My Merry
May
“蝉 時 雨”
─ Lease, after that ─
Vol. III
(10)競争と逃走と
(ちっくしょう……ハァハァ……駅はまだかよ……ハァハァ……遠いな)
オレの身体が言う事を利かなくなってきた。こんなにオレは体力がないのか? そう思うくらい体力が低下していた。〈レゥ〉がいなくなってからあまりメシを食わなくなったとは言え体力がなさ過ぎた。
以前はこの程度でいう事を利かなくなるなんて事はなかったのに。オレは自分の体力のなさと維持する為の努力を怠った自分を罵るしかなかった。
汗が噴出しこめかみを伝っていく。気温は30度を超えているようだ。下りの坂道とは言え全力疾走しているのだ、当たり前のことだった。
汗が流れるという感覚に気持ちの悪さを感じながらも駅について電車に乗ったら汗を拭かないと風邪を引ちまうなとか考えている。
今のところ〈リース〉は追ってこない。いくら体力が衰えたとはいえ、女の子の足に負けないつもりだった。
───そう、彼女が不完全な〈レゥ〉と違い、完璧な能力が発揮できる存在であるということをすっかり忘れていなければ。
オレの思惑を裏切るように数メートル先の藪の中から飛び出してきた物体がオレの前に立ちふさがった。それは意外な登場の仕方ではあったけど、予想通りの人物。
「恭介さん、酷いです」
彼女は頭や服についた木の葉をぱたぱたと払いながらオレを悲しい目で見ている。おそらく山道をショートカットして時間を詰めたんだろう。山の中を突っ切って汚れてしまった〈リース〉の服や破れたストッキングを見てそう想像した。
どうやらオレは彼女の能力を甘く見すぎていた。不完全な〈レゥ〉は性格が災いしてその能力を発揮することは稀だったけど、その時の身体能力は常人を凌駕していたのを思い出した。
オレは〈リース〉を普通の女の子、そして普段の〈レゥ〉のつもりで計算してしまっていた。
バグを持たない、本気になった〈リース〉の身体能力が〈レゥ〉を軽く凌ぐことくらい簡単に分かることだった。マスターに関わる事ならなおさら彼女は類稀な能力を出し惜しみしないだろう。
「恭介さん、酷いです」
再度〈リース〉は同じセリフを言った。そのセリフの中にオレに置いていかれた怒りと不満が感じられる声色だった。オレは何も言わず彼女に向けて歩き出す。そしてそのまますれ違った。
「ごめん、でもオレは行くから」
そう言葉をかけ今度はゆっくり歩いていく。〈リース〉に見つかってしまった以上、もう走る必要はなかった。
それ以外にやっぱり体調が悪く、さっきから悪寒と身体の痛みを感じている。足取りがおぼつかないので意識的にしっかり地を踏みしめるように歩いていく。先にある山道のカーブを曲がってもう少し歩けば市街への道に出る。
〈リース〉はオレの後ろからついてきているようだ。意地を張らずに彼女と一緒に行けば良いんだけど、やっぱりそれは出来なかった。自分がバカだという事は知っていたけど、バカはバカなりに意地を通したかった。
でも身体の方が無理をしすぎたせいでダメだった。よろける足が小さな石に躓き倒れそうになった。〈リース〉が慌てて駆け寄りオレを支えてくれた。
「恭介さん、やはり戻りましょう? あなたの身体に異常を感じます。恭平様をお呼びして診てもらわないと」
オレはその言葉についカチンときてしまった。確かにオレは〈リース〉に信用されないくらい愚かな人間だ。彼女に尊敬を受け信頼されているアニキの名前を彼女の口から聞きたくなかった。どうしようもない嫉妬……なんだと思う。
「なんで医者じゃなくてアニキを呼ぶ必要があるのさ!?」
「そ、それは……」
オレが口にした嫉妬の言葉に口ごもっている彼女の手を振り払い、歩き出そうとした時、目の前のカーブを曲がり切れなかった車が凄い勢いで突っ込んできた。
オレの身体はまったく反応できなかった。バカみたいにあんぐりと口を開けた表情のまま目の前に現れた黒い乗用車をスローモーションのようにゆっくりした映像として見ていた。
「……え?」
「恭介さん!!」
呆けていたオレはいきなり〈リース〉に突き飛ばされて転げた。背負った大きなボストンバッグのおかげで道路で打った背中は痛くなかったが、そんな事より目の前の映像に心臓が止まる思いだった。
「あっ!!」
急ブレーキの鋭い音にかき消されそうな〈リース〉の小さな叫び声。衝撃音と共に彼女の華奢な身体が車に撥ね飛ばされて宙を舞った。そのまま道に激突する───だけどオレの目は彼女の姿から背ける事が出来なかった。
(……〈リース〉)
ところがそのまま激突すると思った彼女の身体は高いところから飛び降りる猫のようにしなやかな動きでくるりと身体を曲げて着地体勢を取った。
だけど車にぶつかり跳ね飛ばされたせいでどこかを痛めたのか体勢が崩れ綺麗に着地できなかった。そして数回転げた後、その身を道路に横たえた。
「……〈リース〉……嘘だろ。〈リース〉っ!!」
オレは〈リース〉に駆け寄った。彼女の左腕が変な方向に曲がってる。気を失っているようなので揺すって起こそうとしたけど慌てて手を止めた。転がった時に切ったのか頭から出血している。怪我をしてもなお綺麗な顔の下に赤い血溜まりが出来ていた。他にも様々に擦り傷や打撲があり服も破けていた。
〈リース〉を跳ね飛ばした車は真っ黒なブレーキ跡を残して数十メートル先で止まり、若い運転手がよろよろといった感じで歩いてくる。オレはソイツをぶん殴ってやりたかったがそんな事より彼女の治療が先決のはずだった。
でもオレは身体が動かず、目は倒れ伏している〈リース〉の事をじっと見ている。精神が失調しているという事をどこか覚めた目で見ているオレがいる。そしてもう一人のオレが自分の身勝手を責めていた。
オマエがアメリカに行くと言わなければ。〈リース〉を残して行こうとしなければ。彼女の言う通り素直に寮に戻っていれば、と。
ぐるぐると頭の中を後悔と悔恨が駆け巡る。本当はそんな事をしている暇はなく、すぐに救急車を呼ばなければ〈リース〉が死んでしまうのに。
「きょ、恭介さん。ご……無事……ですか?」
オレは〈リース〉のか細い声で我に返った。
「〈リース〉、大丈夫か!? しっかりして」
「なん……とか……こほっこほっ!!」
〈リース〉は小さく咳をすると血を吐き出した。そしてゼイゼイという荒い息をしながら彼女は起き上がろうとする。オレは慌てて止めようとしたが〈リース〉はオレの手を大切な物を扱うようにそっとどけた。
「私はお医者さんに診られる訳にはいきません。もし私がレプリスだと知られれば……恭介さんは罪に問われてしまいます」
「なにバカな事言っているんだ、そんな事は気にしなくて良いから! すぐに医者に行って怪我を治さないと」
オレの言葉に顔を振って拒絶する〈リース〉。その顔に微笑が浮かんだ。オレを心配させまいと浮かべる優しい笑み。
「今の状況はトリプルSコマンドに抵触しています。恭介さんをそんな目に合わせる訳にはいきません……くっ!」
彼女は起き上がると怪我人とは思えない動きで近くにあった藪に飛び込んだ。想像出来なかったその行動に一瞬唖然としたあとオレもバッグを引っつかみ藪に飛び込む。
「ちょっと君!」
〈リース〉を撥ねた運転手の声が聞こえたけど、そんなのを気にしている暇はない。
「〈リース〉、まって!!」
がさがさ動く藪を目印に追うけどすぐに見失ってしまった。森の中でオレの彼女を呼ぶ声だけが響いている。
「ちっくしょう!!」
自分に対する怒りと不甲斐なさに思い切り近くにあった木を蹴り飛ばした。荒い息を吐き出し何度も蹴った木に寄りかかると涙が溢れてきた。
「オレ、なにやってんだよ!」
目の前が涙で霞んだ。何度も拳で目を擦り涙を止めようとするがダメだった。
〈レゥ〉を失い、今自分の愚かによって〈リース〉をも失おうとしている。オレは他人を食い潰さなきゃ成長できないのか? そんな思いで頭が一杯だった。
そして自分に出来ることはないのか必死に考える。でもやっぱり出来ることはなかった。
通常の治療を拒否し、レプリスである彼女を治すにはアニキの力が必要だった。出来ればアニキに頼りたくない、でもこのままじゃ〈リース〉は……。
(今はオレのプライドなんかより〈リース〉を大事にしなきゃ)
オレはアニキに連絡を取るべく阿見寮に向けて歩き始めた。でも身体がさっきよりずっと重い。嫌な冷汗が流れ、身体全体が痛い。特に節々が軋み動かす事を拒否している。
「ちっきしょう、動けよ、このクソ身体!」
(〈リース〉待っててくれ、必ずアニキを呼ぶから。だから無茶をしないでくれ……)
オレは何とか山道に出ると阿見寮に向けて必死に足を動かす。
(───早く!早く! もっと早く! アニキに連絡しなくちゃ)
* * * * *
「きょ、恭介さん。ご……無事……ですか?」
(私は……まだ動けるみたいね)
「〈リース〉、大丈夫か!? しっかりしてくれ」
私の中のレプリスの部分が正確に自分の状態を判断している。もう一人の私、人間に近い部分は駆け寄ってきた恭介さんの声を聞いて安心感を覚えていた。幸い彼に怪我はないようだった。
私は今の事故の記憶をプレイバックさせ状況を確認する。
恭介さんが撥ねられると思った瞬間、私の身体はマスターを、恭介さんを護ろうと身体が自然に動いた。
マスターが明白な危急の場合、通常時は制限されている出力のリミッターが解除される。その状態のまま恭介さんを突き飛ばそうものなら場合によっては車に撥ねられるより酷い怪我を与えかねない、その為かなり出力をしぼった。
その行動で回避が遅れ、私は車に跳ね飛ばされた。それさえなければ十分に車を回避できたし、衝突したとしても身体を浮かせバンパーを蹴って進行方向に飛びぶつかった衝撃を逃がす事で最小限の被害で済むはずだった。
私にはそれが可能なだけのスペックが与えられている。そしてリミッターを外した状態の私は戦闘行動も十分可能だった。制限を受けた状態では空手の有段者に敵わなかったけど。
もっとも人間と張り合っても仕方がない。私の力は恭介さんを護るためだけにあるのだから。
一瞬気を失ったものの、幸いすぐに意識を取り戻し道路に激突する事だけは避けられたが負傷によりバランス崩し無様に転がってしまった。その時に数箇所、道路にぶつけ損傷したようだった。
私はすぐに自分の中にいるナノマシンに向けて自己修復を実行、自身の損害判定を行った。
■身体コンディション:
・限りなくレッドに近いイエロー
>すぐに機能停止しないものの至急修復が必要。
■ダメージリポート:
・左上腕、単純骨折。手首捻挫。
>至急治療を要す。
・左肋骨骨折
>至急治療を要す。
・左肺に裂傷。
・状況判断 骨折した肋骨により肺を損傷。
>至急治療を要す。
・右足首を捻挫。
>行動に支障あり、治療を要す。
・頭部右側面に損傷
・状況判断 記憶障害は今のところなし
>外傷の修復は自己修復で可能。完全修復に2時間。
・頭部損傷の出血による嘔吐感、眩暈
>貧血が発生。自己供給不能、輸血を要す。
・他、全身に打撲、擦過傷。
>自己修復が可能。
私は診断したダメージリポートで左腕、胸部、頭部の怪我により行動が制限を受けてしまうのがわかった。自分の身体よりまず恭介さんに心配をかけないように今の状態を元に言葉をかけようとした。
「なん……とか……こほっこほっ!!」
私は口を開いた途端、込み上げてきたものを吐き出そうと小さく咳をする。手の平に血痕を認めた。予想以上に内臓にダメージがあった。無理に動いたことによりコンディションが悪化。レッドへ。
恭介さんが私が起き上がるのを止めようと手をのばしてきた。私はその手を大事な物を押し抱くように取るとそっと押し戻した。
(恭介さんの手……暖かい)
ずっとこの手を握っていたかった。だけど私には時間がない。このままだと私は救急車に乗せられ病院で怪我の治療と精密検査を受けることになる。
そうなった場合、私が国内法で認められていない非合法の存在、レプリスである事が発覚する可能性がかなり高い。
それは私のマスターである恭介さんが犯罪者になるということ。そんなこと私には認められなかった。
そして現在、私の存在が知られることは世界の秩序を乱し会社の損失になる。
「私はお医者さんに診られる訳にはいきません。もし私がレプリスだと知られれば……恭介さんは罪に問われてしまいます」
現状況は私の中にある“レプリスとしての行動指針”に引っかかっていた。行動指針は3つ、開発者である恭平様たちがスリーコマンドと言っているもの。
・トリプルS“いつ、いかなる状況でもマスターの安全を守ること”
・ダブルS“ソフト・ハードの両面から自らを保持すること”
・シングルS“レプリスは社会規範に沿うこと”
そして現状況はトリプルSコマンドに抵触している。
「なにバカな事言っているんだ、そんな事は気にしなくて良いから! すぐに医者に行って怪我を治さないと」
本気でレプリスである私のことを心配してくれている彼の言葉が嬉しい。私をレプリスとして扱わない彼の優しさに涙が出そうになった。このままそばに居たい、ずっとその顔を見ていたい。
……そして私は自分の存在の矛盾に気づいている、私は……何者?
(……え? 嬉しい? 涙?)
涙……という単語から思い出せるのはあの時恭介さんに言われた言葉。
「〈リース〉ってさ、意外に泣き虫?」
あの時〈レゥ〉が家出をした時から私は自分が自分でないように思えている。
恭介さんと〈レゥ〉から届く未知の感触。それに触れる度に私は変わっていく。自分のロジックを無視する言葉、無駄の多い行動、そしてアルゴリズムには含まれていないはずなのに感じることが出来る“心”“感情”という名の概念。
全てにおいて無駄を省き効率化を求めて造られた私のシステムが狂い、崩れ、新たなモノが構築されはじめている。
あの時、恭介さんは〈レゥ〉の身を案じ、自分の身を省みず無茶をしていた。私のレプリスの部分はその行動を“無駄”だと判断している。でも人間に近い私は恭介さんの行動は自然な物と思っていた。
大事な人を護りたい、一緒にいたいという気持ちはレプリスも変わらないと思うから。
そして私が望むこと───いかなる事からも恭介さんを護る
それが私に課せられたレプリスとしての存在意義。そして人間に近い部分の私がもっとも望むこと。私は自分の身体より恭介さんの心を、身体を、名誉を護らなければならない。それによって私が機能停止になったとしても。
虚弱体質で残り少ない命がいつ燃え尽きるかわからない恭介さんを庇護する為にPmfhは彼の父・恭一様によって創られた。私たちは人を愛することに不器用な恭一様が恭介さんに送った愛情表現の形。
私は寂しい思い隠して生きている恭介さんがその目を閉じる時まで彼と共にありたいと思う。
私のマスターだからとかそんな理由じゃない。私は彼の内面にある寂しさをずっとリンクで感じている。友人と遊んでいてもふとした時に見せる寂しさを浮かべた横顔が私の胸を苦しくさせた。
そんな彼に笑いかけ、言葉を交わし、内面の奥底に隠されているその寂しさを共有し理解する。虚ろな存在である私も寂しいんだと思う、じゃなければ恭介さんの寂しさを感じ、共にいる時間がとても嬉しく、そして苦しく感じるとは思えない。
そんな寂しい存在同士、お互いを支えて彼に残された少ない時間を過ごしたい。恭介さんが私に母を求めるなら母に、恋人を求めるなら恋人に、妹を求めるなら妹になってあげたかった。
寂しいもの同士の傷の舐めあいと言われるかもしれないけど構わない、私にとって恭介さんがすべてだから。
心配そうに私を見つめる恭介さんに向けて笑みを浮かべた。痛みに苛まれているけど彼を安心させるような笑みは浮かべられたと思う。
「今の状況はトリプルSコマンドに抵触しています。恭介さんをそんな目に合わせる訳にはいきません……くっ!」
さらにダブルSコマンドも抵触している。量産型レプリスでは“自己保存”はシングルSコマンドだけど、試作型である私は機密漏洩を防ぐためにダブルSコマンドに設定されている。
このまま医療機関に搬送され精密検査を受ける訳にはいかなかった。
私は痛みを押して立ち上がり、近くにあった茂みに飛び込んだ。鋭い木々が私の身体に新しい傷をつけた。
(取り合えず落ち着けるところで傷の応急手当をしないと)
私は落ち着いて治療のできる場所を探すべくさらにスピードをあげた。
(11)後悔
オレは阿見寮に向う山道を必死に上る。だけどもう少しのところで膝をついてしまう。身体の軋みで全身が痛く、喘息のような咳が出て足がもつれて膝が笑っていた。額から落ちた汗が地面に丸い染みを作っていく。
「かはっ、ごほっ、ごほっ、なんで…こんなに…咳が出るんだよ。オレこんなに身体が弱かったっけ」
視界が歪みかけたので目を必死に瞬いて視界をはっきりさせる。自分の身体ががここまで弱いとは知らなかった。確かに子供の頃は良く熱を出して寝込んではいたけど、学校に行くようになってからは特にそんな事もなかったのに。
(こんなことでヘバっている暇はないんだ、〈リース〉が、オレのせいなのに……)
木を使って立ち上がり、ようやく見えてきた阿見寮に向かってカメのような歩みで向かっていく。ときどき玄関にいるたえさんの姿もない、いつも通り二日酔いで寝込んでいるのかもしれない。オレは玄関にバッグを放り投げると食堂に向う。食堂には共同の電話が置かれている、これを使ってアニキに連絡をしなきゃ。
財布からテレカとアニキの名刺を取り出して代表番号へ国際電話をかけた。何度も呼び出し音が鳴るのに繋がらず、ようやく出たと思ったら英語の音声テープが流れ出した。
「なんで……出ないんだよ!」
オレは受話器を叩きつけるように切り、慌てて食堂の壁にかかっている時計を見た。今は13時すぎ……アメリカ・タイレル社があるシカゴは確か時差は−15時間くらい、だとすれば……土曜22時。
(嘘だろ、こんな時間じゃ誰もいないじゃないか! まてよ、アニキのいるラボ直通の番号が!)
オレは再度国際電話でアニキの直通番号にかけ直すがやっぱり出ない。無常に何度も鳴り響くコール音。その1回1回が焦燥を呼び起こし、そしてオレの気力を奪っていく。膝が笑いずるずると壁に背をつけて座りこんでしまう。コールを20回数えたところで切った。
(ちくしょう、何でこんな時に繋がらないんだよ、アニキ!)
オレはよろよろと立ち上がり自分の部屋に向かう。あと連絡を取る方法はメールしかなかった。今まで出したメールの返事が来ないので信用できなかったけど、もうこれしかオレに残された手はなかった。
(オレはバカだ、〈リース〉があんな目にあったのもオレのせい、そして〈レゥ〉も。なのにオレは彼女たちに何にもしてあげられない!)
咳を堪え痛む身体を引きずり何とか部屋に入り込んだところで今までで最大の痛みが襲い掛かってきた。キシキシキシと身体が軋み、咳が止まらなくなった。
「がぁっ! ぐううっ!」
自分の身体を抱えひたすら痛みが去るのを待つ。全身が痛みで冷汗まみれになった。オレは身体を引きずり机の上にあるパソコンの電源を入れる。それですら酷く体力を奪う作業だった、汗が頬を伝い指先が震えている。
大して長くないはずのパソコンの起動時間がやたらと長く感じた。メールソフトが自動的に立ち上がるのももどかしく新規を選びアニキのメルアドを選択、本文の入力画面になった。
その間、何度も意識が飛びかけたけど必死に意識を保つ。震える指先でキーボードを操り文面を入力していく。
今、〈リース〉に起こっていること、そして治療にアニキの力が必要なこと。今のオレの気持ち。
だけど全部書き終わるまでオレの意識がもたないようだった。汗がぽたぽたと机の上に落ちて濡らし、きしきしきと身体が軋んだ。オレの口からは咳が止まらない。
(全部書き終わってないけど早く送信を押さなきゃ……そして〈リース〉を探さないと)
マウスを動かそうとするけど腕が全く動かない。咳も止まらず、身体の痛みも去らない。オレ……もしかして駄……目か……な……。
目の前が真っ白になり力が抜けた。〈リース〉の声が遠くから聞こえてくる。最後に彼女の声が聞けて良かった。これで〈レゥ〉の声が聞ければもっと良かったんだけど。オレの意識はそう思ったところで本当に真っ白になった。
* * * * *
私はようやく走るのをやめた。目の前に恭介さんが通う津久見高校があった。あそこなら身を隠しながら自分の応急処置が出来る。幸い今日は日曜で人もいないし、校舎の影なら人が来て見つかる心配もなかった。
私は片手が使えないので苦労しながら上着のジャケットを脱ぎ、中に来ていた薄手のタートルネックの袖を破る。来る途中で木を折っておいたのでそれを使って、折れた左腕に添え木として当てて破った袖で固定した。
折れている肋骨も痛みを堪えて元に戻し、同じように添え木を当て伝線し破れているストッキングを脱いで脇腹の添え木を縛っておく。
捻った足首は水道水を使い冷やす、けっこう腫れてしまっている。骨に損傷はないけど、筋を痛めている。
損傷している頭も血と汚れを綺麗に洗い流しもっていたハンカチを当てた。すでに出血は止まり再生中。とはいえ傷が深く完全に治るまでにまだ時間がかかりそうだった。
私に怪我の応急処置スキルをインストールしてくれた恭平様に感謝しなければ。このスキルも恭介さんが怪我をした時の為に活用できるようにと恭平様が入れてくれたものだった。
(これで良し。あとは恭介さんをお迎えにいかないと)
私は上着を羽織り、痛む身体を動かし阿見寮に向かう。おそらく恭介さんは私の為に恭平様を呼ぼうと戻っているはず。阿見寮で会える可能性は高かった。
それに彼の部屋には〈レゥ〉が入っていた揺籃ある。あれを使えば完治とはいかないまでも機能停止しないレベルでの処置が出来る。その後、恭平様に修復をお願いすれば元に戻れるはず。
阿見寮が見えてきた。急いで中に入り恭介さんの部屋向かう。途中で亮さんと会った。
「あれ? 〈リース〉ちゃん、どうしたの?」
亮さんが頭に当てているハンカチを訝しげに見ている。
「あ、これですか。恭介さんのお手伝いをしている時にぶつけてしまって」
私は咄嗟に嘘をついた。今の私の状態を知られて大騒ぎになってはまずかった。
「ええっ! そうなの? あのバカ、〈リース〉ちゃんに怪我させやがってえ」
そう言って亮さんが握り拳を作ってそんなことを言っている。私はそんな彼の様子に苦笑してしまう。私の心配の心配をしてくれているのが分かるし、彼は恭介さんを本気で嫌いになったりしないから。彼も恭介さんと同じ不器用な人だった。
「そんなことはありませんよ、私がドジだったんです」
「そうかなあ、〈リース〉ちゃんてなんでもソツなくこなすからそんな風に見えないんだけどな。あ、そういえば恭介だけど、さっき慌てて戻ってきたぞ」
「え?」
「なんかバタバタうるせえから見たら恭介だったんだ、なんかフラフラしていたけどな、あいつも怪我したの?」
「そうですか、では私が見てきますね。失礼します」
私は意図的に彼の質問を無視した、嫌な予感がする。
いつも通り亮さんに頭を下げると不自然にならないように、急いで恭介さんの部屋へ行こうとしたところで亮さんに呼び止められた。
(もしかして怪我しているのが分かってしまった?)
「もし何かあったら言ってくれよ、俺だってアイツの事は心配なんだから」
「はい、ありがとうございます」
私は自分の状態が亮さんに知られていないことに安堵し、恭介さんのこと本気で心配してくれている彼に感謝の気持ちを込めて丁寧に頭を下げ、恭介さんの部屋のドアを開けた。
その光景を見て私の思考が真っ白になりかけた。
恭介さんが机に突っ伏していた、机から落ちた腕が力なくだらりと下がり、窓から入ってくる風に揺れている。
「……嘘。恭介さん! 恭介さん!」
私は慌てて駆け寄り彼の身体を揺すってみたが反応はなかった。手首を取り脈を診る。
(良かった、まだ生きている!)
反応はあるけど……微弱で呼吸も浅い。
このままでは彼が死んでしまう。そう思った時、私は今までで一番大きな感覚が襲ってきた。
恭介さんが死んでしまう、二度とあの笑顔が見られない、言葉も交わせないと分かった途端、涙が出てきた。力なく閉じられている彼の目、青白い顔が霞む。
───私はどうすれば良い? 何か手はあるはず。
自分の記憶を巻き返し一つの物を思い出した。恭平様が私に託した物があった。私はポケットをまさぐりそれを取り出す。
箱には2本の試験管。そこに入っているそれはピンクとブルーをしている恭介さん専用の治療薬。
* * * * *
「〈リース〉、恭介はお前を選んだようだな」
「そのようです」
私はそっけなく答えた。恭平様は私の態度に苦笑し問いかけてくる。
「なんだ、嬉しくないのか?」
「わかりません」
いつも以上にそっけなく答えたのは嬉しいのと何となく恥ずかしいのを彼に知られたくなかったから。
「まあ良いか。お前と居ればいざという時でも安心だ。さすがに〈レゥ〉では恭介の発作が起きた時に対処できないからな」
「そうですね。ですが〈レゥ〉といる限り発作は起こらないと思います」
「……嫉妬か?」
「そんなことは……」
ありませんと続けようとしたけど声が出なかった。私は確かに〈レゥ〉に嫉妬をしているのかもしれなかった。
「そうか。じゃあ念のためだ、渡しておく。いざとなったら頼む」
「はい」
そうして恭平様から手渡された箱。私はいつでも使えるようにずっとジャケットのポケットに入れておいた。
これを使うという事は彼が激しい悔恨を抱いたとき。私は使うことがないように祈っていた。だけど私の存在がこれを使うきっかけになってしまった。
* * * * *
恭介さんを理解し庇護する為に創られたPmfhの中で〈レゥ〉は彼の為に特に調整された存在だった。私はその〈レゥ〉のスペアという立場。
〈レゥ〉はトラブルにより初期起動における人格形成プロセスに異常が起こり、幼児化しているがPmfhの本質は変わっていなかった。常に恭介さんのそばにいて彼を理解し庇護しようとしている。
一見、幼い〈レゥ〉が庇護されているように見えるけど実は恭介さんの方が彼女に庇護されている。
恭介さんの発作は精神状態により左右される。激しい後悔などで心の安定を失った時、自分を罰するかのように彼の発作は発症し彼の命を削りとっていく。
そう───まるで存在意義を失いかけたレプリスのように。
だからなのかもしれない、恭介さんが私たちレプリスを人として扱ってくれるのは。無意識に自分と私たちが同じ存在だと思っているのかもしれない。
恭介さんは幼い〈レゥ〉の相手をすることで自分の存在意義を確認し、精神の安定を図っていた。
〈レゥ〉は偶然に起きた事故によりバグを抱え“心”を得た。Pmfhの存在意義である庇護を意識しなくなった分、自然に人として振舞えており、恭介さんもそんな彼女に対して警戒を解いていた。隠していた本当の彼がそこにいる。
その彼が〈レゥ〉といることで心を乱さないように無意識で行っていた無気力さを捨てた。恭介さんの顔に笑顔が浮かび、喜怒哀楽をはっきり示すようになった。人形に命が吹き込まれるそんな例えが合うのかもしれない。
彼は虚弱体質でいつ皆の前からいなくなるか分からない。それなら理解されてなくても良い、理解されればいなくなった時、きっとその人たちを悲しませるから。積極的に他人に係わり合いにならないという彼のスタンスはここから来ているように思えた。
親に愛されずに育った恭介さんは自分の心を表すのが下手。臆病なほど人間関係を恐れ、そして心の奥底で絆を欲している。不器用でその方法を知らない彼はとても寂しがりでずっと足掻いていた。
───なにか面白いことないか?
彼の孤独な足掻きが声になり変化を求めた言葉。
おそらく他人から見れば恭介さんは都合の良い人に見えると思う。でも〈レゥ〉と私はリンクによって彼が臆病故に隠している本質を知っている。
そんな彼が〈レゥ〉を求めるのは自然なことだった。幼い彼女は恭介さんの無意識のガードを抜け彼の隠している本質を理解した。自分を理解してくれる存在を欲していた恭介さんは彼女に惹かれた。
そして自分を理解し共に歩む存在として彼は無意識に彼女を求め続けている。それが妹なのか女性なのかは関係なくただ側にずっと居て欲しい存在。
本能とも言える彼の欲求は───言い換えれば家族という名の絶対的な絆。
だからなのかもしれない、私が〈レゥ〉に嫉妬し憧れているのは。恭介さんに求められ愛されている彼女。そして〈レゥ〉は開発者としてレプリスを商品と見ている恭平様からも人間として扱われていた。
そんな存在に私はなりたかった。
最初は自分の存在意義を全うする為に。そして2人と一緒にいていつの間にか得ていた心。それは私に変化を与え喜びや悲しみのほかに憧れと嫉妬という感情を生み出している。
私にも心があり〈レゥ〉と同じ存在である事を恭介さんに知ってもらいたくてあの月の夜、私からキスをした。そして今朝は〈レゥ〉より私を見てもらいたくて……もっと私を見て欲しくて。
恭介さんからそういう思考を感じたのは確かだった。私は恭介さんの為を装って自分の為に自分の身体を使って〈レゥ〉を忘れさせようとした。
彼の奥底には心の一部となっている〈レゥ〉がいるから。その彼女を否定し私を肯定して欲しくて私は最低の手を使ってしまった。私の行動は独占欲と呼ばれるものなのかもしれない。
私の本心を知った彼や〈レゥ〉は私のことを唾棄するかもしれない。今の私の状態は不埒なことを考えた罰。そんな私の為に恭介さんが心を乱し苦しんでいる。
私は自分の考えが間違っていたことにようやく気づいた。すでに恭介さんの中にいる〈レゥ〉は切り離せない一部、それを無理に忘れさせようとしたから今の事態を引き起こしている。
私は認めなければいけないのかもしれない、恭介さんにとって〈レゥ〉の存在が不可欠でいかに大きな存在なのかを。彼女を排除するのではなく共に歩むことを。それが恭介さんの幸せにつながり私の幸せにもなる、そして彼女も。
ただ、こんな私が本当に恭介さんの側にいる資格があるのか───わからなくなった。
* * * * *
私は押入れにしまってあったレプリス用の応急セット取り出し試験管の中に入っている高蛋白剤を注射器ですべて吸いとり、恭介さんの腕を消毒しうつ。続いてもう1本。
しばらくすると蒼白だった恭介さんの顔に赤みが差し呼吸も安定してきた。
(良かった、間に合った)
この高蛋白剤の効果は24時間、その間に恭平様に来てもらい本格的な治療を行って貰えば恭介さんの病状は安定する。
恭介の机の上にあるパソコンのモニタが点いている事に気づいた。メールソフトが開かれており、恭平様へのメールが書きかけで残っていた。恭介さんはこれを書いている途中で力尽きてしまったんだ。
件名:至急
アニキ、オレのせいでリースが事故にあって大怪我をした、大分酷い怪我してるんだ。なのに病院での治療を拒否して行方不明になってる。
今のオレじゃ何も彼女にしてあげられない、もうアニキに頼るしかないんだ。もう我侭も言わない、レプリスの勉強もする、だからお願いします、〈リース〉を助けてください。
オレあの時〈レゥ〉を救えなかった。〈リース〉を、あいつと同じ心のある彼女を今度こそ助けたい、だから力を貸して。
オレは〈リース〉が好きだ、ずっと一緒に
そう書きかけてあった。
(恭介さんごめんなさい、ごめんなさい! 私が、私が悪いんです。それなのに……辛い思いをさせて)
私はそのメールを見て涙が溢れてくる。私が邪なことを思わなければ、余計な事を話さなければこんな事は起こらなかった。
私は涙を拭い恭介さんのメールの後にあの治療薬を使ったこと、現在の彼の容態の様子を追加で書き足した。これで恭平様が来た時にすぐに恭介さんを治療できる。
私はモニタを見つめ、書き足りない部分がないか確かめる。そして少し躊躇ったあと不足分を書き足した。
再度確認してメールの送信ボタンを押した。ゲージが延び無事送信された事を確認しほっとしたせいか激しい痛みを感じた。
身体が熱い。
私の身体は骨折による発熱があり、貧血で抵抗力も落ちている。このままいけばまず間違いなく機能停止になる。
体内でもナノマシンがリペアを行い少しずつ治療をしているけど数が足りなすぎた。基本的にリペアコマンドは軽傷の為にある機能だった。それをフル回転させたところで重症の身である私の治療には到底追いつかない。
私には押入れの中に入っている揺籃を出してセットするほどの力は残っていなかった。
(このまま死ぬのかな……でも今の私には相応しいのかもしれない)
私はふらつく身体を動かし恭介さんの側に行こうとした。身体を動かす度に傷を負った部分から熱と激しい痛みを感じる。痛みを我慢するたびに額から汗が流れ落ちてくる。
いきなり力が抜け私は床に倒れた。這いずるような格好で恭介さんの側まで行き寝ている手をそっと握った。
朦朧とした意識の中で彼の手の感触だけが唯一認識できるすべてだった。
(恭介さん、ごめんなさい。私、ずっとそばにいたくて……)
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