酷い砂嵐だ。
黄金色の黎明が、黄土色の砂塵によって覆い隠されている。
びょうびょうと叩き付ける様な風の前に、真っ向から仁王立ち。
しっかと腕を組んで、“敵”がこの砂塵の向こう側に姿を現す瞬間を、ダイゴ=ナカジマは今か今かと待ち望んでいる。
「……時間だ……!」
たった今、作戦開始の刻限を通り過ぎた。目の前に展開されている、カウントダウンを行なっていた小さなウィンドウが、今度は逆に作戦開始からどれだけの時が過ぎたのかを伝えている。
ぽつりと漏れ出たダイゴの呟きが、砂嵐に呑まれて消えていった。
ダイゴの後ろには管理局の魔導師部隊。ただ誰も彼もが例外無く、その身体のどこかしらに負傷を残している。腕を吊っている者、松葉杖をついて漸く立っていられる者、ミイラ男よろしく全身を包帯塗れにした者。ただこれも例外無く、彼等の瞳は煌々と輝いて、生気に溢れていた。
――ずずん。
大地が、鳴動した。
来るぞ! とダイゴが声を張り上げる。彼は魔導師では無い。魔導師達と違いほぼ無傷であるものの、非戦闘員である事に変わりは無い。だが彼は志願してこの場に立っていたし、それを疎む者も拒む者も無い。
己に出来る事と出来ない事を理解し、常に己の出来る最大限の事を行なう。彼は間違い無く有能で、であるからこそ、単なる我儘としてこの場に立っていても、それを邪魔と追い払う者はいなかった。
――ずずん。
――ずずん。
――ずんっ!
一際大きな衝撃が、大地を揺らす。
何か、とても分厚いものがぶち破られる音がして――まるで生物の腹を内側から食い破った様な、くぐもった感じがあった――ダイゴの真正面、およそ三百メートル先で、巨大な砂柱がそそり立った。
天へと向かって巻き上げられた砂塵は、数秒の時を経て物理法則を思い出す。重力に引かれ落下する砂塵。最早砂“塵”という言葉が全くそぐわない、砂塊とでも呼ぶべき質量が一気に地へと叩き落とされ、爆風と共に地表へと広がる。
咄嗟に顔を押さえ、目に砂が入る事を防ぐ。視界は瞬時に塞がれた。がしゃがしゃと後方でデバイスを構える音がする。まだ撃つな、とダイゴは再び声を張り上げるが、その必要も無く、彼等は充分に自制していた。
ざ。ざ。ざ。ざ。
風の音に紛れ、或いはその隙間を縫って、規則正しい音が聞こえてくる。
薄れてきた砂煙の向こうに見える、人型の影。一つや二つでは無い、数十、或いは百を超えるだろう。
紅をひいた様に赤い唇だけが存在する、つるりとした白塗りの顔。意外にお洒落な黒いタキシード。手に持った、無骨な廉価型デバイス。
ビラドーラ古代遺跡。かつてその名称に『古代』がつかぬ時代、その住人達によって作り出された傀儡の兵隊――<コットポトロ>。
本来の役目を忘れ、眼前の存在をただ排除しようと迫り来る、壊れた人形。
「――ナカジマ捜査官!」
「ああ、頼む!」
ダイゴが身を翻し、全速力で駆け出していく。
彼が魔導師達の横を通り過ぎた瞬間、魔力光が煌めき、号令も警告も無しに、攻撃が開始された。
「さあ――祭りの時間だ!」
ダイゴは足を止めない。彼がやらねばならない事はまだまだある。魔導師では無いという事は、魔導師に出来ない事が出来るという意味でもある。“次”の場所に移動しながら、ダイゴは吼える様に快哉を叫んだ。
背後から追いかけてくる轟音に、振り向く事はしなかった。
魔法少女リリカルなのは偽典/Beginning heart
――VolumeⅥ【激突】
「……完成だ」
作戦開始時刻から遡る事、二十分前。
園崎玄十郎の言葉と共に、彼の前に置かれている機械から白い蒸気が一気に噴出する。大型の印刷機を思わせる形状の機械がゆっくりと蓋を開き、その下に収められていたものが姿を現した。
オリジナルと同じ、紅の宝玉。アクセサリーとして首からかけられる様に紐が付いているのが唯一の違いか。無論、オリジナルにあった大きな罅を除けばであるが。
玄十郎の指がそれを摘み上げ、メイリィ=スクライアの掌に乗せる。硬質な感触。ついさっきまで稼動していた機械の中に在ったからか、ほんのりと暖かい。
「これが……切り札」
「そうだ。このデバイスが――これを使うお前も含めて――今日の作戦の切り札になる」
玄十郎の言葉に、メイリィはぶるりと震えた。怖気づいた訳では無い、武者震いというやつだ。メイリィはそう信じているが、本当のところがどうなのかは、彼女自身も分かっていない。
「AIはアウロラをベースとしたものを搭載している。アウロラの兄弟機だな。まあ、まだ生まれたてでアウロラほど人間らしくは無いがな。<Deseo>システムとやらも組み込みたかったんだが、それはアウロラの中なんでな。移し変えるのに時間がかかるから諦めた。アウロラとリンクさせて、システムだけ使える様にしてある」
「えっと……じゃ、アウロラを待機させたまま、この子を使えば良いんですよね?」
「ああ。一応言っておくが、同時起動はするなよ。お前のリンカーコアが保たない……いや、前振りだな。どうせ、いざとなれば無茶するんだろう?」
見透かした事を言う玄十郎に、メイリィは曖昧に笑った。見透かされたのか見え透いているのか、その辺は分からない。
新型デバイスを握り締め、後ろを振り返る。いつも通りの微笑、内心が窺えない作り物めいた微笑を浮かべるセロが、何処か懐かしそうな色をその目に乗せて、佇んでいた。
メイリィはセロにデバイスを差し出した。一瞬迷いを見せるも、セロはデバイスを受け取った。デバイスを眺めるセロの表情には、懐古の情がより色濃く滲んでいる。
彼にとってこのデバイスは、失われた月日に繋がっているのだろう。もう戻らない日々の追憶を、しかし少年はあっさりと打ち切って、デバイスを少女の手へと戻した。
「もういいの? て言うか、これはセロが使った方が良いんじゃ――」
そう言いかけたメイリィをセロはゆるりと首を振って制止し、右耳の鈴を撫でる。りん、と涼やかな音が鳴った。
「僕にハ、コレがありマス。<ククルカン>、使いマス」
右耳の鈴が、【Comprensión】と短く言った。同じデバイスでも、アウロラと違ってククルカンはかなり無口だ。インテリジェントデバイスであるアウロラと比較するのもどうかと思うが――それ以前に、アウロラは玄十郎の趣味なのかかなり口数が多い――、元々そういった機能が組み込まれていないのか、命令を復唱する以外の発言はほぼ皆無。今の言葉が、それの数少ない例外だった。
じゃあ、これはあたしが使うね。メイリィの言葉に、セロと、そして玄十郎が頷く。
「じゃあ、良いか。もう一度説明するぞ」
セロとメイリィが居住まいを正す。
一つ頷いて、玄十郎は今日の作戦を説明し始めた。
「あと二十分もすれば、ヒドゥンの封印が解け、地表に出てくる。バルサザールの動力炉には既に火が入っている、奴はこのエネルギーに釣られて寄って来る筈だ」
第三段階のヒドゥンは、前段階と比べて他生命体の捕食を行なわなくなる。その代わり、より単純にエネルギーそのものを求める様になるのだ。熱や電気、果ては魔導師がリンカーコアで精製した魔力でさえも餌として、次段階で次元災害ヒドゥンを精製するのである。
花の蜜を求める蜂が如くに、ヒドゥンはより大きなエネルギーへと惹かれて寄っていく。この近くで最も大きなエネルギーを生み出すもの。それが次元航行艦、バルサザールの動力炉。突貫作業で修復(応急処置のレベルであるが)を施された動力炉は、格好の餌となる。
問題は、これにジュエルフラワーが反応しないかどうかだが――厳重に封印処理が施してあるので、当面は問題無い。後の事を考えれば艦から降ろすという選択肢も選べない。不安は残るが、こればかりは割り切るしか無いと言える。
「ただし、奴が出てくる前に、コットポトロがぞろっと出てくるだろう。……そうだな、アウロラ?」
【はい。原因は不明ですが、この数百年の間にコットポトロのプログラムにバグが生じた様です。本来は対ヒドゥン用の兵器であるのですが、勝手に起動した挙句、暴走しています】
恐らく、バルサザールの墜落のショックが、その原因だろう。
迷惑な話だ、と玄十郎が吐き捨てる。メイリィも同じ気分だった。
申し訳ありませんとアウロラが謝る。ダウンロードされたデータでしか無く、<アウロラ>の人格データを借用して喋っているだけの――つまり、今のアウロラは一つの人格に二つの記憶がある、逆二重人格と言える存在だ――、本来なら何の責任も負う事は無い存在に謝られて、二人は微妙にばつの悪そうな顔を見せた。
「コットポトロは管理局の魔導師部隊が抑える。問題はここからだ。ヒドゥンは一直線にバルサザールへ向かうだろう。奴が艦に入ったら、すぐにメイリィはフロギストン・ケージを使って、奴をもう一度拘束してくれ」
新型デバイスを作ったのはこの為だ。アウロラでも、オリジナルのデバイスからデータがダウンロードされているので<フロギストン・ケージ>を使う事は出来る。前回は現にそうしている。だがチャージに少なく無い時間を取られ、加えて魔法行使の際に周囲の魔力を軒並み使いこんでしまった。前回ヒドゥンが檻の中に閉じ込められたのは、その魔法が敵にとって初見であった事を踏まえても、奇跡としか言い様が無い。
次はそう都合良くはいかないだろう。簡単に回避されるだろうし、術者であるメイリィを狙ってくる事も考えられる。奴にはそれだけの知性がある。また魔法発動の際の魔力収束が、すぐ近くで戦っている筈の魔導師部隊に悪影響を及ぼす事も考えられた。
故に、より速く、より確実に魔法を行使出来る様に、本来その魔法が登録され、使用が想定されているデバイスの製作が必要だったのである。
「先に注意しておくが、フロギストン・ケージの使用が優先だから、アジャスト機能は停止させている。細かいところはマニュアルで合わせていけ」
インテリジェントデバイスは、使用する魔導師の特性に合わせて自らの機能を調整する事が出来る。戦闘経験の少ない魔導師の為に砲撃魔法を主体とする、魔力変換資質を持つ魔導師の為に魔法術式を変換資質保持者用に組み替えるなどだ。
しかし今回、メイリィに渡された新型デバイスは意図的にそれが封印されている。本来、メイリィは射撃魔導師だ。主に合わせて射撃魔法に特化してしまっては意味が無い。結界魔法の行使が前提なのだ。
「ただ、まあ――新型と言っても、それでも多少のタイムラグが出る。奴を拘束する前に、動力炉を壊されたり、エネルギーを吸い尽くされたんじゃ意味が無い。そこでセロに、少しの間だけでもいい、奴を足止めしてもらう」
新型デバイスでフロギストン・ケージを使うならば、アウロラで行使するよりも遥かにチャージの時間は短く、効果の発現も速い。だがそれでも即時発動とはいかない、あの時にメイリィが必死で逃げ回った様に、時間稼ぎは必須。だが先の戦いと違い、相手に油断が無い以上、その難易度は圧倒的に高くなる。
セロニアス=ゲイトマウス=チェズナットに与えられた役目は、囮として敵の注意を惹き、足止めする事。命懸けの遅滞戦闘、彼の“死に難さ”を頼りとした、捨て駒とも呼ぶべき役回りだった。
「頃合いを見計って、奴を艦の中に誘いこむ。そこでフロギストン・ケージを放って奴を拘束。その後、バルサザールの次元航行システムを作動させて、次元空間に艦を押し出す。後は残ったエネルギーをジュエルフラワーに全部喰わせて、増幅させたエネルギーで次元断層を作り出し、虚数空間に艦ごと奴を叩き落とすって寸法だ」
虚数空間――次元断層によって引き起こされる、次元空間に空いた穴。この空間では全ての魔法がキャンセルされてしまい、飛行魔法も転移魔法も使えず、一度落ちれば二度と上がってくる事は出来ない。
加えて、ヒドゥンの元となった魔導生命ギャラガは文字通り魔導技術によって作り出された生命体。虚数空間では碌に身動きも取れなくなる。落とせばまず間違い無く、ヒドゥンは奈落の底へと落ち続けていくだろう。
懸念は残る。ジュエルフラワーが予想の出力に達せず、次元断層を作り出せなかったら。バルサザールの動力炉や次元航行システムが直りきっていなかったら。いやそれ以前に、セロが足止めに失敗したら、メイリィが魔法の発動に失敗したら。綱渡りどころか、蜘蛛の糸を渡る様な策である事は否定出来ない。
「ま、とうに賽は投げられたってやつだな。今更心配しても仕方無い。寧ろ終わった後の事を心配しようか、そっちの方が遥かに建設的だ」
苦笑しながら、玄十郎が言う。
ジュエルフラワーの暴走によって次元断層を作り出す。これは同時に、かなりの規模の次元震も引き起こしてしまう。<アジャンタ>だけでは無く、近くの次元世界にも被害が及ぶだろう。また半壊しているとは言え、次元航行艦を一隻丸ごと捨ててしまうのだ。管理局が何を言うか、分かったものでは無い。
さて、と玄十郎がウィンドウを開く。作戦開始まであと一分、60という数字が59、58と減っていった。
【マスター】
「なに? アウロラ」
【新型デバイスの名前は――もう、決められましたか?】
頷く。
完成したばかりのデバイスには、起動用の呪文を設定する作業が必要になる。デバイスを譲ったり、使用者が変わったりする際にはこのパスワードを詠唱する必要があり、このパスワードの中に、デバイスの名前やそれに関連する事柄を入れるのが常である。
メイリィは既に名前を決めている。そして起動呪文も。
あの日、地の底で自分を奮い立たせた、あの言葉。
――目を開けよ。顔を上げよ。その魂に宿る不屈の心こそ、絶望の天敵――
「レイジングハート。それが、この子の名前」
【不屈の心――ですか。良い名です】
【Thanks,master.】
ブレスレットの宝玉が少女の手首で、名付けられたアクサセリーが少女の掌で、それぞれ嬉しそうに明滅した。
そして甲高いブザーの音が、テントの中に響く。
長い一日の始まりを告げる音。その音に弾かれる様に勢い良くメイリィは立ち上がり、立ち昇る陽炎の様にゆらりとセロが立ち上がる。
「さて。そろそろ仕事に入ろうか。……メイリィ」
「うん」
「セロ」
「はイ」
ふん、と玄十郎が少女と少年の顔を見回して、にやりと笑った。
「死ぬなよ。くたばるのは年寄りからってのが、この世の決まり事だ」
こくりと無言で頷いて。
静かに掲げた玄十郎の掌に、メイリィはぱぁんと自分の掌を叩き付ける。
「行ってきます!」
「ああ。行って来い」
そうして。
少女は少年の手を引いて――外へ飛び出した。
状況は早くも膠着状態に陥り――そして今にも破られようとしていた。
地の底へと続く穴から、雲霞の如く湧き出てくる傀儡兵の群れ。スクライア一族の居住地へ向かわせる訳にはいかないと、管理局魔導師達による必死の防戦が続けられているが、所詮は怪我人の寄せ集め、敵の浸透を完全に阻む事は出来ていない。戦線に楔を打ち込めるだけの戦力を持った者も居らず、じわじわと物量差が彼等を蝕み始めている。
遠からず戦線は崩壊し、敵の群れが雪崩を打って浸透してくるだろう。予想を遥かに超える敵の数に、少数ではあっても精鋭では無い魔導師部隊はそれに対抗する術を持っていない。園崎玄十郎が組み上げた策は、初っ端から『予想以上』という、如何なる策においても共通にして最大の敵に崩れ去ろうとしていた。
だが。
「お待たせしましたー!」
魔導師達の誰もが、すぐそこに迫った破滅に背筋を震わせた瞬間、酷く能天気で緊張感に欠ける声が割り込んだ。
一人の少女が、淡いクリーム色のローブを羽織った少年を引き連れてこちらへ向かってくる。戦場に子供が姿を現す事は不可解であったが、その姿を認めた管理局の魔導師部隊が一様に安堵と思しき表情を浮かべたのも、また不可解。
だが少女はその不可解をさも当然のと言わんばかりの顔で受け入れて、少年と共に戦列の最前線へと踊り出る。
「んじゃ、行くよ――アウロラ、レイジングハート!」
【了解です】
【All right.】
少女が右腕を掲げる。その手首には紅い宝玉の嵌め込まれたブレスレット。その指には紅い宝玉のアクセサリー。二つの装飾品がそれぞれ別に、主の言葉に応える。
「風は空に、星は天に、輝く光はこの腕に、不屈の心はこの胸に……!」
少女の言葉に呼応して、アクセサリーが光を放つ。薄い水色の魔力光。サーチライトの様に周囲を照らし出すその光は、溢れ出る泉の如く光量を増して、一帯を包んでいく。
「<レイジングハート>、セットアップ!」
【Stand by ready,set up.】
瞬間、光が爆発的に膨れ上がり、少女の身体を包みこんだ。光の中で衣服が再構成され、独特な意匠のバリアジャケット――彼女の本来の相棒とほぼ同じ意匠だが、色彩が異なる――が彼女の身体を包んでいく。全体的に無骨な印象のある管理局のバリアジャケットと違い、彼女のそれは装甲部が殆ど無い、民族衣装の様でいて踊り子の様にも見える、独特の雰囲気を持っていた。
ひゅんと魔導杖を振り回して、少女が見得を切る。同時に、彼女の隣に居る少年が一歩前に出た。りん、と涼やかな音が鳴る。それが彼の右耳に付けられた小さな鈴からであると周囲の人間達が理解した瞬間、彼の指がその鈴を弾いていた。
「起きロ、<ククルカン>」
【Comprensión,El comenzar.】
少年の言葉に鈴が応えた瞬間、鈴を中心に赤褐色の魔力光が溢れ出た。光と呼ぶにはあまりに重い色合い、それはまるで鮮血が滲み出る様で。
淡いクリーム色のローブが粒子となって消え、色と形を変えて彼の身体へ戻っていく。白い詰襟の服、肩に巻かれた漆黒のストール、膝から下を鎧う巨大な装甲靴。弾けた光の残滓が前腕に環状魔法陣となって残り、ハーフフィンガーグローブに嵌め込まれた青い宝玉が一度明滅した。
「魔法少女メイリィ=スクライア! 只今見ッ参!」
びしぃっ、と無意味な決めポーズと共に、少女――メイリィ=スクライアが名乗りを上げる。対して少年――セロニアス=ゲイトマウス=チェズナットは(さすがに恥ずかしいのか)、何も言わずに一歩、コットポトロ達に向けて踏み出した。
と、そのストールの裾が掴まれる。ぐいと首が締まり、「うぐ」と少年が呻いた。
「む。ちょっとセロ、ノリが悪いよ! ほら、なんか決め台詞!」
「え? ……えっト、うーン……ぼ、僕、参上?」
へぼっ! という少女のかなり容赦無い(その上不条理だ)罵倒に、少年はがくりと項垂れた。
「それならせめてさ、『天の道を行き、総てを司る……』とか欲しかったのになー。あ、今は『キバっていくぜ!』の方が良かったかな?」
「……すみまセン」
コントの様なやりとりの間にも、コットポトロは迫ってくる。
一発の魔力弾が頬を掠め、そこで漸く少女は自分が何をしにきたのかを思い出したらしい。
魔導杖をひゅんと振り翳し、水色の魔力弾を精製する。その数七発。どん、と空気を引き裂く轟音と共に、砲撃と見紛う程の威力を伴って――威力の強弱はともあれ、括りとしてはそれは射撃魔法に属する――魔力弾がコットポトロの群れのど真ん中へと落下、大爆発を引き起こした。
吹っ飛ばされたコットポトロが紙屑の様に宙を舞う。少女が「見ろ、人げ……人形がゴミの様だ!」とか何とか言っていたが、誰も聞いていない。
少女の攻撃によって乱れた敵戦列の中央へ、灰髪の少年が突っ込む。重厚な装甲靴で軽快に地を蹴って、跳躍。コットポトロの群れの中に降り立った少年は両腕を広げ、周囲三百六十度を囲む傀儡兵へと掌を晒した。前腕の環状魔法陣、そしてグローブの宝玉が明滅し、掌に纏わせた赤褐色の魔力光がシャワーの様に“横方向から”吹き付けられ、鑢をかけた様に敵の装甲を削り取っていく。
戦線に楔が打ち込まれ、敵の攻勢が鈍った。その機を逃すまいと、管理局魔導師達の一斉射撃が放たれる。雨霰と降り注ぐ魔力弾を防ぎきれず、人形達は次々と数を減らしていった。
だが、散乱する破片と立ち昇る黒煙、そして一向に収まらぬ砂嵐の向こう側に、更なる人形の群れが姿を現す。
整然と隊列を組み、行進曲に合わせたかの様な一糸乱れぬ足取りで、増援が此方へと向かってきていた。
「……マジかよ……」
誰かがそう呟いた。
倒しても倒しても、壊しても壊しても、次々と湧いてくる敵。緩やかであった筈の絶望が、急速に彼等の心を蝕んでいく。
しかし――そうでない人間、絶望に縁の無い人間も、少なくとも約二名存在していた。
一人は、今以上にどうしようもなくどうなりようも無い、徹底的な絶望を知っているから。
そしてもう一人は、ちょっとやそっとの絶望では決して折れる事の無い不屈の心を、その胸に持っているから。
「はいはーい、ちょっと離れてくださーい!」
ごぅん、と重低音が響き、水色の魔力光が周囲に広がった。
少女がコットポトロの増援へと向け、魔力杖を構える。魔力杖を四つの環状魔法陣が取り巻き、足元にも通常型の魔法陣が形成される。
使い慣れてない魔法なのか、魔法陣は妙に不安定。普通は使い慣れない魔法を実戦で使用する事など有り得ない。にも関わらず、しかもこの状況下で使うという事は、逆説、その魔法の威力か効果、或いはその両方に、少女が信を置いている事を示していた。
「いっくぞぉ……! ディバイン・バスタ――!!」
【Divine Buster.】
先の魔力弾が空気を引き裂いて飛んでいったのなら、この砲撃は空気をへし砕いて撃ち放たれたというべきか。
大気という壁をぶち抜いて、水色の光柱がコットポトロの戦列を薙ぎ払う。対物破壊、つまりは殺傷設定の魔力砲撃は徹底的な暴力として人形達を蹂躙する。爆発、爆発、更に爆発。轟々と炎が、煙が噴き上がり、砂漠は地獄と化した。
「……っ、くぁ……」
不意に、少女ががくりと膝を折った。息は荒く、顔色こそ悪くないがべっとりと汗を掻いている。魔力を一気にもっていかれた事によるブラックアウト。先の魔法、威力は確かに目を見張るものがあったが、それだけ術者の負担も激しいという事らしい。
少女の隣に赤褐色の魔法陣が現れ、一瞬それが強く瞬いたかと思うと、敵戦列へと突っ込んでいった筈の少年が姿を現した。
「大丈夫ですカ、メイさん」
「ん……大丈夫。レイジングハート、結構凄いね。あたしの瞬間出力じゃ、追っつかない感じ」
指紋や声紋などと同じ様に、魔導師の資質は人それぞれに違う。大気中の魔力素を魔力に変換する効率に優れる者、放出した魔力の制御に優れる者。またリンカーコアによって変換した魔力を、瞬間的にどれだけ搾りだせるかも人それぞれだ。
その最大瞬間出力において、メイリィ=スクライアは特筆すべきところがある訳では無いが、決して他の魔導師に劣っている訳では無い。そんな彼女をして、ただ一発の砲撃で消耗させる魔法、そしてデバイス。優れた魔導師でなければ使いこなせない、残念な事に、そして少女にとっては多少屈辱的な事に、彼女はその水準を満たしていなかった。
……ただ、根がポジティブな彼女の事、水準を満たしていないのはあくまで“今”の自分であると割り切っていたのだが。
「少し、休んでいて下サイ。無理、いけまセン」
「あはは。ありがたいけど、それ、ちょーっと無理かなー」
少女が前方を指し示す。
天すら焦がさんと燃え盛る炎壁が、少女に指し示された瞬間、ばっさりと切り裂かれた。
一拍遅れて、猛烈な圧がその場に居た者達の身体に圧し掛かる。物理的なものでは無い、魔力的なものでも無い。本能が感じる重圧。生物としての絶対的な格差を思い知らせんと、重圧が精神を押し潰す。
ざり。
わざとらしい足音と共に――銀色の悪夢が、少女と少年には再び、それ以外の人間には初めて、その眼前に姿を現した。
「<ヒドゥン>……!」
少年が呟く。その言葉に含まれるのは、恐れか、喜びか。
口の端を吊り上げて、少年が一歩前に出た。掌に纏わせた魔力光がその厚みを増し、先端を反り尖らせて、まるで鉤爪の様な形状を取る。
炎壁を切り裂き、異形の銀色蜥蜴が進み出る。その向こうに、コットポトロのものと思しき残骸が積み重ねられ、或いは打ち捨てられているのが見えた。恐らくはあの蜥蜴が破壊してしまったのだろう。大局的に見れば、蜥蜴とコットポトロは協力し合える関係にあるのだが、蜥蜴にそれを知る術は無く、知ったとしても暴走しているコットポトロは蜥蜴にも遠慮なく攻撃を仕掛ける筈。現にそうなって、人形達は蜥蜴の後ろで無惨な姿を晒す事になったのだろう。
少年が手を上げる。その挙動は、後ろに居る管理局の魔導師達に下がれと告げていた。少年と少女を残し、魔導師部隊が退いていく。この場のコットポトロはほぼ全滅したが、他のところから出て来ないとも限らない、彼等は引き続き警戒に当たるのだ。
轟々と燃え盛っていた炎壁にも、もう勢いは無い。風に乗る砂塵に勢いを削がれ、今では申し訳程度に緋を残すのみ。ちらりと蜥蜴人間――ヒドゥンはその緋色を眺めやると、天を仰いで――
「GrrrruuaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHHHHHHHH!!!」
歓喜の様な、叫びを上げた。
「…………ッ!」
びりびりと肌を叩く、衝撃波の如き咆哮。
「セロ、お願い」
「はイ」
少女が魔力のチャージを始め、バルサザールに向けて走り出す。この場に残るのは少年と蜥蜴のみ。蜥蜴は先へ進もうとし、少年はそれを阻もうとする。故に彼等は敵同士。五百年前から定められていたその関係は、五百年後の今になって尚、何ら変わりはしない。
ヒドゥンが姿勢を低くして、突撃の態勢に入った。対して少年は掌を上へ向け、敵を威嚇するかの様に、魔力光で形成された鉤爪を晒して、迎撃の意思を示している。
空気が張り詰めていく。ぎりぎりと引き絞られた弓弦の様に、それは爆ぜる瞬間を待っていた。
そして。
「――――!」
「…………!」
爆発が起こった。
否――それは爆発では無い。蜥蜴が地を蹴った衝撃が、後方の空間を吹き飛ばしただけだ。
大地を蹴る反動に加え、魔力による加速は、二メートルを超える巨体に音速にも等しい速度を与えている。握りこまれた拳に魔力が収束し、肉体を強化して、鉄塊の如き硬度となった。
繰り出される拳。それが直撃すれば、人間一人の身体など木っ端微塵に粉砕されるだろう。だが少年は僅かに身体をずらし、蜥蜴の腕を横から弾く事で拳の打突を捌いた。
ただし決して無傷では無い、蜥蜴の速度と質量はそれだけで威力。蜥蜴の拳を捌いた少年の左腕が、バリアジャケットの防御も無視して、ぞりっと肉を削られる。飛び散る肉片を、しかし少年は一顧だにしない。
ひゅん、と鞭の様な撓りをもって、少年の右腕が振るわれる。その掌には赤褐色の魔力光。少年は先日も、同様の攻撃を蜥蜴に繰り出している。防御一つせず、ただその皮膚の硬度だけで防がれたその一撃は、しかし以前ほど分厚く魔力光でコーティングされていないにも関わらず、蜥蜴の皮膚を切り裂いた。
浅い。皮膚一枚で、その下には届いていない。だが、“攻撃を通した”という事そのものに驚いたか、蜥蜴は後方へ飛び退き、一度間合いを離した。
切り裂かれた蜥蜴の皮膚から、じわりと紫色の体液が滲み出る。指で掬ったそれをべろりと舐めるその仕草が、酷く人間臭い。
「…………はは」
少年が、薄く笑う。
掌に纏わせた魔力光が、その濃度を強める。鮮血を纏わせた様に重く、禍々しい色合いへと。
蜥蜴の皮膚を切り裂いた一撃は、先日防がれた一撃と、基本的には変わり無い。ただしあの時は魔力を重層的に上乗せしたのに対し、今回は徹底的に圧縮して高密度にしてある。言うなれば、鎚と刃の違いだ。砕く事は出来ずとも、切り裂く事は出来る。今の一合で、それが証明された。
ただし――皮一枚、だ。
今の状態では、それが精一杯と言える。
少年は往時の力を未だ取り戻していない。五百年という時間は本来一騎当千たる彼の戦力を完全に錆び付かせた。だがその一方で、時間経過によって身体の性能が落ちる事は有り得ないというのもまた事実。定期的な整備補修を必要とする機械では無く、怠惰によって鈍らとなる生物でも無い。体内を流れる魔力によって、常に最善を維持する事が出来るのが彼の身体の特質だ。ならば往時と比してその戦力が格段に劣る理由は一体何か。
簡単な事である――勘、だ。
戦闘、闘争、殺し合い。表現はどうあれ、『戦う』という行為において最も重要なものは何か。敵を圧倒する性能か、積み重ねた経験か。人によってその答えは様々だろう。そして少年はその問いに対し、勘、という一言を持って答えとしている。
五百年で鈍ったのは身体能力では無い。勘である。先の戦闘で蜥蜴に圧倒されたのは、つまるところこれが理由であり、そして今、曲がりなりにも蜥蜴と渡り合っていられるのもまた、これが理由。
戦闘に対する勘を、少年は急速に取り戻し始めていた。
無論それは、少年と魔獣の間にある絶対的な不利を覆すほどのものでは無いのだが。
「Gruuuuuuu.............ruuuuAAAAAHHHH!!」
近接戦闘では不利と見たか、蜥蜴が戦法を切り替えた。
大きく開かれた口内、そして両の掌に魔力光が集まっていく。魔導兵器として作られたヒドゥンは、魔導機器による補助を必要とせず、本能に等しい段階で攻撃魔法を行使出来る。
直射型砲撃魔法。先にメイリィ=スクライアが使った<ディバイン・バスター>を遥かに上回る規模の砲撃が、それも三発、ただ一人の標的に向けて放たれた。
だがやはり蜥蜴は蜥蜴、先の経験をまるで活かせていない。或いは怒りが、その知性を鈍らせたか。
銀色の光柱となって迫る砲撃は、少年の前に展開された魔法陣に飲み込まれ、消失する。直後、蜥蜴の上方、右、そして後方に現れた魔法陣から、先程飲み込まれた魔力光が吐き出され、蜥蜴の身体を飲み込んだ。
猛烈な爆風が少年を叩く。咄嗟に顔を庇うものの、爆発の余波はバリアジャケットのフィールドを抜いて、その高熱で少年の顔を焼いた。すぐにじゅくじゅくと音を立てて『復元』が始まるが、痛みはそれが終わるまで抜ける事は無い。
引き攣る様な感覚に顔を顰め、少年は顔を庇う腕を降ろす。
その一瞬が、致命的だった。
蜥蜴が、先の経験を活かしていないのならば――少年は逆に、先の経験があった為に、そこに油断を生じさせてしまった。それは逆説、少年が未だ勘を取り戻しきっていない事の証左でもあった。
噴き上がる黒煙の中から、一発の魔力弾が放たれた。その速度はまさしく規格外。音速を超えて飛来する弾丸は少年が反応するよりも遥かに速く、バリアジャケットなど薄紙の如くに彼の胸を貫き、血肉の花を後方に咲かせた。
「――がっ!」
魔力弾が貫いていったのは右胸、それもやや鎖骨寄りの上方。心臓には直接当たらなかったが、しかし不幸中の幸いと言えるものでも無い。
少年の口から血が溢れ出る。ひゅうひゅうと妙な音が吐息に混じった。肺が潰れたのだろう。同時に鎖骨やら肋骨やら、周囲の骨も軒並み折れるか砕けるかしているのか、少年の右半身は妙な形状に歪んでいた。
がくりを膝をついた少年の目に、銀色が映りこむ。自身の放った砲撃を返され、その皮膚は所々が焦げ、焼け爛れていたが、目を奪われる様な銀色は些かも衰えていない。
べきべきめきめきと少年の身体が『復元』されていく厭な音が響き、蜥蜴の足音がそれに被さる。
だが状況は、その二種の音だけが存在する事を許さなかった。
「!」
背後で聞こえた重い音に、少年は振り返る。大型の機械が稼動する音。金属が擦れる音。積みあがった砂が崩れる音。それらが混じりあって少年のところまで届き、彼の眼の前に広がる『信じられない光景』を補完する。
「……何デ……!」
彼が、目にしたもの。
予定を外れ、策から離れ、<アジャンタ>の空に浮き上がった、時空管理局次元航行船<バルサザール>の姿だった。
「ふんぬぉああああああああああっ!」
咆哮と共に――跳躍。
一瞬、身体が重力の鎖を忘れ、しかし次の瞬間には思い出して、ダイゴ=ナカジマの身体は落ちていく。
だが幸運にも、と言うか狙い通り、突如として浮上を開始したバルサザールの開きっぱなしな昇降用ハッチに取り付く事には成功した。
あと一秒跳躍が遅れていたら間に合わなかっただろう。伸ばした手がハッチのすぐ傍を空振って、彼はそのまま砂に覆われた地表へと落ちていた。それはそれでおいしい展開かもしれないが、生憎とダイゴには命を懸けてまで笑いをとろうという気は無かったし、現にそうはならなかったのだから、それで良しとするのが正解だ。
動力炉と次元航行システムが何とか使える程度にまで回復しているとは言え、今のバルサザールはスクラップ一歩手前だ。それを無理矢理動かして、挙句飛翔させたのだから、艦体はがたがたと不気味に揺れている。取り付いたダイゴは振り落とされない様必死にしがみつき、気合の叫び、というか奇声を発しながら、何とか艦の中に文字通り転がり込んだ。
「くそ、一体どこの馬鹿だ!」
毒づきながら艦橋へと向かって走る。地震の様な揺れが断続的に続いていて、走り辛い事この上無い。
一体誰が――とは言うものの、ダイゴには概ね想像がついている。艦を動かすには最低限、停止したシステムの起動コードを知っている人間がいなければならない。今回の策では外部から副艦長が起動コードを送信、次元航行システムを動かす予定だったが、当然ながらまだその時では無い。動力炉自体は“餌”として既に火が入っているから、次元航行システムさえ起動させれば、バルサザールは飛べるのだ。……ただし艦の制御はほぼ不可能、次元空間に出たところでコントロールを失い漂流する事になるのは明白であるが。
起動コードは当然ながら、艦の責任者にしか知らされていない。そこらの一兵卒が簡単に動かせる艦など有り得ない。バルサザールの乗組員にしても、知っているのは先に挙げた副艦長と、そしてもう一人、その上司。
何度も転倒しながら、ダイゴは何とか艦橋に辿り着く。艦内はどこもドアが開きっぱなしであるのだが、此処だけはしっかりと扉が閉まり、ロックもかけられていた。それはつまり、艦を動かした人間が此処に居る事を示している。
がん、と思いきり扉を蹴りつけた。扉はびくともしない。敵性魔導師との移乗白兵戦を想定して設計されているのだ、ちょっとやそっとで破れる筈が無い。
「おい! 何考えてやがる、開けろッ!」
がんがんがん、と何度も拳を打ちつけ、中に居る人間に向けてダイゴは怒鳴る。
返事は無い。まあ、ここでのこのこと顔を出す様な阿呆なら、そもそもこんな大それた真似はしない。
――そう、『大それた真似』である。
艦橋に居る人間が何故この様な行動に出たのか、ダイゴには薄々分かっている。至極単純な話だ、逃げ出そうとしているのである。自分の部下や同僚、果ては護るべき民間人を置き去りにして、その責任も義務も一切合財放棄して、ただ一人逃げ出そうとしているのだ。ベクトルはどうあれ、その恥も外聞も無い逃げ出しっぷりは、確かに『大それた』と表現するに相応しい。
それを許すほど、ダイゴ=ナカジマは甘くなかったが。
「どりゃああああっ!」
裂帛の咆哮と共に、渾身の体当たりが遂に扉をぶち破った――と言えれば良かったのだが、実際には扉の開閉システムが度重なる衝撃に誤作動を起こし(先日の墜落の時点で、既に異常が起こっていたらしい)、その直前に開く。体当たりをすかされたダイゴの身体は勢いを止められぬままに艦橋に飛び込み、体勢を崩して転倒した。
「き――貴様!」
上から声が降ってくる。見上げれば、そこにはやはり予想通り、バルサザール艦長の姿。
いつの間に意識を取り戻し、そしていつの間に艦に入り込んだのか。その疑問は無意味だった。現にこの男は此処に居るのだから――そして、ダイゴ達が己の命という最大のチップを賭けた策を、台無しにしてくれようとしているのだから。
「アンタ……何やってんだよ……!」
低く抑えた声になったのは、それだけ、ダイゴが怒っているという事。
高温の炎は赤く燃え盛らず、青く収束して、静かに燃える。今のダイゴはまさしくそれだった。
「何を――だと?」
にやりと艦長が笑う。
頬の肉を歪ませたそれは、笑みと呼ぶにはあまりに醜い。蒼白な顔色をしているのだから、尚更。
ぎしりと拳を握りこんだダイゴに対し、「はっ!」と艦長は心底馬鹿にしきった様に吐き捨てた。
「決まってるだろう。私は戻る。本局にこの異常事態を知らせ、増援を連れてくるのだ」
「本局にはもう伝えてある! 増援は間に合わねえ! 連中がちんたらしてる間に、この世界は――」
「別に構わんだろう。どうせ観測指定世界だ、管理世界と違って文句も出んよ」
艦長の言葉が冷水となって、ダイゴの激情を冷却していく。
だがそれは怒りを収めた訳では無い。融解した銑鉄が急冷されて鋼と化す様に、より強く、より剛く。
「……ふざけんな……!」
九十九を救う為に、一を犠牲にする。それは仕方ないと、ダイゴは理解している。切り捨てられる一の中に自分が入る事になろうとも、それで九十九が救えるのなら、まあ、諦めもつく。
だが今、この男がやろうとしているのは、自分という一を救う為に九十九を切り捨てる行為だ。大局的に見れば、それは他の次元世界という、九百九十九を救えるのかもしれない。だがそれを、ダイゴ=ナカジマは赦せない。百が揃って生き残る為に戦っている者達を、得手勝手に切り捨てるなど、赦せる筈が無い。
『ヒーロー』になりたい――そう公言出来る彼は、そんな真似を赦せない。
例えそれが、他人のエゴを自分のエゴで押し潰すだけだとしても。
「ふざけんな、手前ぇ!」
ぶぢん、と頭の奥で何かが切れる音がした。
怒りが一気に思考を漂白し、鋼の激情は理性を突き破って、彼の身体をつき動かす。
後の事は既に頭から消えていた。とにかく奴をぶん殴る、彼の頭にはそれしか無く、彼の身体は最も効率良くそれを為す為の機械と化す。
が。
その拳が艦長の頬を捉える寸前――否、捉えた瞬間、艦長の姿が霞の様に掻き消えた。
「!?」
艦長は魔導師では無い。今のは幻術魔法の一種だろうが、それが使える筈は無い。リンカーコアを持たない者は魔法を行使出来ない、それは厳然としたルールだ。
じゃあ、何故――とダイゴが周囲を見回した瞬間、不意に後頭部に強烈な衝撃が走った。
がくりと脚から力が抜け、視界が歪む。後ろから殴られた、それに気付いた瞬間には、ダイゴの身体は艦橋の床に力無く倒れ伏していた。
視界の揺らめきは収まらない。世界に存在する総てが硬度を失ったかの様に、ぐにゃりと歪んでいる。ぐにゃりと歪んで――輪郭を失い、溶け合い始める。
違う。これは、頭を殴られたせいじゃない。力が入らない腕を無理矢理支えにして、身体を起こす。風景が一変していた。バルサザールの艦橋である事に違いは無いのだが、つい一分前までと配置が違う。艦長席の近くで殴られた筈の自分は、いつの間にかオペレーター席の下に転がっていた。
本来、この艦――<バルサザール>の乗組員では無いダイゴには知る由も無い事。侵入者迎撃用システムの一環として、艦橋には一つの仕掛けが打たれている。侵入者が艦橋へと足を踏み入れた瞬間、その視覚情報に介入する魔法を自動で発動させるという仕掛け。自動的であるが故に定められた効果しか発現しないが、魔導師で無くても使う事が出来る。
言ってしまえば、ダイゴが見ていたものは全て幻。会話自体に嘘は無いが、彼が見ていたのは全て嘘。あらぬ方向を向いている相手に忍び寄り殴りつける。子供でも出来る事だ、どんな無能でも出来る事だ。そう、バルサザール艦長にだって。
「や、野郎……!」
仕掛けの存在に気付かずとも、何かをされた事には気付いた。
床を転がってその場を離れ、オペレーター用の椅子にしがみついて後ろを振り向く。鉄パイプを手にした艦長が、傲岸そのものといった顔で見下ろしていた。幻の中の彼よりも尚、保身と利己欲が滲み出た反吐の出る表情。それが、ダイゴに向けられている。
「ふん。しぶといな、魔導師でも無い癖に捜査官になっただけの事はある」
「そりゃ、どうも……ッ!」
再び振り降ろされる鉄パイプ。咄嗟に横に跳んで躱すも、脚に力が入らない状態ではそれが精一杯。振り降ろされた一撃はオペレーター席を殴り付けるだけだったが、次いで横薙ぎに振るわれた一撃が、防御した腕ごとダイゴの身体を吹き飛ばした。
技も術も無い、力任せの素人丸出しな一撃。だがそれを躱しきれない。後頭部を強かに殴り付けられて、まだ意識を保っているのが異常なのだ。ふらつく頭にがたつく身体、出来損ないの自動人形の様な動きで、ダイゴは力任せに振り回される暴力から逃げ惑う。
「全く、とんだ手間だ。貴様など乗せなければ、こんな事にはならなかったと言うのに……だがこれですっきりだ、貴様が死ねば問題は無い!」
「冗談、んな事したらアンタだって……!」
唐竹割りに振り降ろされた鉄パイプを弾く。近くのコンソールにぶつかって、甲高い音が鳴った。
「は! 貴様如き下っ端が一人死のうと十人死のうと知った事か! 『叛乱を企てたので処分した』とでも報告すれば良い、死人に口無しだ!」
「け、小物だねぇ……そーゆーのは、思ってても口に出さないもんだぜ……!」
「黙れ!」
今度は、躱しきれなかった。がづんっ、と鈍い音が響き、どろりとした感触が左眉を伝い、目を塞ぐ。
同時に足がもつれ、転倒した。とどめとばかりに振り降ろされる一撃。それを転がって回避し、無様に後ずさって距離を取る。
「大体、下じゃアンタの部下達が戦ってんだぞ……それを見捨てて一人だけ逃げようってな、どういう了見だ……!」
「知らんな。どうせ使い捨ての局員ばかりだ、こうして使うのが当然だろう?」
ぎしりという音は、噛み締めた奥歯が軋みを上げた音か。
震える脚に拳を打ちつけ、きつく唇を噛み締めて、滲む視界に輪郭を取り戻させる。
「ああ、そうだな……誰かの命ってのは、所詮誰かの命だ。自分のじゃねえ」
「ほう。思ったより、理解力のある男だな」
「分かってる……分かってんだよ、そんな事。死んだのは親父で、生き残ったのは俺だったんだからよ……」
「…………?」
意味不明な事を言い出したダイゴに、艦長は眉を寄せて、変な生き物でも見る様な視線を向けてくる。
――ああ、貴様には理解出来ないだろうさ。絶対に。
脳裏を過ぎるあの日の記憶。ダイゴ=ナカジマの原初。強く優しい父親の、あの背中。
「親父は強かった……誰よりも強くて、何よりも格好良かったんだ……!」
――俺にとっての、ヒーローだったんだ。
偉大な父親に憧れて、ああなりたいと願って。それは決して珍しい話では無い。何処にでもある、ありふれた話だ。
そんなありふれた話に、ダイゴ=ナカジマは人生を懸けた。理想に最も近い姿になれると信じて、時空管理局に入った。捜査官になった。
現実は甘くない。ヒーローなんて必要無い、そんなものが無くても世界は回るのだから。それを思い知らされた事も、一度や二度では無い。否、彼は常に理想に裏切られて生きてきたと言っても良いだろう。
世界はいつも、『こんな筈じゃ無い事』ばかりだ――いつだったか、管理局の先輩がそう言っていたのを覚えている。
人を救える者がヒーローだ。悪を叩き潰す者がヒーローだ。彼が思う二つの定義は往々にしてぶつかり合い、諸共に折れる。
けれど。
少なくとも――今は。
脅威に晒されている人間が居る。脅威に立ち向かおうとする人間が居る。そしてその人間達を踏みつけに、生存本能では無く単なる欲で、一人だけ逃げようとしている者が在る。
それを悪と断じる事に、躊躇を覚える事は無く。
ならば、ダイゴ=ナカジマが理想とするヒーローが、戦わない道理もまた、存在しない……!
「俺だって……ヒーローみたいに――!」
ゆっくりと――しかしそれ故に力強く、少なくともそう見える様に、ダイゴ=ナカジマが立ち上がる。
直立したダイゴに対し、艦長は面白い程にうろたえた。
ただ立ち、ただ一歩踏み出しただけの相手に対し、暴力を手にしている側が気圧され、後ずさる。酷く滑稽な光景だった。
奇声を上げて、艦長が鉄パイプを振り降ろした。めしりと湿った音を立てて、その一撃がダイゴの左肩を直撃する。ダイゴは避けなかった。防がなかった。左肩に食い込んだ鉄パイプを無造作に掴んで、ぐいと引き寄せる。鉄パイプを手放すまいと艦長が力を込めるが、それは結局、彼の身体をダイゴへ向けてつんのめらせるだけ。
痛みは我慢出来た。骨が折れた事が分かったが、それは我慢出来た。
だが怒りは我慢出来ない。裡から噴き上がるこの衝動は、全身をばらばらに引き千切るよりも尚、我慢し難い。
「っらぁっ!」
倒れ込んでくる艦長の鼻面に、ダイゴは渾身の力を込めて、拳を叩きこんだ。めきりと鼻骨が潰れる感触を拳に覚え、拍子抜けするほどあっさりと、バルサザール艦長は意識を失った。
しかしそこまで。ぐらりと脚から力が抜けて、仰向けに引っ繰り返る艦長に覆い被さる様に、ダイゴもまた倒れ込む。緊張の糸が切れたか、急激に視界が暗くなっていく。身体が重い、動けない。
こんなところで寝ていられない、艦を止めないと。作戦が台無しになる。あの少女が、あの少年が、仲間達が、命を張って戦っているのだ。寝ていられない。なのに、身体は動かない。
焦りが募る。思考と肉体が切り離されたもどかしさが、痒みの様に全身を走る。早く。早く、艦を止めないと――
「……何だ。お楽しみだったか?」
不意に、呆れた様な声が割り込んだ。
かつかつという足音が近づいてくる。視界の端を何かが横切っていく。首を動かして足音の方を見れば、禿頭の老人が操舵装置を何やら弄くっている。背中を向けているので顔は見えないが、つるりと剃られた頭、そしてその声で、充分過ぎる程に誰だか分かった。
「まあ、趣味というのは人それぞれだからな。個人的には非生産的だとは思うが、偏見は持たん様にしている」
「んな訳ねえだろうが……俺は可愛い嫁さん貰って暮らすのが夢だっつの」
「一応、メイリィには知られん方が良いだろうな。受けとか攻めとかやかましいんでな。……ああ」
そこで漸く、禿頭の老人――園崎玄十郎は振り向いた。
「心配するな。俺は何があっても、お前の味方だ」
「嬉しくねえ! つーか話聞けよ!」
何だその男前な台詞。しかもサムズアップまでつけやがって。
ダイゴが怒鳴り声を上げている間にも、玄十郎は操舵を続けていた。艦体の上昇が止まったらしい、がくんと重力が増した感覚があった。
「よし。これで良い――さて、逃げるぞ」
ぐいと、まるで猫を掴み上げる様に後襟を掴んで、玄十郎はダイゴの身体を持ち上げ、肩を貸して立ち上がらせる。
年寄りの癖に良い体格してるよなあと思いながら、ふと、ダイゴの腕は艦長の手首を掴んでいた。
「悪ぃ、ゲンさん。コイツも頼めるか?」
「む? 本気か?」
「……ああ」
残念だけどよ、とダイゴは微笑んだ。
「ヒーローってのは、悪党も見捨てねえんだよ」
「ふん。そりゃ難儀だな」
にやりと笑い、玄十郎は艦長の身体を抱え上げ、荷物の様に肩に担いだ。どんだけ肉体派なんだこの爺ぃ、と思うが声には出さない。
「なに、鍛えているからな。その内音撃戦士に変身するかもしれんぞ」
「読まれてるのかよ……」
しかも変身するのかよ。
ちょっと見てみたかった。
「そういや、考えなしに飛びついた俺が言う事でもねえけどよ……どうやって降りるんだ?」
と言うより、どうやって玄十郎は此処まで来たのだろう。
既にバルサザールは上空百数十メートルにまで上昇している。魔導師でも無い彼等がここから飛び降りれば、どんな幸運が重なっても怪我では済むまい。
ダイゴの心配に、玄十郎は不敵に笑って「心配するな」と口にした。
「一族の人間がホールディングネットを張ってくれる。さすがに俺も、この齢でノーロープバンジーに挑戦する気は無いのでな」
俺だって無えよ、とダイゴが苦笑して言った。
「さて。そろそろ――来るか」
玄十郎が呟いた瞬間、艦橋を、否、バルサザールの艦体を衝撃が襲った。
どこかで爆発でも起こったのかと思った――ジュエルフラワーの暴走を思い出した――が、すぐにそうでは無いと気付く。
横を向けば、予定通りと言わんばかりににやりと笑んだ玄十郎の顔。
ダイゴと玄十郎によってアクシデントはほぼ修正されている、作戦が次の段階に進んだ。そういう事だろう。
衝撃は断続的に続いている。繰り広げられている戦いが相当激しい事を表していた。
「頼むぜ……メイちゃん、セロ……!」
メイリィ=スクライアは、先日の恐怖を忘れてはいない。
深い地の底で、彼女の心は一度、確かに折れた。圧倒的な恐怖に、完膚なきまでにへし折られた。
恐怖が身体を縛り、臓腑を凍らせ、思考を切り刻んだ。そうして彼女は、少年が傷付けられるのを、ただ眺めているしか出来なかった。
思い出すだけで、震えが走る。
けれど――だからこそだ。
幸か不幸か、彼女はその恐怖を、屈辱と取る事の出来る少女だった。その屈辱に対する怒り――それを味わわせた存在に対する、そして何より自分に対する――を支えに、彼女は立っている。
屈辱は晴らさねばならない。その思いが、彼女を戦場に立たせている。
二度と折れない。そんな不屈の心を支えているのは、敗北と屈辱の経験だった。
【チャージ完了。フロギストン・ケージ、使用可能です】
【Get ready.】
手首に填められた腕輪からの報告に、メイリィは一つ頷く。続く魔導杖からの報告にも、同様に返した。
前方ではセロとヒドゥンが戦っている。爆発の余波がこちらにまで届いている、天を震わせる轟音が響き渡っている。
出来る事なら助けに行きたい。自分では何の役にも立たないだろうが、それでもだ。その衝動を必死に抑えつけて、メイリィは己の役割に徹していた。
けれどそれも――今、終わる。
《セロ! こっちは準備OK! 奴を誘導して!》
念話でセロに呼びかける。しかし――反応は無い。砂嵐で掠れる視界では、目視でセロの姿を捉える事も出来ない。
轟音は絶え間無く響いている。しかしそれがセロの生存を示すものかどうかは定かでは無い。いつぞやの様に、もう動かなくなったセロの死体を嬲っているだけかもしれないのだ。
《セロ!》
何度目だろうか、念話でセロの名を呼んだ瞬間。
突如目の前の砂嵐を弾いて、銀色のシルエットが踊り出た。
災害獣ヒドゥン。メイリィ=スクライアに、徹底的な絶望を突き付けた存在。だが彼女の記憶にある存在と異なり、今、彼女の前に飛び出してきたそれは全身に傷を負い、紫色の体液を巻き散らしながら、轟々と苦しげな吐息を漏らしている。
ぼう、とその頭上に、赤褐色の魔法陣が浮かび上がる。それを見た時、メイリィはセロの生存を確信した。転移魔導師セロニアス=ゲイトマウス=チェズナットの十八番、戦闘用の転移魔法。そこから飛び出してくるであろう少年の姿、或いは少年の放っただろう何がしかの攻撃は、しかしヒドゥンの先制によって魔法陣が破壊された事で実現する前に阻まれた。
だが。
ざん、と固いものを切りつける音がして、ヒドゥンが叫びを上げる。
大きな挙動で銀色蜥蜴は振り向いた。棘だらけの背中に走る一条の亀裂。つい今しがたつけられたばかりと主張する様に、だくだくと紫色の体液が傷口から溢れている。
《メイさん》
メイリィの視界の端を何かが掠めた瞬間、念話が繋がれる。待ち望んだ、何処か片言の言葉。その声に余裕は無い、こうして会話するのも無理をしている。
当たり前だ――彼は最も難しい役割を、一人でこなしている。圧倒的に戦力が上の敵を、たった一人で引き付けているのだ。こちらからの呼びかけに応える様な余裕が無い事くらい、考えればすぐ分かりそうなものなのに。
唇を噛み、《誘導、お願い》と念話で伝えて、メイリィはバルサザールへ向けて飛翔する。突如浮上したバルサザール――玄十郎とダイゴが向かったらしいので、心配はしていないが――の艦体に取り付いたところで、眼下にセロの姿が見えた。
生きている。戦っている。右腕はだらんと垂れ下がり、右胸がべっとりと赤く染まっていたが、それでもまだ、彼は敵の前に立っている。
地を蹴って、彼もバルサザールへと向けて動き出した。その後をヒドゥンが追う。メイリィよりも早く、一人と一匹は艦の横腹に突っ込んだ。余程高速で突っ込んだか、ずんと衝撃が空気を伝わり、バルサザールがぐらりと傾く。
【Master,hurry up.】
「分かってる!」
セロ達に遅れる事十数秒、メイリィもバルサザールへと突入する。
飛翔魔法を解除し床に降り立った瞬間、一段と激しい衝撃が艦を襲い、メイリィは無様に引っ繰り返った。
衝撃は収まらない。断続的に、その規模もまちまちだったが、しつこく艦を揺らしている。立ち上がるのに一苦労だった。
バルサザールの見取図は頭に入っている。加えて、レイジングハートのナビゲートもある。“震源”は動力炉付近。ヒドゥンにとっては餌場というべき場所だ。
「速く、速く――!」
知らず、彼女の口からはそんな言葉が漏れる。
間に合わせなければならない。焦りが脳を灼き、反して身体は軽快に動く。
トップスピードを維持したまま、メイリィは動力室に飛び込んだ。瞬間、顔のすぐ横を、破片らしき物体が高速で掠め過ぎていった。戦闘が行われている。恐らくはまだはっきりとした勝敗も決着もつかず、戦いというにはおぞましすぎる殺し合いが続けられている。
メイリィがそれを認識した丁度その時、天井をぶち破って、灰髪の少年と銀色の蜥蜴が落ちてきた。がらがらと降り掛かる瓦礫を意に介さず、赤褐色の魔力光と銀色の魔力光がぶつかり合う。
意外だったのは、それが一方的な蹂躙では無い事か。いつぞやの時と違い、まがりなりにも戦闘と呼べる程度には拮抗しているらしい。セロも無策で敵と相対している訳では無いのだろう、先程も目にしたが、ヒドゥンに手傷を負わせる事には成功している。
だが少しずつ押され始めているのも確か。元より絶対的な差があるのだ、小細工や小手先の技で埋められるほど、それは浅いものでは無い。
ヒドゥンの拳がセロの胸板に叩き込まれ、胸骨が粉砕される厭な音と共に、少年の矮躯が吹き飛ばされた。
「セロ!」
駆け寄ろうと踏み出しかけた足が――止まる。
今しか無い。セロに追撃をかけんと、ヒドゥンはメイリィに背を向けている。この機を逃せば、もうチャンスは無い――!
「レイジングハート、アウロラ、行くよ!」
【All right.】
【魔力収束開始。プログラム、ドライブ。<Deseo>システム起動、接続開始】
アウロラから放たれた光が帯となってレイジングハートに繋がり、水色の魔力光が魔導杖の先端から溢れだす。
燃素を奪う光の檻。ランクSの結界魔法。本来、メイリィ=スクライアには使いこなせない筈のそれは、二機の相棒がサポートする事によって以前よりもずっとスムーズに、そう、放つその直前まで標的に気付かれない程自然に、発動する。
溢れ出る光が粒子となって空間を埋めていく。粒子が流れ、奔流となってバルサザールの動力室を舐め回していく。
漸く、ヒドゥンは“敵”がもう一人存在する事に気付いたらしい。人間並みの知性を持ちながらも、それでは無く本能に拠って戦う生命体である事が仇となった。殺意にはこの上なく敏感となるものの、殺意を持たない――そう、“閉じ込めよう”と考える様な――攻撃に対しては反応が遅れる。まして今回は目の前に、まともに殺意を向けてくる“敵”が居たのだ。
だがメイリィの姿を認めた瞬間、ヒドゥンは優先順位を目の前の少年では無く、後方で魔導杖を構える少女へと切り替えたらしい。先の一戦において、ヒドゥンは少女によって敗北を喫している。その記憶は些かも薄れていない。
「GruAAAAHHHHH!!!」
咆哮を上げ、ヒドゥンがメイリィへと飛び掛る。既に四肢は光の粒子に絡め取られているにも関わらず、それを力尽くで引き剥がし、蜥蜴は少女に殴りかかる。
咄嗟に後ろへと飛び退いて拳を躱す。流星の如く振り降ろされた拳が床面を抉り、床が受け止め切れなかった威力が衝撃の波となってメイリィを叩いた。
醜悪なまでに生々しい破壊を見せつけられ、生物として当然の反応として、メイリィの首筋に汗が噴き出す。
逃げろ。
これは、お前にどうにか出来るものじゃ無い。
囁く声は己のもの。メイリィ=スクライアの本音である事に、疑いは無い。
けれど。
「あ――あんた、なんか」
がちがちと震える奥歯を噛み締める。
ぶるぶると震える身体を抑え付ける。
痩せ我慢と言われても構わない。痩せ我慢こそ、メイリィ=スクライアの真骨頂。
決して崩れぬ痩せ我慢。不屈の心とは、つまりそういう事。恐怖に折れず、絶望に与さず、怠惰を許さない、自身を弱者へと貶める何者へも屈さない意地と根性が、不屈の心の本質。
「あんたなんか――怖くない……ッ!」
暴獣が、荒れ狂う。
さあ恐怖せよ。恐れ戦け、身を竦ませよ。暴力と恐怖の権化と成り果てた敵に、しかし少女は一歩も退こうとはしない。生物としての格差を意に介さぬ不遜な瞳は、眼前の敵へと真っ直ぐに向けられている。
ヒドゥンを裡に取りこまんと、光の粒子が踊る。だがそれを蹴散らかし、弾き散らして、魔獣は敵へと迫る。
爪の一つでも身体にかかれば、障子紙の如くメイリィは引き裂かれるだろう。それはどうしようもなく、覆しようの無いルールだ。生物としての在り方が違うのだ、相対するに不平等の一つや二つ、寧ろ無い方がおかしい。
「――させナイ!」
がし、とセロがヒドゥンを押さえつけた。後ろから羽交い絞めにする様にして、敵の動きを拘束する。その僅かな隙にも粒子がセロごとヒドゥンを包みこんでいくが、後ろに回した手がセロの頭を鷲掴みにし、無理矢理引き剥がして床面に叩きつけた瞬間には、吹き散らされている。
駄目だ。閉じ込められない。抑えきれない。
どうする?
諦めるという選択肢は無い。逃げるという選択肢も無い。それら二つは死という結果に直結している、考えるまでもなく論外。
なら。
無茶をするしか、無いだろう……!
「――アウロラ!」
【マスター……いえ、了解しました】
刹那の逡巡。
無機質な電子音の音声ではあったが、アウロラの言葉には迷いが感じられ、そしてそれが決意によって上書きされる。
【Stand by ready,set up.】
メイリィの右手首に填められているブレスレットから光が噴出し、メイリィの身体を覆う。バリアジャケットの上に羽衣の様な飾り布が巻かれ、天女の如き意匠と化す。
ブレスレットが一度粒子に分解され、魔導杖の形態へと再構成される。
右に曙の女神、左に不屈の心。
二本の魔導杖を双槍が如くに振り翳す。メイリィ=スクライアは、己の持つカードを全て場へと出した。
「メイ、さん……!」
呻く様に、セロがメイリィの名を呼ぶ。彼女の意図を察したか、少年は頭蓋をへし砕かんと押さえつけるヒドゥンの手首を取って逆に固定し、逆の掌を敵へと向けた。前腕の環状魔法陣が明滅し、掌に纏わせた赤褐色の魔力光が直射砲撃となって蜥蜴の顔面を直撃する。効果は薄い、目晦まし程度にしかなっていない。
だが充分。右の魔導杖に光が集まり、攻撃の準備は整う。
放たれる魔力弾。それは狙い通りに標的に着弾、盛大な爆発を引き起こす。一発では終わらない、二発、三発。
がくんと、視界が急激に狭まっていく。魔力消費が激しすぎるのだ。一つのデバイスで複数の魔法を行使するより、二つのデバイスを同時に展開して複数の魔法を行使する方が確かに負担は減る。但しそれは術者のマルチタスク、つまりは魔法制御能力にとってであり、単純に考えても、消費される魔力は倍となる。
ブラックアウトが始まっている。しかしメイリィは手を休めない。爆炎と爆煙の向こう側に、未だ健在の敵の姿が確認出来るから。
「セロっ!」
名を呼んだ瞬間、爆煙の中から少年が飛び出してくる。バリアジャケットは所々が焦げ付き血に塗れ、白髪が混じって灰色になった髪も血と煤で汚れていたが、それでも彼は未だ健在。
「一緒に、行くよ――!」
「はイ!」
水色の魔力光が、赤褐色の魔力光が、それぞれの術者のデバイスと掌で収束を始める。
「我が右に曙の光、我が左に不屈の心。謳うは撃滅、掴むは勝利。堕なる愚物よ、砕け散れ……!」
「Cuando hay voluntad, se abre un camino……!」
「カロリック&ディバイン・バスター、フルバースト!!」
【Caloric】
【Divine】
【【Full Burst Buster.】】
「『剛烈血槍』!」
【Lanza de la sangre fuerte.】
放たれるは光の波動。
水色と赤褐色が絡み合い螺旋を描いて、標的たる魔獣へと叩きつけられる。砕くには足りない、倒すにはただ単純に、力が足りない。それは少女と少年がありったけの力を振り絞った一撃であっても、届く事は無い。
しかし。
しかし――だ。
打と意地を以って放たれた一撃に、無駄は無い。
抱え込む様に砲撃を押さえ込んでいたヒドゥンが、がくりとよろめいた。鉄塊の如き巨重として在ったモノを、少女と少年の一撃が押し出した。
それこそ勝機。
室内に残る水色の粒子が、再び標的の元へと集っていく。足を包み、腰を包み、腕を包み、胸を包む。
「あたしの――あたし達の勝ちだよ、トカゲ野郎ッ!」
そう。
メイリィ一人では勝てない、メイリィが居なくても勝てない。人間は非力だ。だがそれ故に、力を合わせる事を知っている。
少女の勝ち名乗りは、少女だけのものでは無い。
「フロギストン・ケ――ジ!!」
【Phlogiston cage.】
轟っ、と粒子の奔流がその勢いを増し、魔獣の元へと殺到する。
「GruuAAAAAAAAAAHHHHHHH!?」
最早抵抗に意味は無い。粒子はヒドゥンの身体を包みこみ、覆い尽くしてその中へと埋もれさせる。それはまるで先日の焼き直し。粒子が凝固して質量と化し、帯状魔法陣が巻き付いてその表面を覆い、そうして完成した正八面体の檻の中に、魔獣の姿は消え去った。
【......Complete.】
レイジングハートの言葉を締め括りに、魔法が終わる。残るのは結果のみ。最大の難関であった『ヒドゥンの捕獲』は、予想以上の大成功という形で結果を得た。
「あ……はは」
レイジングハートとアウロラを待機形態に戻し、バリアジャケットも解除する。途端、全身から一気に力が抜けて、メイリィはその場にへたりこんだ。魔力も体力も寝こそぎに費やしてしまった。奇妙な脱力感を伴った疲労を、彼女は漸く認識した。
「お疲れ様デス」
「セロも。……あはは、ぼろ雑巾みたいになってるよ」
メイリィの言葉に軽く笑んで、セロもバリアジャケットを解除した。メイリィと違い、彼は全身に傷を負っている。さすがに先日ほどの重傷では無いが、一般に大怪我と呼ばれるレベルを遥かに超えている事に変わりは無い。
ふう、と一つ息をついて、彼もメイリィの横に座りこんだ。横を向いて、血に塗れた顔のまま、彼は微笑む。いつもの様に、感情の窺えない微笑。
ああ――いつも通りだ。
まだ終わってはいない、けれどそれでも、その微笑が嬉しかった。
足元に浮かび上がる赤褐色の魔法陣。光が視界を埋め尽くしたかと思うと、不意に砂塵を含んだ風が頬を撫でていく。バルサザールの艦内から、地上へと戻ったのだ。
振り向けば、一族の居住地はすぐそこ。管理局員や一族の人間が忙しそうに走り回っている。彼等の顔からはつい数時間前まであった悲壮感が感じられない。メイリィは既に念話で敵の捕獲に成功したと報告している。そのせいだろう、作戦の山場を越えた事に対する安堵が窺えた。
砂嵐は多少収まっていて、浮遊しているバルサザールの艦体がはっきりと視認出来る。
「おうい、メイちゃん! セロ!」
「あ――ダイさん、ゲンさん」
呼ぶ声に振り向けば、そこには頭に包帯を巻き、左腕を吊ったダイゴの姿。その後ろに玄十郎の姿も見える。
す、とダイゴが自由になる右手を掲げた。躊躇無く、メイリィはそれにハイタッチを敢行する。ぱぁんと快音が響き、次いでセロも同様に、こちらはやや控えめではあったが、ダイゴの掌を自分の掌で打ち鳴らす。
折れた左肩に響いたか、ダイゴが顔を顰める。馬鹿たれと玄十郎が呆れ顔で言い放った。
「で――どうだった」
「ばっちり」
何よりだ。そう言う玄十郎の顔には、確かに安堵が浮かんでいた。
「さて。じゃあ俺は最後の詰めに入るとするか。お前達、あまり遊んでないで、ゆっくり休めよ」
そう言い置いて、玄十郎は作戦本部となっているテントへ歩いて行く。はいはい、へいへい、はイと三者三様の返事を返して、彼等は揃って上を――上空のバルサザールを見上げた。
この後は次元航行システムを起動させ、艦が次元空間に入ったのを確認してから、時限式の仕掛けによってジュエルフラワーを暴走させる。邪魔者は最早いない、作戦は予定通り、そして予想以上に滞り無く、最終フェイズに入ろうとしていた。
「あう、やっと終わりー……さっさとお風呂入って寝たいよ」
「け、いいねえお子様は。俺なんざこれから報告書作りだぜ? あー、なんて書きゃ良いんかねえ……」
つか、この怪我労災降りんのか? というぼやきに、メイリィとセロが揃って苦笑する。
ごぅん、と重たい音が響いて、バルサザールの上方の空間に穴が穿たれる。次元航行システムが起動したのだろう。次元空間へと繋がる穴、そこにゆっくりとバルサザールの艦体が吸い込まれていって――
突如として起こった大爆発に、動きを止めた。
「――!?」
「な――何だぁ!?」
爆発は一度では終わらない。二度、三度と、艦体のあちこちから炎を噴き出して、バルサザールが崩壊していく。
ジュエルフラワーの暴走か。いや、それにしては――混乱する頭で、それでも考えられる可能性を列挙する。やがて最も率が高いであろう可能性に思い至ったその時、解答はあっさりとメイリィ達の前に突き出された。
艦橋が内側から黒色の魔力光に消し飛ばされ、そこに人型のシルエットが姿を現す。人間の様な、しかし明らかに人間では無い。強いて言えば蜥蜴が人型を取った様な、そんなシルエット。
しかし――銀色では無い。逆光と距離によってはっきりと視認出来た訳では無かったが、光を弾く銀色は、その皮膚には何処にも見当たらない。
青く染まった鱗、黒く塗られた四肢、そして赤く濁った瞳。
そう、それは、災害獣ヒドゥンの最終段階。次元災害を吐き出す、災害の獣としての完成体。
こうなる前に全てを終えなければならなかった。こうなる前に叩かねばならなかった。
だからもう、どうしようもなく手遅れ。
最後の最後で――時間に、見捨てられた。
「GruuuOOOOOOOAAAAAAAAHHHHHHHH!!!」
咆哮は最早重力の波。
物理的な衝撃に変換された音波が、メイリィを、ダイゴを、セロを押し潰し、居住地のテントを次々と圧壊させる。
潰れたテントの下敷きとなった玄十郎達が気になったが、メイリィ自身、他人の事を気遣う余裕は無かった。
「っぐぁ……!」
「ダイさん!?」
傷口が開いたか、ダイゴが苦悶の声を上げる。がくりと首が落ち、気を失った。
駄目だ。もう、手の打ちようが無い。渾身の魔力を込めたフロギストン・ケージは既に破られ、空っぽの魔力と体力では再度放つ事も出来そうに無い。またそれ以前に、もし放つ事が出来たとしても、あの段階にまで進化したヒドゥンには何の役にも立たないだろう。
絶望が濁流の様に心に流れ込んでくる。不屈の心が侵食されていく。突き付けられた破滅に、かちかちと奥歯がカスタネットの様な音を立てる。
咆哮を終えたヒドゥンが、上空のバルサザールから眼下の地上を見下ろし、そしてぼんやりと光に包まれ始めた。
次元災害ヒドゥンの精製――全てを凍てつかせる、時を壊す災害を産み出さんと。
誰もが悟った。
それを見上げる者、そうでない者、誰もが等しく、そう思った。
そう。
こんな簡単に、世界は終わる。
「 」
耳に届いたのは、何だったか。
言葉か、物音か。
音に引かれ、メイリィはそちらを向いた。
セロニアス=ゲイトマウス=チェズナットが、立ち上がっていた。
「セロ……!?」
その横顔に、笑みは無く。
透き通る様に透明な――少年本来の表情だけが、浮かんでいた。
駄目だ、と直感的に理解する。
彼は行く。そうある様に作られ、そうなる様に用意された彼は、きっとそれに従って――そして、帰って来ない。
ざり、とセロが一歩前に出た。重々しい一歩目。しかしそれに対して、二歩目は少し軽く。三歩目は更に軽く。
「せ――セロ!」
叫ぶ様に彼の名前を呼ぶ。
果たして彼は、その言葉に立ち止まり、メイリィへと振り向いた。
「……駄目」
言えたのは、ただ、それだけ。
けれどそれすらも、ゆるりと頭を振る事で、切り捨てられる。
「僕が在るのハ、この時の為デス。だかラ――」
「何が……! 一人で格好付けて人柱!? 冗談じゃ無い、そんなの認めないッ!」
声を荒げる。
彼のやろうとしているのは、つまり自殺でしか無い。美辞麗句で飾り立てたバンザイ・アタック。使命を免罪符に命を浪費する、或いは浪費した馬鹿者共と、彼との間にどれほどの違いがあるというのか。
そんなものを認められる程、許容出来る程、メイリィ=スクライアは鈍くない。
「違いマス」
けれど。
それに対するセロの答えは、困った様な苦笑で。
何の気負いも無く、何の衒いも無く。
夕食の献立を語るかの様に自然に、彼は少女の怒りを、その根源を否定した。
「後片付け、するだけデス」
「――後片付け」
「五百年前の、後片付けデス」
じゃあ私も、という言葉を、メイリィは飲み込んだ。
それは出来ない。きっと自分は、体力も魔力も尽き果てた今の自分は、彼の邪魔になる。
だから、自分に出来る事は。
目の前の少年を、笑って送り出す事のみ。
けれど――
「一つだけ、約束」
「……?」
「ちゃんと、戻ってきなさいよ」
ざあっ――と、一陣の風が吹き抜けた。
砂塵を孕んだ、金色の風。それが一瞬、ほんの一瞬だけ、メイリィの視界を塞ぐ。
だから、彼女には、見えなかった。
戻ってこいと言われた少年が、どんな顔をしていたのか――少女には、見えなかったのだ。
「…………はイ」
そうして、彼は。
セロニアス=ゲイトマウス=チェズナットは。
メイリィ=スクライアに背を向けて、頭上の脅威へと視線を向けた。
「ククルカン」
【El comenzar.】
赤褐色の魔力光が彼を包み、展開されたバリアジャケットが彼の身体を鎧う。
【お気をつけて】
【Godspeed you.】
【Gracias,amigo.】
デバイス達もまた、それぞれの言葉を以って仲間を送り出す。
灰髪の少年が、天を仰いだ。蒼穹を支配するかの様な威容を振り撒く魔獣と、その居城と化した艦に向けて、掌を翳す。
掌に填められているハーフフィンガーグローブ、その甲の宝玉が一度だけ明滅した。瞬間、極大の魔法陣が艦の直下、そして直上に浮かび上がる。
少年の本領たる、転移魔法を行使する為の魔法陣。魔獣はおろか戦艦をも呑みこむほどの規模を持った魔法陣が、鮮血の様に毒々しい赤褐色の魔力光で、艦と魔獣を染め上げる。
魔法陣は光を増し、比例して少年の顔は苦悶に歪む。大規模魔法の行使は術者にも相応の負担を強いるのだ。
運が良かったのは、目標が動きを止めている事だろう。遥か格上の敵を相手取って、限界ぎりぎりの戦闘を行っていた最中に敵を転移させるなど不可能に近いが、動きが止まっているというのなら話は別。別座標でも別次元でも、何処にでも転移させる事が出来る。
たん、とセロが地を蹴った。軽い跳躍と思いきや、彼はそのまま地上に降り立つ事無く、上空の敵へと一直線に向かっていく。
魔獣は動かない。挙動に割り振るエネルギーをも、次元嵐の精製に使い込んでいる。だが周囲の歪んだ空間が障壁の存在を示し、外部からの攻撃の一切を完全に遮断していた。
だから。
少年に出来るのは、一つだけ。
得意な事が、一つだけ。
「……Adiós,hermana」
最後の言葉。それは一体誰に向けたものだったか。
魔法陣が一際強く輝き、蒼穹を鮮血色に染めた次の瞬間、彼は消え去った。
艦も消えた。
魔獣も消えた。
何もかもが幻だったかの様に、全てが消え去って――切り取られた世界が空白を埋める様に、風が吹き抜けていく。
舞い上がる砂塵が、青い空に僅かに金色を含ませて。
そうして彼女は、終わりを悟った。
Turn to the Last.
後書き:
という訳で、第六話でした。お付き合いありがとうございました。
今回の話で、本作で書きたかった事は概ね書き終わりました。最初はレイジングハートの開発秘話、というイメージで書き始めたのですが、いつの間にやら『リリカルなのは』の世界観で怪獣映画をやろう的な方向へ。あれ?
本作では対ヒドゥン用に作られたデバイスを元に、園崎玄十郎が作り上げたデバイスがレイジングハートである、という設定にしてみました。ロールアウト直後は結界魔法用のデバイスであり、砲撃戦特化になったのは原作本編で彼女の手に渡ってからという感じですね。
ちなみに作中にあるインテリジェントデバイスの自己調整機能というのは公式設定であり、レイジングハートが砲撃戦仕様になったのは彼女の特性に合わせて最適化したという事らしいので、原作と微妙に違くね? という突っ込みはご勘弁願います。
正直なところ、ここから先の話はただの蛇足です。メイリィとダイゴと玄十郎のその後をちょっとだけ描いて終わりになります。セロの末路に関してはこの後の幕間で。
宜しければ、もう少しだけお付き合いください。
感想代理人プロフィール
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代理人の感想
うあ、セロが。
正直ひょっとしたらそうなるかもとは思っていましたが・・。
どうにかして、ハッピーエンドに繋がって欲しいところですが。
>音撃戦士
一瞬ボ●グマンかと空目を(ぉ
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