「更に進んで突然変異を人工的に起こすことによって、すばらしい大飛躍が与えられる。……そして遂には、みずから作る突然変異によって、今の人類以上のものが、この世に生まれて来るのである」(石原莞爾『最終戦争論』)

 

「今の世界の混乱は、全て奴らが原因ではないですか!」(ロード・ジブリール)

 

 

モビルスーツ・この憂鬱な乗物

 

 

 C.E.73、わたしは地球にいた。

 観光旅行などではない。同年代の若者の多くがそうであったように、軍務に従事していたのである。

 どうしようもない理由で始まったあの戦争は、やがて、どことどこが戦っているのかさえはっきりしない、わけのわからない有様になりつつあった。敵と思っていた相手が味方になったかと思うと、味方と信じていた人が敵になるという始末。まったく混沌とした時代だった。

 とはいえ前線の一兵士にとっては、とにかく目の前の敵と戦うので精一杯で、世界の情勢に思いを巡らす余裕などはなかったというのが実情であったが。

 

 

 地球連合から、PLANTに対する事実上の宣戦布告があった、翌日のことである。

 他の多くの青年同様、ZAFTへ志願していたわたしのところにも電子メールで配属通知が送られてきた。わたしは友人の家を訪ね、そこで一緒に添付ファイルを開く約束をしていた。

 どこか後方(できれば本国)で、基地警備の仕事でも割り当てられれば、という淡い期待はあっさり外れ、わたしが受け取った通知には

「MS操縦手」

の文字が記されていた。

 同じ日に「宇宙艦通信士」に配属が決まった友人は、わたしの携帯端末画面を覗き込むと

「モビルスーツか……、微妙なところだなあ」

と、羨望とも慰めともつかぬ、複雑な表情を浮かべてわたしを見つめた。

 ――当時、MSは新たなる戦場の主役であり、兵器の花形だった。そのパイロットは古い騎士物語の主人公さながら、年若い少年たちの憧れの的。当然ながら、妙齢の女性たちの注目を浴びる機会も多かった。

 一方それは、攻撃力、防御力、機動力全てを兼ね備えた万能兵器として――実際には結構制約が多く、万能にはほど遠かったのだが――ありとあらゆる戦場で最前線に立たされることを意味していた。その分戦死率も高いとなれば、実際に乗る身としては手放しで喜ぶ気になれるはずもない。

 逆に友人の場合は、ほとんど注目を集めることのない、まことに地味な役どころだった。

 だが、我が方が制宙権をがっちり握っていた当時の状況下、宇宙艦に乗り組む彼の命が危なくなる可能性は誇張抜きで低かったのも、事実だったのである。

 

 

 アーモリー1の訓練学校で速成のパイロット教育を受けた後、最初にわたしが与えられたのは、ZGMF−601R−ゲイツRというMSだった。

 その頃でも既に陳腐化しつつある機種だったが、戦間期の平穏な時期念入りに整備されていたおかげもあってか、故障の少ない良い機体だった。一応、そのことも書いておかねば不公平というものだろう。

 わたしが配属された隊は、しばらく領宙警備や、航路哨戒の任にあたっていた。時折、月面のアルザッヘルに駐屯している地球軍との小競り合いはあったものの、開戦当初の大攻勢を撃退した後、大規模な衝突は起こらなかった。

 ――今になって考えれば、当時アルザッヘルにいた地球軍は単に鳴りを潜めていたのではなく、秘密裡に建設していた大量破壊兵器から我々の目を逸らそうとしていたわけだが。

 一介のMS操縦士に、そこまで想像できるはずもなかった。

 

 

◆ ◆

 

 

 暫くして、わたしの隊は増援部隊の一部として地球へ派遣されることになった。

 北半球の、ディオキアという町に駐留していた時のことである。そこでわたしは、あのミネルヴァを見る機会を得た。

 元来宇宙艦でありながら、あの忌まわしいユニウス7落着事件(ブレイク・ザ・ワールド) に巻き込まれて地球に降下することになった船。当然すぐに本国へ帰還するべきところ、その前に開戦となったためそのまま地球上を転戦する羽目になった、奇妙なMS母艦のことは、以前から噂に聞いていた。

 その頃は宇宙での戦況にこそ余裕があったものの、地球上では敵の連合が分裂し、逆にあちこちから我が軍への共闘の申し出がなされるなど情勢は複雑を極めており、先次大戦の時以上に戦力はいくらあっても足りない状況だった。

 最新鋭の宇宙艦を地球上で戦わせるなどという、随分ともったいない使い方が許容されたのも、恐らくはそのためだろう。

 だが、話が逸れた。わたしはミネルヴァではなく、それに搭載されていたMSのことを言いたいのだから。その船には、ZGMF−X56Sインパルス、通称インパルスが載っていたのである。

 

 

 ギルバート・デュランダル。今次大戦時における、PLANTの執政者。

 中世仏蘭西国の宝剣と同じ名を持った、いまだ毀誉褒貶定かならぬこの人物について、今更わたしが評論を加えても始まらない。

 ただ、これだけは確実に言えるだろう。

 彼は、軍事のプロフェッショナルではなかった。それは、インパルスの建造に承認を与えたことからも明らかである。

 自らを軍事の素人と称しつつ、作戦現場の指揮に口を出すのが大好きだったとも言われている彼は、寧ろ軍事マニア――無論、悪い意味の――に近かったのではないだろうか。

 

 

 わたしには今も、インパルスを分離合体型にした理由がよくわからない。普通に造ったなら、同程度の火力や装甲を持ちながら、遥かに軽量でかつ安価な機体を建造できたことは明らかなのだが。

 ――もちろん、ユニウス条約でMSの保有数に制限が加えられていたため「これは、MS形態では母艦に搭載できない。従って、厳密に言えば条約で定義されたMSではない」として条約の制限をかわし、実質的なMS保有数を増やす意図があったのは理解できる。

 だが、分離形態で出撃後、いちいち艦外で合体せねばならないこの機体は、味方の援護無しではそもそも出撃できないという欠点を持ち、一刻を争う邀撃などには明らかに不向きと言えた。

 逆に利点としては、修理が簡単であること(なにしろ、壊れたパーツを差し替えるだけでいいのだから)くらいであろうか。

 どうにも、合体型であることそれ自体の優位性は考えにくい。分離可能なことが有利に働く作戦状況など、よほど特殊な場合に限られるはずである。

 ――その結果、やはりというべきか。この機体は結局、鈍重な水上艦や明らかに格下のMS(これについては後述する)に対しては一定の戦果を挙げたものの、当初期待されたはずの「決定的戦力」には程遠い結果に終わった。その戦果にしても、合体機能はほとんど関係なかったそうである。率直に言って、いかにも費用対効果の低いMSであった。

 工廠の技師連中が、素人でマニアのデュランダル議長を騙して造った趣味の産物の、当然の帰結だったと言えば酷評に過ぎるだろうか。

 いずれにせよ

「パトリック・ザラはZAFTを自分の道具にしたが、ギルバート・デュランダルはZAFTを自分の玩具にした」

と評されるのもむべなるかな、というところであろう。

 

 

◆ ◆

 

 

 もっとも、おかしなMSの建造という点では、ZAFT以外の陣営も決してひけをとってはいなかった。オーブ連合首長国の、MVF−M11Cムラサメなど、その典型だろう。

 ダーダネルス海峡の戦い(例の、ミネルヴァやインパルスが絡んだ戦闘でもある)を初めて記録映像で見た時、わたしは、味方の情報部が戦意高揚のため映像に細工でもしたのではないかと、半ば本気で思ったほどである。

「おいおい何の冗談や、これは? ツッコミ待ちにしても、いささかボケがきつすぎるんやないか」

「は、なんのことです?」

 放映後、苦笑しながら話しかけたわたしに、担当の兵はにこりともせずそう答えた。その生真面目な表情を見て、わたしはそれがジョークなどではないことを知り、思わず言葉を失ったものである。

 

 

 40ミリCIWSに撃墜されるMS。そんな代物を、一体誰が想像するだろう。だがそれは、紛れもない現実だった。

 ――地球上に本拠を持つオーブが邀撃機を造ろうとすれば、重力を振り切って短時間に高々度まで上がることのできる大推力、及び大気圏内での高速度と機動性が要求されるであろう。そのため、MSに戦闘機への変形機能を組み込んだ。その設計思想自体は、理解できるものである。

 だが変形機能が付加された分そのMSは、本来より重くならざるを得ないはずなのだ。

 ところが実際には、ムラサメの基本重量は46.88トン。一方、それの1世代前のMSであるMBF−M1アストレイは53.5トン。なんと重くなるどころか、逆に6.62トンもの軽量化がなされているのである。

 技術の進歩を計算に入れても、わずか1世代でここまでの軽量化は常識的には考えられない。いかにすれば、そんなことが可能だったのか。

 ダーダネルスの戦闘結果と合わせて考えたなら、結論は、自ずと一つにしぼられてしまう。

 

 

 ムラサメを造らせた当時のオーブ軍首脳部の考え方をかいつまんで言えば、こういう感じだったはずである。

「これじゃ防御力が弱いって? MSでありさえすればいいじゃないか。装甲の薄さは闘争心と操縦の腕で補えばいい。それに薄いからこそ機動力もある。

 重装甲の敵MSに対抗できない? MS以外の敵、例えば歩兵部隊や艦隊などに対しては充分有効じゃないか(実際には、そういう部隊には当然護衛のMSがついており、それを撃破するためにこそMSが必要なのだが)」

 ――その結果が、たかが対空ガトリング砲に切り裂かれてしまうMSというわけであった。これでは、単なる戦闘機と事実上変わらない。MSとは本来、戦闘機並みの機動性と戦車並みの装甲や火力を併せ持った兵器であるはずなのだが。どこの世界に、40ミリ砲弾を防げない戦車があるだろう?

 機動性を重視するあまり防御力を無視したムラサメは、もはやMSとは呼べない。はっきり言えばオモチャであった。当然ながらこの機体は、対MS戦闘においても、例えば「あの」インパルスにさえ全く歯が立たず、一方的に撃ち落とされるだけだったのである。

 重ねて言う。MSとは、敵のMSと正面切って殴り合えるだけの火力、装甲、機動性を兼ね備えていなければ、何の意味もないのだ。

 敵とはいえ、こんな機体に乗せられ、戦いを強要されるパイロットのことが少し気の毒になったほどである。

 

 

◆ ◆

 

 

 大西洋連邦の主導で建造された重モビルアーマー、YMAF−X6BDザムザザーや、戦略用巨大モビルスーツ、GFAS−X1デストロイも、はっきり言って酷い代物だった。ムラサメ同様防御力に難のあったGAT−04ウィンダムでさえ、これらに比べれば遥かにまともな部類に入るだろう。

 一見して「とにかく大きくて装甲が厚く、火器のでかい奴が強い」という設計思想に基づいているのが分かる。現代に甦った大艦巨砲主義と言うべきか。

 確かに、ザムザザーの装備した陽電子リフレクターは戦艦の主砲さえしのぎ得たし、デストロイの1580ミリ複列位相エネルギー砲スーパースキュラなどは、従来型MSでは到底運用し得ない超強力な火器であった。

 しかし――「大和」は敢えて論じない。それは戦艦であり、MSとの直接比較はできないから――WW2における代表的駄作兵器のひとつを、大西洋連邦技術陣は知らなかったのだろうか。当時、独逸国の高名な技術者Dr.ポルシェが総統を動かし、地上戦艦の実現を夢見て作り上げた、超重戦車「マウス」を。そして、その末路を。

 

 

 ザムザザーにせよデストロイにせよ、戦場に投入された当初にはある程度戦果を挙げたのも事実である。特に、ベルリン攻防戦に初めて現れたデストロイの場合、当初ZAFTは従来型MSによる正面からの撃ち合いを挑んだ挙げ句、一方的にアウトレンジされるという醜態を演じた。

 しかし、それはデストロイの優位性を意味するものではない。単に、当地のZAFT指導部の硬直的な指揮ぶりに問題があったと見るべきである。それは、後にヘブンズ・ベースや月において、連合がザムザザーやデストロイを大量に投入したにも関わらず、ついに戦局を覆し得なかったことからも明白であろう。

 ――兵器とはしょせん工業製品であり、いかに巨大さ重厚さを誇ろうとも、自ずと限界というものが存在するのである。戦艦の攻撃をしのぐ防御力といえど、機体を完全にカバーできるわけではない。そんなことをすれば、重くなりすぎてそもそも動くことすらできなくなってしまうのだ。

 やがて弱点を看破されたこれら重兵器群は、懐に飛び込んだ従来型MSに防御の弱い箇所を突かれ、次々と撃破されてしまうことになった。敵より遥かに厚い装甲と強大な火力を持ちながら、軽快な機動性を誇るMSには結局太刀打ちできなかったのである。要するに、バランスを欠いていたのだ。

 繰り返しになるが、どれほど分厚い装甲を纏おうが、強大な火器を持とうが、それに見合う機動力を持っていないのでは、兵器としては無価値に等しいのである。

 戦争はそれ自体が壮大な浪費だが、歴史に学ばなかったこれら現代の「マウス」たちは、二重の意味で無駄遣いであった。

 

 

◆ ◆

 

 

 もっとも、我々もまた敵を嗤うどころではないことが程なく明らかになるのだから、運命(ディスティニー)とはまことに意地の悪いものである。

 ヘブンズ・ベース攻略に続き、オーブ本国攻撃に参加したわたしは、そこで、初めてZGMF−1000ザクウォーリアに乗ることとなった。これは当時、ZAFTの主力機と目されていた機体である。――正直に言おう。ぴかぴか輝く新品のザクウォーリアを受領したとき、わたしは本当に嬉しかった。恥ずかしい話であるが、感激のあまり涙ぐんだほどなのだ。

 今から思えばまことに馬鹿馬鹿しい限りだが、その時のわたしは、自分の乗るMSが所詮は二線級に過ぎないことを、知らされていなかったのである。

 

 

 「カグヤ海岸に強襲上陸し、そこに橋頭堡を築け」それが、わたしの属する隊に与えられた命令だった。

 劣勢な兵力で戦うことの多かったZAFTには珍しく、はじめから敵よりも多数の戦力を揃え、我々は押し気味に戦いを進めていた。わたしもまた、どこか動きの鈍い敵を前に、余裕を持って戦いを続けていたのだ。ところが、敵陣に二機のMSが出現するに及び、戦況はあっさりと逆転してしまったのである。

 金色のMSには、楯もないのにわたしたちの攻撃がまるで効かない。逆に三色のMSが無造作に放つビームは我々のMSをやすやすと貫いてくる。そればかりか、三つ色は恐るべき機動を見せて、我々が雨霰と浴びせかける弾をことごとくかわしてしまうのだ。

 くどいのを承知で言うが、MSをMSたらしめているのは、攻撃力と防御力、そして機動力が高いレベルでバランスを取っているという点に尽きる。それを欠いたMSは既に兵器ではない。どうしてムラサメやデストロイを嗤えよう。あの金ぴかや三つ色に比べれば、我々のそれもまたオモチャ同然だったというのに。

 わたしのザクウォーリアも、三つ色に両手片足を吹き飛ばされて地面に横転した。それでも、わたしは幸運だったのだ。操縦席への直撃を免れたこと。足に怪我をしないですんだこと。機体が仰向けに倒れたおかげで脱出が容易だったこと。

 どの点が欠けても、動けなくなったところを他のオーブ軍にとどめを刺された戦友同様、わたしもMSの中で炎に包まれていたに違いない。

 負傷したわたしは撤退していく味方に拾われて、命からがら沖の艦隊へと逃げ戻った。いったん病院船に収容された後、カーペンタリアの軍病院へ転送。そこでメサイアの陥落を知ったのである。

 

 

 先次大戦の戦後処理は、誰がなんと言おうと失敗であった。それによる平和が結局2年と持たず、今次大戦の勃発を許してしまったことからも、それは明らかである。

 では今度こそ、我々は過去に鑑み得るだろうか。3度目の戦いを防ぐことができるだろうか。――不吉なことを言うようだが、わたしにはとてもそうは思えない。そう信じるには、世界にはあまりにも火種が多すぎる。

 だが例えそうなったとしても、わたしはもうZAFTに志願するつもりはない。あんな地獄を見るのは、一生に一度で十分だ。

 もしそれが許されないとしても――少なくとも、もうMSには関わりたくはない。

 

 

 あれは確かに、生身の人間とはあらゆる意味で隔絶した鋼鉄の巨人である。だが兵器である以上、それはより強力な巨人が現れればたちまち、単なる人型の柩と化してしまうのだ。強さなど、所詮相対的なものでしかないのである。

 いや、それはまだいい。本当の問題はそんなことではない。

 ――MSに乗るということは、自分が万能の巨神になったかの如き錯覚を、その人間に与えてしまう。巨大な人型機械を、文字通り意のままに操ることができるのだから無理もない。

 しかしその結果、自分もまた結局誰かに操られているのだということが、酷く見えにくくなってしまうのだ。事実、わたしはそうであった。

 どうしても戦いを避け得ないのなら、せめてわたしは、等身大の人間としてそれに相対したいのである。もう、勘違いした巨人になりたいとは思わない。

 

 

(終わり)

 

 


(後書き)

 好! 李章正です。

 以前掲示板に落書きしたものですが、本編のTV放送が終了したので、完成させてみました。

 いろいろと突っ込まれることの多かった本作ですが、李は結構楽しみましたよ。創作物の設定に穴があることなんか、当たり前のことですしね。第一、穴が大きければ大きいほど、2次創作の腕も振るいようがあるというものです(笑)。

 

 さて、オーブ連合首長国についてです。武装中立を国是とし、「侵さず、侵されず」と唱えていたこの国ですが、しかし時代は、ここにそういう中途半端な状態でいることを許しませんでした。

 「侮りを受けないほどには強くなく、恐怖されないほどには弱くなかった」この国は、結局どちらの戦いも、避けることができなかったわけです。悲しいですね。

 ところで、この国を見ていて、幕末の長岡藩を連想したのは多分李だけではなかったと思うんですが、どうでしょうか?

 

「今般姦臣天子を挟んで、幕府を陥れ、御譜代の諸侯、往々幕府に背きて、薩長に通ず、大いに怪しむに堪へたり。余小藩といへども、孤城にこもりて、国中に独立し、存亡ただ天に任せ、以て三百年来の主恩に酬い、かつ義藩の嚆矢たらんと欲す」(河井継之助…『峠』(司馬遼太郎)の主人公)

 

「戊辰の変、我が藩の権臣迷錯して、妄りに私意を張り、遂に敢へて王師に抗じ、城邑陥没し、國家墟と為るに至る。洵に臣子たる者の言ふに忍びざる所なり」(小林虎三郎…『米百俵』(山本有三)の主人公)

 

 前作のウズミ・ナラ・アスハが河井なら、今作のセイラン父子は小林ということになるでしょうか。もっとも、完全にイコールにすると視聴者の支持がセイラン父子に行きかねないんで、権力臭を塗してバランスを取ってありましたが。

 

 ま、どーでもいいことですけどね(笑)。

 それではまた。