大事な友達を失ったということ。
オレは力なく帰宅しオレの部屋で脅え震える〈レゥ〉を抱きしめ慰めた。それ以来少し元気のなくなった〈レゥ〉は変わらずに過ごしていたがオレには少し変わったように見えた。
(3)2人のレプリス
そんな時だった。アニキが〈レゥ〉のそっくりさんを連れて来日したんだ。何しに来たのかアニキに問うとユーザーサポート、出張診断、修理もしくは新品交換ということだった。あの起動の直後にアニキに送ったメールの結果だった。
そう、バグを抱えた〈レゥ〉の修理もしくは連れているお行儀の良い〈レゥ〉と交換するというのだ。すでに人間として、妹として認識していたオレは〈レゥ〉を研究者の視点で見てモノ扱いするアニキに反発した。
「〈レゥ〉をモノ扱いするなよ!!」
アニキが連れてきたこのお行儀の良い〈レゥ〉こそがバグなどない本物のレプリスPmfh-000002、〈リース〉。
そして〈レゥ〉が送られてきた本当の理由、それはモニターテストだった。
次世代社会活動補助装置としてレプリスを運用管理し、人間社会を今よりも豊かに幸せに暮らすためのモニタリングを行っている。そしてオマエがどのように運用しどこでトラブルを起こすかを検証する───アニキはそう説明した。
修理や交換を拒むオレにアニキは提案を持ちかけてきた。自分が帰国するまでに2人のレプリスと一緒に過ごし〈レゥ〉か〈リース〉のどちらか良い方を選ぶように言ってきた。
でもオレにはそんなこと聞かれるまでもなかった。今まで一緒に生きて共に成長してきたのは〈レゥ〉だったから。
そして〈レゥ〉を選んだ場合は、モニタ期間が終わっても勝手に回収しないようにオヤジに交渉してくれる───アニキはそう約束してくれた。常にオレの心配をし優しいアニキ。
「オレがお前に一度でも嘘をついたことがあるか?」
我が侭を言い押し通して受け入れて合わせてくれたアニキの優しさに安心した。
そしてもう一つの目的。オヤジが心配していると。オレがちゃんと成長しているかどうか確かめにきたそうだ。それに関しては心配ないと思う、〈レゥ〉と一緒にオレは成長しているから。
* * * * *
アニキには〈レゥ〉のバグ調査をする為に一緒に過ごす事になり、必然的に〈リース〉がオレの相手をする事になった。彼女はとてもおしとやかで我が侭を言わず、いつでも優しくて一緒にいると楽しく安心できた。
〈レゥ〉と同じ顔をしているのもあったと思うけど自然に話せた。妹レゥには感じなかった暖かさというものを感じた。それは妹に対する暖かさではなく女性に、異性に対する心地よさ。
オレから上着を受け取った〈リース〉は呟くように言う。
「こうして見ますと、恭介様の背中はとても広いのですね」
「いや、オレなんてアニキにはかなわないよ」
〈リース〉は上着をそっとハンガーにかけるとオレの方を向いてにっこりと微笑む。
「恭平様には恭平様の、恭介様には恭介様の良さがあります」
その言葉にドギマギとしてしまった、声がかすれた。
「……そんなことは」
「私、恭介様の背中、好きですよ」
そんな言葉を〈リース〉は平然と言う。それは〈リース〉が〈レゥ〉と違って完璧だから。人間の心を幸せにする為に作られた“レプリス”として。
そう分かっていてもオレの顔は赤くなって言葉に詰まり、その言葉がうれしかった。
(だから男はバカだと言われるんだろうか?)
そんなことを考えつつ掃除をはじめた〈リース〉をじっと眺めている。彼女はオレの理想を具現化した存在だ、バグさえ起こらなければ〈リース〉がオレの理想の女の子〈レゥ〉になっていたのだから。
そしてオレも〈レゥ〉が来てからの急激な変化に疲れていたのかもしれない。〈リース〉の心地良さにどんどん惹かれていった。
大事な妹〈レゥ〉と一緒に過ごす時間は減り、〈リース〉と過ごすことが多くなった。一緒にデートすることになった時には〈レゥ〉が居たので慌てて否定したが、全てを見通したような顔をしたアニキが一言。
「そういうことにしておいてやるよ」
慌てて掃除の礼だと理由を説明したけど相手にしてもらえなかった。
「言い訳はいいから。今日はオマエの部屋を借りるぞ」
「〈レゥ〉は一緒じゃないの?」
「もちろんいっしょだよ。おにいちゃんはリースちゃんといっしょにおでかけでもしてくればいいじゃない」
アニキの後ろに隠れていた〈レゥ〉はすっかり拗ねているし。
「じゃあ行こうか、〈リース〉」
「はい」
とっても嬉しそうな〈リース〉の声は逆効果だったようで・・・。
「ふん……いいもん!」
* * * * *
初めての〈リース〉とのデート。恭介“様”を止めてもらい恭介“さん”に、堅苦しい言葉使い変えてもらった。ゲームで連勝を続ける〈リース〉が注目を浴び、ギャラリーに囲まれたゲーセンから逃げ出す時には彼女の手をとった。
彼女の手は暖かくて気持ちが良く、離す気にはなれなかった。
「次はどこに行きたい?」
「どこでも」
笑顔と共に予想通りの答え。それは〈リース〉がレプリスだから。
彼女の行動がプログラムされた反応、決められた言葉に決められた対応をする機械仕掛けの人形であったとしても……あまりにも自然だった。
〈リース〉がレプリスだという事を知っているオレでさえ彼女が実は天然少女なだけじゃないかと疑ってしまうくらいの。
そう考えるともし彼女がレプリスであることを認め、自分がその彼女に心を寄せているという事を認め、気にしなければ───彼女と人間はどういう違いのあるのか?
レプリスの虚構が一生貫けるのならそれは真実になるのかもしれなかった。そして〈リース〉はその虚構を貫けるだけの存在だった。
オレは〈リース〉のレプリスらしい反応に違和感を感じている。〈レゥ〉と一緒にいた時間が長かったせいか、決められた反応をきちんと返してくる彼女に無機質を感じている。〈レゥ〉のようなぶっとんだ意外性と楽しさもなかった。すっかりアイツとのトラブルに馴らされてしまったのかもしれない。
〈レゥ〉と一緒に居ると良いことばかりじゃなかったけどその意外性が楽しい。
だけど……同じ顔の〈リース〉といると落ち着き安心でき胸が暖かくなった。それは彼女がレプリスであるという違和感すら駆逐するほどの魅力。
オレからすると〈レゥ〉と〈リース〉の存在は二人で一人なのかもしれない。アニキには釘を刺されたけど……できれば両方とも一緒にいたい、それが正直なオレの気持ちだった。
(実はオレって気が多いのかな。〈レゥ〉も〈リース〉も欲しいなんて)
ファミレスで華やかに笑う〈リース〉を見ながらずっとそんな事を考えていた。
* * * * *
〈リース〉と一緒に帰宅したオレをアニキが訝しげな表情で見ている。
「どうした、デートは楽しくなかったのか?」
「デートデートって。楽しかったけど・・・なんで?」
「うかない顔をしているから」
「……別に」
オレの様子を変に思ったのかアニキは風呂の命令をして支度をしているリースを部屋に戻すと真剣な表情でオレに聞いてきた。その〈リース〉を見て少し不機嫌になった。先ほどまではオレにべったりだった彼女も主マスターであるアニキの前では従順だった。
オレはアニキに嫉妬しているのかもしれない。
「なあ恭介。オマエは〈レゥ〉と〈リース〉どちらをお前の傍に置いておく? 全然決まってないのか?」
膝の上に置いた両拳を見る。右が〈レゥ〉で左が〈リース〉。2人の笑顔が浮かんだ。どちらも大事な存在だった。
「それは……」
「それは?」
オレは2人を抱きしめるように両方の拳をぎゅっと握りしめるとアニキの顔を見た。
「アニキ、ずるい事は分かっているけど……両方は駄目なのか?」
「おいおい、恭介。どちらか一方って言ったはずだぞ」
アニキは呆れたように苦笑し、両肩を大仰に竦めた。
「分かっているよ。でも……オレには〈レゥ〉と〈リース〉、両方の存在が不可欠なんだ」
「不可欠?」
オレはずっと今まで考えてきたことをアニキ向けて話した。たぶんアニキに対して一番本音を言っているんだと思う。今まではどこか遠慮があったから。
「ああ。〈レゥ〉は大切な家族、妹なんだ。そして〈リース〉は……オレが男として安らぎを得る為に」
「どういう意味だ? お前はリースに何を見た?」
「〈リース〉は……一人の女性。彼女といると落ち着くんだ、なんか胸の奥が暖かくなる。たぶん、好きなんだと思う」
「お前も知っているようにアイツはレプリスだぞ?」
オレはアニキの顔を真っ正面から見た。アニキはいつものように真剣な顔をしてオレの話を真摯に聞こうとしている。
「〈リース〉がレプリスとかは関係ないよ、オレは自分の心に正直になりたいんだ。今まで怠惰にそして自分を偽って生きてきた」
────納得したフリをしていても家族が、絆が欲しかったんだ。
「でも〈レゥ〉のおかげで……オレは少しだけ成長できたと思っている。その絆を大事にしたいんだ」
────〈レゥ〉。最初は幼稚なオレの願望から起動した妹、そして今ではかけがえのない、お互いに成長するために必要な存在。
「そしてオレは〈レゥ〉と〈リース〉を……オレの家族として2人が欲しいんだ」
────〈リース〉。彼女のことを考えると胸が温かくなる。〈レゥ〉とは違う意味で。そして同じ顔をしていても〈レゥ〉とは違う一人の女性として。
オレの真剣な言葉を聞いてアニキは腕を組みじっとなにかを考えている。そうして視線を宙に彷徨わせた。今までに見たことがない、初めて見る表情だった。アニキらしくない雰囲気、そう“迷っている”ように見えた。
「恭介、お前の言いたい事は分かる。もちろん兄としては勿論だし、男としてもな。お前が成長しているのはここに来て見たから知っているよ」
そう言ってオレの頭をがしがしとかき回し、にやりと笑った。オレはその笑いと含まれて意味に気恥ずかしさを感じ頬が赤くなるを感じた。
「でもな、この問題だけはオレの一存では無理だ。どうしてもオヤジの許可がいるし、その選択肢はないんだ」
「アニキ……どうしてもダメか」
「ああ、こればかりはお前の我が儘を聞いてやれない」
「わかった、我が侭言ってごめん。あ、オレ風呂に行ってくるよ」
はじめてアニキがオレの我が儘を聞いてくれなかった。今までアニキは嘘をついたことはないし、いつでもオレの我が儘を聞いてくれた。もしかしたらと思っていたんだけどやっぱりダメなのか。
オレは内心の落胆と顔を隠すように急いでアニキから顔を背けた。
「すまない、恭介」
本当に申し訳なさそう謝るアニキの声を後ろに聞きながらドアをそっと閉めた。
(4)〈リース〉の鼓動
深夜、寝付けなくて起き出した。無性に外の空気が吸いたくなったので玄関先に行き座って星空を見た。月が煌々と辺りを照らし見慣れた風景が幻想的に見える。涼しい風が吹き少し肌寒かったが熱くなった頭を覚ますのには丁度良かった。
(〈レゥ〉と〈リース〉、オレはどちらを選べば……)
結論の出ない堂々巡りの思考。幾ら考えてもまとまらない、家族か愛する女性か。オレはゴシップ誌で見かけるような命題を今まで大した事はないと思っていた。だけど……いざ自分がその立場になってみると単純に考えていた自分の浅はかさに呆れている。
溜息をついて星空を見上げたその時、後ろから人の気配を感じた。その気配はオレに向けて静かに声をかけてきた。
「恭介さん、このような場所にいては風邪を引いてしまいます」
「〈リース〉、どうしたの?」
振り向くと〈リース〉が立っていた。オレが〈レゥ〉に買ったピンクのパジャマと同じデザインで色違いの青いパジャマを着ている。長い髪は首の後ろで緩やかに留められその先は前にたらされていた。いつものスーツ姿と違ってゆったりとした雰囲気がいっそう彼女の柔らかな表情を際立たせている。
「はい。所用で部屋の外に出た時、足音が聞こえましたので」
「ごめん、手間かけさせちゃったね」
「いいえ、それよりこれを」
何かがそっとオレの肩にかけられた。手にとって見るとオレの上着だった。
〈リース〉はにっこり笑いかけてくる。透き通るような髪が月の光を浴びてキラキラと輝いている。白い肌は大理石のようだった。その姿につい見惚れてしまう───陳腐な表現だけど……月の女神ってこういう感じだろうかと真剣に考えてしまった。
「恭介さん、隣よろしいですか?」
「どうぞ、でもこれって」
オレは自分の肩にかかっているモノを引っ張った。〈リース〉はそっとオレの隣に座ってくる。肩が触れ合うほどの距離。
「恭介さんのお部屋に行ったら恭平様が起きていましたので」
「そうなんだ、アニキ起こしちゃったのかな。ま、いいか、ありがと」
俺たち二人で並んで座りはしばらく黙ったまま風に揺れる木々の音を聞き星を見ていた。ほんの少し触れる肩から〈リース〉の体温が伝わって心地良い。
「恭介さん、私にお話できる事でしたら……お聞きします」
長い髪をかきあげた〈リース〉が真剣な顔をしてオレを見る。その言葉を聴いて話して見ることにした。彼女の未来にも関わることだから。
「〈リース〉もオレがアニキに言われているのは知っているだろ。〈レゥ〉か君、どちらかを選ばなきゃいけないんだ」
「はい。伺っています。恭介さんはご自分の思うとおりに行動されれば良いと思います」
〈リース〉の聞き上手な雰囲気もあり、普段たったら照れくさくて言えないだろう本音を話した。
「そうなんだけどさ、〈レゥ〉はオレにとって大事な妹、そして大事な家族なんだ、ずっと一緒に暮らしたい。〈リース〉は……」
「私は?」
彼女の真摯な瞳がオレを見ている。コンタクトをはめた黒い瞳には優しい光があった。
「〈リース〉は……大事な女性なんだ。これからも一緒に過ごして君を……知りたいんだ」
オレの言葉を聞いて〈リース〉の白皙の肌、頬がうっすらと赤くなった。恥かしげに俯き熱くなった頬に手を当てている。
「恭介さん……そのお気持ち、とても嬉しいです。ですが私は……レプリスです、それでも構わないのですか?」
「いまさら……〈リース〉がレプリスでも関係ないよ。それを言ったら〈レゥ〉だって一緒だよ。たまたま好きになった君がレプリスだったってだけ」
オレの言葉を聞いた〈リース〉が身体を摺り寄せてくる。髪から香るシャンプーの匂いが鼻をくすぐった。長い銀髪がさらさらと流れる。その流れる髪を片手で押さえながら恥かしそうに視線を伏せた。
「恭介さん……」
(……え?)
〈リース〉の顔がオレの顔にそっと近づき……そしてキスをした。
呆然としているオレから彼女はゆっくり身体を離し、はにかんだ笑みを浮かべてじっとオレの顔を見た。
「ありがとうございます。私は……貴方に頼られたいのです。それがレプリスの幸せですから」
〈リース〉は本当に幸せそうに顔をほころばせた。その顔を見てオレも嬉しくなったが、彼女のセリフのままでは少し情けない自分に気が付いた。
「ありがとう〈リース〉。でもそれはちょっと情けないかな。出来ればオレにも頼って欲しいんだけど……ダメ?」
「はい、よろこんで」
満面の笑みを浮かべた〈リース〉の返事を聞いたオレはお返しとばかりに彼女を抱き寄せてキスをする。今度はゆっくりと彼女の全てが分かるように。パジャマ越しに感じる〈リース〉の温もりと身体の柔らかさ、そして髪から発するシャンプーの香り。
それは人に作られたヒト、神に祝福されざる者とは思えない心地良さだった。
〈リース〉の胸に頭を預けると弾力のある双丘の奥からとくんとくんという心臓の鼓動が聞こえた。
一定のサイクルで脈打つ心臓。リースの鼓動が聞えた。彼女は生きている、そしてオレと共に歩んでくれる。〈レゥ〉とは別な意味で大事な女性を確認できたことはオレにとって選択を決定的なものにしたのかもしれない。
「恭介さん。風邪を引きます、中へ入りましょう」
しばらく2人で抱き合っていたがそう言って〈リース〉は身を離した。立ち上がりオレに向かって手を伸ばしてくる。
「行きましょう」
オレはその小さくて白い手をとり立ち上がる。相変わらず〈リース〉の頬は赤くなったままだった。その顔を見て今までの事を思い出し自分の顔も赤くなるのを感じた。
彼女と手をつなぎ寮の中に入った。つぎはぎだらけのボロ床がぎしぎしと音をたてた。
「あら?」
〈リース〉が小さく声をあげた。彼女の視線は床に向けられていた。
「なに?」
「はい、床に何か落ちています」
彼女の答えを聞き床に落ちている物を腰を屈めて拾いあげた。手にとった物はごく普通の毛布だった。
「毛布だけど……なんでこんな物が落ちているんだろう」
オレは首を捻る。さすがにこんな物が落ちている事は少ない。ましてや深夜でほとんど誰も通らない廊下に落ちているのは不自然だった。
「そうですね。これは寮母さんにお返ししておきます」
〈リース〉は静かにそう言うとオレから受け取った毛布を手際良く畳み抱えた。
「では恭介さん、お休みなさいませ」
「〈リース〉、それ」
指摘されて気づいたようで〈リース〉は小さく舌を出した。本当に人間の女の子と変わらない自然な反応だった。
「そうでした。では、お休みなさい、恭介さん」
オレはその後ろ姿を見送ると自分の部屋に帰る。ようやく安心して寝れそうだった。
(5)よわよわ
内心でどちらかを選ぶか決めてからの俺の生活は今までと同じように過ぎてはいかなかった。
オレを起こすという〈レゥ〉の役目は〈リース〉が変わりに行っている。アニキにはっきり伝えた訳ではなかったが恐らく気を利かせて〈リース〉を遣しているのだと思う。
オレは〈レゥ〉の荒々しい起こし方と違う〈リース〉の優しい目覚ましに感動を覚え、甲斐甲斐しく支度を行っている横顔を見ながらどうして……〈リース〉はこんなにまでオレが望むような態度が取れるのか不思議だった。
それに一つ一つのやり取りが、苦しくなるくらい穏やかで安心できた。全てが順調で悪い事などひとつもないように思えた。
(これが女の子を好きになるってことなのかな?)
授業を受けていても〈リース〉の優しげな笑みを思い出し、学校が終わると早く〈リース〉に逢いたいがために急いで帰路についた。
そんなオレを玄関の掃き掃除をしていたたえさんがを呼び止めた。表情を見るにあまり機嫌が良さそうじゃなかった。
「ちょっと、恭介。〈レゥ〉ちゃんのことだけど」
「はい、〈レゥ〉がどうかしたんですか?」
「お兄さんから何も聞いてないの? 昨日から具合が悪いみたいなんだけど」
そういえば今日は〈リース〉に起こされおきた時にはアニキは部屋や食堂には居なかった。
「いえ、今日は話していないので」
「そう、じゃあ恭介も見にきなさいよ、大事な従姉妹なんでしょう?」
「そうですね、時間があったら見に行きますけど……大したことないんでしょう?」
「ハァ……君は女心がわかってないわ」
オレの言葉にたえさんはそう言って大きな溜息をついた。
「……わかっていると思ったんですか?」
確かにオレはわかっているとは思わないけど、一応たえさんに聞いてみた。オレの質問に顎に手をあて少し考え込む。そして諦めに近い表情を作った。
「……それもそうね」
「あ、酷い」
確かに自分が女心に詳しいとは思えないけど、目の前で露骨に否定されれば良い気はしなかった。
「酷いのは貴方でしょう?」
そう言い捨ててたえさんは寮の中に入ってしまった。かなり怒っていたみたいだった。やっぱり〈レゥ〉を見舞いに行こう。最近相手にしてあげなかったし寂しがっていると思うから。
「恭介さん? お部屋に行きましょう」
〈リース〉が促したので部屋に帰り、カバンを無造作に放り投げた。
「ただいま」
癖のようにそう言ったオレの後ろから彼女が「おかえりなさい」と声をかけてきた。
「リース、オレより後に入ってきておかえりっていうの、なんかヘンだよ」
「ふふ、そうですね。明日からは私が先に入りますね」
「それは良いかもね」
そう言ってオレは部屋を見渡したけどアニキはいないみたいだった。
「アニキは?」
「〈レゥ〉を診ています」
「〈リース〉、〈レゥ〉の具合はそんなに悪いの?」
「……〈レゥ〉は大丈夫ですよ」
オレを心配させないようにか〈リース〉は笑みを浮かべながら答えた。でもほんの少しヘンな間があったように思う。それにこういった質問には常に正確な答えを返す彼女にしては曖昧な表現だった。最近はずっと〈リース〉といるのでこういった小さな変化に気が付いた。
「そっか、〈リース〉が言うなら安心だろうけど見にいくよ、アイツは大事な妹だし。〈リース〉も来るだろ?」
そう言って〈リース〉を見る。ほんの少しの戸惑いと苦しそうな表情。それも一瞬でかき消えた。何かの見間違いじゃないかと思うくらいそれは瞬時に消えいつも通りの笑顔があった。
「どうしたの?」
「いえ、一緒に行きます。ですが恭平様にお任せしておけば問題ないかと思いますが」
「〈リース〉、病気の程度の問題じゃないんだよ。気遣いってのは」
つい偉そうに語ってしまう。ついさっきまで気にしておらず、たえさんに言われたオレだけど。レプリスである〈リース〉にこんな事を言っても仕方がないのかもしれないけど、〈レゥ〉と同じ顔をした彼女には心があるんじゃないか、根拠もなくそう思ったので言ったんだ。
「分かりました、では行きましょう」
オレは〈リース〉を連れてたえさんの部屋にやってきた。ノックをして中に入るとこの部屋の主、たえさんが嬉しそうにウンウンといった感じで頷いている。その隣では晩酌のお相手をさせられているアニキの姿があった。
「き、杵築さん、あまり深酒は・・・それに私は〈レゥ〉の様子を診ないと」
「いいの、いいの、きゅうすけもきたんだし〈レゥ〉しゃんもすぐにげんきになりますよ〜! きゃはははははは!」
そう言って豪快に笑いアニキの肩をバンバンと叩いているたえさん。オレはその光景を見て絶句するしかなかった。
(た、たえさん、なにやっているんですか、貴女は)
すでに酒が回りよっぱらいモードになった彼女にアニキは困惑の表情だった。こういった場合は相手にしないに限る、寮内で義務になり今までたえさんの相手をしてきたオレの勘がそう言っていた。アニキが送ってくる救援要請の視線を無視して〈レゥ〉の部屋に入った。
「あ……おにいちゃん、きてくれたんだ」
布団に横たわる〈レゥ〉。一瞬浮かべた嬉しそうな顔がオレの後から入ってきた〈リース〉を見て困惑に変わった。
「どうしたんだ〈レゥ〉、変な顔して?」
「れ、レゥ、へ、へんなかおしてないもん!」
オレの些細な言葉にむきになる〈レゥ〉。久しぶりに見た妹の表情に嬉しくなった。頭を撫でた手をとってぎゅっと握り締める彼女。
「あ、それはそうと病気なんだろ、大丈夫か」
「うん、ちょっとよわよわだけど……おにいちゃんのかおがみれたから……もうだいじょうぶだよ!」
そう言って〈レゥ〉は布団から起き上がった。
「心配かけさせるなよ、お前は」
そう言っていつもやっているように〈レゥ〉の髪をくしゃくしゃにかき回す。
「あう〜おにいちゃん、いたい、いたいってば」
乱れた髪形を直しながら涙目になった〈レゥ〉はそれでも嬉しそうな表情を浮かべる。
「心配かけさせた罰だ」
「う〜、おにいちゃんはこどもなんだから」
「お前に言われたくないよ」
「レゥ、こどもじゃないもん! もうもう、こどもあつかいしないでください!」
「わかったよ、ほら」
そういってまた〈レゥ〉の頭をくしゃくしゃにする。他愛のない会話と雰囲気、じゃれあう俺たち。〈リース〉とは違った意味で〈レゥ〉とのやり取りはオレに安心感を与えてくれる。しばらく〈レゥ〉の様子を見、元気そうなのが分かったので部屋を出ることにした。
「じゃあ、大丈夫みたいだな」
「ふぇ? おにいちゃんもういっちゃうの?」
オレの言葉に〈レゥ〉は寂しそうな表情を浮かべる。
「恭介さん、〈レゥ〉は病気ですのでそろそろ。それにお夕食の時間が」
「わかったよ、〈リース〉。じゃあ、〈レゥ〉いくよ、ゆっくり休めよ」
そう言ってオレは〈レゥ〉の頭を撫でて立ち上がろうとすると慌てて彼女が服の裾を掴んだ。
「あ……まって、おにいちゃん!」
「どした?」
〈レゥ〉の言葉は鋭く、見たことがないくらい必死な表情をしていた。
「あの、その、えと、えと……〈リース〉……さんのこと」
〈レゥ〉はオレに寄り添っている〈リース〉とオレをちらちらと見比べる。
「私?」
「ん? 〈リース〉がどうかしたのか?」
〈レゥ〉はなにかを言いたそうにしているが言葉が足りないのかうなっているだけで言葉にしない。ただ必死に何かを言おうとしていることだけは分かった。
「んー、もう……いいや。いいかな……うん。なんでもない、ごめんね、おにいちゃん」
「なんだよ、言いたいことがあるならはっきり……」
「だいじょうぶ、〈レゥ〉はだいじょうぶだから!」
そう言って布団の中に潜り込んでしまった。
「変なヤツ」
まあ〈レゥ〉のおこさまみたいな行動はいつものことだったので少し気にはなったが今は聞くのをやめた。〈レゥ〉は病気だ、今は無理に聞き出そうとせず、安静にしている方が良いと思った。
(まぁ元気になってから聞けば良いか)
〈リース〉に急かされ部屋を出た。相変わらずアニキはたえさんに捕まって晩酌の相手をさせられている。泣きそうに見えたのはオレの気のせいかもしれないな。
その夜、ぐったりして戻ってきたアニキから近日中に米国に帰国することを告げられた。〈レゥ〉の状態も安定してきているとはいえ、心配なので米国でもう少し詳しい検査をするそうだ。彼女たちは実用試作型とはいえ、まだまだ研究があると言っていた。
少なくとも〈リース〉を見る限りそんな風には思えなかったけど。
そしてオレは〈レゥ〉の身体を治してもらい、アニキから……いやオレの口からオヤジに頼んで〈レゥ〉をこっちに貰い受けるようにしようと思っている。連絡の取れないオヤジにとりあえずアニキから打診してもらい交渉する、それからだった。
それにオレの心が〈リース〉に決まったようだし、いる理由がなくなったと言っていた。アニキは自分の首位マスター権をオレに移してくれた。これで名実ともにオレが〈リース〉のマスターいや、オレが彼女だけの存在になった事に胸が熱くなった。
そうとうたえさんに絡まれたのか、疲れきったアニキはそれだけ済ませるとさっさと布団に潜り込んでしまった。物に動じない、あのアニキをここまで追い詰めるとは……。
(───おそるべし、たえさん。)
(6)家出
次の日。学校に行ったオレはひとえに呼び止められた。
「ちょっと、恭介!」
いつも以上に気色ばんでいるひとえが仁王立ちしていた。
「ん? どうかしたか?」
「どうしたかじゃないわよ!〈レゥ〉ちゃん明日帰るんだって!? それに恭平兄さんも……」
「ああ、そうだけど。なに当たり前のことを」
「いや……それは……それはどうでも良いんだけど……いやどうでも良くないんだけど……ああ、もう! なんで教えてくれなかったのよ!!」
眉を吊り上げてオレを睨んでいる。オレは内心で溜息をついて事情を話した。
「オレだって昨日の夜知らされたばかりなんだよ」
「〈レゥ〉ちゃん……だいぶ悪いの?」
「いや、昨日見舞いに行った限りではそんなに悪いように見えなかったんだけど。ほら、〈レゥ〉って普段が元気すぎるだろ、一応心配だから検査の為に帰国するだけだよ」
「そうなんだ。確かに元気な〈レゥ〉ちゃんが病気ってのも心配だし。そのあとは戻ってくるの?」
ひとえの何気ない言葉に息が詰まる。オヤジに交渉して〈レゥ〉を引き取る気だったけどまだ連絡がつかない。今後どうなるか分からない問題ではどうしようもない。
(困った……どう答えよう。まだオヤジと交渉した訳じゃないし、今すぐ答えられないな)
「いや……まだ戻ってこれるか分からないんだ」
「なんで?」
(───オレが〈リース〉を選んだから)
「なんでとは……なんでだ? もともと〈レゥ〉の滞在は一時的なものだった」
「それはそうだけど……じゃあ〈リース〉ちゃんも?」
「いや、〈リース〉はここに残る」
ひとえはオレをじっと見つめた。その視線には非難が込められていた。「どうして〈レゥ〉ちゃんを追い出すの?」って。
そして何かに耐えるように声を搾り出した。激情がこもった声だった。
「なんか……おかしいよ、恭介」
オレはひとえのその視線に耐えられなかった。〈リース〉のことを説明しようとしたけど今のひとえでは話してもきちんと聞いてもらえそうにない。そしてオレの心に刺さったわずかなトゲ。大事な〈レゥ〉ではなく大事な〈リース〉を選んだ罪悪感。
「ちょっとゴメン、急いでいるんだ」
「恭介!!」
オレはまた逃げ出した。
〈レゥ〉と共に成長したと思っていたオレは……やっぱり成長してなかったのかもしれない。ひとえの声から逃げるように廊下に飛び出ると〈リース〉の待つ寮に向けて走った。
───そうすれば〈レゥ〉を選ばなかった罪悪感から逃げられるような気がしたから。
「つっ!!」
寮が見えるところまで全速力で走ったせいか身体がキシキシと軋んだ。オレはよろけ、地に手をついた。息が荒い、間接が痛い、肺が酸素を欲しがっているのが分かる。ゆっくりと深呼吸を繰り返しなんとか落ち着いた。
「恭介さん! 大丈夫ですか!?」
オレを見つけたのか〈リース〉がこっちに向かって走ってくる。その顔を見た途端、安心して目の前が暗くなり気を失った。
* * * * *
気を失ったオレは自分の部屋で目を覚ました。〈リース〉が傍にいた。心配そうな顔をしてオレの顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか、恭介さん」
「オレは……気を失ったの」
「はい、今は心拍、血圧ともに異常なしです。恭介さん……」
そう言って〈リース〉がオレに擦り寄ってきた。彼女の温かい体温と柔らかさ、香りがオレを包んだ。
「心配かけさせないでください」
いつもだったら気分が高揚するはずの心が冷え切っていた。〈リース〉が悪い訳じゃないのになぜか顔が見れない。
とても気分が良くなかった。
『───オレが〈リース〉を選んだから』
ひとえには言わなかったその言葉が心に……なにか重く、冷たい翳りを落としている。
「〈リース〉、膝枕してくれない? ダメ?」
オレは彼女の視線から逃れたくて、そんなことを言った。〈リース〉のマスターとなったオレのお願いを断るはずがない、なのにそんなことを言った。
「良いですよ、どうぞ」
〈リース〉の膝や腿の柔らかさも、どこからか匂ってくる香りも、感じることの出来る体温も何から何までオレが望み選んだものだった。ほんの少しだけ安心したオレは眠たくなってきた。
「眠そうですね、晩ご飯の時間まで眠りますか?」
「う……ん、じゃあ〈リース〉、起こして」
「はい」
〈リース〉が優しくオレの頭を撫でる感覚に安心する。
(このまま、何も考えずにこうして眠っていられたら)
そんな事を考えながらオレは急激に眠りに落ちていった。
* * * * *
「〈リース〉、恭介は起きそうか?」
「よく眠っていらっしゃいます」
「お前ならどうする? 判断が聞きたい」
「いずれ話は漏れる事になります、今のうちにお話すべきです」
「そうだな、〈レゥ〉が家出なんてな。それほどまでにアイツ……思い詰めていたのか」
「恭介さん、起きてください」
* * * * *
オレは〈リース〉に起こされしょぼつく目をこすりながら起きた。
「あ、アニキ」
「用件だけ伝える……〈レゥ〉が家出をした」
その言葉を聴いた途端、眠気が一気に吹き飛んだ。
「あいつが……家出だって」
「ああ、夕食を食べにみんなで出ている時に」
「わかった!! じゃあアイツを、〈レゥ〉を探さなくちゃ!!」
どうして〈レゥ〉を選ばなかったのか?
〈レゥ〉を起動させたのはオレだった。責任はオレにあった。
〈リース〉の好意に甘えどうして今まで〈レゥ〉を放っておいたのか。もっとかまえる時間はあったはずだ。幾ら〈リース〉を選んだとは言え寂しがらせないことは出来きたはずだった。
先ほどまでの罪悪感と激しい悪寒も蘇る。嫌な冷汗が出てくる、間接が痛かったが無視する。アイツに比べたらオレの状態なんか大した事じゃない!!
オレは飛び起きると上着を引っ掛け飛び出そうとする。
「恭介さん、お待ちください!」
「恭介!!」
アニキと〈リース〉の鋭い声にオレの身体は引きとめられる。
「ごめんな、〈リース〉。オレ、行くよ。もう……間違えたくないんだ。君は大事な女性だけど、〈レゥ〉を放っておくことは出来ない。あいつも君と同じくらい大事な家族だから」
オレは〈リース〉に向けて微笑むと猛然と駆け出す。あいつの行き場所なんてたかが知れている、必ず見つけて連れてくるんだ。
(そして言うんだ、家族として一緒に暮らそうって!! ずっと傍にいてくれって!!)
* * * * *
「アイツ、本当に〈レゥ〉のことを必要としているんだな」
〈リース〉は恭平の顔と呟きを冷ややかだが寂しげな目で見ていた。そして自分の出来ることを成すべく声をかけた。
「恭平様……代視を使います。すぐに〈レゥ〉の回収を」
「わかった、頼む」
〈リース〉はゆっくり目を瞑ると精神を集中していく。そして視えた〈レゥ〉の居場所を恭平に教えた。溜息をついた彼女はそっと目を開けると悲しそうに呟く。
「今の〈レゥ〉の姿を見たら恭介さんは……」
〈リース〉は手を胸の前に組み苦しそうにうなだれた。それは恭介と一緒に過ごしたあの夜と同じ、祈りを捧げる姿。組まれた手が小刻みに震えている。それを見た恭平は目を見開き〈リース〉を観察した。
「〈リース〉……まさかお前も?」
「え? いえ違います。私のコンディションはオールグリーンです、問題ありません。それより早く、回収しないと」
「わかった、お前の判断を信用する。〈リース〉、お前は恭介を追え。足止めして時間を稼んだ」
「分かりました」
恭平と〈リース〉も慌てて部屋を飛び出していった。
* * * * *
オレはこの街を走っていた。〈レゥ〉と一緒に行った場所、全てを回っている。学校や川原、商店街、思いつく限りのところを。そして最後に自然公園にたどり着いた。
息が切れて体が重い、だけど休む気にはまったくなれなかった。とにかくあいつを引っ張ってでも寮に連れ帰り、怒ってやらなくちゃ。その一念で身体を動かす。
だけど身体が軋み動きが鈍くなる。
(アレ、オレの身体……変じゃないか?)
あの時、学校からの帰りのように力が抜け膝をついた。冷汗がだらだらと額を流れ落ち地に丸いシミをつくった。どうと地に倒れ仰向けになった。荒い息が吐き出される。
(くっそ、こんな事をしている暇はないのに! 〈レゥ〉おまえどこに行ったんだよ、オレがこんなに探しているのに)
「恭介さん!!」
そしてあの時と同じように〈リース〉が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!!」
「な、何とかね。〈レゥ〉は……?」
「……恭平様が発見されて、この近くにある国立研究所へ搬送しました」
「研究所? 寮じゃなくて? どうして?」
「はい、精神・肉体的に無理をしたせいで状態が悪化しました」
「くっ、じゃあこんな所でモタモタしてられないよ!」
オレはがくがく震える膝に力を込めて立ち上がろうとする。だけどダメだった、身体が〈レゥ〉に逢わせないようにしているとしか思えない。倒れこんだオレはそんなバカな事を考えた。
「お待ちください! 恭介さんの身体は限界なんです」
「そんなことないよ、〈レゥ〉を、あいつを傷つけておいてのうのうと寝てなんていられないんだ、だから〈リース〉手伝ってよ。あいつに逢って言わなくちゃ……」
「わ、私は……」
そう言ったっきり〈リース〉は俯いてしまう。ふいの沈黙にオレは彼女を見た。あの時と同じように月に照らされた彼女は美しかった。
「どうしたの、〈リース〉」
「恭介さん、私はあなたの身体が心配なのです、ですから無理だけはなさらないでください。でないと私は……私は……」
〈リース〉の顔から透明な物が流れ落ちた。月の光を反射してきらきら光りながら地に落ちていく。オレはそれを見て、また〈レゥ〉と同じ顔を持ちながらまったく別な彼女を泣かせたということに愕然とするしかなかった。
「〈リース〉、泣いているの?」
「わかりません、これが泣いているってことなんでしょうか?」
〈リース〉は自分の目から流れ落ちてくる雫を手をすくい受けた。手に当たった雫がより小さくなって飛び散った。
泣き濡れている彼女の顔はとても寂しげで儚かった。色素の薄い肌や髪が月の光を浴びて一層儚く見える。このまま彼女を放っておけば、〈レゥ〉と同じく彼女もいなくなってしまう、そう感じた。
「〈リース〉、分かった、無理はしないから。だけど〈レゥ〉のことは教えて」
〈リース〉は倒れたオレをぎゅっと抱きしめる。涙の粒がオレの顔にかかった。
「恭介さん、良かった」
オレはしゃくりあげる〈リース〉の安心させるように頬を優しく撫でた。
「すみません、恭介さんをお守りしなければいけないのに……私」
「いいよ、我が侭言って困らせたのはオレだし。これじゃあ〈リース〉はいつまでたってもオレに甘えられないか」
オレは苦笑しながら〈リース〉の涙に濡れた美しい顔を見た。激しく顔を振って否定する彼女。
「そんなことはありません! 私は恭介さんのお傍に居られれば……幸せなんです。ですから……」
そう言ってまた泣き出した。実は泣き虫だった〈リース〉、その姿はまるで幼子のようでかつての〈レゥ〉を思い出させた。
「〈リース〉ってさ、実は意外に泣き虫?」
「えっ?」
オレの言葉に呆然とする〈リース〉。
オレは変なことを言ったのだろうか? まあ意識が朦朧としているから変なことを言った可能性は十分あるけど。
「〈リース〉、〈レゥ〉は」
途切れそうな意識を振り絞り一番気にかかっていることを聞いた。
オレの言葉に〈リース〉は慌てて涙をぬぐうと表情を引き締めた。
「申し訳ありません、〈レゥ〉は国立研究所からすぐにタイレル社のラボに緊急移送されます。安心してください、恭平様がついています。必ず〈レゥ〉は治りますから」
「そうか、アニキがいるんだっけな。アニキは嘘ついたことな……い……から……安……心……だ……よ」
〈リース〉の言葉を聴き安心したオレの意識は途切れた。
(7)空港にて
〈レゥ〉が家出し米国に緊急搬送された翌日、オレは空港でアニキを見送っていた。とり合えず応急処置をしておいたので多少の余裕はあり、向こうの準備もあって時間が出来たのだそうだ。
「じゃあ、元気でな。〈レゥ〉のことは心配するな、オレが必ず治してやるから」
アニキは自身有り気に頷くと手を差し出してきた。オレも限りない信頼を込めてその手を握りしめた。
「ああ、アニキこそ。信頼している、オヤジやアニキはレプリスの第一人者なんだろ」
「そうだ、だから心配はいらない。その言葉必ずオヤジに言っておいてやるよ」
「ああ、頼んだ。それと……」
「恭平様、お時間です」
「そうか、ついでだ。〈リース〉、渡良瀬恭平のマスターとしての権利を破棄する」
「受理しました」
〈リース〉は小さく頷いた。オレは突然マスター権を放棄したアニキに困惑した。
「アニキ!」
「ま、これで〈リース〉は名実ともにお前だけのものだ。大事にしてやれよ?」
そう言って器用にウィンクを飛ばしてくる。その様子はすっかりアメリカ人だった。そして視線を〈リース〉に向けると頷いた。
「それと恭介のこと頼んだぞ」
「おまかせください、恭平様」
微笑んで今度は大きく頷く〈リース〉。
「ちょっとこい」
アニキはオレを彼女に聞こえないところまで引っ張って連れてくるとこっそり話し出した。
「恭介、レプリスに発情するのは兄さん感心しないな」
「ちょ、ちょっと、アニキ!!」
オレはアニキの言い方に頬が思いっきり熱くなるのを感じた。どこかで見られていた、そんな感じの言葉にオレは焦ってしまう。オレが〈リース〉の事をレプリスだと思っていないのにわざとこんな事を言うのだ。
その様子を見たアニキは大きく吹き出した。
「すまん、すまん。お前がそう思うのは男の子として健全だからだ。それに関しては何も言う気はないよ、オレは」
そうしてオレの頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。オレが〈レゥ〉に行うソレはアニキの癖を意識的に真似していた。こうすればオレとアニキのように信頼できるんじゃないかって思って。
「お前はオヤジに良く似ているが……異なる者なんだな。安心したよ」
オレがオヤジに似ている? 首を捻っているとアニキは真面目な表情を作った。
「〈リース〉を失いたくないなら彼女以外に目を向けるな。それが魂なき者を愛したお前の罪だ。そしてお前を愛している〈リース〉も〈レゥ〉も」
「……え?」
「恭平様、本当にお時間です。お急ぎください」
さらに謎めいたことを言われたオレはアニキに意味を聞こうとした。だけど本当に出発の時間になってしまったようだ。〈リース〉が慌てている。
「おっと、乗り遅れる訳にはいかんな、じゃあ恭介。〈レゥ〉のことは任せておけ」
「ああ、じゃあ必ず連絡をくれよ!!」
アニキは親指をぐっと立てると足早に去っていった。うーん、すっかりアメリカ人になっているぜ、ブラザー。
「さぁ、〈リース〉行こうか」
「はい、恭介さん」
(───きっと〈レゥ〉は帰ってくる。帰ってこなければオレが迎えに行くだけだ。あいつはオレの大事な家族だから)
オレは〈リース〉と手をつなぐと空港の出口に向かって歩いていく。眩しい光が出口から差し込んできている。オレと〈リース〉はその光の中に飛び込んでいった、温かいというより暑い日差し。
それは緑萌える5月の、命の生まれる春の終わりを感じさせた。そしてオレたちの、明るい未来を想像させる、生命力が燃える夏を想像させた。
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